不正競争法序説-2-著者
山崎 晴一
雑誌名
東洋法学
巻
3
号
2
ページ
27-70
発行年
1959-12
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007781/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja第一章 第二章
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正
日 説 第一節 自 窓 説 営業自由と不正競争 まε並 鬼兄 次争
ブラシス -F イ吋/及び我が国の概要 第二節 不正競争法の組成 イギリス及びアメリカの概要 不法行為主義と特別立法主義 不法行為主義 特別立法主義 不正競争法の沿革 不 正 競 争 法 序 説法
序
以上二巻二号説
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二 七東 洋 法 学 二人 第一節 営業自由の沿革 封建制経済!農村│ 封建制経済
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都 市 │ 絶対王制と市民階級の勃興 a 一般的営業自由の確立│ 四 アメリカ 第二節 不法行為責任の沿革 古代 中世 l 結果責任主義i
中世l
結果責任の緩和l
四 近世 l 過失責任主義i
五 近世│過失責任主義の修正 l 第三節 不正競争法の発展 ギルド経済の時代 近代的不正競争法の発展 アメリカ第二章
不疋競争法の沿革 第一節 営業自由の沿革 近代的な不正競争禁圧の法理は営業上の自由競争とともに発生し、競争の激化にともなって発展してきたわけであ るが、近代英米法は﹁営業上の自由競争に対して常に好意的である。それは明に営業の生命であり、:::あらゆる競 争者が、あらゆる方法を用いて自由に利益を得ることができるということは公益に含まれるもの﹂と考えている ( 1 ) O 営業競争による損害が敗北者にとっていかほど壊滅的なものであっても、競争に敗れた相手方の蒙る損害に比較して 公衆が受ける利益が大きいと考えるから、営業競争自体は適法であるとされるのである ( 2 ) 。 ところが、この近代的な営業自由の体制が確立されるに至るまでにはイギリスにおいても、他の西欧諸国と同様、 封建領主による営業束縛の時代からギルド経済及び絶対王制の過程を経て、新に発生したプルジョアジーによって今 日の営業自由が確立されるという道程をたどった。以下にその概略の沿革を述べる。 ( 1 ) 当 -F ・ H M g a R F M Z司 丘 、 円2
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以下司宮虫色仏として引用する ) U -a ω ・ 営 業 制 限 の 特 約 は 原 則 と し て 公 益 に反し無効であるとする。営業制限の法理もまた自由競業を保護し育生する政策のあらわれである。田中和夫﹁英米法 ( 2 ) 不 正 競 争 法 序 説 二 九東 洋 法 学
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に於ける取引制限の法理﹂季刊法律学三号(昭和二三年﹀、大隅健一郎﹁英米コモン・ローにおける独占及び取引制限﹂ 法学論叢五三巻五・六合併号、五四巻一・二合併号(昭和二二年)、拙稿﹁アメリカのコモン・ロ i における営業秘密﹂ 本 誌 前 号 。 封建制経済l
農村 l イギリスが本格的に封建体制をとり入れたのは、 一O
六六年のノルマ γ 征 服 ハZ
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に よ る ︿ 3 ﹀ O 征服王ウィリアムは大きな抵抗をうけることもなくアングロ・サクソン民族を征服した後、 被征服民族から土地を没収しイギリス全土を整頓したハ43 そして自らは一四二二の諸侯の土地l
マ ナ l ( 冨ω
ロ。。ーを領有し、その他をノルマンの部下に戦功の報賞として 与えた。その結果イギリス人は隷民の地位に没落したのである。こうして形成されたマナ l 制度は中世封建制度の基 礎をおした。それは財政上の目的および徴税のための単位であるばかりでなく、農業組織のための単位であった。 てず ナ!の経済は支配者たる領主 ( 5 ﹀に掌握された。被支配者も多くの階級に別れてはいたが、所詮は﹁領主の土地﹂︿ 6 ) に緊縛され、身分的にも領主に隷属した農奴守口] g )
がその大部分を占め ( 7 ﹀ 、 そこでは農業を中心とする実物経 済が行われていたのである。水車紛ひき場・パ γ 焼場・葡萄酒醸造場などはすべて領主の独占的支配に属し、領民は これを使用するために多額の使用料を支払わなければならなかった。このように各マナーは領主の支配の下に独立的 な封鎖的な自給自足の経済を営んでいたのであるハ 8 ﹀ 。 一方マナーにも若干の手工業者がいたことを忘れてはならない。彼等は大工・皮革工・靴工・左官・紡織工・武器 エ・鍛治工などであって、封鎖的アウタルキーのマナ l の中にあってはや斗異質的性格をもっていたのであり、やがてこれらの手工業の発展が封建制度崩壊の一要因となったわけであるが、当時はまだ領主あるいは領民の求めに応じ て労働する顧客生産的範囲をでるものではなく、領主の支配する自給自足経済の一環をなしているに過ぎなかった。 ( 3 ) もちろん、ノルマン征服以前イギリスに前封建的
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ともいうべき制度が存在したが、その急速な樹立はノ ルマン征服の結果としておこったものである。(国・ 0 ・ 冨2
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﹁英国史﹂水野成夫・小林正訳上巻九四頁以下。 領 主Q
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八六年の土地調査等によって、当時の各階級構成につき次の数字をあげている(冨R
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を加えた農奴階級は約七割五分をしめている。 アンドレ・モ l ロアはイギリスの中世農奴につき次のように述べている。 ﹁農奴は土地にくっついていた。不満があっても他処へ飛び出して行くことが出きない。彼は地所と t A も に 売 ら れ る 。 ( 4 ﹀ ( 5 ) ( 6 ﹀ ( 7 ) 不 正 競 争 法 序 説東 洋 法 学 ( 8 ) ある修道院-長は何の蹄賭もなしに一人宛二十シリングで買ったり売ったりした。ある富裕な寡婦は農奴を贈りものにし た。:::農奴は領主の承認なしに娘を結婚させることができない、そして領主はその承認の代金を取り立てる。 モ l チユアリ 農奴が死ぬと領主は死亡税として死者の残した最上の家畜一頭あるいは一番気のきいた物品を要求する権利がある。 :::農奴は領主直属の農場で一週間に二日か三日労働し、その上、羊洗ひ、羊の輿毛、胡桃拾ひ、乾草作りなどのために 数日間余分に駆りだされる。 かれは小量の年百六を現物で納める。即ち復活祭に鶏卵十二個。蜂蜜一。年に数羽の若鶏。薪一荷などである。 ほかに領主は年に一回、これらの農奴から一定せぬ額の人頭税(タレジと呼ばれた)を徴収することが出来た。:::﹂ アンドレ・モ l ロア(水野・小林)前掲一三一頁。 ﹁マナーは森か原野で相互に分離され、小径によって僅か隣りのマナーとつながってゐたが、この小径も冬は通れないも の で あ っ た 。 ﹂ 同 前 、 前 掲 二 一 九 頁 。 中世農業の封鎖性につき、増田前掲 九 六 頁 。 大体十二・三世紀を転期として、実物経済的現象が貨幣の媒介による流通交易を前提とした経済現象に移行し、貨 幣経済が一般的に侵透しはじめた。これとともに市民階級の自覚がたかまり、徐々に近世へ向って封建制肢は崩壊の 道をたどり始めるのである。すなわち、中世都市の勃興、貨幣経済の普及は領主の市場への依存をたかめ、貨幣欲を そ斗り、賦役の金納化
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や﹁自由﹂の押売りが行われた (9)0 この与えられた自由はやがて農民の自覚 をうながし、十四世紀におこった百年戦争、そのほか相続く中世の幾多の戦乱、 および同世紀中葉に全ヨーロッパを 襲った黒死病(
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の大流行によって労働人口が激減したときに、領主が再び賦役の強制を復活せしめよ うとするや、 農民大衆は結束して領主に反抗する暴動をひき起したのであるa
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しかしこの一撲も結局は失敗し広範に賦役制が復活したが、やがて十五世紀に至り領主が主として富める一部の独立自営農民に土地を貸付けする現象 が 起 り ( 日 ) 、 農 民 層 は ヨ l マ
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に変じ、十六世紀の末期には土地所有と農業労働の関係は、 ほ笠地主・農 業小作人農業労働者の結合関係に移り、十七世紀の市民革命の基盤を形成していったのである。 ( 9 ︺ ( 叩 ) 領主は﹁天賦の自由のため﹂とか、﹁霊魂の平和のために﹂などの表現を用い富める農民に﹁自由﹂を売ったのである 03
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や守ぎロ回巴-などの統率のもとに起った農民一撲である。 なお、この傾向は全欧州的であり、ドイヲの有名な農民戦争(一五二五三フランスのジャックリ!の暴動(一三五八) があり、その他ロシヤ、ハンガリーにおいても農民の一大蜂起が行われた。 この企業家的小作農民をテナント・フアマ l ( 窓 口 巴 昆 貯 口 同 高 ﹃ ) と 呼 ぶ 。 ( 日 ) 封建制経済l
都 市 │ 右に述べたところは、農業を中心とした封建制経済についてであり、封建領主の支配下に あったマナーのうちには、 いうまでもなく近代的営業競争の兆すらも見出すことはできないが、他方において、都市 経済の発展過程は自ら別の方向をたどった。 マナ!の需要を満すための手工業者は、農業から分離した異質的存在であったが、領内の人口増加とともに次第に 発展し、各種の手工業に分佑した。その結果手工業生産が増加し、領主の手もとには剰余生産物が集積し、その生産 物の交換を促すことになった。そのため、封建的経済を営んでいたマナ l に、外部との接触によって新な刺戟が加わ り、手工業手段が高度化し、これにつれて生産物も増大し、貨幣経済の一般化と相まって商品流通は益々増加した。 商品交換の当初は行商の形態をとっていたが、それが移動的臨時的市場 Q 包ろの制度に進み、 や が て 定 期 的 市 場 不 正 競 争 法 序 説一
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を開設して商品交易が活溌に行われるようになった。王の特許状によってのみ開設され物品交易の場とな ったこれらの市場a v
は、立地条件の制約をうけて集約的に特定の地域に定められた。それは古いキヴイタスの域壁 の内部であることもその近接地であることもあったが、そこに市場が固定するとともに、手工業者や商人が住居や庖 舗を構えた。 ヴイク(者野)と呼ばれるこれらの集団地域は、封建領主に寄生して存在する旧来の都市的集落ではなく、 比較的 自由独立な新しい商人によって形成されてゆくギルドa
﹀を中心とした特殊地区であった。ヴイクに対する封建領主 の圧迫が、ヴイクの経済力の伸長につれてたかまると、 これに対する市民の団結が商人ギルドの主導権の下に行わ れ、その圧政を脱したコ γ ミ ユ lγ(g ロB
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ロ O ) と称される中世都市の形態が整えられたわけである c それは集団 自体としては封建国家の法制のうちにありながらも、その内部は市民法的秩序の想定する自由民によって構成された 社会であった。 クラフト・ギルドの発生は商人ギルドよりはや斗おくれた。殊にそれが都市の政治面で実力をもつに至ったのは十 四世紀の後半になってからである。ともあれ、十二、三世紀から十五世紀に至る都市経済はギルドに支えられ、海外 に市場を求め多彩な姿で開放的な発展を遂げる一方では、都市を単位とした都市中心的な封鎖経済に向って内攻しょ うとする傾向がみられる。すなわち、中世世界においては国家は未だ経済政策の主要な担い手としては登場せず、外 国都市間の交通は近世におけるより以上に自由であった。この頃の国際的商業の中心は南欧にあっては、イタリヤ諸 都市に主導権を握られた地中海沿岸の商業地域であり、ドイツ・ハ γ ザの同盟(同8
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リユIベックを中心としハンブルグ、プレ l メンなど凡そ九十から百の諸都市の結合からなっていた。) が北欧の国際的商業圏を 掌握していた。強力なハンザ同盟はそれ自体が一つの国家であって、その保有する商船隊は、自らの軍艦によって海 賊から護られ事実上北欧貿易を独占していた
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﹀ 0 彼等はロンド γ にステイ l ル・ヤード ( ω 宮 内 弘 吉 一 一 丘 ) と 呼 ば れ る 商 館をもち、代々の国王から特許を得てイギリス貿易を支配していた。十五世紀から十六世紀にかけてイギリス商人が 勃興し始めるまで、イギリスの外国貿易はこうしてドイツ商人やベエネツイア商人に支配されていたが、彼等も自ら 小売商を営むことはできず、輸入商品はイギリスの商人の手を経て市場に表れ、イギリスの羊毛などはイギリスの商 人の手から外国商人の手に渡って海外ヘ輸出されたS
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しかし、この開放的な国際商業性の根底にあるものは、市民団体に基礎をおく同職的な団結意識であり、個人の利 益よりもギルドあるいは都市の利益が優先したのであった。このことは、商工業によって支えられる都市をして農耕 社会と区分し、農耕社会を都市に対する食料供給、あるいは生産品の市場として都市のヒンタ l ランドの地位に釘づ けし、都市及びその周辺農村を包む封鎖的経済地域のうちにアウタルキーを維持せんとする方向に向わしめる。そし て、その意義は当然ギルドやクラフト・ギルドに反映し、十四世紀以降になると、これが独占や特権を護るための巌 格な規約を作って柔軟性を失い、定型的な同職組合として凝固していった。手工業者は都市勃興の当初においては微 々たる力をもっていたのみであったが、十四世紀以降になるとこれらの同業組合であるクラフト・ギルドは漸次勢力 を増し、商人を排して市政に参画するまでに至った8
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そして本来自由な手工業者の組合として形づくられたクラ フト・ギルドが、内部的な不平等l
親方・職人、徒弟制度の身分的連関の定型化のため、大ギルド(親方ギルド)及 不 正 競 争 法 序 説 五東 法 _ . . . ・
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小ギルド(職人ギルド︾に分裂して抗争をする兆もあらわれた。 洋 学 このように、本質的に独占的・制限的・拘束的性格を有したギルドあるいはクラフト・ギルドは、商業や工業が高 一方ギルド内部の対立抗争が高まり、新大陸・ 度になれば当然自由な経済社会にとっては邪魔ものとなったのであり、 新航路の発見がこれに拍車をかけ、ギルド制度は崩壊の過程をたどった、そしてこ斗に、 より大きい経済政策の担い 手である政治権力 l 近代国家が拾頭してくるのである。この変革は都市の独立性の強かったドイツなどと異り、イギ リスでは比較的早く行われた自﹀ O 以上にたどった通り、中世の都市経済は外国貿易にも影響されてかなり活溌な営業活動をみせるが、未だそこには 市民社会全体に通ずる、 いわゆる近代的な営業自由の体制をよみとることはできない。ようやく十六世紀から十七世 紀に至り、ギルドが崩壊し、企業規模が拡大し、資本主義体制の萌芽が表れはじめるのである。 1"""¥,-ー、 13 12 、..,J '-ノ し ﹃ 。 ロ ゆ ω ・ 。 H y n昨 ・ 同 ︼ ・ 。 。 ∞ ・ ﹁そのギルドの性格は共同宴飲・共同祭杷・相互扶助等、いわゆる古ギルド的なものと、同職仲間たる後世のギルドと の中間形態をとるものであったこと等が推定される。﹂増田前掲一一O
頁 。 レ オ ・ ヒ ユ 1 パ 1 マン(小林良正・雪山慶正訳)﹁資本主義経済の歩み﹂(上)五O
頁 。 当時の海外貿易の対象となった商品は、毛皮・蝋・蜂蜜・緋・干鱈・塩・羊毛・木材・穀物(北欧)・香料・胡版・貴 金同・宝石・象牙・砂糖・絹・絹織物・棉花・薬品(東洋ピザンヅ)・葡萄酒・羊毛・毛織物・麻織物・武器・金属製 品 ( 西 欧 ) な ど で あ っ た り な お ア ン ド レ ・ モ i ロア前掲一九八頁参照。 エドワード三世のとき(二ニ六三年)制定法をもって、クラフト・ギルドへの加入を強制した Q 。 ロ2
・ 。 ℃ ・ の 伊 丹 ・ ℃ ・ 山 w ( U ) ( 日 ) ︿日)( げ ) 増
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田 三 F J U 可 出 4 ﹂回目制制 H 1 一 一 九 頁 。 絶対王制と市民階級の勃興 l i 一般的営業自由の確立 i 百年戦争(一三三九 l 一四五三)をきっかけとして、イギ リス王室が商人の活動を保護し規制した。封建領主との闘争のために国王と結んだ都市の商工業者は、国王に財政的 な支援を与えた。それは都市のブルジョアジーが封建領主から自己を守る為に必要であり、国王にとっては自分の軍 隊を養生し強大な封建領主に対抗する財政的な裏付けを得るために好都合なことであった。したがって国王はこれら ブルジョアジーに対しての保護政策をとり(ぎ、 配する(四)ことによって、中世の経済政策の担い手であった都市に代って、 そのはねかえりとして自分の権力を培い、やがては彼等を統制し支 より強力な経済体制を築き上げる主体と なったのである翁﹀ O エリザベス女王の時に、当時完全な制海権を把握して世界貿易を誇っていたスベイ γ の無敵艦 隊を撃滅(一五八八)して以来、イギリスの海外発展は目覚しいものがあった。封建貴族と新興ブルジョアジーの断層 に超階級的存在として生じた絶対王政は、こうして重商主義的政策を強化しほx
十八世紀中葉に至るまでその過渡的 存在を続けるのである。 ( 山 崎 ﹀ たとえば羊毛商人の同職ギルド(一都市内のそれでなく多数都市を横に連繋したギルド)は国王の保護をうけて全国的 な組織に発展し、彼等はステ I プ ラ13Z
℃ 日 ゆ る と し て 統 制 さ れ た υ 一四三六のイングランド王国の条令の一つのながに、私たちは次の文句をよむ。﹁ギルドや友愛組合Q
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ロ5 3 ) が勃興しハンザ同盟の外国商人をロンドンのステイ 1 ル ヤ ー ド か ら放逐したごときもこの間の事情を物語る。 ( 初 ) 一方農村においては、十五世紀中葉以降漸次近代化の道をたどった。イギリスにおいては大陸におけると具り、 コ ミュテイションは、従来賦役労働によって運営されていた領主の直営地の短期貸与と並行した。やがて領主の土地貸 与は金納地代による定期借地Q
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♀⑦に移り、 乙 k A に自由な独立自営農民が成立してくる。これらヨ l マンリ ーは十五世紀から十七世紀にかけて、第一次第二次のエンクロジュア 守 口 己 ο ω ロ H . 0 ) に よ っ て 、 一方は、没落した小 農民層│賃金労働者としての農業プロレタリアートに転佑し、他方は、農業ブルジョアジーたる富裕な資本家階層に 分佑したむかくて、 この農民層の分化は封建的土地所有関係を解体して近代的資本制関係の確立に志向するa
﹀ O ヲ-」ー れと並行し農村において工業の近代佑が推進された。すなわち、都市におけるギルドの制約を脱した市民a )
及びヨ ーマンリ I の一部は、中世的制約をうけない新しい型の工業を農村に導入し、急速にこれを発展せしめた。 いわゆるマニユフアクチュア
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がこれである。最初は単純協業から出発したマニユフアクチュアl
に分業が 加わり、部分的労働に労働者が束縛されることから賃金労働者の資本への隷属が生じ、 この資本 i 商業資本は高度佑 して産業資本に転化してゆく。この間にあって僧職者・貴族など保守的な階級が入り混り対立が激佑し、こ kA に発生 す る の が 個 人 の 自 由 特 に 経 済 的 な 自 由 を 標 携 し た 清 教 徒 革 命 ( 司 ロ ユ 片 山 富 岡 山 内 凶 ︿ 。- E
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巳 己 目 。 ロ 一六八八)を経て、近代的市民社会の形成に 選進したのである。こうして絶対主義は存立の基盤を失ってゆらぎ、政治・法制・経済・文化などあらゆる部門で支 配を確立していったのが新興ブルヲョアジーである。彼等の主体的支柱は自由主義であり、客体的なそれは資本制経 済であった。そしてその繁栄は、産業革命によって急速に増進し、イギリス百五十年の世界制覇を不動にしたのであ 司h v o かようにして、近代的個人営業の自由が確立されるに至ったわけであるが、その萌芽は法廷では既に、ギルドが定 型化し崩壊に向って進み始める十五世紀の初頭にあらわれた。 ︻ U m w ω ゆ え の -。 件 。 円 。5
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。 o -( 号 、 が そ れ で 、 事案は、原告がグロスタの町で学校を経営していたところ、被告が同じような学校を設立して経営をはじめたため、 原告は毎月四0
ペンスの授業料を三一ペンスまで値下げしなければならなくなり、ために受けた損害の賠償を請求し たものである。裁判所は﹁原告と同様に有能な者が、児童を教育することは美徳且つ慈善的行為であり、人々にとっ ても又便宜なことである。これを法によって罰することはできない﹂として、原告の請求を認めなかった。 その後エリザベス女王からジエ l ムス一世の時代に王の独占権をめぐって国会との聞にやりとりが行われ、 コ モ 不 正 競 争 法 序 説 一 九東 洋 法 学 四 0 γ ・ ロ l 上営業自由の体制は逐次その形態を整えていった。 わ
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ゆ え 富 。 ロ 。 ℃ 。 ロg
として知られる事件(剖)におい て、裁判所が女王の独占権を排し独占はコモ γ ・ロi上無効であると判示し、付総ての営業は女王の臣民に職を与え 失業を避ける為に存在する。故にか t A る営業に独占権を与えて統制する事は臣民の自由と福祉に反する。日刊か斗る独 占は独占に依り被害を受ける業者のみならず、 一般民衆にとっても有害である。その不可分の要素は、刷物価の上昇 納品質の下落及び付独占により被害を受ける業者の貧困等である。と述べたのもこの頃である u二 ハ 一
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え図。口三也を公布し、幾つかの事例を列挙して、之に関しては朕を動かす如き訴訟を許 さぬと規定したのに対し、裁判所は三年後大胆にも、 コ モ ン ・ ロ l は怠惰を嫌悪するが故に﹁人が合法的な営業に従 事する事を禁止する総ての独占を嫌らうものである﹂と宣言した(ぎ。 こ う し て ( 号 、 一六二四年には特権賦与法a s
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年 チ ャ l ル ス 一世の長期国会で多くの独占権を排除し、法制的にも徐々に営業自由が確立していったのである。 各国に先駆けて遂行されたイギリスの産業革命Qロ島民民江丘一月2
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。 ロ ) は新興ブルジョアジーの支配を決定づ け、資本制経済の基礎を確固たらしめたのである。新機械の発明、新しい原理の応用、採炭方法の進歩による石炭産 出の増加、水運・陸運の発達、重商主義に支えられた外国貿易の増大による蓄積資本などが相まって、新興産業はま ず木綿工業に発し、当時既に資本制生産に適する階層的分裂を進めていた農村を中心として拡大していった。こうし て前貸問屋制G E
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とマニュフアクチュアから工場制Q
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に発展した生産体制は、 いやが上にも営業上の競争を激化せしめたのである。レセ・フェールは彼等のモットーであった。この競争は企業規模の拡大を招来し、株式会社の形態を整えたそれらの大企業は経営を一手に納めることによって独占資本を築き上げ てゆくのである。 四 ( 幻 ) (沼﹀ へ お ) ( 斜 ) 高 橋 前 掲 一 二 五 頁 以 下 。 旬 。 ロ ゆ ω w 。 ℃ ・ 。 芹 ・ 同 ︼ -m w N 。 ・ ( E H S J 円 ・ 国 ・ 出 口 ・ 口 問 。 ロ ・ 同 ︿ 同 ・ ぉ ・ 1 ・ N H ・ ( E c e -n 。 W O 一
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品目・事案は、エリザベス女王の時、エドワード・ダ i シ卿が、それまでロンドン洋品雑貨商が製造 していたトランプの独占的製造の特許権を与えられたにつき、自分の独占権を主張したものであり、独占に関するリ I デ イング・ケースとされる o H 匂 乱 。 目 。 FH ,m
-。 円 ω わ ω ω σ ( 一 5 一 区 ) ロ ゎ 。 r p 印 ω m r 一五七七年には国会に独占権に対する反対案が上提された。二ハ O 一年更に﹁独占権と普通呼称せられる特許権に関す るコモン・ロ 1 上の解明﹂なる法案が上提され、周年十一月、止むを得ず女王は最も不評判な特許を廃止し、且つ他の独占 権の適法性の審査に関する法廷の権限を認めた。(わロロロE
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の 円 。 者 任 。 同 開 口 関 口 ω F H ロ 門 日 ロ 巳 片 山 、 山 口 門 H n 。B B O R P G C H S H ︼ ・ NN∞ ) 。
( お ) ( お ) アメリカ 前述したところで、イギリスにおける一般的営業自由の体制が確立された跡をたどったのであるが、 アメリカはその歴史の端初を近世に発した。 エンクロジュア運動によって階層的に分離されたイギリスの下層農民層 は土地から遊離して賃金労働者に転じた Q この労働力は都市に入っては工場の労働者の地位を占め、あるいは船員と して航海につき、また他の者は年期契約奉公人(吉母ER
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としてアメリカに向って出発した。 アメリカ 初期の移民(幻)はともかくも権威に対して反抗し逃れてきたものであり、封建的諸規制の多くはこれを母国へ残して 不 正 競 争 法 序 説 四東 洋 法 学 四 きたのである。﹁要するにアメリカの農業は、 そのそもそもの初から資本主義的農業として出発したのであった
8
﹀ O これは工業生産についてもいえることである。ギルドの封鎖的な繁鎖な麗束の下で下級職人は到底独立を望むことは できず、未開の地へ移住することを望んでいた。こうして、清教徒革命によって自由への道がひらかれんとする形成 期にある母国を後に、 一 六O
七年から一六四O
年に至る聞に五万から七万に及ぶイギリス人の移住が行われた。これ らの多くは不自由労働者として移住したものであって、南部のプランテイション制度の確立を可能ならしめたのも彼 等であった。この不自由労働者は、年期契約が満了すれば自営農民として独立することも、 また小数のものは大地主 になることもでき、その多くのものは職人や職工となった。その後も引続き移民が行われ、しばしば起った土地を巡 る紛争を経て、植民地アメリカに土地の不平等な所有に基く階層社会が形成された。しかしアメリカの農業は、当初 から資本主義的な要素をもって経営されたのであり、西欧の封建領主の支配下に自給自足的経済を営んでいた農業と 同視することはできない。プラ γ ターによる実質的な寡頭支配が行われていた南部でも、農業は最初から商業的基礎 にもとずいて営まれたのである8 )
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都市においても階層的な分裂が行われた。新しく小商人、職人、職工として都市に入ろうとしても旧来の庖主・手 工業者達の妨害に合い、成功することができなかった旧来の手工業者や商人は、ギルド体制を成立せしめようとし、 十八世紀初頭にはフイラデルフイア、 ニ ュ l ポ l ト・ボストンではそのための法律が市会を通過したこともあった。 しかしアメリカには、これら中世的な諸規制が確立するための基盤は整えられてはいなかったのである。 新興ブルジョアジーと結んだイギリスの国王の重商主義政策が軌道にのるや、それは植民地に対して経済的隷属を強制した。そのためとられた政策(号、 は、ことごとく植民地を経済的属領の地位におしと
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めるものであった。こ の重圧がかさむに従い植民地の反感は高まり、急進派といわれる下層階級の結集によって支配が掌握され独立革命の 峰火が上った。 自由と平等を標携した革命が勝利に帰し、植民地的藤束を脱したアメリカの商業資本は大きな飛躍を開始した。多 くの株式社団や商業銀行が設立されたのも一七八0
年代であった。営業競争が本格的に開幕されたのも、 アメリカが 独立によって経済的隷属を脱却してからであるとい斗得るであろう。 その中葉に起った商業恐慌を経て南北戦争が勃発し、こ斗に北部産業資本の勝利がもたらされ た。それは政治的代弁者たる共和党を通じ国を掌中に収め、膨大な資源と工業技術の進歩に支えられて急速に発展 十九世紀に入り、 し、やがて企業集中によって自らの姿を漸次自由な資本主義の反対概念である独占の方向に変容せしめるのである。 た と え ば 、 一八八二年にスタンダード・トラストは全米石油産業の九十パーセントを支配したとときがそれである。 独占は産業資本と金融資本との結合によってより強化され、第一次世界大戦を経て国家資本主義の段階へ移行するの で あ る 。 ( 幻 ﹀ ( お ) イギリス人の移住をもってアメリカの歴史の端初とみる O L ・ M ・ ハ ヲ カ l ( 中屋・三浦)前掲七頁。 な お 、 高 木 八 尺 ﹁ 米 国 政 治 史 の 研 究 ﹂ 二 頁 。 L ・ M ・ ハ ッ カ ー ( 中 屋 ・ 三 浦 ) 前 掲 一 六 二 一 氏 。 その政策は第一に国家の力は国民経済をできるだけ他の国々から独立せしめるように用いること。第二にイギリス人は ( 却 ) ( 叩 ) 不 正 競 争 法 序 説 四東 洋 法 学 四 四 その食料と製造品のすべてを生産する。第三はイギリス人は商船隊を支配しなければならない。第四には植民地は木国 商 品 の 余 剰 を 吸 収 し 不 足 を 補 う た め に 利 用 す る こ と で あ る 。 第二節 不法行為責任の沿革 自由平等をモットーとする市民階級の勃興によって、営業競争が激しくなるにつれ、それにともなう弊害も増大 し、不正競争に関する法規律も漸次的に発展してきた。 コ モ ン ・ ロ I 上この法的構成は、ある種の不法行為の拡張的 把握によって形成されてきた。ところで、不法行為法自体も不断に発展してきたのであり、イギリスのコモン・ロ l の重要な部分を占める一つが不法行為法であることを思えば、不正競争法の理論的構成のあとづけをするために、さ らにはその法理論の究明のために、こ L で不法行為法の発展過程をたどってみなければなるまい。しかし、右の目的 のためにこ斗では極めて概括的な記述にといムめる。 古代 古く不法行為責任
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との境界は明確にされていなか った。不法行為責任に関する法も刑事責任に関する法もともに個人対個人または個人対部落あるいは部落対部落の間 の復讐(血讐E
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仏 貯 戸 内 山 ) を 基 底 と す る 法 で あ っ た ( 1 1 したがって、その重点は損害におかれていた。すなわち損 害を空ぜしめた原因に対する直接反射的反撃が主体となっていた。その原因となったものが人であれ物であれ同様で あった官官 このように、被害者の損害を主体とするという点から、侵害に対する社会的な制裁たる刑法よりはむし ろ、被害者の損害を救済するという不法行為法が先行したものでハ 3 ﹀ 、 その責任は主として発生した結果に対するものであったと思われる。だからとて、全く行為者の主観が無視されたものとは考えられない ( 4 3 人はその責任にお いて行動するのであり、その結果生じた侵害に対しては総て責任を負うということが極めて厳格に行われていたので はなく、行為者の主観的要素が考慮されなければならないという思想が、潜在的には底を流れていたものと思う
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しかし、責任の根拠は発生した結果に主眼をおいて決められていたもので、行為者の内心は行為者の責任を決定する ための大きな要素とされなかったのである。 ( 1 ﹀ 出 。H
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合一ロ仏(漬罪物)にみられるように、人の死を惹き起した動産を没収して神に捧げることが行われた。無生物ハたとえ ば雨・荷馬車など)に対する復讐的な反撃は、洋の東西を問わず原始社会においてみられる。イギリスでは一八二四年 に、人を軌いた車のエンジンに対してこの法理が適用された例がある。(、吋叩5
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ω 出 町 吉 岡 1 u c 斗 出 回 吋 ︿ -F ・ 同 ・ ( H∞ @λF ﹀ 円 ︼ ・ ω 同 日 w ω ∞ω w A E r o R ・ また責任成立の心理的要件の存在が素朴的に認められたとはいえ、果して過失責任が認められていたか否かは疑問であ る。ポロックとメイトランドもこの点を指摘して、そこには殆ど﹁近代の過失となった観念の萌芽すらもみいだすことが ( 2 ) ( 3 ) ( 4 ) ( 5 ) 不 正 競 争 法 序 説 四 五東 洋 法 学 四六 できない﹂と述べている(司♀宮島 ωロ 仏 冨 巳 己 自 己 唱 。 。 . 巳 同 ・ ︿ -N ℃ ・ 印 N 吋)。なお伊藤正己 │ 司 削 七 二 頁 以 下 。 中 世 結 果 主主 任 十三世紀から十四世紀にかけて刑事責任と民事責任の分化が次第に明瞭になり、前者は、
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ロ叫に、後者は可。 ω宮 ω ω に代表されるようになった。前者では、刑事責任の根拠を国王の平和の侵害という点に 求め、被害者の損害という結果に対してよりは、加害者の行為の性質に重心がおかれた。同じく民事責任の分野にお いても加害者の行為に対して視点が向けられるようになったのであるが、刑事責任の部門におけるほど行為者の倫理 的要素に着服されなかったのは、元来民事責任にあっては、その意図するところの本質は被害者の蒙った損害の填補 にあるのであって、当然、行為の結果として生じた損害に対し、行為自体に対するより以上の重点がおかれたからに ほかならない。可2
宮訟の訴は当時半刑事的性質 ( ω 0 5 rュ
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巳 ) を具有していたもので、手続は刑事的性格をも っていて、王の平和の侵害が要件とされ、損害賠償が不可能な場合は有罪として役獄されたのである ( 6 ﹀ O しかしそ の本質はやはり被害者の損害を賠償することにあったのであり、故意過失の観念は未だとり上げられるに至らなかっ た (7)O イヤ l プックにみられる事件 ( 8 ﹀ の 中 で 、 わ -H・ 目 立ω
ロは﹁人の意思は審理し得ない﹂と述べている通り、幼者や 狂人もその行為の結果について責任を負わされた (91 損害賠償は、復讐に代って私人間の平和を維持するために登 場したものであり(虫、純然たる事故による場合も人の行為が介在すればその人が( 3
、また正当防衛込)によるとき もその行為者が、 よって生じた損害を填補しなければならないものとされた。﹁民事法においては、すべて、行為者の意図は相手方が受けた損害ほど考慮されない﹂白) のであった。重要な判例として引用されるものに次の事件がある ( M ﹀ 0 被告が原告の土地の隣地を所有していて、その土地の茨扉を刈っていたところ、その一部が被告の意に反して
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﹀原告の土地へ落ちたので、早速原告の土地ヘ入ってそれを拾い集めた。これが原告のいうトレスパス であると被告が主張したのに対し、 フェアファックス判事は﹁人が木を伐採していて、その枝が落ち彼を傷害した場 合、被害者はトレスパスの訴を提起し得る﹂とい斗、ブライアン判事は﹁人が事を為すときは、他人に不利益や損害 を与えないようにしなければならない。あたかも私が家屋の建築中に木材の一片が隣家に落ちこれを致損したなら ば、建築が適法であり、木材が私の意に反して(
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落下したとしても隣人は私に対して訴を提起し得るで あろう。同じく他人が私に暴行を加えんとしたとき、余儀なく自衛のためにふり上げた私のステッキが私の背後の人 を傷けた場合もそうである。自衛のためステッキを振上げたことが適法であり、傷害が私の意に反したものであって も結論は同じである。本件はこれと異らない﹂と述べ、 リトルトン判事は、 ﹁もし貴下の家畜が私の土地へ来て草を 喰ったとき、貴下が直ちにその家畜を連れ去ったとしても、事の大少にか斗わらず家畜のしたところを償わなければ ならない。:::もし被告が適法に原告の土地に入り茨を取去ることができるものなら、同じ理由で、それが大木の場 合は車馬を持ってすることができるであろう。これはリ i ズンに反する。なぜなら、そこには小麦などが生育してい るからである。本件においても同じである。法は事の大小にか斗わらず同様である﹂と述べている。 この傾向は中世の不法行為法に支配的であるばかりでなく、近世に入っても温存された。十八世紀にもこの理論に 従った判例がみられるのである官官 十九世紀の後半に至るまでこの傾向は明瞭であったので学者自﹀により、人の 不 正 競 争 法 序 説 四 七東 四 八. 洋 法 学 怨瑳という大きな要素を含む﹁過失﹂
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を除外しては責任を論ずることができないという不法行為理論を定立 する努力がなされたわけである臼 )O ( 6 ) ( 7 ) ( 8 ﹀ ( 9 ﹀ ( 叩 ) ( 日 ) ( ロ ) ( 日 ) ( M ) ( 日 ) ( 時 ﹀ ( げ ) 司 同 1。
ω ω O F 方 -N0 ・ 句 。 = 。 。 F ℃ ・ N G N h 一E
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結果責任の緩和│ このように民事責任においては、損害賠償責任が厳格に解されたのは、不法行為自 体もその客体も外形的に明瞭に認識されるものに限られていたからであると思われる。しかし、すでに行為自体に対 する評価、すなわち行為者の道徳的非難性という意識が潜在的に存在したものであるならば、当然その繭芽は法の上 にもみられなければならないものであろう。それはたとえば行為の近接性、不可抗力、正当防衛にみられるところである。これらにおいては、それぞれ行為者側の事情を考慮し、厳格な結果責任の理論を例外的に緩和する傾向がみら れ る ( 四 )O たとえば﹁発砲して、誤って原告を傷害した場合は、被告は事故が避け難いものであった
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あたかも他 人が被告の手をとって原告を殴打せしめたというように完全に無過失であることが判断できる程に │ │ i ことを証明し ない限り責任を負わなければならないとされる白 ) O すなわちこ L では不可抗力という抗弁をもって厳格な結果責任 が緩和されんとしている。また、行為の結果に対する近接性が、形式的なそれでなく論理的なものであるとされるa )
点なども行為を倫理的に評価したものとい斗得る。かようにしてたとえ不法行為に関する他の総ての要件が満足され たとしても、被告の行為と結果との聞に原告自身の行為とか他の自然力が影響して、論理的に、結果に対して被告の 行為が第一次的原因力を与えているものでない場合、被告は免責されるという理論の展開が示される2 )
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そしてそ の因果関係の有無の判断は、形而上学的なものでなくて、妥当なコモン・センスを標準とするものでなければならな い、すなわち通常人が予見可能か否かを標準とするa v
という具合に進展すれば、通常人ならばしないであろうこ とをしたり、通常人ならばしたであろうことをしなかったという、過失責任の理論に進むのである。徐々にではある がこうして過失責任主義が支配的となる83
(路﹀ (叩) 有泉前掲ニコ一頁。 巧gS
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・ 同 包 ・ な お 、 註 ( 日 ﹀ の 事 件 で コ I グ 判 事 は 、 ﹁ 被 告 は 茨 を 自 分 の 土 地 に 保 つ た め に で き 得 る あ ら ゆ る 手 段 を 尽 し た と 主 張 し な け れ ば な ら な い ﹂ と 述 べ て い る 。 A が 点 火 し た 爆 竹 を 群 集 の 中 へ 投 下 し た と こ ろ B の 前 に 落 ち 、 B が 驚 い て そ れ を 投 げ 捨 て た が 、 そ れ が ま た C の 前 に 落 下 (却) 不 正 競 争 法 序 説 四 九東 洋 法 学 五
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( 幻 ﹀ し 、 同 じ よ う に し て 最 後 に D の と こ ろ で 爆 発 し て D が 限 を 痛 め た 場 合 、 結 果 に 対 す る 第 一 原 図 的 な 行 為(
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発 砲 に よ る 傷 害 事 件 ー で は 被 告 は 有 責 と さ れ た 。( n
﹀ ( 幻 ﹀ 四 近世 l 過失責任主義│ 一方において、トレスパスの訴を考えてみるに、これは被告の行為が直接原告の身体 または財産に向けられた場合でなければ成立しなかった。そこで、このように侵害が直接的でない場合の間隙を埋め るために利用されたのがケ!スの訴 ( R E。 ロ ロ 旬 。 ロS
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であった。ケースの訴は既に中世の初期において認め られていたのであるが(号、 盛に利用されるようになったのは比較的近来になってからである。当初両者を区別する のに行為と結果との因果関係に着眼された。たとえば公道に向って投げられた材木に直接あたって傷をした者はトレ スパスの訴を提起できるが、道路上におかれたその材木につまずいて傷を受けた場合に利用する訴訟形式はケlスの 訴であるとされた宕﹀ O そこでは被告の行為の不法性や故意よりはむしろ、行為の近接性が考慮されたようであるが (Mm ﹀ 、 両者の相違は、トレスパスが元来半刑事的性格を有する不法行為に端初を発しているのであり、 それ自体不法 行為であって実害の発症を要件としないのに対し、 ケースの訴は純粋に損害の賠償を中心的使命としたため、その要 件として実害の発生が求められた点にある( 8
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かくて発生した実害と行為との因果関係を探究するうちに裁判所は、﹁通常の注意深い人の予見ということを契機に大部分の場合に於いて過怠が責任の基礎であることがわかり、過怠の こうしてケlスの訴が故意でなく単に過失でしかも間接の行為による侵害にまで拡張され る に 至 り ハ 号 、 責任に慣れて来た﹂
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﹀ O 不法行為における過失責任の原則の展開をみるのであるがハ号、 トレスバスの訴においては比較的近 来まで厳格な責任を認める理論が支配的であった。たとえばアメリカにおいては、無過失で発砲して他人を傷けた場 合に有責とされた例が上げられるa ) O
しかしマサチュセッツでは、犬の暗一嘩に割り入るために振り上げたステッキ が背後の人を傷けた事件で、悪意あるいは過失がないとして免責されてより(号、 多くの場合過失責任の理論が認め られ過失の挙証責任は原告にありとされるようになったa z
ωgg 宮 山 口 わ 。 ロ ω 即 日 E n g p H N∞ 印 ( H ω 開 門 出 宅 - H W 。 ・ N 品 γ に も と ず い て 発 せ ら れ た 令 状 に よ っ た 。 問 。 ヨ 5 E ω ︿ ・ ハ U E 己 内 ( 一 { 吋 N U ) ] { ∞ 可 ω 口 問 。 。 ω 品 川 F o ω E J 可 ・ 国 円 釦 ︾ 可 ( 同 ∞ 。 N ) ω 開 m w m 仲 間 m v ω ・ 司 円 。 ω ω m w F ℃ ・ N 吋 ・ も っ と も ケ I スの訴が最初にみとめられたのは運送人、宿屋の主人、医者などのように特別の注意とか熟練を要する者の 義 務 違 反 と し て で あ る ( 巧 宮 虫 色 色 ℃-h
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。 ( 釘 ) ω E H ︼ 旨 ωpn 。 B B 。 ロ F m 認 可 - o m w 門 出 口 問 匂 - N H H ・ かくて、トレスパスから派生した暴行 ( m E E -円 山 口 仏 σ 巳 件 。 ミ ) の 訴 に お い て は 、 損 害 の あ っ た こ と の 証 明 は 不 要 と さ れるに対し、過失・詐欺(
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∞ ・ (訂) ( 幻 ﹀ ( お ) 近 世 l 過 失 責 任 主 義 の 修 正 │ 過失責任の原則は、こうして実体法上の原則となるに至ったわけであるが、 こ の 原則は、産業革命によって確固たる地位を築いた新興ブルジョアジーの思想的支柱である自由平等を法理的に裏付け するものであった。すなわち、結果責任主義の行われるところでは、個人の自由な活動は極めて制限されるが、過失 さえなければ責任を負うことはないということ、換言すれば、通常人の払うべき注意を払って行動しておれば、たま たまその行為によって他人に損害を与えても責任を負うことがないというのであれば、これは契約自由、営業自由な ど個人の活動の自由を側面的に助長することになるのである。したがってまた、法の前における平等な人を想定する近代市民法社会が、その生活内容の複雑化に伴って新たに社会的矛盾││経済的不均衡にもとやく従属関係ーーーに逢 着して、法が平均的人間像からより具体的な人に注目を移すとき、自ら不法行為における過失責任の理論も何等かの 修正をうけなければならない。こ t A に厳格責任 ( ω 丹 江 ♀
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﹀の理論が登場するのであるa ) 0
たとえば危険性あ る企業の責任、企業の対内責任などがそれである。これは現象的には過失責任主義以前の結果責任主義と同様の結果 になるが、過失責任主義の修正として展開される厳格責任主義の理論は、中世的な結果責任主義の理論とその基底を 一にするものではないS )
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厳格責任は一種の無過失責任であり、古く失火責任及び動物によるトレスパスの責任 の原理が影響を及ぼしたものといわれるが、その責任が明に認められるようになったのは十九世紀も後半に至ってか らであるa )
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円安) において財務室裁判所のブラックバ l γ 判事は、﹁法の真の精神は 次の如きであると考える。すなわち人が自分の土地へ、自身の目的のために、もしそれが自分の土地を超えて溢出し た場合には危険を生ずるであろうと思われるようなものを持ち来ったり、集積したり、保持したりした場合は、それ を自分の責任で保持しなければならない。もしそうしない場合は、彼はそのものが溢出したことによって通常生ずる 損害について一応e
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巳$有責である﹂と述べている。これがいわゆる 間 三 山 口 門 町 ︿-E
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の法則であ る。事実は、被告が請負人に依頼して自分の土地に貯水池を作ったところ、その土地には廃坑となった竪坑があっ て、それが原告の鉱区に接続していたため、貯水池の水が原告の鉱区へ流入したのである。竪鉱は土砂で埋もれてい たため、それが原告の鉱区に接続していることに何人も気づかなかったのである。請負人には過失があったとして も、被告に過失はなかったので、 一 審 ( ケ l スの訴としてリバプiルの巡回裁判)では原告が敗訴したが、二審(財 不 正 競 争 法 序 説 五東 洋 法 学 五 回 務室裁判所)及び貴族院では原告が勝訴した。要するに危険物によって隣人を危険にさらす者は、それから生ずる損 害に対し保険者として隣人の責任を負わなければならないというのであり、この判例を契機としてその後多くの事件 にこの理論が適用された翁 )O 使用者責任についても同様の傾向がみられる翁 )O 元来被用者と使用者が身分的に結合していた時代には、被用者 の行為は使用者の行為なりとして、使用者の責任は厳格に解されていたのであるが、使用者被用者の身分的結合が弱 く な り 、 一方責任を生じるのは人の行為であるという原則が認められてくると、漸次それは緩和され、被用者の行為 につき、使用者の命令または同意があるときには使用者が有責とされるという理論が打ち立てられたお ) O こうして、中世以降緩和される傾向に向った使用者の責任は、十八世紀から十九世紀にかけて企業規模の増大につ れて、再び厳格に解されるようになった
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﹀O 被用者の不法行為によって他人が侵害された場合に、被用者を信頼し た使用者が責任を負うのは妥当であるというのである盆﹀ O しかし、その理論ずけは多彩であり、使用者の保証に、 あるいはその援権に、あるいは不注意な被用者を雇った不注意に、または被用者の行為は被用者の行為であるという 擬制に、あるいはまた使用者の利益に、その根拠を求めんとしている。しかし大体の傾向は、使用者の命令、 同 意 カ2 使用者の黙示の命令、 同意におきかえられ、 さらに黙示の命令 ( 山 自 立 町 内 回8
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によみかえられて、後には公益の見地からして、事業の執行か必生ずる損害に対しては使用者がこ れを被用者のために担保するという絶対的義務に基くものとされるに至ったa
﹀O 一方特に不法行為者の動機(自♀ZS
あるいは悪意(
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色付。)が問題にされる不法行為があることも忘れることがで き な い 。 古 く 、 結果責任主義が支配しているところでは、 行為者の動機あるいは悪意は殆んど問題とされなかっ た。しかし自己防衛などの目的による行為の正当性が認められると、それは行為の不法性に対する防禦として長く受 け入れられてきたのであって、こ斗では明に行為の動機という主観的要素に着服されている。ところがそれ自体で不 ようやく十八世紀の初めに至ってからであるというおち 現在悪意が重要な要件 法行為責任の要件とされたのは、 名誉段損(与え
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な ど が あ る 。 ( 鈍 ) ( お ) ( お ) ( 訂 ﹀ 司 円 。 ω ω ゆ 円 切 同 ) ・ ω 回 目 ・ 加 藤 前 掲 六 頁 0 4 司 山 口 内 向 。 -円 ﹁ ℃ ・ 印 ∞ A F ・ (民自﹀ ω 国 -h v n ・ J 3 h p ( n o ロュ。時開 M 向 。 F o o c m w 吋 ﹀ 山 ( 同 ∞g )
戸・悶 -H 開 討 -N ∞ 印 ( わ 。 E A 。同開 u R F o s z o 円 。 ﹃ ω 自 σ 0 6 u ( 同 ∞ ∞ ∞ ) 戸 ・ 同 ・ ω 国 -F ・ ω ω 。 ( 出 。 ロ ω。 。 同 F 。 ﹃ 色 ω ) ・ この判例の背景をなすものとして、動物によるトレスパスの事件が考えられる。(巧宮内庁 - P ℃ -O H m -) ( m ぬ)旬。- z
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℃ ・ ω 日 早 ・ へ鈎)使用者の代理責任も甲使用者が無過失にもか L わらず乙(被用者)の不法行為の責任を負うという意味において厳格な責 任の一態様といふ得る(厚。 ω ω 2 w 匂 ・ ω H 3 0 4 ﹃ 山 口 出 。 ︼ 門 Y ℃ ・ 一 戸 ω 叶 ・ 十七世紀中葉頃から商工業は急速に発達し、そのため中世における使用者責任に関する原則の再考慮が要請されたのであ るが、当時の裁判官が無能であり、法と公益の絡んだ問題を処理する能力がなかったので岳 o 同2
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の 後 、 裁判官の質が向上してからようやく取り上げられるようになった。 ( 却 ) ( 4 ﹀ 不 正 競 争 法 序 説 五 五東 洋 法 学 五 六 ( 位 ﹀ ( M M ) ( 斜 ) ( 必 ﹀ 問 。 p n -M・ 吉 田
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-印 。 日 ・ ウインフィルドによれば、この理論の根拠は複雑であるが、次のようなものである。附使用者は通常賠償ができるが被用 者はしからず。制使用者は他人に対し安全と思われるように彼の事業を遂行しなければならない。判被用者の行為によ って使用者は利益をうける。伺雇傭によって被用者は﹁すべてのもの L 活 動 を 開 始 せ し め ﹂ た の で あ る 。 そ し て 、 こ の 法 則 は使用者にとって堪え難いものであるけれども、彼の危険はしばしば保険によって償われるのであるという(巧宮出巴己ゐ-H ω P ) 。 有 泉 前 掲 四 四 頁 。 同g
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同 印 立 ・ は リ l デ イ ン グ ・ ケ I スとされる。被告は原告の池から野鳥を追いだすた めに、直接池に向ってではないが発砲した。この行為は悪意によるものとして被告の不法行為責任が認められた。 第三節 不 正 競 争 法 の 発 展 すでに各所でふれた通り、営業上の不正競争が法規律の対象として問題にされはじめたのは、経済的には近世初頭 新興ブルジョアジーの勃興によって、自由競争を基底とする近代資本制経済体制が確立されてからであり、不法行為 法的には古い結果責任主義から過失責任主義へと移行し、自由営業が一裏面から支えられて一般的な営業競争が漸く盛 になってからである。 これ以前、ギルドやクラフト・ギルドが支配的に経済生活を掌握していた頃にも、現象的には、今日の不正競争禁 圧の法に類似した法律があったが、それは近代的な意味における不正競争に対する規制たる不正競争法とは、自ら呉 った根拠に立つものである。しかし法技術的には、ギルドの定めた公正競争の規則がコモン・ロl中に受け継がれ、不正競争に対する倫理的規制として一般に適用されるようになったものである。この意味からして以下にギルド内部 で行われた規定の若干について述べる。 ギルド経済の時代 封建領主が支配するマナlの中にあって、自給自足経済が行われているところに、自由競争 はなく ( 1 )、 問題となるほどの営業上の不当な競争が発生しないことは論をまつまでもない。十三世紀に至り都市が 興り発達するにともなって、貨幣経済が一般に侵透し、商業が次第に隆盛となった。農村においても地代の金納化が 進み領主農民間の身分的靭帯は薄弱となって、資本制社会に適する階層的分化に進むわけである。 それはともかく、ギルドは厳格な内部規律を作り自ら統制を保った。やがてはその錯雑な規定が反ってその発展を 阻害する方向に働き、ギルド崩壊の一因ともなったわけであるが、その内部規定は身分的結合関係の強い組織体制や 組合員の厚生、あるいは営業などに関して、 かなり詳細な規律を定めていて ( 2 ﹀ 、 その中には今日の不正競争法に類 するものもみられる。たとえば一三六五年の鉛管工ギルドは﹁この営業にたずさわる者は何人も他の同業者をその営 業から放逐してはならない﹂と定めている。 一 四