第一次桂内閣と立憲政友会
著者
松岡 八郎
雑誌名
東洋法学
巻
10
号
3
ページ
1-32
発行年
1967-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007855/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja第一次桂内閣と立憲政友会
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目 次 一 ま え が き 二第一次桂内閣の成立 三桂内閣と政友会の妥協 四 総 裁 専 制 五桂と西国寺、原の密約 六 む す び 第一次桂内閣と立話政友会岡
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洋 法 学 ま iJ~ ふ C 伊藤博文が、明治三四年(一九O
一年﹀五月二日、閣内不統一の理由をもって辞表を提出し、第四次伊藤内閣 H 最初 の立憲政友会(以下、政友会と略称する﹀内閣は、僅かに七カ月の短命をもって崩壊した。その後、後継内閣について 一カ月間の曲折があったが、結局、元老会議の議を経て、山県有朋直系の桂太郎に大命が降下し、六月二日には組問 を完了し、ここに第一次桂内閣の成立をみるにいたった。 この内閣は、わが国最初の政党内閣といわれる隈板内閣を除いて、明治一八年の内閣制度創設以来、元老でないも ハ 1 ﹀ のによって組織された最初の内閣であり、また、ほとんど山県系の官僚たちによって構成されていたので、 ﹁ 級 帳 内閣﹂と呼ばれ、あるいは﹁小山県内閣﹂と称された超然内閣である。したがって、当初、第二線級内閣と評され、 ハ 2 ﹀ 前途を危慎されたが、桂独特の懐柔政策 H ニ コ ポ ン に よ っ て 、 あるいは元老を箆絡し、あるいは政党を操縦して、 日英同盟を締結し、軍備を拡張し、 ついには日露戦争を遂行して、三九年一月七日に成立した第一次西困寺内閣に政 権を引き継ぐまで、四年半の長期にわたって政権を担当したのである。 他方、政友会は、第四次伊藤内閣の崩壊によって政権党離れたが、元老伊藤が総裁であることから、当初、積極的 な反政府的攻撃にでなかった。やがて平侃拡張のための地租増徴問題を契段として、密政本党と提携して、盛んな反 政府運動を展開するにいたったが、伊践と桂との聞に妥協が成立した。だが党内にこの妥協にたいする不治が現われ、政友会内部は動揺し、また脱党者があいつぐにいたった。桂はさらに伊藤を枢密院に送りこむことに成功し、こ こに政友会の第二代総裁として西国寺公望が就任することになった。三七年二月には日露戦争が勃発し、政治休戦が 成立したが、この戦時中にすでに、桂と政友会幹部との問に、政府にたいする政友会の援助を代償として、戦後には 西国寺に政枢を譲る密約が結ばれた。戦後、詩和条約の条件に反対する国民の気勢
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日比谷焼打事件ーに抑され、 また戦争の後始末が一応完了するや、さきの密約にもとづいて、桂は、三八年二一月二三日、辞表を捉出し、ここに 第一次桂内閣は退陣し、元老の了解のもとに、三九年一月七日、第一次西国寺内閣が成立したのである。 本一柏は、この第一次桂内閣の成立から退陣にいたるまでの、特にこの間における政府と政友会との関係を中心とし ( 3 ﹀ て、主として、その政治過程を追求しようとするものであるが、この追求を通じて、この桂内閣以後成立した元老政治 への転換点として、この内閣を評価せんとするものである。 ハ1 ﹀﹁この当時にいたるまでは、政変の都度元老たちは協議して、彼らの中の一人を後継首相に奏践し、そのものが組閣す るのがほとんど常例となっていた。﹂岡義武﹁山県有明﹂八六頁参照 ( 2 ) ﹁ニコポンとは、桂が人を口説く場合に、ニコニコ笑って、相手の肩をポンとたたくという仕ぐさをいったのである。 これが一般に﹃口説き上手﹄という普通語になった。桂はこの手で元老を丸めた。時としては西国寺をさえも丸め込んだ。旦 亭でさえも時としては彼のニコポン術にひっかかることがあった。もちろん彼のニコポンには一片の誠意もないのみならず、 ニコポンの哀にはフテプテしい根性がかくされていたのである。﹂前田蓮山﹁歴代内閣物語﹂(上)二八七l
八 頁 参 照 ( 3 ) ﹁明治維新以来いつか三十余年の歳月が流れ、藩閥長老政治家たちもようやく老境に入りつつあった。そして、この第 一次桂内閣以後は元老たちは政変にあたっては適当と考える彼ら以外のものを後継首相に奏爵し、そのものの作った内閣に対 して後見の役割を演ずるようになるのである。すなわち、今後の歴代の内閣は元老たちと述絡を保ち、主要な政治的決定を行 うような場合にはあらかじめ元老たちの諒解、同意を求め、また元老たちの側も内閣の施政に対して往々勧告、干渉を試みる 第一次桂内閣と立憲政友会東 洋 法 学 四 よ う に な る の で あ る 。 世 上 か ら い わ ゆ る 元 老 政 治 と よ ば れ た も の が 、 こ れ で あ る 。 な お 、 大 正 五 年 に 西 国 寺 公 望 ( 公 卿 出 身 ) が 元 老 に 列 せ ら れ る ま で は 、 元 老 は す べ て 薩 摩 藩 ま た は 長 州 藩 の 出 身 者 で あ っ た か ら 、 従 っ て ﹃ 元 老 政 治 ﹄ は 一 面 に お い て 、 維新以来の藩閥勢力による政治支配の変容とみることができる。﹂岡義武前掲八六
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七頁参照第一次桂内閣の成立
明治三四年五月二日、伊藤博文が、閣内不統一を理由として辞表を提出したが、この処理をどうつけるかは、なか なか決まらなかった。 伊藤の辞表提出と同時に、伊藤の推薦によって、西国寺公望枢密院議長が首相臨時代理を兼任した。そして元老 H 山県有朋、松方正義、井上撃、西郷従道には後継内閣につき諮詞され、五日、八日、九日と元老会議が関かれて検討 されたが、どの元老もみずから引き受けず、容易に結論をえなかった。伊藤は、内閣を改造して留任せんとの意向を ハ 2 ﹀ もっていたようであり、勿論、政友会幹部もまた伊藤の留任を望んでおり、それがむつかしければ、西国寺内閣の出 ハ 3 ) 現はさらに望ましいとさえ期待していたようである。だが元老は、積極的に伊藤も、西国寺も推さなかった。また山 ハ 4 ) 県派の官僚たちは、桂太郎擁立を画策しており、山県も桂を推す決心をいだいていたようである。ところが、一
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日 には伊藤の辞表が急に聴許され、西国寺が首相臨時代理から臨時首相になると、山県は決定を急ぎ、井上磐に出馬を 説得して、ようやくその承諾をえ、伊藤、松方、西郷らの同窓も払えて、 一六日には井上に大命が降下したのである。 井上は組閣に着手し、桂を陸軍大臣に、渋沢栄一を大蔵大臣に挙げんとし、また前内関の山本経兵街海軍大臣、加藤高明外務大臣を留任せしめんとしたのであるが、まず桂が辞退し、また桂は井上にたいして、時局はきわめて困難 ハ 5 ) ( 6 ) だから大命を辞退すべしとさえいった。さらに渋沢も辞退するにいたった。政友会の原敬も、井上内閣成立阻止のた ハ 7 ﹀ めに動き、元老も積極的に応援しなかったので、井上は孤立無援となり、ついに二三日、大命を辞するにいたり、井 上内閣は流産に終わったのである。 ( 8 ﹀ ここにいたって山県は、意を決して、桂を推薦せんとして、伊藤の同意を求め、また元者会議の賛成をえて、二六 日には桂に大命が降った。だが桂は熱心に伊藤に留任を勧告し、伊藤がこれを固辞して、桂を推薦したので、桂はよ うやく二九日、組閣にとりかかった。桂にすれば、伊藤に十分な了解をえておくことが、今後の政局担当にぜひとも (9) 必要であると考えたからである。 ハ 叩 ) 六月二日、第一次桂内閣は成立した。この組閣は、超然主義の信奉者である山県の助言と援助のもとに、平田東助 を参謀として行なわれ、したがって桂内閣の閣員には、 一名の政党員、あるいは衆議院議員も採用せず、また元送も 一 人 も 参 加 せ ず 、 山本権兵衛海軍大臣(留任﹀(薩摩出身﹀を除いては、ほとんど山県派の官僚出身であった。すなわ ち、曽繭荒助大蔵大臣兼外務大臣(後に小村寿太郎外務大臣)、 内海忠勝内務大臣、児玉源太郎陸寧大臣ハ留任﹀、清治 室吾司法大臣、芳川顕正逓信大臣、平田東助良商務大臣、菊池大麓文部大臣、であった。かくてこの内閣は、 ﹁ 紋 帳 内閣﹂﹁小山県内閣﹂と呼ばれ、また﹁二流内閣﹂﹁次官内閣﹂と評された。さらに超然内閣であるため、政党がすで に大きな発言力をもつようになっていた当時においては、その前途はきわめて危ぶまれたのであるが、だがほとんど 山県派の官僚によって構成されていたので、その団結は強固であると考えられた。この組閣にあたっての政綱はつぎ 第 一 次 桂 内 閣 と 立 憲 政 友 会 五
東 洋 法 ~与 寸4 _._ / .... のごときものであった。 一寸 財政上の基礎を設固にし、商工業の発達す謀る事。 海軍は八万屯を限度とし之を 拡張すること。 独力極東の大局を担当するは困難なるを以て、機会を見て欧州の一国(英国)と或種の協約を締 ハ 日 ) 韓国は我か保護国たるの目的を達する事。﹂以上である。 結するに注意する卒。 こうして、第一次桂内閣は成立したのであるが、この山県派を中心とする超然内閣にして、元老を一人も交じえな い小壮官僚内閣が、よく、議会 H 政党に対抗して内外の諸問題を処理していくことができるか、はなはだ疑問とせら ( ロ ) れたのである。 ( 1 ) 伊藤が辞表を提出するにいたった経過については、拙稿﹁立憲政友会の創立﹂ 五 頁 を 参 照 さ れ た い 。 ( 2 ﹀前団連山﹁歴代内閣物語﹂ハ上)二二四頁参照 ( 3 ) 原査一郎編﹁原敬日記﹂(新版﹀一巻明治三四年五月八日の項三三 O 頁参照 ( 4﹀前田蓮山前掲ハ上)二二五頁参照 ( 5 ﹀大津淳一郎﹁大日本憲政史﹂五巻一八一一一 l 五頁参照 ( 6 ﹀渋沢は﹁初めから私は政治をやらぬと決心して居るので断然お断りすると申出でた。﹂ところが山県や伊藤からも人情 づくで奨められたが、結局、﹁今銀行(第一銀行│筆者註)を離れてもらっては困る﹂ということできっぱり断った。渋沢栄 一述﹁渋沢栄一自叙伝﹂七八四 l 五頁参照 ( 7 ) ﹁原敬日記﹂一巻五月一七日、一九日の項三三五
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六 頁 参 照 ( 8 ﹀山県は一一三日、伊藤に書簡を送って、桂を推薦したが、これにたいして伊藤は、﹁世外伯︿井上磐 l 笠者註﹀辞退之 上は、他人え勧誘相成候外有之問布候。於小子は別に良案無之侠故、点以肱之所赴に依り、御経笠相成度候。﹂と返書し、桂推薦 問題にはなんら触れなかった。徳富猪一郎﹁公爵山県有明伝﹂下巻四六五│六瓦参照 ( 9 ﹀﹁公爵山県有明伝﹂下巻四七四頁参照徳官猪一郎﹁公民桂太郎伝﹂乾巻九七六頁参照 ﹁東洋法学﹂一つ巻一・二合併号 ー」ー ノ 、( 叩 ) こ の 週 間 事 情 に つ い て ほ 、 ﹁ 公 爵 佳 ・ 太 郎 伝 ﹂ 乾 巻 九 八 三 ! 九 九 四 頁 参 照 。 伊 烹 巳 代 リ 討 を 内 務 大 臣 と し て 入 問 せ し め んと勧誘したが、拒泡された。前外務大臣加藤高明に留任を求めたが、拒泊されたので、当時、世清全権公使小村寿太郎を投 し て 外 務 大 臣 た ら し め ん と し 、 小 村 の 帰 固 ま で 曽 踊 荒 助 に 兼 任 せ し め た 。 (日)﹁公爵桂太郎伝﹂乾巻九九五 l 六 頁 参 照 (臼)柱自身、つぎのように述べている。﹁一意専心、為皇国国事に執掌する心は回けれとも、未た経験もなき壮士役者の 集合体にて、殊に元老諸先輩への気兼は勿論、世の信用とても、所謂三日天下の記事の或る新聞紙に散見するも道理ありしこ とともなり。﹂﹁公爵桂太郎伝﹂乾巻九九三頁
桂内閣と政友会の妥協
政友会は、桂内閣成立の前日、明治三四年六月一日、議員総会を聞き、その席上、伊藤総裁は辞職の顛末と今後の 方針について演説し、やがて成立すべき新内閣にたいする﹁軽挙反対の行動﹂を戒め、政務調査の必要を力説した ( I V が、総務委員星享は、 地方における党勢の拡張と、﹁行政刷新及び財政整理﹂をもって政策の基本とすべきこと、 ( 2 ) のための政務調査の方法につき報告した。このように伊藤は、桂内閣にたいして、是是非非の態度をもって臨むべき -タ ゼ ﹂とを党員に要請したのであるが、 この態度は、元老たる伊藤総裁と党利守中心と寸る党員との聞に、やがて法を生 みだすことになり、政権を離れた野党としての政友会の矛盾を暴露することとなる。 六月一一一日、政友会の実力者である星が、伊庭想太郎のために突如、東京市参事会室において暗殺し川、政友会は 大きな打撃を受けたが、さらに八月には、伊藤総裁の欧米巡遊間監が起こり、政友会内部に動揺が生じた。この伊藤 第一次桂内閣と立憲政友会 七東 洋 法 学 八. の欧米巡遊は、もともと、米国エ!ル大学創立百年記念式典において名誉博士号を受けるための米国訪問であった。 ところが、当時、第四次伊藤内閣時代よりすでに日英同盟の動きがあり、桂内閣となって一層進展し、三四年八月五 日には元造会議が閲かれて、日英同盟締結の趣旨に賛意を表するにいたったが、日露協商の主唱者である元老井上馨 は、ここにいたって伊藤に、米国行を中止し、露国におもむいて日露協商の交渉を試みるように勧告した。こうして 伊藤は、予定の米国行を中止することなく、米国を経て、欧州におもむき、露国と交渉すベく、九月一八日をもって 出発することに決した。日英同盟を支持する山県や桂と、日露協商を推進せんとする伊藤や井上との間には、意見の 対立があったが、いずれも、清韓両国の領土保全が眼目であった。この伊藤の欧米巡遊が政友会に伝えられると、内 部が動揺しはじめたのである。 それは﹁議会も追々切迫したる際に伊藤の洋行は会員動揺の色み%。﹂として、 九 月 一
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日 の 総 務 委 員 会 に お い ﹁総裁の渡航を中止すること、若し中止することを得ずとせば西国寺を副総裁となすこと、夫も行はれずとせば ハ 7 ﹀ 総務委員長を置き院内総務を指名し且つ臨時協議員を置き、又対議会の方針指示を請ふこと﹂を決定し、即日、伊藤 て 、 に要請した。これにたいして伊藤は、洋行をいまさら中止することはできない。また西国寺枢密院議長の副総裁就任 は困難であるとして、総務委員長および院内総務の設置には賛成し、留守中の全権を常務委員に委托し、西国寺およ び井上馨の助力を内密に求めること、 また対議会策は、﹁此内閣は必らずしも敵とするものに非らざれば、 ( 8 ) し非は反対するの態度を執る事とすべし、而して其是非を決するは総務委員に一任することとなすべし。﹂と述べた c ( 9 ) 一五日の政友会一周年記念会の席上、伊藤は留別の辞を演説し、会員の軽挙をいましめ、総務委員長にはい松田 是を賛成 ま た 、正久を、院内総務には尾崎行雄を指名し、 一八日には横浜より米国にむけ出発したのである c こうして伊藤は、政府にたいする政友会の無事を望んで出発したのであるが、政友会幹部は、伊藤の留守はまさに 倒閣の好機であるとみていた。院内総務に指名された尾崎行雄は、﹁私が何れの内閣に対しても、 常に攻撃的態度を とって来たことは、公もよく承知のはづであった。若し桂公を援けるのならば、その訓令を与へねばならぬ。そこで ハ 叩 ) 公が黙って出発したのは、留守中に桂内閣を倒せといふ意味だと解釈した。﹂のである。 一一月初めごろから倒閣の 動きがあらわれ、憲政本党との提携問題も起こってきたが、政友会は、第一六議会召集の前日、 一 一 一 月 三 日 、 定 期 大 会 を 開 い て 、 ﹁特ニ財政整理、行政刷新ハ夙ニ本会ノ主張スル所、姑息ノ手段ハ断シテ之ヲ取ラサルナリ。﹂﹁本会ハ 現内閣ニ対シ何等ノ関係ヲ有丸刈。﹂と宣言し、清国賠償金処置について、 桂内閣と正面衝突の勢いを示すにいたっ た。しかも議会召集当時の衆議院の議席分野は、政友会一五九、憲政本党七
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、三四倶楽部二六、帝国党ごニ、無所 属三一一、であり、このうち政府派はわずかに帝国党のみであった。このような反政府的空気を探知した桂は、井上馨 を通じて、外遊中の伊藤に、政友会の倒閣運動を鎮圧してもらうよう電報にて依頼した。伊藤は、露国ベテルグラ! ド よ り 、 一 一 月 二 九 日 、 ﹁政友会に関する貴電接到せり、国際競争の現状は登固にして永続すべき政府を要するが故 に、国家的重大の理由なくして内閣に反対するものには拙者は同情を表する能はざる旨諸氏に御申問ありて差支な し。﹂と井上に返電してきたので、井上は二一月四日、これを原に示し、自室を求めたが、原は容易に承服せず、﹁歓 ずベし、伊藤に電報などは甚だ無用の事なり、市して伊藤の返電は只常道を云ひたる迄なり。﹂とし、この件につい ては内密にせられたしとしたのである。原は井上の求めにより、松田、末松諒法、西国寺などにこれを示したが、こ 第 一 次 桂 内 閣 と 泣 定 政 友 会 九東 ミ王台 Z寸圃. 法 学
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れをもっても、反政府的動きを押えることはできなかった。 一 一 一 月 一O
目、第一六議会合一五年三月九日閉会) が閉会された。政府の明治三五年度財政計画は、北清事変による 清国の賠償金をもって、 一般会計に繰り入れ、財政を補わんとするにあったが、この賠償金は、条約が九月七日に成 立したばかりで、将来三九年間の年賦払いの契約であり、しかも決定した金額は関係各国が受け取る総額であり、各 国がいかにこれを分配するかは、未決定であったのである。そこで、このような不確実な財源を予算に組み込むこと について、政友会から反対の戸が起こり、清国賠償金を特別会計とし、三五年度の財源は行政整理その他の方法によ るべきことを主張い問。これが政府反対U倒閣の根拠とされたのである。一二月一一一目、この予算案が衆議院に提出 ( 日 ﹀ されると、尾崎院内総務はこれに強く反対する質問を行ない、また一五日には政友会協議員会は﹁清国償金を特別会 計となす鞄﹂などを全会一致で可決し、さらに一六日の議員総会でも、これを満場異議なく可決した。こうして、政 友会と政府とはますます対立を深めていった。井上馨は、調停の役を果そうと、 (叩叫﹀ 填の為、之を使用するは便宜の措置なるべし﹂という一七日ベルリ γ 発の電報を原および松田にみせ、伊藤総裁が償 ︿ M U ﹀ 金を一般会計に入れることに賛成している旨を知らせ、また井上は政府にたいしては﹁和協の途を諮ずる窓思﹂を確 一八日、伊藤の清国償金を﹁基金補 かめ、その窓思のあることを原たちに知らせている。こうして一八日の夜、政府の側から政友会ヘ面会の申し入れが あ り 、 一九日、帝国ホテルにおいて、政府側の桂と山本格兵衛、政友会側の松田と尾崎との聞に、妥協のための会談 が聞かれたが、了解にいたらず、さらに井上の斡旋によって、一一一一目、井上邸にて妥協工作が行なわれたが、結局成 ﹁総務委員会は各総務委只一致にて此上は交渉を絶つの外払ぽ﹂と決 功せず、首相官邸での会談も物別れに終わり、定したのである。その翌二三日、代議士総会が閃かれ、交渉破裂の顛末が松田より報告されたが、だが﹁多田作兵筒 ( 幻 ) 各団体より二名づつの委員を挙げ、尚政府と交渉すべき余地あるや否を調査せん引を発議﹂したので、記名投票の結 果、賛成六回、反対六七で否決された。こうして代議士会は交渉断絶に決したが、その差はまさにわずか三票であ り、政友会はまっ二つに割れたといってよい。 ︿ 幻 ﹀ すなわち政友会内部には、反乱軍いわゆる﹁浜の屋組﹂(軟派)の動きがあったのである。この派は、鉄道固有論を 唱えるものと、呉製鋼所の建設を支持する中国地方出身の代議士との合同したもので、井上角五郎、田健治郎らが中 心であり、この製鋼所建設、鉄道固有などの利益問題をもって政友会内部に派関をつくり、また政府との妥協のため に奔走していたのである。ところが、前述のように総務委員会は、政府との交渉決裂を決定し、また代議士会も三票 ︿ 幻 ) の差をもって交渉断絶に決したので、田、井上(角)ら代議士七三名は、浜の屋に会合し、﹁総務委員を攻撃し、窃 かに政府と交渉を払一側、﹂二四日には﹁政友会所属予算委員会を本部に閲らきたるに、政府提出の新事業大概原案に 可決したり、尚代議士会を閲らきて党議に掛けたるに予算委員の否決せし台湾兵営費をも復活可決したり、是れ最初 ( お ﹀ より軟派と称する政府に気脈を通告する者相謀りて其派の者を予算委員に挙げて此結果を生ぜしめたるなり。﹂ こうな つては党の幹部にとって形勢は不利となり、ついに二四日夜、浜の屋組にたいして、ふたたび政府と交渉をもつこと ( お ) を約束し、ここに幹部は党内叛乱軍に屈服せざるをえなくなった。翌二五日には、政府と政友会との聞に妥協が成立 し、﹁政府は予算案を撤回し政友会は同時に清国償金特別会計法案を撤回する事(原案通)﹂など五問、を決定した。だ が総務委員会は、﹁紅葉館組﹂(硬派)の強い要求もあって、 第 一 次 桂 内 閣 と 立 憲 政 友 会 叛乱分子三名、井上角五郎、田健治郎、 重野謙次郎を除
東 法
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-づ一 洋 名処分としたのである。 以上みてきたように、桂内閣成立当初、是是非非の態度をもって臨んだ政友会も、伊藤総裁の外遊後、桂内閣の打 倒をばかり、政府を追いつめたかにみえたが、党内に叛乱分子があらわれ、次第に優勢となって、 に屈し、政府と妥協せざるをえなくなったのである。 ( 1 ﹀ ( 2 ﹀ ( 3 ﹀ ( 4 ﹀ ( 5 ﹀ ( 6 ﹀ ( 7 ﹀ ( 8 ﹀ ( 9 ) ( 叩 ) (日) ( ロ ) ( 日 ﹀ ( M ﹀ ( 日 ﹀ ( 日 ) ハ ロ ) 伊藤の演説について、小林雄吾編輯小池靖一監修﹁立定政友会史﹂ ﹁立憲政友会史﹂一巻九九頁参照 星の暗殺事件については、中村菊男﹁星享﹂二一Ol
八頁参照 この問題については、春畝公追領会﹁伊藤博文伝﹂下巻五二二│九頁参照 山県・桂と伊藤・井上との意見の相違については、岡義武前掲八八│九頁参照 ﹁原敬日記﹂一巻三五四頁 ﹁原敬日記﹂一巻三五五頁 ﹁原敬日記﹂一巻三五五頁 留別の辞については、﹁立憲政友会史﹂一巻一O
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九頁参照 尾崎行雄﹁日本定政史を語る﹂(上)四六四頁 宣言の全文については、﹁立憲政友会史﹂一巻 林田屯太郎﹁日本政党史﹂下巻一三二頁参照 ﹁原敬日記﹂一巻三六九頁 ﹁原敬日記﹂一巻三七一頁 前 田 蓮 山 前 掲 二 四 六 頁 参 照 この質問については、大津淳一郎 ﹁原敬日記﹂一巻三七二一貝 ついに幹部はそれ 一 巻 ﹁ 伊 底 総 裁 時 代 ﹂ 九 一 一 一 l 九頁参照 一 一 一 一 良 参 照 前 掲 五 巻 二二二│三頁彦照(日)この電報の全文は﹁原敬日記﹂一巻三七三頁参昭一 (叩)﹁原敬日記﹂一巻三七三│四頁参照 (初﹀﹁原敬日記﹂一巻三七六 l 九頁参照 ハ幻﹀﹁原敬日記﹂一巻三七九頁 (幻﹀﹁浜の屋組﹂については、升味準之輔﹁日本政党史論﹂二・述 (お﹀田健治郎の動静については、﹁田健治郎伝﹂一四六│七頁参照 ( M ﹀﹁原敬日記﹂一巻三七九頁 (お﹀﹁原敬日記﹂一巻三八
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頁 (お﹀尾崎行雄前掲(上)四六人l
四 七O
頁参照 ハ幻﹀この外、妥協の条件は次の四件であった。﹁一、政府は清国償金国庫収入分の確定せるものなる事を言明する事(原 案通、但原案に立証とあるを言明に改む﹀。一、政府再提出の予算に於ては清国償金代価を七拾円替に低減する事(原案通﹀。 一、予算査定の大体に対しては政府之に同意する事、但各項殊に既定歳出は猶ほ審議中に属するを以て議決の結果に依り之を 定むる事(此項修正)。一、政府は行政財政の整理を決行するの突を挙ぐる事(原案通)。﹂﹁原敬日記﹂一巻三八一 T具 参 照 (お﹀﹁紅葉館組﹂(硬派﹀とは﹁直参総務ヲ中心トシ政府反対ヲ趣旨トスル仲間﹂である。升味準之輔前掲二巻四 一O
頁参照 四 一Ol
一 五 参 照 四 総 裁 専 & 巾 前述のような、明治三四年二一月二五日の政府と政友会との妥協によって、三五年度予算案は、 ハ 1 ﹀ 議院を通過し、その後、第一六議会はなんの波潤もなく、無事終了した。この問、政府は三五年一月三O
日、日英同 ハ 2 ﹀ ハ 3 V 盟を調印し、﹁﹃次官内閣﹄などといわれてゐた桂内閣が、急に重きを加へた﹂のであった。それに比べ、日露協商に 一 一 一 月 二 八 日 、 衆 第一次桂内閣と立憲政友会一 匹 ( 4 ﹀ 努力した伊藤は、不満と失意をいだいて、二月二五日、帰国したが、伊藤の戸望は下り坂となり、また伊藤も精神的 ( 5 ﹀ 安定を欠いたようである。 東 洋 法 A時, ぺr -ハ 6 ﹀ やがて、八月一
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目、衆議院議員の任期満了による総選挙が、新選挙法によって行なわれることになった。政友会 ︿ 7 ) では四月三日、選挙に関する総裁の宣言を発表して、公明正大なる選挙を希望し、さらに一層の党の拡大をはかつ た。選挙干渉もなく、平穏のうちに選挙が行なわれ、その結果、政友会は一九O
名を当選せしめ、衆議院における過 ( 8 ﹀ 半数を依然として獲得したのである。だが伊藤は、この選挙ではじめて党務の困難さを経験したのであった。 桂内閣は、第一六議会終了後、この議会における、前述のような政友会との妥協条件の一つである﹁行政財政﹂の ハ 9 ﹀ 整理に着手したが、その実効を挙げぬうちに、日英同盟にもとづく英国の要請もあって、海軍拡張計画を立案し、そ の財源を地租増徴に求めようとして、かつて第二次山県内閣のもとにおける明治三一年の第一三議会において、五カ 年聞の期限を付して可決されていた地租弘仰を無期限に継続する菜、を立てたのである。 そこで桂は、まず、元老であり、政友会総裁である伊藤博文にはかるのが得策であるとして、伊藤にはかったとこ ( 日 ) ろ、伊藤は賛否を明言しなかったが、桂は伊藤が﹁此の計画に反対せんことは、よも有るまし﹂と推測したのであ 選挙の結果、過半数を維持した政友会においては、九月中頃には、 る。だがやがて、七月中匂頃になると、伊藤は賛否を保留するにいたったのである。また、前述のように、八月の総 ︿ ロ ﹀ ﹁地租継続断じて不可にて党員大多数皆な然り﹂ という状況であった。また伊藤は、 一O
月四日の桂との会談においても、容易に態皮を表明しなかった。このため、 一O
月二七日の政友会総務委員会のあと、 ﹁常務委只丈けにても各自に伊践を訪問して自己の芯見及び党内の平日をハ ロ ﹀ 陳述して伊藤の意思を動かす﹂こととし、たとえば原は、二九日、伊藤を訪ね、 ﹁地租増徴継続並に海軍拡張問題に 付先頃来伊藤は反対の意向らしかりしも、確定の怠見を聞かざれば政略の施すべきなし﹂とし、 ついで原は﹁財政整 理案の梗概を示して財政整理の後は地祖を増徴せざるも或は海軍拡張をなし得ベき計釘を示したり。伊藤大体異議﹂ ( M ﹀ なく、これを了承した。 さらに、第一七議会の開会も迫ってきたので、 一一月七日の総務委員会では、﹁大会を来月 四日開くこと﹂および﹁地租継続にも海軍拡張にも反対の芯見﹂を総務委員の芯向として伊藤に伝えることを決定し ハ 日 ﹀ たのである。翌入日には、林有造、松田が伊藤に会い、この決定を伝えたところ、﹁伊藤は別に兵訟を云はずして聴 ︿ 日 ﹀ 取り、﹂こうして伊藤も次第に反対の意向を強めていった。 一 四 日 に は 、 原にたいして、伊藤は ﹁今回政府の地租継 続、海軍拡張に反対なるのみならず、財政全体に付此ままにては到底維持しがたきに付其大方針を以て井上、松方又 ︿ 口 ) 山県にも之を内談する積なり﹂と述べるにいたった。伊藤は、 一八日には井上馨と会って、 ﹁現在の財政計画を改革 すべしとの主義﹂において意見が一致し、二二日には伊勢参宮に出発し、その帰途、京都にでて、二三日、山県を無 ﹁伊藤は本年地租継続を議することは、策の得たるものでは無い。但し海軍拡張は、己むべからざるが ︿ 印 ) 故に、宜しく別途の財源を取りて、之を支帥抗するを可とすべき﹂旨を述べ、山県とともにこのことを桂内閣に勧告せ 隣 庵 に 訪 ね 、 ﹁当局大臣自ら責任を負うて政を執る以上、吾等閑人の局外より容昧すべ きにあらず、況んや自分の如きは身軍籍に在り、政治に干与するは最も慎まざるべからざるに於てをや。﹂と答えた んことを提案したが、山県は冷然として、 ので、伊藤は﹁共に謀るも詮なし﹂として帰京し、 ついで松方にも申し入れたが、松方もまた動かなかった。 かくて伊藤は、陸軍大演習のため天皇に従って九州に赴いていた桂が二八日、帰京するや、三
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日、単独にて桂首 第 一 次 桂 内 聞 と 立 定 政 友 会 一 五j.1 洋 法 学 一 六 相に﹁予は海軍拡張に対して異議なしと錐も、本年地租継続を行ふに反対す。宜しく別に政費を整理して、以て之を ハ 却 ﹀ 支耕すへきなり﹂と勧告したが、桂は勿論これに同意しなかった。またこの日、伊藤は、総務委員会においても、こ ( 幻 ﹀ の自己の意見をはっきりと述べるにいたり、ここについに、地租増徴継続をめぐって、政府と政友会は正面衝突する 勢いを示すにいたったのである。 これよりさき、伊藤・大隈の提携工作が、加藤高明の斡旋によって、政友会の原と憲政本党の大石正巳との聞に、 秘密裡に行なわれていたが、伊藤が正式に大隈との会見を承諾したのは、 一一一月二日であった。これによって、三日 夜、加藤邸に伊藤と大限の会談が行なわれ、両党が歩調をあわせて議会に臨むことを約した。このような伊藤・大隈 の提携にたいして、桂内閣は﹁予等内閣員は倍々決心をなし、殊に伊藤侯大隈伯の大政治家の聯合党を、我輩少壮内 ( 幻 ﹀ 閣か独力之に当るは、実に快事なり。起てよ、充分決心して立てよ。異口同音に閣僚各個の口より言い出されたり。﹂ として、結束してこれに対抗せんとの決意を固くしたのであった。さらに政友会は、四日には定期大会を開き、伊藤 ついで﹁第一七議会に対する方針宙誕﹂を決議し、 は政府反対の演説を行ない、 ﹁海軍拡張は之を是認すると臨も他 の政費を節約して其財源に充て且つ正貨流出の激変を来さざる限りに於て之を遂行せんことを望む。﹂﹁地租の増徴は 既定の期限後に継続するの必要を認めず。﹂などの態度を問明した。忠政本党もまた、 (何日﹀ じ趣旨の宣言を決議したのである。こうなっては、第一七談会における政府対政友会・窓政本党との激突が予想され 同じ日大会を開き、 これと同 るにいたるのは当然である。 第 一 七 議 会 は 、 一二月六日、召集され、九日、閉会となった。政友会の院内総務は、松田正久、尾崎行雄、大岡育
造の三名であり、原敬は衆議院の予算委員長であった。政府は早々にして、地租増徴継続果、海平拡張来を同時に衆 議院に提出した。増租継続案は二二日に特別委員会に付託され、 一六日には委員会は早くも二四対三をもってこれを 否決して、この結果が、即日、本会議に報告され、政府は弁明的演説をもってこれに対抗したが、政友会、密政木党 はこれを否決にもちこもうとして、討論を終結せしめんとしたとき、突然、 ( お ﹀ ぜられた。二一日にはさらに二七日まで七日間の再停会となった。この問、政府による設只買収がはじまったが、政 ( M印 ﹀ 友会内のこれに呼応するものはすくなかったようである。また、貴族院議長近衛篤麿によって調停工作が行なわれた ( 幻 ) が、成功しなかった。さらに台湾総督児玉源太郎が、桂の芯をうけて、ニ
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日、一一一日と伊藤を訪問し、政友会およ 一 六 日 か ら 二O
日まで五日間の停会が命 び憲政本党の領袖たちと会見せんことを申し入れ、伊藤もこれを了承し、この結果、二五日、政府側の桂首相、山本 海相、曽繭蔵相と、政友会代表松田正久、原敬、窓政本党代表犬養毅、大石正巳とが会見して、妥協工作を行ない、 政府側がやや譲歩したが、成功するにいたらなかった。こうして、停会明けのこ八日、地租増徴継続突が本会議に上 ( m U ﹀ 程され、討論終結して、まさに採決に移らんとしたとき、衆議院は解散されたのである。 このように、政府と政友会・憲政本党とは対立のまま、翌明治=一六年を迎えたのであるが、三六年に入ると、 一一日の伊藤の桂訪問によって両者の妥協の端絡がひら人間、 月 ﹁善後の事を協議する﹂こととなった。そこで桂は、曽 繭蔵相と財政計画をねりなおし、地租増徴継続采は中止し、海平拡張には鉄道建設買をあて、鉄道建設貨は公債によ 一月一一一一日には桂が伊藤を訪問して協議ぱ、これ以後、 るという突を作成し、山県を通じて伊藤の了解を求め、 伊 藤、山県、桂の聞で会談が行なわれ、二月二二日にいたって、伊藤は政府の計画案に承認し、ここに伊藤と桂との問 第 一 次 桂 内 閣 と 立 憲 政 友 会 七に 妥 協 7J~ 成 立 し たハ法 治
18-、 宇 の と は 当 事 者 以 外 に は. 秘 密 と せ ら れ た 東 洋 八 三月一目、臨時総選挙が行なわれたが、この選挙にあたって、政友会と窓政木党とは相互に協力し、また相互に競 争を避け、それぞれ勢力の維持、拡大をはかお。これにたいして政府は、選挙干渉を行なったが、選挙の結回砲、 解散前の議席分布とほとんど変わらなかった。政友会は依然として一九一議席を占めて、過半数を獲得しており、憲 政本党は八六議席を占めたのである。こうして選挙も終了し、裏面では伊藤と桂の妥協が成立していたとき、四月、 党制改革運動が起こった。 この運動は、三月一日の総選挙に当選した新議員たちが、四月一O
日の神戸における観艦式に陪観を許され、四月 二O
日の大阪の内国博覧会開場式に招待されて、新議員の大部分のものが京阪神に集まっていたとき、 そのすきを ねらって、政友会有志総代と称する小川平吉ら十三名(院内二名、院外二名) の建議が政友会本部に送られ、同時に 各新聞に発表されたことによって、表面化したのである。その建議は、 ある。また同時に、この運動は、大阪滞在中の有志議員からも起こり、 ﹁一、役員は総て公選となす事。 一、重要の問題は総て衆議を以て決定する事。﹂として、総裁の専制を批判したので ハ お ﹀ ﹁大阪一挨﹂と呼ばれた。このような総裁専 一、総務委 員の数を減じて三名となす事。 制反対についての革新運動は、党員の純粋な理論的反対より生じてきたとともに、その哀面において、これが政府、 ハ 幻 ﹀ ことに警視総監大浦兼武による政友会の撹乱工作としてひきおこされたのであった。この撹乱工作によって、伊藤と 桂との聞の、かつての妥協が破れんとしたが、桂が京都において伊藤と会談し、自分の知らざるところとして伊藤に ︿白山︾ 了解を求めるとともに、妥協のことを一日も早く公表せんことを求めた。こうして伊藤は、四月二五日、 ﹁政府は遂に政友会の主張を容れ、地租案を固執せず又他の新説をも起さず其他の方法を以て海軍拡張氏の財源を計画すべしと 云ふ事になりたれば、此上は政府を追窮せず成るべく街突を避けて妥協に終るベし、元も財源の詳細に付ては政府と 議会との交渉に該払問﹂と述べ、桂内閣との妥協を明らかにしたが、翌二六日の総務委員会は、多少の条件を付して 妥協をやむをえざるものとして了承したので払問。また政友会は、前述のような党制改革運動もあって、五月一日、 組織の改正を行ない、総務委員を廃して、三
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名の協議員を置き、その中より、五名以内の常務委員を選ぶこととし、 従来よりは党員の意思を反映することができるようにし、いわば総裁専制にたいする不満を和らげんとしたのであ る。五月六日には、第一八議会を前にして、まず議員協議会を開き、第一八議会にたいする運動方針を検討し、議論 続出して容易にまとまらなかったが、結局﹁来る議会に於ては第十七議会に執りたる方針を以て進む事﹂とし、また 総裁の指名によらず、衆議院の正副議長の予選を投票により行なった。翌七日には議員総会を開催し、伊藤の妥協交 ︿ 刊 日 ) 渉の経過についての訓示的演説があり、ついで前記のような方針を可決し、いよいよ第一八議会に臨むこととなっ た。こうして政友会は、議会を前にして、妥協にたいする不満、総裁専制にたいする不満が欝積していたのである。 五月二一目、第一八議会が開会され、ただちに、政府は地租増徴継続案を衆議院に提出し、 案委員会においてこれが否決され弘同、桂首相は予定の計画により、即日、伊藤に正式に妥協を申し入れ、伊藤は政 一九日の地租増徴継続 友会常務委員にこの交渉を委嘱した。翌二O
目、政府側の桂首相、曽繭蔵相と政友会側の松田、原、尾崎との聞に妥 協交渉が行なわれた。政友会側は種々妥協和巾につき交渉したが、かつての伊藤と桂との聞で決定した妥協条件を勤 かすことはできず、政友会側はやむなく、それにて妥協せざるをえなかった。そこで、尾崎は、伊藤、桂の密約を不 第 一 次 桂 内 閣 と 立 憲 政 友 会 九東 洋 法 学 二
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︿ 日 明 ) 満として、脱党するにいたり、また政友会も、議会が停会となった一二、二二、二三日の三日間、議員総会を開いて 協議したが、容易に妥協条件の承認がえられなかった。 ようやく二四日にいたり、午前の談只総会において妥協案が 承認され、午後、政府に妥協承諾の返答がなされ、政府はただちに地租増徴継続案を撤回したのである。だがこの妥 協によって、政友会を脱党するものがあいつぐ有様であった。こうして第一八議会は、これ以後、窓政本党の提出し (MM ﹀ た﹁内閣弾劾の上奏案﹂﹁教科書事件に関する決議問﹂﹁取引所事件の決本初﹂などがあったが、上奏案は否決され、 他の二決議案は修正可決され、六月三O
日には三六年度追加予算が衆議院にて可決されるにいたった。このように、 この第一八議会における妥協問題は、政友会に大きな動揺をもたらし、政友会の勢力は次第に衰退しはじめた。 このようなとき、七月、伊藤が政友会総裁を辞して、枢密院議長となり、政友会の衰勢に一層拍車をかけることと なった。去る四月一一一日、前述の大阪一授騒動中、京都の無隣庵において、山県、 ( 日 ﹀ が、対露方針を熟議し、いわゆる満・韓交換の線で露国と交渉することに決したが、六月二一日には露国陸軍大臣ク (臼) ロパトキソが突然東京に来遊し、露国との問をもはや扶手傍観すべき段階ではないと考えた桂内閣は、京都無隣庵で 伊 藤 、 桂 首 相 、 小村外相の四人 申し合わせた方針にしたがって、対露交渉を開始することに決定した。そこで桂は伊藤を六月一七日訪ね、交渉につ いての党舎を示して伊藤の意見を求めたが、伊藤が五元老と悶僚との御前会議の開催を示唆したので、二三日、御前 会議が閃かれ、対露方針四カ条が決定され、対露交渉を開始せんと決したので払問。その翌二四日、さらに桂は、伊 藤と山県を官邸に招き、山本海相も立ち会ったところで、桂は﹁前日の御前会議に於て、対箆談判開始の事、並に之 に対する方針は、既に一定せり。是れ実に国家の為め到すへしと雄も、其の目的を達するは、決して容易ならさるなり b 市して予の所見を以てすれは、此の最大問題を解決するは、非才予の如き者の到底能すへきにあらす。宜しく国 家の元老として、戸望勲労並ひに高き人物を挙けて、以て之に当らしむヘし。希くは両元老の内一人、此際育て総理 大臣となられんこし銭。﹂と述べた。 これにたいして伊藤木山県も、異口同音に﹁此の如き事は、今日、決して実行 すべきにあらす﹂として受け付けなかった。桂は、二五日の閣議で総辞職を決定し、七月一日、病気を理由に辞表を 提出したが、辞表は止めおかれた。桂の辞職の真意は、伊藤の﹁元老と党首との両刀泣ひ﹂を防ぎ、伊藤をして政党 を脱して、内閣を後援せしめるにあったのである。このときにあたって、桂は山県と協議し、山県は、五日、天皇に 奏 上 し て 、 ﹁刻下の時局は、内閣の更迭を許さず、挙国一致、対露問題を解決するにある。但だ伊藤が政友会総裁と して、往々内閣の行動を製肘することあるは、国政の進路を阻碍するの虞がある。故に伊藤をして政友会総裁の地位 ( 出 ﹀ を辞し、枢府議長の職に就かしめ、協力一致、内閣を援助するに至らば、国家の幸福は之に過ぎたことは無い﹂と述 ベた。これによって翌六日、伊藤に枢密院議長親任の内旨があり、伊藤は突然のことに驚き、暫らくの猶予を願った ( 印 ﹀ が、さらに八日には勅書がくだり、政友会内のこれにたいする反発もあったが、伊藤は他の元老も枢密院に入ること 迎 を え 条 る 件 こ と と し を て 決 定 勅 し(旨 たむを 。 承 諾 し 一三日には枢密院議長に任ぜられ、 一四日の政友会協議員会は、西国寺公望を総裁に このように、桂、山県、伊東巳代治たちの策謀によって、伊藤は枢密院に送りこまれ、これによって政府は、元老 と総裁の二刀流をつかう伊藤を政友会から奪うことに成功し、したがってまた山県、伊東らの政治的役割も減少し、 ここに桂が縦横に活躍する舞台が開らけたのである。また政友会も、内に総裁専制にたいする不満があり、伊藤自身 第 一 次 桂 内 閣 と 立 憲 政 友 会
東 洋 学 の統率力の低下もあったが、元老総裁を失なうことは、政友会の人気が伊藤の声望に依存するところも多かったの 法 で、衰勢をさらに深めていくことになった。だが伊藤のいない政友会は、政府と直接交渉する可能性が生じてきたの である。これがやがて、元老を交えない、桂と西国寺・原の聞に成立する密約となってあらわれてくることになる。 いわば元老が、政治の第一線から後退していったことになったのである。 .,...,r、r、、r、r、r、r、、r、r、句r、町r、r、、r-、 r、r、‘r、r、、 17 16 15 14 13 12 11 109 8 7 6 5 4 3 2 1 内 、J、J 、.../¥..,/ ¥..,/、J 、J 、J 、.J¥..,/、J 、.../¥..,/ ¥..,/ ¥..,/、.J¥..,/ 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 二 三 二
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三頁参照 条約の全文については、﹁伊藤博文伝﹂下巻 尾崎行雄前掲(上)四七二頁 渡部英三郎﹁伊藤博文│明治官僚の肖像﹂二O
五l
六頁参照 ﹁原敬日記﹂二巻一O
頁参照﹁伊藤冷熱変化極りなく近来殊に甚だし、歎ずべきこと常に多し。﹂ 第一四議会で成立した。升味準之輔前掲二巻三二六頁参照 ﹁立憲政友会史﹂一巻一四二!四頁参照 前日蓮山前掲︿上﹀二五一一良参照 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 二 四 七 l 九頁参照 升 味 準 之 輔 前 掲 二 巻 三 一 二l
七頁参照 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻三一一良 ﹁原敬日記﹂二巻二八頁 ﹁ 原 敬 日 記 ﹂ 二 巻 三 一 一 良 ﹁原敬日記﹂二巻三二頁 ﹁原敬日記﹂二巻三三頁 ﹁原敬日記﹂二巻三三頁 ﹁原敬日記﹂二巻三四頁 五 五 二lE
頁参照, . . . . , ,....,,...., 1'"ヘ,...., ,.-.、,.-.、,...._、rヘ,...., 1'"ヘ,...., ,.-.、,...., 1'"ヘ,...., 1"ヘ' rヘ,....,,...., 1'"ヘ,...._、 rヘ 40 39 38 37 36 35 34 33 32 31 30 29 28 27 26 25 24 23 22 21 20 19 18 、J '-J '-J '-J '-J、...,1'-J、...,1'-J、J 、J 、J 、J 、...,1'-J '-J '-J、J 、J 、J 、J '-J '-J ﹁公爵山県有明伝﹂下巻五一七頁 ﹁伊藤博文伝﹂下巻五七二頁 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻三七頁 ﹁原敬日記﹂二巻三七頁 ﹁ 公 爵 桂 太 郎 伝 ﹂ 坤 巻 四 一 一 良 ﹁立憲政友会史﹂一巻一七四頁参照 ﹁立憲政友会史﹂一巻一七七
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八 頁 参 照 大 津 淳 一 郎 前 掲 豆 巻 三O
六 頁 参 照 升 味 準 之 輔 前 掲 二 巻 四 二 六 頁 参 照 工 藤 武 重 ﹁ 近 藤 篤 麿 公 ﹂ 一 一 一 四l
一 三 二 頁 参 照 ﹁原敬日記﹂二巻四三頁参照 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 三 二 三 頁 参 照 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻八三頁参照 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻八四頁参照 ﹁伊藤博文伝﹂下巻五七九頁参照 ﹁立憲政友会史﹂一巻二O
四 頁 参 照 選挙の結果については、﹁立憲政友会史﹂一巻 ﹁立憲政友会史﹂一巻一二七頁 前田蓮山前掲(上)二六四頁参照 ﹁原敬日記﹂二巻五七頁参照 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻九四l
六 頁 参 照 ﹁原敬日記﹂二巻五人頁 ﹁原敬日記﹂二巻五八頁 第一次桂内閣と立憲政友会 二一一頁参照一
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東 洋 法 学 二 四 ( 但 ﹀ ( 位 ﹀ ( 必 ﹀ (叫) ( 代 目 ) ( 必 ﹀ ( 円 引 ) ( 必 ) ( 川 切 ) ( 印 ﹀ ( 日 ﹀ ( 臼 ) ( 臼 ﹀ ( 日 ﹀ ( 日 ﹀ ( 白 山 ﹀ ( 貯 ﹀ ﹁立憲政友会史﹂一巻二二一
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二 一 良 彦 照 ﹁立窓政友会史﹂一巻二二三!四頁参照 前説については、﹁立憲政友会史﹂一巻二二七│二=二頁参照 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 五 三 六 頁 参 照 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 五 三 七 l 八頁参照 尾崎行雄前掲(上)四七八l
九頁参照 ﹁原敬日記﹂二巻六一 1l 二頁参照 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 五 五 一 11 七頁参照 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 五 五 七 ! 八 頁 参 照 大 津 淳 一 郎 前 掲 五 巻 五 五 九l
五六四頁参照 ﹁公爵山県有明伝﹂下巻五四一一良参照 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻一二三頁参照 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻一二八│九頁参照 ﹁公爵桂太郎伝﹂坤巻二三二一貝 ﹁公爵山県有明伝﹂下巻五五二頁 たとえば、﹁原敬日記﹂二巻六九!七O
頁参照 ﹁原敬日記﹂二巻七一一良参照 五桂と西国寺、原の密約
伊藤が枢密院議長に就任すると、桂内閣も留任したが、明治三六年七月一七日、内閣ルμ
を行ない、また進んで行政整理の実行、対露交渉の準備に着手したのである。ところが、これにたいして政府との妥協以後、政友会は脱党者 が続出し、ついに衆議院における過半数の勢力を失ない、憲政本党も勢いが振るわなかった。そこで二一月、第一九 こと。対震外交の畑町慢にして機宜を失すること。﹂をもって、 ﹁政府の行政及び財政整理の姑息にして不徹底なる ハ 2 ) 政府攻撃のための提携の密約を締結し、政府に肉簿せ 議会が迫ると、両党は体制を建て直し、相い接近するにいたり、 んとしたのである。 一一一月五日、第一九議会が召集され、衆議院は、衆議院議長片岡健吉病没のため、議長の選挙を 行ない、政友会との約束によって、憲政本党の河野広中が当選した。 一
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日、開院式が挙行され、その終了後、河野 議長の奏答文が可、決されたが、その奏答文中に慣例とは異なって、政府弾劾の文章が掃入されていたことがわかり、 ハ 3 V 一一日、衆議院は解散となった。 ﹂ れ が 問 題 と な っ て 、 ところが対露関係は次第に悪化し、ついに三七年二月一O
日、わが国は露国にたいして宣戦するにいたった。そこ で議会の形勢は一変した。コ一月一日、総選挙が平穏のうちに行なわれ、勢力分野は、解散前とほとんど同じであり、 ハ 4 ﹀ 政友会は過半数を制することができなかった。三月五日、政友会の原は、憲政本党の大石を訪ね、第二O
議会の対策 に つ い て 協 議 し 、 ﹁今回は戦時中に付大体に於て政府案を賛成せざるを得ざるも其趣旨を明かにし之が決議をなすを 可とする旨を述べ大石承諾同感なり、又彼は此際議会開会前政府当局者に面会して其財政計画等に就き予め協議する 事可ならんと云ふに付余も同感を古一口、﹂かくて、 井上襲、伊藤、西国寺らの承諾をへて、 一五日、政府と両党との 代表者が会合し、政府は財政案を説明したのである。 ここに政治休戦が成立し、第二O
議 会 ( 明 治 三 七 年 三 月 二O
日 よ り二九日閉会﹀は、予算案をほとんど無修正にて可決した。 第 一 次 桂 内 閣 と 立 憲 政 友 会 二 五東 洋 法 学 二 六 ついで第一二議会は、明治三七年一一月三
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日より開会されたが、今回も前回と同様、政府首脳と政友会・窓政本 党の幹事が事前に妥協案を作成することになった。この妥協交渉会において、政府予算案について忠政本党の削減額 が政友会のそれの約三倍にのぼり、政府は政友会とだけ妥協するのを有利と考えた。かくて政府と政友会との接近と なったが、西国寺、松田、原の政友会首脳は、それが桂の一時的な術策ではないかと疑い、伊藤が﹁桂は将来深く政 ハ 6 ﹀ 友会に信頼する決心なることを確言せしに因り尚ほ直接面談すベし﹂と述べたので、三人は協議のすえ、 一 一 一 月 八 目、原をして桂を訪問せしめ、その真意をただすことになった。この会談は、胸襟を聞いて、夜半一時半まで行なわ れた。この会談において桂は、妥協交渉会では政友会案に従う決心であり、これによって政友会と窓政本党とは離隔 するであろうが、政友会をして面白を失なわしめ、また不利に陥らしむることはなく、あくまで政友会に信頼するで あろうと述べ、なお、戦争に対する責任は自分がとるべきものであるから、戦時中は閣員を動かさない決心である が、戦後にいたり、 もし自分が留任するとすれば、 政友会と協議のうえ、 内閣を組織するであろう(すなわち連立内 閤 ﹀ 、 も し 辞 職 す る な ら ば 、 西園寺を後任に推薦する決心であると語った。 原はこれを了承し、 真に桂に誠意がある なら、政友会もまた誠意をもって政府を援助すべきであろうと答え、目下議会中であるから、なるべく忠政本党と提 携の態度を維持したい旨、桂に了解を求め、この内談は、政府内では、桂、曽繭、山本の三人、政友会では西園寺、 ハ 7 ) 松田、原の三人の聞にとどめ、秘密を守ることを申し合わせた。こうして桂と原の秘密交渉がはじまったのである。 また第一二議会も、ほとんど問題なく、明治三八年二月二八日、終了したのである。 三月の奉天会戦以後、わが国の戦力は限界に遥したが、四月一六日、桂は原に会見を求め、時局収拾について原の意見を問うた。原は、このうえ戦争を継続するもなんの益もなく、なるべく早期に時局をおさめるのがよいと述べ、 だが国民はいかなる諮和条件にも満足しないであろう。政友会も国民の戸に雷同するほかないであろうが、国家を負 担するものは、この間にあって菩処しなければならぬ﹂と述べたのにたいして、桂は、諮和の望みがあるかのように 述べたのち、今日誌和すれば、国民は反対するであろうが、自分一身は犠牲に供する党悟である。自分が辞職する際 は、かならず西国寺を後任に推し、自分は貴族院に基礎を固めるようなことはしないつもりであり、西図寺も政友会 内閣を組織することなく、党外からも閣員をとるのがよい。伊藤と井上にはすでに西図寺推関につき内話した。山県 ( 8 ) は西国寺推薦に反対するかもしれないが、自分が説得するつもりであると述べた。 五月末には、日本海海戦に勝利し、六月一
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日、外務省は、米国大統領が日露両国にたいして和平を勧告し、日本 政府はこれに同意したる旨を公表した。八月一O
日からはポ l ツマ丸一講和会議がはじまり、八月一四日には、西国寺 と原との協議の結果、原の求めによって、第三回の桂と原の会談が行なわれた。この会談では、講和の条件、内閣を 西国寺に渡す時期、西国寺内閣の組閣方針について話しあわれたが、講和の条件について、原は、多少の不利を忍ん でも、今回締結するのが得策であるとし、政友会はいかなる条約が成立するとも、率先して賛成すると述べ、西国寺 に内閣を渡す時期について、 桂は西園寺に一任するといったが、 組閣の方針については、﹁政党内閣と称する事の不 可、聯立内閣の不可、黒幕ある代表者の類にて組織する事の不可﹂という三つの条件を出した。またこの日の会談 ( 9 ) は、西国寺のみに話し、他には秘密にすることとしたのである。 この八月一四日の会談についての西園寺の返答が、二二日原より桂に伝えられ、西国寺は後継内閣を承諾し、その 第 一 次 桂 内 閣 と 立 憲 政 友 会 二 七東 洋 法 戸 品 寸ー 二 八 時期について、次の通常設会を終了した後にするのが適当であろうが、議会中に思わぬ故障に遭遇し、勢いのおもむ くところ、予想もつかない結果を生ずるかもしれないので、通常設会前のほうがたがいに好都合であろうと伝え、桂 ハ 刊 一 } もこれを了承した。こうして着々と、桂より西国寺への内閣授受の秘密工作が進んでいたのである。 八月二九日、議和条約の内容が報道されると、原が予想していたように、条約反対の運動がひろがりはじめた。九 月一日、憲政本党の大石と犬養が政友会の松田と原にたいして、条約反対の提携を申し込んだが、原は明日開く協議 ハ 日 ) 員会にはからなければと返答を保留した。二日、 政友会は協議員会を開き、 西 国 寺 総 裁 は 、 条約承認の演説を行な L
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﹁今成立させる平和条件に就て見るに、開戦の第一の理由たる満韓問題に関しては我目的を達せりと云ふベく、 樺太一半を得るに止まりて其余の要求は之を撤回するに至りしは実に遺憾に堪ヘざる所なり。世論の宮々として外交 ハ ロ ﹀ の失敗を叫ぶは一一坦なきにあらず。然れども事既に往く徒に之を追ふも果して幾何の利益あらん。﹂とし、さらに﹁協 議会は講和条約に関し審議の末其条件十分ならずと雌も、之に対する措置は近々召集せらるべき臨時議会に際し議員 総会に於て決定するを適当なりとし、西国寺総裁演説の趣旨に基づき国家前途の経営を積極的に攻究するを以て必要 ( 日 ﹀ なりと認む。﹂と決議したのである。 だが九月五日、条約調印の日、対露同志会の発起で、日比谷公固において総和反対国民大会が閲かれ、それが警官 と衝突したのが端緒となって、民衆の大暴動が起こり、東京市およびその周辺の豆郡に戒厳令が布かれ、暴動は六日 ( M ﹀ ︿ M M ) の夜まで続いた。かくて忠政本党は、九日、評議只会を開き、条約反対、暴動の政府武任の追求を決議した。また大 石は、伊藤、山県、井上の三元老と桂首相を歴訪し、速やかに内閣を更迭し、政友会、怒政本党、落閥の三勢力連合ハ 日 ﹀ の内閣をつくるべきであると説いたが、だれも応ずるものがなかった。ところが世論に刺激された政友会代議士は、 この際、政友会が軟弱な態度にでるがごときは、党の自滅を待つに等しいとして、九月一一一日、有志代議士会を開 き、速やかに党大会を召集して、講和問題につき、政府の責任を問うべしとして、西岡寺総裁に進一一目したが、西国寺 ハ 口 ) は、大会の期日については自分に考えがあるので一任されたいと答えた。かれらはさらに代議士の上京を促し、
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月八日、在京代議士協議会を開いて、 ﹁外交の失政に対し政府の責任を問ふ事﹂を決議し、長谷場純孝、杉固定一を ハ 日 ) 代表として、西国寺にこれを提出したが、西国寺は﹁参考のため聞き杭く﹂と述べただけであった。このように、桂 との密約を知らされていない党幹部や党代議士は、西国寺に政府の責任を追求することを要求したのである。また窓 政本党は速やかに臨時議会を召集するよう主張していた。このような反政府的気勢の高揚した状況のもとで、原は政 権授受の時期と方法について、桂を打診しつづけている。 一O
月六日、原は桂と会談し、桂は、山県の承諾を得たこ とを述べ、更迭の時期については、﹁臨時談会を召集すると称するも実際は招集せず、二一月末に通常設会を召集し置 き其開会前に辞職す丸ぱ﹂と述べている。さらに一一月七日にも会談が行なわれ、桂は﹁西国寺にて引受け準備だに ( 却 ) 出来るならば議会前に授受したし、之を上策とす﹂と述べ、 一一月二七日の会談では、原は、 ﹁西閲寺の芯思なりと して、上陛下の御親任あり元老に異議なければ、何時にでも桂内閣の後を継ぐへし、其授受の如きは議会開会前を以 て好時機とする﹂を申し入れたところ、桂は、 ﹁然らば小村の復命を待って直に辞表を発表すベし﹂、﹁小村の対清談 ハ 幻 ) 判は好都合に運び居るに付十二三日頃には帰京するならん﹂と答えた。 び 、 こうして一一一月一七日、桂は原を私邸に呼 ﹁今夕又は明日北京に於ける談判結了の電報あるべき筈なれば、未だ形式を具備して調印するに至らざるももは 第 一 次 桂 内 閣 と 立 窓 政 友 会 二 九やと見て差支えなければ、西国寺侯と公然会見して内閣授受に関する協議をなし其承諾を得て上奏するに至りたし﹂ 東 洋
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と 述 ベ 、 法 学 このように、日露戦争中からの桂と西国寺、原の密約にもとづいて、また、講和条約に反対する国民の圧力に押さ 一九日、正式に桂と西国寺は会見し、二O
日、桂は天皇に辞意を表明した。 れて、日露戦争の事後処理l
日韓協約、日清協約l
が結了するや、第一次桂内閣は退陣し、やがて明治三九年一月六 日、西国寺に大命が降下し、翌七日、第一次西国寺内閣が成立し、ここに元老が直接、政権を担当しない﹁元老政 治﹂の時代を迎えることとなるのである。 ( 1 ﹀ ( 2 ﹀ ( 3 ﹀ ( 4 ) ( 5 ﹀ ( 6 ﹀ ハ7 ﹀ ( 8 ﹀ ( 9 ) ( 叩 ﹀ ( 日 ) ( 臼 ﹀ ( 臼 ) ( M ﹀ 大津淳一郎前掲五巻五九九頁参照 大津淳一郎前掲五巻六二ニ一貝 ﹁奉答文問題﹂については、﹁河野磐州伝﹂下巻六二Ol
六 四 四 頁 参 照 ﹁立憲政友会史﹂二巻西国寺総裁時代前編八七│八頁参照 ﹁原敬日記﹂二巻九二l
一 一 一 一 良 ﹁原敬日記﹂二巻一一八頁 ﹁原敬日記﹂二巻一一入l
九 頁 参 照 ﹁原敬日記﹂二巻二ニ一l
二 頁 参 照 ﹁原敬日記﹂二巻一四三頁参照 ﹁原敬日記﹂二巻一四四l
五 頁 参 照 ﹁原敬日記﹂二巻一四七頁参照 ﹁立憲政友会史﹂二巻二四五頁 ﹁立憲政友会史﹂二巻二四六頁 前団連山前掲(上﹀二八三頁参照ハ r M ﹀ (日叩﹀ ( 口 ﹀ ( 日 ﹀ ( 臼 ﹀ ハ 初 ﹀ ハ 幻 ) ( 幻 ﹀ ﹁立憲政友会史﹂二巻二五
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頁 参 照 前田蓮山前掲ハ上)二八四頁参照 ﹁立窓政友会史﹂二巻二五二頁参照 ﹁立憲政友会史﹂二巻二五三頁参照 ﹁原敬日記﹂二巻一五二頁 ﹁原敬日記﹂二巻一五四頁 ﹁ 原 敬 日 記 ﹂ 一 一 巻 一 五 六 頁 ﹁原敬日記﹂二巻一五九頁 -'-,
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す む び 以上、本稿は、第一次桂内閣の成立から、その退陣にいたるまでの政治過程を、主として政友会との関係において 考察してきたのであるが、この考察を通じて、最後に、この桂内閣以後成立した元老政治への転換点として、この内 閣の評価を試みてみたいと思う。 この桂内閣は、元老を一人も含まない第二線級内閣として出発したのであるが、桂一流の操縦策によって、あるい は元老を箆絡し、あるいは政友会と妥協して、日英同盟を締結し、軍備を拡張し、日露戦争を遂行して、四年半の長 と な っ た 。 期にわたり、政権を担当したのであるが、さらにこの内閣は、元老i
伊藤、山県の政治的勢力の後退をもたらす契機 是是非非の態度をとる元老総裁伊藤 山県の後援のもとに、﹁鍛帳内閣﹂として出発した桂内閣は、当初、 第一次桂内閲と立憲政友会束 洋 法 学