信義誠実の原則の手形法における諸問題--ヴィアッ
カ-の信義則論を紹介して
著者
後藤 静思
著者別名
S. Goto
雑誌名
東洋法学
巻
32
号
1
ページ
1-82
発行年
1988-12
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003555/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja信義誠実の原則の手形法における諸問題
ーiヴィアッカーの信義則論を紹介して!
後 藤 静
思
第第第第第第第
七六五四三二一
目 次 序 言 信義誠実の原則︵信義則︶ 信義則と手形法︵手形理論︶︵継榊襲で︶ 手形の濫用 信義則に関する手形判例 国際手形法案と信義則 まとめ東洋法 学
信義誠実の原則の手形法における諸問題 二
第︸序言
昭和四三年一二月二五旦言渡の最高裁判所大法廷判決は、手形金の請求が権利の濫用となる場合を判示した。信義 誠実の原則︵信義則︶に基づき手形金請求の許容されない場合を示したものと考える。本論文の端緒は、右判決を契 機として、信義則と手形法の関係を考究してみたいと意図したところにある。 右判決がなされてから、既に二〇年が経過する。その間、信義則に関する手形判例の積み重ねを見ることができ る。信義則は﹁露堂々﹂たる常識でありつつ、理念として、その根源は限りなく深く思われる。信義則の法学的理解 の為には、西ドイツの碩学ヴィアッカーの﹁民法二四二条の法理論的精密化の為に﹂と題する論説は、大いに益する ところがある。ところで、信義則は、手形法の重要な理念であると思う。手形取引をめぐる法現象には、原因関係か ら分離しようとする志向︵抽象化・無因化・形式化︶と、原因︵手形の実質的基盤︶に結合しようとする不可欠の志 向との閲に緊張がある。その緊張関係、或いはその相克・裂け目から様々な問題が生じてくるように思われる。そこ に、信義則、或いは信義則に裏づけられた手形理論が必要ではあると考える。手形法は信義則に親しまないと思われ ている面がある。しかし、手形法の主要な法条、法理に信義則の内在すること、そこに屈折し浸透して働いている信 義則を看取すべきである。信義則は、倫理・道徳・宗教の領域︵場︶につながり、根源をそこに置くものと思うが、 本論文は、法原則︵法原理︶として現象する信義則の相を考えるものであるから、信義則の倫理道徳的、宗教的関連については、やむを得ざる限度でふれるにとどめた。そして、本論文は、蒐集した資料の紹介、 置いて、以上のような問題の考究の一里塚ともなれかしと願うものである。 引用報告にも重点を
第二 信義誠実の原則
目 次 一、二 意義 三 ドイツ民法二四二条・ヴィアッカーの信義則の論説 1序言2﹁従来からの問題設定に対する批判﹂ 民 法二四二条の三つの機能層﹂ ω ﹁審判人の職務﹂ ② ﹁悪意の抗弁﹂ ③ 「 裁判官の新しい創造﹂ 5 ﹁研究成果の適用﹂ 6 ﹁結 論﹂ 7 所 見3
﹁ドイツ民法二四二条の方針の実現基準﹂ 4 ﹁ドイツ文
r等一
信々
Lr罵信
東r 我
誠 則
洋、 は
、
法 学 ﹁実﹂は、 現に実定法上の原理である︵民法一条二項、ドイツ民法二四二条、条約法に関するウイーン条約前 ﹁まこと﹂︵﹁こと﹂は言、事︶であり、﹁義﹂ は ﹁ことわり﹂、 道理である。 三 ﹁↓諾億q嵩伽信義誠実の原則の手形法における諸問題 四 〇一窪訂三についても、これは、基本的な、人格的、法倫理的要請であり、約束を守り、信頼性があり、忠節︵誠実︶ である等の法的徳義を指示するものであるとされている。﹁信義則﹂とは、ひつきよう、﹁真実義﹂であり、実践理性 の理念であり、人間存在の根本真実の理法の存在及び人間の内奥の至誠・良心・真実心︵まごころ︶の存在とその肯 定から出自すると考える。信義則の根源は、倫理道徳の領域、さらに宗教の領域に至り通ずるものである。宗教にお もろもろ いて、﹁信﹂の意味のいかに大いなるものであるかは多言を要しまい。﹁信は道の元なり、功徳の母なり、諸々の善法 を長養す。﹂という言葉を引くにとどめたい。実定法秩序の中に存する信義則なる法原理は、実定法秩序の背後に、 それを支えつつむ倫理道徳の領域の存することを示すものである。また、実定法をして正しき実定法たらしめ、実定 法に浸透し、実定法を支えている真実義・人間存在の根本理法︵自然法と名づけたい。︶から生ずるものであると考 える。 二 信義則は、﹁一般条項﹂といわれ、﹁具体的事情の原則﹂といわれ、﹁顧慮︵幻警落一&9魯露o︶の原則﹂︵ジーぺ ︵1︶ ルトは﹁相手方の正当な利益を顧慮する原則﹂という︶といわれる。その適用、運用の実際について、賛否両論の対 立することは巷間に知られている。或る者は、信義則を、裁判官の主観的な評価・思想を以てその内容をみたす融通 無碍の法条であり、それは濫用されやすく、司法の軟骨化にみちびく︵恣意・独断・安易の因︶と非難し、或る者 は、この法原理こそ、実定法を硬直と衰弱から救い、法の精神に生命をあたえる黄金律であると賛成を惜しまない。 信義則の運用が、不確実な、未経験な者の手によって行われるとき、法的安定性の喪失をもたらすが、注意深い節
度ある者の手によって行われるとき、信義則は、実定法の運用に不可欠の原理であるとされているのである。法律文 化の中にあらわれている信義則が、洋の東西をとわず、古来、社会倫理的︵宗教の中にあらわれている実践倫理をふ くむ︶、法倫理的、法曹的継承の上に維持されてきたものであり、社会倫理的、法倫理的、法曹的伝統の豊かなる宝 庫を背後に持つものであることは、法律文化の歴史、現実の司法の活動が示すところであると考える。 三 ドイツ民法二四二条﹁債務者は取引の慣習を顧慮し、信義誠実の原則に従って給付をなす義務を負う﹂は、信 義則︵の露注ω欝く8炉窪9儀9鐘竃惨︶を明示する。この法条は、実定法上、わが民法一条二項の先雛となったもの ︵2︶ と思う。信義則の法原理に対するドイツ法学者のたゆまざる研究には敬服にたえないものがあり、その文献は汗牛充 棟というも誇大ではないと思うが、そのうち、フランツ・ヴィアッカー教授の﹁民法二四二条の法理論的精密化のた めに﹂︵男冨震マ歪鼻。コ﹁浮冠幻8算の島8糞善ぽ昌勺㎏壁の酵§αq留の吻認鱒ω○ωし︵お脇いO,印鼠o舅︵勺︾鼠 ︵3︶ ω置幕鼻︶↓β窯お露︶なる論説は、賛否両論を越えて司法の必要不可決の原理となっている信義則について、節度あ る合理的運用への貴重な思索である。 そこで、まず、ヴィアッカーの右論説﹁以下単に論説という﹂の内容を紹介報告して、信義則の理解に資したいと 思う。 論説は、﹁序言﹂、﹁従来からの闘題設定に対する批判﹂、﹁ドイツ民法二四二条の方針の実現基準﹂、﹁ドイツ民法二 四二条の三つの機能層﹂、﹁研究成果の適用﹂、﹁結論﹂の六章からなっている。
東洋法学 五
信義誠実の原則の手形法における諸問題 六 ︵4︶ 1 ﹁序言﹂において、ヴィアッカーは次のように述べている。 ﹁ドイツの裁判所における民法二四二条の適用は、今日の法の確定した資産である。自由なる判例法として、それ は、これから論ずる精密化即ち反省と分析の及ばないもののようにも思われる。しかし、科学の目的は、自覚と対象 領域内の現象の理解とである。しかも、この理解は、反省的理解、一定の方法に基づいた組織的理解、そして、体系 的理解でのみあり得る。法ドグマティク︵法教義学︶︵菊の魯誘3鵬導&εは、実務に方針や指示を与えるものではなく ても、首尾一貫した方法的組織的実務が可能となる前提要件、概念を定義づけなければならない。﹂ ﹁信義則の一般条項の適用を、単に﹁衡平法﹂︵露目蒔訂蒜鴇。窪︶と概念するならば、結局、一般条項の法理論的精 密化の放棄を意味するであろう。すなわち、一般条項においては、正義︵OR㊦畠凝訂δ に代って、例えば、隣人 愛、社会の福祉、公共の福祉、或いは社会の利益といった法の外にある別の価値がはたらくと誤解するならば、まさ に、恣意的な﹁カディ法学﹂︵国蝕二霞駿や疑8旨︶︵筆者注カディとは回教国の裁判官である︶に屈することになろう。 しかし、アリストテレスが基礎づけた伝統の意味どおりに、﹁厳格性﹂と﹁衡平﹂とを、法自体のもつ二律背反的要 素と解するならば、﹁衡平﹂は法の内部にある正しい附属物である。しかし、これによっては、問題がただ別の言い 回しに変えられただけであり、この﹁衡平﹂という言い回しは、我々もまた高めることができる法倫理的伝統の豊か ︵5︶ なる宝庫に合流する利点を示すにとどまるであろう。そこで、以後は﹁衡平﹂︵ω旨αQ訂εという言葉は、むしろ、 全く用いないことにする。﹂ なお、ヴィアッカーは、その﹁法理論的精密化﹂の対象から限界領域︵幣制改革法、戦争による契約援助法の領
域、法律行為基礎の問題、一般的な権利濫用の問題︶を除くことにする旨述べている。 ︵6︶ 2 ﹁従来からの問題設定に対する批判﹂において、ヴィアッカーは次のように述べている。 ﹁一般条項、民法二 四二条の信義則の問題性は、すでに以前から、人々の論ずるところである。一方では、契約倫理︵学︶の精錬のため 及び過去数十年の経済的変動の克服のために、民法二四二条から始まった推進力を過度に賞賛する者がいる。事実、 民法二四二条の判例は、債務法全体を、主として善行をなすように活動させ、かつ変更させた。このような賞賛の場 合には、 一般条項は、例えば﹁王者の条項﹂︵図ぎ魁ざ竃囑鶏お㌶嘗。昌︶として理解され、ローマの法務官のことが、 大いに誇らしく顧慮されたり、利益法学の希望や自由法的熱望の共鳴をうけたりしている。 この場合、万一実証主義が克服されたとしても、裁判︵司法︶は、依然として、法律及び法の従僕︵9窪霞く8 0のω爵琶鎌閑9馨︶である︵基本法二〇条二項︶ということや、更に、裁判は、最大限に自由の場合でも、事物の論 理的基本所与性及び道義的基本所与性︵蝕①ω8窪品巨ぽ昌慧飢餌陣。昌艶島霧9毯詠囲魯Φ浮魯窪︶に拘東されると いうことが、ややもすれば忘れられ勝ちである。実際に、なおも幻想がつづくとすれば、優柔不断なまたはそそっか しい立法者の身代りとなって罪をかぶる小姓の役割にますます陥っているように思われる法曹の現実を一見すること も役に立つであろう。 一般条項の中に、社会倫理的要請に対する﹁安全弁﹂を見ようとするのは、より穏健な考えであろう。これは、 新鮮な社会倫理を、直接に、また浸透交流によって、呼吸しようと希望する、社会的に啓蒙された法律実証主義 ︵○Φω簿器ω箸路三ω欝霧︶である。しかし、この希望や、或いは、規範構造を断えず社会的要求に適応させようとする
東洋法学 七
信義誠実の原則の手形法における諸問題 八 より大胆な希望は、まさに、その規範自体︵すなわち裁判軌範︶は不変であらねばならず、社会の状態並びに個々の 事案に対するその折々の正義の要求のみが、弁証法的に、時と事情に限定されて変化するのであるとする点で破綻す る。 に ︵7︶ 一般条項は、賞賛のみならず、苦がき叱責も蒙った。就中、へ⋮デマン以来、一般条項への︵立法者の︶逃避とい うことが、云われはじめた。例えば、フランスにおいて、りーペルの債務契約の倫理的要素についての著名の書物 は、へーデマンの考えに賛成している。この陣営の人々は、弛緩した専制的衡平による法の軟化を恐れている。そし て、一般条項を、恣意、特に政治的利益や政治的圧力の侵入門と見ている。この批判の前提、すなわち、規範構造の 軟骨化を有害性ありとする確信は、今もなお、我々を考えさせるものであろう。この予言は、全体主義の特殊情勢下 において、常にできるかぎり不明瞭な、できるかぎり感情的な一般条項︵例えば、﹁尊敬すべき﹂、﹁特段の厳格さ﹂、 ﹁健全な民族感情によって﹂︶を作って自由に行動できるようにしようとした立法者の傾向によって証明された。今 日といえども、この危険が、完全に排斥されているとはいえない。今日も、一方では、立法者は、昔と同じように、 立法過程における衝突をとかく回避しようとして、その衝突を行政や立法の嘆きのギリシャ人の肩に置き換えようと する傾向がある。 他方、最高裁判所と著しく対立して、自然法のあまりにも単純すぎる概念に傾倒するように思われる裁判が、ま た、危惧を与えるのも誤りではない。﹂ ﹁賞賛するにせよ叱責するにせよ、民法二四二条の適用は、常に実証主義的要件︵勺o簿三毘ω畠窪<o鏡霧ω簿誤αQ窪︶
によって評価される。このことは、何らとやかくいわれることではない。ドイツ民法典における同法条の位置づけか ら、この要件を必要とせざるを得ないことは正当として是認される。しかし、この視点は、一般条項の価値或いは無 価値を定める真正の基準を与えるものではない。この視点によっては、一般条項の機能は決して明瞭に認識できない のである。そのわけは、民法二四二条の賞賛も非難も共に、法概念のもつ不可避の二律背反そのものに由来するから である。合目的性と予測可能性、より正確にいえば、具体的正義と普遍妥当性は、二つながら、法と正義の不可欠の 要素であるが、しかし、現実には、大抵、相衝突することの多いものである。この衝突の場合、一般条項の援用によ って具体的正義を達成しようとする努力がなされ、また、一般条項を制限しようとする傾向は、それによって、法 の下の平等を達成しようと努力するのである。この矛盾対立は、一般条項の支持者も反対者も共に通常その出発点と する視点の次元に執する限り解決することはない。すなわち、賛成者も反対者も、共に次の点で一致している。それ は、﹃一般条項は実定的法規範であり、それ故、裁判官に対する普遍的法律命令である。それ故﹁信義誠実﹂や﹁取 のつと 引の慣行﹂に則る場合、裁判官は、三段論法によって論理的判断をなすにすぎない。それ故、この規範は、他の実定 的法命令と二つの徴表で区別されるにすぎない。第一は、その不確定な文言︵まさに一般条項︶によって、第二は、 法として実定された命令や基準によらず、法の外にある社会的命令︵信義誠実︶や基準︵取引の慣行︶によって区別 されるにすぎない。﹄ということである。 制定されている法秩序は欠敏のないものであり、法の適用は、あらゆる法規範の中にふくまれている仮言的判断に 基づき事実関係から三段論法によって推論する認識行為に限定されるという法律実証主義のよく知られている法律像 東洋法学 九
信義誠実の原則の手形法における諸問題 一〇 がこの観察方法の基礎にあることは明らかである。この場合、一般条項もまた、前以て定められてある仮言的判断、 立法者の固定した予定企画としてあらわれる。 自然主義的実証主義へ移行することによって、民法二四二条を白地規範と理解し、もはや社会的行為規範に則るの ではなく、単に法の外にある事実︵例えば﹁社会の目的﹂とか﹁個人的利益﹂︶に則るものであると考えるにしても、 これによって前記の視点に決定的な変化は生じない。エンギッシュの指摘するように、法は現実に内在するのみのも のではなく、﹁軌範﹂と社会的事実との間の二元的対立は、結局止揚できないものであるということにおいて変りがな いからである。約言すれば、自然主義的実証主義︵象目類簿貫魯&8汀ぎ簿三ω唐霧︶もまた法律学的実証主義︵傷角 甘膏欝鼠①評も 。三湯導霧︶であり、実証主義における一般条項の解けがたい二律背反から脱けられない。﹂ ﹁この問題設定の批判にあたり、すでに古くから確定している法哲学的見解や、法理論的見解を対象に適用しなけ ればならない。この見解は、規範的実質倫理︵学︶そのものの限界に関係し︵a︶、次に規範の適用についての実証 主義の従来からの考え方に関係する︵b︶。 @ 実証主義そのものに、実質的規範的倫理︵学︶︵跨象鼠賠爲9欝鎚瓜くの聾寓犀︶の可能性を問うことはできない。 実証主義は法的妥当性の根拠を制定法の命令の申に見い出すのであるから、この命令にできるかぎり不確定な文言内 容を与えることは自由である。 ﹁国家元首が国家の敵であると指名した者はすべて絞首刑に処す﹂というような一般 的命題は、まぎれもなく、正真正銘の暴力である。しかし、これに対し法理論的矛盾ありと非難するのはあたらな い。しかし、実定法規範が、みずから、社会倫理的行為規範を指示するや否やーそれは、大部分の一般条項の誇り
︵ドイツ民法一三八条、一五七条、八二六条、六二六条︶であり、民法二四二条の誇りでもあるが1事柄は別とな る。このことによって、実定法規範は、まさに、あの普遍的倫理的公理主義、個別事案の今ここにある具体相を越え て普遍妥当する倫理的公理主義、実証主義自身が、それによって自然法を非難した、しかもカントの実践理性批判以 来は完全な権利を以て非難した、あの普遍的倫理的公理主義を受容することになるのである。この社会倫理的規範の 不確定性、その一般化ということは、まさに、この要件のもとにおいても、常に、例えばあらゆる個々の事例に対し て一般条項が無条件に普遍的に時間を越えて妥当することを放棄することを意味してはいないのである。 この際、叙上の前提の不許容性を示すために独自の法哲学的努力をする必要はない。むしろ、カントによってなさ れた、この点ではもはや取り消しのできない理性法の夢の破壊や、 へーゲルによってなされた道徳律の歴史性の発 見、或いは、宗教改革的プロテスタンティズムの自然法非難を示せば足りると思う。ヴェルツェルは、最後に、もう 一度、これらの批判を吟味して、法理論のために、特に次のことを示した。すなわち、行為︵常に歴史的、人的であ り、かつ情況に関係づけられるものである︶に対し、歴吏や人や或いは情況と関係なくあり得る普遍的実質的教示は 存在し得ないものであることを示した。別の言葉で言えば、社会倫理︵学︶は、今ここに存する社会的行為に対して 格律すなわち方向性を示すことはできる。しかし、任意の事情︵事実関係︶が分析的判断によって簡単に包摂される 普遍妥当な規範図式を示すことはできない。 ﹁信義誠実﹂或いは﹁善良の風俗﹂とは、裁判官が、置かれた資料の上 に透写︵敷き写し︶する完成された雛型ではなく、事件毎の特定の事情において、裁判官自身によって実現されるべ き一回的要請である。倫理学が発展しても、この批判は取り消され得ないものである。例えば、変化する内容を持っ
東洋法学 二
信義誠実の原則の手形法における諸問題 一二 た形式的自然法が可能であると考えても、絶対的に妥当する実質的規範の承認に至ることはない。法領域の全体は、 逐一、事物の論理的構造によって貫徹されており、この事物の論理的構造︵の8匡轟一零ぼ望議ζ暴Φ口︶によって、裁判 は絶対的に方向づけられ得るというヴェルツェルの確認、具体的正義の技術の裁判的淵源についてのエッサーの指 摘、これらは皆、立法者の普遍妥当な社会倫理的判断が可能であると再び言わむとするものではない。 従来の考え、すなわち民法二四二条は、立派に形をなした社会的行為規範を実定法の申に継承するにすぎないとい う考えは、批判前の自然法を復旧することによってのみ再び導入し得るにすぎないであろう。しかし、この復旧は、 プ皿テスタント的自然法として絶対的文化法規範︵筈絶纂o区巳葺濤3富pR9臼︶ の定立となって行われるにせよ、 善意にして折衷的な自然法として行われるにせよ、倫理問題についての哲学的労作の放棄であると考える。 ㈲ 実定的法命令と同様に、それに基づいて裁判官が争訟事件をたちどころに推論することができる普遍的社会軌 範が仮りに存在するとしても、裁判官の法適用の本質に対する我々の今日の看入は、 ﹁個々の事案に対する規範の適 用﹂なる概念そのものを許容しない。 コ一四二条の適用﹂という用語によって表象される思考図式は、法規範と判決 との関係についての余りにも素朴な理解、すなわち、二四二条の規範を普遍的判断と考え、二四二条に基づく判断 を、専ら認識的な包摂推論作用と考えるという理解をふくんでいる︵ところで、この場合、私は、既に以前から確定 している見解に拠って論じているにすぎないのである︶。 法の適用は、論理的推論図式すなわち分析的判断の実行に限られるものではなくて、常にまさに解釈︵ぽ審も更蝕露︶ であるということを、私法理論のために、最近再び、エッサーが明らかにした。このことは今日、もはや異論のない
ところであろう。すなわち、可能な争訟事案を網羅しつくせないことに対するあらゆる法規の必然的に普遍的な表現 ︵文言︶が、単なる分析的判断を以て十分とするあの確定性を許容することは滅多にない。 裁判官の法適用もまた、すでに、あらゆる解釈と同様に、価値の実現である。すなわち、どのような原理によって この選択が方向づけられるにせよ、幾多の可能な評価の間の選択︵妻魯一︶である。 裁判官の判断における規範適用が、選択の実行として、認識的論理的判断行為と並んで、意志的要素も含む場合、 その限りにおいて、各判決が、すでに、一つ一つ、法の新創造の要素である。法の新創造、いわば生成する法︵臣類 ぎ臼蹄一お︶の要素である。 そして、立法者の定める法規が不確定なものであるほど、判決はますますそうなるのであり、特に、一般条項の場 合には、全くそうである。それ故、一般条項の適用、すなわち、二四二条による各判決は、それ自体、生成する法に 加功するのである。あたかも、織物を縫う針の一刺し一刺しが、その方向はいまだ前以って定めることはできなくと も、現実に一線となって進むようなものである。そこで、一般条項の個々の事案に対する関係は、単に、普遍の下へ の特殊の論理的従属の関係ではない。むしろ、 ﹁信義則﹂や﹁取引慣行﹂が指示する価値は、真実には、判決におい てはじめて完成するのである。二四二条の﹁多産なる信義則﹂は、あらゆる本来の一般条項の場合と同様に、裁判に おいてはじめて実現される経験、原則、原理の指示︵︾口壌鉱象轟︶である。この理由からも、また、信義則の適用は、 単に、複合した普遍的社会倫理的価値表象の継承によってのみなされるのではなく、個別的にして、意志行為的な、 判決による法の実現によってなされるのである。ヒッペルが、恐らく最初に強調したように、一般条項の場合は、方
東洋法学 一三
信義誠実の原則の手形法における諸問題 一四 針︵困魯畠艮窪︶が問題である。 方針自身は、初めて見い出されるべき意味を、定義によって指示するのである。しかも、事実に即した、それ故、 方向づけるカをもった方針︵進路︶︵空9葺凝曾︶を指示するのであって、具体的定点︵個別化された公の利益、私 の利益といったような︶を指示するものではない。さもないと、裁判官は、指示された目的を求めないで、指示する 指に喰いついた犬︵リルケが、宗教的要求の非常に真剣な関係について論ずる中で述べている犬︶のように振舞うこ とになるであろう。 いわゆる一般条項は、正当な行為の一つの原理︵格律︶︵鉱審置舞巨①αqR9窪窪=欝号汐の︶ であり、方向づけの 指南力︵鼠窪蔚星藷︶となるのである。それ故、極端に言えば、しかし不正確ではなく、次のように言うことがで きる。すなわち、一般条項は、まさに、何ら﹁一般﹂︵αqの器邑︶条項ではない、すなわち、何ら﹁普遍的﹂︵動凝。ヨ。露︶ な規定ではないと。 二四二条の適用を、ある規範の下に、争訟事案を包摂することを要請するものと概念するならば、それは、裁判官 に、ミュンヒハウゼン男爵︵筆者注・ドイツの法螺吹き冒険家といわれる︶の行為、すなわち、逆立ちして頭で沼地 から脱出しようとする行為を期待する結果になるという理由の二つが以上のものである。右の要請は、規範を既に与 えられたものとして前提となしているが、その規範は、本当は、特別な争訟状態のために、はじめて作り出されねば ならぬものである。このことは、当該先決事項、或いは判決理由が既に存すると思われる場合にも妥当する。という のは、当該先決事項も判決理由も、普遍妥当なものではなくて、その特別な事案と、厳密には、他の事案の包摂を許
さないような態様で組合わされているからである。﹂ ヴィアッカーの右見解は、一般条項・信義則の原理性、指針性について、また、その機能について、重要な視点を 提供していると考える。 ︵8︶ 3 ﹁ドイツ民法二四二条の方針の実現基準﹂において、ヴィアッカーは次のように述べている。 ﹁以上の批判は、裁判官や法研究者を、全く助言のない状態に残すような全くの破壊工作を完遂したことになる であろうか。一般条項の自由な空白が、単に、例えば﹁利益﹂とか、﹁公共の福祉﹂とか、﹁法感情﹂とかいった経験 的、個人的価値の参照によって満さるべきものと仮定すれば、このことは真実かもしれない。実際は、これに代り、 方向づけの要素の、豊かな、確実な、拘東力のある貯蔵に拠ることができる。 この場合もまた、最近得られた法理論の成果に関連づけることができる。自然法並びに実証主義の公知の﹁支払困 難﹂︵N蹄一§αq。・ω魯毒鰐魁︷魯霞︶の後は、最新の私法理論の省察は、﹁裁判は、裁判官の職務技術︵の$&霧巨窃け︶であ り、それ故、法適用︵そして解釈︶の基準は、法倫理的技術論の対象である。﹂との見解に結びついている。この技 術理論の諸原理は、それ故、実務行為の原理であり、判決技術の原理である。この諸原理は、就中、裁判自体におい て形成され、場合によっては、学問との共同作業によって形成される。この意味において、レーマンは、﹁裁判所は、 新しい、承認されて確かな地位を占めている判例の枠内においてのみ、﹃一定の類型的要件について﹄、ドイツ民法二 四二条による自由な形成の権能を有するものである。﹂と強調した。 エッサーは、この技術の諸原則の表現を、法令に対して、例えば普通法︵葺ω8旨営§。︶と名づけ得るような、裁 東洋法学 一五
信義誠実の原則の手形法における諸問題 一六 判上の経験や原則の集彙の中に見い出している。この集彙の中には、一般的には、法論理︵閃①島邑畠欝︶、自然の條 ︵5︶ 理︵器け霞聾。 。欝鉱o︶、事物の本性︵Z魯霞伽Rω8汀︶、衡平︵餌8葺畠の︶がふくまれ、特別には、承認されている判決 全体、判決理由、法律学において普遍妥当な慣行となっている原則、指導原理がふくまれる。 法制史や比較法からも、ロ⋮マの法学者の解答や、ローマ皇帝の解答、普通法の法律学の忠告や例文、アングロサ クソンの衡平法︵エクイテイ︶の先例や原理、特にドイツ最高裁判所の指導判例が思い起される。 この資料は、専門的法律家の職業的慣行にょり公然と承認されることを通して、 ﹁拘束力ある職務技術に依り﹂ ︵霊魯く①苦ぎ島3R禦餌盈霧ざ霧酔︶、一つの秩序の意味を獲得すべきものである。エッサーのこの要求に最近賛成し ているライマー・シュミットは、 ﹁裁判官が拠り所とすべき解決点の網を著しく濃密なものにしようとする﹂純粋に 制度的な法思考によって、この先例資料のより強い普及浸透と体系的秩序づけのなされることを希望している。この いずれの要求も、規範的実質的倫理学並びに就中、単純な法適用の観念を超克して、法適用の技術を再び職務的技術 ︵ω感包ぎ冨区§邑、特別に法曹的な技術︵ω麗一勢3﹂貸算善汀涙きの酔︶として理解することを教える点において 賛成することができる。この観察方法は、自然法や実証主義によって裁判官に権能を与えるのに対し、裁判官の自覚 及び義務意識を新しく理由づける功績があり、この裁判官の自覚及び義務意識は司法裁判が社会に尽くすための前提 をなすのである。この新しい規定に対する異論があるとすれば、それは、法曹の職業技術の、再び確保された自律 が、自給自足に陥り、またその技術が職人芸に陥る危険があるということであろう。古代ローマの法学も、英国の 法学も、それから完全に逃れることはなかった。
この危険に対応するものは、裁判官の専門的経験が、社会的所与性の普遍的明証性︵島の践αQΦ導蝕霧国≦号目山㊦憎 αQ霧&零富︷岳&臼○畠Φ富浮簿窪︶と結合することである。社会的所与性の明証性は、すでに、十九世紀において﹁事 物の本性﹂︵Z拶ε目伍Rω8ぽ︶の中に見い出されており、或いは、現今においては、ヴェルツェルの強い論理的情熱 は、 ﹁事物の論理的構造﹂の中に、社会的所与性の明証性を見い出している。そして、この﹁事物の論理的構造﹂は より広範な方向づけをする﹁解決点の網﹂︵2爵σq8導の鼠。 ・3R9跨︶を生じている。尚それ以上に、恐らく、我々 の文化の、確定した社会倫理的伝統の全財宝を編入することができるであろう。裁判官の技術は、応用法倫理学であ り、法倫理学は正義論である︵寄魯露夢涛翼ORの。窪蒔落一邑魯器︶。 我々が、裁判官の法適用を、実践的諸原理に則る一つの技術であると理解するや否や、規範的実質的倫理学に対する 批判に妨げられることなく、実践倫理学のあらゆる負荷力ある諸原則が、再び利用できるものとなる。しかも、例え ば、かなり古いレーゲンテンシュピーゲル︵閑のαq①馨Φ霧営畠Φ汐︶︵統治者鑑︶や、ラートマンネンシュピーゲル︵菊簿旨弩・ 蓉霧覧紹Φ野︶︵忠言人鑑︶の中に見られる、十九世紀に死滅L︶た裁判官の職業倫理学︵ω欝欝山。。 な⑫ぼ翻8ω困9護の︶の ような、時代後れとなることのない歴史的形式、をふくめて利用できるものとなる。別の言葉で言うと、二四二条を 操作する際の裁判官の、裁判技術の基準︵原理︶は、 ︵認識可能でかつ確定し得る立法者の指示であろうと或いはな かろうと︶正当な行為の実践的に争いのない基本諸原理︵象ω鷺跨蔚9餐ぽの鼠紬富蓼質匡Φ臼。濤器警器留ωα貸角9馨窪 麟§留 酵。 ・︶に還元することのできるものでなければならない。その為の試みを以下に為さむとするのである。﹂ 信義則は、 ﹁伝家の宝刀﹂であるといわれるが、ヴィアッカーが、信義則の文化的伝統を指示し、その伝統の豊か
東洋法学 一七
信義誠実の原則の手形法における諸問題 一八 なる宝庫の存在とその原理の利用を論ずる点は、﹁伝家﹂の意味を啓蒙するに足るものではあるまいかと考える。 ︵9︶ 4 ﹁ドイツ民法二四二条の三つの機能層において、信義則の機能︵屑琶犀鉱露︶を三つの層に系統的に分類し、ヴ ィアッカーは次のように述べている。 ﹁ドイツ民法二四二条について、半世紀に亘って築き上げられてきた判例を飾い分け、内的な秩序づけを行なうこ とによって、私は、最近の教科書やコンメンタールの著しく前進した選別作業を更に先へ進め、就中、内容的諸原理 ︵蝕象夢9窪魯窪鼠畏巨Φ疑︶を更に引き出そうと試みるものである。その為には、精力的な系統的分類が必要であ る。今鷺、二四二条の適用の背後には、既に全く異なった裁判官の任務がひそんで居り、それ故、実務上の根本間 題、例えば、二四二条の強行法規に対する関係如何という問題などは、もはや単一的に判断することはできないであ ろうと思われるからである。このような系統的分類に対し、それは、各具体的争訟事件に、きっちりと適合するもの ではないと異議を述べるのはあたらない。法律学の現象の概念的、機能的要素を分析することは、法律学の正当な任 務、すなわち秩序づけの任務と記述の任務に属するからである。 ドイツ民法二四二条のような一般条項の根本問題は、成文法規に対する裁判官の関係に関するものである。それ 故、資料の系統的分類を民法二四二条の適用と他の成文法規との、その折々の関係に結びつけるのが最も善いと思 う。まず思い浮ぶのは、ローマの法律家が法務官法と市民法との関係を説明しようとして使用した図式である。ボエ ーマーが強調したように、ドイツ民法二四二条もまた、市民法︵成文法規︶を援助・支持し、補充し、或いは匡正・ 改廃する為に作用する︵腕弩び。蕉冴ごくき舞。 。巷巳窪島a禽8凝窪蝕α⇔舅ε。勿論、この図式は、直接に適用でき
る伝統ではない。市民法の民族法的法秩序と法務官の権利保護約束との間の典型的関係は、もはや再現できないとこ ろである。訴権制度の終った後は︵既にかなり古い普通法において︶、裁判官が、市民の付与されるべき権利を、自 己の命令権に基づく訴によって始めて守るということは必要でなくなったし、また逆に裁判官が、市民法上認められ ない義務を、名誉法訴権によって付与することも許されなくなった。しかし、成文法の規範組織と裁判官の法実現行 動との問の緊張関係は、今日も現存するところであり、類似の分類を呼び出すのである。 裁判官が、﹁審判人としての職務﹂︵o曲o言響葺撫駐︶に基づき、ある法規のあらかじめ定められた企図された趣旨 構想をただ具体化する場合︵下記①審判人の職務︶には、裁判官は、成文法秩序を充塩する活動をするものである。 裁判官が、当事者に対し、権利の主張或いは防御について、正当にかつ法の仲間らしく︵菊8げ諺σq窪駐。 。ぎゲ︶行為す るように要請する場合には、裁判官は、前記の場合︵審判人の職務の場合︶よりは、より大きな自由を以て、法を通 じて法を越えて行動するものであろう。ドグマ︵法教義学︶史上、悪意の抗弁︵露8讐o号ε の概念︵一般悪意の 抗弁ないし現在悪意の抗弁をふくむ悪意の抗弁︶を以て称される分野である︵下記③悪意の抗弁︶。 最後に、ドイツニ四二条︵信義則︶の適用は、立法者の意図の実現でもなく、当事者の行為に法と正義を保持させ るというのでもなく、その二つを越えたところに裁判が至ることによって、法規に反して︵︵︶o導疑一紹Φ導︶、新しい 判例法︵困o窪o睡9霧︶に発展する︵下記③裁判官の新しい創造︶のである。 以上の状態を、以下に、簡略化した見出し語﹁審判人の職務﹂、﹁悪意の抗弁﹂、﹁裁判官の新創造﹂によって解明す る。
東洋法学 一九
信義誠実の原則の手形法における諸問題 二〇 ① ﹁審判人の職務﹂︵O臨o旨墜葺象畠︶ ︵鉛︶ これは、内容的には、ジーベルトの大コンメンタールのゾルゲルの二四二条B項︵権利の理由づけ︶の部とほとん ど合致するものであるが、この領域においては、二四二条の適用は、立法者にょる価値づけ、計画図を、裁判官が法 意に適合して実現するにとどまる。 この場合、かなり大きい自由が裁判官に存すると見えるのは、立法者による債務法の具体化には、限界︵立法の限 界︶が存することから、本質的に生ずるのである。まさに、それ故に、この事実関係と歴吏的に正確に合致している ﹁審判人の職務﹂︵o塗oご臼騨鼠§ω︶という成句︵蜀o馨8を使用するのが望震しい。何故ならば、ドグマ吏的に普 通法の伝統から見て、ドイツ民法二四二条は、あらゆる債務法上の請求権︵それ故また、ローマ法及び一部は普通法 における厳格法上の請求権もふくまれる︶の誠意訴権における変容以外の何者でもない。誠意訴権における変容の特 色は、しかし、法務官の判決命令権に基づくものではなくて、 ﹁被告が原告に信義よりして与え為すことを要するも の﹂という法務官の判決命令の不確定性から、この判決命令に依って職務上の義務にかなった判決をなすにつき、審 判人に生ずる裁量活動の領域︵審判人の職務︶に基づくのである。この﹁審判人の職務﹂から、。ハンデクテン債務法 の任意法規の大部分が生まれたのである。右の関係によってはじめて、 ﹁ドイツ民法二四二条は、すべての法規が根 源的にそこから導き出されるべき、全債務法の最初にして最高の原則である。﹂という、好んで用いられる確定的主 張に対し、その正確な歴史的意味が与えられる。 債務法を成文法に具体化する上の限界から必要とされる裁判のかなり広範な裁量活動領域︵ω℃芭壁瓢欝︶の中には、
次のものが存する。 @ まず、趣旨︵意味︶に則した︵ドイツ民法一三三条、一五七条︵後注︵π︶、以下同じ。︶による裁判官の解釈 に近似している︶契約秩序の発展・給付の態様について。 この場合、裁判官は、意味通りの文言解釈の場合にも、合理的に価評された意思表示の価値及び取引の慣行を考慮 する場合にも、もはや契約文言に拠り所を持つのではない。裁判官は、目前の契約秩序・債務関係が持つ社会的慣行 に即応した意味に依拠するのである。二四二条中の﹁取引の慣行﹂がそれを明示している。裁判官が債務法の任意規 定を定立するとき︵また、実際、任意規定は﹁審判人の職務﹂から発展したのである︶、立法者自身となって行為す るにほかならない。 ㈲ 普通法の伝統の﹁契約の自然﹂︵塁欝琶㌶欝茜o艶︶は、契約内容の意味に属する。これは、当事者間に自然︵当 然︶︵欝窪巨εとして妥当するから、まさにそれ故に、明示に合意されることがない。ことに、事物の自然︵条理︶ ︵2卑嘗穫飢露の8ぽ︶から生ずる附随義務が、ここにその在り所を見い出すのである。﹁法律は、権利を与える人に対 して、その手段がなければ権利を実行することができないような手段をも与えるものである﹂ ︵プロイセン普通法序 章八九条︶というラント法の原則の意味における、明示して引受けた義務から必然的に生ずる結果、がそれにあた る。例えば、安価に譲り受けた献本を営利を目的として処分しないという著者の義務、本を一般的に安売りしない発 行者の義務、展示のため引渡された絵画の安全を保持する使用借主の義務、当事者双方が共に必要であることを承認 している、売買物件の変更︵諺泣Φ議βαq︶を、引渡期限迄に実施すべき売主の義務、或いは、買主の暇疵担保権の実
東洋法学 二一
信義誠実の原則の手形法における諸問題 二二 行の前にまず修補を試みる売主の権利、盲目の賃借人に盲導犬の小屋を置く場所を供すべき賃貸人の義務などがあげ られる。この場合、裁判官は、常に一定の方針に従っている。その方針とは、法律自身の定める方針︵例えば、ドイ ツ民法六一八条の考え方︶であることもあるし、当該事案で同業者を尋求して得られる取引の慣習であることもあ り、或いは、契約上の忠実義務の基準︵それは、例えば、雇傭関係或いは組合関係の場合には、個人的債務関係より も緊密なものである︶であることもある。なお、最近くりかえし検討されている危険負担思想︵困¢涛畠&欝落昌︶の 顧慮もこれに属するであろう。 @ 叙上の例から、今日一般にいわれる保護義務の発展もまた、特に、二四二条の﹁審判人の職務﹂に基づくこと が明らかである。 保護義務、例えば、庇護義務、通告義務、釈明義務、その他、契約の相手方のために利益を保持する義務、それ以 上に、履行上の過失、請求上の過失のために契約共同体から生ずる担保責任がある。この場合にも、裁判官は、決し て、法を越えたり、或いは新しい法を創造するように活動しているのではなく、法律によって既に定められている給 付義務を実現しているにすぎないのである。これに反する外観を呈するのは、民法典の立法者が、普通法の伝統であ る決疑論的な構造のため、或いは、フリードリッヒ・モムゼンの不能論のようなパンデクテン主義の失敗した構造の ため、その志向する債務法上の諸原則に事相に即した形を与えることに成功しなかったことによって生じているにす ぎない。いわゆる積極的契約違反︵積極的債権侵害︶の発展の場合すら、判例は、常にあらゆる瞬間において、ただ 立法者の意図を実現したにすぎず、当事者に特別な正義の要求を課したものでもなく、また法規に反して法創造的行
為を実行したものでもないことは異論のないところと思う。この場合、保護義務の場合でも、或いは積極的契約違反 でも、裁判官の法創造との間に確定した境界を引くことができないとの疑念が反論として存在する。たしかに流動的 移行がある。ここまで解釈、ここからは個々の判決による︵完全には確定判決による︶法創造と明確に分けることに は、我々の見解によっても、困難がある。それにもかかわらず、﹁審判人の職務﹂の機能像と、︵法創造としての︶判 例法の機能像との差異が歴史的に、また司法政策的に誤解され得ないものであることは明らかである。この両者の差 異は、裁判の論証様式の差異によっても表明されている。すなわち、保護義務や積極的契約違反の場合には、一般に 法律類推︵ドイツ民法六一八条、二八○条︶、法類推︵ドイツ民法二七六条︶が前面に出たが、これに反して、価格 増額︵︾無ゑ禽露昌σQ︶や法律行為基礎︵○。。。。猛欝αQ摸鼠一潟。︶の場合には、不期待可能性思想或いは衡平思想︵¢震穿 匿葺び伽涛の箒鼠霞頭一凝竃濤のαqaき園︶が表面に出た。 ⑥ なお、最後に、﹁とるに足らない些小事﹂の場合に、裁判官に与えられている裁量の自由︵9蜂ま。︶が、この 領域への三早をなすであろう。即ち﹁法務官は些小事は心にかけない﹂。かかる自由領域は、十二表法以来、裁判の すべてにおいて当然のこととされている。これが﹁審判人の職務﹂の中に組み入れられている徴表は、立法者がこの 自由を明示して与えている︵例えばドイソ民法二八○条二項、三二〇条二項、四五九条一項二段︶か、この自由を裁 判官の裁量に委ねているかは、問題にはならないとされていることにあらわれている。大抵の場合、利益と反対利益 との不均衡性が働くし、時には、極小時間の援用が﹁顕著に不衡平な権利の実行﹂の抗弁を理由づけることがある。 ③ ﹁悪意の抗弁﹂︵巽8鼠O魯ε
東洋法学 二三
信義誠実の原則の手形法における諸問題 二四 この第二領域は、全く別の類型に属する裁判官の行為を示している。これは、ジ⋮ベルトが、 ﹁信義則に反する行 ︵U︶ 為の不許容性﹂なる項目で論ずるところと全く対応する。この古い裁判上の用語は、ひきつづき使用される。勿論、 我々は、この﹁悪意の抗弁﹂という、 ﹁権利実行の不許容性の抗弁﹂をあらわす古き用語の中に、より新しい意味を 見ているのではあるが、それにもかかわらず、この用語は、使用されるし手離されない。我々は、この用語を以て、 その要請が法倫理的非難と結合していない場合︵現在悪意︶をふくめ、裁判官が訴訟当事者に対し人的な法倫理的行 為︵母の需窃鼠ぽ汀目8窪のの量8汀<①讐聾窪︶を要請するすべての諸原則を包摂する。判例・学説とも、既にずっと 嵐前から、たとえ一致した表現様式に至っていないとしても、これらの原則を熟知している。それは、多くの関係に おいて、アングロサクジンのエクイティ︵㌍鼠蔓︶の原則や格言に近似している。我々の課題は、叙上の諸原則の淵 源となる正義の諸要素を探究し、それによって、叙上の諸原則の法倫理的確実性とその内的関連に対する洞察を促進 することに限られる。そして、これによって、叙上の諸原則は、恣意的な衡平追及、利益衡量から離れて、社会倫理 的法曹的伝統の申へ︵ぼ島Φ8蟄げ浮ぎ竃惹09の貯魯甘駐け誇ぽ炉銭蕎8︶、より確固と組み込まれ整理されるであ ろう。我々は、著明な諸原則を、以下の簡明な標語のもとに論究する。すなわち、 ㈲ ﹁自己の先行行為に矛盾する挙動︵自己矛盾の行為と ︵くo鼠88導篤盆o貫導讐o鷺葺営︶ ㈲ ﹁将に返還しなければならないものを請求するのは悪意を行なうものである。﹂ ︵山oぴ餌αq答の鼠℃o蜂ρ蔭aq 。$紬ぎ税a島ε旨。 。⑦警︶
@ ﹁不誠実な権利取得﹂ ︵9暑8藷︶︵q葭a一一魯霧幻g霞。 ・①毫禽び︶ ⑥ ﹁顕著に不衡平な顧慮なき権利追求﹂ ︵ぎo蕊洋R餌αQ禽①︶ ︵σq8ぴ綴b竃凝ρ葺o訴凶o窪。 。一〇8閑8窪のく①嵐o一讐鑛︶ @ ﹁自己の先行行為に矛盾する挙動︵自己矛盾の行為︶﹂の原則 この原則の中に、信義則によって行為すべき義務の本質が、信義則の全原則の上に光を反射するほど、直裁に、表 現されている。 ﹁自己の先行行為に矛盾することの不許容性﹂は、﹁誠実要求﹂︵臣串男o鼠。毎雛αq︶に基づくものであるが、その ﹁誠実要求﹂が、原則として、言葉の遵守を勧め、﹁契約は守らなければならない﹂︵評。富る 。q暮ωΦ籍き留︶という格 言を守らせようとする。 厳格法的義務履行命令﹁契約は守らなければならない﹂と、信義則に基づき不当な履行義務を制限することとの間 の外見上和解不可能な対立の弁証法的超克を、既に、かなり古いローマの誠実概念︵罰伽窃び轟ユぬ︶が、﹁言葉どおり にとられる拘束に代って忠実な拘束が来るべきである﹂、簡単にいうと﹁文字に代って義務の精神が来るべし﹂とい う根本的洞察によって為しとげている。 この法倫理的変更過程における恒久不変の根本要素は、﹁不変﹂、﹁不違﹂︵Oo霧$β瀞︶、﹁信頼﹂︵<窪舘ω凝浮δと
東洋法学 二五
信義誠実の原則の手形法における諸問題 二六 いう法美徳︵労9ゲ馨薦①巳︶であって、これが、法仲間としての責任︵幻8巨薦窪募器。ぽく醇伽艮妻9露認︶と一致し ないものとして﹁自己矛盾﹂︵ω①一び鴇且留誘讐9び︶を顕在せしめるのである。﹁自己の先行行為に矛盾する挙動﹂の原 則は、深く人格的正義︵鷺議α巳δぽORa鼠αQ訂δ を根源とするものであり、その入格的正義の最奥の要素は、﹁正 直﹂︵妻鋤汀訂︷凝汀蕊にある。しかし、この原則は、単純に倫理的真実義務と同一ではない。﹁自己の先行行為に矛 盾する挙動﹂の原則は、﹁現在悪意﹂︵3一諾鷺器8誘︶である。すなわち、故意或いはその他の非難すべき過失によ って相手方の期待を誘引することを前提とするものでないことは、争いのないところである。 ﹁信頼の要請﹂とは、 この場合、主観的正直の命令︵伽器○簿ゑ霊どΦ蒙奉門≦巴翼鼠︷凝籔ε ではなくて、意思表示に関する最近の﹁通用 の理論﹂︵○Φ一露bα⇒ω夢8膏︶と同様に、﹁自己の行為に対し、法仲間によって与えることの許される意味価値から逸脱 すべきではない﹂と言うことである。より簡単に言うと、﹁自己の先行行為に矛盾する挙動﹂の原則は、﹁法取引にお ける信頼﹂の諸原理の一適用であって、妊計及び詐欺の特別禁止ではない。﹁失権効﹂や﹁形式の蝦疵︵男R琶蝉罐& の援用の不許容﹂が﹁自己の先行行為に矛盾する挙動﹂の原則の適用例とされることは、今日認められている。この 場合、帰責の対象となる先行行為が一定の期問の要素と切りはなすことのできない不作為であるという点が、失権効 の特徴である。形式の蝦疵が﹁自己の先行行為に矛盾する挙動﹂の原則に属するというのは、形式の鍛疵の援用の不 許容性が、あらゆる情況の下において、蝦疵援用者の先行行為を前提とすることに基づくのである。すなわち、援用 者が形式の鍛疵を惹起したか︵かならずしも非難すべきものではないにしても︶、或いは履行開始によって契約快諾 を表明したという先行行為である。民法二四二条のこの二つの適用領域については、その他の点は、ボエーマ⋮やジ
⋮ベルトによって注意深く解明されている。 ㈲ ﹁将に返還しなければならないものを請求する者は悪意を行うものである﹂との原則をより一般的な妥当性を 持つ司法実務上の正義の要素に還元することは、より困難である。 ﹁顧慮命令の典型的適用例の問題である﹂と言っ て誤りではないが、しかし、それでは恐らくあまりにも一般的すぎるであろう。この権利主張の不許容性の理由を ﹁持続する自己利益の欠如﹂に基づくと考えるならば、より事実に近いであろう。というのは、この原則の根拠は、 ﹁私法秩序の統一性﹂の結果である﹁権利保護の約東の統一性﹂にあると考えられるからである。何となれば、この 原則は、単なる訴訟経済の要請ではないからである。単なる訴訟経済の要請とするならば、法誠実︵菊9窪鋒。幕︶の 命令に結びつけることはできないと思う。むしろ、この場合、権利保護請求者は、相手方から他の法規範に遡及依拠 する方法を奪うことによって︵しかも、このことによって、既に武器対等の原則、機会平等の原則に違反している︶、 権利保護請求を、法秩序に適合した状態を惹起する手段から独立の自己目的に化してしまっている。法秩序は、かか る事態を、手形訴訟、仮処分、占有の訴といった厳格法においてのみ認容する、この厳格法の場合には、特定の保護 利益の価値の優先のために、法秩序全体に遡及依拠することが犠牲にされている。その他の場合には、不可分の法秩 序としての全法秩序は、秩序の終局的に妥当する根拠へ即時に還元遡及することを許すのである。 ところで、以上@﹁自己の先行行為に矛盾する挙動﹂の原則、㈲﹁将に返還しなければならないものを請求する者 は悪意を行うものである﹂との原則の場合には、権利保護請求者の悪意は、大抵は、仮定的なもの︵現在悪意︶にす ぎず、それどころか、しばしば、あらゆる非難可能性を欠如して、ただ﹁法曹的伝統の因習的形容﹂︵㊦ぼ①国o導露−
東洋法学 二七
信義誠実の原則の手形法における諸問題 二八 駄8亀o男蒔9傷R甘冴鉱零汀p↓霊山葺魯︶となっている。しかし、以下@、⑥に述ぺる二つの原則は、 これと異な り、人的な法倫理違反との関連が、完全に認められる。 @ まず﹁不誠実な権利取得の抗弁﹂の原則がこれに属する。より正確には、 ﹁主張される法的地位が、自己の違 法な行為或いは契約違反の行為によって得られたものであるときの権利実行の不許容性﹂である。より一般的には、 ﹁自から法誠実なもののみが、法誠実を要求することが許される﹂と表現できる。そのように解すると、この命題 は、著名な裁判上の原則、即ち、﹁不徳義を申し立てる者は聴許されず﹂、﹁衡平は清浄な手とともに来るべし﹂、﹁衡 平を欲する者は衡平をなすべし﹂に近づく。より狭義の適用例は、﹁汝もまた﹂公式︵↓q咤8奉出9臼9 であっ て、これは特に、相手方に対し、相手方自身が遵守しなかった法規を防御方法として援用することを許さないもので ある。 ﹁不誠実な権利取得の抗弁﹂は、その基礎を倫理的伝統の有名な黄金律﹁人が汝に為すのを汝の欲せざること は、汝も人に加うべからず﹂に置いている。しかし、黄金律の法的組成は、なお解明を要する。黄金律は、法共同体 の組織法の中に存するのである。すなわち、黄金律は、法仲間は、自身が裁判される基準を、自身で作るべし、とさ れる法共同体の組織法の中に存するのである。何となれば、法共同体は、法仲間のその行動によって、確固と統合・ 集約される、すなわち、創り出され維持されるものだからである。それ故、法共同体の構成員は、法仲間として要求 することのできる基準︵ω富注帥箆︶を、共同して規定するのである。このことは、法不誠実に対する幼稚な抑圧的報 復︵例えば、ヴェニスの商人の中で行われたような︶ではなくて、法自身の統合条件の直接の結果である。その窮極 の、もっとも普遍的な背景は、平等性の要求の侵害であり、平等性の要求は、正義の根本要素の一つである。すなわ
ち、自己の法違反をさしおいて請求する者は、自己の利益の為に、相手方の不平等な取り扱いを望むものである。他 の言葉をかりれば、﹁互恵主義﹂の要求は、平等性の要求の一要素である。 この原則の特別の場合として、まさしくドイツ民法一六二条がそれにあたる。しかも、法律行為の条件に対して直 接適用されるのみならず、法定条件に対して信頼に反する加功をする場合にも類推適用される。右の場合、特殊性 は、要件︵この場合にも、法的地位は、不誠実に、信義則に反して取得される︶に存するのではなく、その法律効果 にある。すなわち、条件付権利関係当事者が、権利につきサボタージュ行為をしたことによって、相手方の権利が客 観的に実現する点にある。権利行使の単なる不許容性を越えて及ぶこの結果は、ローマ法の伝統に基づいている。 同様に、給付行為者が良俗違反である場合に、その給付返還請求権を排斥するドイツ民法八一七条後段は︵寺院法 の原則であるが、ローマ法の淵源から発展したものである︶、直接に、﹁不徳義を申し立てる者は聴許されず﹂の原則 から解明できる。この法規の特別な歴吏的由来及び通説に反対して、私は、この法規の中に﹁不誠実な権利取得﹂の 原則の適用を見るのである。この見解が正しいとすれば、給付はまさに法によって禁止されているが、給付を得させ ることは法的に不誠実なことではなかった場合には、大いに論争のあるこの法規の適用は理由のないものであろう。 このことは、法の禁止規定に違反するが、同時に倫理法︵良俗法︶に違反するものではない行為のすべてについて妥 当するであろう。 ⑥ ﹁顕著に不衡平な顧慮なき権利追求﹂の原則 ふ たし この原則は、その不確定性の故に、とても不確か極まる、全適用領域の問題を提供する。 東洋法学 二九
信義誠実の原則の手形法における諸問題 三〇 適用領域の法理論的整理は、それに比すると、困難さは少ない。 ﹁不誠実な権利取得﹂の場合と類似して、この場 合、権利主張者は、自己が法仲間の基準から逸脱することによって、自己の権利の実行ができなくなるのである。 ﹁法共同体は、継続的な法的平和が可能であるように自から行動する用意ができていることを、まず以て、前提要件 とする﹂ということが前記@で述べたことから結論として出てくる。その結果、自己中心的な、相手方のことには全 く目をつぶった権利への執着は排斥される。ここには、潜在的ではあるが、また、平等性要求への侵害が表現されて いる。誰でも、かかる﹁顧慮の喪失﹂を自分自身に要求することはできないであろう。私はかかる態度を、 ﹁反市民 えき 的行為﹂︵ぽ。葺浮R品巽Φ︶という標語を以て説明することを試みた。ローマの法律用語は、この標語を︵単に役権 の場合のみならず︶、まさに、市民の法共同社会における最も普遍的な顧慮義務に関して使用したのである。 二四二条のこの困難にして危険な適用領域が、 ﹁不誠実な権利志向に対する具体的非難﹂から切り離し得ないとす れば、﹁請求者の利益とその相手方の利益との客観的不権衡﹂という通説を以て満足することは、明らかに許されな い。 ﹁心意︵志向︶非難﹂を放棄することによって今日実務に生じている﹁不適法な権利実行の抗弁﹂の範囲の拡大 は、勿論一つの正当な根拠を持っている。すなわち、ここでは、真実、二四二条は、権利濫用のかなり普遍的な原 理、より正確に言えば、請求の相手方に対する関係における請求権の限界という当事者間の問題とは対立する、かな り普遍的な、私権の社会的限界の原理を、代表しなければならないのである。しかし、私法上の根本的諸問題のうち にあって、権利濫用について、より独立した制度的位置づけを与えること、例えばスイス民法二条一項、二項や、ド イツ民法二二六条のような位置づけや、就中、比較法的論究による位置づけに相応するような位置づけを与えること
は、ドグマ︵教義学︶的にも司法政策的にも好ましいことである。 二四二条のこの適用の場合を、それ故、無原則な恣意的な法律学に陥らせないために、 ﹁不当な主観的な誤った評 価﹂すなわち、 ﹁自己の利益の全く不均衡な過大評価﹂に、しっかりと固定させる必要がある。今日の判例は、この ことを承認しようとしないから、 ﹁不当な権利の実行﹂は、かなり形の崩れたものになっている。この場合もまた、 一つの確実な基準を与えることができるのは、拘束力ある職業的慣行として承認される裁判慣例︵汐お霧蓉訂αぼ話︶ のみである。この裁判慣例は、まず第一に、誠実な利益観察を前提とし、それ故、観察の着眼点を人の心意の欠陥に 向けるのがよい。その際、観察の基準として、﹁まさしく十分に誠実な法仲間の典型的利益評価﹂が用いられる。この 基準によって、ローマ人のいわゆる﹁市民的でない、しかも異常に﹂とか、或いは﹁ある程度に真面目な人ならば誰 でもそのようなことは要求しない﹂と言うことが許される。この場合、故意に相手方を加害すること、悪意の加害は 必要でないとする、従来の見解は、少なくとも私には、大きな誤解と思われる。むしろ、次のように言うのが正しい と思う。すなわち、﹁原告は、請求権を主張することが︵原告に知られている事情のもとにおいて︶、﹃著しい顧慮の 喪失﹂と評価されねばならないということを知らなかったと申し立てても、普遍的な債務理論の公知の諸原則にのっ とり、聴許されないご。この事案によって、特に、二四二条の適用は、社会倫理的一般原則を定立することによって も、かかる原則の下に個々の争訟案件を包摂することによっても、達せられるものではないことが明瞭に示されてい る。 ﹁市民らしく惜しみつつ行為せよ﹂︵Ω︿篤鎗お禽①︶という命令の特別な一つの形成が、相手方の基本的人間価値
東洋法学 三一
信義誠実の原則の手形法における諸問題 三二 を侵害することを請求すべからずという命令である。かかる請求に応ずる義務なきことは、既にドイツ民法一三八条 により明らかであるから、後発的な、いわゆる﹁道徳的不能﹂の事例︵子供の死を知らされた後に登場しなければな らない喜劇役者の例︶が問題として残る。最近よく論ぜられる問題、すなわち、宗教上の義務に違反することにつき 期待不可能であるという理由に基づく履行拒絶の問題、もまたこの場合に属する。 ③ ﹁裁判官の新しい創造﹂ これまで﹁悪意の抗弁﹂のもとに総括した原則は、若千の基本的要請に還元することができたし、その要請は、全 体として、実践倫理の確固たる伝統に則り、社会的行為における︵主観的︶︵。 。与甘甕奉︶正義︵のΦ器魯鉱αq竃δ の標 識となる。 ﹁法突破﹂︵菊のo浮巴弩魯ぼ9ぼ罐︶、より正確には、制定法を法倫理的に突破すること︵穫9げ露浮誇竃U弩。喜葺。汀 儀弩島留ω○霧の奮巽9浮︶と称される事案については、事情が全く別である。経済事情の後発的な基礎喪失的変動に よる、反対給付の自由な価格増額︵坤籔︾無壌象農αQ︶及び適合︵︾巷霧。 。琶αq︶が、特にこれに属する。 これが、現 在は、期待可能性の欠如、経済的不能、或いは法律行為基礎の喪失として、制度的に整備されてしまっていることは 問題ではない。 最後に、均衡を失した費用の高騰による請負代金の値下げとか、企業との危険共同体という観点から、私企業の幹 部職員の退職年金を減額するといった、﹁債務適合性を超過する困難性﹂或いは債務者の﹁犠牲の限度﹂の超過といっ た事例がこれに属する。そのほとんどあらゆる場合に、給付と反対給付との間の経済的等価性の擾乱が存する。その
結果、判例は、時には︵価格増額のように︶金銭債権者の利益になることもあるが、大抵は︵あらゆる他の履行の困 難加重の場合のように︶、金銭債権者の負担において、実質的等価性の原則を承認する傾向にある。 @ このグループを、これ迄説明したω、⑭の適用領域の中におさめこむことは困難である。まず、﹁裁判官は、 この判決の場合にも、債務法についての立法者の秩序計画をただ具体化するにすぎない﹂というのは困難である。む しろ、立法者は、上述のすべての場合に、実質的等価の原則︵。ぎ導暮&巴①ω︾駐ざ竃薫豆震芭に反対する判断を明 示した。すなわち、立法者は、ドイツの金銭債務を名目主義の意味において名目価額︵券面金額︶債務︵2①馨窪毒。畢 ︵。 ・鎚馨窪・︶8ビ賦︶として形成した︵ドイツ民法二四四条以下、就申二四四条二項、二四五条︶、また、解明の容易れ な厳格に限定さた若干の例外︵ドイツ民法三二一条、六一〇条︶を除いて、実質的給付均衡の要求︵鼠ω守8識Φ旨置 ①ぎ霧導彗&巴臼9韓鐸轟茜嵐。凝①註象芭、特に﹁価値の公平﹂︵置ω言導冥魯Ω導︶の要求に反対である旨を表明した ︵特にドイツ民法二二八条二項参照︶。勿論、広く行われている意見のように、履行義務の軽減や免除を債権者に対す る人的正義の要請︵篇議鼠浮匿OR8嘗σq訂諺目敏a⑦議罐︶に帰するとすることも、なお一層許容できない。この場合、 ﹁債務者に要求︵期待︶できること﹂と﹁債権者が債務者に要求︵期待︶するのが許されないこと﹂とが、十分に区別さ れていない。しかも、この種類の﹁突破﹂︵U弩9ぽ欝汀︶は、大抵は、公衆の法意識の倫理的転換の中に準備された時 に、はじめて、裁判官によって考量されるのである。このようにして始まる変革を、事後に、遡及的に、不文法の拘 束力ある命令に高めることはできない。制定法秩序が、あらゆる確定性、拘束性を失うべきものでないのならば、成 文法秩序が、以前から明示する、十分に納得できる諸理由により、金銭債務を名目価値債務と考えている限り、債務