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足尾鉱毒事件と渡良瀬遊水地の成立 利用統計を見る

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全文

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著者

松浦 茂樹

著者別名

MATSUURA Shigeki

雑誌名

国際地域学研究

5

ページ

205-221

発行年

2002-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00003857/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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国際 地域 学研究 第5 号2002 年3 月

足尾鉱毒事件 と渡良瀬遊水地の成立

松 浦 茂 樹* 205 1 。 は じ め に 戸 数約380戸 、人 口約2,500人 か らな る谷中 村 を廃 村 にして まで渡 良 瀬遊 水地 は築 造 さ れた。こ の遊 水地 築造 につい て、 田中 正造 が 指導 し た足 尾 鉱毒 反対 運動 の延長 とし て語 ら れる こ とが多 い。 つ ま り明 治20年 代 に本格 化し た足 尾 鉱毒 問 題 は、 明 治33年(1900)、地 域 住民 と警官隊 が衝突 し た川 俣事 件 が重 大 なピ ー クであ り、 こ の後 、田 中正 造 の活動 は、 谷中 村 廃村 を伴 う遊水 地計 画 反対 に集 中 す るよ うに なっ た。 田中 の論 理 は、 足 尾鉱 毒 問題 を治水問 題 に すり か え、 その 矛盾 を谷中 村 一村 に押 し 付 けて 鉱毒 問題 の 隠ぺ いを 図っ た とい う こ とで ある。 足 尾鉱 毒問 題 が、渡 良瀬 遊 水地 築 造 を伴 う渡 良 瀬川 改修 に大 き く影 響 し た ことは 間違 いな い。 内 務省 は次 の よう に述 べ、 渡良 瀬 川改 修 が鉱 毒 事件 さ らに その延 長 として の 谷中村 問題 に関連 が あっ た こ とを指 摘し てい る1)。 「明治23年頃ヨ リ同39年二渉レ ル鉱毒被害 、次デ谷中問 題等二依り 渡良 瀬川 ノ名 ハ世人 二遍 シト雖 モ、要 スルニ 其 被害 ハ主ト シ テ水害 ノ窟ス所ニシ テ其 激甚 ノ度又自 ラ想定スルニ難 カラザル可 シ、故 二朝野挙 ゲテ之 ヲ忽諸 二附 ス可 カラザルモ ノアルヲ認 メ、明 治43年第26議会 二於テ本渡良瀬川洪 水防禦 ノ議ヲ決 セリ。」 中 央 政府 が こ の改修 に着手 し た の は明 治43年(1910)4 月 のこ とであ るが 、同 年8 月、 全 国的 な 大 水 害が あ り、 こ れを契 機 に第一 次 治水 長 期 計 画が 樹立 さ れた。 そし て 翌年 度 から全 国 の大 河川 で 治 水 事業 が 進 めら れたが 、利 根川 の一 支 川 であ る 渡良 瀬川 改修 はそ れに先 立 っ て着工 さ れた ので あ る。 この時 まで に政府 が 治水事 業 に着 手 し てい た の は、木 曽川、 淀 川 、利 根川 など の10大 河川 で あ り、 首 都 ・東 京 を流下し てい た荒 川 も着 工し て い なか った。 し かし 、足 尾 鉱毒問 題 の延長 とし て の みで渡 良 瀬遊 水地 を語 るこ と は、 重 大 な錯誤 に陥る と考 え てい る。 渡良 瀬 川下 流部 は、 関東 造 盆 地運 動 の中 心地 であ り、 思 川、 谷 田川 が合 流 す る とと もに赤 麻沼 、板 倉沼 な ど の湖沼 があ り、 全 くの低 湿 地域 であ っ た( 図一1)。 この地 域 の開 発 に は、 築堤 を 中 心 とし た治水 が必 要不 可欠 で あ る。し かし 低 湿地域 であ るこ と は、 日本 にお ける 他 の地域 が示 し てい るよ うに、 深刻 な地 域対 立 の発 生 が考 えら れ る。 一 地域 の堤 防 強化 は、 対 岸 の脅威 とな るので あ る。 左 ・右 岸、上 ・下 流 の地 域対 立 が生 じ てい ない とい う の が不 思議 で あ る。 また渡 良 瀬川 が合 流し た直 後 の利 根川 は、 そ の直下 流部 で 権現 堂 川、 赤 堀川 に分 流 する な ど実 に *東洋大 学国 際地域 学部:FacultyofRegionalDevelopmentStudies,ToyoUniversity

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複 雑 な水 理関 係 にあ った (図-2 )。 こ こ の治水 は、歴 史的 に試行 錯 誤 を繰 り返し た とこ ろで あ る。 自 然 条件 に制約 さ れて、 基 本的 に常 習 湛水 地域 であ っ た渡良 瀬 川下 流部 に は長 い期 間 に わ た る治 水課題 があ り、 そ れ に足 尾 鉱 毒問題 が 加 わっ てこ の地域 の治水 整備 が 喫緊 の課 題 となっ た。 そ こ で 採 択 さ れた のが、 谷 中村 廃村 に基づ く遊 水地 の整備 であ っ た と考 えて い る。 で は、 なぜ 谷中 村 廃 村 な の か、 自 然条 件、足 尾鉱毒 問 題 も含 む歴 史的 な地 域 の成 立過 程 の分 析 を通 じ て明 ら か にす る必 要 が あ る。 日本 の 近代 史 に極 めて重 要 なこ の重 い課 題 につい て、 筆者 は現在 、 まだ全 貌 を把 握し て い る わ け で は ない が、 そ の基本 的 枠組 み につ い て述 べ てみたい 。

2 。近代改修における渡良瀬川遊水地の特徴

思川、 渡良 瀬川 の最下 流 部 に位 置 す る谷中 村 は明 治22年 (1889)、 恵下 野村・内野 村・下 宮 村 が 合 併 し て 成 立し た。 谷中村 中 心部 は一 部 、 台地 と接し て い る ところ を除 い て堤 防で 囲 ま れてい る 。 そ の堤 防 の 大 きさ は、 当 時、 高 さ20尺∼22 尺5 寸 (6∼6.8m )、 天端 幅 は10尺8 寸(3.3m) となっ てい る。 こ の堤 内地 が、 土地 収 用 法 も適 用さ れ て買 収 さ れ、 洪 水 を貯 留 する遊 水 地 (堤 外 地) となっ た ので あ る。 この 状況 は、 近代 河 川改 修史 におい て 極 めて 異例であ る。 近 代 改修 が行 わ れる以 前 の 河川秩 序 を ト→ 十十ト ー−H ⑥ 棒出しS 図一2 栗橋∼関 宿周辺の近世の 利根川状 況図 図 一1 渡 良 瀬 川 下 流 部 概 略 図 ( 迅 速 図 を 基 に 作 製 )

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松 浦 :足 尾鉱 毒事 件 と渡良瀬 遊水 地 の成立 207 み る と、 優 先的 に守 る地域 を定 めてお き、 そ の他 の地 域 に氾 濫 させ る とい う のが基 本的 なシ ステ ム で あっ た。 特 に常習 湛 水地 域 は遊 水地 とな って い た。 江 戸 (東 京) を貫 流す る荒 川 (そ の下 流部 が 隅 田川 ) を みる なら ば、 日本堤 上 流 の 右岸 側 は、 埼玉 県下 の 入関 川合 流 点 に至 る まで 大遊 水 地帯 と なっ てい た。 また淀 川で も、 宇 治川 、 桂 川、 木津 川三 川 の合 流点 に、 巨 椋池 を中 心 とする大 遊水 地 があ っ た。利 根 川 におい て も、 埼玉 平 野 西部 に中 条堤 によっ て形 成 さ れた大 遊 水地 があ っ た。 こ れ ら の遊 水地 は近代 河川改 修 に よっ て、 すべ てで はないが 、 か なり の区 域が 堤内 地 へ と解放 さ れた の で あ る。 荒川 で みる と、東 京都 下 は全面 的 に、 埼玉 県下 で は、 他 の河 川 と比 べる と大 き な堤外 地 が 残 さ れ た とはい え、約3,500町歩 が堤 内地 となっ た のであ る。 つ まり、近 代改 修 の重 要な 成果 とし て、堤 外 地 から安定 し た 生産 が営 まれ る堤内 地 への 解放 があ っ た。渡 良瀬 川改 修で も3,200町 歩が 堤 内 地 へ と移行し た。 と ころが 谷中 村 はこの 逆で 、堤 内地 が堤 外 地 と なっ たの であ る。平 地部 におい て、 近代 改 修で こ れ程 の規 模が 堤外 地 へ と移 行し た のは、 こ こ の みで あっ た。 3 。 渡 良 瀬 川 下 流 部 の 歴 史 的 治 水 課 題3 −1 近 代以 前 明 治10年代 に測 量 さ れた迅 速図 に よる と、 渡良 瀬川 は広い 堤外 地 を海 老瀬七 曲 と呼 ばれ る激し い 曲 流を なし て流下 し、谷 中村 南 方、古 河地先 で 思 川を合 流 す る。そ の合 流点直 上 流 の渡良 瀬 川左 岸、 思 川右 岸 に谷中 村 は位置 する。両 川 は、 谷中 村 と接 す る区域 で 激し く蛇 行し てい る。激 しい 蛇 行 は 洪水 の疎通 に とって 大 き な支障 とな り、 洪水 を 滞留 させ る。 渡良 瀬川 左 岸 の堤防 のかな り は、 古 河 と藤 岡 を結 ぶ県道 を兼 ねてい る。 一 方、 思川 は、 谷中 村恵下 野地 先 で巴 波川 を合 流 させ るが 、 そ の 合流 点付 近 から巴 波川 下 流部 に か けて 築堤 はな く、 赤 麻沼 に 連 なっ てい る。 こ こ の大堤 外 地 は遊 水 地帯 で あり、状況 が よくわ か る明 治時 代 の 出水記 録 で みる と、思川 の洪水 の みで な く、渡良 瀬川 、 利 根川 の逆 流 も流 れ込 む遊 水地 帯 で あっ た。 近代 以 前 はど の よう な状 況 で あ っ た の か。 谷 中 村 内 の集 落 、下 宮 の成 立 は室 町時 代 の 文 明 年 間 (1469∼86) と伝 えら れてい るが 、 そ の自 然 条件 からし て 築堤 は必 要 条件 だ ろう。 し かし 低平 地 で あ る ので 、堤 防 の強弱 は他地 域 と厳し い 競 合 関係 とな らざ る を得 ない。 一 方 的 に高 く また強 く すれ ば、対 岸 あ るい は上下 流 に大 き な影 響 を及 ぼ す のであ る。 記録 に残っ てい る とこ ろに よ る と2)、寛 永4 年 (1627)、 谷中 の 村々 と思川 流域 の上 流 に位 置 す る 白鳥 、部 屋、 赤 間な どの13 の村 との 間 で論 争 があ った。 こ れ以 降 、谷 中 が堤 防増 強 す る際 には上 流 の村々 に知 らせ る こ ととなっ たが 、 貞 享元 年 (1684)、 万 治2 年 (1659) に 論争 があ り 、谷中 の堤 防 強化 は結局、 行 わ れなか っ た。 元 禄9 年 (1696) の紛 争で は、 正 保4 年 (1647)か ら50年間 、堤 防 の修復 が行 わ れなか った ので3 尺(0.9m )程 の土 盛 りが認 めら れた。 元 禄12年 に は、 堤 防 の腹 付 け 部 分 に竹 木 を植 えた こ とを めぐ っ て紛 争 が生 じ た。裁 断 の結果 、 竹 木 は抜 か れる こ とと なっ た。 この よう に、 谷中 村 の周 囲堤 はい わ ゆる論 所堤 であ り、 その強 化 は他地 域 から厳 し く抑 えら れ て

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い た ので あ る。 ここ で は築堤 を め ぐ る上 ・ 下 流 の対 立 の歴史 を 抱 えてい た。 で はそ の他 の地 域 との対 立 は どう であ っ た の か.想 定 さ れ る の は渡 良 瀬 川 対 岸 の 群 馬 県 「− 邑 楽郡 (現 )板倉 町、 埼玉 県 北 埼玉 郡 (現 ) 北 河辺 町、 また下 流 の茨 城県 ( 現) 古河 市 と の対 立 であ る。し かし近 世、激し い 紛 争が あっ た こ と示 す資 料 は 今 の と ころ 入 手 し て い な い。 板 倉 、 北 河辺 と も利 根 川、 渡 良瀬 川 の洪 水 がし ばし ば襲 っ た とこ ろであ る。 その 堤防 は 館林 藩 の 榊原 康政 に よっ て文 禄4 年 (1595)、 利 根 川左 岸堤 は高 さ15尺∼20 尺 (4.5∼6m )、

諏藻 こ

図 一3 江 戸 川 流 頭 部 の 棒 出 し ( 出典 : 「利 根川 百 年 史」 建 設 省 関東 地 方建 設 局 、1987 、p.683) 渡良 瀬 川 右岸堤 高 さ15尺∼18 尺(4.5∼5.5m )に整 備さ れ た とい われ てい る。 そ の後 の大 規 模 な増 築 の記 録 はない が、 渡良瀬 川 の最 下 流部 に位置 し、利 根 川 に挟 ま れた この地 域 の歴 史 は、水 害 との 闘 い であ っ た といっ て も過言 で は ない。 で は なぜ渡良 瀬川 対 岸 との 間で の左 ・ 右岸 の対 立 を示 す 資 料 は ない の か、寡 聞 にし て未 だ入 手 で きて い ない のか、また他 の理 由 があ るのか、今 後 の課 題 で あ る。 さ て近 世 、谷中 村 を含 む 思川 下 流地 域 (栃木 県下 都賀 郡) が、 利 根 川の 河川施 設 を めぐっ て 対 立 し た 記録 が残っ て いる。 一 つ は江戸 川 流頭 部 の棒出し を めぐ る争い で あ る。 近 年 の研 究 に よっ て棒 出 し の設 置 は寛政 元 年 (1789)以 前で あ る こと が指 摘 さ れて いる が3)、 そ の川 幅 を18間 (32.7m ) よ り搾 め ない 約束 が行 わ れ た とい う (図 一3)*)。搾 め る こ とに よっ て江 戸 川 へ の洪 水 の 流下 が阻 害 さ れ、上 流 部 に滞留 し て水 害 が生じ る とい う下都 賀郡 から の主 張 に対 して で あ る。 また権 現堂 川呑 口 に も寛 政4 年(1792)に杭出 が設 置さ れ た。 そ の後、 増築 さ れ天 保10年(1839) に は千 本 杭 とい わ れる ほど になっ た が、 下野 、 上野 両国 の渡 良瀬 川 下流 部 か らの訴 え に より、 天保13 年、 撤 去さ れた こ とが知 られ てい る5)。 渡良 瀬 川 が合 流し た後、 利 根 川 は権現 堂 川 と赤堀 川に 分 かれ、 また江戸 川、逆 川 に分 流 す る な ど 複 雑 な水 理機 構 と なっ て いた。 近世 後半 、棒 出 し、杭 出し によ る ここで の洪 水滞 留 が、 自 ら の 地域 の脅 威 と渡良 瀬川 下 流部 は位 置 付け 、 そ の撤 去 を主 張し てい た ので あ る。 この 重要 な 背景 とし て、 天明3 年 の浅 間 山噴火 に 伴う 大量 の 火 山灰 の降 下、 そ れに よる利 根川 河床 の著し い 上昇 が あ る。 こ れを契 機 に渡良 瀬 川下 流部 の湛水 被 害 は大 き く増 大し た と思 わ れ る。 谷中 村 の中 の一 つ の村落・恵 下 野 にお け る記録で あ る が6)、 宝 暦13年(1763)から 慶応3 年(1867) の 約100 年間 に40回の 出水 があ っ た。 このう ち20回が堤 切(堤防 決壊 )と記 録 さ れて い る。 し か し 明 和3 年 (1766) を除い て残 りの19回 は文 政5 年 (1822)以 降 となっ てい る。 近世後 半、利 根川 河 床 上昇 に もとづ く破 堤 の脅威 が著 し く高 まっ てい たこ とが理 解 さ れる。 なお 明 治18年 だが 、谷 中 の 下 宮 にお い て、元禄9 年の 堤高 は4 尺か ら6 尺で あっ たが水 害 を防 い でい た、と ころが 今 日、1丈8 尺

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松浦 : 足尾鉱 毒事件 と渡良 瀬遊 水地 の成立 209 の 堤 高に なっ て も全 く防備 となっ て い ない こ とが 主張さ れ てい る7)。 ところ で幕 末、 渡良 瀬 川治 水 に とっ て実 に 注目 すべ き改 修計 画案 が 邑 楽郡 田 谷村住 民 、大 出地 図 弥 から提 出 さ れた。 渡 良 瀬川 を、 藤 岡 の台 地 を開 削し て赤 麻沼 に落 と す という近 代 渡良 瀬 川改 修計 画 と同 様 の ものであ る。 館林 藩 に献 策 し た と ころ認 めら れた ので 、 大 出 は多 くの人 々 を指 揮し て測 量 を行 い、 詳細 な 実測 図 を作成 し て起 工 し よう とし た。し かし その 開 削台 地 が館林 藩 で なかっ た た め挫折 し た こ とが 伝 えら れて い る8)。「群 馬 県 邑楽 郡史 」(群 馬 県邑 楽 郡 教育 会 大正6 年) は、「近 年 、渡 良 瀬川 河川 改修 工事 の 開始 せ ら る るや その計 画、 地図 弥 の設 計 と全然 軌 を一 にす。 世人 深 く 地 図 弥 の卓見 に 服す」 と述 べ て い る。 3 −2 明 治初 期 記 録 とし て かな り遺漏 があ る と 思 われ るが 、明 治元 年 (1868) か ら明 治30年 まで の水 害記 録 とし て 表−1 があ る。利 根 川、 渡良 瀬 川 の 出水 に より頻 繁 に渡良 瀬川 下 流部 で は破 堤 し てい るの が分 か 表−1 明治30年代までの渡良瀬川下流部の水害 年 月 洪 水 の 状 況 渡 良 瀬 川 沿 川 の 被 害 慶 応4 年7 月 明 治2 年 フ月3 年7 月4 年5 年8 年15 年18 年7 月21 年7 月22 年9 月23 年8 月24 年9 月25 年6 月27 年8 月29 年9 月31 年9 月34 年9 月35 年9 月36 年9 月37 年7 月38 年8 月39 年7 月39 年10 月 利 根 川 、 渡 良 瀬 川 洪 水 渡良 瀬 川 洪 水 利 根 川 、 渡 良 瀬 川 洪 水 渡良 瀬 川 洪 水 渡 良 瀬 川 洪 水 権 現 堂 川 、 渡 良 瀬 川 洪 水 利 根 川 本 支 川 洪 水 渡 良 瀬 川 洪 水 利 根 川 本 支 川 洪 水 利 根 川 本 支 川 洪 水 渡良 瀬 川 洪 水 渡良 瀬 川 洪 水 渡 良 瀬 川 洪 水 利 根 川 本 支 川 洪 水 利 根 川 、 渡 良 瀬 川 洪 水 渡 良 瀬 川 洪 水 利 根 川 本 支 川 洪 水 渡 良 瀬 川 洪 水 渡 良 瀬 川 洪 水 渡 良 瀬 川 洪 水 利 根 川 本 支 川 洪 水 利 根 川 、 渡 良 瀬 川 洪 水 海 老 瀬 村 破 堤 西 谷 田 村 、 海 老 瀬 村 破 堤 川 辺 村 、 利 島 村 破 堤 西 谷 田 村 、 海 老 瀬 村 破 堤 古 河 川 辺 領 ( 川 辺 村 、 利 島 村 ) 破 堤 川 辺 村 破 堤 川 辺 村 破 堤 川 辺 村 、 利 島 村 、 海 老 瀬 村 、 谷 中 村 破 堤 海 老 瀬 村 破 堤 谷 中 村 破 堤 海 老 瀬 村 、 谷 中 村 破 堤 川 辺 村 、 利 島 村 、 西 矢 田 村 、 海 老 瀬 村 、 谷 中 村 破 堤 利 島 村 、 川 辺 村 、 西 矢田 村 、 谷 中 村 破 堤 渡 良 瀬 川 流 域 に氾 濫 、 谷 中 村 家 屋120 戸 倒 壊 に の 年8 月9 日 に も洪 水 が あ り .こ の時 に は赤 麻 沼 に 面 し た 堤 防85 間 が 決 壊 )、古 河 川 辺 領 (川 辺 村 、 利 島 村 ) 破 堤 谷 中 村 破 堤 谷 中 村 の 工 事 中 の堤 防 流 出 谷 中 村 破 堤 海 老 瀬 村 、 西 矢 田 村 、 谷 中 村 破 堤 邑 楽 郡 浸 水 被 害 (海 老 瀬 村 、 西 矢 田 村 破 堤 ) 出典 :「 利 根川 百 年史 」 建 設省 関 東 地 方建 設 局1987 年 を もと に付加 ( 注) 明 治20年 代以 降 、10年代 まで より も 水 害 の頻 度 は 大 き くな って い る。 そ の 理由 とし て 記 録 とし て残 さ れ た資 料 の 問題 もあ る が 、「利 根川 高水 工事 計 画 意 見 書」 明 治i 年) で は、 中田 地 点 にお い て 同 じ洪 水 量 に対 し て明 治20年 代 は明 治18 年 に比 べて3 尺(0.9m) 高 く なっ た こ とが 主 張 さ れて い る。 水位 が 高 く なれ ば 渡良 瀬 の 洪水 は排 出し に くく な る とと も に、 利 根川 は逆 流 し や す くな る。

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る。 まさ に ここ は、 湛水常 習地 域 で あっ た のであ る。 さ て明 治4 年(1871)、 渡 良瀬 川 中 流部左 岸 に位 置 する栃 木県 下 都 賀郡、 安 蘇郡 の村 々 か ら渡良 瀬 川 改 修計 画 案 が当時 の行 政 区域 で あ る古 河県、日光 県 に嘆 願書 とし て提 出 さ れた9)。渡 良瀬 川 の 秋 山 川 合 流点 直 上流 か ら板 倉 沼 に新 河道 を開 削し、 会 の川 との 合流地 点 で渡 良瀬 川 に再 び落 とそ う とし た もので あ る。嘆願 し た村々 は、現 在 の佐野 市 が中 心 で あ るが、藤 岡町 も加 わ って い る10)。先 に 幕 末、 藤 岡 の台 地 を開 削し て赤麻 沼 に落 とす 改修計 画 が右岸 の 館林 領 から 提案 さ れた こ とを述 べ た が、 こ れ の対 抗策 で あっ たで あ ろう。 明 治10 年代終 わ り になっ て、 利 根 川鉄 道橋 を めぐ り大 きな対 立 が生 じ た。 日本 鉄道 会 社 に より明 治18年(1885) 、 大 宮・宇 都 宮 間が利 根 川 橋梁 を除 いて 開通 し た。利 根 川橋 梁 は、 渡良 瀬 川 と利 根 川 合 流点 か らそう 遠 くない とこ ろに計 画 さ れ たが、 この利 根 川橋 梁 設置 に より洪 水疎 通 に支 障 が 生 じ る とし て 、 渡良瀬 川 下流部 が明 治18年12月 、 下野南 部 治水 会 を結成 し て強 く反対 し たの であ る。 こ の地 元 の 意向 を受 け、 翌 年1 月、 栃 木 県会 は、「請利 根 川水 理 改良 之建 議」を行 い強 い 反対 姿 勢 を 示 し た。 そ し て この建議 で 渡良 瀬 川合 流部 の利 根川河 道 に対し 二 つ の改良 策 を提 案し た11)。 一 つが 、江戸 川 の流頭部 、 関宿 付 近 の改良 で あ る。 つ まり「関 宿 ノ水 流 をシ テ上流 卜 平均 セ シ ム」 と述 べて い るが、 棒 出し の撤 去 を伴 う 河道 の整 備だ ろう。 もう一 つ が赤 堀 川北 側の 古 河・ 中田 間 に 流 入口 を もつ新 たに水 路 を 開削 し、 渡良 瀬 川 の洪水 を流 そ う とい う計 画で あ る。 古 河 ・中 田 間 の水 路 の開 削 は、 近世 後期 に も何 度 か主 張 さ れてい た。 赤堀 川 の流入 口 は狭 かっ た ので あ る。 建 議 で は、 この 二案 とも容易 な事 業 で はない ので、 是 非 と も内務 大臣 の現 地 の視 察 と、 事業 の 着 手 を 要望 し た。 この事 業 が完了 し た 後、 はじ めて通常 の 堤防 で渡 良 瀬 川下 流部 は治 水 が行 え る と主 張し たの で あ る。 なお 利根 川 橋梁 は、 オ ランダ 人御 雇い 技師 ムルデ ル の意 見に 従い 、中 央 の低 水 路 の橋 梁 間 を100尺 か ら200尺 に変更 し て明 治19年7 月、 完 成し た。 思 川 下 流地 域で も、平均3 ヵ年 に1[ 亘Iの割 合で水 害 は打 ち続 い た。や がて 具体的 な 思 川改 修計 画 案 が提 示 さ れ てい く ことに な るが、 谷 中村 上 流 の生井村 、 寒川 村 の住民 に より、近 代 測量 に 基づ く思 川下 流 部 の地 形図 が明 治24年 作成 さ れ た。 こ こに は土 地利 用 とと もに堤 防 の断面 図 まで も記述 さ れ てい る。 水害 常習 地帯 か ら の脱却 を 目 指し、 この地域 で 思川 下流 の治水 策 が明 治初 期 よ り検討 さ れ てい た こ とを示 す もので あ ろう。 4 。 足 尾 鉱 毒 問 題 と 谷 中 村 廃 村 渡良 瀬 川下 流部 低湿 地 域 の常習 湛 水 は、外 か らの強烈 なイ ンパ クト に より新 た な質 の災害 の出 現 、 それ を めぐ る激し い反対 運 動 へ と予 期 せ ぬ方向 へ転化 し てい っ た。渡 良 瀬川 氾濫 域 で の足 尾鉱 毒問 題 の発 生 であ り、こ こに一 地方 の 治水 問題 に とど まら ず、中央 政府 を まきこ んで 広い 社 会問題 と なっ た ので あ る。 し かし 近代 公害 史 の原点 とさ れる 足 尾鉱 毒問 題 は、 治 水 と密接 に絡 んだ問 題 であ る こ と は否 定で きない 。 下 流で の鉱毒 被 害 は、足 尾 銅 山 から出 た硫化 銅 を含 む廃鉱 が洪 水 に よって 下 流 に押 し 出 さ

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松 浦: 足尾鉱 毒事 件と渡良 瀬遊 水地 の成 立 211 れ、 そ れが田 畑 に氾濫し て生じ た の であ る。 堤 内 地に渡 良 瀬川 洪 水が 氾濫 し な かっ たら、 た とえ 河 道 に 廃鉱 が堆 積し て も、 堤内 地 の田 畑 は鉱 毒 被害 にさ らさ れる こ とは ない。 こ の ため鉱 毒反対 運 動 は、 鉱 山経 営 の廃止 と と もに渡 良瀬 川 改 修 を求 めてお り、 渡 良瀬 川 治 水を包 摂 す る ものだ った。 さ ら に渡良 瀬 川 治水 に とって も、 銅 山採 掘 に 伴う 荒廃し た上 流 山地 か ら の多 量 の土 砂流 出 は重大 な支 障 と なる。 鉱 毒被害 と渡良 瀬川 治 水 は、 密 接、 不可 分 な関係 にあっ た の であ る。 4 −1 足 尾鉱 毒問 題 の発生 と反対 運 動 不 振 をか こっ てい た足 尾銅 山 の 経営 が、 古 河市 兵衛 の手 に わた っ た の は明 治9 年(1876)であ る。 こ の経営 が 軌道 に のっ たの は、 明 治14年、 新 た に豊富 な鉱 脈 (直利 ) が発 見 され てか らで あ る。 こ れ以 降 、産 銅量 は急 速 に増加 し 、明 治18年 の産銅 量 は、 全国 の39% を 占 める に至 った。 そし て精煉 工 場 の新設(足尾 )、 鎔銅所 の建 設(東 京 :本 所)が 行 われ た。 また19年 に は蒸 気 動力 ポ ンプ、23年 には 間藤 に水力 発電 所 が設 置 され た。 運 搬施 設 とし て は23年 に細 尾峠 で 鉄索 の運 転開始 、29年 には 日 光駅 と細尾 の間 で軽 便馬 車 鉄道 が 開設 さ れ た。 また同 年、 東 京 の本 所 鎔銅 所内 に伸 銅工 場 が建 設 さ れた。 銅 山 経営が 順調 に発 展し てい く なかで 鉱 毒 問題 が発生 し た ので あ る。 鉱毒 の影 響が 下 流農 民 に現 れ始 め たの は明 治18年 か ら20年 とい わ れ るが 、明 治21、22 年 の洪 水 に よって 被害 が認 識 さ れる よう に なっ た。 そし て翌23年 の大 洪水 に よって 一 挙 に被害 が顕 在化 し た ので あ る。 群 馬 県 の待矢 場両 堰 水利 土功 会で は鉱 毒 調査 委員 に よ り、 栃木 県 で は県独 自 の被 害調 査 が進 め ら れた。 また農 商務 省 によっ て も調 査 が進 めら れた。 下 流農 民 から は鉱 業 停止 が主 張 さ れ、 さ ら に第二 回 帝 国 議会 で は、明 治24年12月18日 、 田 中正 造 に より取 り上 げ ら れた。 この時 の 被害 で は古河 との示 談が 進 めら れ、 粉鉱採 集 器 の設置 と示 談金 に より収 まっ ていっ たが、 明 治29年 の安 政以 来 とい う大 洪水 に よっ て鉱 毒問題 は一挙 に拡 大 し てい っ た。 この後、 被 害地 住民 の鉱 毒反対 運 動 の組織 化 が 進 み、 群馬 県邑 楽郡 渡瀬 村 の雲 龍寺 に「 栃木 群 馬鉱 毒事 務所 」 が設 置 さ れて、 鉱業 停 止 を求 め る活発 な活 動 が展 開さ れた ので あ る。 群 馬 県会 で は鉱山 の停 止建 議、 栃 木 県会 で は予 防・ 除 害建議 が行 わ れた。 中央 政 府で も榎本 武揚 農商 務 相 の鉱 毒 地視 察、 農商 務 省5 名 の「鉱 毒 特別 調査 委員 」の 任命 が行 わ れたが、 明 治30年3 月、 被 害農民 の二 度 に わたる 東京 押 出し (大挙 上 京請 願運 動) もあ り、 内閣 直 属 とし て 足 尾銅 山鉱 毒事 件調 査 委員 会 (第一 次鉱 毒調 査 会 )が 設 置さ れたので あ る。 第 一 次鉱 毒調 査会 で は鉱業 を 停 止 する か どう かの議 論 が行 わ れ たが、 停 止 は行 わず 古河 に よっ て 予 防工 事 を行 うこ とに決 定し た。 予 防工 事 命 令 は37項 目 に及 び、 この命 令 書 の違反 す る場合 は直 ち に鉱 業 停止 とい う もので あっ た。こ の工 事 に は延人 員60万人 、費 用100 万円 を 要し た とい うが12)、明 治30年、 鉱 山監 督署 の竣 工認 可 を受 けた。 だが翌 年 に は、予 防工 事命 令 に よっ て で き た沈殿池 が 洪水 に よ り破壊 し 、 被害農 民 に よる3 回 目 の押 出し となっ た。 さら に33年2 月13日 に は、 警官隊 と大規 模 に衝 突し た こ とで川 俣事 件 とし て 著 名 な第4 回 押出し が あ り、 その 主 導者 は起訴 さ れ た。 また翌34 年12月10日 、田 中正 造 の天皇 直 訴 、

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学生 達 の被 害地 視察 な どの動 きがあ り、 全国的 な社 会問 題 へ と発展 し てい った ので あ る。 の な かで 政府 は第2 回鉱 毒調 査 会 を設 置し 、 その収 拾 を図 った。 この 展 開 4 −2 第 二次鉱 毒 調査会 にお け る治 水の 論議 明 治35年1 月17 日の閣 議 決定 に 基づ き、 内閣直 属 の鉱毒 調 査委員 会 (第 二 次鉱毒 調 査 会) が設 置 され た13)。3 月18日 に第1[n日 を 開催 し、 翌年3 月3 日、 内閣総 理 大臣 に「足 尾銅 山 二関 ス ル調 査 報 告 書」 を提 出し て実 質的 な役 割 を終 えた。 調 査会 は、委 員長 と15名 の委 員 よ り構成 さ れ たが、 治水 の 専門 家 とし て東 京 帝国大 学 工 科大 学 教授 中山 秀三郎 、土 木 監督 署 技師 (第 一監 督 署 署長 ) 日下 部 弁二 郎 の 二人 が 参画し た。 この 調 査会 で は、洪 水 に よっ て下 流 に運搬 さ れて きた銅 につ いて、 現 在、 稼働 中 の足 尾 銅山 か ら の流 出 は 少 なく、 明治30年 予 防工 事命 令以 前 の操業 によ り排 出さ れ上 流 に堆 積し て い た もの との 基 本 認 識 の下 に 出発 した。こ のた め現 操業 に よる責任 は認 め ず、当 然、操 業停 止 は議 論 と はな らな か っ た。 一 方、 渡良 瀬 川治水 は重 要 な課題 となっ た。 治水 策 は主 に中 山、 日下 部 の二人 に よっ て検 討 ・ 報 告 さ れ たが、 谷中 村 を も含 んだ遊 水 地 計画 が主 張さ れ たので あ る。 管見 す る とこ ろ、 中央 政 府 に お い て この よう な遊水 地 計 画 が公式 の 議論 の場 に出 た の はこ の時 が初 め てであ る。 その 考 え方 、 ま た 背景 につ いて 少し 詳し く述 べてい きた い。 治水 計 画 の基本 的 な考 え 方 は、 次の 二つ に整 理さ れる。 「 渡 良 瀬 川 、利 根 川 二就 キ 水 量 ヲ 測 リ タ ル 結 果 治 水 上 二 個 ノ方 法 ヲ案 出 シ タ リ。何 分出 水 ノ 時 ハ 破 堤 ノ為 メ 、平 水 ノ 時 ハ 減 水 ノ為 メ 、必 要量 ヲ推 定 スル ニ 由 ナ ク、要 ス ルニ 基 本 タ ル 最 多 大 ノ 水 量 ヲ知 ル 能 ハ サ ル 困難 シ タ ル ナ リ。 而 シ テ 其 第 一 ノ 方 法 ハ、 渡良 瀬 川 ノ 氾 濫 個 所 二 堤 防 ヲ 作 り 、 其 水 ヲ利 根 川 二 疎 通 ス ル コ ト 。 即 チ 新 川 ヲ 開 墨 シ テ 利 根 二 水 ヲ落 ス コ ト ナリ 。 其 第ニ ノ 方 法 ハ 、 渡 良 瀬 川 ノ 沿 岸 二 水 溜 ヲ 作 リ 、 以 テ 之 ヲ利 根 川 二 流 出 ス ル コ ト 之 レ ナ リ 。 第 一 法 ヲ 仮 二 実 行 セ ム ト セ ハ、 目 下 為 シ ツ ヽア ル利 根 川 ノ経 営 ヲ 変 更 セ サ ル ヘ カ ラ サ ル 大 事 業 ヲ 惹 起 ス ル ノ困 難 ヲ免 レ ス。 然 ラ ハ 、 不 得 止 第 二 法 ヲ 実 行 ス ル ノ 外 ナ カ ル ヘ シ。」( 第8 回 日 下 部 ) 「 本 年 八 月 二 於 ケ ル 谷中 村 、九 月 二於 ケ ル 藤 岡 町 各 堤 防 決 潰 点 及 其 出 水 ノ模 様 之レ カ 利 根 川ト ノ 関 係 ヲ 攻 究 シ 、先 ツ 藤 岡 ノ 決 潰点 ヨ リ 赤 麻 沼 へ 引 水 シ、 之 レ ヨ リ谷 中 村 へ 流 入 スル ノ 計 画 ニ テ設 計 ス ル ニ 、 平 均 十 尺 ノ 深 サ ト シ 三 千 町 歩 ノ遊 水池 ア レ ハ 或 ハ可 ナ リ 奏 功 セ ム ト 思 料 ス。J( 第10 回 中 山 ) 計 画 と し て ① 築 堤 と 新 川 の 開 削 に よ り 利 根 川 に 流 下 さ せ る 河 道 案 、 ② 渡 良 瀬 川 の 沿 岸 に 貯 水 池 を つ く り 、 利 根 川 合 流 量 を 減 水 さ せ る 遊 水 地 案 、 の2 案 が 提 示 さ れ た 。 だ が 河 道 案 は 、 現 在 進 行 中 の 利 根 川 改 修 事 業 に 多 大 な 影 響 を 与 え る と し て 、 遊 水 地 案 が 実 行 計 画 と し て 説 明 さ れ た の で あ る 。 そ の 遊 水 地 案 は 、 赤 麻 沼 と 谷 中 村 を 中 心 と す る も の だ っ た 。 こ の 遊 水 地 計 画 を も と に 、 い ろ い ろ な 角 度 か ら 質 疑 が 行 わ れ た 。 特 に 興 味 深 い こ と は 思 川 改 修 と の 関 連 で あ る 。 中 山 は 「 思 川 、 渡 良 瀬 川 ヲ 併 合 シ テ 貯 水 池 ヲ 作 ル 計 画 ナ リ 」 と 述 べ て い る 。 つ ま り 計 画 の 基 本 は 、 実 施 中 の 利 根 川 改 修 事 業 に 影 響 を 与 え な い こ と と も に 、 思 川 を 含 め た 改 修 計 画 の 樹 立 で あ っ た 。 さ ら に 、遊 水 地 に 堆 積 す る 土 砂 に つ い て 日 下 部 は 、「 十 年 乃 至 二 十 年 間 位 ハ 耐 へ 得 ル ノ 設 計 ヲ ナ ス 見 込 ナ リ 」 と 述 べ て い る 。 足 尾 銅 山 か ら の 多 量 の 土 砂 流 出 を 前 提 と し て い る と判 断 さ れ る 。 鉱 毒 被

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松 浦: 足尾 鉱毒 事 件 と渡良 瀬遊 水地 の成 立 213 害 を もたら す廃鉱 の土 砂 溜 まり とし て も、 位 置付 け てい たこ とは否定 はで き ない。 また、事業 費 とし て、工 事費 は遊 水地 関 係で160万 円 、上 流改 修で140 万 円 の合 わせ て300万 円、土 地 買収費 とし て360万円 との説 明 が行 わ れた。 買 収対 象地 は遊水 地 で3,000町歩、 そ の周 辺で2,800町 歩 であ っ た。一方 、河道 計画 案 は約1,300万 円 と算 出さ れてい る。た だし利 根川本 川 での 買収 分 は含 ま れてい な い。 土 地買 収 につ い て、 古在 由直 (東 京 帝 国大 学 農科大 学 教授 ) か ら、 困窮 被害 農民 救 済 のた め、 治 水 事業 に よ り積極的 に行う こ とが 主張 さ れた。 そ の価格 も「十 分救 済 ヲ意味 シ テ処分 」 と、 出来 る 限 り 高い 価格 が主 張 さ れた。 つ まり 鉱毒 被 害 とし て古 河か ら の補 償、 また国 か らの 救済 がで きない とし た ら、 治水 に名 を借 りて 回復 のお ぼ つか ない 土地 を買 収し 、 困 窮 農民 を救 済し よう とし た ので あ る。そ の対 象面 積 は回復 の 見込 み が ない土 地5,000町 歩、復 興 の 見込 みがな い土地2,200町歩 で あっ た。 一 方 、 治水 を前面 に 立 てて の鉱 毒 救済 は治水 担当部 局 か ら は異議 が 唱 えら れた。 また事 業費 の負 担 に つい て、 古河 に負 担 させ る か どう か、 土地 収 用法 の適 用 な どを めぐ り議論 が 展開 さ れた。 以上 のよう な議 論 を もと に、 内閣 総理 大 臣 に対 する報 告 書 が作 成 さ れ、帝 国議 会 に提 出 され た。 この 報 告書で は遊 水地 の必 要性 は述 べら れた が具 体的 な場 所 は特 定 さ れず、 次 の よう な記述 となっ てい る。 「 流 域 中 適 当 ノ地 二 一 時 増 水 ヲ蓄 積 シ 徐 二 之 ヲ 流下 ス ル ノ作 用 ヲ為 サ シ ム ル ノ 目 的 ヲ以 テ 遊 水 池 ヲ造 り 」 「 藤 岡 、 海 老 瀬地 方 及 思 川 、 巴 波 川 等 ノ 沿 岸 耕 地 ハ 頗 卑 湿 ニ シ テ 作 物 ノ栽 培 二 適 セ サ ル 所 妙 ガラ ス 」 「 仮 二 遊 水 池 ノ深 ヲ 平 均 十 尺ト ス ル ト キ ハ 之 二 要 スル 全 面 積 八 二 千 八 百 町歩 乃 至 三 千 百 町 歩 ト ス」 4 −3 栃 木県 の対 応 谷 中村 が属 す るの は、栃 木 県で あ る。37 年12月 の通常 県 会末 期 に、 谷 中村 買収 を含 む土 木 費 が追 加 予 算 として 提出 さ れた。 秘 密会 で あ る委 員会 で の審 議 を経 た後 、本 会 議 に再度 、上 程 さ れて 賛成18 、 反対12で 可決 さ れ、 谷中村 は遊 水地 とし て栃木 県 に買 収 さ れる こ と となっ たの であ る。 ここ に 至 る までの経 緯 につ いて、 治 水問 題 へ の栃 木 県 の対応 を中 心 に述 べ てい く。 谷 中村 の明 治20年代 か ら30年代 中 頃 に かけ て の水害 につ い て、先 ず み よう。明 治25年 から、27年 、29 年 、31年、35 年、36年 、37年 と立 て 続 けに 破堤 の記 録 があ る (表-1 )。 そ れ以 前 と比 較し て、明 ら かに破 堤 の頻 度 は多 い。 そし て こ れに よ る湛水 は鉱 毒 を含 ん でい た ので あ り、 その 被害 は甚 大 か つ悲 惨 であっ た。 明 治29年 出水 後 の翌30年5 月、 北 埼 玉郡 古 河 川辺領 (当 時 の 川辺 、利 島 の2 村、 現 在北 河辺 町 ) を視察 し た埼玉 県職 員 は谷中 村 の状 況に つい て 「実 二悲 惨 ノ極 ナ ラ スヤ、 古人 曰 夕人民 化 シ テ魚 卜 為 ラ ント ハ夫レ 此レ ノ謂 へ乎」と述 べてい る14)。谷中村 は明 治29年9 月 出水 によ る破 壊 後 も修築 が遅 れ、30 年春 に は決壊 箇所 から逆 流 し、「一 望 大湖 ノ如シ」となっ て いた。 一 方、 埼玉 県 に 属す る古 河 川 辺 は既 に堤防 復旧 は慨 成 し てい た。 この た め谷中村 の人 々 は「(古 河 川辺 を)羨 ミ且 怒 り頗 ル殺 気 ヲ帯 ピ クル形状 」 であ っ た。

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し かし栃 木 県 は、谷中 村 を放 置 し てい た ので はない。表 ―2 に みる よう に治水 堤 防費 とし て かな り の額 を復 興 に つぎ込 ん でい たの で あ る。 年 に一万 円 を超 え てい た の が26、30、31、32、36 、37 年度 とな っ てい る。特 に32年 度 は6 万 円 近 く を投入し 、 渡良 瀬川 堤 防 は以 前 と比 べ 高 く整備 さ れた。 そ れ で も堤防 の 安全 は保 た れな かっ たの であ る。 また表−3 は県 に よ る谷 中村 罹 災 救助 金 の支 出 状 況 が示 さ れ てい る。 とこ ろで 当時 の谷 中村 の堤防 で あ るが 、対 岸の堤 防 に比 べ 高さ は別 にし て、 のり勾 配 が 急な 貧 弱 な もの だっ た。 た とえ ば思 川対 岸 の堤 防 の表裏 の のり勾 配 は2 割、 渡良 瀬 川対 岸 の群馬 県 は2 割 以 上 で あっ た が、谷 中村堤 防 は1 割以 内 であっ た15)。この谷 中村 周 囲堤 の全面的 改 築案 が 、明 治33年2 月 の 臨時 県会 で知 事 よ り諮問 さ れた の であ る16)。総額13 万8 千 円 より な る3 ヵ 年計 画 で、谷中 村 は 、 村 債 に よる5 万 円 の寄 付 と1 万 円 に相当 する工事人 夫 を負担 す る もので あ り、6,220間(IL300m) の 堤 防 整備 と120間(220m) の 粗 孕 に よる護 岸 を行う ものだっ た。 し か し この計 画 は、県 会 に よ り否 定 さ れた。 そ れは思川 下 流部 との関 係で あ っ た。 当時 、 思 川下 流部 で は栃木 県 に よっ て放 水路 計 画が 進 めら れ、32年 度 か ら着工 す るこ とと なっ て い た。 この 放水 路計 画 は、下 都賀郡 間 々 田村大 字乙 女 か ら同 郡 野木 村 大字 野渡 に至 る台 地 に沿 う も の で あ る。思 川 は、間々 田村 内 で大 蛇 行 しな がら90°に 曲流し て お り洪 水疎 通 に とっ て 非 常 な障 害 と な っ てい た。 放水 路 の工 事費 は約16万1 千 円で 、3 ヵ 年計 画で 完 成 させ る ものだ っ た。 こ の放 水路 の完成 に よっ て 洪 水 の状 況 が変化 す る。 この 結果 を みて、 谷中 村 周囲 堤 の本 格 的 な 工 事 を すべ きとい うの が県 会の 判 断 だっ た。 なお 谷中村 周 囲堤 改築 書 は県の予 算 案 とし て提 示 さ れ た の で は なく、 諮問 として提 出 さ れ て県 会 の判断 を仰 いだ 背景 に は、 上下 流 の地 域対 立 が あっ た と考 えてい る。 谷 中村 の 周囲堤 の 単純 な強 化 は、 その上 流 から 反対 が生 じ る のは 間違 い ない。 その 調整 を県会 に任 せた ので あろ う。 表−2 谷中村の治水堤防費 表−3 谷中村罹災救助金支出 8 千4 百3 拾4 円7 拾6 銭9 厘 千8 百4 拾5 円5 拾8 銭5 厘7 百 拾3 円 フ拾8 銭7 厘1 万6 千3 百5 拾5 円5 拾 銭7 厘5 千8 百7 拾3 円8 拾4 銭5 厘 千5 百8 円7 拾2 銭4 厘8 千4 百4 拾8 円9 拾7 銭4 厘3 万3 千3 百6 拾8 円4 拾6 銭8 厘2 万4 千6 百8 拾7 円6 拾8 銭1 厘5 万9 千9 百6 拾4 円2 拾 銭4 厘2 千6 百4 拾4 円9 拾9 銭7 厘4 百3 拾7 円5 拾9 銭4 百5 拾 円6 拾5 銭3 厘3 万4 千 百8 拾9 円5 拾1 銭1 厘2 万6 千2 百2 拾8 円2 拾8 銭8 厘 23年 度24 年 度25 年 度26 年 度27 年 度28 年 度29 年 度30 年 度31 年 度32 年 度33 年 度34 年 度35 年 度36 年 度37 年 度 計2 拾2 万5 千 百5 拾8 円5 拾8 銭3 厘 出典:r 谷 中村 民 有 地 ヲ買 収 シ テ瀦 水 池 を 設 ケル 秦 書』 「 救 現Nq7 」 田中 正 造大 学 出 版部1988 年 2 千6 百3 拾4 円5 拾5 銭5 厘3 千7 百3 拾5 円7 拾 銭2 厘3 千3 百6 拾8 円4 拾5 銭8 厘 ○OO3 千3 百2 拾8 円7 拾 銭4 厘5 百4 拾3 円3 拾8 銭4 厘2 千4 百4 拾1 円8 拾3 銭5 厘 20 年 度30 年 度21 年 度32 年 度33 年 度34 年 度35 年 度36 年 度37 年 度 計1 万6 千5 拾2 円6 拾3 銭8 厘 出 典:「谷 中 村民 有 地 ヲ買収 シテ 瀦 水池 を 設 ケ ル 奥m 」 前 出

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松涌 :足 尾鉱 毒 事件 と渡良 瀬遊 水地 の成立 215 し かし 放 水路 計 画 は、 下 流 の野 木、 古 河町 、 茨城県 から猛 烈 な反 対 にあ い、 内務 省 の認 め る とこ ろ と なら ず着工 と はなら なかっ た17)。古 河 町 によ るそ の反対 の理由 は、利 根 川、渡 良瀬 川洪 水 の逆 流 と思 川洪 水が 激突 す る場 所 は栃木 県 下で あ る が、 そ れが放 水路 に よっ て古 河 か ら下 流に 移 り、 そ の 危険 を古 河 に転嫁 さ せ る とい う もの だ っ た。 そし て「 下 都賀郡 南 部 ノ地盤 低 ク利 根 川 ヨリ ノ逆 流止 マ ザル 限 りハ、 放水 路 ノ流 入ロ ニ如 何様 ノ設 備 ヲ施 シ候共 到 底衝 突 ナキ ヲ期 シ難 シ」 と主張 し た。 利 根川 逆流 を水 害 の最大 の 因 とし てい た ので あ る。 思川 下 流部 の治 水策 とし て の栃木 県 の放 水 路 計画 は、上 下 流、特 に茨 城県 との地 域対 立 に よっ て 挫 折 を みた ので あ る。 この地 域対 立 は、 栃 木 県の みでは対 処 で きる もので はな かっ た。 こ の経緯 の中 か ら、次に 栃木 県が提 示し た思川 下 流部 の計 画が 、谷中 村買 収 に よ る遊 水 地 計画で あ っ たので あ る。 明 治35年9 月出 水で 谷中 村 が破 堤し た後 、明 治36年1 月 に行 わ れ た臨 時県 会で 、災 害 復旧工 事 費 予 算 要求 が中 心 の「 明治35年 度 歳入 歳 出追 加 予算 」が提案 さ れた18)。 そ の中 に谷 中村 を遊 水地 とす る 「臨 時部 土 木費治 水堤 防費 修 築費 思 川 流域 ノ部 」 が含 まれてい た 。 つ まり 「 思川 流 域 ノ部」 で 谷中 村遊 水地 計 画が、「思 川流 域費 二於 テ 谷 中村 堤 内 ヲ貯水 地ト 為 シ各 関 係河 川 ノ氾 濫区 域 ヲ設 クル ハ 治 水上 最 モ其 ノ策 ヲ得 タル モ ノニ シ テ将 来県 負 担 ノ利 害 消長 二 関 スル コト 実 二鮮 少 ナラ ス」 とし て提 案 さ れた のであ る。 栃木 県 は、 谷中 村 の こ の遊 水地化 を 放水 路計 画 が 挫折し た後 の思 川下 流部 の 治 水計 画 とし て位 置付 け たの であ る。 この 谷中 村土 地買 収 につ い て は、 国庫 補助 の 内定 を既 に得 てい た。 し かし 臨 時県 会 で は否 決 さ れた。 政 府 の第 二 次鉱毒 調 査会 の審 議 が終 わり に近づ い てお り、 こ の 結 論が 出 てか ら処理 す るの が適 当 だ とし て復 旧 に止 め、 約38万3 千 円 を予 算案 か ら削 除し た ので あ る。 だが、 翌 明 治37年12 月10日 の第8 回 通常 県 会 の最終 日 に谷 中村 買 収 を含 む土 木費 が 可決 さ れ、 県 に よ り谷中 村買収 が決定 さ れた の であ る19)。 政 府 の第二 次鉱 毒調 査会 の報 告 書 は既に 帝 国議 会 に 提 示 さ れてお り、 こ の中で 渡良 瀬下 流部 にお ける遊 水地 設 置が 主張 さ れてい た。 こ こで の議 論 も、 栃 木県 の決 定 に大 き な影響 を与 えた こ と は当然 だ ろう。 当 時 の栃 木県知 事 は、 内務 省 神社 局 長 から 転じ た 白仁 武で あ った が、 彼 は内 務大 臣 へ の明 治37年8 月20日付 の国庫 補助 秦請 の中 で 次 の よう に述 べて い る20)。 「 下 都 賀 郡 南 部 一 帯 中 谷 中 村 ハ 、殊 二 四 面 皆 水 ヲ 以 テ 囲続 セ ラ レ 、之 力 堤 防 ノ 如 キハ 随 テ 築 キ随 テ壊 レ 、田 園 ノ 荒 涼 音 二 村 民 困m ノ 極 二 陥 ル ノ ミ ナ ラ ス 、 将 来 モ 亦 殆 ント 安 全 ノ 途 ナ カ ラ ン ト ス。 案 スル ニ 、 鉱 毒 調 査 ノ コト ハ 報 申 精 細 ニ シ テ 、 之 カ 実 行 亦 着々 其 歩 ヲ 進 メ 、 随 テ 渡 良 瀬 一 帯 ノ 治 水 二及 フ ハ信 シ テ 疑 ハ サ ル所 ナ ル モ 、 現 時 一 村 ノ 困 惑 真 二 焦 眉 ノ 急 二 迫 り、 一 日 後 ルレ ハ ー 日 ノ 責 アリ 、 是 今 日 更 二 前 議 ヲ再 提 ス ル ノ 緊 急 已 ム 能 ハ サ ル所 以 ナ リ。」 谷 中村 の周 囲堤 を築 い て も即座 に壊 れ てし まい 、村 民 は疲 弊 の極 み とな っ てい る21)。将 来 に対 し て 谷中村 の 安全 の方 策 はほ とん ど見 当 た ら ない。 鉱 毒調 査会 で 方針 が 樹 てら れ、 将来、 渡 良瀬 川 の 治 水 も進 めら れる こ とは間違 い ない で あ ろ うが、 谷 中村 の疲 弊 は それ まで 待っ て はい ら れな い。 一 日 も早 く対 処 する必 要 があ り、 栃木 県 として 明 治36年1 月 に否 決さ れ た計 画 を再度 進 め るの は緊 急 や

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むを 得 ない 、 とい う ものであ る。 谷中 村 の堤 防 は、思川筋 で 最 も下 流 に位 置し、先 述 し たよ う に思川 の上 下 流 との間 で 論所 堤とな っ てい た。 思川 全体 の中 で 解決し な くて はな ら ない。 し か し放 水路 計 画が下 流 の反 対 にあ っ て挫 折 し た よう に、 栃 木県 に よる思 川下 流 部堤 防 強化 に よる改 修 は多大 な費 用を 要 する とと もに、 下 流 の 強 硬 な 反対 にあ うの は火 を見 る よ り明 ら か であ ろう。 谷中 村 の湛 水 は鉱 毒 を含 んだ土 砂 の 堆積 を 伴 う もの であ り、 その被 害 は極 めて 深刻 で あ る。 放 置し てお くこ とは絶 対 に出来 ない。 この状 況下 で、 谷中 村 全 面買 収 に よる遊水 地 計 画が 栃 木県 に より実行 さ れ たので あ る。 5 。 利 根 川 改 修 と 渡 良 瀬 遊 水 地 第二 次鉱 毒調 査会 で議 論 さ れた渡 良 瀬川 治 水 に つい て 、33年度 から 始 まっ た利 根 川改 修 事業 に影 響 を与 え ない こ と が前提 とし てあ っ た。 こ こで は利 根川改 修 につ い て、 遊水 地 問 題 との 関 連で 整理 し てい く。 この 改 修計 画 は、 第一 監 督 署技 師 近藤 仙太 郎 技 師 に よっ て策 定さ れ た22)。 計 画 の対 象 と さ れた 洪水 は、 明 治18、23 、27.29年 の 出水 で 、 渡良 瀬 川 を合 流し た直 後 の中 田地 点 で は4 洪 水 を平 均 し た13,500立方 尺/ 秒(3.750㎡/s) が 計 画対 象流 量 とさ れた。 こ の 流量 は、 明 【 明 治33 年 (1900 ) の利 根 川 改 修 計 画 に お け る 流 量 配 分 】 ]7 ト ]3 不 回7 ヒ35 舞135.000100,000135.000 −(3,750){2,780)(3,750) 二7 150,00)-135,000 (4,1701(3,750) 聾 沼35,00(1 二(970 ) | 1明 治43 年(1910} 改 定 の利 根 川 改修 計画 に おけ る 流量 配 分】 二 200,000 フト]2 〔・,(別 こ

3 5 , 0 0 0 ( 9 7 0) | ] 155,000 {4,810} O l 図 一4 近 代 利 根 川 流量 配 分 図 ( 明 治 年 間 )

治18 年 の洪 水量13,500立方 尺 /秒 に ほ ぼ近い ものだっ た。 明 治18年 洪水 は全 川 を通じ て 実 測さ れ たが、 妻沼以 下 の上 利 根川 は136,000立方 尺 / 秒で あ り、3,000 立 方 尺/ 秒 が渡良 瀬 川 への逆 流 と評 価 さ れた。 また この 洪水 で は、赤 堀川 へ66,000立 方尺 / 秒、 権 現 堂川 へ は67,000立 方尺 /秒 分 流し 、 権現 堂川 へ流下 し た洪 水 は河 道 内 での 若干 のピ ー ク 流 量 の 減 少 があ っ て江 戸川 へ30,000立 方 尺/ 秒 、逆 川 へ35,000立方 尺 /秒、 流 下し て いっ た。 一 方、 利 根川 改修 計画 で は渡 良 瀬川 へ の逆 流、渡 良瀬 川 から の 合流 と も零 とし た。 中田 下 流 は赤 堀 川 一本 に整 理 さ れ、 この 後、江 戸 川 へ35,000立 方尺 /秒 分 流し、 中利 根川 へ は100,000立 方 尺 /秒 の流下 量 とさ れた (図一4)。 江戸 川 への分 派 率 は26% であ る。赤 堀 川一 本 に整 理 さ れた の は、 次 の 理 由 か らで あ る。 「五 ケ村附近 ハ規定 ノ如ク赤堀川 ヲ拡ゲ、権現堂 川 ヲ閉切ルニ於 テハ、有名 ナル権 現堂堤 ノ難所 ヲ避 ケ得 ルノ ミナ ラス、該 川両岸 ノ堤防 ヲ廃棄 シ得ルニ 至ル。而 シテ赤堀川ヲ拡 ケ洪 水疎通ヲ善良 ナラシメ ハ其 附近 ノ水 害ヲ減 ス ルノ ミナラス、渡良瀬川 ノ逆流ヲモ大 二減少 スヘシ。権現堂川 ヲ閉切 ルニ於 テハ、江戸川 ノ水 量二影響 ヲ及 ホス ユヘ逆川 ヲ改修シ、江戸川 ノ水量ヲ シテ従来 ノモノト異動ナカラ シメントス。而 シテ斯 ノ如 クスルニ 於テ ハ、逆 川 及赤堀川 ノ航路二於 テモ一 定ノ方向 二流下 シ土 砂沈殿ヲ減 スルニ至 ルヘシ。」

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松 浦: 足尾 鉱毒 事件 と渡良 瀬遊 水地 の成 立 217 赤堀 川 を拡 げて一 本 に する理 由 の一 つ とし て 、渡良 瀬 川 へ の逆流 が 減じ るこ とをあ げて い る。 ま た 江戸 川 への 分流状 況 は、 旧来 と変更 がな い こ とを主 張し て い る。 総事 業 費2,236万 円 よりな る近 藤 の こ の計 画 は、明 治31年(1898)に策 定さ れた が、 これ に先立 ち 近 藤 は27年5 月、総 額3,637万 円 か らな る 計 画 を策 定し て い た。 だ が この 額 は当 時 の国 家 全歳 入 の41 % にも達 す る もので過 大 とし て工 事 着手 と はなら なかっ た。し かし 明 治29年 の大 水害 後、約2,000 万 円 とな る計 画 を検 討 す る もよう に との 要請 を受 け、 策 定さ れた ので あ る。 こ の計 画 は、佐 原 から銚 子 河口 まで の 約42km が 第1 期 改 修 区間 と 位置 付け ら れ、33年度 か ら20ヵ 年 に わた る継 続事業 とし て着工 さ れた。こ の後、取手 か ら佐 原 まで の約52km が 第2 期、取 手 か ら群 馬 県芝 根 村沼 の上 まで が第3 期 とし て 着手 さ れ る計 画 であ っ た。 さ て江戸 川 へ の分 流量 は旧 来 の ま ま とさ れ た が、 ここ の流頭 部 に は寛 政 年間 に はそ の前身 が 既に あっ た とい う棒 出し があ る。 こ れ につ い て近 藤 の計画 で は、 何 の変 更 も加 えら れて い ない。 この棒 出し に よ る江戸 川流頭 の縮 少、 そ れ に伴 う洪 水流 下能力 の低下 が渡良 瀬 川 下流部 の湛水 害 の原 因 と し て、 そ の撤去 が栃 木県 そして 田中 正 造 か ら強 く要求 さ れて い た。 とこ ろが この棒 出し 間 隔 は、明 治31年 、9 間強 に狭 めら れた ので あ る。 前述 し た よう に近 世後 期、下 都賀 郡 との間 で18間(33m )より狭 めな い こと が定 めら れた とい う が、 明 治初 年 に は棒 だしの間 隔 は約30 間 に まで拡 がっ てい た といわ れ る。 こ の後、 明 治8 年 (1880) 石 張 に改 築 した後 、17年1 月 か ら一 年 もかけ て丸 石 積に 強化 さ れ10間余 り に狭 め られ た。 この落 成 式 には、大 相撲 を行 っ て盛大 にこ れ を祝っ た。だ が竣工 直後 の18年7 月 の洪 水で 破壊 さ れた 後、同 年、 角石 積 に改築 さ れた。 こ の後、29 年 に は角 石 に よる修繕 が行 われ た が、31年、 河床 の深 さが 計画 低 水 位以 下30尺 (9.09m)か ら15尺 (4.54m) に埋 立 てら れ る とと もに9 間 強 に狭 めら れ、護 岸 は コン クリ ート で覆 わ れた ので あ る。 この棒 出し 強 化、特 に明 治31年 の 改築 につ いて 田中正 造 の主 張 は、 明 治29年 の大出 水 は東 京府 下 まで 浸水 し たの であ るが、 これ に より鉱 毒 問題 が首都 ・東 京 に飛 び火 する のを恐 れ た政 府 が江戸 川 への洪 水 流入 を制 限し よう とし た とい う こ とであ る。し かし 明 治政 府 に よ る本 格的 な 棒出 し強 化 は、 明 治10年代 中 頃 から既 に 始 まっ てい る。 この時 、 まだ足 尾 鉱毒 問 題 は顕 在化 し てい ない。 この棒 出 し強 化 につい て筆 者 は、 東京 港築 港 の課 題 か ら江戸 川 を通 じ て土 砂 を東 京湾 に 流入 す るの を恐 れ た か らだっ た と考 えてい る23)。 明 治10年代 中頃 か ら大 きな 課題 とな って い た東 京港 築港 に とっ て、 重 要 な技術 的問 題 とし て 江戸 川か ら の流出土 砂の対 応 があ っ た。 近代 初 期、 わが国 で は港湾 機能 に とっ て河川 か ら排 出さ れ る土 砂の 港湾 ・航路 におけ る 堆積 は、 重 大 な支 障で あ った ので あ る。 明 治29年 から始 まっ た 淀川 改良 工 事 の大 きな目的 の一つ が、 大 阪港 を 淀 川 から の流 出土 砂 から守 るこ とだ っ た。 とこ ろで、 栃木 県 によ る谷 中村 買 収 の決 定以 前、 第 二次 鉱毒 調 査会 が行 われて い る最 中の 明治35 年 (1902)10月、 谷中村 対 岸 の埼 玉 県北 埼玉 郡 利島 ・ 川辺両 村 (旧 古河 川辺 領、 現北 川 辺町 ) の村 民 大会 が 開 かれた。ここで 、35年8 月、9 月 の出 水 で破堤 し た まま、その復 旧 工事 をし ない埼 玉県 に 対し 、両 村 の買 収 遊水 地計 画 に反 対 し て、 ①県 庁 が堤防 を築 かな かっ た ら村 民 の手 で築 く こ と、 ②

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従 っ て 国 家 に 対 し 納 税 ・ 兵 役 の 二 代 義 務 を 負 わ な い 、 と の2 項 目 が 決 議 さ れ た 。 こ の 両 村 の 遊 水 地 問 題 は 、 同 年12 月 の 埼 玉 県 の 臨 時 県 会 で 、 遊 水 地 に は し な い と の 知 事 の 答 弁 で 決 着 し た 。 埼 玉 県 が 遊 水 地 化 を 検 討 し た の は 、 利 根 川 水 系 治 水 の 観 点 か ら 渡 良 瀬 川 下 流 部 に 積 極 的 に 遊 水 地 を 築 造 し よ う とい う よ り も、 復 旧 し て も 復 旧 し て も破 堤 す る 両 村 の 復 旧 は 意 義 が な い と の 判 断 か ら で あ っ た と 考 え て い る 。 当 時 、 川 辺 村 に は430 戸 、3,100人 、 利 島 村 に は戸 数580 戸 、人 口4,200 人 を 抱 え て お り 、 谷 中 村 よ り か な り 多 い 人 々 が 生 活 し て い た 。 こ こ が 明 治15 年 、18 年 、22 年 、23 年 、29 年 、31 年 、35 年 と 立 て 続 け に 破 堤 し た の で あ り 、県 会 で は 復 旧 に 対 し て 不 信 の 念 が 抱 か れ た の で あ る24)。こ こ に は 、明 治23 年 以 来30 万 円 以 上 が 復 旧 工 事 を 中 心 と し て 支 出 さ れ て い た 。 明 治35 年 の 出 水 後 、 埼 玉 県 で は 新 築 堤 計 画 と遊 水 地 計 画 が 調 査 ・ 検 討 さ れ た が 両 計 画 と も採 用 さ れ ず 、 結 局 、 復 旧 工 事 とな っ た 。 知 事 は 「先 ノ 事 二 就 テ ノ 計 画 ハ ー モ ゴ ザ イ マ セ ヌ 」 と 答 弁 し て い る 。 な お 両 村 の 堤 防 の 大 き さ は 、 利 根 川 対 岸 か ら厳 し く 抑 制 さ れ て い た よ う で あ る 。 つ ま り こ の 堤 防 も論 所 堤 で あ っ た 。35 年12 月 県 会 で 県 議 田 島 春 之 助 は 次 の よ う に 述 べ て い る25)。 「利 根川 ノ同一河川 ノ堤 防、而モ相対 スル堤 デ、一 方八五間以上馬 踏ヲ 要スルニ モ抱 ラズ、一 方八二間若 シ ク八二 間半 二足 ル カ足 ラヌト云フ堤 ヲ以 テ、 是デ効用 が足 りルト云 フヨ ウナ考ヲモ ッテ居ルト言フ コトハ、 私共 二八 分 ラ ナイ。成程、 向フノ堤防 ヲ立 派ニ スレ バ、対岸 が危イト云 フガ、 ソレ ガ分 ラナイ。 ソレ ガ為 二二ヶ村 ノ堤防 ヲ 其倭ニ シ テ置クト云 フコト ハ、為政家ト シテ、其 当ヲ得タルモノ デハアルマ イト 思フ。」 北 河 辺 町 に 今 日 見 ら れ る 対 岸 と 同 等 の 大 き さ の 堤 防 が 整 備 さ れ た の は 、 政 府 に よ る 近 代 改 修 に よ っ て で あ る。 6 。 お わ り に 谷 中 村 廃村 を伴 う渡良 瀬 遊水 地 の 成立 に つい て、 足 尾鉱 毒事 件 との関 わ り も含 め て栃 木 県 の対 応 を述 べ て きた。 栃 木県 は、 政府 の鉱 毒調 査会 の下 絵 を もとに、 鉱 毒 に よっ て激甚 な 害 を被っ て い る 谷中 村 の復 旧 をあ き らめ、 谷中 村 の 全面 買収 に踏 み切 っ たの であ る。 そ の背 景 には 連 年の 破堤 と と もに、 上・ 下 流の 厳し い地 域対 立 が あっ た。 谷 中村 の堤 防強 化 は、 歴史的 な社会 条 件 に より 大 き な 困難 が 伴 って いた ので あ る。 栃 木 県 の対応 をこ のよう に論 理 立 て るこ とが でき るが、 もち ろ ん筆 者 は、 栃木 県 に よ る谷中 村 買 収 に必 然性 が あっ た と主張 す る もの で はな い。 当然 のこ となが ら足 尾鉱 毒問題 がな かっ た ら、 湛 水 は当時 の 土地利 用 状況 か ら みて あ れ程、 激し い 水害 と はなら な かっ たで あ ろう。 当 地域 の治 水 が 社 会 の前 面 に出 て く るのに は、 もう少 し時 間 を要 したで あ ろう。 また 財 政 が豊 かだっ た ら、 別 の治 水策 も樹て られた で あろ う。 た と えば 厳しい 地 域対 立 下 に あっ た 白鳥 、 生井 な どの思 川下 流 部 と一 体 となっ た 堤防強 化 が考 え ら れる。 し かし この 場合 、 下流 の茨 城 県、埼 玉 県 から激 し い抵 抗 にあ う こ とは間 違い ない。3県 を調整 で き る立場、それ は中 央 政府 だ が 、 政府 が 乗 り出 す こ とに よっ て はじ めて可 能 とな る事 業 だ ろう。

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松浦 :足 尾鉱 毒 事件 と渡良 瀬遊 水地 の成 立 219 し かし 政府 は既 に利 根 川 改修 に着 手 し てい た。 その計 画 は、渡 良瀬 川 から の合流 量 を零 とする も の だっ た。 こ のた め渡良 瀬 川下 流部 に遊 水地 を設置し ない河 道計 画 で あっ た ら利 根川 改修 計 画 の全 面的 変 更 が必 要 とな り、 渡 良瀬 川 改 修費 も含 めて工事 費 は大 きく増 大 す る。 栃木 県 また田 中 正造 の 主 張 の ように、 棒 出し を拡 げ、 江 戸 川洪 水 量 を増 大さ せ るな らば 、埼 玉県 下 か ら猛 烈な 反対 が生 じ る。 さ らに下 流部 改修 の 完成 の後 、 渡良 瀬 川 改修 に初 め て着手 で きる。 そ の時 まで 谷中 村等 の渡 良 瀬 川 下流 部 の水 害を放 置 で き るのか。 古 河 の足 尾鉱 山 から の生活 保障 が あ っ た ら、状況 は全 く違 う もの とな るだ ろう。こ の意味 か ら も、 谷 中 村 全面買 収 を伴 う渡 良瀬 遊 水地 の成 立 は、足 尾鉱 毒 問題 と密接 不 可分 な関 係 にあ った。 注 釈 ・ 引 用 文 献1 ) 内 務 省 「 渡 良 瀬 川 改 修 工 事 概 要 」2 )「 小 山 市 史 史 料 編 ・ 近 世I 」 小 山 市 史 編 纂 委 員 会 、pp.640∼644 、1982 年 「 小 山 市 史 通 史II ・ 近 世 」 小 山 市 史 編 纂 委 員 会 、pp.171 ∼172 、1986 年3 ) 原 淳 二「 中 利 根 川 の 改 修 一 赤 堀 川 の 拡 幅 と通 船 問 題− 」『町 史 研 究 下 総 さ か い 第5 号 』境 町史 編 さ ん委 員 会 、pp.50∼51 、1999 年4 ) 根 岸 門 蔵 「 利 根 川 治 水 考Jpp.l77 ∼178 、1908 年 ( 音書 房 復 刻1977 年 )5 ) 根 岸 門 蔵 「 利 根 川 治 水 考 付 録Jpp.3 ∼4 、1908 年 ( 沓書 房 復 刻1977 年 )6 )r 年 未 詳 宝 暦 年 間 よ り 歴 代 変 換 控( 水 害 の 調 )J「 藤 岡 町 史 資 料 編 谷 中 村 」藤 岡 町 史 編 纂 委 員 会 、pp.61∼63 、2001 年7 )『 明 治 十 年 十 二 月 下 野 南 部 治 水 会 日 誌 』( 藤 岡 町 史 資 料編 谷 中 村Jpp.199 ∼209 、 前出8 )「 群 馬 県 邑 楽 郡 史 」 群馬 県 邑 楽 郡 教 育 会 、pp.724 ∼725 、1917 年9 )( 藤 岡 町 史 資 料 編 近 世Jpp.103 ∼105 、2000 年10 ) 年 末 詳 であ る が 、 上 州 (群 馬 ) 側 の 風 聞 とし て 藤 岡台 地 を 掘 り割 っ て 赤 間 沼 へ落 と そう と の 意 見 が あ る こ と を 知 り、 野州 ( 栃 木 ) 側 と し て 「 大 島 村 杉 之 渡 辺 よ り、 西 岡 新 田 亀 子 沼 辺 之 内 は り 、 上 州 間 之 川 辺 江 堀落 しi 侯 \つ 、 野 州 筋 ハ ー 同 水 難 有 之 間 敷 」と 主 張 し て い る 。(『年 未詳 八 月 渡 良 瀬 川 水 行 目 論 見 の 書状 』( 藤 岡 町 史 資 料 編 谷 中 村Jp.199 、 前 出 ) 日 )「 栃 木 県 議 会 史 第1 巻 」 栃 木 県 議 会 、pp.739 ∼741 、1983 年12 ) 上 掲 書4 )pp.233 ∼23413 )「 栃 木 県 史 資 料 編 近 現 代 九 」 栃 木 県 史 編 さ ん委 員 会 、pp.943 ∼1019 、1980 年14 )「 新 編 埼 玉 県 史 資 料 編23 」 埼 玉 県 、pp.l70 ∼173 、1992 年15 )「明 治 三 十 二 年 十 二 月 谷 中 村 堤防 拡 築 工 事 村 債 寄 付 陳 情 書 」( 藤 岡 町 史 資 料 編 谷 中 村Jpp.239 ∼240 、 前 出16 )「 栃 木 県 議 会 史 第2 巻 」 栃 木 県 議 会 、pp.446 ∼451 、1985 年17 )「 古 河 市 史 資 料 近 現代 編 」 古 河 市 史 編 纂 委 員 会 、pp.245 ∼247 、1984 年18 )「 栃 木 県 議 会 史 第2 巻Jpp.394 ∼395 、 前 出 「 栃 木 県 史 資 料 編 近 現 代 二 」 栃 木 県 史 編 さ ん委 員 会、p.187.1977 年19 )( 栃 木 県 史 資 料 編 近 現 代 二Jpp.196 ∼207 、 前 出20 )r谷 中 村民 有 地 ヲ買 収 シ テ 瀦 水 池 ヲ 設 ケ ル 粟 書 」「 救 現Na7 ) 田 中 正 造 大 学 出 版 部、pp.134 ∼140 、1988 年21 ) 谷中 村 堤 防 の復 旧 に は、 大 き な 困 難 が 伴 っ て い た こ と は、 第8 回 通 常 県 会 で のあ る 議 員 の次 の言 に 集 約 さ れ る だ ろ う 。 「当 局 者 の 意 見 と す る 処 は、谷 中 村 は何 等 の 為 に 買 収 す る か と云 え ば 、単 に 歳 々 何 年 之 を や っ た 処 が 皆 堤 防

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が破壊 して仕舞ふ から、 そ れよりは一層 面倒であるからあ ゝ云 ふ所は買収し て溜〈水〉地 にし て仕舞 ふ方 が宜い と云 う御話に過 ぎない。」 ( 栃木 県史資料編 近 現代 二Jp.205 、前出22 )近 藤仙太郎「利根川 高水工事 計画意見 書」1898年23 )松浦 茂樹「国土 の開 発と河川」鹿 島出版 会、pp.191∼195、J989年24 )( 埼玉 県議会史 第二巻Jpp.11]I ∼111225 )同 上 主 要参 考文献 小出 博「日本の河川研究 」東京大 学出版 会1972 年 東海林吉郎、 菅井益郎「通 史足 尾鉱 毒事件1877 ∼1984」新曜社1984 年

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松浦 :足 尾 鉱毒 事件 と渡良 瀬遊 水地 の成 立

AStudyontheProcessofWATARASERetardingBasin

inrelationtoASHIOMINEPOLLUTANTCASE

ShigekiMATSUURA

221 WATARASERiverImprovementProjectwasstartedbytheInteriorMinistry in1910.IntheProject,WATARASERetardingBasinwasconstructedwith abolishingYANAKAVillage.Inthebackgroundofthisconstruction,ASHIO MINEPOLLUTANTOCASEexisted.Alsothefloodcontrolwasimportantin thelowerareaofWATARASERiver. WATARASERiverrunstogetherOmoiRiverinthelowerreachesandis joinedbyToneRiver.ThelowerareaofWATARASERiverwassufferedfromthe flooddamagesincetheModernTimes.Theareaoppositionwasoccuredintensive-lybetweenthelowerpartandtheupperpart.Forexanple,thereinforcementofthe bankinsomeareabroughtabouttheincreaceofthedangerintheotherarea. AstherewasariseoftheriverbedofTONERivertoo.theflooddamage occuredofenwiththedikebreakinthisareainMeijiEra.Butthepollutant producedinthecopperminingprocessatASHIOMINEintensifiedtheflood damagemore.TOCHIGIPrefecturedrewuptheplanofaspilwaybuttheopposi-tionofIBARAGIPrefecturewhichislocatedonthelowerreachesfrustratedit. Afterall,TOCHIGIPrefecturegaveupthereinforcementofthebankandestab-lishedtheplanofretardingbasininwhichYanakaVillagewasabolished.This projectwastakenoverandemplementedbytheInteriorMinistry ・KeyWords:WATARASERiverImprovementProject,AreaOpposition,YANAKAVillage

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