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学芸で結ばれた人たち―初期近世の人文主義者たちと東欧諸国―

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『東欧史研究』第 38 号 2016 年 (1 〜 7 頁)

2015 年度大会

学芸で結ばれた人たち

─初期近世の人文主義者たちと東欧諸国─

薩摩 秀登

Ⅰ 初期近世東欧と人文主義 古典古代への新たな関心をもとにほぼ 14 世紀以 降のイタリアを中心に展開した人文主義は、15 世紀 にはアルプス以北のヨーロッパにも広まっていった。 そして東欧各地でも、イタリア起源の新しい知識や 学芸に、さらにそれを通して古典古代に関心を示す 人たちが登場する。彼らは国内外の著名な人文主義 者たちと交流し、ラテン語やギリシア語の作品およ びその翻訳の収集に熱中し、イタリアなどへ遊学し、 自ら詩作や著作で腕を競うようになった。そうした 知的活動はしばしば、政治的な境界線や、対立しあ う宗派の垣根を越えて広がっていった(1) 東欧各地の初期近世における人文主義者たちの 活動は、各国においてすでに以前から注目を集めて きた。日本でも、小山哲氏がポーランドの共和政を 理念的に支えた人文主義について、また藤井真生氏 が宗派紛争のさなかのチェコ諸邦における人文主義 者たちの動向について紹介している。また対象は主 にドイツだが、服部良久氏が歴史叙述と人文主義と の関連を考察し、そこに一種のパトリオティズムの 形成へと向かう動きを読み取っている(2)。古典古代 を理想と仰ぐ南欧起源の知的活動が東欧にも普及し ていったとき、現地の人々はそれをどのように受け 止めたのであろうか。そして人文主義の受容のしか たや、それを受け止めるときの彼らの視線には、当 時の東欧が置かれた独特の状況が反映していると考 えられないだろうか。 以上のような点を念頭に置き、また本大会の趣旨 に即しつつ、この報告では以下の三点を主眼に、東 欧に拡大していった人文主義の性格およびその意義 について考えてみたい。まず、東欧諸国に最初に人 文主義の影響が及んだ 15 世紀後半から 16 世紀初 頭までの時期を対象とする。これは、(チェコを例外 とすれば)宗教的分裂が大きな社会的問題となる前 の段階である。この時期に限定することによって、 南欧起源の新たな学芸は東欧の人々の目にまずどの ように映ったのか、彼らはそこにどのような有意義 なものを見出したのかを考えてみたい。次に、東欧 諸国およびその周辺地域を含めた広域ネットワーク としての側面に特に注目することで、学芸に対する 関心がどのような形で地域や国家を超えたつながり を作り出したかを捉えてみたい。最後に、こうした 知的交流は具体的にどのような形で展開されたの か、その姿や性格にも注目する。そうすることで、 人文主義者の活動が当時の社会の中で占めていた位 置を考えてみたい。 具体的な事例に移る前に、この時代の東欧で人文 主義者たちが活動した時の全体的状況について簡 単に触れておこう。まず、当時ポーランドからハン ガリーにかけて形成されていた王朝連合や同君連合 は、知識人たちが地域や国家を超えた広域的活動を 展開するためには好条件であった。そして活動の拠 点となったのは、ブダやクラクフなどの王宮、ハン ガリーやモラヴィアそして一部はポーランドにおけ る司教や大司教の宮廷、さらに有力貴族の館などで あった。時には修道院も同様の役割を果たしている。 一方で、大学に所属する知識人が多数参加して人文 主義の拡大に貢献したという性格はまだあまり強く ない。したがって現象としては少数の貴族・聖職者・ 知識人に限定されており、ネットワーク的なものが ありえたとしても、いまだ初歩的な段階であったと 思われる。 またウトラキスト(バーゼル公会議によって認め られたパンとワインによる両形色聖餐を実施する 人々を指し、事実上フス派のなかの穏健グループを 意味する)は基本的に世俗的事象を避ける傾向に あったため、チェコ諸邦、特にプラハでは他の地域 に比して人文主義に対する関心も低かった。しかし

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Ⅱ 結び合う知識人たち では、東欧諸国に人文主義が広められ受け入れら れていった過程について、その特徴をよく示してい ると思われる三つの事例にもとづいて具体的に見て いきたい。一つは、人文主義の「先進地域」から指 導的な人物が東欧を訪れて多くの東欧出身者を惹き つけていった例、次に東欧出身の人物が自ら中心と なって人文主義的サークルを形成した例、そして、 影響力の強い君主を中心に、宮廷から宮廷へと活動 が伝播した例である。これらはあくまで、東欧にお ける人文主義の拡大とその性格を捉えるための実例 であり、その全体像を示すためのものではない。そ して最後にこうした実例をもとに、東欧における人 文主義の普及とはどのような現象であったのかを考 えてみたい(3) まず、15 世紀にはイタリアやドイツなどから著名 な人文主義者が東欧各地を訪れ、こうした人物たち との接触を通じて新たな学問との出会いが可能と なった。そうした人物としては、まず 1442 年以来皇 帝フリードリヒ 3 世の書記を務めたエネア・シルヴィ オ・ピッコローミニ(1405 ~ 64)すなわち後の教皇 ピウス 2 世をあげなければならない。ドイツに最初 に本格的に人文主義をもたらした人物として知られ る彼は、バーゼル公会議でフス派の代表団と接した ことからチェコに対しても関心を深めていくことにな り、その著書『ボヘミア史Historia Bohemica』は大 きな反響を呼ぶことになった。ただしチェコに対す る彼の影響は、人的な交流よりもむしろ、著作を通 じて新たな文体を伝えた側面の方が重要であったと いわれる(4) また、ローマで自ら起こした騒動が原因で、ギリ シア経由でポーランドへ亡命したフィリッポ・ブオ ナッコルシ(別名カリマクス・エクスペリエンス 1437 ~ 96)は、レンベルク(現リヴィウ)司教にし ばらく仕えた後、ポーランド王の秘書官となった。 詩人および著述家として名をはせた彼は、自ら「サ ルマート人の詩人」と称し、「野蛮な国ポーランドを この時期の東欧諸国を広く旅行し、各地に人文主 義への関心を広めていった最大の功労者は、後に ウィーン大学の詩学教授となり、皇帝から桂冠詩人 の称号を授けられたことで知られるコンラート・ツェ ルティス(1459 ~ 1508)である。彼はイタリア遊学 の後、1482 年にブダに一時期滞在し、さらに 1489 年に数学と天文学を学びにクラクフを訪れた。そし て自ら大学で講義も担当したほか、この地で「ヴィ スワ文芸協会Sodalitas litteraria Vistulana」を設立し ている。彼の影響で新たな学芸にめざめた人たちも 多いといわれ、また彼自身も作品の中でポーランド を称えているが、下層の人々は粗野だなどという苦 言も呈している。ここでは、ツェルティスの重要な 業績として、文芸協会について言及しておきたい。 彼の指導下で各地に作られた文芸協会としては、ハ ンガリー文芸協会Sodalitas litteraria Ungarorum、前 述のヴィスワ文芸協会、マルコマンニ協会 Sodalitas Marcomannica(Sodalitas Maierhofiana とも称する)、 ドナウ文芸協会Sodalitas litteraria Danubiana、全ド イツ協会Sodalitas per Germaniam などが知られる。 これらのメンバーはイタリアの人文主義者たちに 倣って書簡を交わし、詩や文章の腕を競って互いに 批評し合い、時には古代ギリシア人をまねて饗宴を 催したとされる。ただし明確な規約やメンバーシッ プを備えた団体ではなく、あくまで強力な創設者個 人の周辺に集まった人びとの緩いまとまりという性 格が強く、むしろヴァーチャルな、明確な実態を持 たない組織であったとする解釈もある。従ってこの ソダリタースの意義をあまり過大評価することはで きない。しかし彼らの書簡は、それ自体が公開目的 の一種の文学作品として書かれたものであることが 多かったし、明確な組織を持たずに情報交換を通じ てゆるく結びついていたとするならば、それはむし ろ現代でいうネットワークに近い性格のものであっ たのかもしれない(5) いずれにせよ、これらの活動に見られるのは、ブ オナッコルシやツェルティスのような強烈な個性を 持った人物が自ら諸国宮廷を訪ねて回り、その周辺

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2015 年度大会 ● 学芸で結ばれた人たち─初期近世の人文主義者たちと東欧諸国─ ……… 薩摩 秀登 に人文主義者たちの集団が形成されるという姿であ り、遍歴人文主義Wanderhumanismus とでも称すべ き現象である。そこにはまだ、現地の広範な社会に 目を向けて新しい学芸の有用性について熟考すると いう性格はあまり明確でない。 なお、この文芸協会との関連では、当時少しずつ 普及し始めた活版印刷にもとづく出版事業について も触れておきたい。印刷術を用いた大規模な出版事 業は、大量の情報の迅速な普及を可能にしたが、同 時にそれ自体が一種の伝達と連携にもとづく共同作 業でもあった。出版所の運営やマテリアル(写本・ 原稿・エピグラフなど)の収集、そして校訂と編集 の作業は多数の人々の議論と共同作業によって成り 立っていたし、資金の調達・提供にも多くの協力者 が必要であった。また、出版の内容によっては君主 の特許状や、しかるべき筋からの許可を得なければ ならず、有力者の口添えも必要となる。文芸協会は、 こうした大がかりな作業を支えた団体として機能し ていたという側面も注目される(6) 次に、東欧出身の著名人が中心となり、その周 辺で知識人たちが相互に結びあうことになったもの として、ハンガリーのヴィテーズ・ヤーノシュの例 を挙げたい。オラデア司教を経てエステルゴム大 司教となった彼は、自らイタリアで学ぶ機会は得ら れなかったが、大司教区の収入をあてて若い有望 な人々をイタリアに送り込んだ。また、彼が中心に なって 1465 年に創設されたポジョニ(現ブラチス ラヴァ)の大学Academia Istropolitana は、実際に は 10 年程度で消滅してしまったとはいえ、設立当 初は、当時プラハ大学がフス派の拠点となってい たため、新たに東欧に正統な勉学の場を設けると いう狙いがあった。それだけでなく、ヴィテーズと 交流のあったティロルのドメニコ会士フントピヒ ラーは、ハンガリーに大学を創ればスラヴ人の国々 からだけでなくギリシアからも人々が容易に学びに 来られるであろうと述べていた。ビザンツ帝国の消 滅後、多数のギリシア系学識者が西側に亡命して いた時期でもあり、実際にこの大学ではギリシア人 が教えていた可能性がある。またトレビゾンド出身 でカトリックに改宗したベッサリオンは、教皇使節 として 1460 年にウィーンを訪問し、皇帝フリード リヒ 3 世を説得してハンガリー王マーチャーシュを 総帥とする対オスマン十字軍を実現させようと図っ ていたが、この動きにヴィテーズも関与していた可 能性がある。そしてポジョニの大学では、ベッサリ オンに近いグループのメンバーたちが何名か活動 していた。このように見てみると、東西教会の関係 が重要な問題となっていた 15 世紀半ばに、イタリ アからアルプス地方を経由してウィーン、そしてハ ンガリーというルートで知識人たちが連携し合い、 国際情勢をもとに現下の問題を論じあっていたとい う可能性もある。大司教ヴィテーズの館は人文主 義的素養のある知識人たちのサロンのような場であ り、その蔵書も評判になっていたといわれるが、そ こでの議論のテーマにはおそらく、政治的なものも 含まれていたのであろう。 最後に、国王の宮廷を中心点として有力貴族や司 教らの連携が成立し、これを通して人文主義的理念 が広められた例として、ハンガリー王マーチャーシュ とモラヴィア貴族ボスコヴィツェ家をとりあげてみよ う。マーチャーシュは 1469 年にチェコ諸邦の主にカ トリック側の貴族によって国王に選ばれて以来、主 にウトラキストに支持されたポジェブラディのイ ジーとチェコ王の地位を競い合うことになった。そ してプラハまで軍を進めることはできなかったもの の、モラヴィアとシレジアを勢力下に置くことに成 功した。そしてこの時期から大司教ヴィテーズも含 めたハンガリーの人文主義者たちとやや疎遠になり、 代わってモラヴィア出身の貴族たちに接近していた が、その一つがモラヴィア中部に本拠を持つボスコ ヴィツェ家であった。 ボスコヴィツェ家はかつては一族全体がウトラキ ストであったが、ブルノでのジョヴァンニ・ダ・カ ピストラーノの説教に接してカトリックに移行した といわれる。この一族出身のプロタシウス(別名タ ス)はパドヴァで学んだ折、ヴィテーズの甥でやは り同地に留学していたヤヌス・パノニウスと親交を 結び、1485 年にそれぞれ帰国してプロタシウスは オロモウツ司教に、パノニウスはペーチ司教になっ た。プラハを中心としたチェコでウトラキストが優

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者でもあった。したがってプロタシウスはマー チャーシュを支える主要人物の一人であったが、姻 戚関係にあるポジェブラディのイジーとの関係も維 持した。そして 1479 年にイジーの後継者ヤゲウォ 家のヴワディスワフとマーチャーシュの間でオロモ ウツ協定が結ばれ、両者の和解が実現した背景に は、プロタシウスの多大な尽力があった。また、彼 自身はカトリックでありながら、バーゼル公会議が チェコとモラヴィア限定で承認した両形色聖餐を 支持したといわれる。また、オロモウツにツェルティ スによって作られたマルコマンニ文芸協会は、同じ く人文主義者として知られた司教スタニスラフ・ トゥルゾのもとで活動を続け、1540 年代まで存続 していた(7) またプロタシウスの甥ラジスラフは、イタリア留 学の後ハンガリーのヴェスプレーム司教となり、マー チャーシュの宮廷の主要メンバーの一人となった。 しかし後に聖職を離れて 1486 年にモラフスカー・ト シェボヴァーに居を定めた。彼がここに建てた城は モラヴィア初のルネサンス式宮殿建築といわれ、そ の後のモラヴィア貴族の館のモデルとなった。ラジ スラフ自身、オウィディウスの作品の注釈書を執筆 するなど人文主義者として知られたが、その城と図 書館は近辺の学芸愛好家たちの集う場所となった。 さらにボスコヴィツェ家の親戚には、高い学識を 備え、モラヴィアの国政に関する著述などで知られ たツィンブルクのツチボル・トヴァチョフスキー(1438 頃~ 94)がいる。彼自身はウトラキストであったに もかかわらず、モラヴィア領邦長官としてマーチャー シュの代理統治者となり、しばしばブダの宮廷を訪 れている。 Ⅲ 新たな学芸に求められたもの 以上、16 世紀初頭までの時期に限定して東欧を 舞台に展開された知識人たちの連携の様子を見てき た。では、東欧に住み、最初に人文主義の流行に接 した人々はその中にどのような有益なものを見出し、 何をそこから引き出そうとしたのであろうか。それ ろうか。 まず東欧の人々にとって、イタリア由来の新たな 文芸活動は、「文化の落差」を強く実感させるもの であった。ブオナッコルシやツェルティスに対する 評価や彼らの発言からは、文芸の栄える国すなわち 文明国であり、粗野な東側の諸国にもこれを伝え広 めていかねばならないという意識が当時あったこと が読み取れる。人文主義者たちは決して、数百年に わたって知の基盤を作り上げてきたスコラ学を否定 しているわけではない。しかしここでいう文芸とは、 後世の雑多な要素を取り除いた「本来の純粋なラテ ン語」によるものでなければならなかった。これを 修得して古代の著述家や哲学者たちの作品に親し み、著名な人文主義者たちと交流しつつこれを駆使 することで、自分を一段と高い存在にすることがで きると彼らは考えていたし、また外交など公式の場 でこれを用いれば自分たちの属する集団のステータ スを誇示することもできた。 なお人文主義者たちの間では、本来の個人名の代 わりにラテン語あるいはギリシア語に翻訳した名称 を名のることが流行したが、これは単に自分を古代 の著名人になぞらえるだけでなく、本来の名前に組 み込まれている現実の身分的体系の指標から距離を 置くという意志表示でもあった。 人文主義的な知には、より積極的な役割も期待さ れていた。文明的であることは、平和で繁栄してい ることにも通じる。古典古代の学芸は、社会に調和 をもたらし、善を行き渡らせる基礎になるとする考 えはすでに東欧にも伝えられていた。ウトラキスト のプラハ市民で領邦台帳担当書記を務め、法につい ての深い学識をもとに『チェコの法、裁判、台帳に 関する 9 巻の書』を著したフシェフルディのヴィク トリン(1460 頃~ 1520)は、古代の著作の翻訳で も知られていたが、「ドイツ諸国が平穏で豊かに暮ら し、いかなる類の悪事もなしに法的秩序を保ってい るのは不思議ではない。それはひとえに、ドイツ人 が種々の書籍から屋内や屋外の管理について学ぶこ とができ、遠い古代を模範にして公共の福利を維持

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2015 年度大会 ● 学芸で結ばれた人たち─初期近世の人文主義者たちと東欧諸国─ ……… 薩摩 秀登 できるからである」と述べている(8)。ドイツについて のこの理解が正しいか否かは問題ではなく、通常は チェコ語を重視してドイツ語を避ける傾向にあった ヴィクトリンでさえ、ドイツはチェコよりも学芸で先 んじているがゆえに平和な国であるとみなしていた ことに注目したい。そしてフス派戦争後のチェコに 生きたヴィクトリンにとって、「平穏で豊かに暮らす」 とは、何よりも宗教的不和を克服することを意味し たであろう。後に宗教紛争の渦中にあったドイツそ の他で人文主義に求められたのと同じ役割が、フス 派とカトリックの対立に揺れていたチェコの知識人 によってすでに期待されていたのであり、それは人 文主義的素養を備えたモラヴィア貴族たちの動向か らも読み取ることができる。 以上のような、新しい学芸それ自体に求められた 価値のほか、人文主義に付随して東欧に新しくもた らされたものもあった。人文主義者たちにとって尊 重すべき言語は何よりもラテン語であり、次にギリ シア語であったが、同時に彼らは古典語の作品の翻 訳作業も重視した。もちろん学芸の普及を目指して のことであったが、そこには同時に、自分たちの国 の言語を新しい知を表現し伝達するにふさわしいも のにするという意図も込められていた。ここからは やがて、洗練された「国民の言語」を求める傾向が 広まっていく。 また、ハンガリー王の宮廷を経由してルネサンス 式の宮殿建築がモラヴィアに普及したことをすでに みたが、これは単なる流行の模倣ではなく、視覚 的要素や空間的表現を通じて、同時代イタリアの 君主たちと、そしてさらに古代地中海世界の統治 者たちと並ぶ存在としての自己を主張しようとする 試みでもあった。広い中庭を囲む造りの館は儀礼 や祝祭を通じて権勢を誇示するのに適していたし、 仮にそれを建てるほどの余裕はなくとも、ゴシック 時代の城の窓に当時流行の装飾を取りつける、あ るいは主人や奥方のエンブレムをはめ込むなどの 形で同じことが表現できた。マーチャーシュの没後、 ハンガリー王位はヤゲウォ家に引きつがれるが、こ の王朝が財政的に逼迫していたために、ハンガリー 王周辺のマイスターたちが各地の豊かな貴族たち によって引き抜かれ、結果としてルネサンス風の造 形がモラヴィアに伝わったといわれる。このような 事情のもとで、当時のイタリア各国で君主や貴族た ちが展開していた統治や生活様式に関する情報が、 アルプス山脈の東側を迂回して北方に伝えられて いった。 15 世紀後半のチェコはこうした造形の面でも遅れ をとっていたが、影響が及んでいなかったわけでは ない。1490 年以降、ヤゲウォ家の王はほとんどチェ コには不在であったが、この時期にプラハの王宮の 改修を担当したベネディクト・リートの建築はゴシッ クとルネサンスの独特な混合であり、そこに暗に表 現された支配者像も近年新たに注目されるところと なっている(9) 新しい学芸を求める過程で東欧の人たちにもたら されたものとしては、このほかに、新たな地理的感 覚もあげることができるだろう。イタリアへの遊学、 東地中海世界も含む各地の知識人たちとの交流、そ して古典古代の作品を通して得られる地理学上の知 識は、新たに空間的視野を広め、その中に自分たち の地域を置いて認識することを可能にした。ハンガ リーの人文主義者たちは明らかに東西キリスト教世 界の中間に位置する国の住民として、したがって相 対的にギリシアに近い位置にいることを前提に自ら の役割を考えていた。またイタリア遊学をきっかけ にウトラキストからカトリックに移行したモラヴィア 貴族ロプコヴィツェのボフスラフ(1461頃~ 1510)は、 パレスティナやエジプト方面への長途の旅行体験を 記録に残しているが、そこにはチェコ諸邦をヨーロッ パの大きな地理的広がりの中に置いて見ようとする 傾向が現れている(10)。また彼が本拠のハシシュテイ ンの城に設けた学校はそのレベルの高さで当時広く 知られていた。 以上のように、東欧においても 15 世紀後半から 16 世紀初頭までの間に、すでに新たな学芸を求める 人たちの連携が成立しており、それは一定の成果を もたらしていた。これはまだ始動して間もない段階 であって、君主や司教の宮廷を拠点にいわば点と点 を結ぶような限定的な動きが中心であり、広範な社 会現象と呼べるものではない。しかし、一部の知識

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さくない。そしてその交流や伝達は明らかに、国家 ごとのまとまりや、チェコ諸邦に関してはいえば宗 派の別をも容易に超える形で広がっていた。当時の 東欧が、各地に基盤を持つ大小の貴族の様々なまと まりと、これを大きく包み込むような王朝連合とに よって成り立っていたことも、政治的境界を縦横に 乗り越えるネットワークの形成を容易にしたであろ う。この後、ヨーロッパ全体が深刻な宗教紛争に見 舞われる 16 世紀において、東欧で人文主義が果た した役割は大いに注目すべきであるが、それに先 立って新しい学芸への志向がすでに芽生えていたこ ともまた重要であろう。その具体的影響の大きさや 性格については、さらに多くの事例にもとづいて検 討していかねばならない。 (1) 東欧の初期近世の人文主義の概略および各地域 の事情に関しては、以下を参照した。 Eberhard, Winfried, Grundzüge von Humanismus und Renaissance: ihre historischen Voraussetzungen im östlichen Mitteleuropa. Eine Einführung, in: Winfried Eberhard / Alfred A. Strnad (eds.),

Humanismus und Renaissance in Ostmitteleuropa vor der Reformation, Köln, Wien, Weimar, 1996

(以下 Humanismus und Renaissance)pp.1-27. Harder, Hans Bernd / Rothe, Hans (eds.), Studien

zum Humanismus in den böhmischen Ländern III.,

Köln, Weimar, Wien, 1993. Hlobil, Ivo / Petrů, Eduard, Humanismus a raná renesance na Moravě, Praha, 1992. Machilek, Franz, Konrad Celtis und die Gelehr tensodalitäten, insbesondere in Ostmitteleuropa, in: Humanismus und Renaissance, pp.137-157. Marosi, Ernő, Die Corvinische Renaissance in Ungarn und ihre Ausstrahlung in Ostmitteleuropa, in: Humanismus und Renaissance, pp.173-189. Müller, Rainer A., Humanismus und Universität im östlichen Mitteleuropa, in:

Humanismus und Renaissance, pp.255-272.

Ritook-Szalay, Agnes, Der Humanismus in Ungarn zur Zeit von Matthias Corvinus, in: Humanismus

Humanismus und Renaissance, pp.189-214.

Šmahel, František, Mezi středověkem a renesancí, Praha, 2002. Wien, Ulrich A. / Krista Zach (eds.),

Humanismus in Ungarn und Siebenbürgen. Politik, Religion und Kunst im 16. Jahrhundert,

Köln, Wien, Weimar, 2004. Wörster, Peter, Breslau und Olmütz als humanistische Zentren vor der Reformation, in: Humanismus und Renessance, pp.215-229. (2) 小山哲「人文主義と共和制 ポーランドから考え る」小倉欣一編『近世ヨーロッパの東と西』山川 出版社、2004 年、18 ~ 44 頁。同「宗派化と大 学の変容 ─近世ポーランドにおけるイエズス会 の学校教育とクラクフ大学」、南川高志編著『知 と学びのヨーロッパ史 ─人文学・人文主義の歴 史的展開─』(以下『知と学びのヨーロッパ史』) ミネルヴァ書房、2007 年、247 ~ 277 頁。服部 良久「歴史叙述とアイデンティティ ─中世後期・ 人文主義時代のドイツにおけるその展開」、『知と 学びのヨーロッパ史』、 141 ~ 166 頁。藤井真生「人 文主義と宗教改革 ─チェコにおける人文主義の 展開とフス派運動の影響─」、『知と学びのヨーロ ッパ史』、117 ~ 140 頁。同「イタリア司教の目に 映った一五世紀のチェコ ─エネアのボヘミア・ レポートとその背景─」長谷部史彦編『地中海世 界の旅人 ─移動と記述の中近世』慶應義塾大 学出版会、2014 年。 (3) 筆者はすでに東欧中世全体を概観する中で、人 文主義者たちの活動の一端を紹介している。小 澤実、薩摩秀登、林邦夫『辺境のダイナミズム』 岩波書店、2009 年、206 ~ 213 頁。

(4) Šmahel, Mezi středověkem a renesancí, p.332. (5) チェコのストルホヴァーは、ツェルティスの文芸

協会も含め、初期近世人文主義者たちの活動に 関して、特にコミュニケーションの形態に注目す る立場から分析している。 Storchová, Lucie, Humanistická komunikace a její sociální rozměr. Příspěvek k interpretaci českého humanismu(以下 Storchová, Humanistická komunikace), in: Časopis

matice moravské 122 (2003), pp.61-97. 文芸協会に

関しては pp.67-76.

(6) Storchová, Humanistická komunikace, pp.76-78. (7) Storchová, Humanistická komunikace, p.72. (8) Šmahel, Mezi středověkem a renesancí, pp.341-342.

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2015 年度大会 ● 学芸で結ばれた人たち─初期近世の人文主義者たちと東欧諸国─ ……… 薩摩 秀登

(9) Kalina, Pavel, Benedikt Ried a počátky záalpské

renesance, Praha, 2009. 人文主義との関連性につ

いては特に pp.12-42.

(10) Lisy-Wagner, Laura, Islam, Christianity and the

Making of Czech Identity, 1453-1683, Burlington,

参照

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