水道事業「民営化の失敗」を越えて
持続可能要件としての規制機関改革の必要性矢
根
真
二*
概要 本稿の目的は,2018年12月公布の改正水道法によるコンセッションの普及策 をめぐる現状の問題点が主として不明確・不明瞭な政策の論拠・説明自体にあ るため,このままでは部分「民営化の失敗」が生じかねない,という問題を提 起する点にある。この仮説を支える主要な論点は,1)SNS を通じた世論が政 策を左右しかねない「トランプ化時代」の認識を欠いた説明があまりに不明瞭 なゆえ,国民の理解を得るどころか,非難を解消できていない点,2)その主 因はコンセッション(の EBPM(Evidence Based Policy Making)として持続 可能要件へ)の有用性・必要性を納得させる論拠がきわめて不明確であること,3)この不明瞭・不明確さの結果としての悪評を招いた根源は,(権限だけでな
く権威と説明力も高い「独立規制機関(IRA : Indepedent Regulatory Agency)」
ではなく,もはや国際的にも時代遅れとなった)「無責任な規制のアンシャン レジーム」(の規制改革を放置してきた点)にあること,4)それゆえ,これま で実際に(持続可能性の必要条件である)原価と料金設定を適切に規制できな かったアンシャンレジームが,今後(より複雑な契約を伴う)コンセッション の管理監督をできる根拠に乏しいこと,という4点である。 目次 1 有事に露呈する「無責任な規制のアンシャンレジーム」 2 2 国策としての「水道コンセッション」の不明瞭なメッセージと不明確 * 本稿は,桃山学院大学2019年度特別研修による成果の一部であり,また桃山 学院大学井田憲計准教授・田代昌孝教授・松村昌廣教授・望月和彦教授より 有益なご指摘を賜りました。ここに記して感謝します。言うまでもなく,本 稿の見解や誤謬の責任はすべて筆者個人にあります。
な論拠 16 2.1 「トランプ化時代」の国策としての不明瞭な政策メッセージ ………17 2.2 2つの神話と EBPM としての不明確な論拠 ………22 3 持続可能な事業としての料金規制の失敗 26 3.1 持続可能要件としての料金規制………27 3.2 持続不可能な水道料金の実態:料金規制の放棄と不作為・作為の失敗 ………31 4 部分民営化政策の失敗と独立規制機関創設の喫緊の必要性 37 注………40 参考文献………54 キーワード:上水道事業,コンセッション,独立規制機関(IRA : Independent Regulatory Agency),持続可能性,水道料金規制
1
有事に露呈する「無責任な規制のアンシャンレジーム」
本稿の焦点は水道事業の持続可能性を危うくしかねない規制の根源的主 因の検討にあるが,不幸にして世界中がパンデミックに陥った新型コロナ 感染症への懸命な規制・対応に追われる最中である。2020年5月中旬現在, 少なくとも先進国での第一波の初期ステージは一段落したかにみえ (1) る。た だし,初動の出遅れ・失敗を指摘する声もあった先進国でも,たとえば米 国のような CDC(米疾病対策センター)のガイドラインに沿いつつも経 済再開を先行し始めた地域がある一(2)方,(感染者数でも死者数でも先進国 では「桁違い」に低いはずの)日本では緊急事態を継続せざるえなくなっ た安倍首相が「予定通りに緊急事態を終えられなかったと陳謝」する(国 際的には)異様な状況にあ(3)る。米国の CDC のような権威・権限のある専 門家による司令塔を常設しなかったために,総合的で責任ある柔軟な EBPM(Evidence Based Policy Making)を欠き,国民への透明・機敏な 情報提供・公開も(国際的に著しく乖離した)低水準であるという批判を 受け入れたとして(4)も,現時点での感染者数・死者数は「桁違い」のレベル に収まっているのは事実だからであ(5)
そもそも,集合知(Collective Intelligence:集団的知性)の形成が個々 人の認知バイアスや集団思考(集団による浅慮)に悩まされるのはいずれ の国も同じであり,特にアナログ社会の日本の立法・行政では政治家や官 僚の個々人が(世間の嘆くコロナ対策のために)生命を危険に晒す毎日で あるのも事実であ(6)る。 それでも日本国民が「不条理感」を拭い去れないとすれば,それはもう 個々人の政治家や官僚の資質・能力に帰せられるものではな(7)く,行政制度, (とりわけ国際的には CDC のような)専門家による「独立規制機関(IRA :
Indepedent Regulatory Agency)」に委任されるのが常識となった規制分 野における硬直的かつ無責任な集団思考が常態化しているからであろう。 たとえば,当初にクラスター論の重視(かつ PCR 検査の軽視)を決め たとすれば,たとえクラスター論が崩壊し政治家に PCR 検査数の増加を 求められても,いっこうに進展しない,といった現象がまさに集団思考の 象徴であ(8)る。なぜなら,国民の安全を守るべき当局の集団思考の結果が, 自宅療養患者の手遅れを許容し,発熱救急患者のたらい回しを増加させ, 受け入れ病院には院内感染の恐怖を高めていると批判されても(この4月 には)仕方のない状況だったからである。 もちろん予断が許される状況ではなく,第2波・第3波にも備えた検査 キット・治療薬・ワクチン供給・医療現場支援を含めた専門家による継続 的・長期的な規制・対応に集合知を注ぐべき時期は続く。実際,短期的に は制度的・文化的・政治的に変更し難い地域固有の制約もある一方で,長 期的にはその一部に改善可能性がありえる分だけ,各国・各地域の規制・ 対応にも現場のみが知る固有の困難を伴う。長い鼻を欲しがっても,キリ ンには象の頭は無理だろうし,長い足を欲しても,象にはキリンの足は無 茶だろうが,明確な長期目標に合意できれば,人類には制度を適応・進化 させることは可能なはずである。 ゆえに,一方で一部の国・地域が経済再開を始動し,他方で日本のよう に緊急事態宣言を延長し再開が多少遅れた国・地域があろうとも,結果的 に有益となる政策評価には多様な観点からの慎重な事実解明と国際比較を
含む総合的な観点が不可欠であ(9)る。ところが,感染者数でも失業率でも決 してまだ国際的に突出しているわけでもない日本の規制・対応に関して (確かに硬直的・無責任な集団思考の常態化はあるにせよ)ほぼ不平不満 や批判一色という現状は異様にも思える。この一因が,次節で言及する SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)での評判によって政策が左 右されかねない「トランプ化時代」の浸透にあることは明白である。良く も悪くも,善意であれ悪意であれ,真実でも虚偽でも,いったん拡散すれ ば,政府要人でも政策当局でも一定の対応を迫られる時代だからこそ,安 倍首相も陳謝を選ばざるをえなかったのかもしれな (10) い。事実,有益な政策 評価とは対照的に,今起こっていることで,直感的に誰にも理解でき,情 動に直結しやすいメッセージこそ,(多数のツイードの連鎖を生みやすい がゆえに)大きな影響力を持つ(から,慎重な事実解明や総合的な観点を 精査する暇も動機も乏しくなる)。 しかし本節で注目したいのは,緊急事態の継続が決定される以前に,す でに日本の主要マスメディア,とりわけ平時には政権にさほど批判的とは 思えないジャーナリズムからも,断定的な非難が目立った点にある。衝動 を抑え難く言いっ放しになりがちな SNS とは対照的に,日頃の取材を通 じて当局の制約や実情に理解があり,複数の熟練した編集過程を経るため, 少なくとも平時における断定的な非難は(周知となったスキャンダルを除 けば)稀だからである。それゆえ,この種の非難は,「国の統治のあり方 をも揺さぶりかねない」コロナ危機への規制当局の集団思考が決して偶発 的な類いではなく,むしろ(過去はともかく,)今日日本の規制レジーム の根源的課題を浮き彫りにしていると考えられ(11)る。 非難が際立った具体例の象徴として,「オンライン診療,壁は厚労省 医師会へ配慮にじむ」および「規制改革,目に余る及び腰」(『日本経済新 聞2020年4月3日』)という名指しの記事,すなわち「デジタル技術を使っ て医師が自宅や施設にいる患者を診るオンライン診療を広げるのは,医療 の機能悪化を防ぐ有力な手段のひとつだ。その点で厚生労働省の及び腰は 目にあまる。」という真正面からの厚労省への叱責がある。というのも,
3月31日の経済財政諮問会議において安倍首相が「現状の危機感を踏まえ た緊急の対応措置を規制改革推進会議で至急取りまとめてほしい」と指示 を出し,推進会議も受診歴のない患者でも初診からオンライン診療を認め れば(通院を省け)患者も医療従事者も院内感染から守れると主張したに もかかわらず,「厚労省がオンライン診療の拡大を阻もうとする背景には 日本医師会の存在がある」(から承認しない)と断定したからであ (12) る。 もっとも,長期にわたって日本の医療・衛生行政の細則・実施・監督を 一手に引き受けてきた厚労省にとっては,その最たる調整相手である日本 医師会の意向を無視しては,今後の円滑な行政を維持できなくなると判断 したのかもしれない。いわゆる「マルチタスク」,しかも(労働や社会保 障に加え)医療・介護・衛生の行政全般という非常に広範な横幅と,すべ ての細則の立案・施行・監督までという非常に縦長な「過剰なまでのマル チタスク」を引き受ける厚労省には,目前のコロナ禍は同時進行する多様 な平常業務の一端にすぎない。そうだとすれば,厚労省による推進会議へ の「受診歴のある患者で高血圧などの慢性疾患であれば可能」だが「受診 歴のない患者は認められない」という平時のような説明は,たとえコロナ 危機で生命を危ぶまれる医療現場や患者からは「説明責任の放棄」と非難 されようとも,(それを承知で)もっと重要なマルチタスク維持には既得 権益保護も必要だと「総合的」に判断したのであろう。 しかし,平時ならともかく,実際に生命を危険に晒さざるをえない人々 を報道するジャーナリズムから見れば,緊急時に対応できない組織の言い 訳は「目にあまる」のが当然である。事実,厚労省の「総合的」な判断は 「省内の総合」にすぎず,外部から見ればたんなる集団思考だからこそ, 政治家も即座に是正を求め,3日も経ずに「オンライン診療,受診歴ない 初診患者も解禁 政府方針」・「厚労省,感染拡大で一転容認 オンライン の初診解禁」(『日本経済新聞2020年4月6日』)へと厚労省も豹変する。 ただし,あくまで「新型コロナの感染が収束するまでの時限的な措置」 という限定条件を崩さず,公的保険でオンライン診療に対応する医療機関 も(約1000と)全体の1%にすぎない。コロナ感染収束後に再禁止される
可能性がある限り,本来なら急増するはずの投資も抑制されるので,実質 的には厚労省も既得権益の保護に成功したのである。 政治にロビー活動はつきものであり,規制にも capture theory という理 論や実証的証拠は豊富であ (13) る。アビガン等の認可の遅れも,程度の差こそ あれ,いかなる規制当局も逃れられない「死のトレードオフ」であ(14)る。 しかし,未曾有の非常事態に陥った世界各国・各地域を見渡しても, 「医療崩壊」,すなわち院内感染で医療現場さえ生命の危機に怯える状況下 で,オンライン診療を実際に制限し続けようとした(厚労省のような)規 制当局が他のどこにあっただろうか? というのも,オンライン診療は, 不安に悩み感染を広げる可能性もある患者に自宅での診療を可能にするだ けでなく,多様な非医薬介入政策の砦たる医療現場で戦う医師や看護師等 を守るために不可欠な施策であることは,(もはや4月時点では誰の目に も)明らかになっていたからであ (15) る。 ならば,たとえ平時の対面診療に劣る面があったり利益団体の心証を害 すことがあったにせよ,コロナ危機最前線の医師・看護師の生命を危険に 晒すような規制は,(たとえ独裁政権下であろうとも)広く国民から「不 作為の罪」として非難されかねない異常で珍奇な愚策である。だからこそ, 「目にあまる」と真正面から公然と非難され,政府も数日で翻意させたの であろうが,民主主義国の実質的な規制当局が本気で(医療崩壊を招きか ねない)オンライン診療の制限にこだわった事実にこそ,現代日本の規制 レジームの深刻な問題が凝縮されている。 すなわち,医療崩壊を防ぐどころか,危険に晒しかねない異常で珍奇な 愚策にこだわった現状が誰の目にも明らかならば,その実情を最もよく知 り嘆くのも,おそらく厚労省の構成員自身にちがいない。もはや過剰なマ ルチタスクで機能不全となった厚労省から,その規制部門を即刻解放し, 独立した規制機関に権限と責任を委譲しなければ,使命感のある人材を集 められず,政治家も指導力の発揮しようがなく,ますます行政・省庁の信 頼・誇りを貶め,有能・有識なテクノクラートを育てられないという悪循 環から脱出できない。もはや省内の「総合的」な判断は,省外の誰の目か
ら見ても異常で珍奇な判断としか思えないのだから,その改善は組織の抜 本的改革なくしてありえないのである。 そもそも日本では,内閣から独立した合議制の行政機関という組織形態 は戦前には存在せず,たとえば戦後の放送制度発足時の(電波・放送の規 律を所管する独立行政機関・独立行政委員会である)「電波監理委員会」の 設立も占領下の GHQ(とアメリカ行政法)の強い影響によって実現され たのも束の間,「日本の行政法伝統に反する」という根強い抵抗によって, わずか2年余りで廃止されてしまったのであ(16)る。しかし今日では,独立規 制機関が放送ないし放送・電気通信を規制するのが国際標準であり,デジ タル化が急速に進む分野の規制はもはやマルチタスクに追われる省庁や大 臣一個人が直接責任を負える時代ではない。 ゆえに,当局による医療崩壊を招きかねなかった愚策は,確かに文明開 化時代にまで遡れる日本の伝統的な「鶏の卵」だという側面はあるにせよ, 規制当局のみが実質的に改革でき改革すべきだった卵だけに致命的である (が,厚労省にはその名目上の権限もインセンティブもない点に,日本的 規制レジームの問題が凝縮されている)。確かに,いったん軽視した PCR 検査を必要になっても充実できないという集団思考の常態化も深刻な問題 ではある。しかし,当局がこれまでと同じ卵では医療崩壊を招きかねない と予測できたのに,医療崩壊の防止に重要かつ基本的な規制を実施するど ころか,自らがその抵抗勢力になってしまっては,規制当局としての存在 意義や権威を完全に喪失したも同然であ(17)る。 もし,規制部門がすでに存在意義を失っているとしたら,なぜ存続でき るのだろうか。実際,オンライン診療が制限され軽症者の隔離が遅れる ほ (18) ど,院内感染による直接・間接の感染者・感染死者数は増加する(し, 実際に首都圏を中心に院内感染は現実問題化した)。この理不尽な「不作 為の罪」の責任は,(オンライン診療を渋ってきた)厚労省に問えるのだ ろうか。 問えないから理不尽なのである。厚労省は,常時とまったく同じように, 規定通りに行政を進めることが唯一の責務だからである。これが,「不条
理への嘆き」や「理不尽への怒り」が有事の度に繰り返される理由である。 ならば,(数日で翻意させたとはいえ,根本的な方向転換はできなかっ た)長たる加藤大臣や安倍首相には責任を問えるだろうか。たとえ閣僚に は感染症対策や規制実務の経験・知識がなくても,名目上の責任のすべて は長たる政治家にあり,実際に世論や選挙を通じて大臣の顔ぶれは変更で きる。しかし,これだけでは不作為の罪の犠牲者は浮かばれまいし,異常 で珍奇な愚策は(規制当局に責任がないのだから)今後も繰り返され,理 不尽である。事実,規制当局の責任が問われず根本的な改善がなされない からこそ,私たちは有事の度に表面化する「不条理への嘆き」と「理不尽 への怒り」を繰り返すばかりなのである。 実際,高度にデジタル化した放送・通信分野の規制を見渡せば誰でもわ かるように,専門的で体系立った規制の枠組と細目は独立規制機関が責任 を持つのが国際常識であって,検査キットや新薬の認可という専門知識が 不可欠な個々の細目に大臣「個人の指導力」が問われることは稀である。 むしろ,政治家が担うべき真の責任は,自ら負えもしない責任を無責任に 抱えたまま,この機能不全に陥った規制部門の改革を今日まで放置してき た点にある。だとすれば,私たち投票者やジャーナリズムの重要な存在意 義も,(この国際水準から取り残されてしまった)規制の権限と責任の明 確な再割り当てに関する政治家の姿勢と行動力に注視していくことにある。 現実問題として,CDC や FDA(米食品医薬品局)がこうした異常な規 制をするだろうか。むしろ行政側から求められたとしても,EBPM,つま り経験的なデータ・証拠に基づいた説明責任を果たし,その長が全責任を 負うのが当然であれば,逆にその規制の根拠をただすのではあるまいか。 この意味では,大統領の指示があったとはいえ,検査キットの申請を受 理してから24時間以内で承認し,副作用のあるレムデシビルの緊急使用を 電光石火で承認した FDA は,その柔軟な権限行使に伴うリスクと責任も 負っているのである。だからこそ,助けられた人は,(おそらくトランプ 大統領よりも)規制機関に感謝(し,被害を被った人は非難)するのであ(19)る。 他方,厚労省は「不作為の罪」を問われることがないのだから,平時に
長年にわたってオンライン診療を制限してきた「作為の罪」も問われるこ とはない。改革は,政治家の責任だからである(が,高度な専門・実務知 識を要する諸規制の責任や指導を大臣一個人が担える時代ではない)。少 なくとも省内では,過剰なほどのマルチタスクを円滑に進める既得権益の 保護として(改革よりも)尊重されてきたからこそ,(世界の潮流と乖離 しても)維持できるのである。 要するに,日本的規制の特徴は,(国際標準から乖離した実質的な)規 制部門の「責任の不在・不問・不明」という「無責任な規制体制」にあり, こうした時代遅れの行政制度の改革を今日まで怠ってきた点にこそ日本の 政治家の真の責任がある。 CDC や FDA といった独立した委員会や規制機関の常設は,米国に限っ た特殊な話ではない。むしろインフラや公益事業の規制においては,独立 規制機関(IRA)による規制こそ,「規制された資本主義(Regulatory Capi-talism)」時代の一般的な特徴である。たとえば Asquer(2017, Ch. 1.4)は, 現代政治・政策的話法における規制とは,一般的に1980年代以降に実施さ れた典型的な特性を有する政策改革とみなしており,特に規制の機能・役 割を独立規制機関に委譲した点に特徴がある,と定義しているほどである。 1980年代は国有企業や政府の直接介入に対する自由化(liberalization)や 民営化(privatization)が公共政策の焦点になり始めた時代だが,それよ り重要なのは(その政策改革実現に必要な手段として EU 諸国では)独立 規制機関が中心的な役割を担い始めた時代だという点である。OECD に よる後押しもあって,規制当局改革による規制内容変更というワンセット の政策改革が今やラテンアメリカ・アジアや途上国にまで普及したため, もはや今日の規制の入門教科書では「規制とは独立規制機関(IRA)によ るもの」で国際的にも十分に通用するのである。 すなわち,縦割り型の広く多様な分野の横幅と細則の立案・施行・監督 まで一手に引き受ける縦長の「過剰なまでのマルチタスク」の中に規制を 抱えたままの日本の省庁による直接規制は,とっくに「規制された資本主 義」の潮流から取り残された例外的な「アンシャンレジーム(旧体制)」
なのである。確かに,日本でも1980年代の中曽根内閣時代に第二次臨時行 政調査会(土光臨調)による電電公社(1985年)や国鉄(1987年)の分割 民営化が断行されたが,「新しい経済・社会・政治的秩序」たる「規制さ れた資本主義」への改革には至らず,明治以来のアンシャンレジームに対 する規制改革・行政改革は先延ばしにされたままなのである。 古きことが悪しきこととは限らず,短所は長所にもなりえるが,国民の 生命を危険に晒しかねない異常で珍奇な愚策が国際的にすでに陳腐となっ た「無責任な規制のアンシャンレジーム」からの帰結だとすれば,日本の 規制改革の喫緊の最重要課題は明治以来肥大化してきた省庁からの規制部 門の解放であり,独立規制機関に権限を直ちに委譲することにある。もは や「無責任な規制のアンシャンレジーム」では,明確な目標・透明性・説 明責任という国際標準となった責務を効果的には果たせないため,行政部 門全体の信頼と誇りを貶めるばかりだからであ (20) る。 それどころか,この失われた30年の間,テクノクラートやエキスパート による規制とその知的国際交流から取り残されてきた規制部門が旗を振っ てきたのだから,日本では高度デジタル化やグローバル化がほぼ「かけ声 倒れ」に終わり,今なお将来も見通せない理由も理解できよう。規制当局 自身の例外的なアナログ手続きの非国際性を解決しない限り,令和になっ ても停滞は続くのである。 付言するまでもなく,異常で珍奇な規制の主因が(個々人の能力・資質 からではなく)旧態依然のまま進化できなかった組織の肥大と硬直化にあ るなら,厚労省だけに特別な問題があるわけではない。明確な目標と透明 性のある説明責任を課された専門家による独立規制機関が主流の「規制さ れた資本主義」時代において,未だに広範囲の行政の細則立案・実行・監 督を一手に引き受ける過剰なマルチタスクに追われている限り,どの省庁 の規制も同種の問題を抱えざるをえな(21)い。 たとえば非難が目立った第2の具体例としては,「「対面指導」崩さぬ文 科省 オンライン授業に壁」において(休校が長期化する小中高校に対す る「オンライン授業だけでは単位として原則認められない」という文科省
担当者の回答を紹介したうえで,)「こうした構図は,ビデオ通話などによ る遠隔診療の規制緩和に消極的だった厚生労働省の姿勢と似通う」と非難 し,「オンライン授業,ハードもソフトも壁 回線や単位認定」では(全 国の小中高校の1割弱では光回線に未接続という事実を指摘した後に,) 「対面指導を前提としてきた硬直的な教育慣行や文部科学省の規制も壁だ」 と叱責した点であ (22) る。休校の長期化で「教育を受ける権利を奪われた」児 童・生徒と,何の見通しも示されない環境でも「教育を継続しようと工夫 する」教職員に対し,「オンライン授業だけでは単位として認められない」 という平時の規定を繰り返すだけというのは(実質的に)「学校崩壊」を 放置する異常で珍奇な愚策に他ならないからである。 なぜなら,この緊急事態における愚策を実質的に改革でき改革すべきな のは規制当局なのに,文科省にはその名目的な権限も(それゆえ責任も) インセンティブもないというまったく同じ構図,すなわち「無責任な規制 のアンシャンレジーム」の発露だからである。 (少なくとも5月までは大半の小中高生が)教育を受ける権利を奪われ たという意味では「学校崩壊」が生じていたのに,たとえ対面より多少劣 る面があるとしても,それだけでは単位認定できないと(誰の目にも明ら かな)学校崩壊の唯一の防波堤を制限するような規制当局が他にどこにあ るだろうか? 責任ある当局なら,オンライン授業環境の支援・整備に全 力を傾けるだけでなく,特に高校には実情に応じた柔軟な単位認定方針と 出口の見通しを示すことで,現場のオンライン化をさらに推進するよう工 夫するはずである(が,たとえ萩生田大臣や安倍首相には学校現場や規制 実務の経験・知識がなくても,必要な対応や原則の変更はすべて政治家の 責任なのであ(23)る)。 それゆえ,文科省による規制も,学校崩壊の防止に重要かつ基本的な規 制を実施するどころか,自らがその抵抗勢力と化してしまったという意味 で,規制当局としての存在意義や権威を喪失したも同然,というまったく 同じ構図なのである。 事実,(不幸にも第2波等による)休校がさらに長引く地域が出れば,
(唐突な特例措置でも講じない限り「原則として」)単位認定が必要な高校 生は進級できなくなるという不作為の罪が明白になる(から,世界的に見 ても異常で珍奇な無責任な愚策なのであ(24)る)。しかし,不幸にしてそうし た局面が起こった場合でも,責任不在・不問・不明の「無責任な規制のア ンシャンレジーム」だからこそ,平時にも(国際的に突出する形で)オン ライン授業への消極的姿勢という作為の罪を改善する必要がないのである。 もちろん,緊急時の「医療崩壊」や「学校崩壊」の危機が「無責任な規 制のアンシャンレジーム」だけで一元的に説明できるわけではなく,また そうした説明は本稿のような小論の成せる課題でもない。政治・法律・経 済・社会・文化といった制度的・歴史的要因が補完し合った複雑な構造を 読み解かなければ,どうして秩序だった整合的な対策・戦略を国民にわか りやすく明確に説明しつつ柔軟な対応を迅速に実行できないのか,といっ た多種多様な不平不満への合理的な説明は難しい。 この意味では,(緊急経済対策に盛り込んだ助成金や給付金の支払いに 必要な)行政手続きが欧米に比べて著しく遅いという批判に対して,安倍 首相が掲げた「行政手続きに必要な対面や押印といった慣習や法規制を早 急に見直す」(「対面・押印・書面を削減」『日本経済新聞2020年4月26日』) という方針は,きわめて根本的で大胆な挑戦である。というのも,日本の 立法・行政・司法の三権こそ,「書面・押印・対面」という業務遂行スタ イルに固執する総本山であり,だからこそアンシャンレジームによる規制 も(国際的に異例として取り残されてもなお)オンライン化に消極的であ りえたからであ (25) る。 日本企業の生産性の低さを DX(Digital Transformation)の遅れに求め る声は少なくなかったが,まずは官公庁,そして親会社や大口取引先のデ ジタル化が進まなければ,大半の企業のデジタル化が進むはずもなく,年 配の上司がデジタル化に消極的なら IT 世代の部下もデジタル化へのイン センティブを失って当然だから,この悪循環を好循環に逆転できれば,日 本企業の生産性も大きく上昇し始めるにちがいない。だとすれば,「失わ れた30年」からの脱却には,とりわけ三権業務の遂行様式の DX こそ,
(「対面」から「オンライン」への「業務標準化」の切り替えを妨げている 総本山なのだから)喫緊かつ効果的な戦略になるはずである。 しかし,「過剰なマルチタスクに追われ無責任なアンシャンレジームと 化している」という見方が正しければ,(たとえ総理大臣の方針といえど も)もはや政治家「個人の指導力」だけでは,これまでと同じ「かけ声倒 れに終わる」と誰もが期待さえしないだろう。すでに日本の行政部門はそ こまで威信を貶めてしまったからこそ,抜本的な改革が必要なのだが,も はや「自己改革」・「自己規制」する余力があると期待する国民はもう少数 派なのである。電電公社や国鉄の民営化を断行した土光臨調でさえ,明治 以来の省庁による直接規制の改革はできなかったのだから,総理大臣のか け声だけで動くとは誰も期待できず,それがまた行政の権威と信頼をさら に貶めることになるだけである。 すなわち,「無責任な規制のアンシャンレジーム」の抜本的改革と同様, 「書面・押印・対面」という旧態依然とした業務スタイルからの脱却も, 土光氏を上回るような信頼と気骨のあるリーダーの責任の下に,各省庁か ら趣旨に理解があり実務も熟知したテクノクラートや(外国人を含む)専 門家を招いた独立規制機関を設置し,権限を明確に委任することが不可欠 である。特に,一国の今後を左右する業務スタイルの革新や規制のアン シャンレジームからの解放については,公正取引委員会のような国会の同 意を必要とする独立性の高い三条委員会でなくては実行は難し (26) い。目標を 明確にした責任と権限ある改革組織の設立という政治責任を全うしない限 り,かえって「かけ声倒れ」と行政への信頼失墜を繰り返すばかりだから であ(27)る。 この相互に密接に関連する両課題とも,実現できれば戦後史を飾る快挙 となるほどの難事業である理由は,官僚というよりまさに政治家の責任で あり,それゆえ(その放置を見過ごしてきた)私たち投票者やジャーナリ ズムの責任だからである。しかし,国民の生命や教育を受ける権利(や財 産保全)が脅かされる異常で珍奇な愚策の放置を目の当たりにしては,私 たちに根付く現在バイアスや集団思考を抑えるべく社会的なチェック&バ
ランスのシステムを総動員し,集合知を高めていくしかない。政治家や官 僚も(国際常識から乖離した探れば山の如く見つかりそうな作為・不作為 の罪の責任を問われ)権威と信頼を失墜するにも上限があり,その理不尽 な対応への嘆きを繰り返すジャーナリズムや私たちも(国際的に著しく低 下した水準への)許容限度に近づいているからである。 さて,以上のような現状認識は,決して目新しいものではない。実際に 有事の度に国民やマスコミが繰り返し嘆いてきた事実を紡いだ全体像にす ぎない。 たとえば,2011年の東日本大震災では,(今回同様に)有事への適切な 対応を欠くことが甚だしかったため「人災」と指摘する声が上がったと同 時に,地域独占規制および安全性・原価論議の根本だった総括原価が実際 には「直近の10年間は政府による審査が制度上行われていない」という 「無責任な規制のアンシャンレジーム」の実態が発覚し,「制度全体の見直 しが必要」という全面的な批判の嵐が吹き荒れ(28)た。 しかし,非難の嵐が過ぎ去ってみると,水道のような地方公営企業では 総括原価方式が生き残ったままなのである。しかも,その実質的な管理監 督責任を多くの地方公共団体や所管する官庁は果たしておらず,非難の嵐 が来る日を待っているかのような「無責任な規制のアンシャンレジーム」 のままなのである。 本研究は,この「無責任な規制のアンシャンレジーム」仮説を水道事業 に適用してみるケーススタディであり,有事の非難の主因は平時の無責任 なリスクの先送りの積み重ねにあることを例証するのが目的である。すな わち,上記の有事に露呈した深刻な問題は決して偶然ではなく,平時の無 責任な先延ばしの必然的な帰結なのである。 実際,コンセッションのような部分民営化以前の問題として原価割れ料 金設定が横行する水道事業のようなインフラ産業では,すでに法定耐用年 数を超えた経年管を抱える事業者が8割を占め,その喫緊の更新費用総額 10兆円を賄えなければ安心安全な供給持続は不可能な事態にまで追い込ま れているので,「水道網崩壊」がいつ起こっても不思議ではない。この
「無責任な規制のアンシャンレジーム」仮説が水道事業によく当てはまる なら,他のインフラ産業や地方公営企業にも適用できる余地は大きくなり, 有事に繰り返される「不条理への嘆き」や「理不尽さへの怒り」を事前に 解消できるようになるかもしれない。 以下では,この水道事業のコンセッション推奨策に焦点を合わせて分析 するため,まず次の第2節で,水道事業の部分民営化の現状と論点を整理 する。すなわち,専門家による責任ある独立規制機関ではないゆえに,国 策としての水道事業のコンセッションの普及策がきわめて不明瞭なメッ セージとして伝えられ,その EBPM としての論拠も不明確であるという 問題を取り上げる。第3節では,持続可能性の必要条件たる料金と原価の データから「無責任な規制のアンシャンレジーム」の結果としての存続不 可能性を指摘する。すなわち,すでに7割近い給水事業者が原価割れの料 金設定を行っており,(より複雑な)コンセッションの契約や進行に伴う 諸問題の管理監督は難しいこと,8割に達した経年管を抱える事業者の喫 緊の更新投資必要額は事業者平均値で現水道料金の10倍(中央値では6 倍)を要し,このままでは(コンセッションどころか)水道事業の持続そ のものが難しいことを例証する。それゆえ最後の第4節では,持続可能な 水道事業への集団的知性を形成し断行することが先決であり,そのために も本節で強調した明確な目標と責任を有する独立規制機関への権限委譲が 不可欠であると結論づける。 したがって,水道事業の現状は,まさに上記の「無責任な規制のアン シャンレジーム」からの推測通りの実態である。事業者の平均年齢が60歳 に達する今日まで放置してきた結果,これ以上の不作為は確実に人災のリ スクを高める末期的状況にまで追い込まれている。それでも「水道網崩壊」 に責任ある施策を打たない規制機関に,まだ国民は存在意義を感じるだろ うか。
2
国策としての「水道コンセッション」の不明瞭なメッセージ
と不明確な論拠
膨らむ一方の公的債務による財政逼迫の結果として,PFI 法等に基づく 民間資金の活用は今や国策である。適用可能な産業を拡大するとともに, より契約金額の大きな手法の採用を推進してきた結果,「上水道事業にお けるコンセッションの導入」に至ったわけである。しかし,長らく「水道 供給=公営企業」の通念化に邁進してきた上水道部門では特に,声高な国 民・市民の非難・批判に注目が集まっているのが現状である。 本節第1項で説明するように,「トランプ化時代」の認識が甘く,なぜ 国策としてのコンセッションが水道事業に必要かつ有益なのかを明瞭に伝 えられなかった厚労相・厚労省の責任は重い。前節でも言及した「トラン プ化時代」には,たとえば「新型コロナウイルス対策を所管する西村康稔 経済再生担当相が PCR 検査を受けたことが,ネット上で「ずるい」など と批判を浴びている。」といった「マスコミ報道」が瞬時に拡散し,肝心 の政策立案・執行を左右しかねないからであ(29)る。事実,不明瞭な国策メッ セージが招いた不安感・不信感という逆風のせいで,真っ先に手を挙げた 浜松市は市民の反対によって頓挫し,宮城県も周到な説明の工夫を余儀な くされている。 第2項では,不明瞭な国策メッセージの主因が,より深刻な不明確な EBPM(Evidence Based Policy Making)にあることを明確にする。(少な くとも上水道事業では)民営企業が公営企業より効率的だという物語は, 確証のない神話だからである。むしろ,前節で述べた独立規制機関のよう な規制当局のあり方がより重要だというのが常識であり,この意味では 「無責任な規制のアンシャンレジーム」の改革こそ政府・厚労省の先決問 題である。なぜなら,コンセッションがうまく機能するには民間企業との 契約や履行のモニタリングが不可欠であるのに,それを(経済モデルの前 提に多用される厚生の最大化のように)うまくこなせる政府や規制当局の存在も神話にすぎないからである。 ゆえに,地方公共団体にはいっそう懇切丁寧で明瞭なメッセージを通じ て市民の理解を深めることが不可欠になるだけではなく,実際に費用を削 減できる契約の作成・履行のモニタリングに十分な独自の制度設計能力も 要求される。したがって,現状に大きな変化がない限り,たとえ成功・失 敗の評価が定まる時期は現首長の任期終了後だとしても,このようなリス クが高く取引費用も嵩むギャンブルに敢えて賭ける地方公共団体は急速に は増えないと予想できる。 2.1 「トランプ化時代」の国策としての不明瞭な政策メッセージ 農業人口が減少した日本のような国でも,水使用量は農業用水が三分の 二,残りを生活用水と工業用水で(前者がやや多い6割弱対4割強といっ た形で)ほぼ二分する。水の枯渇問題には,(ミラー他(2010)の指摘す るような)農業用水の吟味が不可欠だと言われる所以である。 この水資源の管理や使用の所管と法規制は,戦後の省庁間の所管争いの せいで,タコ足のように細かく分かれてい(30)る。河川法や下水道法から水資 源開発促進法までを所管する国交省,水道法の厚労省,工業用水法の経産 省,土地改良法の農水省,そして水質汚染防止法の環境省,さらに(上水・ 下水・工業用水事業は地方公共団体が主体なので)地方公営企業法の総務 省まで深く関わっている。都道府県の壁を越えた水源とその流域管理の重 要性を無視できない時代ではあるものの,タコの足の司令塔,つまり (1974年にイギリスで制定された水系地域毎の多目的な統括機関のような) 頭は存在しないところに,日本の縦割り行政の特徴がある。 本稿の主たる分析対象は,地方公営企業としての上水道事業であるが, 同じ地方公営企業法に従う公共下水道や工業用水も「独立採算」を原則と する点は同じである。さらに,1999年の PFI 法(民間資金等の活用によ る公共施設等の整備等の促進に関する法律,2018年施行令一部改正)施行 以降,民間資金の活用による財政抑制が国策として推奨されてきたため, (所管や事業者カバレッジに違いはあっても,2011年の PFI 法改正による
「コンセッションの導入」以降は)コンセッションの普及に邁進してきた 点も同じであ (31) る。 しかし,世間からの声高な酷評は,2018年に公布(2019年に施行)の改 正水道法が(官民連携推進のために民間事業者への運営権設定を円滑にで きるよう)導入した「コンセッション」のみにほぼ集中した,という顕著 な特徴がある。これまでにも,一般的な業務委託や(水道法による)第三 者委託が推奨されてきたが,民間事業者が運営権者として料金設定を含む 施設の建設や運転を一手に引き受けられるとなると,状況が一変したので あ (32) る。 ところが,コンセッション自体は,それ以前から空港等への導入例が増 加していたにもかかわらず,さほど問題視されてはこなかった。実際,浜 松市も下水道にコンセッションを導入し,上水道のコンセッションに名乗 りを上げたとたん,(職員・労働組合を含む)市民グループからの反対運 動が高まり(2019年1月には早々に)延期を表明せざるえなくなった。現 在でも,上水道と下水・工業用水のコンセッションを初めて可決した宮城 県への関心の高さは,工業用水での鳥取県・熊本県・大阪市・三豊市や下 水道での浜松市・須崎市のコンセッションとは非常に対照的であ(33)る。 したがって,浜松市や宮城県にネット上の非難が集中したのは,「上水 道のコンセッション」だったからである。その証拠に,上水道でも(経営 管理権を伴わない)委託や(三セクと呼ばれる)混合企業への委託,ある いは上水道以外(の空港や下水・工業用水の)コンセッションにはネット 上の注目さえ集まっているようには見えな (34) い。 要するに,「上水道のコンセッション」は,生命に不可欠な「命の水」を 長きにわたって「公共の水」として供給してきた「伝統的行為」の否定だ から,それを即座に非難する「感情的行為」や「価値合理的行為」に火が つき,そこに「再公営化の潮流」や「黒船(外資)の来襲」といった「目 的合理的行為」の指摘が油を注いだとみなしうる。というのも(後述する 目的合理的な公営企業論とは別に),生まれたときから公営水道に慣れ親 しんだ日本国民にとっては,「水道供給=公営企業」が「伝統的行為」と
して染みついていても不思議ではないからである。すると,カーネマン (2014,第7章)のいう「システム1」が非難への「感情的行為」をかき 立て連想記憶を刺激するので,確証バイアスに沿った自信過剰な「価値合 理的行為」や「目的合理的行為」に至るのも無理はな (35) い。 もっとも,(他省と同じようにコンセッションを推奨してきただけの)厚 労省にとっては,福島(2017)が指摘するように,飲料水のみを「命の水」 として特別視し,いつまでも「水道事業=公営」という既成概念にとらわ れているのは「論理的ではない」と映るかもしれない。しかし論理的には, そもそも「伝統的行為」や「感情的行為」は「反省的意識」に欠けた行動 に近く,価値的合理性は論理だけで割り切れるものではない。しかも現実 に,SNS を常用する今日では,「フィルターバブル」によって,私たちの 確証バイアスは増幅されているはずである。事実,民間企業のコスト優位 や政府機関の適切なモニタリング能力という既成概念も,少なくとも水道 事業研究では神話とみなすべき物語なのである。 その結果,2018年12月の水道法公布に際しては,むしろ新聞やテレビが 先頭を切って,「再公営化した自治体数」というフレーミング効果を用い て世論を煽る側面があったことも事実である。換言すれば,「水道供給= 公営企業」という通念は,(ジャーナリストや政治家も含めた)私たち日 本人に深く根付いた「伝統的行為」であり,過去の水道行政が(後述する ような原価割れや更新の先延ばしといった多分に「上げ底」の影響があっ たにせよ)国民に信頼されてきた証左でもある。先人が長年積み上げた信 頼を活用するどころか,台無しにしてしまった点に,厚労相・厚労省の戦 略的な稚拙さが凝縮されている。 そのうえ,いち早く橋本(2018)が指摘していたように,民営化時代の パリ市では利益の過少申告が見つかり,民営化を見直したベルリン市では 運営権の買い戻しに13億ユーロ(約1690億円)を要し,イギリスでさえ高 額の配当金と報酬が問題視されていたのは,事実である。これらの事例は, たとえ国際的な都市や専門家を擁する独立規制機関でも,実際に契約の作 成・実行や企業行動のモニタリングをする困難さと,それに失敗した場合
の費用・リスクの大きさを物語る。1989年の完全民営化以降,真っ先にプ ライスキャップを導入し数々の調査・報告で知られる OfWhat(英水事業 規制局)でさえ,完全なモニタリングにはほど遠いのだから,日本の市町 村には(厚労省を頼りにできない限り)少なくともパリやベルリンを凌駕 する契約作成能力とモニタリング能力が要求され(36)る。 もっとも,フランスの事業者数が日本より一桁多い状況を考慮すれば, 福田(2019)が報告しているように,「再公営化比率」は統計的にはほぼ 無視できるレベルにすぎず,その「再公営化」の実態も(日本のような) 市町村の直接運営とは異なる点には留意すべきである。独立規制機関下で の完全民営化を断行したイギリスは例外としても,アフェルマージュが一 般的になっているフランスでは多様な官民連携の経験とパターンが存在し, 欧米ではすでにプライスキャップやリベニューキャップも導入されている からである。この意味では,総括原価方式(による報酬率規制)の経験し かない日本の水道事業では,いきなり初体験のコンセッション契約を自己 責任のみで結ぶこと自体,個々の地方公共団体が非常に高いリスクを負わ されることになる。 それゆえ,厚労相・厚労省は,この「トランプ化時代」に「上水道への コンセッション」を普及させるのに必要な(上述の不安払拭への)配慮と 工夫を欠いていたといえる。「トランプ化時代」とは,すでに繰り返し説 明したように,SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)での評判に よって,(良くも悪くも,善意であれ悪意であれ,真実でも虚偽でも,いっ たん拡散すれば)政策を左右しかねない時代のことであ (37) る。「水道供給= 公営企業」が浸透しているからこそ,トランプ化時代の今日では,上水道 事業におけるコンセッションの必要性を明瞭に伝えることが,上水道部門 を所管する厚労相・厚労省の固有の説明責任だったのである。 ところが,水道法改正の趣旨や官民連携の推進の理由には,需要減少・ 老朽化・人材不足・耐震化・小規模・更新資金不足といった課題に対する 基盤強化は強調されるものの,これらの原因とその課題解決手段としての コンセッションの必要性や有益性はほとんど伝わってこない。それどころ
か,「コンセッションによる課題解決方法」という要点説明は意図的に回 避されているかに思えるほどの不明瞭さである。 実際,水道法「第二条の二」,「国は,水道の基盤の強化に関する基本的 かつ総合的な施策を策定し,及びこれを推進するとともに,都道府県及び 市町村並びに水道事業者及び水道用水供給事業者(以下「水道事業者等」 という。)に対し,必要な技術的及び財政的な援助を行うよう努めなけれ ばならない。」に従えば,これら基盤強化はまさに政府がなすべき「必要 な技術的及び財政的な援助」と理解できるので,なぜそこにコンセッショ ンが必要なのかをわかりやすく伝える必要がある。事実,この条文通りに 国が水道事業者等に援助すれば,「水道供給=公営企業」という通念化に 成功した上水道事業では,何の問題も生じなかったはずである。 このトランプ化時代に,せっかく通念化させた「水道供給=公営企業」 に反するコンセッションの導入理由を明瞭に伝えられない理由は,(前節 で説明した説明責任を問われない)「無責任な規制のアンシャンレジーム」 の直接的な帰結であるが,ここまで不明瞭な理由は GDP の2倍を超える ような公的債務を抱えた政府には支援能力がない,つまり「ない袖は振れ ない」という(放漫財政を中央政府が自己規制できないために地方政府に よりタイトな自己規制を強いるという意味で)「理由にできない理由」以 外には考え難い。財政資金の抑制のため「10年間で21兆円の事業規模」を 目指す政府・民間資金等活用事業推進室(PPP/PFI 推進室)のホームペー ジ(https ://www8.cao.go.jp/pfi/)には右上がりの「事業数及び契約金額」 の集計結果が掲載され,この金額の増加にはコンセッションが手っ取り早 い。しかし,すでにコロナ対策への真水の注入によって事業規模の根拠自 体の再検証が必要なうえ,単純な数値目標の達成最優先は将来の国民生活 に大きな禍根を残しかねな(38)い。 最後に,財政の逼迫は大半の地方公共団体も同じで,コンセッションに 活路を見い出せる自治体なら目先の収入と補填費の免除等も魅力ではある が,市民へのわかりやすく明瞭なメッセージが必要なのも同じである。た とえば宮城県は,「「みやぎ型管理運営方式」に関する Q&A 及び御意見等
の提出先について」というホームページを開設し,Q&A を掲載するばか りでなく,それに関する「意見をお聞かせください」という姿勢をとって いる。その説明でも,決して完全民営化ではなく,30年以上継続中の業務 委託との中間形態であり,基盤強化に必要な料金上昇抑制のために200億 円以上の費用削減を約束するという周到な表現・説明の工夫がうかがえ(39)る。 こうした市民への丁寧かつ粘り強い広報の発信は,厚労省から国民への明 瞭なメッセージを欠く現状では,当該地方公共団体がコンセッションを導 入する重要な必要条件であ(40)る。さらに,市民の理解と関心を維持できれば, 民間企業の社会的責任への投資も増加するので,当該地方公共団体の財政 支出を抑制できるかもしれない。 いずれにせよ,「上水道事業のコンセッション」は,国策としてきわめ て不明瞭なメッセージとして不安を拡散したままであるため,導入を意図 する地方公共団体は,このトランプ化時代の逆風に十分配慮したうえで, 市民への丁寧かつ粘り強い広報・説明が要求される状況である。その円滑 化には,(次項で述べるコンセッションの科学的な)EBPM(Evidence Based Policy Making),つまり費用削減額やその契約作成・履行を担保す る費用,そして最悪のケースの損失額やそのリスクの大きさ等の提示・検 証まで自力でこなせる組織力が不可欠となる。 2.2 2つの神話とEBPM としての不明確な論拠 上述したように,すでに国策としてイギリスは,1974年に河川管理から 上下水道に至る多種多数の事業を10流域に広域統合し,1989年に水道事業 の完全民営化と同時に(その番犬たる独立規制機関)Ofwat(水事業規制 局)を設置して以降,専門家による独立規制機関が料金をはじめとする諸 規制とその説明責任を担っている。もっぱら日本の広域化政策は水道事業 にのみに限定された(事業的にも地理的にも)狭い概念であり,コンセッ ションの導入も当該地方公共団体の選択肢の1つにすぎず,「無責任な規 制のアンシャンレジーム」の抜本的改革を伴わないという意味で,イギリ スとは根本的に異なっている。ただし世界的に見れば,すでに電気通信や
電力では独立規制機関による規制が常識となりつつある一方,まだ水道事 業では基本的に地方公共団体自身による「自己規制(Self Regulation)」 に任される部分も少なくないという意味では,むしろ(水道事業に関して は)イギリスの方が異例かもしれない。 というのも,電気通信や電力産業では,相次ぐイノベーションの結果, 独立規制機関が競争市場圧力やそれを活用した複雑な料金設定を利用でき るようになったからである。Léautier and Tirole(2019, p. 4)によれば, こうした規制改革が始まる前には,いずれの地域の(通信・電力・ガス・ 水道等の)垂直統合企業にも,政府が公営企業として規制せざるえない3 つの技術的特徴があったのである。第1は「生産の規模の経済性」,第2 は「伝送網の自然独占」,第3は「生産と伝送網の資産統合の効率性」で あり,(ガスタービン・コンバインドサイクル発電のような)技術革新が 生じた産業では,競争市場圧力やそれを活用した複雑な料金規制が可能と なったのである。ところが,こうした個々のインフラ産業の変化に対応す るというより,独立規制機関による規制が常識となった放送・通信分野で も(他省庁と同様に)総務省が規制し,顕著な技術革新が浸透していない 水道事業にも(他事業と同様に)コンセッションを推奨するという(産業 事情を軽視した)画一的な規制を継続している点こそ,日本的特徴である。 換言すれば,競争市場圧力も独立規制機関も使えない日本の水道事業では, 海外や他のインフラでの新しい取り組みを活用できる余地はかなり限られ るはずなのに,そうした前提・制約条件の違いを無視した画一的な政策を 推進しつつある。 なぜなら,Asquer(2017, Ch. 3)も指摘するように,この2つの手段を インフラ規制に使えないならば,残る手段は公営企業か,制度的あるいは 契 約 的 PPPs(Institutional or Contractual Public-Private Partnerships)の 3つの道具立てしか残らず,取引費用を削減する国策を伴わない限り,地 方公共団体が(目先の収入を別にすれば)業態を変える誘因に乏しいから である。制度的 PPP とは混合企業(いわゆる日本での3セク)であり, 契約的 PPP とはアフェルマージュやコンセッションである。企業をコン
トロールするのに取引費用が嵩む理由を大胆に要約すれば,公営企業なら 「身内」で直接交渉できても,民間企業の場合には情報確認さえ容易では なく,ましてや施策のコントロールや再交渉には費用をかけても成功する とは限らないということである。 日本の公営企業には,確かに相対的な非効率性の大きな格差が存在す(41)る。 しかし,Asquer(2017, Ch. 3.2)によれば,パリやベルリンの民営化の見 直しは,公営企業の経済的・戦略的・政治的理由から正当化しうる余地が あ(42)る。経済的な理由に絞って再度大胆に要約すれば,情報が非対称的で将 来が不確実な現実世界では,たとえ生産費用を削減できる民間企業であっ ても,(不完備な)契約での意図通りの履行や修正を承認させる取引費用 を考慮すれば,公営企業が最も費用節約的になりうるということであり, 実際に(政治的理由も含めて)民営化の見直しが起きるのも(計画時にお ける)こうした取引費用への配慮のなさが主因ということである。 換言すれば,経済モデルで多用される前提,政府には社会余剰を最大に するような契約を作成し実行する能力があるという仮定は,(少なくとも 水道事業では)もはや神話にすぎない。次節で実証するように,(独立規 制機関では最も重視される)料金設定さえ適正に規制されてこなかったか らである。これは(「自主規制」原則である限り)一義的な責任は当該地 方公共団体にあるが,不適切な料金設定を放置してきた所管省庁の責任も 免れま (43) い。 中央政府でさえ契約作成・履行を遵守させるのに失敗してきた事実は, すでに今回のアベノマスク騒動でも周知の事実である。たとえ(期限も短 く事業範囲も狭いという意味で)単純な民間への委託契約でさえ,(特に 新しい取引では仕様の明確化や品質チェック等の取引費用を含めると)か えって総費用が嵩んだり最終的な品質が低下する場合が少なくなかったか らである。たとえば,中小企業向け給付金支払業務の民間委託の不透明さ と非効率さは,批判の最中にあ (44) る。中央官庁でさえまともな民間委託が容 易でない時代に,地方政府が自己責任で結ぶ(長期で不完備契約とならざ るをえない)コンセッションに,つまり(単純な委託や運営と比べものに
ならない)非常に高い契約の作成能力と実行のモニタリング能力を要求さ れる点に注意しなければならない。
実際,ポルトガルの水道事業のコンセッション(および混合企業)の入 札・リ ス ク シ ェ ア・モ ニ タ リ ン グ に 関 す る 契 約 と 実 態 を 検 討 し た Marques and Berg(2011)は,契約設計・履行が(諸文献で一般的に認識 されているより)ずっと深刻な問題を抱えていると結論づけ,そのため (契約作成初期段階からの)外部の規制当局が果たすべき役割が大きいと 強調している(が,専門家による独立規制機関を持たない日本では,儚い 望みである)。さらに,ポルトガルの水道事業を含む4インフラ産業の混 合企業を分析した Cruz and Marques(2012)は,混合企業の現実は理論 (的な帰結)からかけ離れており,いずれの混合企業も公共利益保護の役 割をほとんど果たせていないと結論づけてい(45)る。 それゆえ,日本の水道のコンセッションの成否は,ひとえに当該地方公 共団体の契約の作成と履行のモニタリング能力に依存するが,さらに選択 する民間企業の効率性の高さにも依存する点に留意すべきである。民間企 業の費用や効率性の潜在的優位性を前提にした議論がなされることは少な くないが,この前提も(少なくとも水道事業では)神話にすぎないからで あ (46) る。
世界の上下水道の190の定量研究を検討した Berg and Marques(2011) によれば,公営・民営のいずれが効率的かは明確ではない,と結論づけて いる。というのも,所有による効率性の相違を分析した47文献のうち,民 間優位が18,公営優位が12,いずれとも言えないが17だったからである。 民間企業には労働生産性を高める傾向がある一方で,資本支出が嵩む傾向 があり,総合的な優劣が明確になりにくい可能性が指摘されている。事実, (日本のような報酬率規制下では)民間企業は(アバーチ・ジョンソン効 果による)過剰投資に陥るため,公営企業優位になると指摘されている。 このように,民間対公営自体よりも,規制当局のスキル,つまり具体的に どのようなインセンティブ規制が実施されているかが重要視されており, (日本では実施されていない)ベンチマーキングによるヤードスティック
競争を扱った42研究のほとんどが効率性と生産性の改善を確認している。 Berg and Marques(2011)以降の5つの定量的なサーベイには先進国の 事例が多いことから,途上国対象の46研究を吟味した Cetrulo et al.(2020) でも,ほぼ同じ結論である。所有による効率性の相違を分析した18文献の うち,民間優位が8,公営優位が2,有意な格差を見い出せなかったのが 8だったからであり,同じ国でさえ(ブラジル),その結果が3,1,3 と分かれる状況だからである。その理由として,上述の労働生産性と資本 支出の他に,ベンチマーキング手法の違いや(特に漏水やサービスの質と いった)使用変数の違いを指摘している。 ゆえに,たとえ労働生産性が上昇しても,資本支出が増加するために, 水道コンセッションが効率化を促すという論拠は不明確であ (47) る。それどこ ろか,おそらく効率性を高めるだろうインセンティブ規制,それを可能に する独立規制機関さえ設立されていないために,現行の総括原価方式の下 では過剰投資に陥る危険性さえあるという意味では,国策として水道事業 にコンセッションを普及させる手順や論拠は甚だ不明確である。 したがって,日本の地方公共団体がコンセッションを導入するには,文 字通りの自己責任で,契約の作成と履行のモニタリング能力を高める措置 を積み重ねたうえで,その民間企業が実際に他の事業者より効率的に活動 しているかどうかをベンチマークし続ける重荷を背負わされることになる。 税金を投入し国策としてコンセッションを推奨する限り,せめてモニタリ ングや再交渉時の国家の役割と責任を明示し,恒常的なベンチマーキング の実施による事業の監視と効率性の向上に(規制機関なら)努めるべきで あろう。
3 持続可能な事業としての料金規制の失敗
公営企業であれ民間企業であれ,地域独占である限りは,料金規制が規 制の要である。事実,1989年に水道事業の民営化を断行したイギリスでは, 民営化と同時に独立規制機関によるプライスキャップ規制が開始されている。前節でも言及したように,(公営か民営かよりもむしろ独立規制機関 が責任を担う)具体的な料金規制制度が重要なことは,イギリスの民営化 が生産性には影響を及ぼさなかったにもかかわらず,プライスキャップの 厳格化は効果があったという報告と符合す (48) る。 ところが厚労省は,独立規制機関もなくインセンティブ規制も存在しな い状況下で,部分民営化を奨励し始めたわけである。ならば,少なくとも 現行の総括原価方式が機能している必要がある。さもなければ,誰も適正 な費用や料金の見通しさえ立たず,民間企業の料金設定の妥当性を管理監 督などできないからである。 しかし現実は,本節第1項で示すように,政府職員でさえ,水道法の原 則に反し,地方公営企業法も遵守されていない,と断じる惨状である。誰 も本当の原価さえわからないのが現実であり,(東日本大震災時の電力事 業のような)有事がなければ事情の変わる気配もない。 事実,第2項で示すように,すでに7割近い事業者が原価割れで料金を 設定しており,総括原価方式とは名ばかりの現実である。しかも,実際に 更新費を準備できていないため,経年管を抱える事業者が8割に達し,事 業者平均で10倍の料金値上げが必要な額を調達しなければならない状況に まで追い込まれている。 こうした自己規制に失敗してきた大半の事業者が民間企業とのコンセッ ションを成功させるガバナンス能力があると期待するのは難しい一方,料 金値上げの責任を転嫁されブランド力の毀損リスクを恐れる優良民間企業 が長期のコンセッションに及び腰になるのは当然である。さりとて,補助 金を増額できないなら,すでに規制当局としての権威も信頼も失っている 厚労省が打てるコンセッション推奨策はもう見当たりそうにないのが現状 であろう。 3.1 持続可能要件としての料金規制 (前節でも紹介したように)料金に関するインセンティブ規制の導入は 事業の効率化を促すからこそ,そうした規制を責任をもって適切に調査・
実行する独立規制機関が国際標準となっている。Asquer(2017, Ch. 3.5) によれば,料金設定に伴う計量経済学的な作業は,もはや省庁の官僚より 専門家に適した業務だからである。事実,未だに独立規制機関を設立でき ず「無責任な規制のアンシャンレジーム」のままの日本の水道事業では, プライスキャップやリベニューキャップといったインセンティブ規制を導 入しておらず,規制当局によるベンチマーキング結果の報告も常用されて いない。 すなわち,日本の水道事業の料金設定は,地方公営企業だから独立採算 が原則だが,今も昔も総括原価方式であり,その根拠は水道法第14条(2 の一),「能率的な経営の下における適正な原価に照らし,健全な経営を確 保することができる公正妥当なものであること」にあ(り,「必要な技術 的細目は,厚生労働省令で定め」)る点にある。この文言は,工業用水事 業法第17条「料金が能率的な経営の下における適正な原価に照らし公正妥 当なものである」に似ているが,そこでは「能率的な経営」とは「料金は, たんなる原価主義ではなく,非能率的な経営が行われている場合には必ず しも原価が料金算定の基礎とはならない」とし,「原価」とは「施設の償 却費,維持管理費,支払利息その他の費用のほか,適正な利潤,および地 方公共団体の場合には,施設の建設のため発行された企業債の償還をも考 慮して定められることとなる」と解釈されてい(49)る。 要するに,独占力や非効率性ゆえの高料金は許されず,将来も持続可能 な適正料金を維持せよ,という高邁な理念の下で総括原価方式を維持すべ き(だった)はずなのである。それゆえ,近年の厚労省の(前節の「水道 料金の適正化について」にある)「十分な更新費用を総括原価に見込んで いない場合が多いと考えられ,このままでは老朽化の進行により,将来急 激な水道料金の引上げを招くおそれがある」ので「適正な料金改定」を図 る必要がある,という指摘は正しい。しかし,自己規制原則であるからに はその一義的な責任は当該地方公共団体にあるにせよ,それを何十年も放 置してきた所管の責任も免れまい。 事実,この不適正で不公平な料金設定は,上記水道法14条の原則に反し