[r.
(]
ffiliii
VC
il3
VJ
6
・EL
k
ee
ffirt
Confidence
(saddha)
andWisdom(pafifia)
asCollahorative
Prerequisites
fbr
the
Attainment
ofBuddhistSaintliness
(Sotapatti)
in
Early
Buddhism
Han,
Sanghee
Researches
upto
date
with regardto
the
funetion
ofthe confidence(saddha)
and wisdom(pafififi)
in
the
practice
of earlyBuddhism
had
strong tendencyto understand
that
these twofactors,
saddhd andpafifij,
work ultimatelyfor
different
purposes
in
achieving thefruit
ofStream-entry
(sotopattiphala).
The
aim of this
paper,
however,
is
toreveal, onthe
contrary,that
both
sadttha andpafifia
areboth
in
needfor
achievingthe
firuit
ofStream-entry
(sotapattiphala),
and
that
they
should notbe
regarded asfunctioning
separately,despite
these
two
factors
arein
fact
being
mentioned alternatelyin
Pali
materials.
Abandoning
fetter
(sampojana)
is
the
mostfUndamental
standard ofclassification of
the
fbur
Noble
Ones
from
arahatto
sotlipanna (Stream-enterer).Sbttiipanna
is
free
from
thefirst
three
sampojanas which arepersonality-belief
(Sakkdyadi,t,thi),
skepticaldoubt
(vieikicchj),
and clingingto
rules andritual
(sdobbatapardimdsa).
Since
sotopanna means thathe
has
abandoned
three
sai?ryojanas,the
rnethodfor
achieving sotopattiphalais
identical
withthe
method ofal)andoning
sai?ryojana.
Sbllrkdyaditthi
and silabbataparamdsa of these three saqu,ojanas are abandonedby
pafifia
ofNo-self
(anattd),
attained as a consequence ofimperrnanence
(anicca)
that
is
the
eyefbr
the truth(cthammacakkhu).
Since
sakkdyadit.thi which
is
the
viewidentifying
oneself withfive
aggregates(paficakkhanduj),
and silabbatapara-masa which arisesfrom
eternalism22 パ ーリ学仏教 文 化 学
abandoned
by
pafifidi
of anieca , suffering(
dulckha
)
, α 砌 砺 , which
is
sotOpanna ’
s
pafifid
・The
rest vicikiccha−
eccurs
in
the
condition of nothaving
confidence , and
it
canbe
abandonedby
saddhabased
onpafifia
−
, which
is
soto ρanna ’s saddhdi .
ln
this
way,
three
3α耀yq ノαnas are abandonedhy
both
saddhd and ρακ毒δ
belonging
to sotdipanna ,This
fact
that
both
sα
ddha
and
pafifidi
are
necessary
to
achieve
50ゆ α吻 んα
1
αis
con 負 edby
descriptions
ofBuddhist
Saints
in
the
literatures
.It
may wellbe
understood that saddhanus δrin and (llhammdinusa
−
rin whQ
belong
to sotdpattimagga , and saddh δvimortta and 讙拗 のραπα whobe
正ongto 50 纏ρ祕吻勿 如
have
two separate methods , 3α δ orpafifidi
,
in
achievingmagga and
phala
,but
actUally theyhave
equal method .They
arejust
classifiedaccording
to
superiorfaculty
(
indriya
), endowed withboth
sαddhdi
andρ躪 苑δ,
and
they
achieve sota−
pattilphala
by
these
two elements .キーワー ド :信 , 慧, 預 流, 三結,聖者
1
. は じ め に信 と慧 と は, 仏 教の 思想 的
根
底を形 成す る重要な概 念で , 仏 教の実
践 的修 行を通じ た聖 者の 階位の成 就のた めに不 可 欠な要 素で ある。 パ ー リ文献
の 聖 者の初 段 階で ある預流
が具え る要件は,信 と慧に集 約 される。預流
の聖者
が 具 え る慧は, 預流
道の智
慧で ある法 眼(
dhammacakkhu
) と, 四 聖諦 ・縁起 な ど に対して 預 流 者が具える如実知 見に よっ て 示されて お り,預 流 者の 信は, 四預
流
支(
cattari sot 且pattiyafigEni
)
に お い て 説かれて い る確
固た る浄僊
(aveccappasada
)
に よっ て表
されて い る。 さて , パ ー リ文献
に は預 流 者を特 徴 付けるも う….一つ の重要な教説があ る。 それ は,有身
見(
sakk 譯yadi
蜘)
・疑 い(
vicikiccha)
・戒
禁取(
sllabbataparam5sa)
と々)う三 つ の束縛
の 除 去(
ti
聊 a即samy 〔}
j
anfinarpparik
!thaya
)(1)が 預 流 者の 条 件 と して説か れ るもの で ある。 この
束縛
の除去は,預流 者をは じ め一来 者 ・不
還者
・阿羅漢の 四聖 者が共に説か れ る と きに必
ず
用 い られる説 明で, 聖
者
の段階
を区分
するもっ とも本 質的な基準 となる 。
預 流に おける信と慧
23
す る方 法は, こ の束 縛を除 去す るため に用い られ る方 法に ほか な らない 。従
来, 預 流果 の 成 就 におい て, 信 と慧 と に よる相互
に独立 し た 二 つ の方 法
が あ ると理解され る傾 向が強か っ た(3>。 本 稿で は, 第 一 に,預 流 者が獲 得す る 信 ・ 慧の 内容 と , 除 去さ れ る束縛
の内
容 とが相 互対応関係
に ある こ と,束縛
の 除 去の た め に は信 と慧が 共に働 くこ とを明か し,預 流 果の成
就に お い て 信 と慧の 双 方が共に必 要となる事 態につ い て考 察 する。 さ らに第二 に, 信 と慧
に よ る預 流果
の成 就
が聖者
の姿
と して認
め られ るこ とに注 目し, 七種
類の聖者 の うち ,預 流 道 の聖者で ある随 信 行 者(
saddhanusarin)
・随 法 行者
(
dhammanusa
血)
と, 預流
果の 聖者
で あ る信解 脱者 (
saddhavirnutta)
・見 至 者(
dixhippatta
)
が , 信 と慧 との 独立 し た方 法 に よ っ て 道 果を成 就す るの で はな く, 信 と慧 を共に具 えて お り, 預流 果の成
就に お い て信
と慧の 双方 を用 い るこ とを明 らか にす る。2
.預流
の慧
智慧 は,仏教 の悟 りに おい て決定的 な役割を す る要
素
で ある。 預 流者か ら始
ま る聖者
の階位
は,具
え られた智
慧に応 じ, どれ ほ どの煩悩
が消滅
さ れ る の か に よっ て 決ま り,最高
の聖 者で あ る阿羅 漢は, その智 慧が完成 し, すべ て の 煩 悩が滅す るこ と に よっ て達 成 さ れ る 。 凡 夫か ら脱 し, 最初の 聖 者の階
位に入 らせ る智 慧 に関 して , パ ー リ文 献に は法 眼, あ るい は如 実 知 見を もっ て説か れてい る。(
1
)
預 流 が 具え る智
慧1 )
齦価
… akkhu)
の鸚法 眼と は, 法に対 する, ある い は法か ら な る洞 察 ・理 解を意 味 する が (5) , こ れ を
獲得
する場面
は, 「生 じ る もの は , い か な るもの で もすべ て滅 する とい う,欠 点な く
汚
れ な い 法 眼が生 じ た(
virajarri vitamalarpdhammacaltkhum
udapadi
yarp
kifici
samudayadhammarp sabbam tam nirodhadhammanti)
」(6)との定24 パ ーリ学 仏 教 文 化 学
の と して説かれ るが (7), その内容は, 生 と滅を
繰
り返す物
事の 性 質, っ ま り無
常
(8)に対
す る智
で あ る。 注釈 書に は,「こ こ
で, 法 眼とは, 預 流 道を意 味
す る
(
dhammacak
kChun
ti
idha
sot5pattimaggo adhippeto)
」(9)と説かれて い るが,ニ カ ーヤ に おい て も, 預 流 道の 聖
者
で あ る随法行者
と随信 行 者が, 無常
に対す る
智慧
を具え る こ とに関す る用 例がみ られ る(lo)。 法 眼が生 じる こ とは,預 流 道が成 就さ れ るこ と で あ り, そ れ は, 聖者の段 階に入 る最初の 智 慧が具
え られ るこ と とし て, 重要な意 味を もっ 。
Anguttaranikdya
に は, 法 眼が生 じ た聖 な る弟
子 に(
yato
ariyas巨vakassa _dhammacakkhurp
udapadi)
, 見が 共に 生 じる ゆ え に (sahadassanuppadfi)
, 三つ の束縛が断じ られ る(11>と
説
か れて い る。 こ こ か ら, 法 眼が生じる こ とが, 見が 生 じる こ との 前 提で あるこ とが知 ら れ る。 見(
dassana
)
を具え る こ と は,預 流者た るこ とを特微づ け る要素で あ るの で,法 眼こそが,束縛
の除 去 に よ る預流 果の 成就 に,直
接つ な が る智
慧で ある。法 眼は, 聖 者の段 階に 入 る
直接
的な漂
因と な る最 初の 智慧であ る。 無 常に 対す る智 慧で ある法眼が 生じ,預流道 が獲 得 さ れ る と, そ れ に続き, 苦 と無 我に対 する智 慧が具
え られ る。 この無常
苦無 我に対 する智 慧が ,預 流者が 除 去すべ き束 縛の うち ,有身
見と戒
禁 取の 除去の た め に働 くが , これが, 預流 果に達 し た人が具 え る智 慧で ある。2 )
五取 蘊 ・五根 ・縁
起 ・四 聖諦の 如実 知 見如 実 知 見 は, 智 慧に よっ て, ある が ま まに知 り, あ るが ま まに み る状 態 を表 す。 こ れ が, 預
流 者
や有 学(
sekha )が 有す る特
徴 と して現れ る とき に は, 解脱
まで 至っ た阿羅 漢 と対 比されて説
か れ る。 預流者
と阿羅 漢 との 対 比 と して は, 五取蘊
(12)と根(
indriya
)(13)に つ い て,預 流 者 は, そ れ らの生 起, 消滅 ,甘 さ , 危 険 出 離 を (samudayaii ca atthagamafi ca assadafi ca
巨
drnavafi
ca nissara ロafi ca)
あ る が ま まに 知 る(
yathabhUtam
pajan
δti)
こ とにと ど ま る一
方
, 阿羅漢
は, そ れ ら を あ る が ま まに知 っ て, 執 着の な い解
脱を成 就す る
(
yath
五bhatam
viditva anupada vimuttohoti
)
と説か れ る。 こ の な
預 流に おけ る信と慧 25
Samyuttanikdya
のPue
”amdisutta に は,有 身見
を生じ させ るこ と と, 生 じ させない こ とに関す る教 説のす ぐ後に, 五
蘊
の甘 さ と危 険 と出離の 内容 と して, 五蘊
に縁
っ て幸
福 と喜
びが 生ずる こ とが 甘 さで あ り, 五蘊
が無常
で あ り苦
で あ り変化
す る もの で あ る こ とが危 険
で あ り, 五蘊
に対 して欲望
と貪
欲 を捨 て るこ とが出離で あ るq4
)と説か れて い る。 これ を あ るが ま まに知る こ とは,有身
見の除 去につ な が る と考え られる。一方, 預 流 者か ら不 還 者 まで の , 阿羅 漢 に至 っ て い ない
有
学の 如実
知見
を示 す 用 例に は, 縁 起につ い て 主に説 くNidjnasamyutta
に おい て, こ れ は 生 じ た もの で あ る(
bhUtam
idan
ti)
と , あ るが ま ま に正 しい智 慧
によっ てみ る
(
yath5bhtitarp
sammappafifiEya passati) こ と}こよっ て有 学1
こ勧 ,解
脱を蹴 す れば, 法の 考 賭
(
sanlchatadhamma)
に な る 〔15〕と説
か れ る ものが あ る。 ま た,Sekhasutta
に は, 自分 が有
学で あ る と知 る こ とは, 四聖諦
を あるがま まに知 るこ とと, 五根(
信
一慧)
の様
々 な側 面
を智 慧
に よっ て 見通
す
(
pa
面aya
ca ati両jha
passati
)
こ とによ る が, 無学(
asekha)
は五根
にっ いて智 慧に よっ て み る こ との
他
に,身体
を もっ て触
れつ つ住
す る(
kayena
caphusitvfi
viharati)
, っ ま り五根
に対 して完 全 に体 得
してい るこ とに よ っ て, 自分が 無学で あ る こ とを知る と説
か れてい る。預 流の智 慧によっ て除 去 される
束縛
1
)
有 身 見(
sakk5yad 旗hi
)
有
身見
とは, 五蘊
を自
我で あ る と考
え る誤
っ た見解
で あ る。 つ ま り, 色 は自
我で ある と思い , 自我 は色を もつ もの で あ る と思い ,自
我に 色が ある と思い , 色 に 自我 が あ る と思い (rUpalp attato samanupassati ,画
pavanta
甲va attEnaTp , attani va 而
pa
叩, riipasmirp va att…inam )
(17) , 同
様
に 五蘊
す べ て の 要素
を 自 我 として考 え るこ とで あ る。 これ が あ る と き に,十
の無
記 と,B7
訥用 ψ 然 副 o に説か れて い る六十二 邪 見 とがある〔18>と説か れて い る よ う に,有身
見はすべ て の 邪 見の 始 ま りである (19) 。 こ の よ うな有 身 見を除
去 し ない限
り, 正しい見解
が得
られ ない こ とは明白
で あり, ゆえ に, 預流 者 とい
26
パ ーリ学 仏 教 文化 学 う聖 者の最初
の段階
で有
身見は克 服され るべ きで あ る 。有
身
見を除 去す る方 法 は, 五蘊を 自我 と誤解 しな い こ とで あ る が(2°) , ニ カーヤ には, こ れ と関連して , 無 常で あ り苦
であ り変
化 するもの で ある五蘊
に対 して, 「これ は私の もの で はない , これ は私で は ない , これ は私の 自我 で はない 」 と, ある が ま ま に正しい 智 慧に よっ て み るべ きで あ る(2D と説
か れて い る。 ま た, 有 身 見は, 五蘊
に対す る執 着か ら生 じ る (22)もの で あ る ゆ えに, 五蘊
に執 着 し な い と 「これ は私 の もの で ある, これ は私で あ る, こ れ は私の 自我で あ る」 な どの 誤 っ た見解
が 生 じない (23) 。 無常
で あ る五蘊
を無常
で ある と み るこ とが, 正見であ る (24)と説か れ て い る よ うに , 無 常で ある 五蘊
の 性 質を正 し くみ る智 慧を具え , 五蘊に執 着 しない こ とに よっ て, 五蘊 を 自我 と誤 解 し な い こ と が可能に なる,つ ま り有 身 見が除
去される 。2 )
戒 禁取(
silabbataparEmasa)
戒 禁 取 と は, 戒 律 と
儀
式に 対 す る執 着で (25) , 戒 律,儀
式, 戒律 と儀 式に よっ て清らか にな る(
sTlena suddhi, vatena suddhi , sTlabbatena suddhi
)
とい う邪 見
(
ditr
.hi
)
, 執 着(
paramaso )
,転
倒 し た理解(
vipariyesagaho)
な ど を意 味する(26)。 ニ カー ヤ に は戒 禁 取につ い て具体 的に説 く
経
典は見 当た ら ない が , その 内 容が うか が え る もの と して, 吻 帽脚oη訛の・α のKukkuravatik
αsutta が あ げられ る。 こ こで , 世 尊は, 牛の よ うに行動
す る人(
govatiko
)と犬の よ うに行 動す る人(
kuklcuravatiko
)(27)に対 して , 「 も し, 私は, こ の 戒 律, あ るい は儀 式,苦
行,梵
行に よっ て , 神, あ るい は神
の 一人に なる だ ろう と 考え る な らば, そ れ は誤っ た見解
で あ る(
sacekho
pan
’
assa eva 卑
ditthi
hoti
.imina
’ha
珥 silena v且vatena v琶
tapena
v乱brahmacariyena
vadevo
v蕊bhavissEmi
devafifiataro
va ti. sa ’ssahoti
micchelditthi)
」(28)と説
き, 正 し くない 行 動を捨
てるよ うに
説
法す る。戒禁 取 と同様 の 意味を もつ 用 語 として ,縁 起 支の うち, 執
着
の 内容
を構
成
す る 四 つ の 執 着(
cattari upadanani)
(29)の 一 つ で ある ‘sfiabbanipfidana ’があ
る (30)。
Visuddhimagga
によ る と, こ の sTlabbatUpadana は, 牛の よ うに行 動する こ とに よっ て , 清 浄に な る と執
着
す る こ とで あり(31)
預 流に お け る信 と慧
27
の で ある と把握
す る こ とか ら,自
我を清
浄 させ よ う と欲 す るこ とで ある (32) 。 こ のよ うに,戒 禁取
は, 自我が永遠で あ る とい う常 見 と結 びっ い た誤っ た見解
か ら生 じ るもの の ゆえ に,本質的
に は,有身
見の ご と く,自我
に対
す る正 しい 見解
を具える こ とに よ っ て 除去
さ れ る。預 流者が除去 する束
縛
の うち, 有 身見 と戒 禁取は,自
我に対 す る誤っ た見解
か ら生 じ るもの で , それ らを除去 する方 法は,自
我を構成
して い る と執着
してい る五蘊 に対 して, 「無常 」 で ある と正見を具え , 五蘊 と自分 とを同一 の もの としない 「無 我」 の 智 慧 を得るこ とで ある(33)。3
.預流
の信
智 慧が , 煩 悩を消 滅 する こ とに よっ て, 悟 りの獲 得に決
定
的に働
く要 素で あるの に対して,信 (
saddha)
は, その悟
りの獲
得に向
かっ て行 くこ とを決 意さ せ る原 動 力とし て, 優 先 的かつ 基 本 的に具え られる べ き要 素で ある(34) 。悟
りに向
か う初段 階
で ある出家
や帰依
の切
っ掛
けと して , ニ カー ヤ に説
かれ て い る信
は, ブッ ダの説
法を聞
い て, ブッ ダに対
して得
ら れ る信
で ある {35) 。 ブ ッ ダを信じる こ とは, ブッ ダの悟
りと教
え , その教
えに従
っ て,自
分に も 悟 りが得 られ るこ とを信 じるこ とで , これに よっ て,悟 りに向かい その 道 を 歩む決 意を す るこ と が可 能 とな るの で あ る(36)。 こ の よ う な信 に基づ き, ブッ ダの 教えに従い ,修 行 し た結果 とし て得 られ る智 慧に よっ て, その信は さ ら に深ま り確 固 となる。(
1
) 信 (
saddha )
の様 相パ ー リ
文献
の信
に ,情意 的 (
affective)
・能動 的
な(
conative)側面
と知 的
な(
cognitive)
側面
が ある こ とは, すで に指摘
され て き た とこ ろ で あ る(37)。信 の 惜 意 的な側 面 は,信が 愛 情
(
pema
>
・信心(
bhatti
)
・浄信(
pasada
)
と 並列に登 場す る こ とか ら伺わ れ(3S),信
の 知 的な側面
は, その基盤
に智
慧が
28
パ ーリ学 仏 教 文化 学信行者
に つ い て, 十二 処・ 五蘊な どの 無
常
に対 し て 「これ らの 法に お い て,
こ の よ うに,信 じ,確 信 す る
(
ime
dhamme
evarp saddahati adhimuccati)
」(39)と説か れ た用 例や , 以下に述べ る , 預
流者
が具え る信で あ る確
固た る浄 信(
aveccappasada)
な どに おい て み られる 。こ うし た信の 知 的な側 面は,
仏
教の信が盲 目的な信 仰心 を意 味す る の で は な く,智 慧に よっ て 確 認 し, 確 信す る こ と と不 可 分な もの で あるこ とを示 す 重要な部 分で あ る。 これ は,信
の 一 つ の 特 性が智 慧に基づ くこ とで あるこ と を表
し て お り, 情 意 的な性 質を もつ 信が ,智 慧 と結合 して い る ゆ えに, 盲 目 的な もの で はない こ とを示 して い る。 智 慧 と信 と は,両者
不 可分の 一体 とし て機 能 す るもの で あ るゆ えに,信
の み が単 独で 智 慧に 向か う前段 階 として 理解
で きる もの で は ない (40)。信は本 質 的に情 意 的で あ る と ともに, そ の基 盤に は, そ れ ぞ れの 程 度の智 慧が 内在 する。 そ れ ゆえ, 具えて い る智 慧の 程 度 に 従っ て,信の 情 意 的な 内容が 変 化す る。 実 際 知 的 な側 面 を表 す信 の 用 例 はさ ま ぎ まに確 認で き る。 修 行の 結 果 として 智 慧が増加 す れ ば, 智 慧に よっ て
完成
された内 容にっ い て , よ り強い確 信が得られ , それ と共に信の 情意 的な側面
は さ らに深 ま り 確 固 とな る。 預流者
が具え る信は,預流 果を成 就 し うる力を もっ た智 慧に基 づ くの で , 預 流果 よ り以前の段階の信 よ り確 固 となっ て い る こ とは当然で あ る。 以下,事
例を確認
しよう。 (2
) 預流 が具 え る信
:確 固たる浄 信(
aveccappasada)
ニ カ ーヤ で ,
預流
の信
が もっ とも明確に示 されて い るの は, い わ ゆ る 四預 流 支(
cattari sotapattiyafig5ni)
と名称す る 四つ の 預 流 者の要素
に おい て で あ る。Dighanilca
−ya
のSarkgitisutta
に は, ブッ ダに対
して確 固た る浄信 を具えるこ と
(
buddhe
aveccappasadena samannagate)
,法 に対 して 確 固た る浄信を具え るこ と (
dh
me aveccappas 巨dena
samannagato)
, 僧に対して
確
固た る浄信
を具 える こ と
(
sahghe aveccappasEdena samannagato)
, 聖者が
愛
す る戒
を具え預 流に おける信 と慧 29
素
(
cattdri sotapannassa afigani)
」 が説か れて い る(41)。 こ れは, 預 流 者が具
える特 徴 的 な要
素
で あるが, その中
で も仏 法僧
に対 する確 固
た る浄信
は,預
流 者の 信 を示 して い る点で 重 要で あ る。Saraka
’ nisutta に は,仏
法僧
に対す る確 固
た る浄信
が,預流者
には具え ら れてい るが,預流道
の聖者
には具え られ て い ない と説かれて お り(42), こ れは, 預 流 道の 聖 者の信 と は異 なる もの で , 預 流 者になっ て初め て具え られる信で あるこ と が よ く示されて い る(43)。「確 固 た る 浄 信 」 と
訳
し た ‘ aveccappasada ’の ‘avecca ’は, 「知 る(
to
ow)
, 理解
す る(
to
understand)
」 を意 味す る ‘ aveti’ のge
d
の形で, 「理解 して
(
understanding ,having
penetrated
)
」(44) , も し くは 「確 実に
(
certainly)
, 完 全 に(
perfectly
)」(45)とい う意 味を もつ 。 つ ま り, 理解 に 基づ い て 確固 と なっ た状 態を含意
し て い る。 そ し て, ‘ saddha ’ と意味
上,密接
に関 係 して い る単 語である ‘pastida
’ は(46), 信 頼 (faith
)以外にも, 清 浄 (purity)
, 満足(
satisfaction)
,平
静(
serenity)
などの意味
を も ち (47) , 心 が澄み切
り,浄
ら か とな り, 静か な喜 びや 満 足 の感ぜ られ る心境
を さ す 。 これ は, 心 が 清 らか に なっ て い る状態, あ るい は心 を清め る信を意 味す る。Ratancrsutta
に は 「聖 者 に と っ て の 真 実を理解
して み る人(
yo
ariyasacc 百ni avecca passati)」(49)と説か れ た個所 が あ る。 こ れ に 対 して注 釈書
に は 「四 つ の 聖 者に とっ て の 真実に, 智 慧に よっ て入 っ てみ る人(
yo
cattfiri ariyasaccanipa
鯔 盃ya
鋤
hogahetva
passati
)
」(50)と説 明 さ れ , 「理 解 す る こ と 」 とは 「智
慧に よ っ て 入 る こ と」 で あ る こ と が 明確
に 示 さ れ て い る。要
す る に, ‘ aveccappasEda ’ と は, 「智 慧に よ っ て 確 固 と な っ た浄 信」 を意 味す る。 こ の 事 実は, 注 釈 書の 「確 固た る浄 信 を とは , ブッ ダの諸 特
性 をあ るが ま まに 知るこ とか ら, 不 動, 不 滅の 浄 信 を[
とい う意 味であ る]
。後
の 二 つ の要 素
に お い て も同様の 方 法で ある
(
aveccappasEden5ti
buddhagupanam
yathabhUtato
fiatatta
acalena accutenapasEdena
. uparipadadvaye
pi
es’eva nayo)
」(51)とい う説 明 か らも確 認で き る。MaJl
’himanikdya
のVTsamsahas
〃tta
に は,他の 人か ら,「世 尊は正 等覚 者で あ
30 パ ーリ学仏教文化 学
bhagava
svEkhfitobhagavata
dhammo
supatipanno sartgo)
」 と語 られる理 由と根拠につ い て 聞かれ た ら,世 尊が , ます ますす ぐれ た
教
え を説 くた びご と に, その教 えにつ い て証
知して,教えの なかで , 一つ の教えに対 し て完 成に至っ て , 世 尊 は正等覚
者で ある云々 と, 師を信 じ た(
sattharipasidim
)
(52) と答
え るべ きで あ ると説
かれて い る。 また, この よ うに して,如来に対 して 信が確
固 とな り,
根
が 生 じ,確立 されて い る(
tathagate saddha nivi#ha
hoti
mUlajatapatitlhitE
)
, これ が 理 由を有す る信(
議kfiravata
“ saddhE)
とい われ るもの で ある が, そ れ は見に基づ い た堅 固な る
(
dassanamrtlika
dalha
)
もの で,世 界の いか な るもの に よっ て も征服 さ れ ない
(
asamhariya _kenaci
v灘okasmilp)
(53)と説か れて い る。
こ こ で, 「世 尊は正 等 覚 者 で あ る云 々」 とい い うる理 由は,智慧 を具 える こ とに よ る教えの 証 智に よっ て, ブッ ダに対 する信が堅固に なっ た か らで あ る。 こ の経 文は,預 流 者の 確 固た る浄
信
の内
容の 縮 約 と して み ら れ る(54)の で, こ こ か ら, 預 流 者が 具 える信
は,智
慧に基づ くこ とに よ っ て,不 動 と な り堅 固になっ た もの で あ るこ とが うかが え る。 また ,Sammddi
.tthisutta に は 「友 よ, 正見, 正 見 とい わ れ ます。 友よ, どの ように して, 聖 な る弟子は 正見を もち, 見 解が まっ す ぐにな り,法に対 して 確固 た る浄信 を具え , 正 しい 法を成 就 しま すか
(
sammadiCthi samm5ditthitiavuso
vuccati .kittivatE
nu1
(ho
avuso
ariyas 百vako samm 蕊di
賛hi
hoti
, ujugata ’ssa
dit
専hi
,dhamme
aveccappasfidenasamann2gato ,
agato
imam
saddhammanti)
」(55) と説か れ , 法 に対す る確 固た る 浄
信
を具 え るこ と は, 正見を具えるこ とに ほ かな ら ない こ とが示さ れ る。最 後 に, taveccapasRda ’ と同様な文 脈で 説かれ, 預 流 者の信を表 すもの に ‘ ekantagato abhippasanno
(
深い信
を 具 えて い る)
(56)’とい う表現を言及す る必 要があ る。 これ は、信(
saddhE ) と愛(
pema
)
に 「確立 し てい る」 とい う意 味の ‘ nivittha ’ が結合 さ れ た もの と同義
的に用い られ(57) , 揺るぎな く確
立し て い る信
を表
す用 語で , 以下にみ る 「疑い(
vic {kiccha
) 」 が, 預 流者
が具え る信
に よっ て 除去さ れ るこ と を, よ り明 らかに して くれ る。預流に おける信と慧
31
(
3
)
預 流が具え る信
に よっ て除
去さ れ る束
縛 :疑い (vicikiccha )五 つ の 障碍
(
nivarana)
(58)の一つ で も あ る 「疑い 」 は, 確 信が もてない 状 態で 生 じ る(59)。 ニ カ ーヤ に お い て疑
は,束 縛
, あ るい は障
碍の 要 素 と し て, その 名 称だ けが挙 げられて い る場 合が多
い 。 とこ ろが ,師 (
satthari)
・法
(
dhamme
)
・ 僧(
sailghe)
・ 学処 (
si 琶ya)
な どを疑
う(60)とい う用 例や , vicikiccha の 同義
語で あるkanl
(ha
が 用い られ,仏
・法
・僧
・道
・修行道
を疑
う(61)とい う用 例が み ら れ, 疑い は, 仏 ・法 ・僧 な どを対 象 と して い る こ と がわか る。 ま た, 三つ の 疑 惑(
tissoka
血 諷)
と して説か れ てい る, 過 去 ・未
来
・現在
に関
して疑
い信
じ ない こ と(62)も, 疑い の内
容 を構成
する要 素 と し て 考 え ら れ る。 こ れ らの 内 容 は,Dhammasangani
に お い て , 疑い とは 師 ・ 法 ・僧
・学処
・過 去 ・未 来
・現
在 ・ 縁 起 法 につ い て疑 うこ とで あ る(63>と , ま と まっ た形で 説かれて い る。ニ カーヤ に は , 「師に対 して疑 惑 を もたず, 疑わず, 確 信 し, 浄 信す る …法 に対 して…
僧
に対 し て …学 処 に対 し て …確 信 し , 浄 信す る(
satthari naka
曲d
鯒 c 楓 cchati 油imuccati
sampasTdati _dhamme
_ saiighe _ sik 亘ya
_ adhimuccati sampasidati
)
」〔64)とか, 「比 丘た ちよ, 私の その[
教え]
を信じ な さい 。
確信
し な さい 。 こ こ で,疑
惑を離
れ,疑
い を離
れなさい(
saddahathame tam
bhikkhave
adhimuccatha nikkafikh 哀etthahotha
nibbicikiccha)
」(65)な ど,疑 わ ない こ と が, す な わ ち信じ る こ とで あ り,確 信す る こ とで あ るこ とを示
す用 例が あ る。 ま た ,
「比 丘 た ち よ, これ は 生じた もの で あ る と
, あ るが ま
まに正 しい
智
慧に よ っ て み る人に, 疑い は消滅
す る のか。世尊
よ, そ うです
(
bhatarn
idan
ti
bhik
aveyathabh
亘talp
sammappafifiayapassato
ya
vicikicchasa
pahiyatTti
?evambhante
)
」(66)とい う用 例に は, 疑い の 除 去に, 如 実 知 見の
智
慧 つ ま り,預 流者が具え る智
慧が 必要 となる こ とが示 されて い る(67)。こ の よ うに, 疑い が 除去され た状 態は, 信が具え られ た状 態で あ り, 疑 い の
除
去 に は,預流 者
の 智 慧が 必 要で あ る。 信が智 慧に基 づ い て い る こ と は, すで に述べ た と お りで あるが , 預流 者の智
慧に基
づ く信
, それは当然 預流者
の信
で あ る。預流者
が具え る信
が, 疑い の 対 治で あ る こ と につ い て は,
32
パ ーリ学 仏 教 文化 学「如 来に
対 して深 い 信を具えて い る聖な る
弟
子は, 如来 と如来
の教
え とにっい て , 疑 惑が な く疑い が ない で あろ う
(
yo
so ariyasavako tathEgate ekantagatoabhipPasanno na so
tathagate
v互tathagatas琶sane vakahkheyya
va vicikiccheyya va)
」 とい う経 文で,疑
い を な くす 主体 の 表 現 と して, 預 流 者が具え る信 の ‘ aveccapasada ’ と同義であ る ‘ekantagato abhippasanno ’ が 用 い られる こ と か ら も明確に示さ れ る。4
.預
流
の聖
者
に おけ
る信
と
慧
パ ー リ文 献に は , 阿 羅 漢 か ら預 流 者 まで の 四
種 類
の 聖 者が, 七 種 類 の 聖者(
以 下七 聖 人)
に細分 化
さ れ て 説 かれ て い る。 七 聖 人 と は, ニ カ ー ヤ と注 釈 書(69)の 説 明 に基 づ き,道 と果 の 成就 状 態 に よっ て 三 つ に分類 す る と, 阿 羅 漢 果を成就 し た 聖者 :倶 分解脱 者 (
ubhatobhagavimutta)
・慧
解 脱 者(
pafifiavimutta
)
阿 羅 漢 道 か ら預 流果
まで に い る聖 者 :身
証者
(
kEyasakkhin
)
・信解
脱 者(
saddhavimutta)
・見 至者 (
ditthippatta
)
預流
道を 成 就 した聖 者 :随信行者(
saddhanusarin)
・随法行者 (
dhammanusarin )
で あ る。 こ の う ち,預流
果の信解
脱 者 ・ 見至 者 と ,預流道
の 随信 行 者 ・随法行 者 に よ っ て , 預流の聖者に信 と慧が 具え られ てい る姿が よ く示されて い る。 こ こ で は, こ の 預流
の聖者に お け る信 と慧につ い て, 七聖 人に関
して最
も詳 し い吻
伽〃2α脈 のα の1
(面g
調 3〃跏(
以下Ks )
と, 人の 分類 と解説 を 主 とす る 論 蔵のPorggalapafifiatti
(
以下Pp
)の 説明 を中
心 に考 察 し, 上で 考 察 して き た内容が, 実 際の聖者の姿に お い て も成
立す る こ とを示したい 。まず,
Ks
とPp
に おけ る, これ らの 聖者の信 と慧に関 する説明 を整理 して み よ う。(
下線
は共通説 明)
1 )Ks (
MI478
−9
)
の説 明a
随信 行 者
(
信に従 う人)
:如来
に対 して信が適 度で あ り,愛が適 度であ る
(
tathagate c’assa saddhgmattamhoti
pemamattam )
。智 慧
に よ っ て み て,煩悩
が消 滅 して い ない(
pafifiaya
c’預 流に お け る信と慧 33
こ れ らの
徳性
が あ る。 す な わ ち,信
の能 力
,精 進
の能
力,念
の 能 力,定
の能 力, 慧の能 力 で あ る
(
c’assaime
dhamma
honti
seyyathidam saddhindriyarpviriyindriyarp satindriyam samadhindriyarp
paflfiindriyarp
)
。b
随 法 行 者
(
法に従 う人)
:如来
に よっ て説
か れ た教え が,智
慧に よって適 度に 理解 されて い る
(
tath5gatappavedita c’assadhamm5
pafifi5ya
mattaso瑚
hanaln
anti)
。智
慧に よっ てみて,煩悩
が消
滅 してい ない 。 彼 に は これ らの 徳 性が ある。 すな わ ち,
信
の能 力
,精 進
の能
力,念
の能
力, 定の 能力, 慧の 能 力で あ る。
c
信 解脱 者 (
信
に よっ て解
脱 し た人)
:智
慧に よ っ て みて , 一部の 煩悩が消滅す る
(
pa
面 巨ya
c’assa
disv5
ekacceasa
嘔par
順honti
)
。 如 来 に対して
信
が確
固 と な り, 根が 生 じ,確 立 さ れて い る(
tathagate
c’assa saddhEniviゆ
5
hoti
mUl啝
t蕊pati
賃hita)
。d 見
至者 (
[
正しい]見解
を得
た 人)
:智 慧
に よっ て みて,一部の 煩 悩が消 滅す る。 如来に よっ て 説かれ た教 えが, 智慧に よっ て十 分に理解さ れ て お
り, 洞 察さ れ て い る
(
tahagatappaveditE c ’assa
dham
皿 瓦pafifiZaya
vodi 鍾.b
ahonti
vocarit巨
)
02 )Pp (
p
.15)
の説
明a−
1
随信 行者
:預流
果 の体 得に 向か っ て [修 行 して]い く人 は(
yassa
puggalassa
sotapattiphalasacchikiriyfiyapatipannassa
)
,信
の 能 力 が す ぐ れて お り (saddhindriyam adhimattam
hoti
)
, 信 を 先 と す る 聖 道 を修
習す る(
saddh5pubba 血gamairi
ariyamaggarpbhaveti
)
。果
に立つ 人は,信解
脱者
で ある(
phale
thito
saddhEvimutto)
。
b
−1
随法 行 者 :預 流 果の 体 得 に向か っ て[
修 行 して]
い く人 は,智 慧の能 力がす ぐれて お り
(
pafifiindriyam
aChimattamhoti)
,
智
慧を先 とする聖 道 を修
習 する(
pafifiapubbafigamam
ariyamaggambhaveti
)
。果
に立つ 人は, 見 至 者で ある
(
phale
thito
di
#hippatto
)
。c−
1
信解
脱 者 : これが苦で ある と…集…滅
…道で ある と あるが ままに知34 パ ーリ学 仏 教 文 化 学
mini
patipada
tiyathabhatarp
paj
anati)
。 如来
に よ っ て 説かれ た教え が,智 慧
に よっ て 十 分 に理 解 さ れて お り, 洞
察
さ れ て い る。 智 慧 に よっ て み て , 一 部 の 煩 悩が 消 滅 す る。 し か し,見 至者 の よ うで は な い(
no cakho
yatha
diUhippattassa
)
od
−1
見
至者
: これ が苦
で あ る と…集…滅…道で ある とあるが ま まに知 る。 如 来に よっ て説か れ た 教 え が ,智 慧に よっ て 十 分に理解さ れて お り , 洞 察さ れて い る。智慧
に よっ て み て, 一部 の 煩 悩が消滅す る。Ks
で は, 随信 行 者 と随 法 行 者 に それ ぞ れ特徴的 に具え られて い る信と慧 が ,信 解
脱者
と見 至者
に お い て , 確 立 した形 と して具え られて い る。Ks
に は直接
の 言 及がない が,Pp
に は, 随 信 行者
と随法行 者が 預 流 果を成 就 した 場合 , その結 果が信解 脱 者 と見 至 者で あ る と説か れて い る。 こ の よ うに, 随信
行者
と信 解 脱 者は 「信 」 に, 随法 行者
と見 至者
は 「慧 」 に おい て結 びつ い て い る関係
を も ち なが ら, 預 流 道 と預流果 とに区 別 さ れ説か れて い る こ と に よっ て, 一莞 すれ ぼ, 預 流果を成 就す る方法 に信
と慧とに よ る二 つ の もの が あ り, こ れ らの 聖者は, それぞ れ信 と慧 とによっ て預 流 果を成 就す ると説か れてい る よ うに見え な く も ない 。 しか し,文 献を注 意 して 検 討 して い く と, こられの 聖者は,信 と慧との 掴 別 的な方 法に よっ て預 流 果を成 就 するわ けで は ない こ とがわか る。Ks
とPp
の 両 文献に は, さ まざま な 異 な る部 分が あ り, それ ら を総合す る と,相 互に記 述が補 完さ れて , 各聖者
の姿 がよ り正確に理解で き るこ とに注 意 すべ きで ある 。 まず,下線
で示 した両文献
に共 通す る説明 を通 じて,信 解 脱 者 と見 至 者 は一部
の 煩 悩を消滅 して い るこ とがわか る。 預流
道の人 に 関して はKs
だ けに, 煩悩が消 滅 してい ない と説か れて い るが,Pp
に おい て も, 預 流果
の人に 一部
の煩悩
が消 滅 して い る と説か れ てい る の で, そ こ に 達して い ない 人 に は,一部の煩 悩 も消滅 し てい ない こ とが わ か る。Ks
に は, 最初にあげた ,成
就す る道と果に よ る七 聖人の 分類
におい て,の 聖者に は すべ て の
煩悩
が,の 聖
者
に は一一部の 煩 悩が消滅 して お り, の 聖者に は煩預流に お け る信 と慧 35
悩
が消滅
して い な い と説か れて い る。と
の
内容
に っ い て はPp
にも同様 に説か れてお り,に 対 して もす ぐ上 で述べ た よ うに, 同
様
の結果
が推測
さ れ る。これ が意 味するの は, 道 と果の
成
就を決定
す る のは, ほか な らぬ煩
悩の 消 滅 状 態とい うこ とで ある。 同じ分 類に属 してい る聖者
は, 同 じ煩 悩が消滅 し た状 態にある。 「智 慧に よ っ て み て , 煩 悩が消滅
す る」 と説か れて い るの で, 随信 行 者 と随法 行者
は, ま だ煩悩
が消滅
で き ない ほ どの , そ して信 解 脱者 と 見至 者 は, 一 部の 煩 悩が 消滅で きるほ どの智
慧を具え る こ とにおい て は差 が ない 。 け れ ど も, その智
慧の程
度 や鋭 利 さに お い て は,差
が あ る。Pp
に は, こ の預 流果
の二 聖 者に つ い て , 智慧 を具 えるこ とに対 する説 明は 一致し てい るが,信解
脱 者に 「見 至者 の よ うで は ない 」 と説か れてい る。 注釈に よ れ ば, 両者は煩 悩を消滅 す る こ とに お い て は差 異はない が ,信 解 脱者
は, 苦 しみ と困難
に疲
れつ つ[
煩 悩 を]
消滅 するこ とがで きる(
duklChena
kasirena
kilamanto
hutva
vikkhambhenm sakkoti)
。 また, vipassanE に よ る
智
が鋭 く,勇猛に,
清浄
にな らず
に進
む(
vipassanafianam no tiklcharp siirarppasannarp
hurva
vallati
)
ゆ えに見 至者
に は及
ばない(
tasmaditth
.ippattarp
napipurpEti
)
と も説明 さ れて い る(70)。 これ は, 智 慧に お い て , 見 至 者が 信 解 脱 者 よ りす ぐれて い るの で ,
果
の獲得
に か か る努 力の 程 度が異なるだ けで , 煩 悩の消滅 に必 要 な智 慧
を具えて い る こ とに おい ては, 何 らか の 差 異 も ない こ と を示 してい る。 預 流 道の聖者
におい ても 同様
で , 他の 経 典の 注 釈 書に は, 随法 行者の 智 は勇 猛 に進む(
s颯ralp 觚p
邸 vahati)
が,随信
行者
は そ の ようで は な い と説 か れて い る(71)。こ の よ うに,
随信
行 者 と信 解脱 者は, 随 法行 者 と見至者に比べ , 達成
程度
に おい て比較
的に劣
っ て はい るもの の, いず
れ も智
慧 を具 えて お り, その智
慧に よ る煩 悩の 消滅 程度
に よ っ て, 道 あ るい は果を成
就す る点は重要
で あ る。 こ こ で ,果
の成就
が智慧
に よる とい うこ と は,前述
の,預流果
の成就
に 信と智 慧の双方が必要であ る と述
べ た こ と との不一致
また信
の必要性
に お
36
パ ーり学仏 教 文化 学 ける疑 問を生 じ さ せ るか も しれ ない 。 こ れにつ い て補
足 して お く、前述 の箇 所で信 と智 慧に よっ て 除 去されるの は 「
束縛
」 で ある…方 , こ こ で智
慧に よっ て 除去さ れ る の は 「煩悩」 で あ る。束縛
は,預 流者が除 去す る 三 つ の もの を慧 味す るこ とが明確で あ る が,煩悩
に つ い て は, 一部 で ある こ と しか知 られて い ない 。 こ の , 智 慧によっ て除
去さ れ る 一部の 煩 悩 は い っ た い何 を意 味 して い る の で あろ うか。 …般的 に ,パ ー リ文 献 に お け る煩
悩は, 感 覚 的欲 望に関
す る煩 悩(
kamasava
)
・生存
に 関 する煩 悩(
bhavasava)
・無
知に関
す る煩 悩(
avijj asava)の 三種か, これ に邪 見に関す る煩 悩(
di
賃hasava)
が加わ っ た四種で ある。
Ks
とPp
の 注釈 に よ る と,智 慧によっ て み る対象は 四聖 諦であ る(72)。 智 慧に よっ て 四聖諦
をみ て 消滅 する一部の煩悩
(73)の 意 味 につ い て ,明 示 さ れて は い ない が,Pp
−a の 注釈に すべ て の 煩 悩を消 滅 し た 阿羅漢で ある倶 分 解 脱者が, 四つ の煩悩 を消滅す る と説か れて い る (74)の で , 一 部の煩
悩とは, 四つ の 煩 悩の 一部
を 意味 する こ と が わ か る。 そ の 内容 は,Maz
)’himanikdya
のSabbdisavasutta
(
以下
Ss
)
を通 じて 推測で きる。Ss
に よ る と, 四聖 諦 に正 し く注 意 す る人に は, 三 つ の束縛
が断じ ら れ るが, これ が見に よっ て 断じ られ るべ き煩 悩
(
asav
蚕dassanE
pahatabba)
と呼ぼれ る (75)。
Ks
・Pp
の 注 釈書
とSs
に は ,共 通 して 四聖諦
をみ るこ とに よ っ て , 煩 悩が消 滅す る と説かれて お り,Ss
の 見に よ っ て 断じ られ る煩 悩 とは , 預 流 果に おい て 消滅す る煩悩
に ほか ならない 。 これ が 三つ の束 縛で あ る と説か れて い るの で ,Ks
とPp
の預流
果で消滅す る一部の 煩悩 とは,三 つ の 束縛を 意味す る。さ て,
Ss
の 注釈 書
に は, こ の 個 所 に対 して, 「そ こ で, 四種 の煩 悩 に お い て , 有 身見 と戒禁
取は,邪 見に関す る煩
悩に含ま れるの で , 煩 悩で あ り, か っ 束縛
で あ る。 疑い は,束 縛の みで あっ て,煩
悩で は ない 。 しか し,見 に よ っ て断
じ られ る煩 悩で ある と, こ こで は含 まれて い るの で,煩 悩である
(
tattha catusu Esavesu sakd〈ayadiUhi
−sTlabbatapar 五mas 巨ditth5savena
safigahitatta巨s av 互 c’
eva sa正py〔)
janfi
ca. vicikiccha samy (}janam
eva, na
5savo
.dassan5
pah2tabba
預 流に おけ る信と慧 37 る と, 三 つ の
束縛
の うち, パ ー リ文 献に説か れ る煩 悩の 範 疇に入るの は , 有身
見 と戒 禁取だけである。 こ の 有 身 見 と戒禁取
は,邪見
に関
す る煩悩
に属
す るもの で, 見に よっ て 断 じ られ る煩悩
と して説
か れてい る ように, 正 し くな い見解
が除
去で き る智慧
す な わ ち預流
果で獲得
で きる 「見」 を具 えるこ と に よっ て 消滅 する。一方, 疑い は煩 悩に含 ま れ ない 。 預 流 果に お い て除 去 され る煩 悩が智 慧
(
見 )
に よっ て消滅
する とす れ ば , 本 来 煩 悩の 範 疇に入 らない疑
い の直接
の除去法
は,智慧
とは異な るもの となる。 これ は,有身見
と戒禁取
が ,智慧
に よっ て除去さ れ る一方, 疑い は, 智 慧に基づ く信によっ て除
去 される と, す で に考 察 した内容 と符合す る。 と こ ろ が, こ の 本 来 煩 悩で は ない 疑い も, 見 に よっ て 断じ られ る煩 悩 と しそ
説
か れ る場合に は,煩 悩 と して 見 な され る。 疑い は,確
信で き る智 慧が 足 りない こ とか ら生 じ る心理で あ り, その 除 去法 で あ る信
の基 盤には智慧
が内在
す るの で, その よ うに見 なされるの は理解
し うる。以上の こ とを,
Ks
とPp
に適 用 して 考え る と, 三 っ の束縛
を意味
す る,智
慧
に よっ て み て消 滅 される一部の 煩 悩に お い て,本 来煩悩
で はない ゆ えに,智慧
を その直接
の除去 法 とし て い ない 疑い が, 智 慧に よっ て消滅 す る煩 悩 と して 見な さ れ て い るが ,実
際に は,疑い の 除去に智 慧に基づ く信が必 要で あ るの で,前
に疑 問視
した不 一致は 生 じな く ,信 の必 要 性 も否 定され ない と考 えて よい 。これ らの 聖 者たちに, 智 慧 と信 が共 に
具
え られてい る様態
は,随信行者
と随
法行者
に対す る説 明か ら もみ るこ とがで き る。Ks
には ,随信
行 者 と随 法 行 者 に 共 通 して,信か ら慧 まで の 五つ の 能 力が具え られて い る と説か れて い る。 一方
,Pp
に は, 五 つ の 能 力全部で はな く, 随信
行者
に は信
の能
力が, 随法 行者に は慧の能 力が す ぐれてい る と説か れて い る が, そ れ と共に ,信
を 先 とする, あるい は智
慧を先 とする聖 道を修 習す る とい う説明 も あ る。 こ の説
明が意味
するの は, 随 信行 者 と随法 行者
は, そ れ ぞ れ信
と智慧
の能
力がす
38
パ ーり学 仏 教 文 化 学 ぐれてい る の で, 能力の 差異に応 じ て修 行の 前後 関係
が 生ずるが, いず
れの 場 合 も, 信 ある い は智
慧 以外にも修 習すべ きもの が あ る とい うこ とで ある。 そ れ は,Ks
に説か れて い る五つ の 能 力 全 部に ほ か な ら ない 。 五っ の 能 力は, 預 流道 の聖者か ら具え られ , そ の 完成 程 度に よっ て聖者の段 階が決ま り, 阿 羅 漢の段 階で完 成 され る(77)要 素で , 預流
道か ら阿羅 漢まで 具 え続 け られ る もの である。 ゆ え に, 随信 行 者と随法行者
に は,信 と智 慧が共に具 え られて お り,預 流 果の 聖者で ある信 解 脱者 と見至者
に も, それが 具え続け られ な け れ ぼ な ら ない 。七 聖人が煩 悩を消 滅 し, 道 と果を
成
就す る方 法 は, 聖 者 の み なに共通 で あっ て,智 慧 と信 と によ る 区別 さ れ た もの で は ない 。 信を中
心 と し た名称
か ら表れ る よ うに, 随信 行者
と信
解脱者
は, その 特 性に お い て , す ぐれ た信
の 能 力を 具 えて い るが ,信
だ け を 道 と果の方 法 と し う る わ けで は な い。 同様 に, 智 慧を中心 とした名称 を もっ てい る随法 行 者と見 至者 も, その特性
に お い て, す ぐれた智 慧の 能力
を具えてい るが, 智 慧だ けを道 と果
の方 法 とし て 用い て い ない 。 信あ るい は慧を中心 と した名 称が与え られて い る の は, す ぐ れた能 力(
indriya
)
による 区別で あっ て, 独立的に信あ るい は慧
を道
と果を 成 就 する方法 として 用い る か らで は ない。 預 流道 と預流果
の聖者
に は,信
と 慧が共に 具え られて お り, その成 就 方法に おい て も双 方 が 用い られ る。5
. ま と め以 上の
考察
を ま とめ て み よ う。法眼は, 最 初の聖者の段 階に入 らせ る
直接
的な原 因で, 生 じた もの すべ て の滅
す る性質
で ある無
常に対 する智 慧で あ る。 この無常
に対 す る智
慧か ら 続い て具え られ る無 我に対す る智慧に よっ て, 預流 者が除 去 すべ き東 縛の う ち , 五蘊
を自
我 と誤解 する有 身 見と,自
我が永
遠である とみ る常見 と結合す る戒 禁取 とが除去される。 これ らの束縛
は自
我に対 する誤っ た見解で あ る ゆ えに,無 常苦 無 我を通じ自我に対す る正 しい 見解
を具える こ と に よっ て 除 去 され る。預流に お け る信と慧 39
預
流
者の 仏 法僧 に対 す る確 固た る浄信
は,智慧
に よっ て 自ら教え を証
智 し, それを通じ て 三 宝 に対し て 有す る不 動の確 実な信
で あ る。 預流 者が除去 すべ き束 縛の うち, 疑い は, 確信
が もてない 状態で 生 じ るが, そ れ は, 確 信 を もた せ る智
慧が具え られてい ない か らで あ る。 こ の疑い が除去
さ れた状
態 は, 信が具え られた状 態で あるが , その信とは,智 慧によっ て確 固 となっ た預流者
の信
で あ る。こ の よ うに , 預 流 者が 具 える信 と慧は, 相互に分
離
さ れ ,独立 して預流
果を成就 させ る もの で は な く, 三つ の 束縛の 除 去におい て共に働 き,預 流 果 の成就
におい て双方
必要
とな る要素
で あ る。随信 行者 と信 解 脱者, そ して 随法 行者 と見 至者は,信と智慧 との す ぐれ た 能 力に よっ て 区分されただ けで, 信 と智 慧を共に具えて お り, 独 立 的 に
信
と慧とを道 果の 成 就 方法 と して用い ず ,信
と智
慧の双方に よっ て預流果
を成就
する。 注(
1
)DI156
,III
107
,132
;MI34
,466
;SV357
;AII
238
;Ud
50
etc.(
2
) 四 聖者 の 各 段 階は 十 の 束 縛 (sarpy()j
ana )を 滅 す る 程 度 に よっ て 成就 さ れる。 十の 束 縛は,五つ の 低 い 束 縛 (orarnbhagiya saqiy (}
j
ana )と 五 つ の 高 い 束縛 (uddhambhagiya salpy 句ana )か ら構 成 さ れ る。 五 つ の 低い 束縛は, 有身見
(sakk 巨yadi卿 ) 疑い (vicikiccha ) 戒 禁 取 (silabbatapardniasa) 感覚的喜びに
対す る欲 求 (