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パーリ学仏教文化学 (28) - 004韓 尚希「預流における信と慧」

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(1)

[r.

(]

ffiliii

VC

il3

VJ

6

・E

L

k

ee

ffirt

Confidence

(saddha)

and

Wisdom(pafifia)

as

Collahorative

Prerequisites

fbr

the

Attainment

ofBuddhist

Saintliness

(Sotapatti)

in

Early

Buddhism

Han,

Sanghee

Researches

up

to

date

with regard

to

the

funetion

ofthe confidence

(saddha)

and wisdom

(pafififi)

in

the

practice

of early

Buddhism

had

strong tendency

to understand

that

these two

factors,

saddhd and

pafifij,

work ultimately

for

different

purposes

in

achieving the

fruit

of

Stream-entry

(sotopattiphala).

The

aim of this

paper,

however,

is

toreveal, on

the

contrary,

that

both

sadttha and

pafifia

are

both

in

need

for

achieving

the

firuit

of

Stream-entry

(sotapattiphala),

and

that

they

should not

be

regarded as

functioning

separately,

despite

these

two

factors

are

in

fact

being

mentioned alternately

in

Pali

materials.

Abandoning

fetter

(sampojana)

is

the

most

fUndamental

standard of

classification of

the

fbur

Noble

Ones

from

arahat

to

sotlipanna

(Stream-enterer).

Sbttiipanna

is

free

from

the

first

three

sampojanas which are

personality-belief

(Sakkdyadi,t,thi),

skeptical

doubt

(vieikicchj),

and clinging

to

rules and

ritual

(sdobbatapardimdsa).

Since

sotopanna means that

he

has

abandoned

three

sai?ryojanas,

the

rnethod

for

achieving sotopattiphala

is

identical

with

the

method of

al)andoning

sai?ryojana.

Sbllrkdyaditthi

and silabbataparamdsa of these three saqu,ojanas are abandoned

by

pafifia

of

No-self

(anattd),

attained as a consequence of

imperrnanence

(anicca)

that

is

the

eye

fbr

the truth

(cthammacakkhu).

Since

sakkdyadit.thi which

is

the

view

identifying

oneself with

five

aggregates

(paficakkhanduj),

and silabbatapara-masa which arises

from

eternalism

(2)

22 パ ーリ学仏教 文 化 学

abandoned

 

by

 

pafifidi

  of  anieca   suffering

 

dulckha

, α 砌 砺 ,  which

 

is

sotOpanna ’

s 

pafifid

The

 rest vicikiccha

eccurs  

in

 

the

 condition  of not 

having

confidence , and  

it

 can  

be

 abandoned  

by

 saddha  

based

 on 

pafifia

, which  

is

soto ρanna  ’s saddhdi . 

ln

 

this

 way

, 

three

 3α耀yq ノαnas  are abandoned  

hy

 

both

saddhd  and ρακ毒δ

belonging

 to sotdipanna

 

This

 

fact

 

that

 

both

 

ddha

 

and

 

pafifidi

 

are

 

necessary

 

to

 

achieve

50 α吻 んα

1

α

is

 con 負  ed  

by

 

descriptions

 of 

Buddhist

 

Saints

 

in

 

the

 

literatures

It

 may  well  

be

 understood  that saddhanus δrin and (

llhammdinusa

rin whQ

belong

 to sotdpattimagga  and  saddh δvimortta  and 讙拗 のραπα who  

be

正ong

to 50 纏ρ祕吻勿 如

have

 two separate  methods 3α  δ or 

pafifidi

, 

in

 achieving

magga  and  

phala

, 

but

 actUally  they 

have

 equal  method . 

They

 are 

just

 classified

according  

to

 superior  

faculty

indriya

 endowed  with  

both

 sα

ddhdi

 and

ρ躪 苑δ,

and  

they

 achieve  sota

pattilphala

 

by

 

these

 two elements .

キーワー ド : , 慧, 預 流, 三結,聖者

1

. は じ め に

 

信 と慧 と は, 仏 教の 思想 的

底を形 成す る重要な概 念で , 仏 教の

践 的修 行を通じ た聖 者の 階位の成 就のた めに不 可 欠な要 素で ある。 パ ー

文献

の 聖 者の初 段 階で ある預

え る要件は,信 と慧に集 約 される。

預流

の聖

が 具 え る慧は, 預

道の

慧で ある法 眼

dhammacakkhu

) と, 四 聖諦 ・ な ど に対して 預 流 者が具える如実知 見に よっ て 示されて お り,預 流 者の 信

は, 四預

cattari sot 且

pattiyafigEni

に お い て 説かれて い る

固た る浄

(aveccappasada

に よっ て

されて い る。 さて , パ ー

預 流 者 徴 付けるも う….一つ の重要な教説があ る。 それ は,

有身

sakk 譯

yadi

vicikiccha

禁取

sllabbataparam5sa

々)

束縛

除 去

ti

聊 a即

samy 〔}

j

 anfinarp  

parik

thaya

)(1)が 預 流 者の 条 件 と して説か れ るもの で ある。 こ

束縛

の除去は,預流 者をは じ め一来 者 ・

・阿羅漢の 四聖 者が共に説

か れ る と きに必

用 い られ説 明

, 聖

段階

を区

するもっ とも本 質的

な基準 となる  。

(3)

      預 流に おける信と慧      

23

す る方 法は, こ の束 縛を除 去す るため に用い られ る方 法に ほか な らない 。

来, 預 流果 の 成 就 におい て, 信 と慧 と に よる相

に独立 し た 二 つ の

方 法

が あ ると理解され る傾 向が強か っ た(3>。 本 稿で は, 第 一 に,預 流 者が獲 得す る 信 ・ 慧 内容 と , 除 去さ れ る束

容 とが相 互対

応関係

に ある こ と,

束縛

除 去の た め に は信 と慧が 共に働 くこ とを明か し,預 流 果の

に お い て 信 と慧の 双 方が共に必 要となる事 態につ い て考 察 する。 さ らに第二 に, 信 と

に よ る

預 流果

成 就

が聖

姿

と して

め られ るこ とに注 目し, 七

類の聖者 の うち ,預 流 道 の聖者で ある随 信 行 者

saddhanusarin

・随 法 行

dhammanusa

と, 預

果の 聖

で あ る信

解 脱者 (

saddhavirnutta

・見 至 者

dixhippatta

が , 信 と慧 との 独立 し た方 法 に よ っ て 道 果を成 就す るの で はな く, 信 と慧 を共に具 えて お り, 預流 果の

就に お い て

と慧の 双方 を用 い るこ とを明 らか にす る。

2

預流

 

智慧 は,仏教 の悟 りに おい て決定的 な役割を す る要

で ある。 預 流者か ら

ま る聖

階位

は,

え られた

慧に応 じ, どれ ほ どの

煩悩

消滅

さ れ る の か に よっ て 決ま り,

最高

の聖 者で あ る阿羅 漢は, その智 慧が完成 し, すべ て の 煩 悩が滅す るこ と に よっ て達 成 さ れ る  。 凡 夫か ら脱 し, 最初の 聖 者の

位に入 らせ る智 慧 に関 して パ ー リ文 献に は法 眼, あ るい は如 実 知 見を もっ て説か れてい る。

1

預 流 が 具え る

1 )

… akkhu

の鸚

 

法 眼と は, 法に対 する, ある い は法か ら な る洞 察 ・理 解意 味 する が (5) , こ れ を

獲得

する

場面

は, 「 じ る , い か な るもの で もすべ て滅 する と

う,欠 点な く

れ な い 法 眼が生 じ た

virajarri vitamalarp  

dhammacaltkhum

udapadi  

yarp

 

kifici

 samudayadhammarp  sabbam  tam nirodhadhammanti

(6)との定

(4)

  24      パ ーリ学 仏 教 文 化 学

の と して説かれ るが (7), その内容は, 生 と滅を

り返す

事の 性 質, っ ま り

(8)に

す る

で あ る。 注釈 書に は,

こ こ

で, 法 眼とは, 預 流 道を意 味

す る

dhammacak

 

kChun

 

ti

 

idha

 sot5pattimaggo  adhippeto

」(9)と説かれて い るが,

ニ カ ーヤ に おい て も, 預 流 道の 聖

で あ る

随法行者

と随信 行 者が, 無

対す る

智慧

を具え る こ とに関す る用 例がみ られ る(lo)。 法 眼が生 じる こ とは,

預 流 道が成 就さ れ るこ と で あ り, そ れ は, 聖者の段 階に入 る最初の 智 慧が具

え られ るこ と とし て, 重要な意 味を もっ 。

 

Anguttaranikdya

に は, 法 眼が生 じ た聖 な る

子 に

yato

 ariyas巨vakassa _

dhammacakkhurp

 udapadi

, 見が 共に 生 じる ゆ え に (sahadassanuppadfi

つ の束縛が断じ られ る(11>と

か れて い る。 こ こ か ら, 法 眼が生じる こ とが, 見が 生 じる こ との 前 提るこ とが知 ら れ る。 見

dassana

を具え る こ と は,預 流者た るこ とを特微づ け る要素で あ るの で,法 眼こそが

束縛

の除 去 に よ る預流 果の 成就 に,

接つ な が る

慧で ある。

 

法 眼は, 聖 者の段 階に 入 る

直接

的な

因と な る最 初の 智慧であ る。 無 常に 対す る智 慧で ある法眼が 生じ,預流道 が獲 得 さ れ る と, そ れ に続き, 苦 と無 我に対 する智 慧が

え られ る。 この

無常

苦無 我に対 する智 慧が ,預 流者が 除 去すべ 束 縛

有身

見と

禁 取の 除去の た め に働 くが , これが 預流 果に達 し た人が具 え る智 慧で ある。

2 )

五取 蘊 ・五根 ・

起 ・四 聖諦の 如実 知 見

 

如 実 知 見 は, 智 慧に よっ て, ある が ま まに知 り, あ るが ま まに み る状 態 を表 す。 こ れ が, 預

流 者

や有 学

sekha )が 有す る

徴 と して現れ る とき に は, 解

まで 至っ た阿羅 漢 と対 比されて

か れ る。 預

流者

と阿羅 漢 との 対 比 と して は, 五

取蘊

(12)

indriya

(13)に つ い て,預 流 者 は, そ れ らの

生 起, 消滅 ,甘 さ , 危 険 出 離 を (samudayaii  ca atthagamafi  ca assadafi  ca

drnavafi

 ca  nissara afi ca

あ る が ま まに 知 る

yathabhUtam

 

pajan

δti

こ とに

と ど ま る一

, 阿

羅漢

は, そ れ ら を あ る が ま まに知 っ て 執 着の な い

を成 就す る

yath

bhatam

 viditva  anupada  vimutto  

hoti

と説

。 こ の な

(5)

      預 流に おけ る信と慧      25

Samyuttanikdya

Pue

amdisutta に は,

有 身見

を生じ させ るこ と と, 生 じ させ

ない こ とに関す る教 説のす ぐ後に, 五

の甘 さ と危 険 と出離の 内容 と して, 五

っ て

福 と

びが 生ずる こ とが 甘 さで あ り

が無

で あ り

で あ り

変化

す る もの で あ る こ とが

危 険

で あ り, 五

に対 して欲

欲 を捨 て るこ とが出離で あ る

q4

)と説か れて い る。 これ を あ るが ま まに知る こ とは,

有身

見の除 去につ な が る と考え られる。

 

一方, 預 流 者か ら不 還 者 まで の , 阿羅 漢 に至 っ て い ない

学の 如

を示 す 用 例に は, 縁 起につ い て 主に説 く

Nidjnasamyutta

に おい て, こ れ は 生 じ た もの で あ る

bhUtam

 

idan

 ti

, あ るが ま ま に正 しい

智 慧

によっ て

み る

yath5bhtitarp

 sammappafifiEya  passati) こ と}こよっ て有 学

1

こ勧 ,

を蹴 す れば, 法の 考 賭

sanlchatadhamma

に な る 〔15〕

か れ る ものが あ る。 ま た,

Sekhasutta

に は, 自分 が

学で あ る と知 る こ とは, 四聖

を あるがま まに知 るこ とと, 五根

々 な

側 面

智 慧

に よっ て 見

pa

aya

 ca ati

jha

 

passati

こ とによ る が, 無学

asekha

は五

にっ い

て智 慧に よっ て み る こ との

に,

身体

を もっ て

れつ つ

す る

kayena

 ca

phusitvfi

 viharati

っ ま り五

に対 して完 全 に

体 得

してい るこ とに よ っ て, 自分が 無学で あ る こ とを知る  と

か れてい る。

   

預 流の智 慧によっ て除 去 される

束縛

1

有 身 見

sakk5yad

hi

 

身見

とは, 五

我で あ る と

え る

っ た見

で あ る。 つ ま り, 色 は

我で ある と思い , 自我 は色を もつ もの で あ る と思い ,

我に 色が あ

る と思い に 自我 が あ る と思い (rUpalp  attato samanupassati ,画

pavanta

va attEnaTp , attani va 而

pa

叩, riipasmirp  va att…

inam )

(17) , 同

に 五

す べ て の 要

を 自 我 として考 え るこ とで あ る。 これ が あ る と き に,

記 と,

B7

訥用 ψ 然 副 o に説か れて い る六十二 邪 見 とがある〔18>と説か れて い る よ う に,

有身

見はすべ て の 邪 見の 始 ま りである (19) 。 こ の よ うな有 身 見を

去 し ない

り, 正しい

見解

られ ない こ とは明

で あり, ゆえ に, 預流 者 とい

(6)

 

26

      パ ーリ学 仏 教 文化 学 う聖 者の

最初

段階

身見は克 服され るべ

 

見を除 去す る方 法 は, 五蘊を 自我 と誤解 しな い こ とで あ る が(2° , ニ カーヤ には こ れ と関連して 無 常で あ り

であ り

化 するもの で ある五

に対 して, 「れ は の で , これ は私で は ない , これ は私の 自我 で はない 」 と, ある が ま ま に正しい 智 慧に よっ て み るべ きで あ る(2D と

か れて い る。 ま た, 有 身 見は, 五

に対す る執 着か ら生 じ る (22)の で る ゆ えに, 五

に執 着 し な い と 「 は私 の もの で ある, これ は私で あ る, こ れ は私の 自我で あ る」 な どの 誤 っ た見

が 生 じない (23) 。 無

で あ る五

を無

で ある と み るこ が, 正見であ る (24)か れ て い る よ う , 無 常で ある 五

性 質を正 し くみ る智 慧を具え , 五蘊に執 着 しない こ とに よっ て 五蘊 を 自我 と誤 解 し な い こ と が可能に なる,つ ま り有 身 見が

され

2 )

戒 禁取

silabbataparEmasa

 

戒 禁 取 と は, 戒 律 と

式に 対 す る執 着で (25) , 戒 律,

式, 戒律 と儀 式に よっ て清らか にな る

sTlena suddhi

, vatena  suddhi , sTlabbatena  suddhi

とい う

邪 見

ditr

hi

, 執 着

paramaso )

倒 し た理解

vipariyesagaho

な ど を意 味

する(26)。 ニ カー ヤ に は戒 禁 取につ い て具体 的に説 く

典は見 当た ら ない が , その 内 容が うか が え る もの と して, 吻 帽脚oη訛の・α の

Kukkuravatik

αsutta が あ げられ る。 こ こで , 世 尊は, 牛の よ うに行

す る人

govatiko

)と犬の よ うに行 動す る人

kuklcuravatiko

)(27)に対 して , 「 も し, 私は, こ の 戒 律 あ るい は儀 式,

行,

行に よっ て あ るい は

の 一に なる だ ろう と 考え る な らば, そ れ は誤っ た見

で あ る

sace 

kho

 

pan

assa eva 卑

ditthi

 

hoti

imina

ha

珥 silena  v且vatena  v琶

tapena

 v乱

brahmacariyena

 va 

devo

 v

bhavissEmi

devafifiataro

 va  ti. sa ssa 

hoti

 micchelditthi

」(28)と

き, 正 し くない 行 動を

るよ うに

法す る。

 

戒禁 取 と同様 の 意味を もつ 用 語 として 縁 起 支ち, 執

の 内

す る 四 つ の 執 着

cattari upadanani

(29)の 一 つ で る ‘sfiabbanipfidana ’

があ

る (30)。

Visuddhimagga

によ る と, こ の sTlabbatUpadana は 牛の よ うに行 動す

る こ とに よっ て , 清 浄に な る と執

す る こ とで あり

(31)

(7)

      預 流に お け る信 と慧      

27

の で ある と把

す る こ とか ら,

我を

浄 させ よ う と欲 す るこ とで ある (32) 。 こ のよ うに戒 禁

は, 自我が永遠で あ る とい う常 見 と結 びっ い た誤っ た見

か ら生 じ るもの の ゆえ に,

本質的

に は,

有身

見の ご と く,

自我

す る正 しい

を具える こ とに よ っ て 除

さ れ る。

 

預 流者が除去 する束

うち 有 身見 と戒 禁取は,

我に対 す る誤っ た見

か ら生 じ るもの で , それ らを除去 する方 法は,

我を

構成

して い る と執

してい る五蘊 に対 して, 「 」 で ある と正見を具え , 五蘊 と自分 とを同一 の の としない 「無 我」 の 智 慧 を得こ とで る(33)。

3

預流

 

智 慧が , 煩 悩を消 滅 する こ とに よっ て, 悟 りの獲 得に決

的に

く要 素で あるの に対して,

信 (

saddha

は, その

りの

得に

かっ て行 くこ とを決 意さ せ る原 動 力とし て, 優 先 的かつ 基 本 的に具え られる べ 要 素 (34) 。

りに

か う

初段 階

で ある

出家

帰依

けと して , ニ カー ヤ に

かれ て い る

は, ブッ ダの

法を

い て, ブッ ダに

して

ら れ る

で ある {35) 。 ブ ッ ダを信じる こ とは, ブッ ダの

りと

え , その

えに

っ て,

分に も 悟 りが得 られ るこ とを信 じるこ とで , これに よっ て,悟 りに向かい その 道 を 歩む決 意を す るこ と が可 能 とな るの で あ る(36)。 こ の よ う な信 に基づ き, ブッ ダの えに従い 修 行 し た結果 とし て得 られ る智 慧に よっ て, その信は さ ら に深ま り確 固 となる。

1

) 信 (

saddha )

の様 相

 

パ ー リ

文献

情意 的 (

affective

能動 的

conative

)側面

知 的

cognitive

が ある こ とは, すで に

指摘

され て き た とこ ろ で あ る(37)。

信 の 惜 意 的な側 面 は,信が 愛 情

pema

・信心

bhatti

・浄信

pasada

と 並列に登 場す る こ とか ら伺わ れ(3S),

知 的な側

は, その

基盤

慧が

(8)

 

28

      パ ー学 仏 教 文化 学

信行者

に つ い て, 十二 処

・ 五蘊な ど

し てれ ら

に お い て,

こ の よ うに,信 じ,確 信 す る

ime

 

dhamme

 evarp  saddahati  adhimuccati

(39)

と説か れ た用 例や , 以下に述べ , 預

流者

が具え る信で あ る

固た る浄 信

aveccappasada

な どに おい て み られ

 

こ うし た信の 知 的な側 面は

教の信が盲 目的な信 仰心 を意 味す る の で は な く,智 慧に よっ て 確 認 し, 確 信す る こ と と不 可 分な もの で あるこ とを示 す 重要な部 分で あ る。 これ は,

の 一 特 性が智 慧に基づ くこ とで あるこ と を

し て お り, 情 意 的な性 質を もつ 信が ,智 慧 と結合 して い る ゆ えに 盲 目 的な もの で はない こ とを示 して い る。 智 慧 と信 と は,

両者

不 可分の 一 て機 能 す るもの で あ るゆ えに,

の み が単 独で 智 慧に 向か う前段 階 として 理

で きる もの で は ない (40)。

 

信は本 質 的に情 意 的で あ る と ともに, そ の基 盤に は, そ れ ぞ れの 程 度の智 慧が 内在 する。 そ れ ゆえ, 具えて い る智 慧の 程 度 に 従っ て,信の 情 意 的な 内容が 変 化す る。 実 際 知 的 な側 面 を表 す信 の 用 例 はさ ま ぎ まに確 認で き る。 修 行の 結 果 として 智 慧が増加 す れ ば 智 慧に よっ て

完成

された内 容にっ い て , よ り強い確 信が得られ , それ と共に信の 情意 的な側

は さ らに深 ま り 確 固 とな る。 預

流者

が具え る信は,預流 果を成 就 し うる力を もっ た智 慧に基 づ くの で , 預 流果 よ り以前の段階の信 よ り確 固 となっ て い る こ とは当然で あ る。 以下,

例を

確認

しよう。 (

2

) 預流 が具 え る

確 固浄 信

aveccappasada

 

カ ーヤ で

預流

が もっ とも明確に示 されて い るの は い わ ゆ る 四預 流 支

cattari  sotapattiyafig5ni

と名称す る 四つ の 預 流 者の要

に おい て で あ る。

Dighanilca

ya

Sarkgitisutta

に は, ブッ ダに

して確 固た る浄信 を具える

こ と

buddhe

 aveccappasadena  samannagate

法 に対 して 確 固た る浄信を具

え るこ と (

dh

  me  aveccappas 巨

dena

 samannagato

, 僧に対して

固た る浄

を具 える こ と

sahghe  aveccappasEdena  samannagato

, 聖者が

す る

を具え

(9)

      預 流に おける信 と慧       29

cattdri sotapannassa  afigani

が説か れて い る(41)。 こ れは, 預 流 者が

る特 徴 的 な要

るが, その

で も仏 法

に対 する

確 固

た る浄

は,

流 者の 信 を示 して い る点で 重 要で あ る。

Saraka

’ nisutta に は,

に対す る

確 固

た る

浄信

が,

預流者

には具え ら れてい るが,

預流道

聖者

には具え られ て い ない と説かれて お り(42), こ れは, 預 流 道の 聖 者の信 と は異 なる もの で , 預 流 者になっ て初め て具え られる信で あるこ と が よ く示されて い る(43)。

 

確 固 た る 浄 信 」 と

し た ‘ aveccappasada ’の ‘avecca ’は, 「

to

  ow

, 理

す る

to

 understand

」 を意 味す る ‘ aveti’ の

ge

 

d

の形で, 「理

解 して

understanding , 

having

 

penetrated

(44) , も し くは 「確 実

certainly

, 完 全 に

perfectly

)」(45)とい う意 味を もつ 。 つ ま り, 理解 に 基づ い て 確固 と なっ た状 態を

含意

し て い る。 そ し て, ‘ saddha ’ と意

上,

密接

に関 係 して い る単 語である ‘

pastida

’ は(46), 信 頼 (

faith

)以外にも, 清 浄 (

purity)

, 満足

satisfaction

serenity

などの意

を も ち (47) , 心 が澄み

り,

ら か とな り, 静か な喜 びや 満 足 の感ぜ られ る心

を さ す   。 これ は, 心 が 清 らか に なっ て い る状態, あ るい は心 を清め る信を意 味す る。

 

Ratancrsutta

に は 「聖 者 っ て の 真 実を理

して み る人

yo

 ariyasacc 百ni avecca  passati)」(49)と説か れ た個所 が あ る。 こ れ に 対 して注 釈

に は 「 の 聖 者に とっ て の 真実に, 智 慧に よっ て入 っ てみ る人

yo

 cattfiri ariyasaccani

pa

鯔 盃

ya

hogahetva

 

passati

(50)と説 明 さ れ , 「理 解 す 」 とは 「

慧に よ っ て 入 る こ と で あ る こ と が 明

に 示 さ れ て い る。

す る に, ‘ aveccappasEda ’ と は, 「智 慧に よ っ て 確 固 と な っ た浄 信」 を意 味す る。 こ の 事 実は, 注 釈 書の 「確 固た る浄 信 を と , ブッ ダの

諸 特

性 をあ るが ま まに 知るこ とか ら, 不 動, 不 滅の 浄 信 を

とい う意 味であ る

の 二 つ の

要 素

に お い て も同様の 方 法で ある

aveccappasEden5  

ti

 

buddhagupanam

 

yathabhUtato

fiatatta

 acalena  accutena  

pasEdena

. upari 

padadvaye

 

pi

 es’eva  nayo

(51)い う説 明 か らも確 認で き る。

 

MaJl

himanikdya

VTsamsahas

tta

に は,他の 人か ら,

世 尊正 等覚 者で あ

(10)

30 パ ーリ学化 学

bhagava

 svEkhfito 

bhagavata

 

dhammo

 supatipanno  sartgo

と語 られる理 由と根

拠につ い て 聞かれ た ら,世 尊が , ます ますす ぐれ た

え を説 く と に その教 えにつ い て

知して,教えの なかで 一つ の教えに対 し て完 成に至っ て , 世 尊 は正

等覚

者で ある云々 と, 師を信 じ た

satthari 

pasidim

(52

え るべ きで あ ると

かれて い 。 また, この よ うに して,如来に対 して 信が

固 とな り,

が 生 じ,確立 されて い る

tathagate saddha  nivi#

ha

 

hoti

 mUlajata

patitlhitE

, これ が 理 由を有す る信

kfiravata

“ saddhE

の で

る が, そ れ は見に基づ い た堅 固な る

dassanamrtlika

 

dalha

の で,世 界の い

か な るもの に よっ て も征服 さ れ ない

asamhariya _

kenaci

 v灘okasmilp

(53)

説か れて い る。

 

こ こ で, 「世 尊正 等 覚 者 で あ る云 々」 とい い うる理 由は智慧 を具 える こ とに よ る教えの 証 智に よっ て, ブッ ダに対 する信が堅固に なっ た か らで あ る。 こ の経 文は,預 流 者の 確 固た る浄

容の 縮 約 と して み ら れ る(54)の で, こ こ か ら, 預 流 者が 具 える

は,

慧に基づ くこ とに よ っ て,不 動 と な り堅 固になっ た もの で あ るこ とが うかが え る また ,

Sammddi

.tthisutta に は 「友 よ, 正見, 正 見 とい わ れ ます。 友よ, どの ように して, 聖 な る弟子は 正見を もち, 見 解が まっ す ぐにな り,法に対 して 確固 た る浄信 を具え , 正 し

を成 就 しま すか

sammadiCthi  samm5ditthiti  

avuso

 vuccati . 

kittivatE

 nu 

1

ho

avuso

 ariyas 百vako  samm 蕊

di

hi

 

hoti

, ujugata ’

ssa 

dit

hi

, 

dhamme

 aveccappasfidena

samann2gato , 

agato

 

imam

 saddhamman  

ti)

(55 と説か れ , 法 に対す る確 固た る 浄

を具 え るこ と は, 正を具えるこ とに ほ かな ら ない こ とが示さ れ る。

 

最 後 に, taveccapasRda ’ と同様な文 脈で 説かれ, 預 流 者の信を表 すもの に ‘ ekantagato  abhippasanno

を 具 え い る

(56)’とい う表現を言及す る必 要があ る。 これ は、信

saddhE ) と愛

pema

に 「確立 し てい る とい う意 味の ‘ nivittha ’ が結合 さ れ た もの と同

的にられ(57) , 揺るぎな く

立し て い る

す用 語で , 以下にみ る 「

vic

kiccha

」 が, 預 流

が具え る

に よっ て 除去さ れ るこ と を, よ り明 らかに して くれ る。

(11)

      預流に おける信と慧      

31

3

預 流が具え る

に よっ て

去さ れ る

縛 :疑い (vicikiccha )

 

五 つ の 障碍

nivarana

(58)の一つ で も あ る 「 」 は, 確 信が もてない 状 態で 生 じ る(59)。 ニ カ ーヤ に お い て

は,

束 縛

, あ るい は

碍の 要 素 と し て, その 名 称だ けが挙 げられて い る場 合が

い 。 とこ ろが ,

師 (

satthari

dhamme

・ 僧

sailghe

・ 学

処 (

si  琶

ya)

な どを

う(60)とい う用 例や , vicikiccha の 同

語で ある

kanl

ha

が 用い られ,

修行道

う(61)とい う用 例が み ら れ, 疑い は, 仏 ・ な どを対 象 と し がわか る。 ま た, 三つ の 疑 惑

tisso 

ka

血  諷

と して説か れ てい る, 過 去 ・

・現

して

じ ない こ と(62)も, 疑い の

容 を構

する要 素 と し て 考 え ら れ る。 こ れ らの 内 容 は,

Dhammasangani

に お い て , 疑い とは 師 ・ 法 ・

学処

・過 去 ・

未 来

在 ・ 縁 起 法 に て疑 うこ とで あ る(63>と , ま と まっ た形で 説かれて い る。

 

ニ カー に は , 「 して疑 惑 を もたず, 疑わず, 確 信 し, 浄 信す る …

し て学 処 し て確 信 , 浄 信す る

satthari  na

ka

d

鯒 c 楓 cchati 油

imuccati

 sampasTdati _

dhamme

_ saiighe _ sik  亘

ya

_ adhimuccati  sampasidati

〔64)とか 「比 丘た ちよ 私の その

教え

を信

じ な さい 。

確信

し な さい 。 こ こ で,

惑を

れ,

い を

れなさい

saddahatha

me  tam  

bhikkhave

 adhimuccatha  nikkafikh ettha 

hotha

 nibbicikiccha

(65)

疑 わ ない こ と が, す な わ ち信じ る こ とで あ り,確 信す る こ とで あ るこ とを示

す用 例が あ る。 ま た ,

比 丘 た ち よ, の で あ る

, あ るが ま

まに正 しい

慧に よ っ て み る人に, 疑い は

消滅

す る のか。

世尊

よ, そ うで

bhatarn

 

idan

 

ti

 

bhik

  ave  

yathabh

talp

 sammappafifiaya  

passato

 

ya

 vicikiccha

sa 

pahiyatTti

?evam  

bhante

(66)と う用 例に は

, 疑い の 除 去に, 如 実 知 見の

慧 つ ま り,預 流者が具え る

慧が 必要 となる こ とが示 されて い る(67)。

 

こ の よ うに, 疑い が 除去され た状 態は, 信が具え られ た状 態で あ り, 疑 い の

去 に は,

預流 者

の 智 慧が 必 要で あ る。 信が智 慧に基 づ い て い る こ と は, すで に述べ た と お りで あるが , 預流 者の

慧に

づ く

, それは当然 預

流者

で あ る。

預流者

が具え る

が, 疑い の 対 治で あ る こ と につ い て は,

(12)

 

32

      パ ーリ学 仏 教 文化 学

如 来

対 して深 い を具えて い る聖な る

子は, 如来 と如

え とにっ

い て , 疑 惑が な く疑い が ない で あろ う

yo

 so ariyasavako  tathEgate ekantagato

abhipPasanno  na so 

tathagate

 v互tathagatas琶sane  va 

kahkheyya

 va  vicikiccheyya va

  い う経 文で,

い を な くす 主体 の 表 現 と して, 預 流 者が具え る信 の ‘ aveccapasada ’ と同義であ る ‘ekantagato  abhippasanno ’ が 用 い られる こ と か ら も明確に示さ れ る。

4

に お

 

パ ー 文 献に は , 阿 羅 漢 か ら預 流 者 まで の 四

種 類

の 聖 者が 七 種 類 の 聖者

以 下七 聖 人

細分 化

さ れ て 説 かれ て い る。 七 聖 人 と は, ニ カ ー ヤ と注 釈 書(69)の 説 明 に基 づ き, と果 の 成就 状 態 に よっ て 三 つ に分類 す る と,   阿 羅 漢 果を成就 し た 聖者 :倶 分

解脱 者 (

ubhatobhagavimutta

解 脱 者

pafifiavimutta

) 

阿 羅 漢 道 か ら預 流

まで に い る聖 者 :

kEyasakkhin

・信

脱 者

saddhavimutta

・見 至

者 (

ditthippatta

) 

成 就 した聖 者 :随信

saddhanusarin

随法行者 (

dhammanusarin )

る。 こ の う ち,

預流

果の

信解

脱 者 ・ 見至 者 と ,

預流道

の 随信 行 者 ・随法行 者 に よ っ て , 預流の聖者に信 と慧が 具え られ い る姿が よ く示されて い る。 こ こ で は, こ の 預

の聖者に お け る信 と慧につ い て, 七聖 人に

して

も詳 し い

伽〃2α脈 α の

1

g

調 3〃跏

以下

Ks )

と, 人の 分類 と解説 を 主 とす る 論 蔵の

Porggalapafifiatti

以下

Pp

の 説明 を

心 に考 察 し, 上で 考 察 して き た内容が, 実 際の聖者の姿に お い て も

立す る こ とを示したい

 

まず,

Ks

Pp

に おけ る, これ らの 聖者の信 と慧に関 する説明 を整理 して み よ う。

は共通説 明

 

1 )Ks (

MI478

9

の説 明

 

a

 

随信 行 者

に従 う人

:如

して信が適 度で あ り,が適 度で

あ る

tathagate c’assa saddhgmattam  

hoti

 

pemamattam )

智 慧

に よ っ て み て,

煩悩

が消 滅 して い

pafifiaya

 c’

(13)

      預 流に お け る信と慧       33

れ ら

徳性

が あ る。 す な わ ち,

能 力

精 進

力,

の 能 力,

能 力, 慧の能 力 で あ る

c’assa 

ime

 

dhamma

 

honti

 seyyathidam  saddhindriyarp

viriyindriyarp  satindriyam  samadhindriyarp  

paflfiindriyarp

 

b

 

随 法 行 者

法に従 う人

:如

っ て

か れ た教え が,

慧に よっ

て適 度に 理解 されて い る

tath5gatappavedita c’assa  

dhamm5

 

pafifi5ya

 mattaso

hanaln

    anti

慧に よっ てみて,

煩悩

滅 してい ない 。 彼 に は こ

れ らの 徳 性が ある。 すな わ ち,

能 力

精 進

力,

力, 定の 能

力, 慧の 能 力で あ る。

 

c

 

信 解脱 者 (

に よっ て

脱 し た人

慧に よ っ て みて 一部の 煩

悩が消滅す る

pa

面 巨

ya

 c’

assa  

disv5

 ekacce  

asa

par

  順

honti

。 如 来 に対

して

固 と な り, 根が 生 じ,確 立 さ れて い る

tathagate

 c’assa saddhE

nivi

5

 

hoti

 mUl

t蕊

pati

hita)

  d   見

者 (

正しい

]見解

た 人

智 慧

に よ 煩 悩

消 滅す る。 如来に よっ て 説かれ た教 えが, 智慧に よっ て十 分に理解さ れ て お

り, 洞 察さ れ て い る

tahagatappaveditE c ’

assa 

dham

皿 瓦 

pafifiZaya

 vodi  

b

a 

honti

vocarit巨

0

 

2 )Pp (

p

15)

 

a−

1

随信 行者

体 得 [修 行 しく人

yassa

puggalassa

 sotapattiphalasacchikiriyfiya  

patipannassa

能 力 が す ぐ れ

て お り (saddhindriyam  adhimattam  

hoti

信 を 先 と す 聖 道 を

習す

saddh5pubba 血

gamairi

 ariyamaggarp  

bhaveti

に立つ は,

信解

で ある

phale

 

thito

 saddhEvimutto

 

b

1

随法 行 者 :預 流 果の 体 得 に向か っ て

修 行 して

い く人 は,智 慧の

能 力がす ぐれて お り

pafifiindriyam

 aChimattam  

hoti)

慧を先 とする聖 道 を

習 する

pafifiapubbafigamam

 ariyamaggam  

bhaveti

立つ は, 見 至 者

で ある

phale

 

thito

 

di

hippatto

 

c−

1

脱 者 : これが苦で ある と…集…

…道で ある と あるが ままに知

(14)

  34      パ ーリ学 仏 教 文 化 学

mini  

patipada

 ti 

yathabhatarp

 

paj

 anati

に よ っ て 説かれ た教え が,

智 慧

に よっ て 十 分 に理 解 さ れて お り

さ れ て い る。 智 慧 に よっ て み て , 一 部 の 煩 悩が 消 滅 す る。 し か し,見 至者 の よ うで は な い

no  ca  

kho

 

yatha

diUhippattassa

o

 

d

1

: これ が

で あ る と…集…滅…道で ある とあるが ま まに知 る。 如 来に よっ て説か れ た 教 え が ,智 慧に よっ て 十 分に理解さ れて お り , 洞 察さ れて い る。

智慧

に よっ て み て, 一 の 煩 悩が消滅す る。

 Ks

で は, 随信 行 者 と随 法 行 者 に それ ぞ れ特徴的 にえ られて い る信と慧 が ,

信 解

と見 至

に お い て , 確 立 した形 と して具え られて い る。

Ks

に は

直接

の 言 及がない が,

Pp

に は, 随 信 行

と随法行 者が 預 流 果を成 就 した 場合 , その結 果が信解 脱 者 と見 至 者で あ る と説か れて い る。 こ の よ うに, 随

と信 解 脱 者は 「 」 に, 随法 行

と見 至

は 「 」 に おい て結 びつ い て い る

関係

を も ち なが ら, 預 流 道 と預流果 とに区 別 さ れ説か れて い る こ と に よっ て, 一莞 すれ ぼ 預 流果を成 就す る方法 に

と慧とに よ る二 つ の もの が あ り, こ れ らの 聖者は, それぞ れ信 と慧 とによっ て預 流 果を成 就す ると説か れてい る よ うに見え な く も ない 。 しか し,文 献を注 意 して 検 討 して い く と, こられの 聖者は,信 と慧との 掴 別 的な方 法に よっ て預 流 果を成 就 するわ けで は ない こ とがわか る。

 

Ks

Pp

の 両 文献に は, さ まざま な 異 な る部 分が あ り, それ ら を総合す る と,相 互に記 述が補 完さ れて , 各聖

の姿 がよ り正確に理解で き るこ とに注 意 すべ 。 まず,

下線

で示 した

両文献

に共 通す る説明 を通 じて,信 解 脱 者 と見 至 者 は一

煩 悩を消滅 して い るこ とがわか る。 預

道の人 に 関して は

Ks

だ けに, 煩悩が消 滅 してい ない と説か れて い るが, 

Pp

に おい て も, 預 流

の人に 一

煩悩

が消 滅 して い る と説か れ てい る の で, そ こ に 達して い ない 人 に は,一部の煩 悩 も消滅 し てい ない こ とが わ か る。

Ks

に は, 最初にあげた ,

就す る道と果に よ る七 聖人の

におい て,

 

の 聖者に は すべ て の

煩悩

 

に は一一 煩 悩滅 し お り,  に は

(15)

       預流に お け る信 と慧       35

消滅

して い な い と説か れて い る。

 

 

内容

に っ い て は

Pp

にも同様 に説か れてお り,

 

に 対 して もす ぐ上 で述べ た よ うに, 同

結果

推測

さ れ る。

 

これ が意 味するの は, 道 と果の

就を決

す る のは, ほか な らぬ

悩の 消 滅 状 態とい うこ とで ある。 同じ分 類に属 してい る聖

は, 同 じ煩 悩が消滅 し た状 態にある。 「智 慧に よ て み て , 煩 悩が

消滅

す る」 と説か れて い るの で, 随信 行 者 と随法 行

は, ま だ

煩悩

消滅

で き ない ほ どの , そ して信 解 脱者 と 見至 者 は, 一 煩 悩 消滅

る こ が ない 。 け れ ど も, その

慧の

度 や鋭 利 さに お い て は,

が あ る。

Pp

に は, こ の預 流

の二 聖 者に つ い て , 智慧 を具 えるこ とに対 する説 明は 一 てい るが,

信解

脱 者に 「見 至者 の よ うで は ない と説か れてい る。 注釈に よ れ ば, 両者は煩 悩を消滅 す る こ とに お い て は差 異はない が ,信 解 脱

は, 苦 しみ と

困難

れつ つ

煩 悩 を

消滅 するこ とがで きる

duklChena

 

kasirena

kilamanto

 

hutva

 vikkhambhenm  sakkoti

。 また, vipassanE に よ る

が鋭 く,勇

猛に,

清浄

にな ら

vipassanafianam  no tiklcharp siirarp 

pasannarp

 

hurva

vallati

ゆ えに見 至

に は

ばない

tasma  

ditth

 

ippattarp

 na 

pipurpEti

と も説

明 さ れて い る(70)。 これ は, 智 慧に お い て , 見 至 者が 信 解 脱 者 よ りす ぐれて い るの で ,

獲得

に か か る努 力の 程 度が異なるだ けで , 煩 悩の消滅 に必 要 な

智 慧

を具えて い る こ とに おい ては, 何 らか の 差 異 も ない こ と を示 してい る。 預 流 道の聖

におい ても 同

で , 他の 経 典の 注 釈 書に は, 随法 行者の 智 は勇 猛 に進む

s颯ralp 觚

p

vahati

随信

は そ の ようで は な い と説 か れて い る(71)。

 

こ の よ うに,

随信

行 者 と信 解脱 者は, 随 法行 者 と見至者に比べ , 達

に おい て比

的に

っ て はい るもの の, い

れ も

慧 を具 えて お り, その

慧に よ る煩 悩の 消滅 程

に よ っ て, 道 あ るい は果を

就す る点は重

で あ る。 こ こ で ,

成就

智慧

に よる とい うこ と は,

前述

の,

預流果

成就

に 信と智 慧の双方が必要であ る と

べ た こ と との

の必

要性

に お

(16)

 

36

      パ ーり学仏 教 文化 学 ける疑 問を生 じ さ せ るか も しれ ない 。 こ れにつ い て

足 して お く、

 

前述 の箇 所で信 と智 慧に よっ て 除 去されるの は 「

束縛

で ある…方 , こ こ で

慧に よっ て 除去さ れ る の は 「煩悩」 で あ る。

束縛

は,預 流者が除 去す る 三 つ の もの を慧 味す るこ とが明確で あ る が,

煩悩

に つ い て は, 一 で ある こ と しか知 られて い ない 。 こ の , 智 慧によっ て

去さ れ る 一 煩 悩 は い っ た い何 を意 味 して い る の で あろ うか。 … ,パ ー 文 献 に お け る

感 覚 的欲 望に

す る煩 悩

kamasava

・生

関 する煩 悩

bhavasava)

知に

す る煩 悩

avijj asava)の 三種か, これ に邪 見に関す る煩 悩

di

hasava)

が加わ っ た四種で ある。

Ks

Pp

の 注釈 に よ る と,智 慧によっ て み る対象は 四聖 諦であ る(72)。 智 慧に よっ て 四聖

をみ て 消滅 する一部の

煩悩

(73)の 意 味 につ い て 明 示 さ れて は い い が,

Pp

−a の 注釈に すべ て の 煩 悩を消 滅 し た 阿羅漢で ある倶 分 解 脱者が, 四つ の煩悩 を消滅す る と説か れて い る (74) , 一

悩とは, 四つ の 煩 悩の 一

を 意味 す こ と が わ か る。 そ の 内容 は,

Maz

himanikdya

Sabbdisavasutta

Ss

を通 じて 推測で きる。

 

Ss

に よ る と, 四聖 諦 に正 し く注 意 す る人に は, 三 つ の

束縛

が断じ ら れ る

が, これ が見に よっ て 断じ られ るべ き煩 悩

asav

蚕 

dassanE

 

pahatabba)

と呼ぼ

れ る (75)。

Ks

Pp

注 釈

Ss

に は ,共 通 して 四聖

をみ るこ とに よ っ て 煩 悩が消 滅す る と説かれて お り,

Ss

の 見に よ っ て 断じ られ る煩 悩 とは , 預 流 果に おい て 消滅す る

煩悩

に ほか ならない 。 これ が 三つ の束 縛で あ る と説か れて い るの で

Ks

Pp

預流

果で消滅す る一部の 煩悩 とは,三 つ の 束縛を 意味す る。

 

さ て,

Ss

の 注

釈 書

に は, こ の 個 所 に対 して, 「そ こ で, 四 の煩 悩 に お い て 有 身見 と戒

取は,邪 見に関す る

悩にま れるの で 煩 悩で あ り, か っ 束

で あ る。 疑い は,束 縛の みで あっ て,

悩で は ない 。 しか し,見 に よ っ て

じ られ る煩 悩で ある と, こ こで は含 まれて い るの で,煩 悩であ

 

tattha catusu  Esavesu sakd〈

ayadiUhi

−sTlabbatapar 五mas 巨 

ditth5savena

 safigahitatta

巨s av 互 c’

eva  sa正py〔)

janfi

 ca. vicikiccha  samy (}

janam

 eva

, na 

5savo

. 

dassan5

 

pah2tabba

(17)

      預 流に おけ る信と慧       37 る と, 三 つ の

束縛

の うち, パ ー リ文 献か れ 煩 悩 範 疇 , 有

見 と戒 禁取だけである。 こ の 有 身 見 と戒禁

は,

邪見

す る

煩悩

す るもの で, 見に よっ て 断 じ られ る

煩悩

と して

か れてい る ように, 正 し くな い

見解

去で き る

智慧

す な わ ち

預流

果で

獲得

で きる 「見」 を具 えるこ と に よっ て 消滅 する。

 

一方, 疑い は煩 悩に含 ま れ ない 。 預 流 果に お い て除 去 され る煩 悩が智 慧

見 )

に よっ て

消滅

する とす れ ば , 本 来 煩 悩の 範 疇に入 らない

い の

直接

除去法

は,

智慧

とは異な るもの となる。 これ は,

有身見

と戒

禁取

が ,

智慧

に よっ て除去さ れ る一方 疑い は, 智 慧に基づ く信によっ て

去 される と, す で に考 察 した内容 と符合す る。 と こ ろ が, こ の 本 来 煩 悩で は ない 疑い も, 見 に よっ て 断じ られ る煩 悩 と し

か れ る場合に は,煩 悩 と して 見 な され る。 疑い は,

信で き る智 慧が 足 りない こ とか ら生 じ る心理で あ り, その 除 去法 で あ る

基 盤には

智慧

内在

す るの で, その よ うに見 なされるの は理

し うる。

 

以上の こ とを,

Ks

Pp

に適 用 して 考え る と, 三 っ の

束縛

を意

す る,

に よっ て み て消 滅 される一部の 煩 悩に お い て,

本 来煩悩

で はない ゆ えに,

智慧

を その

直接

の除去 法 とし て い ない 疑い が, 智 慧に よっ て消滅 す る煩 悩 と して な さ れ て い るが ,

に は,疑い の 除去に智 慧に基づ く信が必 要で あ るの で,

に疑 問

した不 一は 生 じな く ,信 の必 要 性 も否 定され ない と考 えて よい 。

 

これ らの 聖 者たちに, 智 慧 と信 が共 に

え られてい る

様態

は,

随信行者

行者

に対す る説 明か ら もみ るこ とがで き る。

Ks

には ,随

行 者 と随 法 行 者 に 共 通 して,信か ら慧 まで の 五つ の 能 力が具え られて い る と説か れて い る。 一

Pp

に は, 五 つ の 能 力全部で はな く, 随

に は

力が, 随法 行者に は慧の能 力が す ぐれてい る と説か れて い る が, そ れ と共に ,

を 先 とする, あるい は

慧を先 とする聖 道を修 習す る とい う説明 も あ る。 こ の

明が

意味

するの は, 随 信行 者 と随法 行

は, そ れ ぞ れ

智慧

力がす

(18)

 

38

      パ ーり学 仏 教 文 化 学 ぐれてい る の で, 能力の 差異に応 じ て修 行の 前後 関

が 生ずるが, い

れの 場 合 も, 信 ある い は

慧 以外にも修 習すべ きもの が あ る とい うこ とで ある。 そ れ は,

Ks

に説か れて い る五つ の 能 力 全 部に ほ か な ら ない 。 五っ の 能 力は, 預 流道 の聖者か ら具え られ , そ の 完成 程 度に よっ て聖者の段 階が決ま り 阿 羅 漢の段 階で完 成 され る(77)要 素で , 預

道か ら阿羅 漢まで 具 え続 け られ る もの である。 ゆ え に, 随信 行 者と随法行

に は,信 と智 慧が共に具 え られて お り,預 流 果の 聖者で ある信 解 脱者 と見至

に も, それが 具え続け られ な け れ ぼ な ら ない 。

 

七 聖人が煩 悩を消 滅 し, 道 と果を

就す る方 法 は, 聖 者 の み なに共通 で あっ て,智 慧 と信 と によ る 区別 さ れ た もの で は ない 信を

心 と し た

名称

か ら表れ る よ うに, 随信 行

脱者

は, その 特 性に お い て , す ぐれ た

の 能 力を 具 えて い るが ,

だ け を 道 と果の方 法 と し う る わ けで は な い 同様 に, 智 慧を中心 とした名称 を もっ てい る随法 行 者と見 至者 も, その

特性

に お い て, す ぐれた智 慧の 能

を具えてい るが, 智 慧だ けを道 と

の方 法 とし て 用い て い ない 。 信あ るい は慧を中心 と した名 称が与え られて い る の は, す ぐ れた能 力

indriya

による 区別で あっ て 独立的に信あ るい は

と果を 成 就 する方法 として い る か らで は ない。 預 流道 と預

流果

の聖

に は,

と 慧が共に え られて お り, その成 就 方法に おい て も双 方 が 用い られ る。

5

. ま と め

 

以 上の

考察

を ま とめ て み よ う。

 

 

法眼は, 最 初の聖者の段 階に入 らせ る

直接

的な原 因で, 生 じた もの すべ て の

す る

性質

で ある

常に対 する智 慧で あ る。 この無

に対 す る

慧か ら 続い て具え られ る無 我に対す る智慧に よっ て 預流 者が除 去 すべ き東 縛の う ち , 五

我 と誤解 する有 身 見と,

我が

遠である とみ る常見 と結合す る戒 禁取 とが除去される。 これ らの

束縛

我に対 する誤っ た見解で あ る ゆ えに,無 常苦 無 我を通じ自我に対す る正 しい

を具える こ と に よっ て 除 去 され る。

(19)

預流に お け る信と慧 39

 

者の 仏 法僧 に対 す る確 固た る浄

は,

智慧

に よっ て 自ら教え を

智 し, それを通じ て 三 宝 に対し て 有す る不 動の確 実な

で あ る。 預流 者が除去 すべ き束 縛の うち, 疑い は, 確

が もてない 状態で 生 じ るが, そ れ は, 確 信 を もた せ る

慧が具え られてい ない か らで あ る。 こ の疑い が

除去

さ れた

態 は, 信が具え られた状 態で あるが , その信とは,智 慧によっ て確 固 となっ た

預流者

で あ る。

 

 

こ の よ うに , 預 流 者が 具 える信 と慧は, 相互に分

さ れ ,独立 して

預流

果を成就 させ る もの で は な く, 三つ の 束縛の 除 去におい て共に働 き,預 流 果 の

成就

におい て双

とな る

要素

で あ る。

  

随信 行者 と信 解 脱者, そ して 随法 行者 と見 至者は,信と智慧 との す ぐれ た 能 力に よっ て 区分されただ けで, 信 と智 慧を共に具えて お り, 独 立 的 に

と慧とを道 果の 成 就 方法 と して用い ず ,

慧の双方に よっ て預

流果

を成

する。 注

1

DI156

, 

III

 

107

132

MI34

466

SV357

AII

 

238

Ud

 

50

 etc

2

) 四 聖者 の 各 段 階は 十 の 束 縛 (sarpy()

j

 ana )を 滅 す る 程 度 に よっ て 成就 さ れ

 

る。 十の 束 縛は,五つ の 低 い 束 縛 (orarnbhagiya  saqiy (}

j

 ana )と 五 つ の 高 い 束

 

縛 (uddhambhagiya  salpy ana )か ら構 成 さ れ る。 五 つ の 低い 束縛は,  有身見

 

(sakk 巨yadi卿 )   疑い (vicikiccha )  戒 禁 取 (silabbatapardniasa)  感覚的喜びに

 対す る欲 求 (

ka

 nacchanda )  悪 意

byfipfida

で あ りつ の高い束縛は  色界

 

に対 する貪欲 (而

paraga

)  無 色 界に対する貪 欲 (ariipafaga )  慢心 (mana )  興

 

奮 (uddhacca )  無 明 (avijja)で ある。 預 流 果を得 る と  か ら  の束縛が除去さ  れ,  と  は一果の時減少し, 不還果に なる と  か ら  までが すべ てな く なる。  そ して, 高い束 縛は阿羅漢になっ てすべ て除 去さ れ る。 (

3

)預流 者にな るた め に, 信 と慧 とに よ る独立 した方法がある と述 べ 先 行研 究

 

い ずれ も, 信に よ る方法につ い て は 四預 流支 (四不壊浄)を,慧による方 法につ い  て は如実 知見 ,あるい は現観 (法 眼)を その 内容と して い る。 [舟橋

1978

178

96

 に は,預 流者 にな る方法に, 如 実知 見に よ る 「見 道 的預 流 」 と四 預流 支に よ る  「在家的預流 」 との二種が ある が, そ の な かで も前者が成立 が古 くて正統 的で あ

 

り, 後者は前者に同化し同じもの とみ ら れる に至っ た と述 べ ら れ いる。 そ して,

参照

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