• 検索結果がありません。

Vol.68 , No.2(2020)048大嶋 孝道「廬山慧遠における経典観の一考察――教主としての仏をめぐって――」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "Vol.68 , No.2(2020)048大嶋 孝道「廬山慧遠における経典観の一考察――教主としての仏をめぐって――」"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

― 811 ― 印度學佛敎學硏究第六十八巻第二号   令和二年三月 二六三

廬山慧遠における経典観の一考察

教主としての仏をめぐって

問題の所在

中 国 仏 教 に お い て、 経 典 の 大 小 乗 を 明 確 に 区 別 す る 視 点 は、 鳩 摩 羅 什 ︵三 四 四 ︱ 四 一 三 ま た は 三 五 〇 ︱ 四 〇 九︶ に よ っ て もたらされたと考えられてい る 1 。 そ の 羅 什 と 直 接 に 問 答 を 交 わ し た 廬 山 の 慧 遠 ︵三 三 四 ︱ 四 一 六︶ は、 釈 道 安 ︵三 一 二 ︱ 三 八 五︶ の 仏 教 を 受 け 継 い だ、 中 国 仏 教 界 の 第 一 人 者 で あ っ た。 し か し な が ら、 慧 遠 も 大 乗・小乗の思想史的意義を把握するには至らず、どちらも釈 尊の一教説として疑いなく受容したと考えられてい る 2 。慧遠 は羅什との問答を経た後、晩年に著した﹃廬山出修行方便禅 経 統 序﹄ ︵仏 駄 跋 陀 羅 訳﹃修 行 方 便 禅 経﹄ の 序︶ の 中 で 大 小 乗 に 関して次のように述べている。 原 二 聖 旨 一、 非 三 徒 全 二 長 一、 亦 所 三 救 二 短 一。 若 然 五 部 殊 レ 存 二 乎 其 人 一。 人 不 レ 継 レ世、 道 或 隆 替。 廃 興 有 レ 則 互 相 升 降。 小 大 之 目 其可 レ 定 乎 3 。 ここで﹁五部の業を殊にするは其の人に存り﹂とあるよう に、優波崛以来釈尊の教えが五部に分派したのは人の考え方 の 相 違 に 起 因 す る も の で あ り、 大 小 ︵乗︶ と い う の も 固 定 的 な も の で は な い と 捉 え て い た こ と が わ か る 4 。 し か し な が ら、 このような慧遠の大小乗観は、単に一切の経典を釈尊の教説 と捉えていたことに起因するのであろうか。

教説に対する慧遠の態度

一 般 に 経 典 の 正 統 性 は 仏 説 で あ る こ と に よ っ て 保 証 さ れ る。 従 っ て、 釈 尊 の 説 い た 教 え で あ る こ と を 主 張 す る な ら ば、その伝承経路が重要と考えられ る 5 。これに関して﹃廬山 出修行方便禅経統序﹄ にはさらに次のような記述がある。 如 来 泥 曰 未 レ久、 阿 難 伝 二 共 行 弟 子 末 田 地 一、 末 田 地 伝 二 那 婆 斯 一。 ① 此 三 応 真、 咸 乗 二 至 願 一 冥 二 于 昔 一。 功 在 二 外 一 所 レ弁。 必 闇 軌 二 匠 一 孱 焉 無 レ 差 。 其 後 有 優 波 崛 弱 而 超 悟。 智 終 二 表 一 才 高 応 レ 冥。 触 レ 理 従 レ 簡、 八 万 法 蔵 所 二 在 唯 要 一。 五 部 之 分 始 レ 此 一。

(2)

― 812 ― 二六四 廬山慧遠における経典観の一考察︵大 嶋︶ ⋮⋮ ② 五 部 之 学 並 有 二 人 一。 咸 懼 二 法 将 一レ頽、 理 レ 二 其 慨 一、 遂 各 述 二 禅 経 一 以 隆 二 盛 業 一。 其 為 レ 教 也、 無 数 方 便 、 以 求 二 寂 然 一、 寂 乎 唯寂、其揆一耳。 ⋮⋮③ 今之所訳出 レ 自 三達磨多羅与仏大 先 6 一。 一 見 す る と、 如 来 ︵釈 尊︶ が 入 滅 し て 間 も な く 阿 難 は 末 田 地に教えを伝え、舎那婆斯、優波崛と伝承された後、五部の 分派が生じた、というように経典が釈尊に由来するというこ とを述べる文章に思われ る 7 。しかし傍線部①では阿難・末田 地・舎那婆斯の三人は﹁昔に冥契す﹂とあり、言い換えれば 釈尊と時をこえて結ばれていたということであろう。そして そ の 時 契 ら れ る 功 ︵は た ら き︶ は 言 外 に あ り、 経 に も 説 く こ と が で き な い も の で、 元 匠 ︵釈 尊︶ の 悟 り と 暗 に 一 致 し て い ると説かれる。 つまりこの箇所の主眼は、経典がいかに釈尊以来伝承され てきたかということではなく、教えや悟りというのは、むし ろ経典などの言葉を超えた境地において伝承されてきたこと を言わんとしているものと考えられる。その境地とは、棒線 部②に禅経の根源たる﹁寂然﹂として捉えられているもので あ り、 様 々 な 方 便 と し て の 教 の 唯 一 無 二 の 揆 ︵よ り ど こ ろ と す る道︶ となるものとされている。 このような慧遠の見解が表れているのは、 ﹃修行方便禅経﹄ の序文という性格も影響しているだろう。すなわち傍線部③ で示されるように、この禅経が釈尊ではなく達摩多羅と仏大 先によって出されたものであることを慧遠は知っていたので ある。 慧遠はまた﹃与隠士劉遺民等書﹄の中で弟子達に次のよう な言葉を残している。 毎 レ 尋 二 昔 一、 遊 二 心 世 典 一 為 二 年 之 華 苑 8 一也。 及 レ 二 老 荘 一、 便 悟 二 名 教 是 応 変 之 虚 談 耳 一。 以 今 而 観 則 知、 沈 冥 之 趣、 豈 得 レ 二 仏 理 一 為 上 レ先。 苟 会 レ 有 レ 則 百 家 同 レ致。 ⋮⋮ 若 染 レ 綴 レ文、 可 レ興於此 一。雖 三言生 二 於不 足 一 然非 レ言無以暢 詣之 感 9 一。 引用前半では、仏典はもとより儒教その他百家の教説まで も、その極致とするところは同じであるという見方が示され る。 こ れ も 慧 遠 が あ ら ゆ る 言 教 に 対 し て そ の 根 底 に あ る 境 地、先の ﹁寂然﹂ を重んじていたことを表すものであろう。 そ し て 引 用 後 半 の 傍 線 部 で は、 劉 遺 民 等 の 弟 子 達 に 対 し て、 ﹁も し 筆 を 執 っ て 文 を 綴 る 場 合 に は、 言 葉 は 不 足 を 生 じ るけれども、感得した境地を暢べるには言葉に依らざるを得 な い と い う こ と に 留 意 す べ き だ。 ﹂ と 説 い て い る よ う に、 文 字や言葉の背後にある体験的な境地こそが本質であるという 認識が窺われる。 このような慧遠の言教とその背後にある体験的境地という 視点は、四〇四年頃に執筆された﹃沙門不敬王者論﹄におい て教化の問題としても展開される。

(3)

― 813 ― 二六五 廬山慧遠における経典観の一考察︵大 嶋︶ 常 以 為 、 道 法 之 二 名 教 一、 如 来 之 二 与 尭 孔 一、 発 レ 致 雖 レ 殊 潜 相 影 響 、 出 処 誠 異 終 期 則 同 。 詳 而 弁 レ 、 指 帰 可 レ 。 或 有 二 合 而 後 乖 一 有 二 乖 而 後 合 一。 先 合 而 後乖者 、 諸 仏 如 来 則 其 人 也 。 先 乖 而 後 合 者 、 歴 代 君 王 未 レ 之 至 一、 斯 其 流 也 10 。 ここで、仏教と儒教、如来と聖人・君主というのは、いず れ も 最 終 的 に 帰 一 す る 関 係 で あ り、 そ れ を﹁合﹂ か ら﹁乖﹂ と、 ﹁乖﹂ か ら﹁合﹂ と い う 二 方 向 か ら 捉 え て い る。 引 用 は 略 す が、 如 来 と 聖 人・ 君 主 の 関 係 で い え ば、 如 来 ︵合︶ が 聖 人・ 君 主 ︵乖︶ に 変 現 す る こ と が﹁合﹂ か ら﹁乖﹂ の 方 向 で あ り、 逆 に 様 々 な 教 え を 立 て る 聖 人・ 君 主 ︵乖︶ の も と を れ ば 根 源 的 な 如 来 ︵合︶ に 帰 着 す る と い う の が﹁乖﹂ か ら ﹁合﹂ の方向とされる。 そして、そのような根源的な如来の応現たる説法者によっ て 立 て ら れ た 教 説 は、 続 い て﹁若 以 レ 対 二 夫 独 絶 之 教 不 変 之 宗 一 固 11 不 レ 得 三 レ 年 而 語 二 優 劣 一、 亦 已 明 矣 12 。﹂ と 述 べ ら れ るように、言葉を超えた﹁独絶の教、不変の宗﹂に照らして みれば、 その優劣を語ることなどできないのである。 このような記述から推してみれば、釈尊という存在も根源 的な如来の応現した姿の一つということになり、実際に歴史 上の釈尊が説いたか否かは、仏典を受容する際の問題とはな らなかったと考えられ る 13 。

小結

以上、慧遠にとっていかに経典が優劣無く意義のあるもの とされたかを検証した。それは、仏教に限らず世に立てられ た 様 々 な 教 説 と い う の は、 最 終 的 に は 唯 一 の 根 源 的 な﹁寂 然﹂に帰着するという視点、および、教説を立てた説法者は それぞれ根源的な如来の応現であるという視点をもっていた 為と考えられる。 冒頭に述べたように、慧遠が大小乗無分別の立場をとった のは、どちらも釈尊の説いた教えとして捉えた為であると理 解 さ れ て き た。 し か し、 慧 遠 に と っ て 経 が 教 た り え る の は、 必 ず し も 釈 尊 に よ っ て 説 か れ た か ら で は な く、 ﹁寂 然﹂ た る 境地を解き明かさんとする方便であるからと考えられる。そ れ故に、仏典のみならずあらゆる教説が価値を持つことにな るのであろう。 1   横超︵ 一九七六︶二九四頁を参照。 2   塚 本 善 隆﹁中 国 初 期 仏 教 史 上 に お け る 慧 遠﹂ ︵木 村 ︵一 九 六 二︶ 二 四 頁︶ や、 横 超 慧 日﹁大 乗 大 義 章 研 究 序 説﹂ ︵木 村︵一九六二︶一六一頁︶ を参照。 3   大正 五五・六五頁下。 4   慧 遠 の 大 小 乗 観 に つ い て 木 村 宣 彰 氏 は、 ﹁大 乗 と 阿 毘 曇 と の 教 理 上 の 区 別 が は な は だ 曖 昧 だ と い う の で は な く、 ⋮⋮ 大 乗 小

(4)

― 814 ― 二六六 廬山慧遠における経典観の一考察︵大 嶋︶ 乗 の 経 論 に 対 し て と も に 敬 な 尊 信 の 念 を 懐 い て い た の で あ る﹂ と 述 べ、 そ の 態 度 が 大 乗 の 法 身 説 理 解 の 不 徹 底 さ に つ な がっているものとする。木村︵二〇〇九︶五五︱五九頁参照。 5   ﹃大 乗 大 義 章﹄ に お い て 羅 什 は﹁後 後 五 百 歳 来、 随 二 諸 論 師 遂 一 各 附 レ レ 安、 大 小 判 別。 ﹂︵大 正 四 五・ 一 二 三 頁 下︶ と、 仏 の 入 滅 後 五 百 年 を 経 て 大 小 乗 の 分 派 が あ っ た こ と を 示 し て い る。 6   大正 五五・六五頁下︱六六頁上。 7   末 田 地︵マ ド ヤ ー ン テ ィ カ︶ は 商 那 和 修︵舎 那 婆 私・ シ ャ ー ナ カ ヴ ァ ー シ ー︶ の 同 門 で、 優 波 崛︵ウ パ グ プ タ︶ と ほ ぼ 同 時 代 の 人 物 と さ れ、 彼 が 賓 を 開 教 し た と 考 え ら れ る。 同 じ 北 伝 系 の 伝 承 で も ア シ ョ ー カ 王 ま で の 相 承 を﹃阿 育 王 伝﹄ で は 大 葉・ 阿 難・ 商 那 和 修・ 優 波 毱 多 と す る が、 ﹃阿 育 王 経﹄ で は 大 葉・ 阿 難・ 末 田 地・ 舎 那 婆 私・ 有 波 多 と さ れ る。 こ の﹃阿 育 王 伝﹄ の 伝 承 は 中 イ ン ド の 根 本 有 部 の 相 承、 ﹃阿 育 王 経﹄ の 末 田 地 を 含 む 伝 承 は 賓 の 有 部 の 伝 承 と 考 え ら れ て い る。 平 川 ︵一 九 七 四︶ 一 一 三 ︱ 一 一 九 頁・ 一 六 七 頁、 お よ び 安 藤 俊 雄 ﹁廬 山 慧 遠 の 禅 思 想﹂ ︵木 村︵一 九 六 二︶ 二 七 九 ︱ 二 八 〇 頁︶ を 参照。 8   大正蔵では ﹁宛﹂ となっているが、 ﹃国訳一切経﹄ ︵護教部三、 七 〇 九 頁︶ や 木 村︵一 九 六 〇︶ ︵九 七 頁 お よ び 四 二 七 頁︶ で は ﹁苑﹂ としているのに倣う。 9   大正 五二・三〇四頁上∼中。 10   大正 五二・三一頁上。 11   大正蔵の校訂により改めた。 12   大正 五二・三一頁中。 13   福 永 光 司 氏 は﹁慧 遠 と 老 荘 思 想 ︱︱ 慧 遠 と 僧 肇 ︱︱﹂ ︵木 村 ︵一 九 六 二︶ 四 〇 七 ︱ 四 〇 九 頁︶ に お い て、 伝 統 的 な 中 国 の 思 想 文 化 が 根 強 く 慧 遠 の 考 え 方 を 規 定 し て お り、 儒 仏 一 致 の 態 度 や 感 応 の 思 想、 成 立 事 情 を 無 視 し た 諸 経 説 の 疎 通 な ど も そ の 影 響であると指摘している。 ︿参考文献﹀ 山口覺勇﹁廬山慧遠の念仏三昧論﹂ ﹃浄土学﹄第三輯、一九三二 木村英一編﹃慧遠研究﹄遺文、創文社、一九六〇 木村英一編﹃慧遠研究﹄研究、創文社、一九六二 玉 城 康 四 郎﹁廬 山 慧 遠 に お け る 道 の 究 極﹂ ﹃宗 教 研 究﹄ 第 三 七 巻 第一号、一九六三 平川彰﹃インド仏教史﹄上巻、春秋社、一九七四 横超慧日﹃中国仏教の研究﹄第一、法蔵館、一九七六 中 山 正 晃﹁廬 山 慧 遠 の 念 仏 三 昧 観﹂ 渡 邊 隆 生 教 授 還 暦 記 念 論 集 刊 行 会 編﹃仏 教 思 想 文 化 史 論 叢﹄ 渡 邊 隆 生 教 授 還 暦 記 念 論 集、 一九九七 木村宣彰﹃中国仏教思想研究﹄法蔵館、二〇〇九 ︿キーワード﹀   廬山慧遠、寂然、方便、言教 ︵大正大学大学院︶

参照

関連したドキュメント

する愛情である。父に対しても九首目の一首だけ思いのたけを(詠っているものの、母に対しては三十一首中十三首を占めるほ

名の下に、アプリオリとアポステリオリの対を分析性と綜合性の対に解消しようとする論理実証主義の  

このように資本主義経済における競争の作用を二つに分けたうえで, 『資本

  The aim of this paper is to find out that the Religious Knowledge education ( hereinafter called RK ) in Denmark and the Moral Education ( hereinafter called MR )

青年団は,日露戦後国家経営の一環として国家指導を受け始め,大正期にかけて国家を支える社会

[r]

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

 介護問題研究は、介護者の負担軽減を目的とし、負担 に影響する要因やストレスを追究するが、普遍的結論を