E. A.
ゴルドンの学問・思想形成
奥 山 直 司
1.
はじめに
E. A. ゴルドン(Elizabeth Anna Gordon, 1851–1925)は英国の宗教研究家で,明治末 期から大正末期にかけて多年を日本で過ごし,1925年に京都で没した人物であ る.ゴルドンの事績として,日英文庫の創設,早稲田大学と高野山大学へのゴル ドン文庫の寄贈,高野山奥之院と朝鮮の金剛山長安寺門前における「大秦景教流 行中国碑」(西安碑林博物館所蔵.以下,景教碑と呼ぶ)レプリカの建立などを挙げる ことができるが,彼女の本領は研究と著述,そして思索家・信仰者としての内面 への沈潜にあったと考えられる.ゴルドンは,当時の日本仏教界では,熱心な西 洋人女性仏教研究家として,よく目立ち,珍重される存在であった.没後は長く 忘れられていたが,近年,彼女を再評価する動きが見られる1). ゴルドンの思想は,「仏耶一元論」とも,また「両部耶蘇論」とも呼ばれてい る.本稿は,この人物の研究の一環として,彼女の仏教・キリスト教の比較研究 が劇的に進展したと見られる最初の4年間,すなわち1907年8月の2度目の来 日2)から,1911年10月の高野山景教碑建立前後までに的を絞り,彼女の学問と 思想の形成過程を考察するものである. 滞日に至るまでのゴルドンの経歴はここでは詳述しない.ただし,彼女が20 歳の年からキリスト教に関する書物を立て続けに出版した信心深い学究肌の女性 であったこと,オックスフォードでマックス・ミュラー(F. Max Müller, 1823–1900) に師事した比較宗教学の徒であったこと,そして熱烈な日本びいきであったこと は,予め念頭に置かなければならない. 2.
1907–1911
のゴルドンの動静
上述の4年余りについて,当時の新聞・雑誌の記事とゴルドンその他の人々の 著述から窺うことができるゴルドンの動静は,およそ下記の通りである.分かることはあまり多くない.この間に中国や朝鮮に調査旅行を行った可能性もある. 1907年(明治40)56歳 8月22日,中国経由で横浜港に着き,下田歌子(1854–1936),高 楠順次郎(1866–1945)等の出迎えを受ける.東京の赤坂氷川町に居を定める.10月頃, 下田の紹介で愛国婦人会において講話. 1908年(明治41)57歳 夏,安芸の宮島(厳島)に避暑に行き,弘法大師空海ゆかりの事 物に接して,その事績に興味を持つ.次いで京都を訪れ,五山の送り火を見る. 1909年(明治42)58歳 夏,宮島に再遊.8月,『新仏教』に「物言ふ石教ゆる石」(『弘法 大師と景教』)を発表.宮島から讃岐に渡って空海の降誕地を訪れ,高野山に参詣か.9 月,京都を訪れ,済世病院3)の開院式に参列.真言宗聯合京都大学を訪ねて土宜法龍 (1854–1923)等に会う.10月,伊勢神宮式年遷宮を特別拝観.11月,真言僧釈(宮崎) 慶淳(1869–1919)4)より真言密教を学び始める.12月,『メシア』刊行. 1910年(明治43)59歳 7月,済世病院で診療を受けるため入京し,真言僧佐伯恵眼 (1873–1951)等と交流.高野山に登り密教研究に従事.12月頃,豊山大学で講話. 1911年(明治44)60歳 9月12日,ティモシー・リチャード(Timothy Richard, 1845–1919) を高野山に案内.リチャード,高野山大学で4日連続講演.10月1日,高野山景教碑開 眼供養に列席.11月,『蓮の福音』刊行. 来日したゴルドンの研究を総括的に指導したのは,高楠順次郎であった.高楠 の指示を受けてゴルドンは,「東京鎌倉其の他各地方に歴遊して高僧と談話を交 換」(六大新報社 1909)するなど精力的に活動したと考えられる.いわば明治日本 仏教界のフィールドワークである.日本語のできない彼女にとっては,聞き取り と意見交換を含む実地調査(多くの場合は通訳を伴っての)こそ,取り得る最善の 方法であったに違いない.転機となったのは,1908年夏の宮島行であった. 3.
出会いと学問・思想の発展
ゴルドンに限ったことではないが,人との出会いは学問や思想を発展させる. ここでは,彼女の場合を3人の人物との関わりにおいて考えてみよう. 3.1 リチャードと仏耶一元論 『弘法大師と景教』は,ゴルドンの仏教・キリスト教比較研究の最初の成果で ある.この論考は最初,「物言ふ石教ゆる石」の表題で1909年8月に『新仏教』 10(8)に発表され,まもなく丙午出版社より『弘法大師と景教』として改題刊行 された5).これは,同年12月に刊行される『メシア』の第I論考KING-KIAO-PEI, or THE SPEAKING STONE の前半部分(p. 1, l. 1–p. 16, l. 6)に相当する.翻訳者 は高楠である.まず序に当たる冒頭部を見てみよう(括弧内は引用者による原文).
仏教に関する予が智識は至て乏しく,唯日本在住の間に於て断片的に学得し,且つ有名 なる支那学者(an eminent Chinese scholar)に就き,法華の法門(the Hoke)を研究したる
が,今某大徳(a Venerable Abbot)の需に応じて,覚束なくも一文を草して世に公にせんと
欲する所以なり,この支那学者は曾て馬鳴の起信論を訳し,その進歩せる大乗教理(the
Doctrines of the Mahâyâna, or Advanced Buddhism of the Great Development School)と,耶蘇教 義との間に於て驚くべき同似点(the marvellous similarity)を発見したり.予もまた仏教徒
たる諸友の厚意によつて,仏耶の両教義を比較し,其間に於て喜ぶべき思想の融和(a
delightful harmony of thought)を認めたり.仮令語句の間に於て全然同一なるものなく,且 つ現時に於ては精確なる歴史上の連鎖(the exact historical link)を追跡すること不可能なる 如きも,此両者の間には真正なる精神的連鎖(the true spiritual link)の慥に存在せることを 感ぜざるを得ず.今予は不幸にして此大問題に関し無智なりと雖も,益進で之を攻究し, 一層深く教理に悟入せんことを希望して止まざることを茲に表白するものなり. 若しその古伝の研究 進み,両教聖典の対照その宜しきを得ば,現に不可能視せらるゝ 歴史上の連鎖も,遂に発見し得らるべく.従つて夫の精神的連鎖も 明確なる根拠を有す るに至り,仏耶両教徒相互の利益となるべきは明白なり. 文中,『大乗起信論』を翻訳した「有名なる支那学者」とは,長らく中国で活 動した英国バプテスト会宣教師ティモシー・リチャードである(中村 1994, 33). ゴルドンとリチャードとの交流がいつ始まったかは定かではない.佐伯(1926, 132)は,ゴルドンの来日前から両者の間に連絡があったことを示唆している. 二人が関係を深めたのは,リチャードによる漢訳『法華経』の英訳作業を通して のことだったようである.リチャードは,彼の英訳『法華経』の冒頭(Richard 1910, 147)に,参考文献と脚注に関してゴルドンから根気強く助けられたと特記 している.リチャードの回想によれば,彼が『法華経』を英訳する端緒は,1908 年に東京を訪れた際,ゴルドンの自宅で日蓮宗の高僧に出会い,「漢文の教理要 旨の付いた和訳 法華経 」を贈呈されたことにある.彼はその要旨を読んで心 打たれた.次の夏,宮島を訪れたリチャードは,そこでゴルドンに再会した.リ チャードが『法華経』の英訳を開始したのは宮島においてであり,ゴルドンは注 記によってこれを助けたという(Richard 1916, 338). ここで重要なのは,このような交流を通じて,ゴルドンが,リチャードの唱え る大乗仏教とキリスト教の一元論の影響を受けたであろうことである.リチャー ドは,『大乗起信論』の訳読を通じて知得した大乗仏教を,小乗仏教に対して, 「新仏教」(New Buddhism),あるいは「高等仏教」(Higher Buddhism)と呼んで高く評
価していた.それは,大乗仏教がキリスト教と著しい類似点を持つものであった からである.彼の意見によれば,大乗の信仰は実は「仏教ではなく」,「我々の主
なる救い主イエス・キリストのと同じ福音のアジア的形態」であった.彼は,こ のような新しい仏教が誕生した理由を,古代内陸アジアの通商路を舞台とした東 西交渉に求め,大乗仏教とキリスト教は,「共通の源」(a common source)から発生 したと考えていた(Richard 1907, vi, xiii).
このような説は,日本仏教を研究フィールドとするゴルドンの感触とも食い違 うものではなかった.そこで彼女が立てたものが,上記の引用に見られる学問構 想,すなわち,大乗仏教の教理と初期キリスト教のそれとの間に「精神的な連 鎖」が存在する所以を「歴史上の連鎖」の追究によって実証することであった. なお,ゴルドンにこの論考の執筆を促した「某大徳」とは,『蓮の福音』(p. 199, fn.*)の記述から,釈雲照(1827–1909)であることが分かる.前節で見たように, ゴルドンは1909年11月から釈慶淳に就いて真言密教を学び始める.だがその前 に,慶淳の師雲照と接触があったのである. さて,序に続いてゴルドンは,「歴史上の連鎖」を探る最初の試みに入る.彼 女を導いたのは弘法大師空海(774–835).そして,その最初の舞台は,やはり宮 島であった.「予が始めて大師を知りしは,厳島=彼の神聖なる,美麗なる内海 の一島=にてありき」(p. 2).一日,ゴルドンは宮島の最高峰弥山(標高535 m)に 登り,山頂付近の霊火堂で,空海が点じて以来燃え続けているという「巨大な聖 火」(「消えずの火」)を見た.また奥の院では,幔幕と懸灯に染め抜かれた「 」
(the Double Axe)の印章(三鬼大権現の三摩耶形の一つ)を見た.これらは,その後京 都で遇見した「盆火」(Bonfires,五山の送り火)と共に,ゴルドンに空海縁の事物 と遥か西方の宗教文化との間の隠された絆を直感させた.この直感に導かれつつ 彼女は,空海の入唐求法に触れて,大日如来をヘブライの神と同置し,781年に 長安に建立された景教碑の碑文を検討してネストリウス派の中国伝道に説き及 び,804年に入唐した空海も長安でこの碑を見,碑文の 者景浄(アダム)から景 教の教義を学んだに違いないとして,次のように結論付ける(括弧内引用者). 日本に於ける真言宗に大日教義の存在せると,今世紀に到る 厳島,京都に於て祭火の相 続せるとは,(弘法大師と伝教大師6)が)かの奇絶なる石碑(景教碑)の言明せる教網 (Message)を見修し,思惟したるの証左なりと信ずるに躊躇せず(p. 7). つまりゴルドンは,空海がネストリウス派の教義を密教に取り入れて日本に持 ち帰った,それは今も日本の信仰・習俗の中に生きている,と考えたのである. 以上のように,ゴルドンは,一方ではリチャードの「大乗仏教とキリスト教の
一元論」を支持しながら,他方では空海の真言密教を媒介としたネストリウス派 の日本伝来を唱えた.このような二重のリンクで両教を繋ごうとするのが,ゴル ドンの仏耶一元論―あるいはむしろ仏耶関係論―の特色と言うことができる. さて,『弘法大師と景教』は『マタイによる福音書』第21章43–44の引用で終わ る.和訳がないそれ以降(『メシア』p. 16, l. 7–p. 28)についても一言しておこう.こ の部分では,使徒聖トマスのインド,さらには中国への伝道説,明帝感夢求法 説,鳩摩羅什等の訳業,ネストリウス派の東方布教等がやや散漫な筆致で語ら れ,Q&Aからなる追記で締め括られる.その中には,当時西洋の学界で大乗仏 教の創始者に擬せられていた馬鳴(Aśvaghoṣa)が南インドで聖トマスと接触した 可能性も,上述した「大乗は仏教ではない」とのリチャードの言葉と共に述べら れおり(p. 17),当時のゴルドンに対するリチャードの影響の大きさを感じさせる. 3.2 釈慶淳と両部耶蘇論 ゴルドンの密教の師となったのは,1909年4月に雲照が遷化した後に目白僧園 を主宰した釈慶淳であった.ゴルドンの興味は,専ら真言宗とキリスト教の一致 点を探ることに向けられており,慶淳の指導もそれに応じたものであったらしい (六大新報社 1910).ゴルドンの研究に両部神道ならぬ「両部耶蘇(教)」という名 を与え,彼女をその主唱者として世に紹介したのは慶淳であった(さわ 1910). ゴルドンの熱意に動かされたのか,はたまた諸宗教の融和や統合が語られる当 時の思潮に棹さそうとしたのか,慶淳自身も1910年から12年頃まで,講演や執 筆を通じて両部耶蘇論を盛んに鼓吹し,仏教界内外に話題を撒いた.彼の主張す る両部耶蘇論とは,「金胎両部の曼荼羅の下に耶蘇教を統一せんとする意味にし て仏耶二教を融合して一となし,以て信仰の対象を同じくせしむるを大旨」 (釈 1910)とするもの,すなわち,両部神道にならい,両部曼荼羅を繋ぎ手とし て,真言密教とキリスト教の融合から進んで,仏教全体とキリスト教の統一を目 指すものであった. 同年10月1日に挙行された高野山景教碑の開眼供養は,ゴルドンの日本におけ る活動を代表する盛儀であった.この式典における挨拶の中で,ゴルドンは次の ように述べている. 今日,奥之院の森に長安出土の景教碑がかく建立されたことは,東と西,仏教とキリスト 教との間に大いなる「両部橋」(Ryōbu-bashi)が建設されたことを祝うことでもあると信じ ます(Gordon 1911a).
仏教とキリスト教は融和を目指すべきであり,そのための橋渡し役に相応しい ものは,両部曼荼羅の理論を持つ真言密教―それは,ゴルドンの考えでは,尊敬 する空海がネストリウス派に学んで創始したもの―である.これがゴルドンの両 部耶蘇論である.そしてこのような理想を象徴するものこそ,この日空海の霊場 である高野山奥之院でヴェールを脱いだ景教碑であった7). 3.3 佐伯好郎と古代日本ユダヤ人渡来説 佐伯は,ゴルドンが来日した1907年に「払菻考」(佐伯 1996a)を発表してネス トリウス派キリスト教研究の口火を切り,翌年には「太秦(禹豆麻佐)を論ず」(佐 伯 1996b)を発表して,秦氏ユダヤ民族説を唱えていた.二人がいつから相知っ たかははっきりしないが,佐伯は『弘法大師と景教』に注目して,『日本百科大 辞典』第3巻に執筆した「けい―けう(景教)」の項(佐伯 1910)でこの書に言及 し,自著『景教碑文研究』(佐伯 1911)にはその全文を掲載している.ゴルドン は佐伯の説を受け入れ,古代日本にユダヤ人が移住して日本文化に影響を与えた と信じ,この視点から日本仏教と神道を解釈してゆくことになる. 4.
まとめ
(1) ゴルドンは,リチャードの大乗仏教とキリスト教の一元論を支持する一方, 真言密教に含まれた形でのネストリウス派日本伝来説を主張した.この二重 の連鎖が彼女の仏耶一元論を特徴付けている. (2) ゴルドンは釈慶淳に学び,真言密教を橋渡し役とした仏教とキリスト教の融 和を理想とした.これが彼女の両部耶蘇論である. (3) ゴルドンは佐伯好郎の説を受け入れ,古代日本ユダヤ人渡来説を支持した. 1)ゴルドンの経歴と再評価の試みについては,Hall 1975,中村 1989, 1994,安藤 2010, Koyama 2013,奥山 2017を参照のこと. 2)ゴルドンは,1891年,世界一周の家族旅行の途中で日本を訪れている. 3)祖風宣揚会によって東寺境内に設立された病院. 4)真言宗豊山派の学僧で,釈雲照の高弟.豊山大学の教授・学監を務めた. 5)その後,高野山景教碑の写真を付した私家版が,1912年と1915年に出されている.こ の論考は1909年10月発行の『六大新報』317,318,319にも連載されている. 6)ゴルドンは空海と共に最澄も長安に入ったとするが,これは事実と異なる. 7)このレプリカの特徴とそこに込められた意味については,奥山 2017を参照のこと. 〈略号〉 『メシア』 See Gordon 1909.『蓮の福音』 See Gordon 1911b. 〈参考文献〉 安藤礼二 2010「エリザベス・アンナ・ゴルドン夫人をめぐって」『宗教研究』363: 140–141. 奥山直司 2017「物言う石―E. A.ゴルドンと高野山の景教碑レプリカ―」小峯和明監 修・原克昭編『宗教文芸の言説と環境』笠間書院,330–335. 佐伯好郎 1910「けい̶けう(景教)」『日本百科大辞典』第3巻,三省堂書店,1079–1081. ― 1911『景教碑文研究』待漏書院. ― 1996a(1907)「払菻考」法本義弘編『佐伯好郎遺稿並伝』上,大空社,299–309. ― 1996b(1908)「太秦(禹豆麻佐)を論ず」法本義弘編『佐伯好郎遺稿並伝』上,大 空社,309–326. さわ(佐和隆恵) 1910「ゴルドン夫人を訪ふ(両部耶蘇の説を聞く)」『六大新報』358: 10– 11. 釈慶淳 1910「両部耶蘇論」『六大新報』372: 5. 中村悦子 1989「E. A.ゴルドン夫人の生涯」『早稲田大学図書館紀要』30: 208–211. ― 1994「E. A.ゴルドンの人と思想―その仏耶一元論への軌跡」『比較思想研究』21: 29–39. 六大新報社編 1909「仏教凝の英婦人」『六大新報』315: 55. ― 1910「釈慶淳師とゴルドン夫人」『六大新報』362: 19.
Gordon, E. A. 1909. Messiah, The Ancestral Hope of the Ages, The Desire of All Nations, As Proved
from the Records on the Sun=dried Bricks of Babylonia, the Papyri and Pyramids of Egypt, the Fres-coes of the Roman Catacombs, and on the Chinese Incised Memorial Stone at Cho ang. Tokyo:
Keiseisha.
―. 1911a. On the Consecration Ceremony of the Nestorian Tablet The Teaching Stone. 『三 密』4: 6–7.
―. 1911b. The Lotus Gospel, or Mahayana Buddhism and its Symbolic Teachings. Compared
His-torically and Geographically with Those of Catholic Christianity. Tokyo: Waseda University Library.
Hall, Manly P. 1975. E. A. Gordon, Pioneer in East-West Religious Understanding: A Memorial
Trib-ute. Los Angeles: Philosophical Research Society.
Koyama, Noboru. 2013. Elizabeth Anna Gordon (1851–1925). In Britain & Japan: Biographical
Portraits, vol. VIII, comp. and ed. Hugh Cortazzi, 351–359. London: Routledge.
Richard, Timothy. 1907. The Awakening of Faith in the Mahayana Doctrine̶The New Buddhism by the Patriarch Ashvagosha. Shanghai: Christian Literature Society.
―. 1910. The New Testament of Higher Buddhism. Edinburgh: T. & T. Clark.
―. 1916. Forty-Five Years in China: Reminiscences. New York: Frederick A. Stokes Company Publishers.
〈キーワード〉 『弘法大師と景教』,Timothy Richard,仏耶一元論,両部耶蘇論