1 毎年、京都国立博物館で「正倉院展」が開催される。 2006本 2 原爆ドームは、核兵器投下の事実を示す戦争の遺跡である。 2007本 3 世界遺産とは、遺跡・文化財や自然環境が人類共通の遺産として登録されたも のである。 2007本 4 高齢者の体験談や古くからの伝承などは、歴史と無関係なので参考にしない。 2006追 5 金沢は近世に大名前田氏の城下町として栄え、明治初期には日本海側で最大の 人口を擁する都市であった。 1998追 6 松江は石見大森銀山のあった県の都市である。 1998追 7 旧石器時代には、石を打ち欠いただけの石器が用いられた。 2000本 8 旧石器時代の時代の終わりには細石器とよばれる小型の石器も用いるように なった。 2000本 9 細石器は、豊富にとれる木の実をすりつぶすために使われた。 2015本 10 氷河時代が終わり縄文文化が育まれていく段階で、大型獣のマンモスが増加し たのにともない、弓矢が使われた。 2015本 11 縄文時代になると、海進により水産資源の開発・利用がすすみ、釣針や漁網な どの漁具が発達した。 2000本
1 「正倉院展」が開催されているのは奈良国立博物館です。 × 2 ○ 3 ○ 4 × 5 ○ 6 石見大森銀山があったのは、現在の島根県です。 ○ 7 ○ 8 ○ 9 今でいう刃物として利用。木の実をすりつぶすために使われた石器は石皿。 × 10 マンモスなど大型獣は減少し、かわって増加した小型動物をとらえるために弓矢が使用されるようになりました。 × 11 ○
12 氷河時代が終わり縄文文化が育まれていく段階で、入江での漁労が活発化したのにともない、網が使われた。 2015本 13 縄文時代になると、弓矢が出現し、動きのはやい動物の捕獲が容易となった。 1999本 14 縄文時代の人々は、あらゆる自然物・自然現象に精霊がやどると考えた。 2006本 15 縄文文化は、北海道でも展開した。 2010追 16 弥生時代には、男性の兵士をかたどった土偶を製作し、アニミズムにもとづく 呪術にとって、集落の先勝を祈願した。 2009本 17 弥生文化は、合金を用いた金属器、稲の穂首を刈る石包丁などの大陸系の技術 をともなう新しい文化である。 2000本 18 弥生時代前期の水田は乾田中心であったが、後期には湿田の比重が高まった。 2016本 19 弥生文化や稲作は、北海道や沖縄にも定着した。 2010追 20 青銅器は、食物を煮炊き・貯蔵するために使われた。 2015本 21 荒神谷遺跡(神庭荒神谷遺跡)では、350本以上の銅剣を中心とする青銅器が、 山の斜面から出土した。 2012追 22 弥生時代には、青銅製の刃先をもつ農具が、全国的に普及していた。 2005本
12 ○ 13 縄文文化を特徴づけるものが、土器(縄文土器)・磨製石器・弓矢です。 ○ 14 こうした考えを一般にアニミズムといいます。 ○ 15 ○ 16 土偶は、縄文時代に多産・健康などを祈願してつくられたと考えられている。 × 17 ○ 18 × 19 × 20 青銅器は武器や祭器として使用。 × 21 ○ 22 農具の多くは鉄製(鉄器)です。 ×
23 弥生時代には西日本を中心に稲作が広まったが、それが本州北端まで伝わったのは古墳時代である。 2001本 24 弥生時代には有力な支配者が出現したことを反映して、大型の墳丘墓や多量の 副葬品を伴う墓が各地に作られた。 2001本 25 弥生時代になると、農業生産の発達にともない、貧富の差は次第に解消されて いった。 1999本 26 『後漢書』東夷伝には、弥生時代に、倭の奴国が中国に使いを送り、印綬を授 けられたと記している。 1991本 27 弥生時代の日本について触れた中国の歴史書には、「生口」の献上など、奴隷 的身分の存在を示す記述が見られる。 1999本 28 古墳時代前期の古墳には、銅鏡や石製品、玉製品などが副葬された。 2013本 29 前期には、古墳に銅鏡や碧玉制腕飾りなどが副葬されていることから、首長が 司祭者的性格をもっていたことが知られる。 2011本 30 古墳時代前期の古墳には、銅鏡・銅鐸・銅剣がセットとして副葬された。 2013本 31 古墳時代前期の古墳には、長大な竪穴式石室に木棺が納められた。 2013本 32 古墳時代前期の古墳には、長大な横穴式石室に埴輪が副葬された。 2013本 33 古墳時代中期(5世紀)には、大和・河内の大規模古墳を上回る巨大な古墳 が、武蔵や出雲に造られた。 2013本
23 稲作は弥生時代に本州北端にまで伝わっていますが、弥生文化は、北海道や沖縄を含む南西諸島には伝わっていません。(北海道では続縄文文化、沖縄などでは貝塚文化が栄えます。) × 24 ○ 25 貧富の差や階級の発生は、農業生産の発達により余剰生産物が生まれ、それらをめぐる抗争を経て形成されたと考えられています。(「解消された」が誤り) × 26 『後漢書』東夷伝には、弥生時代(西暦57年)に、倭の奴国が中国(後漢の光武帝)に使いを送り、印綬(「漢委奴国王」の金印とされる)を授けられたと記している。 ○ 27 『後漢書』東夷伝には、107年、倭国王帥升らが、奴隷と思われる「生口」を後漢の安帝に献上したとする記述が見られます。 ○ 28 ○ 29 ○ 30 × 31 ○ 32 埴輪は墳丘に置かれた。 × 33 最大級の古墳は和泉地方の大仙陵古墳、河内地方の誉田御廟山古墳。 ×
34 弥生時代には乗馬の風習が大陸から伝わり、墓に馬具が副葬されるようになった。 2003追 35 好太王(広開土王)碑文によると、倭が新羅・百済の領有をめぐって高句麗と 戦った。 1995追 36 5世紀の倭王の名は出土した遺物の銘文によると、讃・珍・済・興・武である。 1998本 37 5世紀の倭王は朝鮮諸国に対抗するため、中国南朝に朝貢して国際的地位の向上 をめざした。 1998本 38 後期の古墳には横穴式石室が普及し、棺をおさめる玄室とそれに通じる羨道が つくられた。 1995追 39 6世紀後半に造られた古墳の特徴の一つに、鏡や勾玉など呪術的なものが一般的 だったことがある。 2007追 40 6世紀後半に造られた古墳の特徴の一つに、追葬が可能な横穴式石室が営まれた ことがある。 2007追 41 豪族の古墳にある埴輪には、武装した人物をかたどったものもある。 2001追 42 天皇(大王)や首長は、秋の収穫に感謝して新嘗祭を執り行った。 2011本 43 古墳時代には、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占や、裁判に際して、熱湯に手を 入れさせて真偽を判断する盟神探湯が行われていた。 2011本 44 渡来人の中には、秦氏などの始祖とみなされる人々もいた。 1998本
34 乗馬の風習は、古墳中期(5世紀)に大陸から伝わり、墓に馬具が副葬されるようになったと考えられています。 × 35 高句麗の好太王(広開土王)碑文によると、倭は辛卯の年(391年)から朝鮮半島に侵入し、5世紀初頭に高句麗と戦っています。 ○ 36 倭王の名(讃・珍・済・興・武)は中国の史書(宋書倭国伝)に記載されています。 × 37 ○ 38 横穴式石室は、朝鮮半島や大陸の影響を受け、6世紀に普及します。 ○ 39 鏡など呪術的な副葬品は前期の特徴。後期(6世紀)は土器(土師器や須恵器)などの日用品が多くなる。 × 40 ○ 41 ○ 42 春に行われたのが祈年祭(としごいのまつり)、秋に行われたのが新嘗祭(にいなめのまつり)です。 ○ 43 ○ 44 秦氏などの始祖は弓月君(ゆづきのきみ)といわれています。 ○
45 渡来人の中には文筆の知識・技術をもつ者が多くいたが、大和政権のもとでは、朝廷の記録を行う仕事にはつけなかった。 2000本 46 古墳時代には、中国から渡来した人々によって、土師器と呼ばれる灰色で硬質 の土器の生産が行われた。 1991追 47 朝鮮半島から伝わった技法により、日本列島で須恵器が作られはじめた。 2012追 48 東国の豪族を埋葬した稲荷山古墳から「ワカタケル大王」と読める文字が刻ま れた鉄剣が出土した。 2001追 49 埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣には、漢字の銘文が刻まれている。 2011追 50 5世紀ころ、大王の名を記した刀剣が、埼玉県や熊本県から出土している。 1998追 51 江田船山古墳では、「ワカタケル大王」とみられる倭王の名と、それに仕えた 豪族の名前が刻まれた鉄刀が出土した。 2012追 52 ヤマト政権は、列島各地に田荘とよばれる直轄地を設けた。 2015本 53 ヤマト政権を構成する豪族らは、氏として組織化された。 2015本 54 大和政権に服属した地方豪族には、直や君などの姓を与えた。 1998追 55 臣や連の姓が与えられた人々のほとんどは、渡来人であった。 1998本
45 王仁(わに)の子孫である西文(かわちのふみ)氏、阿知使主(あちのおみ)の子孫である東漢(やまとのあや)氏は朝廷の記録を担当しました。 × 46 土師器は弥生土器系統の国産土器で赤褐色。渡来人らが伝えた灰色で硬質の土器は須恵器です。 × 47 ○ 48 稲荷山古墳は埼玉県で、「ワカタケル大王」は『宋書倭国伝』記載の倭王の武、『日本書紀』の雄略天皇とするのが通説です。 ○ 49 ○ 50 埼玉県稲荷山古墳の鉄剣・熊本県江田船山古墳の大刀(鉄刀)には、「ワカタケル大王」の名が刻まれている。 ○ 51 ○ 52 田荘は豪族の私有地です。ヤマト政権の直轄地は屯倉です。 × 53 ○ 54 中央(大和周辺)豪族などには臣・連、地方豪族には直や君などの姓(かばね)を与えられた。 ○ 55 (前問の解説参照) ×
56 ヤマト政権はそれまでの地方豪族を没落させ、中央から国造を派遣して地方を支配した。 2012本 57 国造のなかには、大王家に直属する初期荘園の管理を行う者もいた。 2012本 58 大和政権は、大王やその一族へ奉仕をしたり貢物をおさめたりする者を、名 代・子代とした。 1998追 59 継体天皇は、現在の滋賀県や福井県などに勢力をもち、王位継承が混乱するな か、近畿に入って即位したと伝えられている。 2009追 60 百済の聖明王から倭国に仏像などが送られ、仏教が公式に伝えられた。 2012追 61 倭国の朝鮮出兵の動きに対して、筑紫の磐井が反乱を起こした。 2000本 62 6世紀前半、筑紫国造磐井(筑紫君磐井)が、新羅と結んで反乱を起こしたが鎮 圧された。 2013本 63 6世紀末から7世紀前半、5世紀以来とだえていた中国との交渉が、遣唐使の派遣 により再開された。 2003本 64 6世紀末から7世紀前半、官僚としての心構えなどを説いた憲法十七条が制定さ れた。 2003本 65 飛鳥文化の時代、氏寺が豪族の権威の象徴となった。 2003本 66 法隆寺金堂の釈迦三尊像は、隋の文化の影響を強く受けている。 2001本
56 有力な地方豪族は、引き続き国造に任命されました。 × 57 初期荘園は、奈良時代以降です。 × 58 大王(朝廷)の直轄地(屯倉)・直轄民(田部)、豪族の私有地(田荘)・私有民(部曲)、大王やその一族に奉仕をしたり貢物をおさめたりする名代・子代などは、改新の詔(646年)で 否定される。 ○ 59 ○ 60 ○ 61 反乱を起こしたのは527年のことで、当時の大王は『日本書紀』記載の継体天皇。磐井は新羅と結んで朝廷と対立した。尚、『日本書紀』が伝える仏教公伝=552年が疑問視されていることと 関連し、磐井の乱を527年とすることも疑問視されている。 ○ 62 ○ 63 5世紀(倭の五王)以来とだえていた中国との交渉は、600年派遣の記録のある遣隋使の派遣により再開されました。 × 64 憲法十七条は604年に制定されました。 ○ 65 ○ 66 飛鳥時代の仏像は、北魏様式・南梁様式といわれるように、中国の南北朝時代の影響を強く受けています。 ×
67 聖徳太子は経典の注釈書である三経義疏を著したと伝えられている。 2003本 68 飛鳥時代には、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者と伝えられる鞍作止利などの仏師 が活躍した。 1995追 69 若草伽藍跡の発掘により、現存の法隆寺の伽藍は創建時のものであると判明し た。 2003本 70 百済の観勒によって暦法が伝えられた。 2012追 71 7世紀のなかごろ、皇極天皇にかわって孝徳天皇が即位し、難波に都を移した。 2000本 72 7世紀のなかごろ、評が廃止され、屯倉が設置された。 2000本 73 7世紀のなかごろ、唐から帰国した吉備真備と玄昉が国博士に登用された。 2000本 74 改新の詔は、中央集権的な交通・軍事の制度を定めている。 2002本 75 斉明天皇は、中国皇帝に朝貢して「親魏倭王」と認められた。 2007本 76 白村江の敗戦後、大宰府を守るため大野城が築かれた。 2006追 77 白村江の戦い以後の朝鮮半島情勢を意識した防衛策として、奈良盆地に水城が 築かれた。 2012本
67 聖徳太子は経典(法華経・維摩経・勝鬘経)の注釈書である三経義疏を著したと伝えられています。 ○ 68 ○ 69 若草伽藍跡は670年に焼失する以前の法隆寺の遺構。つまり、今の法隆寺は670年焼失後の建物 であることの根拠になっています。ただし、670年焼失という『日本書紀』の記述の信用性 (「全焼」か「一部焼失」か)や、今の法隆寺の木材の年輪が創建時の年代(6世紀末)を示し ているため、詳しいことは謎。 × 70 ○ 71 645年に蘇我氏滅亡(乙巳の変)の直後、皇極天皇にかわって孝徳天皇が即位して大化の改新政治がはじまります。 ○ 72 646年の改新の詔で、のちの「郡」にあたる行政単位の「評」が設置され、朝廷の直轄領である屯倉は廃止されています。 × 73 大化の改新で国博士に登用されたのは、高向玄理と僧旻。吉備真備と玄昉(国博士ではない)は、8世紀の奈良時代に橘諸兄によって登用されました。 × 74 ○ 75 「親魏倭王」の称号は3世紀の卑弥呼に授けられた称号です。 × 76 ○ 77 水城が築かれたのは、九州北部です。 ×
78 滅亡した百済からは、貴族たちが倭(日本)に亡命した。 2007本 79 7世紀後半、新羅が朝鮮半島を統一した。 2006追 80 天智天皇の在位中に庚午年籍が作られた。 2005本 81 天武天皇の在位中に八色の姓が定められた。 2005本 82 古代国家が中国の都城をまねて造営した都は、平城京が最初であった。 1999追 83 法隆寺金堂壁画は、中国初唐文化の影響がおよんだころの作品で、高松塚古墳 壁画とともに白鳳文化を代表する作品の一つである。 1991本 84 大官大寺は、7世紀後半に建立された代表的な官立の寺院である。 2001本 85 藤原京が完成して以後、平安京に遷都するまで、都の位置は動かされなかっ た。 2011追 86 法隆寺金堂壁画が焼損したことを契機に、文化財保護法が制定された。 2012本 87 令は、犯罪とそれに対する刑罰について定めた法典である。 2003本 88 刑部省は、刑罰に関する政務を担当した。 2003本
78 百済の滅亡は660年。類似の正文「滅亡した百済から日本に逃れた王族・貴族たちが、文化に影響を与えた」(1997本) ○ 79 類似の正文「唐・新羅の連合軍が、高句麗を滅ぼした」(2006追)7世紀後半は、日本の律令国 家形成をアジア史のなかで。645年-乙巳の変、660年-百済滅亡、663年-白村江の戦い、668年-高句麗滅亡、672年-壬申の乱、676年-新羅が半島統一。 ○ 80 庚午年籍はわが国初の戸籍です。 ○ 81 684年のこと。 ○ 82 古代国家が中国の都城をまねて造営した都は、藤原京が最初でした。ただし、中国古典(『周礼』など)から得られた知識で造営したと考えられている。 × 83 ○ 84 大官大寺はのちの大安寺。 ○ 85 694年‐藤原京、710年‐平城京、794年‐平安京(8世紀半ば前後の恭仁・難波・紫香楽への遷都をのぞいて) × 86 文化財保護法は1949年制定。 ○ 87 律が刑法、令が一般行政・民法などにあたる。 × 88 ○
89 奈良時代、太政官のもとに内務省などの八省が置かれて、政務を分担した。 2014本 90 律令制の下では、法はすべて太政官の合議を経ずに、天皇だけで制定した。 1994本 91 全国は大きく畿内と五道の行政区画に分かれていた。 1998追 92 東海道や東山道などの幹線道路には、一定の間隔ごとに駅家が置かれた。 2014本 93 中央と地方を結ぶ幹線道路である七道は、行政区画の名称でもあった。 2014本 94 古代の畿内・七道の区分では、東国への入口である近江国は、東海道に編入さ れた。 2009本 95 播磨から長門まで8つの国は、山陽道に編入された。 2009本 96 七道の諸国には、交易を管理するために東西の市司を設けた。 2009本 97 国司は無任期制であり、中央の貴族が派遣された。 1998追 98 国司は、中央から諸国に派遣され、国府を拠点として統治にあたった。 2014本 99 大宝令の施行をうけて、地方の豪族は郡司として行政にあたった。 2015本
89 内務省は近代(1873年)に初めて設置された省庁。 × 90 国政は、太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などからなる太政官の公卿合議の合議によって進められた。 × 91 全国は大きく畿内(五畿)と七道の行政区画に分けられた。七道は東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽・西海道。 × 92 ○ 93 ○ 94 近江国は東山道に所属。 × 95 ○ 96 東西の市司は京内に置かれた。左京には東市、右京には西市が置かれ、東西それぞれの市司が管理した。「東が左で西が右」は、天皇が北を背にして南を向いて政治をするという中国の 「天子南面」に由来。 × 97 国司の任期は6年、のち4年。中央の貴族が派遣されました。 × 98 ○ 99 ○
100 郡司は、もとの国造など地方豪族のなかから選ばれた。 2012本 101 郡司のなかには、出羽の磐井のように反乱を起こす者もいた。 2012本 102 郡司には、かつて国造であった地方豪族は任じられなかった。 1994本 103 里には里長が置かれており、里はのちに郷と改名された。 1998追 104 難波には特別行政機関として鎮守府が置かれた。 1998追 105 古代の日本では、官僚制を整えるため、中国の律令法を取り入れた。 2007本 106 貴族の子や孫には、蔭位の制によって一定の位階の授与が保証されていた。 2002本 107 口分田は3年ごとに回収され、再配分された。 2001追 108 律令国家は、原則として6年ごとに戸籍を作成した。 2012本 109 律令国家は民衆に対し、戸籍にもとづいて口分田を班給した。 2012本 110 各地で作成される戸籍は、漢字で表記されていた。 2011追
100 ○ 101 磐井は6世紀前半に反乱を起こした九州の豪族です(筑紫君磐井、または筑紫国造磐井) × 102 郡司には、かつて国造であった伝統的な地方豪族から任じられた。 × 103 里(り)は717年頃に郷(ごう)と改名され、同時に里長も郷長と改名されました。 ○ 104 難波には特別行政機関として摂津職が置かれました。 × 105 ○ 106 ○ 107 口分田の班年は6年ごとで、6歳以上の男女に口分田が与えられ、死者の口分田は収公(回収)されました。 × 108 ○ 109 ○ 110 ○
111 奈良時代、地方からは、戸籍や計会帳などの公文書が中央政府に報告された。 2014本 112 奈良時代には桑の栽培と養蚕が行われ、絹が租として徴収された。 2003追 113 調は、麻布などの各地の特産物を、地方の役所に納めるものである。 2001本 114 庸は、都での歳役の代わりに、麻布などを中央政府に納めるものである。 2001本 115 国司は、任地における土木工事や雑用に奉仕させるために、庸を徴収した。 2014本 116 調・庸・雑徭は、良民の一員である官人にも賦課された。 2001本 117 雑徭は、京・畿内以外では麻布で代納する規定であった。 2001本 118 調は、21歳以上の男女に賦課された。 2008追 119 調の都への運搬は、納付する側の負担とされた。 2008追 120 国司は、任国内から兵士を徴発し、軍団で訓練を受けさせる権限をもってい た。 2003追 121 国司は、任国内の農民を雑徭という労役に従わせる権限をもっていた。 2003追
111 ○ 112 絹など各地の特産物は、調として徴収。 × 113 調は、各地の特産物を、中央(都)に納めるものです。 × 114 租庸調の訓読みは次のとおり。覚える必要はないですが、意味を知る上で便利です。租(田租=タチカラ)、庸(チカラシロ=労働力の代わり)、調(ミツキ=みつぎ物) ○ 115 × 116 官人(役人)は、調・庸・雑徭が免除。 × 117 庸は、京・畿内以外では麻布で代納する規定。 × 118 調は、中男(17-20歳の男子)、正丁(21-60歳の男子)、次丁(61-65歳の男子)に賦課されました。 × 119 こうした負担を運脚といいます。 ○ 120 ○ 121 ○
122 出挙の利率は年に1割に制限されていたが、それを超えることが多かった。 2001追 123 奈良時代、中央政府の支配は、現在の青森県や沖縄県にまで広がった。 2014本 124 防人は、主に東国出身者で構成され、任期は3年とされた。 2001追 125 防人になった兵士は、故郷を離れ東北地方に向かわなければならなかった。 2011追 126 薩摩国には、防衛のために衛士を配置した。 2009本 127 奴婢には良民と同じ面積の口分田が与えられた。 1994本 128 7世紀後半にわが国が中国に派遣した使節は、遣唐使である。 2016本 129 7世紀の遣唐使は、朝鮮半島沿岸を通る北路経由で唐に向かった。 2007本 130 天智天皇の死の直後に起きた内乱の終了後、はじめて遣唐使が派遣された。 1990本 131 8世紀の遣唐使は、新羅との関係が改善されたため、南路経由で唐に向かった。 2007本 132 北路と比べて南路には、航海上の危険性が大きかった。 2007本
122 令では、出挙の利率は、官庁が行う公出挙(くすいこ)は5割(のち3割)、豪族・有力農民が 行う私出挙(しすいこ)は10割以下と定められていました。同問の正文「稲の出挙は、主に春 に借り秋に利子とともに返済する制度であった。」(2001追) × 123 沖縄は領域外です。 × 124 ○ 125 防人は、3年間大宰府のもとで、九州北岸の警護についた。 × 126 衛士は京を警備しました。 × 127 奴婢は良民男女のそれぞれの3分の1の口分田が与えられました。奴は男。婢は女。 × 128 ○ 129 ○ 130 天智死去直後の内乱は672年の壬申の乱のことです。第1回遣唐使(犬上御田鍬)が派遣された のは630年で、当時の天皇(大王)は舒明天皇(皇極=斉明天皇の夫、天智・天武天皇の父、持 統天皇の祖父)です。 × 131 新羅との関係が悪化したため、南路に変更。 × 132 ○
133 奈良時代に百済の商人によって南アジア産の品物がもたらされた。 2006本 134 奈良時代の民衆は、木綿の衣類を着るようになった。 2012本 135 奈良時代における結婚のかたちの一つとして、男性が女性の家に通う妻問婚が あった。 2012本 136 奈良時代、渤海からの使者は越前など日本海側に来着した。 2006本 137 律令国家が整備した東山道などの官道には、一定の距離(16㎞)ごとに馬を乗 り継ぐ施設が設けられた。 2007追 138 律令制では、庶民に利用させるため、主要道路に置かれた駅家に馬が用意され ていた。 2003追 139 奈良時代、公民は宅地や田畠などを財産とし、奴婢や牛馬などの私有は認めら れなかった。 1996本 140 奈良時代、多収穫米の外来品種である大唐米が、日本列島全域に普及した。 2016本 141 7世紀半ば、蝦夷に対する前線基地として、太平洋側に渟足{ぬたり}・磐舟{い わふね}の2つの柵{さくが設けられた。 1997追 142 斉明天皇の時、蝦夷を服属させるため、阿倍比羅夫を秋田・津軽方面に派遣し た。 1997追 143 8世紀初めに、律令国家は九州南部の隼人の居住地に大隅国を置いた。 2000本
133 百済はすでに660年に滅亡。 × 134 木綿が民衆世界に広がるのは戦国時代以降。 × 135 ○ 136 接遇機関として、能登に能登客院、越前に松原客院が置かれました。 ○ 137 こうした施設を駅家(うまや)といいます。 ○ 138 駅家は役人が公用のために利用。 × 139 有力な豪族(公民に属す)のなかには、数十人から数百人の奴婢を所有するものもいた。 × 140 大唐米が輸入されたのは、鎌倉時代頃からで、室町時代に広まった。 × 141 太平洋岸ではなく、日本海岸。 × 142 ○ 143 713年、今の鹿児島県の東半分に大隅国が設置されました。 ○
144 律令国家による支配領域がしだいに広がっていくにつれて、陸奥と出羽の2国には、いくつもの城柵がつくられた。 2009本 145 蝦夷に対する支配を進めるため、陸奥国に鎮守府を置いた。 2002追 146 長屋王は親王(天皇の子や兄弟)と記されているが、天武天皇の孫である。 2005本 147 藤原不比等の4人の男子が、長屋王を自殺させ政権を握った。 2002本 148 藤原広嗣は、吉備真備らの追放をめざして九州で挙兵した。 2003追 149 大宰府には、西海道諸国を統轄する機能があった。 2009本 150 称徳天皇は、社会不安を鎮めるため大仏造立の詔を出した。 2003追 151 国分寺建立の詔は、国ごとに盧舎那大仏を造立するよう定めた聖武天皇の命令 である。 2000追 152 大仏造立の詔にもとづき、東大寺に廬舎那仏像が造られた。 2011本 153 東大寺は、平城京の東側の郊外に建立された。 2012追 154 東大寺の本尊である大仏は、聖武天皇の発願で建立された。 2012追
144 ○ 145 鎮守府は陸奥国の国府(多賀城)に置かれ、平安初期に胆沢城へ移転されました。 ○ 146 ○ 147 ○ 148 ○ 149 ○ 150 聖武天皇は、社会不安を鎮めるため743年に大仏造立の詔を出しました。大仏完成を意味する開眼供養会(かいげんくようえ)は752年に孝謙天皇(2度目に即位した時の名が称徳天皇)の時 に挙行されました。 × 151 国分寺建立の詔は、国ごとに国分寺・国分尼寺の建立を命じた聖武天皇の命令。もしも国ごとに盧舎那大仏を造立したら大変なことに。「かわいい賞」をあげたくなるほど。 × 152 最初は紫香楽でつくられますが、平城京への還都(げんと)により奈良でつくられます。 ○ 153 今では奈良市の中心に位置しているかのように思えるが。 ○ 154 ○
155 藤原仲麻呂の政治に不満をもつ貴族が、橘諸兄を中心に反乱を起こした。 2002本 156 奈良時代、元明天皇の信任を得ていた道鏡が権勢をふるい、ついには天皇が道 鏡を皇位につけようとした。 2013本 157 藤原百川らは、称徳天皇まで続いた天武天皇系の天皇にかわって、天智天皇の 孫である光仁天皇を即位させた。 1997本 158 三世一身法では、新しく池や溝をつくって開墾した土地については、開発した 本人一代に限って所有を認めた。 2002追 159 墾田を集積した初期荘園の多くは、田租を免除された。 1996本 160 三世一身法では、既存の灌漑施設を利用して開墾した場合、開墾者本人一代に 限って所有が認められた。 2015本 161 「…三世一身を論ずること無く、みなことごとく永年とるなかれ」と示された 法では、身分により開墾面積が制限された。 2011本 162 前掲の史料の法では、開墾された田地は租を納めるものとされた。 2011本 163 前掲の史料の法の施行ののち三世一身法が発布された。 2011本 164 前掲の史料の法により、有力な貴族や大寺院は、付近の一般農民や浮浪人を 使って開墾を行った。 2011本 165 国の成り立ちや皇統を明らかにする目的で、神話・伝承等を筆録して『古事 記』が編纂された。 2000追
155 藤原仲麻呂に不満をもつ貴族が、橘奈良麻呂を中心に反乱を起こした。 × 156 × 157 ○ 158 三世一身法では、新しく池や溝をつくって開墾した土地は3代の所有を認めました。 × 159 初期荘園の田租が課税された輸租田です。 × 160 ○ 161 この史料は743年の墾田永年私財法である。 ○ 162 開墾された田地も輸租田であった。 ○ 163 三世一身法は723年に発令。 × 164 ○ 165 『古事記』は712年に完成しました。 ○
166 『古事記』は、太安麻呂(安万侶)が編さんしたもので、中国の歴史書にならって、正式の漢文で編年体に記述されている。 1992追 167 『古事記』では、神話や物語を漢字で表記する工夫がなされている。 2011追 168 『日本書紀』は、神話からはじまり、聖武天皇の時代までの出来事を記してい る。 2016本 169 律令国家は、諸国に対して地理・産物・伝承などを記録した『風土記』の提出 を命じた。 2000本 170 『万葉集』は、奈良時代後半に編集された最初の勅撰和歌集である。 1995追 171 『万葉集』では、短歌・長歌など約4500首の歌が、万葉仮名で記されている。 1995追 172 薬師寺吉祥天像は、奈良時代を代表する仏教彫刻である。 2004本 173 奈良時代、中央に大学、地方に国学が、官人の養成機関としてそれぞれ置かれ た。 2014本 174 正倉院に伝わる鳥毛立女屏風は、宋の文化の影響をうけている。 2012本 175 正倉院の正倉は、土を固めて造った壁をもつ校倉造の建物である。 2012追 176 正倉院の宝物群のなかに、唐や新羅、西アジア、東南アジアから伝わってきた ものがある。 2012追
166 『古事記』は、太安麻呂(安万侶)が編さんしたもので、物語風のスタイル(紀伝体)で記述されています。 × 167 ○ 168 『日本書紀』は、持統天皇までの出来事を記しています。聖武天皇関連の史料(国分寺建立の詔など)が『続日本紀』であることを思い起こしてください。 × 169 『風土記』は、713年、政府の命令で諸国が提出したものです。 ○ 170 『万葉集』は、奈良時代後半に編集された最初の和歌集です。「最初の勅撰和歌集」は『古今和歌集』(905年)です。 × 171 同一問題の正文には、「山上憶良の『貧窮問答歌』が収められている」、「東歌や防人歌など、地方農民の歌が数多く収録されている」 ○ 172 仏像彫刻ではなく、仏画。 × 173 ○ 174 当時の中国王朝は唐です。 × 175 校倉造(あぜくらづくり)は三角材を井桁に積み上げたものです。 × 176 ○
177 正倉院の宝物群の中心となる品々は、持統天皇が亡き父の遺産を寄進したものである。 2012追 178 大学に付属した図書館として、淡海三船によって芸亭(うんてい)が開かれ た。 1996追 179 編年体の歴史書である六国史の編纂は、平安時代になってからはじめられた。 2000追 180 平城京では南都・北嶺とよばれた学派が形成された。 2003追 181 律令国家は、庶民の教育を目的として、諸国に国学を置いた。 2000追 182 大学や国学では、仏教の経典を中心とする教育を行った。 1996追 183 藤原光明子は篤く仏教を信仰し、貧窮者の救済をめざして悲田院・施薬院を置 いた。 1997本(改) 184 行基は、灌漑施設を整備するなど、さまざまな社会事業を行いながら、仏教の 教えを広めた。 2015本 185 行基は民衆への布教とともに、道や橋の整備を行った。 2011追 186 平城京に営まれた興福寺は、藤原氏の氏寺として藤原氏一族や天皇の信仰も篤 く、都が平安京に遷ってからのちも大きな勢力を保った。 1997本 187 奈良時代ころから、神社に付属して神宮寺が建てられるようになった。 2008本
177 正倉院は、「光明皇太后により献納された聖武天皇の遺品が中心である。(2006・本)」 × 178 石上宅嗣によって芸亭が開かれました。 × 179 六国史は720年(奈良時代)の『日本書紀』にはじまります。 × 180 平城京では南都六宗とよばれた学派が形成されました。 × 181 律令国家は、地方の郡司の子弟らの教育を目的として、国学を置いた。 × 182 大学や国学では、儒教の経典を中心とする教育を行いました。 × 183 ○ 184 ○ 185 ○ 186 ○ 187 ○
188 神社の近辺や境内に神宮寺が建てられたのは、神仏習合のあらわれである。 2011追 189 僧侶の山林修行と古来の山岳信仰が結びついて修験道が生まれ、神仏習合の風 がますます進んだ。 2011追 190 平安宮には、国家的な儀礼などを行う大極殿が建てられていた。 2010本 191 政治刷新をめざした桓武天皇は、最初平城京から長岡京に遷都したが、その10 年後に平安京に遷都した。 1999追 192 蝦夷の反乱が長期化し、桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に起用して鎮定 に向かわせた。 1999追 193 桓武天皇は、諸国に検非違使を派遣して、国司や郡司の交替を監督させた。 2013本 194 桓武天皇の時、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は胆沢城を築いた。 1997追 195 桓武天皇は、東北・九州などを除いて軍団・兵士を廃止し、郡司の子弟を健児 とした。 1998追 196 平安時代には、神々の祭祀をつかさどる神祇官と、行政全般を管掌する太政官 の二官があった。 2010本 197 勘解由使という令外官が置かれ、国司の交替を監督した。 2003追 198 807年に行われた政策に関する議論で「天下の苦しむところは軍事と造作とな り」と指摘された「造作」とは、東大寺の大仏造立のことである。 2007追
188 ○ 189 教科書では平安初期の「弘仁・貞観」文化でとりあげられているが、「8世紀頃から、」と書いてある通り、奈良時代から始まっていることも要チェック。 ○ 190 ○ 191 ○ 192 ○ 193 検非違使ではなく、勘解由使(かげゆし)であれば正しい文章になります。 × 194 それまで多賀城に置かれた鎮守府が胆沢城にうつされました。 ○ 195 ○ 196 ○ 197 桓武天皇の時に設置されました。類似の正文「平安時代初期には令に規定された官司や役人が整理され、財政の再建がはかられた。」(1998本) ○ 198 ×
199 807年に行われた政策に関する議論で「天下の苦しむところは軍事と造作となり」と指摘された「造作」とは、平安京の造営のことである。 2007追 200 嵯峨天皇は側近の藤原冬嗣を天皇の秘書官の長にあたる蔵人頭に任命した。 2012追 201 嵯峨天皇の時に置かれた蔵人頭の主要な職務は、朝廷の蔵の管理であった。 1998本 202 嵯峨天皇は、京内の治安維持を目的として、検非違使を設置した。 2003本 203 政府は、財源確保のため、大宰府管内などに公営田を設置した。 2011本 204 嵯峨天皇のころには、文芸によって国家の隆盛をまざす中国の思想が広まり、 『凌雲集』などの勅撰漢詩文集が編まれた。 2012本 205 嵯峨天皇のころには、律令制定後に出された法令を分類・編集して最初の格式 が編まれた。 2012本 206 宮城の警備にあたった衛門府などの五衛府も、令外の官である。 1998本 207 平安時代の前半に編纂された弘仁格式・貞観格式・延喜格式の三つの格式を三 代格式という。 2000追 208 令の条文についてさまざまな解釈がなされていたのを統一し、政府による公式 解釈を示すために、『令義解』が編纂された。 2000追 209 嵯峨天皇は、畿内に直営の公営田を設置して、租税を確保しようとした。 2003本
199 ○ 200 ○ 201 嵯峨天皇が設置した蔵人頭の主要な職務は、詔勅や機密文書の管理です。 × 202 嵯峨天皇は、京内の治安維持を目的として、検非違使を設置しました。 ○ 203 ○ 204 ○ 205 ○ 206 衛門府などの五衛府は、令で規定された官職です。(令外官ではありません) × 207 ○ 208 令義解は833年完成。清原夏野らが編さん。 ○ 209 畿内に設定された直営方式の田は官田(879年設置、嵯峨天皇の時ではありません)。嵯峨天皇は、823年に大宰府管内の九州に公営田を設定しました。 ×
210 平安時代のはじめに景戒が著した『日本霊異記』は、現存する日本最古の仏教説話集である。 2001追 211 『性霊集』は、最澄の詩や書簡などを編集したものである。 1995本 212 一族子弟の教育のために、藤原氏は勧学院を設立した。 2008本 213 藤原北家出身で最初の蔵人頭となった藤原良房は、一族子弟の教育機関として 平安京に綜芸種智院を設立した。 1999追 214 仏教界の政治介入をさけるため、平安末期に至るまで平安京内には寺院の造営 は一切認められなかった。 1999追 215 空海は、嵯峨天皇や橘逸勢とともに三筆と称されている。 1995本 216 金剛峰寺は空海によって開かれた。 2013本 217 9世紀、高野山に金剛峰寺が開かれた。 2007本 218 平安宮応天門の炎上は大納言伴善男の陰謀とされ、善男らが配流になった。 1997本 219 平安時代中期以降、天皇が幼少の時には関白が、成人後には摂政が置かれた。 1998本 220 10世紀には、皇朝(本朝)十二銭の最後の貨幣である乾元大宝が鋳造された。 1996本
210 ○ 211 『性霊集』は、空海の詩や書簡などを編集したものです。 × 212 ○ 213 綜芸種智院は、空海が庶民教育のために建てた学校です。(東寺に隣接) × 214 東寺(教王護国寺=嵯峨天皇が空海に与えた)が建立されている。 × 215 ○ 216 ○ 217 ○ 218 応天門の変(866年)のことです。 ○ 219 天皇の幼少時に摂政、成人後に関白が置かれました。(例外や別の説もあります) × 220 皇朝(本朝)十二銭の最後の貨幣・乾元大宝は958年に鋳造。 ○
221 醍醐天皇皇子の左大臣源高明が密告により大宰府に左遷された。 1997本 222 藤原道長は、3代の天皇の外祖父となった。 2006本 223 藤原道長は『御堂関白記』の筆者であり、「此の世をば我が世とぞ思ふ」と詠 んだことでも知られる。 2016本 224 孫の後一条天皇を即位させた藤原道長は、受領からさまざまな奉仕をうけ、彼 らを人事面で優遇した。 2012追 225 遣唐使が停止され、また新羅や渤海がほろびても、大宰府は外国との貿易の窓 口となり、依然として重要な役割を果たした。 1991追 226 遣唐使が停止された後も、修行のために中国に渡る僧侶や、交易のために九州 を訪れる中国商人など、人々の往来は続いていた。 1996追 227 日本の律令国家のモデルとなった唐は、10世紀初めに滅亡した。 2012本 228 奈良時代以来、日本と親交のあった北東アジアの国である渤海は、10世紀前半 に遼(契丹)によって滅ぼされた。、 2012本 229 前代の唐につづいて宋とも国使の交換はあったが、国内では国風文化が盛んと なり、大陸の影響力は大きく減少していった。 1993追 230 平安時代に入って約1世紀を経たころから、勅撰和歌集が編纂されるように なった。 2000追 231 『土佐日記』以後、宮廷女性らによって多くのかなの日記が作られた。 2003追
221 安和の変(969年)のことです。 ○ 222 ○ 223 ○ 224 ○ 225 大宰府の外港・博多は、中国人(宋などの出身)・日本人商人らが集り住み、中世の代表的な 貿易都市として発展しました。類似の正文「遣唐使廃止後も、中国の商船はしばしば九州に来 航し、多くの文物をもたらした。」(1997本) ○ 226 類似の正文「遣唐使廃止後も、10世紀には、僧侶たちが中国に渡って寺院などを巡礼し、様々な文物を持ち帰った。」(1997本) ○ 227 ○ 228 ○ 229 国風文化の時期も、日本貴族の中国文化への関心は高かったとされています。 × 230 905年、『古今和歌集』が編纂されました。初の勅撰和歌集です。 ○ 231 ○
232 『土佐日記』には、紀貫之が土佐国から東海道を通って帰京する途中の出来事が書かれている。 2003追 233 紀貫之の『土佐日記』は漢文体で書かれている。 2016本 234 かな文字が発明されると、公的な行政文書にももっぱらかなが用いられ、かな 文学隆盛の土壌となった。 1992追 235 遣唐使の派遣がとだえたため、大陸との貿易や人々の往来も行われなくなっ た。 2010追 236 遣唐使の廃止後、貴族たちの中国文化への関心は減り、男性貴族も平仮名で日 記を書くことが一般化した。 1997本 237 中国の商人がもたらす絹織物、陶磁器や香料などは、唐物とよばれて貴族らに 珍重された。 2011追 238 平安時代には、漢字の一部をとった平仮名と、草書体をくずした片仮名が作ら れた。 2007追 239 より豊かな表現を求め、平仮名が大陸から取り入れられた。 2011追 240 平安時代には、神は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説が広まった。 2008本 241 源信が極楽往生の方法を示した『往生要集』を著し、慶滋保胤が極楽往生の実 例を集めた『日本往生極楽記』を編纂した。 2000追 242 藤原道長は、六勝寺の一つである法勝寺を建立した。 2011追
232 東海道は関東から現在の三重県(伊勢・伊賀)まで。土佐国は南海道に所属。 × 233 漢文体ではなく、かなで書かれています。 × 234 公文書や男性貴族の多くの日記は漢文体。 × 235 センター試験では、オーソドックスな問題例。 × 236 漢文体です。代表的な男性貴族の日記に、平安時代は藤原実資『小右記』・藤原道長『御堂関白記』、鎌倉時代の藤原(九条)兼実『玉葉』などがあります。 × 237 ○ 238 平安時代には、漢字の一部をとった片仮名と、草書体をくずした平仮名が作られた。 × 239 × 240 類似の正文「平安時代には、在来の神々は仏の仮の姿であるとする本地垂迹説が唱えられた。」(2001本) ○ 241 ○ 242 ×
243 藤原頼通は、平等院の阿弥陀堂を建立した。 2011追 244 法成寺は、宇治の別荘を寺院に改めたものである。 2006本 245 摂関政治の最盛期に作られた『源氏物語絵巻』には、そのころの貴族の女性の 優美な生活が描かれている。 2001追 246 摂関期の貴族は、陰陽道を重んじたため、その日常生活には方違や物忌などの 慣習がひろまった。 1995本 247 平安貴族の住宅では、金地に緑・青などを使う濃絵の屏風が使われた。 2012本 248 平安時代の貴族の子どもは母方の家で養育されることが多かった。 2007追 249 貴族の女子は20歳前後で元服の儀をあげた。 2001追 250 平安時代の貴族の男性の正装は直垂や水干であった。 2007追 251 平安時代の貴族の女性の正装として、女房装束が定着した。 2001追 252 上級貴族は、ときには、忌むべき方角を避けて移動する方違を行った。 2011追 253 延喜の荘園整理令によって記録荘園券契所が設置され、成立年代などで基準に 合わない荘園は停止された。 1992本
243 ○ 244 法成寺を建立したのは藤原道長。 × 245 『源氏物語絵巻』は平安時代末期(院政期)の作品。 × 246 ○ 247 濃絵は桃山文化の画法として知られます。平安貴族の邸宅内を飾った絵画は大和絵です。 × 248 ○ 249 貴族の女子は10代前半で成人式に当たる裳着を行い、男子は10代半ば(早いときは10代前半)で元服を行ないました。 × 250 × 251 ○ 252 ○ 253 記録荘園券契所を設置して荘園整理を断行したのは延久の荘園整理令(1069年)。延喜の荘園整理令は902年。 ×
254 10世紀初めを最後に、全国的な班田収授は命じられなくなった。 2009本 255 醍醐天皇の時代、意見封事十二箇条が提出された。 2006本 256 醍醐天皇は、荘園の増加をおさえるため、延喜の荘園整理令を出した。 2013本 257 律令制支配が行き詰まり地方支配方式が転換していくなか、浮浪・逃亡・偽籍 などのため、戸籍・計帳による人民の把握が困難になった。 2000本 258 律令制支配が行き詰まり地方支配方式が転換していくなか、国司に徴税や地方 支配の権限を大幅にゆだねるようになった。 2000本 259 10世紀以降、政府は国司に一定額の租税の納入を請け負わせ、地方支配を一任 した。 2009本 260 11~12世紀には、宮殿や寺社の造営費用を確保するために成功が盛んになさ れ、受領が成功によって任期を重ねる重任も行われた。 1999本 261 10世紀頃から、任国におもむいた最上級の国司は受領と呼ばれ、巨額な私産を 蓄える者も現れた。 1998追 262 10世紀以降、耕地は名という単位に編成され、有力農民が耕作を請け負うよう になった。 2009本 263 10世紀以降、政府は財源を確保するため、初期荘園の開発を奨励した。 2009本 264 受領は任国におもむき、留守所で支配を行った。 2012追
254 ○ 255 914年。三善清行は、醍醐天皇に地方政治の混乱ぶりを指摘しました。 ○ 256 ○ 257 ○ 258 国司に徴税権や一国の政務全般にわたる強い権限が与えられるようになったのは10世紀前半以 降。類似の正文「10世紀後半頃の朝廷は、国司に徴税を任せ、地方支配を請け負わせてい た。」(1998追) ○ 259 ○ 260 ○ 261 代表的な受領として、『今昔物語集』の信濃守・藤原陳忠(のぶただ)、尾張国郡司百姓等解(解文)で太政官に訴えられた藤原元命(もとなが)らがあげられます。 ○ 262 ○ 263 初期荘園は、墾田永年私財法が発令された743年以降の8世紀とするのが一般的。 × 264 留守所とは、受領が赴任していない時の国衙(こくが)のこと。 ×
265 平安時代には、在京したまま任国に下向しない国司のことを在庁官人とよんだ。 2014本 266 平安時代には、在京の国司は目代を任国に派遣し、政務を担当させるように なった。 2014本 267 10~11世紀、受領は任国内の課税対象となる土地を名という単位にわけ、そこ から租税を徴収するようになった。 2003追 268 地方の農民のなかには、受領の非法を中央の政府に訴え、その罷免を要求する 者がいた。 2003追 269 藤原元命は、尾張国の郡司・百姓によって暴政を訴えられた。 2012追 270 9~10世紀、受領の圧政を訴えるため、「尾張国郡司百姓等解文」が朝廷に提出 された。 2013本 271 信濃守藤原陳忠は、「受領は倒るるところに土をつかめ」と言い放った貪欲な 受領として知られる。 2000追 272 10世紀頃から、赴任しないで京に住み、かわりに目代を派遣して政治を行う者 が多くなった。 1998追 273 国司が任期を延長し、在任し続けることを遙任とよんだ。 2003追 274 地方の豪族は、受領の徴税に対抗するため、所領を荘園とし、自ら荘園領主と なった。 2003追 275 10~11世紀、受領は押領使・追捕使などとともに、国内の治安維持に当たるよ うになった。 2003追
265 在庁官人は、地元の有力者・豪族出身で、国衙の仕事を担うようになった人々のことです。 × 266 ○ 267 名を請け負った有力農民が田堵です。多くの名を請け負ったものは大名田堵とよばれました。 ○ 268 代表的な事例として、988年に尾張国郡司百姓等解(解文)で太政官に訴えられた藤原元命(もとなが)らがあげられます。類似の正文「尾張国郡司百姓等解文は、国司の圧政を訴えるため に朝廷に提出された嘆願書である。」(2000追) ○ 269 ○ 270 ○ 271 ○ 272 一般にこうした勤務形態を遙任といいます。類似の正文「律令制支配が行き詰まり地方支配方式が転換していくなか、国司の地位は利権視され、また任命されても赴任しない国司が増え た。」(2000本) ○ 273 重任といいます。 × 274 寄進地系荘園は、中央の貴族・寺社を荘園領主とし、地元の豪族・開発領主は下司・公文などの荘官として現地で荘園を支配しました。 × 275 清和源氏・桓武平氏ら武士団の棟梁は、国司(受領)として財力や勢力を拡大させてことを理解しよう。 ○
276 太政官符・民部省符によって税の免除が認められた荘園を、国免荘という。 2000追 277 東寺百合文書の名称は、加賀藩主の前田綱紀が、文書を収納する櫃(ひつ)を百 合(百箱)寄贈したことに由来する。 2014本 278 官物が免除されることを不輸、検田使が入るのを禁じることを不入という。 2002追 279 国司は、国内の田地を調査し課税するため、押領使を派遣した。 2000追 280 平将門は、桓武平氏の一族で、陸奥の清原氏とともに東国で反乱を起こした が、鎮圧され、以後源氏が東国に勢力を持つようになった。 1991本 281 東国で国司と対立し反乱を起こした人物が、新皇と称した。 2011本 282 東国と西国で、同時期に平将門と藤原純友による大規模な反乱が起こった。 2013本 283 藤原純友が乱を起こし、大宰府を焼き討ちにした。 2007本 284 11世紀前半に、刀伊が九州北部を攻撃したが、撃退された。 2000本 285 陸奥国に赴任した源頼義は、東国の軍勢を率いて清原氏と戦い、これを滅亡さ せた。 1999追 286 後三年合戦は、出羽の豪族清原氏一族の内紛に源義家が介入したものである。 1997追
276 太政官符・民部省符によって税の免除が認められた荘園を、官省符荘といいます。国免荘は、国司の文書(免判状)によって税の免除が認められた荘園をいいます。 × 277 ○ 278 ○ 279 派遣された役人は検田使です。検田使の立ち入りを拒否する権限を不入の権といいます。 × 280 平将門・藤原純友が同時期に東西で起こした承平・天慶の乱は10世紀前半。陸奥の清原氏が東 北で反乱を起こしたのは11世紀後半。源氏の東国進出の第一歩は11世紀前半の平忠常の乱を源 頼信が鎮圧したことにはじまる。 × 281 ○ 282 ○ 283 ○ 284 刀伊の入寇は1019年のこと。藤原隆家や九州の武士が撃退しています。隆家は藤原道長の甥で、兄の伊周とともに道長との政争に敗れ、大宰府に左遷されていました。 ○ 285 源頼義は前九年合戦で清原氏と協力し合って安倍氏を滅ぼし、その子・義家は後三年合戦で清原(のち藤原)清衡と協力し合って清原氏を滅ぼします。 × 286 ○
287 後三条天皇は大江匡房らを登用し、国政の改革を行った。 1998本 288 後三条天皇は、荘園領主から書類を提出させ、国衙に設けられた記録荘園券契 所で審査にあたった。 1995追 289 10~11世紀、受領は任国内の公領を郡・郷・保などの所領の単位に再編成して いった。 2003追 290 10~11世紀、都から任国に在庁官人を派遣して、政務の処理に当たらせるよう になった。 2003追 291 荘園制のもとでは、年貢は、名田を基準に賦課され、名主がその納入の責任を 負った。 1994追 292 平安末~鎌倉時代、京都に住む貴族の多くは、荘園や公領の支配者であった。 2006追 293 平安末~鎌倉時代、荘園や公領の荘官・郷司ら現地の管理者は、しばしば武士 団を形成した。 2006追 294 院政期、上皇の命令を伝える院宣や院庁下文が強い権威をもつようになった。 1995追 295 白河天皇は、内裏に北面の武士を置いた。 2006本 296 白河天皇(上皇)は、のちに六勝寺と総称される寺院の一つである法勝寺を建 立した。 2013本 297 院は大規模な寺院や離宮などをさかんに造営した。 1998本
287 ○ 288 記録荘園券契所は朝廷内に設置。 × 289 類似の正文「11~12世紀には、国衙は、開発領主の開発地を郷や保などの新たな行政単位とするとともに、彼らを郷司や保司などに任命して、その地域の徴税をまかせた。」(1999本) ○ 290 在庁官人に登用されたのは、地元の豪族・開発領主層です。 × 291 名主は有力農民(ふつうの田堵)から選ばれ、中世村落の中心的な存在になりました。 ○ 292 ○ 293 ○ 294 ○ 295 × 296 ○ 297 院政期には、法勝寺をはじめとする六勝寺が相ついで建立されました。類似の正文「院政時代、上皇は造寺・造仏を行うとともに、たびたび熊野へ参詣した。」(1995追) ○
298 10世紀頃から、上級貴族や寺社は知行国主として一国の支配権を与えられ、その国守には在地豪族を推挙した。 1998追 299 院政期、成功や重任を禁止し、摂関家の経済的基盤であった知行国制を廃止し た。 1995追 300 院政期、荘園の寄進が院に集中するようになり、摂関家をしのぐ勢いを示し た。 1995追 301 院政期、摂関家におさえられていた中下級貴族や受領らが院の近臣を形成し た。 1995追 302 園城寺はいわゆる南都北嶺の北嶺にあたる。 2000本 303 南都・北嶺とは、高野山金剛峯寺と比叡山延暦寺のことである。 2011追 304 平安時代後期・鎌倉時代の延暦寺は、諸国に多くの荘園を持ち、有力貴族とな らぶ社会的勢力となった。 1995追 305 平忠盛が海賊討伐に活躍し、鳥羽上皇の信任を得て平氏繁栄の基礎を築いた。 2000本 306 崇徳上皇と白河上皇の政権をめぐる抗争は、武士の政界進出の契機となった。 2014本 307 藤原信西(通憲)は、後白河上皇に重用されたが、平治の乱で源義朝が指揮す る軍勢に攻められて敗死した。 2000本 308 平清盛は太政大臣に任命され、その一族も高位高官に昇った。 1991本
298 知行国制は院政期(12世紀)からみられ、国守には一族の子弟などが任命されました。 × 299 知行国制は、院政期にひろがりました。 × 300 代表的な荘園群に八条院領、長講堂領があり、これらは皇室の主要な経済基盤になりました。 ○ 301 ○ 302 南都は興福寺、北嶺は延暦寺(のそれぞれの僧兵)をさします。 × 303 × 304 同問の正文「平安時代後期・鎌倉時代の延暦寺の寺僧はその要求を実現するため、朝廷や院に対してしばしば強訴を行った。」(1995追) ○ 305 忠盛(清盛の父)は九州にも所領をもち、ここで日宋貿易を行っています。 ○ 306 白河上皇でなく、後白河天皇であれば正しい文章になります。 × 307 ○ 308 ○
309 平氏が多くの国で知行国主となった。 2011本 310 清盛は、自身の拠点である福原への遷都を計画した。 2003本 311 清盛は、さかんに造寺・造仏を行い、法勝寺を造立した。 2003本 312 13世紀には、日宋貿易の振興をはかって大輪田泊が修築され、短期間ながらこ の近くに都が置かれた。 1997本 313 平氏が取り組んだ日宋貿易により、宋銭や陶磁器が輸入された。 2014本 314 奥州藤原氏の根拠地である平泉に造られた中尊寺金色堂や九州国東半島の富貴 寺大堂は、浄土思想の広がりを示している。 2011本 315 福島県にのこる白水阿弥陀堂は、平安時代末期の唐様建築を代表するものであ り、浄土教の地方へのひろがりを示している。 1997追 316 前九年合戦の経過は、院政期に著された軍記物『陸奥話記』に述べられてい る。 1997追 317 本来は宮中の芸能であった田楽が、都から地方に伝わり、村の祭礼に取り入れ られた。 2009本 318 人びとの間に流行していた歌謡である今様が、後白河法皇により『梁塵秘抄』 にまとめられた。 2009本 319 10~11世紀頃に、貴族の間に流行していた今様などを集めた『梁塵秘抄』が編 纂された。 1996本
309 ○ 310 ○ 311 法勝寺を建立したのは白河上皇です。 × 312 13世紀ではなく、12世紀(後半)。 × 313 ○ 314 ○ 315 唐様建築ではなく、浄土教の阿弥陀堂建築です。平安末期の阿弥陀堂建築には、平泉の中尊寺金色堂や、大分県に残る富貴寺大堂があります。 × 316 ○ 317 田楽は、豊作を祈る「田遊び」から発達したなど諸説あり。 × 318 ○ 319 院政期の12世紀に後白河法皇が編纂しました。 ×
320 中尊寺金色堂は、地方に伝わった浄土教の影響を強く受けた建築である。 2008本 321 平泉に中尊寺金色堂を建立した奥州藤原氏は、秀衡が源頼朝に討たれ、滅亡し た。 2013本 322 平安時代中期以降、転換期の歴史意識を反映する、和文体の歴史物語が作られ た。 1998本 323 藤原道長の栄華を中心として宮廷貴族の歴史を描き出す意識から、『栄花物 語』が編まれた。 2000追 324 『大鏡』は、摂関家を中心とする歴史を和文体で描いている。 2013本 325 『信貴山縁起絵巻』は、地域社会や民衆の姿が描かれている。 2006追 326 11~12世紀には、絵巻物が描かれ、応天門の変を題材にした『伴大納言絵巻』 や、庶民の生活・風俗を描いた『信貴山縁起絵巻』などが作成された。 1999本 327 以仁王の令旨によって、諸国の武士に源義仲打倒の兵をあげることが呼びかけ られた。 2000追 328 源頼朝は、平氏が西国へ敗走したのち、後白河法皇と交渉し、東国支配の権限 を認められた。 2014本 329 源平の争乱(治承・寿永の内乱)の際に、平氏により延暦寺が焼き討ちされ た。 2013本 330 源頼朝は後白河法皇の死後、征夷大将軍に任命された。 1995本
320 ○ 321 × 322 『栄華(花)物語』や『大鏡』(四鏡のはじまり)などがこれにあたります。 ○ 323 ○ 324 ○ 325 ○ 326 ○ 327 1180年、以仁王の令旨によって、諸国の武士(とくに源氏)に平清盛打倒の兵をあげることが呼びかけられました。 × 328 ○ 329 平氏の攻撃を受けたのは、反平氏勢力(僧兵など)の拠点でもあった奈良(南都)の東大寺です。 × 330 1192年のことです。 ○
331 鎌倉時代の地頭は、年貢徴収・納入や土地管理・治安維持にあたった。 2009本 332 荘園の管理を任された地頭は、一定額の年貢納入を請け負うようになった。 2014本 333 鎌倉幕府における御恩とは、土地支配にかかわる権限を認めることが主であ る。 2010本 334 合戦や大番役への動員では、国ごとに守護が御家人を統率した。 2010本 335 大犯三カ条は、地頭や守護の権限や特権について規定している。 1994本 336 鎌倉幕府の財政基盤には、将軍の知行国や荘園があった。 2002追 337 北条義時は、政所別当に加えて侍所別当を兼任した。 2009本 338 北海道と沖縄の両方に、鎌倉時代に守護や地頭がおかれた。 2010追 339 北条政子は、父の北条時政とはかって、将軍実朝を廃し有力御家人による合議 制を進めた。 1996本 340 天皇家や貴族・大寺社と異なり、鎌倉幕府(将軍家)は荘園を領有しなかっ た。 2011追 341 源平の争乱が終結したのち、院政を再開した後鳥羽上皇は鎌倉幕府との協力関 係を重視した。 2014本
331 ○ 332 ○ 333 ○ 334 ○ 335 大犯三か条は、守護の権限や特権について規定しています。(地頭の権限ではありません) × 336 将軍の知行国を関東知行国(関東御分国)、荘園を関東御領という。 ○ 337 ○ 338 × 339 北条政子は、父の北条時政とはかって、将軍頼家の独裁を防止するため、有力御家人による合議制を進めた。(のちに頼家は将軍を辞職させられ、殺される) × 340 × 341 ×
342 後鳥羽上皇は、新たに北面の武士をおいて軍事力の強化をはかった。 2001本 343 後鳥羽上皇による討幕計画が進むなか、天皇家出身の慈円はそれを諫(いさ) める書物を著した。 2013本 344 1221年、後鳥羽上皇は北条義時の追討を諸国に命じた。 2007本 345 承久の乱後、幕府は後鳥羽上皇らを配流し、京都には京都守護に代えて六波羅 探題を設置して、朝廷を監視させた。 1991本 346 六波羅探題は、朝廷の監視や西国御家人の統轄を担った。 2015本 347 承久の乱後、後鳥羽・土御門・順徳の3上皇が配流され、仲恭天皇が廃された。 2001本 348 白河上皇以来続いてきた院政という政治形態は、承久の乱によって終わりを告 げた。 2001本 349 幕府は承久の乱で没収した所領に新たに地頭を任命し、西国への支配を拡大し た。 2011追 350 承久の乱後、守護の収入を保証するため、幕府は新補率法を定めた。 2001本 351 幕府は承久の乱後、執権を補佐する2名の引付衆を置いた。 1993追 352 御成敗式目は、源頼朝以来の先例や武家社会の慣習を基準として作られた。 2002追
342 北面の武士は院政期に置かれたもので、後鳥羽上皇が置いたのは西面の武士。 × 343 天皇家が誤りで、正しくは藤原氏(摂関家)。慈円は藤原忠通の子。源頼朝と友好関係をきずいた藤原(九条)兼実の弟。 × 344 ○ 345 ○ 346 ○ 347 ○ 348 院政という形態はその後しばしばみられ、江戸時代にもみられた。教科書での承久以後の「院政」については、P.120に記載あり。 × 349 ○ 350 承久の乱後、地頭の収入を保証するため、幕府は新補率法を定めた。 × 351 執権を補佐する役職は連署で、需要政務の合議にあたった評定衆ははじめ11人が任命されました。1249年設置の引付衆は、裁判の公正化・迅速化をはかって評定衆のもとにおかれました。 × 352 ○
353 御成敗式目は、承久の乱後実力で朝廷側を圧倒した幕府が、律令にかわる全国法として制定したものであった。 1991追 354 御成敗式目は、御家人同士や御家人と荘園領主などとの紛争解決のために定め られた。 2009本 355 鎌倉幕府は御家人どうしの争いだけでなく、御家人と荘園領主の争いにも『御 成敗式目』を適用した。 1998本 356 御成敗式目は、室町幕府のもとでも基本法典としての生命をもっていたので、 室町幕府の法令は、建武以来追加とよばれた。 オリジナル 357 鎌倉幕府は『御成敗式目』を基本法典とし、その後は必要に応じて『御成敗式 目』に対する追加法という形で新たな立法を行った。 1998本 358 執権北条時頼は、宝治合戦で三浦泰村を滅ぼした。 2001追 359 鎌倉時代の武士の惣領は、一族を引き連れて合戦にのぞんだ。 1995本 360 鎌倉時代の武士の家では、女性も所領を相続した。 1995本 361 名主や小百姓(作人)は御恩に対して奉公をもってこたえ、戦時には戦場で闘 い、平時には鎌倉番役などをつとめた。 1995本 362 名主は、下人などを使って耕作を行い、小百姓(作人)は名田などの一部を請 負耕作して生計を立てていた。 1995本 363 中世の荘園や公領では、水はけの悪い湿田は佃と呼ばれ、その多くは弱小農民 の自作地であった。 2001本
353 御成敗式目はあくまでも武家を対象とする法であって、律令や公家社会の法を否定するものではありませんでした。 × 354 ○ 355 ○ 356 ○ 357 室町幕府も「御成敗式目(貞永式目)」を基本法とし、その追加法(建武以来追加)を発します。建武式目は基本法でなく、施政方針を示したものでした。 ○ 358 1247年のことである。 ○ 359 ○ 360 女子が一代限りで相続した所領を一期分(いちごぶん)といいます。 ○ 361 名主よりも上位の階層である開発領主層が地頭・御家人として幕府の将軍と主従関係を結んで御恩をうけ、奉公をつとめました。 × 362 ○ 363 佃は、地頭が直接経営した土地をいいます。 ×
364 中世の荘園や公領では、加徴米とは、公領に賦課された税の総称である。 2001本 365 鎌倉時代の地頭は、荘園のなかに給田(免田)をもっていた。 1995本 366 地頭の所領は東国に限定されていたため、地頭と荘園領主の紛争が西国の荘園 で起こることはなかった。 1999追 367 鎌倉時代には、荘園領主と地頭の間で土地を分割する地頭請が行われた。 2011追 368 荘園領主のなかには、地頭請によって一定額の収入を確保しようとするものも いた。 1999追 369 地頭と荘園領主の紛争を解決するために、荘園の土地を分割する下地中分が行 われることもあった。 1999追 370 幕府は蒙古襲来をきっかけに、それまで支配のおよばなかった荘園・公領の非 御家人をも動員するようになった。 2011追 371 幕府は、蒙古襲来を契機に異国警護番役を続けることなどを通じて全国的支配 権を強化するとともに、北条氏の家督を継ぐ得宗へ権力を集中していく。 2011本 372 元寇後、得宗専制の展開にともなって御内人の発言力が増大し、有力御家人の 安達泰盛が滅ぼされる事件が起こった。 2005本 373 鎌倉時代には、港湾や河川交通の要所で問丸が発達し、荘園から徴収した年貢 の輸送や保管などにあたった。 2000追 374 鎌倉時代の京都では、同業者の団体である座が結成されていた。 2015本