祁藩体制形成期および崩壊期は
、
近年さまざまな角度から研究されているが
、その守成期•動揺期・改革期の、とりわけ幕政
史上
のそれらの時期に関する研究は
︑
思ったほど辿んでいないのではないかと思われる︒まだしも
︑
いわゆる三大改革をめぐる
個別
研究や総合
的
な見通しについては︑すぐれた成果が発表されているが
︑
こうした小きざみな改革の時代の問にある
︑政治史
上
は消極的で腐敗した時代と考えられる時代の立ち入った研究は
︑もっともおくれているといわなくてはならな
い0田沼時代に
関して︑
辻善之助博士以来
︑
ほとんど個別研究が進歩していない以上に︑第十一代将軍家齊の治世のうち究政改革挫折後の
︑大
御所時代と呼ばれる四半世紀の個別研究は発達を示していない︒この四半世紀は︑老中松平伊豆守信明の在戦期間︵文化三ー文 化︱四︿
一 八
OKl七>
︶までと水野出利守忠成の在職期間︵文化︱四
ー天保五年︿
一八
一七
︱︱
︱呼
︶と
にほ
ぽ二
分さ
れる
が︑
研究
の発
達ぶ
りは︑例えば︑三上参次栂士の﹁江戸時代史﹂における一︱
1 0
頁余の記述と︑徳立猪一郎氏の﹁近世日本国民史﹂文政天保時代の 公 徳 辮 附 藩 秘
録
前
害 老 中 水 野 出 葱 守 忠 成 に 関 す る 新 資 料
校 訂
記 水
野 録 家
公 徳 辮
附
藩 秘 録
圭 ノ円 並
井 木 良
早稲田大学一L
脳書館所蔵
子 圏
‑105‑
められている︒
x
記述と︑北島正元教授の﹁江戸時代﹂︵岩波新書︶の六頁の記述とを読み比べてみることによっても知られるであろう0外国関係•世相風俗・文学芸能の分野をひとまずおくなら、この時代は、ほとんどまった<究政改革と天保改革との影にかくされてき
たといっても言いすぎではないようである︒それは︑方法論の貧困を意味するのだろうか︒たしかにそれもあろうが︑
にいえば︑歴史家の興味をひくに足る史料の限定の結果であったとすることができる︒たぶん三上博士および徳富氏の限度であ
れば、続徳川箕紀を骨組とし、東京市史稿や、若干の幕府記録や甲子夜話をはじめ当代に書かれた個人の日記・随箪・論策•戯
作類をもって参考とすることによって達成されるであろう︒それに対して北島教授の場合は︑農村史研究に基礎をおく新
しい
接
近態度を示しているが︑なお試諭の域を出ない︒できることなら︑もう少し根本史料がほしい︑というのが現状なのであるo
ところが︑幸いにも︑元早稲田大学図書館長岡村千曳氏の眼識によって︑市井の書陣から沼津藩水野家の纂輯にかかる﹁水野
家記録﹂九六冊が発見されて同館に収蔵され︑その約四分の一が老中勤役当時の同家の動静を示す史料から成っていることが知
られたのである°私は今から五年ほど前に︑この一群の設害の全般にわたる調査を行ない︑その結果を﹁沼津藩水野家における
家史緬蝠ー早稲田大学所蔵﹃水野家史料﹄の解題ー﹂として月刊地方史研究雑誌﹁信猿﹂第十巻第四号︵昭和︱︱‑+
‑︱
︱年
四月
号
︶
に発表したことがあるので繰り返さないが︑このたび︑機会を得て﹁早稲田大学図書館紀要﹂において翻刻することとした﹁公
徳孵﹂と﹁藩秘録﹂については︑阻複をいとわず︑解題を書かねばならぬ°
ただあ去ら﹁公徳辮﹂
およ
び﹁
藩秘
録﹂
は︑
老中
水野
忠成
︵宝
暦︱
ニー
天保
五︿
一七
空︐
一八
︳︱
︱四
﹀
︶在戦中の事跡をその逝
去の
後に近臣の立場
から記述した秘録で、纂輯水野家史料「水野家記録」の「紀述の部」に属し、第四五•四六の二冊(特別ヌ四ー四奎不翌・緊)に収
わきま﹁公徳辮﹂は音よみすべきものであろうが︑藩公の徳行を辮えんがための著述を意味する︒
簗輯者高柳邦が炭応三年の頃この二部を収録するに当たっては︑それぞれ底本について令写した上︑宮本および五本と称する ニ陪正確
‑106‑
異本によって校合しているが
、今11
、底本•宮本•五本のいずれも行方を明らかにせず
、
また管見のかぎりでは
、写木又は刊本
として坊間に流布したことを聞かない°校合のあとによって、「公徳梢」はイ(五)本
•宮本に比し底本が
、
また「湘秘録」は底
﹁水野家史料﹂では︑
﹁公他朔﹂が上・下二冊
F沢分冊され︑下の末尾︸↑﹁湘秘録﹂が附載され
︑
上は半紙五二枚
︑
下は五五枚
︑
﹁公徳朔﹂は︑
忠成逝去庖後天保五年以内に編述されたものと考えられ
︑
乾巻に﹁公徳孵意﹂と題する序文があり
︑
水野忠成
︵公稀に主君︶の略歴と本れ
1 1釦述の意図を述べ︑日次なく︑三七箇条の庶書(‑っ苦き︶から成る本文を載せ
︑
坤巻は三一箇条 の廉書から成る本文の続編を載せ
︑
編述者の氏名を欠くが
︑
本文中に﹁余﹂叉は﹁予
j
という一人称が現われる事例︵翻刻の一 辿番妙で
2 5 .
5 2 .
6 0 .
6 2 .
6 5 .
6 8 ) に従えば︑幼年のころから召し出されて七年閻忠成公の御伽となり
︑
その後御小間使となり
︑在
職のまま忠義公幼年の時も御伽を勤め︑この間︑御案詞奉行
・御用調などの職についたこともある単一の人物で
︑
ほとんど汀戸 詰の生活を送っていたらしい︒従来の研究が一様に水野忠成の人格・事跡について批難
・軽視してきたのは
︑
とかくの世評が当 時から高かったことの結果とも考えられるが︑本古は︑そうした批難に対して主君の徳行を弁護する態度で記され
︑しかし︑弁 護のための弁設に堕せず
︑
﹁今公他の難有さを辮ぜしめん為に︑己れ党たらんことのみ策記して︑当藩の後の友に知らしめん﹂
﹁偏に同滞后明の為なれば猥に他人に見する事なかれ
︑
恥埒とならん事も多かるべし﹂として︑その体裁は諸大名家の歴 代事跡記録の範例に倣っているが
︑
君臣の梢を基底としつつもかなり客観的な記述に努めている︒時として
︑自己の直接の体験
のほか、森個右衛門(13)・正田周平(15)•松岡某(26)
・能勢河内守
(35)•金澤八郎(68)
などの梢報源をも明記しているのは
、
その一端を物語るであろう°記述は
︑
いわゆる大御所時代の同時代者たちと水野忠成との関聯を説き
︑
同時代者たちと水野忠成 とに対する批評を試みるというあんばいで︑そこに登場する人物は︑第十一代将軍家齊︵公方︶︑その父一柄治滑︵低同︶︑子徳 川家脳︵内府︶をはじめ
︑三家・
三卿の徳川氏一門
︑
松平伊豆守信明ら前任の
︑
また水野出利守忠成その人や大久保加賀守忠四
とし
公 徳 器 附 藩 秘 録
﹁湘秘録﹂は二五枚を占める︒
「公徳辮」上・下は原題では乾
•坤となっている
o 本•
五本に比し宮本が停本のよう}と思われる。
‑107‑
であるが︑今はその指摘にとどめてお
く ︒
逸話が盛られているo ﹁公徳辮﹂に見えない ら現任の老中をはじめとする幕府諸役人・学者・医師︑徳川氏との姻戚関係をもつ大名たち︑水野忠成の家臣たち︑ならびに光
格天皇を中心とする公家社会の人々と︑まことに多士済々で︑これらの人々の間にくりひろげられる政治向き︑非政治向きの事
件は︑時々甑落のある﹁続徳川四紀﹂の記事やその他の史料と相補って︑当代の実況を知る手がかりの多くを与えている°個々
の記述から︑ひとは︑大御所時代に関する従来の正統史学の成果を考えなおすばかりでなく︑森閾外の﹁伊澤蘭軒﹂に描かれた
知識階級のおかれた蹂境の外わくについての知識を補充することもできようし︑また風俗史・文芸史がことさらに固定観念だけ
で理解してきた政治過程についての視野を拡大することもできるであろう︒とりわけ︑水野忠成の言動に見るある種の合理主義
の系消をたどり︑また︑
忠成について語る述者の意識形態をも分析してみることは︑知的歴史の観点から重要であり
︑そうなる
と︑
新井白石の﹁折焚く柴の記﹂や荻生祖練の﹁政談﹂などと比較する必要も生ずる︒
﹁藩秘録﹂は︑
﹁公徳辮﹂が口語をまじえた比較的自由な恨用文体で書かれているのに対して
︑稚拙な擬古文体で綴られ︑ま
た﹁公徳辮﹂が廉害してあるのに対して︑ほぽ一五箇条の内容をもつが︑廉
・編述年代を欠く
m ]
を欠いている︒同じく編述者名が︑冒頭と末尾に編述の意図を略記し︑文中に﹁予が男︑安之﹂の言及があり︑﹁公徳辮﹂では天保五年の記事を最下限とする
のに対して︑天保九年﹁余﹂の沼津旅行についての記事があるので︑姓不明牌安之なるものの父某が︑忠成逝去後数年にしてそ
の事跡を録して泄上謗談の非を説いたものであることがわかる︒後藤三右衛門直話その他の見聞を叙し
︑
これらの両書は︑それ自体ひとまずまとまった成古として読了に堪える作品となっているが︑これに密接に関聯した史料二︑
三が知られている︒
同じ砥輯水野家史料中の第三十冊以降の﹁御家中興記﹂﹁日記要録﹂﹁御代々略記﹂および﹁忠成公御日記書 抜﹂は︑東京大学史料編認所所蔵﹁水野忠友手許日記﹂および﹁水野忠成手許日記﹂と共に︑今後の研究にとって不可欠の史料
‑108‑
このたび翻刻する﹁公他弊﹂および﹁湘秘録﹂は︑昭和三十三年二月に調赴し︑同年五月︑当時法政大学大学院学生であった 骨木良子嬢の手によって喰写された胎本について、その後両人が校合、校訂を重ねたものである°校
•111に当たって採用された凡 例は︑ほぽ以下のと
おりである︒
本文の転写こ当たっては︑氏本の体裁をなるべく保存するため
︑丁数を附記し︑平頻
.姻 字の形式を踏製し
︑仮名の濁 底本中に見られる校訂者の記叔は︑たとえば以下のように簡略化して採用した︒
︵イ︑もナシ︶
﹁イ
ニ
︑忠友公も︑も字ナツ︑宮本アリ﹂︵乾1ウ欄外︶←﹁も﹂
︵ ぷ n
)
︵ 宜
︑を︑
イ︑ と︐ ヒカ
︶
﹁松前を︑宮本又作を︑イと二作ル︑ヒカ﹂︵乾
1 1 オ欄外︶←﹁松前を﹂
︵ 朱 字
︶
︵ 宮
`此節
︑イ
此説
︶
﹁此節︑イ説︑元本上︑皆ヒ︑従四木﹂︵坤
ウ欄2 8 外︑別に行間に﹁節﹂︶'︐'>﹁此上﹂乾巻と坤巻で校合のしかたがや や異なっているが
︑翻刻に当たってはこれを統一
した
︒
本文の内容の理解に便ならしめるため校訂者は角カッコを用いて
︑
誤字脱字のあるべき姿を傍注し
︑
また丸カッコを用
いて
︑
人名その他の参者に供した°底本の原注もまた丸カッコで示している
o
この機会に︑
ここ数年来お世話になった早稲田大学の入交好俯教授
︑
洞窟雄教授
︑
吉井篤雄氏
︑
中澤保氏その他の図杏館員の 方々のご好意に謝意をあらわし
︑
かつ︑祁外者の寄稿をお許しくださった大野四雄館長ならびに本紀要編集委員の方々の究容な 公
穏 維 附 滞 移 録
お取計らいに敬意をあらわしたい︒
金 井 闘
︵東京大学史料福纂所員
︵一
九六
ニ・
九・
ニ︱
‑︶
(3) (2)
点は底本に従い︑みだりに附加
・除
去しなかった︒
(1)
x
―
‑109‑︵水野出莉守︑
祗 徳 院
︶
︵ 知 瞭
︶
抑主君忠成公は三千石岡野肥前守殿の二男にてあらせられけ
︵沼
律水
野︶
るが幼よりいとかしこく渡らせけるよし当御家の末家水野勝
︵忠
防︶
五郎殿の投子に成玉ひ二千石二而水野吉太郎と被中
︵ 徳
川
家州
︶
︵天明四年十一月︶︵天明五年︶当将軍家之御小性之時大和守に任しいと思
召に
叶ひたる御方︹
し
︺
︵ 意 次
︑主殿頭︶なりきよし扱又当家
二而
L I l
沼殿の御二男金湘殿を御必子に被
成几而後中務少輔殿と巾されけるが主殿頭殿不首尾におはし
ける時中務殿ハ御離縁に及はれければ
ー ォ
妥かしこょり将御必︵水野出利守︑
修稔 院︶
︵イ
︑
も ナ ツ
︶
.
子之事数多申入といふとも
r l I
心友公も一かたならぬ既君にあら
せけれハ御小性勤め在しける大和守こそ末家なれバ森子にせ
︵ 天
明六年十二月卜八日︶
︵ イ
︑
にそ
︶
ん北本怠なりとてやがて此事も整はれけるとそ扱忠成公ハ当
︵水 野忠 友︶
家の沿殿に立せられてより先芹の志にしたがい仰
に︹
路も
遥ふ
公 徳 孵
ヽ舌J
h
・ '
/¥,.
↓ヽ
徳
辮
事なく渡らせけれバいつにても当家の穏なる事ハ実に両公の
賢なれバ自然天地の恵ミも深く在しけんや寛政の始忠友公一
︵ 天
明八
年 五 月
︶
︵ 究 政 八 年
十
一月
︶
度退役せられけれども無程再び御連判の列二被為復其上御寿︵非和二年九月十九日卒去︶も長く古稀の年に老職にて終らせられけり忠成公
ー ウ
には喪︵同年十一月二十四日︶︵享和一︳一年八月九日︶終らせられて直様奏者御番に命られ翌年寺社奉行御加役被為
蒙仰ければ発明にてあらせける事の速くも
︵ 稔 川 家 府
︶
︵ 文 化 一
︱ 一 年 十 二 月 十 二
n )
︵文
化國公に聞へ侍りて四年にして若年寄に成らせられ七年にして九年四月四
1 3)
︵徳
川家
製︶
御側御用人西丸江被為附此程の御役は格別の御趣意にて御補
佐の事を奉られけり六とせにして
︵文
化十四年八月二十
三 日
︶
︵ イ
︑御用之節西丸へも可出旨︶御本丸御老中格御側御用人西丸江茂御用之節可出旨被命ける
︵同
十五年ニ此ふし迄ハ公の喪くまします小を世に知らざりけり翌年御勝月廿九
n )
手の事を命せられけるに可恐は2オ
国介金銀米穀昔しにかへて空しく何事か有たらんにハ御救助
︵忠 糀
︑長岡滞主︶もなりがたけん有様にて是を補ん為とて牧野備前守殿勤役中
に諸方江御用金或ハ冥加上金其外諸産物之会所なんど立られ た 乙肯 十
‑110‑
けれども素より
︵イ︑御膝元︑悶︶
日本惣大将の御勝手元なれば十万百万の金銀百万二百万の米
︹掘
︺
穀は数
L I の用にも不足なれハ金銀は山に堀とも其費の出へき
︹き︺
かたもなくいと危事言はかりなく公には迷惑たらん所より一 己のエ風に新に二分の金を作らせられ世宝を培益し諸方の会
所冥加
金等悉く廃し給ひけるも
2ゥ
実に仁術なりと評
判あり
︵ 文 政 元 年 八 月 二 日
︶
︵ イ
︑
術︑ 此︶
其秋御加
判之列御勝手方是迄之通奥井西丸をも被兼務其ふ
し
︹マ
ヽ
︑術︺
より継絶興廃の事を専らに陳せらせられ於妥
四
方の諸侯歓喜 す是を楽しミとなし給ふ又古小判は切布て人々及難俊
小粒は
手摺極印
難見分とて悉く吹替金銀弥増益
し
︹ さ
︺
公盆日々に備て江府はならなり三百呈の外迄も公の徳行ひゞ き渡りて何知らぬ浜辺の賤まても只雉有しと有情非情も蔽ひ
︵文政四年ト一月十一日︶
不幸ものなし如此なれは四年にして一万石の
ォ御加増にて
都合四万石になり給ふ
︵従一位︑治洞︑
将軍家西ノ父
︶
国親一柏儀同殿を始め三卿一︱一家国主城主之歴々諸侯之大小名 御家人町人は勿論 禁哀を奉始親王摂家公家宮方門跡方諸寺諸山之出家社門
山伏
ニ至迄公の恩級を不禁もの少しされどもかく中ハいか成こと そと後の世にいたり程経るま
4
に語るものもなくなりて唯空
︹ ぜ
︺
言とせんハ臣たるもの
A本意なら
す今公徳の難布さを孵しめ
︵沼淮帝︶
ん為に己れ党たらんことのみ喩記して当藩の後の友に知らし
公 徳 辮 附 藩 秘 録
(l)
︵自 年和 一
︱一年至文化一‑i年︶
一忠成公寺社奉行御勁之時播茄之百姓一人娘同村之一人息子と 密通して相互に郊にせん嫁に取らんとの争ひ娘にハ母差孫て 出男には宿の者計なり公厳敷御利解二
4ォ思ひ可切岩左なく は其方追放せんと男計御叱二而思切可仕旨申
上る処女ハ如何 様二も合点不致故に似似り
5
を公仰に娘は可愛か憎かと被
仰
可愛奉存孔閻外へ造し恥袋承引不仕と申上けれバ可愛の子な れば其云通にせねバ死て仕舞てあろふか夫でも聞入れぬかと 被仰ける時娘へ対談仕度旨中御許容有之几と母娘へ向ひ男は 思ひ切たるにまだ其方盆曲ぬかと申けれハ男
ハ思ひ切孔而も 私ハ思ひ切不巾若此事不叶は死する旨母へ答ぃ時御白洲の砂
︹利
︺
悧を取娘江敲付ると公仰に何といたしたると被仰けれバ
4ヴ
公 徊
ヽじヽ辮
めんとす故に公徳辮と表題して
3ゥ
筆を起しぬ偏に同藩后明 の為なれば猥に他人に見する事なかれ恥局とならん事も多か
るべし︵近甜甚熙︑卒保九年蒻︶基熙卿の御滸に
︹ 継︺
恵ミあれ猶かたり尽
いひつきて 世このためしにならん君か代
‑111‑
実に我が娘なからもにくきやつに御座几と申上ける時成程不
届成娘不孝千万なりと被仰けれバ如仰不孝者にて御座砂と申
︵ 宮 侯ナツ︑イ︑ナツ︶直に勘当可致旨被仰外と直二勘当仕5旨中上い聞届たるぞ是 男勘当之娘其方へ逍す連て参れ態︑J汀戸の奉行所迄出て娘を 勘当するハ念の入たる事なりと被仰て惣方退席すおかしき御
計ひなり此事実を不知時︵おかしき事なれども年来此男深切
に其母を投ひ壱人の娘と母ばかりなるを心を尽し造したる故︵イ︑密通之仕合二も至り︶終に娘と通し合二も至り娘も此恩儀ある事を5ォ忘却してハ
生がひなしと存する旨二而男に深く贄約して是非男の家に迎
ヘ給ひて母をはごくミ給へと中合ける事のもつれたる事を能
A︑御辮有て済孔証文にハ妻の母生涯咲育可仕旨奉畏と御害入
有ける也
(2 )
︵自文化三年至九年︶一公若年寄御勤め之時糊山組百人与力当番之時泊番.を頼夜帰宅
して臥しぬ夜半の頃盗賊入て母の居間明る音あり其男刀を手
に持静に縁先へ出る時盗賊塀越出んとするを切る跡より縁頬
ヘ又一人出るも切る燈を以て照し見れバ一人は同役なり一人
は母なり依之同組呼集5
ゥ先己れ切腹可致旨申処
一同不許頭
︵ イ
︑進︑宮︑助︶ヘ訴之頭堀旧幸之助と覚けるが其段公へ訴中上る時当番之与 力が病気で宅へ引たる処盗賊が母を殺したる故組の与力が其
盗賊を仕留たるとな是天運なり幸に病気にて宅へ引取親のか
たきを取たるとハ妙なりされども番の代りを不待して引取た
る事なれバ表向にハ難成かるべし非番の時なれバ褒め置度事 と被仰て済けり其名遠慮あれバ不詔(3)
︵自文化九年至十四年︶一公西丸御側御用人御勤之時︵内大臣︑偲川家艇︑文政五年三月凱任棉︶
内府様小松川筋へ被為成磁御之節中川通り之御船路にて大
︵イ︑雨︑宮︑南︶川へ御出船之処折節南風強く御座船川上へ吹登りたる故両国
橋一ッ目橋の辺固メの御徒人払直しけれども大川端西の方は屋︵柏袋︑麻松藩主︶敷固メニ而松平酎岐守殿の固メ杯其伽挟箱へ腰打懸てありけ
るを其節御供の若年寄御船の内より扇を持て下座せよと頻に
知らしむる故に固の下座ハしつれども其場所退かず居たる故
に其内に御船ハ下して相済ける拶一件二付大川端に有ける御︵水野忠船︑北條藩主︶徒方相済問敷となり壷岐守殿差図にて差相伺6
ゥ差出讃州殿 にも差拓伺出し家来三好郷左術門は切腹と覚悟極メたる由此︵伊豆守伯明︑吉田滞主︶事御老中方評厳に行届兼けんや松平豆州より公へ相談ありけ
︵イ
︑雨
︶
る処公仰に夫ハ大なる間違と奉存い先南風強して御船に障る
︵船
手頭
︶
程なれバ向井賂監御上陸を申上て御道替之御規定
二御
座坪を
左も無之咋而は御徒頭︵差置若年寄始メ向井将監先御役御免
可相成事に御座5将監不申上ハ左程強クハ有之問敷左すれハ
御座船と見たるは御供船にて可有之御供船︿御目通り遠く 参る故に態
w
両国辺迄漕登りたらん御座船両国
ー ォ
辺迄登
る程なれバ御供船ご門国栖の上迄も不参坪而は都合不仕此事
実に左様なれバ御徒頭や笥岐守ハ差拍︱︱而ハ相済申間敷能A
西丸御側衆へ御呼御伺被成孔︿バ可然と仰にて豆州其通被成 6ォ
‑112‑
公 穏 辮 附 藩 秘 録
5
処公の仰の通り御供船にて
御座船は例に追ふ
F
なしとなり全ク一ッ日方之御徒若 御座船にてハ無かと
知払杜且故澁所二而心得迩したるを心
I f
i
岐守聞違ひてか4
るれに成しと伺苫戻しに相成坪而別骰なく
済けるなり︵中院通村︑承応
二年 伐︶
通村卿の御壻
F﹄7ウ
︵宮︑五︑て︶
あふ廿を知らすやミなんつらかりし その世にかなふ命なりせは (4 )
︵文 政元 年︶
一公加判之列被為蒙仰以後奥御右憎組叫布施内誠之尤殿被参 余り難有さに奥御右憎一統之名代御内と御礼二参上仕ぃ旨公
︵大久保忠虹︑小
l i l
原溜主︶
用人金澤八郎へ被仰姓
孔加代殿御懸り二而今
御朱印I I 三枚忍
几処一枚手入茂雉成程内拍仕汎処昔より御朱印之苫狙先例四
︵伯 明︶
度御改易也外一度松半豆州懸り二而少
f︑
の﹃
ぃ拍
布之
処豆
州御
手自手入被致
5
とて削り過仕拍したりとて火中被致几事有之 此度は全ク之内拍
8ォにて先例通り御改劫之例叩晶密山し御列 座二而先例なれバ不得止事よし誠に組頭を始め一統恐入几而 罷在ぃ処公には奥向御川二而御列座二不被為在
5御用済御引
之処列座之面ミ斯
A︑と被中ける時主君の
仰ニハ夫は是非認替 ずは成まじ扱忍性たらん時何条子細之有ぺき先例改易なれば とて時の執政之心二布べき也改劫すれバ 御朱印の代は無之とも済か御右箪ハ 御朱印書拍仕問放と替詞詔むるなれバ是非に不及御右笹とて
古損すまじきにあらず老中とて差図違
8ゥなきにあらす同心
とて捕迫ひすましきにあらす其度W改劫なれバ何の御役も勤
•9者ハ有まじと存也是時節の間追となれバ其旨を中上
︵ 宮
︑悴ナッ︑イ︑相済初而︶
御朱印押直して御渡可被成と被仰無故節済而初而組頭始め一 同祁息つひて生たる心ち仕几一同御礼に参り几と申凡間私差 留一人罷出孔宜被仰上被下度と中被樅けり其趣
巾上られけれ
ハ公仰に御代替領知之
御朱印領知高付紛敷虫は5も
有之とて害狽仕砂者改易と申を
n r
取初心得迎而人馬之
︐ォ
御朱印改劫したるハ其もの不じ半と云へきと被仰ける也
︵必屯小路雅房︑延
[K
し年
95 )
雅房卿の御訃に
よしやしれ批たものいて
4名取川
忍ふにふかき下のおもひを (5 )
一近米世上
1 1 蓮宗流行して西丸大奥向女中にも信
仰多殊更堀之
内妙法芋厄除之祖師とてもてはやす
︵捻 川家 吸︶
内府公二十五之御厄年に当らせられける時に妙法寺女中に取 入て御参詣之事御進め
1
上御膳所二被仰付ける其時節主君に も何とも仰なかりけるが御厄年明けて猶叉
︐ゥ 御 礼
参りのこ
と被仰出支度も不残整たる時に御取次衆より公へ御届有之公 御承引なし其故は堀之内妙法芋ハ近批流行之故を以取立古霊 湯二もあらず且昔より非其鬼而祭之諮也と聖教なり彼ノ堀之 内の日蓮宗之祖師なそは愚夫融婦等かか
Aる神仏へ祈願すれ
‑113‑
ども士官の身にはあるましき市也されバ
国公王者乃御身にしてかAる事は諸侯の家臣心ある者の笑と
ならん御恥辱事なり
君は日光御宮御参詣を尊らに被思召他の堂社仏神
御先祖1 0 ォ
︹候
︺
様方御仕来の外御信心なそ有ましき事なり御側近く伺公の面 こなと心得可有之なりと被仰上御参詣御延引と相成兄也寂初 より右様思召たらんなれともはや御祈願も被仰付たる後なれ
は其節御沙汰もなかりしと見へぬ
︵第百十一代︶後西院之御斑に
思ひつAうち出そめし一ことを
しのひ兼たる心とはしれ
(6 )
一蝦夷松前とも一円に近来は
1 0 ウ
G赳
︺
︵ 邸 版
︶
︵ 文 化 四 年 二 月
︶
公條の御手に入彼地之御修法被為立松前志朕守さへ奥州梁川 へ移されける故にむかしより交易にてありける国
A)より米穀
の交易を諮ふとて四方の国ミ津u祁A︑江船をよするによりて
自然穏かならす此事様p
御工風布けること几三拾年に及ひけ
︵大熙屋︶︵船頭︶
る幸大夫磯吉てふ船乗の魯西亜より帰りし窃政二戌年なり其
︵究政ト一年一月︶︵宮︑を︑イ︑と︑ヒカ︶
時より此事発して共後享和の頃松前を蝦必地を取上奥州へ移 され今文政のはじめ三拾余年歳ミのうれひかぞふへからす公
︵ 宮
︑ ら れ
︶
︵ 文 政 四 年 十 二 月
︶
にハ此事深く思召込れけるにや今年松前
ォ志階守を本領安1 1
︵飩川府脩︑文政八年任中納含︶︵治研︶
堵二被仰出ける是ハ水戸の中納言殿一栢の儀同殿にも深く御
苦應ならせけるとて御歓悦の旨を被仰述けり
︵中院通茂︑宝永七年裂︶通茂卿の御苅に
思ふことけふそ打出の浜風に
︵宮
︑よ
︶
ふきよる波のあたにかへすな
(7 )
︵ 定 永
︑ 白 河 瑞 主
︶
︵ 文 政 元 年 七 月
︶
一松平越中守殿房州御備場持と被仰付咋処奥州白川の御備井房 州之御備奥州口都合三ヶ所二而何分持あまり殊更房州之手遠
之場所費墜多く難渋之旨曰
u
のことく御逸二而被仰立公1 1 ゥ
御心永に御挨拶まし/\けれども日毎の催促も待遠なるや寂
早一日も勤がたしとの御口上の時公の御挨拶二︷取初蝦夷地の︵松平越中守定信︶
発端は賄父柴翁殿の思召なれバ松前家さへ難渋に及たる事ニ 而既に公袋御金蔵さへも御手菊に被為成付而は相房両岸の
︵ 肛 方
︶
︵ 路 政 一
︱
︱
御備も始りたる昨父の思召付より仙盗林子平が海国兵談
二懲
年板行︶
憚なされし事に起りたると奉存其遠源蒋父の御発言と存孔間 其方余りに声高に難渋と被仰上かたかるへく家来も承居兄間
︹き
︺
静に御歎あらんに
ォ何条取扱かたの無にもと御答あり越中1 2
︵次
問︶
︹候
︺
守殿も此一言に閉口被致たりとそ御次伺公の人
P一笑せり
︵良恕法親王︑究永二十年加
t)
良恕公の御野に
うきをしもしゐて誌るをつれなしと
神の
おも
はん
事も
は`
つ
かし
(8 )
︵交代窃合︑
親浮
︶
一生駒大内蔵扶持せる医師阿部春庵と云る者植薬稲製薬焔硝製
︹ 陪
︶
等之事願なりとて大内蔵より孫願出されける是迄か
4る倍臣
‑114‑
之願主人孫願二而
n f
受取例なし其旨公用人か申上ける時其儘 預り可持出旨被仰1 2 ゥ
御意被成外は其筋ハ追へども其此へた る業を空しく捨るは不惜してかなわず持出して可然と被仰
5
故生駒大内誠内邸に仕立出せし処程へて春庵へ焔硝製法之儀 御勘定所汐被仰付たり公の良オを不被為捨思召偏に難有奉存
a
以︵武呑小路代陰︑元文一︳ 一 年
栄︶
匹影卿の御針に 君か世に蒋出て埋れ木の 人の宝と成るもめでたき (9 )
︵秘
川家
躁︶
︵文政三年正月︶
一内府様御疱厖二而被為在外時奥向より中出たりとて
ォ1 3
御 家 人山本源三郎方か疱紺神の棚献上すれば御怪我無とて御側衆 より若狭守殿礼被達外処古来より御抱衛の時棚は御作ギ方ニ
而出
来坪先例なれとも抱痴棚ニッは禁物なる故甚以六ヶ敷炸
︵洒井若狭守忠巡︑小阻浩主︶
州当惑被致たりとて公へ御相談打公仰に先例の如くたらん廿 可然なり山本源三郎が家伝なれハとて修験にもあらす俗人の いたす処表向には成かたし左れとも老女共の左様の市中出た るハ六ヶ敷取扱にくきものに
5
間某後刻伺御機嫌西ノ丸へ出
5
節可然取計ひ可申と被仰夫より西丸へ御廻り二而
ゥ1 3
御 側 衆へ被仰恥は斯}の次第なるよし各被存兄通り万事御先例通
ニ而相
済事故余事取用がたしされども是非共ホ被行度存切ハ ヽ表江沙汰有之間敷各
了簡
にて奥切勝手次第可被致旨老女共 ヘ可被相達呉こも表向には難相成と被仰ぃて何牢もなく済ぬ
公 徳 辮 附 浙 秘 録
(1 0
) 一山
王祭礼御用附祭御下金も少
と有之上年番三拾五ヶ年目に当 る事二而当年番日本栢通壱町目弐町目孝日物町万町右近辺井組 合京柄銀座町四町右近辺なれバ何れも打揃外
uと迎ひ格外之 美廊なる由
ォ評判専ら也其段1 4
︵忠
之
︑文政二年四月補︶
将軍家被間召御側衆汐町奉行梱原主計頭まて御内調被
仰
付ぃ
︵ マ ヽ
︶
︵ 天 慈 絨
︶
処評判之辿相迫も無之金閾純子錦揺子羅紗羅背板ひろうどの 切抜様
こ
の縫物測胡琥珀水晶の飾の衣裳等なり三拾五ヶ年の
︵イ
ニ
︑
候ナ
ツ︶
栢金几
八万弐千七百九十両余と相成恥由 御手元御用祭如斯大造たらん事老
中
の承坪ハん時如何可布之 間差留可然と
︵水
野忠
成︶
上意なりされども出位守存慈を承り外上二而
n r
取計旨ゥ1 4
林
︵若年寄︑忠英︶
肥後守を以被仰出主君御返答被仰兄成程大造成趣
二及承坪得
とも一掠往古ハ年
A︑の祭礼に町毎に附祭出し恥処党政二戌年 諸向御改政之節年︑︱町毎二附祭之儀令停止惣町方三十五
ニ
割一︱一拾五ヶ年ニ一度ッヽ年番相立可差出旨御法令被立恥
閻
三拾五ヶ年二漸一度之祭礼故可成丈美を尽し度存込
二而購金
相立柏金いたし些少二而も一二拾五ヶ年和金故大金二相成右を 以祭礼仕外水故自然町柄に寄美麗に可相成は必定繁昌之町家 福家の沢山なる場所勿諭之事と
印 ォ 奉存坪此度
ハ寂早衣裳も
出来上り神事ニーカミ在し処を差当急に可延引旨被仰出
5得は
第一下賤の者共の気を<ぢき折角いさきよき心を濁らしむる
︵まで︑元本ことく恐ラク盆
5)
時ハいかで神慰に叶ひ可申哉且又かくのことく美
u敷出来た
るを廃し新に飩に替んにハ禍︱二万両の入用蛸し惣方にては 国土の費叉多く相成5ハん其儘被差
l t e l t L
可然奉存る也若美麗実 に御禁し被遊咋思召に兄ハヽ来年より昔のことく何年町毎に
附祭被仰付5得
は一両年の内に美脱をすすむともいかで続き
可申と奉存坪と被仰けり
1 5 ゥ
夫故御沙汰なかりけるなり ( 11 )
︵忠 泥︶
二四丸御害院番酒井山
城守組御小納戸頼母牲子松平外記文政六
?g︺未四月廿
二日於殿中相番本多伊織沼間左京戸田彦之進を打果
︹間部源十
郎︺岡部五郎兵節帥
尾五郎三郎を手似を為久共身ハ自殺す然ル処 同組池田吉十郎取紐を以諾向
一様之古而を以中立几処公御用
︵洒井忠進︑小浜藩主︶︵俊知︑生
代
滞主
︶
番西丸御用番若狭守殿同所若年寄森川内賠花殿より被申立方
︵イニ之︑宮ナツ︶主君二 其難心得思召汎由外記有所存而及自殺孔上は取繕内済 杯承器かた<士逆相立可辿市と存ぃ故厳敷被辿御詮厳坪様ニ
と
ォ1 6
被 仰 出 けり依之即死之儀且傷疵委細に取調其上衣類所
持之品Aヽ
迄明細害認メ出ぃを若狭守殿被受取主弗西丸御廻り 之時に被申兄二は右之辿諸取樅
5へ共乱半紺絞り木綿と有之
ハ殿
中
へ可酒衣類に無之ぃ間認替
n i n j
然旨御目付へ申付協孔旨
若狭守殿被申
外を主君被仰けるハ先第一御番衆衣頬所持之品
大小之桁迄詔出5心得違
l l f 成道路行閲れ同様之取扱也士は士
︹かる]
の様に可取扱也且殿中絞り木綿の脳半釈たりとも苫ヶ問敷小
︵宮︑
之ナ
ツ︶
禄のものなれバ左様
l l f
有之と被仰て円付其儘に
ゥ納りぬ是1 6
にて以来無心
磁絞り紐半殿中芹用なるとて御目付衆を始め一
同二公の格言を難有奉存旨森偶右衛門殿物語りなり
(1 2
) 一本所中之郷深森橋際御下屋敷御拝領以後は御普諮万端念入被 仰付一ヶ月の内一両度ッヽ御入有之処途中にて御小人眺のも の何やらん御道具なりとて御徒の先へ突かけ来りけれとも兼
而穏使を好ませらる4
事故に争ふ色なくかたよりて通り過せ し処御跡供の方二而横に御箱の先を割通りける時手廻り
オ1 7
中問の頬口P
悪き奴つなりと隈り過したり公にハ駕寵の内に
︵か
ほ︶
︹し︺
聞召れ知らぬ兒て在せしか翌日登 城の上にて御目付衆被呼斯
lょの次第なりいかに御道具なれば
とて大名の供先へ割込往来のさまたけ致す段不埓なり大切の 御道具ならバ成丈人の通らぬ方へよりゆくべきホ也まして老
中の通行へか4
る事ハ不届至極也右様成ものを捨四かバ天下
の御威光にか4
わるへし吟味可述兎角老中へさへ失礼なす上 ハ諸侯ヘハいかなる乱妨せんも難計と被仰聞御目付衆一統一
言の
1 7 ゥ
中上様も無御座何分申付方不行屈以後念入可申付間
御宥免可被下旨再一二願ふて事済ぬ
( 13 )
︵ 岱I I
齊順︑和歌山滞主︶一紀伊宰相殿は当
︵ 邸 川 家 所
︶
︵ 邸 川 治 利
︶
将軍家之御愛子二而在らせけるが油水御舘より紀州へ御設子
︵文化十三年六月仰付︑十一月移邸︶
ニ被為入孔故にや御家臣迄悉く御威光を振ひて猛虎の如くな
︵翌
貧
︑邸知猫主︶
りある時高綸辺御延気之途中芝四国町松平土佐守辻番所
二而
番人先格二而下座敷二而下座せんとする程に黒羽織形たる
走
の者再一二土下座せよと中処先格の由述けれバ無理に引おろし
‑116‑
打挑
ォ1 8 し
て赤に染ども先格の由に申述紀州御供之役人衆及
掛合とも不済終に表向となりぬ土州よりハ先格と偏に足軽心
得るは是迄之仕来二御座砂得共以後は御差図通り如何様二而
も可仕旨申出紀州よりハ御三家方御家老衆相談之上三家へ闘
孔事故とて班頭殊に格別御懇慈故に成瀬隼人正引諮逐一公に︵せし︶
︵お よそ
︶
物語して以後土下座令めんと計ける時公是に御答は几敬と申
ハ人より敬するにあらすや人の眼を無妹に地に押付て此方を
敬ふと申にや彼辻番の足軽虫魚同様のものなれば榜ひ丸で
1 8
ゥ下座なさすとも三家の威光の落るとも思はれず諸侯とても︵
辞低
︶
下座を無理にさせんとて馬怨寵より引落して時宜なさしむる
とも夫にて天下は蔚し御威光重しと中二もあらす打襴なそす
る事ハ卑夫下郎の所業にて
将軍家の御子係の御行列などにハ有とも聞へぬ事二外はずや
︵ 況︶
増て先格なりとて下座敷二平伏するものを引下して疵付るは
乱気の沙汰と存也天下の御恥辱と存るなり且国持衆ハ古来ハ
御取扱も格別にて
ォ参勤之時1 9
将軍家品川迄も御出迎被遊5程に御町靡なり其頃は
︵徳 川家 版︶
神祖御治世後将軍家平常今の諸侯の如く且て走の者も無く
御通行ありし故諸侯道路に行合几と馬駕籠より飛下りて崇敬
す其硼杯常の人ハ一向描ひなく通り過たりと承りぬ如斯なる
こそ尊敬と申もの也各方には能fふ御弁なれども此度か4
る 一
件の尻持三家の家老相談して出利守にも供Aこに恥隊の
ゥ1 9
御 公 徳 辮 附 藩 秘 録
仲間入は御免被成よ夫共宰相殿之思召二て孔ハヽ御異見申上
︵ イ
︑
へし
︶
兄様可致と被仰匹にて隼人正恐入5御闇流し被下外と被中咋
得は公にハ日永の御慰不用の長咄なと御笑ひ被成相済而隼人
正殿御退散之節一言もなき仰なりと御咄二而相伺ひ咋なり
( 14
)
︵ イ
︑なし︑宮一文政七甲
I
春南絞弐朱判目方七分を減じて正味弐匁となり是なり ︶
遠国通路に貫目減諸国へ通用のためなり叉霊岸嶋蝦夷地会所
の跡へ町方御救囲籾倉被建以後此処より御救米度Aぷ被下有之
是迄柳原御救籾は
町年寄之袋附会所なり霊岸嶋は布名の2 0 ォ
御救蔵也是公の御仁計なり
( 15 )
一同年五月後藤一︱︱右衛門依願壱朱金を作らしむ十六を以小判壱
両に換ふ此壱朱の事前ミ¢願ふもの有けれとも公仰に以前弐
朱判無時品日壱真文を以金壱歩に換たるを弐朱判始りて壱分
之銭換ふ者少くなりて自然銭相場下直になりて弐朱に(八百
五拾文両替屋へ諮取二は九百文程二成ける故に銭にて商ふ者
ハ皆直段を増しぬされとも其日稼するもの難低に及ふ叉壱朱
の
金を作らば如此ならん則神社仏閣在銭投米烏目百銅米2 0 ゥ
壱升なそと定たらんもの是迄几拾六間二而壱分の銭とならん
もの米壱升百文にかへたるとて五合の米は壱人の扶持たれバ
いかにも雌俄たらん非人や乞食の千人に貰たるは壱其文昔金
壱分の米也今千七百人に貰ひたる金壱分の米を買也如斯にて
壱朱の銭またハ八百文にもいたらば終に壱分の米は買得まじ
さればとて銭に応して米の直段を下落する時ハ定石の武士此
‑117‑
︵イ︑聞ァ
上の
困窮とならん此利を考出され
よと服部専蔵殿へ被仰2 1 ォ
︵宮
︑ナ
ツ︶
ける由正田周平殿御咄なりしが此節いかに中出けるや壱朱の
新金出来せりされとも銭相場同様也能A︑利潤下情を御辮御念
の被為入恥事乍恐実に感心仕外也(
)︵1 6
郎 延
︑ 邸 崎 器 主
︶
︵ 自 文 化 十 二 年 四 月
︶
︵ 文 政 四
︶
一松平右京大夫殿は大坂御城代八ヶ年被勤去已年為伺御機殷出
︵ イ
︑
罷 ︶
府再大坂へ可被相越之処御暇後病気被
I
立引簡被在之御役御免被願外は恐多5得共何分防手向不如意二被為在几故御願は
不被成御当惑のあまりに公に御頼被成5は如何様二も禎仰度
︵宮
︑依
而︶
と内願なり依之
2 1 御用召二而御役御免雁之間席被仰付詰ゥ
1 1
︵宮
︑二
付︶
御免
御礼登城之節は溜詰次席江可罷出との柑二而今度御用
召之時御側御用人可被仰付と同家の臣下一統思ひ詰たる処如
此
二而
は残念なり且当時御老中不残若手盛年之人A︑なれハ近
︵ イ
︑
し ︶
きに可被仰付便なく其内二は遠国之方P和年に可及とて楽ミ
︵ イ
︑とナツ︑宮i﹂
)
︵ 上 井 利 肛
︑ 古 河 浙 主
︶
︵ 文 政
少ナキ事どもと心折とて見へける処其引込中大炊頭殿卒去ニ
五年七月七
E l)
︵ 乗 窃
︑ 西 尾 陥 主
︶
︵
I r l
敦︑村上而所司代より松平和泉守殿加判之列其跡江若年寄¢内憐紀伊
︵康
任︑
松平
滞主
︶
守所司代被相越其以前右京太夫殿跡へ寺社四ォ奉行より
沢 田 藩 主
︶
︵ イ
` も ナ ッ 品
︶
︵ 正 精
︑ 雨 山 藩 主
︶
周防守大坂御城代被仰付然ルに不計も阿部備中守殿病気二付
文政六未年退役願之通被仰付けれバ人Aヽ噂して中閻は周防守︵イ︑宮︑問︶には紀伊守より先に蒙仰坪か紀伊守は若年寄より所司代に被
成5間今度も老職には何れ両家の内何れか老中たらん石京大
︹努
︺
夫は御城代被願未間もなき廿なれバ辿も此度は少Aこ
なき
←
Fと 風説専ら成に右京大夫在所江奉害到来早速出府
二而
老中職被
蒙仰ける故御側近く勤むる人M公に此事を御物語
申右京2 2 ゥ
殿之老中人Aj奇異の思ひをせしと言上しけれ︐︵されバとよ同
列衆二も一統左様被存たる故其事尤なるかと篤と考見たるに
右京殿は寺社奉行も永Aょの勤めにて再御城代も八ヶ年無滞勤
られ勤仕の為に家を貧し困窮の為に今の有様多年の勤功是か
為に失ふも残念且は不忠にも当ら
んか
と心迷ひて御役願も如
何かと被思5様子見へ渡り予が寺社奉行勤めける時箪頭の人
なれは見るに忍ひず内願之趣を以上より御免とハなり
ォ2 3
た
︵ イ
︑
て ︶
り左れバ実に無拠訳に立将又父祖の勤め乃程も策りて今の所
司代御城代に比て見れバ外のオ智の人Mよりも右京殿の愚な
る志しの方尤も勝れたり其上今の老中は皆右京殿より跡に寺
社奉行になられたる人Aこなれバ随分持合せて勤むるならば御
︹倣
︺
用の御問の欠る事も有間敷と一同へ評談しけれバ尤至極と同
心ありて此度御役蒙給ける世上の人は迷ふも尤也同列衆さへ
如此なると被仰けり
2 3 ウ
一将軍家御代稀成永A扁御治世西丸様二茂御年頃に茂被為在九 ( 17 )
ニ付而は左大臣御転任西丸様二茂右大臣御任愧被仰進度
︵ 藤 原 忠 良
︶
︵ イ
︑ 候 趣 ナ ツ
︶
︵ イ
︑
京都
︶
勅淀之旨関白殿被命ぃ趣右は御内存之趣き近来京表江格別之
御深切二被為在い御挨拶之思召たる故に御辞退等無之様との
︵ 土 井 利 財
︶
︵ 他
趣所司代より中来大炊頭殿御用番中なれバ無事達
御 聴 公
川 家 角
︶
︹ 合
︺
方様二茂恭思召5得共不一通御勝手向御不都向之時節如何あ
‑118 ‑
らんと御用御取次林肥後守を以
ォ御尋肖之処公の御答に御2 4 勝手元御入用之像は聯御遠慮被遊孔汲無御座几間速Ic御返答 被遊叶然誠前代未聞の御栄化と中者二而
︵稔 川家 康︶
神祖其外御霊屋様方之御歓此上も無き芥二而御叱外誠に御孝 徳の低恐悦奉存几と被仰上ける切而御敬承之段京邪江被仰
(r以利︶
上たり是御側衆水野石見守殿御物語にて承り
5
段咄有之扱又 弥表立被仰越5二付掛
9土井大炊頭殷
q
仰付之旨御内達布之 処大炊頭殿被及老年殊二病後ゥ几岱御名代等御免御勝手掛2 4 被願孔程の
故外へ被仰付外様二との内願之趣被巾出其段奉J f 御聴孔処公御勝手掛り故に可被仰付哉と御内意有之公御辞退 ニは無御座切へ共大炊頭当時老中箪頭にて然も老年之事且又 先祖利勝之勤功被思召此度之御大礼は是非共大炊頭江勤汎様 被仰出凡ハハ一同に難有
n r
奉存5同人掛り被仰付几辿茂同列 一統井若年寄中奥御右咽等も有之
5間随分勁り可中と被仰
上
5
処其節
2 5 オ
︵よ
しみ
︶
公方様二は出材は先祖の勤功好二而古を思ひ老人を立るぞ と 御 機 嫌 能 大 炊 頭 殿 へ 被 仰 付
5
旨尚又被仰出たりかくて御
︵文 政五 年一
︱一
月削
日︶
転任御任愧も程能相済御満悦不斜一統拝領物被仰付5時出 利守二は格別之骨折とて別段御手自三所物西丸か御印籠御 拝領被成孔大炊頭殿二は二十年来相勤其上此度御大礼も被勤 たるに依而一万石の御加増被下右以前御側衆を以近米御加増
︵武 彫︶
のれなく松平右近将監七千石御加増之例之如く御時節柄故
2 5 公 徳 辮 附 藩 秘 録
ゥ右同様二而可然と被仰咋処主君の仰に老中勤功一万石以 上の御定之通り
n f
被下方と奉存兄と被仰上けるとなり‑ 13 )
︵文政五年九月十五日︶
一松平右近将監雁之間席被仰付有之処今般壺子之依被仰出 外二付帝鑑之問席被仰付供連等も追
A︑に結描に相成葵の御 紋も被下坪故に雖有被奉存偏に公の御執成なりと御逢之時段
M
の御礼被仰ける公仰に幸の御時節御仕合之段全く
2 6 オ
︵非点川家宜︶
文 照 院 様 の 御 蔭 と 被 仰 げ る 右 近 将 監 被 仰
5二
は 仰 之 通 りに御座兄得共是迄前席にて済来兄央
M御
執 成 故 と 被 仰 公 幸ひに私当時老中相勤め先代出利守家再興に及ひ席も雁之
間
ニ可相成処帝鑑之問席旧復仕外は皆その御先代右近賠監殿御 執成之旨出利守追宮に御座兄得は共御恩を報ひ申さ
んと存た
るより格別心掛ぃ故此度の事は皆御先代右近殿江之御報恩と 巾迄の事にて御座咋と被仰けり
2 6 ウ
( 1 9 )
︵松平莱保︑岩村溜主︶
一能登守殿西丸老中年来に及ひ
5得共勝手向不如意
二而拝借金
井他借財莫太に
して
困窮至極に被及孔二付何卒村替
二而も被
願度との事数度被及御内談孔依而拝借願村替願等之内被害 出借財訳書被為見
5様被仰几て被出御調中度
被及御催促孔A ] 時公仰に一肱私西丸御側御用人相勤5節御自分二は
御多病ニ
而御名代上使等之節度々御本丸より助勤有之汎二付先例も有 之義二付御側御用人
i
助勤いたしぃハハ可然と
ォ伊豆守殿2 7
か度
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被及御掛合5
得ども御占出も不被成其外種
A︑
の事
共
万
端奸曲の御取計も被成ぃ市故快も不存罷在兄
二付御自分之義
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