工芸の美について――アレントと使用対象物

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工芸の美について ―― アレントと使用対象物

  丸  田    健

 要   旨

   人間世界における人工物の意味を考えるため、本稿ではアレントの﹁仕事﹂概念の領域を、美的角度から探索する。

  アレントによれば、工作人による仕事は世界に耐久性を与えるもので、その工作物には⒜使用対象物と⒝美術作品の二種類がある。だがこの二種類は、﹁有用性

これを短く検討して本稿の結びとする。 兼使用対象物は、どのような意味で世界また人間の耐久性に貢献するか、 とりわけ民芸という工芸分野で強調された。民衆的工芸品のような美的 芸論との接点を考える。日常の使用対象物にも美が宿るという考えは、 も確認されるだろう。アレントの見解に一定の見通しを与えた後は、工 の美にも当てはまろう。加えて、美的判断における実例の規範的重要性 拠は結局、共同体的な共通感覚に行き着くが、この洞察は、使用対象物 まず芸術作品についてのアレントの諸見解を整理する。美的なものの根 用対象物にも宿りうるからだ。使用対象物の美に言及する準備として、 vs美﹂の対比によって峻別することはできない。美は使

︻キーワード︼使用対象物︵道具︶、芸術作品、世界の耐久性、民芸、共通感覚 一  はじめに

  いま我々人間は、果たしてどれくらいホモ・ファベルhomo faberなのだろう。多様な道具を自ら作り使用する能力は、とき

に人間の定義的特徴とも考えられてきた。しかしながら、機械生

産された工業製品︵とりわけ自動機械︶に囲まれて生きる現代、

﹁ホモ・ファベル﹂﹁道具をつくる動物﹂といったラベルは、我々

の多くには、直接当てはまるものではなくなっている。自らがホ

モ・ファベルでないだけでなく、ホモ・ファベルである別の人と、

生活の中で接する機会も少なくなっているだろう。

  本稿は人間が作る﹁物﹂をテーマにするが、以下ではハンナ・ アレント︵Arendt, Hannah, 一九〇六︲一九七五︶の思想を手掛か

りに考察を展開したいと思う。アレントは政治思想家であって、

﹁物の哲学者﹂ではないが、彼女は工作人という在り方、また工

作人が作る工作物について、独特のアプローチをしている。次の

2018年9月3日受理 *文学部国文学科准教授

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文章は、主著﹃人間の条件﹄からの断片である。   [⋮⋮]人間の工作物は、死すべき生命の空しさと人間的時間

のはかない性格に[、]一定の永続性と耐久性を与える 00000000000︵HC8 二一、傍点追加︶。

  [being at home ⋮⋮]そのような物に取り囲まれた安らぎがな 000

ければ、この生命もけっして人間的ではないであろう︵HC135 一九七、傍点追加︶。

  これらの指摘――工作物は我々の生に、耐久性そして安らぎを与え

る、という指摘――は、生活における物の役割についての、一見風

変りな捉え方に思われる。というのも人工物とは基本的には道具で

あって、道具の本質はその特定の機能だと考えるのが普通かもしれな

いが、右の引用では、そういった道具が、個々の機能を越えた次元で、

何らかの、より大きな働きをも持つかに捉えられているからだ。アレ

ントは、人間にとって道具とは何である、と考えるのだろうか。﹃人

間の条件﹄を核に、彼女から関連する指摘や見解を削り出し、粗筋を

組み立てながら一つの解釈を試みることが、本稿の主な課題となる。

  ところで日用の使用対象物を考えるとき、気掛かりになるものがある。

それは、工芸的と言われる日用道具である。代表的なのは、民芸運動が

取り上げる類いの道具である。二十世紀初頭、柳宗悦︵一八八九︲ 一九六一︶は、庶民がそれまで用いていた諸々の日常雑器に、当時は格

別意識されていなかったという美しさを見出し、それらの品々を﹁民衆

的工芸品﹂と呼んだのだった。それらは、﹁﹁手廻りのもの﹂とか﹁不断

遣い﹂とか、﹁勝手道具﹂とか呼ばれるもの[で、]台所に置かれ居間に

散らばる諸道具である︵柳一九八四、八一︶﹂ものだが、同時に美しく

もあるのだという。本稿では、ホモ・ファベルが作った、柳が取り上げ

るような美的な日常道具について、それがアレントの道具見解とどう関

係しうるかも考えたいと思う。

二  工作物の耐久性――使用対象物と芸術作品   アレント思想の基本に、人間の活動力activities の三分類がある。

つまり人間の表立った営みが、①﹁労働labor ﹂、②﹁仕事work ﹂、③﹁活 動action ﹂に分けて論じられるのである。第一の活動力である労働と

は、動物としての人間が、自然の必然性に従いながら、生命維持のた

めに行う営みである。生命維持の基本は、まずは日々を生き延びるた

めの食糧獲得の努力だ。アレントは、生命の剥き出しの必要のために

行われる労働の厳しさ・困難の側面を強調し、この営みに従事する人

間を、﹁労働する動物animal laborans﹂と象徴的に呼ぶ。他方、第三

の活動力である活動は、必然・必要に拘束された労働と異なり、人間

がその自由の能力を発揮するものだ。この活動力は、人間同士のつな

がり――そしてそれが構成する人間的リアリティ――の中で、各人が

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互いに言葉を語りつつ、その人のしるしとなる何か新しいことを世界

にもたらして生きる営みである。そして順序が逆になったが、第二の

活動力である仕事とは、これら労働と活動をつなぐもので、自然的世

界の中に、元来なかった道具を生み出す営みである。工作人の作る道

具は、労働を含め人間生活の様々な局面を安楽にするが、道具は全体

として、人工物に囲まれ守られた人間の生活世界を用意する。アレン

トは、自然界でなく、人間が築き上げるそのような人工的世界を、﹁世

界﹂と呼ぶ︵HC52  七八︶。人間がつながり、自由に語り、行為する

ことは、そのような人間世界の土台に支えられて可能になるのである。

  人工物は概ね、自然物の自然的変化のサイクルから一定の距離を 持って存在するもので、大小の耐久性durablitiyを有する。人工物に

ついて、アレントが最も重視するのは、この耐久性――あるいは永続

性・安定性・固さ――である

。個々の道具の耐久性からは、世界の安 1

定性が全体として現れるが、人工物についてアレントがとりわけ強調

するのは、この人間世界の総合的な耐久性である。

  道具・世界の耐久性が重要なのは、人間が動物とは異なる生き方を

するからである。動物の生命は個体保存、また種族保存を目指すもの

で、自然法則や本能に支配されつつ、繰り返されるパターンの中で続

いている。人間の生にも当然同じ側面はあるが、しかし人間の生は、

ひたすら続く循環の中だけで理解されるべきものではない。人間の場

合、各人の独自の生き方、ユニークな個人としての生命がある。個人 の生命は、その誕生を起点に一つの軌跡を描いて進んでいくが、その

展開の仕方は自然的法則によって固定されておらず、無限の多様性の

可能性がある。個性を生む、人間の生命のこの自由の側面がむしろ、

我々人間の重要関心事である。

  押し寄せる自然への対応に翻弄されるだけで終わるのでなく、人間

の生が十分自由に展開できるには、安定的舞台としての人間世界が必

要である。容易に壊れたり流れ去ったりしない、固くて丈夫で信頼で

きる物質的基盤があってこそ、人はそこに足場を持つことができ、ま

たそこに何らかの足跡を残しうる。人は﹁死すべきもの﹂であり、そ

の生命は儚いが、その個々の生を、安定性によって支え、展開させる

のが、工作人が準備する世界である。アレントが言うに、﹁この世界

そのものはそれら個々の生命を越えて永続するようにできている

︵HC7  二〇︶。﹂工作人の仕事は人間に、そのような﹁信頼できる住 家︵HC167  二六三︶﹂を与える。

道具が安定していることは、それを使う人間の精神も安定させるだろ

う。

  [⋮⋮]人間は、同じ椅子、同じテーブルに結びつけられており、

それによって、その人間の同一性、すなわち、そのアイデンティ

ティを取り戻すことができるのである︵HC137  二二五︶。

  物の安定性は、リアリティの感覚の不可欠の基盤を、個々人に与

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える

。そして生活の根本場面を同じ道具に依存することで――つまり 2

生活という五感が動員される基礎的営みの中で、同じものを見て同じ

ものに触れることの反作用として――人間自身が同じ気持ちでいら

れ、その人間側の安定性によっても、活動への自由が保証されること

と思われる。

  ただし人間の工作物は、それがただ人工物であるという理由だけで、

自動的に耐久力を得るわけではない。弱い素材、いい加減な技術で作

られた工作物なら、耐久性は期待できない。適切な手入れや保管を怠っ

た工作物も、傷みが早いだろう。ならば物にじっさい耐久性がある場

合、それはいかにして耐久的になるのだろうか。それは、その物には

大事にすべき価値や意義があるからで、その価値がその物を耐久性に

優れたものに仕立てるからだろう。道具の場合、その価値は何かと言

えば、それは実用的な有用性utility にほかならない。日常生活では同

じ目的が日々達成されねばならないが、そのためには同じ道具が繰り

返し、確実に使えることが理に適っている。求められるのは有用なも

のの耐久性だ。そのために素材や製法が吟味され、扱いにも注意が払

われる。つまり道具は、そのような人間の関心によって、相対的に強

い耐久性を得るのである

。そしてそれが世界の、また人間の安定性に 3

寄与するのである。

  工作人の作物について述べてきた。しかし、人間の工作物としてア

レントの視野にあったのは、実用的道具だけではない。道具同様に耐 久性があるものの、道具とは別のカテゴリーを成す人工物がある。そ

れはすなわち芸術作品works of art である――と彼女は指摘する。こ

の区別に対応し、人間の工作物には、それらの良し悪しを測る二つの

判断の基準があることになる。それらは⒜有用性と⒝美であり

、有用 4

かどうかの尺度で測られるのが道具とすれば、美的かどうかの尺度で

測られるのが芸術作品である。

  注意したいのは、アレントは芸術作品には道具に匹敵する 0000耐久性が

あると言うのではない、という点だ。それどころか彼女は、作品の耐

久性は道具の耐久性を凌駕するもので、作品は道具以上に世界に堅牢

さを与えるとする

5

  芸術作品は、その優れた永続性のゆえに、すべての触知できる 物の中で最も際立って世界的 000000000である︵HC167  二六四、強調追加

︶。 6

  芸術作品の世界性――つまり作品による世界の耐久性への貢献――

が道具よりも大きいという指摘には、意表を突かれる。一体どういう

ことなのか。

  無論、芸術作品の方が物理的に頑丈 00である、ということではない。

そうでなく、それは道具の場合、よい道具として活躍するほど、大切

に扱っていても終には寿命を迎えるのに対し、芸術作品の方は、使用

による損傷・消耗がない、ということである。さらにそのことに加え、

使用せずとも物を襲う経年劣化の過程からも、芸術作品は積極的に保

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護されるため、それは優れたものほど、道具には望めない長命を得る。

数百年前の生活道具がいまも現役であることは稀だが、芸術作品なら、

さらに古いものが︵道具にはない脆さのものでさえ︶多く作品として

生きている。そしてなぜそのような耐久性が結果できるのかと言えば、

芸術作品の場合は、その美的価値のため 0000000である。作品であることを目

指す芸術家は、劣化が速い素材を極力避ける。また作品として評価を

得たものはその作品的力に比例して、人々を、保護の欲求や義務へ駆

り立てる。そうしたこと故に作品は守られる。世界の中に、道具とは

違う価値によって高度な耐久性を与えられた芸術作品があることは、

有用性とは異なる仕方で人間の安定的拠り所になるものがあるという

ことである。

三  芸術作品と共通感覚   アレントは以上のように、使用対象物である道具と芸術作品を対比

的に描いている。そして一方は有用性・機能性という基準で評価され、

他方は美という基準で評価されるとしたのだった。

  しかし、この評価の二分法は、道具と芸術を完全に棲み分けさせる

ものではない。一般的に美は、所謂芸術作品に専有されるものでない

からだ。アレント自身、美しいかどうかの判断は、道具にも当てはまっ

てしまうのだと明言している。次の引用を見よう。   もちろん、普通の使用対象物は美のために作られたものではな

いし、美のためにつくられるべきものでもない。にもかかわらず、 00000000

ともかく形をもち、見られる物はすべて、美しいか、醜いか、そ 00000000000000000000000000000

の中間であるか 0000000、このいずれかにならざるをえない︵HC172-3 二七一、傍点追加︶。

  道具は美のために作られるもの――つまり芸術作品――でないにも

拘わらず、それは美しいかどうかという視線から逃れられないのだと

言う。この指摘は、結局どのような道具理解に結び付くのだろうか。

芸術作品をめぐってアレントが展開する考えを、もう少し追うことに

したい。

  アレントは例えば、次のようなことを言う――﹁芸術作品は、偉業

や達成を称賛し、ある異常な出来事を変形し、圧縮して、その出来事

の完全な意味を伝える︵HC187  三〇三︶﹂のだ、と。偉業や達成とは、

アレントの三分類では﹁活動﹂に数えられる行いだが、個々の活動の

中で、特に卓越したものが偉業と呼ばれることになる。それは﹁美し

い功績︵HC13  二六︶﹂として輝くものだが、それらを芸術作品に昇華 して表現する場合、それは行いの再 現となろう。そのような芸術的永 遠化の例としてアレントが仄めかすのは、叙事詩﹃イリアス﹄である︵cf. HC197  三一八︶。そこでは古代人の英雄的行為が、神々の介入を交え

て神話的に再現されている。他方アレントは、偉業の再現として相応

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しい芸術形式は、ただ演 劇だけであるとも述べている︵HC187 三〇三︶。――しかし再現に最適な芸術形態がなんであれ、すべての芸

術作品が行為の再現だと言うわけにはいかないだろう。例えば音楽や

建築の場合、それはふつう何かの再現でなく、その作品性は、構成要

素の時間的・空間的関係や配置で作られ、その調和的統一として我々

に提示されるように思われる。芸術は多様であり、その分野には、音楽、

詩、散文、演劇、絵画、彫刻、建築など様々なものがある。作品につ

いて一般的なことを語るのは容易でない。

  アレントの、次の言葉はどうか――﹁芸術作品の直接の源泉は、人 間の思考能力である︵HC168  二六五︶﹂、﹁芸術作品は思考物thought thing である︵HC168-9  二六五︶﹂。作品は、何の思惑もなしに生み出

されるものではないから、この洞察は芸術作品一般に、大いに当ては

まるだろう

。作品を作るには、芸術の意味や、人間が世界に在ること 7

の意味を問うなどする中で、制作の衝動や動機を持ち、構想を立て、

何を表現すべきか熟慮する――といったことが必要だろう。これらは

皆、思考活動である。思考とは人間の考える力であり、それゆえ人間

を特徴づける重要な能力だが、個々の思考は内面に隠れたまま、目に

見える活動力として外に表されないことも多い。それゆえ﹃人間の条

件﹄では、思考は主題的には扱われなかった。だが、それは第四の活

動力とも言いうるものである

。その一つの特徴は自律性だろう。アレ 8

ントによれば、思考は﹁その外部に目的end もなければ目標aim もも

たない。結果を生み出すことさえない︵HC170  二六八︶﹂活動力で ある。確かに人間は大抵、外部世界で実現されるべき何らかの目的や

結果のために﹁考える﹂。だがそのような思考は、アレントが意味す

る思考とは違う。アレントが後に用いる言い回しによれば、思考とは

――世界に現れる可能性を孕みながら――現象世界から﹁退きこもる 00000withdraw ﹂ことで自己目的的に営まれる精神活動の一種である︵LMpassim︶。思考とは、人間が﹁意味 00meaning を求める欲求﹂に促され

る活動であり、現象世界における真偽や知識を見出す認識からも、合

理的・機械的な推論からも区別される。﹁意味という答えようのない

問いを立てることによって、人間は自分を、問い続ける存在︵LM62

  七三︵上巻︶︶﹂にするのであり、そこで見られるのが思考である。

それゆえ、たとえ外部に目的や結果を伴わなくとも、思考はその内的

な一体性――自分自身との一貫した対話――によって自律的に成り立

つ。そして思考にある意味への欲求なくしては、結局芸術も文明も

ないだろうとされる。

  芸術作品の源泉はそのような思考である。しかし純粋な思考に留ま

るだけでは、作品はまだ生まれない。さらに二つの段階が必要である。

  ①︻作品への物化︼作品を作るには次の段階として、思考という霊 感に、触知できる形を与えること――物化reification ――の作業が必 要になる

。制作によって、芸術家のアイデアは感覚的対象に託され、 9

結果、新たな種類の物体が世界に現れることになる。新たな種類の物

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体というのは、芸術家による制作とは素材をただ物理的に変形させる

ことでなく、それをいわば質的に新しい何か――つまり作品としての

精神性・内面性を帯びた物――に変えることだからである。アレント

はこの質的変形を、変貌transfigurationないし変身metamorphosisと呼 ぶ︵HC168  二六五︶。

  ②︻物化されたものの賦活︼さらに正確に言えば、この変身は、芸

術家による制作行為によって完成するわけではない。制作は制作者の

生きた思考から有形の物体を生み出すが、作品はただ形を得るだけで

は、まだ半分、物でしかない︵そして物は死んでいる︶。何がさらに

必要かと言えば、制作者以外の誰かによって作品が出会われること、

である。アレントは文芸作品を例に、こう述べる。﹁[⋮⋮]﹁生きた

精神﹂を死の状態から救いだすことができるのは、死んだ文字が、そ

れを進んで蘇らせようとする一つの生命とふたたび接触するときだけ

である︵HC169  二六六︶。﹂観賞者が作品と出会い、作品としての意

味や存在を彼がそれに感じることで、物化されたものは息を吹き込ま

れ、﹁真実の変身﹂を完成させる。観賞者のまなざしとの関係も、作

品の生命に欠かせないのである。

  観賞者が対象を芸術作品として感じ、それに接するとき、そこには

美的判断が伴われている。作品に最終的に息を吹き込むのは、作品へ

のこの反応だと思われる。美的判断――たとえば﹁これは美的に優れ

ている﹂といった判定――についての言及は﹃人間の条件﹄ではまだ 明示的に見当たらず、後年の講義で︵政治思想との関連で︶テーマ化

されるようになった。その記録を参照することにしよう

。アレントは、 10

美的判断についての考えを、カントの﹃判断力批判﹄に負っている。

重要なのは次の二点である。

   ①美的判断は、主観的普遍性を持つ。    ②美的判断の主観的普遍性は、共通感覚に基づく。   美あるいは美的なものとは、何か。答えは簡単には望むべくもない

が、少なくともそれは或る種の心地良さの性質だと言うことは許され

よう

。美的な性質は、一方で、物理的性質のように客観的ないし実証 11

的に検出・測定できるものでない。客観的でないという意味で、それ

は主観的な性質と言えるかもしれない。他方、美は見る人の個人的感

覚に過ぎないのかというと、そうでもない。或るものが﹁美しい﹂と

言うとき、私は自分でなく、私の眼前にある対象の性質を 000000語ろうとし

ているのであり、そうであるからには、その性質はきっと他人にも感

ぜられると思って、そう述べるのである。実際、例えば名作とされる

絵画や音楽について、その美的なよさが見えない/聞こえない人があ

れば、その無感覚は――別の理由がない限り――感ずべきものを感知

できない欠陥と見なされるだろう。だとすれば、そういった美的性質

は、一般性や普遍性の装いをしていることになる。

  主観的でありながら一種普遍的でもあるという、一見緊張をはらむ

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此の性質は、どのような性質なのか。美しさの判断に客観的・物質的

な根拠が示せないのだから、仮に我々の判断に同意しない人がいても、

その人に我々の判断︵の正しさ︶を強制して認めさせることはできな

い。我々は他の人も同じように判断するよう期待できるだけ 0000000であり、

また同意しない人には精々同意に誘ったり、説得を試みたりできるだ

けである

。しかし客観的でない性質なら、それを皆が同じに感覚する 12

ことを、どういう意味で期待さえ 0000できるのか。アレントはカントを念 頭に、それは共通感覚sensus communisとして期待できるのだ、と答

える。

  だれかが︿これは美しい﹀と判断したときには、たんにこれが

自分にとって快いという趣味の判断をしているのではありませ

ん。[⋮⋮]これが美しいと判断した人は、ほかの人々を考慮に 000000000

いれたうえで 000000、他者の同意を求めているのであり、自分の判断が

ある程度の一般的な︵普遍的なものではないかもしれませんが︶

妥当性をえられると期待しているのです︵RJ140  一六四、傍点

追加︶。

  右で言及されているのが共通感覚である。共通感覚の概念には幾つ かの系譜があるが、ここではそれは、他者の判断を反映しつつ 00000000000我々自

身の判断を下させる力を指している。人が互いを顧みることで、客観

性に頼れない場面でも、人はつなげられる。それゆえ共通感覚は、﹁人 間を他人とともに共同体のうちで生活できるようにする感覚︵RJ139 一六三︶﹂でもあるとされる

。他人が考慮されることで、判断が単なる 13

個人の主観的好みを越えた一般的・共有的――あるいは普遍的――な

ものになるのである。他者を考慮した美的判断が或る対象について下

されるなら、そこからさらに、美の新しい共通世界が展開することに

もなろう。

  だが、美的判断においては他者が考慮に入れられる、ということに

は疑問が湧く。我々はこの疑問を取り上げねばならない。というのも

何かを﹁美しい﹂と言うとき、我々はその度に、誰彼の観点を――現

実のでなく可能的判断であれ――実際に想像して判断している、とは

考えにくいからだ。そういった斟酌は時にはあっても、常ではない。

むしろ美しいものが我々を襲う多くの場合、それは純粋に美しいほど、

他者のことを︵また我をも︶忘れさせ、その美しさだけに我々の注意

を奪い、没頭させる。だとすれば美的判断において、他者が考慮され

るとはどういうことだろうか

。また美的判断が、単なる個人の好みの 14

表出と違うとは、どういう意味においてなのか。

  言語習得の場面を考えることは、疑問に答える一つの糸口を与えう

るのではあるまいか。一般的に、美しいものは好まれ、醜いものは嫌

われる。それゆえ︿好み﹀と︿美しさ﹀は、容易には切り離しがたい。

だがここで、一つの方法として、語の習得場面を想起することで、一

定の区別が可能だろう。⒜まず単なる好き/嫌い︵あるいは単なる快

/不快︶に関する言葉だが、それらは、刺激に対する各人各様であり

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うる主観的反応を手掛かりに、子供に教えられる。何かを喜んだり、 何かを積極的に選んだりするなら、その対象が何であれ 0000、その人は 0000

れが﹁好き﹂なのだ、というふうに﹁好き﹂の用法は教えられる。⒝

他方、美しさの場合、各人各様の反応だけを手掛かりに、その用法を

教えたりはしない。むしろ美しいものの例――たとえば夕暮れの一瞬

の空――を指し示し、それに対する快の反応を――例えば感動を――

︵それが子供によって既に表出されていないなら︶誘い共有しつつ、

その対象が﹁美しい﹂と呼ばれることを教える、というのが基本でな

いか。つまり﹁美﹂の学びでは、快の反応が、文化的に受容された何

らかの美の定型に結び付けられる

15

  文化の中には、美しいもの――自然、作品、行為など――の典型的

見本が豊富にある。それらの諸例は、そこに多くの人々の美的判断が

洗練されて沈殿しているもので、美の規範となるものである。我々が

そういった諸例を参照しつつ﹁美しい﹂の意味を学ぶなら、それは我々

が、様々な場面で人間の感性を彫琢してきた文化的歴史を、諸例を通

して各人なりに自分のものとし、背負うことを意味するだろう。だか

ら人がやがてそうやって受けた訓練の延長上で自ら美しさの新しい判

断をするとき、無数の他者の感覚が、自分の判断の中に暗黙のうちに

考慮され、反映されている。人は﹁美しい﹂という語を使うとき、自

分の単なる好みを表明しているのでないことを知らねばなるまい。こ

うして美的判断は、共同体の伝統――他者の感じ方――と関係しつつ、

下されるものとなる。結果、全員の美的判断がいつも一致を見るとは 限らなくても、ゆるやかな一致や収斂ならば、各所に見つかるだろう。

その意味でその種の判断は、︵同意への必然的な強制力がないという

意味で︶客観的とは言えないにも拘わらず、単なる主観的なものでも

なく、要するに或る種の普遍性

を備えた主観性ということで、間主観 16

的なものとなるのである。

  芸術作品についてこのような美的判断をするとき、観賞者は作品の

どこに﹁美しさ﹂を見出すのだろうか、作品の何が芸術的と思うのだ

ろうか。つまり我々は、⒜物化の結果である純粋な形態に美的価値を

見るのか、それとも⒝物化の背後にあって作品をインスパイアした思

考内容に美的価値を見るのか。――これらの問いには、ア・プリオリ

な答えは与え得ないだろうし、そもそも右の二つの選択肢は互いに排

除し合うものでもない。音楽作品は多くの場合、思考的内容そのもの

より、生み出された音の配列形態が重要かもしれない。散文芸術なら

多くの場合、背後にある思考的なものがより重要だろう。作品ジャン

ルあるいは個別作品によって、判断の仕方は異なる。作品をどう判断

すべきか、またどのような判断が優れているか、さらには誰の判断を

信頼すべきか、といったことは大部分、文化共同体で育まれる、ジャ

ンルごとの共通感覚と密接につながっていると考えられるだろう。

(10)

四  道具の美と規範――〈実例〉というもの   我々は、使用対象物の美に関するアレントの考えに関心を持ってい

た。そしてそれを知るために、芸術作品にまつわるアレントの見解や

その含みを追う作業を続けてきた。そろそろ道具のテーマに戻るとき

が来たようだ。道具の美に関する次の引用を見たい︵既に引用した箇

所と一部重なっている︶。

  [⋮⋮]ともかく形をもち、見られる物はすべて、美しいか、

醜いか、その中間であるか、このいずれかにならざるをえない。

[⋮⋮]ある点でその機能的効用を超越しない物はなく、その超越、

つまり、その美あるいは醜さは、公的に現れること、見られるこ

とと同じである。[⋮⋮]物の優秀性が判断される場合の標準は、

まるで醜いテーブルも美しいテーブルと同じ機能を果たすと言わ

んばかりに、単なる有益性だけ 00000000mere というのでなく 0000000、その物が 似て見えるlook like べきものに一致しているか一致していないか という標準である。︵HC172-3  二七一︲二七二、傍点追加︶。

  アレントは芸術家も工作人に含みはしたが

、工作人として第一義的 17

に考えられているのは、基本的にはやはり使用対象物の 000000製作者である。 そして彼女は、製作には基本的にモデルが伴うと考えた

。職人の道具 18 製作は、作られるべきもののモデルに倣って物を作る行為なのである。

それが道具であるからには、その優秀性は、もちろんその有用性・機

能性で判断される。しかし右の引用で注目すべきは、道具の優秀性は

有用性だけに見出されるのでない 000000000000000ことを示唆している点である。有用 性に加え、美しさを備えた道具 00000000が優れた道具であり、モデルとの一致・

不一致は、有用性だけでなく物の美しさや醜さにもなって、世界に現

れるのである。ということは、製作上のモデルは、美しさの点でもモ 00000000

デルになる 00000のである。   アレントは当初、﹁工作人の哲学そのものthe philosophy of homo faber par excellence ﹂は功利主義である︵HC154  二四五︶、と捉えて

いた。アレントが考える功利主義とは、目的を達成するのに最適な手

段を計算し選ぶことを主眼とする立場である

。使用対象物を製作す 19

る工作人は、手段目的的思考の中で、材料や製作道具を調達し、仕事

過程を組織し、目的の対象物を作る。製作物自身は、製作時には製作

の目的であったが、完成後は、別の目的達成に有用な手段へと転じ、

使用されるだろう。そしてその目的が達成されることで生じる次の目

的の達成のために、さらなる有用な手段が選ばれるだろう。この種の

連鎖は生命が続く限り終わらないため、我々は、功利主義的な有用性

の追求から逃れられない。しかしアレントは、工作人には芸術作品の

制作者という別様の在り方も存在することに気付くのだった。芸術家

は物を作る工作人ではあるが、有用性の追求者である功利主義者とは

違う。芸術家は、効用のために作品を作るのではない。作品は、実利

(11)

的目的への手段的用途をもつ使用対象物ではないからだ。美的なもの

は、生命過程の必要とは異なる次元に属するものである。芸術を必要

物に還元して説明する様々な目論見を、モダンの偏見だとして、アレ

ントは拒む︵BPF205  二八〇︲二八一︶。そのような議論の文脈では、

︿道具である使用対象物を作る人﹀と︿芸術作品である文化的対象物

を作る人﹀は、くっきりと対比されている。ところが結局、使用対象

物にも美が侵入するのであった。これが意味するのは、職人の在り方

には、単なる功利主義からはみ出る部分があるということである。そ

れゆえ有用性という道具の所謂﹁本質﹂からのみ道具を見ていては、

かえって道具︵そしてその制作者︶を捉え損ねる可能性がある。

  道具には目指すべき標準またはモデルがある、ということだった。

それはつまり規範のことだが、道具の規範とはどんなものと考えられ

るのだろうか。アレントは、製作の標準とは、﹁プラトンの用語を使

えば、エイドスとイデア︵HC173  二七二︶﹂と言えるものだとして いる。ここでアレントは、モデルとはプラトン的イデアである 000、と言っ

ているのでは決してない。アレントは、製作の標準をいろいろな形で

考えており、そのことは例えば次の言葉に現れている――﹁このモデ

ルは、場合によっては、精神の眼によって見られるイメージでもあろ

うし、また場合によってはイメージが仕事による物化をすでに実験的

に表現している青写真でもあろう︵HC140  二二九︲二三〇︶。﹂この

ように、道具製作の規範の在り方は、物化されたものであったりなかっ たりと、一通りではない。

  善悪にも規範がある。講義録によればアレントは、善悪の区別を問

題にする際、行為が善か悪かは、⒜慣習に従って簡単に認識できるこ

ともあれば、⒝判断が難しいものもある――ということに触れている

︵KPP76  一一七、RJ143  一六七︶。アレントは後者の場合について、

﹁実例は判断力の歩行練習器go-cart

﹂であるというカントの言葉を引 20

用しつつ、﹁実例example﹂というものが、難しい決定を助ける手掛

かりとして極めて重要であることを指摘する。つまり仮に何らかの一

般的な規則を参照して判断を下すことが困難であっても、代わりに具

体例さえ示されれば、判断対象がその実例から遠いか近いか 000000000000――似て

いるかいないか――を決めるのは、比較的容易なはずだ。そのことに

よって、関心対象を或る分類――ここでは善や悪――の下に包摂して

よいかどうかを見極めることができる。一般的で抽象的な原理に依拠

するのでなく、特殊で具体的なものに依拠して、判断が助けられるこ

とがある。

  判断における実例の役割を説明するため、道徳的対象を離れ、工作

物が引き合いに出される。工作物のアレントの具体例は、テーブルで

ある。或るテーブルをテーブルであると認めるとき、参照されうる判

断規範として、以下の三つが考えられている︵KPP77  一一八︲ 一一九、RJ144  一六八︶。

(12)

①﹁形相︵図式︶テーブルthe formal (schematic ︶ table ﹂――これは

プラトン的イデア、またはカント的図式のようなものとされる。

これは﹁精神の眼﹂にのみ与えうる規範で、すべての個別のテー

ブルが、それがテーブルであるために従うべき姿を示す。

②﹁抽象テーブルthe abstract table ﹂――これは、これまで観察され

た個々のテーブルから不要な性質を取り除き、すべてのテーブル

が持つべき最低限の性質を備えたものとして抽出されるものであ

る。

③﹁手本テーブルthe exemplary table ﹂――これは経験された多く

の具体的テーブルの中から、あるいは想像された具体的テーブル

の中から、特に望ましいものが、その具体的性質を備えたまま、

選ばれてくるものである。

  最後の実例は、他の①②の規範とはまったく異なるタイプの規範と

なろう。なぜなら実例は――個別性を欠く規範と違い――現実的な物

として、具体的ディテールを完備しているため、個性ある特殊性を持っ

た標準となるからだ。それは具体的な物だけが持つ、活き活きとした

質感を漂わせた標準である。手本テーブルにあるのは、たとえば天板

の木材のまっすぐで緻密な柾目や、あるいは神秘的に激しくうねる生

命的な杢などである。あるいは木目模様と天板の大きさの適切なバラ

ンス、あるいは縁づくりや面取り、脚の形状などの特定の仕上げであ

る。そのような手本テーブルは、抽象的な形では示しがたい美の標準 0000 として 000役に立つと思われる。そもそも、形相/図式テーブルや抽象テー

ブルが美の基準になりうるのか疑問である。というのも図式テーブル

とは、美しいテーブルにも醜いテーブルにも、共有されているもので

あった。醜いテーブルもテーブルなら、図式テーブル自体は美しいの

だろうか。また美醜に関係なく、全てのテーブルが持つべき最低限の

性質のみを残したものが抽象テーブルであった。美しくないテーブル

もテーブルなら、余分な性質を省いた抽象テーブルは美しいのだろう

か。――これらの非具象的な規範テーブルが少なくとも示すのはテー

ブルのミニマルな機能的本質だろうが、機能は、美しさとどう関わる

のだろうか

Beauty lies in the details 。﹁美は細部に宿る﹂ともいう。そ 21

の細部とは――形であれ、輪郭線であれ、ヴォリュームであれ、肌理

であれ、装飾であれ、色合いであれ――具体的細部である。偶然的で

付帯的な具体性の枝葉なくして、美はありうるのか。

  先に共通感覚の概念に触れ、︿美的判断において他者は実際どう反

映されるか﹀の問題を考えたとき、我々は手掛かりとして、﹁美しい﹂

の習得場面を想像したことを思い出そう。そこでは言葉を教えるため

に指示される、美しさの事例があることを見た

。この事例とは、まさ 22

に目下の道具の規範――手本テーブル――の議論にもつながるもので

ある。それぞれの文化において、美の典型的な手本として選ばれるも

のがあろうが、まさにそこに、共同体の感性が反映されている。つま

りあるものが見本として典型的に選ばれる事実の背景に、共同体の趣

味の伝達が潜むのである。そして見本が特殊であるからこそ、それは

(13)

他の仕方――図式や抽象――では示し難い﹁普遍的﹂な美を示すこと

ができる。つまり見本はその具体的細部に美を宿し、同時にそれは、

その具体性のために容易に理解されるため、広く共有可能になるから

である。このことは、どのような美であれ︵芸術美、自然美、道具美、

⋮⋮︶、みな同じだろう。道具のように数を作るものの場合、とりわ

け美の具体的な手本があることは大いに助けとなる。機能だけでなく

美的性質も合わせて考えるなら、道具の最適モデルは、﹁実例﹂とい

う具体的個物になりそうである。

五  民芸とアレントの接点――結びに代えて   民芸とアレントというのは、奇妙な取り合わせに見えるかもしれな

い。一方の思想に関心がある人々は、他方の思想に何の関心も持たな

いというのが、ほぼ実情だろうと想像する。だがともかく我々は、ア

レントに導かれてここまでやってきた。世界の安定性の礎としての道

具に始まり、道具は単なる道具を超越する――つまり道具にも美が関

わる――という道具観にまで達した。﹃人間の条件﹄では、工作人・

工作物の在り方が現代の消費社会において激変するに至った過程が、

独自の観点から詳述されている。しかし我々はその歴史的事情には直

接触れず、使用対象物のここまでの分析をもう少し展開させることで

本稿を締め括りたい。その方向で先に進むには、これまで明らかにし

てきた道具観の事例を何か見ておくことは有益だろう。用の道具に備 わる美を強調したのは、日本では民芸運動が代表格である。それゆえ

民芸とアレントを並べることは、或る意味、自然な成り行きとなる。

【民芸の美とは、どういうものか】

  雑器の美を主張するとき、柳が拠り所としたのは﹁直観﹂である。

しかし柳は、それは﹁私の主観﹂でなく、むしろ﹁私なき直観﹂、﹁立

場なき立場﹂なのだと言う。ここで彼が何を意味しているかは明確で

はないが、次のような解釈ができるかもしれない。柳の立場は特殊な

視点によって際立

とうとする立場で

なく、逆に﹁立場が

ない﹂﹁私がない﹂

と宣言することで、

狭義の﹁立場﹂を越

えて

、生活の中で誰 23

もが持っている感

覚に訴える広義の

﹁立場﹂である。春

に野に咲く蓮華の

花を、誰も有難く崇

めたりしないが、そ

の可憐な美しさを

1 民芸の実例(『手仕事の日本』より、芹澤銈介画)

(14)

誰も否定しまい。その美しさは立場を越えて感じられる。雑器には、 同じような控え目な美しさがある。柳はここで、生活者の共通感覚に 00000

訴えている 00000、と言えるのでないか。しかしそれは物理的性質のような

客観性を持たないため、彼は、結局は﹁私を信じてほしい︵柳

二〇〇六、一三︶﹂と、同意を﹁乞う、誘うwoo ﹂ほかないのである。

柳はその美を多くの﹁実例﹂で示した。日本民藝館においては、厳選

した民芸品の実例を展示した。著作においても、写真や挿絵を添えて

いる︵図

1︶。そしてその後、民芸的美というジャンルがいかに美の 24

一隅に定着したかを見るなら、柳の﹁私なき直観﹂は、人々の共通感

覚と共鳴することに見事に成功したのである。個々の生活道具が使わ

れるのは家庭内の親密な私的空間ではあるが、生活道具は多く作られ

広く流通し、誰の目にも触れるもので、その使用の経験も生活文化と

して互いに共有されるものだから、その美はその意味でも、公共性の

高い領域を形成する。

  道具にも美があるという指摘は、少し考えてみれば決して奇矯なも

のではない。道具の理解はしばしば﹁使えればいいもの﹂と粗雑に済

まされがちなために、当時の人々が道具に積極的に美を求めたり、道

具に美を感じる目を殊更養ったりしなかったことはあろう。しかし

道具として使われるには、見た目の心地良さも重要である。心地良さ

を求めることは人間の本能だろうから、作る人と使う人の双方によっ

て、知ってか知らずか、どこかで道具の美は磨かれてきたはずである。

その美を柳は意識化し、社会に示したのである。いったん道具の美と いう視点に慣れるなら、道具に美が宿りうるのは当たり前の認識とな

ろう。

【民芸の美はどこにあるのか――形と思想】

  一般的に言って、民芸の美は芸術作品ほど観念的でない。﹁美術の

方にはどこか観念的な内容があろうが、工芸の方はもっと素裸な﹁物﹂

である︵柳一九八五、一八︲一九︶﹂と柳も言う。それゆえ我々は柳が

示す類いの﹁実例﹂を見て、まず道具として単純でしっかりしたフォ

ルムや、親しげで温かみがある雰囲気や、派手派手しさのない模様や

色遣い等々に、思考を媒介としない剥き出しの美的魅力を直観するだ

ろう。

  しかし柳は、民芸の美をただ見るだけでなく、それがどういう美な

のか、なぜ美しいか、といったことについて、繰り返し分析を試みて

いる。例えば﹃工藝の道﹄でも、民芸の美の分析が与えられている︵柳

二〇〇五、三二︲五七︶。我々なりの整理で書き出してみよう。

①奉仕の美・用の美――工芸の美は、用途に仕えるものに宿る。

②健康の美――用途に奉じる物には、丈夫で頼りがいのある健康の

美がある。

③謙遜の美――用途に奉じる物には、華美とは真逆の、静かな美が

ある。

⑤親しさ・温かさの美――用途に奉じる物には、使い手が愛着を持っ

(15)

て伴侶とできる、親しさや温かさの美がある。

⑥無心の美――用途に奉じる工芸において、工人は自分の個性を主

張したりしない。

⑦自然の美――工芸では、我執を捨て無作為であることで美が生ま

れる。また機械でなく手工で作られたものにも、自然の作用によ

る美しさが生まれる。

⑧材料美――工芸ではとりわけ土地の自然素材が、その美しさとな

る。

⑨伝統の美――工芸の美は、蓄積された伝統の技に支えられた美で

ある。

⑩労働の美――よい労働の中での反復が熟練を生み、作り手の﹁延

び延びした生命の悦び﹂を感じさせる美となる。

⑪社会美・秩序の美――工芸は、大勢の協力によって互いの秩序を

大切にすることで、その美が生まれる。

⑫信用の美――工芸の美は、材料の選択や仕事の工程について、信

用できるものでなければならない。

  以上の分析は、直観の次元よりさらに深い次元で、工芸の美を理解

させるだろう。我々はこの分析で登場する多くの事柄に、既に独立の

価値――道徳的価値や美的価値――を見出している。例えば謙遜は美

徳であるし、健康も美しいし、自然も美しい、⋮⋮。それら工芸以前

の美しさを器物に重ね合わせることで、直観美に、より観念的な美し さが加えられる。そしてこのような形で民芸の美の意味を言語化して

理解し、その美を望ましいものとして欲するとき、そこには直観にと

どまらない思想が生まれている。

  かつての職人はこういったことを︵明示的に︶考えて、物を作った

のではないだろう。だとすれば彼らが作った道具を見る者も、これら

の思想を、工人にあったものとして蘇らせる 0000わけではない。しかし作 り手の思惑とは別に、我々がこういった思考を通して工芸を見る 0000000000000000000こと

で、伝統の生活道具に、我々が思想的生命を与えることはできる。デュ

シャンは便器を﹁芸術品﹂に仕立てた。元の工業製品の便器には、芸

術に関する思考は一欠片もなかった。デュシャンの意図や見方――つ

まりレディメイドの工業製品を作品として展示することで、新しい思

考を刺激し、伝統的な芸術観を揺さぶる、という芸術的に意味がある

思惑――によって︵そして我々がそれを理解することで︶、芸術品と

しての生命が与えられたのである。同じように、何かが観念的に美的

であるために、物の制作者の起源的思想は必ずしも必要でない。見る

側の思考や解釈によって物は︵より︶美的になりうる。民芸品の場合、

その意識的転換を柳が先駆けて図ったのだろう。しかし柳の見方に共

鳴した誰かが、自ら物の意味を考え、現代の自覚的な民芸の作り手と

なって、次の民芸作品へと繋がっていくことは、現にありうる。その

ときには作られる物は、作り手の思考を一つの源泉として生まれるの

である。

  アレントによれば、人工物の役割は人間世界を作り、そこに耐久性

(16)

を与えることだった。工芸は、道具としての有用性と、美しさという

二重の価値を持つことで、消耗しても、新しい物が継承的に作られる。

それは、その技術・製作が数百年か存続することで、世界の耐久性に

貢献する。美的な価値は一様でない。工芸の場合、その美的価値には、

例えば、自然素材を使うこと、手工的仕事であること、歴史性や地域

性があること、などが含まれる。そういった諸価値を重視することは、

世界に対し独特の世界性を与えるだろう。例えばそれは我々に、多様

な自然を意識させ、材料を枯渇させない自然との共生方法を、工夫さ

せる。ホモ・ファベルの動く体に意義を認め、身体的なものに敬意を

払わせる。我々の存在が、歴史性・場所性の中に埋め込まれているこ

とに対する具体的想像力を刺激させる。コンクリートの要塞のような

無機的世界性、あるいは﹁スクラップアンドビルド﹂のその場しのぎ

の世界性もあるのだから、人間世界の耐久性は、幾通りもの実現の仕

方があるのである。であるからこそ我々は、工芸が実現する特徴的な

耐久性・世界性を、忘れるべきではないと思われる。結局、道具に美

があることがそれだけで重要なのでなく、我々がどのような人間的価 000000000

値に意味を見出すのか、 00000000000また人間の棲み処としての世界の耐久性をど 00000000

のようなかたちで実現させたいのか 0000000000000000、といった選択の自覚や吟味が改

めて重要となってくるはずである。 【注】

1︶﹁永続性﹂﹁安定性﹂﹁固さ﹂に対応する原語はそれぞれ、

permanence " "

,

stability " "

, "

solidity

︵ ある。 " で

︵  cf. HC57︵八六︶も安定する。 2︶物の基本的安定があってこそ、他者と共有される共通世界のリアリティ

︵ 購買サイクルを早めようとする社会経済的合理性など。 要請以外の事情が働いていると思われる。例えば耐久性を落とすことで、 3︶もし道具の耐久性が譲歩されることがあるとすれば、そこには有用性の

︵ 置いてはならない。﹂ usefulbeautiful用でないもの、あるいは美しいと思わないものを、家に William Morrisの次の言葉にも、有用性と美の二つの基準がある――﹁有 この二つに分ける姿勢は、他の論者にもしばしば見受けられる。例えば  HC1524︶﹁世界の標準である有用性と美︵二四二︶﹂――物を測る視点を、

︵   二八〇︲二八一︶。 BPF205に還元しようとする試みについては、アレントはそれを退ける︵ 5︶ここでアレントは、有用性と美を分けて考える。芸術を何らかの有用性

︵  BPF206ちで最高の世界性を具えている。︵二八二︶。﹂ 6︶次の箇所も、同じ趣旨である――﹁芸術作品は[⋮⋮]一切の事物のう

︵ ない。そのような﹁芸術﹂は、ここではいったん脇に置くことにする。 そこには主体としての制作者はいない。それゆえ製作者の思考もありえ 000 ともあるだろう。例えば﹁自然の芸術﹂などと言う場合︵雪の結晶など︶。 7︶ただ、勝手に︵あるいは偶然に︶できたものを、芸術作品と見立てるこ

︵ 一六︶﹂と述べる。  HC5間がもっている最高の、そしておそらくは最も純粋な活動力︵ 8︶﹁第四﹂とは、重要さの順位を表すものではない。アレントは、思考は﹁人 9︶物化の過程では、﹁いかに﹂物化するかの技術的な試行錯誤を伴って作

(17)

業が進むだろう。しかし意味を求めて現象世界から退きこもって行われる自己対話が思考なら︵cf. LM︶、そういった試行錯誤も、アレントの意味での思考ではないことになる。︵

︵ KPPおよび一九七〇年の﹁カント政治哲学の講義﹂︵所収︶。 10RJ︶一九六五年から翌年にかけての﹁道徳哲学のいくつかの問題﹂︵所収︶、

︵ は考慮しない。 嫉妬において︶、それらは美しさのメタ的現象と思われるもので、ここで 11︶美しいものは場合によって、美しいが故に不快を起こしうるが︵例えば 000000

12︶アレントは

woo " "

, "

court "という言葉を使っている︵KPP72  一一一︶。︵

︵  KPP71なされる︵一〇八︶。﹂ [⋮⋮]このことは[⋮⋮]あらゆる他者の立場に身を置くことによって、 方を思想のうちで︵ア・プリオリに︶顧慮するような判定能力である。 おく。共通感覚とは﹁[⋮⋮]反省において他のあらゆる人間の表象の仕 13︶カントの﹃判断力批判﹄からのアレントの引用の一部を、以下に掲げて

︵ も、解放はそれだけで他人の立場を考慮することを保証するだろうか。 14︶対象への釘付けによって当面の私的な利害的関心から解放されるとして

︵ 唆的である。 れるように思う。日本語が、おいしさを﹁味の美しさ﹂と書くことは示 味しさ﹂にも訓練があり、少なからず、共通感覚的な文化的規範が含ま 00000  RJ140ら区別する︶ようだが︵一六四︶、それは正しいのだろうか。﹁美 taste単なる私的好みと考える︵そしてそのことによって味を美的判断か 15taste︶アレントは︵伝統に従って︶、美味しさの感覚は、他者を考慮しない、

︵ 的な普遍性だろう。 16︶おそらくそれは、人間の生物学的特性や文化的学習に基盤を持つ、偶然 味での 17︶芸術家を工作人に含むという考えは、奇抜なものではない。芸術家の意

︵ artistarsはそもそも、工作人の﹁技﹂に由来する。 " "

ばあるベッドの﹁イデア﹂を自分の心の眼の前に思い浮かべることなし  HC140て行われる︵二二九︶。﹂﹁[⋮⋮]私たちはあるイメージ、たとえ 18︶﹁製作の実際の仕事は、対象を作り上げる際に従うべきモデルに導かれ ︵  HC141にベッドを作ることなどできない︵二三〇︲二三一︶。﹂

︵ 二四五︶。﹂  HC153いう観点からのみ判断され、それ以外の観点は入ってこない︵ 19︶そこでは﹁すべてが、ただ望まれた目的に適合し有益であるかどうかと 20︶ドイツ語は

Gängelwagen "

︵ ある。 " で

︵ ろうが、道具の美は勿論それに限らない。 21︶美しさには、道具から余分な性質を削ぐことで発現してくる機能美もあ

Wittgenstein 1953 族的類似性を持つ――概念がある︵ ﹁これや、これと似たものが○○である﹂という形の説明が適切な――家 000000 しようとする哲学的伝統を批判したのだった。彼によれば、事例を与え、 22︶因みにヴィトゲンシュタインは、常にイデア的本質によって概念を説明

︵ §66ff.︶。

柳は、それらは限定された立場であり、それらの基盤である生活の世界 00000000000000 茶の湯の立場、などを考えればよい︵参考、柳一九八五、一五︲一七︶。 23︶越えるべき︿特定の立場﹀とは、例えば美術の立場、骨董鑑賞者の立場、 に降り立つことが、それらを越えたより広い立場に立つことだ 0000000000000000000000000000、と考えていると思われる。︵

体的な道具を指示し、彷彿させる。 24︶挿絵は図案化されているが、それらはあくまでも具体物の図であり、具

【引用文献】

  ※引用の際、アレントの著書は、略号を用いて示した。略号に続くアラビア数字は原書の、漢数字は邦訳書のページである。邦訳引用時には、原書参照のうえ、訳に若干の変更を加えた箇所がある。

Arendt, Hannah ︵1958︶

The Human Condition, The University of Chicago Press.︵アレント︵一九九四︶﹃人間の条件﹄志水速雄訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房︶。︵略号HC︶

(18)

Arendt, Hannah ︵[1971] 1978︶

The Life of the Mind

, Harcourt.︵アーレント︵一九九四︶﹃精神の生活﹄上・下、佐藤和夫訳、岩波書店︶。︵略号LM︶Arendt, Hannah ︵1982︶

Lectur es on Kant’s Political Philosophy, Beiner, Ronald, ed., The University of Chicago Press.︵アーレント︵一九八七︶﹃カント政治哲学の講義﹄浜田義文監訳、法政大学出版局︶。︵略号KPP︶Arendt, Hannah︵2003︶

Responsibility

and Judgment, Kohn, Jerome, ed., SchokenBooks.︵アレント︵二〇〇七︶﹃責任と判断﹄中山元訳、筑摩書房︶。︵略号RJ︶Arendt, Hannah ︵2006︶

Wittgenstein, Ludwig1953 2009︵[]︶ BPF未来の間﹄引田隆也・齋藤純一訳、みすず書房︶。︵略号︶ published in 1961 from the Viking Press .︶︵アーレント︵一九九四︶﹃過去と Between Past and Future, Penguin Books originally︵

, Philosophical Investigations, Blackwell.︵ウィトゲンシュタイン︵一九七六︶﹃哲学探究﹄︵ウィトゲンシュタイン全集8︶藤本隆志訳、大修館書店︶。柳宗悦︵[一九五八]一九八四︶﹃民藝四十年﹄岩波文庫。柳宗悦︵[一九四二]一九八五︶﹃工藝文化﹄岩波文庫。柳宗悦︵[一九四八]一九八五︶﹃手仕事の日本﹄岩波文庫。柳宗悦︵[一九二八]二〇〇五︶﹃工藝の道﹄講談社学術文庫。柳宗悦︵[一九四一]二〇〇六︶﹃民藝とは何か﹄講談社学術文庫。

(19)

Summary

The Beauty of Craftworks – Arendt and Use Objects Ken MARUTA

 In order to examine the significance of artifacts for human beings, this article explores Hannah Arendt's notion of “work” from the aesthetic perspective.

 According to Arendt, the work carried out by the homo faber gives the world relative durability or solidity, and his/her artifacts are divided into two kinds, i.e., use objects and works of art. But these two kinds cannot sharply be distinguished by the contrast of “utility vs beauty” because beauty can also reside in use objects. In preparation for treating as an issue the beauty of use objects, I will first survey Arendt's views on the works of art, fragmented over various places in her writings. The ultimate ground of beauty can be found in the sensus communis, the sense “which fits us into a community with others", and this observation should apply to the beauty of use objects. In addition, the paradigmatic role of examples in the aesthetic judgment will be touched upon. After giving an interpretation to Arendt's view on artifacts, I will consider its point of contact to the theory of mingei (folk crafts) of Yanagi Muneyoshi. That beauty resides in mundane use objects is particularly stressed for the traditional tools called mingei crafts. The article ends with a short examination of how use objects such as mingei crafts can contribute in its distinctive way to the durability of the world and, hence, the identity of human beings.

Key words: use objects (tools), works of art, durability of the world, mingei, sensus communis

(20)

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