西 欧 七 世 紀 後 半 に お け る領 域 的 諸 侯 領 の 形 成
堀 内
一徳
C‑)
九・一〇世紀のフランスの歴史は︑ただカペー王朝がカロ
リング王朝と交替したことではなく︑領域的諸侯による中
央集権化した王政の排除という性格を示している︒これは︑
その誕生から時代錯誤であったカロリング帝国の政治の枠
組を︑時代により適合した他の政体に取替えることで︑領
域的諸侯領(諸侯の仲介によるほか王の介入のかなわぬ領
域)の確立︑すなわち地域の権力の総体の王からそれぞれの
地域の家臣への移行という革命は︑地域的な偶発現象でな
く︑フランス︑ドイツ︑イタリアにおいて起った一般的現象
であり︑その起源は︑個体性の意識を根強く保持し︑多年
にわたってフランク帝国の支配からの離脱を企てようとす
る多数の民族の集塊(oo昌σq5ヨ騨餌一)から構成されたこの国 ユ 家の基本的性格に結びついている︒これが︑冒昌・ドーント
が一九四八年に著した﹁フランスにおける領域的諸侯領誕
生の研究﹂の結語であり︑領域的諸侯領の成立の起源につ
いて︑この論旨は今日なお大筋では容認されている︒
しかし︑民族性の多数の集塊であるカロリング帝国の将
来の皇帝(カール大帝)が七七八年にアキテーヌ(アキタ
ニア)に王国の建設を決断をするとすれば︑それはアキテ
ーヌの自主性を排除することであるのに疑いはない︑とす
るドーントの見解に対し︑てM・ルーシュは︑これはかれ
の著﹁西ゴート人からアラブ人のアキテーヌ﹂(一九七九
年)から導かれた結論と一致するが︑ドーントがなぜ七七
八年にアキテーヌの自主性がすでに存在したかを問い得え
たのは︑領域的諸侯の誕生を九世紀後半に求めるかれのテ
ーゼとは矛盾することを最近の論文で指摘している︒そし
て︑その論文﹁七世紀後半の西欧の危機と地方分権主義の
誕生﹂(一九八六年)において︑ルーシュは︑フランク・メ
ロヴィング王国︑西ゴート王国︑ビザンツ帝国における七
世紀後半の危機と共に地方分権主義(菊ひαQ一8聾︒・ヨo)が進
展し︑この地方分権主義に対応して西欧における領域的支
配の権力が形成されたとし︑かれはその形成期をドーント
る の説より約二〇〇年遡るという見解を発表している︒
七世に旧ローマ帝国の東西において起った革命的変革に
ついて︑すでにC・トマスが次のよう点を指摘している︒
五六七年から七五二年の約二〇〇年間に生じた社会的変
化すなわちローマ帝国の崩壊後から初期封建社会の形成
は︑行政革命(&嘗巳︒・葺㊤二くoHo<oξ什ごロ)の結果であり︑
その最も核心的部分は軍事・行政の地方レベルへの拡散で
あるという︒この革命は︑西欧では貴族間の私闘によって︑
ビザンツではアラブ人︑スラブ人の侵入によって始まり︑
その社会的変革の結果は都市生活の衰退と世襲貴族層の拾
頭であった︒西欧すなわちフランク王国においては︑ロー
マ帝国の行政の遺制はキウリタスにおいて大部分が存続し
たが︑しだいに集権的官僚制は後退し︑地方分権化の方向
を辿り︑六世紀には統一的地方行政は消滅し︑軍事・行政権 は伯やいくつかの伯を統轄する公に委ねられ︑王国の統一
もかれらによって保持されるようになる︒このようなメロ
ヴィング時代の地方分権化の決定的時期は︑五九二年から
クロタールニ世によるフランク王国の再統合に至るまでの
時期で︑また西ゴート王国においても︑このような経過が
フランク王国より漸進的ではあるが進展した︑8酬
六世紀から七世紀のフランク王国の政治の趨勢は︑王権
に対立する地方分権であり︑それは六一四年のクロタール
ニ世の告示の第十二条が語っている︒すなわち︑ある地方
出身の王の役人は︑他の地方の役人として任命されるべき
でない︑と︒これは︑地方の権力と伝統とを尊重する旨約
束したものにほかならない︒
以下において︑七世紀フランク王国において︑地域的権
力がどのような過程を経て形成されていったかを検討して
いきたい︒
(二)
アウストラシアとネウストとの対立︑抗争ののち︑クロ
タールニ世およびダゴベルト一世によるフランク王国の再
統合は︑ネウストリア︑ブルグントの勝利を画した︒しか
一53一
し︑三分国(言蜀話σq⇒㊤)はそれぞれ個有性を創出し︑ダゲ
ベルトの死後︑政権は王から離れ︑地域の貴族層を代表
し︑自個の支持者の権力強化のため相争った宮宰の手に移
った︒七世紀中頃から約一世の間メロヴィングの王権はし
ばしば宮宰に掌握されとされるが︑これはネウストリァや
アウストラシアの中心部においては妥当するとしても︑フ
ランク王国全体からみれば︑むしろドゥクス(傷環"曾8)
やバトリキウス(℃緯ユ6ごω)の権力が強化し︑かれらは地
方において世襲貴族として確立し︑メロヴィングの王や宮
宰の中央権力から独立化した過程として理解される︒
メロヴィング時代のドゥクス(公)の研究を通して︑すで
にE・クレーベルは︑領域的諸侯領形成の起源が七世紀の
メロヴィング王国に求められることを示唆している︒すな
わち︑六世紀から八世紀の南ドイツの部族公(バイエルン︑
アレマン︑シュヴァーベン)は部族法に基づく小王であり︑
かつメロヴィング王国の官僚に編み入れられた公職である
が︑六世紀ドイツの部族公の二重的性格がしだいにガリア
に移入され︑たとえば︑アキテーヌにおける世襲公領やロ
1マ帝国末期のプロヴァンスの州長官(嘆器ho︒εω)の部族
公的なドゥクスへの転化など︑このようなドゥクスの変遷 がクロタールニ世以後の王権の弱体化の当然の結果となっ
た︒降って九世紀末には︑ザクセン︑テユーリンゲン︑バ
イエルンの部族公領は︑フランキア︑セプティマニア︑︒フ
ロヴァンス︑ブルグントにおけるように︑上級官職貴族で
あるドゥクスないしは辺境伯(ヨ鍵o寓o)が︑伯やのちに司
教︑修道院長の任免権あるいは王領地を奪取し︑官職諸公
から部族諸公に移行するが︑これに対してアキテーヌ︑ロ
ートリンゲン︑シュヴァーベン︑東フランケンにおいては︑
諸公がなんらかの高い権力を把握することにより︑カロリ
ングの部分王国に代って部族公領が革命的に成立する︒こ
の二つの道程は七世紀の意味における部族公領の再建とい
う一つの目標へ導くものであったという︒
以上のようなクレーベル説に対して︑R・シュ︒フランデ
ルは︑ドゥクスの称号はトゥールのグレゴリウスの﹁フラ
ンク人の歴史﹂︑フレデガリウスの﹁年代記﹂や聖者伝など
にみられるが︑﹁サリヵ法典﹂︑﹁ブルグント法典﹂やメロヴ
ィング王の勅令集からは確認できないとして︑ローマ帝国
の官僚制の崩壊にともない帝国末期におけるドゥクスの官
職としての軍事指揮官の性格は失われ︑メロヴィング時代
における官職としてのドゥクスの存在を否定している︒し
かしD・クラウデは︑メロヴィング時代のドゥクスの性格
を次のように理解している︒ドゥクスは地域の要請によっ
て王により配置された役人であり︑いくつかの伯管区の軍
事力を地域の防衛や平和の保障のため︑また国家の戦争に
際して︑かれの一手に掌握し︑西方ではドックスの支配領
域はキウィタスの集合からなり︑ラインの東部では部族領
域と合致し︑それゆえ西方のドゥクス支配の領域より安定
性を保った︒しかし︑七世紀の三〇年代にはドゥクスの官
僚的性格は弱まるとともに︑多くのドゥクスはかれらの権
力の自立化をはかり始め︑七〇年代から八〇年代には王国
のローマ的地方において︑このような変化が完了し︑官職
加担者から領域的支配者となった︒
ところで︑メロヴィング時代のドゥクスがバトリキウス
り やレクトール(HOO酔O同)と共にその第一の任務が王国の軍事
指揮者であることは︑トゥールのグレゴリウスの﹁フラン
ク人の歴史﹂やフレデガリウスの﹁年代記﹂によって明か
である︒たとえば︑グントラム王の軍隊を率いてランゴバ
ルド族と戦い︑のちにグントラムに対するグンドヴァルド
の反乱に加わったバトリキウス・ムンモルス(ζ¢ヨ日o邑︑
クロタール一世の領地に軍隊をともなって侵犯したシャン ゆ パーニュのウイントリオ(芝ぎ8ユPO三58ユO)︑五九三
年にヴェンド人を破ったアラマンのクロドベルト(ρo山P
お げ臼8)︑六三九年テユーリンゲンのラドルフ(図㊤畠巳h)に対き するシギベルト王の軍隊を率いたドゥクスらの記述がそれ
を物語っている︒こうした軍事活動の一方︑すでにトゥー
ルのグレゴリウスの時代に︑ウイントリオおよびルプス
レ (ピロ甥)はシャンパーニュに領有支配権を有し︑バイエルン
のドゥクスと推定されるガリワルド(○巴毛巴傷)は一定の
お 領域の統治者であった︒ただしかし︑統治領域は固定され
ず変動し︑またかれらの地位も安定しなかったが︑七世紀
にはその支配領域は固定するようになり︑その権力拡大に
従って王や宮宰の権力から独立化した︒こうしたドゥクス
ないしは︑バトリキウスはたとえばトゥールーズのバトリ
め キウス・フェリクス(男oζ客)で︑その後を襲ったドゥクス・
ル︒フス(い毛ω)は六七五年ころ地方宗教会議召集に関与し
ているが︑リモージュを支配領域に加えようと企て殺害か されている︒また八世紀の始め以降ロワール川の南の広いな 地域を支配したウード(国亀①︒・噸国oαo)公は︑その息子クノ
アルド(O冨50巴山)その後プリンケプス(℃二口oo℃ω)・ワイ
ォファリオ(類90貯ユo)に引き継がれたが︑ワイオファリ
一55一
お オはカール大帝によって退けられた︒あるいは︑オータン
の司教(バトリキウス)・レウデガリウス(いo巳oαq㊤二¢ρ
い伽σq臼)の朋友のプロヴァンスのバトリキウス・ヘクトー
ル(国oo8同)は七〇〇年頃マルセーユを支配したメトラヌ
ス(一︽nO一H餌b ¢ω)ないしはドーフィンに広い所領を有したア
ポ(﹀げげo)に継承され︑結局アポの敵対者でドゥクスと推
測されるマウロントゥス(︼≦㊤霞o口εω)がカール・マルテル
に破れ︑プロヴァンスとロワール川流域全域がマルテルに
れ 吸収された︒他方︑ゲルマンの部族地域では︑ザクセン
がダゴベルト一世の治世の終りまでにアウストラシアへの
貢納を停止し︑フリースラントのドゥクス・ラドボード
(幻巴げo巴)に率いられたフリースラント人はラインラント
に進出を始め︑アウストラシアの脅威となったが︑アギロ
ルフィング(﹀σq臨05昌σq)家支配のバイエルンやアレマンに
おいても︑王権や宮宰の支配から自立が可能となった︒
以上のように︑六・七世紀のドゥクスの研究を中心に検
討したが︑さらにH・ヴォルフラムやK・ヴェルナーの称
号概念の研究に基づく七世紀から八世紀前半のフランク王
国における自立的領域支配の形成過程についての見解をと
りあげてみよう︒ ・ヴォルフラム"によると︑メ︑ロヴィング.の上層貴族が国政
の事実上の支配者となるのを抑制できなくなった七世紀の
フランク王国の政治情況の中で︑王に非ざる統治者が創
出されるようになる︒上述のように︑七世紀後半ルプスに
よってアキテーヌに自立的公領レグヌム・アキタノルム
(器σqヨ巨﹀ρ鼻きo歪日)が成立するが︑これはフランク王
の統治に服属しないが︑王国から分離したものでなく︑ド
ゥクスが︒プリンケ︒フス・レギ(箕凶口oo℃ωHoσq一)として︑無能
な王に代ることが許されるという原理に基づいて正当化さ
れるのである︒このようなプロセスは︑アキテーヌに限ら
ず︑七〇〇年までにフリースラント︑アルザス︑テユーリ
ンゲン︑バイエルンにおいても発展し︑王国の遠心的政治
勢力を構成した︒カロリング帝国はその努力にもかかわら
ず︑メロヴィング後期に起源をもった王国の分解を押し止
めることができず︑カール三世(肥満王)が廃位された八
八七年以降は︑七世紀のプロセスが新たな活力を得るに至
(22)ったという︒
また八世紀フランク王国における周縁の領域的諸侯領の
形成についてのヴェルナーの考察によると︑王にのみ用い
られていたプリンケ︒フスの称号が八世紀には貴族にも適用
されるが︑このようなプリンケプスの権力は七世紀のフラ
ンク王国にその起源を有し︑その権力の形成過程は︑次の
ように説明されている︒まず六=二年のクロタールニ世が
アウストラシアの貴族とブルグントの宮宰ワルナカリウ
ス(壽§⇔oゲ霞ごω)の謀略によるブルンヒルデ(アウストラ
シア)に対する勝利の結果︑その代償としてアウストラシ
アに事実上の自立とワルナカリウスのブルグントの専政的
支配が与えられた︒このようにそれまで王に従属していた
宮宰が王の名のもとに直接国政を左右するようになり︑宮
宰によって代表される貴族層が王国の存続を保証するに至
る︒そして宮宰の権力獲得と中央権力に対する不服従の態
勢は︑領域的権力発達の予告であり︑そのモデルとなった︒
七世紀には︑ラインの東部に限らず︑アキテーヌやフラン
ク・ガリアにおいても自主的地域権力が発生し︑とりわけ
ダゴベルト一世の時代はメロヴィング朝における周縁の自
立的諸侯領形成の決定的な時代であったとし︑そのような
事情を次のような事実によって示している︒それは︑ダゴ
ベルトによるカリベルトニ世を王とするトゥールーズの小
王国の建設︑すでにふれた東部防衛の代償としてザクセン
のアウストラシアへの貢納の停止などが示しており︑ある いは︑テユーリンゲンにフランク家系のラドルフ(図巴巳h)
が最初のドゥクスとして配置されて公領が創設され︑ダゴ
ベルト王の死後も自主的公領として存立し︑アレマンでは
ラエティアとブルグントとの境界が画定され︑軍管区(フ
ンタリ)が設けられるなど︑アウストラシアの防衛に対し
てドゥクスの自主的権力が付与された︒こうしたフランク
王国の周縁地方の諸公領は︑七〇〇年にその盛期を迎え︑
一つの集塊(コングロメラ)であるフランク王国の一部を構
成したのであり︑これらの諸公領の統治者はかれらの秩序
のもとで自領民の解放のためにフランクの王権と抗争した
のでなく︑フランク王国の中で一次的役割を担った︒プリ
ンケ︒フスという観念は国家秩序を脅かす権力でなく︑政治
体制や地域の平和の保全に貢献したのだいう︒それを裏書
するように︑七世紀には人口の増加︑新たな占領地の増加︑
司教の富裕についての確証がある︒七〇九年に始まる諸公
領の制圧は︑カール・マルテル︑ピピン三世によって成功
を収め︑諸公領はカロリング王権のもとに統合されるが︑
最後の部族公領バイエルンの征服までに七十余年を要して
い鱒
以上がヴェルナーの要旨である︒
一 一57一
(三)
すでにはじめに述べたが︑ルーシュはビザンツ帝国︑西
欧(フランク︑西ゴート王国)で七世紀後半の五〇年間に
おこった政治的動揺の中から︑それぞれにおいて地方分権
主義が進み︑それに対応して西欧中世における領域的諸侯
が︑ヵロリング帝国の崩壊をまたずして発生したという︒
ルーシュの一九八六年の論文を要約してみると次のように
なる︒
イスラムの攻撃やスラブ人のバルカンへの侵入の衝撃を
受けたビザンツ帝国は︑その西方の領土において︑七世紀
中頃からのランゴバルドのカンパニアの沿岸およびカラブ
リアなどへの襲撃や六五三・六八年のイスラムのシチリア
島への攻撃によって不安な情勢に陥った︒しかもアフリカ
の総督はサルディニァ︑セウタの飛び地を︑ラヴェンナ総
督はコルシカ島とバレアル諸島に権限を残したが︑シチリ
アは軍管区(テマ)となり︑西方のビザンツ領の境域は行政
・軍事の統一を欠き︑三つの地方主権の間に分岐した︒こ
のような情況を反映するように︑六四一年から翌年にロー
マで市民と軍隊を巻き込んだビザンツの役人マウリキウス ( 〜n餌dR凶O一¢ω)の反乱︑六四一年から四二年のベルベル人の
支持するヵルタゴ総督グレゴリウス(9︒σqo二島)の反乱︑
六五〇年から五二年のシチリアを拠点とするビザンツ・イ
タイリアの軍隊に支持されたラヴェンナ総督オリュンピオ
ス(Oぽヨ且oω)の反乱が起った︒これらの反乱ののち︑コ
ンスタンスニ世は西方に強い関心を向け︑地中海からのイ
スラムの攻撃に対する防備の強化︑シラクサを首都とする
構想︑ヵラブリアの総督の設立などの西方政策を積極的に
すすめたが︑過酷な徴税政策が軍隊の陰謀を招きアルメニ
ア人のバトリキウス・ミツェツィウス(ζ一NΦN一d[ω)に殺害さ
れた︒コンスタンスニ世のあとを継いだコンスタンティノ
ス四世はコンスタンティノー︒フに迫ったイスラム海軍を退
け︑ブルガリア人に対して遠征する一方︑西方の領土は放
棄され︑その地方分権は進展する︒イタリアでは︑コンス
タンティノスは六八〇年ランゴバルドと和平を結び︑シチ
リアの艦隊を解散し︑六九七年から九八年ヴェネツィアで
自主的に公が選ばれ︑七〇一年から翌年および七一一から
一二年にはラヴェンナとローマとの対立が激化した︒八世
紀前半のビザンツ・イタリア領は︑シチリア︑ローマ公国︑
ラヴェンナ︑ヴェネツィアの四地域に分断され︑アフリカ