英 文 学 会 通 信 英 文 学 会 通 信
─日本大学英文学会─
第 108 号
発行:日本大学英文学会
〒156-8550 東京都世田谷区桜上水3-25-40 日本大学文理学部英文学研究室内 Tel. : 03-5317-9709(直通)
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《ご挨拶》
目 次
しゃべりの速い人々 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学英文学会副会長 中村 光宏 2
《エッセイ》
ドゥルーズとガタリ管見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学文理学部元教授 関谷 武史 3 文学における南部社会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐野日本大学短期大学特任教授 佐藤 秀一 4 わたしの在外研究生活2017 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学文理学部准教授 前島 洋平 6
《特集》
日本大学と私 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学松戸歯学部准教授 山上登美子 6
《検定試験奨学制度報告》
TOEIC 845
英検準一級 =本当の英語力? ―資格試験の意義― ・・・・・・日本大学大学院博士前期課程1年 山本 史彬 7
《海外留学体験記》
ミシガン湖のほとりで~留学体験記~ ・・・・・・・・・・・・・日本大学文理学部英文学科3年 平田 勇樹 8
《年次大会発表要旨》
当為を表すHAD BETTER ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学通信教育部助教 小澤 賢司 9 英語/l/の調音動作:rtMRIデータに基づく探索的分析 ・・・・・・・・日本大学経済学部教授 中村 光宏 9 Pleasure Reconciled to Virtue から A Mask へ
―Comus 描写から窺える Milton の考える悪役像とヒーロー像― ・・・ 日本大学文理学部助手 桶田 由衣 9 ジェイン・オースティンの『エマ』に関する一考察
―ハイベリーの女主人役を務め続けるために― ・・・・・・・・・ 松山大学法学部教授 新井 英夫 9
《月例会関連》
月例会報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 月例会予定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10 研究発表者募集 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 10
《年次大会プログラム》
《新刊書案内》
田中孝信、要田圭治、原田範行編『セクシュアリティとヴィクトリア朝文化』(彩流社、2016)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部教授 閑田 朋子 12 『高校生は中学英語を使いこなせるか? ―基礎定着調査で見えた高校生の英語力―』(金谷憲(編著)、アルク選書シリーズ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学文理学部准教授 隅田 朗彦 12 『現代音韻論の動向 日本音韻論学会20周年記念論文集』(日本音韻論学会編,開拓社,2016年発行)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学経済学部教授 中村 光宏 13 『<楽園>の死と再生』第2巻出版に寄せて ・・・・・・・・・・・・・・・ 日本大学文理学部教授 野呂 有子 14
《事務局・研究室だより》
寄贈図書について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16 退職
退任のご挨拶 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本大学文理学部元任期制職員 小桐 弓佳 16 卒業された同窓会員の皆様へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16 会費納入のお願い ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 16 「同窓会通信」と「会員名簿」について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17
しゃべりの速い人々
日本大学英文学会副会長 中村 光宏
ʻDo you speak American?ʼ というインターネットサ イトをご存知でしょうか。このサイトでは、アメリカ 英語の発音・地域アクセント・語彙などに関する調査 報告やエッセイが紹介されています。地域アクセント に関する記事[1]に次のような記述がありました:
「New Yorkerのしゃべりは鼻にかかる声とスピードが
速いことでからかわれるが、南部人のしゃべりはス ピードが遅いことで笑われる。」このような印象的評 価が真実であるかのように広く受け入れられているこ
とを、Preston博士は定量的調査の結果を示して解説
しています。
「緊張して早口になってしまった」という初めての プレゼンの感想にもあるように、しゃべる速度(発話 速度)が話者の個人的要因(年齢、性別)や状況に よって変わることは容易に想像できます。しかし、上
に挙げたNew Yorkerと南部人に関するステレオタイ
プにおいて興味深いのは、発話速度が当該グループに 所属することを示す指標(regional indices [2])と信じ られている点です。この仮説を考えてみましょう。
発話速度は様々な観点から研究されていますが、そ の地域差に関する直接的証拠を最初に示したのは
Byrd博士の研究[3]であると思います。TIMITという
音響データベースを利用して、630名の発話を調査分 析した結果、発話速度が遅い順に「South > South Midland >New York City > North West > North Mid- land > North East > Army Brat」となることを明らか にしています(Army Bratは3州以上に居住経験があ る人々です)。近年、別の音声コーパスを使用して、
Clopper博士とSmiljanic博士が行った調査[4]でも、
「南部話者は発話速度が遅く、北部話者は速い」とい う同様の結果が得られています。加えて、ポーズの長 さや母音・子音の継続時間にも、独特の地域差が存在 することも分かりました。このような調査・分析結果
は、New Yorkerと南部人の発話速度に関するステレ
オタイプに一致しています。
発話速度に関しては、よく知られている神話がもう ひとつあります:「しゃべりが速く、せわしない言語 もあれば、しゃべりが遅く、ゆったりしている言語も ある。」Roach博士[5]は、このような言語間における 発話速度の違いは幻想であるとし、社会・文化的側面 に決定要因がある可能性を述べています。しかしなが ら、幻想ではないことを示す証拠が、アメリカ言語学
《ご挨拶》
会の学会誌PellegrinoLanguage博士の研究チームに、2011年に発表されました。[6]は、7つの言語(英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、日本語、中 国語、スペイン語)それぞれの母語話者(合計59名)
が、意味内容が同じ文章を読み上げたもの分析しまし た。その結果、なんと、発話速度が最も速い(1秒間 に発せられる音節数が最も多い)言語は日本語である ことが分かりました(速い順に、日本語>スペイン語
>フランス語>イタリア語>英語>ドイツ語>中国 語)。一方、各言語における音節あたりの情報密度は、
中国語が最も高く、日本語は最も低い結果となりまし た(高い順に、中国語>英語>ドイツ語>フランス 語>イタリア語>スペイン語>日本語)。研究チーム は、「言語間には様々な違いがあるにも関わらず、音 節あたりの情報密度が低い言語は発話速度が速くな り、情報伝達率(information rate)を標準化していく 傾向がある」と考察しています。今後の検討課題
(e.g.音節構造の複雑性の影響や日本語の情報伝達率)
はありますが、「全ての言語は伝達できる容量が等し い」という彼らの仮説は、私には魅力的に感じられま す。
今回紹介した事象-発話速度-について、もしも、
私たちのライフスタイルとの関係を探るとしたら、
Wells博士[7]が挙げる次のステレオタイプは刺激的で
はないでしょうか。
It is perhaps universally true that rural accents tend to be slower in tempo, reflecting the unhurried life of the countryside…Urban accents tend to be not only faster, but also more up-to-date in terms of sound changes in current progress.
参考文献
[1] Preston, D.R. (1999) ʻThey Speak Really Bad Eng- lish Down South and in New York City.ʼ URL: ʻDo you speak American?ʼ http://www.pbs.org/speak/
speech/prejudice/attitudes/。サイト名と同名のテレ ビ番組と書籍もあり、Robert MacNeil氏とWilliam Cran氏が制作に関わっています。両氏は、1980 年代に一世を風靡した The Story of Englishの製作 者・著者でもあります。
[2] Abercrombie, D. (1967) Elements of General Phonet- ics. Edinburgh: Edinburgh University Press.
[3] Byrd, D. (1994) ʻRelations of sex and dialect to reduction.ʼ Sp. Com. 15, pp.39-54.
[4] Clopper, C.G. & R. Smiljanic. (2015) ʻRegional varia- tion in temporal organization in American English.ʼ Jnl. Phonetics 49, pp.1-15.
[5] Roach, P. (1998) ʻSome Languages are Spoken More Quickly than Others.ʼ In Bauer, L. & P. Trudgill (Eds.) Language Myths. London: Penguin Books, pp.
150-158.
ドゥルーズとガタリ管見
日本大学文理学部元教授 関谷 武史
Gilles Deleuze (1925-1995)とFelix Guattari(1992)
以下(D.Gと表記)のリゾームの概念を始めて知った のは朝日出版社発行『エピステーメー』の特集版昭和 62年発行の『リゾーム・・・序』によってでした。そ の後1994年に河出書房新社よりD.Gの共著『千のプ ラトー』が宇野邦一、小結秋弘、田中敏彦、豊崎光一 共訳で出版され、その著の冒頭に「序―リゾーム」と して収録されました。リゾーム(根茎)についての彼 らの主張を説明いたします。木は幹があり、それを支 える根があり枝は対象的に広がっている。この木の形 をD.Gは管理体制の象徴と捉え、それに対してリゾー ム「根茎」には中心も階層もなく、竹や蓮や蕗のよう に横に這い、根のように見える地下茎は他の地下茎と 限りなく連結し横断し接続する。このリゾームの形態
にD.Gは自由な人間存在の在るべき形態を観た。「千
のプラトー」は文学、美学、政治学、経済学、言語学 を取り上げながら、西欧の秩序をリゾーム的、横断的 な形態へと変更する事を提唱した書である。
ドゥルーズの単著『プルーストとシーニュ』宇波彰 訳1986年法政大学出版局発行ではプルーストの『失わ れた時を求めて』が、過去の無意識的記憶が多く描か れ、それ故にこの作品は過去を主題とした作品である と言う作品観が主流でした。ドゥルーズはこの作品観 を否定し、この作品は主人公が様々な場面で遭遇する シーニュ(意味、記号)を解読することを習得する作品 であると主張し、従来の作品観を逆転し、過去を扱っ たものではなく未来に向けての作品であると評した。
D.Gの共著『アンチ・オイディプス』市倉弘裕訳昭 和61年河出書房新社発行、は人間の解放は欲望が自 由に作動することにあると主張している。フロイトは 無意識の中の欲望を重視したが、その欲望を意識化し て昇華することを目指した。その限りでは、これ迄の 西欧の思想、無意識よりも意識、欲望よりも理性と いった思想に棹さしていた。従って、フロイトの考え
は、西欧の資本主義体制、管理主義的社会を支えるも のであった。D.Gはフロイトの思想を否定し閉鎖的な 社会的生産を捨てて欲望する生産に立脚することを提 唱した。尚、本書には逃走と言う語が散見されるが、
これは資本主義社会から自由の身になって、欲望する 生産に向かうことを意味している。逃走を意味するフ
ランス語fuirには、水が漏れると言う意味があり、資
本主義体制の公理系に水漏れを起こして解体すると言 う意味も含意されている。
ドゥルーズの単著『消尽したもの』宇野邦一、高橋 康成訳1994年白水社発行はベケットの作品を言葉の 消尽の視点から論じている。疲労と消尽の違いを区別 し、疲労とは可能性を持ちながら実現できない状態で あるのに対して消尽は可能性自体が尽くされた状態で あると指摘している。先ず始めに、様々なものを名指 す名詞(言語1)の可能性が順列組み合わせによって 尽くされると説いている。次に、言葉を発する声(言
語11)が問題視され、語り手の世界を形成する可能性
が語り手の複雑な複数性によって尽くされる事が説明 されている。次に、言葉が表象する出来事の可能性の
場(言語111)が空間のポテンシャルを減衰すること
によって尽くされる事が論じられている。これら全て の消尽の果てに可能性が全て尽くされた事を告げる印 であるイメージが出来すると述べている。本書は具体 的にベケットの作品、登場人物を挙げてベケットの作 品の言葉の消尽の過程が論述されていて理解の助けと なっている。
カルメロ・ベーネとジルドゥルーズの共著『重合』
江口修訳1996年法政大学出版局発行では、ベイネの 劇作品『リチャード三世』とドゥルーズの『マイナー 宣言』がその内容となっている。つまりベイネの劇作 品『リチャード三世』とドゥルーズの批評『マイナー 宣言』が合体して重ね合わされた内容となっている故 に『重合』のタイトルとなっている。ドゥルーズはイ タリアの劇作家ベイネが古典的戯曲を大胆にかつ慎重 に切除し差し引くことによって新たな生命を誕生させ ていることを評価している。ドゥルーズはベイネが切 除する対象が主として権力であることに注目してい る。ベイネの『リチャード三世』では権力を支えるあ らゆる要素が切除される。切除の対象は登場人物に向 けられる。登場してくるのは揶揄の対象とされたリ チャード三世と6人の女性でしかない。更に、切除の 対象はこの劇が再現する権力を象徴する王政に係わる 人物ばかりでなく組織にまで及んでいる。ドゥルーズ はここにカルレロ・ベイネのオリジナリティ、と同時 に、シェイクスピア作品の新たな可能性を観ている。
ドゥルーズの単著『批評と臨床』守中高明、谷正親 訳2010年河出文庫は、総論として文学と生が論じら れ、英米語圏の作家、二人のロレンス、T.E.ロレンス とD.H.ロレンス、ホイットマン、メルヴィル、キャ ロルが論じられ、更に、ベケットの映画「フイルム」
[6] Pellegrino, F., C. Coupé, & E. Marsico. (2011) ʻA Cross-Language Perspective on Speech Information Rate.ʼ Language 87(3), pp.539-558.
[7] Wells, J. (1982) Accents of English. Vol. 1. Cambridge:
Cambridge University Press.
《エッセイ》
が分析され、ハイデガーやカントの哲学とジャリやラ ンボーの文学との関係が語られ、アルトーやカフカの 作品が神学と対峙したものとして捉えられ、ニーチェ のデイオニュソスの誕生が神話との関係で論じられ、
最後に、プラトン、スピノザの哲学が論理的に要約さ れている。
以上の他に推薦したい単著、共著は多くあるが紙幅 の関係で以下の二つを挙げて今回の管見を終わりとし ます。その一つはD.Gの共著『カフカーマイナー文学 のために』宇波彰、岩田一男訳1978年法政大学出版 局発行です。この共著の中でD.Gはカフカの文学は大 作家たちの作品への憎悪から成ると言う、正に、栄光 を担っていると讃えている。更に、マイナー文学はマ イナーの言語による文学ではなく少数民族が広く使わ れている言語を用いて創造する文学であると述べてい る。プラハの少数民族の一人であったカフカがプラ ハ・ドイツ語を用いて文学作品を創造したことを意味 している。プラハ・ドイツ語をそれがあるがままに、
選び、冷静に、常に、非領域化の方へと進むカフカの 創作態度を称賛している。
最後に取り上げるのはドゥルーズの単著『意味の論 理学』岡田弘、宇波彰訳1987年法政大学出版局発行 です。この書の中でドゥルーズはルイス・キャロルの 文学を表層の世界であると述べている。キャロルの言 語は現実や深層にある何かを表象したものではないと 述べている。従って彼の作品は深層を持たない表層、
ほとんど厚みの無い平らな表面から成っていると述べ ている。この書はストア学派の理論とフッサールの現 象学が援用されていて、ドゥルーズ思想の頂点を成す と言っても過言ではない優れた論考である。但し、読 解するのに困難を極める書となっている。以上で今回 の管見を終わりとしますが、ドゥルーズの単著、『差 異と反復』財津理訳1992年河出書房新社発行も読ま れることをお勧めします。この翻訳書の帯に、プラト ン以来の西欧精神史の基本原理を根底から覆し伝統思 考からの解放を主張する真に創造的書物とあります。
この書はドゥルーズの博士号主要論文で、この書を書 評したフーコーは、おそらくいつの日か時代はドゥ ルーズ的なものとなるだろうと予言しました。
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文学における南部社会
佐野日本大学短期大学特任教授 佐藤 秀一
アメリカ南部の作家W.フォークナーに『黒衣の道 化師』(Pantaloon in Black)という短篇小説がある。
(この作品は後に長篇小説『モーゼよ、行きて下れ』
(Go Down, Moses)に織り込まれることになる。)町の 製材所で働く新婚の若い黒人夫婦の物語で、最愛の妻 に新婚僅か6か月という短い期間で逝かれてしまう。
夫の彼は、悲痛な思いと絶望のあまり、体が受け付け なくなるほど酒を飲み続け、森や野原といった荒野を 駆け巡り、彷徨し、挙句の果てに製材所で働く黒人の 同僚を相手に金を巻きあげている白人のイカサマサイ コロ賭博(前から噂されていた)に加わり、イカサマ を見抜いたことで、その白人がピストル抜いて引き金 を引く瞬間、カミソリでその白人を殺害してしまう。
彼は留置所に入れられるが、翌日には白人たちの私リ ン チ刑 にあって無残にも殺されてしまうという話である。こ う言ってしまえばそれは余りにもありふれた(それだ けにいっそう恐ろしいことではあるが)アメリカ南部 の残酷物語のひとつになってしまうかもしれない。そ れは黒人の行為は正当防衛であることは一寸でも調べ ればすぐ判明する筈である。彼らには私リ ン チ刑に対する一 片の反省もない。それこそが正義であり、勇気ある行 為であるからである。そこにアメリカ南部の底知れぬ 恐ろしさがある。
この恐ろしさはアメリカ南部の歴史と伝統の歪みが もたらしたものであり、人間性の荒廃のひとつの極致 を示している。
黒人夫婦の新婚生活は明るくきらびやかなもので、
仲睦まじい若い二人の永遠の喜びの日々が実現され、
コミカルな筆致も交え、生き生きと描写されている。
夫の独身の頃の自由放縦な行動とは180度転回した規 則正しい生活基準が前面に押し出され、人間愛、温か さ、信頼、純真性、思いやり、夢といった所謂生きる という温かい生命の血潮がすべてに満ちていて人間愛 の美しさが力強くその絶頂にまで昇華されている。彼 の純真無垢で一途な愛は妻に注がれ、それまでの自己 を解体し、常に彼女と一体化しようとする。彼にとっ て妻は彼自身であり、‘which had burned ever since’は その永遠性を表している。妻も心底から夫の純朴で誠 実な行為に報いようと心をこめて尽くすが相互信頼の 温かい思いやりが漏洩していて偕老同穴まで燃えるは ずであった暖炉の火は二人の愛の肖像であると同時に 作品に光を燈しているのである。
彼を捕らえた白人保安官補の夫婦はどうであろう か。この白人夫婦は、黒人夫婦とは相対照をなしてお り、フォークナー文学の対極性にかかわることで黒人
夫婦がある極を占めれば一方の対極に位置するまさに 光と闇といった存在である。この夫婦からは各々の自 己の傲慢さのみが打ち出され相互の温かい心のふれあ いは全く感じられない。互いに自己の利潤のみを追求 しようという卑しい合理性が瀰漫している。白人夫婦 には潤いのない無味乾燥な不毛性のみが明白に写し出 されており、俗社会を形象しているといってよいだろ う。保安官補に系譜する倨傲きわまりない人物も盲目 的権力欲、出世欲に執着し、自分たちに起因する他人 の生命に危惧してもいっこうに意に介さない。
こういった黒人を取り巻く周囲の卑小な白人社会の 腐朽した頽廃的気風のなかで彼はこの作品の意味を支 えるべく重要な意義を内包しているのであり、酷薄な 現実に直面していまにも吹き消されそうであるが決し て消えることのない豊潤で生命力溢れた眩いばかりの 光を照射しているのだ。
彼をいつも見守り愛情を注いできた叔母夫婦が口に 出 す『 跪 い て、 神 さ ま に お 願ねえげぇ す る だ!』(‘On yo knees and ax Him!ʼ)という神という絶対的な言葉にも 彼の苦悩は和らぐことはない。フォークナーは黒人の 心情を静的に前面へ押し出すというより寧ろ動的につ まり静というよりも動に積極性を与えている。それこ そがフォークナー文学にかかわるもので最も人間の内 面性に迫真性を伴って肉迫すると言えるし、それに よってその内包性の感得を余儀なくされることにな る。妻の葬儀の際、彼女の棺に自らシャベルをもって 無雑作にも激しさをこめてアッという間に土をかけ出 した行為にも彼の心情が顕現されていて、前述した荒 野を彷徨したり、酒を飲み続けさ迷い歩くといった様 相は、純粋で透明な心が与えられている故にその感性 は鋭くその感性によって悲しみを一層激しくする。ま た、この感性は人間の根源ともいえるもので人間とし て不可欠なものである。政治的計略、不正、ねたみ、
邪悪、憤怒といったおよそこの世の悪と思われる諸相 は一切なく、ヴァイタリティに溢れた彼のすべてに順 応し、それに謙虚に耐えてゆく勇気、そしてすべてを 包んでしまう大自然のイメージを思わせる悠久な精神 は周囲の現実の人間の営みの卑猥さと鮮やかに対照さ れ浮かび上がってくる。
だがこういった厳しい現実に直面しながらも妻を忘 れられず、いや、だからこそ留置所のなかで他の囚人 に押さえつけられながら大粒の涙を流し、笑って「ど うやら、おらぁどうしても考えるのをやめるのができ ねぇようだ。どうしてもやめるのができねぇようだ」
(‘Hit look lack Ah just cant quit thinking. Look lack Ah
just cant quit’)という黒人のことばには生きるという ことのすべて、悲哀と歓喜が縮図されているように思 える。なぜならば彼の悲哀そのものは人間として歓喜 に通じるものであり、このような社会の歓喜は本質的 にはそれこそが人間としての悲劇にかかわってくる問 題だからである。しかしフォークナーはこうした作品
の異常な熱気や砂ぼこりのアメリカ南部の土に愛着を 感じている。それはなぜか。それは文化的社会の明る さ、清潔さよりも生の現実に対して誠実であるからで ある。少なくともそこには見せかけや偽装がない。そ うでないのにそうであるかのように飾りたてる偽装が ないからである。とすればこのアメリカ南部の異常な 熱気、砂ぼこり、荒涼とした不毛な社会は人間の実態 と切り離しがたく結びついている。この凄まじい状況 のなかに立つとき人間は、人の定めた因習、束縛から 解放されて自由に峻厳に生きることの根源を凝視する ことができる。フォークナーは絶望的な状況に置かれ た人間の姿を描くことにより、人間存在としての生の ありようを追究すべく試み、そしてそこから絶望的な 生の淵に立たされた黒人の人間性にもとづく人間復 権、荒野の精神による人間性回復への救済への思いが 窺い知ることができるが、同時にこういった人間を通 してパラドクシカルな形での生のすばらしさを高々と 歌い上げているのである。まさにフォークナーの究極 的意図はそこに所存するのではないだろうか。そして あの「人間性不滅」へと繋がって行くのだ。
フォークナーは南部の生まれ故郷をモデルに自ら創 造した架空の土地ヨクナパトーファ(Yoknapatawpha county)群ジェファーソン(Jefferson)町を舞台に一連 の作品を書き綴っていったが、こういった世界はアメ リカ南部に限られたことではない。それは暗澹たる人 間の状況一般である。世界のどの国にも恐ろしい差別 や偏見がある。われわれの周囲に、いやわれわれの内 部にそれは根深く巣くっていて、われわれの人間性を 腐食して行く、われわれの魂の干魃といえるだろう。
もちろんわれわれは軽率な私リ ン チ刑に走ることは滅多にな い。しかし必ずしもそう多寡をくくって安心していら れない気風をわれわれもまた身に浴びているのかもし れない。小説が描くのは人間の状況であるが、特殊な 社会、風土に生きるものであるからには、そこの人間 に深くかかわらねばならない。つまりアメリカ南部の 特殊な世界、黒人差別の実態に深くかかわらなければ ならない。そのようにして作家の鋭い凝視が特殊なる ものの根底を深く見きわめたとき、その特殊な社会と 特殊な人間とから普遍的社会と普遍的な人間が浮かび 上がってくる。そのときあくまでも地域的であり、特 殊であるものが、同時に世界的であり普遍的であると いう逆説が成立するのだ。
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わたしの在外研究生活 2017
日本大学文理学部准教授 前島 洋平
日本大学から1年間の在外研究の機会をいただき、
英国・ケント州のカンタベリーで暮らして半年にな る。ロンドンから南東に向かってバスで2時間ほどの 温暖な場所に位置するケント大学(University of Kent)
は、夏の語学研修や交換留学で文理学部と縁が深く、
この校名に聞き覚えのある方も多いに違いない。
わたしが大学院生として留学した今世紀初めとくら べて、学生を取り巻く環境が飛躍的に改善された。学 内施設(教室、図書館、学生寮、パブ、ジムなど)に 完備されたWifiは誰でも無料で利用でき、図書館は原 則として(学期中は)24時間開館している。この点に ついてはアメリカの大学の方が進んでいると耳にした ことがあるが、少なくとも日本の大学とはまったく異 なる環境と言っていいだろう。もちろん、大学構内に 学生寮を備えていることの多いイギリスの地方の大学 と、そうではない日本の大学を単純に比較することは できないけれど、時間を忘れて好きなだけ勉強できる 環境はとても魅力的だ。図書館内に明るく開放的なカ フェがあり、活字を読むことに疲れた心身を癒してく れるのもありがたい。
そしてこの図書館こそ、英国におけるわたしの「職 場」である。西館2階の大きなテーブルと白い革張り のソファーに席を取り、書庫から探し出してきた資料 に目をとおし、メモを取り、そこから得た未知の知識 は持ち込んだパソコンで調べる。単調なプロセスのよ うに映るが、慣れてしまえば快適このうえない。ただ し、時間の経過が恐ろしく速い。1日が瞬く間に過ぎ 去ってしまうのに、資料を読む速度がそれに追いつか ないのが実にもどかしい。
図書館での資料調査に加えて、専門とする作家サマ セット・モーム(Somerset Maugham, 1874-1965)ゆか りの地を巡っている。先日、英国での暗く息苦しい青 年期にあった彼が逃げるようにして遊学したドイツの ハイデルベルク大学を訪れた。ここでの生活がモーム に及ぼした影響の大きさは、半自伝的小説『人間の 絆』(Of Human Bondage, 1915) に詳しく描かれている が、当時のハイデルベルク大学の学生たちがモームの 憧れた「自由」を享受していた様子は、現在一般に公 開されている「学生牢」(Studentenkarzer)からも窺い 知ることができる。この場所は第一次大戦がはじまる 1914年まで約2世紀にわたって使用され、軽微でも 学生として相応しくない罪を犯した(行儀の悪い)学 生を一定期間拘束した。しかし、彼らは授業に出るこ とは奨励され、「牢」という言葉から連想されるよう な窮屈な生活を強いられるわけではなかったために、
日本大学と私
日本大学松戸歯学部准教授 山上 登美子
20代の頃、私は企業の販売本部海外課で4年ほど 輸出業務を担当しました。結婚後は外語学院で基礎英 語や英検受験対策講座の講師をしていましたが、英語 学を専門的に学びたくなり、日本大学への入学を考え ました。英文学科では英米文学、英語学、英語教育に 関する多くの専門科目を学ぶことができました。大学 院では軽井沢の夏季合宿で文学と語学の両方の研修を 受けることができ、とても勉強になりました。修士お よび博士課程を通して、アメリカ大統領の演説におけ るレトリック批評を中心に、川島彪秀先生にご指導い ただきました。教員免許状取得後、高校で英語を教え ることができるようになり、現場の先生方から授業の 展開方法や学生への対応のしかたなどを教えていただ きました。英文学科の先輩で、日本コミュニケーショ ン学会の片山博先生が研究発表の際に司会をしてくだ さった御縁で、日本大学松戸歯学部に勤務することに なりました。
2004年度は海外派遣研究員として、ボストン、ワ
シントンD.C.やニューヨークに約3か月滞在しまし
た。7月のボストンは晴れた日が多く、レンガ造りの アパートは快適でした。語学センターの教員訓練コー スに入り、午前中は外国人を対象とする英語の授業を 見学し、先生方の工夫や日常業務の内容を知ることが できました。午後はアメリカの教育制度、言語獲得理 論、学習環境論などを受講しました。ボストン大学の ムガール記念図書館には、ホイットマンの詩集「草の 葉」の第1巻やモームの直筆の手紙が展示されていま した。ハーバード大学には約50の図書館があり、文 献が専門別に保管されています。私はピュジー図書館 で、エレノア・ルーズベルトに関する博士論文を読み ました。ジョン・F・ケネディ図書館および資料館に はケネディ家の歴史やキューバ危機の際の記録があ り、選挙前の遊説で熱心に話しかける若きケネディの
《特集》
ここに収容されることは学生にとってある種の名誉に なったと伝えられている。壁や天井にびっしりと描か れた落書きを眺めていると、当時の若者による愚かな 所業というよりも、権力に隷属することを拒もうとす る彼らなりの心意気の表れのようにも見えてくる。
モーム作品でしばしば扱われる「自由」という主題の 確立には、ハイデルベルク遊学が不可欠だったと意を 強くした。
姿が印象的でした。
ワシントンD.C.にある議会図書館には、大統領の 名前にちなんだアダムス館、ジェファーソン館、マ ディソン館があります。研究者はマディソン館で登録 した身分証明書があれば、他の2館も利用可能です。
スミソニアンには多くの国立博物館や美術館があり、
入場料は無料でした。週末にはジョージ・ワシントン 大統領が22歳から67歳までを過ごしたバージニア州 のマウント・バーノンの邸宅を訪れ、ポトマック川を 見下ろす広い敷地に当時の生活の豊かさを感じまし た。また、植民地時代の町を再現したウイリアムズ バーグでは、18世紀の生活風景やイギリスからの独立 を話し合う議会の様子などを知ることができました。
ニューヨークでは、フランクリン・D・ルーズベル ト図書館および資料館のビデオや展示を見た後、演説 原稿を調べ、音声資料を入手しました。マンハッタン にある国際センターは、外国人がアメリカ社会に早く 慣れるように、交流の場を提供しています。私も米国 史やコミュニケーション技術などの授業に参加し、そ の様子を観察しました。英語で発表する活動が多く、
地域による社会状況や習慣の違いがわかり、多様な価 値観があることを実感しました。ニューヨークの公共 図書館には、大学院レベルの4つの研究図書館と85 の分館があります。コロンビア大学のバトラー図書館 では、論文の閲覧や検索の際に本館(人文社会科学図 書館)の司書の方に大変お世話になりました。ドネル 図書館のメディアセンターは映像資料が豊富で、大統 領選挙をめぐるメディア戦略を紹介するビデオは充実 していました。
「英文学会通信」には先生方の近況や月例会の予定 が掲載され、内容が充実していると思います。「同窓 会通信」の先生へのインタビューや留学体験記も楽し く読んでいます。私が日本大学英文学会に入ったのは 1984年なので、すでに30年以上お世話になっていま す。学生として約10年、専任教員として約20年を日 本大学で過ごすことができたのは、多くの人々の支え があったからだと感謝しています。卒業生の活躍と日 本大学英文学会の益々の発展をお祈り申し上げます。
第1回から第3回の検定試験奨学制度の申請者の実 績をご報告いたします。
第1回:レベル1…4名 レベル2…8名 第2回:レベル1…5名 レベル2…9名 第3回:レベル1…3名 レベル2…1名
第4回の申請は、2018年1月に受付をいたします。
たくさんの方の申請をお待ちしております。
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TOEIC 845
英検準一級
─資格試験の意義─
日本大学大学院博士前期課程
1
年 山本 史彬1.はじめに
私の英語力の肩書は上記のタイトルのとおりです。
英語を武器として社会で戦おうとしている者としては お恥ずかしい限りのスコアですが、これでもTOEIC 過去11回受験、英検準一級合格は三度目の正直なら ぬ、四度目の合格と自分なりに積み重ねてきた努力の 成果ではあると思います。そんな私が「英文学会通 信」に執筆させて頂けるということで、上記のタイト ルの等式が成り立つかどうかを踏まえ、資格試験の意 義について考えていきたいと思います。
2.資格試験は本当の英語力を示す? その意義は?
私は4月から本学大学院に在籍し、英文学専攻で、
博士前期の学びを始めております。大学院での学びは 刺激的で、学問のおもしろさに陶酔する日々ですが、
それと同時に自分の英語力の足りなさを痛感する毎日 でもあります。語学・文学両分野において院生の先輩 や仲間と意見を述べ合いながらの授業では「同じ院生 なのになぜそのような発想、解釈ができるのだろう」
と仲間達に惚れ惚れする場面は多々あり、正直悔しい と思うことなど日常茶飯事です。「資格試験という側 面からみると、自分の方がスコアが高いのにどうして
…」と唇を噛むこともありました。同様に、アメリカ での教育ボランティアでも、スコアははるかに自分よ り低いのに、臆せず流暢に会話をしている方々も沢山 見てきました。ひとたび日本の外へ出れば、TOEIC 高得点等の資格は彼らにとって意味を持たず、何を話 せるか・伝えられるのかの方が当然重要なわけですか ら…。
このように、資格試験=本当の英語力という等式が 崩れ、「資格試験で好成績が取れる人の方が英語能力 に長けている」という常識命題が常に成り立つとは限 りません。しかし、面白いことに、「英語力の低い人 が資格試験で好成績をとることはない」という命題は 真であると誰もが納得できるのではないでしょうか。
陸上で例えるならば、世界記録を持っているボルトが 常に大会で優勝するとは限らないが、9秒台の壁を越 えたことのない人が金メダルを獲る可能性は限りなく ゼロに近いというように。ここに資格試験の意義があ ると思います。資格試験は自分の英語力を最低限保障
《検定試験奨学制度報告》
=本当の英語力?
してくれるものなのです。そう考えると、資格試験は 誰から見ても公平・公正に実力を判定できる物差しで すから、近年TOEICスコアを採用の基準に課してい る企業が少なからずあることも納得できます。当然英 語力を企業は評価していますが、仮に英語をそれほど 使わない企業でも、TOEICで結果を出すには毎日少 しずつでも英語学習をしなければならないことを知っ ているが故に、その継続力も評価しているのだと思い ます。
英語を学ぶということは目標があってこそだと考え ます。海外の方々と話したい!英語で映画や小説に触 れ、感動してみたい!等のモチベーションはそれぞれ です。資格試験は級やスコア制で自分の成長を段階的 に感じることができ、そのモチベーション維持の助け にもなるでしょう。また、英文学科では検定試験奨学 制度やすばらしい先生方がおり、そのモチベーション を高めてくれるスイッチがいたるところにあります。
自分の可能性をさらに広げるためにも資格試験を有効 活用して、英語を樂習できたらと思います。学びは樂 しむことが一番だと思いますから。
ミシガン湖のほとりで
~留学体験記~
日本大学文理学部英文学科3年 平田 勇樹
私は前年度、日本大学本部の交換留学プログラムで アメリカ、ミシガン州のウエスタンミシガン大学に留 学しました。留学体験記ということなので、はじめに 留学中の生活について、次に私が留学中に体験した特 別な経験について話していきます。
まずは日常生活についてです。留学期間中は基本的 に大学のキャンパス内にある学生寮で生活することに なります。学生寮はいくつか種類があり、寮によって 部屋の広さや設備などが違います。私が入った寮は Ernest Burnham寮という寮で、私の部屋はアメリカ 人の学生一人と一緒の二人部屋でした。そして部屋に シャワーや洗面所はついておらず、各フロアにあるも のを共有して使っていました。食事は基本的には私の 住んでいた寮の中にある食堂を使っていましたが、
キャンパス内にある五つの食堂を使うことができ、そ れぞれの食堂に特徴があるので、自分の好みの食堂を 利用することができます。授業は基本的に月曜日から 木曜日までで金、土、日曜日は休日でした。しかしど の授業も課題や宿題が非常に多いので休日でも約半分
ぐらいの時間は勉強に費やしていました。日本での生 活と違うことも非常に多くて最初は大変ですが、その 生活を通して文化の違いを感じることができ確実に自 分のいい経験になったと思います。日本人留学生の中 には現地生との寮生活が嫌で日本人留学生同士でキャ ンパス内のアパートに住む学生もいましたが、アメリ カで過ごせる時間は八か月ほどしかないのですから私 は日々の暮らしの中でも現地の学生と交流を持つこと のできる寮生活をお勧めします。
そして、この留学の中で一番影響が強かったのはク ラブ活動です。私は派遣先の大学で水泳のチームに所 属しました。私自身が高校まである程度高いレベルで 水泳をやっていたというのもあってチームにも歓迎さ れ、チームメイトとは非常に深い関係を持つことがで きました。練習は月曜日から金曜日まで毎日、夜の
19:30から21:00までありました。また週末は試合な
どで遠征に行くこともあり授業と両立することは大変 でしたがとてもいい経験になったと思います。その中 でも4月の上旬にアトランタで行われた「大学クラブ スポーツ、全米水泳選手権」に出場したことが一番の 思い出です。私はその大会でメダルを二つ獲得するこ とができました。このほかにもチームメイトは車を運 転していろいろなところに連れて行ってくれました。
Thanks Givingの休日にはJessというチームメイトが 自宅に招待してくれて、一緒に休日を楽しみました。
学期末や誕生日、祝日などはSwimmer’s Houseと呼ば れる、チームのメンバーがシェアハウスをしている家 で一緒にパーティーをしました。挙げていけばきりが ありませんが、素晴らしい時間を彼らと過ごすことが できました。
アメリカの大学で2学期の間学ぶことができ、私の 英語の力が上がったことは留学の成果として十分なも のでした。しかし、彼らと出会えたことによって私の 留学がより楽しく、有意義なものになり、大学の授業 で学ばないようなことや文化などをたくさん学ぶこと ができました。
私は日本人留学生の中で現地の学生と一番親密で有 意義な関係を持ったのは私ですと自信をもって言うこ とができます。ただアメリカの授業を受けるだけが留 学ではありません。自分から興味のある学生団体やス ポーツチームなどに近づく一歩が留学生活を変える大 きな一歩になりました。この留学生活を経て、これか らも与えられた環境だけに満足せず自分からどんどん 前へと進んでいけるよう努力していきたいと思います。
《海外留学体験記》
当為を表す HAD BETTER
日本大学通信教育部助教 小澤 賢司 当為を表すHAD BETTERには、① 悪い結果を暗示 する(We’d leave now or we’ll miss the bus.)、② 近未来 を指示する(You’d better see a doctor {soon / ??one of these days.)、③一般的事態には使用できない(*Peo- ple had better always think before they speak.)、といっ た特徴がある。本発表の目的は、これら全てに共通す
るHAD BETTERの本質的意味とは一体何なのかを解
明することにある。また、HAD BETTERは ʻbetterʼ という比較の概念を含んだ表現形式であるにもかかわ らず、通常の比較表現とは異なり、単にthan節を後 続させることができない(You’d better do your home- work than watch this rubbish on television.)。この点に 関しても、併せて考察を行う。
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英語 /l/ の調音動作:
rtMRI データに基づく探索的分析
日本大学経済学部教授 中村 光宏
近年の音声生成研究において、リアルタイム磁気共 鳴画像法(rtMRI)は重要な技術として注目されてい る。rtMRI技術は、連続音声における声道全体の形状 とその動態の観測を可能とし、声道形成と調音器官の 包括的な協調タイミングに関する動的な情報を提供す る。この技術を利用した最近の研究では、調音器官の 運動制御、調音目標、調音動作の協調タイミング、調 音の基盤などの諸問題に関する新たな知見が得られて いる。
本発表は、rtMRIデータベースから収集したデータ の分析に基づき、英語の有声歯茎側面接近音/l/の調 音運動の特徴を明らかにし、音声生成メカニズムに関 する理解を深めることを目的とする。具体的には、舌 頂調音(apical)と舌端調音(laminal)の空間的・時間 的特徴、舌尖・舌端動作と舌背動作の協調タイミン
グ、Lの母音化に関与する子音動作について探索的分
析を進める。そして、調音タスクの個人差とその音声
生成モデルにおける位置づけを調音音韻論の枠組みか ら検討したい。
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Pleasure Reconciled to Virtue から A Mask へ
―Comus 描写から窺える Milton の 考える悪役像とヒーロー像―
日本大学文理学部助手 桶田 由衣
本発表の目的は、17世紀英国叙事詩人John Milton
(1608-74)作の仮面劇A Mask(1634)とその種本の一 冊、Ben Jonson(1572-1637)作の仮面劇Pleasure Rec- onciled to Virtue(1618)のそれぞれの登場人物と作品 構成を比較し、Jonson から影響を受けつつも、Milton が当時の仮面劇作品には見られない独自の考えを作品 に表現していることを明らかにすることである。従来 Pleasure Reconciled to VirtueとA Mask に見られる共通 点として、悪役Comus の登場と“virtue”の扱いが挙 げられてきた。本発表では、従来の研究でこれまで論 じられてきたように、先ず両作品の Comus に関する 描写と、両作品の構成を比較する。その結果、Milton がPleasure Reconciled to Virtue のComus を単に踏襲す ることなく、A Mask においてどのようなComus を描 き出したかを考察し、さらにそれに応じて描かれる Comus から誘惑を受ける主人公 the Lady が如何に誘 惑に抗い、救いを求めるに至ったのかを考えたい。
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ジェイン・オースティンの
『エマ』に関する一考察
─ハイベリーの女主人役を務め続けるために─
松山大学法学部教授 新井 英夫
主人公エマ ・ ウッドハウスはハートフィールドの
「女主人役」を務めるだけでなく、「三万ポンドの相続 人」の立場を享受しており、ジェイン・オースティン の他のヒロインとは比べ物にならない特権的な境遇に
《年次大会発表要旨》
置かれている。そのためエマはハリエット・スミス に、自分は現在も将来も結婚するつもりはなく、結婚 すれば必ず後悔することになるだろうと、女性にとっ て結婚が極めて重要な意味を持っていたこの時代にお いて、特異な意見表明をしている。このように社会的 地位、財産、知性、容姿などの全てを兼ね備え、周り の人々から尊敬を集め、「女主人役」として自らの力 を振うことに生きがいを見出してきたエマが、果たし てナイトリー氏の妻として満足した結婚生活を送るこ とができるだろうか。そもそもエマとナイトリー氏の 関係は、恋人というよりもむしろ「兄妹のような」関 係に相当すると考えられ、エマの結婚はナイトリー氏 に対する熱烈な恋愛感情から生まれたものではない。
本発表では、「女主人役」としての地位を維持するた めの起死回生の手段として、エマがナイトリー氏との 結婚を選択したのではないかという立場に立って論じ ることで、語り手がエマに「内的焦点化」したために 読者には見え難くなってしまった作品の側面に光を当 ててみたいと思う。
●月例会報告
2017年度9月以降の月例会(シンポジウム)は以下 のとおり行なわれました。
9月 アメリカ文学シンポジウム(2017年9月23日)
[テーマ] 失われたエデンを求めて
コーディネーター 高橋利明(文理学部教授)
[発 表]
1. Toni Morrison の描くエデン-Paradise について 茂木健幸(文理学部講師)
2. トウェインと “Angelfish” たち 鈴木 孝(理工学部教授)
3. 『大理石の牧神』の見出されたエデンをめぐって
高橋利明(文理学部教授)
10月 英語学シンポジウム(2017年10月14日)
[テーマ] Be to, or not be to, that is the question コーディネーター 佐藤健児(文理学部助手)
[発 表]
1. 現代英語の be to 構文に関する記述的研究 佐藤健児(文理学部助手)
2. Be to 文の意味ネットワーク 一條祐哉(文理学部准教授)
3. コーパスから見える if ... were (was) to / should ... の特徴
塚本 聡(文理学部教授)
11月 研究発表(2017年11月18日)
司 会 小林和歌子(文理学部准教授)
[発 表]
1. 第二言語リーディングにおける流暢さと正確さ
島本慎一朗(博士後期課程3年)
2. The Secret Gardenにおける人と庭の関係性 -ʻA Paradise within theeʼ を踏まえつつ-
加藤遼子(博士後期課程3年)
●月例会予定
2017年12月以降の月例会の予定は以下のとおりです。
詳細が決まり次第、メールおよび本学会ホームページ にてご案内いたします。
12月 2017年度学術研究発表会・総会(2017年12月9日)
詳細は年次大会プログラム(p.11)をご覧ください。
1月 研究発表(2018年1月20日)
司 会 隅田朗彦(文理学部准教授)
発表者
1. 藤木智子(文理学部講師)
2. 柳川浩三(法政大学准教授)
●研究発表者募集
当学会では、次年度の月例会(シンポジウムを含 む)・年次大会の発表者を募集しております。発表を ご希望の方は、以下の情報を事務局までお寄せくださ い。なお、検討の結果、ご希望に添えない場合がござ います。予めご了承ください。
1. 氏名
2. 住所・電話番号・メールアドレス
3. 所属
4. 発表希望年月 5. 発表題目
6. 要旨(日本語400字以内、英語200語以内)
《月例会関連》
《新刊書案内》
日 時:12月9日(土)13:30より 場 所:日本大学文理学部
図書館3階オーバル・ホール (学術研究発表会・総会)
第2体育館地下1階(カフェテリア チェリー下)
さくらホール(懇親会)
会長挨拶:高橋利明(文理学部教授)
学術研究発表会
●語学の部:13:35~14:55
司 会 山上登美子(松戸歯学部准教授)
[発 表] 1.小澤賢司(通信教育部助教)
2.中村光宏(経済学部教授)
休 憩:14:55~15:10(15分間)
●文学の部:15:10~16:30
司 会 飯田啓治朗(文理学部教授)
[発 表] 1.桶田由衣(文理学部助手)
2.新井英夫(松山大学法学部教授)
休 憩:16:30~16:40(10分間)
総 会:16:40~17:10
司 会 一條祐哉(文理学部准教授)
[会長挨拶] 高橋利明(文理学部教授)
[会務報告] 佐藤健児(文理学部助手)
[会計報告] 堀切大史(文理学部准教授)
そ の 他
懇 親 会:17:40~19:40
司 会 上滝圭介(埼玉医科大学専任講師)
懇親会費 :研究会員:5,000円
学生会員・大学院生:2,000円
同窓会員:無料
日本大学英文学会 2017 年度 学術研究発表会・総会・懇親会
《年次大会プログラム》
本学会員による新刊書を下記のとおりご案内いたし ます。学会員で研究書等を出版された方は事務局(英 文学研究室)までお知らせください。新刊書案内とし て随時掲載いたします。
1. Koji Fujita and Cerdric Boeckx eds. 2016. Advances in Biolinguistics: The human language faculty and its biological basis. London and New York: Routledge.
[保坂道雄先生(文理学部教授)が共著者として 執筆]
2. 日本音韻論学会(編).2016.『現代音韻論の動 向―日本音韻論学会20周年記念論文集―』東 京:開拓社.
[中村光宏先生(経済学部教授)が共著者として 執筆]
3. 小 川 芳 樹・ 長 野 明 子・ 菊 地 朗( 編 ).2016.
『コーパスからわかる言語変化・変異と言語理 論』東京:開拓社.
[保坂道雄先生(文理学部教授)が共著者として 執筆]
4. 藤井繁(著).2017.『ラフカディオ・ハーンと 怪奇文学』東京:コプレス.
[藤井繁先生(聖徳大学名誉教授)が執筆]
5. 野呂有子(監修.共編著)『〈楽園〉の死と再生』
第2巻.東京:金星堂,2017.
[野呂有子先生(文理学部教授)が監修、共編 著。また小川佳奈さん(博士後期課程1年)、
恩田佳代子さん(文理学部英文学科博士前期課 程修了。現在、京都大学大学院人間・環境学研 究科博士前期課程1年)、藤木智子先生(日本 大学非常勤講師)、金子千香さん(博士後期課 程2年)、桶田由衣先生(横浜商科大学特任講 師)、上滝圭介先生(埼玉医科大学専任講師)、
村松瞳子さん(博士後期課程1年)、松山博樹 先生(日本大学法学部助教)、野村宗央先生(松 山大学特任講師)、茂木健幸先生(日本大学非 常勤講師)が共著者として執筆。肩書は巻末の 執筆者紹介による]
※昨年度の会場(カフェテリア チェリー)とは、
懇親会の会場が異なります。移動の際には、
ご注意ください。
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田中孝信、要田圭治、原田範行編
『セクシュアリティとヴィクトリア朝文化』
(彩流社、 2016 )
日本大学文理学部教授 閑田 朋子
編著者の田中は、本書を次の一文から始めている。
ヴィクトリア朝人はセクシュアリティ(性行動
や性的願望の総体としての性現象)の大いなる敵 であった。これはジークムント・フロイト以降、
人口に膾か い し ゃ炙した捉え方であり、「社リ ス ぺ ク タ ビ リ テ ィ
会的体面」に 囚われたヴィクトリア朝中産階級が隠し、避け、
抑圧し、否定しようとした最大のものがセクシュ アリティだというのだ。
本書の根底に流れているのは、このような一元的なと らえ方に対する疑問である。
第一章「マルサス以降」(要田圭治)は、18世紀末に 発表されたマルサスの『人口論』から話を始め、その 思想がヴィクトリア朝社会に与えた影響を、医者・公 衆衛生改良家が下層階級の人々の身体と住環境を調査 する際に、統計による「性の可視化」に頼りがちで あったことをつまびらかに読み解いていく。
第二章の拙論「『不適切な』議題と急進派女性ジャー ナリスト、イライザ・ミーティヤード」は、1847年の 売買春取引抑制法案の行方を、性を論じても品位を落 とすまいと曖昧な言葉を使って議事を進める議会と、
歯に衣着せずにことを世に問う女性ジャーナリストを 対比して、発議から否決まで追ったものである。
第三章「『模倣』する『身体』」(侘美真理)は、アン・
ブロンテの『アグネス・グレイ』のヒロインの身体が、
動物と人間のアナロジーを通じて、どのように描かれ ているのか、考察するものである。セクシュアリティ を内在する生身の肉体が、「倫理的に統制された」身 体を理想とするとき、欲望はどこに向かうのか。「模 倣」をキー・ワードに論が展開する。
第四章「髪と鏡」(本田蘭子)は、シャーロット・ブロ ンテ作『ジェイン・エア』に登場する狂女バーサの悲劇 を、蛇の髪を持つメドゥーサの悲劇に重ねて論じてい る。女性のセクシュアリティを象徴する髪に注目し、鏡 を間において見る者と見られる者の関係性を分析する。
第五章「欲望の封印から充足の模索へ」(市川千恵 子)は、劣悪な環境下で性労働に従事する貧しい少女 の救済を目指したエリス・ホプキンスが、「男性の放 縦な性の営みを男らしさの表れと容認し、女性の身体
を搾取の対象と位置づける家父長的な精神構造」を、
いかに「転覆しようとした」のかを探る。
第六章「『現モ ダ ン代バビロンの乙お と め女御ご く う供』」(川端康雄)
は、1855年にW・T・ステッドが『ペル・メル・ガ ゼット』紙に連載した、ロンドンの少女売春実態調査 について論じ、過激で扇情的な文章をもって世論を動 かした彼の少女売春撲滅キャンペーンの本質に迫る。
第七章「ジャーナリズムとセクシュアリティの世紀 末」(原田範行)は、「ジャーナリズムとセクシュアリ ティが取り結ぶ複雑な関係とワイルド文学の特質」を 明らかにする過程で、セクシュアリティに関しても自 己をあくまでも芸術的に表現し、その表現を完成させ ようとしたワイルド像を浮かび上がらせる。
第八章「イースト・エンドと中国人移民」(田中孝 信)は、当時のロンドンの「最暗黒」部にして、中国 人移民の多い「オリエンタルなロンドン」でもあった イースト・エンドに注がれた、中・上流階級の複層的 な眼差しを、世紀転換期のオリエンタル・ゴシックと も見なされるスラム小説群に描かれた異人種間の性的 混こ ん こ う
淆から読み解いていく。
第九章「D・H・ロレンス『息子の恋人』のセクシュ アリティと(ポスト)ヴィクトリア朝」(武藤浩史)は、
異性愛にも同性愛にも限定されないロレンス作品のあ り方を、ヴィクトリア朝後期から20世紀初頭に至る フェティシズムの系譜のなかで分析する論である。
セクシュアリティに限らず、どこまでも一元的な社 会現象などまずありえないのだが、複雑性や多層性に 目を向ける傾向を持つ本書は、学生会員の方たちには 難しく思われるかもしれない。そのため、興味を持っ た章から読み始める形でもよいので、まずは手にとっ ていただきたい。その後に最初から最後までを通して 読めば、ヴィクトリア朝の文化が時とともに変化する 様相が伝わりもするだろう。研究会員の皆様には、忌 憚のないご意見・ご感想を賜りますようお願いする次 第である。
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『高校生は中学英語を使いこなせるか?
―基礎定着調査で見えた高校生の英語力― 』
(金谷憲(編著)、アルク選書シリーズ)
日本大学文理学部准教授 隅田 朗彦
コミュニケーションのための英語力が求められてい る昨今、高校生に中学英語の「基礎がどれくらい定 着」しているかを調査するという試みにはいささか奇
妙な印象を持つかもしれない。しかし、本書で扱われ ている中学英語の基礎とは、一般的にイメージされる ような、三単現の ʻsʼ を正しくつけたり、平叙文を疑 問文に変換したり、短文の空所に語を正しい形にして 入れたりするような基礎力を指しているわけではな い。中学英語についてどれくらい知識を持っているか ではなく、タイトルのとおり、どれくらい「(コミュ ニケーションに支障がないぐらいの速さで)使いこな せる」かを問題にしているのが本書の特徴である。文 部科学省も定期的に公立高校3年生の英語力を測って いる。また、生徒に実際に英語を書かせたり話させた りしてどれくらい使えるのかを測るテストも実施して いる。しかし、それは「中学校の基礎」がどれくらい 定着して「使いこなせているか」に焦点を当てたもの ではない。本書の第1章で、編著者は次のように本書 の目的を記述している。「半世紀も前から国の教育方 針の中に入っている、『繰り返し学習し定着を図る』
取り組みが50年以上営々と行われ、その成果が共有 されているかというと、どうもそうではないようで す。(中略)ですから、中学英語がどれくらい高校生 に定着しているかのデータもあまり見当たりません。
(中略)データがない!ということであるならば、調 べてみればよいということになります」(pp.12-13)。
上記のような目的で、高校生に6種のテストを受け てもらい、「ザックリいろいろ」と調べることで、中 学英語の定着度合いを見ようとした調査の報告が本書 の大部分を占める。首都圏を中心とした公立・私立高 等学校の、学年もまちまちな、のべ5,000人の高校生 が調査された。使われたテストは①速読、②リスニン グ、③ディクテーション、④和文英訳、⑤絵の描写ラ イティング(2種)である。②④のようなオーソドッ クスなテストもあるが、①③⑤のような、「どれくら い使えるか」を意識した、学校現場では普段はあまり 行われない活動も含まれている。実際に使用されたテ ストは本書の巻末にすべてそのままの形で記載されて いるため、どのように英語力を測ったのかを知ること ができる。「ザックリ」「いろいろ」は本書のキーワー ドのようなものであり、厳密なテスト法や統計学的信 頼性などを追求せず、とりあえずデータを集めてみる というのが調査の方針である。
上記テストの実施法や結果について、それぞれに1 章ずつが割り当てられ、第2章から第7章に渡って詳 細に記載されている。調査結果は多くがかなり衝撃的 であるが、ここでは一例だけをご紹介するのみに留 め、残りは本書をお楽しみいただくことにする。例え ば、⑤「絵を描写する作文」の1つ目は、ある往来の 激しい街角の一瞬をとらえたイラストの中の人々の行 動などについて、5分間でできるだけ多くの文で描写 するというテストである。テストの結果、細かな文 法・語法の間違いなどは不問とし、基本構造が書けて いれば良しとしたかなり甘い基準の場合でも、5分間
で正しい文が10文以上書けた、つまり30秒で1つの 文(平均7語程度)が書けた高校生は全体の5%に満 たなかった。つまり、95%以上の高校生は7語ほどの 短文を書くのに30秒以上かかるということである
(ここで、進学校の高偏差値な高校生も多く含まれた 調査の結果であることに注意が必要である)。このよ うに、各テストについて、どれくらいの高校生がどれ くらいのことができるのか、興味深い結果が記載され ており、高校生の中学英語定着状況がよくわかる。
最後の2章(第8・9章)では7章までの結果を踏ま えた著者らの定着への考え方に対する座談会と、デー タの利用方法や今後の高校生の基礎定着への課題、課 題解決への具体的な方法などの記述が続く。したがっ て、本書によって得られたデータは、ただ高校生は何 ができて何ができていないのかを知るだけでなく、現 状把握をした上で、英語を「使いこなせる」ように指 導するにはどのようなカリキュラムでどのように授業 を進めていくべきかを考える有益な資料となり得る。
中学英語がおぼつかないところに、いくら高校英語を 乗せても英語力の安定は望めず、高校英語にこそ既習 事項の定着を念頭に置いた指導が必要であるという著 者らの熱い思いが表出された書籍であると言えよう。
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『現代音韻論の動向 日本音韻論学会
20 周年記念論文集』
(日本音韻論学会編,開拓社, 2016 年発行)
日本大学経済学部教授 中村 光宏
日本音韻論学会は平成9年(1997年)に設立され、
平成28年(2016年)に20周年を迎えました。本書は、
その記念事業のひとつとして刊行されたものです。
「音韻研究の昔と今を考える」というテーマのもと、
本書は3部で構成されています。第1部「日本音韻論 学会のこれまで」では、学会設立に至る過程と学会活 動(研究発表会・音韻論フォーラム、招待講演・学位 取得者講演、韓国との学術交流)について詳細な記述 があります。第2部の「現代音韻論の動向」は56編の 研究論文で構成され、第3部「『音韻研究』総索引」
は、学会誌『音韻研究』の第1号から第19号に掲載さ れた学術論文327編の総索引です。
本書の中核である第2部「現代音韻論の動向」は4 章で構成されています。前半2章のテーマは分節音と プロソディで、後半2章は周辺諸分野との接点と音