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経済教育のための地域教材の活用

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Academic year: 2022

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1 はじめに

 神奈川大学が横浜みなとみらい(MM)21 地 区へ新キャンパスを開設することが発表された

(2017.4.13. 日本経済新聞他)。2021 年4月の開 設予定で,地上 21 階建て,地下1階建ての大 型ビルとなる。先進的なイメージのMM地区に 学習・研究拠点を設けることで,入学したい学 生を開拓するという。

 「みなとみらい 21」は,後述する二分された 横浜の中心機能,すなわち行政・経済の関内地 区と経済・商業の中心となった横浜駅周辺地区 を結び付けるための都市計画によるもので,最 先端の街造りが進められている。もともとは造 船所や高島埠頭,臨港貨物線などの港湾施設を 移転させたウォーターフロントの再開発地域 で,横浜ランドマークタワーをはじめとした高 層ビルや赤レンガ倉庫などの施設利用によって 横浜の新しい顔となっている。

 横浜は今も昔も,港と共に発展してきた都市 ともいうことができるが,幕末の開港は日本の 資本主義経済の夜明けでもあった。西洋文明に いち早く接した横浜の,当時を物語る施設や建 物の多くは,関東大震災や横浜大空襲などで失 われてしまったが,それでも,修復や復元によ る建築物や遺構,碑文などでその歴史や背景を 学ぶことができる。

 筆者は,他大学での「社会・公民科教育法」

の講座での経済分野の講義に,横浜の歴史的建 造物等に関連した話題を取り上げている。身近

で具体的な地域教材は,新学習指導要領の観点 の一つになるであろう「主体的に取り組む態 度」に寄与できると考えている。

 本稿では江戸時代後半(幕末)の開港から,

世界経済に組み込まれて発展していく,日本の 資本主義の夜明けともいうべき時期を中心に,

横浜にある施設を経済教育の教材という視点で 見ていこうと思う。

2 新田開発

 江戸時代は鎖国に伴い,ほぼ国内での自給経 済であった。その仕組みは幕藩体制の中,全国 的な幕府の経済政策と,城下町を中心とした藩 経済との複合で成り立っていた。経済の基盤は 農業,特に米の生産であったが,税である年貢 を米で収める農村においても貨幣経済が急速に 発展していった時代でもある。それでも税(年 貢)や武士(役人)の俸禄には米が用いられて いて,経済の発展を支えたのは各地で行われた 新田開発であった。現在の横浜市域でも東京湾 に注ぐ河川の河口域にある沼地や入り江が埋め 立てによって水田に変わっていった。中でも特 筆すべきは,後の横浜港の後背地となる,大岡 川河口の入海約 115 万5千㎡を埋め立てた吉田 新田の開発である。江戸の豪商であった吉田勘 兵衛が出資額の5割を負担,完成は 1667(寛 文7)年,ペリー来航の 186 年前である。総事 業費は8千両,江戸時代の貨幣価値を現代の価 値に表すのは難しいが,8~ 16 億円から 100

経済教育のための地域教材の活用

─日本の資本主義の夜明けは横浜から─

三崎 徹雄

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億円相当と大きな幅がある(横浜市歴史博物館

「吉田新田の歴史展(2016.10.7 ~ 11.16))」紹 介の新聞記事より)。今から半世紀前だが,参 考までに,約 150 倍の面積の八郎潟の干拓(1957

(昭和 32)年着工,1977(昭和 52)年完成)の 事業費は約 852 億円であった。

 ちなみに釣鐘型のこの入海の東京湾側には砂 州が発達し,そこにあったのが横浜村である。

現在,横浜の小学校では4年生の社会科の地域 学習で吉田新田の開発について学んでいる。

3 黒船来航から開国へ

 現在の横浜の人口は約 373 万人(2018.1.1.)。 これは日本の基礎自治体(市町村及び特別区)

の中で最大で,2 位の大阪市の人口に 100 万人 以上の差をつけている。ただ多くの都市に比べ て歴史は浅い。京都や奈良,あるいは鎌倉など は別格として,県庁所在地のような地方の中心 都市は江戸時代,あるいはそれ以前に城下町や 門前町として都市機能を成立させていた。

 開港以前の横浜は前述したように一寒村であ り,現在の市域にも東海道に沿って神奈川・保 土ケ谷・戸塚の宿場があるにすぎなかった。横 浜の名が日本,そして世界に認知されるのは,

ペリーの黒船来航による日米和親条約と,その 後の駐日米総領事ハリスとの交渉によって,港 が開かれてからである。黒船来航(1853)の翌 年,再び訪れたペリーの応接所を,東海道から 離れた横浜に設け,約一か月の交渉の結果締結 されたのが日米和親条約である。応接所が設営 されたのは現在の大さん橋入口近くで,開港広 場として整備され記念碑が設置されている。隣 接する旧英国領事館とその敷地は横浜開港資料 館となっていて,中庭の木はペリー艦隊の随行 画家ハイネの描いた横浜上陸の石版画に描かれ ている木だと伝えられている。

 修好通商条約による開港五港の一つは神奈川 となっているが,東海道沿いの開港によって日 本人と外国人との接触による不慮の事態を懸念

した幕府は,横浜も神奈川の一部であると主張 して,ペリーとの交渉場所に築港工事を進め,

既成事実化して横浜を開港場にした。実際問題 として,神奈川宿沖では水深などから貿易船の 利用は難しかったようである。

 日米修好通商条約締結にあたり,幕府の老中 堀田正まさよし睦は朝廷の許可を得ようとしたが,朝廷 は鎖国攘夷の方針を崩さなかった。アメリカと の交渉以外に,幕府には将軍継嗣の問題もあ り,内外の難局打開のために就任したのが,大 老井伊直弼である。井伊直弼も勅許にこだわっ たが,世界情勢を背景に迫るハリスとの交渉の 末,条約に調印することになる。和親条約に続 き,通商条約も勅許を得なかったことが,公家 や朝廷側に立つ武士の反感を招き,抗議行動が 起きた。井伊直弼は関係者を処分した(安政の 大獄)が,その結果,自身も襲われ命を奪われ た(桜田門外の変)。混乱のなか結ばれた条約は,

オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結 ばれて安政の五か国条約となり,日本は自由貿 易を行う資本主義的世界経済に組み込まれてい くことになった。

 賛否,功罪が論じられる井伊直弼であるが,

彦根藩有志により建てられた銅像(太平洋戦争 で供出されたが戦後復元)が横浜市西区の掃か も ん部 山やま

公園の丘の上から港の繁栄を見つめている。

4 居留地貿易による横浜の発展

 通商条約を結び開港したということは,外国 と貿易をするということを意味する。ただし,

安政の五か国条約には条件があり,開港場近く に外国人居留地を作り,外国人はそこに住んで 商売をすることと決められていた。横浜の場合,

横浜村のある砂州と,その内側の太田屋新田と 横浜新田が居留地となった。一方は港を中心に 海に面し,残りの三方を大岡川と吉田新田との 間の派大岡川,砂州の根元を開削した堀川に囲 まれた出島のような形態であった。修好通商条 約第3条に居留地を囲む塀などを作ることなく

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出入りを自由にすることと定められていたこと もあり,川や堀には橋を架けて出入りはできた が,攘夷論者など不審な人物の進入を防ぐため に関門が設けられた。JR根岸線の駅名になっ ている関内は,この関門の内側を意味する言葉 である。

 横浜は条約にある神奈川ではないと外国領事 が反対する中,幕府は道路・港湾施設・日本人 及び外国人のための家屋(商館)までも建てて しまう。開港当時の外国領事館が神奈川宿近く の寺を利用したのは,条約の神奈川にこだわっ たからであり,来日した外国商人たちは開港場 に居を構え,商売(貿易)を始めた。開港場は 二分され,イギリス波止場と呼ばれた中央の突 堤(現在の象の鼻パーク)の北西側(海から見 て右手)に日本人商店,南東側(同じく左手)

に外国の商館が立ち並び,外国人の商館には波 止場に近いほうから順番に番号(地番)が振ら れた。現在,大さん橋入口近くに建つシルク博 物館の前に「英一番館跡」の碑が立っている。

 貿易に携わる日本人商人も全国から集めら れ,幕府に許可を願い出た日本人は 100 人以上 になったと当時の瓦版は伝えている。開港2年 後の 1861 年,居留地外国人はイギリス人 54 人,

アメリカ人 38 人,フランス人 14 人,オランダ 人 20 人との記録がある。この年,アメリカで 南北戦争が勃発,貿易相手国はイギリス中心と なっていく。また,使用人や通訳として外国人 と共に来日した中国人も多く,日本に移住し て,後の中華街を形成していった。

 人口が増加し,市街地も拡大していたが,

1866(慶応2)年に大きな火事が発生,日本人 市街地(木造住宅)と外国人居留地の一部を焼 失した。この大火をきっかけに再整備が行われ,

日本人と外国人の居留地の間に防火帯として広 い日本大通りができ,遊郭を移転させて公園

(後の横浜公園)を作った。1867(慶応3)年に は山手の丘に居留地を認め,多くの外国の役人 や商人が移住し,西洋館を建てている(現在の 山手西洋館は関東大震災,及び第二次世界大戦

後に建築,移築されたものがほとんどである)。  横浜開港資料館に居留地を中心にした開港当 時の横浜の模型,横浜都市発展記念館前には

「旧居留地消防隊の遺構」,横浜公園には日本大 通りや横浜公園を設計した英国人土木技師(お 雇い外国人)リチャード・ヘンリー・ブラント ンの胸像と公園の変遷を記した説明板がある。

また,山手地区には,移築された西洋館のほか に,旧フランス領事館邸遺構や,関東大震災で 崩壊した山手 80 番館遺跡などがあり,居留地 の様子をうかがい知ることができる。

5 通商による通貨問題

 生産の三要素は土地,資本,労働であるとい われる。サービスの生産である商売に当てはめ,

開港当時の横浜を見てみると,土地は開港場と して幕府が整備し,資本は江戸時代に豪農・豪 商と呼ばれる富裕層が存在し,幕府の統制のも と金銀の生産も多かった。当時の世界では類を 見ない,識字率が5~7割の良質で豊富な労働 力もあった。ペリーの予言した,「もっとも進 んだ工業国に日本が追い付くのは,そう遠くな い」「将来強力な競争国の一つになる」可能性 は十分にあったが,そのために越えなければな らない壁があった。

 国内の準備が整い,貿易が始まるが,それま でとは全く異なる取引の形態であり,まず直面 するのが,日本と外国との貨幣の交換レートの ことである。高校の日本史の資料集などに詳し く説明があるが,ここでは日本銀行金融研究所 貨幣博物館のリーフレット,お金の豆知識「幕 末の金貨流失」から要約する。

 日米修好通商条約では,外国の貨幣は日本の 貨幣と同じ種類のものは同じ量目で通用すると 定められていた。同じ種類というのは金,及び 銀のことであり,金貨は金貨,銀貨は銀貨で同 じ重さで交換できるということである。他の四 か国とも同じ内容であった。外国間の貿易は洋 銀と呼ばれる1ドル銀貨(重量 108 gうち純銀

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98 gで主にメキシコ銀貨)が使われていた。

これに匹敵する日本の銀貨は天保一分銀 12 枚

(総重量 104 g純銀 103 g)であった。これだけ でも日本にとって約5%の不利益になるのだ が,大きな問題は金と銀の交換比率が日本と外 国とで異なっていたことであった。江戸時代の 貨幣体系では1両=4分。1両小判はたびたび 改鋳され時期によって大きさや金の含有量が違 うが,当時流通していたのは天保小判で純金 6.4 gが含まれていた。つまり日本では1両(純 金 6.4 g)と4分(純銀 34 g)が交換でき,金 銀比率は金1gに対して銀5g。ところが外国 の金銀比率は金1gに対して銀 15 g。幕末の 日本の金の価値は銀で測れば外国の3分の1 だったことになる。通貨交換を定めた修好通商 条約第 5 条では日本国内での両替と貨幣の輸出 を認めている。そうなると外国人は日本に持ち 込んだ洋銀を一分銀に替え,それを小判に両替 し,小判(金貨)を海外で洋銀に交換して利益 を上げることができた。具体的に量を示すと,

洋銀4枚(4ドル)で天保一分銀 12 枚を手に 入れ,それを天保小判3枚(3両)と両替,こ の小判は金貨として海外で洋銀 12 枚と交換で きた。両替だけで3倍の利益を上げることがで きたので大量の金貨(小判)が海外に流出した。

流出量は推計だが,横浜だけで 30 万両とも言 われている。

 幕府はこの対策に1ドル銀貨半分の銀を含む 安政二朱銀(4朱=1分)と天保小判の重量の 5分の4の安政小判を発行したが,安政二朱銀 は開港場のみの通用貨幣で,安政小判も交換比 率は変わらず外国商人や領事の反対にあって,

鋳造停止になった。小判の大幅な量目低下は国 内の混乱(著しい物価の高騰)を招くため実施 をためらった幕府だが,打開策として大きさが 天保小判の3割近くの万延小判を発行し,安政 一分銀との交換比率を1対 15.8 の国際水準に近 づけ,金貨の流出を止めることができた。

 この史実は「悪貨は良貨を駆逐する」という グレシャムの法則の例として説明することがで

きる。江戸時代を通して何度か行われた貨幣,

特に金貨(小判)の改鋳だが,財政難で質を落 とし,それが原因で物価が高騰,質や量をもと に戻すということが行われた。幕末の金貨流出 は国際間の金と銀との素材価値の差で,悪貨が 日本に流入,良貨が海外に流出したことにな る。

 なお,小判を小さくして貨幣価値を落とした ため,急激に物価が上がり人々の生活を苦しめ た。これを貿易,さらには外国人のせいだとし て攘夷運動が激化,外国人が襲われる事件が相 次いだ。有名なのが,東海道の生麦(横浜市鶴 見区)で起きた生麦事件で,近くに碑が建てら れている(2018 年現在,道路工事のため碑は キリン横浜ビアビレッジ内に移されている)。

6 税関業務を担う運上所

 神奈川県庁の敷地内,南の角に「神奈川運上 所跡」の碑(石柱)が建っている。港に近い場 所で,幕末の開港に関わることは想像がつく。

江戸時代の奉行所は行政及び司法の幅広い分野 を担当する役所であったが,開港以来,それま でにない業務,すなわち外国人との交渉,関税 の徴収など,外交事務と税関事務を担当したの が運上所である。運上方ともいい,江戸幕府に より開港直前の 1859(安政6)年に設置され,

神奈川奉行所の中で最も重要な仕事を担ってい た。ちなみに神奈川奉行所は開港に際して,港 を見渡せる,今の紅葉坂を登ったところにあっ た。横浜錦絵の「横浜海岸之図」1870(明治3)

年3代歌川広重(横浜開港資料館蔵)に明治初 めのイギリス波止場の様子が描かれ,岸壁のす ぐ近くに運上所の上屋(倉庫)があり,そこで 輸出入貨物の検査が行われている。輸入品は沖 合の外国船から手漕ぎの小舟に移されて入港 し,検査の済んだ輸出品も小舟で外国船に運ば れた。大さん橋入口にかかる山下臨港線プロム ナードの橋脚部分にも壁画としてこの絵を見る ことができる。

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 日米修好通商条約は不平等条約と言われる が,戦争に負けた結果結んだ条約と違い,日本 側の要求,あるいは日本に配慮した内容も認め られる。通関に関しては,第4条に輸出入品は すべて日本の税関(運上所)を通すこととあり,

役人による規制と関税を認めている。また開国 に向かった判断の一つがアヘン戦争の情報だっ たこともあり,アヘンの輸入を禁止している。

横浜税関本館 1 階の資料展示室には,五か国の 通商条約の複製があり,アヘン輸入禁止のペー ジを開いて展示している。

 鎖国をしていて,貿易と国際条約に不慣れな 日本には関税自主権という考えはなく,条約の 附則という形で協定関税制という,相互に協議 をして決める形をとった。その結果,関税率は 輸入品で原則 20%(外国人の生活のための所 持品は無税,工具・建材・食料は5%,酒は 35%),輸出品は5%でいずれも外国人が払う ことになっていた。不平等とは言えず,日本に 有利な内容ともいえよう。開港当初の日本の輸 出品は,1865(慶応元)年を例にとると,生糸 が 80%近く,茶が約 10%,他は蚕卵紙(紙に 蚕の卵を産み付けたもの),海産物などであっ た。同じ年の輸入品は,毛織物と綿織物が4分 の3を占め,艦船や武器(幕府が購入)がそれ に続いている。貿易品の内訳をみると,産業革 命前の日本が,欧米先進国の原料供給地や工業 製品の市場であることがわかる。

 開港後7年間で貿易額は約5倍となり,1866

(慶応2)年に輸入品の関税率が一律5%に引 き下げられるまで,日本の輸出超過,つまり貿 易黒字が続いた。当時の横浜港の貿易額は全国 の9割,貿易相手国はイギリスが中心であっ た。輸出の急増により,生糸などの生産が追い 付かず,国内よりも輸出を優先したので品不足 で値上がりした。この影響は他の商品にも波及 して物価が高騰し庶民を苦しめ,各地で一揆や 打ち壊しが多発する原因となった。

 現在の神奈川県庁の場所にあった神奈川運上 所 は 1866( 慶 応 2) 年 の 大 火 で 焼 失, 翌 年,

新築され横浜役所と呼ばれた。1868(明治元)年,

明治維新の大きな混乱もなく明治政府に移管さ れ,1872(明治5)年,「運上所」の呼称は「税 関」に改められて,神奈川運上所は横浜税関と なった。本格的な庁舎が作られたが,10 年後敷 地を神奈川県庁に譲渡,2代目庁舎が港の正面 の岸壁近くに建設された。大桟橋を含む象の鼻 地域の整備に続き,新港埠頭を整備(赤レンガ 倉庫など)し,1914(大正3)年には最新鋭の 設備を誇る豪華な税関事務所を設置した。とこ ろが,1923(大正 12)年の関東大震災で税関庁 舎,事務所ともに崩壊した。税関事務所の煉瓦 造りの基礎部分の遺構が赤レンガパークで保存 公開されている。1934(昭和9)年,横浜税関 3代目庁舎が現在地に竣工,クイーンの塔のあ る建物として親しまれている。

7 横浜の貿易を支えた生糸

 前項で述べたように,開港当初の貿易で日本 からの輸出の8割を生糸が占めていた。当時,

輸出を「売込」,輸入を「引取」といい,貿易 をする日本人商人はそれぞれ「売込商」「引取 商」と呼ばれていた。通商条約では,外国人貿 易商は開港場以外での商取引きを認められてお らず,取引き相手は日本人の売込商と引取商に 限られていた。これを居留地貿易と呼んでいる。

目立たないが,本町通りと中華街の間にほぼ東 西に通る道があり,「シルク通り」と呼ばれて いる。居留地の外国人のうち生糸を取り扱う商 社が集まっていた地域である。日本人の商人は 当然,居留地以外での商売ができた。生糸商人

(売込商)は直接生産地(養蚕地)の在郷商人 から生糸を仕入れ,横浜に運び外国商人と取り 引きをした。こうして,江戸時代に発展してい た問屋を通す流通制度は崩れていった。現在の 国道 16 号線はこうした養蚕地帯(関東平野周 辺の台地,山麓,扇状地)の生糸の集散地(こ こでは八王子)と港を結ぶルートで,横浜では 八王子街道と呼ぶが「日本のシルクロード」と

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も言われている。

 江戸幕府や明治政府が日本の経済の発展のた めに,日本人の商人に政策的・金融的な保護を 与えたこともあり,「横浜商人」の中には財閥 並みの財力を持つものも現れた。代表的な横浜 商人に,原善三郎,茂木惣兵衛,若尾幾造等が いる。また,岐阜出身で,原善三郎の孫娘と結 婚した原富太郎(三溪)は事業家として成功を 収め,本牧三之谷の自宅に日本各地の歴史的建 築物を移築していたが,1906(明治 39)年,広 大な敷地を市民に公開,現在も「三溪園」とし て国の名勝に指定され,横浜を代表する観光地 となっている。

 シルクロードの名が,古代ローマと中国(漢)

とを結んでいたように,19 世紀になっても欧米 諸国は中国に絹を求めていた。しかし,中国は 国内外で争乱が続き,貿易も衰えていた。そこ で,欧米諸国が日本の絹に目を付けたという事 情があった。重要な輸出品である絹の品質を守 るため,国も絹の品質には気を配り,輸出生糸 の検査場と倉庫が市営地下鉄馬車道駅近くの万 国橋通りにあった。現在はその役目を終え,横 浜第二合同庁舎として国の省庁が使用している 高層ビルになっているが,建物の低層3階部分 までは 1926(大正 15)年竣工の外観を復元し ている。旧生糸検査場は建築家遠藤於の設計 で,震災復興期の建物では最大規模であり,再 建の速さと共に,生糸貿易の重要性を物語って いる。正面玄関上の屋上部分にある紋章は,一 見鳥のように見えるが蚕蛾で,植込みの柵には 繭の意匠があるなど細部にも蚕と絹にこだわっ ている。

 また,一部を除き高層マンションに変わって しまったが,生糸検査場に隣接して帝蚕倉庫

(株)が管理する赤レンガ造りの事務所と 4 棟 の生糸専用倉庫が立ち並んでいた。

8 鉄道の開通

 欧米諸国の産業革命に遅れること約 100 年,

開国と明治維新によって日本は資本主義経済世 界の入口に立った。工業先進国であるヨーロッ パや北アメリカの国々は,原材料や工業製品の 市場,労働力を求めて,アジア,アフリカ,ラ テンアメリカなどを経済的に従属支配し,植民 地化していった。遅れをとったことに気付いた 日本は,官民一体となって欧米をモデルに工業 化を進めることになる。それは,「尊王攘夷」

から「殖産興業,富国強兵」へのスローガンの 急激な変化に現れている。政治・経済・社会の 様々な分野で制度や施設,生活様式が変わって いき,人々も新しい文化や生活を文明開化と 言って受け入れた。江戸を改め首都となった東 京と,開港地横浜は文明開化の中心であり,そ の二つの都市を結ぶ鉄道の開通は,日本の資本 主義の夜明けとして象徴的な出来事である。

 近代化を進める明治新政府は,鉄道を東京か ら京都を経由して大阪に至る東海道本線として 敷設し,横浜への支線を作る計画を立てた。そ して,最初に,新橋-横浜間を開通させること にした。新橋は,現在再開発された汐留,横浜 は現在のJR桜木町駅のことであるが,新橋に は開市場の居留地,横浜には開港場としての居 留地があり,それを結ぶものだった。この鉄道 建設の指揮をとったのが,「お雇い外国人」イ ギリスのエドモンド=モレルである。JR桜木 町南口の改札を出た構内の柱に,鉄道開通関係 の展示があるが,そこにモレルのレリーフがあ る。日本の状況に合わせ資材を工夫し,技術者 の養成にも力を入れるなど,多大な貢献をした モレルだが鉄道開通直前に 30 歳の若さで亡く なっている。現在,山手の外国人墓地にあるモ レルの墓は,功績を称え鉄道記念物となってい る。

 当時の横浜駅は,現在の桜木町駅よりやや関 内より,大岡川のすぐ近くにあった。JR根岸 線のガードに近いその場所に,機関車の動輪を

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かたどった花崗岩製の台座に三角柱の角に双頭 レールを配した「鉄道創業の地記念碑」が建ち,

説明板には「1870(明治3)年,鉄道資材を英 国から輸入,横浜港に陸上げは,1872(明治5)

年5月 7 日(旧暦)初代横浜駅ができ,横浜-

品川間に開業」とあるが,これは新橋駅までの 鉄路が完成するまで,五か月間の仮営業のこと である。記念碑の裏面には「鐵道列車出發時刻 及び賃金表(原文は右書き)」が記されていて,

一日 2 往復,横浜を「八字(原文)」に出発,

品川着は「八字三十五分」,横浜発は8時と午 後 4 時,品川発は折り返し9時と午後5時で あった。所要時間 35 分は,同じルートの現在 の京浜東北線,桜木町-品川間の 31 分と比べ ても遜色はない。賃金(運賃)は上等は片道「壹 圓五拾錢」,中等は「同,壹圓」,下等は「同,

五拾錢」,子どもは四歳まで無賃,十二歳まで は「半賃金」となっていた。

 鉄道建設計画が出ると反対する者も多く,鉄 道用地の確保も難しかった。そこで沿岸に堤防 を築き,その上を通す案が浮上したが,誰もが 尻込みするこの難工事を請け負ったのが,横浜 商人の高島嘉右衛門である。現在は周囲が埋め 立てられているが,横浜市西区高島の地名,バ ス停や市営地下鉄の高島町駅の名は彼の功績を 示すものである。

 その後,東海道本線が開通すると,横浜駅も 高島付近に移転し,レンガ造り 2 階建の美しい 大きな駅が造られたが,完成から8年で関東大 震災により崩壊,「幻の横浜駅」と言われている。

再建にあたり,1928(昭和3)年3代目の横浜 駅は東海道本線の現在の位置に移転した。その 後建て替えられて 4 代目の駅舎になったが,周 辺の開発も進み,表玄関は海に向かった東口で あるが西口にバスターミナルができ大型店が進 出,商業の一大拠点となった。今では西口,東 口合わせて横浜の商業の中心となり,行政・経 済の中心であった関内地区との間に,みなとみ らい 21 地区ができ,一大都市圏を形成してい る。

9 終わりに

 横浜と言えば港,そして近代的な街並みのイ メージがあるが,幕末から明治にかけての激動 の歴史の中で横浜の果たした役割は大きい。横 浜に限らず,地域の歴史を見直すことは大切で あるが,歴史の観点からだけではなく,経済学 習の視点から見ることを考えたのが本稿であ る。学習の手法として,地域巡検があるが,地 理や歴史の分野だけでなく,公民の視点で計画 し実行することもできるので活用したい。その 意味からも,横浜は格好の地域教材なのであ る。

[ 参考資料 ]

井川 克彦(1989)『明治初期の横浜貿易市場 における有力商人とその取引き』横浜近代経 済史研究報告,横浜近代史研究会

岡田 直,横浜都市発展記念館(2008)図録『横 浜ステーション物語』

横浜開港資料館(1998)図録『横浜外国人居留 地』

横浜都市発展記念館,横浜開港資料館(2014)

『港をめぐる二都物語,江戸東京と横浜』

横浜開港資料館編 (1994)『横浜商人とその時 代』

横浜市ふるさと歴史財団(2009)『開港 150 周 年記念,横浜,歴史と文化』有隣堂

大津透・久留島典子・藤田覚・伊藤之雄(2004)

『新日本史』山川出版社

柴田三千雄・弓削達・辛島昇・斯波義信・本谷 勤(2001)『新世界史』山川出版社

浜島書店編集部(2003)『新詳日本史』浜島書 店

小田貞夫(1974)『横浜ステンショ』有隣堂 和田正道(2010)『よこはま発展史』非売品

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日本経済新聞(2017.4.13)『神奈川大,みなと みらいに新キャンパス』

タウンニュース(2017.1.1)『完成 350 周年,吉 田新田の謎に迫る』神奈川・東京多摩地域情 報誌,中区・西区版

日本銀行金融研究所貨幣博物館(2008)お金の 豆知識『幕末の金貨流出』

横浜税関資料展示室(2009)『運上所』横浜税 関

美の国あきたネット(2014.10.7)『世紀の大事 業,八郎潟の干拓』

参照

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