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内閣文庫所蔵『近代雑記』所収「大猷院様御内々之 書付」

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

内閣文庫所蔵『近代雑記』所収「大猷院様御内々之 書付」

越坂, 裕太

九州大学大学院人文科学府 : 修士課程

https://doi.org/10.15017/2236704

出版情報:鷹・鷹場・環境研究. 3, pp.138-150, 2019-03-22. 九州大学基幹教育院 バージョン:

権利関係:

(2)

八史料紹介 v 内閣文庫所蔵﹃近代雑記﹄所収﹁大猷院様御内々之書付﹂

3 0

ミ 2

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垣島窓口宥知

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窓 口

除 ︒

大猷院様御内々之番付﹀

越 坂 裕 太

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関﹀

J P S

はじ

めに

は︑国立公文書館内頭文膿に伝来する吋近代雑記﹄所収の﹁大

猷院様講内々之書付﹂について翻刻・紹介するc

本史

料は

︑徳

川家

網︿

六四

i

O

︑﹁大猷院﹂とあるが内容から家光ではない︶の潤艶の出来

事を記録した覚書であるが︑薦狩や鳥類贈答に関する記述を含むことか

ち︑本研究会の活動に有益な史料と判新した︒家縞の鷹狩の様子を具捧

的に記したものがあまり知られていないといでも興味深い史料であ

また︑筆者は前棋ーで︑徳川秀患の側建りを記主とする叫元和寛永小 る ︒

説﹄を取り上げたが︑その擦に近世初期の鷹狩の具体相を理解する上で

覚書史料の活用が有用である点を指捕したえあわせて︑事保期に林鳳

関措篤︵一六四四!一七三一ニ﹀の手で江戸初期の覚書が収集・編纂され

て将軍吉宗の関覧に供した点も明らかになったが︑今回検討する吋近代

雑記﹄も︑同様に林信篤の編纂と考えられ︑多数の覚書史料を収録する︒

なお︑吋覚書史料﹂とは︑特定人物の体験や見聞の記壊を記録化した

ものであり︑とくに一七世紀前半に各地で多数作成された︒前穣に引き

続き︑吋覚書史料論﹂講築のための階梯としても検討を進めいきたい︒

吋近

代雑

記﹄

につ

いて

﹃近

代雑

hの存在はすでに知られおり︑桑田忠親氏が﹁御伽衆﹂

と近世古記録の関連を論ずる過程で︑講成などの概略を紹介した40

また︑百四史大静典﹄でも立項があり︑執筆者の山本武夫氏は次のよう

に解

説す

る︒

林借第著︒内閣文鹿蔵︑自冊︒天王年間︿一五七三!九ニ﹀より七

代将軍徳川家経の代にわたる諸家の覚書や韻書を抄出し︑また幕初

以来の政務・制度・行事・噴習会どの覚番を整理して幕府に献上し

た番︒事保元年︿一七一六︶から一一年にかけて数倍に分けて献上さ

れた

らし

い︒

︵以

下省

略﹀

これらを踏まえ︑まずは﹃近代雑記知の伝来状況︑構成・編纂時期に

つい

て考

察を

行う

伝来状況国立公文番組内閣文庫所蔵史料のうち︑明近代雑記﹄の表題を持つ

はニ

点存

在す

る︒

(3)

・昌

平坂

︿ 一 一

E

0

×一

六・

人錦

︑袋

綴﹀

坂﹂の意書印を持つ吋近代雑記﹄乾・坤のこ器本︵一

O

顔 が あ る

︒ 前 表 紙 の 右 一 屑 に は

﹁ 談 話 い の 小 紙 片 が 張 ら れ

︑ 右

下に﹁昌平坂﹂黒印が持されることから︑昌平坂学問所内に開設された

記録讃所の収集資料と判明する50この他に︑明治以後に押された﹁務関

図書

之章

コ﹁

内閣

文庫

﹂・

﹁日

本敦

詩関

番︺

の蔵

書印

も有

する

︒本

稿で

は︑

これ

か︸

昌平

坂本

と称

する

構成は在のとおちである︿吋﹄内は︑表紙題議の外題﹀︒

第 一 冊

﹃ 近 代 雑 記 乾 い 七 五 了

内題二御政務変態﹂﹁大猷公郵内々番付﹂﹁諸家紋﹂

コニ

河松

平諸

家﹂

第 二 時 的 近 代 雑 記 埠

﹄ 一 一 ニ 丁

・浅草文庫本︵二八・五×ニ

0

・七

畑︑

袋綴

次に

︑﹁

浅草

文患

いの

蔵帯

印を

持つ

茜冊

本︿

一六

七割

一六

九号

︶が

ある

各書掃の一丁目表に﹁浅草文庫﹂黒印が拝されることから︑明治八年︿一

八七五︶に内務省管轄下で開設された浅草文麗梨蔵本と判明する︒浅草

文産は笛平坂学問所・和学講談所の旧蟻本などから構成されたが︑本書

冊では︑この他に﹁内障文庫﹂﹁日本政府図書﹂の蔵書印が押されるのみ

であり︑浅草文庫以前の伝来経緯や写本の時期は未確定である︒これを

仮に浅草文恵本と称するが︑今後の諒査において︑より詳細な経緯が判

明した段階で適切な呼称に改めたい︒

権成

は︑

在の

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ちで

ある

︒昌

平坂

本と

詞内

容の

二間

︵第

一・

一一

一冊

第一

一冊

と第

四冊

6を

加え

︑計

四冊

とな

る︒

第一冊﹃近代雑記共囲い九二了※昌平坂本第ニ冊と関内容 第二時吋近代雑記道関談話共四﹄

第 三 冊 共 四

﹄ 一 了

内題二御政務変態﹂﹁大融公御内々書付﹂

﹁三河松平諸家﹂※昌平坂本第 第 臨 時

﹃ 近 代 雑 記 共 四 知 七 三 丁

一から西までの書冊蝦は内顕文庫の冊次番号に従ったが︑内容や成立

順序との関

m m 性

は不

明で

ある

浅草文庫本の特徴としては︑第一・一一了四冊の接数の舗条において︑

全痛を糊付けした紙を上から強ることによって︑笛条全体を削除した点

が挙︑げられる︒これらの削除箇所は︑昌平坂本比おいても一部を捺き不

採銭である︒また︑浅草文庫本第一−

E

冊の

巻末

奥敢

闘に

は︑

﹁右

︑依

家記

所問問抄出之市献上一掛川︑事保年月自株大学一頭﹂とあり︑家記など

から抄出した内容をまとめ︑事保年間に林大学頭︵信篤﹀が将軍吉宗へ

の献上を済ませたことが記される︒この奥書は昌平坂本第二冊には見ら

れな

い︒

以上から︑浅草文東本は林家棋に伝来した稿本の系統である可能性が

高い二方︑昌平抜本は林家から将軍家への献上本の系統と推測できる︒

献上に際し︑内容面を吟味した上で一部諮条を前除したもので・あろう︒

なお

︑吋

⁝副

書総

目録

﹄で

辻︑

﹁近

代雑

記﹂

の表

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記と

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前島

原松

平文

揮所

裁の

一一

一冊

本も

記載

され

るが

︑全

く創

出内

のものである70 時と間内容

構成・編纂時期

続いて︑叫近代雑記﹄全体の構成について︑各記事の編纂時期とあわせ

検討を行う︒﹇表︺では︑田冊本としてより豊富な内瀞を持つ浅草文庫

について︑構成と各部宋に記された日付の需報をまとめた︒

内容を模範すると︑第一・二・四冊では︑家康・秀忠代の合戦に関す

る記事が大部を占め︑多くの笛条は﹁

i

候曲

﹂︑

i

侯事と也九

(4)

第二冊

i f

i

冨談話j

f

御政務変態

J

第三器i

第四冊

f大獣院様御内々

之蓋丘よ

f

諸家絞

J

f

三持松平語家j

一、細川正溝橋より出し侯言耳打鉄:取を機現牒へ・..

一、大城にて井伊掃蔀手朝比奈啓太郎所江・・・

大概陣前井伊掃部大番頭にで訣克樽域番

天王十酉年伊予の金子織、此時の大持・・・

関ヶ原にて加藤京J鰐助・撰閏筑前守・緯)

I I

一、船内法在不救省、右不救左、有遊兵市・・・

「大坂冬陣・夏陣、九鬼長門守方ニ仰付候勝、笈瀞 陣之事

J

一、関ヶ原柳蹄な刻、間中兵部少轄を御うたか

一、域井之一撲大将を弾正と$鏡、織部長政聾

i

一、小出原北条之家来松田尾操守ハ登くらと串所 越離に

U J

中・山代・葉滞とて梯揚の所脊之・..

(選手米英喜) l者、依家詑所聞抄出之市献上灘、

一、秀次謀反之年六月拡戸拡御下向ノ時・・・ i省、第波道国物語之番商品、

太間榔他界ノ後、権現様へ治部少輔来て・・・ i右、第波道冒頭談品、

一、太閤生国尾井

i

中村ノ人主義、古ノサI[中鵠・・・ |右、部波道麗瑛談品、

一、大坂御陣之時、台徳院様傷使番ト事者・・・ |右、那渡道麗君奇襲弘、

J I I

中嶋合戦ノ御批判、信玄芝居ヲフマユルヲ・・・|右、那波道麗訴談塩、

一、姉

J I I

合戦ノ時御加勢ニ締出患、英欝高天神・・・!右、那波道関所続品、

一、大坂東ノ;御陣ニ台徳院様御人数持潜出ニテ・・・

i

右、那波道関所絞品、

一、権現様・合徳焼様・大猷院様迄ハ欝大名之諜 次−−−

厳有説様御代迄ハ、縄本し日御自瞥院出梅之 厳有院様梅代迄ハ、御三家御鞍参勤於御廃

一、最有院様御代始議ハ、臨時之鐸札宥之挟節

一、表向ニ高諸事柳給仕之節、強御書説番頭・・・

一、議有能様調代龍ハ、老中不残毎日縛蕪議事段縄 廊下へ・..

一、藤有協議締

f t

ニハ大留守居有之候、常議院 様・・・

一、厳有院様揚代、於大広間正月三日御髄初・..

厳有院様榔代迄ハ、復本

L

詩等之節、・−

台徳院様ノ、元和三年・偶蹄嘉手・関

A

年・...

…、大猷錦様御代ハ諾大名の藤次先宮之御構無 之・..

〈米産〉 ii̲御政務変態、以家記欝之襲、

購入

J l1 3  

(享保二年)

商八月自 関八月日 酉八月日 酉八月日 曹人月日 覆九月間 額九足器 開九丹記 間九月日 要十月日 享 保 年 月 間

. J l1 3  

(年次不明)

五月

5

六月現 六月詞 六 月 間

丙申五月日(享保元嘉手)

申六月日 六月日 六 月 日 六 月 日 六 月 日 六 月 日 七 丹 詩 七 丹 詩 七 月 日 申八月九詰

為挙事慰西丸・ニ丸江折々御成・..

「寿永・元藤議氏方之武士之紋」

申十一月日(事探先年)

右、承応囲年松王手議機呼江差出侯担i(承応部年)

「諸家紋近代・当代j 省、承応詔年松平鵡濃守紅差出イ射日

I

<承車部年)

一、信光公よりの流・・・ !  |申十一月

1 3

(享保元年)

f麗長小説

J

|布、家々本出し繰書付、旦又所信関|丙申年月日〈享保元年)

i抄出之、

f久能

U J

ヨヲ構改葬之事

J

/「被辺大鰐守長久手合戦i i申十月日

之物語j

M

欝ニ権現樺ノ;御態勢白熊ヲ以テ織トス・・・

i

申十一月間 一、権現様欝ヶ累ニテ櫛勝軍之刻、今日

f

可茂粉骨 I  i酉六月日〈事保二年)

I  I 

…、志津嵩合戦之由来{小須袈九兵衛申上候物語ノ簡 l i喜六月詩

条ト・・

I  I 

一、味(三)方ヶ原にて事急にして謹現識御切腹立御| |臨大舟詩

=と.企・

dむ 「

一、大坂各陣、極月七日之夜、栓平下総守・・・

一、景勝退治に権現様御下向被成候付・.。

一、太穣欝麿へ御下向以前、立花立資ハ筑前立花

商七月日 商七月日 欝七月日

(瀞米英番} i者、鉄家記所開抄出之市献上灘、 !事保年月日

表:浅草文庫本『近代雑記』の構成・錨築時期

(5)

侯﹂のように依開体で筆記される︒冊は︑関ヶ原合戦や大披陣に関

連する内谷を中心とし︑小幡勘兵衛意︑一五七一一一−

a ss a

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− 一

六 六

一 一

一 ︶

・ 石

主毅

頭︵

忠総

︑一

五八

一一

ii

一六五二・平野権兵衛︿長泰︑一五五九|一

六二

八︶

・松

平出

羽守

︿滑

荘︑

一五

八四

l一六五二らの談話も収録する︒

第二冊は︑那波泊所︿学は道盟︑一五九五i一六曲八︶からの談話によ

り一冊を構成する︒第四冊は︑天王から醐班長期にかけての合戦に関する

内容を中心とし︑﹁慶長小説て﹁久能出ヨリ御改葬之事

τ

﹁渡

辺大

隅守

久手合戦之物語﹂のように単独で題が付された記事も多いひなお︑第一

器・第四冊の巻末奥蓄には︑﹁依家記一所関抄出之いとあり︑林家に伝来し

た﹁家記﹂を参照したものとわかる︒一七設紀前半に筆記された覚審の

集成

とい

える

だろ

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一方

︑第

一一

一冊

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冊と

様相

を異

にし

︑江

戸幕

府の

諸制

度や

武家

礼に関する内容がまとめられる︒盟部構成であり︑家濃から家継期まで

の事保期以前の幕府制度・儀礼の変遷に関する倍篤自身の考察を記した

﹁御政務変態ヘ家絹期の将軍周匿の出来事について記した﹁大猷椀様御

内々之寄付ヘ求応器年︵一六五五︶に林家から松平美濃守︵信興︑二ハ

一 二

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九一

︑小

姓﹀

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家紋

ヘ一

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列挙

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コ一

一河

松平

諸家

﹂老

収録

する

各書冊の記事は複数に分けて書き継がれ︑各部末には︑日付と﹁林大

学頭﹂の記名が見られる︒この自付は林借篤による議纂︵執筆︶の完了

を示すものと考えられるため8

︑こ

こか

ら各

冊の

編纂

時期

を特

定︑

する

と︑

﹁丙申﹂が正諮六・享保元年︿六月ニ十二日に改元︑一七一に該当

する

こと

から

︑左

の顕

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纂さ

れた

こと

にな

る︒

第一

一一

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︵事

保光

﹀年

五月

︵︸

十一

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畠巾

第酉器事課元伴十月以詰

i

開二年七月

第 一 冊 年 八 月

i

足︵

昌平

抜本

第一

一冊

一 冊 ︶

※第二冊の編纂年は不明︵同時期の月

i

六月

頃︶

このように事保初年に顕次編纂が進められたことが判明するが︑その

代背

景と

して

は︑

正第

六部

四月

一一

O

日の七代将軍家継の死去後︑吉宗

が次期将軍に内定した時期に該当する︒将軍宜下は同年︵享保元年︶入

月二

E

だが︑その問︑林信篤は五月十日に登城して欝書講釈を行い︑

以後度三位出されるようになった︒家宜・家継のもとでは新井自省が待

講として準用されたために大学顕としての信篤の活動は設定的であった

がえ新将軍吉宗の下で積極的に行動を開始した様子が壇鶴見える︒な

お︑話稿で紹介した崎元和寛永小説﹄も︑享保元年の秋に吉宗の関覧に

備え

て整

理さ

れて

いる

問︒

ところで︑明近代雑記﹄の記主については︑さらに言及しておく必要が

ある︒ここまで林信篤を﹁編纂者いと位置付けて話を進めてきたが︑こ

れは事保期の編纂存業の前提として︑林家伝来の﹁家記いの脊在に注話

した

かっ

たた

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を林

羅山

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︵一

五八

一一

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一六

五七

の著作とした上で︑﹁信長・秀吉よりこのかた古人の物語を関に髄て︑担

筆記して数巻とせしを︑其後に又春斎︿引用者注いけ杯驚峰春勝︵一六一

l

O

︶﹀増加へて若干巻とせ号︑﹂と述べた︒著者の山間波明︵一七

二六

l

O

︶は︑はじめ林家で学び︑のちに賀茂真灘に話事した幕臣で

ある︒信勝・春勝を記主とした根拠は不明だが︑編纂完了後さほど時を

震かずして記された認識として賞盤で為る︒

林借勝は︑慶長二一年︵一六

O

七︶より駿持の家康に出社し︑法度の

制定や外交︑寺社関連の訴訟事務などの政治舟に参指するとともに︑古

世一

回収

集や

駿河

文厳

の管

理に

も従

事し

Nらは家光の哨衆も務

め た と さ れ る 判 官 鷹 狩 に も 同 行 し そ 家 藤

・ 家 光 に 親 し

(6)

た人物である︒春勝は︑﹁自叙譜略によれば︑一年︵

六三に一七援で家光に初自見えを遂げたのち︑江戸城への出仕︑諸

幕箆・大名らとの交流を開始するが︑とくに同一七年には︑城中におい

て土井利勝︵一五七三i一六毘盟﹀から﹁天正・農長ノ旧談ヘ石川忠総

と松

平正

絹︿

一五

七六

|一

六四

八︶

から

徳川

家の

ご一

一向

・遠

江開

基ノ

事﹂

などを関く機会を得ている弓

要するに︑信勝・春勝父子が︑浅草文庫本第一冊や第四冊に収録され

たような合戦に関する談話に接する機会を有したことが指摘できる︒さ

らに︑第二冊﹁道罷談話﹂の話し手となる那波活所︵道関︶は︑肥後熊

本の加藤思広や紀伊和歌山の徳川頼窯に仕えた儒者だが︑この人物につ

いても︑藤原理簡の同門として信勝と頻繁に交際があり︑春勝の師でも

あった問︒こうした事構をふまえるならば︑それぞれの機会に借勝・春勝

が書き留めた覚書が﹃近代雑記﹄の原型になったとの推測するのが妥当

であろう︒また︑林家に辻︑﹃本朝議年録?円本朝通鑑﹄などの史書編纂

事業のために諸家から収集された合戦記なども集積していた︒

つまり︑信篤が参照した﹁家記﹂とはこれらの記録類を指してお号︑

﹃類緊名物考﹄が示唆するように︑告勝・春勝の代から蓄積された﹁家

記﹂を整理して踊纂されたのが﹃近代雑記知であったと考えられる︒し

たがって︑収録された悟々の史料を分析する際には︑林家への伝来経緯

や記主︑林信篤による編纂作業との関孫性について個別に検討する必要

がある

c

一一吋大猷院様鄭内々之書付﹂について

﹁大

猷院

様御

内々

之番

付﹂

は︑

吋近

代雑

記﹄

の第

一一

一時

に収

録さ

れる

︒関

本と

も末

患に

﹁申

の第一冊︑浅草文

十一

月﹂

と日付が付される︒張紙による削除は見られず︑の異同を除けば需

本間に内容的な違いは無い︒ただし︑昌平版本には明らかな誤写が複数

存をし︑一条少ない︿第五条︿※翻刻文中に示した番号に対応﹀が脱落︶

ことから︑浅草文庫本を静本と判顕した︒したがって︑翻刻にあたって

は浅草文産本を成本とし︑以下では関本の内務に期して説明を進める︒

まず︑本史料の性格だが︑鷹狩や得成への供奉︑将筆家門との贈答交

際など︑将軍期臨の﹁内々﹂の出来事についての回想記録である︒さら

に﹁小野古兵衛かや罵御手にないを持﹂︵第四条﹀のように自身の記撞に

対する確認的な表現が用いられることから︑特定人物の体験に基づくも

のと

考え

られ

る︒

叙述された年代については︑人物名などから︑家舗期の内容と判断で

きる︒具体的な年代を確定できる箇条を例示すると︑第五条の蹴鞠見物

の記事の飛鳥井雅輩は︑万治昭三六六一﹀年に武家伝奏に就任し︑寛

文三年︵一六六三︶から開十年の関︑例年の年頭勅使として江戸へ家向

した人物である%また︑第七条の﹁伶人之舞﹂上覧は寛文七年西月八

言店︑第八条の紀州藩士の葛西閤布待問の射術上覧は関九年一一一月一盟

日問

︑第

一七

条の

家光

の安

宅丸

上覧

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一一

年六

月一

O

日で

あり

却︑

いず

も寛文期の事象が採録される︒つま号︑﹁大猷説様御内々之番付﹂との題

を持ちながら︑家光︵大猷院︶ではなく家絹期の叙述が中心であること

になる︒このため︑題は本文とは別に後世に付された可能性が高いが︑

逆にこうした誤認識が排除されずに収録された点は︑編纂時の改変が少

なく︑より一次的で良質な覚書史料であることの根拠となる︒

続いて︑記主であるが︑現段措で不明とせざるをえない︒ただし︑林

家の﹁家記﹂であるという視点に基づいて検討すると︑寛文期の当主春

勝の交擦範囲から︑永井尚滞︿士一一ーー七六︶ヂどの関連が指摘で

きる

(7)

永 井 尚 騰 は

︑ 覧 文 時 知 や

﹃ 本 朝 通 鑑 知 の 奉 行 と し て

︑ い

交流を持った人物である︒﹃本朝通鑑﹄の担当に任命されたのも︑者勝と

の﹁交際殊厚﹂ことによるがそ叫国史館日録﹄でも︑尚庸が春勝を訪ね

て議集方針について議論する様子が頻繁に記され︑公私共に強い一信額関

係にあった様子がうかがえる︒

注目されるのは︑第四条との関連である︒第四条には鷹狩に関する記

述がまとめられ︑将軍が鷹を放っ緊には鷹匠と万持ちの小姓のみが供奉

し︑他は見え揺れに退いていたことや︑獲物との距離がニ・1

一車

程な

ば歩行︑遠方の場合には馬や駕鑑で移動したこと︑さらに︑首尾よく大

量の獲物があった時の家績が﹁御機嫌一一部﹂餅・菓子・吸物・語安食べ

たことや︑購庇らに下賜した褒美の品についての情報など︑具体的な描

写が見られ︑本史料中でも最も詳締に記された笛条である︒こうした構

報在知りうるのは︑将軍鷹狩の場に供奉した一部の近侍者のみであるお︒

この点について︑品購は寛文元年︵一六六二六月八日に﹁御鷹匠支配﹂

を命じられ︑数々の購狩に供奉した︒とくに寛文五年十一月一八日の墨

田月第での鷹狩では︑本条にも登場する購毘頭の小栗五左衛問︵政俊︑?

i

一六九二と清水権之助︵吉春もしくは政広︑二ハ二九

i

九七﹀が﹁梅

役精入設之由﹂を尚麿が言上したことにより︑再名には﹁例式﹂の小袖

に加えて︑金と二枚と羽織が下賜された担︒

さらに︑高躍が寛永一八年︵一六回一﹀の家織誕生時から﹁小姓︺と

して近侍し︑﹁詰衆﹂︑﹁奏者番﹂︑若年寄とキャリアを重ね︑寛文一

O

の京都所司代就任とともに家綱の側揺れソを離れたという事靖をふまえれ

ば︑本史料の内容や叙述年代との整合性を見出すことができる︒推測の

域は出ないが︑可能性の一っとして記しておく G

以上のように︑記主についての検討は不十分だが︑今後︑信篤による

事保期のの動向とあわせ︑寛文期における春務の著述や交際関認の

分析を通じ明らかにできるもの

い る

﹁大

歓院

様御

内々

﹃寛永小説﹄について

﹁大猷院様揚内々之書付﹂には︑寛文期を中心とした様々

録されるが︑構報量としては十分といえない︒そこで︑韓家伝来の覚書

史料のなかで︑﹃寛永小説﹄などとの併男が有効と考えられる︒

﹃寛永小説﹄には一一種類の史料が存在するため︑整理しておきたい0

・享保三年﹃寛永小説h

事保

一⁝

一年

に林

借篤

によ

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一編

纂さ

れた

覚書

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号︑

﹁大

猷院

殿御

実紀

録﹂でも多数引用される︒内関文雄内では︑﹁林家裁書﹂や﹁問問平坂学関

所﹂などの蔵書

m w

を持つ写本が接数伝来するが︑能にも各所で伝本が確

認され︑﹃続史籍集覧﹄にも採録されたおむ

内容的には︑寛永年中の将軍︵徳川家光︶近距が語る内容を林信勝が

書き留めたものM?として二部に分けて番き謎がれ︑それぞれの部末には︑

事保一一一部︿一七一人︶の﹁盟十月日いと﹁十一月日いの日付が記さ

れる︒鷹狩に関する具体的な記事も豊富に収録される︒

・編年体﹃寛永小説b

前稿で紹介したコ苅和寛永小説﹂の関連史料である︒内調文庫には昌

平坂本・水野家本・⁝福田本のコ一種類の写本が存在し︑いずれのシリーズ

にも﹁慶長小説つ﹁一元和小説ワ﹁光和寛永小説﹂・﹁寛永小説﹂が一括し

て結来する︒伝来経韓については前稿を参照されたい︒

内容的には︑寛永元年から西年にかけての徳月秀患の動向が編年体で

記録され︑鷹狩とのでは︑秀忠の鷹狩実擁の状況︵日付・場所﹀が 記 録 さ れ る

︒ 寛 保 一 克 年

︿

﹀ 段 措 の 林 家 所 蔵 本

の薦関連記事

(8)

が判明するが︑作成時期・

不明

であ

る︒

蒋軍家における鳥類の贈答

いて︑前節で紹介した享保一円寛永小説﹄も参照しながら︑﹁大猷

院様御内々之番付﹂の鳥類贈答に関する記事を読み進めていく︒

まず︑﹁大猷読様梅内々之番付﹂の第一五条に注目したい︒本条は︑家

光晩年もしくは家綱期の記事だが︑禁裏や践︑両典競家︵松平鱗重・綱

吉﹀

・一

二家

︿尾

張・

紀伊

・水

戸﹀

・姫

君︿

徳川

千代

︑家

光娘

︑寛

永一

六年

に尾張徳川光友に嫁す︶に対しては毎年﹁結構成物﹂が不時に贈られた

こと︑さらに︑贈答の中で轟類が重要な位置づけにあったことがわかる︒

このうち︑禁中へは初鶴︑菱喰︑初鮭か﹁御鷹﹂の鶴のほか︑夏土用

や冬療中にも進献があり︑﹁御拳﹂の自鳥を贈ることもあった︒天皇家・

将軍家関の毎年の進献が犠礼的に強立していた議子が読み取れる︒

また

︑両

典厩

家・

一一

一家

・姫

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﹁御

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・龍

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ほか

︑﹁

御拳

・御

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第四

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参考

にな

る︒

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︑﹁

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一一

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時分ハ︑加藤牛之場・小野吉兵衛かや馬御手にないを持︑小栗五左毎門・

清水

権之

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髄ニ

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﹂と

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︑﹁

御拳

﹂の

烏と

は︑

将箪直々に鷹を放って仕留めた護物を指す︒一方で︑﹁御間通いの烏とは

﹁御

目週

一一

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鷹部

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静付

︑翁

申候

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一一

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表現

から

︑鷹

師頭らが命じられて︑将軍の眼前で将軍手驚を放って仕僅めた獲物と考

えられる︒こうした﹁揚拳・御陸連之鳥﹂には︑将軍自身が鷹狩に出向

いた際の獲物として︑特殊な務付けが与えられていた︒

これ

に対

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﹁揚

鷹之

鳥﹂

とは

︑宗

義に

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軍家

所有

の麓

︿﹁

御鷹

﹂︶

用いて捕獲された鳥類全棒を指すが︑吋御拳・御目通之島﹂と並列された

場合には︑より限定的に用いられ︑将軍不在の状況下であっても鷹庇ら

が﹁御鷹﹂を用いてた獲物ということになる︒将軍家で贈答用に

使用する鳥類を権保するためには︑将軍直々に捕獲した﹁御拳・御自通

之烏いのみでは不足するため︑鷹旺らが調達した﹁御憲之鳥﹂も用いら

れる︒本史料からは︑こうした﹁得拳・御

E

通之鳥﹂と﹁御鷹之烏﹂が

明確に区記されたことがわかり︑注目すべき点である︒

続いて︑白鳥にも言及しておきたい︒鶴・経e諜雀の贈答事例はよく

知られるが問︑白鳥も︑天息一家や将軍家一円に対して贈られる格式の高

い鳥として往置付けられていたことを確認できる︒具体的な絡付けがわ

かる記事として︑第盟条から︑由鳥・鶴を仕留めた際の鷹匠への袈英と

して︑鶴捉には金五両︑白鳥捉北金十両が与えられ︑狩猟の成果として

白鳥を重視した事例が知れる︒これは︑大型の水鳥である白鳥の捕獲が

より困難であったためだろう︒

その

一方

で︑

事保

一一

一年

﹃寛

永小

説﹄

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︑在

の記

事が

確認

でき

る︒

御驚の雌拝領の並の大名衆錦︑鶴拝領の設に罷成度出老中造内証被

申達上関検処に︑不相叶御麓の白鳥被下侯由︑︵十九買部︶

つまり︑狩猟の問題としては︑技術的に自烏の捕獲の難易度が高かった

が︑贈答の場での議礼的な格付けとしては︑鶴が上位に置かれ︑鶴←白

鳥←躍の序列が存在したことを指播できよう竺

また︑卒採三年﹃寛永小説﹄では︑者中らへの﹁掛鷹の雁﹂下賜の際︑

一羽

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︑握

︑さ

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我等

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金に

て侯は£拝領仕関敷﹂と述べて小納戸衆を罰惑させた記事も見える︵三

十盟頁﹀︒こうした記事から︑当時の武家社会において︑贈答時の鳥のラ

ンク付けが強く意識され︑儀礼的にも定着していた状況が読み取れる︒

右については︑既存研究において十分に認識されてこなかったものと

考えられるが︑当時の武家社会を考察する上で重要な靖報である︒

(9)

おわりに

以上︑寛文期を中心に将軍家織の用自の出来事を記した﹁大猷院様御

内々之番付﹂の概要をまとめ︑問時期の将軍家の鷹狩や鳥類贈答の記事

について紹介した︒

また︑従来十分に検討されてこなかった吋近代雑記﹄の編纂過程につ

いても考察を加えた︒編纂の契機や倍々の史料の内容検討を合めた全容

の解明は今後の課題として残るが︑駿文による限り︑事保元年から二年

にかけて﹃近代雑記同問先年秋にウ元和寛永小説同間一一一年冬に享保三

年吋寛永小説﹄が整理されている︒吉宗政権の最初期において︑こうし

た党書が献上を前提に績纂された意義や︑驚狩関連施策に与えた影響に

ついても引き続き検討を進めていきたい︒加えて︑これらの害時がいか

なる形で将軍吉宗に利用されたのかについても未解明である︒おそらく

は︑﹁御文庫︵紅葉山文庫﹀本﹂とは加に︑﹁御小納戸本いとして奥向の

将軍側廼ちで管理されたものと考えられるが︑将軍による利用の形態に

ついても解明していく必要があるc

さらに︑林家に訟来した記録類の特徴として︑羅山信勝・驚峰春勝の

将軍鑓期りへの出仕や交捺関係に感づき︑草創期の将軍周囲の状況を記

した良質な覚書史料を多く合告可能性が高いことも明らかになりつつあ

︒ 思 国 語 篤 の 編 纂 活 動 と

・ あ わ せ

︑ 原 典 と な っ の

﹁ 家 記

﹂ に

ついても検討を進めいきたい︒

本研

究は

ある

JSPS科研費JP16H01946の助成を受けたもので 吋史料紹介内語文療所蔵岡田平坂本﹃元和寛永小説E

−環

境研

究﹄

一一

︑一

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一八

年︶

2すでに桑間忠親氏による指摘が存在する︒間氏は︑古記録を日記・

書・

関室

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一一

一一

弘分

し︑

史実

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生か

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料成

立ま

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時間

の長

間的価鍍︶では一次史料である日記が優れるものの︑内容の農官さ間的価催︶においては覚書や額番が勝る場合が多く︑総合的に見て︑覚帯・開審には高い史料的価値が認められると述べた︿桑田叫大名と梯伽衆﹄増補新援︑有精堂︑一九六九年︑初出一九五七年︑﹁八御伽衆と近世古記録の成立て﹁九覚書の分類と実例﹂﹀︒

3桑田氏の定義によれば︑覚書は自己が直接体験した﹁自から入った知議﹂︑開書は他者から開いた﹁耳より入った知識﹂をそれぞれ記議したものとして区別される︵桑田前掲世間﹀︒とくに︑天下人や大名に仕えた﹁御伽衆﹂らが関与した記録として聞書に注目した点が重視されよう︒しかし︑桑自氏自身が︑同一史料の中に﹁覚書的要素いと﹁聞書的要素﹂が混在する場合が多いことについて言及したことからも明らかなように︑いずれに思分されるか峻別不可能な史料が多数存在する点で︑覚書/聞書の一一者択一的な定義には開題がある︒むしろ筆者は︑韻書とは覚書の一形式であると−認識している︒すなわち︑覚書は自己の捧験や見開の記憶が︑ある時点で総合的に記録化されたものであり︑その記櫨には当然﹁自て﹁耳﹂から入った様々な知識が含まれている︒そして︑こうした記壊を記議化する際の一形式として︑談話を通じた開敢闘というジャンルが存在したものと考えられ

そこで︑本穣ではこうした様々な影式の史料群について︑とくに歴 る ︒

史史

料と

して

用い

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には

︑﹁

覚書

史料

﹂と

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一一

一一

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位括

に把搬することとする︒各史料の形式や伝来︑後世の

ι

よる改変

や湯交の状況など︑﹁覚書史料﹂の江戸時代を通じついては︑

今後検討を深めていきたい︒

4桑田前掲書︑八章︒

5

﹃内

障文

摩蔵

番印

譜﹄

︵内

閣文

庫︑

6第四時についは︑吋慶長小説 註

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書冊

︵﹃

鷹・

(10)

一と間内蓉である︒この し︑装丁が共通することから︑

る可

能性

も考

えら

れる

7詩求番号五毘!四︒成立・年代や記主は不明︒から鹿長期を中むに武家の書状が収録され︑内霞文庫所蔵本とは知内務である︒

8各部末の日付を︑献上された日と解釈することも可能である︒しかし︑第一時・第四冊奥書には︑﹁右︑依家記所開抄出之︑享保年月日﹂とあり︑各部を一括した書冊としての献上を示唆する︒このため︑本稿では呑部宋の自付を執筆の完了日と理解した︒

9樺斐高﹃江戸幕府と儒学者林羅山・鷲崎・鳳再三代の鴎い﹄︵中央公論新社︑二

O

一一

四年

︶︑

第十

一章

︒ 叩昌平坂本奥書に︑﹁右太田和泉守家蔵之官官岳︑事課一見年丙申之秋備台

覧︑聞出店保科主税家︑ナ小知其実否﹂とある︒ここから︑永井直霊の周囲で執筆された後︑保科家を経て︑享保元年の秋に﹁台覧﹂に備えて献上本が作成されたものと考えられる︒

日吋

類緊

名物

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︵井

上頼

関編

・近

藤瓶

域校

訂︑

鐙史

図書

社︑

一九

七四

年﹀

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u家光の哨衆については︑桑缶詰掲帯﹁四江戸時代諸家の御唱衆いを参照︒﹃夜欝随筆﹄に︑毛利秀充・丹羽長麓・蜂須糞家政らと並び︑得倍

強城

した

とあ

る︒

日慶長一八年九月に家壊が関東各地で実施した鷹狩や︑寛永二年

i

五年

にかけて家元が川越・鴻巣・牟礼などで実施した鷹狩に度々同行したことが確認できる︵鈴木健一宮杯羅山年譜稿h

︒へ

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﹁自

叙譜

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驚峰

先生

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録︑

一元

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立公

文書

館内

閣文

庫隷

﹀︒

時﹁朔盟登城︑展土井大炊頭ノ詔⁝⁝応シ︑天正・幽班長ノ旧談ヲ関ク︑又

時時五川主殿頭患総・松平右寄門大夫正絹ニ御当家一一一河・遠江開基

ノ事

ヲ関

ク︑

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二受

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﹁自

叙譜

路﹂

︑寛

永一

七年

︶︒

原文

泣漢文だが︑刊本の制点に従って読み下した︒同﹁道園ト会スルコト前ノ如シ︑其ノ感興詩ヲ講スルヲ聴ク︑又余カ宅⁝一来一ア︑シ文ヲ論ス﹂︿﹁自叙譜略﹂︑二年﹀︒

は︑

﹁昌

一平

坂﹂

県印

を有

﹃近

代雑

記﹄

と同

一−

出所

であ

ロ飛鳥井雅章・難波宗最・正毅町実豊e平松時震の四名による蹴斡は︑寛文七年三月の事例を確認できる︒この時は︑﹁詰之者﹂として京都・

江戸

の町

人や

飛鳥

井・

難波

の家

来も

参加

し︑

一⁝

一家

・高

呉厩

家以

下︑

江戸の諸大名諸役人らが見物したなど︑本史料の記述に合致する︵国立国会圏書館蔵﹃年録﹄寛文七年三月一五日条︶︒認﹃年銭﹄寛文七年間月人員条︒

四﹃年録﹄寛文九年一一一月一四日条︒笠井︵葛西︶霞布鑑円は堂射︵六五

関︶で一五

O

本中

一一

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本︑

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︿四

一関

﹀で

させ︑時販三を拝領したとあるc

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本中四本を的中

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ぉ﹃年録b

覚文

二年

六月

O

日 条

︒ 幻永井肖庸は︑永井尚政の一一一男で︑寛永一八年の家綱誕生直後から小姓

として仕えた︒万治二年には詰衆並となり︑寛文元年に﹁御鷹臣支配﹂を

AW

じられた︒間五年二月に奏者番︑二一丹に若年寄︑同一

O

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昇進

︑一

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寛文

時知

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朝通鑑﹄編纂の奉行も務めた︒

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﹃関

史館

日録

匂寛

文四

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月ニ

八日

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﹃国

史館

日録

﹄山

本武

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訂︑

続群書類従完成会︑一九九七

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五年

を利

用﹀

m株春勝や告篤は︑将軍の鷹狩

ι

同行した形跡が見られず︑第盟条のような実捺的な構報を知りうる立場にはなかったと考えられる︒

総吋

年銭

恥寛

文五

年一

一月

一一

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日 条

郡明

持続

史籍

集覧

﹄十

︵近

藤瓶

城編

︑近

藤活

版所

︑一

八九

一一

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︑史

籍集

研究会発行の復刻版︿すみや書房︑一九七

O

年﹀

を利

用︶

部前半部の鼓文には︑﹁此一冊︑倍称寛永年中近話永井日向守︿引用者註一直溝了松平伊賀守︿患晴﹀・柳生但馬守︿宗矩﹀・佐久間将監︿実勝﹀等所語品︑与我祖道春︿林信勝﹀侍鹿之欝所聞︑粗有詳略異男︑

難決

可川

口故

︑加

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説︑

故新

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奉献

幕下

︑以

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覧也

享保三年戊戎間十月日︑大学頭林信篤﹂とある︒釘承応期から事保期にかけての数量分析を行った大友一雄氏によれば︑

っ将軍家よりの下賜・進献﹂に白鳥が用いられた事例は少数とされる︒

また︑家綱・綱吉期の﹁榔薦之烏﹂拝領基準の分析から︑下賜用の烏が︑鶴・締・環雀のコ一種に限定されていく過程に将軍による鳥類下賜の制度的薙立を見出している︵大友﹁鷹をめぐる贈答儀礼の構造﹂︑開著吋日本近世国家の権威と議札b古川弘文館︑一九九九年︑初出は

(11)

九 九 一

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︑京

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続史籍集覧﹄の

叩 時 期 は 下 る が

︑ 陸 奥 弘 前 藩 に お い て

︵ 七 二 二

定した猟障から買い上げる際の鳥類の値段を参照すると︑﹁一

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匁と低い価格に設定された︒︿﹃御用格寛政本︿下戸弘前市教育議員会︑一九九一年︶︒これは︑贈答の場での格付けを反映した相場

とい

える

だろ

う︒

五月に決

(12)

史料翻刻

国立公文書館内障文庫所蔵の

全五三了﹀所収﹁大猷院様御内々

﹃近

代雑

h

︵ 一 六 七 六 九

︵四

一二

!昭

八丁

﹀を

底本

※凡例付漢字は原見として常用漢字を用いた︒

変体仮名は原期として平板名に改めた︒ただし︑助詞に用いられて

いる

江︵

え﹀

︑市

︵て

︶︑

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の︶

等は

その

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とし

た︒

議り迭しの記号は︑々﹂︵漢字︶︑︑ご︵平仮名﹀︑マ﹂︵片仮名︶と

した

字空き︑平出は二

割書きは︿﹀内に書き入 人 名 に つ い て は 可 能 な 限 り 等 に よ り 補 訂 を 行 い

︑ 初 出 時 に

︶ で 傍 注 を 付 し た

︒ 地 名 等 の 宛

・ 潰 用 字 は 捺 本

のままとし︑必要に応じ︵︶で傍注を付した︒

︵ 岡田{鴎

表 紙

し た

二丁

薮﹀

樽政務変慈

大猷公御内々書付

諸家紋

三河松平諸家

︵ 昌 一

一 一

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表 ︶

大猷読様御内々之番付

︑為揚慰︑西丸e一一丸江折々御成︑西丸江揖成之時分ハ

手・桜田携丹広出御被成︑御堀廼リ被遊︑御道筋現地ニ

ハ︑御拳ニて一雄杯ヲも被為翁︑御花熔杯江被為入︑在拝

土筆杯被為執︑吹上御門会御成之事茂綱麗候︑山里馬場⁝⁝て梅馬被

為召︑御髄衆・御番衆一飛鳥被抑付上覧︑一一丸江御成︑一皮御歩

行江水被仰付︑上覧之事も御座候︑縛番頭・得小姓・調小納戸之

面々御相手ニ被成︑御ふち打︑又ハ練鉄娼或ハ御的或ハ鍔鑓・御兵法

被遊︑御料理杯被仰付︑御膳被石上︑及暮還御被遊侯︑

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西丸

一一

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二丸

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抑付上覧之儀も鍔鹿候︑老中・詰衆晃物被抑付候時茂揚鹿候︑布

施孫兵衛・古田久米助諸事肝煎被持付︑射手江も時援等被下之接︑

一︑

例年

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春之

内︑

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︑春・夏・冬揚鷹野ニ被為成侯節ハ︑前方方々江御鳥見被遣︑鳥之多

方被為開召︑能御方角江被為成侯︑御拳一一市御A

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牛之助・小野吉兵衛かや罵御手にないを持︑小柴五左衛門・清水

権之

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跡へさかち見へかくれニ御供出︑惣市野間方々調成之時分ハ惣御

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(13)

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白鳥取ニハ金十問︑即樽前ニ而被下候︑御仕合能御物数杯御室侯樽

︿甑鵬郡山

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ハ御機嫌一一冊︑隅田川筋へ御成之時分ハ還御之節︑御殿近所か

又ハ本産第点御船一一被為召︑御餅・菓子・御吸物・梅酒杯被者上

供︑

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望 之事茂有之侯︑又ハ御供船迄郵船せかせ上覧被遊還御之事も御 座候︑御成之時分茂小菅御殿又ハ方々寺杯江被為入侯議茂御座

袋︑高田筋江御成之時ハ高田馬場ニて御小姓・御小納戸之内一一向人

御相

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御 馬・御駕鐘ニ召シ先々⁝一間御おり御寄被遊候︑還御一一も時二

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伽 仰 木

︿ 千件 球

丸御玄関まて御馬一一被為否犠も御座候︑千寿筋・本庄之末︑寝間筋︑

︵墨悶川︶瞬間川辺之時ハ鶴田川御殿一一て御弁当︑麻布筋・品川辺之時ハ構御

茶欝又ハ東海寺ニて御弁当︑高田筋江御成之時分ハ北郷茶閤ニて

指藤被召上候︑大方ハ御前一一而鳥杯伽燃料理被仰付︑御藤被召

上候︑初得薦野之時分ハ得鷹蹄頭・御鳥見頭翌B

龍 出 候 様 ニ 被 停

付︑時服・御羽織・御金杯被下侯︑加藤牛之助・小野吉兵衛問入江ハ

銀子

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多被下鉄︑御拳へ上ケ侯調薦御意⁝⁝入

候時分ハ︑其揚手薫師ヲ茂被者出︑御薦一一念ヲ入役福一一部御褒美被

下侯

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︑御門跡方参向之節︑家々之勤御所望被遊侯市御聴聞之犠茂毎度候︑

︿雅章︶公家衆へ楽御所盟被遊︑被間召侯義も御鹿接︑飛鳥井大納言・難波

︵宗 霊︶

中将父子へ蹴鞠御所望郷見物之義も御服供︑其以後茂右両人・

︿ 臨時 嬬 繍 ﹀

・平松宰梧競鞠御所望之時も知前鞠之詰之者共仰付︑

比時御家円方・昌持・御譜代・御詰衆・諸番頭・諸役人・諾物頭・寄

合まて見物被停付︑

一︑琉球人参上之節ハ楽被持付︑被聞羽儀も御鹿候︑

て先年日光御法事過︑京・江戸・自光山之楽人一一命人之舞被伸付︑

上覧之儀茂御産侯︑見物者競輪之時の通被椋付︑

︷ 入

︵ 徳 川 綴 笈

一︑紀伊中耕一宮殿家来︑葛西閤右待問一一堂形為射上覧之義も御鹿候︑蓮

地馬

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矢数五十本堂形逮場共ニ遺矢︑中矢多シ︑在見叢右衛門矢ヲ持出︑御

︿

奏者番特木伊予守圏右衛門召連罷出︑大目付北条安一房守・高木伊勢守

︿松 平網 重・ 網世 間︶

楚添罷出︑右三人側一一有之接︑御阿殿芽御詰衆・高家・英蓉関

御役人見物被掠付御供︑番之御番衆茂相詰也︑

︿九

一︑御鷹野︑高丸へ杯御成之節︑途中畿に再御供中殊外ニぬれ侯付︑総

御供中へ時服又ハ軽キ面々へハ銀子被下之候籍︑時によち揖座候︑

︵十

一︑大火事一一致類焼侯苦々へハ御金子被下︑又ハ拝借杯被部付︑町中へ

も御金子・御米杯被下侯事︑度々御鹿候︑

一︑府中・奥州

b御馬共求︑樽馬方之衆罷帰挟以後ハ御機嫌次第大方L

上覧被遊︑特により其内得時殻へ被遺侯事も縛産候︑御召杯ニ乗入

候様ニ被停付候御馬茂講産後︑

︿

一︑御台所頭天野五郎大夫ニ御黒書院⁝⁝市鶴之包丁被停付

譜代衆・御詰衆江も見物被仰付︑賠御料理ニ被成︑

挟犠

も御

座候

︑経年一一再度ツ\ハ大料理之間ニ市御料理被

︿ 掛 織 成

仰付侯︑︿鈴木喜在衛門/天野五郎大夫﹀

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御鹿

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鰐付︑老中へ御相伴被

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料理

(14)

て 御 一 へ 御 暇 之 時 分 ハ 一 一 て 御 料 理 被 進

︑ ニ て 御 茶 被 進

︑ 御 座 間 江 御 通 り

︑ 御 吸 物

・ 御 盃 事 被 遊

︑ 御 鷹

・ 郷 馬

之外ニ荷そ御道具其外之物︑御内々一一て按進議茂御座候︑

︿

て 禁 撞 院 中 又 ハ 携 関 殿

・ 御 三 家

・ 千 代 姫 君 様 へ 毎 年 一 再 度 ツ

品々結構成物不時ニ被選候︑禁中江ハ桔定リ毎年初鶴・菱喰・初鮭

又ハ御鷹之鶴︑夏土用之内・春期︑中前そ被進候︑御拳之白鳥杯被選

義茂御盤侯︑御両殿・御三家・千代姫活様へも御鷹之鶴︑同鵠・護

雀︑御拳・御目過之島杯ヲも被遣候︑表方ヘハ縛巣鶴ヲ茂被遣接︑

此外大奥忘年始・端午移譲暮・八朔之御祝犠︑其外品々被遺物御産侯

龍︑御懇成儀共ニて御麗候︑

︿

︿

一︑井伊捕部一明・保科肥後守︑老中江も不時ニ拝領物被仰付︑年ニより

寺社奉行・御器呼居衆・町奉狩・御勘定額へ茂被下物︑不時一⁝有之義

も御座侯︑又ハ大日付・御作事奉行・御普請奉行︑或ハ遠冨之役人・

御目付迄八丈織杯被下義茂御産候︑

︿一 七﹀

て安宅丸得船上覧一一︑一農揚成被遊︑御詰衆之内縛奏者番御先江被

選︑たて羽織杯着シ参上︑御宿船一一茂月日本御船印立︑大川一一御産

侯天地丸・大龍丸・龍王丸三般︑結構一一かさり出︑天地丸一一被為

撲部海表まて出講被遊︑押太鼓貝ノ役人御船一一て勤之︑強ヲハ鈴

て ム

口 ス

君 事

申索

︵信篤︶林大学頭

月 日

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