• 検索結果がありません。

 さらに、台風の被害、年間降水量が約

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア " さらに、台風の被害、年間降水量が約"

Copied!
24
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ɉȲɛɅ

 沖縄県には、古文書の類が少ない。それ はとりもなおさず、現在の沖縄県の政治や 人々の生活の中心地であった沖縄島が、第 2次世界大戦の太平洋戦争において焦土と 化したことに大きな因子を認めることが出 来る。地球の歴史から見ると一時的な事象 でしかなかったが、自然界の数百年以上の 破壊を与えた。

 さらに、台風の被害、年間降水量が約

2000mmで高温多湿の亜熱帯気候によって、

有機質で出来た物質が、その形状を長く留

めることを許さない環境も文書保存には不 利であった。大切に伝承され続けた古文書 も八重山諸島に残っていたが、1771年の 明和の大津波で散逸・亡失してしまったこ とも痛手であった。

 本論文は、平成14年に沖縄県指定有形文 化財となった伊江家の辞令書を含め、沖縄 県および鹿児島県奄美地方に現存する琉球 王朝期に交付された辞令書について時系列、

および法量を統計的にまとめ、考察を与え た成果である。特に、辞令書の法量 (サイ

ズ)

に注目して得た研究成果は、琉球紅型

(2)

(形附)  型紙と辞令書の関係について新し い視点を与えている。

 また、伊江家の辞令書については、他の 琉球王府の交付した辞令書との同異を統計 的に比較し、検討を加えた。

2ąᆖ࢝Ɉ૷ᇇங

 琉球王朝時代に交付された辞令書は、歴 史的観点からすると、2つに分類できる。

それは、慶長14 年 (西暦16 0 9 年)  の総勢 3 0 0 0 余人、軍船10 0 余隻の樺山左衛門久 高を総大将とする薩摩軍による琉球王国の 侵攻前と侵攻後である。

 西暦16 0 9 年 (以後、単に16 0 9 年と記す ことがある)  を境に、琉球王朝を区切って 考えることは、多くの歴史書等で扱われて おり、16 0 9 年以前を 「古琉球」 、それ以後 を  「近世琉球」  と呼ぶのが一般的である。

 そこで、これに習って16 0 9 年以前の辞 令書を 「古琉球王府辞令書」  と呼び、それ 以後の辞令書を 「近世琉球王府辞令書」  と 呼ぶことにする

1

 。

 本論文において 「王府

2

」  の文言を入れた 理由は、 「辞令書」  という文書が 「王府」と いう人の作り出した行政組織 (琉球王府)

から交付されることを考慮したためである。

ただし、本論文において単に 「辞令書」  と 記す場合は、 「古琉球王府辞令書」  と  「近世 琉球王府辞令書」の区別は無く、時間的、

空間的に広く琉球王府の治めていた時期に 発せられた辞令書の意味で用いる。

2/ Ǎ!!૷ᇇஙɅȾȞɀ

 辞令書は、琉球王朝期に首里の行政府か ら役人や神女、ノロ等の役職や知行地の安 堵を申し渡すために交付された公的な文書 である。従って、歴史的価値は高い。また、

辞令書に書かれた内容から知りえる情報も 少なくない。 「辞令書等古文書調査報告書」

3

において、上江洲は次のように辞令書の価 値を指摘している。

( 1)  首里王府時代

4

の役人や神女の役職補   任及び知行安堵の実態を示す具体的な   歴史資料として、第一級の同時代史料   としての価値を有する。

( 2 )  沖縄諸島及び奄美諸島の地方行政区画   や地方役人の役職の実態及び行政機構   を知る上で貴重な史料である。

( 3 )  知行安堵の辞令書を検討することによ   り、古琉球時代

5

の判別法を知ること   ができ、基礎的な経済史料としての価   値を有する。

( 4 )  神女 (大阿母やノロ)  に辞令書が交付   されたという歴史的事実が確認でき、

  これが琉球王朝の歴史的特性を反映す   るとともに、特徴的な地域性を示す重   要な徴証史料を提供する。

( 5 )  十六世紀から十九世紀にかけての同趣   同系の一貫資料という特徴を有しなが   ら、仮名文→仮名交り文→漢文へとい   う変遷をたどる。

( 6 )  古琉球時代の辞令書には、方言表記の   部分が見られるが、これは琉球方言の   研究に貴重な資料となる。

 これらの琉球王朝期の辞令書についての

高良は文献[3 ] ( p . 12 1)  で、「琉球近世辞令書」 と呼ん でいる。

沖縄県教育庁文化課紀要第19 号1の 『県指定有形文化 財 「伊江家資料」 の概要について』 (p . 8 1) において 「琉 球王府」ではなく 「首里王府」 を用いている。その理由 は、前者が時間的な広がりがあるのに対し、後者の呼び 方は、時間的広がりをそれほど感じない点にあると説明 している。しかしながら、それでは客観性に乏しく、ま た 「時間的広がり」 のみならず、奄美地方のことを考え れば、「空間的広がり」 も定義に含めるほうが適切なので、

本論文では 「首里王府」 の替わりに 「琉球王府」 を用い ることとした。

1

2

昭和五十三年度 「沖縄県文化財調査報告書 第十八集」、 沖縄県教育委員会。

「沖縄県文化財調査報告書 第十八集」 では、16 0 9 年以 前と以後を分けずに、「首里王府時代」 と一括して取り 扱っている。

16 0 9 年以前を 「古琉球時代の辞令書」 と扱っているよ うである。16 0 9 年以後の明確な名称は使用していない。

3

4

5

(3)

歴史的価値については、高良も文献 [3 ]の

「古琉球辞令書

6

の形式について」   の中で、

ほぼ同様のことを述べている。

2/ ǎ!!૷ᇇஙɈယᇆ

 琉球王府の交付した辞令書は、先述の ( 1) 〜 ( 6 ) により、いくつかの歴史的価値 が見出される。その知見の具体的な区別・

分類は、以下のような情報やその有無に よってなされている。

 

(a)  行政区画  

(b)  方言の有無  

(c)  ノロ、神女、役職等の任命  

(d)  知行安堵  

(e)  仮名文体/漢文体

7

 

(f) 「一人」    の有無  

(g) 「志よ里より○○○方へまいる」  

 

(h)  干支の有無  

(i) 「かりや・ぬき」   / 「石高」

 本論文では、上記9つの分類のうち、 (a) ,

(b)  を除いて統計データを示し、既存の 論文等への補完を提供し、かつ、10 番目 として

ĪȆī!ၭᆲ!!Īෳ၃ĂȤɢɍ඗၃Ɉෳȯī   の視点から新たに分類を与える。この法量 による統計的分類は、著者の知る範囲で、

いままでなされたことは無い。ただし、法 量そのものについては文献 [1] [2 ]で既に 報告されており、本論文はそのデータを 元にしている。文献 [1]では、少し踏み込 んだ指摘をしているが、それでは 「全紙を 使用した辞令書の大きさは、続紙をしたも の以外、古いものはほぼ縦二十七〜二十九 センチ、横三十七〜四十六センチ、乾隆年 間以降のもので縦三十一〜三十二センチ、

横四十一〜四十六センチȩɣȞɁȜȽȹɂ

4 4 4 4 4 4 4 4

ૃɩɦɥȦ

4 4 4 4 4

Ă (中略) 、൥౷༃࠰Ʌୌᆅɬȱ

4 4 4 4 4 4 4 4 4

ȹ੫ɅႨ૒Ɉહୈɬಜඣ

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 48

ȱɀȜɥ

4 4 4 4

ために 現存する辞令書の大きさも区々として一定 せず、完全な状態で残存しているかどうか 明確でない場合が多い」  (傍点・太字 ; 著 者)  と曖昧な表現、および分析であるため、

統計的な議論に耐えない。

 本論文では、法量について、および時系 列の観点に立って再検証可能となるように 統計的に辞令書の研究を行う。

  (j)についての統計的分析では、文献 [ 1] の 「 辞 令 書 等 古 文 書 調 査 報 告 書」

( 19 7 8 )  と、 文 献 [2 ]の 『 県 指 定 有 形 文 化 財 「伊 江 家 資 料」  の 概 要 に つ い て』

( 2 0 0 3 )  を分けて行うことが多い。その理 由 は、 文 献 [2 ]の 「伊 江 家 資 料」  に あ る 辞 令 書 は、 文 献 [1]で 報 告 さ れ た 辞 令 書 と法量に関して明らかに相違が認められる ためである。また、幾つかの統計データで も伊江家の辞令書をそれ以外の辞令書と分 けて記載することがある。

 ところで (a) , (b)  の分類を本論文で 取り扱わないのは、琉球王朝時代の行政区 画数に対して現存する辞令書の数が極端に 少ないこと、また方言の有無を確認するに は、仮名による辞令書に頼る必要があるが、

仮名の含まれる現存の辞令書数が2 8 件で あり、方言と辞令書の関係を議論するには、

現存する辞令書の数が少なすぎると判断し たためである。

 また、附録表4に示す辞令書は、 「写し」 、

明確に、16 0 9 年以前の辞令書を 「古琉球時代の辞令書」

と定義し、取り扱っている。

本論文では、仮名の入った辞令書を「仮名字体」、漢字 のみの辞令書を「漢字体」と呼ぶ。

6

7

文献[1]では、四周切断に関する記述が個々の辞令書に ついて付記されていないのでわからない。あたかも個々 の辞令書のサイズがまちまちなのは、辞令書の四周を切 断したためであると受け取れる記述である。文献[2 ]で は、2件の掛幅にされた辞令書を除いた2 3 件は、すべ て折帖の状態であることを考えると、家宝として大切に 扱われた辞令書を切断し、小さくするというのは非常に 考え難い行為と言える。実際にあったとしても数件であ ろうと著者は推察する。

8

(4)

あるいは現存が確認できない辞令書で法量 が分からないか、あるいは 「写し」

でない

との確証が持てないため、統計上のデータ に含めていない。法量に関して本論文で統 計的に扱う辞令書は、現存しており、 「写 し」や 「写 真」の み で 残 っ て い る も の で は なく、法量が直接得られる辞令書のみに限 定した。以下にその件数を示す。

     文献 [1]

9

     文献 [2]

10

 本論文では、上記の計99件に対して法 量についての統計的研究を行った。また、

文 献 [1] の 辞 令 書 の う ち、 続

つぎがみ

紙 し て あ る 辞令書については、法量は分かるが、法量 の統計的研究の対象からは除外した。換言 すれば、本論文で扱う法量の研究対象は、

一枚紙の辞令書の法量についてのみである。

 ただし、内容や文字について研究・考察 するいくつかの節では、辞令書の法量と関 係がないので、法量が得られていなくても 適宜紹介する。この場合、

     文献 [1]

     文献 [2]

の計103件が研究の対象となる。ただし、

この場合も 「写し」 の辞令書は除いた。

2/3/2! !Ķʦ ˅Ă త டĂ ᄜ ఊ ຑ Ɉ ໸ ჩķ!ɂ!

Ķඪ਄ڤ๠ķ

 高良は、 「古琉球辞令書

11

の形式について」

(沖縄資料編集所紀要,1978)

の中で、

「給 与内容に視点をすえて考えると、少なくと も 三 つ の タ イ プ に 区 別・ 分 類 で き る」

(p.104)と述べ、さらに三つのタイプの

うち一つを二つのタイプに分割した分類法

を与えている (図1参照) 。

 高良は、古琉球王府辞令書の計47件 (沖 縄地方:27件、奄美地方:20件) につい てのみ、その分類を与えているが、1978年 以降に発見された古琉球王府辞令書、近世 琉球王府辞令書に対する分類は、著者の知 る限り、まだどこでもなされていない。

  そ こ で、 本 論 文 は、 高 良 が 文 献 [3] で 報告した古琉球王府辞令書だけでなく、ま だ分類されていない新しく見つかった辞令 書についても、交付内容による高良の分類 法を適用した。ただし、本論文では、高良 のようにA型、B型、AB型のような呼び 方をせず、叙任型、得分規定型、折衷型と 記すことにする (ただし、附録の表1〜4 における表記法は、高良に同じ) 。表1と 表2に分類の概要を示す。

ూ2āগᆖ࢝૷ᇇஙɈယᇆ!ĪဦॷĮ4įī

 各辞令書の分類の詳細については、附 録の表1〜4を参照されたいが、本研究 に よ っ て、 高 良 (文 献 [3] )

の 分 類 法 は、

古琉球王府辞令書のみに適用可能な分類 法ではなく、近世琉球王府辞令書にも適 用でき、かつ一般化可能な分類法である ことが明らかとなった。

……

……

74件 25件

「辞令書等古文書調査報告書」,昭和五十三年度 「沖縄県 文化財調査報告書 第十八集」,上江洲敏夫,沖縄県教 育委員会,1978。

『県指定有形文化財 「伊江家資料」の概要について』,沖 縄県教育庁文化課紀要第19号,2003。

本論文では、古琉球王府辞令書。

9

10

11

……

……

78件 25件

(5)

 また、今回改めて文献 [1]に含まれない 辞令書の交付内容を確認したことで、続紙 によって大きな辞令書が作成されていたの は、古琉球王府の辞令書のみであることも 再確認できた

12

。特に、続紙による大きな 辞令書は、そのいずれも得分の記述があ り、得分を記述するために続紙したとみな してよい。

 表1を見ると、現存する古琉球王府辞令 書は、叙任型が19件と多いことが分かる。

得分規定型は、僅かに2件。折衷型は1件 である

13

。この結果は、表2の近世琉球王 府辞令書の叙任型と得分規定型との量的関 係に近いと認めることが出来る。

 統計的に言えば、古琉球王府辞令書の

86.3%

(19/22)

に対して近世琉球王府

辞 令 書 の79.0% (64/81) 、 特 に 伊 江 家 の辞令書を除けば、92.8% (52/56) が 叙任型であるから、琉球王府の交付した辞 令書は、叙任型の辞令書が多かったのでは なかろうかとの推定が出来る。

 恐らく、琉球王府の交付した辞令書全体 の8割強程度は、叙任型辞令書であったと 考えてよいかもしれない。

࿍2!!গᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈৄ࿥໘ᅎ

࿍3!!গᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈৄ࿥໘ᅎ

 表2における得分規定の80%(4/5)は、

伊江家の辞令書である。また、折衷型も全 体の75% (9/12) が伊江家の辞令書であ ることも分かる。実に伊江家辞令書のうち 半 数 以 上 の52% (13/25)

は、 得 分 規 定

を含む辞令書であり、伊江家以外の辞令書 と明らかに異なることが分かる。このこと は、王の血筋の一門

14

に関しては、得分規 定の辞令書が、他に比べて多かった可能性 を示唆しているのかもしれない。

  ま た、 伊 江 家 の 得 分 辞 令 書 の92.3%

(12/13)

は、

「ඪ਄śśśஶ્Ī৐્Ă৐౭ī 」……(ア)

の一文が入っており

15

、王家血縁の得分規 定の辞令書は、 (ア)

を入れて書くという書

式が決まっていたのではないかと考えられる。

 さらに、 「尚氏」 、 「向氏」 、 「向姓」 の区 別が身分的な区別から来ているのであれば、

辞令書の (ア)

を見るだけで、辞令書を交付

された者の身分をある程度識別できる可能 性もある。これについては、琉球王府の身 分制度に詳しい研究者の言を是非、賜りたい。

2/3/3! !ĶૂɢᆊɈসʷૢķğĶଽᆊɈসʷૢķĂ Ķݜშ૦ൌķğĶࠛ૦ൌķ

 薩摩が琉球を侵略した1609年頃を境に

文献[1](p.21)で上江洲は、「続紙をした事例は、古琉 球時代の仮名書きの辞令書に限られ、仮名交り及び漢 字体になってからの辞令書にはまったくみられない」と 述べている。

高良 (文献[3]) の報告では、叙任型31件、得分規定 型14件、折衷型1件、不明1件。

12

13

伊江家は、第2尚氏の4代目である尚清王の第七王子、

尚宗賢 (伊江朝義) を祖とする。

ただ1件のみ 「ඪ਄਒ā࿄ᘝଞāڭ৮ڦશāࢣ་」(伊 江家辞令書第二号,西暦1717.6.2) である。

14

15

(6)

辞令書の表記文字が、仮名から漢字へと変 遷するなどの変化については、文献 [1] 、

[2] 、 [3] でそれぞれ述べられている。

 文献 [3]で高良は、 「辞令書は一六○九 年の島津侵入事件を契機に大きな形式上の 変化を見せはじめる」 (p.119) として、そ の趣旨を述べると次のようになる。

(a) 「しよりより○○○か方へまいる」 の    欠落。

(b)

全体に平仮名表記が後退し漢字表記

   が前面に出る。

(c) 「かりや・ぬき」

の丈量単位から石高制

   への移行。

(d) 「一人」

の文字の欠落。

(e) 干 支 の 有 無 ( 「一 人」

の 文 字 の 欠 落   と同時期)

 本論文では、これらに加えて、

(f) Ķૂ ɢ ᆊ Ɉ স ʷ ૢķ!ȥ ɣ!Ķଽ ᆊ Ɉ স āāʷૢķ!ɒɈဿݛ

を新たに変化の事例として含める。

 この

(f) の

「志よ里の御ミ事」

から

「首 里の御ミ事」への変化の現れる前後の辞 令書は、

である。

 従って、少なくとも薩摩藩による琉球侵 攻の1609年4月5日 (首里城を接収) の 3年8ケ月後の辞令書までは、 「志よ里の

御ミ事」

であり、仮名字体の辞令書である。

 次に、仮名字体から漢字体への変化時期 を見ると、

までは、 「首里」 や職名や地名などに漢字 が当てられた漢字交じりの辞令書であり、

その後、

において、完全に漢字のみの辞令書、すな わち漢字交じりの仮名字体から漢字のみの 漢字体の辞令書になる。これ以後、仮名の 入る辞令書は、現在 (西暦2008年)

のと

ころ見つかっていない。

 漢字体の辞令書になった時期は、尚象賢 の摂政開始 (1666年)

から5年後である

か ら、 文 献 [3]で 高 良 が 述 べ る よ う に、

尚象賢の影響を排除できないであろう。仮 に、尚象賢によるものであれば、年代の範 囲を狭めて1666年、あるいは1667年頃か ら漢字体への辞令書になったと考えること も可能かもしれない。

  「志よ里

16

」 から 「首里」

に変化した辞令

書を 「仮名+首里」 、さらに職名や地名等 が漢字で記されるようになった辞令書を 「仮 名+漢字多め」として、それらの出現頻度 を古琉球王府辞令書、および近世琉球王府 辞令書で分けると、次の表3、表4を得る。

 表3、表4を見ると明らかに近世琉球 時代 (1609年)

以降、仮名を用いた辞令書

が減少し、漢字と仮名、あるいは漢文への 変 化 が は っ き り 分 か る。 そ の 端 的 な 例 を示しているのが、伊江家の辞令書であろう。

1.2.3節において、本論文が「志よ里」と辞令書のまま

記した理由を述べてあるので参照されたい。

16

ಀᇗ2772/2/26ć 『勢高富引の里主部家来 赤頭の筑殿職補任辞令書 (順治十七年庚 子十二月十五日) 』

ಀᇗ2782/3/36ć 『真和志間切の儀間里主

所知行安堵辞令書 (康煕十年辛亥正月十

七日) 』

(7)

  伊 江 家 の 辞 令 書 は、 西 暦1717.6.2〜

1874.10.21(康煕五十六年丁酉四月廿三日

〜同治十三年甲戌九月十二日) に交付された ものだが、全て漢字 (漢字体)

で記されている。

 文献 [1]では、 「この変化 (漢字まじり)

の直接的契機が事件 (1609年の薩摩藩琉 球侵攻) にあったのかどうかは判然としな いが、 (中略) 、少なからず何らかの影響が あったことは指摘できる」 (p.13-14,括 弧内;著者)

と、やや慎重ながらも高良

(文 献 [3] )

の指摘と同様の見解を示している。

࿍4!!গᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈ࿍ࡥဦ૦

࿍5!!ࣷ౦ᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈ࿍ࡥဦ૦

 本論文でも、 「志よ里」 → 「首里」 、職名 や地名などの漢字化、そして全て漢字で書 かれた伊江家の辞令書を時系列でながめ、

かつ統計的に考えた場合、1609年の事件 以降、明らかに辞令書の表記文字に変化が あったと認めるとする。そして、推し量っ て考えれば、西暦1609年以降の琉球王府 の他の公文書等は、辞令書に見られるよう な変化があったかもしれないと推察する。

2/3/4! !ĶێఱķĂĶૂɢᆊɢɤśśśၫɒɘ ȞɥķĂĶࠍૅķ!Ɉᄵჟ

 「一人」、「干支」、ならびに「志よ里より○

○○方へまいる」の有無や漢字体への変化に ついて高良は、 「古琉球辞令書から琉球近世辞 令書への完全な転化

0 0 0 0 017

が十七世紀の六十年代 に 集 中 し て い る こ と は、 尚 象 賢 の 摂 政 期

(一六六六〜七三年)における政治と恐らく無 縁ではないだろう」と文献[3] (p.121)で述 べている。

 しかしながら、厳密にみると 「一人」 、 「志 よ里より○○○方へまいる」が辞令書から 消えるのは、

       

       

の期間の間であり、尚象賢の摂政の始まる

44年も前なので、この変化の原因を尚象賢

に求めることは出来ない。尚象賢が生まれ る以前に、 「一人」と 「志よ里より○○○方 へまいる」 は、辞令書から姿を消している。

 従って、1609年の薩摩による琉球侵攻 を契機に辞令書から 「一人」 、 「志よ里より

○○○方へまいる」が消えたと考えるほう が自然であろう。

 また、 「干支」

の出現は、

「仮名+漢字」

の辞令書から全て漢字による漢字体の辞 令 書

19

へ の 変 化 と 僅 か に 時 期 が 異 な り、

高良は文献[3]の中で、「完全な転化

0 0 0 0 0

」を定義していないが、

文脈から漢字体の辞令書への転化を指すことは明白。

写しの古文書を含めれば、西暦1609.3.16:「名瀬間切の 西の里主職補任辞令書(萬暦三十七年二月十一日)」(奄美)

現存の辞令書に見える初出は、「西暦1671.2.25:真和志間 切の儀間里主所知行安堵辞令書(康煕十年辛亥正月十七日)」

17

18

19

(8)

    

    

の間である。従って、 「干支」 の出現に対 する尚象賢との直接の関与には、慎重にな らなければいけない。

 尚象賢は1650年に 『中山世鑑』 を完成 さ せ て い る が、 少 な く と も そ の 2 年 後

(1652年11月 9 日) ま で は、

「干 支」 が 辞 令書に現れていない。また、尚象賢が摂政 となるのは1666年からであるが、1659年 8月2日付けの辞令書には既に 「干支」 が 記 さ れ、 か つ、 西 暦1661.1.15 の 『勢 高 富引の里主部家来赤頭の筑殿職補任辞令書

(順治十七年庚子十二月十五日) 』

にも

「干

支」

は記されているので、尚象賢に

「干支」

の記載の紀元を求めることは難しい。

 高良は 「一人」

の欠落と

「干支」

の出現

は同時期であると文献 [3]で述べているが、

上 述 の よ う に 「 一 人」

の 欠 落 は、 西 暦

1612年には起こっており、

「干支」

のない

最 古 の 辞 令 書 (西 暦1652年)と の 間 に は

40年もの開きがある。

 以上より、 「一人」 、 「干支」 、ならびに 「志 よ里より○○○方へまいる」 の有無の変化 については、尚象賢の関与よりも1609年 の薩摩による琉球侵攻による影響とするほ うが、時系列的に見て合理的であると考える。

 表5、表6に1609年を境として辞令書

に 「干支」

が現れるか否かをまとめた。

 表5より、現存する古琉球王府辞令書に は、 「干支」 が記されたものは無いことが

分かる。一方、表6では、 「干支」 が記載 されていない辞令書と記載された辞令書が 混在している。つまり、

1609年以後も

「干

支」

の記載の無い辞令書があったことを示

している。

࿍6!!গᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈࠍૅɈᄵჟ

࿍7!!ࣷ౦ᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈࠍૅɈᄵჟ

 伊江家の辞令書は、その全てに 「干支」

が記されていることから、少なくとも伊 江 家 辞 令 書 第 一 号 の 交 付 さ れ た 西 暦

1717.6.2(康 煕 五 十 六 年 丁 酉 四 月 廿 三

日)

に は、 既 に 辞 令 書 に

「干 支」 を 記 載 する書式が完成し、定着していたと考え てよいだろう。

 ここで、文献 [1][3][4] では、

ĶȱɢɤɢɤśśśȥၫɒɘȞɥķ

(1.2.2節の

(a)参照) としているが、本論

文では、

ĶૂɢᆊɢɤśśśၫɒɘȞɥķ とする。

  そ の 理 由 は、 「志 よ 里」 は 「首 里」 で あ るから、 「里」 を変体仮名として無理に取 り扱い、 「り」 へと表記し直すのは適切で はないこと、また、 「方」

の前には、

「か」

の他に 「の」 が来る辞令書があり、 「か」

入れては一般化できないためである。

(9)

  「方へまいる」 の前に 「の」

が記されてい

る辞令書を列挙すると下記の10件もある。

これは 「写し」

「写真」

を含め古文書とし

て目視で確認できる辞令書の約1割に当た り、決して少ない数では無い。従って、本 論文による一般化が妥当と言える。

1.

2.

3.

4.

5.

6.

7.

8.

9.

10.

2/3/5!!ĶȥɤɞĆɆȧķğĶಒ਒ķ

 古琉球時代は、その丈量単位が 「かりや・

ぬき」であった

20

。これは、辞令書におい ても確認することが出来る。

 例えば、現存する古琉球王府の交付した 得分辞令書で1609年に一番近いのは、

であるが、この中には、

  Ķর୥ɆȧȻɉȹȫહɕȷķ

とあり、古琉球時代の丈量単位で得分が記 されている。これ以前の古琉球王府辞令書 の丈量記述は、 「かりや・ぬき」

である。

 一方、1609年後の近世琉球王府の交付 した得分辞令書では、丈量単位が変化する。

1609年に一番近い得分辞令書は、

であるが、それには、

  Ķඪ਄਒જ୎ಒʧķ

と記され、もはや古琉球時代の丈量単位 による記載ではない。これ以後の現存する 近世琉球王府の交付した得分辞令書では、

すべて 「石高」

表記となっている。

 こ の 変 化 の 指 摘 は、 高 良 が 文 献 [3]

(p.120-121) で既に行っている。しかし ながら、彼の論文の文脈は尚象賢 (1617-

1675年) の関与を疑わせる記述となって

いる。1627年といえば、尚象賢10歳であ るため彼の政治的関与はありえない。高良 自 身 が 文 献 [3](p.119) で 述 べ て い る よ うに、 「一六○九年の島津侵入事件を契機」

とするほうが論理的で、整合性がある。

3ąᆖ࢝Ɉ૷ᇇஙɈၭᆲĪʍɼʒī

 本節では、古琉球王府と近世琉球王府の 交付した辞令書の法量について、統計的に

文献[3](p.120)。

20

ಀᇗ2634/21/ ǐć 『渡

_船宝丸の官舎

職補任辞令書 (嘉靖二年八月廿六日) 』 ಀᇗ2652/ ǔ/41ć 『渡南蛮船勢治荒富の 筑殿職補任辞令書(嘉靖廿年八月十日)』

ಀᇗ2715/22/ Ǖć 『今帰仁間切の辺名 地目差職補任辞令書 (萬暦三十二年閏 九月十八日) 』

ಀᇗ2665/ Ǖ/36ć 『喜界の志戸桶間切 の 大 城 大 屋 子 職 補 任 辞 令 書 ( 嘉 靖 三十三年八月廿九日) 』 (法量不明)

ಀᇗ2666/ Ǎ/2:ć 『屋喜内間切の名音 掟職補任辞令書 (嘉靖三十三年十二月 廿七日) 』

ಀᇗ2667/ Ǖ/25ć 『屋喜内間切の名柄 掟 職 補 任 辞 令 書 (嘉 靖 三 十 五 年 八 月 十一日) 』

ಀᇗ2682/ Ǔ/ ǎć 『瀬戸内間切の阿木 名 目 差 職 補 任 辞 令 書 (隆 慶 五 年 六 月 十一日) 』

ಀᇗ2683/ ǎ/ Ǎć 『屋喜内間切の先原 目差職補任辞令書 (隆慶六年正月十八 日) 』

ಀᇗ2718/ Ǔ/3:ć 『名瀬間切の朝戸掟 職補任辞令書 (萬暦三十五年閏六月六 日) 』 (写し)

ಀᇗ271:/ Ǐ/27ć 『名瀬間切の西の里 主 職 補 任 辞 令 書 (萬 暦 三 十 七 年 二 月 十一日) 』 (写し)

ಀᇗ2718/ Ǖ/ Ǒć 『今帰仁間切の具志川 の ろ 職 補 任 知 行 安 堵 辞 令 書 ( 萬 暦 三十五年七月十五日) 』

ಀᇗ2738/ ǔ/ Ǐć 『真和志間切の儀間大

やくもい知行安堵辞令書 (天啓七年六月

廿二日) 』

(10)

分析した結果を示し、考察を与える。

3/2!!ᆖ࢝Ɉ૷ᇇஙɈ඗၃ɂෳ၃

 琉球王府の辞令書は長方形であり、その 法量は短辺と長辺をもって定めることが出 来る。文献 [1][2] では、 「縦」

「横」

で法

量が記されているが、これは文字の書き方 による規定で、辞令書の大きさに着目して いない。

 本論文では、科学的再現性の観点から、

長方形である辞令書の 「短辺」

「長辺」

で法量を規定する

21

 表7に古琉球王府辞令書の法量 (短辺、

長辺、短辺×2) を示し、表8に近世琉 球王府辞令書の法量 (短辺、長辺、短辺

×2)

を示す。表7と表8に短辺×2を

記載したのは、辞令書が半紙である可能 性を考えてのことである。辞令書が半紙 で あ る 可 能 性 と 古 琉 球 紅 型 (形 附) 型 紙 との関係は、2.3節で詳細を述べる。

 表7と表8を比べると、短辺と長辺で 約1.5cm、近世琉球王府辞令書が大きい。

また、古琉球王府辞令書に比べ、近世琉 球王府辞令書は標準偏差も大きく、かつ レンジを見るとバラツキも大きいことが 分かる。具体的には、短辺で約4cm、短 辺×2で約5cmの開きがある。

 図2は、古琉球王府辞令書と近世琉球 王 府 辞 令 書 の 法 量 (長 辺 と 短 辺 × 2) に よる散布図であるが、明らかに、古琉球王 府辞令書に比べて近世琉球王府辞令書の短 辺×2にバラツキのあることが分かる。

 特に目に付くのが、短辺×2が60cm以 上の辞令書が、近世琉球王府辞令書に多い ことである。

࿍8!!গᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈၭᆲ )dn*

࿍9āࣷ౦ᆖ݄࢝࿬૷ᇇஙɈၭᆲ )dn*

ూ3!!૷ᇇஙɈၭᆲɅɢɥယ࿫ూ

 短辺×2が60cm以上となる近世琉球王 府辞令書 (ただし、伊江家を除く)につい て調べてみると、次ぎの表9を得る。

 表9を見ると、短辺×2が60cm以上と なる近世琉球王府辞令書の78.5% (22/28)

は、離島への辞令書である。宮古と八重 山の頭職は首里大屋子と同位ではあった

紅型の型紙を 「短辺」「長辺」 により規定した研究、

「古琉球紅型の型紙の外寸と名称および館蔵 (大黒屋型)

と の 比 較」(又 吉 光 邦, 産 業 情 報 論 集 第4巻 第2号,

pp.1-13,2008) を参考にした。

21

(11)

が 「大首里大屋子」 と称され、区別されて い た こ と が 知 ら れ て い る

(

文 献 [1] ,

pp.20-21)。従って、宮古と八重山の辞

令書が、他の地域の辞令書より若干大きめ のものが多いことを示す表9は、歴史家の 言の証左を与えている可能性がある。

࿍:ā඗၃Ŀ3Ɉ൥ȧȯɅɢɥယᇆ

 また、八重山はその中でも特別な扱い で あ っ た 可 能 性 が あ る。 な ぜ な ら、

42.8%(12/28)もの60cm以上の辞令書

が八重山のものであることは、その可能 性の肯定はできても否定を許す数値では ないからである。付け加えていえば、短辺

×2が60cm未満の辞令書28件の中にある 八重山の辞令書は1件 (59.2cm)

だけで

あり、八重山の辞令書の特異性を示してい るといえよう。

 八重山の紙は首里王府に献上されたらし く (文献 [24],p.18) 、また、西暦1699年 の 「参遣条」

(文献

[25],p.31)には紙漉き 稽古の記述もある。八重山の辞令書は、八 重山で製作されたものかもしれない。

 ここで注意が必要なのは、八重山の辞令 書は西暦1762.10. 8のものが最古であり、

1700年代中頃から辞令書が大きくなった

との考えも指摘されて良い。このことにつ いての詳細は、次の2.2節で述べる。

3/3!!ڭ৮ݦɈ૷ᇇஙɈ඗၃ɂෳ၃Ăȷȱɀ Ķඪ༄ݦķ

 現存する伊江家の辞令書は、近世琉球王 府交付のものに限られる。1700年以前の 辞令書はなく、1717年のものが最古であり、

その全てが漢字体で記されている。

 伊江家の辞令書は、これらの特徴だけで なく、その法量にも特徴のあることが、統 計処理で明らかとなった。表10に伊江家 の 辞 令 書 の 法 量 を 示 し た、 表

11に 短 辺

×2について60cmを境とした統計結果を 示す。

࿍21āڭ৮ݦ૷ᇇஙɈၭᆲĪdn*

 表10より、近世琉球王府より交付され た伊江家の辞令書は、平均で古琉球王府辞 令 書 よ り 短 辺 × 2 で 約 8cm、 長 辺 で 約

10cmもの差のあることが分かる。また、

伊江家の辞令書を除く近世琉球王府辞令書 の 短 辺 × 2 の 平 均 値 は、 表 8 よ り

59.08cmであることが分かるが、伊江家

の辞令書は、それよりも4.7cmも大きい。

 また、表11により、伊江家の辞令書は、

明らかに60cm以上のものが多い (80%)

ことが分かる。

(12)

࿍22!!ڭ৮ݦɈ඗၃Ŀǎɢɥယᇆ

 伊江家辞令書の法量が大きくなっている原 因として次ぎの3点を考えることができる。

(1) 王の血筋である伊江家は、辞令書が他

  者の辞令書より大きかった。

(2) 伊江家の辞令書には、古琉球王府辞令

  書に比べて得分規定型や折衷型が多く   含まれている (表2参照) 。折衷型では、

  おのずと文字の量が多くなるため、大   きめの紙に記さなければならない。こ   れが、大きな辞令書となった理由とし   て考えられる。

(3) 理由は未明だが、1750年頃より、辞

  令書が大きくなった。

 (1)については、現在のところ他の証左 となるものがないので議論できない。

 (2)については、物理的要因であるので、

明瞭に理解できる。しかしながら60cm以 上の辞令書19件のうち、8件が折衷型以外、

すなわち文字量が多くなくても良い辞令書 であるため、主たる因子にすることはため らわれる。

 (3)は、1750年以前の伊江家以外の1件

(26件中) と伊江家の1件 (

6件中

) の計2

件が短辺×2>60cm。1750年以後の伊 江家以外の3件 (30件中)

と伊江家の0件

(18件中) の計3件のみが短辺×2<60cm

であることより導かれた考え方である。

 すなわち、統計的に見て1750年以前は 短辺×2が60cmより大きい辞令書はわず か に32件 中 2 件 の6.25%。1750年 以 後 の辞令書では、短辺×2が60cm未満の辞

令書は、わずか48件中3件の6.25%なの で、1750年頃を境に琉球王府交付の辞令書 が大きくなったと推定できる。

 本論文では、統計データを基にして導い

たこの

(3)を主たる因子としたい。そして

辞令書が大きくなった理由については、唐 紙の製作技法を持ち帰った 「知念」 の存在 をあげ、その影響が大きかったのではない かと考えている。

  「球陽 巻十五」 (文献 [8])

には、1750

年 頃 ( 前 後 の 記 録 の 年 代 よ り 推 定)

に 「知念」

が唐紙・印金紙・緞子紙の製法

を学んで帰り、以後、国用に用いたことが 記されている。この知念の功績が、辞令書 の法量の変化をもたらしていると推し量っ て考えるのは無理がない。 

 文献 [9][10]に拠って琉球における紙 の歴史の概略を記せば、次のようになる。

āઓႬȥɣ૒ਧȧၭɬߔɭȺ൥ॽကᕳကȦĂ 27:6༃Ʌଽᆊࣸ௱ഺ൥ྦྷರɁ૒ਧȧɈଌ অɈȜɂĂટ

やまがーふぃーじゃー

ರྦྷರɈതɁ૒ਧȧɬ઻ɛĂ 27::༃Ʌ࢔গĆཞ୭ટɅ஼૒Ɉࡳ୹Ȧ๙ ȢɣɦĂȯɣɅ2837༃Ʌၢங૒Ɉ஼ഢȦ Ʉȯɦȹă2951༃ਰɅɉĂݡ

か ら か ー

ᆯರȥɣ࡯

ぶ か ー

ರɬॄɀၣ

たからぐちふぃーじゃー

৏ྦྷರɘɁɈᄝ511nɈ࠰Ʌ

౿૒ࣞଞȦୠȽȹă

 従って、少なくとも1726年以降の琉球 について、唐紙の製作に援用できる技術を 琉球王国は持っていたと考えてよい。

  また、文淳得らの 『漂海始末

22

に は、

ිᄘ૒࣡ᲷẳఋߢૣބᎼ૳āढ़ᄵ஧ৎଞᄊᆯ と記されており、それを訳せば 「猪野紙は、

極めて安く

23

、わが国のものと色が似てい るが、綺麗である。厚いものが最も良い」

西暦1801年12月大風に遭い漂流。1802年10月に琉球 を出発し、「呂宋」「マカオ」「北京」 を経て1805年1月 に朝鮮へ帰郷した文淳得等の漂海記。文献[20]に詳し いので、参照されたい。

「賤」 は、人に用いる場合に 「卑しい、みすぼらしい」

の意味の形容詞となる。物に用いる場合は、「値段が安い」

の意味の形容詞となる。

22

23

(13)

となる。これは、琉球国で品質の高い紙が

1802年に生産されていたことを示しており、

1750年頃に知念によりもたらされた唐紙

の製作技法も琉球国に根付いていたと考え てよい。

3/4! ! ᆖ࢝Ɉ૷ᇇஙɂᆖ࢝৸ळĪव࿽*

24

Ɉळ

૒Ɉ࠲ब

 2.1節と2.2節では、琉球王朝期に交付 された辞令書の短辺の2倍を用いて、分類 上 の 考 察 を 与 え て き た。 そ れ は 「半 紙」

の概念に基づき、辞令書に使われた紙の元 の大きさ (法量) を求めることで得られた 考えであった。

 表7より、古琉球王府辞令書の短辺×2 の平均は55.96cmであることが分かるが、

この長さは文献 [5]において著者が求めた、

古琉球紅型 (形附) 型紙

25

(以 後、 単 に 型 紙と呼ぶことがある)

の全紙の長辺

(平均:

55.2cm,標準偏差:2.7cm) とほぼ同じ

長さであり、関連性が疑われる。すなわち 型紙と辞令書は、同一規格の紙より作られ たのではなかったのかとの仮説が立てられる。

 図3は、清 宗光緒17年 (西暦1891年 2月9日〜1892年1月29日) に彫られた 紅 型 型 紙 (文 献 [15])

と 明 熹 宗 天 啓 5 年

(西暦1625年5月25日。清太祖天命10年)

に交付された辞令書 (文献 [19])

との法

量における比較図の一例である。図3より、

辞令書の長辺 (46.5cm)

に比べて、型紙

の短辺 (42.9cm) との差が3.6cmあるも のの、型紙と辞令書 (×2枚) は、ほぼ同 じ大きさをしていることが分かる。

 型紙と辞令書の作られた時代の差は、

270年程あるものの法量に大きな違いがな

い。このことは、型紙と辞令書にはなんら かの関係があったとみなせるものと考える。

 法量を用いた本研究のきっかけは、著者 が辞令書を眺めているうち、それを2枚並 べれば型紙と同一サイズになるのではない かと推察したことに始まるが、図3はその 推察への目視による確からしさを与えている。

ూ4!!ळ૒ɂ૷ᇇஙɈၭᆲɈ྘ߏూ

 ところで、図3の辞令書は、 「志よ里」 が 初めて 「首里」 に代わったものである。この ことは重要で、琉球王府の漢字名称が 「首 里」となったことを示す初めての辞令書で ある。

  ま た、 琉 球 王 府 の 辞 令 書 を 見 る 限 り、

1625年より前の琉球王府の文字による名

称は 「志よ里」 であることが分かる。

(形附) と併記したのは、「紅型」という漢字名称が歴史 的に正しいか、著者には疑問だからである。古文書では

「紅型」 と記さない。詳しくは、文献[11]を参照されたい。

本論文では、鎌倉芳太郎が昭和以前に沖縄県で蒐集した 紅型型紙 (文献[15]-[18]) を古琉球紅型型紙と呼ぶこ とにする。

24

25

(14)

  図 4 に 古 琉 球 紅 型 (形 附) 型 紙 (総 計

1881点26

) の分布に琉球王朝期の辞令書の 分布を重ねたものを示す。ただし、分布図 にある琉球王府の辞令書は続紙した4件

27

を除いた。表12に図4中の分布A,B,C,

D,E,Yの型紙の平均と標準偏差を示す。

表13には、表12のレンジを示す。表12、表

13は、それぞれ文献

[5]よりそのまま引

用している。

 古琉球紅型 (形附)

型紙の分布と法量、ある

いはデザイン手法についての考察は、文献

[5][6][7]に詳細があるので参照されたい。

ూ5!!ळ૒ɂ૷ᇇஙɈၭᆲɅɢɥယ࿫ూ

 図4を見ると、型紙の全紙と呼ばれる矢 印Aの領域に辞令書が多く重なっているこ とが分かる。これは、著者の辞令書を2枚

並べれば型紙の全紙と同じ大きさになると いう予想を裏付ける結果である。また、辞 令書の長辺が型紙の短辺とほぼ同じ長さで あることも分かる。

 その一方で、矢印Zの領域には、ほとん ど型紙が存在していないこともわかる。矢 印Zの領域は、2.1節で述べた八重山の辞 令書 (表9参照)

か、2.2節で述べた伊江

家の辞令書 (表11参照) がその大半を占める。

࿍23!!ळ૒ɈၭᆲɈိࣧɂ࿈ஈှੇ )dnī

࿍24!!ळ૒ɈၭᆲɈཱྀڱ )dn*

統計に用いた総データ数は、沖縄県立博物館 (県博) 蔵の鎌倉芳太郎が蒐集した1414点の型紙から1323点。

沖縄県立博物館 (県芸) 収蔵の590点の中から558点。

総計1881点。

以下に続紙の辞令書を示す。

ಀᇗ2674/22/36ć勢冶荒富引の里主部家来赤頭の船頭 職補任辞令書(嘉靖四十二年十一月十日)。

法量:26.0(52.0)×51.0。

ಀᇗ2698/ ǔ/22ć伊平屋の仲田首里大屋子知行安堵辞 令 書(萬 暦 十 五 年 七 月 八 日)。 法 量:29.3(58.6)×

78.0。

ಀᇗ26:6/21/ ǎć大宮古間切の下地大首里大屋子知行 安堵辞令書(萬暦二十三年八月廿九日)。

法量:28.7(57.4)×82.5。

ಀᇗ2718/ Ǖ/ Ǒć今帰仁間切の具志川のろ職補任 知 行安堵辞令書(萬暦三十五年七月十五日)。

法量:26.3(52.6)×40.8。

26

27

(15)

 型紙は、その製作された年代が銘により 特定されるのは文献 [15][16]を概観する 限 り 少 な い

28

。年代が記されているもの で一番古いものは嘉慶七 (1802) 年のも のである

29

。一方、紅型 (形附) の作品で 現存する最古のものは、久米島の伊敷索按 司所伝の 「菊花鎖繋羽二重地」 で、口伝よ り尚円王 (1470-1476) からの拝領品で ある。従って、現存するすべての型紙が、

1802年以後のものであると断定すること

はできない。すなわち、矢印Aの領域の型 紙には、1750年代以前のものが含まれて いてもおかしくない。ただし、型紙は唐紙 に柿渋を塗って作るものだが、その際に若 干縮むことが知られている

30

ので、矢印A の領域の型紙を無条件に1750年頃以前と することもできない。

 以上より、次の仮説を立てることができる。

(ア) 琉球王府交付の辞令書の短辺は、古

   琉球紅型 (形附)

型紙の全紙の長辺

   の半分の法量である。

(イ) 琉球王府交付の辞令書は、古琉球紅

   型 (形附) 型紙の全紙の半紙が用い    られている可能性がある。

(ウ) 1750年頃まで、琉球王府交付の辞令

   書は、古琉球紅型 (形附) 型紙の全    紙の半紙が用いられていたが、1750    年以降辞令書と型紙は別々に用意さ    れた可能性がある。つまり、 紅型 (形    附)

の型紙は伝統的大きさを踏襲し、

   琉球で漉かれたか、あるいは依然と    して中国から輸入することとした。

   一方の辞令書は琉球で漉いた可能性    を考えることができる。

    逆に、辞令書には権威のある中国    からの輸入品 (唐紙)

を用い、紅型

    (形附)

の型紙を琉球で漉いたと考え

   ることも出来る。

(エ) (ウ) の仮定の下で、これは、伝統的

   な大きさを踏襲する紅型 (形附)と    権威の象徴である辞令書の分岐点    と捉えることができる。

(オ) 現存する古琉球紅型

(形附) 型紙で    60cm未満の型紙は、1750年代以前    のものが含まれる可能性がある。 

(カ) 現存する古琉球紅型

(形附) 型紙で

   60cm未満の型紙は、1750年代以後    のものが柿渋を塗ることによって縮    まったものである可能性がある。

  (ア)

は、図4より明らかである。

  (イ)

(ア)

よ り 導 か れ る。 た だ し、

科学的分析を通して明確にすることが望ま れる。ところで、科学的、あるいは文献上 の根拠が示されていないが、文献 [1]にお いて上江洲は 「辞令書は೔૒ȷɈɘɘɬ઴

4 4 4 4 4 4 4 4

4

した堅紙」 (傍点・太字;著者)

として

いる。

  (ウ) は、図2および図4より可能性を 論じることができる。歴史的に見れば、可 能性を否定するほうが受け入れがたい

31

  (エ) は、 (ウ)

に依存するが、唐紙の技

法を1750年頃、琉球に持ち帰った 「知念」

の存在を考えれば、否定できる確証が得ら れなければ、考慮に入れるべきであろう、

文献[14][21][22]では、琉球王朝期の紅型の型紙は、

輸入された和紙であったとしている。しかしながら、歴 史的に見てもその説は支持しにくい。著者は型紙の法量 の計量分析を用い、琉球王朝期の紅型の型紙が、和紙で ある可能性はかなり低いことを文献[6]の中で明らか にした。

31

著者は、年代の銘の記された型紙の総数を知らない。今 後、銘を頼りに型紙の年代分布の調査研究が必要である。

「紅型型紙の幾何学的考察−琉球紅型型紙のデザイン手 法−」(又吉光邦・佐久本邦華,沖縄国際大学産業総合 研究第15号,pp.1-31,2007) で、初めて確認された。

唐紙を用いた型紙作りにおいての法量の縮みについての 科学的アプローチは、著者の知る限り、まだなされてい ない。

28

29

30

(16)

安易に棄却できないと考える。

  (オ)

は、辞令書に記された年と辞令書

と型紙の法量の関係より導かれる推論であ る。今後、科学的な調査により、明らかに なるものと思われる。

  (カ)

は、実験によって科学的に明らか

にできよう。ただし、沖縄における唐紙の 製作技術が途絶えているので、先に唐紙の 製作技術を甦らさなければならない。その 後の調査・研究に委ねることになる。

 高倉は文献 [3] (p.119) で、 「辞令書用 紙である唐紙を入手しうるのは、進貢貿易 の唯一の資格者=国王である点にも注意」

と紹介している。また、文献 [1] (p.21) において上江洲は 「この堅紙を使用するの は古い形で、わが国においても天皇の詔勅 や太政官符などの公的なものとして用いら れ、 権威を示すものであった」 と述べている。

いずれも、歴史的観点から 「唐紙」 そのもの がもつ重要性と権威を指摘しているが、

紅 型 (形 附) も 士 族 に し か 着 用 を 許 さ れ なかった権威を象徴する衣装である。そ の 紅 型 (形 附) の デ ザ イ ン が 彫 り こ ま れ る型紙は、唐紙である必要があったと考 えることは可能であろう。

 先述したが、琉球では1726年以後、和 紙の製法が確立していることは、文献上明 らかである。それでもなお、1750年代に 知念は、唐紙の製法を琉球にもたらす必要 があったことを考えると、唐紙のもつ 「権 威」 という重要な要因が見えてくる。

 個人的な見解であるが、 「知念」

は琉球

産の 「和紙」

を用いた型紙よりも、伝統的

で権威の象徴でもある 「唐紙」 による型紙 を望み、唐紙の製作技法を学んできたとも 考えられる。あるいは、尚象賢−蔡温によ る治世の結果、1750年代には人々の生活

が豊かになり、紅型 (形附)

の需給が中国

からの輸入ではまかないきれず、中国から 唐紙製法の技術そのものを移入し、製造・

増産する必要に迫られ、 「知念」 がその責 務を担ったと考えることもできる。著者は、

琉球王府辞令書の法量が変わった時期と 「知

念」

の唐紙製法の技術との関係は、決して

無視できないと考えている。

ɘɂɛĆݻ൨

 本論文では、新しく発見された琉球王府 の交付した辞令書を含めて、既存の論文と の比較検討を加えた。

 辞令書の 「ノロ、神女、役職等の任命」

と 「知 行 安 堵」 の 分 類 で は、 高 良 (文 献

[3])の分類が一般的に適用可能であるこ

とを示し、また伊江家の辞令書は得分規定 型が多いことを示した。

 時系列で見ると 「志よ里の御ミ事」/ 「首 里の御ミ事」 の分類では、その変化が尚象 賢によるものよりは、むしろ1609年の薩 摩による琉球侵攻を契機とするべきである ことを再確認した。その一方で、 「仮名字 体」か ら 「漢 字 体」へ の 変 化 に つ い て は、

年代から察するに、尚象賢の影響も無視で きないだろうとした。

  「一人」 、 「志よ里より○○○方へまいる」 、

「干支」

の有無については、現存する辞令

書を時系列で整理し、尚象賢の影響ではな いことを明らかにした。また、 文献 [1][3]

において、 「志よ里より○○○方へまいる」

と一般化されるべきところが、 「ȱ

4

よɤ

4

よ り○○○ȥ

4

方へまいる」 (傍点・太字;著者)

とされていたのを訂正した。

 琉球の辞令書の法量 (サイズ) に関する 研究では、短辺×2を求め、さらにそれを

60cm前後で2つに分類し、考察を与えた。

それは、図2の辞令書の法量による分布図

(17)

を観察し、かつ統計的に得られた分類上の 閾値であったが、それが八重山や伊江家の 辞令書を他の辞令書から分離する指標にも なっていることを示した。その際、伊江家 の辞令書と沖縄島以外の離島の辞令書が若 干大きいことを統計的に示した。

 最後に、紅型 (形附) 型紙の全紙の法量

(サイズ) が、短辺を2倍した場合の古琉 球王府辞令書とほぼ等しいことを示し、同 一規格の紙ではなかったかとの推察を与え た。また、1750年頃以降より、紙の法量 に変化が現れたことを統計的、かつ時系列 で示し、紅型 (形附)

の宗家と呼ばれてい

る知念家との関わりがあったのではないか と の 考 え を 述 べ た。 さ ら に、 こ の 法 量

60cmという境目は、

「知念」

による唐紙の

製法の移入によってもたらされた可能性も あるのではないかとの推察を与えた。

 課題としては、文献 [23]にある筆蹟な どの研究への科学的アプローチを試みたい。

ଟ૷

 本報告書作成に当たり、沖縄県公文書館 の田口惠さんには、伊江家辞令書の法量が 報告されている沖縄県文化課紀要論文につ いての教授を頂いた。この場をお借りして 感謝の念を表したい。

 最後に、2008年1月に著者が唐尺の研 究で久米島自然文化センターを訪れた際、

当時の上江洲均館長は、 「琉球の辞令書は、

ほとんど同じ規格のようだ」とおっしゃっ ていた。そのこともあり、本研究では辞令 書のサイズに注目した研究を行ったが、そ の過程で、サイズのみならず歴史的な意味 でも型紙との共通点・接点を推察を含むも のの、明らかにできたことは、研究者とし てうれしい限りである。ここに、上江洲均 先生に感謝の意を表したい。

࿽ሃ࿍ɈႪᇉ 1.

2.

3.

4.

5.

6.

投稿受付日:2008年6月6日 投稿採録日:2008年7月6日

「装 丁」 、 「状 態」 、 「名 称」 、 「日 付 (中 華 暦) 」 、 「短 辺」 、 「長 辺」 、 「枚 数」

項目は、若干加筆した箇所 (中華暦欠 損を補った等)

もあるが、基本的に出

典元の文献 [1] 、文献 [2] に拠った。

「分類」

は、文献

[3]の分類にあるも

のは、文献 [3] と同じである。文献 [3]

にないものは、著者が分類した。

「仮名漢字」 は、 「H」 が 「仮名字体」 。 「K」

が 「漢字体」 。 「HK」 は、表3と表4の

『仮名+ 「首里」 』 。 「HKK」 は、表3と 表4の 「仮名+漢字多め」 。

「日付 (西暦) 」は、辞令書に記されて いる中華暦を元に著者が与えた。

「短 辺 × 2」 は、 辞 令 書 の 「短 辺」

2倍を意味する。

「干支」は、 「E」

が干支あり。

「N」

干支なし。

(18)
(19)
(20)
(21)
(22)
(23)
(24)

[1]   『昭和五十三年度 沖縄県文化財調  査報告書 辞令書等古文書調査報告書』 ,  沖縄県教育委員会,1978。

[2]   『県 指 定 有 形 文 化 財 「伊 江 家 資 料」

  の 概 要 に つ い て』 , 荻 尾 俊 章, 沖 縄 県  教育長文化課紀要第19号,pp.66-82,

 2003.3。

[3]   『古琉球辞令書の形式について』 ,高   良 倉 吉, 沖 縄 資 料 編 集 所 紀 要 第 3 号,

 pp.89-129,1978.3。

[4]   『伊江家辞令書について』 ,高良倉吉,

 沖縄資料編集所紀要第11号,pp.70-75,

 1986.3。

[5]   『古琉球紅型の型紙の外寸と名称およ  び館蔵 (大黒屋型)

との比較』

,又吉光邦,

  産 業 情 報 論 集 第4巻 第2号,pp.1-12,

 2008.3。

[6]   『古琉球紅型型紙と唐尺−型紙の大き  さと文様配置への願い−』 ,又吉光邦,

 pp.25-41,産業情報論集第4巻第2号,

 2007。

[7]   『紅型型紙の幾何学的考察−琉球紅型   型 紙 の デ ザ イ ン 手 法 −』 , 又 吉 光 邦・

 佐久本邦華,沖縄国際大学産業総合研究  第15号,pp.1-31,2007。

[8]   『球陽 原文編』 ,球陽研究会,角川   書店,1974.

[9]   『那覇市史資料編第2巻中の7那覇の  民俗』 ,那覇史企画部市史編集室,1979。

[10]   『沖縄の工芸 紙』 ,粟国恭子監修,

 沖縄文化・工芸研究所,2004。

[11]   『 「紅型」という名前』 ,久貝典子,沖  縄学研究所紀要 『沖縄学』 第九号,2006。

[12]  『沖縄の染織

(Ⅱ) 紅型型紙編』,沖

 縄県史料調査シリーズ第1集・沖縄県  文化財調査報告書第126集,沖縄県教  育委員会,徳間書店,1997。

[13]   『紅型に秘された祈り 〜今、明かさ   れ る 紅 型 の 秘 密 〜』 , 佐 久 本 邦 華・ 又  吉光邦,沖縄教販,2006。

[14]   『沖縄県立博物館所蔵紅型型紙の分類  とその考察

(二)』

,與那嶺一子,沖縄  県立博物館紀要,第18号,1992。

[15]   『鎌倉芳太郎資料集 第一巻 紅型型  紙一』 ,沖縄県立芸術大学附属研究所,

 2002。

[16]   『鎌倉芳太郎資料集 第二巻 紅型型  紙二』 ,沖縄県立芸術大学附属研究所,

 2003。

[17]   『沖縄文化の遣宝』 ,鎌倉芳太郎,岩  波書店,1982。

[18]   『古琉球型紙の研究』 ,鎌倉芳太郎,

 1959。

[19]   『うるま ちゅら島 琉球』 ,九州国  立博物館,2006。

[20]   『琉球・呂宋漂海録の研究 −二百   年 前 の 琉 球・ 呂 宋 の 民 族・ 言 語 −』 ,  多和田眞一郎,武蔵野書院,1994。

[21]  『紅型衣裳と型紙』,沖縄県立博物館編,

 沖縄県立博物館友の会,1985。

[22]   「沖縄県立博物館蔵紅型型紙の分類  とその考察」 ,與那嶺一子,MUSEUM,  No.489, 1991。

[23]   『琉球における仮名文字の研究』 ,東  恩納千鶴子,琉陽堂書房,1973.4。

[24]   「紙渡方 茶園方例帳」 ,上江洲敏夫,

 史料編集室紀要,第16号,1991.3。

[25]   『参遣条抜書 (上巻) 』 ,石垣市史叢書  8,1945.4。

ઞ৽ဦॷ

参照

関連したドキュメント

本県は、島しょ県であるがゆえに、その歴史と文化、そして日々の県民生活が、

それから 3

 平成25年12月31日午後3時48分頃、沖縄県 の古宇利漁港において仲宗根さんが、魚をさ

■はじめに

るものの、およそ 1:1 の関係が得られた。冬季には TEOM の値はやや小さくなる傾 向にあった。これは SHARP

学校の PC などにソフトのインストールを禁じていることがある そのため絵本を内蔵した iPad

• 燃料上の⼀部に薄い塗膜⽚もしく はシート類が確認されたが、いず れも軽量なものと推定され、除去

しかしながら、新潟県上越市において実施予定であった「第 34 回国民文化祭・にいがた 2019 第 19