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一純農村にみる戦後の復興発展過程(上)―今帰仁村字呉我山―山 里 敏 康

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一純農村にみる戦後の復興発展過程(上)

―今帰仁村字呉我山―

山  里  敏  康

1 戦時避難から収容所へ、帰村して集団居住から各家屋に移動

 字呉我山の動向も、特に戦時には国・県の施策に左右されることが大である。まず戦時 日誌を『沖縄県史 8』の「沖縄戦史年表」や『今帰仁村史』により経過を見て、呉我山関 係者の話を綴ることにする。

1-1 戦時日誌

 ① 1944 年(昭和 19 年)の十・十空襲で運天・仲宗根被害甚大。

 ② 1945 年(昭和 20 年)2 月、沖縄本島内北部疎開決定。今帰仁村史では、本村は首里・

宜野湾及び伊江村民計 7,700 人を受入れ。

 ③ 1945 年(昭和 20 年)4 月1日、米軍沖縄本島中部西海岸(渡具知浜)上陸。同年 4 月 7 日、米軍名護(名護町幸喜)に侵入、同年 4 月 10 日、米軍運天港を占拠。同 年 4 月 15 日、北部守備軍(宇土部隊)八重岳を放棄、羽地山に後退。

 ④同年 6 月 17 日、謝名越地以東の村民は羽地へ疎開するよう米軍に命令され、翌 18 日迄に引揚げ終了した。同年 6 月 25 日、平敷以西の村民は久志村大浦崎に疎開命令 され、全村民故里の今帰仁村から引揚げて米軍の収容生活に入る。

 ⑤同年 10 月 31 日、米国海軍軍政長官の布告に基き羽地疎開者に対し帰村命令があり、

謝名越地以東の村民は収容生活から開放されて帰村した。

 ⑥ 1946 年(昭和 21 年)2 月、マラリヤが大発生し 1 日平均 10 名死亡者を出す。村出 身医師の協力を得て病院を設立する。 

 ⑦同年 6 月、村政委員 24 名推挙される(呉我山区は岸本本英氏)   

1-2 避難民等の受入

 ①伊良波幸治氏(明治 32 年生、クヮナサドゥ 9 班)によると、「避難民は那覇の人が多かっ た。各自それぞれで逃げて来た人達だった。沢山いて区民より多かった。家の一番 座は兵隊がいて、次の間は避難民で、避難民に押されて自分達はスム(台所)にいた。

兵隊の持っていた食糧をもらったりした。米はなく、缶詰だけが友軍の食糧として 残っていた。畑に埋められたものもあったので、戦後掘り起こして自分達が食べた。

敗残兵(大和兵)は米軍より怖かった。米軍は住民を殺さなかった。ハ−バァ、ハ−バァ

(how about? )すると物を投げ与えてくれた。逃げると撃たれたが」

 ②嶺井政兼氏(大正 7 年生、ヒナマタ 8 班)の家では、「避難民が首里から来ていた。   

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2 〜 3 世帯、4 〜 5 名いた。避難民が上座にいて、自分達は下座にいた。上陸前にき て、しばらくいた」

 ③金城新安氏(昭和 7 年生、村内 3 班)によると、「米軍が来る前は、護郷隊員が各 家庭に住んでいた。マシド屋も、自分達(マシド屋グヮ)も、山里にも兵隊がいた。

上の徳村には隊長がいた。首里・那覇からの避難民もいた。デークマタ、スルミチ、

アカギマタ、ヒナマタに避難小屋を作った。国民学校 6 年の頃で、学校休んで避難 小屋や陣地構築の作業をしていた」。 

 ④岸本本仁氏(大正 10 年生、村内 3 班)の家では、「家が焼かれずに残ったのは、中 南部の避難民の年寄りのおばー達が、焼きに来た米軍に懇願して焼かれずに済んだ ようだ」という。

 ⑤伊良波幸治氏宅にいた兵隊は、阿部少尉の隊で、米軍が上陸して早い時期に米兵にや られた。少尉だけが拳銃を持ち、部下は竹槍しか持っていなかった。阿部少尉の慰 霊塔は戦死したクルヤマに建立した(安慶名傳孝氏談)

1-3 山に避難彷徨

 ①金城新安氏(昭和 6 年生)によると、「戦争は自分が国民学校 6 年(13 歳)で徴兵はなかっ た。戦争初期はフカサク山に隠れ、米軍上陸時はクロ山に上がった。そこは危ない とのことでサザラに移り、また畑のあるデークマタに移った。終戦(6 月 23 日)の 翌日に捕虜になった。部落の人達は 1 ケ月前に捕虜になったが、捕虜にならずに表 彰されようと頑張った。マーブウ山にオド部隊の陣地があったので、羽地に上陸し た米軍はジープで呉我山を通って伊豆味に向かい、5 時になると帰っていた。敗残兵 がいて狙撃するので、道路沿いの家は焼かれた」

 ②安慶名傳孝氏(昭和 9 年生)の場合は、「戦争時国民学校 4 年生(11 歳)だった。セ ントリ山(謝名上原)に隠れた。祖父母は家に残ったが、その方が良かった。セン トリ山から謝名オウルカの掘った防空壕にいたが、米兵が来て田圃に出されて、日 本兵がいないかチェックを受け、米兵がチョコレートやチュインガムをくれた。チョ コレートはおいしく食べたが、チュインガムは吐くと、米兵は笑っていた。避難は 米兵が上陸してから 5 月頃までかね。避難中は昼は隠れて、夜に米を炊いて油味噌 と食べ、昼は食べずにサトウキビをかじっていた」

 ③島袋祐太郎氏(昭和 10 年 3 月生)は、「戦争直前にフィリッピンは危ないと 7 歳に帰っ て来た。戦争中は国民学校 4 年生(10 歳)で、祖父に連れられて遠くに行かずに近くで、

昼はデークマタあたりで隠れ、夜は家に帰ってヒチリンでご飯を炊き、夜が明ける と山に隠れた。幸冶屋と一緒だった。サジャラにも隠れた」

 ④嘉陽宗丘氏(14 年 1 月生)の場合は、「空襲には元屋敷の上の防空壕に隠れ、米軍が 上陸してからは「火焚き」という所に隠れては家に帰った。家が焼かれてからはサジャ ラに隠れ、宗一屋の裏の洞窟に移ったりした」。      

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 ⑤伊佐ウト氏(明治 41 年生)によると、「戦争で家が焼かれたのは旧暦 3 月 3 日(新 暦 1945 年 4 月 14 日)だった。隠れていた山の上から見ていた」

 ⑥比嘉真松氏(昭和7年生)の場合は、「首里の人が空いていた牛舎に来ていた。兵隊 はいなかった。サジャラに避難小屋を作り、そこに移って来た人もいた。戦時には クル山に 3 日間隠れていたが、雨に濡れて大変だったので、自分の家に帰った。米 兵が来たが、大丈夫だった」

1-4 収容所から帰村、集団居住から各家屋に移動

 ①島袋祐太郎氏によると、米兵が来て家から出され、振り返ると家が焼かれていた。そ れから上の橋(売店前)に集められ、まとめて米兵のトラックに乗せられ、羽地に 連れて行かれた。旧羽地村仲尾次では 3 畳ぐらいのテント小屋に住んでいた。祖父 と私は羽地からサジャラ→仲宗根→桃原飛行場の米部隊に戦果を上げに行き、2 昼夜 がかりであった。それからシマ(呉我山)に帰り、タキノクチ(古呉我原 411 番地)

のテント小屋に集団で住み、マラリヤにかかったりした。マラリヤで死んだ人も多 かった。祖父は山から木を切ってきて、掘っ建て小屋を作り、かまどの所は土塀に していた。学校は 5 年生(天底小学校)として始まった。(戦時中、天底小学校は日 本兵の兵舎になっていた)

 ②安慶名傳孝氏の場合は、捕虜収容所は仲尾次だった。仲尾次の住居地域に木を切って  柱や桁にしてカヤを載せて、ハァフゥ屋を作って住んだ。キャンプには入らなかっ た。(田井等のキャンプは日本兵と若い男子がいた)。自由に行動できて、イモを掘っ て持ち帰ったりした。呉我山に帰り、タキノクチに 1 カ所に集まってカバー屋に住 み、伊江島の人々も一緒に移って来た。自分達の家も焼かれていた。自分達はカバー 屋からすぐに、ハーフゥ屋を作って移った。

 ③嘉陽宗丘氏(昭和 13 年生)は、収容されて、羽地の我部祖河にカヤぶき長屋を作っ て 4 〜 5 家族が住み、マラリヤに交互にかかっていた。寒くて震えるので、布団を かぶせて押さえつけていた。呉我山に帰って本英氏の土地(現仲田幸子宅)にカヤ ぶき屋を作って数年住んで、元屋敷にカヤぶき屋を作って移った。現屋敷にはセメ ント瓦家を作って移った。

 ④比嘉真松氏は、捕虜には県道のアカギマタ交差点(ドウコウ屋の付近)に集められて G  MC(米軍の 2 トン半トラック)に乗せられ、仲尾次に連れて行かれた。キャンプ の外で、カバーヤにいたが、空家が出たので伊豆味の方とそこに移った。5 カ月ぐら いいた。  配給もあり、イモ堀りに呉我山に行き、昼はイモを掘って、暗くなってか ら帰ってきた。一度だけだが、先輩達 7 〜 8 名グループで字玉城の米軍キャンプ(旧 牛毛の上)の倉庫に入ったが、高窓を荷物を持って越えきれずに、荷物を置いて出た。

先輩が戦果を分けてくれたことがあった。収容所から呉我山に帰ってきて、カバー ヤ(タキノクチ)に 1 年近くいて、家に帰った。カバーヤでマラリヤにもかかった。

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イモを作って食糧にしていたが、食べるのに事欠く状況だった。(父母死亡、子供だ けになり、長男で親代わりになった)。戦前は天底国民学校4年生だったが、戦後は 家長として食物作りに専任した。

 ⑤仲本善雄氏(昭和 10 年生)は、10・10 空襲に仲宗根にいたが、戦争中はスルミチ(旧 屋敷)に隠れた。戦争が休みの時に仲宗根の家に帰っていたら、仲宗根で捕虜にと られて羽地へ、田井等から我部祖河に移った。呉我山の人達は仲尾次に移動していた。

呉我山に帰り、上原源信氏の家が残っていたので、そこで仮住まいして、タキノク チに掘っ建て小屋を作って移動した。戦後に天底小学校3年生に入った。

2 自給自足から換金作物へ、復興発展過程 2-1 復興期の琉球政府行政記録

 計画局広報課編集発行『行政記録(1945 年 8 月〜 1962 年 12 月)』により、復興期の 行政機関の施策と住民の動向を、年次を追って経過を見ることにする。

 ① 1945 年(昭和 20 年)8 月 15 日、日本がポツダム宣言受託し、無条件降伏に調印。

田井等外 5 地区代表者が石川に参集して「沖縄諮詢会」設立の協議。

 ② 1946 年(昭和 21 年)4 月 15 日、戦前の日本円と新円との通貨切替え。同年 6 月 5 日、

米軍補給物資の無償配布打切る。

 ③ 1947 年(昭和 22 年)3 月 22 日、全島に亘り住民の昼間通行許可。

 ④ 1948 年(昭和 23 年)7 月 18 日、日本円を B 円に通貨切替。軍換算レート 120B 円 対 1 弗実施。

 ⑤ 1950 年(昭和 25 年)11 月 4 日、沖縄群島知事就任式、沖縄群島政府発足。

 ⑥ 1952 年(昭和 27 年)2 月 7 日、群島政府の権利を臨時中央政府に移管。同年 4 月 1 日、

琉球政府創立。同年同月 28 日、講和条約発効。

 ⑦ 1953 年(昭和 28 年)12 月 25 日、奄美大島日本復帰す。

 ⑧ 1954 年(昭和 29 年)、ボリビア開拓移民団第一陣 269 名那覇港壮途。

 ⑨同年 10 月 4 日、伊江村真謝区・西崎両区の土地 48 万 8 千坪の接収と 152 戸の立ち 退きを軍から伊江村に通達。

  同年 12 月 24 日、宜野湾村伊佐浜の軍使用計画地 13 万坪のうち、B 地区の一部約 8 千坪の民政府からの使用開始通知。

 ⑩ 1956 年(昭和 31 年)6 月 21 日、モーア副長官、プライス勧告の全文を発表。

  同年 7 月 28 日、四原則貫徹県民大会(那覇高校)

 ⑪ 1958 年(昭和 33 年)9 月 16 日、通貨交換開始(1 ドル対 120B 円)

 ⑫ 1960 年(昭和 35 年)9 月 28 日、沖縄祖国復帰協議会結成大会(於タイムスホール)。   2-2 区民の生産と生活

 2-2-1 区民の生産

 区民は収容所から部落に帰還して、一時、集団居住(カバヤー)していたが、漸次元屋

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敷や所有地にハーフーヤ(仮小屋)を作って移動していった。まずは食糧確保として甘藷(サ ツマイモ)を作り、チンヌク(里芋)等も作った。甘藷はイモ蔓を切り取って、畑に差し 込み、増殖も容易で、4 〜 6 ヵ月で収穫できるので、最適な食糧作物であった。

 他方、米軍は各字に配給所を設立させた。呉我山でも配給所(今の共同売店の向かい)

ができて、米・メリケン粉・缶詰・ラードなどを配給するようになった。多くの区民は、

イモを作って食糧にして、時には近くの村有地からも木を切って割り、薪にして売って現 金を得ていた。薪は 1 尺 5 寸の長さで、1 尺 5 寸の束にして売り、その代金でソバを買っ たりした。薪 3 束とソバ 1 束と換える人もいた。日雇いに出て生活費を補うこともあった。

 いち早く鶏を飼うようになり、しばらくして豚も飼っていて、旧正月用に豚(伊平屋豚)

を屠殺していた。配給豚と言ってパークシャ・ヨークシャも入ってきたが、白豚は熱を出 す病気になりやすかった。病気になると、生きているうちに血を抜いて、食用に供した。

牛は数年後になって飼育するようになった。(安慶名傳孝氏談)

 嘉陽宗丘氏によると、豚は小学校3年生の頃(1947 年)には飼っていた。前後して山 羊もいた。牛も小学校5・6年生頃(1949 年頃)に飼っていた。荻堂盛貴氏は昭和 22 年(1947 年)に結婚したが、その頃には父(盛良)は牛を飼っていたと言う。戦争で家 畜は途絶えていたが、羽地内海からくり舟で伊平屋島に渡り、米軍払下げの缶詰類と鶏・

仔豚・仔山羊と交換して持ち帰った。それを飼育させて仔豚 ( 仔山羊 ) を生ませて、飼育 代金として仔豚(仔山羊)を与え、他は預託者が外に売り、普及していったようです。牛 は本部のカツオ船を利用して宮古島に渡り、藍と仔牛を交換して持ち帰ったりした(山里 将松氏談)

 戦後の作物の推移をみると、食糧として甘藷(一部に水稲)を作り、換金作物として山 藍を作り、サトウキビ・茶・パイナップルの栽培へと移っていった。

 ア 山藍葉よりエーツボで泥藍製造

 山藍(リュウキュウアイ等)は挿し木で増殖できて、半陰の地を好み、山地の換金作物 としては、手取り早い作物であった。戦災から残ったエーツボ(藍壺)を活用して、山藍 の葉より泥藍を製造した。朝露のある間に藍葉を刈り取り、エーツボで水に浸し、3 日間 ほど発酵させて、生石灰を加えて撹拌し、沈殿物を玉壺に移して保存しながら販売してい た。多くの区民は藍の葉を製造業者に売っていた。戦後に藍を製造したエーツボは古橋の 近くに3か所、嘉陽宗平氏の近くの郡道の左右に 3 か所、アカギマタ・ヒナマタ・スル ミチにもあったが、シイナにはなかった。

 イ 畜力圧搾から動力圧搾の黒糖製造に

 食糧生産にメドがついた頃からサトウキビが栽培され、戦前の畜力圧搾による黒塘    製造場が再開された。スルミチは旧山川家の向いのサータヤで黒糖を作った。シイナ等は 嘉陽宗丘氏によると、本英屋の黒糖製造場を借りて、自分の牛を使って圧搾して黒糖を生 産した。昭和 24 年(1949)頃(安慶名傳孝氏中学生)に同製造場は動力圧搾になった。

岸本本英に岸本本敬が出資してヤンマエンジンを導入してサトウキビを動力圧搾し、四角

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の鍋(なべ ) が4つと丸鍋もあり、火の加減(薪担当)は仲宗根精松氏等がやり、比嘉真 松氏が石灰の調整をして撹拌、仲本善雄氏がエンジンを担当しながら撹拌もした。最初の 鍋で石灰を加え、PH を見て、色を見て、撹拌し、次の鍋に移した。撹拌が遅れるとアメ になるので、ザラミの状態にするよう撹拌して火加減しながら次々と移していった。キビ が上等(ブリックス 18 度以上)のものは撹拌しにくく、難儀だったという。工場主が黒 糖1丁で製造場を貸して、農家は自らのサトウキビを持ち込んで黒糖を作っていた(仲本 善雄氏談)

 ウ 牛を飼って神事としての闘牛を再開

 ①戦後もお宮の前の牛毛(ウシモウ、闘牛場)が残っていた。昭和 22 年(1947)頃に、

旧 9 月 9 日には牛おうらし(闘牛)は復活したと思う。父はすでに牛を飼っていた(荻 堂盛貴氏談)

 ②牛は農家にとっては、厩肥を取るために飼っていたが、ためしおうらさい(テスト闘牛)

で上手な牛を選抜して旧 9 月 9 日の闘牛大会に参加させていた。当時は「呉我山ワイ」

とか「呉我山カキヤ」として地名と特技を名称につけた。今のように「トラムクウ・

パンダ」と、外観や持主の自由に命名することはなかった。

 ③闘牛は毎年旧 9 月 9 日に 10 組(20 頭)作って開催するのが慣例であった。初めの頃は、

部落内で足りない時は伊豆味・湧川等からも参加してもらった。旧 9 月 9 日の闘牛 のために牛を飼育する者も増え、年々盛んになって見物人も多くなり、ジュウシメ

(焼飯)を作って売ったりした。呉我山は闘牛のアマ(新人)のデビューの場となり、

そこで勝って中南部での闘牛としてスカウトされることもあった。

 ④地元新聞によると、1950 年 5 月の伊波闘牛場での闘牛大会に6番呉我山クジヤー、

9 番呉我山トビーが出場している。1963 年 5 月の北部闘牛大会では、呉我山アカブー

(伊佐常福)、呉我山1号(新城新安)、呉我山アヨー(荻堂盛貴)、呉我山チヌシルー

(嘉陽宗勇)、呉我山サイヨー(宮里政清)と、5 組 10 頭のうち、呉我山から 5 頭出 場している。

 ⑤お宮の前の闘牛場は、パイン工場の工員宿舎・倉庫を作るということでデークマタ(道 路の右側、アブントウ登り口近く)に移り、そこで 1 〜 2 回ぐらい行った。その後、

字玉城の闘牛場(仲宗根への道下)に移り、10 数年行った。そこは道路拡張で役場 前(ソーレの向い)に移ったが、そこも道路拡張で闘牛場はセリ市場の隣りに移った。

2-2-2 区民の生活  ア マラリヤ

 マラリヤはハマダラカによって媒介され、吸血にさいして蚊の唾液腺から人体に入った 原虫は無性生殖を繰り返して、特有の周期的な熱発作・貧血等の症状を起こす。八重山開 発最大の障壁はマラリヤであったが、1942 年には八重山群島のマラリヤ羅患率は 2.6%

まで減少したが、戦争の影響で島々の人々が移動して、戦時中にマラリヤは宮古群島・沖 縄群島にも及び、戦後に大流行した。

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 収容されていた我部祖河でマラリヤに家族が交互にかかって、寒くて震えるのでフトン をかぶせて押さえつけていた。帰村してからもマラリアで痩せて、小学校 1 年生は 2 ヶ 月ぐらいしか出校できず、すぐ 2 年生に上がった(嘉陽宗丘氏談)。比嘉真松氏は帰村し て集団居住していたカバヤでマラリヤにかかった。「今帰仁村史」によると、戦後 2、3 年はマラリヤに羅患しない村民は殆どいないと言うほどだったが、DDT 消毒等で完全に なくなったと記している。

 イ 生活用水  

 生活用水は、戦後 10 年余は戦前のように飲料水は近くの湧水(泉)や井戸水、天水タ ンクからの水を使い、洗濯等は川の水を利用した。仲宗根英弘(昭和 13 年生)氏によると、

弁務官資金でできた簡易水道は、昭和 34 年(1959 年)頃に造られたと言う。祖母が豆 腐作りしていたので、水が大事でガランから水を汲んでいた。水源地は、アカギマタ川の 上流のヒナマタ入口で分支した嵐山側の支流で集水して、その山側 100m 上にタンクを 作り、濾過して配管を通して給水していた。

 ウ 電気

 戦後の照明具は石油を燃料としたランプに始まり、東京オリンピック(1964 年 10 月)

前に集落ごとに発電機を購入、配線して電燈をつけた。嘉陽宗丘氏によると、シイナ(1 班)は宗法氏の家の近くに発電機を設置し、配線して電燈をつけ、テレビを見た。呉我山 はパインのおかげで経済力があったので発電できたが、隣りのガジマンドウ(字湧川)の 子供達はテレビを見に自分の家に来ていた。村内(2 〜 4 班)はまとまって発電機を購入 して、売店の近くに設置し、真一氏等が交替で面倒をみていた。クヮナサド・スルミチ(9・

10 班)は裕太郎氏宅入口に発電機を置いて、山川氏等 5 〜 6 名で交替して電気係をして 暗くなると発電し、終電は晩 10 時頃までであった。アカギマタ(5・6 班)は比嘉真松 氏宅の隣に発電機を置いて、配線して電燈をつけた。ヒナマタ(7・8 班)は宮里政忠氏 の屋敷内の小屋に発電機を置いて、配線して電燈をつけた。仲宗根宗信氏(昭和 13 年生)

によると、当時の発電機は 2.5 〜 5kw のものだったという。

 琉球電力公社の配線が呉我山に来たのは 1968 年頃で、それから冷蔵庫等の電化製品が 普及した。1970 年 7 月に「待望の北部の完全電化完成」「終夜点灯、料金も中南部並み の安さ」と報道されている。

 エ 家庭用燃料

 家庭用燃料として、煮炊きには戦後も薪を使っていた。山から木を伐り、薪にして販売 するほどだったので、薪は豊富だった。カマドに火を起こして、薪をくべて、食べ物を炊 き、湯を沸かして飲み物を作った。1957 年4月の新聞には、「カマドからコンロへ、家 庭燃料はケロシン時代、都市では 80%が使用、4・5 年間に著しく普及」と報道されたが、

呉我山では石油コンロはあまり普及しなかった。多くの家庭では、カマドの薪からガスコ ンロに移った。「沖縄協同ガス」の沿革には、昭和 44 年(1969 年)に「北部地区へのガ スの安定供給」の営業所を設置、今帰仁村農協では「昭和 43 年プロバンガスの取扱い開始」

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とあり、呉我山には昭和 44 年頃からガスコンロが使われるようになったと思われる。

 2-3 呉我山区域内の経済活動  2-3-1 鍛冶屋で鍬等の製造 

 岸本恵仁(大正 6 年生)氏は兵隊で馬蹄係をしていたので、鉄の加工の経験があり、

売店の近くに鍛冶屋を設けた。フーシで空気を送って木炭を燃やして、その中にレールの 鉄を切って入れ、三刃鍬・平鍬、鎌、ヘラ等を作り、区民に供給していた(安慶名傳孝氏談)

 2-3-2 製材所で樹木を製材

 製材所は、売店右向いの橋側の川と道路の間の広場にあった。本部町の安次嶺氏からマ シラ屋の松田政俊氏が買って 5 〜 6 年ぐらい操業していた。仲宗根英弘氏は中学生(1951 年)の頃そこでアルバイトしていたこともあるが、当時平良真一氏等 4 〜 5 名働いていた。

グラマリエンジン(30 馬力)の動力で丸鋸を回転させて製材していた。戦災で家屋を失っ ていたので木材の需要が高く、山の木を買って切り出し、製材して木材にして町の木材店 に売っていた。

 2-3-3 配給所から共同売店に

 1946 年 6 月に米軍補給物資の無償配給が打ち切られた。戦後、物資の供給をした区の 配給所も中止された。そこで、区内の戸主のすべてが構成員になって出資して区経営によ る売店として「呉我山共同売店」が設立された。当初は現売店の道向いの下方にあったが、

橋の近くに移り、更に現在地に移動して、瓦ぶきから今のコンクリート平屋になった。初 代の売店主任は嶺井政忠氏、後任に松田政太郎氏、城間福松氏、嘉陽宗勇氏、田港朝輝氏、

嘉陽宗法氏等が売店主任を務めた(島袋祐太郎氏談)。宗勇氏が売店主任の頃、店員だっ た安慶名伝明氏(1958 年ドル交換の頃)によると、米・ソバ・ソーメンの食料品に、酒 は瓶からのはかり売り、石油はドロム缶から 1 升ビン等に分けて売り、ノーシン等の薬 も売っていた。区民は品物を掛けで買うこともできて、掛売帳に記入し、金ができたら支 払ってもらい、生活の面倒をみていた。掛売帳は班ごとにまとめられていた。店は日の出 とともに開け、夜は宿直が 10 時まで開けていた。区民の持ち込みの薪や農産物を売ったり、

共同売店は相互扶助の機関になっていた。

 2-3-4 名護農業研究指導所の呉我山試験地

 1958 年(昭和 33 年)5 月に琉球政府は、バインアップル種苗の本格的な増殖の必要 性と山地開発構想の実現のため、1958 年 2 月今帰仁村字玉城に村有地 33 万㎡を借地し、

呉我山試験地の設置となり、83㎡の鉄筋コンクリート建の試験地事務所が落成した。

 呉我山試験地に果樹関係試験の全てを移動した。1978 年(昭和 53 年)4月の組織改 正後は、名護支場になって庶務課に、パイン・果樹・茶業・水田・畑作研究室及び呉我山

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試験地となった。1979 年 4 月に名護支場は字名護 4605 番 3 に移転して、統合されたよ うである。呉我山試験地は 20 年近く活躍した。「沖縄県農業試験場百年史」より)。パイン・

果樹の試験地が呉我山にあったので、区内の農家は見学して新しい技術や品種を知る機会 を得ていた。

 呉我山試験地の開設時、現場班長として勤めていた仲本義則(昭和 8 年生)氏によると、

農夫を 4 〜 5 名雇って、大木を切り倒して開墾・植栽させていたが、後でブルドーザー が使われるようになった。本場の果樹主任が試験を指示、名護支場の宮城氏等が確認に来 ていた。ハワイからのパイン優良種の試験、果樹(みかん)の試験、熱帯樹木の播種・育 成もしていた。

 2-3-5 開発青年隊の今帰仁キャンプ(呉我山)

 産業開発青年隊の訓練施設は、名護のコンセット宿舎から大宜味村大保、大里村大城、

今帰仁村呉我山へと移動した。1959 年(昭和 34 年)2 月、今帰仁村より村有地 15 ヘク タールを借り受け、訓練所として今帰仁キャンプを設置した。ここでは呉我山と嵐山に 30 町歩の農場をもつ本格的な訓練所であった。最初の訓練生として 30 名が入所してきた。

朝 8 時から夕方 5 時まで呉我山・嵐山の農場で作業して、バナナ 300 本、パイン 6 万本、

みかん 700 本、お茶 800 坪が植付けられていた。作業はトラクター、ジープ、耕耘機の 運転練習をし、馬耕、接ぎ木、農産加工の実習等もした。

 トラクターは運転免許証もらうのを目標にしていた。晩7時半から 9 時半まで、2 時間 の講義があり、農業教育(50%)、機械技術(15%)、移民教育(25%)、一般教育(10%)

があった。今帰仁キャンプは、1965 年(昭和 40 年)頃まで存続して、後に恒久訓練所(大 宜味村大保)に統合された(「青年隊だより」より)。開発青年隊のキャンプが呉我山にあっ たのは約 6 年間であったが、区の住民が増えて賑やかになり、活気をもたらしたようです。

  2-3-6 呉我山経由の路線バス運行

 昭和バスが呉我山経由の路線バスを 1961 年(昭和 36 年)頃から 1967 年(昭和 42 年)

頃まで運行していた。新里幸信(1948 年生)氏は、中学生になって自転車通学するよう になり、バスと競い合って走らせていた。北農への通学にはバスを利用することが多く、

高校 3 年まで運行していた。名護バスターミナルを出発して、羽地の仲尾・呉我、今帰 仁の湧川から呉我山に入り、玉城・仲宗根に行き、仲宗根折り返しで呉我山経由して湧川・

仲尾・名護に戻るコースであった。1 日 3 回(朝・昼・夕方)運行していた。路線バスの 運行は、パイン工場もあり、農業試験場の試験地もあり、開発青年隊のキャンプもあり、

呉我山が賑わっていた時期である。

2-3-7 茶業組合による茶工場運営

 茶業組合(組合長高山朝友氏)は、区事務所の隣りに、2間半に7間のセメント瓦葺き

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の工場を作り、お茶(番茶)を製造していた。昭和 38 年(1963 年)頃そこで働いてい た安慶名伝明(昭和 16 年生)氏によると、1 番茶(3 〜 4 月)、2 番茶(5 月)、3 番 4 番 と各期 10 日ぐらい製造した。1 日に茶葉で 200kg 搬入され、製茶にすると 4 分の 1 になっ て 50kg の生産、年間 2,000kg のお茶を製造していた。製造は、茶葉の搬入があるとひろ げて乾かし、炒葉機(イリハキ)に入れて撹拌して、揉捻機(ジュウネンキ)に移して茶 葉をもみ、乾燥機にかけ、仕上げ釜に移して仕上げる。動力はヤンマーエンジン、火力は 薪をたいていた。主な生産者は高山に、ハワイミ、青年団、茶平安山等が大量搬入者であっ た。呉我山は戦前から茶の栽培が盛んであった。

2-4 新聞にみる呉我山での出来事   2-4-1  1954 年、呉我山に竜巻

 沖縄タイムス 1954 年 11 月 14 日「今帰仁に竜巻、きのう住家全壊、1 名重傷」の見出 しで、「13 日正午ごろ、今帰仁村呉我山に竜巻が起り、同区6班新里幸栄(54)方の母屋・

納屋・畜舎が吹き上げられて全壊、妻ウシは大傷、骨折して全治 2 週間の負傷」とある。

 2-4-2 1956 年、呉我山にパイン工場 

 琉球新報 1956 年 12 月 30 日「呉我山にパイン工場、地元農民の資金を集め」の見出しで、

「呉我山部落では、地元で栽培した果実は地元外の加工業者に出荷していたが、栽培から 加工まで地元で行い、同部落のパイン産業を大きく発展させようと、この程農民からなる 今帰仁農産加工組合(組合長岸本本敬氏)を結成、パイン工場を設置した。この工場は、

一般農民 130 名が 1 株 1 千円の 3 分の 1 払込みで資金を集めて設置されたもので、総工 費 300 万円を投じ、去る 7 月着工して 11 月に見事落成をみたものである。工場は約 400 坪で、加工場、倉庫、原料置場、ボイラー室、電気台などからなっているが、今期でもす でに 700 ケースを生産している。現在の能力からみると 1 日 150 ケースから 200 ケース の生産高となっているが、同組合の将来の事業計画としては日産 500 ケースを目標にし ており、さらにジュースも製造して販売することになっている。この工場は農民が株主で、

また原料が地元にあるという好条件下にあり、経営面においても地元株主だけの原料搬入 だけでも十分経営維持が出来るので、将来の発展が期待される」とある。

 2-4-3 1961 年、呉我山に咲いた美談二重奏

 琉球新報 1961 年 6 月 11 日「呉我山に咲いた美談二重奏、故阿部少尉の遺族に区民が 愛の奉仕」の見出しで、「8 日ひるその建立と慰霊祭がおこなわれたが、その場所が海抜 300 メートル余のクロ山の頂上。戦死した位置に建てられた。戦死した長野県出身の阿部 充孝海軍少尉(当時 24 歳)。16 年まえの6月ごろである。戦死したとき、名刺をもって いたため発見した部落民が当時郵便局員だった渡嘉敷氏に、さらに上原氏が遺族に連絡し たもの。同少尉の弟、和孝氏が 58 年に呉我山区をたずねたが、道がないところから戦死

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した場所をさがすことができなかった。/ことし 3 月にも 60 歳の母親のマスさんととも にやってきた。これを知った呉我山区では、クロ山の頂上への道を 1 日がかりできりひ らいて案内した。ひと目でも長男の戦死した場所をみたいと老齢をおしてやってきたマス さんと和孝さんは、無言の対面をした。その場所に墓標を建て、遺品の手帳と母子の毛髪 を埋めた。そして、ひとにぎりの土と村役所で預かっていた遺骨をもちかえった。お礼に と区民に 10 ドルを手渡した。これは、阿部少尉の霊をなぐさめるために使ったほうがよ いと衆議一決。8 日の美挙となったもの。嘉陽宗法区長は、ほんのしるしだけの碑であた りまえのことをしただけです。部落民の感謝の気持ちからやったことです、と語っていた」

とある。

 2-4-4 1969 年、集中豪雨で呉我山に大きな痛手

 琉球新報 1969 年 10 月 5 日、「集中豪雨今帰仁・本部を襲う」の見出しで、次のように 報道された。「字呉我山でも大きな痛手を受けた。同部落は山と山との谷間に位置してい るため部落内を流れている川がまたたくまにあふれ出し、ほとんどの家が床上浸水となっ た。とくに同部落にある今帰仁農産工業社は同倉庫のドアがドロ水でこわされ、パインか ん詰めおよそ 2 万ドルの製品が押し流された。会社側は全社員が夜おそくまでかん詰め の回収や倉庫の整理に当たったが、かなりの製品が行方不明。工場の浸水で 2 〜 3 週間 は操業不能という。そのほか豚舎もろとも押し流された豚やニワトリの死体が道路にころ がっていて、水流の激しさを物語っていた。大きな水害となった直接の原因は、わずかに 2 時間で 300 ミリを越す記録的な降雨量と〈山つなみ〉のようにあっという間に押し寄せ た水流が河川のはんらんを招いたことなどが考えられる。〈山つなみ〉のように町や村に 水が流れ込んだのは最近ブームになっている山地の開発。更に台風 12 号の影響で 3 日間 も断続的に雨が降ったため地下への浸透に限界をきたしたとの見方もある」

 なお本稿をまとめるにあたって、来間泰男沖縄国際大学名誉教授から、投稿規定の文字 数に収めるための構成の修正、見出し、文章の指導を頂きました。感謝申し上げます。

参照

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