カリフォルニアの事例を中心に
著者 戸田山 祐
雑誌名 社会科学
巻 49
号 1
ページ 71‑95
発行年 2019‑05‑31
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000091
地域レヴェルでのメキシコ系住民政策
─ 1950 年代カリフォルニアの事例を中心に ─
戸田山 祐
本稿は,1950 年代の米国カリフォルニア州における,メキシコ系を中心とする農村 部住民を対象とする州政府による政策の構築に焦点を当てたうえで,その過程でいか にメキシコ人非合法移民が問題とされていったのかについて考察したものである。ま ず,1940 年代末から 50 年代初頭にかけての米国内での農業労働者の貧困・失業問題へ の関心の高まりが,その元凶と見なされたメキシコ人非合法移民の問題化につながっ たことを明らかにした。また,カリフォルニア州政府による農村部住民の生活・就労 状況の調査においても,このような認識が示されていたと指摘した。最後に,1950 年 代中葉に実施されたメキシコ人非合法移民の大規模な摘発に際しての,同州の行政当 局と連邦政府との協力について概観した。以上の分析を通じて,メキシコ系アメリカ 人を含む米国内の労働者と,メキシコ人非合法移民に代表される非正規滞在・就労す る外国人労働者が差異化され,前者の権利保障が図られるとともに後者が排除の対象 とされていった過程を考察している。
1 はじめに
1940 年代末から 50 年代前半にかけて,アメリカ合衆国(以下,米国と略記)では,農 業労働者の生活・就労状況への関心が高まるとともに,メキシコ人非合法移民の流入が 問題視され始めていた。メキシコ人非合法移民が米国内の労働市場,とりわけ農業労働 に参入することで,もともと劣悪であった「アメリカ人1)」農業労働者の労働条件や賃金 水準をさらに低下させているとの認識が広まっていたのである。アメリカ労働総同盟
(American Federation of Labor. 以下AFLと略記)および産業別組織会議(Congress of Industrial Organizations. 以下CIOと略記)といった主要な労働組合は,農業労働者の 貧困・失業問題の背景に,メキシコからの非合法移民の流入があるとの見解を強く打ち 出し,国境警備の強化や非合法移民を雇った者への罰則の導入を求めていた2)。また,後 述するように 1950 年には,農村部で移住を繰り返しながら農業労働に携わる「移動労働 者(migratory worker3))」の生活・就労状況について調査するための大統領委員会が設
置され,翌 51 年には非合法移民を含む外国人労働者との競争が国内の農業労働者の脅威 となっているとの内容の報告が公表された。
1942 年以来,米国はメキシコとの政府間協定によって,農業部門で就労する短期移民 労働者を導入する政策(ブラセロ・プログラム4))を実施しており,外国人労働者が米国 内の労働市場にもたらす影響に対する関心が高まりつつあった。ブラセロ・プログラム は,米国内での就労機会を与えることでメキシコ人が非合法に渡米することを抑制する ための措置として戦後も継続されたのであるが,実際には 1940 年代末から 50 年代前半 にかけてメキシコ人非合法移民の数は増え続けていた。1946 年には約 9 万人であったメ キシコ人非合法移民の逮捕者数は,49 年には 28 万人近くまで増加し,「ウェットバック 作戦(Operation Wetback5))」と呼ばれる大規模な摘発が実施された 1954 年には 107 万 人を超えたのである6)。
この時期に非合法移民の流入が急増した要因として,第一にメキシコとの国境に接す る地域を中心に,米国内にはメキシコ人非合法移民の労働力への高い需要が存在してい たことがあげられる。非合法移民は,米国内に定住する労働者や,二国間協定で最低賃 金が保障されていたブラセロと比べてはるかに低い賃金で雇えたうえ,労働力需要が低 下すればすぐに解雇できたため,多くの雇用主から「使いやすい」労働者と見なされて いた。他方で,米国への出国増はメキシコ国内の社会・経済状況によってもたらされた ものでもあった。まず,メキシコ革命後に実施されていた農民への耕作地の分配は 1940 年代末までに減少し,1950 年代に入ると農村人口の増加に対して土地分配が追いつかな くなり,農村での土地不足が生じていたのである7)。また,もともと大きかった米墨間の 所得格差は,メキシコ・ペソの下落によって 1940 年代末からさらに拡大していた8)。1948 年 7 月以降に外貨準備高の不足を受けてメキシコ政府が実施したペソ切り下げによって,
これ以前は 1 ドル= 4.855 ペソだったのが,1949 年末までには 1 ドル= 8.65 ペソとなっ た9)。
1950 年代前半の「非合法移民問題」への対応策は,ウェットバック作戦に代表される,
米国移民帰化局10)による米国内での摘発と,国境警備の強化であった。しかし,メキシ コ系の人々が集住していた米国内の諸地域における非合法移民対策は,かならずしも一 様ではなかった。先行研究でも論じられているように,地域内の労働力需要を充足させ るため,雇用主の要望に応じて移民帰化局が摘発を抑制することもしばしばおこなわれ ていた11)。したがって,非合法移民を含むメキシコ人移民に対する対応策についての研 究は,地域レヴェルでの展開にも注意を払う必要がある。たとえば,同様に州内に多数
のメキシコ系住民が在住し,非合法移民の主要な行き先ともなっていたカリフォルニア とテキサスでは,ウェットバック作戦の実施に際してそれぞれの州の行政当局はたがい に大きく異なる方針を示していた。カリフォルニア州政府は州内の法執行機関を移民帰 化局による非合法移民の摘発に進んで協力させた一方,テキサスでは摘発と送還に対し 州当局は非協力的な姿勢をとっていたのである。
テキサスのメキシコ系住民についての研究は,1940 年代後半から 50 年代の同州ではメ キシコ人非合法移民の雇用が広くおこなわれており,州内の農場経営者やその他の雇用 主のあいだではこれを当然視する風潮が広まっていたため,州政府も取り締まりには消 極的であったと指摘している12)。他方で,カリフォルニアのメキシコ系住民・労働者に ついての研究は,農業経済史・農村史といった分野では相応の蓄積があり,農業労働者 運動への関心に基づく研究も多い13)。一方,このテーマを州の労働政策・地域住民政策 の文脈に位置付けて論じたものとしては,ドン・ミッチェル(Don Mitchell)の著書が あるが,このような研究はいまだ少なく,検討の余地が残されている14)。後述するが,カ リフォルニアでは 1950 年代の初頭から州政府によって農業労働者の生活・就労状況の把 握と支援策の策定に向けた取り組みが始められていた。その過程で,州内の農業労働者 の多くを占めていたメキシコ系住民の貧困状況への関心が高まる一方,メキシコからの 非合法移民の流入をこのような問題の根源と見なす傾向が強まっていった。
そこで本論文では,1950 年代のカリフォルニア州における農業労働者を対象とする州 政府による政策の構築に焦点を当てたうえで,その過程でいかにメキシコ人非合法移民 が問題とされていったのかについて考察する。同州内のメキシコ系住民を国籍や法的地 位の差によって峻別し,合法的な滞在・就労資格を欠いていると見なされた者を排除の 対象としていった過程を分析することで,同時期の米国における地域レヴェルでの移民 政策の形成について検討するとともに,全国的な政策との相互関係についても考えてみ たい。
2 農業労働者への関心の高まりと大統領移動労働者問題委員会
農業労働者の劣悪な生活・就労状況は,1930 年代の大恐慌下で問題視されるようにな り,農業安定局(Farm Security Administration)の設置などに代表される,農村部の貧 困層への支援が連邦政府の主導のもとで実施されていた15)。第二次世界大戦後も農村部 住民の貧困問題は十分な解決を見ることはなく,ニューディール政策の継承・発展(フェ
アディール政策)を目指していたハリー・S・トルーマン(Harry S Truman)政権によっ て,引き続き重要な課題の一つとして位置づけられていた16)。
1950 年 6 月 3 日にトルーマン大統領により,大統領移動労働者問題委員会(Presidentʼs Commission on Migratory Labor)が設置された。この委員会の調査対象は,米国内を 移動しながら生活・就労する農業労働者の社会的・経済的状況,健康状態および教育状 況に加え,メキシコから導入されたブラセロに代表される短期移民労働者および非合法 移民がもたらす影響であった17)。翌 51 年 3 月に刊行された本委員会の報告書は,移動農 業労働者の雇用の不安定化が戦後に進行していると指摘した18)。さらに,教育・健康状 況の劣悪さを詳細に例示したうえで,移動農業労働者は社会的・経済的に疎外された存 在であり,労働権や社会保障の受給権を事実上剥奪されていると述べている19)。
本委員会は,米国内の移動農業労働者の置かれた劣悪な状況の背景として,メキシコ 人を中心とする外国人労働者の流入に注目していた。委員会の報告書は,合法および非 合法に入国する外国人労働者が代替労働力として利用可能なため,農場経営者が雇用の 安定化や労働条件の改善を怠っていると述べたうえで,以下の問題を指摘した。
まず,ブラセロおよびメキシコ人非合法移民労働者は米国内で賃金の低下を引き起こ していた。たとえば,綿花農場労働者の賃金にかんする調査によれば,戦後に多数のブ ラセロを導入したニューメキシコでは,1950 年の賃金は 1947 年と比較して 4 パーセント 減少した。また,1949 年以降に多数のブラセロを綿花農場に導入し,それ以前から大規 模な非合法移民の雇用がおこなわれていたテキサスでは,同時期に賃金は 11 パーセント 下落した。一方,1947 年以降は綿花農場でブラセロがほとんど雇用されなくなったカリ フォルニアでは,綿花農場労働者の賃金は 1950 年までに 15 パーセント増加したと報告 されている。本委員会は,このような調査結果を踏まえて,外国人労働者は賃金を低下 させており,米国内の農業労働者の脅威となっていると結論付けている。ただし,ブラ セロと非合法移民のどちらが国内労働者の賃金水準により大きな影響を及ぼしたのかに ついては,本報告書の記述は曖昧であった20)。
大統領移動労働者問題委員会は外国人労働者の米国内への流入について,以下の結論 を出している。まず,ブラセロ・プログラムに代表される,合法的な外国人労働者の導 入プログラムについては,その廃止に踏み込むことは避けられた。ただ,その実施に当 たっては送出国と受入国である米国の政府間交渉に基づいて労働条件や賃金水準の決定 を決定することが望ましいとしている。また,非合法移民の合法化については「移民法 違反に特典を与える」措置として批判した。そのうえで,短期移民労働者の導入は雇用
条件や基準を明記した政府間協定に基づいて実施されるべきだと結論付けた。また,短 期移民労働者政策の実施に当たっては移民帰化局がより大きな役割を果たすべきであ り,外国人労働者の募集・契約・移動は同局に一元化されるべきとの見解が示されてい る21)。非合法移民問題への対応策としては,移民帰化局の権限拡大と予算拡充による非 合法移民取締りの強化,非合法移民の隠匿と輸送を禁止する法律の制定,臨時措置とし て 1947 年以来実施されていた非合法移民の合法化の中止,さらに国務省とメキシコ政府 のあいだに非合法移民対策のための協力体制を構築することが推奨された22)。
大統領移動労働者問題委員会の答申に見られるように,1940 年代末から 50 年代初頭の 米国では,非合法移民を国内の農業労働者の貧困や失業の原因と見なす状況が広まって いた。第二次世界大戦の終結直後から,米国へのメキシコ人非合法移民の流入は,米墨 両国間の外交上の懸案となっていたが,これは 1940 年代末までに米国の国内問題として も注目されるようになっていた。とりわけ労働組合と,その支持の獲得に熱心な政治家 を中心に,非合法移民の流入阻止と「アメリカ人」労働者の権利保障を相互に結びつけ る傾向が強まっていた23)。次節で述べるように,トルーマン政権による連邦レヴェルで の取り組みに前後して,カリフォルニアでも州政府による移動農業労働者への対策の策 定過程において,非合法に入国する外国人労働者への関心が強まっていたのである。
3 カリフォルニア州政府の農業労働政策・農村福祉政策と非合法移民問題
3.1 サン・ワーキン川流域地域農業労働力委員会の設立
1950 年 3 月,アール・ウォレン(Earl Warren)カリフォルニア州知事(共和党)に より,「サン・ワーキン川流域地域農業労働力委員会(San Joaquin Valley Agricultural Labor Resources Committee. 以下,農業労働力委員会と略記)」が設置された。この委 員会の目的は,米国西部有数の農業地域であるこの地域における農業労働者の生活・就 労状況の調査と,農業労働者を中心とする同地の貧困層の住民に対する福祉政策の立案 であった24)。
サン・ワーキン川流域地域は,州中部の 8 つの郡(スタニスラウス郡,サン・ワーキ ン郡,マーセド郡,マデラ郡,フレズノ郡,キングス郡,トゥレアリ郡,カーン郡)か ら構成される。同地では野菜や果実に加えて綿花の生産も盛んであり,当時から今日に 至るまで,企業経営による大規模農場が多数立地している。これらの大農場の労働者の 生活水準や労働条件はしばしば劣悪であり,1940 年代末から 1950 年代にはAFL傘下の
組織であった全国農業労働組合(National Farm Labor Union. 以下NFLUと略記)によ り,当時の米国ではもっとも持続的かつ大規模な農業労働運動が展開されていた25)。ま た,1960 年代の初頭に全米各地の貧困問題を調査し,『もう一つのアメリカ』を著したマ イケル・ハリントン(Michael Harrington)は,この地域の中心都市であるストックト ンでは,移動農業労働者人口の約 3 分の 1 が「アングロ26)」,さらに 3 分の 1 が「メキシ コ系アメリカ人」,残りは黒人とフィリピン系がそれぞれ 15 パーセントを占めていると 述べている27)。当時のサン・ワーキン川流域地域の農業は,マイノリティを多く含む多 様な人種・民族を安価な労働力として利用して大規模な生産をおこなうものであり,こ のような農業の形態は基本的に現在まで続いている。
農業労働力委員会は 1950 年 12 月まで活動し,州都のサクラメントのほか,サン・ワー キン川流域地域の各地で会合を開催した。委員会は,州政府の労働・福祉関係部局幹部 に加えて,大学関係者,農業団体・商工会議所代表,退役軍人団体である米国在郷軍人 会(American Legion)の代表,労働組合代表,キリスト教牧師など 15 名によって構成 されていた28)。本委員会の構成員の人種・民族的背景であるが,基本的にはアングロが 中心であったと考えられる。史料から確認できる限り,召集を受けた委員にはスペイン 系の姓を持つ者はおらず,アジア系も含まれていなかった。「マイノリティ」代表の委員 としては,黒人を主体とした組織「ナショナル・アーバン・リーグ(National Urban
League)」のサンフランシスコ支部の事務局長であったシートン・W・マニング(Seaton
W. Manning)が参加するのみであった29)。委員のあいだでは,カリフォルニアの農業労
働者の多様な人種・民族的背景についての認識は共有されていたようだが,このような 多様性が委員会の構成に十分に反映されることはなかった。これは,本委員会があくま で雇用主組織や労組などの利益団体関係者や,農村経済や労働問題の研究者といった「専 門家」の意向や知見を行政に反映させるために設立されたものであり,人種・民族間の 関係を調整する場ではなかったことを示している30)。ただ,委員会の公聴会で参考人と して証言した者には,農業労働者代表を中心に複数のメキシコ系も含まれていた31)。
3.2 移動農業労働者の状況をめぐる農業労働力委員会での議論
サン・ワーキン川流域地域の労働・社会問題の背景として,農業労働力委員会がまず 指摘したのは,年間を通じた労働力の需給の変動がきわめて大きいことであった。1949 年のデータによれば,農閑期に当たる 3 月には同地の農業労働者の総数は約 11 万 8000 人 であり,そのうち移動農業労働者の占める割合は 21.6 パーセント,実数にして約 2 万 5500
人であった。一方,農繁期である 10 月には農業労働者の総数は約 25 万 7000 人に増加し,
移動農業労働者の占める割合は 61.9 パーセント,実数にして約 15 万 9000 人に膨れ上がっ ていたのである。これは,10 月にはカリフォルニア州内の移動農業労働者の約 60 パーセ ントがこの地域に集中することを意味していた。また,サン・ワーキン川流域地域では,
他の時期にも年間を通じて労働者の流入と流出が起きており,米国西部の移動農業労働 者の多くが同地で一時的に就労していたと推定されていた32)。
移動農業労働者の流入を促した要因として,この時期にサン・ワーキン川流域地域で 綿花農場の作付面積が拡大していたことがあげられる。農業の機械化が進んでいなかっ た当時,綿花の収穫期には多数の移動農業労働者が雇用されていた。綿花の収穫が秋に 終了すると,ふたたび就労の機会が生じるまで労働者の多数はサン・ワーキン川流域の 各地に滞留していた。また,比較的温暖な気候によって,多くの移動農業労働者が同地 で冬を過ごすことを選択していた。これらの労働者は農場主が用意した「宿舎(camp)」
のほか,公設の宿泊所や,都市や農村集落の周縁に位置する貸家に居住していたが,そ の住環境はしばしば劣悪であった。また,冬季に失業した多数の失業者とその家族が滞 在することで,福祉,公衆衛生,さらに子どもの教育など多岐にわたる問題が生じてい ると委員会では認識していたのである。とくに 1 月から 3 月には仕事が少なく失業者が 増加し,地域行政への負担となっていた。各郡の行政当局からは,移動農業労働者への 支援は州政府や連邦政府が担当すべきだとの見解が示されていたが,その責任の分担を めぐっては関係諸機関のあいだの合意が成立していなかったのである33)。
1950 年 10 月には,農業労働力委員会の答申案が策定されたが,ここでは以下の問題が 指摘された。まず,移動農業労働者の居住,生活状況については,関係各法や設置基準 への違反がしばしば起きているとの報告がなされた。州住宅局が 1949 年 9 月から 50 年 10 月までサン・ワーキン川流域地域に設置された 703 箇所の宿舎でおこなった調査の結 果,40 パーセントが「良好」,37 パーセントが「適切」,23 パーセントが「不適」とされ た。また,2 万 5000 箇所の農業労働者の住居のうち,州の健康・安全基準を完全に満た しているものは 15 パーセントのみであった。住宅局がこのような調査を実施するための 人員と予算は限られており,とくに一時的に設置される宿舎についてはしばしば存在す ら把握できないことも指摘されていた34)。民間の運営による宿舎の質の低さへの対策と しては,テキサス州での先行事例を参考に,郡や地方自治体当局と州政府の農業労働配 置局(Farm Placement Service)が協力し,公営の宿舎を設置する案が提案された35)。 移動農業労働者の子どもの教育・生活への支援についても多数の課題が示された。当
時のカリフォルニアでは限定付きで児童労働が認められており,週末や長期休暇中であ れば最低 12 歳から就労できたうえ,学期中の就労も 14 歳以上の者には許可されていた。
委員会が 1950 年 10 月にまとめた児童労働にかんする報告書では,1949 年にカリフォル ニア州内全体でおよそ 3 万 5000 人の未成年者(18 歳未満)が農業労働に就いていた36)。 このような状況は,農村部を中心にさまざまな教育上の問題をもたらしているというの が,委員会の認識であった。まず,家庭に育つ児童・生徒は移動と転校を繰り返すため に就学期間が短く,教育効果が低いと指摘された。さらに,移動農業労働者が多数流入 する地域の学校では,年間を通じて児童・生徒数の変動が激しく,農繁期には教室の収 容力が不足していた37)。対策としては,移動農業労働者の児童・生徒に特化した教育プ ログラムの導入が提案されているが,その具体的な内容は答申案には明示されていな かった。ただ,このような子どものニーズに対応すべく,児童心理学や社会学に重点を 置いた教育を受けた教員を雇用・配置する必要があるとされた。さらに,農村部での教 育水準向上のためには成人教育の拡充が望ましいとされたほか,州政府と州内の大学の 協力のもと,労務管理の改善と合理化を農場主に促す講習を実施することも提案され た38)。労働力委員会で示された方針は,1950 年代中葉までの州政府の政策にもおおむね 反映されていった39)。
3.3 非合法移民をめぐる農業労働力委員会での議論
カリフォルニア農村部での貧困問題および労働問題を悪化させている要因と見なされ ていたのが,メキシコからの労働者の流入であった。サンフランシスコで 5 月 17 日に開 かれた労働力委員会の会合での報告によれば,1950 年の年頭から 5 月中旬までに州北部 で摘発され,送還されたメキシコ人非合法移民の数は 6,583 人であった。他方で,同時期 に州南部で摘発された非合法移民は 5 万 8585 人に達していた。米墨国境にはフェンスも 整備されておらず,移民帰化局の管轄のもと警備を担当していた国境警備隊員の数は少 なかったため,メキシコ人は「好きなように」越境できているというのが,委員会での 認識であった40)。1950 年 10 月の委員会答申案では,カリフォルニア南部および隣接する アリゾナ州西部の 2 郡からの送還件数は 1949 年 7 月から 1950 年 6 月末までの 1 年間に 16 万 7000 件に達し,深刻な状況にあると述べられている。また,米国内で就労するメキ シコ人非合法移民全体の約 60 パーセントが農業で雇用されているとも推定されていた。
このような状況のなか,出入国管理と国内での非合法移民の摘発を担当する移民帰化局 の予算と人員は不足しているため,委員会ではその増強を求めていた。答申案では,カ
リフォルニア州知事が西部他州の知事と連名で移民帰化局に対し国境警備の強化を要請 するよう提案されたほか,州交通警察隊(State Highway Patrol)を動員し,移民帰化 局職員を補助する案が示された41)。
農業労働力委員会の会合では,しばしば労組関係者がメキシコからの非合法移民の流 入を問題視する発言をおこなっていた。たとえば 1950 年 6 月 20 日にフレズノで開催さ れた会合では,NFLUの幹部のW・A・スウェアリンジェン(W. A. Swearingen)が,フ レズノ郡には約 3,000 人のメキシコ人非合法移民が年間を通じて滞在し,地元在住の労働 者の雇用を脅かしていると証言した。3,000 人という数字は,農繁期である秋口に同郡で 就労する農業労働者の総数 3 万 5000 人の 8 パーセントだが,農閑期の 1 月から 3 月には 労働者の数が 9,000 人に減るため,この時期には 3 割以上を占めていると指摘されてい る。スウェアリンジェンは,人件費を抑えるため,農場主は可能であればつねに非合法 移民を雇うと述べたうえで,同郡で 1949 年の冬には 5,000 人から 6,000 人の農業労働者 が失業状態にあり生活保護の対象となっていたと指摘し,非合法移民との競争がなくな れば失業者の雇用機会も増大すると主張した。非合法移民は生活保護費などを直接受給 することはないが,「アメリカ人」労働者の職を奪うことで,間接的に福祉にも負担をか けていると見なされていたのである42)。NFLUはこのような主張をしばしば展開してお り,1950 年の 4 月には労働省や移民帰化局に対し,州南部のインペリアル・ヴァレーで も農業労働力は供給過剰となっているため,ブラセロや非合法移民の代わりに州内で失 業している約 10 万人の「米国生まれのアングロ・アメリカ人,メキシコ系アメリカ人,
そして黒人」の農業労働者を優先して雇用するよう要求していた43)。
農業労働力委員会に代表を送っていた,米国農業連合会(American Farm Bureau Federation),農場主連合(Associated Farmers),カリフォルニア商工会議所(California Chamber of Commerce)といった経済・農業団体は,非合法移民の雇用を容認しないと いう姿勢を示していた。実態はともかく,少なくとも公式な場ではこのような方針を雇 用主側が示すようになったことそのものが,非合法移民の流入に対する批判の本格的な 高まりを意味していたといえる44)。
なお,二国間協定に基づくブラセロについて,農業労働力委員会の会合や報告書で言 及されることは少なかった。1949 年にはブラセロが同地で雇用されなかったことが,そ の理由であろう。ただ,1946 年から 48 年まではカーン郡などで多数雇用された実績があ り,委員会の答申案でも,将来の労働力不足の可能性に備えてブラセロの導入という選 択肢は残しておくべきとされた45)。1950 年 6 月には朝鮮戦争が始まっており,第二次世
界大戦の時と同様に農業労働力が不足する可能性も高いと認識されていたことが,この 方針の背景にあったと考えられる。
メキシコ人非合法移民を問題視する方針が,メキシコ系アメリカ人に対する排除につ ながらないように農業労働力委員会は一定の注意を払っていたのは確かである。答申案 では,メキシコ系アメリカ人による,サン・ワーキン川流域地域,カリフォルニア州,さ らに米国全土の社会・経済および文化への「真に重要な貢献」についての言及が盛り込 まれ,とりわけ農業の発展への貢献が強調されていた。このような委員会の姿勢は,メ キシコ系アメリカ人(および合法的に滞在する在米メキシコ人住民)と非合法移民を峻 別し,前者を地域住民,さらに米国市民(ないしそれに準ずる者)として「包摂」し,後 者を排除する枠組みが,カリフォルニア州政府のメキシコ系住民政策の基盤に位置付け られたことを意味していた46)。
4 メキシコ人非合法移民の取り締まりと「アメリカ人」労働者の保護
4.1 米国連邦議会での雇用主罰則法制化の試み
1950 年代に入り,米国ではメキシコからの非合法移民の流入が全国的な関心を集め始 めていた。また,この問題は米墨間の外交上の懸案事項ともなっていた。とくにメキシ コ政府内では,米国側で粗放的な国境の管理が続けられているため,正規の手続きを経 ずに渡米する自国民があとを絶たず,しばしば搾取や差別の対象とされているとの認識 が広まっていたのである。1951 年 7 月にはブラセロ・プログラムを延長するため,二国 間協定が更新されたが,メキシコ人の非合法な越境への具体的な対策は新協定に盛り込 まれなかった。たとえば,メキシコ側がかねてから求めていた非合法移民の雇用主に対 する罰則の導入は,以下に示す経緯によって実現の目を見ることはなかった47)。
二国間協定の更新に先立って連邦議会では 1951 年以降ブラセロ・プログラムに予算の 拠出するための法案の審議がおこなわれ,メキシコ人非合法移民の雇用主に対し,2,000 ドル以下の罰金ないし 1 年以下の拘留,またはそれら両方を課すとの案が示された。こ の提案をおこなったのは,労使関係論を専門とする経済学者で,1948 年の選挙で初当選 したポール・ダグラス(Paul Douglas)上院議員(民主党,イリノイ州選出)であった48)。 民主党内のリベラル派に属するダグラスは,非合法移民の労働市場への参入によって「ア メリカ人」労働者の雇用と労働条件が脅かされることを防ぐべきとの問題意識を示して いたのであるが,本案に対しては上下両院で批判が噴出した。ダグラスの案では非合法
移民であることを知っていながら雇った者のみを処罰の対象とするとされていたが,故 意に雇用したことを証明するのは困難であるため,このような規定は実効性を持ちえな いうえ,法的地位や国籍にかかわらずメキシコ系の人々全体を労働市場から排除するこ とになりかねないとの指摘がなされた。そもそも本法案はブラセロの供給の促進を目的 とするものであり,これに雇用主罰則を導入した場合,メキシコ人非合法移民を雇った 者のみが処罰される一方,他国の国籍を持つ非合法就労者は罰せられないことになり,明 らかに不公平なものであった49)。結局,ダグラス案は上院では可決されたものの,下院 での審議過程で法案から削除された50)。また,ヒューバート・H・ハンフリー(Hubert H. Humphrey)上院議員(民主党,ミネソタ州選出)が提出した,非合法移民が雇用さ れている疑いのある場所に立ち入って調査をおこなう権限を移民帰化局の係官に対して 認める案も否決された51)。
下院でも,エマニュエル・セラー(Emanuel Celler)議員(民主党,ニューヨーク州 選出)は,非合法移民は米国内の農業労働者の賃金水準を引き下げ,公衆衛生や治安に も悪影響を及ぼすと主張していた。セラーは,この問題を放置すれば,自国民の無秩序 な流出を懸念し続けてきたメキシコとの外交関係にも悪影響が生じると述べ,非合法移 民の雇用に対する法規制の必要を唱えた52)。このように,当時の議会民主党のリベラル 派は非合法移民の取り締まりに比較的熱心であったのだが,かれらによる提案は南部や 南西部を中心とする農業地域選出議員からの反対によって実現を阻まれたのである。
4.2 1950 年代前半のカリフォルニアにおけるメキシコ人労働者の動向
1950 年代初頭のカリフォルニア州内では,少なからぬ州民のあいだで外国人農業労働 者の流入に対する批判が強まっていた53)。その背景としては,まずメキシコ人非合法移 民の増加が指摘できる。1951 年 7 月から 52 年 6 月までに,カリフォルニアを管轄してい た移民帰化局サンフランシスコ支局とロサンジェルス支局による摘発数は,合計で約 21 万 3000 件に達し,1 ヶ月あたりの非合法移民の摘発数は,1 万 7000 から 1 万 8000 件と なっていた54)。ただし,非合法移民のすべてが密入国者というわけではなかった。移民 帰化局の内部資料によれば,合法的に入国したブラセロのうち,平均して約 10 パーセン トが契約満了を前にして職場から「脱走」しているとのデータもあり,非合法移民のな かには元ブラセロも含まれていたのである55)。
ブラセロの雇用が 1950 年代に入って増加を続けていたことも,農業労働組合であった NFLUをはじめとする労組からの反撥を招いていた。1950 年には州内での年間の最大雇
用数は約 1 万 100 人,最小雇用数は約 5,700 人,年間を通じた平均値は約 7,500 人だった が,翌 51 年以降その数は急増し,53 年には労働力需要がピークに達した時点での最大雇 用数は約 4 万人,最小雇用数は約 1 万 7300 人,通年の平均値は約 2 万 5500 人に達して いた56)。なお,やや時代が降った 1958 年当時の統計によれば,同年のブラセロの最大雇 用数約 9 万 2400 人のうち,約 2 万 8000 人がサン・ワーキン川流域地帯で雇用され,野 菜・果実を生産する農場でおもに就労していた57)。
1953 年 10 月,連邦最高裁判事に就任したウォレンに代わり,副知事のグッドウィン・
J・ナイト(Goodwin J. Knight)が知事に就任した。ウォレン同様にナイトも穏健保守 の共和党員であり,労組からも一定の支持を得ていた58)。したがって,ブラセロ・プロ グラムや非合法移民問題に対するナイトの政策方針は,雇用主の利害に偏重したもので はなかった。1954 年の夏に移民帰化局による大規模な非合法移民の摘発が開始されると,
カリフォルニア州政府は積極的に協力する姿勢を示していったのである。
4.3 カリフォルニアでのウェットバック作戦の展開
1950 年代初頭には,米墨両国政府の外交担当者のあいだで,国境警備の強化の必要性 についての合意ができあがりつつあった。1952 年の夏以降,メキシコ側で国境警備を担 当していた内務省は非合法移民の出国取締りを強化する方針を示しており,これを受け てメキシコ外務省は米国側に対して国境警備予算の拡充を求めていたのである。このよ うなメキシコ側からの要求は国務省から米国連邦政府の他省庁にも伝えられ,非合法移 民対策の強化を促していた59)。
移民帰化局の内部でも,メキシコからの非合法移民の取締り強化の必要性が認識され るようになっていた。1953 年 7 月にジョセフ・スウィング(Joseph Swing)陸軍中将と,
米国国境警備隊で米墨国境警備の責任者を務めていたハーロン・B・カーター(Harlon B. Carter)が会談し,米国内に滞在するメキシコ人非合法移民を摘発・送還する計画の 策定が開始された。カーターとスウィングは,米陸軍の兵士を約 2,000 名動員し,人員が 不足している国境警備隊を支援させることで合意した。さらに国境から離れた地域でも,
移動労働者の宿舎や商業施設を中心に,非合法移民が多数滞在ないし通過している場所 を重点的に捜査するという方針も定められた60)。国境警備と非合法移民の摘発に陸軍を 投入する構想は,ドワイト・E・アイゼンハワー(Dwight E. Eisenhower)大統領によっ て最終的に拒否されたため,実現することはなかった。ただ,アイゼンハワーは軍での 経験を積んだ人物をこの計画に参加させることについては適切であると考えており,
1954 年 5 月にスウィングを移民帰化局の長官に任命し,ウェットバック作戦の指揮を委 ねた61)。
本作戦の第一の対象はカリフォルニアであった。1954 年 6 月 9 日に米国・カナダ国境 とフロリダの大西洋岸から数百人の国境警備隊員が同州に移動した。6 月 10 日には移民 帰化局からカリフォルニアとアリゾナの州知事に対し,作戦への協力を要請する書簡が 届けられた62)。これを受けて,6 月 16 日にナイト知事は司法省と移民帰化局に対し,
「ウェットバックの外国人や他の不法入国者をカリフォルニアの産業と農業から排除す る貴局の努力に対し,可能な限りの援助を提供する」と確約した。1950 年に農業労働力 委員会によって提案された,州内の法執行機関と移民帰化局の協力が,ウェットバック 作戦の実施に際して実現されたのである。また,ナイトは同委員会で示された認識を受 け継いで,メキシコ人非合法移民を「合法的な住民」から職を奪い,労働条件を引き下 げているうえ,治安や公衆衛生上の脅威となっていると見なしていた63)。
6 月 10 日以降,国境警備隊は米墨国境につながる主要な道路にバリケードを設置し,非 合法移民の移動の阻止を目的とする検問を実施した。その後の 1 週間に,カリフォルニ ア南部とアリゾナ西部で国境警備隊は 1 万 917 人の非合法移民を摘発した。これらの地 域での作戦は急速に展開し,摘発された者の総数は 6 月末までに 3 万 3000 人を超えた64)。 6 月中旬から 7 月中旬までにカリフォルニア州内全域での摘発者は 5 万 6000 人に達し た65)。
カリフォルニアでの作戦は 7 月下旬には州内全域に拡がった。サン・ワーキン川流域 地域を含む,州中部の農村地帯でも非合法移民の摘発が実施される一方で,ロサンジェ ルスなどの都市部ではサーヴィス業を中心に多数の非合法移民が雇用されていたため,
大規模な取締りが展開された66)。さらに移民帰化局の史料によれば,同州の北部でも国 境警備隊はメキシコ人非合法移民の捜査を実施し,農業労働者のみならず鉄道など多様 な業種で就労していた者も摘発されていた67)。
米国から送還されメキシコ側に戻された者は,バハ・カリフォルニア州ティフアナな どの国境沿いの都市に滞在したのち,列車やバスで国境から離れた地域に移動させられ た。メキシコ人非合法移民に対する扱いへの批判や,ウェットバック作戦によって生じ た多数の被送還者・帰国者の流入によって多大な負担を強いられていることへの不満が 北部国境地帯に広まっていたことは確かであるが,メキシコ政府は本作戦に対して協力 的な姿勢を示していたといえる68)。
1954 年の秋までに大規模な摘発が一段落したのちも,同年中は全米各地でメキシコ人
非合法移民の取り締まりは続けられた。州労働局長のウィリアム・A・バーケット(William A. Burkett)は,ウェットバック作戦の終了から半年以上経った 1955 年 2 月 17 日にナイ ト知事に送った書簡で,「作戦後に失業保険の申請額は 32 万 5000 ドル低下し,農業と製 造業で 5 万件以上の雇用がカリフォルニアの市民に開かれた」と述べ,その成果を強調 した69)。カリフォルニア州政府内ではウェットバック作戦は大きな成果をあげたと評価 され,非合法移民の摘発と送還によって「アメリカ人」労働者の雇用を守ることの正当 性があらためて確認されたのである70)。
5 おわりに
1950 年代前半の米国では,農業労働者の失業・貧困問題に対する関心が高まっていた。
とりわけ,大規模な農場が集積し多数の農業労働者を抱えていたカリフォルニアでは,こ の問題への対応は重要な州内政治のイシューとなっていた。本論文を通じて見てきたよ うに,当時のカリフォルニア州政府は,メキシコ系アメリカ人(および合法的に滞在す る在米メキシコ人住民)と非合法移民を峻別し,前者を地域住民,さらに米国市民とし て正当な援助の対象と位置付ける一方で,後者を排除の対象としたのである71)。つまり,
「アメリカ人」農業労働者の権利保障を目指した動きは,非合法移民の排除およびブラセ ロなど合法的な短期移民労働者の入国規制を求める動きと表裏一体であった。
雇用主罰則の法制化を目指した連邦議会での議論からも見て取れるように,当時の米 国では労組関係者やリベラル派の議員・政府関係者らのあいだで,非合法移民を「アメ リカ人」労働者への脅威と見なす傾向が広まっていた。ウォレン知事による農業労働力 委員会の招集という施策にも示されているように,カリフォルニアではこのような勢力 が州内政治に一定の影響を及ぼしていたため,ウェットバック作戦の実施に際して州政 府が積極的に協力できたといえる。対照的に,非合法移民の労働力に依存していた農場 経営者が州政に対して大きな影響力を行使していたテキサスでは,州内の労働力需要を 満たしている限りにおいて非合法移民の滞在と就労を容認する傾向が,雇用主のみなら ず地元の報道機関や州政府関係者のあいだでも顕著であった72)。
最後に,本論文で扱った 1950 年代前半のカリフォルニア州政府の政策に見られるよう な,「アメリカ人」農業労働者の就労・生活環境改善に積極的に取り組む一方,外国人労 働者の流入に否定的な立場は,一時的にではあるが 50 年代後半から 60 年代中葉にかけ て民主・共和両党のさまざまな政治家たちから一定の支持を得ていたことを指摘してお
く必要がある。たとえば,アイゼンハワー政権の労働長官ジェイムズ・ミッチェル(James Mitchell)は,ナイトと同様に共和党内にあっては労組に親和的な姿勢を示しており,農 業労働者の権利保障にも理解を示していた。また,1958 年に労働組合の支持を受けて民 主党から出馬しカリフォルニア州知事に当選したエドマンド・ブラウン(Edmund Brown)は,ブラセロを雇用している農場に対して州労働法を厳格に適用する政策をと り,スト破り要員としてブラセロを導入することを禁止したほか,二国間協定に定めら れた住居・労働時間・安全確保にかんする条項の厳格な遵守を求めていた73)。つまり,農 業労働力委員会の答申案に示され,ナイト知事によって実行に移された方針は,「アメリ カ人労働者」の権利保障に積極的であった当時のリベラルや穏健保守に共通するもので あった。そのような方針については比較的広範な合意が形成されていたと考えられるが,
この合意がいつごろ,いかにして失われていったのかについては,1970 年代以降の米国 の政党政治の歴史に位置付けて考察する必要がある。これは別稿の課題としたい。
附記:
本論文は科学研究費補助金「ラテンアメリカの国際労働移動におけるジェンダー・エスニシ ティによる国際分業の変容(研究課題/領域番号 16KT0096)」の成果の一部である。
注
1 )本論文で「アメリカ人」労働者と呼称する集団のなかには,米国内で長いあいだ在住・就 労している外国籍の者も含まれていた。そのため「アメリカ人」には括弧を付している。
1940 年代から 50 年代にかけて,メキシコ人非合法移民と「アメリカ人」労働者を差異化 する方針を米国内の労組が打ち出した際にも,米国内に定着していると見なされたメキシ コ人はしばしば「アメリカ人」と同様に扱われていた。また,地域社会のなかでメキシコ 系アメリカ人と在米メキシコ人を区別することは容易ではないとの認識は,「メキシコ人移 民問題」をめぐる連邦議会での議論でも示されていたのである。詳しくは以下の拙著を参 照。戸田山祐『ブラセロ・プログラムをめぐる米墨関係 ― 北アメリカのゲストワーカー政 策史』(彩流社,2018 年),149-50, 190-91 頁。
2 )非合法移民の流入と就労に対する労組の対応についての研究は以下を参照。Harvey A.
Levenstein, Labor Organizations in the United States and Mexico: A History of Their Relations(Westport, CT: Greenwood Publishing Company, 1971), chap. 13; Harvey A.
Levenstein, “Sindicalismo norteamericano, braceros y ʻespaldas mojadas,ʼ” Historia Mexicana, 28, no.2(October-December 1978): 153-84; Mae M. Ngai, Impossible Subjects:
Illegal Aliens and the Making of Modern America(Princeton, NJ: Princeton University Press, 2004), 158-66.
3 )大統領移動労働者問題委員会の報告書では,「移動農業労働者(migratory farm laborer)」
を,「一時的な農業労働から主たる収入を得る労働者」で,年間に 1 回ないしそれ以上の回 数にわたって移住をおこなう者と定義している。一箇所に定住したうえで,やや離れた就 労地に日常的に通う者は含まれない。また,同報告書では「移動農業労働者」と「移動労 働者(migratory worker)」は基本的に同義語として使用されている。本論文では,移動し ながら生活・就労する農業労働者を示す表現として,これ以降「移動農業労働者」という 用語を使用する。Report of the Presidentʼs Commission on Migratory Labor. Migratory Labor in American Agriculture(Washington, DC: G.P.O., 1951), 1.
4 )ブラセロ・プログラム(the Bracero Program/el programa bracero)は 1942 年に開始さ れ,1964 年まで継続された。ブラセロ(bracero)とは,スペイン語の「腕(brazo)」に由 来し,「働き手」,「労働者」の原意から転じて,米国へ出稼ぎに向かうメキシコ人を指す呼 称として使用される。本論文では米墨政府間の協定で定められた正規の契約を結んだ労働 者を指す呼称としてこの語を用いる。
5 )ウェットバック作戦に代表される,1950 年代前半の摘発・送還については以下を参照。Juan Ramon García, Operation Wetback: The Mass Deportation of Mexican Undocumented Workers in 1954(Westport, CT: Greenwood Press, 1980); Ngai, Impossible Subjects, chap. 4; Kelly Lytle Hernández, Migra! A History of the U.S. Border Patrol(Berkeley:
University of California Press, 2010); S. Deborah Kang, The INS on the Line: Making Immigration Law on the U.S.-Mexico Border, 1917-1954(Oxford: Oxford University Press, 2017), chaps. 5-6. なお,ウェットバックとは米国に非合法入国するメキシコ人を指 す語であるが,現在では蔑称と見なされているため,本論文では同時代史料からの引用部 分および「ウェットバック作戦」という固有名詞の一部としてのみ使用する。その意味合 い に つ い て は 以 下 に 詳 し い。Jorge A. Bustamante, “The ʻWetbackʼ as Deviant: An Application of Labeling Theory,” The American Journal of Sociology, 77, no. 4(January 1972): 706-18.
6 ) Patricia Morales, Indocumentados mexicanos. Causas y razones de la migración laboral.
Segunda Edición(México, DF: Editorial Grijalbo, 1989), 226, Cuadro xxv.
7 )前掲拙著,107-11 頁。
8 )1955 年当時のメキシコ人労働者の平均年収を米ドルに換算すると,農業労働者は 215 ドル,
都市部住民の平均年収は 1,026 ドル,全体の平均年収は 586 ドルとなっていた。Richard B.
Craig, The Bracero Program; Interest Groups and Foreign Policy.(Austin: University of Texas Press, 1971), 16. 一方,1956 年の米国内の農業労働者の平均年収は,非農業労働か らの収入も含む額が 1,178 ドル,農場での賃労働のみからの収入は 935 ドルであった。同 年の米国の労働者全体の平均年収は 1,975 ドルだった。United States Department of Agriculture, Agricultural Statistics 1966(Washington, DC: G.P.O., 1966), Table 653, 449;
United States Bureau of the Census, Historical Statistics of the United States, Colonial Times to 1970, Bicentennial Edition, part 2(Washington, DC: G.P.O., 1975), F 297-348,
243.
9 )丸谷吉男編著『メキシコ ― その国土と市場』(科学新聞社,1986 年),85 頁。ペソは 1954 年に再度切り下げられ,1 ドル= 12.5 ペソとなった。Emily Edmonds-Poli and David A.
Shirk, Contemporary Mexican Politics. 3rd ed.(Lanham, MD: Rowman and Littlefield, 2016), 189.
10)移民帰化局は 1933 年に労働省管轄下の移民局(Bureau of Immigration)と帰化局(Bureau of Naturalization)を統合した組織として成立し,1940 年に司法省に移管された。2003 年 に同局は新設された国土安全保障省に編入された。
11) Kitty Calavita, Inside the State: The Bracero Program, Immigration, and the I. N. S(New York: Routledge, 1992), 32-33.
12) Otey M. Scruggs, “Texas, Good Neighbor?” Southwestern Social Science Quarterly, 43, no. 2(September 1962): 118-25; Otey M. Scruggs, “Texas and the Bracero Program, 1942- 1947,” Pacific Historical Review, 32, no.1(February 1963): 251-64; Robert S. Robinson,
“Creating Foreign Policy Locally: Migratory Labor and the Texas Border, 1943-1952”
(PhD. dissertation, Ohio State University, 2007); Timothy J. Henderson, “Bracero Blacklists: Mexican Migration and the Unraveling of the Good Neighbor Policy,” The Latin Americanist, 55, no.4(December 2011): 199-217. また,筆者が既発表の論文および 著書で指摘したことであるが,ときには雇用主と非合法移民被雇用者とのあいだに強固な 個人的紐帯が成立することもあり,このような場合には特定の非合法移民の摘発・送還の 猶予を求める陳情が地元の政治家や行政当局に対してなされることもあったのである。前 掲拙著 168-71 頁;戸田山祐「戦後期ブラセロ・プログラムの確立― 1950 年代前半のテキ サスへのメキシコ人短期移民労働者導入を中心に」『社会科学』第 46 巻 1 号,2016 年 5 月,
33-64 頁。
13) Ernesto Galarza, Merchants of Labor: The Mexican Bracero Story(Santa Barbara, CA:
McNally and Loftin, 1964); Ernesto Galarza, Farm Workers and Agri-business in California, 1947-1980(Notre Dame, IN: University of Notre Dame Press, 1977); Denis Nodín Valdés, “Machine Politics in California Agriculture, 1945-1990s,” Pacific Historical Review, 63, no.4(November 1994): 203-24; Martha Menchaca, The Mexican Outsiders: A Community History of Marginalization and Discrimination in California
(Austin: University of Texas Press, 1995); Matt Garcia, A World of Its Own: Race, Labor, and Citrus in the Making of Greater Los Angeles, 1900-1970(Chapel Hill, NC:
University of North Carolina Press, 2001); Stephen J. Pitti, The Devil in Silicon Valley:
Northern California, Race, and Mexican Americans(Princeton, NJ: Princeton University Press, 2003); Lori A. Flores, Grounds for Dreaming: Mexican Americans, Mexican Immigrants, and the California Farmworker Movement(New Haven: Yale
University Press, 2016). 農業労働運動への関心を背景とする日本語の研究としては,以下
を参照。中川正紀「1960 年代のカリフォルニアにおける農業労働者ストライキとカトリッ
ク教会」『一橋論叢』第 112 巻 2 号,1994 年 8 月,314-33 頁;中川正紀「デラノ・ストラ イキをめぐる『多人種・多民族の共存』の問題 ― 異民族からなる組合どうしの『合併』の 時期を中心として」『札幌学院大学人文学会紀要』第 58 号,1995 年,129-54 頁;中川正紀
「『農業労働関係法』の制定を求めた農業労働者の闘い ― 1965 〜 1975 年のカリフォルニア」
『札幌学院大学人文学会紀要』第 60 号,1997 年,237-260 頁;中川正紀「米国農業労働者 とメキシコ人移民 ― UFWの組合運動を例に」油井大三郎・遠藤泰生編『浸透するアメリ カ,拒まれるアメリカ』(東京大学出版会,2003 年),89-107 頁。
14) Don Mitchell, They Saved the Crops: Labor, Landscape, and the Struggle over Industrial Farming in Bracero-Era California(Athens, GA: University of Georgia Press, 2012). 15)ニューディール期の農民および農業労働者に対する連邦政府の政策については以下に詳し
い。久保文明『ニューディールとアメリカ民主政 ― 農業政策をめぐる政治過程』(東京大 学出版会,1988 年)。農業労働者政策と農業労働者運動の相互関係については以下を参照。
Patrick H. Mooney and Theo J. Majka. Farmers and Farm Workers Movements: Social Protest in American Agriculture(New York: Twayne Publishers, 1995), chap. 5.
16)トルーマン政権の移動労働者政策については以下に詳しい。Robert S. Robinson, “Taking the Fair Deal to the Fields: Trumanʼs Commission on Migratory Labor, Public Law 78, and the Bracero Program, 1950-1952,” Agricultural History, 84, no. 3(Summer 2010): 381-402.
17)Migratory Labor in American Agriculture, 1.
18) Ibid., chap.1.
19) Ibid., chaps. 8-11.
20)本報告書はメキシコ人非合法入国者についても一章を設けてその弊害について指摘し,非 合法移民が多数雇用されているリオ・グランデ川流域地帯から賃金の低下によってメキシ コ系アメリカ人労働者が他地域へ流出していると述べている。Ibid., 80-83.
21) Ibid., 64-67.
22) Ibid., 88.
23)詳しくは,前掲拙著 3-5 章を参照。
24) Background and Purpose of the Committee, Committee to Survey the Agricultural Labor Resources of the San Joaquin Valley, n.d., ca. March 1950, F3845.27, box 11, Governor's Committee to Survey the Agricultural Labor Resources of the San Joaquin Valley Records, California State Archives, Sacramento, California(以下 Committee Recordsと略記).
25) J. Craig Jenkins, The Politics of Insurgency: The Farm Worker Movements in the 1960s
(New York: Columbia University Press, 1985), chaps. 4-5; Dionicio Nodín Valdés, Organized Agriculture and the Labor Movement before the UFW(Austin: University of Texas Press, 2011), chaps. 5-6.
26)「アングロ」という語は,ここではアングロ=サクソン系の者に留まらず,今でいうところ
のヒスパニック/ラティーノを除外した「白人」の総称として使用されている。テキサス ではドイツ系やチェコ系など他のヨーロッパ系移民およびその子孫も,1940 年代から 50 年 代初頭までにはほぼ完全に「アングロ」の範疇に含められるようになった。Marian Jean Barber, “How the Irish, Germans, and Czechs Became Anglo: Race and Identity in the Texas-Mexico Borderlands”(Ph.D. dissertation, University of Texas, 2010). 以下の同時 代文献が一例であるが,このような用法は 1950 年代には全国的に広まっていたよう であり,ハリントンもこれを踏襲している。Bertha Blair, Anne O. Lively, and Glen W.
Trimble, Spanish-Speaking Americans: Mexicans and Puerto Ricans in the United States(New York: National Council of Churches of Christ in the United States of America, 1959), 4, 26.
27) Michael Harrington, The Other America: Poverty in the United States(New York:
Penguin Books, 1962), 52-53.
28) Background and Purpose of the Committee, 1.労組代表としてAFLのカリフォルニア支 部長を務めていたC・J・ハガティー(C. J. Haggerty)が参加していた。
29) Ibid., 2.
30)テキサスで 1940 年代に設立され,当時も活動していた「テキサス善隣友好委員会(Texas Good Neighbor Commission)」は,本委員会と同様に,農業労働者を中心とする移動労働 者の生活・就労状況の調査をおこなっていたが,あくまでその主たる活動目的はアングロ とメキシカンの「相互理解と関係改善」であり,メキシカンの委員も設立当初から含まれ ていた。前掲拙著 2, 3, 5 章を参照。
31) Transcript of Public Hearing, August 3, 1950, Corcoran, California, Committee to Survey the Agricultural Labor Resources of the San Joaquin Valley, August 3, 1950, F3845.11, box 11, Committee Records, iii; Brief presented to Governorʼs Committee to Study Agricultural Labor Resources of San Joaquin Valley, at its hearing August 3, 1950, F3845.11, box 11, Committee Records.
32) Background and Purpose of the Committee, 2-3.
33) Ibid, 3-4.
34)2 万 5000 箇所の住居の 50 パーセントが浴室を,33 パーセントは下水処理施設をそれ ぞれ欠いており,34 パーセントは適切なゴミ処理施設を備えていなかった。Suggested Recommendations for Consideration by the Committee to Survey Agricultural Labor Resources in the San Joaquin Valley, October 25, 1950, 11, F3845.3, box 11, Committee Records, 1-3.
35) Ibid., 4-5.
36) Child Labor: Report of the Division of Labor Law Enforcement to the San Joaquin Valley Agricultural Labor Resources Committee, October 1950, F3845.18, box 11, Committee Records, 1-2.
37)報告書に示された例によれば,サン・ワーキン川流域地域の南西部に位置するキングス郡
では,1949 年 11 月から 50 年 3 月までに郡内の小学校の児童の総数が 15 パーセント減少 していた。Suggested Recommendations, 6.
38)ニューヨーク州で農場主を対象とした講習プログラムがすでに実施されていると述べられ ている。Ibid., 6-7.
39) State of California, Department of Employment, California Progress in Programs Benefiting Agricultural Migrants, June 3, 1955, folder 10, box 10, Series 42, C114, Goodwin J. Knight Papers, California State Archives, Sacramento, California(以下 Knight Papersと略記).
40) Meeting of Committee to Survey the Agricultural Labor Resources of the San Joaquin Valley, San Francisco, May 17, 1950, F3845.27, box 11, Committee Records, 1-2. 州の南北 の境であるが,本史料では,太平洋岸のサン・ルイス・オビスポ郡,サン・ワーキン川流 域地域南部に位置するカーン郡,さらに「インディオ郡(インヨー郡の誤りであろう)」よ り北が北部とされている。
41) Suggested Recommendations, 11.
42) Committee Meeting in Fresno, California, June 20, 1950, F3845.4, box 11, Committee Records, 63-65.
43) H. L. Mitchell to Maurice J. Tobin, April 21, 1950, reel 35, Southern Tennant Farmer Union Papers, Wirtz Labor Library, Washington, District of Columbia.
44) Suggested Recommendations, 11.
45) Ibid., 12. なお,1948 年 10 月に起きたテキサスへのメキシコ人労働者の大規模な非合法出
国により,ブラセロ・プログラムは翌 49 年 8 月まで停止されていた。8 月の再開後にブラ セロを導入したのでは収穫期に間に合わないこともありえたため,同年の雇用実績は限ら れたものになった。停止と再開の経緯については,前掲拙著 5 章を参照。
46) Ibid., 11.
47)前掲拙著 151-52 頁。
48)ダグラスの経歴については米国連邦議会ウェブサイトを参照。DOUGLAS, Paul Howard, Biographical Directory of the United States Congress. Accessed November 24, 2018.
http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=D000456.
49)“Mexican Farm Labor,” Congressional Quarterly Almanac 1951, 7(Washington:
Congressional Quarterly, 1951), 97; Congressional Record, Senate, 82nd Cong., 1st sess., 97, June 30, 1951, 7520-25.
50)詳しくは,前掲拙著 147-51 頁を参照。
51)“Mexican Farm Labor,” 97.
52)非合法移民の流入を放置しておけば,メキシコから「破壊活動分子(subversive elements)」
が侵入する可能性があるともセラーは主張したが,この議論はメキシコ人労働者導入に積 極的な議員には受け入れられなかった。たとえば,オーガスト・アンダーセン(August
Andresen)下院議員(共和党,ミネソタ州選出)は,「FBIの提出した資料によれば」共
産主義者は米国内の各地で活動しており,米墨国境がとりわけ危険なわけではないと述べ,
非合法移民対策と反共政策を結びつける議論を斥けた。Congressional Record, House, 82nd Cong., 1st sess., 97, June 26, 1951, 7154-56.
53)以下の史料群には,カリフォルニア州政府に対し非合法移民の流入への対応を求める州民 からの書簡が多数収められている。Folder 10, box 10, Series 42, C114, Knight Papers.
54) Report of Mexican Aliens Apprehended Illegally in U.S.(Fiscal Year 1952), December 9, 1952, file no.56321/448c, accession no. 85-58A734, central classified files, Bracero program general file, entry 9, RG 85, National Archives and Records Administration, Washington, District of Columbia(以下NADCと略記).
55) Agricultural Labor Program, Basic Data, April 4, 1951, file no.56321/448 part II, accession no. 85-58A734, central classified files, Bracero program general file, entry 9, RG 85, NADC.
56) State of California, Department of Employment, Mexican Nationals in California Agriculture, 1942-1959(Sacramento: State of California, 1959), 4, Table I.
57) Ibid., 6-7, Table II.
58)“Goodwin J. Knight of California Dies,” New York Times, May 22, 1970, 22.
59) William OʼDwyer to the Secretary of State, July 11, 1952, 811.06(M)/7-1052, box 4406, RG59, National Archives and Records Administration, College Park, Maryland( 以 下 NAMDと略記); William OʼDwyer to the Secretary of State, July 24, 1952, 811.06(M)/7- 2452, box 4406, RG59, NAMD.
60)前掲拙著 154-55 頁。
61)議会の議決なしで国内での法執行に連邦軍を動員することは,内政上の目的のために連邦 政府が軍の人員を使用することを禁じる目的で 1878 年に制定されたポシ・コミテイタス法 に抵触するものだったからである。前掲拙著 154-55 頁。
62) García, Operation Wetback, 183.
63) Telegram from Goodwin J. Knight to Herbert Brownell, June 17, 1954, folder 9, box 10, Series 42, C114, Knight Papers.
64) Hernández, Migra!, 184-86; García, Operation Wetback, 183-85.
65) García, Operation Wetback, 200.
66) Hernández, Migra!, 187.
67) United States Department of Justice, Immigration and Naturalization Service, Record of Sworn Statement, taken in Eureka, California, July 29, 1954, file no.56321/448e, accession no. 85-58A734, central classified files, bracero program general file, entry 9, RG 85, NADC.
68)前掲拙著 155-56 頁。
69) William A. Burkett to Goodwin J. Knight, February 17, 1955, folder 10, box 10, Series 42, C114, Knight Papers.
70)これは連邦労働省の方針にも叶うものであった。たとえば,1955 年にミッチェル労働長官 が各州の労働政策担当者を集めて開催した州労働法会議では,米国内の労働者をブラセロ に優先して雇用すること,移動農業労働者対策をめぐる労働省と各州労働関係部局の協力 に加え,国境警備と非合法移民対策の強化を目指す方針が採択された。Resolution No. 5, report of the Resolutions Committee, 21st Conference on State Labor Legislation, n.d., ca. May 1955, folder 10, box 10, Series 42, C114, Knight Papers.
71)ウェットバック作戦に前後して,カリフォルニアではメキシコ人非合法移民の送還に反対 する運動が多様な背景を持つアメリカ人によって展開されていた。アメリカ国外出身者保 護委員会(American Committee for the Protection of the Foreign Born)のロサンジェル ス支部は,メキシコ系アメリカ人組織と日系やアフリカ系の組織を協力させる形で,メキ シコ人を含む在米外国人の権利擁護運動をおこなっていた。メキシコ系と日系はともに強 制的な摘発や収容の対象とされたために両者の協力が可能になり,黒人は同様に法執行機 関からの監視や抑圧を経験していたため,メキシコ系へのシンパシーを持つことができた という。ただし,このような活動の影響力の評価にあたっては慎重さが求められるといえ よう。Natalia Molina, How Race Is Made in America: Immigration, Citizenship, and the Historical Power of Racial Scripts(Berkeley: University of California Press, 2014), chap.
5.
72)前掲拙著 158-61 頁。
73)前掲拙著 219-20 頁。
参考文献 文書館史料
California State Archives(Sacramento, California)
Department of Employment Files - Farm Labor Placements, 1953-1958, Series 42, box 10, Goodwin J. Knight Papers, C114
Governor's Committee to Survey the Agricultural Labor Resources of the San Joaquin Valley Records, F3845
National Archives and Records Administration(College Park, Maryland)
U.S. Department of State, Record Group 59
National Archives and Records Administration(Washington, District of Columbia)
U.S. Department of Justice, Record Group 85
Wirtz Labor Library(Washington, District of Columbia)
Southern Tennant Farmer Union Papers
公刊公文書・議会議事録 Congressional Records.
Report of the Presidentʼs Commission on Migratory Labor.(1951)Migratory Labor in