通俗物雑談 : 近世翻訳小説について
その他のタイトル Remarks on Chinese Fiction Translated into Japanese in the Yedo Period
著者 中村 幸彦
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 15
ページ 1‑22
発行年 1982‑03‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/16049
ただいまご紹介いただきました中村でございます︒この東西学術
研究所の所長さん︑いま私をご紹介いただきました図書館長さんも︑
学校だけで言いますと私の旧制高等学校以来の後輩でございます︒
でそのお言葉は私が聞いておりましても﹁ちょっとホメ過ぎじゃな
いか
なあ
﹂:
.
.
.
.
と思っております︒まずほ︑仲間ぼめとお聞き下さ
いま
す様
に︒
本日︑この研究所の意義ある三十周年に講演のご依頼を受け︑大
変光栄に存じてここに立った次第でございますが︑光栄に存じてい
るほどに立派なお話しがこれからできるかどうか︑はなほだおぽつ
かない次第でございます︒どうぞしばらくご清聴をお願い申し上げ
ます
︒
い言葉だと思いますので︑ ﹁通俗物﹂という言葉は︑用語として学界でもまだ定着していな
﹁通俗物﹂の意味というか︑何処から出
通 俗 物 雑
談 ー
近 世 翻 訳 小 説 に つ い て
1
通 俗 物 雑 談
関西大学東西学術研究所
創 立 三 十 周 年 記 念 講 演
中に﹁通俗物﹂と言われる本がある︒ た言葉で︑いかに解釈をして使うか︒そこの処から話を進めていきたいと思います︒
少し皆さんにはお耳遠い固有名詞がかなり出てくると思います︒
本当はプリントを用意したり︑板書をしたりして︑お示しした方が
よいのだろう:
. .
.
.
とも思いましたが、諸事、老人—|めんどうぐさ
がり屋で︑全部省略させていただきます︒そのかわり1といって
ほ何ですが︑出てくる人物・書物に︑少し口で註釈のようなものを
付ける︒それでごかんべんをいただきたい︒
さて﹁通俗物﹂ですが︑先ず用例を挙げるのが順当でしょう︒明
和︵江戸中期︶ごろ︑京都に江村北海という儒者があって︑この人
が﹁漢学をどう勉強したらよいか﹂を述ぺる目的で書いた本に﹃授
業編﹄なるものがあります︒そこにこんな記述があります︒﹁世の
たとえば﹃通俗漢楚軍談﹄
中
村
幸
彦
﹃通俗︱︱一国志﹄といったものだ︒こんなものは︑子供が漠籍の素読
のいとまに︑なぐさみに読むものだ︒すると︑後に漠籍の歴史書を
読むようになって︑
出てまいります︒ 大いに助けになるだろう﹂︒
つまり﹁通俗物﹂とは﹃通俗漠楚軍談﹄
﹁通俗物の大立物﹂と評したわけであります︒ 滸伝﹄それも日本で訳本として刊行されて︑大いに流行した﹃通俗
﹃ 水
もう一例︒これははるか後になるのですが︑ 国志﹄のたぐいの書物を指すわけです︒
﹃ 通 俗 ︱
︱ ︱
へんな本で︑遊里文
学の洒落本の評判記に﹃戯作評判花折紙﹄というのがあり︑その中
で洒落本の﹃通気粋語伝﹄を批評して︑これは吉原の遊廓遊ぴの世
界に﹃水滸伝﹄を組合せたものですが︑この評の中に﹁十二朝から
宋 朝 座 の お や 玉
和漢書目録のとおりの﹁通俗物﹂の大だてもの︑
く﹂と言っております︒この本はくずれた本でありますが︑
忠義水滸伝﹄を利用して︑遊里遊びの中へ持ち込んである︒それで
そう
しま
すと
︑﹃
通俗
漢楚
軍談
﹄﹃
通俗
︱︱
一国
志﹄
﹃通
俗忠
義水
滸伝
﹄
のたぐいが﹁通俗物﹂だということになります︒言い置しますと︑
中国の白話で書いた小説を日本語に翻訳したもの︑それは皆︑書名
に﹁通俗﹂の語を冠らせてある︒よって﹁通俗物﹂と称するのだな
と一応は理解されます︒と申しましても︑そう簡単にはいかぬ例も
出てまいります︒そこでそれにも若干触れることにします︒
荻生狙採の門人に篠崎東海という人があります︒彼は漠学者です
が︑彼に日本の学問についての感想を書いた﹃和学弁﹄なる著述が
ー こ ん な 説 明 が
わっていると東海は述べたのです︒ その中で﹁﹃雲合奇縦﹄
が﹃忠義水滸伝﹄と同じようにおもしろい本である︒これを岡島冠
山という人が訳したとき﹃通俗元明軍談﹄という名前を付けた︒そ
こで世間の人がこの﹁通俗﹂を普通の﹁通俗書﹂と一緒にしてい
る︒これは少々おかしい︒普通の通俗書よりこの本の方がはるかに
おもしろい﹂︒こう書いてあります︒﹃雲合奇縦﹄は別の名前が﹃皇
明開運英烈伝﹄で﹃英烈伝﹄ほ中国の﹁講史﹂と分類される歴史小
説︑白話小説の︱つです︒その面白い白話小説であって︑日本で多
く出ている中国の歴史読み物で止っている普通の﹁通俗書﹂とは変
そこでその当時に出版の﹃書籍目録﹄︑これは江戸時代︵近世︶の
始めから享和頃まで︑大体年号が改まった期間をおいて出版されて
おりますが︑享保十四年の﹃書籍目録﹄を見ますと︑その中に﹁通
俗類﹂なる項目が立っており︑いま申した﹃通俗三国志﹄以後のい
ろんな通俗と冠する書名のものを並べています︒これが﹁通俗類﹂
です︒明治から大正にかけて早稲田大学で﹃通俗二十一史﹄を刊行
しており︑あるいはご存じの方もおありと思います︒この中に﹃通
俗三国志﹄以後に出版の二十一の通俗軍談の類を収めてあり︑これ
らは全部と言ってよくこの享保十四年の書籍目録の﹁通俗類﹂の中に入っています。その中で、最初の『通俗――一国志』ー'—後で詳しく
申しますが︑これは白話小説を使用した翻訳です︒その後すぐに出
た﹃通俗漢楚軍談﹄もこれまた白話小説によっています︒しかし︑ あ
る︒
は元末の事を材として書いたものだ
のあったことだけは申しておきましょう︒ それから後となりますと、白話小説の読めないような人—|'恐らく中国の白話を知らなかったと思われる人︑たとえば毛利貞斎とか中村昂然とかが︑白話小説でなく︑ふつうの中国正史あるいは通鑑の類を取り合わせ︑最初刊行の﹃通俗三国志﹄の体裁に倣い︑中国各時代の歴史を読みもの風にし︑日本人にわかりやすくして出版したものが︑享保書目の﹁通俗類﹂には沢山入っているのです︒そこで篠崎東海は︑こういう人たちの白話小説によらないで︑﹃通俗︱︱一国志﹄のような形で読み物とした本︑この種のものが普通の﹁通俗書﹂で︑その中に﹃元明軍談﹄が入っているけれども︑これは白話小説によって少しく毛色が違う面白いものだよと述べたのであります︒
で︑東海の言うことは︑このとおり︑区別していいのだとは思い
ます︒しかし︑私はもちろん日本の書物は見ていますが︑それぞれ
の書物の中国の種本にみんな当たったわけではございません︒それ
に該当する中国の書物があるかないか︑よく調べておらないのです︒
しかし︑ずっと前に長沢規矩也先生が調査なさったもの︵﹁江戸時
代に於ける支那小説流行の一班」—『書誌学』一の四所収)には、
﹁それに該当するような時代の﹃通俗演義﹄と称する中国の書物は
大体全部ある﹂と︒ただし長沢先生も︑突き合わせて︑どこの部分
が﹃通俗演義﹄││白話小説で︑どこが正史ないし通鑑類に載って
いるかの調査はなさっておりません︒まあ︑ともかくそういう調査
ところで︑なぜこのように﹃通俗三国志﹄が出るとともに︑
通 俗 物 雑 談
せき を切ったようにこんなものが二十一種類も出たのかです︒これについては次の様に考えております︒ちょうど徳川時代の初めから﹃通俗三国志﹄が出る元禄時代頃にかけ︑日本では﹃太平記﹄の後を継ぐような︑また﹃太平記﹄の前の時代を物語るような﹃後太平記﹄だとか﹃前太平記﹄あるいは﹃続太平記﹄といった名前の本│̲'要するに日本歴史の通俗読み物がたくさん出ています︒で︑﹃通俗︱︱︱
﹁あっそうだ︑これに続いてーーつまり︑
日本の一般向け歴史読み物に似合うような中国歴史の一般向け読み
物をこしらえようではないか﹂⁝⁝という気運が折からの漢学流行
の世相に乗じて出版界に出て︑それぞれ適当な人を頼んで著述して
もらった︒以上がこの現象の説明です︒
そうしますと︑この頃﹁通俗書﹂﹁通俗類﹂などの﹁通俗﹂の中
には︑その語の元来の意味である﹁一般的﹂ということ︑中国歴史
の一般的な読み物という意味ーー先ほど私が﹁通俗とは中国白話小
保年間のものほ︑ 説の翻訳」といった意味以外に|—もう一っ意味があったことになります︒要するに﹃通俗三国志﹄から二十一種の書物が出ている享
一方では﹁中国白話小説を読みやすく翻訳したん
だ﹂という意と﹁中国の歴史の一般的な読みものである﹂という意
が二重になって存在したことになる︒これが用例から検討した結果
であります︒ところが宝暦七年1享保から三四十年も後でありま
すが︑ここで﹃通俗忠義水滸伝﹄があらわれることにより︑いま
の説明がガラッと変わります︒ご承知のように﹃忠義水滸伝﹄ほ中 国志﹄が出たものだから︑
国の講釈師の話芸をくぐってきたものが文章化されたもの││'こう
研究されております︒元来が通俗なのです︒﹃三国志﹄には正史の
﹃三国志﹄があって︑それとは別に︑それが材料になり︑講釈師の
口の端にかかり︑話芸の時代を通り越して変化し︑﹃三国志通俗演
義﹄という本になった︒その本によったので日本での翻訳書でも
﹃通俗三国志﹄と名付けたのです︒ところが﹃忠義水滸伝﹄の場合
は初めから通俗なのでして﹁通俗﹂とことわる必要がないわけです︒
それを日本で翻訳して出版する時に﹃通俗忠義水滸伝﹄と﹁通俗﹂
を頭にくっ付けてしまったのです︒そのときの本屋の考え方は︑
﹃通
俗
1
1+︱史﹄と同じような体裁で本を出すのだ︒中国のことを
日本人一般にわかるように︵翻訳して︶出すのだから︑
﹁通俗﹂という言葉を付けた方がよかろう⁝⁝な﹂と︒こう思った
ので
しょ
う︒
﹁こ
れに
も
これにはもう一っ別の考え方がからみます︒この本が出る二十何
年前に﹃忠義水滸伝﹄の訓訳本が出ています︒訓訳本とは漢文を本
文のまま出し︑左側に返り点︑右の方に送りがなを付けるのですが︑
もう一っ左の方に左訓といって言葉の解釈を付けるのです︒そうい
う本がすでに出ています︒といっても﹃水滸伝﹄百回の中で十回ま
でしか出ておらず︑﹃通俗忠義水滸伝﹄が出はじめた翌々年宝暦九
年に二十回まで出版されます︒ともかく︑本文のままの﹃忠義水滸
伝﹄が出ている︒これを翻訳した場合︑﹃通俗三国志﹄の例になら
︑ ︑
って﹃通俗忠義水滸伝﹄としておく方がよかろう⁝⁝と︒こう本屋 ﹃通俗忠義水滸伝﹄が出てからは︑ ほ思って﹃通俗﹄と付けたのかもわかりません︒ところがその後に│﹃通俗忠義水滸伝﹄が出るやいなや︑中国白話小説の翻訳がな
しかもそれらの書にも全部﹁通
だれのごとくにあらわれてくる︒
俗﹂と付けてしまった︒したがって︑享保の書籍目録の﹁通俗類﹂
の中には白話小説の翻訳も入っておればそうでもないものも入って
いたのでありますが︑
が﹁翻訳﹂という意味になってしまったのです︒だから﹃花折紙﹄
が通俗物と言ったり︑明和ごろの江村北海が﹁通俗物﹂と言った場
合には︑これは﹁翻訳小説﹂の意味だと解して︵北海の場合は
1 1+
一史類をも含んでいるかも知れない︶よいことになります︒わずか
の時代でこの︱つの言葉がやや変わってしまったのです︒以上が大
体﹁通俗物﹂の意味なのであります︒
なお﹁通俗﹂なる言葉がどう使われているかの例を若干挙げます︒
清田像畏は博覧の儒者ですが︑彼が朝鮮の人が中国の南方に漂流し︑
都の北京に呼びよせられた間の中国見聞録﹃漂海録﹄を翻訳し︑明
和六年に﹃唐土行程記﹄という書名で出版しました︒ところがそれ
が︑寛政年間に再版されたときには﹃通俗漂海録﹄と害名を変えて
おります︒この間に﹁通俗﹂が漠籍の翻訳の意となった︒
もう一っ例を申します︒幕末に萩原広道という国学者︑これがど
うしたことか﹃好逮伝﹄という中国白話小説を翻訳しました︒その
自筆原稿が残っていますが︑それを見ると︑初めは﹃翻訳好逮伝﹄
と名付け︑後に朱筆をもって﹁翻訳﹂を消し﹃通俗好速伝﹄と変え
﹁通
俗﹂
四
す ︒ さ
て︑
﹁通俗物﹂についてはそのくらいにして︑話を先に進めま おりになります︒これでまあ︑本日お話します﹁通俗物﹂とは中国 てあります︒これを見ると﹁通俗﹂すなわち﹁翻訳﹂︑まさにそのとの白話小説類の翻訳であります︒本日の話の題に﹁近世翻訳小説について﹂と副題しましたのは﹁通俗物﹂をさらにもう一ぺん翻訳したわけでございます︵笑︶
国文学専攻の私が何でそんな翻訳小説に関心を持つようになった
か︑若千︑私なりの説明をしておきます︒私は︑文学史は文学生活
の歴史であると考えるべきだと思っております︒最も簡略に説明し
ます︒外国のことは知りませんが︑今日日本の文学史は︑それぞれ
の時代に新しく出た作品の歴史のみ:
. . . .
と言ってよいと思います︒
作品は本屋さんがなければ流布しません︒刊本の場合はしかり写本
の場合も写し手が必要です︒そうでないと本は読者のところへ届き
ません︒もっとも口誦文芸とか舌耕文学とかでは︑語り手話し手が
本屋の替りをします︒合せて伝播者と称しておきます︒また︑読者
がなければ作品が存在しないと同じことになります︒それからなお
また︑読者だけの⁝⁝というとおかしいですが︑
ば︑作者はその国その時代の人でなくて︑読者だけの作品もあって
通 俗 物 雑 談
︱つの時代にとれ
もよろしい︒読者が古典を盛んに読んでおれば﹁この時代︑古典が盛んに読まれた」ー~これがその時代の文学生活史の一端でありま
す︒翻訳小説が盛んに行われたとすれば││'たとえば近代で言うと
五
大正の初めのころなど︑大変翻訳小説が盛んに読まれました︒とす
れば︑翻訳小説を読むということも文学生活史引いては文学史的現
象の︱つであります︒こういうふうに考えねばならない⁝⁝となり
ますと︑近世︵江戸時代︶においても﹁通俗物﹂を度外視してほ文
学史が完成しないだろう︒これが私の﹁通俗物﹂に関心を持った理
由の一つであります︒
もう一っ理由があります︒さっきも私が島原文庫の本などを整理
したとの御紹介がありましたが︑その他にも幾つかの藩校の書物を
見ました︒あるいは︑実際に本は見なくても︑諸藩の蔵書目録を見
たことが又いくらかあります︒その中に必ずあるのが﹁通俗物﹂な
のであります︒さっ含江村北海の言葉を述べましたが︑彼はまだ漢
籍の十分読めない若い生徒たちに通俗物を読ます方法を示しました︒
そのとおりに︑各藩共に﹁通俗物﹂をたくさん蔵していました︒恐
らく各藩の蔵書として﹁通俗物を加えるべし﹂といった習慣が︑い
つの間にやらついていたのだろうと思います︒おかしなことにその
﹁通俗物﹂の中に﹃通俗皇明後宮伝﹄などという類の大変行儀の悪
い本もまぎれ込んでいました︒﹁幼童に読ますべし﹂と言った江村
北海
先生
です
が︑
こん
な本
まで
読ま
せろ
・・
・・
・・
とい
うつ
もり
はな
かっ
たでしょう︒これはどういうことでしょうか︒こんな本もそろっと
入っている藩がありました︒
なあ⁝⁝と思ったりした次第であります︒
ともかく﹁通俗物﹂は大変広くよまれたのであります︒その中に いつの時代にも若い人は若い人なんだ
︵ 笑 ︶
紙を半分に割った大きさの本を﹁大本﹂
大本で何十冊と続く大作が多く︑表紙は空色の濃い青表紙です︒そ
して全部片仮名まじり︑平仮名まじりのものは︱つもありません︒
さっき申した行儀の悪い類は︑編集者も﹁行儀の悪い本だなあ﹂
と思ったのでしょう︑大本でなくて半紙本になっております︒だか
らその見分けはすぐ付くようになっています︒しかし中味はこれも ︵おおほん︶と言い︑その ﹃通俗︱︱一国志﹄﹃通俗元明軍談﹄など講史類の小説もありますが︑その他これから二︑三お話する﹁霊怪﹂﹁説公案﹂﹁煙粉﹂︵孫楷第﹃中国通俗小説書目﹄の分類による︶に属する中国白話小説の翻訳ちは︑恐らく単に歴史を読むだけでなく︑それが彼らの文学の目覚め⁝⁝変な本を例に出して文学の目覚めと言いますと︑誤解されそうですが︑誤解下さらないように︒本当の彼らの文学又は小説その物への目覚めにならなかったとは言えない︒それについては後でまたいたしますが︑当時の日本の小説よりは︑小説性の上位にある通俗物で文学心を養われ︑小説感を高めた人もあるわけです︒しかも生徒ほ藩における知識人となる人たち︑その人々が子供のときからこういうものを読んでいた︒このことを無視して文学史を︑あるいは小説史を語るのはどうも不都合なのではないか⁝⁝︒これも﹁通俗物﹂に注目して見たい理由の一つです︒
そこで︑余談ですが書誌的形式のことを申し上げておきます︒い
ま申しましたような通俗物の類は全部形が決まっております︒美濃 もまじっていたのです︒そうしますと︑それらを読んだ若い生徒た した﹃後太平記﹄くり同じ形で︑日本の歴史の場合も全部片仮名まじりであります︒
あるいは皆さん方の中で︑既にそのことにお気付きの方があるか
もわかりませんが︑もしお気付きでなければ若干のご参考になろう
かと思います︒というのは︑明治以前の書物では片仮名まじりで書
いた本と乎仮名まじりの書物とは︑厳然とした区別があるのです︒
元来日本でできた⁝⁝というより元来日本的な書物
l
たとえば和歌の本とか物語といったものは平仮名まじりですが︑元来外国的な
もの
1漢籍とか仏書とかに関するものは片仮名で書く習慣があり
ました︒﹁元来﹂﹁:
.
.
. .
的﹂では大変わかりにくいのでもう少し詳
しくしますと︑歴史というもの︑これは日本では中国に学んで著述
された六国史に見る如く漠文で書くのがあたりまえとされました︒
すると︑その後々で︑歴史の流れのものはたとえ仮名まじりで書く
時も︑片仮名を使用する︒
りです︒仏書でも︑ ﹃太平記﹄も古い本は全部片仮名まじ
たとえそれが一般の人に話をするお説教でも︑
事仏教に関する場合は全部片仮名まじりです︒このように画然と分
かれておったのです︒
このように考えてみると︑これは江戸時代とか中世とか︑中間の
話をするよりも︑一番初めと一番しまい︑文字をめぐる生活の﹁ビ
ン﹂と﹁キリ﹂を見ればよろしいのです︒日本人は平安朝の初めか ここでちょっとまた脱線をいたします︒ ﹃前太乎記﹄などの日本歴史の通俗読み物とそっ 片仮名まじりです︒大本︑青表紙など︑これらの特徴は︑さっき申
̲,̲
/'
らある古訓点ー'│まあ平安朝の初めはまだ送り仮名はふってなかっ
たかもしれませんが︑そういう漠籍仏典の読みに付けた訓点︑これ
らは全部片仮名です︒平仮名のルビ︵振仮名・送仮名︶なんて一っ
もございません︒今日︑レストランにおいでになり︑皆さんご覧に
なる洋食のメニューは全部片仮名であります︒このように古訓点か
らメニューまで︑外国語系は全部片仮名なのです︒ところが明治以
後︑どこがどう間違ったか知らないけれど︑片仮名まじりで書いて
来た書物を全部平仮名に直してしまった︒それもまだ本屋さんが勝
手にするのならともかくも︑学校教育でこれをやるのはけしからん
元来片仮名まじりの書物を
全部平仮名に直してある︒これはちっょとならずおかしい︒どんな
かもしれません︒
そういうところほ゜ 教科書も︑これは後に述べますが︑全部娯楽読み物と思っているの
いまの学務当局:・⁝当局かどこか知りませんが︑
︵ 笑 ︶
そこで︑片仮名・平仮名の使用にこのようなきまりのあることを
考えに入れておくと︑きまり以外の例が出てきた場合︑それをどう
考えるかということ︒これが研究者に非常に有意義ではないかと思
うのです︒例を申しましょう︒鴨長明の﹃方丈記﹄は和漢混滑文の
始まり⁝⁝かどうか知りませんが︑始まりであると言われています︒
この﹃方丈記﹄の古い本で大福光寺本は片仮名まじりです︒極早い
頃の﹃方丈記﹄は片仮名なのです︒だからこの時代に﹃方丈記﹄ほ「漠文がかったものだなあ」•…••と思われたわけです。ところが、
通 俗 物 雑 談
と思う︑私は︒︵笑︶近頃の教料書ほ︑
七
もっとほっきりした例を申します︒ 次第に室町時代になって来るとこれはみんな平仮名で書かれています︒実はこの間の推移で和漢混滑文というものは日本文だと考えるようになったと推察できないでしょうか︒そういう︱つの国語史的問題が採上げられます︒ところが国語学の方では︑あまり片仮名か平仮名かを気にしないのでしょうか︒そんなことは一向論じておりませんようです︒江戸時代になってこれをなにがしか読み物風に出版するようになり︑平仮名になりました︵当時の書籍目録にほ︑平仮名の方をわざわざ﹁
仮名
﹂と
こと
わっ
てあ
る︶
︒
鈴木正一ーーという人が仮名草子の一っ﹃因果物語﹄ー
│
l悪いことをす
ると悪いたたりがくるといった仏教的︑勧善懲悪的思想のはっきり
した本ですが︑これを片仮名まじりで著述出版しました︒それを同
じ坊さんですが浅井了意は平仮名まじりに改めて再出版しました︒
この片仮名本と平仮名本の比較研究をした方は︑正一︱一の片仮名本は
きびしく仏教的な匂いが高い︒しかし︑了意の方は娯楽的読み物に
なっていると報告されました︵坂巻甲太氏﹁了意怪異小説議論︵そ
の二︶﹂ー﹃就実語文﹄創刊号所収︶︒浅井了意のようにたくさんの
仮名草子をつくった人は︑娯楽性を加えて⁝⁝平仮名まじりにした
のです︒この論文ほ︑私の言う片仮名本平仮名本の区別を意識した
上ではなくて︑内容検討の結果であるだけに︑私の説には有難い資
料となります︒ 仏教説話集の﹃沙石集﹄も︑もとほ片仮名まじりでありましたが︑
もっと申しましょう︒心学を始めた石田梅巌が一番初めに出版し
た﹃都郷問答﹄は片仮名です︒これは儒学思想の本であり︑心学の
その面の指導書ですから片仮名で出したのです︒ところが後に出し
た﹃斉家論﹄は平仮名です︒心学は当面庶民に対する教えである︒
とすると初めに出したような片仮名では庶民がついてこない︒むし
ろ︑今度は平仮名で書こう⁝⁝︒このようにして石田梅巌の頭の中
で︑心学についての方針が決まった段階で﹃斉家論﹄が平仮名にな
ったんだろうと思います︒
もっともっとはっきりした例を申しましょう︒伊藤東涯は大学者
であり漢文の名手です︒彼は儒学や制度に関するものを書くときは
漢文またほ片仮名まじりです︒ところが﹃郷魯大旨﹄︵都魯ほ孔孟
のこと︶と﹃訓幼字義﹄という本は平仮名まじりで書いてありま
す︒この一一部は彼のお父さんの伊藤仁斎の学問の根本説を最もわか
りやすく伝えたものであります︒東涯が︑何とか自分の父の始めた
新しい儒学︑これを一般の人にも知ってもらいたいと思って著わし
たの
が︑
それがこの1一部の本ではないかと思うのです︒
仮名まじりの文章は大変よくできていると︑当時の識者が評したも これら平
のです︒さっきお話しのあった雨森芳洲︑彼は平仮名まじりで﹃た
ほれぐさ﹄なる随筆を著述した時︑東涯に﹁自分の書いたものを校
訂批評してくれ﹂と頼んだ︒そういう手紙が残っております︒なぜ
﹃鄭魯大旨﹄と﹃訓幼字義﹄や﹃斉家論﹄などが平仮名まじりで書
かれたかを考えないと︑思想史研究でも︑ちょっと正鵠をはずす懸 休題といたしまして話を本筋に戻します︒ もっと極端な例を申しましょう︒新井白石です︒白石は漢文も勿論たくみですが『読史余論』は片仮名まじり‘|—'歴史論ですから片仮名で書いてあります︒前述しましたが歴史は元来漢文で書くものですから︑その論も片仮名で書いてある︒ところが実際の歴史である﹃藩翰譜﹄は︑乎仮名まじりですし︑一種の自伝である︑﹃折た<柴の記﹄も平仮名です︒﹃折た<柴の記﹄は子孫に読ますもので︑子孫には子供もあれば女性もある︒というので平仮名で書いたわけです︒しかるに幕府にも関係深い諸藩主の家の歴史である﹃藩翰譜﹄をなぜ平仮名で書いたのか︒これは将軍や大名を子供あっかいにしたのではなくて︑将軍さんでも大名でも︑これは子供の時からよく読んでおいてくださいよ⁝⁝という意味であろうと思うのです︒そういうことがわかれば︑
まあ私は︑このごろの︑何でも平仮名にしたらいい⁝⁝という教
育方針や出版方針には︑若干公けの憤りを感じておりますので︑ち
ょっといらないことを申し上げたわけでございます︵笑)││閑話
さて︑白話小説ー当面に於ては通俗物を︑研究するという段取
ですが︑通俗物を読むのは何でもありません︒藩校で子弟に専ら読
ませたものですから︑よくわかる文章です︒しかし︑原本の白話小
説が読めないと︑これは研究にも何もなりません︒私は全くといっ る
のじ
ゃな
いか
︒
﹃藩翰譜﹄の性質が自らわかってく 念があるのではないでしょうか…•••O
八
︵ 笑 ︶
てよいが白話文ほ読めません︒白話を十分に読めずに︑わずかに漠
文の知識だけであて推量で白話文を読むことを︑江戸時代の人は
﹁推量俗語﹂と言っております︒白話のことをまた﹁俗語﹂と称し
﹁白話小説﹂を﹁俗語小説﹂とも言います︒一種の悪口ですが︑私は
その推量俗語の雄なるものでありまして︑偉そうに﹁通俗物云々﹂
などと言えたものではありません︒ですから︑今日あるいはこの席
にもおいでかもわかりませんが︑中国の小説類のご専門の方から︑「中村ごときが何を言うか、抱腹絶倒である」•…••と言われれば、
まさにそのとおりで︑初めから白状をしておきます︒
そんな私が白話の辞書が出るだろう⁝⁝という耳寄りな話を聞き
ましたのほもう何十年も前であります︒この関西大学へおいでにな
るというのでお待ちしておりましたが︑不幸にして病気でなくなっ
た鳥居久靖さん︵当時は天理大学においででした︶が︑私にそうい
う話をしてくれたことがあります︒大いに期待し︑心待ちにしてお
りましたが︑鳥居さんもなくなり︑白話の辞書が出たこともまだ聞
きません︒となりますと︑今もってなおさら読めないままでありま
す︒しかし︑江戸時代には多い白話小説を自分の作品に取り入れて
たとえば滝沢馬琴とか上田秋成とかはその種翻案した作品の場合︑
の作品を残しているのですが︑その翻案の作品を研究する時には︑
たとえ白話文は読めなくても︑これは自分自身をも︑若い方々をも
叱咤激励するために︑﹁なあにかまうことはない︑上田秋成だって
滝沢馬琴だってわれわれと五十歩百歩︑推量俗語なんだ︒だからそ
通 俗 物 雑 談
んなこと推量俗語で十分だ」•…••などと言って、翻案の場合ほ研究
してきたのであります︒
なぜそんなことを言うかの理由として︑こんな話も付け加えまし
た︒私が学生のころ︑菊地寛が京都大学に来て講演したことがあり
ます︒彼は京都大学の英文科の卒業生だったと思いますが︑そのと
き彼はえらそうに﹁私より先輩の人々が︑ロシャ文学を読んでそ
の影響を受けたなどと言っているが︑彼らはロシャ語などちっとも
いう
より
か︑
まし
たが
︑
九
ロシャ文学の英訳なん
てのは一番読み易くって︑あんなものほだれでも読めるのだ﹂⁝⁝
と話した︒これはまあ推量ロシャ語以下でも影響ほ受けられる︒
推墓でまずあたれ︒かまわないだろう︒大変あらっぽい話でありま
けにはまいらない︒で︑関心ほ持ちながらも︑長いこと何もしない
で︑ただ通俗物を読んだり︑翻案の出典考のために危うげな⁝⁝と
ほとんどわからない白話小説を読んで来たのでありま
す︒その間に戦争もあり︑それも止みました︒日中国交回復となり
一向この方面の研究が今もって現われてまいりません︒
ことこれとは逆に︑明治以後の西洋文学の翻訳の研究は︑国文学者
の方からも努力されましたし︑それぞれの外国文学専攻の方々も努
力をしてくださって︑大変進みました︒それに較べると近世文学の
翻訳物はどうなのか⁝⁝と考えますと︑大変残念なのであります︒ さて翻訳即ち通俗物の研究となりますと︑これはそんな粗雑なわ す ︒ 知
らな
いん
だ︑
みんな英語で読んでいる︒
けでございます︒
しか
し︑
お話しさせていた
処が
︑
これで引き下るわけにはまい
わか
りま
せん
︒
これだけ申し上げ︑お願いしましたら︑私の本日の目的は終わっ 実は︑ここで白話の辞書がないなれば︑私自身が白話の辞書をこしらえ︑それで白話小説に立ち向かう⁝⁝というぐらいの勇気がないといけないのですけれども︑もう私は七十一歳︑まさに日暮れて道遠しの感なのであります︒本日のこの会で話をするようにと言われましたとき︑多分こういう会でこの題を出しておくと︑日本文学を
なさる方でも中国の翻訳小説に興味を持たれる方がおいでになるし︑
中国文学をおやりの方でも︑日本での中国小説の翻訳に関心を持た
れる方がおいでになる︒若い方々もおいでになるのであるならば︑
何とかこの﹁通俗物を研究していただきたい﹂と︒こう思い︑それ
を実はお願いするためにここに立った次第であります︒
たことになります︒︵大笑︶
りませんので︑推量俗語ながら︑読みましたところのことを︑時間
のある限りー│何か浪花節のようですが︵笑︶︑
だきます︒そこのところが︑失礼ながら﹁雑談﹂と演題を付けたわ
さて︑何にしましても﹁通俗物﹂ということですから﹃通俗三国
志﹄│ー最初の通俗物から始めるのが順当でしょう︒この本の訳者
は原本のどこにも書いてありません。ところが幸いに享保期—|'こ
の時期には日本で唐話︑即ち白話や白話文学への関心が非常に高ま
ったのですが︑当時唐話の天才と言われながら早くなくなった︑京
都の数学者の坊ちゃんで田中大観という人がありました︒この人の
によ
り︑
﹁ 羅
﹃大観随筆﹄の中にこんなことが書いてあります︒天龍寺の地蔵院
の某という長老の下に轍蔵王というお坊さんがいた︒字はわからな
いが名前は義轍︑この人が﹃三国志通俗演義﹄を訳しかけた︒とこ
ろが義轍がその途中でなくなり︑この人の弟でこれ又月堂という坊
さん1この人は月堂という通称はわかるが︑名前はわからない︒
この人が受け継いで完成した︒今日﹃通俗三国志﹄の版本を見ても︑
その中に月堂みずからが書いた版下で彫ったものがかなりあると伝
えられている︒こう言うので五十冊の版下を見たのです︒これも︑
一手
か
1一手ならばすぐ判別出来るが︑何手もあるようです︒多いの
は少し大柄の字︑それと少し小さい︑非常にキチッとした字の二通
りで︑どちらかが月堂の字かと思われるのです︑そのところも一っ
﹃通俗三国志﹄に﹁元禄已巳︵二年︶孟夏﹂序文を書いた人は「湖南文山」|—これを湖南文山と読んでこれで人名とする方
もありますが︑﹁湖南ノ﹂と版面にあるから湖南は琵琶湖の南の意
味でこの人の出身地︑その文山という人の押印を見ると幸甫と読めて、——文山幸甫という人らしいのです。どうやら天龍寺か何処か
の坊さんらしいが︑それ以上は今わからない︒この人が序の中で自
分は羅貫中︵名﹁本﹂︶の本︵明版の﹃三国志通俗演義﹄には
れで
すと
︑
それに陳寿の
本 貫 中 撰
﹂ と し た も の が あ る
︶
﹃ 三 国 志
﹄
︵正史︶を参考に﹃三国志﹄を講釈した︒このようにあります︒そ
﹃大観随筆﹄の記事と合せればこの文山と月堂が同一人
10
人でして︑この方が﹁ちょっと来て見ないか﹂⁝⁝と誘ってくださ
った︒そこでその文庫を見て行くと︑対馬の人古藤文庵なる人の著
述で﹃閑窓独言﹄という随筆が出てきました︒この本は︑
前︑鈴木棠三氏によって雨森文庫のとは別の本で複製されたので︑
今ほ直に見ることができるようになりました︒
この本にこんなことが書いてあります︒﹁西川嘉長という人は京
都の飾屋であった︒名前は長兵衛というが︑この人は大変細工が上
手で︑長く対馬に逗留した︒ちょうどその頃︑日本と朝鮮の国交の
衝に当たる役所の以酎庵に五山︵南禅寺は別︶の僧侶が輪番で勤め
ていた︒その輪番の和尚さんの中に辰長老であったか郁長老であっ
たか︑どっちかは分からないが︑﹃三国志﹄の講釈をした︒その時
この西川嘉長がそれを聞き︑京都へ帰って後⁝⁝天龍寺とは書いて
ないですが︑﹃通俗三国志﹄を出したときにこの人が援助をした︒
こう書いてあるのです︒そこで︑前の文山の序文を見ると︑それが
明記されていまして︑﹁洛沌の嘉長翁は︑仏教界と俗界に別れては
いるが︑わが方外の友であって︑この本を出すように私にすすめて
通 俗 物 雑 談
問のままにして置きたいと思います︒
つい数年 まあ︑以上のことは以前からわかっておりました︒しかし︑資料
が出てくるのは不思議なものです︒次のようなものが出てきました︒
さっきお話した雨森芳洲の雨森文庫︑これは戦前に滋賀県立図書館
に預けられていました︒そこの館長は私が以前から存じ上げている
いで
すね
︒
物⁝⁝ということになりそうなのです︒しかし︑そこの処はまだ疑
﹃通俗三国志﹄を翻刻し︑出版した基になったのは︑ くれた﹂と︒ですからこの﹃独言﹄の記事は間違いないと思ってよ
このように二つの随筆で︑訳した人も出てくるし︑出版に金を出
した人もわかるし︑その原因になったのが辰長老とか郁長老の購釈
だということもわかって来ました︒そこで以酌庵の代々︵上村観光
著﹃禅林文芸史諏﹄による︶を捜していくと︑辰長老とか郁長老に
該当する人も出て来ます︒辰長老に該当する人は東福寺のお坊さん
で︑南宗祖辰という人です︒延宝元年六月に輪番の主任をして対馬
へ来ています︒郁長老の方は天龍寺のお坊さんで︑文礼周郁という
人で︑元禄九年四月に主任になっています︒﹃通俗三国志﹄の出版
ほ元禄五年です︒だから郁長老の方ははずれることになりますが︑
輪番は一回ではないと思います︒この人たちが以酎庵の長になった
のがその年で︑それより前から行っておったかもわかりません︒あ
るいは⁝・・話が天龍寺の人である方が自然で︑東福寺の祖辰が少し
気になりますので︑天龍寺の人で﹁シン﹂という名前のお坊さんが
いないか調べると︑延宝七年四月に天龍寺の人で蘭室玄森という
﹁辰﹂︵シン︶と同音の﹁森﹂と書く人が以酌庵の主任となってお
りま
す︒
こう
する
と︑
天龍寺ないし以酎庵にいた五山の坊さんたち︒その基盤の上にでき
た﹃通俗三国志﹄だということになります︒五山の僧達ほ足利将軍
時代から明との外交の衝に当たっています︒中でも有名なのほ天龍
つ
寺船です︵天龍寺には天文年間二度も北京に使した策彦周良があり︑
更にさかのぼれば︑五山版に関係した中国刻エ達も天龍寺とは関係
が深かった︶︒そういう船まで出たほどですから︑五山│ー特に天
龍寺には俗語をよくし︑白話文の読める人︑ないしは俗語に対する
関心の高かった人々がいたと思われます︒
実は私大変ぼんやりしていて︑失敗したことがあるのです︒いま
の日光東照宮に﹁天海蔵﹂という南禅寺の天海僧正の持っていた本
があり︑その中に白話小説がたくさんある︒その﹃日光山文庫書籍
目録﹄なる古い写本を見た時のことです︒今問題の﹃三国志﹄は勿
論︑白話小説類︑﹃西遊記﹄や﹃金瓶梅﹄まで見えます︒﹃西遊記﹄
ほ仏教の本だと言えば仏教の本だからいいとしても︑天海僧正が
﹃金瓶梅﹄を読んでいたとは何ごとか⁝⁝と思ったりしたのです︒
しかし︑これは全く私の早とちりでして︑天海僧正も南禅寺の僧で
ある以上︑白話や中国白話文学に関心があり︑中国の小説を買い求
め集めていた︒その中にたまたま﹃金瓶梅﹄があったと解釈するの
が順当であったのです︒こう思って早とちりを恥じた次第です︒
それはともかく︑中世以来の俗語研究︑これが一番初めの通俗物
を生み出す基礎になった︒こう考えて見てはどうでしょうか︒と申
しても︑まだ調査すべきことが沢山あって︑威勢はあまりよくない
のですが︑このような考えからすると︑従来言われて来た考え︑
まり通俗物︑あるいは唐話︑白話に関する日本での関心は︑宇治の
黄栗山万福寺︵万治1一年創建︶に中国僧が来たことや︑長崎の通詞 ︵岡島冠山など︶が京都や江戸に出︑当時の白話︑唐話の必要を説いたことに始まる︒かかる説が定説になっているようだけれども︑それは訂正すべきで︑そのもとは中世以来の五山の僧侶たちの中に謳醸していたものがその前にあったと︑このように考えるべきではな
かろ
うか
︒
そうしますとこれからいろいろの問題が派出されてまいります︒
木下順庵ーー彼がどのくらい唐音ができたかわかりませんが︑弟子
の雨森芳洲に﹁これからおまえたちが漢文をやるのなら︑現代の中
国語についての知識を持たなければならない﹂と教えたそうですが︑
順庵が︑晩年は知らず︑黄乗僧にどれ程接し得たか︑多くはなかろ
うと思う︒また林羅山が慶長九年﹁自分がいままでどれほどの本を
読んだか﹂と列記したその中に﹃三国志通俗演義﹄が入っている︒
もし羅山が推量俗語で読んだのでないとすると︑五山の僧侶達にで
も教わらないと読めなかったことになります︒
また︑木下順庵にすすめられた雨森芳洲ですが︑彼は対馬藩の外
交の衝に当たるために対馬藩に行きますが︑一年間︑長崎で唐通事
に唐話を学びます︒初め彼は朝鮮語でなく唐話で朝鮮人と応待した
のです︒後に彼は﹁あなたは中国語も日本語も朝鮮語もできるが︑
一番上手なのほ中国語だ﹂と朝鮮人に誉められたそうです︒けれど
も一年間では、それ以前に下地がなくてほ•…••いかに秀オであった
としてもむつかしい︒その前に︑彼は京都にいたこともある︒どこ
かで唐話をやっていたのではないか︒また白話小説の訓訳本をいく
つか出版している岡白駒が︑どこで白話を学んだか︒これほいまも
ってわかりません︒しかし︑五山にそういう流れがあったとすれば︑
岡白駒は京都に長くいた人ですから︑その師はこの系統の唐音学者
であったかもわからない︒順庵や芳洲の場合も同じです︒これらは
えば
︑
これから研究しなければならないことですが︑その見当で立ちむか
いろいろのことがわかってくるのではないかと思います︒
これが雑談の第一ですが︑残念ながらその﹃通俗一1一
国志
﹄が
どの
本を使って翻訳したのか︒その底本はわかりかねます︒これには私
もだいぶ苦労し︑いろいろな本と突き合わしたのですが︑わかりま
清初の本ですが︑そっくりのものはまだ出てきません︒翻訳本の初
めに﹁通俗三国志姓氏﹂として︑漢にはどういう人がおる︑魏には
どういう人がおると︑三国からの登場人物の一覧表がある︒ここの
処が原本を選べば康治本︵康治年間の序文がある︶と大体似てい
ます︒ところがこの康治本にほ訳本の末に付した﹁通俗︱︱一国志或
問﹂ー﹁この三国志を読むにほどういう心得でよいか﹂を書いた
ものですが︑これがない︒しかるに李卓吾の批評した﹃三国志﹄に
は﹁読三国志答問﹂があるのです︒だから康治本と李卓吾の批評本
とを合わせたような本があれば﹁それだ﹂ということになります︒
不幸にして私はまだそういう本に出会っておりません︒もしかする
と︱つの本を訳すのに二通の原本を見たのかもわからないのです︒
これもおもしろい⁝⁝参考になるから合せておこうなどと︱つの本
通 俗 物 雑 談
せん︒むろん︑金聖歎の評の本ではありません︒それより前の明末 でなく︑何部もの本を合せて見てこの訳が出来たのか︒こうしたことも問題になり︑今後の精査に待たなければならないところです︒
﹃通
俗一
1一国志﹄の話の次には﹃通俗忠義水滸伝﹄も大立者だけに︑
ふれないわけには参りますまい︒この本は原本に﹁冠山岡島瑛玉成
先生訳編﹂とありまして︑岡島冠山の訳だとなっています︒ただし
﹃典籍作者便覧﹄といった当時の出版の事情通の本には︑岡島冠山
が訳したのは初編だけーー土孟暦七年に初編が出て︑
後に
二編
・︱
︱︱
編・拾遣⁝⁝と︑安永元年・天明四年・寛政1
一年
と出
るわ
けで
すが
︑
初編だけが岡島冠山の訳だと書いてあります︒しかし︑広島大学の
白木直也先生の﹁通俗忠義水滸伝の編訳ほだれか﹂という詳細な論
文によりますと︑これは大変誤訳が多い︒前に述べました冠山のこ
しらえたという訓訳本とさえ違うところがあると言っておられます︒
﹁冠山﹂という名を持ってきたのほ本屋のさかしらで︑全
<冠山は関係しなかったのではなかろうかと︑白木先生は推定され
ます︒岡島冠山が没したのほ享保十三年︒この本の出た宝暦七年ま
でに
1一十九年の間がたっています︒あれほど大部なものの原稿が一
1 1
十年もそのまま埋まっていた可能性は乏しい︒すれば︑白木説に従
わざるを得ないわけです︒多少考慮しまして︑この本をこしらえる
ときに冠山のものと言う訓訳本を参考にした︒そのためにも︑また
冠山の名は唐話界では有名であるし︑﹁岡島冠山の名前を拝借して
おく方がよかろう﹂⁝⁝とその名を用いた︒こう善意からは考えら
れます︒それにしたとて本屋のさかしらであることに間違いはない︒ だ
から
︑
本のどこを見ても﹁冠山﹂とは書いてありません︒本に﹁冠山﹂と 事が通俗物界に目ぽしいものがなくなってしまいます︒
﹃通
俗
﹃通俗忠義水滸伝﹄を岡島冠山の著述でないとすると︑岡島冠山
の通俗本は︑さっきにもふれました﹃通俗元明軍談﹄
とになります︒この本は篠崎東海の言うとおりの本です︒いわゆる
﹃通俗二十一史﹄のなかに埋没してしまって︑世間的には︑
忠義水滸伝﹄の如くでは勿論なく︑有名ではありません︒あれほど
有名な︑江戸における荻生祖裸門の薩園の訳社ーー'中国語を研究す
る会︑その稜園訳社の師と言われた冠山︑その唐話学の大看板の仕
それではあまり気の毒なので︵笑︶岡島冠山と白話小説というこ
とで︑ちょっと話をしてみることにいたします︒とすればまず江戸
時代から注目され︑影響も大きい訓訳本の﹃忠義水滸伝﹄を採上げ
ることになりましよう︒この本は彼がなくなった年の享保十一︱一年一
月十五日︵望日︶に林九兵衛という京都の本屋から出版されました︒
その年の正月二日に冠山はなくなっているのです︒ところが︑この
ないわけですから︑翌享保十四年に京都から出版された﹃書籍目
録﹄にも﹃忠義水滸伝﹄の訓訳者は記してありません︒その隣に
﹃元明軍談﹄があるのですが︑これにはほっきり﹁岡島円之﹂︵冠山
の字﹁援之﹂の誤り︶と記してある︒だから︑訓訳本の著者として
の冠山についてもはっきりした証拠は出てこないのです︒
ただし﹃通俗元明軍談﹄の宝永二年の序文を見ますと林義端九成
即ち林九兵衛のものですが︑この人は正徳元年になくなったので︑ 一っというこ ﹃忠義水滸伝﹄の訓訳本を出した林九兵衛はこの人の子供︑次の代となります︒この先代の方は伊藤仁斎の弟子でして︑名は義端︑本屋の名前は文会堂で︑林文会堂として儒者と見なされた人です︒彼のその序文中には︑岡島冠山を紹介し︑冠山はつい最近京都に来たこと︒そして﹁去年の秋から彼が﹃英烈伝﹄と﹃水滸伝﹄の二つを翻訳して出したいと思っていた﹂と述べている︒このように述べていまここに﹃英烈伝﹄の方を出す⁝⁝と書いています︒ですから︑﹃水滸伝﹄をも訳出する気が冠山にあったことは確かであります︒何やら岡島冠山には申訳ないことばかり述べるようなので︑ちょっとほかのことを申します︒この序の中にはこんなことも出てきま
﹁彼︵冠山︶はすでに﹃通紀﹄を印刷出版した︒
また﹃英烈伝﹄を印刷する﹂と︒
れて
いま
す︒
いまここに
﹃通紀﹄は﹃皇明通紀﹄十三巻首
一巻のことで︑これは同じ林九兵衛のところから元禄九年に出版さ
つまり﹃皇明通紀﹄は岡島冠山の訓点校正での出刊で︑
彼の著述目録に加えるべきものです︒かかる本の訓点を付ける︑ま
た﹃英烈伝﹄︑更に大きな﹃水滸伝﹄の訳を計画するほど︑彼は長
崎通詞の職を離れて京都にくる⁝⁝あるいは京都にこようと一念発
企した時分には︑大いになすあらんと雄志にもえて︑勉強しておっ
たことがわかります︒
先の﹃忠義水滸伝﹄も岡島冠山の名前はないのですが︑この﹃皇
明通紀﹄のどこを見ても岡島冠山の名前ほ見えません︒しかし︑当
時の京都に︑芥川丹丘なる儒者がいました︒この人は白話のよくで し
た︒
一 四
うに述べてあります︒
句読点を付けたものが出ている︒けれどもこれにはまま誤訳がある︒
いま自分のこの﹁解﹂ではそれを正す︒何も自分は先輩の痕を求め
るものではないけれど︑一般の人の便利のためにする﹂と︒そうし
て︑かなりの誤訳が指摘されています︒ 思
いま
す︒
通 俗 物 雑 談
﹁忠義水滸伝は一回から十回まで岡島冠山の きた人ですが︑白話文でない普通の.漠籍にも︑色々と本屋に頼まれて訓点を付けたと言うことです︒にもかかわらず︑﹁丹丘校﹂などと記した本はそう沢山は目につきません︒だから︑そのころは訓点者の名前を現わさなかったこともあると考えれば︑刊本に名前のないことが︑必ずしも﹁岡島冠山著でない﹂という証拠にならないと
そこで岡島冠山の著であると証明するのは誰か⁝⁝というに︑こ
れが不思議なことに︑彼から後に出て︑この訓点本を甚しく悪しざ
まに評する後輩たちだったという次第です︒まあ︑大体において︑
啓蒙家というものは気の毒な人達です︒あまり皆が知らないときに
﹁自分にはわかった︒だから︑少しでもいい︑皆さんにわかるよう
に﹂⁝⁝なんてやったのに︑後から出てきた連衆が︑その頃になる
とよく出来る様になったものだから﹁ここは間違うている﹂︑﹁あそこも間違うている」…•••なんて言う。これは啓蒙家の運命だと思わ
なければなりません︒ともかく岡島冠山の著であることを証明する
のは後輩たちでありました︒
伊藤東涯の弟子の陶山南濤︑この人の﹃忠義水滸伝解﹄に次のよ
一 五
冠山の訳にしよう︒もう一っ南濤の発言がある︒.
﹁冠
山
南濤もおもしろい人ですが︑本日はあまり触れずにおきますけれ
ど︑黄榮僧大通︵長崎通事の家の出身︶がこの人達の唐音の先生で
す︒彼は先ほどの田中大観達と一緒に中国語を学び︑日常もこれで
会話を試みたという︒何か﹃当世書生気質﹄に出て来る書生達のよ
うな感じですが︑
って
おり
ます
︒
かなりできたのでしょう︒この人がそのように言
それからもう一っ︒岡白駒の水滸伝の単語帳に﹃水滸訳解﹄とい
う本があり︑それを京都の本屋風月の主人である沢田一斎が自ら写
しましたものが大東急記念文庫に残っています︒一斎もここで冠山
の悪口を言っている︒ある単語の解釈の間違いを指摘して︑
訳杜撰甚突﹂と書いてある︒
陶山南溝は伊藤東涯︵古義堂︶門ですから︑林九兵衛の家とは親
しいはず︑林家から事情の聞けた人であり︑沢田一斎ほ本屋で︑し
かも京都の同業者︒ですから彼等が冠山の訓訳本であるとすれば︑
これらの人達が︑訓訳本を冠山の仕事と言う以上は︑間違いない︒
﹁俗語︵白話︶は昔の漠語の意味から転じていまの意味になった︒
だからして︑元来の意味を十分知らず︑いまの俗語だけで理解する
と間違いが起こる︒大体︑俗語を学ぶとぎには︑現代の華音に通じ
なければいけない︒そのためには小説の書物につくのが一番よいの
は当然ながら︑総体に俗語だけでなく︑漠文漢語の文学及び訓貼に
広く通じておらないと︑これまた十分に俗語を解釈することがで
きない︒岡島援之冠山の俗語は︑華音のところだけはよいけれど︑不学—ー学問がないから無理が多い。ただし、学問があるからとい
って︑華音を知らず︑力押しにしたところでわかるものではない﹂
ーこう言っております︒彼の先生の東涯は小学︑即ち文字文法の
書を沢山に出版し︑﹃名物六帖﹄という俗語の辞書をもこしらえた︒
どうも東涯先生の言いそうなことを南濤が言っております︒そして
その説はそのとおり肯定すぺきでありましょう︒
私は︑冠山が﹃皇明通紀﹄の訓点本を出しなどして︑その時は学
問をしようという気があったのだろうと想像しましたが︑冠山はま
た﹃太平記演義﹄という﹃太平記﹄を白話訳した本を出版︵享保四
年︶しています︒これは﹃太平記﹄の一部分を漠文訳でなく︑俗語
訳したものです︒ところがこの訳が実に出来がよくない︒漢語の訳
が悪い︑即ち漢作文力が余りないのはだれが見てもわかると思いま
すが︑俗語の訳が︑どうも私が見ても気の毒なほどなのです︒岡目
八目で︑私の目もその八目なのですが︑これは困ったものだと思い
ました︒実は後に紹介したい人がもう一人あるのですが︑その人西
田維則とか沢田一斎などの作った白話文と較ぺると︑この﹃太平記
演義﹄の文章は出来が悪いのです︒︵弁護すれば︑この本は﹁岡島
援之編集﹂とあって︑何人かの人が訳したものを集めたのかとも思
われるが︑それでも不出来のままで出した編集の責任は問われよ
う︒︶冠山は会話の達人︑普通に言う語学は出来たのでしようけれ
ども︑漢文力作文力は少なかったと見てよいでしょう︒そう言えば 冠山のしゃきっとした漢文を見た記憶もありません︒
岡島冠山で評判のよい中国語の入門書は︑﹃唐話纂要﹄﹃唐話便
用﹄﹃唐音雅俗語類﹄﹃唐訳便覧﹄などたくさん出ております︒こ
れは全部会話の本と言ってよろしい︒むろん﹁唐音には会話の本か
ら入るのが大変よい﹂と篠崎東海が述べていますが︑東海と冠山ほ︑
云わば同じ荻生祖裸門で︑先の話ではありませんが︑仲間ぼめのと
ころがあります︒この種の会話の本はそれとして必要ですが︑山の
ように積んだって︑本当の語学の研究へほ進まないでしょう︒これ
はここに語学の専門家がたくさんおられるので︑おわかりいただけ
︑︑
︑
ると思います︒これからすれば彼のものほ︑唐話学というところま
で行ってなかったのではないか︒この人の性格は1これは雨森芳
洲の
咄︵
﹃橘
窓茶
話﹄
︶
﹃肉
蒲団
﹄
ですが︑冠山は﹁私の唐話学っていうのは
︵これは行儀の悪い本ですが︶これ一本から来る﹂と言
ったとね︒その言や大変痛快は痛快ですが︑軽薄は軽薄です︒どう
せ酒の席での話だったのでしょう︒ただし︑雨森芳洲はすぐに感激
するたちだから︑それを書き入れたのでしょう︵笑︶︒
岡島冠山は︑初めは京都から江戸の中央へ進出して大いに漢学唐
話学をやって名をなそうと志したのですが︑私の想像するところで
は︑薩園訳社の師と︑初めに有名になったのが彼を禍いし︑会話集
ばっかり書いて終わってしまったのではないか︑大変同情すべき人
ではないか︒そうすると︑﹁通俗物﹂とか唐話学における岡島冠山の功績位置~日まではこれを高く評価するのですけれど、勿論、
一 六
生 ︑
通松店物雑1談
﹁ 鬼 ﹂
出の沢田一斎の作で﹁友人姓西田氏︑名は維則︑字は子孝︑淡海之
の人︑口木子とはその鬼名なり﹂と書いてあります︒
名﹂の意味がわからないのですが︑
に
. は
これが雑談の第二です︒
第一
ー一
番目
にま
いり
ます
︒悪
い処
ばっ
かり
申す
様で
︑
私には
﹁ふざける﹂の意
﹁ 鬼
唐音流行の口火を開き︑広く世人に関心を持たせた功は覆うべくも
ないが︑内容的にはあまり高く評価する必要はないのではないか︒
よい事を申さ
ないのも如何なものですから︑も少し注意すべき人物を一人紹介い
たします︒西田維則という人がありまして︑この人の素姓経歴につ
いては︑今全くわかりません︒ただ近江の国の人で京住いだったこ
とは確かです︒ヶ近江贅世子クと号して本を書いています︒彼の通
俗物﹃通俗赤縄奇縁﹄には﹁近江贅世子訳﹂と最後に書いてあり︑
大阪の本屋仲間の﹃開板御願書控﹄のこの書の処には︑作者を﹁京
都﹂の﹁西田維則﹂と書いてあります︒そういう小さなわかる事をま
とめますと︑﹃近代著述目録続編﹄という幕末に出た本に﹁西田維
則︑名は維則︑称は幸安︑著述﹃通俗赤縄奇縁﹄﹃通俗金魃伝﹄﹃雑
纂訳解﹄﹂とあって通称﹁幸安﹂などとわかります︒しかし﹁幸安﹂
も﹃典籍作者便覧﹄では﹁幸庵﹂となっています︒どちらが正しい
のかわかりません︒
またこの人達の師である岡白駒の書いた漢文の笑話集﹃巷談奇
叢﹄の編集をしていまして︑その冒頭に﹁龍洲︵白駒の別号︶岡先
口木子輯﹂と署名してあります︒そして跛ほ渓疑斎主人こと前
七
味がありますから︑
﹁口﹂と﹁木﹂で﹁呆﹂︵ポウ︶ー﹁呆子﹂は﹁ぼけ﹂の意味で︑
﹁ふざけた名前﹂⁝⁝といったことだろうと思います︒
これだけわかったところで彼の著述がどれだけあるかを見ますと`
﹃通俗隋燭帝外史﹄︵宝暦十年︶1白話小説﹃通俗演義隋燭帝艶
史﹄の訳です︒それから宝暦十一年の﹃通俗赤縄奇縁﹄で︑これほ
﹃今古奇観﹄とか﹃醒世恒言﹄などの白話短編集に入っている﹁売
油郎独占花魁﹂と題した︑油売りが有名な遊女を妻にする一編の訳
です︒それから﹃通俗金闊伝﹄︵宝暦十一一一年︶が出ています︒これ
は金聖歎の﹃金雲魃伝﹄の訳です︒また︑
かれば﹃通俗西遊記初編﹄は﹁口木山人訳﹂となっていますから︑
これを宝暦八年に訳出︑出版したのが彼︒大体の白話文の訳業は︑
この
通り
です
︒
彼のこの種の本を読む:・⁝といっても原本と対照しなければ研究
にはなりませんので︑私も少しく対照もいたしました︒﹃赤縄奇縁﹄
で申しますと︑﹃今古奇観﹄なども小さい処に違いのある本が色々
あって︑﹁これだ﹂という底本が見当たらないのです︒その上︑﹁こ
れらしい﹂⁝⁝というのがあっても︑訳本のところどころに﹁長々
と訳すと話の筋にほうるさい⁝⁝﹂と思ってか︑略した処がまま存
したりして︑対照ほむつかしい︒この人も﹃今古奇観﹄その一本だ
け見て翻訳したのではなくて︑幾つもの本を対校した上で底本をつ
くり︑それにより翻訳したのではないかという気がします︒上田秋 口木子が西田維則だとわ ふざけた名前のことでしようか︒というのほ
成の﹃雨月物語﹄に利用した白話小説の本文は数本を対校したもの
であったことは考証されている︒それは秋成の手元でやったのでは
なく︑恐らく彼の師都賀庭鐘のところで行ったものを使用したと私
は想像しています︒当時︑興味を持った人達は対校などの丁寧なこ
とをやっていますから︑維則も亦あるいは諸本対校の底本を作って
いたのかも知れません︒ともかく︑そっくり合った部分を検討すると、原本と訳本を合わせて見ると、大変丁寧—ー今'日で言うと逐語
訳を
して
︑
一語一語が合うように記し︑少しも略してない︒そうい
う部分もあります︒それに︑向うが俗語だから訳語にも日本の俗語
を選んであって︑日本の当時の小説に出てくるような言葉が︑俗語
の訳として多く目につきます︒そしてその訳が︑当を得ているので
はないかと思います︒非常に正確なのでは⁝
. .
と︑私の推量俗語の
目からは思われるのであります︒
それではそれを試す方法はないか⁝⁝と一案を案じました︒先ほ
ど申しました﹁売油郎独占花魁﹂なる一篇は︑ずっと後に佐羽淡斎
という人が﹃通俗古今奇観﹄の名で幾つかの白話短編小説を翻訳出
版した︑その中にも入っています︒岩波文庫に翻刻のものほ青木正
児先生が校訂し︑淡斎訳の間違った個所には注を付して訂正されて
おります︒そこで両者の訳を対照して見ました︒ただし維則使用の
底本は淡斎の底本とそっくり同じ本ではないようです︒しかし同じ
言葉︑同じ文章も沢山出てくるわけですから︑その処でこの二つの
訳文を較べどちらが正しくよく出来ているか︑青木先生に点をして もらうことにしました︒
そうすると︑ここでは一々例示できませんから︑簡単に数字だけ
申し
ます
︒
﹃通俗古今奇観﹄の方は話は巻四︑巻五にわたっていま
す︒そのうち巻四だけで青木先生の訂正は二十五カ所あり︑そのう
ち七つは維則の訳にありません︒これにはたった一字が問題の処も
あります︒つまり﹁一字を訳してない︑だからこれもいけないのじ
ゃないか﹂と青木先生が改めたものです︒維則の底本になかったか︑
維則は飛ばしてしまったのか︑そこがも一つ明瞭でありません︑そ
んな処が七カ所です︒
それから︑維則の訳が青木先生の訂正と違うのほ︑たった一っし
かないのです︒これは驚きました︒二十五の中で︑七つを除いて問
違いが︱つです︒まあ︑私の見当なんかはご信用いただかなくても︑
青木先生の採点はご信用いただけます︒大変正しい訳と評してよろ
しいでしょう︒それから維則作の幾つかの白話文を収めた写本が残
っております︒この本にほ残念なことに書名が付いていません︒し
かし﹁沢田重淵︵一斎の名︶稿﹂の文字が一カ所見えます︒そこの
文章も︑沢山写本を残している一斎その人の文字ですから︑他筆の
部分のものと共に︑一斎が編集した本かと思って居ります︒そこに
ある維則の文︑また一斎の文章︵一斎にはこの本の外にも白話文のレ
作がある︶を読んでみると︑岡島冠山の﹃太平記演義﹄などと較べ
ものにならないほど白話らしいのです︒白話小説の文章に似ており
ます︒私は外国語の訳の上手な人というものは︑恐らく外国語の文
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