Ⅰ 大学入学まで
―
大学入学までの経歴についてお聞かせくだ さい.
稲垣 1951 年 2 月 20 日に東京都世田谷区上馬で 生まれました.小学校は,昭和女子大学に附属し ている小学校に 3 年生まで通い,4 年生からは港 区立青南小学校に転校しました.青南小学校では 成績が悪くなかったこともあって地理の先生によ くしてもらっていて,自然観察会や化石採取と いった,いまでいうフィールドワークにたびたび 連れていってもらいました.もっとも印象に残っ ているのは水元水郷,現在の葛飾区・水元公園で す.当時は,まったく整備されていない広大な湿 地がひろがっていました.実証的な概念ではあり ませんが,僕にとっての「原風景」はこの水元公 園のような気がします.その先生は自然地理や地 学に近い領域が専門の方で,小学校で教えながら 夜間の大学院に通っていました.教員になってか らも勉強を続ける先生の姿は,僕にとって大変魅 力的に映りましたね.
―中学校についてはいかがでしょうか.
稲垣 中学は立教中学校に進学しました.社会 科の科目が好きで,なかでも 3 年生のときの担 任だった保田孝先生にはかわいがってもらいま した.部活は庭球部に所属していましたが,プレ イヤーとしてよりもマネージャー見習いとして重
宝されていました.他校との交渉や大会の運営な どといった経験は,いま考えると役に立ってはい るんでしょうが,当時としてはなかなか辛いもの があります.試合があると同級生はみんなテニス ウェアを着ているのに,僕だけ学ランですから ね.あと,中学生のときに東京オリンピックがあ りました.厳密には小学生のときからですが,オ リンピックに向けて東京の街が変わっていく光景 が印象に残っています.建物や道路,首都高など が次々とできあがっていく様子をみて,それまで の落ち着いた社会からダイナミックな社会へのう ねりのようなものを感じていました.
―続いて高校時代もお願いします.
稲垣 高校はそのまま立教高校に進みます.高校 には寮があったのですが,寮に入る気は最初から ありませんでした.当時自宅のあった経堂から志 木まで電車で通っていたのですが,通学の時間を 利用してとにかく新書を読みましたね.本屋に いって目についたおもしろそうな本を買ってき て,1 週間でだいたい 2 冊は読んだんじゃないで しょうか.手当たり次第に買っていましたので,
テーマもジャンルもばらばらの体系だった読書で はない,文字どおりの乱読です.いまでも記憶に 残っている読書経験ですが,振り返ってみると,
これを通じていろいろな知識を手に入れていたん だと思います.高校では,好きな科目ばかり勉強 していました.特に好きだったのは地理で,清水 靖夫先生にはお世話になりました.
インタビュー:稲垣勉先生に聞く
Interview with Professor Tsutomu INAGAKI
*聞き手:千 住 一*
SENJU, Hajime
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.18 March 2016
pp. 187-197.*立教大学観光学部・准教授
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.18 March 2016
―大学は社会学部観光学科に進学されますが,
どのような理由で観光学科を選択されたの でしょうか.
稲垣 実は当初は他大学への受験を考えていまし た.先ほどお話しした清水先生から,大学で地理 を専門的に学ぶようすすめられていたのですが,
当時は受験どころではない社会環境でした.実際 に東京大学は入試を実施しませんでした.1969 年のことです.そこで推薦で立教大学に進学する ことにしました.もちろんトップではありません が成績は悪くありませんでしたので,どの学部学 科でも選択できました.当時,立教高校のなかで もっとも推薦成績が高かったのが理学部,人気が あったのは経済学部で社会学部がそれに続いてい ましたが,僕のなかで少なくとも経済学に対する 明確なイメージはありませんでした.法律も肌に あいそうにありません.そうしたなか,社会学部 がおもしろそうかなあという印象がありました.
当時の社会学科はジャーナリズムや職業指導の印 象が強く,産業関係学科に関してはあまりうまく イメージできませんでした.それに対して,旅行 やホテルについても学べるし,レジャーもおもし ろそう,それに自分の持っている知識のなかで理 解できそうだし,ある程度好きなことができて将 来も何とかなりそうだぞ,という理由で観光学科 を選択しました.立教高校から観光学科への推薦 枠は 19 名か 20 名だったと思います.
―観光学科は 1967 年に発足したばかりですが,
当時は立教高校生のなかでどのような学科 として認識されていたのでしょうか.
稲垣 新しい領域というか新しい対象を扱ってい るな,という印象です.高校の同級生にレストラ ンやホテルの子弟が結構いたんですが,かれらも 観光学科へいきたがっていましたし,かれらの親 もそれをすすめていました.当時から立教大学の 観光学科は結構有名で,よく知られていたし,目 立っていたというのは確かです.当時の都市部の 中産階級にとって,観光が生活のなかに定着して いったという時代背景もあるのでしょうが,立教
高校にはいわゆる観光産業の子弟が少なくなかっ たはずです.
―当時の社会における観光の位置という話題 が出ましたが,大学入学までの旅行経験に ついてお聞かせください.
稲垣 小学校低学年のときは,先日亡くなった父 が勤めていた会社の行事で,たびたび潮干狩りや 海水浴にいっていました.父との関連でいうと,
父に何度か羽田空港に連れていかれ,展望台から 飛行機の発着を眺めていました.父は戦時中,戦 闘機のパイロットを目指し,志半ばで医学部に進 学しました.飛行機は好きだったのでしょう.初 めて飛行機に乗ったのは小学校 1 年生か 2 年生の ときで,羽田発の遊覧飛行でした.時間にして 20 分ぐらいの簡単なものです.初めて旅客機に 乗ったのは 5 年生くらいのときで,大阪の親戚を 訪ねるためにひとりで全日空機に搭乗して,東京 と大阪のあいだを往復しました.小学生がひとり で飛行機に乗ることはほとんどない時代で,これ がある意味僕にとって観光の「原体験」だったの かもしれません.これはかなりインパクトがある 出来事でした.飛行機に乗っていけばどこかへい ける,外国だっていけるんだよな,って思いまし たから.
―ほかに印象に残っている経験はありますか.
稲垣 ホテル経験という点では,子供のときです が,これまた父に連れられて帝国ホテルのロビー に座った記憶があります.例のライト館です.ホ テルで初めて食事をしたのは小学校の低学年,新 橋の第一ホテルで中華料理のバイキングでした.
あとは,確か高校 2 年生の夏休みだったかと思う のですが,友人たちと北海道へいきました.学生 同士で旅行にいくことはさほど珍しくない時代で す.いわゆるカニ族で,シーツを持参して各地の ユースホステルに宿泊しながら,北海道を一周し たと思います.細かいルートは忘れてしまいまし たが,盛岡,青函連絡船,札幌,摩周湖,阿寒湖 などといった記憶が断片的に残っています.熊も
みました.帰りは,アメリカ軍の燃料を積んだ貨 車が新宿駅の手前でひっくり返って大火災が起き ていて,なかなか新宿駅にたどり着けなかったこ とを覚えています.まあ,イニシエーションとし てのバックパッキングをしたんだと思います.
―大学進学までのお話しをうかがっていると,
社会科のなかでも特に地理への関心が高 かったようですね.
稲垣 地理に興味は持っていたけれども,みてい たのは社会だったんだろうと思います.地理とい う窓を通じて社会をみていた,あるいは,地理を 通して世界が迫ってきたといい換えてもよいかも しれません.観光に関しては,観光は場所に対す る強い興味に裏打ちされていると僕は常々考えて います.知識として知っている現場に立ってみた い,けれどもいくことのできない場所は憧れとし て残り続けます.僕にとっての一番の憧れはアン コールワットでした.小学校の国語の教科書にア ンコールワットに関する話が載っていて,挿絵も 掲載されていました.いま考えれば,教科書の内 容はとてもステレオタイプな語りだったのかもし れませんが,ああここにいきたいな,と思ったの は確かですね.実際にいくことができたのはかな り後になってですが.
Ⅱ 大学時代
―入学当時の観光学科の様子についてお聞か せください.
稲垣 学科自体がスタートしたばかりということ もあって,観光教育の面ではまだまだ確立されて いないな,という感じでした.ただ,観光産業に とって役に立つ人材を育てるという教育の着地点 はみえていたような気がします.当時の観光産業 というと,ホテルに関してはエスタブリッシュメ ントが帝国ホテルやホテルオークラ,それから第 一ホテルという位置づけで,旅行会社に関しては 日本交通公社でした.観光学科に入学した同級生 のうち,だいたい 6 割から 7 割ぐらいがホテルに
興味を持っていたし,将来的に働きたいと考えて いたように思います.ところが,入学した年の 5 月か 6 月には大学紛争が始まってしまい,講義は すべてストップです.タッカーホールでは集団団 交なんかが行われていて,機動隊もときどき来て いたんじゃないでしょうか.学生は石を投げるし で,まさに祝祭状態,政治の季節です.学内にバ リケードはありませんでしたが,立て看は多かっ たですね.勉強しようと思って大学に入ったら,
こんな状況です.
―入学早々,講義を受けられなくなってしまっ たわけですね.
稲垣 そうです.ただ,観光・ホテル講座を同時 に受講していました.2 年間のコースで有料です.
最初は確か 5 号館の 2 階でやっていましたが,大 学がロックアウトされてからは,立教学院内郵便 局のあたりにあった語学学校のような建物を借り てやっていました.夜の開講でしたし,隠れて やっているみたいで,秘密結社的な緊張感があっ て魅力的でした.講座のなかでは辻静雄先生の講 義が印象的でしたね.マネージメントやアドミニ ストレーションといった従来の視点ではなく,文 化史的な側面から食生活や料理について論じると いうスタンスで,新しい視点だなと感じました.
僕の知らないことを教えてくれたという意味で は,1 年生のときの大きな記憶です.大学の講義 は 2 年生になってから再開されます.
―ほかに印象的な先生はいらっしゃいまし たか.
稲垣 2 年生か 3 年生のときだったでしょうか,
岡本伸之先生がミシガンへの留学から戻られて,
観光学科で非常勤講師として教え始めました.現 場の知識や情緒的な話題が中心だった既存の講義 とは違って,岡本先生の講義はアメリカ仕込みの 最新ロジック,要は科学的管理法を駆使した内容 で,これはかなり新鮮でした.
―ゼミには所属されていたのでしょうか.
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.18 March 2016
稲垣 当時も確か 2 年生から 4 年生にかけてゼミ があって,僕は原勉先生のゼミと西田修先生のゼ ミに二重在籍していました.原ゼミは賑やかなゼ ミで,みんなで合宿にいったり温泉へ出かけたり して仲がよかったですね.原先生はホテル業界に ひろいネットワークをお持ちの方でした.一方,西田ゼミは少人数のゼミで,経済学のなかでも特 に計量的な地域経済学を扱っていました.西田ゼ ミは落ち着いた雰囲気です.履修登録上は原ゼミ でしたが,心理的には西田ゼミの方にウエイトを 置いていました.2 年生から 3 年生にかけては,
スポット的にホテルでアルバイトをしていました よ.宴会があるたびに呼ばれてボーイをやるとい うバイトで,主に帝国ホテルで働いていました.
働きながら,ホテルの表側と裏側がまったく異 なっていて,そうしたなかでいかにプレステージ があるようにみせるのかがおもしろいな,と思い ましたね.アンビバレンツというか演劇的なおも しろさといってよいかもしれません.
―卒業論文はお書きになりましたか.
稲垣 当時も制度として卒論はあったように記憶 していますが,ほとんどの人が書いていなかった と思います.僕は,一応書いて原先生にはおみせ しましたが,卒論として提出はしていません.フ ランチャイズを取り上げて,お金のフローではな くて情報やノウハウのフローでビジネスが構成さ れる新しい資本主義の形態のひとつ,という視点 で書きました.産業組織論に近い内容でしたが,
まったく学術的ではありませんでした.
―大学院への進学をお決めになったのはいつ 頃のことですか.
稲垣 3 年生のときには,大学院への進学希望を 原先生と西田先生に伝えていました.純粋に勉強 を続けたかったのと,当時は景気がよかったの で,大学院を出てからでも就職先はあるだろうと いうのが進学の理由です.第一次オイルショック の影響で,その思惑は外れてしまいますが.実は それまで観光学科の学生が社会学研究科に進学し
たという前例はなかったのですが,4 年生のとき に初めて受験が許されて,秋入試に合格すること ができました.大学院での所属は応用社会学専攻 です.当時の大学院では,観光系の教員による講 義は開講されていなかったと記憶していますが,
西田先生から個別に研究指導を受けることはでき ました.いずれにしても僕は,観光学科を卒業し て大学院に進学した最初の人間のひとり,という ことになります.
Ⅲ 大学院時代
―大学院での研究内容についてお聞かせくだ さい.
稲垣 修士での研究は経済学です.観光が地域に どれだけの経済効果をおよぼすのか,という課題 に学部後半から取り組んでいましたが,大学院で いろいろな経験を積んでいくうちに,通常では 計れないものを計りたいと思うようになりまし た.対象としては観光を扱えればよかったのです が,僕にとって観光は難しすぎました.教科書的 にいっても観光の効果には経済的な効果と文化的 な効果があるように,問題として定式化しようと するとき,観光は変数が多すぎて複雑なんです.
そこで教育を取り上げて,教育に対する経済投資 とその効果に関する修士論文『高等教育授業料決 定の経済分析』を執筆しました.修士には 3 年間 在籍しましたが,当時としてはごく普通のことで す.勉強の面でいうと,修士ではそれまで知らな かったことをずいぶんと教わりましたし,社会科 学の方法論をきちんとしたかたちで身に付けるこ とができました.大学院のあいだに専門とは異な る分野の本もだいぶ読みましたが,これはいまの 院生にとっても大切なことだと考えています.
―大学院時代に海外へいかれたとうかがいま した.
稲垣 1 年目か 2 年目の夏に,初めての海外旅行 にいきました.ハワイ,シアトル,バンクーバー,
カルガリー,バンフ,ジャスパー,サンフランシ
スコ,ロサンゼルス,ハワイを 2 ヶ月ほどで訪れ るという大旅行です.格安の航空券でも飛行機 代が 30 万円を超えましたが,珍道中でおもしろ かったです.観光にまつわる書誌データを入手す ることと,北米の国立公園を徹底的に経験するこ とが旅行の目的でした.メンバーは僕を入れて 3 人,全員が社会学研究科の院生でした.書誌デー タの収集は,延々とハワイ大学の図書館で作業し ました.当時の日本には観光に関する文献がまっ たくなく,どういった本がこの世に存在するのか すらわからない状況でした.ハワイでは朝から晩 まで図書館に入り浸って,インデックスを繰って はただひたすらに書誌情報を書き写すという作業 を繰り返していて,実際に本を手にとって読む暇 もありませんでした.2 週間ほど作業をしました が,それでもすべてを書き写すことができず,こ んなにすごいのか,日本とは全然違うぞ,と思い ました.
―国立公園についてはいかがでしょうか.
稲垣 国立公園自体が未知の世界でしたが,実際 に訪れてみると,国が完全にコントロールをして いることに驚きました.ビジターセンターには剥 製や地形モデルが展示されたりしていて,日本と はちょっとくらべものにならないな,という感じ でした.レンジャーもそうですし,キャンプサイ トのインフラストラクチャーの差もものすごく感 じました.まさに雲泥の差です.貧乏旅行で車を 借りられませんでしたのでオートキャンプはで きませんでしたが,それでも目から鱗の連続で した.
―2 ヶ月間の貧乏旅行ですか.
稲垣 当時は 1 ドル 300 円の時代ですから,とに かく貧乏旅行でした.テントを持参しましたし,
ホテルに泊まるにしても安いところばかり,移動 も基本はバスでたまにレンタカーといった具合で す.食事はマクドナルドに通って,旅先で知り 合った人にたまに奢ってもらうというひどい旅行 でした.ただ,サンフランシスコからロサンゼル
スまではお金をかけてバスツアーに参加して,ク ラシックホテルに宿泊したりしました.ツアー自 体は 3 日間か 4 日間で,カーメルやヨセミテには このツアーで立ち寄っているはずです.道中では アメリカの豊かさを実感しました.カルチャー ショックでしたね.
―ほかに印象的な出来事はありましたか.
稲垣 実はサンフランシスコで泊まっていたホテ ルが火事になりました.10 何階かに泊まってい たのですが,幸い無事に逃げ出すことができまし た.そのホテルは水浸しでもう泊まれませんし,
ホテルから結構な額のお金をもらいましたので,
街を代表する高級ホテルに移りました.移動した 先は確かクリフトだったと思うのですが,そこで またカルチャーショックです.表からはあまりわ からないのですが,入った途端に別世界.厳か.
我々のようなバックパックを背負った小汚い学生 でも丁寧に扱ってくれるし,ほかの宿泊客もこれ までの安ホテルとは明らかに違います.3 泊くら いしましたが,日本とはまったく異なるホテルが 存在していて,それが高級だという現実を突きつ けられたわけです.この経験をきっかけに,日本 のホテルをみていても駄目かもしれない,日本の ホテルってある種特殊なかたちなのかもしれな い,と考え始めるようになりました.そういった 意味では,現在の僕のホテル観に通じる最初の経 験であって,大転換点だったともいえます.
Ⅳ 大学院修了後
―修士論文を書き終わった後のことについて お聞かせください.
稲垣 残念ながら,当時は観光を専攻していると 大学院の次のステップに進むことが認められてい ませんでした.修士修了後は観光研究所に籍だけ はありました.正直なところ,進路については悩 んでいましたので,就職活動もやりました.日本 の企業は院卒採用をまだ開始していない時代です
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.18 March 2016
から,すべて外資系の企業です.役員面接とか結 構よいところまで進んだのですが,先ほどお話し したとおり,オイルショックの影響で当時は景気 が悪かったため,なかなか採用してくれるところ がありませんでした.そうこうしているうちに,専任ではありませんがいくつかの大学で教えるよ うになります.最初は,原先生が玉川大学で担当 していた確か観光事業論の講義アシスタントで,
2 年間ほどお手伝いした記憶があります.次は,
現在の神戸国際大学,当時は八代学院大学といい ましたが,そこの非常勤講師でなんと週 7 コマ.
東京から長距離バスで通っていましたので,7 コ マを 2 日間に集中させてこなしていました.僕が 担当していたのは,観光事業論と宿泊業関係の講 義 5 コマとゼミ 2 コマで,ほぼ常勤状態です.横 浜商科大学に就職するまで 2 年か 3 年ほど続けま した.
―非常勤講師のほかにアルバイトなどはされ ていたのですか.
稲垣 はい.実は学部時代からすでに関わってい たのですが,ホテルや外食産業のマーケティング 調査をやっていました.いまでいうコンサルタン トのような仕事で,立地やスペックなどに関する 基本的な調査をして報告書を書いたりしていまし た.当時は観光産業の勃興期で,こうした調査の 需要があったんでしょうね.僕が担当したのはご く基礎的な部分だけでしたが,それが実際にホテ ルとしてかたちになっていくのがおもしろかった ですし,いろいろな人たちとも知り合うことがで きました.調査データの処理にはコンピューター を使っていました.もちろんパンチカードです.
実はゼミの後輩に調査データのとりまとめをお願 いしていたのですが,そこで知り合ったのが妻で す.妻も僕と同じで原ゼミと西田ゼミをかけ持ち していたはずです.
―1982 年に,先ほどお話しのあった横浜商科 大学に就職されます.
稲垣 31 歳のときですね.僕と,当時すでに萩
女子短期大学に就職されていた村上和夫先生が,
同時に専任教員として採用されました.横浜商科 大学には 5 年間在籍して,ホテル経営論の講義や ゼミを担当しました.この頃になると,収入が安 定してきたこともあって,積極的に海外のホテル をみにいくようになります.ものをみることが 自分への再投資だと考えていましたが,当時か らチェーンではないホテルばかりみていました.
ファームハウス,民宿,高級リゾートといった独 自のもの,特別なものだけを泊まり歩いていて,
ヒルトンやシェラトンには滅多なことでは泊まり ませんでした.結構な額を使いましたよ.この頃 から,コロニアルホテルのおもしろさには気が付 いていました.ラッフルズやペニンシュラを明確 な研究対象として認識していましたし,ホテルの 社会的役割をどのように位置づけたらよいのか考 えていました.ただ,こういった文化的な存在と してのホテルをどうやって学生に教えたらよいの かは,まだわかりませんでした.
―横浜商科大学在職中に日本観光学会の最優 秀論文を受賞されていますが,これはどの ような論文だったのでしょうか.
稲垣 「ホテル投資決定に対するヘドニック・ア プローチの適用可能性」というタイトルで,経済 学の論文です.商品を属性の束として考えるとい う視点を応用して,ホテルの価格を説明するため の基本モデル,もっというと質を価格に反映させ るための基本モデルを提示したものです.質を対 象化する経済学を意識しましたが,僕にとってこ の論文は,経済学にケリをつけるために書いたよ うなものです.この頃には,こうした研究をいく ら突き詰めていったところでリアルな現実には到 達しない,僕の考えるリアルな世界にたどりつく には質的な方法しかない,という確信がすでにあ りましたので,この論文で経済学はもう終わりに するつもりでした.
Ⅴ 立教大学着任
―1987 年に立教大学に着任されます.
稲垣 当時の観光学科は,開設当時のカリキュラ ムがほぼそのままのかたちで継続している状況で したので,着任当初は経営系や経済系の講義を担 当しました.1 年間だけですが,観光英語も担当 したはずです.着任直後の思い出としては,観光 学科の新入生歓迎行事として八王子のセミナーハ ウスに 1 泊 2 日でいったときのことですが,現地 に到着した途端に学生が持ってきたルイヴィトン のボストンバッグがどんどんと積み上がっていっ て,最後にはピラミッドのようになったのには驚 きました.景気がよかった時代を象徴するネタと して,このエピソードはいまでもたまに学生に話 します.
―先ほどのお話しにあったホテルへの興味は,
立教大学に着任されてからも続いていたの でしょうか.
稲垣 立教へ来てからもホテルに興味はありまし たね.かなりの数のホテルを訪れていて,当時は 日本でもトップクラスの海外ホテル事情通だった と自負しています.アマンリゾートとコンタクト ができたのもこの時期です.だけれどもその一方 で,どこまで掘っていってもホテルマネージメン トは実務にしかならないよな,というひっかかり がどこかにあったのも事実です.ホテルを扱うに はマネージメントとは別の視点でやるしかない,
けれども好事家的にホテルを扱いたくはない,と いった感じで悩んでいました.1990 年頃でしょ うか,後でお話しする『ホテル産業のリエンジニ アリング戦略』のベースとなる報告書を作成しま す.これは,当時社会学研究科の大学院生だった 庄司貴行先生や,現在上智大学にいらっしゃる細 萱伸子先生に手伝ってもらったものですが,実は ホテルに対する総決算のつもりでやりました.
―当時はバブルの真っ最中でした.
稲垣 ホテルに関しては,とにかくすごかったの 一言です.その最中にいながらも,これはちょっ とまともな状況ではないし,いつまでも続くもの でもなさそうだなと感じていました.幸いにし
て,バブルが崩壊する前からホテルとは徐々に距 離を取り始めていましたが,こういう経験があっ たからか,現在でもカジノのようなバブルっぽい 話に対しては基本的にネガティヴです.
―1992 年には教授に昇任され,その翌年には ヴァージニア工科大学に客員教授として赴 任されます.
稲垣 向こうには研究休暇でいきましたが,ヴァー ジニア工科大学は当時,世界最高の観光教育機関 でした.ヴァージニアでは,図書館に通ってとに かくコピーをとってましたね.日本で僕らが手に 入れられた観光の文献ってごくわずかでしたか ら,ヴァージニアの図書館は文字どおり宝の山で した.特にジャーナル類が充実していて,欲しい ものは何でも出てきたし,工科大でしたからホテ ルのリプリゼンテーションやデザインに関する資 料も豊富でした.それらをコピーしてはバインド し,箱詰めにしたものを郵便局に持っていって日 本に送るということを繰り返していました.
―研究休暇中は旅行などされたのでしょうか.
稲垣 向こうではホンダのアコードクーペに乗っ ていて,大陸横断を 2 回ほどやりましたが,実際 に大陸を横断してみると,それまで僕が持ってい たアメリカという国に対する認識が大きく変わり ました.先ほど,院生時代にアメリカの豊かさを 実感した話をしましたが,今度は,アメリカって 貧しいところもあるんだよな,貧しい白人もいる んだよな,カリフォルニアやニューヨークだけが アメリカじゃないんだよな,っていうことに気が 付いたわけです.そこで,こうした現実をゼミ生 たちにもみせたいと考えて,かれらをアメリカに 呼びました.
―学生をアメリカまで呼び寄せたんですか.
稲垣 はい.要はゼミ合宿をアメリカで実施した わけです.東アジアを除いては,恐らく立教で最 初の海外ゼミ合宿だったと思います.合宿を行う
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.18 March 2016
にあたっては,立教とのやりとりに多少苦労しま した.電子メイルがない時代ですから,電話とFAX
を駆使して.前例がないわけですから,上 位規則も全学的な制度もありません.結局,2 年 生と 3 年生の 20 名くらいと一緒に,2 週間かけ て西から東へ大陸を横断しました.かれらにホス ピタリティ産業はヒルトンやシェラトンだけでは ないことをみせられましたし,ヴァージニアの学 生を交えてプレゼンテーションをやった記憶もあ ります.この合宿を境にゼミの進め方が変わりま したし,いま振り返ってみると,観光学部が現在 実施している早期体験プログラムのアイデアに繋 がっているように思います.つまり,学生の視野 をひろげるには,できるだけ早い段階で自分の知 らない世界を経験させることが大切で,そうする と学生たちは自分でいろいろなことを考え始める ようになるんです.―ゼミの話題が出ましたが,ゼミを担当して いく上で工夫されたことはありますか.
稲垣 ゼミの進め方という点では,東京大学の原 広司先生との出会いが大きかったですね.正確な 時期はわからないのですが,原先生とはあるプロ ジェクトでご一緒したのが縁で,アトリエにたび たびお邪魔しました.そこで原先生と若いスタッ フとのやりとりをみていたのですが,原先生は若 い人との付き合い方がとにかくうまい.自分の意 見を押しつけることはせずに若い人たちの話を聞 きながら,手元でいろいろなことをやってる.そ して,みんなの意見を聞いて考えたんだけどこれ だよね,っていいながらデッサンを出す.すると,
若い人たちは納得するわけです.それまで僕のゼ ミでは僕が学生たちに教えるというスタイルだっ たのですが,それからは学生たちと一緒に作業を するようになって,ゼミの進め方がずいぶんと変 わりました.
―1994 年には,先ほどお話しに出た『ホテル 産業のリエンジニアリング戦略』を上梓さ れます.
稲垣 これは先ほどもお話ししたとおり,これま でのホテルの見方から書くものの最後にしようと 思って取り組みました.実はこの本で僕にとって 重要なのは,リエンジニアリング戦略というメイ ンタイトルではなくて,環境,コミュニティ,表 現,スタイル,場所性というサブタイトルのほう です.今後の観光を考えていく上で鍵になりそう な要素を,キーワードとしてちりばめておきまし た.環境はエコツーリズムだし,コミュニティは コミュニティベースドツーリズムだし,結構当 たっていると思います.僕はホテルをみるとき に,ホテルを通して新しい価値をつくれるかどう か,新しいものをつくることによって社会に何ら かの貢献をしているか否か,といったことを重視 します.そういう意味で,ホテルイノベーターに も興味がありますし,最近力を入れているゲスト ハウス研究はそうした関心の延長線上にありま す.結果的に,この本で扱っている事例はバブ ルっぽくないものになりましたし,僕はこれから サブタイトルの方向へ移行していくよ,という宣 言にもなりました.
―本のなかでは,施設の写真や部屋の平面図 が多く使われています.
稲垣 写真は必要に迫られてたくさん撮りまし た.フィルム時代は,1 日あたり 36 枚撮り 2 本 換算でフィルムを持ち歩いていましたので,結構 な数でした.デジタル化してからは,荷物が減っ て楽になったのもありますが,ホテルの造形を撮 る場合と,ホテルの持っている雰囲気を撮る場合 とでうまく使いわけができるようになって,便利 になりました.平面図に関しては,いまでもホ テルに泊まると必ずその部屋のサイズを測ってい ますので,何千というデータがストックされてい るはずです.本のサブタイトルに身体というキー ワードを入れるかどうか迷ったのですが,僕はホ テルの快適性について考えるときに,視覚的な側 面だけでなく身体的な側面も重視します.つま り,その部屋がなぜ快適なのかを考えるために,
まず測るんです.自分の手で部屋を採寸すること で,対応している空間を自分のからだに染みこま
せることができるので,僕にとっては極めて大切 な行為です.古いホテルや旅館は複雑で嫌になり ますが,測ってみると複雑さが理解できるし,設 計者の意図もわかってきます.天井の高さは快適 性に強く作用していると考えていますから,天井 高も電子メジャーで測ります.
Ⅵ 観光学部発足
―1998 年に観光学部が設置されますが,当初 はどのような講義をご担当されたのでしょ うか.
稲垣 社会学部観光学科時代と同じ経営系です ね.恐らく,ホスピタリティマーケティング,観 光マーケティング,観光消費論,ホスピタリティ 消費論といったところだったと思います.最初の 数年は池袋キャンパスと新座キャンパスをかけ持 ちしていましたし,僕のゼミは池袋で実施してい ました.観光学部になって教員もだいぶ増えまし たね.僕の専門に近いところだと,白坂蕃先生,
小沢健市先生,大橋健一先生が着任されました し,学生をみていると,しばらくして学生たちの なかに新座アイデンティティのようなものが芽生 え始めてきたのがわかりました.
―この頃の研究についてお聞かせください.
稲垣 1999 年から 2000 年にかけて科研費をも らって,インドネシアのママサというところで調 査をしました.この調査はママサにおける観光化 のプロセスを観察するというものだったのです が,ある日,インフォーマントが山の上にある温 泉に連れていってくれました.そこは,オランダ 統治時代にオランダ人たちが療養のためにつくっ た施設だったのですが,これがリアリティを伴っ たかたちでヒルステーションという存在を知っ た,初めての経験です.それまで,ダージリンや シムラといったヒルステーションの存在を知識と しては知っていましたが,ママサがリアリティを 伴ってヒルステーションをみた最初の場所です.
それから,ヒルステーションっておもしろいかも
しれないと考えるようになって,大学院の講義で 取り上げたり,白坂先生,大橋先生と共同研究を するようになっていきます.
―2000 年には 2 度目の研究休暇でハワイ大学 へいかれます.
稲垣 観光学部の戦略として,国際化を積極的に 進めていこうという話がありました.そのうちの ひとつがハワイ大学との提携で,仕込みも兼ねて 客員教授としてハワイに滞在しました.学部の国 際化はある意味,学部設立時からの念願で,後に 学部長になってからは大橋先生や杜国慶先生に手 伝っていただきながら,一気に推し進めます.新 座という都会立地ではないキャンパスのデメリッ トを考えたときに,新座から世界に繋がっている というメリットをつくり出したいと考えていたか らです.
―2004 年からは観光学部長を務められます.
稲垣 学部長は,岡本先生が最初の 4 年間,溝尾 良隆先生が次の2年間,それで僕という順番です.
学部長時代に取り組んだ大きな仕事のひとつは,
先ほどお話しした海外の大学との協定締結で,ア ジアを中心にかなりレベルの高い大学と関係をつ くることができました.もうひとつの大きな仕事 は,交流文化学科の立ち上げです.現象としての 観光は世界的規模で拡大していくわけですが,国 際的なイメージを持ちながら観光そのものを扱え る学科をつくることができないだろうか,と考え ました.交流文化学科は 2006 年に設置されます が,松村公明先生,日本女子大学に異動された中 西裕二先生をお迎えしたほか,学内からは豊田由 貴夫先生と舛谷鋭先生が移籍されました.翌年に は葛野浩昭先生が着任されるなど,交流文化学科 は徐々に充実していきます.現学部長の毛谷村英 治先生が観光学科にいらっしゃたのも 2006 年の ことです.
―学部長在任中,どのような理念をお持ちだっ たのでしょうか.
Rikkyo University Bulletin of Studies in Tourism No.18 March 2016
稲垣 観光学部の同僚や学生たちがよりよく生き ていける場所をつくらなきゃね,という考えがあ りました.中心ではなく周縁に位置する組織とし て,周縁部分から声をあげていかなければならな いという意識があったのは確かです.アカデミア のなかでは,観光は黙っていたらポジションを確 立することはできませんから.―学部長をやられているあいだ,研究はでき たのでしょうか.
稲垣 ほとんどできませんでしたね.学部長を やっていて一番怖かったのは,研究から遠ざか り過ぎてしまうことでした.長いあいだアドミ ニストレーションをやり続けてしまうと,もうま ともな研究には戻れないかも知れないなと思って いましたし,学部長が 3 期目に入ったときは覚悟 していました.自分がもう一度研究の世界に戻 れるのかどうか,本当に怖かったですよ.とこ ろが,学部長が終わってヒルステーションの論 文「
Hill Stations in Asia: A Discovery of Scenery and Environmental Change
」を書いてみたら,そ れが査読に通ったんです.よかったまだできる,まだ大丈夫だと思いました.
―2009 年には 3 度目の研究休暇でタマサート 大学へいかれます.
稲垣 当時観光学部が関わっていたアジア人財資 金構想との関係もあって,タマサート大学に客員 教授として赴任しました.現在も続いているメイ ルマガジンが始まったのも,この研究休暇からで す.研究休暇も最初の頃はのんびりしていたので すが,2010 年の 4 月頃から自宅周辺が赤シャツ 派に占拠されてからは大変でした.しかし,怖い と思ったことは一度もありません.占拠地のなか に住むなんてめったにない機会ですから,頻繁に 観察をして写真を撮りました.日本でいわれたり 書かれたりしていることと,現実はずいぶん異な ります.この滞在でタイ社会をみる目がこれまで とはずいぶん変わりました.
―先ほどのお話しにもありましたが,いくつ かの外部資金獲得とも関わっておられます.
稲垣 最初は,2003 年から始まった,人の移動 と文化変容研究センターです.これは,文部科学 省のオープンリサーチセンター整備事業の助成を 受けて,観光学部,文学部,社会学部を中心と した研究グループで運営しました.2007 年には,
経済産業省と文部科学省によるアジア人財資金構 想で,観光教育イニシアティブというプログラム に対して助成を受けました.これらは
COE
のリ ベンジです.COE
は,2 年連続で申請責任者を して連敗しました.ひとは敗戦から多くを学びま す.COE
など,残念ながら通らなかった申請が いくつかありますが,おかげさまで結果的にはか なりの高打率です.これらの助成事業は,現在の 観光学部の教育や研究に繋がっているのではない かと思います.Ⅶ これまでを振り返って
―稲垣先生にとって,研究とはどのような存 在だったのでしょうか.
稲垣 おもしろいからやる,知らないからやる,
というものじゃないでしょうか.何の役に立つか はわかならないけれども,目の前の矛盾を説明し たい,自分の知りたいことを明らかにしたい,そ の対象がたまたま観光だったというだけのことで す.観光研究に関していうと,若いときは経済学 や社会学,心理学といったシャープなディシプリ ンのほうが上なのだ,というイメージを持ってい ました.そうした学問領域が持っている,理論や 学説史といったコアな部分に対するコンプレック スのようなものは持っていた気がします.けれど もいまは,お前の専門は何なのだと聞かれれば,
観光研究だと素直にこたえられます.ディシプリ ンのコア部分に対するコンプレックスはもうあり ませんし,僕のなかでの観光研究に対するアイデ ンティティは確立されたといえます.こういうこ とを意識し始めたのは,少なくともヒルステー ションに関する研究がある程度かたちになってか
らではないでしょうか.学部長を終えて,研究と 再び向かい合って以降,急速にできあがっていっ たものだと思います.交流文化学科ができて,
しっかりとしたディシプリンをお持ちの先生方と 交わる機会が増えていったなかで芽生えていった のかもしれません.
―最後に観光学部へのメッセージをお願いし ます.
稲垣 僕はよい時代に生きたなあという感じがし ています.これから,大学や研究を取り巻く状況 がよくなっていくとは思えません.僕の時代の大 学は悪いかたちではありませんでしたし,研究に 対するバックアップもありましたが,これからは 大学の位置づけや研究条件が変わっていく大変な 時代かと思います.いまの大学は実用的なものを 求め始めていますが,僕はこれは決定的な間違い だと思っています.プラクティカルな部分を追い 求めすぎると,研究も教育も痩せていきます.大 学は,教養であったり知的なものを再生産し,そ れを次の世代に伝えていく場であって欲しいと 願っています.学部としても大学としても,教育 に対して即効性を求めるようなマーケットではな いところをきちんと押さえられる存在であり続け て欲しい,というのが僕の切なる願いです.
―このたびはお忙しいところ,ありがとうご ざいました.
稲垣 ありがとうございました.みなさん,お世 話になりました.これからもある程度の距離で付 き合っていただき,ときどき遊んでくれれば嬉し く思います.
謝 辞
本インタビューは,稲垣勉先生に対して行った複数回に わたるインタビューの内容を,千住が文字化して再構成し たものです.したがいまして,内容についての最終的な責 任は千住にあります.なお,実施したインタビューの詳細 は次のとおりです.
第 1 回:2015 年 11 月 24 日,千住研究室.
第 2 回:2015 年 12 月 2 日,千住研究室.
第 3 回:2015 年 12 月 8 日,千住研究室.
第 4 回:2015 年 12 月 16 日,千住研究室.
第 5 回:2016 年 1 月 8 日,池袋キャンパス 7301 教室.
改めまして,お忙しいなか複数回かつ長時間にわたるイ ンタビューに応じてくださった稲垣勉先生に,心から御 礼申し上げます.稲垣先生と初めてお目に掛かったのは,
1996 年 4 月,当時は池袋キャンパス 2 号館 1 階にあった稲 垣研究室でのことでした.あれから 20 年ほどが経ちまし たが,今日に至るまで稲垣先生からは実に多くのご指導を 頂戴しました.語りたい思い出はたくさんありますが,今 回の一連のインタビューは,こうしたご指導の数々を彷彿 とさせる濃密かつ贅沢な時間となりました.先生,これま で本当にありがとうございました.
■