2003年出土の木簡
神 奈 川
︒ 永 福 寺 跡
1 所在 地 榊 奈 川県 鎌 倉市 三階 堂 2 調 期査 間 一九 八 八年 度 調 査 一九 八 八年
︵昭 63︶ 月入 1 一 九 人九 年 二月 3 発 掘機 関 鎌 倉 市教 育委 員会 4 調査 担 当者 福 田 誠 5 遺 跡 の種 類 寺 院跡 6 遺跡 の年 代 一一 一世 紀末
︱ 一四 世紀 前半 7 遺跡 及び 木簡 出土 遺 構 の概 要 調査 地 は鎌 倉 旧市 街 地 の北 東 に位 置 し︑ J R鎌 倉 駅 の北 東 一
・ 八 臨に あた る︒ 遺 跡地 を中 心 に西 谷ヶ
・杉 谷ヶ
︒亀 ヶ 谷
・獅 子舞 など の谷 が伸 び る 一画 で︑ コ 一階 堂
﹂ と い う 地名 残が る︒ 古 く から 永 福寺 跡と さ れ てき た場 所 で 賀
り︑ これ ま で の調 査 によ
酸 り そ の伽 藍 配 置 な が ど 明 ら
て かと な てっ い る︒ 本 堂 であ
る三 階堂 を中 心 に︑ 両脇 堂 と呼 ば れた 阿弥 陀堂
・薬 師 堂 が東 向 き に 並 建び ち︑ 堂前 面 の庭 園 に向 か い翼 廊 が のび る︒ ま た正 面 には 橋 が 架 けら れ︑ 奥 の谷 筋 より 遣水 引が き ま込 れ︑ 三堂 の前 面 に設 らけ れ た池 に注 いで いた
︒ こ のよ う 伽な 藍 配 置 は︑ 浄 土寺 院 の中 に翼 廊
・ 釣 殿 など 貴族 住宅 的 な寝 殿造 を 取り 入れ て いる こと にそ の特 徴 があ つZ︒ 池 中か はら 膨大 な瓦 が出 土 し︑ そ の組 みあ わせ や文 様 形︑ 態 など か ら︑ I期
︵一 一九 二年 1 一一 三 年︶︑
Π期
︵ 二五 年1 一二 人○ 年︶︑
Ⅲ期
︵ 一人 七年 1 二一 五年
︶に 区分 さ れ る︒ そ の他 の出 土品 と し ては 舶載
︒国 産 陶磁 器︑ かわ らけ 木︑ 製 品︑ 金 属製 品︑ 石製 品 など があ るが と︑ く に池 中 から は漆 塗 り の台 座
・机 脚
・蔀 や金 銅製 飾 り金 具
・螺 釦器 物と い たっ 堂内 荘厳 具 出が 土 し て るい
︒ 木簡 は いず れも 池 から 出 土 たし ω︒ は北 翼廊 先 端部 の池 底
②︑ は 北 翼廊 前 の池 中 から 出 土 たし 池︒ 汀線 周縁 部 出で 土 した 瓦 類 が︑ 前 述 のI 期
︒Π 期 が大 部 分を 占 るめ こと や︑ 遺構 の変 遷 過程 か ら︑ 木 簡 はと も に 一三 世紀 後 葉 の遺 物 と考 え ら れ る︒ 8 簡木 の釈 文
︒内 容 ω
﹁南 無
□
□
︵滓 じ る 要
∞ o蹴
②
︒﹁ 南 無 阿 弥 陀 仏
﹂ 名 南 無 阿 弥 陀 仏
﹂ PЮ 巽 P撰 卜 ま出
ω
②と も に板 塔婆 の 一種 と考 え られ 厚︑ さ三 m m程
度 の経 木 で でき て いる
⑪︒ は先 端 部 に五 輪 塔 削を り 出 し︑
﹁南 無﹂ 読が み取 れ る︒ 先 端 部 に 五輪 塔 を 削 り 出 たし 板 塔 婆 は絵 画 料史 の
﹁餓 鬼 草 紙﹂ や
﹁七 十 一番 職人 歌合
﹂な ど にも 見 られ る︒ 市 内 出 土 類の 例 と し ては
︑ 北条 時 房
︒顕 時邸 跡 で検 出 さ れた 若宮 大路 西 側溝 出 土 のも のが あ る
︵本誌 未報 告︒ 条北 時房
・顕 時邸 跡発 掘調 査団
﹃北条 時房
・顕 時邸
﹄跡 七︑ 一九 九九 年︶︒
こ の塔 婆 は表 裏 両 面 に
﹁南 無 弥勒 菩 薩﹂ 書ど か れ て い る︒ ま た永 福 寺跡 内 から も そ の後 の調 査 で他 に 二点 の五 輪塔 模を っ た塔 婆 出が 土 し て いる
︵本誌 未報 告︒ 鎌倉 市教 育委 員会
﹃永 福寺 跡︱ 平 成八 度年
﹄ 一九 九七 年︶︒
② 頂は 部 を山 形 に整 形 し︑ そ の下 の両 脇 三に カ所 ず つ切 り込 みが 入 る︒ 表 裏 両面 に
﹁南 無 阿弥 陀仏
﹂ と書 かれ る︒ 様同 のも のは 鶴 岡 八幡 宮 研修 道 場 用地 内
︵本誌 第八 号︒ 鶴岡 八幡 宮境 発内 掘調 査団
﹃研修 道場 用地 掘発 調査 報告 書﹄ 一九 九三 年︶ や︑ 条北 小町 邸 跡検 出 の若 宮大 路 東 側溝
︵本誌 未報 告︒ 原廣 志
﹁北条 小町 邸跡 雪 ノ下 一丁 目三 六九 番 ノ 圧
﹃鎌 倉市 埋蔵 文化 財緊 急調 査報 告書
﹄ 一四 ︑ 一九 八九 年︶ など 鎌倉 市 内各 所 で出 土 し おて り︑ そ の使 用形 態 に つい ても 注 目 され る︒ いず れも 頂部 圭を 頭状 整に 形 し︑ そ の下 に カ一 も所 くし は ニカ 所 の切 り 込 みを も つも ので あ り︑ 名 号 や真 言 を書 写 たし も のな 様ど 々で あ る が︑
﹁南 無 阿 弥陀 仏﹂ 墨の 書 が 入 る こと が多 い︒ 当 遺 跡内 でも そ の 後 の調 査 で何 点 か類 似 たし も のが 出 土 し て いる
︒
Fiギ \、\\t
:タ
ウ
永福寺跡調査位 置図
鎌倉 市内 では
②︑ のよ う な先 端部 圭が 頭状 のも のと 比較 す ると
︑ い のよ う な 五輪 塔 が削 り 出 され た形 状 の塔 婆 の方 少が な いと いえ
︑ 用使 上 何で らか の区 別 があ った こと が推 測 され る︒ 9 係関 文献 鎌倉 市 教育 員委 会
﹃永福 寺 跡﹄ 全 九八 九年
︶ 同
﹃永 福寺 跡︱ 遺 構 編﹄ 一〇全 Q 二年
︶ 同
﹃永 福寺 跡︱ 遺 構
・考 察編
﹄ 全 一〇Q 二年
︶
︵鈴木 美絵
︶
(1) R
H I︲
︱︲
H H
= H II
= H II
= Ц
Л 川
= H 日 H H 日 H H H H H H H H
= U
2003年出上の木簡
(2)表