空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
第
11章 川上弘美重なり合う人影たち
『水声』 1
川上弘美に戻ろう。冒頭で取り上げた「夏休み」と『センセイの鞄』は、一九九七年と二〇〇一年の作品だった。以後彼女の作品は数多いが、この論考で保持し
てきた関心をそそるものを現在に近いところで取り上げるとすると、それは二〇一四年の『水声
(1
(』と二〇一七年
の『森へ行きましょう
((
(』となるだろう。これらの作品では、川上の作品にそれまであった、時にユーモラスな記
述は影を潜め、何か不吉な色調が現れ始める。
都、弟の陵、それにパパとママの四人の家族で、外側か 『声でるあで手り語る。あ語』水の族家な議思不は物
らはごく普通の家族に見える。その家族の日常が語られるが、語り方は少しずつ尋常さから逸脱する。過去と現
在が、章ごとではなく、段落ごとに、また行ごとに、自在に交替する。全十一章の最後から二番目の「1986
年」の章がその頂点になるが、そこにいたる交錯の中から、都と陵は次第に、パパとママが兄妹である ママ
は祖父の愛人の子であって腹違いの兄妹であり、兄は家業を嫌って若い時期に家を出るが、後に戻って転居して
妹と暮らして、パパとママと呼ばれるようになる こ
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回 ( 吉
田 裕
と、そして自分たちの遺伝上の父親は、パパとママの知人である武治だということを知り始める。〈けれど、わ
たしにも陵にも、誰が自分たちの父親なのか、すでにうっすらと予想はついていたのだ〉(
78(。感知されたこ
の不規則さは、都と陵の関係を、年少の時から安定させない。〈わたしと陵の距離は、変化し続ける〉(
91(。陵
は危うさを感じてか、パパと同様に早い時期に家を出
る。しかし、ママが死のうとする時、つまりそれなりに均衡を保っていた両親という仮構の一半が崩れる時、波
動は都と陵に及び、彼らは性的な関係を持つのである。
1986年の夏、もうすぐママが死のうという時、その頃
すでに家を出ていた陵が、元の自分の部屋、すなわち今は開
かずの間となっている時計の部屋に泊まっていったあの夜、
わたしは陵を訪ね、体をかさねたのだった。決して起こらな
いことだと思っていたのに、それはいともたやすく行われた。
不自然さは、まったくなかった。まるで長い間体をかさね
ることを習慣としている男女のようだった。
(ふつうの男の体のよう
(
わたしは思っていた。
陵と体をかさねる直前、もしも事が成ってしまったなら、
時間はこののち決して連続的に流れないのではないかと予感
した。けれど、そんなことはまったくなかった。する前。し
ている時。した後。時間が不連続になることは、まったくな
かった。空白も、爆発的な変換も、何もなかった。
しているうちに、相手が陵だということを、一瞬忘れさえ した。 男と、している。
それだけだった。
かつて恋人だった幾人かの男たちと体をかさねた時に、思
わず「愛している」という言葉を口からほとぼしり出させた
ような、あのやつあたりにも似た強迫的な感覚さえ、おぼえ
なかった。
わたしの上で動いているのは、物質としての身体を持つだ
けの、何者でもない者だった。そして、その下でうねるよう
に動いているわたしも、ただの物質だった。(
(1((
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
家族の源としての男女の関係は、まずは異母兄妹の上
に仮説され、ついで姉弟の近親姦の関係へと変容する。後者の二人の関係は、男女としての関係を越えて、身体
としてですらなく、ただ物質と物質の交錯として現れてくる。そういう不思議な動きの現れる地点に彼らは触
れ、それによって、男女あるいは家族の関係、そしてそ
れらを成りたたせている社会的な規範空間の代わりに、もうひとつの空間を出現させようとする。だが新たな空
間が出現したとは、言い得ないだろう。時間が跛行することも、空間に不在が現れることも、爆発的な変容が起
きることもなかった、と「わたし」は考える。たぶんそこが私たちにとって最も注目すべき箇所だろう。私たち
は、過剰なものが過剰なものとして消費されることが出来なくなって、それが有効性のシステムの中に注ぎ込ま
れて消費されるようになるのを、近代世界への転換点だとみたが、近親姦という途方もないエネルギーは、時間
の上でも空間の上でも、完全に消化されることがここで 示されたのだろうか? だがそういう見方に対するある保留が、なおこの作品の中に現れているようにも見える。まず、右の引用に現れている「うねり」である。物質となった二人はうねるだけだ。この動きは繰り返され持続する。そしてある帰結をもたらす。それは家の崩壊である。家鳴りがすることに気がついたのは、二〇一四年の桜のつぼみが今にもほころびようという日だったというのが発端で、その後しばらくして何かが裂けるような音がして、家全体が大きく揺れる。二階に上がってみると、あの開かずの間で、天井が割れ、梁が落ち、一面が瓦礫で覆われてい
る。修復は不可能で、二人はマンションに転居し、土地を売る。彼らが最初の関係を持った空間は消去されたの
だろうか? あるいはどこかに隠されただけなのだろうか?
この作品については、やはり私たちの関心を引き継ぐ
ような要素、以上のような男女の関係の変容と連動するもうひとつの要素、が記述されていることにも注意した
い。それは「水」の動きである。作品の冒頭で、まだ幼い都と陵にはアメリカ帰りの菜穂子という友だちのこと
が語られる。この少女はセブンアップ(その頃よく飲まれた炭酸飲料(を好み、アメリカ風にセブンナッと発音
したが、それを飲む時の音が好きで、炭酸のシュワシュワという音ではなく、むなもとで「じーん」っていう静
かな音がするのだと言う。〈あたしたちは水からできて
いるから……。水のものを飲みこむと、体が迎えて音を立てるの〉(
(40そた、っだ音なんん、(ーじん、ーじ。と
彼女は加える。都はその感覚に共感し、後年になっても自身のうちで反芻する。
へんなの、とわたしは笑ったけれど、奈穂子の言っている
ことは、なんとなくわかるような気がした。
陵がわたしの体にはいってくるおりに、最初にふれあうの
は、陵とわたしの体そのものではなく、わたしたちの体の中
に蔵された水と水なのではないか。その時、水と水とは、ど
んな音をたててまじりあってゆくのだろう。(
(40(
「くれ触てっなと質物なわで体身は、」ちたした合
う。その「わたしたち」の物質とは、「水」のことなのだ。この「水」はさらに、都が言うような混じり合って
いく動きを高めて、外部とも照応することがある。それは二〇一一年の東日本大震災での、海へと注ぐあの川を
さかのぼる津波の水である。都と陵はそれをテレビで見
つめる。都は学生時代に、菜穂子とその川のある町に旅行したことがあった。彼女は今度は陵とその町に旅行
し、水が逆流するのを見た川の畔のホテルに宿泊し、その水の音を聞く。それはちょうど彼らが最初の関係を
持ったあの古い家が取り壊されている時刻でもあって、おそらくはその動きと共鳴しつつ、水の音は彼らの耳に
届く。〈ふいに水の音が聞こえた。遠い世界の果てにある、心もとなくて、ささやかな流れの〉(
(48(。これが最
後のページだが、『水声』というタイトルはもちろん、通奏低音のように響き続けるこの動き、身体の内と外を
共に流れるこの水の音から来ている。
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
『森へ行きましょう』 2
この不思議な動きは、『水声』では、男女の関係を、物質の運動に過ぎないところまで連れて行くのだが、それは同時に、関係を変容させつつさまざまな形象を取らせ、また重ね合わせるようにも作用する。それが『森へ
行きましょう』である。
この作品には明確な方法的意識が働いていることが見えている。作品は、二つの物語、しかもよく似た物語が
交互に語られるという構成を取っている。これは今いる世界とは似ているが異なるもうひとつの世界があるとい
う見方に基づく物語であって、文学史を遡れば、冥界下降とか異世界旅行などの一種の冒険譚に始まり、ドッペ
ルゲンガー的人物を出現させ、現況ではパラレル・ワールドと呼ばれる並行する世界を描かせるのであって、日
本でなら村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』などにその現れを見ることが出来、フィ
クションの世界の典型的な形式の一つだと言ってよい。 だが文学作品は、作り方を手法として採用すればよい、というものではない。作品には、時代の要請に強いられた、そして作家固有の関心に起因する変化が介入してくる。『森へ行きましょう』にも、そうした変化を見るこ
とが出来る。実際この作品の中で、登場人物の一人は、後に触れるが、パラレル・ワールドという言葉を口にす
るのだから、作家はそのような構成を十分意識していた
だろう。しかし、文学史的な知識から逸脱する何か、また過去の作品とはどこか異なった何かがある。それをい
くらかでも明るみに出して見たい。
『津似くよういとツルと留森は、』うょしまき行へた 名前 旧約聖書のルツ(モアブ族の出身で、夫を亡くしてのちボアズの妻となり、ダビデの祖先となる(を受 けているらしい を持つ二人の女性の物語が交互に語られる作品として進行する。冒頭の二つの章は、それぞ
れの物語の始まりなのだが、そのまた冒頭は、留津のパートでは次のような文章で始まる。
人できるのに対し、後者は長く独身で、後に結婚するが子供がない。二人とも秘密のノートを持っていて、それ
を前者は「雑多」、後者は「なんでも帳」と名付ける。以後、友人関係や学業において、似ているような、違っ
ているような、人物や状況が現れる。
これは五〇〇ページに及ぶかなり長い作品なのだが、
実は目次がついていない。複数の章立てになっている
が、冒頭にその暦年、主人公名とその年齢が示されているのみである。たとえば冒頭の最初の章は「一九六六年 留津
0歳」であり、次の章は「一九六六年
ルツ
0
歳」というもので、以後二人の物語が、上記の三つの指
標で示される。便宜上それらを章題と呼び、通し番号を付けることにしよう。記述は年代順で倒置されることは
ないが、毎年あるわけではなく、一つの年に常に二人の章があるわけでもない。ただ章は、基本的には二人に交
互に割り当てられる。したがって、二人の少女の成長はほぼ並行して語られ、男女雇用機会均等法改正(一九八
六年(、地下鉄サリン事件(一九九五年(、東北震災(二 十月に入っても、暖かい日が続いていた。雪子はワンピー
スの生地の上から、自分のお腹をなでてみる。予定日は三日
前だったけれども、三日前の検診では、
「まだ赤ちゃん、おりてきていませんね」
と、産科医は言っていた。初産は、遅れることが多いのです
よ。心配しなくていいですからね。医師は続けた。(
((
ルツのパートになると、最後の文章は途中から変化する。〈初産は遅れることが多いので、心配はありませ
ん。三日後にまたいらっしゃい。医師はのんびり言った〉(
5(は前名じ同に、年じ同ツ。ルと津留てしうこの
母から、同じような状況で生まれ、さらにいくつかの共通性がある。家庭状況で言えば、母親の名前はともに雪
子だが、母と娘の関係は、少し異なっていて、前者の場合、夫婦仲はさほど円満ではなく、そのためか母と留津
の間にはかすかな隙間がある。後者の場合は、両親ともルツをかわいがる。前者は一人っ子だが、後者には弟が
ある。その補填のように、成長して後、前者には娘が一
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
〇一一年(などの社会的な事件も介入してくる。
以後の読解のために、外側から分かることをいくつか
確認しておこう。全体が一様になってしまうのを避けるためか、途中に挿絵の入ったページが挿入されていて、
全体で五つの部分に分けられている。以後必要な場合には、これを「部」と呼ぶことにする。この切り方は何に
拠るのか明瞭でないが、年齢で考えてみると、第一部は
零歳から二二歳まで、すなわち大学卒業までで二八章、第二部は二二歳から三〇歳まで、すなわち二〇台で九章
ある。第三部は三三歳から四一歳までの六章で、三十台ということだろうか? 以後区切りの良い数ではない
が、第四部は四四歳から四七歳までで八章、第五部は四八歳から六〇歳までで十六章で、全体で六八章となる。
注意したいのは、第六二章(二〇一七年(と第六三章(二〇二七年(の間に一〇年の空白が置かれ、以後の六
章は、執筆の時点から見て近未来に設定されていることである。章の長さはかなり長短がある。
これを見ると、作品は、二人の女性の人生譚が交互に 語られているのであって、それぞれを連ねていくと、裏表になった二つの物語を抽出できることになりそうなのだが、、あちこちに躓きの石があって、読解は屈折を余儀なくされる。 躓きの石の最初のひとつは、ほぼ編年体で二つの人生を並行して進行させるこれらの物語が、途中から、それぞれの側で変容し始めるらしいところに現れる。そのことは章題を眺めるだけでも少しは見えてくる。いやそれが見えてくるからこそ、冒頭に目次を置くことをしな
かったにちがいない。隠匿は、変化を現場で経験させるためだったのだろう。ではどんな変化だろうか? 主人 公の名前が変化するのである。兆しは第四部の第四七章であって、章題は「二〇一二年 琉都 四五歳」で、続
く第四八章の章題は「二〇一二年 るつ 四五歳」である。「琉都」あるいは「るつ」とは一体誰なのだろう。
音声的には同じであるが、表記は異なる。全体として
は、記述は主人公を留津とルツで交替させながら進んでいくのだが、二人が四五歳になってから以後の後半の三
分の一に、表記の異なる主人公は次第に頻度を増して現れ、全部で九章がこうした名前を持つ。確認しておこ
う。章番号と主人公名だけを抜き出すと、次のようになる。第四部では第四七章「琉都」、第四八章「るつ」、第
五二章「流津」である。第五部では第五九章「瑠通」、第六〇章「る津」、第六四章「流津」、第六五章「るつ」、
第六六章「琉都」、第六七章「瑠通」である。琉都、る
つ、流津、る津、瑠通が新たに現れ、留津とルツを合わせると、名前は七つあることになる。新しい名前の頻度
は彼女らが年を重ねるにつれて上がっていく。新たに現れるこれらの名前の持ち主は、いったい何者なのだろ
う? 私たちはこの問いに惹きつけられる。
3 留津とルツ
以上は概観から推測される変化だが、そのような予測を持つことは、初読の場合には、難しいだろう。ただ読み終えて、印象を整理しようとするとき、まずは取り上
げたくなる基礎的事実にはちがいない。留津とルツとい う名で設定された二人の人物が、ある種の相似形あるいは重複の関係にあるらしいことは、先ほどの冒頭の文章と、最初の数章を読んだだけでも分かるが、その重複は、満ちたり引いたりしながら進行していく。それを確かめるために、まず二人の女性の履歴を、それぞれの側で、出来るところまで追跡しよう。別の人格が入ってくるところで二人の履歴にこれまでにない揺らぎが生じるのだが、ともかく留津とルツという名前がある章を最後尾まで追跡し、その確認を、以後に予想される揺らぎを明らかにするための仮説的出発点としよう。 留津とルツの物語は、まず交互に語られる。ただし、それぞれ年に一度ずつ語られるとはかぎらず、複数回におよぶ場合もあるので(たとえば留津からはじまる一九六六年の章は五つあるので、次の一九六七年はルツの章として始まる(、年を基準にして言えば、二人のどちら
が先に語られるかずっと同じではないが、これはさほど
大きな違いではないだろう。
留津は難産で生まれたから、自分はもしかして存在し
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
ていなかったのではないか、という感覚を持つ。母親の雪子は娘をかわいがるが、時に疎ましく思うことがあ
る。小学校では学校生活になじめず、友だちが出来ない。一歳のときにであった渡辺幸宏君という男の子と
「けっこん」することを考えるが、この記憶はさほど強く残らない。受験で私立アグネス学院に入学し、華やか
な女の子である木村巴という友だちが出来る。高等部に
進学して、巴とバンドを組む。
江戸川女子大に進学し、別の大学に入った巴に誘わ
れ、夏はテニス、冬はスキーというインターカレッジ・サークルに入り、そこで林昌樹という男子学生と知り合
い(
入り、そこで『森へ行きましょう』という題の小説を一 80(林学にルクーサ芸文の大に、別たまてれわ誘の
年かけて書く。サークルの中心である八王子光男がそれを褒める。彼は留津に好意を持つが、留津は林に惹かれ
ている。
第二部では、留津は中堅の薬品会社に一般職で就職す
る。林に電話をして交際が始まり、彼から〈たくさんい る自分〉(
くが、そこで彼から自分はゲイであると告白され、失恋 1(5とる。行に行旅と彼れい(え教をとこうら
する。一年半後、木村巴からそのボーイフレンド岸田映の友人神原俊郎を紹介され、結婚にいたる。義父となる
美智朗には愛人があって、夫婦は別居状態で、義母タキ乃は自己中心的な浪費家である。留津は間もなく妊娠
し、虹子を出産する。俊郎に不倫疑惑がわくが、美智朗
が処理する。
小学生の虹子は成績優秀。ある時会話を交わす。〈……
あたしがいない世界も、もしかしたらどこかにあるのかもしれないよね。パラレルワールドっていうの? ……
あたしがいなくて、お母さんが独身で働いててもしかして上司とずっと不倫とかしてたりして〉(
(70(という虹
子の言葉に驚く。虹子は高偏差値の中学に入学し、文芸部に入る。留津は自分も学生時代に文芸部に入っていて
小説を書いていたことを思い出す。その頃、八王子から電話がある。大学時代の文学サークル仲間が死去したと
のことで、その遺稿をまとめる手伝いを頼まれ、パソコ
ンの操作を覚え、「雑多」というファイルを作り、そこに自分の感想を書き込み始める。〈雑多を書きはじめた
ことは、留津の人生での、もしかするともっとも画期的な出来事だったかもしれない〉(
304(と考える。自分の
ことを「まぬけ」と書き込む。
第四部では、八王子とときどき食事をするという関
係、しかし恋愛とまでは言えない関係が続いている。八
王子の妻が職場の上司と五年以上不倫関係にあることを聞かされる。二〇一一年、渋谷で会っているときに東北
大地震に遭遇する。八王子に送って貰って、留津は目黒の自分のマンションに歩いて辿り着く。
以上が第四部第三章までであって、そのあと初めて、琉都という名前の女を主人公とする章が、二〇一二年と
いう数字と共に入ってくる。ただそのあとにも留津とルツの章は復活するので、とりあえずはそれを追跡してお
こう。留津は遺稿集の座談をまとめた手腕を評価され、ライターの仕事を始める。そして第五部に入ると、八王
子に勧められてミステリー小説を書き、投稿で新人賞の 佳作を取る。佐東という編集者がつき、アドバイスを受けて小説を書き始める。留津が執筆活動を高めていくにつれ、八王子とは疎遠になる。後者の凡庸さが留津に見えてきたからである。 最初のミステリーで、留津は姑であるタキ乃をモデルにした老女が殺される設定をする〈留津はタキ乃を殺した〉(
470場め謎ういと崎瀬たし登(に説小じ同で方他。い
た魅力的な男を主人公に「瀬崎シリーズ」として続編を書きはじめるが、瀬崎が、夫である〈俊郎を象徴する存
在〉(
い一とが、今では留津の番くの関心事になってこ書を 471であることに気が(つ第六二章では〈小説く。
る〉(
つの章の中にも留津の章があるが、そこでも〈この時留 499。七六い短もれどの年二十(二たいおを間の年〇
津のいちばん近くをあるいているのは「瀬崎」である〉
(
503がしとるす徴象を郎俊崎(瀬る。あが述記ういとた
ら、それはおそらく、小説という絵空事として始められた世界が現実に近づく、あるいは逆に現実を巻き込みか
けているということなのだろう。この点については、の
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
ちにもう一度立ち戻らなければならない。
並行してルツの物語が語られる。このルツの物語の中 に、途中から留津のパートの要素 とりわけ登場人物 が入り込んできて、その濃度は次第に高まってい
く。先に留津のパートを整理したので、それを基点としたルツのパートへの浸透として捉えるという立場を取ら
ざるを得ないが、これはもちろん仮説的な方法であっ
て、この混融は双方向的に動いている。
ルツは両親にかわいがられるが、弟高志と張り合うこ
とがある。しかし、後年になっても仲の良い家庭である。学校が好きだが、多動児的傾向がある。読書のため
に視力が落ち、眼鏡を掛けたいと思う。中学では、山田あかねという女子と、森と林(最初後者の名前は書かれ
ていない(という二人の男子と同じクラスになり、林に惹かれ、林から交際も申し込まれるが、山田あかねに譲
る。林も同じ高校に入り、おなじ生物部に入る。高校二年の夏休みにキスをするが、以後なぜか疎遠になってい
く。この林は、ゲイであるという点も含めて、留津の パートの林昌樹に通じている。 大学理学部生物科に進学。入学式で、渡辺幸宏という男子学生と知り合う。この学生は、ルツのパートの幼なじみの幸宏でもあるだろう。渡辺は、同じ生物科で〈理科系の女子にはめずらしい、派手なタイプ〉(
る岸田耀と付き合っていて、ルツは渡辺を通じて彼女と かがよ 108(であ
も親しくなり、長く付き合うことになる。地の文だが、
ルツにはもうひとつの世界があるらしいことが仄めかされる。〈ルツは知らない。ルツがそうであったかもしれ
ないもう一人の自分が、こことは異なる世界のどこかにいるかもしれない、ということを〉(
95(。
ルツは卒業して、ある研究所の技官となる。耀からその兄である映 はゆる(この岸田映は留津のパートの木村巴の
ボーイフレンドなのだろう、そしてこの木村巴はルツのパートにも現れる(を紹介され、交際し始める。一九九
二年、渡辺と耀の結婚式の二次会パーティで、林昌樹と再会する。この頃林は、自分がゲイであることを、ルツ
に打ち明けていて、以後、性的な関係が無いためか、ル
ツのもっとも親しい友だちになる。
映には木村巴という交際相手がいて、ルツは別れる。
一九九五年年の神戸の震災、地下鉄サリン事件のあと、一九九七年に家を出て一人暮らしを始める。幻想小説の
サークルで佐東心平(留津がのちに小説を書きはじめる時の担当編集者と同名である(と知り合い、同居する
が、ある日早めに帰ると、佐東がほかの女と一緒にい
る。この男をいつか後悔させてやる、という決心とともに、この関係は終わる。林との交遊は続いていて、飲み
屋でしばしばお喋りをする。
ルツは、研究所の上司である田中涼と付き合い始め
る。田中には家庭がある。関係は長く続き、彼女は突然、田中涼の子供が欲しいと思い、あたし女だったん
だ、まだあたしの中には、知らない自分がいるんだ、初めて恋というものの真髄を知ったのだ、と考え、結婚し
たいと思うが、田中には離婚する気はなく、東北大震災のあと、別れる(田中との関係は、留津のパートで八王
子が、妻が上司と不倫をしていて、関係は長く続いてい る、と告白するのと表裏をなしているだろう(。高校入学後から彼女は「なんでも帳」と名付ける雑記帳をもっているが、そこに「まぬけ」と書き込む(同じ時期に、留津もパソコンの「雑多」に同じ言葉を書き込んでい
る(。
ルツはその後、研究所に出入りしていた製薬会社のM
R(医薬情報担当者(である神原俊郎と知り合い(
388(、
第五部になって結婚する。ところで、神原俊郎という名は、留津のパートで彼女が大学卒業後間もなく結婚した
男の名である。俊郎は金にうるさく、両親の名が美智朗とタキ乃で、前者には愛人があり、後者は身勝手なふる
まいをする、という点も共通する。
『後当り割にツルは、章の最森の』うょしまき行へて
られていて、そこでルツは捨て犬だった雌犬を飼っていて、虹という名前を付けているが、それは留津の娘が虹
子であることと表裏を為しているだろうか? だが俊郎が虹を散歩させようと出かけるとき、〈俊郎のいちばん
近くを歩いているのは、西荻佐知子という、ルツの知ら
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
ない女なのだ〉(
女の大学時代の文学サークルの同人である。 507。西荻佐知子は、(津のパートの彼留 こうした重複の数々を見るなら、留津とルツは相互に溶解しようとしているように見える。それは作品冒頭の
同一性をふたたび望み見るところまで来てしまった、ということになるのだろうか?
4 琉都、流津、瑠通、るつ、る津
だが最初に触れておいたように、問題はまだ残っている。留津のパートとルツのパートの人物と出来事の相互浸透を見たなら、次に関心を惹くのは、よく似ているが
別の名前を持つ女を主人公にするいくつかの章である。これらの章は留津あるいはルツのパートとどのような関
係にあるのだろう? いくつかを具体的に見てみよう。
最初に現れるのは、第四部に入った第四七章の「琉 都」である。表記からすると、ルツよりも留津に近いのだろうか? 彼女は俊郎という男と出会って一〇年にわ
たる不倫関係にあり、俊郎が妻と別れられるとしても、 あと人生を共にする気持ちになれるかどうか不安でいる。この琉都の物語は、同じ名前を章題に含む、近未来の第六六章と筋の上では、接続する。そこで〈結局俊郎は、いまだに妻と離婚できていない〉(
505(。これは曲が
りなりにも結婚生活を持続させている留津の姿が背後にあるのだろうか?
次いで登場するのは、第四八章の「るつ」である。こ
れは表記からするとルツに近く、重なる点も多数ある。彼女には高志という弟があり(
373(、これはルツの弟と
同じ名前である。彼女の職場にも田中涼という同僚がいて、彼女は関係を持っている。だがルツが研究所では技
官・秘書であるのに対し、このるつは女教授である。第六五章の「るつ」もこれに接続する。彼女は六〇代で優
れた研究者である。〈五年前にR財団の賞をとったるつは、ますます研究に没頭してゆくこととなる〉(
504(。
三番目は、第五二章の「流津」である。彼女には虹子という名の娘がある。物わかりの良い我慢強い娘で、名
前は同じながら、留津の娘虹子とは異なる。流津は八王
子という男と定期的に食事する関係にあるのだが、大地震の日、たまたま会っていた八王子と、混乱に動かされ
て性関係を持ってしまう。二〇年後の第六四章では、〈八王子光男との刹那的な恋愛〉(
504(を思い出してい
る。これも留津のずれた姿だろう。
四番目は、第五九章の「瑠通」である。これは二〇
一七年に設定された章で、彼女は夫を浴室で感電死さ
せ、その死体を前にして、次のように考える。〈夫が憎かった。そして夫が好きだった〉(
478(。彼女は死体を
解体し、下水に流そうとして次のようにも思う。〈今自分は、自分の書いた小説の中にいるのかもしれない〉
(
現れる近未来の第六七章は、殺人の二〇年後に設定され 480。は度一うもる。いてめじきこ(を説小は津留時の書
ている。瑠通は〈俊郎を殺してから常に緊張してきたような気がするが、この生活ももう長くなった〉(
506(と
考える。彼女の殺人は露見していない。俊郎は抹殺され、他の女たちのパートに、その夫として送り込まれ
た、ということかもしれない。 最後は第六〇章の「る津」である。ただしこの章に現実のる津はいない。彼女は五〇歳で死んでいて、夫の俊郎は生きている。主人公になるのは娘の虹子である。虹子は、読書好きだった母の本棚を整理していて、手擦れのした、つまり繰り返した読まれたらしい『森へ行きましょう』という題の小説を見つけ、〈いつか、この小説
を読んでみよう、と虹子は決意する〉(
483(ところで終
わる。「る津」はやはり留津に近いだろう。彼女の章はこれ一つである。
琉都、るつ、流津、瑠通、る津、の五つの名前あるいは五つの物語は、留津あるいはルツとの間で、関係づけ
られるとしたら、どの様に関係づけられるのだろうか? 仮に留津から始めるとしたら、たぶんいちばん近いの
は、第五二・六四章の流津だろう。留津の場合と対比するなら、虹子という娘は従順で、流津自身は八王子と不
倫関係にある。その次に来るのは、第五九・六七章の瑠通だろうか? 一転してフィクションの世界の内部であ
ることが仄めかされているが、留津は、ライターの仕事
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
をきっかけに小説を書きはじめ、新人賞の佳作を得て、作家活動を始めているから、瑠通はその作中人物である
のかもしれない。次には第六〇章のる津だろう。彼女はこの時死んでいるが、夫と娘がいて名前は俊郎と虹子で
あり、読書好きで、蔵書を残し、その中に『森へ行きましょう』があるからだ。
後の二人は、ルツの側から見た方が分かりやすいだろ
う。ルツにいちばん近いのは、第四八・六五章の「るつ」だろう。カタカナがそのままひらかなに転化された
名前を持ち、研究所勤めで、上司と不倫関係にある。ただしルツが技官であったのに対し、るつは女教授であ
り、賞をとって六〇歳になっても研究に没頭するというずれがある。その次に来るのは第四七・六六章の「琉
都」だろう。ルツが薬品会社の神原俊郎と交際して結婚にまで辿り着くのに対して、琉都は相手は俊郎という男
だが、この男に対して、一緒に暮らせる確信を持てず、第六五章でも、俊郎はいまだに妻と離婚できていない。
おそらくこのようなグラデーションを伴って、留津 は、自己のアイデンティティを変質させながら、上記の五人の女性像を経てルツへと移行し、ルツは同じ五人を経て留津へと移行するのでもあるだろう。だがそれを二人の間の移行として確認するだけでは十分でない。留津とルツを両端に七人の女性がいるが、おそらくその両端の外側にも、相似的な女性の連なりがあるに違いない。それらの女性像が、実は重なり合い、押し合い、背け合い、潜り込み合って、不断に交替している。そう認めることが一番重要であろう。そのとき、次の問い、すなわちなぜこのような動きが出てくるのだろう、という問いが浮上してくる。
5 小説という動き
何がそのような動きを引き起こしているのかと問うなら、交差しながら挑発し合い、さらにその挑発を外側にも及ぼしていく二つの動きが見えてくるのではあるまい
か? ひとつは、それは留津がものを書いていて、やがて小説を書くことになるプロセスであり、もうひとつ
に、紹介記事を書いたり、座談をまとめるなどのライターの仕事を始め、その延長上で、八王子に勧められ
て、虐げられた女が殺人を犯すミステリーを書き始める。留津は〈自分が書いている小説に夢中に〉(
438(な
る。では小説を書くとはどんな経験なのか? 書いてみての彼女の感想は、次のように述べられている。
自分の心の内をさしだすような小説は書くまい、と思って
いたのに、仕上がってみれば、容れ物はミステリーというか
たちであるにもかかわらず、そのなかみは、留津の心の中を
これでもかこれでもかというほど見せつけるものとなってい
たわけである。これには留津自身も驚いた。(
438(
彼女は、学生時代の小説のような自分の内面を吐露する「純文学」を避けるために、ミステリーというジャン
ルを選ぶのだが、それでも自分の心の中が引きずり出されるのに驚く。そして小説を書くことが、次第に留津の
いちばんの関心事になっていく。巻末近くでは〈だから は、それを深部から衝き動かすような事件、この場合は二〇一一年の東北震災である。 留津が小説を書く過程をあらためて取り出してみよう。彼女は江戸川女子大の文学部に入学し、別の大学に行った木村巴に誘われてインターカレッジサークルに入り、そこで林昌樹に出会い、林に誘われて別の大学の文学サークル「門」に加わり、小説を書こうとする。しかし〈一年生の間じゅうをかけて書いた〉(
なをくし芳は判評の間仲てい除子王八は、』うょしま 99(『き行へ森
く、以後文学から離れる。結婚し、虹子が生まれるが、この娘は言語に関する優れた能力を示す。
虹子は中学で文芸部に入り、ライトノベルを書こうとする。それでルツは自分の『森へ行きましょう』のこと
を思い出すが、その時八王子から電話があり、亡くなった同人の遺稿集の編集に誘われて加わり、パソコンの操
作を覚え、「雑多」というファイルを作って思いついたことを書き込むようになり、このような雑記帳を持った
ことは、自分の人生で画期的な出来事だと考える。同時
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
こそ、と留津は思う。/わたしは小説を読み、小説を書く〉(
501験明表の念信だたは経(のこる。至にす記とに
終わらない。小説を書くとは、一歩を進めるなら、次のような経験となる。
小説を書いている時、妙な言いかたなのだけれど、
「じぶんは生きていないんじゃないか」
という、不思議な感覚に、留津はおそわれることがある。
今書いている小説の中のことが、あまりに色鮮やかに感じ
られるので、外にいる自分の方が何かの物語の登場人物にす
ぎなく思えてくるのだ。(
500(
これは当然であろう感想なのだが、この作品で興味深
いのは、この感想が感想であるだけでは留まらず、それが記述される作品そのものの形成にまで作用を及ぼして
いくらしい点である。最初のひとつは第五一章で、留津が恋愛感情があるかないか分からないまま八王子と会い
始めた頃、彼女は八王子との快楽を想像して鏡の中の自 分に眺め入り、〈まるで野蛮なセックスをおこなってきた後のような様子〉(
417(をしている女と会話を交わす。
つまり向こう側の世界を覗き込む。そして流津が現れる次の第五二章では、この流津は、留津と同じように、地
震による混乱の中を八王子に連れられて自宅に辿り着くのだが、その後不倫関係に入り、鏡の中から「ねえ、そ
ちらは、どんなだった」と話しかけられ、「とっても、
よかった」と答える。これは留津の裏返しだろうか? ついで第五九章の瑠通は、夫を殺害し、バラバラにして
死体を隠し、二〇年後も露見していない。そして〈今自分の書いた小説の中にいるのかもしれない〉(
480(と自
問する。これらは留津から始まる変容だったが、それは書くことのうちで書くことによって引き起こされた変容
と言うべきだろう。そして七つの名前を揺さぶる動きの根底には、殺人という暴力が露呈されないまま作用して
いるということだ。
留津は他方で、最初に書いたミステリーで登場させた
瀬崎という男に魅力を感じ、シリーズにして書き続ける
らない動物の写真を見て、留津に「森へ行きましょう、だね」(
1(9イのそたっ知とだゲ(が彼く。やぶつと後、
留津はその写真の動物を思い出し、〈あの、馬のような、馬でないような動物は、今も森の中にいるのだろう
か? あの動物にまたがって、森の奥へ奥へと行ってしまいたかった〉(
133(と考える。馬のような、馬でない
ような動物というのは、ゲイの男性のことを指している
のだろうか? ともあれ森の中へ行くというイメージは彼女に憑きまとう。そして中年になっても〈わたしは、
知らない間にまたあの森の中にさまよいこんで、いつまでも出てくることができないでいる〉(
306(と考える。
この執拗さによって森のイメージは、ルツのパートにまで浸透する。あるいはルツのパートは、森のイメージ
を捉えることで、留津のパートへと遡る。第三八章で、佐東心平の裏切りを知ったルツは、〈今あたしは、深く
くらい森にいる〉(
かも知れないが、作品中では「森へ行きましょう」とい ((9(と考える。これは一般的な表現
う表現と明らかに響き合っている。そしてこの表現は、 のだが、先に触れたように、その瀬崎がじつは俊郎そっくりであることに気がつく。これはどういう意味だろ
う? おそらく小説には、想像的な世界への拡大の作用があると同時に、翻ってもう一度現実を見直させる作用
もあるということだろう。反作用であるこの作用がなければ、想像を繰り広げる作用も機能しないのだ。この寄
せては返すような作用を媒介するのが小説を書くという
行為なのだろう。
興味深いのは、留津における小説の生成は、実は最初
の小説『森へ行きましょう』を基点としているらしいことである。この小説は、最後近く、る津が主人公となる
唯一の章である第六〇章、つまり彼女は死んでいて、娘虹子の物語になる章だが、そこで母の持ち物の中に見出
される古びた本として現れる。ではこの小説は完成され、刊行されたのかもしれない。
内容については不明なままのこの小説は、題名だけで間歇的に留津に語りかけて来る。林と旅行に出かけた
時、彼はロビーにあった馬のようだがなんだかよく分か
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
作品の終わり近く十七年後の第六一章で、ルツと俊郎との間で、人間の気持ちは自分のも他人のものも本当は知
ることが出来ず、踏み迷うだけだが、それは受け容れるべき現実なのだないというということを肯定するための
表現として浮上する。
「ねえ、さっき、森って言ってたよね」
ルツの手を握りながら、俊郎は言った。
「そうだっけ」
「たよ。たてっ言る。げあてめた冷あがくぼあ。なだ手いた森
に迷いこんじゃう、つて」
ルツは思いだして、こくりとうなずいた。人生のあちらこ
ちらで、森に迷いこんではさまよっていたルツ。
「ぼくも、ときどき森に迷いこむよ」
「俊郎さんも?」
「うん。ルツさんの森は、どんな森なの?」
「暗ろこどろこともでて、くて、木いてっ茂とうそっうがで、
梢 こずえごしに光がさしている感じの森」
「ふうん、ぼくの森は、鎮守の森っぼい、日本の森だな」
「俊郎さんは、その森で、どんなふうに迷うの」
「帰れなくなっちゃうんだ」
「今も、迷うことがある?」
「まこい迷に森も、とあたっ集うでなんみ月正だいなこん、ん だ」 俊郎さん、とルツはささやき、俊郎を抱きしめた。俊郎
も、抱きしめかえした。
みんな、森に行っちゃうんだな。ルツは思う。森で、迷っ
て、帰れなくなって、でも、それでも、いつの間にかどうし
ても森に行っちゃうんだな。
「緒うょしまき行に森じ同、に一ねで人二は度今、んさ郎俊、」 ルツはささやいた。俊郎が、無言でうなずく。もうルツの
手は、俊郎と同じくらいあたたかくなっている。森へ行きま
しょう。明日、その言葉を「何でも帳」に書こうと、ルツは
思った。そして、俊郎との間に何かがあった時には、必ずそ
のページを問いて見返そう。(
495(
ている出来事の意味づけを越え、その内的な構造を見極めるところまで下ってきたとき、さらに下層から、もう
ひとつの動きの作用していることが見えてくる。それは、この作品への二〇一一年の東日本震災の介入であ
る。この出来事は、第四四章のルツの、そして第四五章の留津のパートで入り込んでくるが、それはエピソード
あるいは時代的な背景の提示にとどまるものではなく、
大きく深い変化をもたらしている。まず目に付くところでは、これが第三部の始まりとなる。この論の冒頭で
は、第三部の指標は、三〇代という年齢のように見たが、この震災を指標とすることの方が有効であろう。そ
してこの第三部から、琉都、るつ、流津という異質な人格が現れ始めるのである。
第四四章でのルツは、震災の前から田中涼と不倫関係にあって、彼の子供が欲しいという欲望を持ち、結婚し
たいとも思う。そのような心理状態で震災に遭遇する。その時彼女は研究所にいて混乱を経験し、曖昧な記憶し
か持たないが、〈何かが、違ってしまった〉(
3((ことを( が、彼女らの模像る琉都、つ、流津、瑠通、で、る ラクルユミシー に品えてく作のこ見ルツるのは、留津か間らでまの
津、というさまざまな様態で浮上していることである。これらの模像は、留津とルツの外側にも拡がっているこ
とだろう。しかもそれらは、ただ並置されているだけではなく、互いに重なり合い、侵入し合い、また背き合っ
ている。その動きは、「森へいきましょう」という、作
中では書かれたのかそれとも書かれないままに放置されているのか不明な小説の中に、侵入しかつそこから逸脱
する動きとして現れている。そしてそれらが、『森へ行きましょう』と題する現実の小説という容れ物に、即し
ようとし、それを満たそうとしながら満たすことが出来ず、重なり合おうとしながら逸脱するそんな運動を作り
出している。この小説の魅惑の源はたぶんそのあたりにある。
6 作品はさらに下方から脅かされる
『うら語を、品作のつとひい森と』うょしまき行へれ空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
確認し、そして田中涼と別れる。
留津は第四五章で、八王子と渋谷にいて、前述のよう に妻が上司と長い間不倫関係にあるという話を聞かされている これはルツのパートの波及である 最中
だった。留津は八王子にスニーカーを買ってもらい、都立大学にある自分のマンションまで送って貰う。
興味深いのは、二人とも揺れに襲われたとき、じーん
という音を聞いていることだ。ルツの場合は、それはもともとは実験室の機械が出している音で、彼女は研究所
に来た時以来、ずっとこの音を聞いているが、どの機械がそんな音を出しているのか、わからない。それは小さ
な虫がずっと鳴いているような音である。だが彼女は突然、虫の鳴き声が大きくなった、と思い、同時に、目 め眩 まい
を覚える。研究所の機会が常に出しているじーんという音の影からもうひとつのじーんという音があらわれて、
彼女の耳に届く。そして激しい揺れがやってくる。揺れが止むと、音も聞こえなくなる。
留津の場合は、八王子光男と一緒にテーブルの下に潜 り込んで、揺れの収まるのを待つ。その間の事情は次の様である。〈留津の耳の中で、じーん、という音がして
いる。揺れが始まったときから聞こえている音だ。おそらくそれは、外からの音ではなく、留津の体の中で鳴っ
ている音なのだろう〉(
が続体内に留まりけらる。そしてそれくばおなは、し 345場。留津の(合は、震の揺れ地
〈まだわたしは、何もしていない〉(
351(という心残りを
彼女のうちにかき立てる。
この地震は大津波を引き起こしたが、ところで『水
声』でも、このような「水」の経験は同じ擬音とともに語られていた。セブンアップを好んだ菜穂子は、炭酸が
喉を痛くしつつ飲み込まれていったあとの、むなもとで起きる「じーん」っていう音を好んだ。それはまた、陵
と「わたし」がつながり合う時の音でもあって、人間の存在の最も基本的なところでの動きからくる音だった。
同じ音が『森へ行きましょう』へも浸透する。この音は、地震の前触れとされる地鳴りのようなものなのだろ
う。しかし、地震とはたぶんただの地震ではない。それ
は制御できない何か大きな不可解な力の生起なのだ。その力が、互いを知らないはずの二人の女の体を、同時に
横切り、重ね合わせながら何かを変え、そして消えていくのだ。このような力をあまりに比喩的に読むことは的
確ではないけれども、ただの天変地異として読むなら、十分ではないだろう。この不可解な力に衝き動かされる
経験は、たしかに人を変容させる。ルツは第四八章で
は、研究所では数少ない女教授であるるつに変容する。
他方で留津は、虹子という娘を持ち続けながら、地震
の混乱を一緒にくぐり抜けたことを契機として、第四七章で、俊郎と不倫関係にある琉都という女に変容す
る。冒頭に見たように、これが模 シミュラークル像の最初の出現である。この時留津がすでに書くことに手を染めているこ
とは偶然ではない。この行為はたぶん、さらなる進行を促していて、琉都はさらに流津への変容を促される。第
五二章でこの後者は、震災から避難してのち、八王子との不倫関係に入り込み、鏡に向かって自分は男を諦めな
いと呟くのである。 このようにルツの側からも、留津の側からも変容が起き、二人の間には五つの、そして可能態としては無数の模像が現れる。その力は、作品が半ば自分の外に位置するところからやって来る。こうした作用を受け容れ、そしてそれを、変容する生成へと導いていくことを、『森へ行きましょう』という作品は、たしかに示している。
第
1(章 村上春樹つながり合う世界へ
1 二つの動き
同時代の作家たちの関心を知ろうとして四人の作家を最初に提起し、そこに見えてくる関心を先行する時代に遡らせ、また隣接する他の領域に拡げ、その上でもう一 注(
( 数字で示す。 引用は後者から行う。出典箇所は、引用のあとにページを 1( 二〇一四年、文藝春秋刊。のち二〇一七年に文春文庫。
(( 二〇一七年、日本経済新聞出版社刊。
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
度これらの作家の近作を検討することで、私たちの現況をよりよく理解できると考えてきた。それでもっとも
力を注がれたであろう作品つまり長編を対象とすることとし、多和田葉子については『百年の散歩』(二〇一
七年(を、村上龍については『歌うクジラ』(二〇一〇年(を、川上弘美については『森へ行きましょう』(二
〇一七年(を、というように、二〇〇〇年代に入ってか
らの作品を取り上げた。
村上春樹については、二〇〇〇年代に入ってからだけ
でも複数の長編があり、とりわけ長大なものとしても、〇二年の『海辺のカフカ』、〇九年の『1Q84』があ
る。それらも興味深いのだが、一七年に『騎士団長殺し』が刊行され、これまでとは違うところへの一歩がな
されているように思える。そこでこの長編を主なる検討の対象としたいが、そこへの道筋の検証のために、〇四
年の『アフターダーク
(1
(』を経由しよう。この作品は右記の長編も含めて先行する諸作品とは多少異なった様相を
示すように思われるからである。 何が違ったのかについては、論証の後にしか語れないが、予想できる範囲のことを書いておこう。村上の作品には二つの様相があるように見える。ひとつは、主人公は何か得体の知れないものからの呼びかけを受け、、そ
の正体を突き止めようとするが、それがついに知られることがないために、彼の存在は不安定化する、という様
相である。最初に取り上げた「象の消滅」は、小さいけ
れどもその典型であり、長編なら『スプートニクの恋人』(一九九九年(や『色彩を持たない多崎つくると、
彼の巡礼の年』(二〇一三年、以後『多崎つくる』と略称する(が挙げられるだろう。それと並行して、この必
然的な失敗のために、主人公は、試みを繰り返さねばならず、そのために反復が起きるという点がある。「パン
屋再襲撃」がその例であり、結果として、世上パラレル・ワールドと呼ばれる様相が現れる。長編で言えば、
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(一九八五年(や、『1Q84』が典型だろう。もうひとつ
の世界の経験、あるいは似ているけれども異なった世界
のが並行して進行し、時には交錯が起きるような構成が促される。
これら二つの様相は、多くの場合、どちらかに重みを置いて現れていたように思える。だが少し考えれば分か
るように、これら二つの様相には不可分の関係がある。というのは、解明不可能なものの経験は、その解明の試
みを繰り返すことを促すのであり、その反復によって少
し違った世界が現れ、便宜的に言えば、その最初と二番目の、あるいは任意の二つによって、並行するが少し
違った二つの世界という構造が作り出される。だから、反復せざるを得ない不可能なものの経験と、空間の多重
的な形成というのは、実は同じ一つの出来事である。空間は集約されかつ拡散する。その動きの一体性はどのよ
うにして実現されるのだろうか? より拡大された実現はどんなものだろうか? そのような問いが生まれてく
る。
二つは表裏を為す同じひとつの出来事だが、現実の作
品歴を見ると、正体の知れないものに惹かれてしまう経 験は、発端であるためにだろうが、村上のほとんどの作品に見ることが出来る。たとえば『1Q84』は、主人
公青豆が、高速道路上で不意に非常階段を降りてしまうという出来事から始まる。他方で、この経験が反復をも
たらすこともこれらの作品に見ることが出来るが、それらにおいて、反復は一度だけに留まっている 少なく とも叙述された範囲では ように思われる。それがパ
ラレルワールドという、それなりに魅力的だが、そう考えてしまうことは制約となりかねない見方を作ってい
る。では反復が一回限りではないこと、むしろ複数回であるべきということがあり得るとしたら、それを実現し
ようとした作品はどんなものになるだろうか?
ターダーク』はそれを示す例の一つだろう。 『アフ
2 闇の中の輪舞『アフターダーク』
小説」であって、この種の作品はしばしば評判が悪いの 『フわ編長のめ短ば「れせ言タア上村は』クーダーに
だけれども、文体のペースを揺さぶるなど、実験がしや
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
すい分、この長さが好きなのだと言っている
((
(。一人の少女が都会の夜を経験するという話は平凡だという批判、
風俗小説に過ぎないという見方、また細部のいくつかが未解決のまま放置されて欲求不満を残すという指摘も
あって、さほど評価の高い作品ではなかったようだ。しかしこの作品にはもっと興味深い出来事が捉えられてい
る。
物語は、深夜の東京の盛り場のとあるファミリー・レストランで、ひとりの少女が本を読んでいるところから
始まる。そこに楽器ケースを持った一人の青年が入ってきて、彼女を高校時代の同級生の妹だと認めて、声をか
ける。少女の名前は浅井マリ、姉の名は一字違いでエリ。青年の名はタカハシである。タカハシは学生で、
ジャズ・バンドを仲間と組んでいて、深夜のビルの地下を借りて練習するためにこの界隈にきている。彼はマリ
としばらく話して出ていくが、そのあと一人の大柄な女がやってくる。この女はアルファヴィルという名のラブ
ホテルのマネージャで、カオルといい、そのホテルで中 国人の娼婦が客に殴られる事件があり、知り合いであるタカハシから、中国語の出来る少女 マリは中国語が
話せる がいると教えられ、通訳を頼みに来たのである。この出会いをきっかけに、マリは、通常なら経験す
ることのない都会の夜を経めぐることになる。その様子が、「私たち」と称するどこにでも出没する〈架空のカ
メラ〉(
41(によって語られる。
アルファヴィルに行ってみると、傷を負った若い娼婦がいる。聞いてみると、急に生理が始まり、行為を行う
ことが出来ず、怒った客に殴られ、持ち物を全部奪われてしまったのである。マリの手助けを得てカオルはこの
娼婦の手当をし、中国人組織に連絡を取らせて、迎えに来させる。彼女は客の顔を監視カメラの記録映像から切
り出し、迎えに来た男に渡す。男は、この客を見つけ出し、見せしめとして耳を片方切り取ると告げる。
マリは、カオルに連れられて深夜のジャズ・バーに入り、カオルが女子プロレスのレスラーだったことを知
る。そしてマリ自身も自分のことを語る。それによれ
ば、彼女にはエリという美貌の姉があって、彼女の家出は、この姉に対する複雑な感情のせいである。彼女は内
気だが勤勉な努力家で、恋愛の経験もない。彼女はカオルに紹介された別のファミリー・レストランで時間を過
ごし、休憩に来たタカハシと会い、今度は休むためにアルファヴィルに戻る。ホテルの従業員でコオロギと呼ば
れている女が、やくざに追われているらしいことも知
る。明け方彼女は、練習を終えたタカハシと落ち合い、駅に向かい、再会を約して別れる。タカハシとの話す中
で姉に対する共感を取り戻したマリは、家に戻ると、眠る姉のベッドに滑り込んで、姉を抱きしめる。
この十分にありそうな話の中に、村上春樹特有のファンタスティックなイメージが入り込んでくる。マリの姉
であるエリは、二月ほど前に家族に、これからしばらくの間眠ると宣言して、そのまま眠り続けている。彼女が
眠る部屋にはテレビの受像器があるが、それは電源が切られているのに作動し始め、その中に一人の男が現れ、
受像器の内側から眠る彼女を見つめ続ける。この男はマ スク様のもので頭部を覆われており、「顔のない男」と呼ばれる。そしてエリは、この男に見つめられること
で、テレビの内部へと拉致される。このいっそう非現実的な世界で、彼女は目覚め、助けを求め、あきらめる。
そしていつの間にかもう一度自分の部屋のベッドに戻って、再び深く眠り続ける。
このようにさまざまな切開面を見せながら、まずそれ
は、マリという十分に可愛く頭も良いのに美貌の姉にコンプレックス持つ少女が、都会の夜の盛り場で社会の裏
面を見聞し、生きることを見直す経験譚のように映る。その意味では、この作品は人生への少女のイニシエー
ションの物語である。村上自身はこの見方に傾いているようだ
(3
(。また疎遠になってしまっていた姉妹の愛情回復
の物語でもある。あるいは彼女は、夜明けの駅でタカハシと再会を約して別れるが、読者としては彼ら二人がこ
れからより親しくなるだろうことを十分に予想させられる。その点からは、これは〈見るからにまともな〉
(
85(けど、けいぽっジドはかと見〈と、女少るれわ言中
空間の輻輳に関する試論 Ⅶ(最終回)
身は意外にまとも〉(
ツ・ガールの物語でもある。 93(と言われる青年のボーイ・ミー
3 三組の恋人たち
しかしながら、この物語には、不思議なところがある。ファンタスティックなイメージをちりばめた、若い男女の出会いの物語であるように(私にはまずはこの見
方が一番しっくりする(見せながら、読む者を躓かせる箇所がいくつかあって、もしそれらにしばらく立ち止ま
るならば、別の視野が開けてこないとも限らないのだ。
物語で一番手前にいるのはマリである。しかし、この
生真面目な少女の上に重なってくる影がある。いうまでもなく姉のエリである。二人は姉妹で一字違いの名前を
持っていて、それは始めと終わりの二度、確認される。前者はレストランにはいってきたタカハシによる認知
である。〈そうそうマリちゃんだ。エリとマリ。一字違い〉(
1((るめしき抱をリエい最てっ眠はリマに後る。
二人の重なり合いは誰の目にも分かる。しかしもう少し 注意するなら、そこにもう一つの影が重なってくることが見えてくる。それはマリに助けられる若い中国人の娼婦である。マリはこの娼婦の年齢が自分と同じ十九歳であることを知って、名前も尋ねる。後者は少しためらった後、「郭 グオ・冬 ドン莉 リ」と答え、マリも自分の名を伝える。つまりこの女も、名前に「リ」という音を持っていて、マリとエリの重なりの中に入り込んでくるのだ。 そこに気づくなら、この三人の若い娘たちがほかの視点からも重なり合うのが見えてくる。マリは後になってタカハシに、ドンリについて、一目見たときからその子と友達になりたいと思ったこと、自分がそんなふうに思うことはめったにないこと、そして〈今ではなんだかあの子が、私の中に住み着いてしまったみたいな気がす
る〉(
によことを知って、次のういに言う。〈こんな風るてけ 19(ことを語る。他方タ(カシは、エリが眠り続ハ 考えてみてはどうだろう? つまり、きみのお姉さんはどこだかわからないけれど、べつの「アルファヴィル」
みたいなところにいて、誰かから意味のない暴力を受け
ている。そして無言の悲鳴を上げ、見えない血を流している〉(
19((。
このようにしてマリ、エリ、ドンリは重なりあうだろう。すると重なり合いは、さらに複層化する動きを見せ
てくる。呼応してくるのは、これらの三人の若い娘たちのそれぞれに関わる男たちである。三人の男たちの間に
は、共通点などないように見える。タカハシは、前述の
ように見かけはドジだが中身はまともな青年であり、娼婦を殴りつけた男は白川といい、有能なIT技術者で知
的な印象を与えるが、暴力を厭わぬ冷徹な男であり、エリのパートナーは、テレビの受像器の中にいる顔のない
不気味な男である。まず白川とこの顔のない男の間にはある種の重なり合いがあることが示唆される。白川は、
深夜のオフィスでコンピュータ・システムのメンテナンスの仕事をしているが、そのオフィスがテレビ受像器中
の顔のない男の部屋と比較され、次のように述べられる。〈その部屋が白川が深夜に仕事をしていたオフィス
に似ていることに、私たちは気づく〉(
165ネムー(じ。同 と、で匿名の語り手はふか〈たろを隠された耳を、ち注 る。彼は半透明のマスクを被っているのだが、あるとこ るは重要なのは、後者点に顔がないとされいあでて る。 し事務所の光景は、むしろ注意をそらせるための罠であ 関係があるらしいことは、十分気づかれるだろう。しか の入った鉛筆もある。だから、白川と「顔のない男」が
意怠りなく彼女に向けている〉(
は形が見えない。それは切断されているのではあるまい 13((と洩らす。彼の耳 か? 他方で、私たちは、娼婦を傷つけた白川が、中国人組織に追われていつか耳を切られることを知ってい
る。白川とは耳を失おうとしている男なのだ。「顔のない男」と白川が重なるのは、本当はこの点においてであ
る。
すると、耳に関する特徴は、タカハシをも引き寄せる。
物語の始まり、マリに再会したところで、マリは彼の頬にある傷を見て、彼がかつて会ったことのある姉のクラ
スメートであることを思い出す。それを言うと、彼は、