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カントの目に映じた日本

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(1)

カントの目に映じた日本

著者 宮永 孝

出版者 法政大学社会学部学会

雑誌名 社会志林

巻 67

号 3

ページ 1‑54

発行年 2020‑12

URL http://doi.org/10.15002/00023723

(2)

はじめに

近世ドイツを代表する哲学者カント(一七二四~一八〇四)は、当時東プロシア第二の首都であったケーニヒスベルク(現・ロシア領カレーニ

ングラード)で生まれ、当地において八十年の生涯をおえた。第二次大戦後、この古都はがれきの中からそ生し、ベルリンやミュンヘン、その他

のドイツの大都市とおなじように、新しい市 まちとして生まれ変った。カントはケーニヒスベルクの隠者ともいえる人であった。かれは終生この市を

はなれず、教育畑をあるき、家庭教師、高等学校の教師、大学の私講師をへて、四十歳なかばで母校の教授になった。

カントはケーニヒスベルクの大学の教壇に立った翌一七五六年(宝暦6―

32歳)の夏学期から、論理学・形而上学・自然地理学の講義をはじめ   

  宮 永 孝 カントの目に映じた日本

はじめに一  日 の本 もとのこと一  ジパングのことを伝えたほら吹き男

     マルコ・ポーロ一  元史にみる孛 ボーロア羅(マルコ・ポーロ)一  ポルトガル人の日本発見の記事一  カントの自然地理学  開講 一  カントの手稿(日本記事)

    

テクストの分析と寸評一  桑木論文「カントの観たる日本」の誤謬    むすび

カントの日本像の形成

[英文レジュメ](Abstract in English )

(3)

た。かれは「自然地理学」を主要な科目とみていた。みずからその講義をたのしみ、増補しながら、一七九七年(寛政9―

73歳)の夏学期まで、

じつに四十余年もそれをつづけた。

かれは東洋諸国にも関心をもち、それについて講義している。その中には当然日本もふくまれる。かれは日本の国土と日本人

統治者

宗教(旧教や仏教)

資源

医療(ハリやきゅう)

衣・食・住など、広義のわが国の風俗習慣を広範囲にわたって皮相的に講じて

いる。筆者が本稿において問題提起したものは、左記のような点である。

一  カントは日本をどのように観、それについてどんな講義をしたのか。一  講義は何を用いて準備したのか。カントの日本研究の資料は何であったのか。

「カントの観たる日本」(『哲学雑誌』第

31巻第 352一翼(一八七四~九木四六)であっ厳桑号を所収、大正5・6)発者・表したのは、哲学た。

いまから約百年まえのことである。当時、研究材料がじゅうぶんでなかったにもかかわらず、よく調べて書きあげた労作である。

筆者が本稿で意図したものは、カントの講義のもとになった手稿(日本記事)を分析することによって、その材源を明らかにしようとしたこと

である。が、こと志しに反して、じゅうぶん解明できなかったから、もくろみは成功したとはいえない。これはその中間報告にすぎないことをお

断りしておく。

一  日 の本 もとのこと

わが国の国号

日本は、こんにち〝ニッポン〟とか〝ニホン〟とよばれ、この二つが用いられている。この語は〝東の方〟の意の〝ひのも

と〟(日が出はじめる所の意)を漢字であらわしたところから、わが国の国号となったものらしい (1)。わが国では、四半世紀半ばごろ山 和政権が成

立し、中部地方から北九州までを統一、その後関東、東北を平定し、国家統一がなされた。そのころ、国号を〝やまと〟(倭)とか〝おおやま

と〟(大倭)といった。その後の国号の変遷は、左記のとおりである。

日本語文献にみられるもっとも古い日本の名称は、『日本書記』(わが国初の勅撰による歴史書。全三十巻。養老四年=七二〇年の成立)の巻三

(4)

にみられる

あきしま(大和の国の古称)   豊 とよ秋津島(「とよ」は美称。日本国の異称)

であるようだ。ほかに

あしはら(「あし」の生い茂っている国の意)   倭 やまと(もともと中国での呼び方。「やまと」と訓読したもの)   八 しま(八つの島の意)   豊 とよあしはら

おうしま(八つの大きな島の意)   扶 そう(中国からみて、太陽のある東方の国の意)   暘 ようこく(東方の国。太陽の国の意)

などがある。さらにつぎのようなものがある。

日本(やまと)   おおやまと………四世紀中ごろの大和朝廷の時代。日本国の異称。ニホン   ニッポン………室町時代(

14世紀~

16世紀)

大日本帝国………旧憲法(明治

日本国………新憲法(昭和 22年制定)により、昭和二十年までの呼称。

21年公布)により、こんにちまでの呼称。

わが国の国号の来歴をかんたんに記すとこのようになるが、一方隣国である中国の正史は、日本をどのように呼んでいたのであろうか。中国人

が日本につけた国名は、じつにたくさんある。その移りかわりを記すと、つぎのようになる。

倭(「ウオ」と発音する)   倭 ウオレン人………『前漢書地理志燕 えん』のくだり。「倭」は中国での呼び方。日本でも室町時代ごろ、〝わ〟と音読し、日本を意味する語として用いた。「倭人」は、中国の立場からの日本

(5)

人の称。

倭   倭人………中国の正史「三国史」の「魏志」(陳 寿撰)にある。三世紀前半。倭   倭 奴国(下男の国の意。日本人をさげすんで呼んだ)……中国古代の史書「後漢書―倭伝」「魏志―倭人伝」などにみられる国。一~三世紀ご

ろ、北九州に存在した。倭人   倭 ウォクォ国………「晋書」「宋書」「南斉書」「南史」「北史」「隋書」。漢代以後、中国から日本を呼ぶ称。

倭国   日 ルーベン本………「旧唐書」注・倭国に〝日本〟がくわわる。

     日本………「新唐書」注・倭国が消える。

ルーベンクオ本国………「宋史」「元史」。日本………「新元史」「明史稿」「明史」。

注・日本国の〝国〟の字をはぶいている。日本………「清史稿」「清史」。

        注・大航海時代叢書Ⅸ  ジョアン・ロドリーゲス『日本教会史  上』岩波書店、昭和

42・   『旧唐書倭国日本伝宋史日本伝・元史日本伝』岩波書店、昭和 10、石原道博編訳 31・9を参照。

日本のことをはじめてヨーロッパに伝えたのは、ベネチアの旅行家マルコ・ポーロ(一二五四~一三二三)である、と一般にいわれている。が、

かれ以前に陸路中国(蒙古)まで出かけた者がおり、中にはリュブリュキのように、帰国後、中世のヨーロッパに、カタイ(中国)のかなたにふ

しぎな国(はっきり日本とはいっていない)があることを旅行記に書いた布教師がいる。

  ジオバンニ・デ・ピアノ・カルピーニ………

Giovanni de Piano Carpini(一一八二?~一二五二)

  ギヨーム・リュブリュキ……… イタリアのフランシスコ派修道士。教皇インノケンチウス四世により、モンゴル帝

国の改宗と偵察のため派遣された。一二四五年リヨンを発ち、二年後に帰国した。

フランスの修道士。教皇インノケンチウス四世の親書をもって蒙古におもむく。一

(6)

カルピーニが蒙古に派遣されたのは、蒙古の遠征軍が欧州において無数のキリスト教徒を殺りつしたあげく掠奪行為をおこなったことに対する

抗議とかれらをキリスト教に改宗させるためであった。かれは帰国後、旅行記をかき、往還のようす、蒙古の政治・風俗などを著わし、ヨーロッ

パに紹介した。が、その中に日本のことは一つも出てこないという (2)。ベンヤミンも日本について何もふれていないようだ。

しかし、リュブリュキだけは、その旅行記において、伝聞として、中国の東方に不老国があることを記している。いわく

「かれらはまた事実としてこんな話をした。信じがたいことだが、カタイ(中国)のむこうに一国があり、その国では何歳になっても老いるこ

とはないという (3)」 カタイ Cathay は大海に面した国という。おなじページにカウレ Caule(朝鮮)の名もみられることから、この東方の不老国とは、まぎれもな

く日本のことを暗示している。が、リュブリュキには、そこがどんな国か、はっきり想像できなかったであろう。

ケンペルは『日本誌』の「第六章  日本人の起源について」において、この不老国にふれている。かれはヤン・ハイヘン・ファン・リンスホー テン(一五六三~一六一一、オランダの東洋事情研究家)が、はじめて著作(ケンペルは書名をあげていない)で紹介した物語 (4)である、といい、

ある皇帝の侍医が、不老不死の念願をたてている主君の妙薬をつくるために、けがれを知らない少年少女各三百名を引きつれ日本に渡ったという

エピソードを紹介している。

これは不老長寿のくすりを求めた秦の始皇帝(在位前二四七~前二一〇)が少年少女三千人をつけて、徐福という者を〝海中の蓬 ほうらい山(山東半

島のはるか東方の海にある山)〟に派遣したという話に由来している。が、かれは帰国しなかった。後漢書東夷列傳は、この蓬萊山のことを、神

仙の国

不老国の倭国(日本)にあたるとした (5)。いずれにせよ、蓬萊島はもともと仮想の島であった。 Guillaume Rubruquis(一二二〇?~九三?)

  トゥデラのベンヤミン………

Benjamin(一一六〇~一一七三) 二五五年トリポリに帰る。スペイン北部―ナバレ王国のトゥデラ生まれの立法学者。スペイン系ユダヤ人。パ

レスチナ、ペルシャ、中国まで旅行した。

(7)

一  ジパングのことを伝えたほら吹き男  マルコ・ポーロ

さて、日本のことを〝ジパング〟または〝チパング〟として、その旅行記によって、ベネチアの市、いなヨーロッパ全土に知らせたのは、マル

コ・ポーロであった。十三世紀のことである。マルコ・ポーロのわが日本の呼称は、異本によりまた後世の地理学者らにより異なるが、つぎのよ

うなものがある。

Zipangu   ジパング  Zipangri   ジパングリ Chipangu   チパング  Cipangu   チパング   Cipingu   チピング Gipangu   ヂパング  Chiapagu   チアパグ

「日本」はいまの中国音で Jepuen と発音し、福建省などの南方音では Jipon となるという (6)。また「日本国」は、Jih pen kuo というらしい。この

発音は、いまかかげた七語によく似ている。マルコ・ポーロがいた元代(モンゴル族の王朝。一二七一年~一三六八年まで)において、日本のこ

とを〝日本国〟とよんでいた。

日本は、北方言の漢音で、〝ジツ〟または〝ジョク〟、本は北方、南方音で〝ホン〟だという(李家正文著『外国人による  日本列島の発見』人物往来

社、昭和

37ズ三四、ポルトガルのイエス一会宣教師。豊臣、徳川両政六一?~・ア2、一〇四頁)。またジョン・六ツズ・ロドリーゲス(一五権

の通訳をつとめた。『日本教会史』[一六二〇~三三]の稿本を執筆した)によると、シナ人(中国人)は日本(〝にほん〟、あるいは〝にっぽ

ん〟)を、かれらのことばで、〝ジョプエン〟〝フォキエン〟(福建方言)〝ジェプエン〟(広東方言)と発音し、これからポルトガル人はそれを訛っ

て〝ジャパン〟Japão とよんだという。マルコ・ポーロが元の都(北京)で耳にしたであろう「日本国」の発音は、中国官話の発音で

ジツホン

(8)

ジョクホン であり、それがヨーロッパで訛 なまって(くずれて)

ジパング、チパング、ヂパングとなったもののようだ。

一方、日本人はいつごろマルコ・ポーロのことをはじめて聞き知ったのであろうか。伴 ばん  信 のぶとも(一七七三~一八四六、江戸後期の国学者。小 ばま

藩士。国史の研究にすぐれた業績をのこした)は、長崎の蘭通詞・志 づき忠雄(一七六〇~一八〇六、江戸後期の蘭学者、天文学者)が、ケンペル

の『日本誌』を抄訳し、その中に日本のことやマルコ・ポーロのことが出てくることを伝えている。伴はドイツをセルマニヤとよび、ケンペルは

〝ケンフル〟といい、ベネチア出身のマルコ・ポーロは、

搦発亜国のマルキユス、ポーリュス (7)

と呼んでいる。西洋人は、このマルキユス・ポーリユスの話により、はじめて皇国(日本)があることを知ったという(伴  信友「中外経緯伝草 稿  第二」 (8))。

伴はいつごろこの稿本をつくったものか不明だが、渡辺華山(一七九三~一八四一、江戸後期の蘭学者、思想家)は、江戸参府のオランダ貢 こう使

(商館長)ヨハネス・エルデウィン・ニーマン(一七九七~一八五〇)が、天保九年(一八三八)三月、江戸に来たときのエピソードを伝えてい

る。このニーマンという商館長は、知識欲があるばかりか、読書好きであったようだ。

旅宿(江戸―日本橋長崎屋源右衛門方)において、日本人に会うと、江戸の町数、橋の数、戸数、江戸城、寺社、邸宅(大名屋敷)などについ

てさかんに質問したという。ニーマンは、ケンペルの『日本誌』(何語版か不明)を江戸まで持参し、「ケンプルの著 あらわせし日本志を傍 かたわらに置 おいて、読 よむこと

おこたらず」という。将来、日本の歴史についていろいろ刊行されようとも、ケンペルのものに並ぶものはあるまいという(渡辺華山「鴃 げきぜつしよう」)。

注・鴃舌とは外国人のことばの意。ここでは西洋人を指す。

(9)

一  元史にみる孛 ボーロア羅(マルコ・ポーロ)

マルコ・ポーロは、ベネチアのひとである。かれは十五歳のとき、父ニコロ、おじマフェオとともに、一二七一年商業活動のため、コンスタン

チノーブル(イスタンブルの旧称)より、クリミアにおもむき、それより小アジア(黒海と地中海のあいだの半島)

イラン

パミール(中

央アジア)

東トルキスタン

かんしゅく(黄河の上流域)

長安(西安)をへて、中国北辺を横断し、一二七五年上 じょう(元の都のひとつ。も

と開平府といった。モンゴル自治区)にいたり、そこでフビライ(忽必烈

蒙古帝国の第五代皇帝、元朝の初代皇帝[在位一二七一~九四年])

に会った。フビライは、ヨーロッパ人をみたことがなかったので、マルコらを歓待した。

やがてマルコは元朝に仕えるようになり、その命を奉じて諸州(河北、陜 せん西 せい、四 せん、雲南、山東、浙 せっこう、福建など)を巡行し、風土や人情など を調査した。かれの役職は、「按 あんさつ(使)」のようなものであった。これは中央政府が臨時に派遣した役人の意であり、地方の行政や風俗を監察

する役職であったようだ。

元史の中からマルコ・ポーロの記事を発見し、それを「元 げんちゅうニ散 さんけんスル所 ところノ『マルコ、ポロ』ノ事 せきおよびそのでん」と題して、『東洋学芸雑誌』

(第

38号、明治

17・ 11治・一八六〇~一九二九、明大)正期の考古学者・教育者。慶(吉応)に小論(二三三~二三八頁を発表したのは、三宅米 きちやけよね

義塾にまなぶ。のち東大講師、東京高師校長)である。

『元史類編  巻二』に、〝孛羅〟(マルコ・ポーロ)の関連記事がみられるとし、三宅は諸項を摘記(かいつまんでしるす)している。〝類編〟と

は、分類して編集する。またその書物の意である。巻二の「叙」(はしがき)をみると、この書物はぜんぶで四十二巻あったことがわかる。くだ

んの〝孛 ボーロア羅〟の記事は、つぎのようなものである。原文には句読点はないが、三宅論文には、句点(まる)と句読点がついている。つぎに元史に

みられる三宅の摘録と原文をかかげてみよう。

  (西暦一二六六

      *これは引用者が添えたもの。元七年のくだり………十二月丙申、朔改立大司農司、増巡行勧農使、副各四員、命御史中丞、孛羅 99、兼大司農卿、以都水監隷之、

(10)

注・水や水田を調べに赴いた話。

西十二年四月のくだり……丁卯命孛羅 99、為御史大夫、罷隨路巡行勧農官、以按察司、兼勧農事 元 西十四年二月のくだり……命孛羅 99、為樞密副使兼宣徽使領侍儀司事、

注・マルコ・ポーロが官職をもらった話。

マルコ・ポーロらは二十余年のあいだ中国各地をさすらい、その間に見聞をふかめたのち、福建南東部の泉州(ザイトン

宋、元代の中国第

一の貿易港)より船出し、帰路についた。かれらはインドシナ

ジャワ

マレー

セイロン

インド南西岸のマラバルをへて、ペルシア

のホルムズ(ペルシア湾の出入口の島)に達した。かれらが無事ベネチアに帰ったのは一二九五年のことである。が、二十余年のあいだ東洋各地

をさまよっているうちに、その家には親戚の者が住み、お互い容貌も変っていたので、ポーロら三人は、よそものとみなされ家に入ることを拒ま

れた。しかし、それまでの経験をかたり、アジアにおいて得ためずらしい品の数々をみせたところ、ようやくポーロ家のものだということがわか

(11)

った。ポーロ家の者が帰郷してから、その名がベネチアはもとよりイタリア中に広まり、東方事情を聞きたいと思う者たちが門前に市をなした。が、

ほどなくベネチアとジェノバとの間で戦争がおこり、マルコは一艦隊の将となって海戦に参加した。けれど、戦いにやぶれ捕虜となり、ジェノバ

の獄につながれ、一二九九年釈放された。同囚の人にピサ出身のルスティチルロという物書きがいた。

ポーロはかれの勧めにより、見聞を編むことにした。そこでベネチアよりメモ、日記の類を取りよせると、じぶんの話をルスティチルロに口述

し、ついに一書を著わした。それがマルコ・ポーロの『東方見聞録』(一二九八年の成立)である。同書は各種の古写本や版本がある。が、その

紀行は第一篇から第四篇まで四つに大別できる。日本の項目

ジパング(日本)島

が出てくるのは、第三篇である。

ジパング(日本)は、大陸から千五百マイルはなれた東方の公海にある島国である。

といい、読者の度肝をぬいたのは、この島には黄金が山ほどあるという話であった。

この国へは大陸から商人もいかないので、黄金は外国に持ちだされていない。だから莫大な黄金が温存されている。この島国の国王の宮殿は、黄金でおおわれている。屋根はすべて純金。各部屋の床も指二本の厚さの純金でしきつめられている。広間や窓もみな金づくめである。こんな話はだれも信じ

ないであろう。この国はまた多量の真珠を産するが、それはばら色のまるい、大つぶのうつくしい真珠である。この島では人が亡くなると、土葬か火葬にするが、そ

のとき死者の口のなかに真珠をふくませる。ほかにもいろいろな宝石がある。その富の高 たか(分量)については、一口でいえない。

この島国の富のことを伝えきいた皇帝フビライは、この国を征服しようとして大船団を派遣した。が、十分に戦わずして暴風雨(台風)にあい壊滅し、生きのこった軍は都をおとし入れた。

ジパングの仏教徒は、マンジ(満州)やカタイ(中国)の仏教徒とおなじように、牛・ブタ・犬・ヒツジの頭をした偶像や四つの手、十本か千本の手のある像をおがんでいる。ジパング諸島の海を航行した老練な水夫や水先案内人の話では、無数にある島に生えている樹木は、沈 ちんこう(熱帯産の香木)の

ように芳香を放っている香料の木ばかりである。

(12)

ジパング諸島は、インドからひじょうに遠い所にあることを心得ておいてほしい、とある。

元の時代、中国人の認識では、日本は東の海にある(地在海東

『元史』)とおい国であった。

黄金の国として初めてヨーロッパに紹介されたジパングは、誇張と虚 きょ(うそ)に満ちたものであったけれど、ヨーロッパ人を大そうおどろか

せた。ジパング宝島説は、やがてコロンブスの大航海の一大誘因となり、アメリカ発見の機縁となったことはよく知られている。

かくしてジパングのことは、マルコ・ポーロによって、ヨーロッパ人に知られたが、その国土や地形を地図上において見るにいたったのはいつ

のことか。

ヨーロッパ製の世界地図(一四九〇年製)のなかに、ジパング(日本)Gipangu のことを書き入れた最初の者は、パウロ・ダル・ポッツォ・ト

スカネリ(一三九七~一四八二、イタリアの天文学者・地理学者・医師)であり、マルコ・ポーロの没後、約八十年後のことである。以降、各国

の地図学者によって、わが国のことが現われるが、近代にいたるまで日本列島の形は、ゆがんでおり不正確なものばかりである。

当時の世界は日本を誤解したように、われわれ日本人もまた世界をまちがって理解したのである。が、近世における日本の位地を考えるうえで

1492年製の原版 を1847年に新版 として刊行。

シェネルの図

(1520年製)

レノオーの図

(1534年製)

サイタリースの図

(1660年製)

  本

  本

日  本

日 本

(13)

大事なのは、日本はいかなる西洋人によって発見され、またわが国にはじめて渡来した者はだれであったかということである。ヨーロッパに日本

の存在をはっきりと報告したのはマルコ・ポーロであったとしても、かれは日本の土をいちどもふまず、船乗りらの話からわが国についての事実

をまげ、話をおもしろおかしく脚色した。

一  ポルトガル人の日本発見の記事

通説によれば、日本を発見したのはポルトガル人とされている。一五四二年(天文

11)

日本はポルトガル人によって偶然発見された。海難 の結果、たまたま九州の種 子島に漂着したポルトガル人がその発見者であるようだ。この事実を語っているのは、

ポルトガル人アントニ・ガルヴァノ(一五〇三~五七、一五二七年インドに渡る。のちテルナーテの総督)の書『世界新旧発見史』(一五六三年リス

ボン刊)

である。しかし、ポルトガル人の種子島漂着の前年

天文十年(一五四一)七月、乗員二八〇名の大型の異国船が豊 ぶん(現・大分県の旧国名)の神宮

浦(府内=現・大分市の沖)に漂着した。乗組員は異風であり、ことばは通じなかった。土地の者は、かれらがどこからやって来たのかわからな

かった。異人らは国主・大友豊後守(宗麟)に鳥銃(小銃)を贈り、交易をこうに及んで、はじめてポルトガル人であることがわかったという

(渡辺修二郎「欧州人が日本ニ通ズルノ始 はじめ」『世界ニ於ケル日本人』所収、経済雑誌社、明治

26・5、一七頁)。 この天文十年の渡来説は、新井白石の『采 さいらん異言』(外国地誌五巻、正徳三年[一七一三]の成立)や『西洋紀聞』(外国地誌三巻。正徳三年以

前の成立)から出ているようだ。豊後の旧記(『大友興廃記』『豊薩軍記』)に、

天文十年七月二十七日唐船が神宮寺浦に着き、大明人(明国人)二百八十人渡来する。

とあるという。これらの旧記は、南蛮船ともポルトガル船ともしるさず、〝唐船〟(からふね)としている。唐はふつう中国のことを指す語である

が、広く外国をもさしていったから、ポルトガル船であった可能性もある。

(14)

なぜなら、府内の港にその後ポルトガル船が、各一隻入港しているからである。

天文二十年(一五五一)弘治二年(一五五六)

永禄二年(一五五八)注・「三  葡萄牙人渡来に関する諸説」『日萄交通の起源』所収、協和書房、昭和

17・ 10。 ポルトガル人による日本発見(じつは漂着)の最古の史料は、同国人アントニオ・ガルヴァン António Galvão が著わした『世界新旧発見史』

(一五六三年リスボン刊)である。ガルヴァンは、年代記作者ドゥアルテ・ガルヴァンの息子としてインドで生まれ、一五五七年三月リスボンで

亡くなった。一五三六年から四〇年まで、ポルトガル領モルッカの総督をつとめ、仁政をもって島民からしたしまれたが、それが同国人からねた

まれ、帰国後は不遇であったという(ジョアン・ロドリーゲス『日本教会史  上』岩波書店、昭和

48・5、第4章の「注」を参照)。

このガルヴァンの『世界新旧発見史』(『諸国発見志』ともいう)にある

漂流中のジュンコ(ジャンク)のポルトガル人が〝ジャポンエス〟

(日本の島)を見たという口伝もしくは記録を敷 えんし(やさしく言いかえ、詳説する)史書にのせたのが、つぎに引く、ディオゴ・デ・コウト

(インド

ゴアの記録所の官吏)の資料である。

一五四二年、商船の船長ディオゴ・デ・フレイタスがシャム(タイの旧名)のドドラ港に

いたとき、部下のポルトガル人三人が脱走し、一隻のジュンコ(ジャンク)に毛皮その他の

商品をつんで中国へむかった。三人の名は、

アントニオ・ダ・モータフランシスコ・ゼイモト

アントニオ・ガルバン

(15)

アントニオ・ペショト といった。かれらは順風をえて、海 カイナン南の湾を横切り泉州港を目ざしていたとき、台風と出会い、やむなく広東を通過した。一行は何日も荒波にも

まれているうちに、日本諸島の間に流され、いずことも知らぬ所に投錨した。

まもなく陸のほうから数隻の舟がやってきた。乗りたる者は、中国人よりも色が白く、小さな目をしており、その諸島はニポン(ジ)というと

聞いた。やがてかれらとともに上陸すると、ひじょうに好遇をうけた。

その島でジュンコを修繕し、積荷を銀にかえ、やがて帰路につきマラッカ(マレー半島の西岸)に帰着した(「ディオゴ・デ・コウト編  アジ ア志  第 五句年史」『日本史料集成』所収、平凡社、昭和

31・1)。

ガルヴァンのこの小冊(全九七頁)には英訳(オクスフォード大学のボドレー図書館蔵)があり、一六〇一年リチャード・ハクルート(一五五

二?~一六一六、イギリスの地理学者)は、校訂のうえ脚注およびみじかい献辞をつけて、ロンドンで出版した。またその復刻本が、アムステル

ダムの Theatrum Orbis Terrarum 社より一九六九年に刊行された。

(16)

同書の九二頁に、日本発見の記事がある。

In the yeare of our Lord 1542. one Diego de Freitas being in the realme of Siam, and in citie of Dodora as Captaine of a ship, there fled from him three Portugals in a Iunco (which is a kind of ship) towards China. Their names were Antony de Mota, Francis Zeimoto, and Antony Pexoto, directing their

course to the city of Liampo standing in 30. and odd degrees of latitude. There fell upon their stern such a storm, that it let them off the land, and in few daies they have an island towards the east standing in 32. degrees, which they(判読不能)name Iapan, which formth to be the ile of Zipangri, whereof Paulus Venetus maketh mention, and of the riches thereof. And this island of Iapan hath gold, siluer, and other riches.

大意西暦一五四二年、ディエゴ・デ・フレイタスという者が、船長としてジャム王国のドドラ(アユタヤ)の町にいたとき、かれのもとから三人

のポルトガル人がジュンコ(一種の船)に乗って、逃亡した。かれらの名前は、アントニオ・ダ・モタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペショトである。かれらは針路をリャンポー(中国の寧 ニンポー波か)にとった。緯度は三十度あまりである。追風をうけ、沖合に流された。が、数日漂泊したのち、

東方に一つの島をみた。そこは北緯三十二度にくらいしていた。その島はジャパンとよばれ、ジパングリという島のことのようである。ジパングリについてはベネチアのポーロが言及し、またその富について記している。そしてこのジャパンという島は、金銀その他富がゆたかである。

注・余白に「偶然日本を発見」とある。

ガルヴァンの記事は、ここでおわっている。が、北緯三十二度は日向の宮崎(九州南東部)付近であるようだ。

当時のポルトガル人がみたという日本の島は、甲板から望見したものか漂着後にみたものかはっきりしていない (9)。ジャンコ(ジャンク)にのっ

ていた三人のポルトガル人は、その後どうなったのかも不明である。が、ジェームズ・マードック(一八五六~一九二一、スコットランド生まれ

の日本学者。旧制中学、高校で英語をおしえ、教職のかたわら日本研究をおこなった。後年、シドニー大学東洋学科教授)と山県イソとの合著

『日本史』A History of Japan during the century of early foreign intercourse (1542 ~1651), Kobe “Chronicle ”, 1903 によると、かれらは種子島に上 陸し、〝火なわ銃〟a rquebuses(英),espingardas(ポルトガル語)の製法をおしえ、またたく間にその技術が日本全土にひろまったとある(三三

頁)。

(17)

イタリア人のイエズス会修道士フランチェスコ・スキピオネ・ディ・マフェイ(一六七五~一七五五)は、ガルヴァンの記事を利用し、その要 点を抜きがきしている。原文のラテン語から仏訳した『東西インド諸島史』(一六六五年)

L’Histoire des Indes Orientales et Occidentales dv R. P. Iean Pierre Maffee, de la compagnie de Iesvs, Traduite de Latin en François par M. M. D. P. Chez Robert de Ninville, Paris, M. DC. LXV. の

第五章に、三人のポルトガル人が、一五四二年日本に漂着したことを、つぎのように記している。

大意何人かのポルトガル人は、日本発見の栄誉はわれわれのものだと主張している。が、わたしはアントニオ・ガルヴァンの意見に賛成である。

かれは『新世界の発見者』という著述のなかで、つぎのようにきっぱりといっているからである。アントニオ・モタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニオ・ペショトらは、シャムのドドラの町より中国にむかったが、大風によって日本へ吹き流された。一五四二年のことである。

ガルヴァンの記事は、三人のポルトガル人が、種子島に上陸したとも、しなかったとも何も語っていない。

日本側にいくつか資料があり、その中には三名のうち二人の名を音訳したものと考えられるものがある。

モウ

アントニオ・ダ・モータ?牟 シュクシャ

フランシスコ(ゼイモト)?

(18)

        注・「二十八  鉄炮」『大和事始  巻之三』所収、『益軒全集  巻一』、益軒全集刊行部、明治

43・ 11弁和事始。『』[非売広益俗説

品]、国民文庫刊行会、大正元・

11。

ほかに天文十二年のポルトガル人渡来説に関する資料として、フェルナン・メンデス・ピント(一五〇九?~八三、ポルトガルの旅行家)の旅

行記がある。かれは一五三七年ごろよりアフリカ、アジアを旅行し商い、日本を四度訪れた。一五五八年帰国すると、アルマダの近くに住み、死

後の一六一四年物語風の『巡歴記』P eregrinação が刊行された。のち同書は各国語に訳された。しかし、ピントのこの本は、事実の錯誤が多く、

注意をもって読まねばならぬものとされている。その他の日本資料として、「南 なん文庫  一 (1

」にある「鉄炮記」(慶長十一年[一六〇六]ごろの成

立。島津の禅僧・南浦文 ぶんが種子島の領主のために代作したもの。「山和事始」は、この書によったとみられている)、「種子島家譜」「島津国史」

「長崎実録大成(第七巻)」などがある。

各資料が伝える鉄 てっぽう伝来のエピソードのうち、『山和事始  巻之三』にある話は、およそつぎのようなものである。

てんもん十二年癸 みづのとう卯のとし八月二十五日(一五四三年九月二十三日にあたる)、大 おおすみのくにの種 子島の西 にしのむら村の小 うら(島の南端

いまは字 あざ西 にしとい う。すこし赤色の砂浜があるが ((

、漁舟がとまることができても大型船は停泊できない)に、異国の大船が漂着した。乗組員は百余人。みなふつう

とは変わった人相やすがたをしていた。ことばは通じず、どこの国からやって来たのかもわからなかった。乗船者のなかに五 ほうという名の儒 じゅせい

(儒学者。文字に明るい者)がおり、その者が西村の司 つかさ(役人)・織 おりべのじようという者と筆談した。船(明のジャンク)は、南蛮のあきんどであるこ

とがわかった。

(八月)二十七日、その船を赤 あかぎの(いまは西 にしおもてというらしい (1

。〝津〟は船つきばの意)にみちびいた。島守・種子島時 ときたかは船内を点検し、

禅僧・忠 ちゅうしゅうという者に筆談させた。賈 (西域の商人)の長 ちよう(かしら)が二人いた。

  牢良叔舎   喜利志多孟多

である。かれらは手に二、三尺ほどのある物をもっていた。それはいまでいう鉄炮である。

(19)

一  天文十二癸卯年(一五四三)八月  大隅国種子島之 うち西 にしト云 いうところニ  南蛮船一隻来着セリ。

とある。船中の人物は「奇 ノ行 ぎようしよう(みなり、いでたち)」だったので、どこの者かとたずねたら、南蛮の国より商いのためにやってきたと答 えた。かれらは上陸し、三ヵ月滞在した。在留者は「長サ二三尺ノ小 づつニテ鳥獣ヲ打 うちリ食物」にしたとある。

漂流ポルトガル人は、ガルヴァンの記事では三名 00であり、日本側のものでは二名 00となっているし、日本を発見したポルトガル人の名の出所も話

も錯綜している。

一  カントの自然地理学  開講

さて、前置きが長くなったが、本稿のテーマは、カントがわが国をどのように観たかということである。

筆者が「カントの日本観」に興味をおぼえたのは、「明治期のカント受容

その書誌的研究」にしたがい、文献資料をあさっていたとき、桑

木厳翼(一八七四~一九四六、明治から昭和期の哲学者、早大教授をへて、京大、東大教授)の「カントの観たる日本」(『哲学雑誌』第

31巻第 352 号所収、大正5・6)や三 さいぐさみつよし(一九二三~二〇一〇、仏教学者。筑波大学名誉教授)の「カントの日本観」(カントの自然地理学の講義にお

ける〝日本〟の翻訳と解説

『理想』第

357号所収、理想社、昭和

38・2)を目にし、それがきっかけになったからである。

桑木論文はいまから約百年まえのものである。桑木は「自然地理学」を収録している唯一のカント全集

J・H・キルヒマン編『カント全

集』の第四巻、第六巻、第八巻などに散見する〝日本〟についてのカントの寸言をひろい、またフランスの啓蒙派(ボルテール、モンテスキュー 時堯はそれをみてよろこび、鉄炮二挺を買いとると、その製法と玉 ぎょくやく(火薬)・弾丸のつくり方

を家臣の笹川小四郎というものに修得させた。

注・「二十八  鉄炮 (1

」『山和事始  巻之三』所収より。

また「隅 ぐうしゆう(現・鹿児島県)種子島南蛮船来着之事」(田辺八右衛門茂啓編輯『長崎実録大成 第七巻』所収)には、

晩年のイマヌエル・カント

(20)

など)、ほかにブルッカーの『批評哲学史』、ケンペルの『日本誌』などを参考にして論述した。三枝論文はおよそ半世紀まえのものである。

その後、カントの日本観について書かれた論文をほとんど目にすることなくこんにちに至っている。が、このテーマに関する論文がすくないの

は、ひとつには先行研究にくわえる新しい発見や材料や知見がないからであろう。またそれがないと、わざわざ活字にする意味がない。

カントは三十歳をすぎたころ、大学の教職につこうと決心し、修士論文の作成にとりかかった。一七五五年(宝暦5、

31歳)「火について」

(D e i イーグネgne )をラテン語で執筆してマギステルの学位をえ、同年の冬学期から私講師(学生の聴講料によって生活する講師)になった。が、以後十

数年かれはこの地位にあまんじた。最初の学期における教科は、

論理学・形而上学・数学・討論演習などであった。

翌一七五六年(宝暦6、

32歳)の夏学期になると、これに、

  道徳哲学(倫理学)

  自然地理学

などの科目がくわわった。このころのカントは、けっしてゆたかに暮らしていたわけではないが、新市街にあるキュプケ教授の邸宅に下宿し、と

きに芝居見物をしたりした。

ことに「自然地理学」P hysische G eographieの分野では、ゲッティンゲン大学のヨハン・クリストフ・ガッテラー(一七二七~九九、歴史家)

とともに、カントはその草分けに数えられている。カントはこの公開講義の中で〝日本〟に言及するのである。

かれは一七五六年の夏学期から、いっさいの講義をやめる一七九六年(寛政8、

72歳)まで、じつに四十余年にわたってこの科目を講じた (1

。こ

の科目は学生の評判もよく、またケーニヒスベルグの顕官(地位の高い役人)らも講義室に引きつけたらしい。自然地理学は人間活動の自然的背

景を研究する学問を総称したものである。自然と人間の相互作用について研究し、広義において土地や山川・海陸の状態

地形・気候・生物・

村落・都市・産業・人口・交通・政治などをもあつかう。

カントは、われわれ人類が住むこの天体(地球)の研究のあり方をどのように考えていたのか。かれは世界をひっくるめて考察しようとしたよ

うだ。

(21)

       第一種   数学的観察…………地球を球形の生物のいない天体とみる。

       地球の大きさと円形とを考察する。

地球の客観的な見方

    第二種政治的観察…………人間の共同社会や民族・宗教・風俗などを研究する。

       第三種   自然地理的観察……自然の性質

大気、陸、海、山川、人間、動植物、鉱物などを研究する。博物学、物理学の方

式によって取りあつかうのではなく、人がいたる所で目にするもの、奇妙なもの、美を探しだして、じぶんの見聞と比較する。一旅行者の知的好奇心をもって取りあつかう。

カントは、これら三つの地球観察法(みきわめ方)のうち、第三種の「自然地理的観察」が、いちばんむずかしいものと考えた。

その完全かつ正確な洞察は、苦労と障害をともなうと考えた。なぜなら、有用な報告は、多くの大部の著作のなかに散在しており、大学で用い

る教科書は一冊もなかったからである。かれは大学で授業をはじめるにあたり、手はじめに〝特別な講義〟をやり、概括的な草案(下書き)を手

引として、それについてのべようと決心した。まず自然地理学を半年講義したら、その後じぶんの計画を増補したという。

講義の草稿づくりは、いつの時代においても時間と手間のかかるものである。かれは講義草案を具体的にどうつくったのか何もかたっていない

ようだ。が、大学図書館の書庫(入れたかどうか不明)で、あるいは借りだした書物から抜きがき(メモ)をつくり、教場でそれをふくらませて

語ったものと考えられる。自然地理学の基本図書として、

ベルンハルドゥス・ヴァレニウス(一六二二?~一六五〇、ドイツ

ハノファー生れの医師、地理学者。主著は『一般地理学』Geographia Generalis 一六五〇年)。ほかにオランダ人旅行者による『日本伝聞記』(一六四九年)。ジョルジュ・ルイ・ルレルク・ビュフォン(フランスの博物学者。『博物誌』全

44巻、一七四九~一八〇四年)。

ヨハン・ルロフ(一七一一~七一、オランダの天文学者、神学者)。

などの著作を利用したほか、

(22)

一般的旅行誌

ゲッティンゲンの新旅行記集ハンブルクおよびライプチヒ誌

パリおよびストックホルムの学士院記事

などを広くあさった(坂部恵著『人類の知的遺産    カント』講談社、昭和

54・9、七八頁)。

当時、自然地理学のちょうどよい手引書がなかったから、カントに教材として出版が要請されたが、かれはそれを容れなかった。後年、弟子す

じの者やカント研究家の手によって、ケーニヒスベルクの大学図書館や国立図書館、プロイセン国立図書館(ベルリン)などに残る手稿や学生の

ノートなどをもとに出版されたのが資料(遺稿)集である。

「日本」に関するカントの組織的な記述 000000は散逸しているという (1

。日本についての項(箇条)は、J・H・キルヒマン編『カント全集』をのぞく

と、すべてのカント全集に収められていない。

三枝充悳訳『カント全集  第

15  巻自然地理学』(理想社、昭和

41本ォフト・ームルヘは、)訳邦」(日・の「トンカるいてれさ録収に1)ン・

グラーゼナップ教授(一八九一~一九六三、ドイツのインド学、比較宗教学者。第二次大戦中はケーニヒスベルグ大学、戦後はチュービンゲン大

学教授)が、カントの筆記ノート(覚えがき、手稿)を、再編刊行したものを底本としている。

すなわち、つぎにかかげるものがそれである。

(23)

三枝は、同書の「日本」の章節を和訳した。ここにおいてわれわれ読者は、日本語によってはじめてカントの「日本」をよむことができるよう

になった。

三枝の「カントの日本観」(『理想』第

357号、昭和

38・2)は、キューバ封鎖事件がおこった翌年(昭和

38)に発表になった論文である。解説と

翻訳の二部構成になっている。いまから半世紀ほどまえの論考である。論者はカントが母校ケーニヒスベルクの大学で、日本について講義したこ

と、その講義にもとづく諸資料が刊行されたことなどに言及している。

それを編んだF・リンク、H・グラーゼナップのしごとにふれ、とくに後者の著書 Das Indienbild Deutscher Denker K. F. Koehler Verlag,

Stuttgart, 1960 『ドイツ思想家たちのインド像』(一九六〇年)に収められている Kant über Japan (「カントの日本観」)と題する章節

同書一

〇七~一一八頁を訳し、『理想』(昭和

38・1月号)に掲載した。一資料を提供する意図のもとに訳筆をと、この種のテーマに関心をいだく読者に 00000000000000000000000000000000000

った 00、といい、このときの訳稿は、後年『カント全集  第

15  巻自然地理学』理想社、昭和

41・1)に収められた。

ともあれ、桑木・三枝の先駆的な二論文は、銘記すべきものである。

カントはいつごろ「日本」についての研究と講義をはじめ、いつごろそれをおえたものか不明である。ともあれ、アジアのうちインド

イン

ド諸島

スンダ諸島

シナ(中国)と進むにつれて日本にたどりつき

ついでフィリピン諸島

ペルシア

アラビア

ロシア

フリカと世界を周遊している。かれは四十代後半から六十代後半ごろまでの約二十年間、うまずたゆまずアジアについて手稿を増補しながら、そ

の講義をつづけ、ときおり日本に言及したものと考えられる(三枝の「訳注」から推定)。

カントの日本記事(グラーゼナップ教授が編んだもの)は、つぎのようなものから成っている。

日   本A  総括

      国民性…………(この中には日本人の風貌の特徴、家、窓、食物、切腹、処罰、姦淫、拷問などの記述がみられる)

      宗教………(神道家、ふみ絵などの記述)

(24)

      学問と技術……(日本医学

モグサ、ハリ、金銀銅の鉱物のこと。紙の製法、茶の栽培などについての記述)

      天産物…………(さお銅、マッコウクジラの腸内からとれる香料、うるし、猛毒をもつふぐなどについての記述)

B  他の記事および筆記ノート類からの補遺     1  国土と国民……(日本人の性格、磁器や漆器、カイザー(日本の支配者)、鎖国、オランダ船の定期来航などについての記述)

    2  宗教………(神仏、儒教、神道などについての記述)

注・(  )は、引用者による。

*各「見出し」は、グラーゼナップ教授が便宜的につけたものか。

カントの「自然地理学」の講義は、四十余年のあいだに四十七回おこなわれた。その内容が

通俗的であるため受講者も比較的多かったという。いったいどの位の数の学生が聴講したのか、

一部学生数が判明している。

一七八三年(天明3、

59歳)…………六十九名

一七八四年(天明4、

一七九六年夏(寛政8、 60歳)…………六十三名 72歳)………二十三名

*同年夏、総長を辞退。講義をやめた。

受講者は、平均三十~五十名であったという。

注・ ー、 しば  すすむ       『カント  その人と生涯』創元社、昭和

42・6、訳者注解(

378

カントの聴講者名簿

―つぎの諸君は,1787年夏の自然地理学の講義をうけることに 署名した。

『哲学雑誌』第39巻第448号,大正13・6より。

(25)

頁)を参照。

さて、グラーゼナップ教授のカントの「日本」は、まとまった研究論文というより、編者が〝手 ハントシュリフト稿〟を寄せあつめて編 んだ文集にすぎない。

が、八つほどある〝見出し〟から、カント自身の着眼点や歴史的関心の所在があるていどわかる。

一  カントの手稿(日本記事)

テクストの分析と寸評

かれが選んだ日本に関する異聞(めずらしい話)とは、どんなものであったのか、いまより手控えの本文(三枝訳)をかかげ、他の書物との類

似点や記述の源泉(典拠)について究めてみたい。カントの覚え書きが生まれた背景や環境、生成の秘密をさぐることによってかれの志向(目ざ

したもの)を知るのがこの作業の目的である。

[カントの本文

三枝充悳訳]       [訳文の引用者

宮永によるテクスト分析と寸評]

    日     本

日本の住民と

  国土について    A  総    括

  日本。住民たちからは Niphon〔Nippon〕と呼ばれている 。それは、マダガスカルおよびボルネオに次いで、あら

ゆる島のうち、最大の島に数えられ、さらにそれに大小さまざまの諸島が付属している。それらの間を通って、狭い

交通水路が互いを分割している。そのほか、そのカイザーは朝鮮の一部とカムチャッカの南部を領有する。国土は驚

くほど人口稠 ちゅうみつである。長崎から江戸まで全長二〇〇ドイツ・マイルの距離 に、三三の城 じょうかくをもった大都市と七

五の城壁のない都市と、多数の村々を通過する。しかもそ  の『』(明。

は、本。時、

台。の「 

う。 Nipon, Nifon

る。は、ル・ル・の『

パ、カ、

分(三、

い。ン(Nipon

Nifon)といい」とある

高橋 文訳。

参照

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