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第 八 章 東 京 歯 科 医 学 院 誕 生

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Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/

Title 血脇守之助伝

Journal , (): ‑394

URL http://hdl.handle.net/10130/917

Right

(2)

第 八 章 東 京 歯 科 医 学 院 誕 生

奥 村 鶴 膏 の 登 用

守之助は肺国から船団すると蔽ちに詔山地科医学院のiiT.水に従したが、この1年の不在中に課伽脚が寂れてしまっ

たE'

;:3 実

背、俊本税1.TPJ;山松次郎などのそうそうたる誹師迎中'さらに石塚渡I;後の後作幹恥アメリカmウの松脱

広'その後任の並が将触いで辞任していった.

守之助は学院の充S(を回るためにW(奔出建して交渉を死ね、先発松木'・H安、脊山の人を口硯いて学院のe!噺に

させることに成功し、また新たに米国から3‑軌したドクル巾日収聴謀を招倒するこにした。

ただし'守之助は福山船科医学院の玉水にとどまり悠然とした8偏を送るつもりはなく、T;国巡雌中から企画して

いた新天地台帝への渡航を決意してい。守之助は新襲ソデ夫人に打明けて、布山院長に秤鼓を投出した.

布山院長は'守之助が蜘国してやれ安心という心境で'これで何とか学院の立てPLLも可能とEいっていた矢先のこ

とであったから、照惜し、「もし血暇が校癖の両側をみないならは'不,cEEZながら廃校の外はない」とまで操冒した。

守之助にとって、波台計画はかねてからのm大決心であること力脱しが'そこは師弟の仙'自己の主はかゥ

(3)

な通すわけにもいかず、︼応の考雌を約して辞誠を稚回した。

しかし'余程残念であったものとみえて'しばらくの間、親茨をつかまえると自分の決潜を語って開窓なき意見を

潔めた。

川上元治郎は渡台計TE]幹成の数少ない助署名の1人であった。「一学院の経営の如きはとるに足らぬ'封子すべか

らく新天地に雌飛すべし」と力説した。

「後藤新平が台河の振替肘の蛇政長官として羽振りをきかしている今こそ野焼である」ともいった。

後謙新平は'川上元治郎や遠山椿吾が放しくしていた開床で、守之助とも懇意の間柄であった.

しかし・LL・(がら'佃EEの大勢は既に映し、守之助の意図とは反対の意見を開陳するものの方が多かったO殊に歯科関

係の知友は淋口同苛に、

「可借、大船の君が、新天地とはいえ、攻地に身を枚ずることはない。中央帝称にあって才腕を伴うべきである。

混沌の歯科非に光明を与え、錯綜する難問を解決するには腎をおいて外に人なし」と述べ、渡台賛成紫は1人もなか

った。

明治三十年の碁、句之助が自分の今後の力対についてあれこれ考えを巡らしていたためであろうと思われるが、守

之助担当の歯科治術学の釈放に、「何故歯科医たらんとするか」を比職したQ山し抜けに出された関越ゆえ'これに

対する学生の谷本はまとまった内容になり柑なかった。半紙一枚おざなりに答えたものはかりであったが'その中に

1人だけ要旨蝦然たる解答を綻化した学生がいた。

守之助は灘耽する内にハクと雄を打って幣喫した。鎌伽の竹内鉄、‑;村税二郎がしばしば守之助に、「当学院の学

(4)

生中に将来を嘱目するにたる和為の偉材奥村懲書がいる。この春、若年ながら既に歯科学説試験を俊秀な成前でパス

している」と推挙していたことを7‑想い出したD

山村は北米にあって苦学した俊才で'先頃抑制して>,.仰山胎科医学院で歯榊法医学の抹殺を行なっていた。

このド

ール山村の慈限もさることながら、句之助は胸底深く州するところがあって、奥村の人物を鬼棲めるため

にその後彼の官動を往昔深く観察することにした。

句之助は、人物の判定ほどむずかしいものけない、人おのおの

の視角によって人物を見る。同一人物も観点が迎

えは炎なってケ見るとの倍糸を持っていたから、未だかつて他人の推挙にょって百倍した例はなく'奥村懲書とて例

外ではなかったのである。

奥村は明治三十二年軟の医術閉業歯科訳駿にも合格し、l躍、歯科医たり締るiH格を得た。若冠十八歳でこの賢格

を独得したものは空前絶後のことであった。やがて、奥村賓は芝1]1El較坂町の守之助の自宅にrfられるように

なり、何時の偶にか守之助と起居を共にしていた。

守之助は明治三十二年の十二月某日'稲山院長から学院の譲渡の申し出をうけたが、この時以来守之助の胸中に奥

村払告を自己の右腕として盗する心祈りがあったようである。十二月其EZIt奥村私書は守之助からその他良を打ち

明けられ、その放縦に感激し、来るべき守之助の学院の教師として起つことを快諾した。

奥村の両親は故郷秦野町にあって、息子が歯科医となって故郷に錦を飾る日を心待ちしていたから'この息子の決

断に必ずしも満足できなかった。奥村は奥村で'兼だアドケなさの残る少年、如何に聡明であったとしても'自己の

能力をS=rtるとき1珠の不安を拭いさることができず、また、学朕の学生はもとより課師陣に至っては自分よりも年

長名ばかりであったからいささか牌捕せずにはいられなかったに粕迎ない。しかし守之助は奥村を倍新し、大きな期

(5)

符をもっていたので'歯科鼠枚挙と歯科病理学の担当を委嘱し'その前途を祝福した.

その頃松坂町の血脇宅には奥村のほかに二人の食客がいた

1人は野口英世が金沖から連れて来て学院の雑用に使

っていた阪秀夫(後に大迦汽船畔務となる)という少年、もう1人は秋田から出て来て歯科医学の専攻を志す中村罪

敬という少年であった。この食客遠は狭い平家鎚の1壷を占郁ていたから姫やかさを遜り越して混雑というべきで

あった。

金 開

ところで高山はかねてから草炭の経営に困難を感じ'列氏自分の才宜では処理し姓いことを悟っていた。それだけ

ではなく、学問の発達につれて施設の改肇も必要となり'鼓非は増々膨張するのみで、満山の手許から欠損を補って

もなお不足を告げ、一時守之助が捉駕の立て直しを計って瓜功し

たか

にみえたが、渡桁中に帯び経常が困姓に陥り'

満山の独力では維持し切れない状態になっていたDしたがって廃校にしなかったのは本邦唯一の歯科医育機関を閉耕

したくなかったことと、高院長白身の名声を髄つけることを恐れたがためであった。

そこで'いまとなっては学院を守之助に継承して永鑑を計ることが丑も賢明な匁怒であるという考えが福山院長の

脳粟を去来した。

この考えが高長の学院譲渡の決断となって、自らは引退することにした。

守之助は師の倍俄に感激はしたがへしかしこのような大都に即答はできなか

十二月某日馬山院長は、守之助と勝也大麻夫の両名を倍楽園に呼んで別れの宴を薪の次約を藤tSに話した

(6)

布山歯科医学院臥 現毛三エ ッソスタ /

ダー Tl胡二宅 一外 人用,手堅区高 給2TEll布 くこの 中に庭園はあ るが

社宅 をつ くる時につ くられた もの ら しい。甘 い ものをいか したか ど うか はわか ら

ない.) 後

、 守 之 助に 学 院の 名 俵を 穣波するこ をと 告げ、贈 与 物 件てはとブラしノ 六 佃と 机 十三脚であを申渡たる旨しし。 藤iには、そのt 昔 用 立てた 金 石 円 也 の 借 用 証 田を 渡て、こし れを 贈 星 する と いっ た。

前山 紀 講は'その 頃 かなり 苦い財し 政状 態に 腔 か れていたのもとr {えて' こ れ が 榊 一 杯の 贈 与あた。でっ 勝山

は ま だもし、 守 之 助にとてっ は'

空拳の出発を磯

要されることになってしまった.そのような恥桁を知らぬ知人達ほ'守之助の学院継承を般大紋の賛辞をも

(7)

itt京軒数鏡院 (中火),円内遺LuJF告院長

(「連山帥奮」字岡野勝鉢か ら) 継森及改名手びのし、

続を文き 京 府 に出 願た。し 守 之 助 は 手 抜をにきとる 際し て

' 班の 切 所を 定めるこにと 腐 心た。し 学 院の興 隆を 期 する ためには 地の 利を 選 ぶ 必 要があ り' 芝 区 皿通学恐蝶附町近羽時当を矢のは白のいが快ので に 学

㈲ 地 区 の 様 相を 皇し てい た抑E=区内に 立てた。丁 度 辛いに も 神 田 小 川 町 一 轟 地 の 文 京 顕 故 鋭院は満山歯科医 院の生理学 担当 講師、

樺吉の 経営す昼か用使間れで、ろことるさもし て いる だ けで あっ た ので' 夜 間 の 伏 用を 交 渉てし み た。 遠山は r F 之 助と 特に 多 年に わ たてっ 交 虹を 厚ていたくし 仲であたかっ ら 夜 間 だ け なら 当 分タダ で 仕 用てい申出てれた。もよとししく し かし 守 之 助は 無 肪 貸 与では 気ま ず いと、

軌 い て 月

十円の家eZ を 支 払ことこうとし' の 顛散 鏡院をあえず校舎て府庁ととりし に 申 許し た。

こ のよう し て 校 舎が 見 つ かると 守 之 助は次いで 珊師の粧紺 に 奔 走し た当。 時 の 守 之 助 は 歯 科 界でこ そ 怜 材で あたっ が'何 せ 患 冠 三 十なる かなら ぬ かの白 面の 背 年であたっ から、 社会 的に 東 歯 科医 学院を7ルDさI+

(8)

折 を 人 力 叫 で 放 け 廻 り

'

明 治

三年の正

月 も ■ 弁 当

空 辞 書 た 交 渉 と 目 ま ぐ る し い 活 動

をつ

け'柵

い つ も 深

E Jで あ っ た 。

こ の 苦 粥

は遂

に 報 い

れ ' 正 月 の 終 わ り ま で に 後 援 者

三十

魚 名 と

改 名 の 計 師 の 獲 得 に

功 し た

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つ く 間

も な く 次 に 立 ち は だ か

、 淵 按 安 全 の lt 連 に 頼 り 阻

んだ

。 し か

差 し 当 た っ て の 必 要

盲 円

鯛 適

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‑ そ う

容 易 で は な か っ た 。

無 1 文 の 守 之 助

に金

融 を し

く れ る

ど お 人 拝 は い な か っ た の で あ る

途 方 に

れ て い

あ る

日'守之助

神田

川 町

料 亭 「

文 」 の こ と を

と 思 い

い た 。

「 今 文 」 の 主 は 、 守

助 と

学 校 時 代 の 同 放 生 森 和 書 で 、 彼 も ま た 背 板 苦 鞘 の

' 今

の 「 今 文 」

を築き

た の

で あ っ た 。

守 之 助

が「

今 文 」 の 広 兼 を く ぐ ろ と

'

幸 い 轟 は 帳 坊 に 座 っ て い て

'

甘 俵 し い 友 人 の 来 訪 を 笑 顔 で 迎 え

た。

守 之 助 け ' 早 速 、 学 校 設 立 に 庶 し て

百 円 の 資 金 作 り に 凹 苦 八 苦

て い る こ と ' で き れ ば ご 用 立 て を

い と

出 た

森 に

て も

人 の 洪 状 は 救 い た

が ' 全 く 方 面 の 異 な る 学 校 良 常 な ど

かっ

た こ と と '

突然

申し

袈 セ つ か れ た こ と も あ っ て

京 壬 と

の沃

肝 は 行 な わ な い こ と を 述 べ て 遠 労

に 巾 し 山 を

断わ

っ た 。

し か し 、 許 し て い る う

持前の

鼓 狭 心 と 友 仲 が で て き た の で

う。

「 血 Si Lの

SE 啓

ころ

へ 行 っ て

1渚

に 坂

は 伏 し て く れ る で

ろ う 」 と す い 出 し

啓 二 郎 は 神

町 で 手 広 く 討 崖

で い た 。 森 と 守 之 助 は 道 々 甘 繁

ど を し な が ら 少 い て い た

'

句乏

助 は 轟

が 、

雌 の 奴 、 う っ か り 如 む と 自 分 の う ち の 雨 を Ft え な ど と い う か も

れ ぬ 」 と つ ぶ や

た こ と

を聞き適

さ な か っ た 。

(9)

案の定、啓二坪は二人のqJ山を快打したが、交換粂件に自分の算から満をEEうことを持ち出した。これを仙いた

守之助は突然、

「この鼓は中止」と叫んだ.肩は料亭の生命である。これ以上「今文」に迷惑をかけてまで借金をする党になれな

かったのである。

守之助は噛んだあげくの果て、酉小川町の金融粟赤川某を訪ねて、三カ月の期限付で金三百円の侶用心を入れ'利

子を先払いし辛解任か二百円を世にして、これを創立や金とした。

かくて開校の手管は辛い、その年の二月1日から埋葬を開始した。

当時の計師陣は次のとおりである。

理学・化学

柄理学投論

jE剖学

術斡治術草

*JiLi

胎料払井草 工学士

医学士

新井

血St

石井

鋸軒病理学 森山松之助

金森辰次序

准次郎

守之肋・弥仏

臭村

̲

口腹外科学

併科鮮稚学

爽他

細菌学・生理学 児玉♯平

生瀬太飾

世 駁

社主

医学士遠山称 大麻夫)井

<

(10)

後に生理学中本帝秀

なお'細菌学を新たに増設した・)とは当時にあって全く新しい駄rfであった。このか、とし他の

な沈師毎月二回招巾することにした。

明治三三年二こそは之助が本格的に瀬科医fEに乗り出した記念である。し')ll

山歯科医院から引き継いだ十三人で'架に・a々としていた。しかも校であっから校式

借り行たわわはならなかった。

二音名生徒十三

治三三年二月十二日午後三時から神田f人士代町の神E#年会の大講堂で挙され、こ'本

記念とし現在に至っている。

月へ医呼北出費三価、粥舟石山忠曲、医官足立、医件三宅秀'医博宇野、医'西知'

ドクト英五飾'r・LHu操'クトル田代稔、ドクト≡瓜通艮tr茂文良その稚

を網注し、触科界'界'肘非のt士二百余名が来生としてさ院と

ことに鵜の牡iiあった。

この式における血脇炭長の式辞済説、当時における守之功の飴科

鹿 町

に付する抱負を祈ったのと

念されるべき・,Pのであるからここの全文を原文のまま掲載す

る 。

柴草位並に学生折千'*日並東京中科医字Eの朗按i<セ革行す,O'抑光臨の柴ましたの純一

(11)

に鳩へぬ所であります、就きましては歯科医学淡いては北京歯科医学院の過去現在及び将来に向γて一首申上げて佐きたうございます、甘時の問御新鹿を汚すの柴を与へられむことを鮫ひます、

話革相関の病に搾る名は多くは舶牙の不健全から来るのである、部潜'百雷の不明を来す名は多くは歯牙の欠抗から来るの

であro、紙製、容貌の牡を辱する宅は1部分は倫牙の不正列から来るのである、此勝鞘の病、官話の不明、容貌の規とiSふ、此三ッのものは人生に取って我に好ましからぬものである、而己ならす之が粁4に疾病を懐すの基となると云ふに至っては、典に

忽せにすべからざるものであると魁ふ、哲に一己人の衛生に取って裾か巾をのみならず'年々全国裁万の壮丁が舶tkの不健全上

りして敵兵検査に深耕をする'不合格女見るに至っては'国民の衛生上からしましても国家の岳済上からしましても、炎に等閑に附すべからざる所のものであroと信じます、して見ますると此歯科医学と云ふものは、1宙の邸門として研究すべきものであ

るや否や、又之を治療する所の歯科医と云ふ者は、果して世に好過せられべきものであるや否や'私の欺升を竣たすしてiE君は

既に御承知でございませう、然るに世間を見ますると'先づ大破の人は殆と限中に於てない、従って歯牙を治旅する所の歯臨講

と云ふものは'矢張り彼の香典鮎がする所の1棚の購薬であると見倣して居る名が割合に多いのであります、殊に天下の耳目を

以て社会も許し、自らも旺じて店る所の彼の新川が、歯牙の蘇生だとか、或は歯科社会の出来邪と云ふことに向つては、殆ど範

を染めて呉れない都が多い'併しながら是は弘ち私が丑に世間に向つて不平を述ぶるのではありませぬ串尭歯科医学の樫度が、

今EB兼だ低くして且つ幼稚の時代にあり、又如力ある飴科医が兼だ世の中に現ほれて来ない、又世の中に紹介せられざる訳であ

るからして、払ろない那であると存じます、併しながら此歯科医学と云ふものは、絶対的にさう云ふ杜地に倍いて然るべきもの

であらうか、或はま歯粁医は何時も世間から冷遇せられて侶つて然るべきものであらうか、私は断じて共不可

な る

こと女官じて居

ります、

駄rfに見られよ'今の外科医術と云ふものは、頗る進捗を為して屈る、是は私の今51申すまでもない、併し妊往昔に遡って見

れば'西汀では今の庶民か外科の仕都なして庇ったと云ふことである、彼の赤や白と云ふ三色の妙な且に漁った枠の6=版は、即

ち往廿は私の所で外科の仕榔なしますと云ぶ、目標であったと云ふことであります'乃で今日は如何で御座る今EE‑1外d=の医術

と云ふものは立派な仕都になって居る、又御凍知の迎ウi(Hは一つの職人である、けれとも今日は之を学問に応用して立派な工

学と云ふものになって店も、大学にも工科大学と云ふものが出来て、非中から工学浄土と云ふ立派な学位を待て放る人もある、

(12)

大工は職人であれは工学博士は職人の親方である'歯科の仕事も其通り'之を立沢な学科として十分に研究したならは'歯学博

士と云ふものも出来て来なければならぬと考へる'

飾って歯科医術の紀元を索つねて見ますると'西洋では大分古‑から行ほれて居る'紀元前挨及全盛時代に於ても此歯科医術

と云ふものは行はれ居ったのである、之を歴史に徹して見んと欲しても今歴史に詳しく書いてあると云ふものがございませぬ

が、近来彼の木乃伊の中に金充塀を行ひたる歯を発見するのが往々あると云ふことです'して見ますると亜弗利加に於ては余程

古‑から此歯科医術が行ほれて居つたに相違ないのである'古代の事は侍措きとして'近世に及んでは、丁度今より百年程前

に、仏所西の人グリーンウッドが初めて此歯科医術を行ひ米国最初の大統領ワシントンの歯を治療したと云ふことである、先づ

紀元を申すと是限りであるが、それから追々世の中に知られるやうになって来て'丁度今より六十一年前即ち千八百四十九年

に、亜米利加のパルチモIアに歯科学校と云ふ学校が出来た、之が全世界に創立せられたる歯科医学校の初めであります、それ

が段々規模を拡張して来て今日では歯科大学と云ふ盛大なものになったのである、それで現今の亜米利加の歯科大学の数を申せ

ば'歯科大学と申しましても大学の中の一部とするとか'或は別に専門とするとか'カーレ‑ジと'ユニヴアシテ‑の一部の

ものとを合併した数が五十五校あるのです'其五十五校の学校からして、年々千五六百人の業生を現時出して居るのでありま

す、丁度私の記憶に拠れば四、五年前までは此歯科学校の数が、亜米利加では四十五㌧六であったが'此の僅か四㌧五年の中に

十校はかりも殖へて'唯今では前申す通り五十五校となって居るのであります'それで唯今亜米利加に在る所の歯科医の総計二

万人余りになって居る、之を丁度並米利加の人口に比例して見ますると、大凡三千人に就て歯科医が一人の割合になって居る'

随分沢山な数になって居る'それで毎年千五'六百人の卒業生を出すと云ふことであれは、亜米利加には大分余る程でございま

せう'今現に余って居るのであります'私が一昨年支那を漫遊して見ましたときに東洋の沿岸には亜米利加のデソチストが沢山

来て居るへ日本にも大分来て居るのであります、

それから歯科衛生とl李ふことは、亜米利加には大いに行ほれて居りまして、大抵の人は先づ1年に1遍位は歯医者の許に到っ

て'歯の悪るい所がありはせぬかと云つて尋ねるのが普通になって居るへ英吉利にしましても病院に附属して居る所の歯科学の

講習所が十二箇所も出来て居る'独過では十三大学の中で重なる大学の中には歯科の講座を置いて歯科学の研究を為し'又外来

診察を行なって居ると云ふことであります、さう云ふやうに英独米供に盛に歯科学は行ほれて居るのでございます獅って日本の

‑ 108

(13)

有様を見まするといふと、古い往昔の事は倦措きまして'丁度日本に西洋の歯科医術が伝はつたのは明治の初年頃でございまし

て、唯今生きて居る方では確か明治九年に開業せられた'小幡英之助さんが元祖でございませう'それから先祖より口科医とし

て知られたるは渡辺良斎さんです'其次に此歯科医の学校を特へて歯科医を養成する事に尽力せられた高山紀斎氏でありますへ

此方が明治十一年に米国から帰て来て盛んに西洋歯科医術を唱ひ出しました、斯う云ふや‑な風で'明治の初年から西洋の歯科

医術が段々行ほれて来た所が、其時分には歯科医術と申しても、唯仕事を教はると云ふことのみであって、学問をする書物もな

ければ'或は学校も無いと云ふ姿であった'唯開業医の所に弟子入りを致して'其師匠のする仕事を傍観致して居って'僅かにとて見たり聞いたりして稽古をし、其仕事を見覚えると云ふ位に止まって居ったものである、所が此分ではも仕様がないと云ふの

で'明治廿三年に高山紀斎氏が、高山歯科医学院と云ふものを立てましたのであります'其れより以前に'明治十六年に'内務

省に於て此歯科医の試験をすることになって'歯科医とならんとする者は、此内務省の試験を経て'及第をした者でなければ歯

科医となることは出来ぬ'斯うなったので明治十六年から二十三年までに'此試験を受けて出た人が凡そ百名ばかりございまし

た'それで高山紀斎氏が明治二十三年のl月に学校を立てまして'初めは生徒が七名に教師が九名と云ふ割合であった、高山氏

は彼の宅地と家屋を買入れて'始めは始めたけれども生徒がそんな風に少数でありまして蓮も維持が難かしい、非常に苦んで侮

月々々相当の足まいをしなければならぬ有様であった'さう云ふやうな非常な苦心を重ねましたけれども'氏は忍耐を致して遂

に今日まで維持しまして此の間十年に及びました'デ此五年前に初めて卒業試験を行はれまして、それから卒業した人が五十三

人でありました'又別に内務省の試験に及第した人が百七十六人あります、そうして又歯科学の教科書だとか雑誌だとかを拓へ

まして1時の間に合せ兎に角今日まで不完全ながら歯科の教育と云ふものを行って居ったのデス'デ此歯科学が広‑拡まらぬ前

ではありましたけれども'兎に角外に学校がないので、共学校一つで今日までやり来ったのでございます、所が今日となって見

ますると是からは益々歯科の教育を振作しなければならぬ、此時に当って高山氏は近来色々な用事が多くなって、専ら学校に力

を尽して居ることが出来ない'それで私に後を引受けてやるやうにと云ふ話でございましたが、私もまだ学問はさう深い程でも

なし、経験の足りない身であります、敢て無学無識と云ふのではありませぬけれども'まだ歳は頗る若い'頭は禿げか1つて居

っても歳はまだ若いのです'此身が此大任を背負って往‑と云ふことは甚だ覚束ない次第ではありますけれども、若し此学校

が廃校すると云ふことにでもなったならは、是は甚だ残念の次第であるからとも思ひ、又種々の人から頻りと勧告もございまし

109

(14)

たし'且つ私の説にしても元来日本では元老株が何時までも共故地を障って思って、後進名の速を妨げて周ると云がある、往

はイザ知らず今日では、元老珠が独占にして居って後進名が世に立つことが山楽ないといふ和様では芯だ困る円は過渡

の時代であるから、宜しく新陳代謝を行って、挺食後進講のすることが拙くつても、元老株は速を州けて宜しく後進悪を進めな

ければならぬと思ふ'今日お山てにたりJMした石E;ER席を御見上げ申しますと、まだナカく血鈍感んな御方である、比御刀句力を転んでしなければならぬ即が.共塊界に在つては随分多いであらうが、日肺胞役が終りた後何時までも後適者の速を次ぐのは洗しくないと云ふので門弟称呼を為されました、足はEB本の為には佃しき都にてあるが御本人の身に取っては一個のS(稽であ

ると考へます'布山氏も所謂石氾先生と同じく円満辞職をするんであらうか、同氏の首に私の考にしても後退の譜野が引受けるのも世の清見を粒へて宜からうと云ふことで'遂に此度私が高山歯科医学炭を引受けて'今日立に兼荊歯科医学院として開校式

を致すことになりました次窮であります、

ソT]で此歯科医学と云ふ・,pのは、Fieに於て未来如何なる位地を取るであらうか、廿並医学に対する的係はどうなるであらうか'斯う申しますると、先づ恥兼利加では各大学に廿凪医学部'歯科鑑学部、薬学部と期やうに許な分科にしてあって、歯科の

方は土丁度日本で申しますと廿血医学を桐油位までやらせまして、それから歯科の坤門になって之を革薬すれば歯科のドクトルになる'期やうに別のものになって店る'独過では常温医学をやってしまってから歯科を称門にやって'そうして歯料中門蔭とし

て世の中に立つ、斯う云ふ仕姐になって店る'又外に亜米刑加に在って顔料を学んでドクトルの免状を賀つて、さうして歯科の

仕串をやって居る人もある'日本ではどうなるであらうか、漸う申しますると糞にはそれ・L/大いに跳gTcある布で'又大学の

刀に於てもさう決定したと云ふことも蕨はりませ凸が、多分は大学を卒業した人がEtに歯科を研究する懐きになると思ふ'即ち

普通医科を終ってからELに歯科を研究して歯科医となると云ふやうなことに追ってはなるでございませう、併しながらは果し

て何年後になったらさうなるか'分りませぬ、ナカ‑十年や二十年で11さう云ふことになる訳にほ往きますまい:丁あるから

とうしても今の倣医名は虫で1番En本の頻科医を改革すると云ふ心鮭で'此歯科社会を朋妬して往かなければならぬとEL2ふ、今

乳にEn水中の柵科医は何人樫あるかと桐ペて見ると僅かに四百人余り外集いのである、之を日本の人口四千三百万に割当て1見

ると、殆と十万人に一人位と云ふ少数なんです、比少数の僻匿名で日本の人を治療すると云ふ有様でありますから甚だ不完全な

なって居ろ、期やうな少数であるから箆もEZI本国に歯科医が行捗って居らぬのであります、

(15)

テiTgLも日本に於て歯科医が余った時分にはとうするか'早晩支那勅群にト/︿gFuする必姿があるのです、日本だけでま

だ法度紫色であるから金額ド/‑と沢山桁へなけれほならQのです.我学校に於て̲土成たけ一般医等に良r(して漸を追ってl

地底学を併めた上で併科医となると云ふやうな手裁きに鼓したいと惣ふ'今の歯科医の釈敦では余りやさしくつて、且つ東岸不

完全な駄験では及許して船医頚になったつて姓も本物にはなれないのです'それでありますから糞は内務省に於て党別一つ改正して讃ひたいのですが、丑は今学生である所の新智の方から歯科釈放をもう少し洋かしくして呉れ土と内務省に憐んだら丑が1

番効朋があると思ふ、又それだけの所気がなければならぬ、それで学校の方では内務省の駅撃H々には係らず、成たけ一般医芋

の稽古をするやうなことにして十分なことを致した)考であります、併しながら否々少年が‑殆ど少年と申しても益支あります

まい‑が寄炎つてする仕桝で越だ党来ない、仕叫は大任、吾々ほどうも此姿ですから、願く

大刀和志酢君の焚助を待て、十分

なる由料教育を施したならは野に私共一同の辛のrfならずtiS(に国蒙の為めに幸福であると存じます'堺かTTを述へて本月の式辞と致します、終りに蝕んで来筑折βの位牌を祈ります(拍手喝采)

り繰り

罪 段

文京歯科医学院の校舎は東京凱徴銃床の一教室‑こ過ぎなかったが'入学希故老はみるrtる増加して、五十有余名と

なった。しかし、学院の掻兜や守之助の家計をまかなうにははほど速かつたので、その穴埋めのために歯科医院閃薬の

必要に迫られた.侶家を物色していたところ、ようやくl二時町二丁目八藤池に広々とした座敷のある長屋を見つけ.

家賃月二十八円を払って血脇歯科治政所のか巌を掲げた。同時に較坂町の住宅から大家族の1閲が引っ越してきた。

奥村'中村、阪、それに渡辺'宮坂、㍍石も食客に加わって、玄関杭の大広間は大阪わいであった。明治三十三年

四月二十一日に当学院における折1回、tZ山学院以来通井六回の卒孫式を行なった。このときの卒業生は深沢(新姓

(16)

早川)可柴良'武藤時(生者)次郎ら雌か六名で、早川は直ちに山脇治療所の助手に就任し、大家族のlEE3と起居を

共にすることになった。血脇治嫉所のおかげで家庭経済はいくらか怨まれてきたが、それでも院長はじめ大家族の面

々はま質素、倹約を旨とし、ノザ/、塩鮭に舌故をうち、たまの肉親にありつくと、一同競って鍋底をつつき'1片の

肉塊を塀り出すのに大騒ぎであったと祈りつがれている.

その頃、神Ei仲猿粂町に市瓜破書が住んでいた.市仏は架茄軸門学校(早稲田大学の前身)の会計監督で、しばし

ば起こった鼓宮津を突破し'その才腕をうたわれていた。石塚三郎の入門粒介者であった幽係で守之助とは旧知の間

柄であった。守之助は'1日、市仇を訪れて学校経営策についてその意見を聞いた。

市比は守之助の釆助を苛んで、

「いやはや学校経営というものはむずかしいものですなあ、私を何か才腕ありげにほめてくださる人もあります

が、失敗の連続が実相ですよ。特によい知仰山があるわけではありませんが、守之助さんあなたはいま初めたはかりで

見当がつきにくい上うなので私見を申し上げますが、技術の学校にはそれなりの打開策があるのではありませんか」

「なるほど、なる性と」

「まあ'どん・LLJ学校でも誠本的には同じかも知れませんが、私立学校ではどのように学校の魅力を出していくかと

いうことが大切ですな。それに収容能力に限りある在学生だけから締られる肘源だけで運営することはむずかしいで

すね」

的にはどういうことになりますかな」

「内容髄節の野師は、まず人にありと申しますから、優れた鉄肺坤を非めることが必夢です.また珊郁pliを督い立

たせるには高給で契約すべきで'時間給1円位は山すべきでしょう。さらに新進、大家の別をなくして同1絵がよろ

(17)

しい。創立当初の事々たる在学生の月計では学校経済の確立を計れませんから、その欠は院外生か井楽し、鯉鶴録の

売上げで補い、各地の好学の士の要袋に応え、学校もまたその巴延に浴するといぅのは如何です」

守之助は斡師同率絵はいささか無黍と思ったが'院外生井S(は確かに学校鋲所に大きく寄与するだろうと考えた。

「大いに啓袈されるところがあります。先生のご意見を参考にさせていただきます」

歯科医学の進展はここのところ急速である.この機迎に乗じ、1拳に進めはまきか失敗はあるまい。廿川山歯科医学

院が明治二十三年九月から同二十五年九月までの樹二十gl巷の洗典鐙を発行したときには土佐か七十名が応非したに過

ぎなかったが、あれから既に十年の歳月が流れた。当時とは確かに都情が適ってきている。守之助は帰途すでに鎌瀬

揮発行の計画に思いをめぐらしていた。

学院としては初めてであったが、高山歯科医学院以来に通算すると節二回の院外生井典の広告が明治三十l二年三月

一日の歯科学報誌上に掲載yLJれた。

守之助はこの大邪を白から行うことにし、助手として奥村常師を任命した。それとともに前名の轍をふまねようtE

山歯a:医学院許載軽の難点'欠点を憐並に検討した。四月から始め毎月一回'十六カ月で完結という予定を立て'院

外生のrtならず院生にも使用させることにした。

来る日も来る日も、守乏助と奥村は六2<1の居間に相対Lt黙々とペソを走らせるのであった。額が過ぎ

が来る。

そして肌を刺す寒気が到来した頃にも火鉢で疎える手を膿めながらペを執る二人の姿が依然として就

のであっ

氏.味噌雑煮を玩長自ら作って二人ですすったのもこの頃のことであった.

後年永く艮朝として迎えられた練鮫録の1字1字には'二人の血涙が秘められていたのである。

(18)

ところで'姉1回四月発行からの苛政を何部にするかを決定するのも容易なわざではなかった。余剰部数が多

ると提訴的に破長を兼たすし、あまり少な過ぎる部数ではこの苦心が実りのない徒労に終わってしま‑。学院の

の過書もまちまちで般払ある岸谷を出せるものはいなかった。決噺は守之助自身がTLさねはならなかった。「二百五

十部印刷」これが守之助の判断であった。苦くなかれ、この故は甫軍政と全く1致したのである。

無から有を生じる

高山歯科医学院以来生理学担当計師として十年余り舟扶していた遠山椿書は、明治三十三年六月二十日東京市の技

師になり公演多忙で辞任し、その挨任には中本前秀が妊任した。また、顧教鞭院も生徒が増加して'星夜悦教室を班

用しなければならなくなったので、患中休暇明けには教室を明け渡す必賓に泊られた。六月二十四日には院長夫嚢に

長女が生まれ、キヨと名付けられ、七月初めには野口が清BE牛狂から帰国し、しばらくして金を蚊い火たすと三崎町

の食客群に加わった。

院長はたまには彼らと高歌放吟して仲間入りをすることもあつたが'やはり移転問雌が免になって悩みの称であっ

た。しかし夏季中には三g町1町日三番地の大成中学校の教室を午後四時から夜間班用できる見通しがつき、九月三EZZの新学列から叩計できた。野口はN(竹竿の手鏡を担当することになった.

院長の立切からいえは'院長の名誉にかけて・4独立校舎が持ちたかったLt大成中学Eでも恒久的に伏す怒Mjはな

かった。

院長は日夜校舎の間瀬について苦慮していた。そのことは唯一人の列を挽いた学院関係者にとって判りすぎるほど

(19)

判っていた。唯L人の男とは野口である。徴は集烈な渡米ホにから九、弊金q連がなかなか想う上うにならねと山菜

自兼的な不品行に陥り、守之助を除く開床止からは者評で迎えられていた。このような列に憐みと同mJJ持ち就けた

守之助はまことに珍しい存在であった。しかも点検には抵姫サギ的に婚約者の穀からまきあげた渡米相を、こともあ

ろ・r,に遊里で使い果たして途方にくれている野口に謙航禁を■連したのであった。勿幹、守之助にお金などある啓が

ない。福利貸からの借金であった.

十二月五日'野口は守之助唯l人に見送られて横浜港を出族した。この上うに余計な時間つぶしなしているかにみ

えたが'守之助の心を神が嘉したのか大変都合の上い話しがまいこんできた.

血脇沿岸所の所掌三g町二丁目九番地の平EE世邸の執事が来て'平岡が移転するからその家屋をHい祈らぬかとい

う賢しである。平EE称の地所六百八十坪はその時、三菱財田の大事頚荘田平五伴の新市するところであり'その家屋

は元読本鹿央であったが、平岡の所有となっていた。平河は汽車無毒会社を足留していた太っ腹の経iET名であった。

田の代理人は三菱

地 所

帯の番頭官床井であったので、守

助はここ

を訪

ねて肝入期間十カ年、借地料坪十銭で放

成立させた。

平岡邸の方は交渉の末三千円でXゥ受けることになった。この契約は証書だ証文だなどとい‑のではなく朋と列

との約束という形で成立したのだそ,L1である.

さて兼1文に近い守之助は手付金一千円を介立社社長川閃胎盤から借用した。川関治忠は下祈

「広漸」以来の友

人である。

放りの二千円は「今文」こと森和書に併用することにした。「今文」は前回守之助が借金に来た岬はあまり耶搬的

ではなかつたのに、今度はホ竹を朋くと即座にJChl文tJ!刺子で二千円を散通してくれた。

(20)

明治343月gI 元秋本寂赦せ改息 右榊血脇 幽料治始所 ,左 側母 臣

(幽学史札 ER歯兼出版 上 り) 長屋付大平れ門門こでの'

良 建 二 枚、

二 楢建 一 嫌、

土 蔵 1 戸、

捻 挫 坪 二

〇 九 坪の 元 就 本 屋 敷が 手に入たっo 一 週間後

閑治恕周のへ 旋にてよっ 下谷

二 長町の 登 記所に 赴四千き' 七 百場奴千機設定閑川円にでをのそ円を当のし、 退所入力中をLt 飛はて「今し 文

に 二千円を返千し、 七 百 円 を 手にてゆゆしうう 熔 宅た.つましり

こ の 屋 敷は

三 千円ど こ ろ の 伯 打 ち のも の で は な かっ た の で ある。

岡が江戸子っ 気 封 の 快 判 子 な ので 井 盤 抜き の 訣 波 をう けこると が でき たの で ある。 こ のよう にし て 明 治 三 十四 年 l月中=J=b. 無 から 有を生るじ 寄航が誕生た。ただそはのままでしし 校 合て使とし 用 すにる は 不 適当なので 平 屋 誰 一 棟ずをあえとり 校舎改造にし 尾 灯を つ け た。

例 のプラン はここ で 不 要と なっ た。

二 桁 建 母屋は 一 四 一 坪たがれはあこもっ、 血 脇 歯 科治 標所と 住 宅にあてるこ と にし た.

門 長 屋は 抜な坪甥に目くL

(21)

二月1日となった。この移転と共に三月の新入生は一組百二十九名となり、そのため残り1枚の平屋鯉を奨円蓋に改

造し

母屋の力も広くなったが、同店人が一挙に十人になり、この小には水野寛雨も新しく加わった。八月十二日にはソ

デ夫人の兄広瀬武雌が学院の粒初の倍学生として渡米することになって盛大な送別壮行会が行なわれた。院長が広瀬

に依桁した研究部題は、紛糾医術ならびに射糾医会の嗣兼であった。

この上うにして明治十四年は治療所の繁栄'学生数の増加で経折帆にもかなり炎になって越年することができ

たQ

て丑明治三十五年三月二日のことである。祖父巣助は七十六歳の市齢で眠るが如く往生をとげた。

院長は故郷を触れて宅を慰める暇もなく'そのうちそのうちと怒っている胤に祖父の死に起両し、いまさらの如‑

惜別の冊に堪えかねて慨嘆したが、早速仰施して祖父を葬い、その韮前に報恩の祈りを捧げた。

この節、夫人ソデは七カ月の身孤であったが夫と火に同道しているQ百力日忠があけてまも'明治1二十五年六

月一九日、長班が山生した。l家は1乾して明るい凄びに包まれた。

tT之助はこのところ文京歯科医学院が脈網な軌道をすべり山したことや、家訓の刀も次邪に楽になってきたのをrt

て 、

長く閉ざされた夜のとはりがあけて朝日が差込んできたかのような恐いに駆られていたO

そうだ'朝日がHlるように、これからの約途に煎52.がでてきたことを新しく生れて来た子眺の名前で穀わそうと考

え、そで夫人と相談すると、lも二もなく郡収したので、「日出粥」と命名することを決めた。

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