Suyaga9anga
第一篇第
2
章の研究
一 一 和 訳 一 一 一
榎
本
正
明
は じ め に
Suyagac;la白ga(Skt. Sutrak:rta:riga<ヘ以下 Suy.)は, Jaina白衣派が伝承 する四十五の Agama(聖典〉中,最も重要であるとされる A:rigaの第二番目 に位置するこ篇全23章よりなる経典であるO 第一篇は韻文(Sloka,V aitaliya 等)で書かれ,全16章から成る。第二篇は散文で叙述され,全 7章から成っ ている。また,第二篇は第一篇より新しいものとされ,第一篇の補遣を集成 したものと見られているO (2) 周知の如く, Jaina聖典には新古の二層が存するが, Suy. の第一篇は Ayarangaの第一篇, Uttarajjhaya,Dasaveyaliya, Isibhasiyai:rp.と共に, 最古層に属するもののーっとされている。ω さて, Suy.の内容と説示の目的は異教の主張の論駁,避けるべき危難や 誘惑についての警告,修行者の敬慶な信仰生活等を中心とし, Jainaの若い 修行者達の信仰を固め,最高の境地へ導くことを目的としたものである。異 教の主張の中には,仏教,唯物論者, Vedanta派, Vaise号ika派等があり, 古代インドに於ける宗教,及び諸学派の状況を知るためにも, 乙の Suy. は
(1) Suy.のSanskrit名に関しては,拙稿「Suyagac;laii.gaの題名について」『印仏研』33巻2
号(昭60. 3,pp.541∼542)参照。
(2) M. Winternitz『ジャイナ教文献』中野義昭訳,(日本印度学会, 1976)pp.22, 25,p.347
註'51)参照。
(3) 明T.Schubring:Die Lehre der Jainas,Grundriss III,7 ,Berlin1935. §42参照。 - 27 ・
-備教大事大皐院研究紀要第14競 非常に重要な経典であると言えるOω 第一篇第2章の内容は,まず第 1節では,「悟りと無常」が主題であるが, その具体的な内容には「生命の無常
J
,「愛着の放棄J
,「迷妄の除去」などが 述べられ,また,苦行の道へ入った者はそれらに引き寄せられることがない ように努力すべきであると述べられている。第 2節は, 「慢心と避けるべき もの」が主題であるが,慢心については,修行者は他の人が輪廻で苦しむ様 を見て,自分がそこから逃がれているということを誇ってはいけないという 乙とが説かれ,「悪しき行為, 所有, 冷水,口論」等が避けるべきものとし て挙げられている。第3節は,「無知によって積まれた(業の〉除去」が主題 であるが,「愛欲,無常,殺害,所有」等に対する無知から, 多くの業が積 まれることになり,多くの苦しみを経験する乙とになると説明し, Jinaの教 えに従って,それら悪しき行為を捨て去って,自制し,業を滅ぼすことを説 き,乙のように修行した者は罪から逃れて解脱に到るのであると述べられて いる。 また,この第2章の章題は Veyaliyaであるが,乙の Veyaliyaには2種 の意味があるとされる。 1つは「業を破壊する(vaidarika)」という意味で あり,もう 1つは「韻律名<5) ( vaitaliya)」であるO きて,今回日本訳の為に使用した Textは以下の如くである。まず,底本 として,Acara先gαsutra and Sutr akrtaゐgαsutram,with the Niryukti of Acarya Bhadrabahu Svamiαnd the commentary of Silaゑkacarya,Lala
Sun-(4)Winternitz前掲書, pp.22
∼
23,及びLouisRenou et Jean Fillozat『インド学大事典』 山本智教訳,(金花舎, 1981)第3巻 p.256 §2390参照。 (5) veyaliya ( vaitaliya)の韻律については次の論文が詳しい。阪本純子「PaliJataka i乙於け るmatrachandhasの性格」『仏教研究』第7号,昭53,pp.43∼
640 通常, vaitaliyametreは以下の如し。 a. c pada 6十 一 ) ー ) × b. d pada 8 + ー ) ー ) × 28-Suyaga手a企ga第一篇第2章の研究
darlal Jain A.gamagranthamala vol. 1, original ed. Late A.carya Sagar -anandasuriji Maharaja, re-ed. with appendices etc. by Muni Jambuvi-jayaji, the disciple of Late H. Holiness Muniraja Sri Bhuvanavijayaji Maharaja, Delhi 1978.
を用いた。この他に,参考資料として,以下の4つの Text を用いた。 Sayαgaqangαsutta〔pαγt1),with Bhadγαbahu's NiγyuktiαndCuγ
,
'JJ,i by anonymous writer, Prakrit Text Society Series No. 19, ed. Muni Shri Punyavijayaji, Ahmedabad 1975. (以下 P 本〉Suttagame vol.
,
1
ed. Puppha bhikkhu, Gurgaon 1953. (以下 S本〉 A均ga-suttanivol.1
,
ed. Muni Nathamal, Delhi 1975. (以下 A 本) SuyagaqαrhgasuttαrJ'l,,Jaina-A.gama-Series No. 2 (2),ed. Muni Jambuvi-jaya, Bombay 1978. (以下 J本〉底本と以上の4つの Text との聞に重要な variantがある場合,訳註 lこ示す
ことにした。また,日本訳の為の参考資料として,英訳である
JainαSutrαs, The Sacred Books of the East, vol. XL V, part II, Translated from Prakrit by Hermann Jacobi, Oxford 1895, repr. Delhi 1964.
と,独訳である
Woγte Mαha℃1γαs, Kγitische Ubersetzungen aus de悦 KαnondeγJainα
von Walther Schubring, Gottingen 1926.
とを用いた。註釈としては,底本に付されている Silanka の T1ka及 び P 本に付されている Jinadasa の CiirIJ.iを用いた。その他,参考文献として, W. Schubring : Ayara先ga-sutta, Text, Analyse und Glossar, Leipzig 1910. C以下 Schubringの語葉表)
R
.
Pischel : Comparαti℃e Gγαmmeγof the Pγakrit Lαnguαges (Engli:也Translation) Delhi 1965. (以下 Pis.)
W. B. Born民二 ThePadαsof the Suttanipata, with parallels fγom the A.yaγ
,
αngα,S
包yαgα4α,
Uttarα,jjhaya, Dαseveyaliyααηd Isibhasiyai1J1,,-梯教大事大事院研究紀要第14競
Studien zur Indologie und Iranistik, Monographie 7, Reinbek 1980. (以
下 B
o
l
l
e
e
)を用いた。 §1. 第1
節 1.sa:qibujjhaha ki:qi na bujjhaha, sa:qibohi khalu pecca dullaha / l).O huval).ama:qiti raio, no sulabha:qi pu♀ar a.vi jiviya:qi // 正しく悟りなさい! なぜあなた達は悟らないのか? 完全な悟りは,実に,来世に於 ては得難いものである。日々は(再び〉戻って来ない。また,再び(人間としての)生命 を得ることは易くはない。 2. c;lahara vuc;lc;lha ya pasaha, gabbha’
ttha vi caya:qiti ma♀ava/ se平ejaha vattaya:qi hare, eva早 au・khaya:qimituttaiI
I
見なさい! 若い人や,老いた人や,胎内にある人でさえ死ぬ。あたかも,鷹が鶏を連 れ去るように,そのように,寿命(を決定する業〉が尽きれば死ぬ。 3. mayahi:qi piyahi:qi luppai, no sulaha sugai ya peccao / eyai:qi bhayai:qi pehiya, arambha viramejja suvvaeI
I
(人は〉母や父(との肉親の愛情)によって惑わされて,それで来世に於ける安穏は得 難いものとなる。これらの危難を見て,極めて聖なる行為〔苦行〕をなす者は,悪しき行 為を慎しむべきである。 4. jam il).a:qi jagati puc;lho jaga,】rnmmehi:qiluppa:qiti piil).i♀o/ sayam eva kac;lehi:qi gahai,手otassa muccejja’putthaya:qiI
I
すなわち,世間に於ては,世の中の生き物達は各々(自らなした)業によって害される。 まさに,自らなしたことによって没落する。 (報いが〉経験されていない(業は〉彼から 離れないだろう。 5. deva ga:qidhavva-rakkhasa, asura bhumi-cara sarisiva / raya nara-setthi-mahal).ii, thal).ii te’vi caya:qiti dukkhiyaI
I
神々,ガン夕、、ルヴァ,ラクシャ,アシュラ,地上の動物,蛇達,王族,(普通の〉人, 商人,バラモン達であっても,苦しんで(自らの)位置を捨てる〔死ぬ〕。 6. kamehi ya sa:qithavehi giddha, kamma-saha kalel).a ja:qitavo / tale jaha ba:qidhal).a・ccue,eva:qi au司khaya:qimituttatiI
I
30-Suyaga<;l.axiga第一篇第 2章の研究 愛欲や,親愛に貧欲な人は,時機が来れば行為の果報を受けることになる。あたかも, ターラ樹の果実が茎から落ちるように,そのように,寿命(を決定する業)が尽きれば死 ぬ。
7. je ya.vi bahu・ssuesiya, dhammiya maha早a-bhikkhuesiya /
abhi写uma-kac;lehi:rμ mucchie, tivva:rμ te kammehi:rμ kiccati //
たとえ,多くの(事柄を〉学んだ者であっても,有徳なバラモンや,乞食の修行者であ っても,虚偽の心(など〉によってなされたことに耽るならば,彼らは業によって厳しく 切り刻まれる。
8. aha pasa vivegam utthie, avitinne iha bhasai dhuva:rμ / 9ahisi ara:rμ kao para:rμ, vehase kammehi:rμ kiccati //
さて,決定智の為に努力している者は見なさい!(未だ輪廻の海を〉渡らずに,この世 に於て自信ありげに説教する者がいる。どうして(その人から〉此の世と彼の世のことを 知ることができょうか。その聞に,業によって切り刻まれる。
9. jai vi ya i;i.iga阜ekise care, jai vi ya bhu:rμjiya masa-m-a:rμtaso / je iha mayai mijjai, aga叩tagabbhaya 9a:rμtaso //
たとえ,裸形で,痩せ細って修行したとしても,またたとえ,月の終わりに(だけ〉食 事をしたとしても,此の世で欺輸などを有している者は,無限に母胎へ戻って来る。 10. puriso rama pava-kammu9a, paliya:rμta:rμ ma9uya9a jiviya:rμ /
sannii iha kama-mucchiya, moha:rμ ja:rμti nara asa:rμvuda // 人は悪しき業を慎しめ! 人々の人生とは滅びつつあるものである。此の世に於て(欲 望に〉沈み,愛欲に耽り,自制していない人々は迷妄に陥いる。 11. jayaya:rμ viharahi jogava:rμ, a9upa9a pa:rμthii duruttara / a早usasal).ameva pakkame, virehi:rμ sa:rμma:rμ paveiya:rμ // 努力して(心を〉集中して歩きまわれ! 徴細な虫がいる道は越え難い(から〉。勇者 達によって正しく示された教えに赴くべきである。 12. viraya vira samutthiyii., koha-kayariyai-pisal).a / pa9e早aha9a:rμti savvaso, pavao viraya
’
bhinivvuc;la // 英雄達は(悪しき業を〉慎しみ,奮闘努力し,怒りや欺臓を砕いており,決して生き物 を殺すことがなく,悪しきもの〔業〕を慎しんだ平安な者である。 - 31-悌教大事大皐院研究紀要第14競 13.写avi ta aham eva luppae, luppaiμti loaqisi pa写i♀o/ evaiμ sahiehiiμ pasae, al).ihe se putthe ahiyasae // まず,私だけが苦しんでいるのではない。世の中の生き物は(全て〉苦しんでいる。完 成した人はこのように見るべきである。彼は(苦しみを)経験しても,悩むととなく,忍 耐すべきである。 14.dhul).iya kuliyaiμ va levavaiμ, kisae deham a材sa早aiha/ avihiiμsam eva pavvae, a♀udhammo mu平均apavedito //
あたかも,漆食(を塗られた〉壁を振り動かすと(漆食が落ちて,壁が)薄くなるよう に,此の世に於て, 身体は断食によって痩せ細る。(乙のように生き物を〉殺さないこと に赴くべきである。聖者によって(解脱に〉向かう教えが示された。
15.sau引jahaparp.su・guiμ<;liya,vihu♀iya dharp.sayai siyaiμ rayarp. / evarp. daviovahal).avarp., kammarp. khavai tavassi-mahal).e //
あたかも,塵に覆われた鳥が附着した塵を振り払って四散させるように,そのように自 制し懸命に修行し,苦行をなす聖者は業を滅ぼす。
16.utthiyam a平agara・m-esal).aqi,sama早a早計lal).a引1iaiμ tavassi♀arp. /
<;lahara vu<;l<;lha ya patthae, avi susse l).a ya taiμ labhejja l).O // 奮闘し,出家者としての在り方を追求し,(聖者の〉段階に到り,苦行をなす修行者を, 若い人や老いた人達が(俗家に戻るよう〉乞い求めるだろう。しかし,たとえ(声が〉枯 れるほど(乞い求めても)人々は彼を得ることはできない。 17.jai kalul).iyal).i kasiya, jai royaqiti ya putta-karal}.a / da viyaiμ bhikkhu samutthiyarp.,早olabbhaiμti !}.a sarp.thavittae // たとえ,あわれな姿をしようとも,またたとえ,子供をだしにして歎乙うとも,自制し, 奮闘努力している乞食の修行者を留めることは得られない。 18.jai vi ya kamehi laviya, jai l).ejja hi l}a baiμdhiurp. gharaiμ / jai jiviya navakarp.khae,早olabbharp.ti♀a saiμthavittae // たとえ,愛欲によって誘惑しでも, またたとえ, 彼を縛って家に連れて来ても, もし (彼が世俗的〉生活を望まないならば,彼を留めることは得られない。 (1) … … (1)
19.sehaiμti ya手a中 mamai♀o,ma.ya piya ya suya ya bhariya / (2) … … (2) (3) … … (3) (4) … … (4) posahi l}a pasao tumarp., loga paraiμ pi jahasi
’
posa早oI
I
-Suyagac;lariga第一篇第 2章の研究 (彼を)我がものとしたいと思う母や,父や,子供達や,妻が彼を諭す。あなたは我々 を見て,養いなさい! (我々を)養わない(ような〉者は来世を捨てることになる。 20. anne annehi111 mucchiya, moha111 ja111-ti 9ara asa111-vuc;la /
visama111 visamehi111 gahiya, te pavehi111 pu早opagabbhiya
I
I
人々は他のものに受着している。自制していない人々は愚痴に赴く。罪深いことによっ て,(彼らは〕罪深いところに沈む。彼らは悪しきもの〔業〕によって,また,高慢となる。 21. tamha davi ikkha pa111-c;lie, pavao virate
’
bhil).ivvuc;le /pa9ae vira中 mahavihi111,siddhi-paha111 neauya111 dhuva111
I
I
それゆえ,自制し,悪しき(業〉を慎しみ,平安なる賢人は見なさい! 不変なる偉大なる道,安穏への道,救済を導く道へ, 22. veyiiliya-maggam agao, mal).a-vayasa kaye9a sa111-vuc;lo / ciccii vitta111 ca I).ayao, ara111 bha111 ca susa111 vuc;le careI
I
敬慶な勇者は (すなわち,業を〉破壊する道へ入り,身・口・意を制御し,財産や,親類や,(殺生等 の〉行為を捨てて,よく自制して修行すべきである。 §2. 第 2節 1. taya sa111 va jahai se raya111, iti sa111-khaya muポ 平amajjai / goya'nnatarel).a maha9e, aha seya-kari anesi i111khi9II
I
あたかも,〈蛇が)自らの皮を(脱ぎ)捨てるように,彼は(業)塵を(捨てる)と考え ても望者は誇らない。(真の)バラモンは血統や他の乙とによっても(誇らない)。また 他人を中傷することは悪しき結果を生じる。 2. jo paribhavai para111 jaIJ.a111, sa111-sare parivattai maha111 / adu i111-khil).iya u paviya iti sa111-khaya mu9I平amajjaiI
I
他人を侮辱する者は,長い間,輪廻を流転する。また,中傷も悪しきことであると考え て,聖者は慢心を持たない。 3. je ya.vi a♀ayage siya, je vi ya pesaga-pesae siya / (1) (2) je mo♀a-paya111 uva!!hie,平olajje samaya111 saya yare
I
I
主人がいない(ような身分の高い〉者であっても,召使いの召使い(のような身分の低 - 33ー偶数大準大事院研究紀要第14競
い〉者であっても,聖者の地位に到った者は(自分の身分〉を恥じることなく,平等にい つも行動すべきである。
4. sama annayarammi sa:rp.jame, sa:rp.suddhe sama♀e parivvae / je ava-kaha samal白, davie kalam akasi pa叩c;l.ie//
(このようζ〉平等(に行動する人は〉何らかの自制のもとに,清浄な修行者として遊l 行すべきである。死ぬまで三昧をなして,賢者は自制しつつ死んだ。 5. dura:rp. al).upassiya muポ,tita:rp.dhammam a平agaya:rp.taha / putthe parusehi:rp. mahal).e, avi hal).l).ii samaya:rp.mi riyai // (真の〉バラモンたる聖者は,はるか遠くのもの〔解脱〕や,同様に,過去や未来の対象 を見て,ひどいことを経験し,打たれたとしても,教えに従って修行する。
6. pa亭亭a-samattesaya jae, samata dhammam udahare mul).i / suhume
t
町 aalusae,平o~ujjhe 平O
m勾 imah叩I
I
完全な知識を持った聖者は, 常lζ,(煩悩などを〉征服すべきであり,正しく教えを説 くべきである。 しかも,(真の〉バラモンは些細な乙とも決っして怠らず, 怒ることもな く,慢心を持つべきでもない。
7. bahu”ja♀a-l).amal).a:rp.mi sa:rp.vuc;l.o, savva
’
Hhehi:rp. !).are al).issie / harae va saya a早avile,dhammarμ padur akasi kasava:rp.I
I
多くの人によって従われているもの〔教え〉に(従って〉自制し,すべての世俗的なこ と〔束縛〕より離れた人は湖の如く常に清浄で,カーシュヤパ〔Mahaviraの姓〕の教え を明示した。 8. bahave pa♀a puq.ho siya, patteyarμ samayarμ samihiya / jo mol).a-pada:rp. uvatthite, viratirp. tattha akasi parp.<;lie
I
I
多くの生き物達は,それぞれに住しているが,各々同様に(苦・楽を感じている〉のを 見て,聖者としての地位に到った者である賢者は,その生き物に対して(殺害などの行為 を)慎しんだ。 9. dhammassa ya parae mul).i, ararp.bhassa ya arp.tae thie / soyarp. ti ya平arp.mamai♀o,写olabbharp.ti手iyarp.pariggaharp.I
I
また,聖者は教えに充分精通しており,有害な行為を止めている。しかし,我執を持っ ている者達は歎き悲しむ。永遠な所有を得られずに。Suyagag.anga第一篇第 2章の研究 10. iha・loga-duhavaha111viii, paraloge ya duha111 duhavaha111 /
viddha111sa~a-dhammam eva ta111, iti vijja111 ko 'garam avase //
此の世に於て(所有などは〉苦を伴なったものである。来世に於ては,さらに大きな苦 を伴なったものであると知られる。それが,まさに破壊する性質を持ったものであると知 って,誰が(俗)家に留まるであろうか。 11. mahaya111 paligova janiya, javi ya va111dana-piiya~a iha111 / suhume salle duruddhare, viu ma111ta payahijja sa111thava111 // 大いなる貧欲を知(って捨て〉るべきである。またたとえ,此の世に於ける賞讃や尊敬 であっても(知って捨てるべきである〉。徴細な矢は抜く乙とが難しいと考えて, 知者は 讃辞を捨てるべきである。
12. ege care(ra)怜匂amasa早e,saya早eege(ga) samahie siya / bhikkhii uvaha阜a-virie,vai-gutte ajjhatta-sa111vu90 //
(乞食の修行者は〉ひとりで座所に於て不動を修行し,ひとりで臥所に於て三昧(を修行 して〉あるべきである。乞食の修行者は苦行の力を持って,語を護り,心を制御して(あ るべきである〉。
13.早opihe早ayavaparp.guQe, dara111 sunna-gharassa sa111jae / putthe 1).a udahare vaya111, 1).a samucche♀o sarp. thare ta平a甲
U
自制した苦行者は,住む人のない家(に留まった時,その家〉の門を開いても,閉じて もいけない。関われでも(粗い)言葉を語ってはいけない。また,(草を〉刈ってもいけ ないし,それを(自分の臥所/c)撒散らしてもいけない。
14. jattha
’
tthamie al).aule, sama-visamai111 mul).i 'hiyasae / caraga adu vavi bherava, adu vii tattha sarisiva siya //聖者は日没後に於ても平静であり,平坦や,平坦でない(臥所に〉耐えるべきである。 その場所には,蚊,或いは,恐しい動物,或いは,蛇がいるかもしれない。 15. tiriya mal).iya ya divvaga, uvasagga tiviha
’
hiyasiya / lomadiya111手aha.rise, sunnagara-gao maha-mul).i // 動物や,人間や,神々から(生じる) 3種の危難に耐えるべきである。偉大な聖者は住 む者のない家に滞在した時,(恐怖によって〉髪などを逆立ててはいけない。 (1) 16.♀o adhikarp.khejja jiviyarp.,’vi ya piiya1la-patthae siya / 35-偶数大阜大皐院研究紀要第14競 abbhattham uvirμti bheravii, sunnagara-gayassa bhikkhur:10 // 生き永らえようと望んではいけない。また,尊敬さえも請うべきでない。住む者のない 家に滞在した乞食の修行者にとって,恐しいものが繰り返し襲ってくる。 17. uva平均atarassatai:r:10, bhay'am勾assavivik】叩nasa!).a中/ siimiiiyam ahu tassa j a早,joappii写abhae :q.a darμsae // 深く正しい知識に精通し,他の人々の保護者であり,(人里)離れた住まいを選び, ま た,(危難に対しても〉恐れが現われない彼は, すべての罪ある行為を捨てた者であると 〈人々は〉言った。 18. usi1;odaga-tatta-bhoiI).o, dhamma-tthiyassa muI).issa himato / sarμsaggi asiihu-rιihirμ, asamahi u tahagayassa
’
vi// 熱湯で暖められた食物(を用い〉, 教えを守り, 慎しみ深く,そのように行じる聖者で あっても,悪しき者などとの交際によって,心の散慢が生じる。 19. ahigara平a-kac}assabhikkhuQ.o, vayamii!).assa pasajjha daru:q.arμ / atthe parihayati bahu, ahigara早arμ na karejja pa:rp.I).ie // 乞食の修行者が口論をしたり,荒々しい(言葉)を語るならば,(彼の偉大な〉行為は 大いに失なわれる。(それゆえ)賢者は口論をしてはならない。 20. siodaga-pac)idugu:rμchi!).o, apadiQ.Q.assa lavavasappil).o / siimiiiyam ahu tassa j a甲,jogihi胴matte’
sa♀a中 nabhu:rμjati //冷たい水を嫌悪し,主張する乙とがなく,僅かな(業でさえ〉捨て去り,家長の鉢によ って食物を食べる乙とのない彼の人は,そのような罪ある行為を捨て去っていると言われ
7こ。
21. na ya sarμkhayam ahu jiviya:rμ, taha vi ya bala-jaQ.o pagabbhai / bale piipehirμ rnijjati, iti sarμkhaya muI).i I).a majjati // また,人生は清浄なものではないと言われる。それにもかかわらず,愚かな人は倣慢で ある。愚かな人は多くの悪しき(業〕に充ちていると考えて,聖者は誇ることがない。 22. cha:rμdena pale' imii payii, bahu-miiyii moheI).a piiuc}a / viyac}eQ.a pali:rμti maha!).e, siu♀harp. vayasii’hiyasae // 乙の人々は欲望によって進んで行く。多くの欺繭を持ち,迷妄によって覆われている。 〈真の〉バラモンはすばらしい行為によって進む。語(など)に関して,寒・熱に(泣き
Suyagac;lariga第一篇第 2章の研究 言をいわず〉耐えるべきである。 23. kujae aparajie jahii, akkhehi]11 kusalehi]11 divaya]11 / ka<;lam eva gahiiya早okaliJ11, no tiya]11 no c' eva davara)1l // あたかも,(誰にも)負かされたことがない賭博者が,良いサイコロによって賭博する 時には, 4だけを振って, lや 3や 2は決っして(振ら)ないように。 24. eva)1l loga)1lmi ta均五,buieje dhamme a9uttare / tal!l gi9ha hiya]11 ti uttamal!l, ka<;lam iva sesa
’
vahaya paJ11c;lie // そのように,保護者〔Mahavira〕によって説かれた(此の)世に於ける最上・最高の教 えに,(自らの)為と(思って)従いなさい。あたかも, 巧みな賭博者が他の(数〉を避 けて, 4 Cのみを出す)ように。 25. uttara ma♀uy匂aahiyii, giima-dhammii(mma) ii me anussuya叩/ jal!lsi viratii samut!hiyii, kiisavassa a早udhamma-ciiril)o// 私が聞いた所によると人聞にとって,五官の対象が最も強い(束縛)であると言われる。 (しかし〉カーシュヤパ)の教えに従って修行する者達はその(五官の対象〉を節制して, 奮闘努力する。26. je eya cara)1lti ahiya]11, nae早a)1lmahaya mahesir:ia / te ut!hiya te samut!hiyii, annonna)1l siira)1lti dhammao // 乙の偉大な聖仙である高貴なジュニャータ〔Mahiivi:ra〕によって説かれた(教え〉を行 じる者達は,奪い立ち,奮闘努力し,教えによって互いに行動させる。 27. ma peha pura pal)iimae, abhika)1lkhe uvahi]11 dhur:iittae / je dumar:ia tehi111平onaya, te ja♀a)1lti samahim ahiyaJ11 // 自の前にある(人を)従わせるもの〔欲望の対象〕に気を取られてはいけない。(業や煩 悩などの)附属物を振り払うことを願うべきである。不愉快にさせるもの〈他人からの非 難など〕に屈服しない人々は,三昧を知っていると言われる。 28. 90 kahie hojja sa)1ljae, piisar:iie r:ia ya sa111pasarae / nacca dhamma)1l a9uttara111, kaya-kirie早aya vi mamae //
修行者は長時間に亘って話しをしてはいけない。また,むやみやたらと質問をしてもい けない。(種々な噂を〉広げてもいけない。そして, 最上の教えを知って,なされるべき ことを実行し,我がものという考えも(持つては)いけない。
{弗教大皐大皐院研究紀要第14競 29. channa:rp. ca pasa:rp.sa♀o kare, na ya ukkosa pagiisa miiha♀e/ tesi:rp. suvivega-m-ahie, pal).ayii jehi:rp. sujosia:rp. dhuya:rp. // (真の)バラモンは虚偽や,貧欲や,慢心や,怒りに赴いてはいけない。そして,それ らを正しく捨てる乙とに専心し,(業を)振り払う乙とをよく実践した者は謙虚な人々で ある。 30. al).ihe sahie susa:rp. vuc;le, dhamma’持hiuvahiil).a刷virie/ viharejja samahi-i:rp.die, atta-hia:rp. khu duhel).a labbhai // 罪業な《,完成し,よく制御され,真理を求め,苦行の実践に精進する者は感官を統一 すべきである。魂の安穏は実に得難い。 31.平ahi♀ii!).a purii al).ussuta:rp., adu vii tarp. taha I).Osamutthiya:rp. / ffiUI).i平asamaiahita:rp., nae写a:rp.jaga-savva-da:rp.sil).ii // 正しい制御(など)に関しては,聖者であり,世界のすべてを知っているジュニャータ 〔Mahavira〕が説いたものであるが,それは確かに,以前に学ばれたものではなく,もし くは,(同様に〉以前に生じたものでもない。
32. eva中 mattiimaha:rp.tara:rp., dhammam il).a叩 sahiyiibahu ja!).ii / gurul).O cha:rp.d匂 uvattagii,virayii tinna mah
’
ogham ahita:rp. // 乙のように,多くの完成した人々はこの教えが偉大なものだと考え,指導者の意志に従 って,(諸々の悪しき業を〉捨てて, 大いなる(輪廻の〉暴流を渡ったと言われる。 §3. 第 3節 1. sa:rp.vuc;la-kammassa bhikkhu♀o, jarμ dukkha:rp. puttha:rp. abohie / tarp. sa:rp.jamao’
vacijjai, mara♀a:rp. hecca vaya:rp.ti pa:rp.diyii // 業を制御した乞食の修行者にとっては,(かつて〉無知によって経験した苦が自制によ って減少する。(およそ)賢者達は死を捨てて,行脚する。 2. je vinnaval).ahi 'josiyii, sa:rp.tinnehi:rp. sama:rp. viyahiyii / ta中hauc;lc;lha:rp. ti piisahii, adakkhu kiimiii rogava:rp. // (女性の)誘惑を受けつけない者達は(輪廻の海を)越えた人々と同様なものとして呼ば れる。それゆえ,すぐれていると見なさい! そして,彼らは愛欲を病気の如く見なした。 (1) (2) 3. agga早 val).iehi:rp.ahiya:rp., dhara:rp.ti riii!).iya iha:rp. / 38-Suyagac;l.anga第一筋第 2章の研究 eva中 paramamahavvaya, akkhaya u sarai・bhoya♀a
I
I
此の世で,王族達は商人によって供給された最上のものを着用する。同様に,苦行者の (五〉大誓と,夜食(の禁〉は最上だと語られている。
4. je iha saya♀uga nara, ajjhovavanna kamehirp. mucchiya / kiva平el)asama中 pagabbhiya,na vi ja手arp.tisamahim ahitarp.
/
I
此の世で,快楽を望む人々は愛欲に耽溺し,耽っている。みじめな者と同じであり,倣 慢である。彼らは三昧を知らないと言われた。 5. vahel)a jaha va vicchae, abale hoi gavarp. pacoie / se a叩tasoappa-thamae, naivahai abale visiyati // 雄牛はせき立てられて,荷車によって傷つけられたならば,力が弱くなる。(そして〉, 完全に力がなくなるまで弱くなると,(荷車を)引くことができず倒れる。 6. eva甲 kam
’
esa♀arp.viii, ajja sue payahejja sarp.thavarp. / kami kame :i;ta kamae, laddhe vavi aladdha kal)hui //このように,欲望の追求〔の結末〉を知る人は今,或いは,明日,親愛を捨てるべきで ある。また,欲望ある者はそれがどとかで得られようと,得られなくても,諸々の欲望を 熱望してはいけない。
7. ma paccha asadhuta bhave, accehi al)usasa appaga中/ ahiyarp. ca asahu soyati, se thanati paridevati bahurp.
l
f
未来に悪しき状態があってはいけない。(執着を〉越えよ! 自らを鍛えよ! 悪しき者 は(悪しき業の報いを受けて)一層泣く。彼は大いに喚き,歎く。
8. iha jrviyam eva piisaha, tarul)e vasa-sayassa tuttati / ittara-vase ya bujjhaha, giddha-nara kamesu mucchiya //
此の世に於ける生存を見よ! 生まれたばかりの者であっても,百年(も経過すれば) 死ぬ。短い生存であるということに目覚めよ!(それにもかかわらず〉貧欲な人々は愛欲 に耽っている。 9. je iha ararp.bha-nissiya, iita-da叩c;l.a(da)egarp.ta-lusaga / garp.tii te piiva・logayarp.,cira-riiyarp. iisuriyarp. disa甲
U
此の世に於て(殺生などの〉行為に従事する者は自らも傷つけ,常に殺生をする。彼ら - 39-悌教大撃大皐院研究紀要第14競
は悪しき世界,すなわち,アシュラの領域に長い間赴く。
10.9a ya sa1:μkhayam iihu jivitai:μ, taha vi ya biila-ja♀o pagabbhai/ paccuppanne平akiiriyarμ, ko datthui:μ paraloyam agate
I
I
また,人生は清浄なものではないと言われる。それにもかかわらず,愚かな人は倣t慢で
あるO現世のものに関して(のみ〉なされるべきである。誰が来世を見て,戻って来ただ
ろうか。
11. adakkhuva dakkhu・viihiyai:μ,(tai:μ) saddahasu adakkhu-darμsa♀五/
hai:μdi hu suniruddha-dai:μsa♀e, moha9ijje9a kac;le9a kammu♀a
I
I
愚か者のような, あき盲な汝は知者の語ったことを信じなさい。ああ実l乙 (汝は〉な された愚痴の業によって眼力が極めて妨げられている。
12. dukl王himohe pu90 pu写o,nivvii:μdejja siloga-puya♀ai:μ / evai:μ sahite’hipiisae, iiya-tula:qi pii9ehirμ sa:qijae
I
I
迷妄のもとに,何度も何度も人は苦しむ。(それゆえ)称讃や供養を厭うべきであるO 乙のように,完成し,自制した人は生き物に対して,自らと同じであると見るべきである。 13. giira早 pia iivase nare, a9upuvva:qi pii9ehi甲 sa:qijae/ samatii savvattha suvvate, deviina:qi gacche salogaya:qi JI また,人は(俗〉家に住していても,段々と生き物に対して自制し,何に関しても正し く,良き誓戒を持つ(ならば),神々と同じ世界に行くだろう。 14. soccii bhagava9usiisa9a:qi, sacce tattha karejj’u vakkama:qi / savvattha vi9Iya-macchare, u:qicha:qi bhikkhu visuddham iihareI
I
尊い人〔Mahavira〕の教えを聞き,その真理に関して努力すべきであるOあらゆること に関して物惜しみを除色乞食の修行者は清浄な施食を食すべきである。 15. savva:qi naccii ahitthae, dhamma’Hhi uvahii9a-virie / gutte jutte sadii jae, iiya-pare paramayata旬tthite
I
I
すべてを知り,克服すべきである。(そして〉真理を求め,苦行の実践に精進し, 防御 し,(苦行などの修行に〉集中し,常に自制し,アートマンに専心し,最高のもの〔解脱〕 に長く住す(べきである)。 (1) … …(I) 16. vitta:qi pasavo ya niiio, ta甲 balesara平a:qiti mannai /Suyagac;langa第一篇第 2章の研究 ete mama tesu vi aha:rμ, no ta♀a:rμ sara平a:rμ na vijjai: // 財産や,家畜や, 親類(などを〉愚かな人は依り所と考える。(しかし〉乙れらは私に とって,また,私はこれらにとって,助けにも,依り所にもならない。 17. abbhagamita:rμmi va duhe, aha va ukkamite bhava:rμtie / egassa gafi ya agati, vidu ma:rμta saraI).a:rμ I).a mannai // 苦が押し寄せて来たり,生命の終わりが近づけば, 1人で行き〔死に〕,戻って来る〔再 生する〕と考えて,知者は依り所(があるなどとは)考えない。 18. savve saya-kamma-kappiya, aviyatte平aduheI).a paI).iI).o / hiq1c;la:rμti bhayaula sac;lha, jai-jara-mara♀ehi
’
bhidduta // すべては自らの業のなせるわざである。(悪しき〉人々はわけのわからない苦しみによ って恐れに満ち,生・老・死に苛まれ,さすらう。 19. il).am eva khal).a:rμ viyal).iya,I).Osulabha:rμ bohi:rμ ca ahita:rμ / eva:rμ sahie 'hipasae, aha jil).e il).am eva sesagii // この(時〉乙そが(修行の〉時機だと知るべきである。悟りは得易くはないと言われる。 乙のように,完成した人は見るべきである。ジナも他の(祖師)達もこのことを語った。 20. abhavi:rμsu puravi bhikkhuvo, aesa vi bhava:rμti suvvatii / eyai:rμ gu平副μ ahu tr: e, kasavassa aI).udhamma-cariI).o // 乞食の修行者達よ,教え,すなわち,良き誓戒は過去にもあったし,(現在も)あるO カ ーシュヤパの教えに従って修行する人々はこれらの徳を語った。 21. tivihel).a vi piil).a ma ha早e,aya-hite aI).iyaI).a sa:rμvuc;le / eva:rμ siddha a手a:rμtaso,sa:rμpai je a al).agayavare// 3種のものによって生き物を殺すなかれ。魂の安穏を(求め〉, 果報を求めず制御すべ きである。このようにして,無数(の人々)がシッダ(に到った)。他の人も今,或いは, 未来に(シッダに到るだろう〉。 22. eva:rμ se udahu a♀uttara-I).a引 al).uttara-da:rμsiaI).uttara-naI).a-da:rμsaI).a-dhare / araha nayaputte bhagava:rμ vesalie viyahie // tti bemi /最高の知識と,最高の信仰と,最高の智見を有している,ヴァイシャーリー出身と語ら れる,アノレハットであるジュニャートリ・プトラ〔Mahavira〕尊者がこのように語った と,私は言う。
偶数大事大皐院研究紀要第14競 訳 註 §1. 1.(1)p本kiI).I).U;この verseは,特に問題となる個所は存在しないが, P本の異読は 「何故悟るのか?」という宵定疑問となっている。ただ, pada cのraio (ratri)は raio(女性・複数・主格)が正しい形であるが,韻律上乙のような形になっている。 2.(1)S本, A本,底本bU<;lc;lha,(2)P本 ya;まずpadaaのvuc;lc;lha (vrddha)は 底本及びS本, A本では buc;lc;lhaとなっていたが,文脈上 buc;lc;lhaは不適当であり, P本,
J
本にしたがって vuc;lc;lhaと訂正した。また, padabの vi (api)がP本で はya (ca)となっているが,文脈上はどちらでも問題はない。 padadのtuttaiは tuttai (ati-v'元
記
orv'函己干三人称・単数)が正しい形である。また,この語に関して は I.2.1.6で説明する。−iの部分は,韻律上,長・短どちらでも良い個所であるが, pada bが長音で終っているため,それに合わしたのであろう。また,本備と第6{届 とは, UdanavargaI.9-10と相応備であると考えられる。詳細は, I.2.1.6で説明 する。3.(1)J本 vi,(2)P本, J本, A本dehiya;pada bのpeccaoは, pra-v'Tの連続 体の形pecca (pretya)に,従格相当語尾である−tasが付加されてpeccaoとなり, 韻律より peccaoとなったものと思われるが,連続体に接尾辞が付加されるという乙 とは,通例あり得ないことであり,問題が残る。 padacのpehiya (praイ 函 連 続 体)は, P本, J本, A本ではdehiya
(
イ
可
ζ一連続体)となっているが,意味上か らも,韻律上からも,どちらでも問題はない。 4. (1) P本 kac;le’bhigahae,(2)P本teI).ai:μ,J本 tassa,(3)P本, J本, A本’putt -havarμ ; pada aのjagatiはjagati (jagat単数・依格)が正しい形であるが,韻律 上−tiと長音になっている。次に, padacの kac;lehi:rμ gahaiは, P本では kac;le ’bhigahae (なしたことがその人の中に入ってくる)となっており,意味が異なってい る。さらに, padadのtassaが, P本ではtel).arμ (具格)となっており,またJ本 ではtassa(従格)となっている。また同 padaの’putthayarμ (aspr話aka)が, P 本, J本, A本ではaputthavarμ (aspntavat)となっている。 P本では, tel).arμ が karmal).aを意味し,「経験されない(業を)持っている者は,その(業)から解放さ れない。Jと解釈できる。J
本で tassaとなっているのは,−aの部分が,韻律上長音 が求められる場所であるからであり,本訳は乙れに従った。5.(1)p本bhumigata,(2)J本tevi tha平副中; padabの bhumicaraがP本では bhumigataとなっており,「地の中の生き物」という意味になる。 padadのtha♀a te'viが
J
本では tevi thanai:rμとなっているが,何故乙のようになったのかについ てはわからないが,底本のthaIJ.al乙対する註釈CT1ka)では, sthanani ( =thanai甲) と釈していることから, thaIJ.aを中性・複数・目的格の形とする考え方が存したこと がうかがえる。 乙の説は, との padaの動詞 caya:rμti ( {t示])があることからも 支持される。 6.(1)底本 I).a,(2)P本, A本 ya,J
本 yagiddha,(3)P本 kammasahe,(4)P本 aukhae vi;まず, padaaのyaは,底本では p となっている。しかし文脈上, - 42-Suyaga<;la:riga第一篇第2章の研究 否定辞加では前後の意味が通らない。他の 4textは,すべて yaとなっているの で, 乙れを採用した。次に,同padaのgiddha
(
ゾ
言
戸
E
過去分詞)の部分が, P本, A本で ya,J本では yagiddhaとなっている。韻律より考えると,底本の padaa は母音数が lつ多い。そ乙で giddhaをyalこすると,韻律上は本来の形になる。ま たgiddha(貧欲な)という語がなくても,前後の文脈が通じなくもない。次に pada bの kammasahaは, P本では kammasaheとなっている。との形は,単数・主格 を意図したものと考えられるが,同 padalとja:rμtavo (jantu複数・主格)があり, 乙れとは矛盾する。 pa.cadのtu!!atiは,両註釈, Pis.§292では/t
r
可 と 解 釈 す るが, Schubringの語葉表p.102ではati-V可
E
と考えられている。しかし意味的に は,両者とも大差はない。次に同 padaのaukhya:rμmiが, P本では aukhaeviと なっている。 khaeも khaya (k1;>aya)の依格の lつの形であり, viが加えられてい るのは韻律上からの配慮と思われる。さて先の I.2.1.2.と本備とは, Udanavarga I.9一10!と共通部分が存する。 garbhαeke vinasyante tathaike sutikakule / parisrptas tatha hy eke tathaike paridhavina]:i // (Uv.I.9) ye ca vrddhiiye ca ぬ hraye ca madhyamapuru号待/anupurva:rμ pravrajantiρhαlam pakva巧 vabandhaniit //(Uv.I.10) ある者達は母の胎内で死に,また,ある者達は産婦の家で死K,また,ある者達は 這い廻っている時に死に,また,ある者達は走り廻っている時に死ぬ。
老いた者達も,若い者達も,中年の者達も,!頃々に去って行く。熟した果実が茎か ら落ちるように。
との Suy.とUdanavargaの関係を以下に考察してみよう。まずSuy.のverse2の pada dとverse6のpadadとは互いに共通する。したがって,乙の padadは, 本来どちらかの verseにあったものが他方に移ったのか,あるいは一体であった verseが離れたため,両方に同じ padaが残されたか,その聞の事情は定かでないに せよ, verse2と6は密接な関係を持ち,本来,一体か,あるいは引き続きの verse であった可能性が強い。 verse2と6を並べてみると, UdanavargaI.9 -10が Suy. の verse2のpadaa, bと, verse6のpada c lと極めて類似した関係にあること に気付く。特に,イタリック部は両者が一致する個所である。乙の UdanavargaI は「無常」を説く部分であるが, Suy.I.2. 1もまた, 「無常」を説き,それからの 離脱を説く部分である。 ζのように,両者は共に類似した部分を持ち,その中で,乙 のような類似verseを持っているということは, Suy.とUdanavargaの両者に,何 らかの共通源泉があったととが考えられる。 7.(1)P本 bhavebahussuta,(2)P本suyi,(3)P本−karehi:qi,(4)P本kiccanti;ま ず padaaのbahussuesiyaは, P本では bhave bahussutaとなっているが, 乙 れは単数が複数になっている乙と以外,意味的には問題がない。次に, padabの siya
(
v
示願望法)がP本では suyI (suci清らかな)となっている。 SUCiで意味を 考えると「清浄な者Jという項目が1つ加わることになる。第31,乙 padacの -ka<;lehi:qiがP本では karehi:qiとなっている。つまり「なされた」という意味が 「なす」と変わる乙とになるが,文脈的には大差はない。第4に, pada dのkiccau が, P本では kiccantiとなっている。 乙の padaには te (tad)という複数の代名 詞があり,動詞も複数が要求されるべきである。底本に対する Ti切には, krtyante - 43ー{弗教大皐大皐院研究紀要第14競 とあり,この個所を複数と考えているようである。しかしこの個所は,韻律上kiccati でなければならず,そのため kiccantiという複数を kiccatIという形で現わしたの ではないかと思われる。 8. (1) P本, A本 dhutaiμ ; pada bのdhuvaiμ (dhruva)がP本, A本では dhutaiμ ({dhfi 過去分詞 or 凡~過去分詞)となっている。乙の内,両面では「(業が) 振り払われているJという意味であり,ゾ在五子では底本とさして意味は変らない。ま た, Cun::ii,Tikaの両註釈は, padaaのvivegamutthieとpadabのavitinne以 下を同格と考えて,「決定智のために努力し,…(中略)…説教する者を見よ。」と解釈 している。とれは padaaのpasaがイ云瓦の二人称・命令形である乙とから,こ のように考えたのであろう。しかし, padaa に二人称代名詞が省略されているとす れば, vivegam utthieがその代名詞にかかるものと考えるとともできる。また, vivegam utthieをavitinne以下と同格とするととには無理があるように思われる。 そこで,ここでは註釈に従がわず, vivegamutthieがpasaの主格に相当するもの と考えて訳した。 9. (1) P本 jai vi ya, (2)S本 ma.ya.hi,(3)P本, A本 gabbhad
’
a平aiμtaso, J本 gabbhaya’
P早taso, S本gabbhayal).a中taso,底本 gavbhayal).a甲taso;まず, pada bのbhu:qijiyaについて,この形は通常{b
h
可の連続体を示すものであるが, そうなると,このpadaには主動詞がなくなる。 Cur♀i,Tikaの両註釈にはbhul).kte (三人称・単数)であるとしているが, bhu111jiyaが三人称・単数であると考えること は不可能である。ところで, padaaとbとは,両方とも jaivi ya (yadi api ca) で始まる同一構文である。そして, pada aの主動詞 careは,願望法・三人称・単 数の形である。したがって padabでも願望法が来る方が自然である。 bhuiμjiyaが 願望法となる可能性はあるのだろうか。Pis.§464tこは,イ函瓦の願望法としてhal).iya (hanyat)という語形が示されている。一方, Pis.§459には,ず函可の願望法として bhunjejjaという形が示されているが, この形は Skt.の bhufijyatが想定語形 bhunjiyatを介して形成された語形であるとされている。ととろが, bhunjiyatがそ のまま Prakrit化されれば, bhunjiyaとなるはずである。ところが, bhuiμjiyaの 語尾の”aは,韻律上では短音が要求されている場所である。 したがって,ここは本 来 bhuiμjiyaという先述の願望法の形が,韻律上bhuiμjiyaとなったと考えられる。 このbhmμjiyaという願望法の形の用例は, Pis.等の文法書にも,また他のJaina古 層経典にも,現在のところ見い出し得ないが,少なくとも乙の個所は願望法と考える べきであろう。次ζl同 padaの masa・m-a111tasoの,m−は Curがによるとsandhi -consonantであるとされる。第3に, padacは, T1kalζmayadina miyate, Curが にyadi・ ・ ・mayadir・ ・ ・miyateとあるのに従って訳す。第4!乙, padadの gabbhaya (garbha与格)が底本では gavbhayaとなっていたが,{也の4本とも gabbha−であ ることにより訂正した。また,次の l).aiμtasoという語は存せず, P本, J本, A本 などに従って, ’l).a中tasoと解釈し,語頭の a−が韻律上から欠如しているものと考 えた。また,との verseの内容は次の Dhammapada141(PTS)に近いものであ る。 na naggacariya na jata na pa企ka,nanasaka tha♀c;lilasayika va / rajo ca jallaiμ ukkutikappadhanaiμ, sodhenti maccaiμ avitil).l).akaiikhaiμ // (Dhp. 141) -44-Suyagac;lariga第一篇第2章の研究 裸行の行も,警を結うのも,身体が泥にまみれるのも,断食も,露地に横臥するの も,塵や泥を身体に塗るのも,同んで動かないのも,疑惑を遠離していない人を浄 める乙とはできない。
11.(1)p本 parakkame; pada c の pakkame (praイ辰五函願望法) が, P本では parakkame (paraイ
E
五示願望法)となっており,「奮闘すべきである」という意味 lζ7よる。12. (1) P本 viravirata hu pavaka,(2)P本 kodha,J本, A本 koha;まず, padaa がP本では, viravirata hu pavaka「英雄達は悪しきもの〔業〕を慎しんでJとなっ ている。次に, padabの kohaは, P本, J本, A本いずれも語尾の−aが長音と なっている。ところで,底本の padab は lmatra不足している。そのため koha の語尾ーaが長音とされたのであろう。また kayariya (katarika)は,両註釈で ma.ya となっていることからこう訳した。
13. (1) P本 luppadhe,(2)P本, J本 sahie
’
dhipasae, A本 sahie’
hipasae, S本 sa”hiehi pasae,(3)P本, J本 puttho’hiyasae, A本 putthe'hiyasae;まず, pada
aの luppae について, 乙の形は通常 {
I
u
己の受動形・三人称・単数を示すもので あるが,そうすると aharnの人称と一致しない。 T1kaでは, lupye (イ百五受勤形 ・一人称・単数)と解釈しτ
いる。 P本の luppadheの形は不明であるが, Curr;1iで は lupyami (イ函己一人称・単数)と解釈している。 また pada b には luppa甲ti(受動形・三人称・複数)とあるととから, luppaeが受動形であるととは確かであり, 文脈・註釈から判断して一人称であるという乙ともかなり確実である。次lこpadac の sahiehirppasaeについて,まず sahiehirpは, P本,
J
本, A本いずれも sahie もi-(九lhi−)というように分けている。底本に対する T1kaでも, sahiehirpを複数・ 具格とせず,単数・主格としている。また,韻律上からも lmatra多くなっている。 とれらを総合すると, sahieと hirpを分け, hirpの−rpを取る乙とによって, sahie’
hipasaeという形lとする方が適当であると思われる。また sahieは, Cur-9i, Tika いずれも svahitaと解しているが, Schubring の語葉表 p.106の解釈を用いて, sadhita(
v
瓦dh過去分詞)と考えることにした。次lこpasaeは,両註釈とも願望 法・単数の形であると解釈しており,文脈上からもその説が適当であると恩われる。 第3に, padad の puttheahiyasaeは, P本,J
本, A本いずれも puttho(e)’
hiyasaeとしている。龍律上からも 1matra多くなっているので, ここは putthe’
hiyasaeとするべきであろう。またこの ahiyasaeも先述の pasae同様,願望法と するのが適当である。14. (1) P本,
J
本, A本 anasa-9adihirp, S本 a-9asa-9aihirp; pada aの kisae及 び pada cの pavvaeは,先述の如く願望法と考える。次に pada b の a-9asa早a iha について,まず a早asa-9aは a写asa-9a (anasanat)が韻律より a♀5・となったものと 思われる。次に,乙の部分は他の 4本においては, a-9asa-9adihirp(合ihirp)となっ ており,「断食などによって」と意味されているものである。しかし底本も,語尾が 勺a
という従格の形になっており,意味的にも大差はない。また次備との関連におい ては,苦行(断食)が壁の漆喰を振り払う作用に喰えられていることにもなる。 45-梯教大皐大皐院研究紀要第14競
15.乙の verseに共通するとされているものに Samyutta-Nikaya9. 1 (PTS)がある。 saku写oyatha pai:μsukurp;lito, vidhunai:μ patayati sitai:μ rajai:μ /
evam bhikkhu padhanava satima, vidhunai:μ patayati sitai:μ rajai:μ // (SN. 9. 1) あたかも,塵に覆われた烏が,附着した塵を振り払って落とすように,そのように 比丘は正念をもって努力し,附着した塵を振り払って落とす(べきである)。 R.Morris ;‘Note and Queries',Journal of the Pali Text Society,1891-3 pp. 48-49参照。両者の padaa, bはdhai:μsayaiがpatayatiと変っている違いを除け ば,まったく同一である。試みに,漢訳を参照すると,『別訳雑阿合経』巻十六で は, 如烏潟塵盆 奮繭振塵積 比丘亦如是 禅思去庫勢 と説かれる。 乙のように漢訳においても, pada a, bが一致する。との pada a, b がPali,漢訳両伝に見られることより,少なくとも Pali独自の伝承でないことがう かがえる。次に, padac, dは両者に多少の相違が存する。しかし, padacのuva -h句avai:μ (upadhanavat)とpadhanava (pradhanavat)とは同語根の動詞であり, 単語自体も近い内容を示している。 ただ pada dでは,まったく違った内容が伝え
られていることに気づく。これは何故だろうか。 padaa, bは比轍句であり,通常 pada c, dはpadaa, bと同じ主動詞が用いられるが, Suy.では khavai(v'~)と いう異なった動詞を用いている。そこで, padadは, Jainaが意図的に改変したと 考えたい。すると,仏教は原伝承を忠実に残したが, Jainaは,それを変える必要性 があったということになる。その原因として考えられるのは,次の理由だけである。 すなわち,「麗」はUpani号ad時代から業の比喰的表現であり,当然,業を意味する 言葉である。そのため,修行して塵を振り払うと言えば,それは業を振り払うと言う のと同じ意味になる。それをあえてkarmanという語を入れ,そして,それを滅する (イ函)とすることは,「業を滅するjことと, 「塵を振り払う」乙ととの同一性を強 調せんがために他ならない。 ζ乙にJainaの意図があったのではなかろうか。これに 関しては,拙稿「Jainaの tapasに関する一考察」『印仏研』 32巻2号(昭59.3, pp. 142
∼
143)参照。また仏教側にとっても,乙の用例は業を物質的に捉えている個 所であり,仏教の初期時代には,業を物質的なものとして捉える思想が存在したとい う乙とも充分に考え得る。 16. (1) P本 tavassiyai:μ,(2)P本, A本 labheja平o, J本 labheja科;まず, pada a l乙対する 'f1kaでは, utthiyamをutイ玩函の連続体とし, esal).a平を「乞食に」 と解釈して, 「出家し,乞食に奮闘して」と註している。 しかしこの備の主語は, pada cの 1ahara及び vugghaであるから, utthiyamを連続体とすることはでき ない。そ乙で,ここでは Cur写iの解釈に従いutthiyamを ut-v'石扇の過去分詞と し, esal).ai:μ を「追求する」という意味にとり, a手agara・m・esal).ai:μ を Bahuvrihi compoundと考え,−m−を sandhi-consonan tと解した。次lζpadabのtavassi -I).ai:μ 〔Skt.tapasvinam ( tapasvin複数・目的格)〉が, P本ではtavassiyai:μ となっ ている。 P本に対する Cur平iでは,何も註されてないが, tapasvikaか,あるいは tapal].-srita(苦行に依拠した)のことではないかと考えられるが,どちらでも底本と 意味の大差はない。第3にpadacの gaharavug1haは「若い女(妻),老いた女 (母)」と考える乙ともできるが,乙乙では両註釈に従って「若い人達(子供),老いた 46-Suyagac;lariga第一篇第2章の研究 人達(父母)」と訳した。また patthae (praイ石th)は願望法の形であるが, Schu-bringの語葉表p.66では単数で考えられている。乙とでは両註釈に従って,複数と 考えた。第4lζ,pada dのlabhejja♀0について, 乙の 1).0は'f1ka lこも註釈さ れておらず,意味不明である。しかしP本, J本, A本に labhejal).o (a)とあるこ とから,乙れらの Textの方を採用した。 17.(1)P本 sekare,(2)J本rovarμti,(3)P本, J本, A本, S本bhikkhurμ,(4)P 本, A本手arμ sal).l).avettae;まず padaaのkasiya (
v
'
k
r
願望法)が, P本では se kare (彼になす)となっている。次に, padabのroyarμti(ゾ元証)が,J
本で はrovarμti(イ元叫ぶ)となっている。第3にbhikkhuについて,これにかかる前 後の形容詞が目的格となっており, padadのsarμthavittaeの目的語に当たるため, 目的格と考えるべきだろう。事実,他の4本はすべてbhikkhurμ となっている。乙 れは韻律上の配慮と思われる。第4に, padadのp sarμthavittaeについて, sa叩thavittaeは samイ百函の使役活用・不定詞の形であるため, その前に否定辞 加が来る必要はない。 P本, J本ζlは, l).arμ sa♀l).avettae (samイ五五使役・不定 詞)となっており,乙こは代名詞平arμ の・甲が,韻律より省略されたと見るべきで あろう。 18. (1) P本 jail).arμ, A本 jai同rμ,(2)p本 anejjal).a barμdhita, A本 anejjata早 ba:rμdhita,(3)P本, A本 tarμ,(4)P本, A本avakarμkhi早arμ,(5)P本p sal). -平avittae, A本 ta叩Sal).早avettae;まず padaaのjaivi yaが, P本, A本ではjai 祖母(l).arμ)〔yaditam〕となっている。次に同padaのlaviyaについて, 'fikaで はlavayanti(イ百刈る?)と註しており, Curl).iでは何も書かれていない。しかし 「刈る」では意味が通らない。と乙ろで, R.Turnerの ACompαrative Dictionary of the Inda AヮanLanguagesのNo.11016には{I
a
己(語りかける)の使役活用 がlaveiとなるとされ,このことから,使役活用の過去分詞が laviyaとなる可能性 があふことでは,このv
'
I
記説を採用し,「誘惑する」と訳すことにした。第3!乙, pada bの l).ejjahil).a ba叩dhiu平について, barμdhiurμ は{b記
ヨ
E
の不定詞で あり,その前に否定辞加が来る必要がない。 A本では,勾ejjatarμ barμdhita(過 去分詞)となっており,乙この早aも代名詞 l).arμ が韻律より l).aとなっていると解 した。第4!ζ,pada cの avakarμkhae (avaイ鼠瓦Eζ 願望法)がP本, A本では avakarμkhil).arμ (avaka:tik~in 目的格)となっている。最後に, padadの早asa甲− thavittaeは,前備と同様 l).aを♀a甲の韻律上の省略形とする。 19. (1) P本 ma.tipiti thi pati ya bhayaro,(2)P本pasahil).a,J木 pasahi♀e, A本 posahi♀e,(3)P本 para]agarμ,J
本, A本logarμ para叩,(4)p本jahahiutta -marμ,J
本 jahasipo錦 亭e, A本 jahasiposal).e;まず padabが, P本では ma.ti piti thi pati ya bhayaro「母や父や女や主人や兄弟」となっている。次に, padacの posahi l).aについて, posahi({p丙命令形)は, P本, J本ではpasahi(ゾ五五命 令形)となっている。また次の l).aは,J
木, A本で平e (asman)となっている。 'f1kaで も , こ の 引 を asmanと註しているところから,一人称・複数・目的格と 解する乙とにした。第3に, padadのlogapararμについて, P本ではparalogarμ となっており,J
木, A木も loga:rμ となっている。乙のlogaはjahasiの目的語で 47-悌教大望大皐院研究紀要第14競
あり, logaqiとなるべきである。しかし,ここも韻律上より, logaとなっていると 考えられる。
21.(1)p本davi’evasamikkha, (2)P本panatavira,J本 panayavira, A本 pa早ae vire,(3)P本sivaqi;まず pada cの pal).ae vi問中について, P本, J本には pa♀ata (pal).aya)司法となっており,複数・主格の形となっている。また Tikaも pral).ata vira}:tと註している。と乙ろで,乙の padac, d には主動詞がない。 C討が
とT1kaは,それぞれ padyate(イ示司赴く), anu号theya与(anu-v'玩五五義務分詞, 実行されるべき)という動詞をおぎなっている。 しかし, padadの内容は,次の備 の冒頭の veyaliya-maggam「(業を)破壊する道」にかかるものと考えられるから, 動詞をおぎなう必要がないと思われる。またveyaliya-maggamを目的格とする agao
(aイ言語函過去分詞)が単数であるため, pal).aevira叩も,上記のように考えれば単 数で良いことになる。 A本には pal).aevireとあり,乙乙では,この形を訳すことに した。次に padadの dhuva (dhruva)がP本では sivaqi (siva)となっている。 乙のように,乙の備の padac, dは意味的に次備に続くものである。 22.(1)S本 nivvuc;lo,(2)S本 susaqivuc;laqi,(3)J本 carejjasi;まず pada bの saqivuc;Io (samイ元過去分詞)がS本ではnivvuc;Io (ni-v'元過去分詞)となってい るが,意味は同じである。次にpadadのsusaqivuc;leがS本では susarp.vuc;laqiと なっているが,乙れは次の careの目的格と考えたものであろう。また乙の careは J本では carejjasi(願望法・二人称・単数)となっている。 §2. 1. (1)p本 jevidu,(2)P本,
J
本, A本aha’seyakarI,(3)P本,J
本, A本, S本 al).l).esi;まず, pada aの tayaはtayam ( tvacam)となると乙ろが,韻律上 tayaとなっている。 Pis.§350にこの個所が引用されている。 padadのahaseyakarIが P本, J本, A本で aha
’
seyakarIとあり, T1kaにも asreyaskariと註釈しており, seya−の前にa−が省略されているものと解した。 また同 padaは,韻律上からは anesIの部分が乱れている。つまりこの部分はー)が要求される個所であるが,) ーーとなっているO 他の4本は勾早esi(一一))となっているが,乙れでもまだ 母音数が1つ多い。底本の脚註にはnesi(ー))という variantが示されているが, 韻律上からは,乙の形が適している。そ乙で,語頭の a−が省略されているとして, 'nesiとするのが良いように,思われる。 2.(1) P本, J本, A本, S本paribhavai, (2)P本 ciraqi,(3)A本 iha,(4)底本 bhajjaI, P本 majjae;まず, padaaのparil】havaiは,韻律上からは語尾の−iが 長音でなければならなし1。他の4本は,いずれも paribhavaIとなっている。次l乙 pada bのmaharp.がP本では ciraqi(長く)となっているが,意味は同じである。 第3に, pada dの majjaIは底本では bhajjaIとなっていたが, T1ka及び他の4 本から majjaIと訂正した。またP本は majjae(ず元記願望法)となっている。 3. (1) P本, A本 ida,(2)P本, J本, A本, S本 care;pada dのyareについて, 他の4本では careとなっているが, Ardha-MagadhIでは語頭のcがyになること - 48Suyagagariga第一篇第2章の研究 もある(ca→ya)ので,訂正しなかった。
5. (1) P本, S本 pharusehi,
J
本, A本 pharusehirμ;まず, pada cの parusehirμ は,韻律上からは parusehiである方が良い。 P本, A本にも pharusehi(=
parusehi) という形が示されている。次に, pada d の samayarμmi について, 'f1kaでは sa:iμyama(自制)と註釈し,英訳では indi旺erence (samata,無関心)としている が,乙の形から見れば samaya (教え)が自然である。 Cun;ti,独訳もとれを支持し ている。 6, (1) P本 paゆa-samatthe,(2)P本 samita,(3)P本 hu,(4)P本 kuppe;まず, pada aの pa手写仕samatte(prajiia-samapta)がP本では pai;tha-samatthe〔prasna -samartha,「質問(に答えること)ができる」〕となっている。7. (1) P本 savvatthesusada, (2)P本 vatumea平副le;pada cの vasayaがP本で は vatume (padma,蓮?)とされている。さて,この padac, dは SN.VII. 1. 9. 17中の備と同じ思想を持っている。また, padaa, bが Sn.811の padaaと対応する。
sabbattha muni anissito, (Sn. 811 pada a) Bollるe,p. VI参照。
8. (1) P本 uvehae,
J
本 uvehiya; pada b の samihiya (samイ雨)がP本では uvehae,J本では uvehiya (ともに upaイ長)となっている。 9.乙の偏の padac, dが Sn.805の padaa, b に対応する。 socanti jana mamayite, na hi santi nicca pariggaha / (Sn. 805, pada a, b) 人々は我執した者に憂う。何となれば,恒常なる所有物は存在しないから。 Bollee, p. VI参照。 また, padadの がya が通常は Sktnija(自分の)に相当するが, 乙乙では Sn. の対応偏や Cur引に従って nityaとした。 10.この侮の padac, dが Sn.805の padac, d に対応する。vinabhavasantam ev
’
ida中, itidisva nagaram a vase// (Sn. 805 pada c, d)この(所有物)は,まさに変化するものであると見て,在家に住すべきではない。 11. pada dの viumamta に関して, 'f1kaは vidvanと註釈し, Cur引 は viu(vidvan)
ma叩ta (matva)と註釈している。 'fikaは marμta の説明をしていないから viu -mamta (vidmat)と考えているのか,そうでないのかわからない。 Pis.§582 !ζ
manta (matva)の説明があり, 乙こでは viuが韻律上 viu (vidvan単数・主格) から変化したものと考え, mamtaを matva (イ函記連続体) と考えた。 次に, sarμthavarμ (sa叩stava)について, 'fikaは paricaya(親愛)と解釈している。乙れ
は,先述の I.2. 1. 6の用例からとのように解釈したものであろう。しかし,乙乙で は stava(讃辞)の意味の方が文脈に合致していると思われる。
12.(1) P本 care;まず padaaの careと padab のege について,底本は( )内に - 49ー
梯教大皐大撃院研究紀要第14競
別の形を示しているが,乙れは韻律上の配慮と思われる。また, padacの uvahal).a -(upadhana)は tapasと註されているが, この説に従うと也pasが 問 中varaの機 能を持っているという乙とが明示されている乙とになる。
13. (1) P本 yava'va:qigul).e,(2)P本,
J
本 vayi:qi, A本 vai恥 (3)p本 samucchati; pada aの pi:heについて,乙の語形については註釈には示されておらず,ただ Curが に pihitam (api (pi)イd
h
a
過去分詞〕とされているだけである。英・独訳も「閉 める」乙とを意味する訳を与えている。 しかし apiイ直言の Ardha-Magadh1形の 願望法は pihe (Pis. §500)であって, pi:heではない。韻律上からも pi:heよりも piheの方が適当であるのに,あえて韻律を無視して pi:−と長音にした理由がわから ない。異本も全て pi:heとなっている。 したがって, pi:heとなった理由は理解でき なかったが,文脈上の意味によって apiイヨ扇の願望法 piheの意味に解した。また, この儲から第16偶までは,住む者のない家での種々の危難について述べられている個 所であるが, pada cの内容はこの一連の内容に一致しない。伝承の乱れがあったの ではないかと考えられる。14. pada bの もiyasaeについて, T1kaは adhiイ
s
a
h
(耐える)と解釈しているが, 乙れは意味的に註釈しているにすぎない。 Pis. §499 I乙は AyarangaI.8. 2. 15の ahiyasaeを adhi’j
言面一(居住する) の ArdhaSchubringの語葉表 p. 99では adhiイ石
s
(耐える)としている。乙乙では Schu-bringの説に従って, adhiイ両面の願望法と考えた。15. (1) P本viseviya,(2)P本,
J
本, A本 harise;まず, padab の もiyasiyaにつ いて,乙れは前偲と同様に adhiイ両面と考え,その使役・願望法とした。 また P本 では viseviya(イ孟干,享受する)となっている。次に padacの ha.riseは harise(イ可
5
願望法)が正しい形であるが,韻律より ha.riseとなったものである。 P本,J本, A本には hariseとある。
16. (1) P本 java
’
bhika:qikha,J
本 ava’
bhika:qikhe;この備も pada a, bの内容と pada c, dの内容が一致しない。伝承の乱れが考えられる。 また pada aの abhi -ka:qikhejja (abhiイE
記忘)が P本では java’
bhika:qikha,J
本では ava’
bhika早khe(ya.vatabhiイ扇~)となっている。 17.乙の偏は Sn.810と対応する。
patili:nacarassa bhikkhuno, bhajamanassa vivittam anasa中/
samaggiyam ahu旬ssata甲, yoattana甲 bhavanena dassaye // (Sn. 810)
隠遁して行じる比丘であり, (人里)離れた坐処に親近し,俗世間に自己を現わす 乙とがない彼は,かの浬繋にある者であると,(人々は)言う。 乙のように, padaaが異なること以外はほとんど共通している。さて, まず pada b について, Suy.では asal).a中(住処)とあるのが, Sn.では anasa:qi(意味不明) となっている。 PTSの版本は脚註に MS.の異読を掲げているが, asana甲となっ ているのは Niddesaの PTS版のみとしている。 しかし,意味不明の語よりも,形 容詞 vivitta:qi (viイ石
E
,離れた)との対応からも asana:qiとする方が,より適切で - 50-Suyagac;lai:tga第一篇第 2章の研究 はなかろうか。しかも, Jaina側のパラレノレ偶である Suy.に おal).a叩と伝えられて いることからも,乙の考えは首肯されよう。そうすると,少なくともこの部分に関し ては Suy.の伝承の方が適切,乃至は原伝承を忠実に伝えているととになる。次l,と pada dで, Suy.では bhae (bhaya,恐れ)とある個所が, Sn.では bhavane (迷 いの世界)となっている。この両語には,いずれの Textにも異読は確認されず,原 伝承を確定する乙とはできなかった。
Bollee,p.VI参照。
18. (1) A本, S本−thiyassa;まず, padabの dhamma-tthiyassa の部分は 1 matra 多くなっている。韻律から考えると−thiyassaの方が良い。 A本, S本には−thiyassa とある。次に padacの sa:rp.saggiについて T1kaでは sa:rp.sargaJ::tという主格と して解し
τ
いるが,独訳 p.134の脚註では sa:rp.saggeという依格としている。乙こ でも,乙の説に従い samsaggeの−eが韻律上−iになっていると解した。また,次 の asahu・r-aihi:rμ について, Curni, T1kaの両方ともが asahu-raihi:rμ (raja)とし ている。しかし,先の独訳の脚註に asahu・r-aihi:rμ という形(つまり,−r”を sandhi -consonantと考える)があり,これを採用した。また padadの tahagaya (tatha -gata)は仏教でいう「如来」の意味では用いられていない。 19.(l)P本−karassa,(2)P本 dhuva:rμ, (3)P本 sa:rμjate;乙乙でのP本の variantは意 味の上からは,ほぼ同じ内容を示している。また韻律から見ても,同じである。 20.(1)P本, J本, A本−avasakki♀o,(2)P本 tarμ,ja叩,(3)p本 bhakkhati;まず, pada bの avasappi平o (avasarpin)が P本, J本, A本では, ava-sakkil).O (ava -::,va体in,やめる)となっている。また, padadの bh山μjati ({
h
l
r
n
.
D
がP
本では bhakkhati(ゾ店芯5
,食べる) となってし1る。 また第18偏ととの偏において,熱湯 (usi早δdaga) と冷水(siodaga)についての言及がなされているが, Jainaでは虫な どが混じっているかもしれない冷水の使用は禁じられており,他の人が作った熱湯を 用いねばならない。また, pada d の内容は,他人に招かれて食事をしないという Jaina思想の蔚芽とも考えられる。21. pada aの sa:rμkhayamについて, Trka は sa:rμskarttu早(sam-s-vkr不定詞)と 解して,「つなぎ合わせる乙と」と意味付けている。英訳もとの説に従って, prolong (延長する)という訳を与えている。 しかし, sam-s−イ訂から乙の意味を引き出すに は多少無理がある。乙乙では samskrtaという形でとらえて「浄化された→清浄」と いう意味を採用した。他方, na-y-asa:rμkhaya(a-sa:rµk~aya)「尽きないことはない」 という形と考えることもできる。乙の場合,,y−を sandhi-consonantと考える。 23.インドのサイコロ賭博では, kac;la (krta, 4)が最も良く, kali (1)が最も悪い。 26. (1) P本 kara:rμti ; pada dの dhammao (dharma-tas)が韻律上 dhammaoになっ
ている。
28. (1) P本, J本, A本 kaya-kirieya抑;まず, padaaは韻律の上からは乱れてい - 51