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ステファノ演説(使7: 2-53)の修辞学的分析

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(1)

ステファノ演説(使7: 2‑53)の修辞学的分析

著者 原口 尚彰

雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

号 37

ページ 77‑102

発行年 2003‑11‑29

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024312/

(2)

ステファノ演説  ( 使 7 :   2 - 53)

の 修辞学的分析 *

原  口  尚 彰

l

間題の所在

使徒言行録7章に出てくる長大なステファノ演説は ( 使 7 : 2

-

53)

,

最 高 法 院 で の 弁 明 と い う 設 定 の も と に な さ れ て い る が  ( 使 6 : l l

-

7 :

1)

,

モーセの律法と神殿を汚すことを言つたという直接の罪状(6: ll

-

13) には言及せず

, 一

見関係のないように見えるイスラ

ルの歴史の 回願を行つている

'

また

,

使 6 : 1 2

-

7 : 6 0 を ひ と ま と ま り の 殉 教 物 語 '本稿は平 成 l 5

-

l7年度科学研究費補肋金  基盤研究 (C)  (2)による授助を 受けた研究の一 ,部である

'

M.Dibelius, Die Reden der Apostelgeschichte und die antike Geschichts

-

schreibung,in idem.,A t?tze2urApostelgeschichte.GOttingen:Vandenhoeck

&Ruprecht,1953,145

-

146;E.Haenchen, D ieApostelgeschilchte( K E K 5 ; 1 3

''

' ed.;G

o

ttingen:Vandenhoeck&Ruprecht,196l)238;H.Conzelmann, D ie

.Apostelgeschihcte ( H N T 7 ; Tiibingen:Mohr,1972)57; J.Rololf, D ieAPostel

-

geschilhcte ( N T D 5 ; l 8 . e d . ; G

o

ttingen:Vandenhoeck&Ruprecht,l988) ll7;R.Pesch, D ie Apostelgeschih,cte (2vols;2.rev.ed

.

; l 9 8 5

-

1995)  l.244,

247;G.Schi11e,D ieApostelgeschihcte desLuhas (Berlin:EvangelischeVerlag

-

sanstalt,  l 9 8 9 ) 1 8 5 ;   A.Weiser, D ie Apostelgeschihcte (2vols;G

u

tersloh;

Mohn

.

l985

-

l 9 8 9 ) l . l 8 0 ;   M.L.Soards

.

T heSpeechesm Acts TheirContent

Cont?, and Concer ns (Louisville

.

CT:Westminster/J

.

K n o x , l 9 9 4 ) 5 8 ; E . Larsson, Temple

-

Criticism and  the  Jewish Heritage:Some Reflexions on Acts6

-

7

.

NTS39(l993)378

-

384;C

.

K

.

Barrett, T heActso

f

theAPostles

( I C C ; T . & T . C l a r k , l 9 9 4

-

l 9 9 8 ) 1.335; J A

.

Fitzmyer

.

T h e A c t s o f the Aposlles (New Y o r k : Doubleday,1998)363

-

364

.

-

77

-

(3)

と 考 え た と き

ステファノの裁判の開始の描写から(6: 12

-

l5)

私刑

の執行の場

の ( 7 : 5 4

-

6 0 ) つ な が り を 長 大 な 演 説 が ( 7 : 2

-

53)

,

ち切つているように見える2

このために

,

この演説は様式史家達から

,

元々は文脈と無関係な初代教会の宣教が

使徒言行録の物語に挿入さ れたの で あ る と さ れ

根底にある伝承と著者による編集の分析がなさ れてきた3

この演説についての学説は

( l )   演説はルカが継承した伝 承に編集を加えたものであるという説と (Dibelius,Haenchen,Con

-

zelmann,Wilckens,Barrettら )4

,

(2)演説はすぺてルカの創作であ る と い う 説 に 分 か れ る  (Mundle,Bihler,Musner,Richard,Schille)S

(1) に分類される学説については

この演説のどの部分にどの程度伝 承の存在を認めるか

あるいは

著者の編集作業をどの部分にどの程 度認めるかについて

,

研究者によってかなりの隔たりがある

特に

,

間 題であるのは

イ ス ラ

ルの歴史を背信の歴史と捉え

それにキリス

2Ibid

.

3Dibelius,l43

-

146;Hanchen

.

240

-

24l;Conzelmann,57;Weiser,l80

-

l82;

Schneider,1

.

447

-

4 4 8 ; 0

.

H

.

Steck, 1 s m e l u n d d a s g etoa

u

same Geschick der Propheten (WMANT23;Neukirchen

-

Vluyn:Neukirchener Verlag

l967)

266

-

267;K

.

Kliesch,

a

tsheilsgeschichttiche(redomdenRedenderApostelge

-

schilchte(K0ln

-

Bonn: Peter Hanstein,1975)155

-

163;U.Wilckens, D ieMis

-

sionsnden,derApostelgeschilchte. lllorm

-

undtmditionsgeschichtlicheUntersu

-

chungm.3.

u

berarbeitete und erweiterte  Aufl.;Neukirchen

-

Vluyn:Neukir

-

chener  Verlag,l974,208

-

224;H.Thyen, D ieStil derjl

a

dilsch

-

hellenistischen Hom

a

ie (FRLANT65;GOttingen:Vandenhoeck&Ruprecht,l955)l9

-

20;

Pesch

.

1

.

244;Larsson,384

-

385.

DibeIius

.

l44;Haenchen

.

280Conzelmann,50;Holtz,87

-

98,  l 0 9 ; G

.

Stemberger, Die Stephanusrede( A p g 7 ) u n d  die j lldische Tradition, inJest t

,

s mderVe

,

相lndigungderKilrche.(ed.A.Fuchs;Linz,1976)l70

-

l7l;Arai,67

-

70,Weiser,1

.

18l

-

l82;Barrett,l

.

336

-

340

.

W

.

Mundle, Die Stephanusrede Apg7:Eine M

a

rtyrerapologie, ZNW 20 ( l 9 2 l ) 1 3 3 ;  J

.

Bihler,D ieStephanasgeschilchteimZusammenhangderApostel

-

geschilchte ( M

u

nchen:Kaiser,  1963)8l

-

86;F.MuBner

.

A

p

oslelgeschichte

( W

u

rzburg:Echter,l984)286;Richard,143;Schille,179

-

l80.

-

78

-

(4)

ステファノ演説 ( 使 7 :  2

-

53)  の修辞学的分析 ト教の宣教活動に対して迫害を加える

,

現在のイスラ

ルの指導者達 の姿を重ね合わせている部分の(使7:44

-

50,51

-

53)伝承史的評価で

あ る

デ ィ べ リ ウスらは

,

この部分を著者が加えた編集作業に帰した6

これに対して

,

シ ュ テ ッ ク ら

部の研究者達は

, ヘ

レニズム

ユダヤ

教の会堂において形成された

イ ス ラ

ルの救済史を肯定的に回顧す

る信仰告白伝承に

, ヘ

レニズム

キ リ ス ト 教 が

,

イ ス ラ

ルの歴史を 罪責と悔い改めの歴史と捉える視点を援用して批判的な伝承要素を付 け加え(王上18:4;19:10

-

1 4 ; 王 下 1 7 : 7

-

2 l ; ネ

9 : 7

-

27他を参

照 )

,

ディアスポラのュダヤ人に悔い改めを勧める伝道説教を形成した

のであるとする7

。 

この考え方によれば

イ ス ラ

ルの歴史を批判的に 回顯する部分も伝承句であることになる

これに対して

P

F

エスラーは

ローマ法の訴訟手続きの視点か ら

,

この演説は被告が裁判上で用いる管轄の抗弁に該当すると解釈し, 弁明の機能を果たしていると論じる8

。 

また

荒井献はエスラーの説を 援用し

ステファノ演説は

裁判の被告の弁明という文脈に無関係で な い と 論 じ た9

。 

この議論は注日に値すると思われるが

いまだに学界 の少数説に留まり

後に書かれた注解書や研究書に殆ど言及されてい な い o

しかし, 言 葉 に よ る  

説得の技術である

」 

修辞法という視点から眺

6Dibelius, l44;Haenchen, 280;Conzelmann

.

50;Holtz,  87

-

98

l 0 9 ; G . Stemberger,170

-

l71.

7Steck,266;Wilckens, 2 1 7

-

219;Weiser,l.l80

-

18l;加山久夫使徒行伝の

歴史と文学ヨルダン社

,

l986年5l

-

95買;Arai,57

-

58;Barrett,1

.

336

-

340.

P.F

.

Esler,,

a

;lmmunityandGospelmluke

-

Acts T heSocialandPolitical Motit

,

ationso

f

Lucan Theo1ogy (Cambridge:Cambridge University Press, 1987)l23

-

l25.

9Arai, 6 7

-

70を参照のこと

-

79

-

(5)

める と

使徒言行録の物語的文脈が提示する修辞的状況と演説行為と の間には有機的な関係が存在することが明らかになる

本研究では

,

修辞学批評の作法に従つて

,

修辞学的状況

,

配列構成

,

修辞的種別

,

修 辞的手法の順に分析し

本演説の修辞学的特色を浮き彫りにした上で 結論に至る

ステファノ演説の修辞学的分析についての先行研究は

,  G.A.Ken -

nedy,M

n

h m m t l n t e

p

M

e

hお'o% fhM

o

h R

a

on'a a l C n'lt'm (Chape11HilI,NC:University of North Carolina Press,1984)12l

-

l23; J.Dupont, La structure oratoire du discours d'Etienne (Actes 7),

Bib

66(1985)153

- 167;B.Witherington 

III, T h eA

ctsof

the A

postles .

' A

Soc

1

o -

Rhetoril

ca1 Commentary

(Grand 

RapidsEerd -

mans;Carlisle:Patemoster,l998)257

-

278に 見 ら れ る が

,

修辞的 状況と演説行為の有機的関係についての分析は十分なものではない

例えば

J

デュポンは

修辞学的視点から

演説の配列構成を

序言

(

v.2a

)

, 「

叙述

(w.2b

-

34)

, 「

移行句

(v.35)

, 「

論証

(vv.36

-

50)

,

結語

(

vv.

51

-

5 3 ) と し て い る

'' 。 

この論文においてデュポンは

演説 の各部分がギリシア

・ 

ローマ世界の修辞法の規則に則つて構成されて

私は最近

,

修辞的状況と演説行為との有機的関連に焦点を当てた修辞学的研 究を行つて来た尚彰祝福と呪いの言菜J 新約学研究第27号(1999年) l 7

-

3 0 頁 ; 同パウロ書簡と修辞法にい て の 考 察 : ガ ラ テ ヤ 3 章 l

-

5節を中心と

して」 「ヨーロツパ文化史研究第 3 号 ( 2 0 0 2 年 ) l

-

3 5 頁 ; 同使徒言行録の修辞

学 的 研 究 ( l )   ぺトロの伝適説教」f東北学院大学キリスト教文化研究所紀要第20 号(2002年)61

-

l 0 0 買 ; 同使徒言行録におけるぺトロの弁明演説」 「東北学院論 集  教会と神學第36号(2003年)25

-

4 0 頁 ; 同使徒言行録の修辞学的研究(2) 三つの助言(審識)演説」 「東北学院大学キリスト教文化研究所紀要第2l号(2003 年 ) 5 5

-

8l頁を参照

'' 

Dupont,l53

-

l67.

-

80

-

(6)

ス テ フ ァ ノ 演 説 ( 使 7 : 2

-

53)の修辞学的分析  5 い る こ と を 示 そ う と し

'

2

,

演説が置かれた物語的文脈が示す神殿を汚 す言動をしているという非難に対して(使6:l1,13)

,

ルの歴 史における会見の幕屋と神般建設の出来事を語ることは緩やかな対応 関係があると主張したが

まだ十分に修辞的状況と演説内容の有機的 関連を解明しているとは言えない

'

3

また

,

この論文は

,

法廷演説の際 に修辞学が間題にする係争理論(o a f af 理 論 ) の 視 点 か ら

ステファ

ノ演説の内容を分析することはしていない

B・

ウ ィ ザ リ ン ト ン は

,

上述の修辞学的注解書において

,

従来の解釈 者達は修辞学的視点を欠いていたために

物語的文脈と演説内容との 間に存在する弁証法的関係を見落とし

前者と後者の間の関係が薄い という結論に至つたと主張する

'

4

この指摘自身は正しいが

,

ウ ィ ザ リ ントンが挙げる

,

両者の関連性を示す論拠は全く不十分である

彼に よ る と

この演説の冒頭に ステファノ自身とは直接関係ないようなイ スラエルの歴史の回願が置かれていることは

最高法院の議員達とい う1敏対する聴衆の前でなされた演説であるからである

'

5

。 

ス テ フ ァ ノ は

聴衆に自分の主張を聞いて買うためには

聴衆と自分との間に共 通 す る イ ス ラ

ルの歴史の評価を述ぺ

この共通理解の上に論証を展 開する必要があった

'

G

ウ ィ ザ リ ン ト ン の こ の 議 論 は

,

敵対する聴衆の 前でなされた使徒言行録中の他の演説に救済史の回顧が全く出てこな い 事 実 の 前 に 説 得 力 を 失 う ( 使 4 : 8

-

1 2 ; 5 : 2 9

-

3 2 ; 2 2 : 1

-

2 l ; 2 3 :

'

特に, Dupont,l55

-

163を参照

'

Dupont,l6l

-

163を参照

l● Witherington III,259

-

260

.

lC Ibid,260

'

Ibid,260

-

8 l

-

(7)

1

-

6を参照)

イ ス ラ

ルの救済史の回願がなされるのは

,

聴衆が敲対 的であるからではなく

イ ス ラ

ルの救済史に規範的意義を認めてい る

ダャ人聴衆を相手に した時には

有効な題日の

つと な る か ら で あ る ( 使 1 3 : l 6

-

41を参照)

他方

, G ・

A

ケ ネ デ ィ は,ステファノ演説の機能は

,

管糖の係争 (

status 

ofjurisdiction)であると述ぺ

示唆に富む指摘をしているが

,

それ以上の立ち入つた識論をしていない

'

7

本研究は

この点を係争 (o

,

1lao1tf;status)理論の視点からさらに深め

ステファノ演説が

修 辞学上の転移の係争(

status 

translationis)の技法を用いて

,

裁判の 正当性そのものを争

た こ と を 立 証 す る こ と に す る

2 .  修辞学的状況

初代教会には

,  へ

プ ラ イ ス ト と 呼 ば れ る ア ラ ム 語 を 話 す

ダャ信徒 のグループと

,  へ

レニストと呼ばれるギリシア語を話す

ダヤ人信徒

のグループがあったが

両者のグループの間で募婦の人達が受ける配 給のことについての争論があった

。 

このことの処理を契機に

十二使 徒達は

,

彼らが析りと宣教に専念するために

,

食卓に関することに携 わ る  

と知恵に満ちた

」 

七人の信徒を選び出し

彼らの上に手を置 いて析つた(使6: 1

-

6)

選ばれた七人の働きは必ずしも初代教会の食 組の事柄に限定されず

,

宣教活動にも及んでいた

'° 。

特に

,

恵 み と 館の 力に満ちたステファノの宣教には

, 「

奇 跡 と し る し

が伴つてぉり,  イ

'

7G.A.Kennedy,Neu

'

Tlestam en linteetationt h mtghRhetonlcalCrilticism (ChapellH

.

NC:University of NorthCarolina Press,l984)l22

.

加山, 24

-

27買を参照

-

82

-

(8)

ス テ フ ァ ノ 演 説 ( 使 7 : 2

-

53) の修辞学的分析  7

スラ

ルの民の間に日立つた成果を挙げた(6:8)

そ こ で

,

ディアス ポラ出身者達から構成される会堂に属する

ダャ人達は

ス テ フ ァ ノ に論争を仕掛けたが

,

その

知恵と館

には対抗出来なかった(6:9

-

l0)

'

9

そ こ で

,

彼らはある者達を唆して

,

ステファノがモーセと神を 冒演していると言わせた

。 

彼 ら は さ ら に

民の全体と指導者の長老や 律法学者達を煽動したために

ステファノは捕らえられ

最高法院に 引き出された ( 使 6 : 9

-

12)

最高法院の審間が開始されると

彼が神殿と律法に反することを語 り 続 け て い る と い う 証 言 が な さ れ た ( 6 : l 3

-

14)

その根拠は,ステファ

ノ が

ナザレのイ

スが神殿を破壊し

モーセが定めた習慣を変更す る こ と に な る と い う 趣 旨 の こ と を 述 ぺ て い る と い う こ と で あ る ( 6 : l4)2

° 。 

最高法院の場に臨席するすべての者達が注視する中

裁判長の 大祭司は

ス タ フ ァ ノ に 対 し て

訴えられている通りかどうかたずね る ( 使 6 : l 5

-

7 : l )

。 

この訊間に応えて与えたのが

ステファノのこの 演 説 で あ る ( 使 7 : 2

-

53)

3 . 

配列構成 7 : 2 b   序言:聴衆

の呼び掛け

7 : 2 c

-

50  叙 述 ( 陳 述 ) : イ ス ラ

ルの救済史の回願 7 : 2 c

-

アプラハムの召しと土地取得の約束 7 : 9

-

l 6  

セフ

,

プの

ジプト移住

'° 

同27

-

29買を参照

:nDupont,l6lを参照

-

83

-

(9)

8

7 : l 7

-

43  モセ に よ る 出 エ ジ プ ト と イ ス ラ

ル人達の反逆 7 :  17

-

l 9  

セフを知らない王によるイスラ

ルの民の膚待 7 :  20

-

22  モーセの誕生と装育

7 :  23

-

29  相 争 う イ ス ラ

ル人に対するモーセの仲介行為の失 敗

モーセのミデアン

の逃亡

7 :  30

-

34  燃える柴における神の頭現とモーセの派遺

7 : 3 5

-

36  民の拒絶にも拘わらず

モーセが神によって指導者 として立てられ

出エジプトの業を多くの奇跡とし るしをもって成し遂げたこと

7 :  37

-

38  モーセのような預言者の到来の預言

7 :  39

-

41  父祖達の不従順とアロンの子牛の作成と礼拝 7 :  42

-

43  神の裁きとしてのバビロン捕囚(否定的

メ ン ト  l ) 7 :  44

-

45  証の幕屋の設置と存続

7 : 4 6

-

47  ソロモンによる神殿建設

7 : 4 8

-

50  いと高き方は人間の手で造つた建物に住まわない (否 定的

メ ン ト 2 )

7 : 5 l

-

53  論証

7 : 5 l   最高法院の議員達の心の頑なさ

,

父祖達のように聖露に逆 ら う 姿 勢

7 : 5 2   父相達の預言者迫害と殺害,ユダヤ人指導者達のイ

スの 死

の資任

7 : 5 3  律法を受け取りながら

,

それを守らない者達

序言は(使7: 2b)

使徒言行録中の他の演説と同様に(使2: l 4 ;  3

-

84

-

(10)

ス テ フ ァ ノ 演 説 ( 使 7 : 2

-

53)  の修辞学的分析  9 l 2 ; 1 3 : 1 6 ; l 5 : 7 , l 3 )

,

他の聴衆

の呼び掛けだけから

,

構成されて お り

非常に簡潔である2

' 。

この演説の配列構成の特色は,叙述部分に(使7:2c

-

50)

,

非常に長

い イ ス ラ

ルの救済史の回願があることであり

,

こ の こ と は

,

ピシディ ア・アンティオキアでのパウロの会堂説教の叙述部分に並行している (使13:17

-

25を参照)

この演説の額述部分の前半部分は(使7: 

2c -

43)

,

族長史と出エジプ

トの出来事の回願にあてられているが

記述のスタイルは大変選択的 で あ り

,

演説者の関心と必要に応じて特定の出来事が級述されている

これは

修辞法における叙述は必ずしも過去の事実を綱羅的に語るこ と を 旨 と せ ず

後に控えている論証を準備するのに役立つ事実を挙げ る こ と に 集 中 す る か ら で あ る

ステファノはイスラ

ルの父祖であるアプラハムの召しとカナン

の旅から

,

土地取得の約束に始まり(使7:2c

-

8)

,

ヨセフ物語とイス

ル人達の

ジプト移住に言及するが ( 7 : 9

-

l6)

イ サ ク

の言及

は割礼の事実に限られ(7:8)

プに関する記述もヨセフ物語に関 連する事柄に限られている(7:9,14)

使 7 : 1 7

-

43は

,

モーセの生種

と出エジプトと荒野の旅の途上で起こった出来事の回願であるが

そ の中心は出エジプト記の前半の主題であるモーセの誕生

燃える柴で の神の頭現とモーセの派遺(7:20

-

34)

さ ら に は

民によるモーセ

拒絶に拘わらず

モーセの手によって出エジプトが行われたこと1であ

る ( 7 : 3 5

-

36)

さ ら に

この部分は荒野での民の反逆と金の子牛の礼 拝の間題に言及し(7:39

-

4 l ) , 偶 像 礼 拝

の裁きとして後にバビロン

a Dupont,16lを参照。

-

85

-

(11)

l 0

捕囚が起こったと述ぺる(7: 42

-

43)

。 

ここでは

過越の祭りの制定や

( 出 1 2 : l

-

28)

,

軍の海を渡る奇跡的出来事(出14:l

-

38)

,

シナイ山

上での神の頭現や(出19:1

-

25), 十 戒 の 授 与 ( 出 2 0 : l

-

2 l )

,

契約の

書 と 契 約 締 結 な ど ( 出 2 1 : l

-

1 l ) イ ス

ル史上の重要な出来事が省 かれているのが日立つ。 ス テ フ ァ ノ は

神から派遺されたモーセにイ スラ

ルの民が反抗した側面に焦点を当て

この間題関心に合う出来 事だけを取り上げているのである22

能 部 分 の 後 半 は ( 使 7 : 4 4

-

50)

,

荒野の時代の証の幕屋と(7:44

-

45)

,

ソロモン時代の神殿建設(7:46

-

47)

,

人間の手で造つた地上の

神殿

の否定的評価(7:48

-

50)に集中している

ヨシュア記が語る

土地取得の歴史や

士師記が語る士師時代の歴史も

サムエル記上下 が 語 る イ ス ラ

ルにおける王制の誕生と

サウル王朝からダビデ王朝

の移行と統

王国の形成などの出来事には殆ど言及がない

ギ リ シ ア

ローマ世界の演説の叙述部分において被告人は

自己が 無罪であることを弁明するために過去の事実を組述する

あるいは

,

告 発者であれば

,

被告人の罪状をなす事実を列挙するのが通例である(ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

14l6

-

l417b;キケロ

発想論

l.9.27;クウィ

ン テ ィ リ ア ヌ ス 「弁論家の教育

3.8.1

-

9;4.2.31)。しかし

,

この演説

における叙述において

被告であるステファノに直接関連する事実は

語 ら れ る こ と な く

イ ス ラ

ルの父祖達の反逆の歴史が語られてい る2 3

彼の解釈によると

,

父祖達の反逆の歴史は

,

神によって御言葉を 語る者として選ばれ

聖望の力によって宣教活動を行うステファノを

Dupont,l59を参照。

nHaenchen,238Dupont,l59;Barrett,335

.

-

86

-

(12)

ス テ フ ァ ノ 演 説 ( 使 7 : 2

-

53)  の修辞学的分析  l l

( 使 6 : 5 ,1 0 ; 7 : 5 5 ) 裁 判 に か け

,

裁 き を 下 そ う と し て い る

ダヤ人 指導者達の姿の予表をなすものであった24

イ ス ラ

ルの過去の歴史を罪實の歴史として捉えることは

イ ス ラ エルにおいては稀ではなく

旧約聖書中に出てくる歴史の総括文に先 例がある

例えば

エゼキ

ル書20章は

,

出エジプト以来のイスラ

ルの歴史を安息日を汚し

偶像礼拝を繰り返す歴史と捉え

読者に罪 責の歴史を想起するように促している  (エゼ20:5

-

44)

詩編106編

出エジプトと荒野の旅を回願するが

イ ス ラ

ルの民が神の救い の御業を忘れ

,

主 に 反 抗 し ( 詩 l 0 6 : 5 )

,

神を試み(詩106:14)

,

御 言葉を信じず

,

主に従わなかったことに集中する(詩106:24

-

27)

スラ

ルの民はカナンの地に定住後は

,

偶像礼拝に]

tt

,

不義を行い

,

裁きを招いたと述べる(詩l06:34

-

43)

このような民の罪責の歴史に も拘わらず

神は契約を思い起こし

苦難の中にある民を憐れむので あ る ( 詩 1 0 6 : 4 4

-

46)

ミヤ記は

捕囚後にエルサレムの城壁がネ

ミヤらの尽力に よって完成した後(ネ

l

-

7 章 )

エズラによって律法の書の朗読が行 わ れ ( ネ

8 : l

-

12)

律法の書の規定に従つて仮庵の祭りが再び祝わ れたと述べる(ネ

8 : 1 3

-

l8)

そ れ に 続 く ネ

ミ ヤ 記 9 章 は

,

第七の 月の24日にイスラ

ルの民は集まって

,

律 法 を 遵 守 す る こ と を 替 う 普 約を行うに先立ち(ネ

1 0 : 1

-

40)

,

断食し

,

律法の書の朗読と神の前 で罪過の告白に時を過ごした(ネ

9 : 1

-

3)

この時にイェシュアらレ

Haenchen,233,240

-

247Schneider,l.462;Kliesch,155

-

l58; Roloff,125;

JerveIl,DieAposlelgeschilchte(KEK5;17'u'ed

.

; Gl1lttingen:Vandenhoeck&

Ruprecht,l998)246

-

247.

-

87

.

(13)

l 2

ビ人達は民を代表して罪を告白する祈りを捧げた(ネ

9 : 5

-

37)

。 

の析りは

,

神の創造の業を設えた後(ネ

9 : 5

-

6)

,

イ ス ラ

ルの歴史

における神の業の数

を列挙する

。 

神はアプラハムを召して約束の土 地を与える契約を結び(9:7

-

8)

民の苦難を覚えて

エ ジ プ ト か ら 救 出 し ( 9 : 9

-

12)

,

安息日を布告し

,

モーセを通して律法を与えた(9:

l 3

-

14)

しかし

,

イスの先祖達は

,

頑なになり

,

戒めに従わず

,

聞 き 従 う こ と を 拒 ん だ ( 9 : 1 6

-

l7)

彼らは荒野では子牛の像を造つて 拝 み ( 9 : l 8 )

カナン定着以後も

神に背いて逆らい

律法を守らず

,

回心を説く預言者達の声に耳を傾けず

彼らを殺害することを続けた (9:26,30)

祈 り は

先祖達の背信と罪の歴史にも拘わらず

神は民 を忍耐して見捨てず

憐れみによって彼らを苦難の中から救い出した と 述 ぺ る ( 9 : 2 7

-

28,31)

この罪實の告白を前提にして

,

捕囚後のイ スラ

ルの民は誠心誠意律法を遵守することを誓う書約を行うことに な る ( ネ

l 0 : 1

-

40)

使 7 : 5 l

-

53の論証部分は

,

聴衆である最高法院の議員達に二人称複 数で直接に語り掛けるスタイルを取つている2S

論証部分では

,

叙述部 分で確認された事実に基づいて被告人が自分が無罪であることの証明 を 行 う こ と が 期 待 さ れ る

。 

しかし

この演説の論証部分において話者 のステファノは

自己の無罪の照明を行わず

裁判官達の罪責を立証 し よ う と し て い る

。 

過去のイスラ

ル人達の反逆と預言者迫害の歴史 に

現在のイスラ

ルの指導者達もイ

スの殺害と宣教者の迫害を通

して連なると

ステファノは主張するのである2 6

2S Dupont

l60もこの点を強調する

2Roloff,l23;Weiser,l.l79;Bruce,208; Jervell,236

.

246

-

247も同趣旨

-

88

-

(14)

ステファノ演説 ( 使 7 : 2

-

53) の修辞学的分析  l 3

聴衆である最高法院の識員達は

自分たちに向けられた厳しい非難 の言葉に債激したため

ステファノの演説は中断される2 7

。 

このため

この演説の論証部分は中断によって短くなり

結語都分は語られ ずに終わってしまった2 8

そのために

もし中断がなければ語られたは ずの部分を含めた演説の全貌は隠された儘になっているのである29

4 . 

修辞的種別

修辞的状況からすると

最高法院という法廷において被告人である ス テ フ ァ ノ が

,

裁判長である大祭司の審間に応じてなした法廷演説

,

特 に弁明(ho

a

oyia) で あ る3o

。 

法廷演説は

アリストテレス以来の古 典修辞学理論において

,

助 言 ( 審 議 ) 演 説

,

演示演説と共に演説の三 類 型 を 構 成 す る と さ れ て い る ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

l358b;キケ ロ

発想論

l . 5 . 7 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育』3.4

.1 -

l6)

法廷演説では

主として被告人の過去の行動が問題となるのが通例で ある ( ア リ ス ト テ レ ス

f

弁論術

1358b;キケロ

発想論

l . 5 . 7 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

3.4.1

-

16)3

' 。 

しかし, ス テ フ ァ ノ の 弁

Kennedy,l22もこの点に注目する。

2oDupont,l57:Witherington III,260

-

26lは

,

演説の中断を考慮に入れていな ので, 使 7 : 5 l

-

53を結語(peroratio)としている

u 加 山,93買も同趣旨

3G.A.Kennedy,l2l

-

l22;Soards,,68;Kliesch,l58EsIer,l23;Arai,67

-

70;Larsson,382;Witherington III,259

-

260.

J.Martin, A n likeR hetonlk( M

o

nchen:lteck

.

l 9 7 4 ) 3 l

-

32;R.Volkmann, D i

e

RhetorikderGrilechenundR

o

mer (Leipzig:Teubner,l885;Nachdruck:

Hildesheim:GeorgOlms

,

,l 9 8 7 ) 3 8 ; H

.

Lausberg,HandbookofLitem yRhet on'c.・ AF oundation

f

o rLitemr

:

yStud1ll (ed.D.E.0rton and R.D

.

Anderson;

Leiden:Brill,l998)64(Sl44).

-

89

-

(15)

l4

明内容は

自己の法的立場の弁明でなく

イ ス ラ

ルの歴史の回願と ( 使 7 : 3

-

50)

裁判官である最高法院の議員達に代表されるイスラ

ルの罪責の立証であり(7:5l

-

53)

,

演説内容自体は断罪(xa・n

r y ,

op,a)

であるという特殊性がある3 2

5 . 

修辞的手法

(7:2b)  序言

修辞法において序言は

聴衆に対して本論の中で展開される議論に 対する準備を与える機能を果たす(アリストテレス

f

弁論術

l414b;

ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

4

.

l

.

5)3 3

ステファノ演説の序 言は

, 「

兄弟達と父祖達よ

と い う 聴 衆

の呼び掛けの言葉によって構 成 さ れ て い る

。 

この場合

聴衆とは最高法院の議員達

つまり

祭司 長たちと長老達と律法学者達であった ( 使 6 : 1 2 ; 7 : l )

Al

, ,

6pe ; d;

,

le11

a ,

lbo,li (兄弟達よ)という言葉は

演説者と聴衆の間に 存在する連帯の確認である(使7:26を参照)

この表現は

,

教会共同 体の演説においては

キリストを信じる者の間に存在する望的な見弟 姉妹関係を表す言葉として使用される(使l:16;15:7,l3)

他方

,

使徒言行録において

キ リ ス ト 教 宣 教 者 が

ダヤ人聴衆に対して民族 同胞としての連帯性を強調するためにも

演説の中で使用されている

:n 修辞学的視点を持つている訳ではないが

,

多くの注解者違は,この演説の基調 を イ ス ラルの歴史と聴衆の断罪に見ている。 Dibelius,l44;Haenchen,238

.

240

-

241;Schille,l79; Jervell,247

-

248;Fitzmyer,367

-

368; J.D.G.Dunn TheActs o

f

theApostles (Valley Forge,PA:The Trinity IntemationaI

.

1996)97

-

98を

参照

:

; Martin,60

-

74;Volkmann,l27

-

l48Lausberg,12l

-

l35CliS263

-

288).

-

g0

-

(16)

ステファノ演説 ( 使 7 : 2

-

53) の修辞学的分析  l 5

( 使 2 : 2 9 ; 1 3 : 1 5 ,   26,  3 8 ; 2 8 : 1 7 )3

'

.  ' Al

, ,

i5pe

r a

Oei

0

o1i

:

: m n a' lep,ef・ (兄弟達と父祖達よ)という組み合わせは

,

後に

,

パ ウ ロ が

ルサレムで

ダヤ人聴衆の前で弁明演説をする時に用いていること が

,

注 日 さ れ る ( 使 2 2 : 1 ; 2 3 : l , 6 )

IIa r 6 p e f ( 父 祖 達 よ ) と い う 言 葉 は

,

ここでは当時のイスラ

ル社会 の最高位者達に対する尊称として使用されていると考えられる

他方

,

nanpef (父祖達)という表現は

,

演説の本体部分で

,

イ ス ラ

ルの先 祖達を指して使用されている言葉に

致している

。 

ス テ フ ァ ノ は

この表現を族長達に適用すると共に(使7:l1,12,15,19)

,

出エジ プト後の荒野時代の先祖達に使用している (7:38,39,44,45,5l,52)

この事実は

後に荒野時代の反逆の民の歴史と現在の民の代表者がイ

エスを殺害し

宣教者達を迫害する姿とを重ね合わせにする伏線と

な っ て い る ( 使 7 : 5 1

-

52を参照)3 5

( 7 : 2 c

-

50) 叙述  (陳述)

この演説の叙述部分は

イ ス ラ

ルの父祖であるアブラハムの召し と カ ナ ン

の旅

,

土地取得の約束に始まり(使7:2c

-

8)

,

ヨセフ物語

と イ ス ラ

ル人達の

ジ プ ト 移 住 に 言 及 す る が ( 7 : 9

-

16)

中心は出

エジプト記の前半の主題であるモーセの誕生

燃える柴での神の頭現 とモーセの派遺(7:20

-

34)

さ ら に は

,

民によるモーセの拒絶に拘わ らず

モーセの手によって出エジプトが行われたことである ( 7 : 3 5

-

3◆ Jervell,232; Fitzmyer,369を参照。

3 S  Haenchen,234;Roloff

.

123;Bruce

.

208; Jervell,239,246

-

247;Fitzmyer,

366

-

367.

-

gl

-

(17)

l 6

36)3

°。 

さ ら に

荒野での民の反逆と金の子牛の礼拝の問題と(7: 39

-

41)

偶像礼拝

の裁きとして後にバビロン捕囚が起こった と 語 ら れ

,

イ ス ラ

ルの歴史を反逆と罪責の歴史という評価を下す ( 7 : 4 2

-

43)

叙述は被告の過去の行動が間題となる法廷演説には不可欠の要素で あるので

ステファノ演説の重要な構成要素になっていることに不思 議 は な い ( キ ケ ロ

発想論』l.10.17;クウィンティリアヌス

弁論家

の教育

4.2.6

-

30)3 7

。 

しかし

このステファノ演説のようにその内容が イ ス ラ

ルの救済史の回願であることは

聴衆が

ダャの最高議会の 議員達であるという特別な事情に起因している

。 

イ ス ラ

ルの過去の 歴史については

演説者のステファノも聴衆のュダヤ人指導者達も

定の知識があり

また

イ ス ラ

ルの歴史が現在のイスラ

ルの民に 対して規範的意味を持つことが前提されている

。 

こ の こ と は

後にバ ウ ロ が

,

ビシディア

アンティオキアの会堂での説教で

,

ユダヤ人聴 衆に対する説教の冒頭で

族長物語に始まるイスラ

ルの歴史の回願 を行つていることに並行している ( 使 l 3 : 1 7

-

25を参照)

ステファノ演説においてモーセの人物像と出エジプトと荒野の旅に おける民の反抗の間題に焦点が当たっているのは

ステファノが訴え

られている罪状に

モーセが定めた習償を変更し

モーセを冒演して

い る と い う こ と が 含 ま れ て い た か ら で あ る ( 使 6 : 1 2 , 1 4 を 参 照 )

後 のイ

ス 同 様 に ( ル カ 2 4 : l 9 を 参 照 )

,

モーセは

言葉と業に力があ る者

で あ る ( 使 7 : 2 2 )3 8

。 

モーセは

燃える柴における神の顕現の出

3C Jervell,237

-

238.

3

'

Martin,58,75

.

3Pesch,1252;Barrett

.

356;Fitzmyer,366,376;加山, 7 6

-

77頁もこの点に

注日する

-

92

-

(18)

ステファノ演説 ( 使 7 : 2

-

53)  の修辞学的分析  17 来事に接し

民を

ジプトの地から救う者として派遺される ( 7 : 3 0

-

35)

モーセはステファノら初代教会の宣教者達と同様に

,

神に派遺さ れた者として

奇 跡 と し る し

を 行 う 者 で あ っ た ( 使 7 : 3 6 ; さ ら に

,

詩 l 0 5 : 2 6

-

2 9 ; シ ラ 4 5 : 3 を 参 照 )3o。しかも

,

彼は預言者として

,

自 分と同様な預言者の到来を預言していた ( 使 3 : 2 2 ; 7 : 3 7 ; 申 1 8 : 15)4

° 。 

このモーセと同様な預言者とは

使徒言行録ではイ

スを指し て い る と 理 解 さ れ る ( 使 3 : 2 2 ; 7 : 3 7 )4

'

モーセと神殿を冒演してい るという非難に対して

ス テ フ ァ ノ は

スと初代教会の宣教こそ が

預言者としてのモーセの活動に連なるのであるという主張を

出 エジプトの出来事の回願を通して行つていると言える

。 

つまり

ステ ファノらの宣教を受け入れず

迫書を加える

ダャ人指導者達は

エ ジプトと荒野でモーセに反抗し

金の子牛を作つて拝んだ民の歴史に 連なると主張するのである ( 使 7 : 3 5

-

41)42

他方

,

荒野の時代の礼拝所として幕屋が設けられたことと(7:17

-

50)

,

ソロモン時代に神殿が建設されたことに

,

ステファノが言及する のは

裁判で主張されている彼の罪状に

スの神殿破壊の預言を 語 る こ と に よ っ て 神 殿 を 汚 す こ と を 言 つ て い る と さ れ て い る か ら で あ る ( 使 6 : 1 3

-

1 4 ; さ ら に

,

l 4 : 5 8 ; マ タ 2 6 : 5 1 ; ヨ ハ 2 : 1 9 を 参 照)

ス テ フ ァ ノ は

,

自 分 が そ の よ う な こ と を 言 つ た か ど う か に 関 す る

3

°

尤も,出エジプト記の記述では

,

モーセを通して奇跡やしるしを行つたのは,

ヤ ハ ウェ で あ る こ と が 強 調 さ れ て い る  ( 出 7 : 3 )

。 

Haenchen,  234;Schneider, l

.

463;Schille,183を参照。

Fitzmyer

.

366

.

379.

'

Fitzmyer,387.

'

Haenchen,233

-

234;Pesch,l258

-

259;Dunn,95は, ここで演説の内容が歴 史記述から聴衆の告発

断罪に変わると考える

-

93

-

(19)

18

事実を述ぺることをせず

,

イ ス ラ

ルの歴史における礼拝所の歴史を 回願することによって

地上の礼拝所がかりそめのものであり

絶対 視

神聖視すべきことを語つて

スの神殿破壊の預言と自らの言 動の正当性を主張している

。 

モーセによる臨在の幕屋の設置は

出エ ジプト後の荒野の時代に神の命令によってなされたが

それはモーセ が示された天の聖所をモデルにした模写であると考えられている  (使 7 : 4 4 ; さ ら に

,

出 2 5 : 9

-

10;

プ 8 : 5 を 参 照 )

ダビデ王の時代に神 殿建設の準備がなされたが

実際に 

神の家

」 

である神殿を建てたの はソロモン王であった(使7:47

-

4 8 ; 王 上 6 : 1

-

3 8 ; 8 : 1 7

-

21)

しか

し, ス テ フ ァ ノ は

人間の手で造つた地上の建物にいと高き方である 神 が 住 ま う こ と は な い と

イザヤ書66:49

-

50の言葉を引用しながら 語る

。 

この部分は歴史的出来事の叙述そのものではなく

歴史的出来 事に対して価値評価を加える

メ ン ト で あ る

この旧約引用によって

,

ス テ フ ァ ノ は

,

神殿を神聖視して

,

神殿を汚す発言をしたとして(使 6 : l 3

-

1 4 ; さ ら に

,

マコ l 4 : 5 8 ; マ タ 2 6 : 5 l ; ヨ ハ 2 : l 9 を 参 照 )

,

イ エスステファノを非難する論理そのものの土台を崩そうとしている のであるo

( 7 : 5 1

-

53) 論証:裁判行為自体の正当性を争う

その通りか

?」

という裁判長である大祭司の訊問は(使7:1)

ステ フ ァ ノ に 対 し て

言い立てられている罪状の認否を求めているが

ス テファノは自分についての事実の確認を行わない4 3

特に

,

論証部分に お い て ( 7 : 5 l

-

53)

彼は聴衆である最高法院の議員達に二人称複数で

'n 注 l を 参 照

-

94

-

(20)

ステファノ演説 ( 使 7 : 2

-

53)  の修辞学的分析  19 語 り 掛 け な が ら

,  「

頑なで心と耳に割礼を受けていない者達

あなた方 は父祖達のように何時も聖館に逆らっている

」 

と非難を加える (使7:

5 1 ; ネ

9 : 2 9

-

3 0 ; イ ザ6 3 : l 0 )4

' 。「

頑なである

こ と や ( 出 3 3 : 3 , 5 ; 3 4 : 9 ; 申 9 : 6 )

, 「

心や耳に割礼を受けていない

と い う こ と は ( エ レ 6 : l 0 ; 9 : 2 5 )

,

既に旧約聖書において

,

神の使者とその言葉を受け 入 れ よ う と し な い イ ス ラ

ルの民

の非難の表現として用いられてい る

。 

こ こ で ス テ フ ァ ノ は

自己の無罪の照明を行わず

,

裁判官達の罪 責 を 立 証 し よ う と し て い る

'

S

同様な現象は

,

最高法院におけるぺトロ の 弁 明 演 説 に も 見 ら れ る ( 使 4 : l 0

-

l 1 ; 5 : 3 0

-

3lを参照)4 6

これは

修辞学上の転移の係争(status translationis)  に該当する

ギ リ シ ア

ローマの修辞学の係争(o,,・fa

'

af・;status)理論において

裁 判 上 の 係 争 に は

,

推 定 (lrr

o a :

1a

o

1of

;coniectura) ,

定 義 (;ipo,

; finis;definitio)

,

質 (1mo:n7;;qualitas)

,

転 移 (µef

a

η

t -

taran

-

slatio)の四通りがあるとされた(キケロ

ト ピ カ

25. 9 3 ; ク ウ ィ ン テ ィ リアヌス

弁論家の教育

3.6.3)'

'

7

推定の係争とは(

statusconiectur -

ae)

犯罪の事実認定につい て 争 う こ と で あ る (

ルモゲネース

係争 ついて

3

.

l 7

-

39;4.2l4,298;キケロ

発想論

l.8.l0;2.13

.

4 3 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育」3.6.80;3

.

l1.2

-

3)

'

8

定義の係争

'

Dupont,160.

Weiser,l.l79;Rolollf,1l7,125; Jervell,247

-

248.

'

6原口尚影使徒言行録におけるぺトロの弁明演説」 「東北学院大学論集  教會 と神學第 3 6 号 ( 2 0 0 3 年 ) 2 4 , 3 0 買

' '

Volkmann

38

-

57; J

.

Martin

28

-

5l;Lausberg,  65

-

6 6 ; T . M a r t i n , Ancient rhetoric and AncientLetters:Models for Reading Paul

.

ASeminar Paper Discuss,E

,

d a t  theSeminar group'Pauland  Rhetoric,'in S N T S 5 8

'

l' GeneralMeeting,2

m

3

a

mn

.

pp.29

-

30.

'

Volkmann,37

-

5 l ;  J.Marin,30

-

32;Lausberg

.

48

-

4 9 (1llS999

-

l 0 3 ) ; 6 6

-

70

(SSl50

-

165).

-

95

-

(21)

20

と は  (status definitionis)

,

当該行為の存在そのものは争わないが,そ の 法 的 名 称 を 争 う こ と で あ る   (

ルモゲネス 

係争について』4.32

-

3 8 ; キ ケ ロ

発想論』1.8.10;2.1 7 . 5 2 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス 『 弁 論 家 の教育』3.6.36;7.3.4)4 9

質の係争とは(statusqualitatis)

,

行為の存 在とその法的名称は争わないが, 行為の法的評価を争い

合 法 も し く は 違 法 の 主 張 を す る こ と で あ る ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術』1417b;

ル モ ゲ ネ ー

係争について』  2 . 1 1 ; キ ケ ロ 『 発 想 論 』 1.11.14;2.19.

5 7 ; 2 . 2 1 . 6 2 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス 『 弁 論 家 の 教 育 』 3 . 6.51)5

°

。転移の 係争とは(status translationis) ,  裁判の正当性そのものを様

な根拠 か ら 争 う こ と で あ る ( ア リ ス ト テ レ ス

弁 論 術 』 l 4 1 6 a ; キ ケ ロ

発想

論』1.11.16;

ルモゲネ

係争について』2.16;8.52

-

5 4 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育』3.6.52

-

53,60,66

-

67,73,83

-

84)5

'

ス テ フ ァ ノ の 主 張 に よ る と

現 在 の イ ス ラ

ルの指導者達はイ

ス を裁判に掛けて殺害し(使2:23

-

2 4 ; 3 : 1 4

-

15)

,

宣教者達を裁判に掛 け て 迫 害 し て い る ( 使 5 : 2 2

-

23)。聖霊に満たされて行つている宣教行 為を犯罪行為として

裁判に掛ける事自体が不当である

。 

彼 ら は こ の こ と を 通 し て ,  過去のイスラ

ル人達の反逆と預言者迫害の歴史に連 な る ( 使 7 : 5 1

-

5 2 ; 王 上 1 8 : 4 , 1 3 ; 1 9 : 1 0 , 1 4 ; ネ

9 : 2 6 )5 2

この よ う に, イ ス ラ

ルの歴史を反逆と罪黄の歴史として提示し,現在の

4 9 Volkmann,65

-

73; J.Martin,32

-

36;Lausberg, 4 9

-

57 (SS104-1 2 2 ) ; 7 0

-

71

(S1lll66

-

170).

5Volkmann,74

-

84; J.Martin,36

-

41;Lausberg,57

-

5 9 (S1ll123

-

1 3 0 ) ; 7 2

-

8 l

(SS17l

-

196).

S

'

Volkmann,84-92; J.Martin, 4 l

-

44;Lausberg, 5 9

-

60(SS13l

-

l33);82-83Cll l97).

5 2Pesch,1.258

-

259;Schille, 1 8 5 ;  Jerve11,239,246.

-

96

-

(22)

ス テ フ ァ ノ 演 説 ( 使 7 : 2

-

53) の修辞学的分析  2 l

イ ス ラ

ルの民もこの反逆者達の後継者として

宣教者を迫害するこ とを通して

,

聖 露 に 逆 ら っ て い る と 主 張 す る こ と は ( 使 7 : 5 l

-

5 2 ; 王

上 l 8 : 4 , l 3 ; 1 9 : l 0 , 1 4 ; ネ

9 : 2 6 )

,

修辞学上の例証(exemplum) の手法を用いた論証である(アリストテレス

弁論術

l393a

-

l394a;

キ ケ ロ

発想論

1

.30.

4 9 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

5.ll.

l

-

44)

。 

例証による論証には

歴史的論証と比職の二種があるが(アリ ス ト テ レ ス

弁論術

l393a

-

l 3 9 4 a ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス 「弁論家の 教育

3.8.36,66;5.ll

.6 -

8)

こ こ で ス テ フ ァ ノ は

明らかに歴史的論 証の方を用いている  ( ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

3.8.36, 66)6 3 o

ユダヤ教指導者によるキリスト教宣教者の迫害が

イ ス ラエルの預 言者迫書の伝統に連なるという理解は

共観福音書伝承にも(マタ5:

1 2 ; 2 3 : 2 9

-

3 7 ; ル カ 6 : 2 3 ; 1 1 : 4 9

-

5 1 ; l 3 : 3 4 )

,

パウロ書簡にも(I テ サ 2 : l 5 )

, へ

プ ル 書 に も (

プ11:36

-

3 8 ) 見 ら れ る

ス テ フ ァ ノ はこの初代教会の共通理解をモーセ伝承と結びつけながら

修辞法上

の転移の係争の主張を

ダャ人指導者達に正面からぶつけたのであ

S

'

o

この挑発的言葉に最高法院の議員達を債激し,  彼 ら は ス テ フ ァ ノ を 演説途中で刑場

引きずり出して

石打の刑に処してしまった ( 使 7 : 54

-

60)

演説者の言葉に聴衆が債激して

,

演 説 者 を 殺 そ う と す る こ と は

,

ルカ福音書

使徒言行録には珍しくない

ナザレの会堂でのイ

スの説教において

,

聴衆はイザヤ書6l章を援用して

,

解放の時

,

恵み

S3 Lausberg,98 (lil228);Weiser

.

l.162; Jervell,2l0

S● Schille,l85Soards,68;Witherington III

.

274.

-

97

-

(23)

22

の時の到来を告げる言葉に

,

当初は感嘆した(ルカ 4 :  21

-

22)

しかし

,

スが

医者よ

,

自分自身を癒せ

」,

或いは

, 「

預言者はすべて自分 の郷里で受け入れられることはない

」 

と い う 諺 や

イ ス ラ

ルではな くフェニキアの都市シドンの募婦に使わされた預言者エリヤや (王上 1 7 : 9 )

シリアの武将ナアマンに対して奇跡を行つた預言者エリシャ の故事を引いて (王下5: l4)

癒しの行為が郷里のナザレで行われな い こ と を 告 げ る と ( ル カ 4 : 2 3

-

27)

,

会堂に居合わせたナザレ人達は債 激して総立ちになり

スを捕らえて町が立つている崖つぶちまで 引いて行き

,

突 き 落 と そ う と し

スは人の間を通り抜けて難を逃 れ た ( ル カ 4 : 2 8

-

30)

他方

使徒言行録5章に報告されているぺトロの最高法院における 2度日の審問において

スの名によって語つてならないという禁 止 命 令 に 違 反 し た こ と を 咎 め ら れ た こ と に 対 し て ( 使 4 : 1 8 ; 5 : 2 8 )

,

ぺ ト ロ は イ

スの死と復活について宣教することは

,

人 よ り も む し ろ 神に従う原則の実践であり

違法行為ではなく正当行為なのであると 応 え る ( 使 5 : 2 9 を 参 照 )S 5

さ ら に は

,

最高法院の識員達が木に架け て殺したイ

スを神が復活させたことに言及して

彼らの罪責を指摘 す る と ( 使 5 : 3 0

-

32)

,

彼らはぺトロを殺したいと思う程に價激した事 実 が あ る ( 使 5 : 3 3 )

しかし

,

この時は冷静な対処を勧める

,

最高法 院の識員の

人である律法学者ガマリ

ルの発言によって

使徒達を 釈放する結論が出されたため

事なきに至つた ( 5 : 3 6

-

39a)

これに対して

ステファノの演説においては

最高法院の議員達の

SS 原口尚彰 使従言行録におけるぺトロの弁明演説」 「東北学院論集  教会と神 第 3 6 号 ( 2 0 0 3 年 ) 2 5

-

30頁

-

98

-

(24)

ス テ フ ァ ノ 演 説  ( 使 7 : 2

-

53)  の修辞学的分析  23 立場

の批判は

神殿の批判を伴つてぉり

彼らの債激を止める議論

も起こらず

ステファノの殉教の死と

, へ

レニスト達の離散の出来事

と 至 る の で あ る ( 使 7 : 5 4

-

8,3)

6 . 

a

様式史家達から

使徒言行録7章のステファノ演説は

その置かれ ている物語的文脈との関連が薄いことが指摘されて来た

。 

しかし

修 辞学的批評の視点から見る

と, 

このステファノ演説においても

物語 的文脈が提示する修辞的状況と演説行為とは無関係ではなく

両者の 間には有機的な関係が存在することが明らかになる

演説の叙述部分に(使7:2c

-

50)

,

被告であるステファノに直接関連 す る 事 実 は 語 ら れ る こ と な く

イ ス ラ

ルの父祖達の反逆の歴史が語 ら れ て い る こ と は,父祖達の反逆の歴史が

,

神によって御言葉を語る 者として選ばれ

聖望の力によって宣教活動を行うステファノを裁判 にかけ

裁 き を 下 そ う と し て い る

ダヤ人指導者達の姿の予表をなす

ものであったからである

さ ら に

ステファノが最高法院における裁判の被告人という地位に

置かれていながら

,

自分が無罪であることの弁明よりも

,

裁判官であ

ダヤ人指導者達の罪責を立証しようとしていることは

彼が修辞 学上の転移の係争(status translationis)の技法を用いて

,

裁判の正 当性そのものを争つたことに帰着するのである

-

99

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