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ス ︵こ   初 期 の ス︑︑︑︑  

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(1)

初期のマルクスや若きヘーゲルがもんだいとせられるように︑初期のス︑︑︑スが分析されてよいとおもう︒主著に  

迫る方法として主著そのものを分析すると同時に︑その生成過程をつぶさにあとづけることほ研究が歴史的であら  

ねばならない経済思想史乃至は経済学史にとって必須のものではないだろうか︒科学の歴史が科学そのものである  

と同じように︑わたしほ主著の歴史ほ主著そのものであるとかんがえている︒   

研究途中の︑正しくは研究途上の端緒にあるわたしの如き若輩は︑とくにすぐれた思想家や科学者が若いころに  

いかなる思想と理論を抱いたか︑それをいかにほぐくみ︑発展せしめたかというもんだいに︑関心を抱かざるをえ  

ないが︑それはいたずらな懐古ではなく︑そこに生きた学問と歴史を発見す.ることであり︑ぴegr旨derとしての苦  

悩と努力を学びとることである︒   

スミス ︵一七二三寸九〇︶は﹃諸国民の富﹄︵劇七七六年︶と﹃道徳感情の理論﹄︵一七五九年︶の二著を生涯に公  

にしたが︑他の文書や原稿ほ死を予感したかれが人を介して焼却してしま?た︒そ・こでわたしたちが﹃諸国民の  

富﹄ への道程を辿るほあい︑かれの意志に反して︑静々の間接資料をもんだいとせざるをえない︒   

初期のスミスの思想は劇七四八−五仙年にかけて行われたいわゆる﹃エディンバラ講義﹄において展開蔓れた︒  

,  

︵四五二︶ 三lニ   初期のぞへ︑ス 二︶  

ス ︵こ   初 期 の ス︑︑︑︑  

!W・ハスバッハの﹃グラースノゴク講義﹄論とそれに対する群判仙イー  

怜   山   崎  

(2)

︵四九二︶ 三田  第三十一巻 第五骨  

その内容については大道安次郎﹃スミス経済学の生成と発展﹄︑同﹃ス︑︑︑ス経済学の系譜﹄︑同訳﹃国富論の孝稿  

その他﹄︑〇一品a−d Stewart︐三AccOunt Of t訂Life and Writi品S Of AdamSmith−LL・D∴.in⁚巨妄登:富  

︑︑︑ミ妄︑盲こ・︑︑﹁‡ざ・こh﹂ご⁚人.こr i⁚↓ざ↓︑ミ︑︑︑.一⁚︶\﹂ぎ・へ︑︑七こミ︑≒ミ1〜ミ︑さ︑︑ミミ叛ヽミきこ︑︑ミ︑■︑︵さ︑ぎ︑︑  

蔓蕗&†ミ⊥蕾蟄豊至∴首首聖賢叫碧空岩見LどndOnuニ宗−∵宅●R● ScOtt⁚A計S∽S叫諒恕哲ぎ叫芸≠§札  

等ミざ墨J左岸C.R.亘ay⁚ゝ計慧S慧叫蒜§札叫訂哲Q≠︑§軋勺ヽ獣わ口篭﹀ 芯研のなどを参照いただきたいが︑  

そこでの重要なもんだいほスチュアートの伝える例の﹁不変の主題﹂であろう︒これによってスミス社会科学体系  

の本質と体系内容が明示されているからである︒・わたしほこの二六才の青年ス︑︑\スが開陳した﹁不変の主題﹂がス  

︑︑︑スの全命題であり︑かれの学問体系の根本思想であり︑以後の労作がこれの内実化であることを﹃グラースゴウ  

講義﹄によって論じたが︹わたしの﹁アダム・ス︑\\ス﹃グラスゴク大学講義﹄研究序説畑﹂︵﹃六l甲台論集﹄三治二  

号︶︺︑そのばあい︑富裕のための政府批判と平和の追慕が実ほ経済学を基礎づけ︑それを成立せしめるというので  

あった︒わたしのいいたいのほ更に﹁法学﹂から﹁経済学﹂ へあ道はその中間項に﹁歴史学﹂を有するということ  

である︒﹂七世紀から一八世紀にかけて開花した経済学の語群は歴史学から経済学への下降を意味し︑その鎖りの  

申に歴史意識と経済学が結合する︒現代が﹁経済学から歴史学へ﹂であるなら︵堀江英一﹃経済学から歴史学へ﹄︶  

生誕期ほ﹁歴史学から経済学へ﹂の過程である︒おおくの留保を要するとはいえ︑.重商主義理論家ほその歴史学の  

段階で苦悶㌧︑スミスは経済学の独立化と歴史学の経済学化をなし遂げた﹁経済学の父﹂であり母であった︒   

右にいう歴史学が経済学への意義を担うそれであるなら︑それはおおかれ少なかれ︑唯物論的歴史学になるであ  

ろう︒﹃ドイツ・イデオロギー﹄において署いマルクス=エンゲルスは次のようにかいている︒﹁われわれは⁝⁝  

⊥切の人間的存在の︑しそれ故に普た一切の歴史の第一望別掟を︑すなはちA歴史を作り∀うるためには人間ほ生き   

(3)

て行くことかできねばならぬという前提を確認することをもつてはじめねはならぬ︒⁝⁝最初の歴史的行為は⁝⁚  

物質的生活そのものの生産である︑∴:⁝これは⁝⁝山‖切の歴史の根本粂件である︒﹂﹁⁝⁚あらゆる歴史の理解にあ 

って第﹂のものはこの根本事実をそれの全き意味において︑かつそれの全き拡がりにおいて観察し︑そレてそれを  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  正当に評価承認することセあを︒﹂﹁フランス人およびイギリス人ほ:⁝二面的に把握したにすぎなかったにしろ⁝  

︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ヽ ︑ ︑ ヽ ヽ ヽ ヽ ︑   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ 1 1 1 ヽ 1 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ    ヽ ヽ ヽ ヽ▼ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ︑  ⁝かれらほともかくも市民社会の︑南米および産業の歴史を最初にかいたことによって︑歴史叙述た二つの唯物論  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  的土台をあたえる最初の試みをなしたのである﹂ ︵邦訳﹃選集﹄第一巻二四−五ぺー汐︑但し訳文は異なる︒傍点  

−引用者︶と︒このマルクスの叙述は内田義彦民が古典経済学研究の重要な導きの糸とされるものであり︵高島善  

哉編﹃古典学派の成立﹄第五章ス︑︑\スとマルクス ー 歴史認識の問題 −︑﹃経済学の生誕﹄とくに二八ぺー汐︑  

﹃古典経済学研究﹄上巻あとがき︶︑ロンルド・L・ミークもスコットランド歴史学派を論ずる際.に同じくこれを導  

きの糸としている︵R・L.Meek︸ ︷↓訂ScOttisF cO已ributiOn tO官ar已温∽giO−Ogy;in⁚J.Sa邑訂︵ed.︶︸  

9夢墨壷ぢ聖軋送電㌣誉竜三蔓毒莞風−課金ものであるが︑ここにいうプラ/ソス人およびイギリス人は歴史学  

の段階での下部講造としての市民社会︵つまり商業および産業︶ の分析を峨烈な精神で描いた思想家や理論家を意  

味している︒それは唯物論的歴史叙述によっ七経済学への道を拓いた︒アダム・ス︑︑︑スもそのイギリス人の仙人で  

あった︒初期のマルクスもまた歴史学︵あ′るいは歴史哲学もしくほ法哲学ないし哲学一般︶′から経済学への道を辿  

るのは注目されてよい川︒けれどもまた︑りて︑︑スとノマルクスの類似性はその点にとどまらず︑両人は歴史の唯物論的  

叙述をたんに歴史学の儀域にとどまらせず︑それを価値論と蓄積論という経済学の上に鋳潰し︑′歴史劇であると同  

時に論理的︑具体的であると同時に抽象的な方法を確立しながら︑それぞれの体制批判︵ス︑︑︑ス←反封建・反独占  

・反帝国主義︑マルクス1反資本・反独占・反帝国主義∧とくにレーニン∨︶を確立しセことである︒初期のス︑︑︑ス  

初期のスミス 二︶  ︵四九三︶ 三五   

(4)

の研究はこういう点にその意義をみいだすこ.とができる︒   

しかしながら︑さきにもふれたよテに初期のス︑︑\スの論稿は現存するものが皆無に近く︑哲学や文学にかんする  

ものは二︑三﹃哲学論集﹄に収められている滝のの︑とくに社会科学的な内容のものは断片的な思想の︑しかも第  

三者による記述と︑﹃票アイソバラ評論﹄編輯者宛書簡︵山七五六年一月︶︑それに経済学にかんする﹃エディンバ  

ラ講義﹄の一節のみである へ大道安次郎訳﹃国富論の草稿その他﹄所収︶︒わたしほそれ故に小文では﹃エディンバ  

ラ講義﹄時代のスミスと仙応︑別れることにして仙七六二−四年 ︵三年という説もある︶ にかけての﹃グラースゴ  

ディンバラ時代に︶懐舵したものとかんがえてそれはどの誤謬をおかすとはおもわれない︒小文は﹃グラースゴク   ク講義﹄におけるス︑︑\スをもんだ.いとしたい︒それはかれが四〇才頃の講義であるから︑もはや初期とほいえない  かも知れないが︑スコットの ﹃エディンバラ講義﹄内容の推察や﹃道徳感情の・理論﹄末尾の言辞などほ﹃グラー  スゴウ講義﹄の内容が四〇才のスミスの頭脳にはじめて宿ったものではなく︑むしろそれ以前に ︵重要な部分ほエ   

議義﹄を対象とするのだが︑そういったことで初期のスミスと越することをおゆるしねがいたいとおもう︒   

わたしは以上のような意図でスミスの﹃グラースゴウ講義﹄︵以下﹃講義﹄と略称する︶を理解してきたものであ  

るが︑ここにもんだいとしたいW・ハスバッハの見解は﹃講義﹄と﹃諸国民の富﹄を切断し︑﹁歴史学﹂と﹁経済  

学﹂を分断し︑誤謬の書物﹃諸国民の富﹄と科学的労作﹃講義﹄を対置し︑スミスの﹁渡仏﹂を絶対化し︑それを  

批難するのであって︑わたしは到底︑それが経済思想史ないしは学史の正しいあり方とおもわれないので︑ここで  

なぜにスミスに対する正しい研究とアプローチがかれにおいて阻まれたかをあきらかにしたいのである︒このよう  

なアプローチのもんだいは決してハスバッハにとどまらないのであり︑たとえば E.Kauder㌔ Genesis Of tFe  

岩a品首ald壱ityT訂Ory.こ票由富男思デ百害旦−く01・F舛肖●Sept・こ誤00︸H・M●RO訂rts昌=W.L●Tay−Or︐    療三十こ巻 仙第五官  ︵四九四︶ 三六  

(5)

︵2︶  

.へAdamSmith㌦ApprOaC廿こOtbeTFeOryOfぎー乾こn⁚悪童き罫∴ざ≡邑∵5−・L舛舛戸旨き一票qなど  ︵r︶ ほそういう見解の最近時の再生産とみてよい︒学史研究にほ古典争奪のたたかいが往々にして展開されるが︑古典  を統言内在において把握できるのほ歴史の正しい認識を深めたものだけである︒歴史にあっての伝統と継承=断  

絶をディアレクティークにつかんだものだけである︒  

ゎたしほ次稿においてカクダーやロバートスン=テイラーの所論を論ずる予定であるが︑そのようなス︑︑\ス把握  

の先駆として最初にハスバッハをとり上げたい︒ハスバッハについては︑すでにわが国のス︑︑芸研究家がとりあげ  

たところであるが︑それを全体として紹介・批判したものは見当らないようである︒   

この研究ほ側面からの﹃講義﹄への照射であるが︑同時に経済学史のあり方へのさきやかな追求になれぼともお   もっている︒   

る︒それは﹃講義﹄の出版の翌年に発表された︒  

︑一く・−−ご土喜−ニ︑︑⁝ミミ︑ニ⁝享︑妄︑ミミこ=ざこミ︑︑︑.ミ︿︑こ三≦‡≒三言蔓.:へ≡︑±ミ︑︑   

・f︑\︑古︑︑∴ぺ︑︑ミニこ︑号︑ぎ≒モ︑ニー︑テミ︑︑≡∴−三つ  

︑dニこご︑︑こ・ミぎ︑・hミ〜︑チ1﹂■︑ミ︑⁚主︑︑=⁝㌣︑︑−ぎき主︑責︑︑こ・︑き︑ぎぎ︑こき︑︑︑ミヽ.一室  

臼 dO・∴.Adam Smith︑s Lec−ures On J宏−iceリ PO−ice︐Re扁nue and Arms・∴n⁚勺S託註∽へぎc恥   

\曾§言古∵ぎ1.肖u N〇.丹−00笥  

以下︑﹁においてハスバッハの所説を紹介し︑二および三におい・考わたしの見解を記したい︒   ハスバッハのスミスにかんする著作論文ほ次のものであるが︑わたしはさいごの論文のみを・ここではとりあげ  

初期のスミス ︵一︶  ︵四九五︶ 三七   

(6)

︵四九六︶ 三八   第三十一巻 第五号  

ハスバ.ッハほ先づ﹁綿密かつ異常な努力で編第した﹂キャナンを襲え︑﹁経済学の文献史とアダム・スミスの知  

的発展の上に有益な光を投げた﹂といい︑自分が﹁われわれの科学の先師Aスミスー引用者Vに長いあいだ没頭し  

へ3︶  

てきた.山人として︑このようにして斉らされた知識の増加が一体どこはあるかを指摘するを許されたい﹂という︒   

ほじめに言及したいことはわれわれほ﹁いまや︑漸くスミスの故にかんする講義﹂の﹁全く確かな構図をつくる  

位置にある﹂ということ︑つまり︑︑︑︑ラーが伝えている︑公法ならびに私法にわたり︑もっとも粗野な時代からも  サブシシテンスプロパティ  っとも洗錬された時代に至る法の漸進的進歩をあとづけようとして︑生計と財の蓄積に役立つアートの効果  

が法と統治の上に︑それに応じた改善またほ変革をうみだすことを示そうと︑ス︑︑左が努力し凌いわゆる﹃道徳哲  

学﹄の第三部門の﹁陳述﹂を理解することができる︒﹁われわれほ史的唯物論の時代へan age Ofmater邑istic  

pFi10SOpすOfhistOry︶に住んでいるのであり︑仙三〇年以上も前にスコットランドの道徳哲学者が経済的諸条件  

︵4︶  に基いて︑法を説明しようと試みた事実をいかに評価すべきかを知っている︒﹂しかしながらただ﹁はんの少しの  

寮句にはこの論述が欠けている﹂のであって例えば↓かんたんな例をとると︑奴隷制の発生も廃止もかれによって  00  経済的根拠からは説明されないご﹁奴隷制は﹂スミスによれば﹁人類にとってはとんど生れつきともいうべき暴君  

000 的性向﹂・から生じたものであり︑その廃止は﹁君主﹂や﹁教会﹂によるところの﹁政治的理由﹂により行なわれた  

︵ト采叫琶芦﹀P.芦P.岩−︶︑のであり︑このことと関連してギルドの発年・消滅や市場ならびに定期市の廃止につ  

︵5︶  

いても︑﹁国家の利益﹂もしくは﹁国家にとっての有害﹂や﹁習慣﹂の違いによ′つて説明されるのである︵論点第一  

歴史の唯物論的叙述︶︒   

きらにハスバッハ臥当初︑ス︑︑︑スが一つの文明史をかこうともくろんでいたという意見がどのようにして生じた  

か︑・をれをこの﹃静義︼の出版によ?て知ることができる︵しかしかれはス︑︑芸が文明史をかこうとしたことを否   

(7)

′6ヽ  

愛する︶とのべ︑つづいて﹁さらにもっと重要なことはわれわれが﹃講義﹄の公刊によって﹂ ﹁経済学体系︵the  

∽yStem OfpO冒ic巴ecOnOmy︶ は自然法の体系︵the system Of nat彗al−aw︶ から生れたものであることは疑  

うべからざる事実﹂となり︑自分が﹁﹃諸国民の富﹄第一驚とグローチクス︑プープエンドルフ︑ヴォルフおよぴハ  

チスンの著作の符号する部分との比較﹂によぅて︑六年前に論証したこと ︵Cf●q温屯ヽ簑童謡●︶が︑ここに真実と  

なったのである︒﹁わたしはス︑︑\スの倫理学をしてヒュームのまずしいコッピィであり︑経済学をしてたんなるチ  

エルゴーの刻銘だとする∀剰賂よぼわヶに熱狂する人々A︵ト采叫篭夢.P﹁冒iエへのキャナンの軽費を十分に共に  

したい︒なぜなら︑卓越した個人と科学の発展を決定した諸要素を確かめる努力と︑かかる中傷とは何の共通のも  

のもないからである︒﹂われわれは﹁一方においで∀偉人Aは自分自身のインスビレイジョンからすべてを引きた  

しY そしてはんの一寸︑自分自身の時代によって影響をうけるのだと信じこむ素朴な人︑および他方において二人  

の人間が似たようなことをいうとき︑いつでも知的剰鶴を填ぎわけるかわいそうな人とたたかう﹂必要があろう︒  

﹁これら両者ともども思想の発展の法則にらいて無知だといっていい︒﹂﹁スミスはフィジイオクラッー﹁から経済的  

自由の原理︵t訂principle∽ Of ecOnOmic freedOm︶ を借りたのだ﹂といわれたか︑﹁低廉と豊富﹂と題する部分  

ほ﹁ある点ではすべての期待暫﹂えてかれがフィジ十オクラットと交わるまえに﹃講義﹄の中で︑経済的自由の原  ヽヽ  痙の全面的適用をうみだしていることを明らかにする︒便宜の経済的根拠に基いてかれは産業の自由 ︵ト寛ぎ芸㌘  

P.−遥一誌の︶を支持し︑商業の自由︵ょき㌣P.g¢︑隻の.思の︶を主張し︑自由な銀行︵白帆㌣P.−誤︶ノを要求した︒﹂封  

︵7︶  

建的土地法や限嗣相続制に反対し︑土地の動産化を擁護した︒スミスの﹁自由の政策の形而上学的諸前提も﹃諸国  

民の富﹄ないしは﹃道徳感情の理紛﹄においてよりは未発展なかたちにせよ︑あちこちにあらわれる︒﹂物事をその  

ナチュラル・コースにまかせよ︵訣置.勺﹂00N︶ とか︑物事をフリー・コースにゆだねよ︵詩誌●−P仰望−︶とか︑そ  

︵四九七︶ 三九   初期のス︑︑︑ス 二︶  

(8)

︵四九四︒   彗十二奄第五ヰ   ︑︑︑︑︑  

して﹁まったく﹃諸国民の藍の精神で産業の自然的均衡﹂︵崇㌣P﹂筈︶を説明する︒   

けれどもハスバッハによると﹁山七五五年の論文風不変の主題のかかれているものー引用者Vにあのように明  

確にだされ︑かつ還徳感情の理論﹄の形而1学的根砥と完全竺致するかれの自由主義の形而上学的基礎が﹃講  

義﹄においては偶然的にしかあらわれていないこと︑これは大いに強調されねぼならない︒それほなぜか︒﹂それ  

ほ﹁かれが便宜の領域にのみかかわっていたから︑その形而←学をかくしたのである︒﹂かれはその体系の基礎をお ヽヽ  

そらく自然神学の講義にあたえたのである︒議義﹄ほ自然神学にかんする講義の吟味が﹁新しい視野﹂と﹁新し  

い諸もんだいを提起するであろう﹂ことを明らか隠する︒キャナンほ自然神学にかんする講義が歴史的重要性をも  

たない︵阜cぎP●瞥︶というが︑それは誤まってい・る︒また一七六三年に人を確信させた議論も二八九六年に  

ほ完全に醸昧乾燥になるとキャナンはいう︵寮㌣2・賢︶のだが︑﹁これは功利主義的・実用的見地をとるもので︑  

これでほ︑なぜに法にかんする講義が出版されたか﹂わけがわからない︒﹁探究の真の目的ほ議論ではなくして︑  

︵9︶  

文献史への透視である︒﹂︵論点第二自由主義の形而上学的基礎︶  

ヽヽヽヽヽ  ﹁さらに形而上学的基礎の欠除よりも驚くべきことほ低廉と豊富と題する部分に︑われわれは経済的自由の自然法  

盲e邑≡=aws Of2COnOmicfre2dOm︶について全くなにものもみいだしえないという事実である︒﹃諸国  

民の富﹄にあってはよく知られているように︑それらがくりかえしあらわれる◇そしてス︑︑\スほかれの体系を∀自  

然的自由の体系A︵asystemOfna−ura=ib2r−y︶と名付ける︒﹂・ス︑︑ニ︷は産業や資本の自由への衝撃が人類のもっ  

とも神聖な権利の明白な侵害だと宣言したのである︒ハスバッハによれば﹁これほフィジィオクラソトの言葉であ.  

る︒当然にス︑︑︑スは一八世紀においてフィ汐イオクラット達の弟子にかぞえられ空のである9﹃諸国民の富﹄の  

そ︑スはさらに各人にと一つて労働はその財産であるが︑その財産はプロパティの原初的基礎であり︑もっとも神聖   

(9)

で不可侵のものであるとかいたのだが︑これが﹁フィジィオクラソトのロックからの借りものの原理であることは  

︵10︶ よぐ知られている︒﹂︵論点第三自然的計由の体系︶   

﹁のみならず︑﹃諸国民の富﹄の読者はだれでキ友︑︑︑スが公経済と私経済︵pub−ic旨dpri邑eecOnOmy︶の  

あいだに鋭く境界線をひとうとしたこと︑そして国家と借入のあいだの経済的諸かんけいを支配する正義の原則   ﹁‖⁚  

︵p旨ciplⅣsOごus−ice︶を設けたことを知っている︒トこれらの思想も︑また講義﹄にはない︒﹂ ︵論点第四正義  

の原則︶   

ハスバッハは﹁未発展なかたちでの形而上学的要素﹂や﹁経済的自由の法則﹂をみとめないわけではない︒﹁経済  

的自由の政策が富裕の発展を助長するもっとも﹂時宜にかなったものだという﹁論証﹂をみとめないわけでほな  

い︒けれども﹃講義﹄には﹁経済的自由の主体的な法則﹂盲e岩bjecti諾−aws︒fec︒n︒micfreedOm︶がーか  

れによればかつて自分がその存在を臆測していたものだが1﹁明確なかたちでほみいだされないと白状しなけれ  

ばならない︒﹂﹁自然権﹂や﹁侵害からまもる権利﹂ということばほ散見されるとしても︑ 

︵12︶  

うに︑そして﹃諸国民の恵﹄におけるス︑︑︑スのように﹁経済的生活の領域に適用されていない︒﹂しかしとれらはま  

だ﹃講義﹄と﹃諸国民の富﹄とのあい申の′﹁実質的な矛盾﹂ではないから︑それほそれでよい︒もんだいほ﹁一つ  

の基本的な点で無矛盾の欠除がきわめて鋭くあらわれることだ︒﹂われわれは護国民の富﹄において︑各人がその  

有する労働が財産であり︑その財産がブロノバティの原初的・本源的基礎とみなし︑それによってスミスがフィジィ  

オクラソトとロックに同意していることを知っている︒・﹁とくにロックが蛍消された労働から土地の私有化をひき  

だしたことはよく知られている︒﹂ところが﹃講義﹄におけるスミスほ﹁土地私有は土地が分割されるまでは決し  

て生じない﹂︵ト邑§声も﹂○¢︶といい︑﹁そして脚一〇ぺージにいたっては明白にロックを逆立ちさせる︒﹂すなわ  

︵四九九︶ 四一   初期のスミス ︵こ  

(10)

第三十山巻 第五号  ︵五〇〇︶ 四二  ヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽ ち︑スミスほいう﹁土地私有はある土地に播種し︑植付けする権利を社会により特定の人に分割するか︑あるいは  

割りあてることにもとづいている﹂︵傍点−ハス.ハッハ︶と︒﹁それ故︑﹃講義﹄でほ個人とその労働ほいかなる観  ヽヽ  点からしても︑土地所有権の窮極の源泉でほない︒この権利のみなもとほ社会にある︒﹂︵傍点1ハスバッハ︶この  

ことと照応して︑われわれほスミスがもし﹁しかるべき理由が﹂あれば︑﹁社会による自由の制限の句能性を認め  

ている﹂し︑いわゆる自然状態︵stateOfロature︶について﹁このような状態は存在しない﹂︵ト采叫琴芦−P.柏︶と  

︵18︶ いい︑﹁原契約説﹂を拒否する︵轟置﹀P﹂ことき︑ロックに対立しているのである︒︵論点第五土地私有起源論  

1とくにロックとのかんけい︶   

かくてハス・バッハによればロックや師ハチスンにすら関説せず︑グローチクス︑ホップズ︑プープエンドルフおよ  

ぴコッケィを自然法の領域におけるすぐれた著者としてかたる﹃講義﹄のスミスほ﹁すべての点において抽象的自  

然法を背景に押しやり︑ハリ∴Jト∴/によって準備され︑モンテスキュートとヒュームによって発展せしめられたやり  

︵14︶  方で︑法と統治の具体的な論述﹂をなすのである︒﹁われわれほいまや︑やっとこれら両人が初期のス︑︑\スにあた  

えたふかい影響を感知することができる︒﹃講義﹄と﹃諸国民の富﹄のあいだに割れ目をつくっているということ  

については︑次のような解釈以外にはない︒すなわちス︑︑\スほフィ汐イオクラット主父わって︑かれらの著作を研  

究するこどにより︑ロックやハチスンにたいし︑より親近な態度をとるようになり︑かくして徐々に︑モンテスキ  

ューの見解に反対するようになった︒▲この点にかんしては︑われわれほいかなるおもい違いをしてもいけない︒フ  

ィ汐イオクラブトほモソテスキまーがとりわけ︑ひろめた法と統治にかんする歴史的・現実的思考に味方しなかっ  

∧15︶  た︒止もとより︑ハスバッノハは﹁われわれはアダム・ス︑︑︑スの態度の変化を︑かれが以前の確信を放棄したものであ  

るとみなし.ては庵らない︒なぜなら︑かれが自然法にかんする講義をなしたその事実からみて︑かれが法と政府の   

(11)

抽象的な酪述に習熟していたのである︒⁝⁝  ハチスソを通じて︑かれほ知的にロックとレヤフツベリにかんけいし  

た﹂と論じ︑ただ︑しかしながら︑モンテスキューととふームの影響ほかれを自然法の体系からへだててしまった  

のである︒それはふたたび︑﹁フランス滞在中に︑かれが旧秩序どのたたかいには信念!たんなる冒由貿易の  

使整の説明以上に強舟なあるもの仁一1を必要とすきとに気付いたⅦであろう︒かれの魂はフィ汐㌧︒オクラット  

をふるいたたせた焔でもえたった︒かくて自由富めの冒然的秩序﹄や個人の冒然権﹄が発展させられ︑これ  

︵16︶  

らがかれの体系の山部となった釘である﹂・という論定をうける︒    そして﹁おそらく︑さらにもっと蛮大なことは﹃諸国民の富﹄において自由人の労働から私有財産をひきだした  

かれが︑同著において労働の原理を経済学︵pO−i−ica言80my︶のもんだいに適用した事実である︒﹃講義﹄では  

この原理ほ法学と経済学の論述において低い地位におとされている︒ネ︑︑ス以前の英国の経済学にあっては︑おび  

ただしいはど︑この原理がうまれたので﹂.あるが︑1ト→たとえばぺティ︑ロック︑マンドグィルとカンティヨン︑  

ハリスとヒューム︑還幣利子表にかんする畢盈の忘の著者とハチスソなどだが︑﹁ス︑︑︑スの先生であるこ  

のさいどの人ほ︑あや意味でほスミスにかんして古い地位をとりもどした︒ス︑︑\スが労働の庶理を使用することが  

できたのほハチスンの刺戟によるとわた㌧にはおもわれる﹂とハスバッハはいい︑ハチスンと諸国民の富﹄のス  

︵17︶ \︑\スの価値論にかんする記述を比較する◇ ︵論点第六の鵬−自然法と歴史的方法︶   

﹁スミスがフィ汐イオクラットやロックの影響をうけ︑︑モンテスキューと反対の立場をとったという確信がうま   く根拠づけられさえすれば︑われわれほかれが還と政府の蒜原理﹄にかんするさいしょの著作を放棄して︑﹃諸  

国民の富﹄にとりかかったのだという解釈をもつ︒⁚⁝⁝事実︑かれは晩年に﹃法の精神批判﹄ ︵Cf・Ingram⁚  

無きヽミヽ苫註c已賢蓋ミニ冨﹀P・運という仕事にとりかかっていたといわれている︒しかしながら﹂ハ  

︵五〇一︶ 四三   初期のそ︑︑ス 二︶  

(12)

第三工巻 第五号  

︵五〇二︶ 四四  

スバッハによれば﹁十中八︑九までかれの主題の変更ほ経済学が前世紀︵?まり岬八世紀i引用老︶六十年代に  

ぉける驚くべきスセードでの発展に多大の影響をうけたのである︒フィジィオクラットぼかりでなく︑とくにジュ  

n︵18︶ −ムズ・スチュアートの主著を目撃したからである︒﹂︵論点第六の二− ﹃諸国民の富﹄先行の意味︶   

﹁モンテスキューからフィジイオクラットへのス︑︑\スの知的同感の転換﹂の足跡はこれだけにとどまらず︑それ  

ほさらに﹁冒然的﹄な経済発展と﹃不自然的﹄それとを区別しようとする還国民の富﹄の第三・四篇にとくに  

顕著なあやまった歴史的見地の原因とな鱒︒第三篇第一茸でかれはかく︒〝それ故に︑人類の制度が事物のナチぷ  

ラル・コースを撹乱しなかったならば︑都市の富の増進と発達とは︑いかなる人間社会においても︑その領地また  

ほその地方の改良および耕作の結果であり︑またそれに比例するでろう︒″ アダム・ス︑︑︑スほ自己の形而上学の木  

にフィジィオクラット的経済の枝を接木したのだ︒﹃講義﹄において︑たとえ﹃諸国民の富﹄の大部分の内容がキ  

ャナンのあたえた冒蒜の遅々たる進歩の原因について﹄の見出しの節にみられ・るとしても︑われわれはまった  

く︑このことをみとめない︒当時︑かれは未だ︑自然的・不自然的発展を知らなかった︒わたしほジェームズ・  

スチュアートの 講究﹄ノの第仙窟の方が ﹃国富論﹄ よりも︑ヨヅ正しい見解がふくまれていると信ぜざるをえな  

︵19︶ い︒﹂ ︵論点第六の三 − スミスとスチュアート︶   

スミスに対するフィジィオクラレィの影響はス︑︑︑スをしてさらにあやまった道にみらびく︒﹃講義﹄の第二部第  

二篇はその出発点において﹁欲望﹂についてのニつの節をもつが︑﹃国富論﹄ではそ﹂に有名な﹁序論﹂がおかれ  

︵餌︶ た︒﹁この脱落︵欲望論のー引用者︶はまったくフィジィオクラットの影響によるとわたしにほおもわれる︒﹂  

マーカソティリストたちは﹁分業があらわれると同時に商品やその他のもののサーヴィスへの需要を創る欲望を人  

ほもつ︒信用がほんのわづかに発展したある経済状態にあっては︑この需要は貨幣を通じて効果的となり︑商人た   

(13)

ちの活動を惹起し︑そして同時にその商人たちは欲望を︑それ故︑需要そのものを刺戟するのである︒⁚⁝⁚マーカ  

ソティリストはどのようにして需要と生産の発展が大嵐の人々︑とくに農業と原料生産にたずさわっていた人々の  

雇僻を決定するかを知っていた︒﹂だから︑﹁かれらは理論的には人療の欲望から︑消費から︑需要から出発し︑  

その実践的帰結は商業とエ業が保護されなければならないということであった︒﹂︵ここでハスバッハは注記して  

﹁マーカソティリストの見解を全面的にあきむかにするのは紙幅のかんけいで︑ここではできない︒わたしほ読者  

︵21︶  にジェームズ・スチュアートの﹃研究﹄の第一篇海よび第二篇を参照せよとだけいっておく﹂という︒︶   

しかしながら︑いうまでもなく︑これはフィジィオクラッ▼卜の総師ケネーによって拒否された︒﹁工業と商業は農  

業がただ剰余をうみだす限りにおいて可能であるとされる︒それ放︑経済学は生産の分析からはじまらねばならな  

︵把︶  い︒﹂ボードオ︵Ba已eau︶の﹃経済表解説﹄︵E眉−icatiOnduTab−eauEcOnOmiq莞︶によれぼ︑マーカソティリス  ヽヽヽヽ  ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ  トたちは生産的支出をおこなわしめるものとして︑流行や取引︑たのしみ空拳楽せんとする欲望をあげ︑エ業は生  

ヽヽヽヽヽ  産的であるといい︑そして︑それほ土地支出や耕作よりもすぐれて生産的であるというが︑﹁もし理性ある人々に畑  

の麦の穂を生産したのほだれであるかを問えば︑その人ほそれは種子と労働であるとこたえる︒なぜなら︑収穫を  

︵幻︶  なすためには︑やいたり︑労働したり︑種子をまいたりしなければならない﹂のだからと︑こたえるだろう︒ハス  

バッハほこれに射し︑次のようにのぺる︒﹁これと﹃もし︑必要や欲望とかいうものが︑決して生産の真の原因で  ヽヽヽヽヽ ︵餌︶  なかったならばどうであろう?﹄という非凡な質問に基礎をおく見解と比較せよ﹂と︒むろん︑﹁アダム.スミス  

はケネーをこえて⁝:・生産的労働﹂を﹁エ巣や商業に用いられる労動﹂にも適用したし︑﹁レッセ・フエールの要  

︵25︶  求﹂を﹁すべての経済活動分野に拡大した︒﹂ ハスバッハによれば﹁あたらしい見解は理論的には生産から出発し︑  

実践的には消費者擁護を要求する︒そして古い見解は理論的には消費から出発し︑生産者擁護を要求する︒ス∴︑︑ス  

︵五〇三︶ 四五   初期のス︑︑︑ス 二︶  

(14)

︵五〇四︶ 四六  欝三十一巻 第五号  

以後の経済学の理論的︑ならびにそれより大きい実際的な誤謬が生産から出発したことにあったということはきわ  

めて明白である︒そして︑いまや経済魂象の理論は消欝の分析からはじまるぺきことが認められつつある︒周知の  

ように︑ジェグォンズはこの見解をもっとも力強く表明した︒わたしの仕事はアダム・ス︑︑︑スがなぜに︑ただし道  

︵朗︶  からそれたかをたしかめることだけなのだ︒﹂︵論点第六の四 − 消費と生産の理論︶   

右のようにして︑ハスバッハは結論的に以下の論旨をのぺる︒﹁わたしの上の考察をまとめるならば﹂ ﹁フィジ  

ィオクラット﹂は﹁われわれが以前におもいきって推定し′たはるか以上にアダム・スミス﹂の発展において﹁重大  

な役割を演じた﹂ということだ︒かれら711フィジィオクテットはス︑︑︑スに射し﹁理論経済学の体系を発展させる  

地位に追いやるのみならず︑かれらほかれをして﹃自然法﹄を経済的諸条件に適用させ︑以前よりもずっと広範囲  

に﹃自然的秩序﹄をあたえさせた︒﹂これによって﹁スミスの体系﹂は﹁鋭く明確な性格﹂をもつのだが︑同時に  

﹁スミスは高価な代価﹂︵=犠牲︶のかわりに﹁援助物を買ったのである︒﹂ ﹁このような見解を支持するものはか  

れのすべ一ての自然法・自然的秩序・歴史の自然的ならびに不自然的発展の思想・かれの体系の基礎としての欲望の  

理論の放棄と生産の理論の採用のなかにみいだされるほずである︒かくしてアダム・ス︑︑︑スの精神はわれわれがl  

﹃講義﹄でみるような不偏性と客観性を失なったのである︒かれは以前にほみいだしてはいなかった人工的因果か  

んけいをつくりあげ︑さらにおおくの政治的・社会的・経済的諸カの歴史的産物をつなぎあわせるマーカンデイリ  

ズム▼の申に︑ただ商人や工業の雇主たちによってわざとら七く生ぜしめられた怪物をのみ︑みたのである︒もしス  

ミスが﹃講義﹄に示された次第のラインに沿うて︑それをさらに発展させることができたならば︑かれの経済学  

体系はきっと完成されてはいないだろう︑しかしかれ 

たであろう︒歴史学派とクェプサンズが非難したような欠陥は﹃講義﹄にはほとんどといっていいはどにないので   

(15)

︵釘︶  ある︒﹂  

二  

ところで以上においてあきらかなように︑ハスバッハの基調のよるところは﹃諸国民の富﹄ へのフィジィオクラ  

シーの影響の決定的な大きさにある︒この点についてはすでにいくつかの論及があるが︑かならずしも充分な成果  ︵如︶ ︵釦︶  ︵28︶  は未だあげられていないといわなければならない︒それには︑ケネーやチエルゴ一にかんする充全な探求と︑英仏  

︵飢︶  両思想史︑英仏かんけい史︑フランスにおけるスミスの足跡などが歴史的視野と透視の申でおさえられなくてほな  

らない︒そのような作業は非力のわたしのなしうるところではない︒したがって︑以下のわたしの小鬼ほ狭い視角  

と僅かな資料にもとづく試論にすぎないことを︑あらかじめ︑おことわりしておきたい︒   

論点第︼  わたしはハスバッハが・﹃講義﹄を史的唯物論の一論として評価したことついでは古典経済学の思想  

的把握というこの道の先達としてのかれの卓見を示すもので十分に讃えたいとおもう︒さいきんの︑︑︑−クや内田義  

彦氏の業繚はそれの内実化であろぅ︒けれどもハスバッハの一面は︑さきに 

ついての例外をみいだすごとにもあった︒果して︑それは例外であろうか︒﹁暴君的性向﹂から奴隷制がうまれた  

と︑たしかにス︑︑\スはいう︒わたしは前後の文章をみょう︒それは﹁あらゆる社会の当初におこり﹂とあり︑﹁た  

とえいかなる形態の政府がたてられようとも︑奴隷制を継続することは︑その社会構造︵cOnStitutiOn︶の一部であ  

︵氾︶ った﹂とある?そして﹁自由政府∴騨f甘eegOぷ⊇ment︶にあっては︑その成員たちは奴隷制の廃止ほかれらの利  

︵88︶ 益にとって有害だとかんがえたであろう︒﹂ ﹁そこではあらゆる法律は奴隷の主人たちによりつくられるのであっ  

︵34︶  て︑かれらは自分に有害な法案を通過させることは決してないであろう︒﹂ ﹁富裕な国 ︵anOpu−ent cO亡ntry︶に  

︵五〇五︶ 四七   初期のス︑︑︑ス∴こ  

(16)

第三十一巻 欝五号  ︵五〇六︶ 四八  

あっては︑奴隷はつねに虐待されている︒なぜなら奴隷の数が自由人の数よりおおく︑そのため︑かれらの秩序を  

︵86︶ 維持するにはもっとも厳格な紀律が必要であるから︒﹂ ﹁⁝⁝・奴隷制は社会の文化に比例して苛酷になる⁝:︒  

自由と富裕︵FreedOma已Op已ence︶は奴隷の悲惨さを強化する︒自由の完成はかれらの最大の束縛である︒そし  

てかれらは人類のもっともおおい部分であるから︑この制度のたてられている国では︑こころある人はだれも自由  

︵3¢︶  を欲しないであろう︒﹂   

ところが︑ス︑︑︑スによれば﹁文明社会︵aci姦Ne笹s︒Ciety︶における奴隷制より野蛮な社会におけるそれの方  

が︑たえられる︒未開社会においてほ人々の貧しさが︑その養いうる奴隷の数を全くとるにたりないものにする︒  

︵即︶  ⁝・野蛮な国においては︑主人が自ら奴隷と同じように労働するので︑かれらははとんど同じ地位にある︒﹂   

もはや︑いうまでもないであろうが︑奴隷ほ文明・文化・自由・富裕に比例して強化され︑それに反比例して弱  

︵38︶  体であること︑つまり生産力の発展はそれに比例して奴隷制を強固・必然ならしめると︑スミスほいう︒ここに自  

由・文明というのほ古代および封建 − とくにその初期 − の制度であるが︑﹁あらゆる社会の当初﹂ほ決して﹁未  

︵錮︶  開社会﹂の意で捻なく︑いわば苗代社会初期といわなくてほならない︒スミスは﹁暴讃的性向﹂といいながら︑実  

をいえば︑それを歴史の中に没入させて奴隷制史を説く︒そして他方では奴隷ほ﹁召使﹂や﹁戦争補虜﹂やその子  

人相︶      ︵41︶ 供︑﹁犯罪者﹂︑﹁債務者﹂︑﹁貧窮市民﹂からうまれると説く︒これほたんなる﹁性向﹂からものでほなくて社会経済  

的起源論ではないだろうか︒これはまたス︑\\スが単純な歴史家ではなく︑ディアレクティークにとむ史家であった  

ことを示している︒   

﹁君主﹂や﹁教会﹂による﹁廃止﹂をたんに﹁政治的﹂ということはできない︒﹁廃止﹂の方向として生産力の  

にともなう分益小作︵tena已by stee夢OW︶1コッピィホールダー︵cOpyどlder︶ の系列と︑﹁君主﹂や﹁教   

(17)

︵亜︶ 会﹂による利害かんけい︵=貴族との対抗︶の系列の二をヌ︑︑︑スはあげる︒これをたんに﹁政治的﹂というのは正し  

くない︒それはすぐれて経済的な諸かんけいに起因する︒さらにはギルドや定期市やマーキットについても︑﹁国  

家の利益﹂や﹁習慣﹂によるというとき︑その﹁利益﹂とか﹁習慣﹂がいかにし′て生じたかをス︑︑芸にたずねるな  

ら︑それがアートと製造業の興隆=生産力の拡大=全般的市場の成立=国家の変質だというであろう︒いずれの点  

についても︑わたしほハスバッハの言辞が︑ことばの断片をあげつらうもののようにおもわれる︒ただ一つ︑﹁性  

向﹂にかんしてほこれをモラル・フィロソファーのス︑︑︑スの人間性論として別のもんだいがのこるであろうが︑こ  

︵48︶  れはイギリス経験論と︑モラル・フィロソフィ体系の歴史のなかでみられなくてはならない︒わたしたちが︑﹃講  

義﹄をみる重要な観点ほこの﹁性向﹂が﹁歴史﹂のなかで論証されつつ︑非歴史的スタートがスミスでほ﹁歴史﹂をうみ  

だし︑事実上はほじめのぶタートをぬでいさる過程への洞察である︒この観点は小稿をつらぬくあかい糸である︒   

論点第こ 初期のス︑︑︑スが文明史をもぐろんでいたことについてほ︑チデインパラ時代︵もしくはグラースゴク  

︵44︶  時代︶の講義をきいた︑︑︑ラーが次のようにかいている.︒﹁わたしはこの有名な哲学者︵ス︑︑︑ス︶に対してかんじて  

いる恩恵をよろこんで表明する︒わたしは若いころにかれの市民社会史︵tbeHistOry OfCi墓S邑ety︶にかんす  

る講義をきき︑このもんだいについてのかれめ隔意のない談話をきくという利益にめぐまれたのであった︒偉大な  

モンテスキューがこの道を示したが︑かれほ哲学の部門におけるベイコンであり︑ス︑︑︑ス博士はニュートンであっ  

︵45︶  た﹂と︒ス︑︑︑スほ晩年の山七八五年一山月山日附ロシュブコー宛書簡においては ︷.Pbi−0∽Ophica−HistOry Of a−1  

t訂 different branc訂s Of Literat焉e−Of PFilOSOphy︸ P籍try andE−Oq完nCe; と..TheOry andロstOry  

OfLaw呂dGO亮一nme邑;にかんする二つの大著をかきたいが︑﹂資料はあつまっているものの−﹁老年﹂のた  

︵48︶  め︑これを完成することができるかどうかわからないと悲しんでいる︒だから︑このことほ要する・にわたしはあま′  

︵五〇七︶ 四九   初期のスミス ︶  

(18)

第三十劇巻 第五号  ︵五〇八︶ 五〇  

︵17︶  りもんだいにならないとおもう︒ところで前単の論及ほ当をえているとおもわれるが︑そして後単のキャナン批判  

もいくぶん妥当な発言ともおもわれるが︑﹁形而上学的基礎﹂ほ﹃講義﹄において﹁便宜﹂の領域での︑またほ法  

の歴史での経験鱒・歴史的論証をうけるとわたルほはみたい1日然法と歴史的方法ほたしかに窮極において一ケの  ヽヽヽヽ  アンチノべーではあるが︑ス︑︑︑スはそれをイギリス寝顔論のギリギリのラインで追求したのである︒法則定立的方  

法と歴史的方法をあれかこれかの択一でもんだいとするのでは︑ス︑︑︑スに対する同感から︑距離をたもつことにな  

ろう︒それこそ︑﹁功利主義的・実用的見地をとるもので﹂︑﹁文献史への透視﹂に欠けるものである︒ハスバッ  

ハのこういう論法はスミスの論理構造に暗いもののなす理解であろう︒スミスほそのスタートにおいて道徳哲学者  

であったが︑終点においてもそうであった︒自利心は経済学として︑同感は法学として結晶し︑法︵学︶は経済︵学︶  

の枠を支えるものである︒便宜は正義によって維持される︒けれども同時に︑正義は便宜によって実体化され︑内  

、  

︵48︶ 美化される︵1経済学の独立︶︒かれの自然法は抽象的なそれであることをこえて︑歴史的過程で論証をうける︒﹃講  

義﹄はそういう意味で︑かれにおける歴史であった︒実はそれほ晩年においてかれ白身の手で果されるはずのもので  

︵49︶  あったのだろう︒自然法はかれの法学や経済学を理論化すべき必須の哲学であった︒法則定立への志向を支えたの  

が︑自然法である︒﹃講義﹄ではいわば法史が経済史を外側から確保し︑経済史が法史を内実化して行く歴史的過  

程を示す︒︑︑︑ラーの伝える﹃講義﹄の内容ほこのように理解しなければ読解不能になろう︒   

論点夢二 右のこととかんれんするのだが︑経済的自由の自然法の欠除についても同じことがいえる︒ことば  

の落穂拾いになって恐縮であるが︑﹃講義﹄四五ぺージには㌔ratiOna−systemO=iberty︒ということばがみい  

だされる︒それはイギリスではいわば租税国家がうまれているから︑議会による財政管理がうまくおこなわれ︑国  

民の習癖ほおかされることが潅いという文章の終末にあり︑﹁このようにして自由の合理的体系︵ないし秩序王   

(19)

引用者︸がブリテンにもたらされた﹂とある︒そして﹁下院以外においては金銭法案昧提出されえないから︑はと  

んど下院議員がすべての国務を処理するこ七になる︒ことに適当に制限された嘩々の政治形態の幸福な混和があり︑  

自由と財産に対する完全な保摩がある﹂とス︑︑︑スはいう︒これは﹃諸国民の富﹄第四篇第九葦終末釘﹁要するに奨  

励もしくは抑制をもくろむ主義が⁝⁝完全に排除されるならば︑明白にしてかんたんな自然的自由の仕系︵00yStem  

Ofnaturaiberty︶がおのづから確立する﹂以下の含意に相応することほ︑それこそ﹁明白にしてかんたんな﹂事  

柄でほないであろうか︵むろん︑ここで後期重商主義への批判意識がつよいから︑一七世紀に鎗立された ﹁合理的  

体系﹂と﹁自然的体系﹂とは同じものではない︒しかし同仙の思想的地盤にたつ︶︒後期歴史学派のハスバッハほ  

﹃講義﹄を歴史主義的産物として評価するあまり︑こういうスミスの論法をみあやまり︑﹁功利主義的・実用的見  

地﹂にたたざるをえなくなる︒ス︑︑︑スにおいて﹁歴史﹂と﹁理論﹂は分離されえない︒さらにス︑︑︑スがフィジオク  

ラットの自然法からカーディナルな影響をうけたことはもんだい自体が複雑でほあるけれども︑ハス.ハッハのよう  

に機械的には論断できないであろう︒なぜなら︑ス︑︑︑云とエコノミストたちの自然法とはおおくの相違がある︒と  

くにケネーの自然法との相違は自然権の有無をめぐる論究があるし︑ハスバッハ自身︑他の著作においてその相苺  

に論究しているからである︒Lの点についてほ論点第六においてふれよう︒   

論点第四  わたしはハスバッハに問いたいのであるが︑﹃講義﹄の第一部正義篇は一体︑何を意味するのであ 

ろうか︒その正義論は﹃諸国戌の富﹄での正義論の︑まさに包括的叙述ではないであろうか︒国家起源論および  

︵50︶ 闇国防 ㈲司法 畑公共土木事業の三は未整露のかたちでほあもが︑すでに﹃講義﹄にみいだせるとおもわれる︒  

わたしはすでに︑一七四九年の﹁不変の主題﹂での㌔dministrati昌Of justiceぺ−が.﹃講義﹄の第一部であちうこ  

︵81︶  とにふれたが︑このことばほ︑﹃講義﹄第﹂部にもみられるのである︒▲それは三一ぺー汐において ミA㌢ilitar叫  

初期のス︑︑︑ス ︵一︶  ︵五〇九︶ 憲二   

(20)

︵五一〇︶ 五二  第三十山巻 第正号  

︵52︶  gOくernmental−OWSthestrictestadmi2.StratiOヨOf j宏tice;とある︒このばあい﹁軍事的政府﹂ほ ﹁皇帝﹂との  

対立概念であり︑アジアの﹁軍事的政府﹂とは異質の︑﹁低級な官吏﹂のきまぐれや下級役人の裁判権を制する相  

対的には非圧制的な政府なのゼある︒それは︑﹁正規の法制﹂︵reg已ars登emOaws︶/なのだ︒﹁不変の主題﹂に   

おいてほ.へthe strictest︒が︒a tO−erab−e administrati昌Of justice㍉と形容詞がおだやかになっていることも︑   

ス︑︑三の意図をシンボライズしていておもしろい︒︒principesOごustice;のこと瀬も﹁姦通﹂を論ずるさいに︑  

正否の判定につかわれる︒つまり︑︑ここでも︑畢発するに正義にかんする﹁歴史﹂と﹁理論﹂の統㌦︑﹃講儀﹄に   

おける歴史過程にみる正義の展開過程の論述をハスノバッハほきづかない︒﹃講義﹄常山部は正義と自由との相かト  

かんけいにおいて︑自由は正儀叱よって︑客観的な法によってこそ︑保障されるこ七︵﹁イングランドの法律はいつ  

︵84︶   ︵∽︶      も自由の友である﹂︑﹁ヨーロッパの他のいかなる国にあっても︑イングランドはど法律が正確なところはない﹂︶   

を︑なんどもくりかえすように経済史を軸として歴史のなかで論証することにあった︒   

のみならず︑ポリース論においても︑ス︑︑\スの要請する﹁法と政府﹂の性格は正義論の拡充でしかない︒たとえ   

ば﹁法と政府﹂は﹁自己の財産を増殖した個人がその果実を安んじて革受しうるように保護する﹂ ﹁以外に目的は  

︵68︶   ︵65︶  ない﹂といったり︑蓄積論での﹁政府﹂の強調をみよ句総じてポリース論に正義の体現者である国家を︑論定しょう   

とする経済学がな小とすれば︑スミスの論述の基調はかんぜんにみうしなわれるといっても過言でほあるまい︒   

論点第五 

ろうか︒そぞ﹂とは先づ︑﹃講義﹄が上乗︑わたしが関説したように︑﹁理論﹂をうちにほらんだ.﹁歴庚﹂論であ   

ることによ牒疑問の余地がある七いうこと︑次にフィジィオクラシーの影響であるとすれば︑それはだれであるか   

というもんだいがある︵このヱ之は論点第六でふれてみたい︶︒ところで︑土地私有起源論であるが︑わたしほ﹃講   

(21)

義﹄が法学であることを第一に指摘しなけれ.ほならなかや冊いゎば人﹃講義﹄■㌧は社会め経済的把握をめざすのでほな  

くて1・とくに質二部1︑国家や駄治の原理の探究である︒そのはあい︑スミスの社会理論・法理論が前面にう  

かぶであろう◇そして﹃諸国民′の富﹄における︑例の国家によ.る所有権の認定を想起していただきたいが︑所有権  

ほ決して自利心のみによるのでほなく︑その自利心の社会的同感によって生じたことも周知のことであろう︒わた  

しはこの意味での所有権論がここに強調されたとみる︒さらにいえば︑ここに﹁分割﹂とか﹁割りあて﹂というこ  

とばに注目したい︒スミスによれぼ社会はその初期において土地共有を凰則とし︑生産力とそれに照応する社会の  

尭展ほその分割を実施した︒それが土地および労働の分割=分業の発展で計った︒分業は分割が基底になった︒つ  

初期のヌ︑︑︑ス ︵一︶   まり分業ば私的所有と同義でもあった︒これほスミスの社会・歴史理論がロックなどより︑すすんでいたことを示  す︒ロックにあってほ社会の﹁自然状態﹂︼そのものがおおかれ少なかれ私的所有であり︑﹁政治的社会﹂償おいて  

︵即︶  それを﹁社会契約﹂によって容認しょう︵逆説徽にいえぼ︑スミス=分割の阻理︑ロック=結合の論理︶という啓  ヽヽヽヽ  蒙史観の屏型を如実に示すが︑﹁原契約﹂を否定するス︑︑︑スは啓蒙史観のギリギグの発展=極致を明示するのである︒  

また︑ロγクにおいてすら﹁原契約﹂による所有権の認定が実はある︒ス︑\︑スがロックにたちかえるということは  

スミスのロック化であって︑自明のことでほない︒そのうえ︑スミスとロックの労働による所有というカテゴリほ  

披経である︒労働という財産・所有権と労働による財産・所有権を︑前者ほス︑︑︑スに︑後者をロックに属するもの  

︵班︶  

とする意見むある︒もしそうだとすれば︑ハスバッハの鬼解は根本かちくつがえる︒わたしほかならずしもこの意  

見に同窓ほできないけれども︑スミスとロックの相違を究明するとすれは︑この意見はおおくの・おしえるものをも  

ぅでい 

︵1︶ H・M・ロバートスy紅ついては水田洋rアダムースミス研究入門=二ハ四ページ以下をみよ︒そこではロ.ハートスンの次  

︵五一こ 五三   

(22)

︵五一二︶ 五四   第三十一巻 第五骨  

の論作が批判をうける㌧芦M・RObeまOn⁚ 

采蓋箋賢軋邑ぎq莞詳芦 ゝへヽ泳ぎ箋〜亀篭§尋ざ鴫ヽb邑託h紆ぎミ.Cambridge U−P●一−¢∽ひ  

︵2︶ ハスバッハの全般については前掲の水田洋﹃アダム・スミス研究入門し二四四ぺージ︑および︑さいしょの著書の邦訳で   

ある山下芳劇訳﹃古典経済学の哲学的背景しなどをみよバわたしは別稿でハスバッハの全般を検討する予定である︒  

︵3︶ W−巳FsbacF︒Adam Smit鷲∽訂ct亡reS昌Justice−PO詳e● Re諾nue a已 Arms;首⁚Lざ染野已∽試筆完の慧已箪ぎ   

く已.呂﹁写PP−怒♪p.浣か   

︵4︶ 旨置−p.畏A   

︵5︶ 旨鞋−pp.偶澄−ひ   

︵6︶ 旨註.一pp.震ぃ−の   

A7︶ 旨叫㌣pp.雷のー↓ ハスバッハはテナンツープロプライアクーズをr諸国民の富Jでは確信をもって主張しなかったけれど   

も︑コティッジャーズと小士地保有者の数の減少を﹁ヨーロッパ各地の進歩と︹よりすぐれた︺耕作の直接の先駆者であっ   

た一つのできどと﹂とみなすアーサト・ヤングなどと同じ見解をとり︑﹁土地独占﹂に対する資任をとったという︒なお︑   

︻諸国民の富Lでほbetter・C昌仙邑iOnとあるが︵司い鼠声ざLH∵p.NN菩 ハスバッハは一首tterをおとしている︒  

︵8︶ 旨叫㌣PP.歪↓−00  

︵9︶ きぎpp.霊的Ⅰり  

︵10︶ 鼻声.pp.妥¢−笠  

︿11︶ 菱戸p.悪0  

ハ12︶′崇㌢p●の苫  

︵謂︶一崇㌣p・雷−ロックの土地私有起源論についてはJ︒ぎどc訂● 3〜紆c邑 守認許Q亀G慧旨彗星●−か芦︵F02日   

(23)

B00ks︶︐−¢紹もp・−也−g松浦寮一決云政治論﹄二五九ぺー汐︒  

︵14︶ 旨計㍗p・亀Nホップズとスミスの自然法をめぐるかんけいについては水田洋﹃近代人の形成し︑グローチタス紅ついてほ   

浜林正夫﹁グローチクスの自然法概念﹂︵二楕論澄二六巻四号︶︑ハリソトンについては同†イギリス革命期の経済思想α   

−ジェームズ・ハリソトンー﹂︵﹃商学討究し九巻山号︶︑同﹁ハリソトンとイギリス革命﹂︵﹁歴史学研究−二〇二号︶を︑それ   

ぞれみよ︒なお︑ハリソトンについてはR・L・Mee貯∴.T訂ScOttisbcOntrib象溜tO Ma邑stsOCiO−Ogy;in⁝b§買⊇C七   

会軋旨屯卜乱盲ヽ菖睾§§︑︒u ︵JOFnSa基︼eed●︶p●彗にも︑プープエンドルフについては︑粗ざつをまぬかれないがハス   

バッハの︑山下芳一訳﹃古典経済学の哲学的背盈−二四ページ以下紅ふれられて小る︒︵補注︶小文校正中紅水田洋編﹃イ   

ギリス革命⊆思想史的研究t−辻が出版された︒第六童ぬ田中浩民の﹁ホップズとハリソトン﹂と題する研究がある︒   

︵15︶ 旨叫㌢p・悪N  

︵16︶ 崇㌣pp・雷N−い  

︵17︶ 旨叫㌣pp.悪∽1#   

︵柑︶ 旨叫㌣p・昌一   

︵19︶ 由計㍗p︐屋料−∽   

︵20︶ 旨註・u p・悪∽  

︵21︶・崇㌣pp●$∽卜か  

︵22︶ これはおそらくLぎbか冥cO−as出audeaヂ孟眉licatiOコd仁Tablea仁かcOnOmiq莞酔Madamede葦*︺√ 旬す訟qへ⊇訂わ↓   

監.parE亡gかneDaire︸Ne partieであろう︒ボードオの﹁経済表解説﹄の意義については坂田太郎﹁﹃経済表﹄とマルク   

ス﹂二経済研究﹄九巻四号︶三一七ぺー㌢以下︑Jacq仁e−iヨe軍票宣﹁ ▲声e Tab訂a仁eCOnOmiq房⁚SapきーicatiOローSOn   

i已e琶et計On.SOニ墓琵nCe︒︵﹃経済研究﹄九巻四号︶三四二ページをみょ︒  

初期のス︑︑︑ス 二︶  ︵有三︶ 五五   

(24)

︵至望 五六  

第三十一巻罪五官  

︵讐蛍㌣pp・雲上ついでながらキールのハスバッハの原文はドイツ語ではなくイギリス語であるが︑ケネーやボードオな  

どの文言′はフランス語のままの引用である︒  

︵2年︶ 旨ぎここ儀   

︵25︶ 旨叫㌢p・の彗   

︷26︶ 恕叫㌢p・雷↓   

︵27︶ 旨叫㌣す$00  

八讐内田義彦還済学の生璽はスミスと︑とくにルソーとの対比において︑英仏両恩憩の同次性をあきらかにしたが︑フィ   

ジイオクラレーとス︑︑︑スとの思想史的・全社金利学的かんけいほテーマからはずしている︒水田洋﹃アダム・ス︑︑\ス研究入   

門﹂はこの点でもっとも包括的な視角と材料を示しているが︑鋭い直観と指摘の範囲をでない︒しかし︑このテーマは︑お  

そらく両氏の今ごの研究によって発展されるぺき性質のものである︒  

︵讐ケオー賢いては経済表のたんなる分析をこえて思想史的かんれんがもんだいとされなくてはならない︒それが∵七五八   

年にヴェルサイユ王宮で印刷されてから二〇〇年という今年も︑本国フランスや日本において記念行事がはなやかにおこな   匿  われるのだが︑経済表の数字を追求することにうきみをやつしていると︑﹁歴史﹂の中のケネー鱒みえなくなるのでほなかろ   

うか︒ここに﹁歴史﹂というのほ﹁基盤﹂のみでほなくて︑﹁人間﹂の﹁歴史﹂である︒全歴史のドラマ=考へラの中での   

ス︑︑︑スとケネーの独唱や︑二重唱ほ未だ紅あきらかで・はない︒さいきんの考クエストたちがケネーをレオシチュフ体系の先  

叩 躯者として︑あるいは社会会計の論拠として注視したり︑喜本論﹄体系から再生産表式をぬきだしてそれを論ずるのは︑   

クネ﹂やマルク妄経済家の形式性のみにおいてとりあつかい︑それを高く評価するものである︒そういう点をわたしは室  

根しないわけではないが︑間隙にわれわれは数学的パズルとボナンザグラムにおちいる危険がそこにあるとおもう︒   

両人の自然法のかんれん匿ついてはれ田津︑﹃近代人の形成﹄前篇第玉章︑前掲のハスバッハの山下芳一訳﹃古典経済学の   

(25)

哲学的背景︼︑平田清明﹁ケェネ一における動物生理学と政治経済学﹂ 二二橋論叢﹄二六巷四号︶をみよ︒  

︵讐チぷ・ゴーがその師ケネ1′の太陽にかき消されたいわば小ざな星転なっているのは︑ほなほだ残念であるが︑かれがスミ   

スとのかんけいにおいて重視されなくてはならず︑.フランス経済学史の上で︑ノ大きな星であることもうたがいない︒ス︑︑︑ス   

とチエルゴーのかんけい軋ついては前出の水田洋﹃アダム・ス︑︑\ス研究入門﹄算四費4︑C・R・Fay∵ゝ瓢誉芯り垂藍丁急患ご茅   

野ミ§軋Qヽ賢哲yこ訝のーCFapte:−.Smi声丁邑○宏ea已TurgOtチエルゴー自身については島恭彦r近世租税思   

想史﹄︑津田内匠﹁→眉叫○−の経済思想についてム二考察﹂ 二経済研究﹄九巻四号︶を︑それぞれみよ︒さいどのものは   

チ∴㌻ルゴー紅かんする力作であって︑こういう研究がスミスとのかんけいをも明るみ虹する素地をあたえるの・である︒  

品︶ ﹁足跡﹂紅ついてほ手近かなものとして前出の水田氏︑フェイのもの︑F・W・ハーストアダム・ス︑︑︑ス叫︵遊部久蔵   

訳︶肇七茸フランス旅行をみよ︒  

︵讐AdamSmi−Fト邑慧⁝ミ註へ♪空ぎ知箪⁝⁝邑ゝ1蓋・﹀Canヨa〇ed・こ芸事警︵これ略は高島蕃哉・水田洋訳   

﹃グラスゴク大学講義﹄の邦訳があるが︑同書に原攣へージの記載があるので︑ここでほ邦訳の′ぺージはとくに記さないこ   

とにした︒︶  

︵33︶ 崇札・.p⁚誤  

●︵34︶ 旨叫㌣pp・浣−可   

︷35︶ 旨叫㌣p・讐  

︵36︶崇㌢ 

︵37︶ 意李p・諾  

︵讐この点は︑一方において︑スミスの国家起源論を愚息味する︒スミス忙よれは私有と財産の不平等が国家を発生せしめ   

る︒プロパティが存在しないときほ政府というものはありえない1 政府の目的は富者を貧者からまもることにある︒と同   

︵五一五︶ 五七   初期のス′ミス ︵二  

(26)

︵五一六︶ 五八  窮三†一巻 第五骨  

時に︑これが生産力の発展の結果であることも明白である︒しかし︑だからといってかれほ社会を逆行させようとはしな  

かった︒かれ放生産力の立場にあくまで立ちながら︑胤会や歴史を考察する︒スミスの偉大さほそこ紅あった︒ス︑\︑スが  

人∂arbarO宏ごとか.︷2de;とか三呂Cultiくatedミとか︑そういった形容でよぷ社会は︑﹁財産の不平等﹂もなく︑﹁政府も  

なく﹂︑﹁全体の同意﹂によって社会はうどき︑人間は﹁自然の法﹂︵t訂訂宅S Of nat宍e︶ によって生活する︒︵C㍗崇㌣  

p●−研︶kもかかわらず︑かれほその社会を人類の希望としたのではなく︑むしろ市民社会︵これほ古代以ごのすぺての社会︶  

の歴史的発展を生産力の発展とみた︒︵Cf・崇㌣pp・−の⊥ゴpp・−↓−㍍ゴpp・NNNl∽空しかも同時幣かれの独立生産者  

的思惟は.﹁未開社会﹂の労働による所有︵とくに先占︶を指摘しっつ︑古代および封建の︑所有軋よる所有の︑非生産力的  

性格を批判し︑北アメリカを歴史の起点紅おく︒︵崇㌣p﹂少p●岩00.p.NNの.pp−NNN−笠︶つまり︑かれによれば﹁未開社  

会﹂は全体として文字どおり︑未開であり︑野蛮であり︑粗野であるが︑同時紅前期的社会批判のために︑正面におどりでる  

ばあいもある︒﹁未開社会﹂は基本的には︑かかる二重構造をもつが︑重要なことほ︑後者の意味はきわめて稀薄であって  

かれにおいて﹁未開社会﹂は理想社会でほ決してない︒これ紅対応して︑かれの自然法もいまも引用したように﹁未開社会﹂  

紅作用するかのようであるが︑そこでは﹁強奪﹂と﹁戦争﹂︵旨叫㌣p.NN㌣p.NびN︶それに商業精神の ﹁蔑視﹂︵崇㌣N㌶︶  

があり︑﹁誠実﹂とパンクチふアリタィ︵崇㌣p●心研βがない︒\要するに自然法ほいつやぶられるかわからない︒かれほ自然  

法すらも古代・封建の実定法に歪曲されながら︑自己を貫徹するのであって︑それは社会の経過とともに自己を開花する︒  

二重の塵商主義批判を使命とするかれの自然法も︑このような歴史的妃みられた自然法を土台とするのであるから︑あやま  

ってたん紅非歴史的自然法をかれのものだとするなら︑とんだこセ紅なるであろう︒ついでにかけば︑かれのいわゆる﹁先  

行的蓄積﹂も二重の構造をもち︑舌代初期の所有の確立と︑封建の末期の独立生産者11産業資本琴の蓄積が二重うつしにな   ■  

ったものである︒﹃諸国民の富︼の価値論および蓄積論における出発点としての・蕾r首a訂r已esta−eOf筈Ciety︒︵司 

ミ昇can雇ned.−ぎ1.H一p.声Cf.p.N諾︵2de詮teOfsOCiety︶︶は﹁未開社会﹂と﹁独立生産者﹂の完全なかさ   

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