「内的宇宙」を共振させる「自己教育」の離陸 −
「教育宇宙学」創生試論−
著者 岡本 定男
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 59
号 1
ページ 1‑20
発行年 2010‑11‑30
その他のタイトル A Takeoff of Self Education in order to shake Inner Cosmos together −Original Trial Theory about Research about
educational Cosmos −
URL http://hdl.handle.net/10105/4714
「内的宇宙」を共振させる「自己教育」の離陸
-「教育宇宙学」創生試論-
岡 本 定 男 奈良教育大学学校教育講座(教育学)
(平成22年 5 月 6 日受理)
A Takeoff of “Self Education” in order to shake
“Inner Cosmos” together
— Original Trial Theory about
“Research about educational Cosmos”
OKAMOTO Sadao
(Department of School Education, Nara University of Education, Nara 630-8528, Japan) (Received May 6, 2010)
Abstract
I have doubts about the educational theory and discussion for a long time. They are intensive discussing about children, youth, and so on naturally. Their concerns are only the educational problems within human race. They consider about other’s education popularly.
Animals and plants are regarded as needless education. But I intend to argue that the human race is only one existence on the earth. Human race is one of the existence of education on demand. The many results about space science and investigation of human race up to now tell us that intelligent existence except human race perhaps live in the earth or the universe.
I intensively insist that we needs to more cares concerning ourselves education.
We have all our own thinkings and worlds (“inner cosmos”) generally. I have continued many kinds of educational practical movements after my student days. I especially have organized inspiring student’s intelligent methodological study mind in my long professor life. At last I established a society with “Research about educational Cosmos” about 2 years ago.
I intend to insist my original trial theory with “Research about educational Cosmos” in this paper.
This theory is the results of my counter thinkings against popular doctorines about education until now. But I must to mention that my original this theory with “Research about educational Cosmos”
depend on its base concept of Harold Saxton Burr’s(1889-1973) “Life-Field”.
Key Words:“Inner Cosmos”,
“Self Education”,
“Life-Field”,
“Research about educational Cosmos”
キ−ワ−ド:「内的宇宙」、
「自己教育」、
「生命場」、
「教育宇宙学」
1.はじめに
本年度をもって、筆者は、合計₂₃年半に亘っての「社 会的労働」に一区切りをつける「定年」を迎える。国立
大学(法人)に正規に就職する機会を得たのは、旧暦的 な人生暦で言えば、既に「初老」にあたる満41歳という 遅咲きの就職であった。この職が未決であった頃、故郷 の母校(小学校)同窓会かPTAだったかから、「母校創
立○○周年記念・寄付のお願い」というような封書を受 取った。その冒頭の言葉が「初老、おめでとうございま す。」であった。その時、改めて、「職も得ないうちに、
初老か…」と暗澹たる気分と軽いショックを覚えたこと が、改めて記憶に蘇る。
2010年春、1990年代半ばの「就職氷河期」を上回る
「超氷河期」と言われる今日、大学を出ても職を得られ ない若者が、相当数に上り、その一方で、ミスマッチを 主因とする就職後数年での退職者も顕著な割合で推移し
ている。( 1 )「年功序列」「満期退職」という1980年代頃
まで続いたと思われる就業意識は、21世紀に入って大き く崩れ、「フリーター」や「派遣」といった不定期雇用 が常態化している世相でもある。
人は、産まれる時、国、家族を選べないし、社会に出 る時の雇用環境も選べず、左右権を主導もできない。そ の状況に押し出されて、その時その時の決断によって動 かされ、流された潮を読む。その「読み」が、外れるこ とが多々ある中で、とにもかくにも漕ぎだした小舟が、
転覆しないように必死で櫓を操る。時には、小舟から投 げ出され、荒海・大海に飲まれることもある。あえて言 えば、長い人生の行程は、長短期の潮の目を読む漁師の 目を試されることの連続と言えるかもしれない。船を動 かしているのは、現象的には、自身の体力・筋力である はずなのに、その小舟が、本当に自身の達するべき港
(陸)に着けるかどうかを決するのは、波・海・天候と いった自身や人間の手に負えない超自然的力の織りなす 偶然そのものに過ぎない。科学やテクノロジーが秒進分 歩の勢いで「更新」される現実の中でも、本質的には、
一瞬先の事態を読み切ることもままならない。いや、む しろ、科学やテクノの更新は、それと反比例して、生身 の人間を弱化・麻痺させ、先の小舟の譬えで言えば、櫓 の空回りを惹起していると言えるかもしれない。
世に「教育」や「医療」や「福祉」や「環境」や、と いったますます関心を集め重要さを増す問題や領域があ り、それぞれに膨大な情報や知識の「専門的」蓄積はあ るはずなのに、マクロ・ヒストリカルに俯瞰して、その 本来の根源的機能や役割は、果してどれ程に「進歩」「進 化」していると言いうるのであろうか?
筆者が、ささやかに言を立て得る問題領域は、わずか に「教育」に限られるとしても、果たして、現下の「教 育」なるものは、着実に真っ当な成果を上げ得ているの であろうか?( 2 )
他ならぬ筆者自身が、23年半の長きに亘って国税と学 費を食んで大学の研究室を占め、教壇を踏み続けながら、
筆者の現時点の到達点、それは、大方の、或いはこれま での 「教育」は、真に教育たり得ているのか?という疑 問である。改めて、このことを問わなければならない。
その場合、少なくとも根底的に問題とすべきことの一つ
は、他ならぬ「教育」の前提についてである。
教育は、さまざまに定義されうるとしても、大方の「教 育」の大前提は、
・人間は、教育を必要とする唯一の被造物である。( 3 ) 即ち、「教育は人間社会に固有な営み」( 4 )
・教育は、他者に対する価値的善的な変容行為である。( 5 ) と言って良い。
確かに、「教育」領域に、生涯教育概念やシステムが 登場して半世紀近く、「教育」対象や期間が、従来の子 ども乃至若者に限らない、文字通り、全世代の人間を対 象とした「生涯」を通しての成長発達を意味する、とい う通念も一定浸透はした。ただ、この場合も、「教育」
対象や期間の拡大を意味したに過ぎず、先の「大前提」
自体は、いささかも変化していない。
一方、「社員教育」「新人教育」「実地教育」「学校教育」
「理科教育」などといった「~教育」という、「教育」
概念の様々な応用も無数に用いられている。
そして、その際にも、先の「大前提」は、不変である。
しかしながら、長年の教育実践を通して、筆者は、こ うした「教育」前提や一般的定義・通念に対して多大な る疑問を抱くに至っている。その疑問は、少なくとも5 つある。
(ⅰ) 全ての専門的乃至通念的「教育」が、成長過程
にある全て「人間」を対象にしていること、
(ⅱ) 「教育」によって伸ばすべき内容が、「才能」や
「技能」といった明示的で計測可能なものに限定 されていること、
(ⅲ) さらに、「教育」で働きかける対象が、「子ども」
や「若者」や「社員」といった直接的対象に限ら れていること、
(ⅳ) 全ての「教育」は、長期ないし持続的働きかけ を為したもののみを扱っていること、
(ⅴ) 「教育」の主体が、直接・間接を問わず、常に「他
者」に向けられていること、
である。
これらの通念的大前提に対して、筆者は、一貫しての 違和感を覚え、その超克的創造の必要を感じ続けて来た。
例えば、(ⅰ)成長過程にある人間のみを対象とする
「教育」の通念的あり方に対して、成長を止められた、
或いは成長を阻害された人間に対し有効な「教育」は、
あり得るし、あるべきである。こう言うと、すぐに、通 念的「教育」にも、「特別支援教育」や「療育」といっ た関連領域が既にある、という反論が予想される。しか し、その場合、いずれも、何らかのハンディを負った人 に対する価値的善的な変容行為を称しているのであって、
緩やかな成長中断や成長阻害、それも、万人に不可避な それ、例えば、不可避的な老化や加齢に対しては、適応 されない。
加えて、果たして、「教育」は、人間以外の者に対し ては該当しないものなのであろうか? 現に、家畜やペ ットや猿・オットセイ等に芸を仕込むという、人間にと っての価値的善的な変容行為は、「教育」とは呼ばず、
「~使い」とか「~回し」「~飼い」といった把握をさ れる。しかし、人間以外で高度な認知能力を保有してい る者(ゴリラ、チンパンジー、オランウータンなどの類 人猿)や存在する可能性が高い地球外知的生命体(ET とかいわゆる「宇宙人」など)に対して、果たして「教 育」は、成り立たないのであろうか?
続いて、先の(ⅱ)に対しては、現状でも、「情操教 育」とか「道徳教育」といった「明示的で計測可能なも の」とは言い難い内容のものにも「教育」は、使われて はいる。その場合でも、「豊かな」とか「高度でしなや かな」といった価値的善的な変容行為としての「教育」
であって、あいまいで計測困難乃至計測不能な対象、例 えば、真実を語らない虚偽的でヌエ的乃至変幻自在な相 手、決して胸の内を明かさない者に対して、「教育」は、
その働きかけを実質的に放棄している。
さらに、疑問の(ⅲ)に対しては、教育対象に、もっ と「間接的」対象や無縁と思える、或いは想定外の対象 に対する影響・効果を目指し視野に入れた「教育」把握 が、あっていいのではないか、と痛感している。
(ⅳ)についての疑問は、学校を初めとしたあらゆる
「生涯教育企画」は、殆ど全てにおいて、そこでの「教 育」を享受するに際して、各種の「資格審査」「試験」「手 続き」「継続」「積み重ね」「終(修)了証」など、継続 的長期の「履修」や「習得」を前提としており、 1 回き り乃至その時限りや「行きずりの」価値的善的な変容行 為としての「教育」は、視野に入っていない。そのよう なもののみが「教育」であるというのは、まさに「教育」
が「進化」を捨象した結果、元来なし得るはずの「進化」
を遂げ得ない何よりもの証左ではないのか。
最後の項目(ⅴ)に対しては、極めて強い疑問を覚え てやまない。筆者の把握し到達している「教育」は、「他 者」を超え、或いは「他者」を介しての「自己教育」に あり、それこそが、「教育」の高みであり、作用である、
と確信している。
さて、こうした筆者の積年の根源的疑問や批判を背景 に、23年間に亘って思考し、実践し、実験的に創造して きた教育的到達点、それが、筆者創生になる「教育宇宙 学」の開鑿である。
本稿は、これら年来現行の専門的通念的「教育」に対 する疑問・批判の理論的帰結としての「教育宇宙学」創 設に至る、筆者の具体的実践的内包と外延をドキュメン トし、従来の「教育」概念を超克するための試論的序説 である。
2.「教育宇宙学」の胚胎と「日本教育宇宙学会」
2.1.専門的通念的「教育(学)」への疑問と「日本 教育宇宙学会 設立趣意書」
前項に列挙した筆者の既成教育に対する根底的疑問は、
現在のところ、その殆ど全てにおいて、公的な形では、
疑問にすらなり得ていない。その一因は、これも先に言 及した「大前提」のうちの前者=「教育は人間社会に固 有な営み」という把握にあるものとみられる。この前提 は、人間のみを高度な知的文明的存在と把握していると ころにあるが、これには理論的実態的にも無理がある。
と言うのも、こうした把握における「人間」とは、「現 生人類」(ホモ・サピエンス)のことを指すが、現段階 における人類史的解明は、未だ端緒についたばかりと見 做して良く、「現生人類」以外のルーツをもつ「人間」
(史)解明などは、殆どが、科学的解明の初発段階に過 ぎない。
例えば、「現生人類」とは別の系統を辿ったとみなさ れる「ホモ・フロレシエンシス(フローレス原人)」等 に関する実態などは、その存在が知られているのみで、
まだ殆ど何も明らかになっていない。( 6 )
さらには、「ゴリラ」「チンパンジー」「オランウータ ン」など類人猿には、はたして「教育」定義の「大前提」
たる「他者に対する価値的善的な変容行為」などはない、
と言い切れるのであろうか。常識的に考えても、そのよ うな断言には無理があり、「現生人類」たる通常の「人 間」には無い、「価値的善的な変容行為」たる「教育」
が為されている(た)という解明や発見が、今後なされ る可能性は充分にあるだろう。( 7 )
このように専門的通念的「大前提」把握自体に根底的 な無理乃至「教育」(史)研究のある種の低レベル状況 があること、そこに、筆者にとっての積年の「違和感」
の真因がある、と言って良い。筆者の23年間に亘る広義 の教育実践の根底にあった種火乃至根源的課題意識は、
この「違和感」を実践的実験的に「解(ほど)き」、「解
(ほぐ)す」ことにあったと振り返ることもできる。
さて、2007年 2 月22日の真夜中、筆者は、ある種忽然 たる知的興奮に駆られて、こうした「違和感」を凝縮し た文書を記すことになった。これは、そのまま事実上「教 育宇宙学」の学術的実践的探求構築団体たる「日本教育 宇宙学会」の「設立趣意書」となった。その全文は、以 下である。
「人は、日々瞬間々々生きつつ死んでいる。不抜の意 志も決死の覚悟も、この瞬間々々の無量無限の命の死 生運動が生み出すエネルギ-振動の一産物に過ぎない。
これまでの教育に関する専門学的研究は、せいぜい 有史以来の、専ら人間の人間に対する理念・思想・制 度・仕組み・在り方・教授方法などを歴史的比較的方
法によって自己閉鎖的間歇的に扱ってきたに過ぎない。
万物は、万物の運動や大いなる『見えざる手』によ って感嘆措くあたわぬ絶妙精緻なるシュプ-ルを描き、
それ自体完全な姿を体現している。にもかかわらず、
人間だけが、日々の覚醒時にあって、この命の完全性 を生ききれず、個としても類としても宇宙や地球の中 で孤立している。人が有史以来築いてきた文明文化活 動の結果、オゾン層の破壊・氷河融解・熱帯雨林消失・
大陸砂漠化・海面上昇・温暖化等を招来し、今や人間 は、地球存続にとっての末期癌的存在と化しつつある、
と言って良い。
地球環境は、不可逆的壊滅のサイクルに入りつつあ り、この時以降、国を超え、民族、言語、習慣、政治・
経済・宗教体制の違いを超えた人々の英知・探求・実 践・行いの真の糾合なくしてそのサイクルから逃れる ことは不可能である。
地球史におけるこの臨界的転回点に偶然に生を受け、
人間としての意識保持の機会を与えられた人々によっ て、ここに、世界未発の知的探求研鑽エネルギ-・フ ィ-ルドとしての『日本教育宇宙学会』を創設する。」
これが、知的興奮のまま、真夜中に正味 3 時間ほどで 一気に綴った、筆者の積年の違和感の表象的噴出であっ た。
その時の筆者の「興奮」ぶりは、例えば、その日、知 人や教え子に送った以下のような文書にも如実に表れて いる。
「昨晩は、 1 時間半の眠りで、人生においても特筆す べき(知的魂の)興奮のため夜中の 2 時から朝まで文 を書き続けました。
そして、今まで形にならず、バラバラに色んなこと を手がけてきたことを、一つの大きな魂の構築物(ソ ウル・ビルディング?)に一気に築き上げることにし ました。」
「長年に渡って私のなかで発現機会を得るべくまどろ みたゆたってきた構想が、やっと社会的なものへと結 実する気がする。」( 8 )
ところで、この「設立趣意書」には、前項で触れた既 成の専門的通念的「教育(学)」や「学会」一般への具 体的批判・言及はない。しかしこゝには、実質的に、通 念的「教育」に対する根底的批判の萌芽が胚胎している。
それは、「教育は人間社会に固有な営み」と捉える
「教育」把握への明らかなカウンター・セオリーの提起 でもあった。
加えてそれは、単なる「学説」(セオリー)の産物で はなく、筆者の積年の具体的実践的「教育」実践の帰結 であった。
そうしたことを傍証するうえでも、 2 月22日のこの知 的閃きの結実としての「設立趣意書」に触れた一教え子
の以下のような所感を例示しておこう。
「『日本教育宇宙学会』設立の話を受けて私たちは、
日々本体とは違った認識を持つ外部からの歪められた 大量の情報をじっくり吟味することなく未消化のまま、
無意識のうちにまるで自分が作った価値観かのように 振舞い生活している。人間関係においても利害や仕事 関係を超えた心の交流が減り表層化しつつある中で、
社会はさまざまなものを削ぎ落とし管理化されていく 傾向があるように思える。(略)
岡本先生は、心を元気にすることを『魂の励起』だ とおっしゃっていた。まさにこのプロジェクトは『人 間のあたたかさを感じお互いが励ましあい元気になっ ていける場を』、『自分自身そして物事にじっくり向き 合うことのできる場を』、『日常を生きている中で日々 感じている興味関心や研究課題を何でも気軽に語らう ことのできる場を』、歴史や文化財だけではなく、人 間復興を奈良の町から立ち上げていこう、発信してい こうという壮大な試みである。
しかし、それは何も気難しく構えたりするような特 別なことではなく、ただ私たち誰もが持っている胸の 中の『宇宙』を分かち合い、今この瞬間を感じるとい うことのような気がする。この『教育宇宙学会』は、
各人が誰かにとって安心して還ることのできる人とな り母体となることができるきっかけとなるように私は 思う。」(9)
2.2.一般的「教育」「宇宙」把握と「教育宇宙学」
の立場
振り返れば、この「学会」設立のもととなる「教育宇 宙学」という着想乃至提起は、この時(2008年 2 月22日 の朝夜中)に突然閃いたものではない。
そもそも、筆者にとっての「教育」への視角は、子ど もの創造的冒険心や社会性を刺激し拓く、自身の青年期 における広義の文化活動に発している。(₁₀)そうした初 発の関心ルーツは、先に触れた専門的通念的把握におけ る現行「教育」観への批判的疑問に自ずから通じている。
筆者が、ここで新たに規定する「教育」は、学校を初 めとした教育関係者による公的専門的なそれではなく、
人間による価値的善的な変容行為のあらゆるものを対象 としている。即ち、その「教育」対象は、「現生人類」
や人類以外にも敷衍されるまさに「宇宙的」なそれであ る。さらにその内容は、「人間」の知的技術的能力の伸 長に限定されたものではなく、その心的内的能力全体に 効果的に働きかける全てを包含する「教育」である。
即ち、筆者の提起する「教育」は、その対象・内容全 てに亘って、従来の専門的一般的な「教育」規定とは根 本的に異なる。
わけても、その作用・働きかけの「対象」は、子ども・
青年・社会人といった(成長)過渡期の「人間」に限ら ない。人生のあらゆる局面における遭遇・接触対象をカ バーし、その主体は、「現生人類」に限らないあらゆる
「知的生命体」にまで広げられる。従って、いわゆる「地 球外知的生命体」もその教育「対象」にもなり「主体」
にもなる。(₁₁)
筆者が、「日本教育宇宙学会」の「設立趣意書」に認 めた「日々の覚醒時にあって、この命の完全性を生きき れず、個としても類としても宇宙や地球の中で孤立して いる」人間を軸に、知的意識性を保持するとされるあら ゆる存在が、筆者の新規定する「教育」の主体であり客 体ということになる。︵₁₂︶
筆者提唱の「教育宇宙学」で規定する「教育」は、従 って、個人や「知的生命体」(インテリジェント・オー ガニズム)にとっての「価値的善的な変容行為のあらゆ るもの」である。
翻って、従来の「教育」は、余りに「人間」本位の狭 量・独善的性格に貫かれている。例えば、近年の公私と もに喧伝され始めている「ESD」(持続可能教育、また は持続発展教育)などは、一見して、その視点や把握に おける従来「教育」概念の根本的「革新」のように見え る。しかしながら、ここでの「教育」は、あくまでも、「現 生人類」たる今日的人間に限定された概念であり、依然 として、人間による人間のための教育であり、従来の専 門的一般的「教育」把握を一歩も出ていない。
「ESD」(持続可能教育)は、例えば、次のような「目 標」や「基本的な考え方」を示している。
「【目標】
・持続可能な発展のために求められる原則、価値観及 び行動が、あらゆる教育や学びの場に取り込まれる こと
・すべての人が質の高い教育の恩恵を享受すること
・環境、経済、社会の面において持続可能な将来が実 現できるような価値観と行動の変革をもたらすこと」
「ESDの実施には、特に次の 2 つの観点が必要です。
○人格の発達や、自律心、判断力、責任感などの人間 性を育むこと
○他人との関係性、社会との関係性、自然環境との関 係性を認識し、『関わり』、『つながり』を尊重でき る個人を育むこと」︵₁₃︶
いわば、地球規模的視野での国家的教育の新課題とも 言えるこのESDも、その「目標」や「観点」は、あくま でも「現生人類」にとって、その繁栄・発達を支えるた めの「教育」である。つまり、環境や生態系の重視・共 生に視点や視野を移したのみで、その限りにおける「人 間性」や「関係性」の重視に過ぎない、と言える。
このような専門的通念的「教育」観は、このESDに見 るごとく、そのあり方は、今日に至るも強化されこそす
れ変革の兆しは、ほとんど感じられない。
こうした「人間」中心主義は、あくまでも「現生人類」
の延長としての「人間」であるが、この見方は、そのま ま「宇宙」観にも引き移されている。
2008年 5 月、我が国国会で、「宇宙基本法」が制定さ れた。「宇宙基本法」とは、「国の宇宙開発の基本方針を 決めていく法律」であり、「その概要を調べてみるとポ イントは 3 つある。まず、宇宙開発の司令塔、内閣に宇 宙開発戦略本部を置き首相を本部長とする。さらに担当 大臣を作り、宇宙開発の求心力をつくる。 2 つ目に宇宙 産業の活性化。政府系衛星の長期打ち上げ計画をたて、
受注を増やし、宇宙産業を活性化させる。
3 つ目は『安全保障への活用』。自衛隊が一定条件で、
宇宙開発や利用を、軍事に利用することを認めるという 内容。」(₁₄)という。
翻って、一般に「宇宙」とは、三省堂『大辞林』によ れば、以下のように定義されている。
「( 1 )(ア)すべての天体を含む空間の広がり。特に、
地球の大気圏外。
(イ)〔物〕 物質とエネルギーが存在する空間。
( 2 )存在する事物の全体。また、それを包む空間。
天地万物。森羅万象。全世界。
( 3 )〔哲〕 一定の秩序をそなえた世界。コスモス。」︵₁₅︶
先の法律で規定する「宇宙」は、言うまでもなく「現 生人類」を基準にしたそれである。加えて、ここで扱う
「宇宙」は、国家レベルでの「宇宙政策」であり、この 法律は、宇宙産業や宇宙衛星のあり方を規定した初の立 法として、「宇宙」を軍事利用を含む宇宙産業空間とし て把握する、という「宇宙観」を示している。
一方、「教育」に関わる「宇宙」に関しては、例えば、
2007年 4 月、ソフトバンクグループの「日本サイバー教 育研究所」は、インターネットによる通信制大学( 4 年 制)を開校した。その初代学長吉村作治の大学構想と関 わって、以下のような方向が伝えられている。
「吉村氏は、『既存の大学にはない学部を作りたい』
と語る。たとえば日本語だけを教えるのではなく、日 本の文化や歴史、現状を教える『日本学』や地球物理 学ではなく、宇宙から人間を考えるという『宇宙学部』
などを設立したいという。一方で、学部新設の課題と して『良い教員を集められるか、良いコンテンツを提 供できるかということがある』とした。」︵₁₆︶
ここには、先のESDや「宇宙基本法」に見られるよう な専ら「現生人類」中心の狭隘な「宇宙」把握を一歩踏 み出る構想を伺うこともできる。「現生人類」や地球人 から見た「宇宙」のみでなく、「宇宙から人間を考える という『宇宙学部』」構想は、今後、既成の(大学)教 育観にも一定の影響を与えるかもしれない。
しかしながら、一般的「宇宙」把握自体が、依然とし
て「現生人類」乃至「地球人」中心に偏在している状況 に変わりはない。即ち、先に指摘した現行「教育」把握 の跛行性は、「宇宙」把握においても概ね同様であり、
「宇宙」をあくまでも、人間や現実国家をもとに、国家 間競争や開発利用対象とみなしており、「宇宙」を誰の ものでもない存在や世界そのものとして捉えてはいない。
このことは、専門的一般的「教育」が、現生人類のみを 前提として、その成長・発達をはかることを狙いとして いるのと同一である。
「宇宙」そして「教育」が、その本来の意味合いと可 能性を発揮するためには、こうした跛行的乃至限定的把 握を超え出て、その「本義」に立ち返ることが必要であ る。
2.3.「教育宇宙学」の学的規定と「日本教育宇宙学 会」
「宇宙」に存在する星や天体等の存在・在処などを専 門的に解明・探索するのは、「天文学」であり、その、
運動や法則を発見・究明する分野は、「宇宙物理学」を 初めとする宇宙関連諸科学である。そこでは、国家間乃 至今日における最高最強の加速器(LHC)を有する CERN(欧州合同原子核研究機構Conseil Européen pour la Recherche Nucléaire)など国家共同の研究機構が漸 次整備され、素粒子・クオークレベルのスーパーミクロ の探究実験と天文宇宙のスーパーマクロの観測・究明相 俟っての競争的探索がしのぎを削る状況のなか、まさに
「秒進分歩」単位で進んでいる。しかし、言うまでもな く、それらは、人間そのものを対象とした探索・研究で はなく、人間をも規定する物質や運動の起源や法則の解 明を主とする物質エネルギー的研究である。これは、「現 生人類」の目から見たその起源・成り立ち・広がり・未 来の解明や予測に大きく関わる壮大な探究ではある。
しかしながら、今、求められていることは、こうした
「現生人類」の視点自体を相対(総体)化する、まさに
「進化した」視点の獲得であろう。少なくとも、人類史 的「進化」研究の現段階における定説に立って、生物的
「進化」を捨象し、「進歩」の延長上でのみとらえる専 門的一般的「教育」把握は、そのあり方を大きく変えな ければなるまい。
今日一般に「教育」や「教育学」への専門的通念的分 野には、例えば「教育方法」「生涯教育」「幼児教育」「図 書館教育」「数学教育」といった「教育」場面の主とし た対象や作用において問題とする分野と「教育史」「教 育社会学」「教育経営学」といった「教育」事象を広義 の諸科学の方法・成果に学んで探究する「教育~学」と いった領域とがある。後者の「教育~学」はもとより、
前者「~教育」にも、数十を数える専門学会が存在して いる。(17)「教育~学」とは、「教育」を「~学」的に探
究する学であり、「~教育」とは、「教育」の「~」場面・
分野を問題にする。
そういう従来の命名法に立てば、当該「教育宇宙学」
は、「教育」を「宇宙学」的に探究する学問研究という ことになるが、一般に「宇宙学」は「航空宇宙学」など
「天文学」の別称でもあり、2010年現在、「宇宙学」関 連学会としては、「航空宇宙学」や「宇宙生物学」など、
あくまでも、物質・存在・運動に関わる学問となってい る。︵₁₈︶
創設「教育宇宙学」は、こうした宇宙を教育学的に研 究するのでもなければ、教育を「宇宙学」的に探究する ものでもない。なぜなら、前述のごとく、旧来「教育学」
の限界や制約上、「宇宙」を探究することには根本的に 無理があると同時に、従来の専門的一般的「教育」把握 の中で、「宇宙」を探究するには大きな制約があるから である。
まずもって、「教育宇宙学」で扱う「宇宙」及びその 学的規定は、「現生人類を含む生命や意識全てを一つの
『宇宙』存在とみなし、その全的本源的発現・進化を探 究し促す学」と規定できる。従って、ここでの「宇宙」
は、惑星・銀河・星団といった天体的宇宙の物質的・エ ネルギー的起源などを自然科学的に探究する物理(学)
的「宇宙」ではなく、「意識をもった生命体世界」とし ての「宇宙」である。
それは、「宇宙生物学という新しい学問分野が明らか にしつつあるところによれば、地球は唯一無二のものと いうにはほど遠く、宇宙には地球によく似た無数の惑星 が存在すると予測される」(19)
といった立場に立ち、以下のような文脈で言われるよ うな「私の宇宙」「内的宇宙」と重なる。
「人間は自分が何者であるかも、どこから来てどこへ 行こうとしているのかも、まったくわかっていないの だ。(略)あのときを境に私の宇宙は崩壊をはじめ、
新しい亀裂が四六時中できていくありさまだった。」(20)
「“趣味”という気持からではなく、様々な手段を通して、
自分の内的宇宙を語ってみたいという気持はたぶん、ほ とんどの科学者におありなのではないでしょうか。」(21)
ただ、これらで言及される「私の宇宙」「内的宇宙」は、
ことさら「宇宙」と言わずとも良いのかもしれない。旧 来的概念や用語法で言えば、「世界観」「内的世界」でも 十分その意を尽くせるとも思われる。そういう意味では、
筆者創設の「教育宇宙学」は、「教育世界学」であって も良いとみなされるかもしれない。
しかし、例えば、「臨死体験」や「前世」「輪廻」とい った事象に対する「現生人類」の扱いや感覚が、「公認」
されてはいない現状では、私たちの「世界観」や「内的 世界」は、大きく「現生的世界観」に制約されているの は否めない。
例えば、19世紀を代表するドイツの物理学者・哲学者 であるグスタフ・フェヒナー(1801-1887)が、その理 論的実験的学説として以下のように主張する立場は、如 何に彼が、歴史的に卓越した業績を認められた「科学者」
だとしても、今日大方の支持や理解を得られるとは言え まい。
「死とは『第二の誕生』である
第一ステージから第二ステージへの移行は『誕生』と 呼ばれ、第二ステージから第三ステージへの変転は
『死』と呼ばれる。第二ステージから第三ステージへ 移る時に通る道は、第一ステージから第二ステージへ の道ほど暗くはない。後者が世界の外側へと通じる道 であるのに対し、前者は世界の内側へと通じている。」︵₂₂︶
死が「第二の誕生」であり、死こそ「世界の内側」の 通路とする「科学的」視点は、俗耳や巷間流布の「既定 事実」であったとしても、まさに「第ニステージ」たる
「現世」にあって、共通認識として「公認」されている とは言えないからである。
このように、一例を「死」に採るだけでも、今日的「世 界観」や「内的世界」には、探究・研究上の制約が大き い。
従って、「宇宙観」や「内的宇宙」を旧来の「世界観」
や「内的世界」に等価し得ない面がある。(23)そういう 意味においても、「教育宇宙学」は、「教育世界学」には ならない。
そして、なにゆえに「教育宇宙」であるかと言えば、
そうした「私の宇宙」「内的宇宙」を本来の「教育」研 究や実践対象として把握しようとするからである。詳説 すれば、ここで扱う「本来の『教育』」とは、フェヒナ ーと同様、「現世」の人間を隔絶した対象としてのみ扱 わず、また、「現生人類」に限らない「ヒト」の全てを 扱い、さらに「人」「人間」を超えて、「動植物」や現段 階で概ね非存在視されている「臨死」「輪廻」「転生」な どをも論じ探究する根本的に新たな「教育(学)」の提 唱・開始でもある。︵₂₄︶
因みに、創設された「日本教育宇宙学会」は、世界的 検索サイト「YAHOO」や「GOOGLE」の「宇宙学」に リンクされているし、「教育宇宙(学)」という用語や概 念は、少なくとも本邦初発の新概念と言って良い。2010 年 4 月時点において、優に100名を越える「学会員」を 擁しているが、「日本教育宇宙学会」は、既存乃至一般 専門「学会」とは、様々な点において、異質性を有する 団体と言える。と言うのも、本学会は、既存「学会」に は無い「少なくとも 5 つの特質」を有しているからであ る。
翻って、学際・学術性という通例の学会は、知や技の 専門家の職能的研鑽交流組織であり、そうであるが故に、
誰でも入会できるものになっていない。(殆どが、専門
的志向・業績を下敷きにした、何らかの推薦手続きが要 る。)
さらに、そういう通例の学会は、あくまでも職能組織 であり、会員の生活や人格といったものは、あくまでも 附属的な位置しか占めていない。
これらに対して、
①本学会は、その構成員の学際・学術性という性格に加 え、その多様な構成員属性(年齢の幅の広さに加え、
親子、夫婦、カップル、 3 世代といった広義の大家族 的性格)を得ている。
②構成員の多くが、文化や人間性のル-ツを一大学(奈 良教育大学)、一地域(奈良)との縁に発する地域的 類縁性を有している。
③通例の学会のイベント的集約的開催(年数回の学会誌 発行と年数回程度の研究交流大会)に比べて格段の日 常的企画を開催している。
④そのことを通じて、会員相互の生き方・考え方・感じ 方・暮らし方といった広義の「生き方研鑽性」を軸に 据えた人間的交流性を重視している。
⑤その名称の決定的独自性に加え、学会の「イメ-ジ・
フレ-ズ」(=「はばたけ 蒼空の星座へ!」)、ロゴ、
オリジナルソング(=「はばたきの宙(そら)に」「太 陽の息」)を有し、会員の芸術的文化的アイデンティ ティを保障している。︵₂₅︶
もっとも、現段階において、本学会は、「研究会」「同 好会」「サークル」「クラブ」といった私的任意団体に過 ぎない。前記に紹介した如く、既成学会にないこれだけ の特質を有する団体に、「学会」という名称を冠するこ と自体、適切なのか、という疑問も問いも生まれ得る。
しかしながら、あくまでも「学会」と称することには、
「学会」はもとより、「学術」一般やその主たる生産場 面たる「大学」というものへの筆者の強い疑問や批判が あるからである。
教育学関連に限定はされるが、筆者自身、過去27年間 既成学会に属し、その大会・例会に参加し、「研究発表」
「シンポジューム」等で報告者になったり、大会運営に も関わってきた。その経験見聞に立って、既成「学会」
の有する各種の限界を痛感してきた。
結果として、その「限界」を基本的に超克しようとし て出来上がった形が、「日本教育宇宙学会」であり、先 述の既成学会にない「少なくとも 5 つの特質」は、その まま筆者の有する疑問・批判への具体的回答でもある。
確かにこれまでにも、学問や大学を知的・学術的に地 域や市民に「開く」試みも、一定程度なされては来た。
例えば、2000年前後から巷間に喧伝され始めたいわゆ る「サイエンスカフェ」に連なる「~カフェ」は、その 後も各分野に広がっているものとみられる。
その一つ、「自分の存在」「科学」「家族」などの探究
を「市民的に」追及する「フィロカフェ」は、2010年 3 月現在で、「関西を中心にして広島、福井、東京、神奈 川等にまたがり」「毎週どこかの喫茶店で催され、10 ~ 50人が集まる」広がりを見せているという。︵₂₆︶ そこでは、
「初めて会った人たちが公開の場で対話するという以外、
定義も何もありません。誰でも参加できる場所を探し、
毎回一つのテーマを決め、哲学者が進行役を務める」︵₂₇︶
形をとっている。
しかし、ここにその例をみるごとく、これら「~カフ ェ」なるものは、あくまでも、学問研究や大学の知的遺 産・方法を市民に分かりやすく伝えたりする域を出ては いず、研究者が、「講話」や「司会」を行う、あくまで も「研究者主導」の対話の場に過ぎない。それは、かつ ての「啓蒙」や「~大学公開講座」の一変種に過ぎず、
端から、共同研究(探究)の場(機関)としての位置づ けや認知を得ているものではない。
即ち、既成「~学会」や「~カフェ」は、あくまでも、
広義の専門的知識や技術の研鑽伝達と部分的共有を目指 す範囲を出るものではない。
真の「~学(会)」は、広範な市民の無尽蔵の「知的 好奇心」に棹さし、そのあくなき探究心に支えられ育ま れることで、その本来の役目や最大限の発展を保障され る。しかしながら、既成「~学会」は、本質的に国民や 市民に開かれてはいない。それは、市民的関心や知識の 低さや無さとは別に、「~学会」が、単なる同業者の職 能団体に過ぎないからである。さらに言えば、国民・市 民に開かれていないどころか、「学会員」に対してすら、
十分には開かれていないのである。多くの「~学会」は、
その会員になるのに、既会員の推薦を必要としているし、
「学会誌」掲載に、決して自由裁量性を採用していない からである。そうすることで、学会の「権威」や社会的 認知を得ている、と見做していると自認しているからで ある。
筆者の既成「学会」批判の一端を記述したが、批判の みでは説得性を有しない。ここに教育宇宙学を「学会」
として創設した所以がある。
3.「日本教育宇宙学会」と探究的交流・研鑽 フィールド
3.1.「内的宇宙」を耕す「教育宇宙学」への期待 本学会を創設した筆者の意図する「宇宙」は、先に援 用した「私の宇宙」「内的宇宙」といった把握と重なる。
但し、そこでの「私の」や「内的」は、自身や自己を
「宇宙的」に相対化することを前提としたそれである。
繰り返し論及する如く、「私」を「現生人類」の単なる 延長ととらえたり、「人間」や「現世」を絶対視する立 場はとらない。何故なら、「宇宙」を満たす「物質」や
「存在」「運動」「エネルギー」自身には、「現生人類」
や「人間」や「現世」は、過渡的乃至「一過的」存在に 他ならないからである。
そうした視点に立ったうえで、「今を生きる私」を空 間的時間的に俯瞰しつつ、自身の在り方や生き方を相互 に刺激研鑽するフィールドに有意性を認める、それが本 学会設立の狙いであった。
こうした思いを筆者自身の等身大の把握で示せば、例 えば、以下のような心境ということになる。
「海の心、空の心
人は誰でも、少年・少女の頃、見聞に基づく『憧れ』
や将来への夢を抱いたはずである。自分との直接間接 の接触によって、『あの人のようになりたい』とか
『こういうことができるようになりたい』とか、意欲 や行動への雛形やサンプルを自己形成する。そのこと は、誰によっても指示・強制されないにも拘わらず、
誰でも自然に一度は心に秘める、いわば成長過程にお ける通過儀礼と言っても良い。
多くの場合、その『夢』や『憧れ』は、実現や接触 可能性が高いか少ないかは、殆ど問題ではない。
(略)
『野心』が、具象的な『夢』『憧れ』の現実態である のに対し、『空の心』『海の心』は、個物や事象を超え る可能態である。ここまで考察してきた結果、敢えて 言えば、『夢』『憧れ』は、『野心』という具体的行動 によって曲がりなりにも実現するか変質するかのいず れかであり、やがて、現実そのものに埋もれ消失する 運命にある。
これに対し『空の心』『海の心』は、ひとたびそれ を抱き感じれば、長期に持続し成長する不死の『夢』
『憧れ』である、と言って良い。
『空の心』『海の心』は、目的・計画・努力といった およそ『教育』にあってのイロハを超える『教育』の 彼岸にある真の教育目標であるのかも知れない。」(₂₈)
まさにこの「空の心」「海の心」に「夢」や「憧れ」
を抱き続け、人生のいかなる段階にあっても自身の価値 的善的な変容を共同探究する学会、それが「教育宇宙学 会」の求めるものである。この「自身の価値的善的な変 容を共同探究する」こと、そこに本学会の「教育性」が 存すると同時に、専門的一般的「教育」把握と異なるの は、何よりも主たる対象や関心内容が、子どもや初心者 といった「他者」ではなく、「自身」にある点である。
本学会設立総会に寄せた一会員の以下のような一文は、
こうした筆者の意図に繋がっている。
「大学を卒業してから早 3 年が経過しました。社会人 になってからは時間の流れが一気に加速したように思 います。(略)
現在25歳。上記のような言い訳に似た葛藤を掲げな
がら、それでも常に『これからだ』と前を向けるのは まだ若い証拠でしょうか。やりたいことがあるならや ればいい、と思っています。
さて、私のやりたいこととは一体何なのでしょうか。
それはあまりにも漠然としていて、私自身でも定かで はありません。それがはっきりしていれば話は早いの ですが。今後人や社会との関わりの中で見つけられた ら、と思います。」(₂₉)
確かに、既成の教育学的思惟においても、教育対象を、
子ども・他者でなく、「自己」に位置づけようとする主 張や視点が見られないわけではない。
「人間の生涯にわたる発達という事象を考察する場合、
そのような発達を可能にする力として『自己形成力』
ないし『自己教育力』ともいうべきものを想定し、そ の育成と持続的展開という問題を教育の基本的課題の 一つとして考究してみる必要があるのではないだろう か。」(₃₀)
こうした視点は、「発達教育学」を提起したドイツの ハインリッヒ・ロート(1909- )やフランスの教育学 者・心理学者モーリス・ドベス(1903- )等にも、既 にその基本的発想を見てとれる。(31)しかし、そこでの 主張は、あくまでも理論的主張や提起の域を出ていない。
広範な国民レベルにおける実践的観察や実験的理論的提 起にはなっていないと言える。
こうした端緒はあるものの、今日の実際的教育対象や 目標把握の一般が、相変わらず「他者の価値的善的変容」
にある点には、全体としていささかも変化がない、とみ て良い。
先の一文にある如く、「私のやりたいこととは(略)
人や社会との関わりの中で見つけられたら」と思う、そ の延長上に教育宇宙学(会)を捉える期待や以下のよう な現在進行形の課題意識と切り結んだ学会への期待を伝 えた一文には、既成の「教育(学)」観を超える「自己 教育」への確かな志向性が込められている。
「私は、幼稚園の園長を長年やってきました(略)し かし、学生時代から自然科学の分野で専門は天文学、
その中でも相対論的宇宙論に長年興味を持ち続けてき ましたので、今回の『教育宇宙学会』という名を聞い て一瞬『宇宙の教育』とまちがいかけました。でも教 育宇宙なので教育を既成の範疇ではなく、宇宙のよう に広くとらえる意味と理解し、(略)原子力にたよる 恐ろしさと、核廃棄物の最終処理費の大きさを考えた ならば、絶対に頼らないこと。風力や太陽熱・光など の再生可能エネルギー利用を子どもの教育と共にいっ そう積極的に推進しなければならないことを今痛切に 感じています。
この学会が教育を宇宙的視点からとらえなおし、大 きく展開していくための場になることを期待してやみ
ません。」(32)
「教育宇宙なので教育を既成の範疇ではなく、宇宙の ように広くとらえる」という把握は、この一文を寄せた 会員が、現職の幼稚園長として日々教育実践に携わって いることを思えば、至極説得性を有する視点である。
そして、創設者である筆者が、本学会の在り方として 重視した方向性は、やはり学会設立に寄せた以下のよう な一文の内にある。
「岡本先生の講義を聞いたり、課題レポートを書いた りしていると、私はとても色々なことを思い出す。そ れを掘り返し、書く、という作業をすることを通じて、
『私ってこんなことを考えていたのか……』と発見す ることさえある。たかだか20年ほど生きているだけの 私に、もう既に色々なものが埋まっていて、まるでそ れが地雷のように私を制限している、私を縛っている のだと気付くのに、そんなに時間はかからなかった。
(略)
でも、地雷を取り出していくことは、とても怖いこ とであると同時に、少しの解放感を覚えるものでもあ った。この解放感がクセになるから、きっと岡本先生 の授業を一度受けるともう一度受けたくなってしまう のだと思う。地雷が全部なくなる日が来ることは生き ている限り永遠にない気がするが、せめてこの小さな
『あたし』からは解放されたい。『あたし』は人間が 小さすぎる。小さな地雷をゆっくり取り除いて、『あ たし』が歩ける範囲を少しずつ広げられたらな、と思 う。」(33)
「自分の中の地雷を取り出す作業」とは、言い得て妙 であるが、設立当時、執筆者の授業を受けていた一受講 生の本音が詰まっている文言である。
もとより、誰の中にもその秘められた境地としての
「秘境」があり、そのような時空を「宇宙」と称する用 語・概念などは、実際的認知を得てもいる。
例えば、河合隼雄が、こうした使用法を既に1987年の 時点で行っている。かつて、『子どもの宇宙』と題する 書の中で、河合は、以下のように記していた。
「この宇宙のなかに子どもたちがいる。これは誰でも 知っている。しかし、ひとりひとりの子どものなかに 宇宙があることを、だれもが知っているだろうか。そ れは無限の広がりと深さをもって存在する。大人たち は、子どもの姿の小ささに惑わされて、ついその広大 な宇宙の存在を忘れてしまう。大人たちは小さい子ど もを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのな かにある広大な宇宙を歪曲してしまったり、回復困難 なほどに破壊したりする。」(34)
河合は、その「あとがき」のなかで、さらにこう述べ ていた。
「それにしても『子どもの宇宙』とは大きい題をつけ