奈良教育大学学術リポジトリNEAR
ヴィーヒェルトの『ユルゲン・ドスコチルの女中』
−神と悪魔の間−
著者 竹原 威滋
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 23
号 1
ページ 57‑78
発行年 1974‑11‑15
その他のタイトル Ernst Wiechert: Die Magd des Jurgen Doskocil
‑Zwischen Gott und Satan‑
URL http://hdl.handle.net/10105/2637
奈良教育大紀要 第23巻 第1弓‑(人文・社会) 昭和49年
Jull. Nara Univ. EducリVol. 23, No. 1, (cult. & soc.) 1974
ヴィーヒェルトの『ユルゲン・ドスコチルの女中』
‑神 と 悪魔の 問‑
竹 原 威 滋 (ドイツ語研究室) (昭和49年4月30日受理)
1.は じ め に
エルンスト・ヴィ‑ヒェルト(ErnstWiechert, 1887‑1950)は、 『童話集』 Mdrchen2Bdnde (1944‑45)の序文において次のように述べているo
この本は、憎悪と戦火が大地と人の心を焼きつつあった大戦の最後の冬に書き始めら れた。すべてのあわれな民族の、すべてのあわれな子供達のために書かれ、また、私自 身の心が真理と正義に対する信仰を失わないために書かれた。メ‑ルヒェンの中に築き 上げられる世界とは、奇跡や魔法使いの世界でなく、あらゆる時代の民族や子供達が夢 見ていた、偉大なる究極の正義の世界なのだ。 (SW.8 S.9)
この言葉には、ヴィ‑ヒェルトの作家としての基本的態度がよくあらわれているO戦争体験や 社会変動など幾多の人生の苦悩に会いながらも、絶望の中から人間への信頼をつなぎとめようと
したヴィーヒェルトの切なる祈りが、彼の文学作品に結実しているのであるo もちろん彼の作品 には様々な対立、矛盾が描かれている。高貴な人間性についての誇りと、非人問的な現実の惨め
はぐく
さについての絶望。森の中で育まれた素朴な心情と、荒廃した市民社会によって傷つけられた心。
永遠なるものへの探究心と、到達しがたい神への懐疑と自己への逃避。これらが彼の文学世界で 展開される相互に対立するモティ‑フである。しかしヴィ‑ヒェルトはこのような分裂した世界 に対して、より高い次元における「清い)LJ (das reine Herz)、善なる世界を対時させ、分裂し
た仕界を克服しているのである。
ここで扱う長篇小説『ユルゲン・ドスコチルの女中』 Die Magd des Jurgen Doskocil (1932) も、勢力を得ている悪魔的な世界が、やがて神の世界によって克服される、いわば、一つの統一 あるメールヒェン的世界を形成しているのである。したがって、この小論においては主として神 的世界と恵魔的世界の対立とその克服という視点からこの作品を考察したい。
2.作品の成立過程
あらゆる傾向の文学が混沌としている現代ドイツ文学において、ヴィ‑ヒェルトの作品はいか なる位置を占めているのだろうか? 二十世紀初頭以来、二度の大戦を経験した現代社会におい ては、既成の人生観・健界観は根底から破壊されてしまった。したがって、 「この時代のドイツ 文学の特徴は、変化した世界像によって生じた新しい現実把握を詩的に形成しようとする努力に
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みられる」(1)といえよう。この詩的形成の傾向は、ほぼ次の四つに分けられるであろう。
①人生の審美化(AsthetisierungdesLebens) 芸術や創造的活動を虚無の克服として認識する。
②新しい宗教(NeueRe‑ligio)
寛氏の自律した人間を再び超越的なものとのつながりへ帰することにより把握する。
③共同社会に対する人間の責務(VerpflichtungdesMenschenaneineGemeinschaft) 実存主義者の革命的酎申論や社会主義リアリズムの理論により把担するo
④民族文学(VolkshafteDichtung)
民族性、故郷、郷土などロマン的神秘的な心象として把握する(2)
。
ヴィ‑ヒェルトの文学にはこの四つの思潮のうちの⑧と④の傾向が特に支配的であるように思 われる。彼の文学は、幼ない頃から親しんできた聖書と、彼の育った東プロシアの風土に深く結 びついているOこのことは彼自身の書いた小伝『私の人生と私の書物について』Zumeinem LebenundmeinenBuchernにも極めて象徴的に示されている。
AmAnfangmeinesLebenswarderWald.InderMittewarderSteinderStadt.
WorausderSchauplatzfolgt.
AmAnfangwarGott.InderMittewardieVerneinung.WorausderWegmeiner Heldenfolgt.
AmAnfangwardieEinsamkeit.InderMittewarendieMenschen.Worausmeine LiebezudenTierenfolgt.0
彼が生まれ育ち、終生魂のふるさとであった東プロシアの辺境の沼沢の多い森林地帯、湖水よ
°°°°°°°
り舞い上がるみさごとあおさぎの鳴き声のほかは物音一つ聞えぬうっ蒼たる森林と、少年時代に 母や家庭教師の女の先生に導かれて読んだ感動的な伝説や昔話や聖書の仕界、これが彼の文学の 基調となったのである.「こうした要素の上に、二回にわたる大戦によって得たかずかずの苦い 体験が重なって、孤独をこのみ、愛をとき、神の存在を追求するモラリスト、どんな場合にも善 意を失わぬ作家が出来上ったのであるO」(4)
彼が29歳の時発表した処女作『逃走』DieFlucht(1916)は、彼の書いた唯一の写実的、自然 主義的小説であった。主人公の「上席教諭」(Oberlehrer)は都会での教職生活がたまらなく嫌 になり、故郷の森林の静けさの中に逃走するが、満たされず結局は自殺するのである。この主人 公の中には当時のヴィ‑ヒェルト自身が投影されているのである。彼は後になって自伝『幾年月』
JahreundZeiten(1948)においてこの小説について次のように自己批判しているO「自我中 心のエゴイスティックな作品である。すべてが極端なまでにそうであった。伝記作家と心理学者 以外は、これに労力を注ぐ価値がない。たえず変化する形式における主観のみしか含まれておら ず、何の客観も距離も広がりもない。それは私自身にのみ必要であったのに、他の人々にとって も必要であるかのごとく出版したのはふさわしいことではなかった。̲p
処女作に続く彼の初期の作品は、逃避、懐疑、激しい嘆き、解決できない自己の苦悩、不正に 対する非難に満ちていた。しかし徐々に彼の作品も世に認められるようになった。上述の自伝に おいて次のように報告している。「電報が[ベルリンの]『ヨーロッパ評論』から来たOそれは 私の短篇小説『カベルナウムの大尉』DerHauptmannvonKapernaum(1929)が国際短篇小
説懸賞を受けたという知らせだった。賞金は千マルクであった.その短篇小説は『ヨーロッパ評
ヴィーヒュルトのrユルゲン・ドスコチルの女中』 59
論』のほか、英、仏、伊、酉の四か国の雑誌に掲載された。私は震える手でその電報を受け取っ たのだった。そしてそれは私には千マルクの額以上のものだった。それほど私も貧しかったの だ。」。6'この小説の主人公の大尉は駐屯地での説教で感動的な聖書の言葉を聞き、懐疑的になり ながらも神を探し求め、やがて捕虜の坑夫の身代りとなって初めて心の安らぎを得るのである。
さらにそれに続く作品を通じてヴィ‑ヒェルトはますます彼の作家としての地位を確立してい ったのである。すなわち彼はこの小論で扱う『ユルゲン・ドスコチルの女中』でもって新しい転 機を迎えるのである。彼は同じ自伝で次のように述べている。「それは真の試練であった。そし て私はその試練を克服したOなぜなら、この本が賞を得て、それがヴィルヘルム・ラ‑ベ賞であ ったからではない。その理由は、主観より客観へと大きな決定的な一歩を踏み出した最初の本で あったからである。それは人間にとっても芸術にとっても決定的な一歩であった。その本にはま だ暗い面が十分残っていたが、明るい面が暗い面より強くなっていた。その明るさは、登場人物 の力強いが謙虚な心から生まれたものであった。生活が素朴なものになっていたので、この本に おいては言葉も分かり易いものになり、また分かり易くなるように努力されていた。私自身がよ り大きな道義を獲得していたので、この本においても世間の遺徳よりもより大きな道義が確立し ていた。この本には様々な苦悩があったが、登場人物はその苦悩に打ちひしがれず、それを克服 し、それに打ち勝ったのである。J;"しかしながら魂の奥底において.は高貴な人間性の理想を求め る努力は実らず、ヴィ‑ヒェルトは非常に苦しんだので、都会[ケ‑ニヒスベルクとベルリ‑ン]
での二十年余の教師生活を断念して、上部バイエルン地方に第二の故郷を求め、独立した作家と して創作活動に専念した。以上の経緯から明らかなように、ヴィ‑ヒェルトの文学活動を初期・
中期・後期と分けるなら、『ユルゲン・ドスコチルの女中』は、初期の逃避と絶望の危機を克服 し、晩年の魂の救済による安らぎに到達する、いわば、かけ橋の役割を果している中期に属して いるのである。
3.作品の構成
『ユルゲン・ドスコチルの女中』のプロット(8)を示すと次のようになろうo
渡し守ユルゲン・ドスコチル(JiirgenDoskocil)によって示される神的世界と、モル モン教(9)僧侶マック・リーン(MacLean)によって操られた悪魔的世界との対立の中 で苦悩する渡し守の女中マルテ(Marte)が、やがてユルゲンの誠実・素朴さに教えら れ、ユルゲンとの結婚を守るため、僧侶マック・リ‑ンを殺害し、新しい生命である子 供を得ようとする東プロシアの森林地帯で演ぜられる物語(10)
。
この作品の外的構成は次のようになっている。作品全体は5章より成り、また第4章と第5章 においては、行間をあけることによって示された節(それぞれ7節、4節)に分かれる。そして
さらに各章には長短様々な段落が含まれる。物語られる時間(ll)は、早春から翌年の10月までの約 1年8ケ月で、時間的経過に従ってほぼ直線的に物語られる。第1章において神の怪界に生きる ユルゲンが登場し、第2章で筋を発展させる主人公マルテがあらわれ、第3章の終わりに悪魔的 存在のマック・リ‑ンが登場する。ここまでが全ペ‑ジ数(171ページ)のほぼ3分の1(53ペ
ージ)で8ケ月間であるOこれでいわば物語を進めていく主要な人物が登場したわけであるOそ の後、それぞれ全ページのほぼ3分の1を占める第4章(63ページ)と第5章(55ページ)にお
いて、1年間にわたって、神的世界と悪魔的世界の対立とその克服というこの物語の本筋が展開
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されるのである。この作品では時間の指示が極めて唆味であり、読者は「日没までにはまだ5時 間ある」 (S.17)、 「太陽が沈む時」 (S.19)、 「沼の上に夕焼けが映える頃」 (S.177)、 「薄暗 くなってからようやく」 (S.107)、 「もうたそがれていた」 (S.23)などの言葉により、一日の いつ頃の出来事であるのかを知る。また読者は「春のめざめつつある大地のにおいを唄いだ」
(S.12)、 「夏至の夜の前日に」 (S.26)、 「聖ヨ‑ネの夜」 (S.28)、 「夏は多くの雷雨ととも に大地を渡っていく」 (S.47)、 「クリスマスの後のある晩に」 (S.71)、 「謝肉祭の夜に」 (S.
76)、 「キリスト昇天節以来わずかの雨が降っただけだった」 (S.123)という言葉により一年の いつ頃の出来事であるかを判断しなくてはならない。しかし、これによってだけでも、この物語 の世界は大自然とキリスト教が基調になっているのがよくわかるであろう。この作品で演じられ る場所は、ほとんどユルゲンの住んでいる「緑の村」と隣りの「黒い村」を含む森林地帯である。
ほんの数度ユルゲンの家から徒歩で4時間の所にある小さな町が物語の舞台となる。
この作品の物語形式02)は「三人称叙述」 (Er‑Erz邑hlung)形式であり、語り手(Erz邑hler)は、
物語る対象から一般に距離をとって叙述するが、時には特定の人物に距離を近づけることによっ て、その人物をいきいきと叙述することもある。この作品の場合には、特に語り手のユルゲンに 対する距離がもっとも近く、マルテに対する距離の近さもそれに劣らない。マック・リーンは遠
く外側から描かれるのみである。このような距離の考察から叙事文学特有の、いわゆる語り手の パースベクティヴas)の問題が生まれるO語り手は巧みに出来事の経過に従ってパースペクティヴ を交番させているが、ただ全般的にみて、この作品においては語り手は、主として作中人物ユル
ゲンにパースペクティヴをおいて叙述しているのである。このようにユルゲンにおかれた‑0‑ス ペクティヴが支配的なことは、この物語にとって極めて効果的な手法であるといわなければなら ない。というのは、この手法により、ユルゲンの生きる神の世界が物語全体に一貫して暗示され ており、作品全体に高貴な調子が保たれているからである。また、悪魔的な世界と神的な他界の 問で絶えずとまどうマルテを神の世界へ引き入れようとしている作者の意図が、この手法からよ
くうかがわれるであろう。
ユルゲンを通して物語られることが多いこの物語態度(Erzahlhaltung)はユルゲンの喜びや 悲しみ、驚きや疑念に応じて読者に心理的な緊張を与え、事件を鮮明に描き出しているのである。
その極めてよい例は、この物語の終わり近くで描かれるマルテがマック・リ‑ン殺害を告白する 場面である。ユルゲンほマルテの行動がいつもと違うのに疑問をもつ0 「彼の顔は今や苦悩のた めますます重くなる。依然として彼には、厳粛で重大なことが起っているということしかわから ない」 (S.166)のである。ユルゲンはとまどいながら、マルテに町まで連れていかれる。読者の 疑念は、ユルゲンの疑惑の蓄積にしたがって、また増すのである。 「マルテが市場を横切って裁 判所の建物に向って行くと、ユルゲンはふるえ出す。」 (S.166)そしてマルテが裁判所でマック
・リーン殺害を自白した時、ユルゲンとともに読者もその事件を初めて知るのであるo蓄積され た疑惑が、急に解かれるのでマック・リーン殺害の事件が、読者にとっても極めて劇的に受けと
られるのである。
≫Ich heiBe Marte Doskocil, geborene Grotjohann, Frau des Fischers und Fahrmanns
Doskocil. ‥ hier. ‥ und ich zeige an, da[まich gestern abend den Prediger der Mormo‑
nenkirche Mac Lean mit einem Messer getotet habe.≪
Sie ftigt Wort an Wort, langsam, aber ohne Pausen, mit einer stillen, weiten, etwas
verhullten Stimme. [‥.1 Una als sie schweigt, versinkt alles, und nur die Nebelwand
ヴィ‑ヒェルトの『ユルゲン・ドスコテルの女中』 61
steht unbeweglich im Raum und die drei Augenpaare, die durch sie hindurchzusehen versuchen.
Dann fdllt Jiirgens schwerer Stock zu Boden. (S. 167f.)
この場面では叙述される時称ォ4)はすべて現在時称(イタリック体で示す)である.これは「歴 史的現在」 (Pr邑sens Historicum)と呼ばれるもので、語り手は、過去の事件にすっかり心を奪 われるあまり、回顧の観点を放棄して、自らを「語られた現在」にいるものとみなしているので ある。もっとも『ユルゲン・ドスコチルの女中』を全般的にみれば、ほとんど過去時称で叙述さ れている。しかしヴィーヒェルトは緊迫する重要な場面においては巧みに時称の転換をはかって
いるO例としてこのマック・リーン殺害の場面の前後をみてみようo
Und er legte seine groBen Hande auf ihren Scheitel und kii飢e sie auf die Schlafe, die feucht war wie von einem kiihlen Tau.
Jtirgen weiβ nicht wie lange er geschlafen hat. Der Mond ist gewandert. Er liegt jetzt auf seinem Gesicht und schuttet das weiBe Licht in seine geoffneten Augen.
(S.162)
ユルゲンがマルテと床につく場面までほ退去時称(ボールド体で示す、以下同じ)で叙述され ているが、翌朝、つまりマルテが裁判所に出頭する日の朝からは現在時称(イタリック体で示す、
以下同じ)に転換されている(過去の描写もそれにともない現在完了になっている)。そして先 程あげたマルテの罪告白の場面も含め、次にあげる箇所まで現在時称の緊迫した描写が続く。
≫Nein, nein≪ sagt sie wie ein eifriges Kind, ≫nur ich kann es losen, Jiirgen, nur
ich allein. […] Und‥. horst du, Jiirgen ‥ ich schwore dir, jetzt, hier, dafi es dein Kind ist horst du? Nur deins‥. ich weiB das= von friiher... glaubst du mir das,
Jurgen?≪
Ja, er glaubte es und fiihrte sie bis zur Tiir, und der Staatsanwalt ging mit ihr hinaus und nickte ihm zu, daB er bleiben sollte. (S.171)
マルテがユルゲンにおなかの子供は彼自身の子供であると訴える箇所は直接話法で叙述され、
ユルゲンの応答は「体験話法」 (Erlebte Rede)05が用いられている(下線の部分)。そしてその 後は何の抵抗もなく、本来の過去時称の描写に移行している。ところで、体験話法はこの他にも しばしばこの作品において用いられているが、体験する作中人物におかれたパースペクティヴが 支配的であることを考えてみれば、当然のことであろう。
4.神 と 悪魔 の 間
『ユルゲン・ドスコチルの女中』の主人公は、いうまでもなく、 「誠実素朴な渡し守ユルゲン と悪魔的な僧侶マック・リーンの問で苦悩する渡し守の女中マルテ」である。この物語はこの女 中マルテを中心に最後まで展開していく。この章では物語の梗概を述べつつ、 「神と悪魔の問に いるマルテ」の世界を明らかにする。
早春のある夜、ユルゲンの妻は瀕死の状態にあった。彼女の言葉はユルゲンの優しい心に突き 刺さった。 「あなたは薮の中をはう熊のようだった。あなたは市場から何か私に持って帰ってく れたことがあるの? 私と一緒にダンスに行ったことがあるの? 指輪一つ買ってくれたことが
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あるの?」 (S. 8)このように臨終に際してさえ不平をいう彼女が結婚生活5年間にユルゲンに 与えたものは、毎日のかさかさのパンと他人の死産の子供だけだった。一方、ユルゲンほ、 「緑 の村」と「黒い村」の問の憎悪を彼の渡し舟によってとりもつ仲介者であった。それゆえ村の牧
しもべ
師は彼を「神の最も誠実な僕」 (Gottes treuester Knecht)であると讃えているO妻の死後隈憩 的なユルゲンは、妻の幻影に絶えず苦しめられた。そこでユルゲンは、彼女の墓に、生前買って やれなかった指輪とスカーフを埋めて、妻の幻影から逃れようとした。こうしてユルゲンは山羊 とともに孤独のうちに渡し場の家に住んだ。せむしの少年‑イニ(Heini)だけが、彼の小さな 畑を耕やすのを助けてくれた。ここまではユルゲンがいかに誠実に人を愛し神の他界に生きたか が示されたわけである。いわばこの物語のプロロ‑グというべきものであるO
やがて初夏のある夜、小百姓グロートヨ‑‑ン(Grotjohann)と彼の娘マルテがユルゲンの小 屋の玄関先に立っていた。彼等はアメリカのモルモン教の巡回説教師ミスター・マック・リーン によって「覚醒された」教団からやってきた。そしてマック・リーンとともに、秋には「黄金の 都」への旅路につくことになっていた。美しい親切な娘マルテの出現は魔力のようにユルゲンの 心をひきつけた。マルテはアメリカへ出発するまで、ユルゲンのもとに女中として雇われること になった。それとともに、渡し守にとっては新しい希望に満ちた生活が始まった。彼は喬木林の 端の荒地を手に入れた。これを開墾し、耕作し、秋には最初のカラス麦を蒔いた。ユルゲンのマ ルテへの態度は誠実で謙虚なものであった。 「彼女には嫁がない。黄金の都の顔だ。 .‥神様な
ら、彼女と一緒に暮せるが、自分とはできない.‥ 彼女の目には自分はおそらく動物なんだろう
‥.」 (S.58)と彼は考えた。ここにおいて聡明な娘でありながら、悪の誘惑にも弱いマルテ、
神と悪魔の間にいるマルテが登場したわけである。
やがて悪魔の最初の脅迫として物語の前面に出てきたのは、僧侶マック・リーンである。彼は ある日「姉妹」マルテのもとに、渡しの客としてやって来た。ユルゲンほ彼の無気味な力を予感 したが、彼を戸口に導き入れた。ここでユルゲンとマック・リーンの最初の会話が交される。
白い顔は一層細くなったO 「私達の教会のこの娘は私を必要としているように思われる」
と、彼[マック・リーン]は言った。
ユルゲンはもう戸のそばに立っていた。 「私達のところでは、どの人も教会へ行ってもよ いことになっていますが、教会がどの人のところにも来るようにはなっていません。私の家 は小さく、教会はそれに対して大きすぎます。あなたのマントはどこですか?」
「ソンナコトイッテ後悔スルゾ」と、マック・リーンは英語で言って立ち上った,(S.64) この会話には、ユルゲンのマック・リーンに対する余裕ある皮肉が感じられ、神の但界の勝利 が暗示されているO マック・リーンの登場は逆に孤独な二人、マルテとユルゲンを結びつけたO マック・リーンは隣村に定住して、狂信的な教区をそこに築いてしまった。マック・リーンの説 教はもちろん健俗的なものだった。説教を聞きながら、 「女や娘は泣き、百姓や日雇い人は説教 師の白いやせた顔を見、その背後に大洋の大波を見、飢えと貧困のない新しい天国に自分達が滑 り込んで行くのを見た。マルテも胸の上に両手をあわせ、一番暗い隅に脆いていた。」 (S.66f.) マック・リーンの小屋へ「ざんげ」にきた女の信者はすべて彼に膚を許さなくてはならない。
「神がその僧侶を通して触れないうちは、いかなる男も処女に触れてはならない」 (S.71)と神 が命令なきったからだという。マルテは神と悪魔の谷間で悩み苦しんだ。
すべての顔に先んじて二つの顔が浮かんで来た。それは、ユルゲン・ドスコチルの重い、
ヴィ‑ヒェルトの『ユルゲン・ドスコチルの女中」 63
どことなく力強い顔と、背後に官能的な信仰の魔力と「黄金の都」の奇跡と恐ろしい神の無 慈悲さを燃やしている外国人の熱烈で青白い顔だった。この男の信仰は燃える体のように信 者の体にぶつかった。彼女はこれらすべてを論理立てては分析しなかった。彼女はただ、ユ ルゲン・ドスコチルの土とマック・リーンの天国から望まれているという漠然とした感情を 血の中に持っているだけだった。 [中略]彼女は、ユルゲンの姿に終わりまで導かれる時
くだ
は、弱きの至福に溺れ、神の使者を思う時は、戦懐の至福のうちに砕けるのを、間違いなく 感じた。 [中略]だが、夢の中でさえ、どちらの歩みを喜んで待つべきか、彼女には分から なかった。二つの顔が溶けあい、離れ、再びぶつかって、ついに眠りの井戸のうちに溺れて
しまった(S.69f.)
クリスマスの後のある夜、マック・リーンは「ざんげ」を強要しようと追いついて来た。悪魔 的な世界はますますマルテを悩ましたのである。マルテは危いところを、ユルゲンの助けを得て、
僧侶の魔手から逃れた。そしてこの時以来マルテほユルゲンの誠実で力強い愛情に支えられてい たので、集会後マック・リ‑ンに尾行されても断固とした態度をとることができたO
「お前の道には悪魔がいる」と、彼[マック・リ‑ン]が脅かすように噴き、彼女の腕を つかんだ。 「そいつをお前の生活から追い出してやる。」
しかし彼女は頑を振って、静かに言った。 「神様が私のもとに来て下さいました。私はた だ従うだけです。」 (S.76)
謝肉祭の翌日の夕方、ユルゲンはマルテと結婚しようと決意して、キリスト教の村の牧師のも とに相談に行った。その夜ユルゲンはマルテに遠慮がちに愛の告白をするのだった。
今や彼は、 ‑羽の烏を、あるいは花の琴を見るように、何の気づまりもなく彼女を見た.
彼はいわば彼の顔を開いたのだ。彼女は開かれたものに対してたじろがず、ただ顔を赤らめ たが、その日は幸福にうるおっていた。 [中略] 「とても‥.きれいだ‥.」と彼は息をころ
して言った。 「とてもきれいだ‥.お前は‥.」 [中略] 「あなたは凍えていたのだわ、ユルゲ ン」と、彼女は小声で言った。 「今あなたの氷は割れた。あなたの中に住むのは快くなるで しよう。」 (S.84f.)
マルテはここに至って、すっかりユルゲンの愛を受け入れた。しかしまったく悪魔の信仰、誘 惑者の手から自由になったわけではなかった。マルテはその夜、女性本来の使命に目覚めた。
彼女は夢の中の鳥のように高い声でかすかに声をあげた。それから彼の胸に体を押しつけ て、彼の膝の上に坐った。彼女はいよいよ子供がほしくなった。自分をこの大地にしっかり 引き留める生き物を。 「黄金の都」 …それにはまだ時間があるだろう。 ‥.おそらくいつか 一緒に行けるだろう.‥でも、先ず子供だ.‥ (S.85f.)
ユルゲンが狼のために仕掛ておいた員に、ある夜、マック・リーンがかかっていたが、余り負 傷もしていなかった。この「奇跡」にマルテの僧侶に対する反抗の気持も動揺した。マルテはマ ック・リーンのところに「ざんげ」に行くと、彼は、ユルゲンとの子を生めば祈りの力で片輪に してやると脅した。この時、マルチは誰が悪魔であるかはっきり見定めたようである。
「私達二人で祈ります」と彼女は言った。 「朝と夕と夜に何度も。でもあなたは悪魔に祈 るのでしよう。私は神様に祈ります、あなたの悪魔を神様が絞め殺すように」 (S.91) 3月の末のある夜、マルテは嘘の前で初めて子供の胎動を感じた。翌日、マルテはユルゲンの 教会に改宗し、それからすぐ彼等の静かな結婚式が行なわれた。早春に、大きな氷解けが始まっ た時、氷流が渡し守の家の中まで流れ込んで来た。マルテは屋根裏部屋に避難したが、聖書が流
a T Mi 成isz
されるのを防ごうと取りに降りた際、梯子から足を滑らせ、氷の冷たい流れの中に落ちた。その ため子供は流産したので、僧侶の呪いが実現したのかと、マルテは気を滅入らせた。しかしユルくじ ゲンは挫けなかった。
こわ
新たに始めよう、畑も子供も…新しい床板を数かねばならないだろう。渡し舟が打ち砕 されたら、新しいのを作ろう。始め、それが人生だ。終わりが人生ではない(S.107) ユルゲンはどんな悲惨な中にいてもやがて神が自然を通して実りを与えて下さることを信じて いたのである。一方、マルテは悪魔の祈りが彼女を離れないなら、また次の子を生んだところで 不具にされるにちがいないと思い悩んだ。元気な子供を生むには、悪魔に身を許すか、悪魔を殺 すか、どちらかしか解決の方法がないように思えた。その後マルテは幾週間もユルゲンを避けて いた。村の六人の娘が「聖霊」に感じて子供を宿したのを憎んで、晩春のある日、村人達はマッ ク・リ‑ンを殺そうとした。しかし彼は不思議にも難をのがれた.マルテが七人目の娘ではない かと疑念を抱いたユルゲンにマルテは言ったO 「あなたは子供を持てるわ、ユルゲンOあなたよ り他に父親はいないわ。ねえ、私は嘘を言わないわ。ただ少し時間を置かなくてはならないの」
(S.121)そしてマルテは次のように考えた。
人々が出発する前に、私はあの人に尋ねなくてはならない、祈ることを止めるつもりかど うか‥.もし止めないつもりなら、私はやらなくてはならない‥.あれか、これか‥.そし てそれまでに、どちらがやさしいか知らなくてはならないc (S.122)
マック・リーンは言葉巧みに説いて「約束の地」へと人々を募ったので、かなり多くの人々が 信者に加わり、彼等は秋にアメリカのモルモン部落‑移住することになっていた。夏の問に、百 姓屋敷や日雇い人の土地が売られ始めた。人々は噛り笑いながら種を蒔いた。悪魔に誘惑された 世界に生きる者は、このように自然を軽蔑し、受け入れようとはしなかったのである。今度は、
太陽が情容赦もなく昇っては沈み、牧場と畑を干からびさせた。一方マック y‑ンは自分に敵 意を抱いていたユルゲンに卑劣な仕打ちをした。すなわち日照りにも屈せず青々と密生していた ユルゲンの麦畑は、ある朝、まだ実らぬままで刈り払われていたのであった。ユルゲンにとって 今までより耐え難い日夜が始まった。彼は飢えた村の子供達を町へ連れて行き、町長や町の人々 に訴えて、子供に施し物や援助を得させてやったが、それも大して役には立たなかった。自然の
>」蝣
暴威が激しくなると、ますます人間の心も悪魔の誘惑に陥り易くなった。ある夜、煤を顔に黒く 塗った村人達が、渡し守の家を取り囲んだ。彼等は「神」の按を守らないマルテを狙っていたの である。力強いユルゲンはマック・リ‑ンにそそのかされた村人達を何とか追い立てることがで きた。また「覚醒させられた」人々が9月に旅立つであろう、との知らせが伝えられた。しかし マルテほその時以来、静かに物思いに沈むようになったo
森の動物は、その子供を魔法にかけ、母胎の中で盲にしてしまうものがいなかったから、
子供を宿し育て上げるのだろう。しかし、彼女[自分]はなぜ脆くためにまず松林に行くべ きだったのか、その後で再び脆くためさらに遠くへ行くべきだったのか?子供を得るため脆 かねばならない動物があっただろうか? [Mochten die Tiere des Waldes Kinder tragen und aufziehen, weil niemand da war, der ihre Kinder verzauberte und blind machte im Mutterleib. Aber weshalb sollteヱ生gehen, zuerst zu den Kiefernbiischen, um auf den Knien zu liegen, und nachher weiter, um wiederauf den Knien zu liegen? MuBte ein Tier auf den Knien liegen, um ein Kind zuhaben?] (S.155)
ヴィーヒェルトの『ユルゲン・ドスコチルの女中』 65
(なおこの文章は前章の終わりに挙げた体験話法の典型的な例なので、原文を併記しておいた。
すなわち、語り手[作者]は作中人物についての内面描写を客観的に維持できないで、いわば作 中人物と一体となって独自しているがどとき手法なのであるO もちろん、依然として三人称(下 線部)の形式は保持されているのである。まさにこの箇所は、直接話法と間接話法との中間に位 置する体験話法であるといえよう。)
やがて、マルテは、子供を生む決心がついたのか、ある夜、ユルゲンに「いよいよ私、子供が ほしくなったの」と訴えるのだった。翌日、ユルゲンはマルテに促されて、理由の分からぬま ま、彼女に同伴して町まで行かねばならなかった。その途中で、とまどうユルゲンを前にして、
マルテは色々と自分のこと孝話すのだったO
そう、それから新しい信仰が来た。それの悪い点は、その中には「黄金の都」という目に みえるものがあることだった。いやそのほかなお多くのものがあることだった。自分は井戸 に飛び込むように日を閉じてその中に飛び込んだ。それからあなたと知り合ったのだ。それ もまた悪かった。というのはあなたは井戸の端にかがんで自分を見たからだ。そして井戸の 中で冷たくなった時、あなたがゆっくり、全くゆっくりと自分を引き上げてくれた。でも他
° °
のものが自分をつかまえて離さなかったので、自分はほとんど引き裂かれてしまった。そこ
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
でこれっきり断ち切ってしまったのだ。そうでなかったら自分は深く落ち込んだままだった だろう。これだけが今言いたいことだ。 (S.165J
この文章の中には、マルテの神と悪魔の問での内面の推移が端的に語られているが、また同時 に重要な伏線(Vorausdeutung)(16:がここで敷かれている(特に圏点で示した箇所に注意)。町に 着くと、マルテは、裁判所で初めてマック・リーンを殺害したことを告白するのである。
「あの人[マック・リーン]が行ってしまうと、呪いが私の上に残ります。昨日ユルゲン は町‑行きました。私は夕暮れに出かけました。ナイフを懐に持っていました。 [中略]あ の人は、私が裸になってそばに寝たら、祈ることをやめてやる、というのです。あの人は誓
うと言い、誓いました。聖書にかけて。私はナイフを密かに隠しておいて、そうしました。
他のことをする力がありませんでした。私が‥.そう‥.立ち去ろうとした時、あの人は私 に、いつまた来るかと尋ねました。あの人は移住者を船まで連れて行き、また帰って来て、
村に留まると言いました。週に三度自分の所へ来い、そうしなければ、また祈ってやる、と 言うのです。私はまたナイフをこの懐に入れました。あの人はまだベッドに寝ていました。
そして私はその心臓を突き刺しました。あの人はすぐに死んでしまいました。 [中略]罪で すO 私はそれを償います。でもユルゲンの子供を生むまでは、私を生かせておいて下さらね ばなりません。私が宿しているのは彼の子です。彼の子に違いありません。彼はこの子をイ ノセンスと名づけるでしょう。それは『罪なき者』という意味ですから」 (S‥169f.) マルテは寛大な罰に処せられた。そしてユルゲンは両腕にマルテを抱きとり、裁判所の広間か ら運び出した。それからユルゲンは、 10月の空のもと、畑を耕やしながら、妻のマルテと生まれ るべき子供を待っている。かくして、滅びに至る悪魔の世界は、神の秩序にかなった仕界によっ て克服されたのである。
以上で、物語の梗概を述べつつ、 「神と悪魔の間にいるマルテ」の世界を明らかにしたので、
この辺で、この作品のモティーフならびにテ‑マについて述べておきたい。中心モティーフ(17)は、
「二人の男性の問にはさまれた女性」であるといえよう。二人の男性とはもちろん言うまでもな
66 li Ki 賊 滋
く、一人は、人間の悲惨さや自然の脅威に出会いながらも絶えず神の与える約束を信じて大自然
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の中に還しく生きる渡し守であるO もう一人は、飢えた者や病にある者など弱き者を誘惑して一 見勢力を得たかのようにみえる悪魔的僧侶である。そしてこの中心モティーフは、繰り返し現わ れて、女中マルテがやがて神の健界に生きるようになるという構成に結びついており、また事柄
しもべ
以上のものを示している。つまり「神の最も誠実な僕」というテーマ(18)に重要な鍵を与えるので ある。なお、中心モティーフに結びついたモティーフとしては主人公マルテ自身が内在的にもっ ている女性本来の「母性愛」が挙げられるであろう。
ヴィーヒェルトの中期以後の作品には一定の構成のパターンがあるように思われる。つまり、
「プロットの起伏がゆるやかで、どん底から始まって次第に高まり、最後に魂の安らぎの高みに たどりつくという形をとっている」C19)のである. 『少佐夫人』 Die Majorin (1933)のミヒァエ ル・ファーレンホルツ(Michael Fahrenholz)が幾年かの捕虜生活の後、故郷にたどりついて自 分の父親から幽霊扱いにされる書き出しと、そして少佐夫人の愛と献身によって人間性を取り戻 すその結末はその典型であろう。 『ユルゲン・ドスコチルの女中』においても、物語は、悪童に 噸笑され、妻からも不平を訴えられる孤独なユルゲンの姿から始まり、マルテの勇敢な行動によ りユルゲンの望みがかなえられ、新しい生命が約束される結末へと展開するのである。今まで述 べてきた、事件展開に発生一緊張一解消(Entstehung‑Spannung‑Losung)の動きを与える モティーフならびにプロットの起伏を図式化すると次のようになる。
ユ ル ゲ ン:
マ ル テ:
(中心モティーフ)
マック !J‑ン:
:神の最も誠実な 僕 (テーマ)
:プロットの起伏
以上で神と悪魔の問で苦悩するマルテの物語のいわゆる「前景事件」 (Vordergrundgeschehen) を、主として明らかにしてきたのであるが、以下の章においては、前景の人間や事件を越えて拡 大されている、より大きな世界、いわゆる「叙事的経過」 (dasepische Vorgang)(を明らかに したい。つまりこの物語の背後に指し示されている神の世界と悪魔の世界について考察し、さら に「神の最も誠実な僕」というテーマの指し示すものについて触れてみたい。
5.悪魔の世界
あやつ もてあそ
悪魔の世界を操るのはモルモン教僧侶マック・リーンである。彼は結婚前の処女を弄ぶ憎むべ き人物・色魔にすぎない。彼は村人達を、狂信的で熱狂的な信仰へと引き込む。マック・リーン 自身の語る説教を引用することによって悪魔的世界の本質を探ってみよう。
・ ・ ・ ・
「神の怒りがこの国にわき起るだろう」と、彼はいつも言うのだった。 「この土地もお前 達の妻の腹も実らなくなるだろう。子供達は墓地に運ばれ、死んだ家畜は皮はぎ場に運ばれ
°
るだろう。狼が家の回りをうろつき、水の中から悪魔が出て来るだろう。しかし遠くで『黄
ヴィ‑ヒェルトの『ユルゲン・ドスコチルの女中』 67
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
金の都』が待っている。神の卸手が塔の上に差し伸べられている。その土地からは穀物が生
° ° ° ° ° °
え、ぶどうの房はその丘をおおう。そして神の真の言葉に改宗する全世界の信者を迎えるた
e
めに、神は腕をおひろげになる。」すると、女や娘は泣き、百姓や日雇い人は、 [中略]飢え
・ ・ ・ ・ ・
と貧困のない新しい天国に自分達が滑り込んで行くのを見た。 (S.66f.)
誘惑者は、圏点で示したどとく、聖書の言葉を借り、神の仮面をかぶって、人々を不安と恐怖
おとしい
に陥れるのである。 「神」の断罪が下されると宣言する。弱き人間達は、悲しみ坤き、恐怖の底 に突き落される。天災地変がひどくなればますますその困窮は異常になる。悪魔は、そのような 人間の誘惑に対する弱さを利用して、華やかな楽しい幻想「天国」へと一挙に導こうとするので ある。その「天国」とはどんなものだろうか? 農夫に田畑と実りを、牛には牧場を、子供達に はパンを与え、愛する者に、蛇でなく魚を、石でなくパンを与え、人間を養い育てて下さる神を 信ずることではなくて、人間がそれによって満たされる食物に対して信仰をもつことにすり替え られているのである。実は彼等の腹がその神となっている。目に見えるパン、魚、田畑の実りし か信じられないのであるo 「人間は神のロから出る一つ一つの言葉によって生きること、この言 葉は多種多様な方法で人間を養い育て得ること、それは神の『‥.よ、あれ』という創造の言葉 によるものであり、パンはそのうちの一つにすぎないこと」cat)などを、悪魔の世界にいる人々は、
もはや信じる勇気を失ってしまっている。彼等はもはや、神の国と神の義をまず求めて、パン、
魚、田畑の実りなどを添えて与えられるようにはしないで、それら目先のものを得ることによっ て「神の国」を先取りするのである。だから彼等は、神の養う自然を受け入れず、 「噸り笑いな がら種を蒔いたのだった。」 (S.123)そしてこのような愛のない偽りの世界は当然滅びゆくより ほかなかったのである。しかし人間は、いつもそのような悪魔の仕界の誘惑にさらされており、
またそれに打ち負かされ易い愚かさを持っていることをヴィーヒェルトは認めていたのであろう。
それはマルテの姿を通してよく示されているのである。
6.神 の 世 界
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渡しの客が渡し守を呼ぶ「鋤の金属の響き」は、この作品において極めて重要なモティーフで あり、何かを暗示しているように思われる。まず、物語において初めてあらわれる箇所を示し、
ユルゲンの行動をみてみよう。
渡し場のあちらとこちらに下がっている錆びた鋤の刃をたたくために、誰かがやって来る と、彼はそれに気づくのである。彼は夜中に、暗い金属の響きが水の上を渡って来る前に、
目を覚ますO牧師の言うように、彼は「渡しの良心」 (Fahrgewissen)を持っているのであ る (S.10)
「彼はこの音の非常な厳粛さを愛していた。風とも、水とも、戯れる人の叫びとも似ておらず、
暗い塔の鐘のように、よそよそしくほとんど脅かすようにその地方に響き渡る音を愛していた。」
(S.ll)彼はこの音を聞くたびに、 「誰かがやって来る」 (S.10)と考え、色々と思いめぐらす のである。 「最後の審判の日には、このような叫びが生ずるかもしれない…他のあらゆる叫び が消えてしまったら」 (S.ll) 「死に瀕している者のところに来ようとするキリストがそこに立 っているかも知れない…神様がそこに立っているかも知れない。 『私はつくづく考えてみたん だよ、ユルゲン・ドスコチル。お前に畑と静かな湖をあげようと思う。それでお前はもうそんな
(>8 竹 原 威 滋
しもべに苦しまなくてもすむだろう…さあ十分お休み、私の僕ドスコチル‥.』と神様がおっしゃる かも知れない。」(S‑ll)またある時は「その昔はひょっとしたら墓場から来るのかもしれない」
(S.40)と思いめぐらす。鋤の音が響くたびに、ユルゲンは、そのような様々の期待と疑惑を持 ちながら、渡し場へ出かけていくのである。果してユルゲンの待ち受けていたのは何だったのだ ろうか?
ところで、それが何であるか分からないが、とにかく何かを待ち望むというモティーフは、現 代文学を支配している主要なモティーフの一つである。生きる支えを失った現代人、メールヒェ ン的楳界を打ち崩された世界に生きている現代人にとって「待つ」という期待の姿勢をとるのは 当然というべきなのであろう.そのようなモティーフのみられる作品の例を少し挙げてみよう。
まず太宰治(1909‑48)の『待つ』(1942)を引用する。
いったい私は、毎日ここに坐って、誰を待ってゐるのでせう。どんな人を?いいえ、私 の待ってゐるものは、人間でないかも知れない。私は、人間をきらひです。いいえ、こはい のですO[中略]一体、私は、誰を待ってゐるのだろう。はっきりした形のものは何もないo ただ、もやもやしてゐる。けれども、私は待ってゐる。大戦争がはじまってからは、毎日、
毎日、お質ひ物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待ってゐる。誰か、
ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こはい。ああ、困る。私の待ってゐるのは、あなた でない。それでは一体、私は誰を待ってゐるのだろう.旦那さま。ちがふO恋人Oちがひま す。お友達。いやだ。お金Oまさか。亡霊Oおお、いやだ。(22)r原文のまま]
コa^B.
『待つ』の主人公、二十の娘は、期待と不安の複雑な気持で、買物の帰りに毎日小さい駅のベ ンチで誰かを待ち続けている。「誰か」とは、人間あるいは神との遼遠を暗示しているのだろう か?次に、S.ベケット(SamuelBeckett,1906‑)の『ゴドーを待ちながら』Enattendant
Godot(1952)をみてみよう。
ポゾ‑.・そこで...どうなるのかね.‥あんたのその約束、そのゴデーとかゴド‑‥.コ ダン‥.(沈黙)‥.とにかく、おわかりだね、わしのいわんとするところは。あんたの未 来がかかっているその人だ。未来.‥(沈黙)‥.というより、その、ごく近い将来がね、
あんた方の(23)
。
ウラジミール:われわれが、現在ここで何をなすべきか、考えねばならないのは、それだ.
だが、幸いなことに、われわれは、それを知っている。そうだ、この広大なる混沌の中で、
明らかなことは、ただ一つ、すなわち、われわれはゴド‑の来るのを待っているというこ とだ(24)
。この作品の主人公、二人の男エストラゴンとウラジミールは、いつ来るかも、確かにそこが待
ち合わせの場所かもはっきりしないままに、ゴド‑を待っている。やっとあらわれたのはゴド‑
からの使いである。「今日は来られない。明日は必ず行く」と伝言する。ゴド‑とは何か?神 か?平和か?恵みか?最後の審判か?革命か?死か?絶望か?地獄か?どれを
とっても一面的すぎるだろうOそう軽々しく判定できない、何かなのだろうo
ところで、ヴィーヒェルトのこの作品における渡し守ユルゲンが待っていたのは何であったの だろうか?再びこの問題に戻ろう。前章でみたように、悪魔の世界に生きる人々は不幸に陥っ た時、彼等の求めているパン、魚、田畑の実りなど彼等の恩いを神として祭り上げたが、ユルゲ ンはどうしたのか。ユルゲンも、この森林地帯の中で様々な困難にあった。氷解けによる妻マル
ヴィ‑ヒェルトの『ユルゲン・ドスコチルの女中』 69
テの流産。日照りによる不作。そして飢え。村人の憎しみによってなされた収穫物の収奪。人間 の持つあらゆる困難を体験した。確かに飢えは、苦悩の最大のものの一つであるO 空腹の中には、
人間に苦しみをもたらすあらゆる誘惑の苦悩が生きているのだから。ユルゲンは苦しみを背負っ た。しかし、ユルゲンは次のことを知っていた。 「その空腹をいやし、私達を支えてくれるのは、
作られたパンではないことを。私達を養い育ててくれるのは、田畑の実りでもなく、また夏に感 謝と畏敬の念をもって通り抜ける、あの光り輝く穀物畑でもなくて、それらの実りを用いて下さ る神自身であることを」:25)彼は知っていたのである。神は自然を通して実りを与えて下さること を知っていたのである。神の世界に生きるものとは、 「み手を開いて、すべての生けるものの願 いを飽かせて下さり、悪しき道のあるかないかを見て、とこしえの道に導いて下さる」(26)神を待 ち望むものであった。渡し守ユルゲンはそのような神を待ち望んでいたのである。だからユルゲ ンは悪魔マック・リーンの操る村人に襲われた時も、泣き悲しんでいるマルテを余裕をもって励 ますことができたのである。
「心配するな」と彼は言った。 「彼等はまもなく行ってしまう‥.腐った水でさえ新しく なり得るんだ。どうして腐った村が新しくならないことがあろうか? 新しい人間が来るだ ろう。土地はまた緑になるだろう。漁師達の物語る聖人のように、川の中にしっかり立って いなくてはならない。幼な子イエスを運んだクリストフォロスのように。お前も時が来たら 子供を持つだろう‥.さあもう泣くな」 (S.150)
ユルゲンはこのようにどんなに人間的に悲惨であっても、いつも、自然の脅威から救い出して 下さる神の約束を信じて生きるのである。ところでこのユルゲンの言葉にのぼるクリストフォロ ス(Christophorus)w)に注視しなくてはならない。 これはカトリック教会における十四救難聖 人の一人で、語源的にはギリシア語で「キリストを運んだ者」という意味である。おそらく、デ キウス帝(249‑251)の迫害時代における殉教者だというが、詳細は不明である。後代の伝説に よると、クリストフォロスは怪力無双の渡し守で、たまたま一人の少年を背負い、川を渡ってい るうち古̲Z:一歩ごとに少年が重くなったので、水をかぶりながら(これは洗礼を意味する)、よう やく対岸に運ぶことができた。この少年こそキリストであり、その重さは全世界のそれであった という。ところでこの聖人クリストフォロスの形姿は、美術ばかりでなく文学の領域においても 重要な素材(28)の一つになっているO たとえば、 ‑ッセ(Hermann Hesse, 1877‑1962)の『シ ッタルク』 Siddhartha (1922)の主人公は幾多の苦行や放蕩の末、渡し守になって初めて、悟 りの道を開くのである。また芥川龍之介はこの伝説を『きりLとほろ上人′伝』として珠玉の小品 に結実せしめている。また、ヴィーヒュルトの『ユルゲン・ドスコチルの女中』における主人公 も渡し守であることは極めて重要な点の一つなのである。なぜなら渡し守ユルゲンがクリストフ ォロスについて語るとき、この物語の主人公としてのユルゲンは、この物語の枠を越えて、より 大きな世界の巾へ拡げられ、普遍的な渡し守の形姿に高められているからである。このようにし て、前景の人物であるユルゲンが同時に「神の鼻も誠実な僕」というテーマを荷T,ている。実は
ここに典型的な「叙事的総合」 (eine epische Integration)′29)が存在するのであるO
モルモン教僧侶マック・リ‑ンに荒らされて、二十年間自分の教区を牧会したにもかかわらず、
その成果がかんばしくなかったのを嘆くキリスト教の牧師をもユルゲンは励ますのである。
「ああ、ドスコテル、この渡し舟にただ一人馬鹿が坐っている。それはお前ではない。私 はここで二十年間耕してきた。その収穫を見なさい。」披[牧師]は杖を上げて、村の回りに
70 i'j‑ n;> 威 昔
半円を描いた。
「いや、牧師さん、それは私のカラス麦と同じだよ。脆いて、刈り株を引き抜くべきだと いうのかね。カラス麦が私のために出来なければ、ライ麦か馬鈴薯が私のために出来るだろ
う。それも無理なら、きっと神様は,また若木が生えるようにして下さるだろう。やってみ なくてはならない。不安を抱いてはならない。
牧師は立ち上った。 「有難とう、ユルゲン」と言って、彼は少し口元に微笑を浮かべた。
「これで私達は二人とも、なすべきことが分かった。」 (S.173f.)
これこそまさに、神の世界を待ち望む「神の誠実な僕」の姿を最も明らかに示している箇所で はないだろうかO先程も指摘したが、この「待つ」というモティーフは、この作品に一貫して流 れているのである。物語の最後も、やがて生まれるべき新しい生命と愛する妻マルテを待ち望む ユルゲンの形姿で終っていることに注目しなくてはならない。しかもこの場面は過去ではなく、
現在時称を用いているので一層効果的になっているのである(イタリック体で示す).
Und er sieht ein Feld mit grlinen Halmen, die gerb werden und sich unter Ahren neigen. Und er siekt ein Kind das unter diesen Halmen liegt und schlaft, indes ein Mann und eine Frau das Korn schneiden und die Garben aufstellen. (S.177)
ヴィ‑ヒェルトは、幼ない頃から聖書に親しむものであった。彼は自伝『森林と人々』 Walder und Menschen (1935)において次のように回想している。
書物の中の書物[聖書]ほど、力と親しみをもってあの頃私の魂を形成したものはなかっ た。 [中略]聖書のページの上に落した涙を私は恥ずかしいとは思わなかった。どんな時代 にも罪が犯されたり、殺されたりするが、しかしまた愛されたり、和解したり、赦されたり
して、神が預言者のロを通して啓示したにちがいないと今日もなお信じうる言葉のうちに、
こうしたすべてが行なわれている世界、もしもそのような世界に私が当時無限の情熱をもっ て没頭することができなかったとしたら、私の人生はどれほど貧しく、どれほど冷たかった ことだろうか(SW.9 S.31f.)
それほど聖書に通じていたヴィ‑ヒェルトが、次のような聖句をこの作品の重要な鍵として暗 示しているのも不思議ではないだろう。
神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている問に、種は芽
° ° ° ° ° ° ° ° ° ▼
を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結
° ° °
ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。実がいると、すぐ にかまを入れる。刈り入れ時がきたからである。 (マルコによる福音書4章26‑29節) ヴィ‑ヒェルトは、圏点で示した箇所「地はおのずから実を結ばせる」という信仰を渡し守ユ ルゲンをして村の牧師に語らしめているのであろう。このように、ヴィ‑ヒェルトは聖書の神を 求めたが、しかし必ずしも教会の説く神を求めていたとは断定Lがたい。それよりはもっと広い あくまで自然の創造者としての神であったように思える。ヴィーヒェルトは「あくまで誠実に、
真正直に、ほとんどあらん限りの生の苦悩を背負いながら、彼の神を探り求めた」(30}のである。
彼が、 ≫Am An fang war Gott, und nun gehe ich in keine Kirche mehr, weil jede Kirche zu klein ist.≪C31)と言っている理由がよく分かるであろう。彼の求めていたのは、非常にプリミ
ティブな神だったのである。
ヴィ‑ヒェルトのrユルゲン・ドスコテルの女中』 71
この章ではなお、この作品で重要な位置を占めていると思われる東プロシアの森林地帯の風土 自然に言及しておかなくてはならないO ヴィ‑ヒェルトの求めていた神の憧界とは、神の創造に よる自然と人間が虞わしく調和している世界であったのであろう。アドルフ・フリーゼはそれに ついて次のように述べている。 「この物語における風物は、あらゆる心理的な解釈が無効になっ てしまうほどに、作中人物を貫き通っている。 [中略]作中人物とその行動は、自然における空 間的なものの魔力に組み入れられ、従属させられている。日に見えるものは、空間的な自然の魔 力によって変えられているが、しかしその形姿は失なわれていないのである」サ2)その適切な例と
して早春の自然と、マルテの胎児に対する思いが二重写しになっている箇所をみてみよう。
胎児の未熟な目の凍った膜に細い亀裂が生じたO .‥屋根にぶつかって、その息吹きを煙 突から粘土の嘘の中まで投げ込む風だった。 …細かい灰色の土塊がぽろぽろ砕け、壁にそ ってほぐれた。目の青い色が、放たれた水のように、自由になった。冷たい眠気をぬぐい去 るために、両手が挙げられ、彼女の体の暖かい壁にかすかにぶつかった。 ‥.おお、氷雪を 解かす春風とともに盲目と寒気の上にやって来た神の祝福… (S.93)
次の箇所では、ユルゲンを愛するマルテの天真欄漫な姿が、森にいる二匹の鹿の描写によって 一層効果的に表現されている。作中人物はまったく自然の世界に溶け込んでいるのである。
雄鹿が畑を横切って雌雄を退いたて、彼らのそばを通り過ぎた。追われた鹿の半ば嘆き、
半ば誘うような高い叫びが、薮の中を通ってあちこちに響きわたり、やがて折れる枝の向う に消えるのを、二人は聞いたo ユルゲンは何も見なかったかのように、わきを向いて、村の 方を見た。しかし彼女は彼の首に腕をまきつけ、自分の体を彼の体にぴったり押しつけた。
「あなたは子供を持てるわ、ユルゲン」と彼女は小声で言った(S.151)
ヴィ‑ヒェルト自身が、 ≫Am An fang war die Einsamkeit, und ljun liebe ich die Tiere und die Kinder.≪(S3)と言うのがよく理解されるであろうO ところで、この物語の結末の場面で は先程も述べたどとく、やがて生まれるべき子供と服役中の妻を待ち望むユルゲンの姿が描かれ ているのであるが、そこでは作中人物ユルゲンは文字通り森の風物に包み込まれ、融合している のである(圏点で示された箇所に特に注意)0
緑の茎が黄色くなり、穂の下でうなだれる畑が、彼の日に浮んだ。夫と妻が麦を刈り束ね て、その束を積み重ねている問、麦の茎の下で寝ている子供もまた彼の日に浮んだ。
° ° °
こうして彼は、新鮮な大地の上に薄い霧がだんだん高く立ちのぼり、ますます濃く彼を包
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 蝣 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
み込むまで、立っていたO そして最後に彼は、夜の湿気を音もなく吸う木のように立ってい た(S.177)
7.作品の時代批判性
村人の仕立屋マティアス・ジューデクム(Mathias Sudekum)は、ユルゲンを「川辺のサム ソン」 (Simson am Wasser)と呼んでいる(S.78)。また、村の牧師は、ユルゲンの先妻の葬式 の際に「主の僕サムソン」 (Simson, der Knecht des Herrn)について説教し、 「誠実な渡し守、
お前は報いられるだろう。今、神の戸を叩く妻は、お前の誠実さを報告するだろう」 (S.21) と述べている。なぜ、村の牧師や仕立屋はユルゲンをサムソンと関連づけているのだろうか?
ここでは少しそのことについて考えてみよう。サムソンCM)とは、イスラエルの十二士師の一人 で、語源的には‑プライ語で「太陽の人」 (hebr. Schimschon >Sonnenmann<C)という意味で