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パリ大学での研究生活

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Academic year: 2021

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海外レポート

パリ大学での研究生活

人文学部教授 遠 藤 文 彦

2 0 0 9年9月から1年間本学の長期在外研究員とし てフランスに滞在し、パリ第3大学客員研究員とい う身分で研究をおこないました。

大学のこと

はじめにパリ第3大学のことを紹介しておきま しょう。パリおよびその近郊に国立大学は1 3ありま すが、名称としては「パリ大学」があるのみで、そ れに第1から第1 3までナンバーがふられたものが正 式名です。 近年は大学が独自に通称として地区名 (た とえばパリ1=パンテオン・ソルボンヌ) や人名 (た とえばパリ5=パリ・デカルト)を採用しており、

パリ第3大学は「ソルボンヌ・ヌーヴェル」といい ます(写真1) 。ちなみにパリ6までがもともとの パリ大学=俗称ソルボンヌ大学(法学部、文学部、

医学部、理学部からなっていた)を学際的に改編分 割した大学( 「学部」制は廃止)で、本学と学術協 定を結んでいるパリ7 (パリ・ディドロ) 以下は1 9 6 8 年の「五月革命」を経て1 9 7 0年代以降にできた新し い組織です。学際的に再編したとはいえ、パリ1、

2(パンテオン・アサス)は法学、パリ3、4(パ リ・ソルボンヌ) は文学・人文、パリ5、6 (ピエー

ル・エ・マリー・キュリー)は医学・理学が主体と なっています。パリ7以下は学際性がかなり顕著で、

かつて私自身が仏文科の学生として留学したパリ7 は一般のフランス人にはむしろ理系の大学というイ メージが強いようです。時代の要請で生まれたこれ ら1 3の大学も、最近では大学の国際競争力をつける ため2、3の大きなグループに再編成する動きが出 てきています。

研究成果

研究テーマは、作家であり映画監督でもあったマ ルグリット・デュラスにおける「文学と映画の関 係」でした。映画研究でとくに知られているのはパ リ3とパリ7ですが、パリ7には学生時代に留学経 験がありましたので、あくまで文学との関連で研究 を行いたいという生真面目な理由と、ソルボンヌ系 の大学を見てみたいという他愛のない動機から今回 はパリ3を選びました。研究組織としては Centre de recherche sur les images et leurs relations という絵画・

写真・映画など映像一般と、それが社会や歴史、他 の芸術ジャンルなどと取り持つ諸関係についての研 究を専門とする研究所に属し、同研究所の共同所長 である映画研究者のジャン=ルイ・ルートラ教授と 美学を専門とし精神分析医でもあるミュリエル・ガ ニュバン教授にお世話になり、ガニュバン教授(写 真2)の主宰するゼミ(フランス語では「セミネー ル」 )に参加させてもらいました。当該年度のプロ グラムはすでに組まれていたので私自身が発表する ことはありませんでしたが、ゼミメンバーの一人が 主催する研究会で一度研究発表する貴重な機会を得 ることができました。 長く研究している作家 (ピエー ル・ロチ)に関する発表でしたが、人前で外国語で の発表をすることが久々であり、かなり冷や汗物で はありましたが、どうにか無事に終え、その晩はお

写真1:パリ第3大学正面入口

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かげさまで美酒に浸ることができました。一方、映 画については研究暦が長くない私にとって、滞在中 は映画プロパーの研究書の他、映画について美学、

社会学、認知科学、精神分析など種々の角度から論 じた基本的・古典的文献をまとめて読むことができ ました。これは年間を通して研究のみに専念できる 在外研修であればこそできたことだと思っています。

研究発表としては、思いがけず帰国前に上述のピ エール・ロチ国際学会に招かれベルギー国境近く リール近郊の町でロチの「日本観」を論じる機会が ありましたが、その際名前のみよく知るロチ研究者 に親しく接することができたのは望外の幸いでした。

ざっと以上がこの場でお伝えすることのできる公式 の研究成果です。

日々の生活

ゼミと研究発表以外には何をやっていたかという と、これはひとこと映

!

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!

!

!

に尽きます。映画の 受容、つまり映画を観る・論じるという点について 言うと、パリはまちがいなく世界一活発な都市、恵 まれた町だと思います(そもそもリヨンのリュミ エール兄弟によって開発された「シネマトグラフ」

が1 8 9 5年に世界で初めて上映されたのもパリでし た) 。映画研究はもとより映画自体の認知度がフラ ンス以上に高い国はありません。上述パリ3、パリ 7には世界中から学生と研究者が集まっています。

上映施設については、 公共のものとして、 シネマテー ク・フランセーズ (伝統ある国立フィルムセンター) 、 フォロム・デ・ジマージュ(旧「ビデオテーク」が 新装オープンして3年目に入っている市立映像セン

ター) 、それぞれに付属する映画専門図書館、街に 出ればパリ市(福岡市の3分の1の面積)内だけで 8 0近くの映画館があり(写真3、4) 、大学にも自 前の上映専用施設が設けられています(パリ3の場 合) 。一般に昼前から深夜1 2時までの上映ですから 年間にパリではいったい何本の映画が観られるのか 見当もつきません。ただ観るだけではなく、教育的 活動も盛んで、映画の寺子屋ともいうべき「シネク ラブ」があちこちで開催され老若男女が上映後の討 論会を楽しんでいます。大学の映画研究者による公 開講座も頻繁に開かれており、各所で多くの市民が 耳を傾けています。著名な監督や俳優、カメラマン 等の技師など、小さな映画館でもさりげなく訪れて

(著名人だからといって日本のように仰々しいセレ モニーはしません)観客との出会いを彼らもまた楽 しんでいるようです。私が見ることができたのは、

俳優ではジャンヌ・モロー、エマニュエル・リヴァ、

写真2:ガニュバン教授夫妻と 写真3:シネマテーク・フランセーズ

写真4:カルチエ・ラタンの映画館

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ベルナデット・ラフォン、クラウディア・カルディ ナーレ、アヌーク・エメマリー・リヴィエール、イ ザベル・ユペール、 ジャン=ピエール・レオー、 ジャ ン=ポール・ベルモンド、アラン・ドロン、ジム・

キャリー、アンドレ・デュソリエ etc、監督ではフ ランシス・フォード・コッポラ、クレール・ドゥニ、

ペドロ・コスタ、ジャン=マリ・ストローブ、イ・

ミョンセ、ベルトラン・タヴェルニエ、アラン・カ ヴァリエ、etc... 「シネフィル」と呼ばれる映画通な いし映画愛好家はたいてい年間パスを利用していま すから本数を重ねるほど安く見ることができます。

私はシネマテークとフォロム・デ・ジマージュ、お よび一般の映画館連合(系列館と独立系が提携した もの)と、3枚の年間パスを持っていましたが、合 計で約5万円、滞在中5百数十本見たので1本1 0 0 円しなかったことになります。そんなパリでも独立 系の映画館は経営が苦しいようですが、それでも やっていけるのはひとえに映画をこよなく愛するパ リ市民とフランス国家の手厚い補助のおかげです。

広い意味での映画館通いということになりますが、

この1年でカンヌ、ベネチア、ベルリン各映画祭の 会場(加えてローザンヌにあるシネマテーク・スイ スやラ・ロシェル映画祭)を視察することができた のも長期滞在ならではのことでした。

映画の他に滞在中の日常生活で重要な位置を占め ていたのは食べ物とワインですが、これについは今 回の研究テーマとは直接関係がないので割愛させて いただきます. . .

0年後.

最後に、私個人のフランス経験について申します と、フランスでの長期滞在は1 9 9 0年(平成2年)に 帰国した学生時代の3年間の留学からかぞえてちょ うど2 0年ぶりということになります。2 0年前はパソ コンがまだまだ普及しておらず、携帯電話はなく、

通貨はフランの時代でした。今回はインターネット を通じてあらゆる情報を容易に得ることができ、携 帯電話こそ持ちませんでしたが電子メールはもちろ んのこと「スカイプ」なる実に便利な通信手段を活 用でき、ユーロ圏の旅行においては共通通貨のあり がたみを知りました。日本では IT 革命をリアルタ イムで漸進的に生きているのでさほど戸惑いはあり

ませんが、2 0年の時を経ても外見はあまり変わらな いパリの街なかで、フランス人が携帯を耳に当てて 歩く姿を目にしたり、ネットカフェの看板をここか しこに見かけたりするのには、はじめのうちはかな り違和感がありました。支払いをするのにも「フラ ン」 という言葉が口をついて出てきてしまい、 1ユー ロとはいったいどれくらいなのか実感するには多少 の時間がかかりました。しかし何事も便利なモノに はあっという間に慣れてしまうもので、やがては、

かつて料金を気にしながら国際電話をかけたり、日 本の某新聞の衛星版を共同で購入して回し読みした り、 友人に急ぎの文献送付を頼まれて 「テレコピー」

なるもの(なんのことはないファクシミリのことで す)を郵便局まで頼みにいったりしたのが懐かしく 思い出されるまでになりましたが、考えてみればそ のようなものにしてもさらに2 0年前、6 0年代のフラ ンスからみれば相当に便利な代物であったにはちが いありません。そう思うとこれから2 0年後のパリは どんな風になっているだろうか、生きていたら(そ してまだ足腰が立てば)行って見てきたいものです が、考えてみればその頃には齢7 0を迎える私自身の 変化の方がパリの街の変化を大きく上回っているこ とでしょう…

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海外レポート

現在進行形の「国家」

法学部准教授 玉 蟲 由 樹

2 0 0 9年8月から1年間、ドイツにあるフライブル ク大学で在外研究の機会を得た。大学があるフライ ブルクは、ドイツ・スイス・フランスの国境近くに 位置し、温暖な気候と環境政策とでよく知られる都 市である。また、シュヴァルツヴァルト(黒い森)

の玄関口としても有名で、多くの旅行者がフライブ ルクを出発点としてシュヴァルツヴァルトを目指し ていく。フライブルク自体も緑の多い、大変のどか な街である。

フライブルク大学(正式名称はアルベルト・ルー トヴィヒ大学フライブルク)は、ドイツで3番目に 古い大学であり、1 4 5 7年にオーストリアの大公アル ブレヒト6世によって創立された。かつては哲学者 ハイデッガーが教鞭をとっていたことで、日本でも その名を知る者が多い。また、私が招聘研究員とし て所属した法学部は大学設立以来の伝統を誇る学部 であり、世界的に著名な学者が数多く在籍している。

そんな風光明媚な都市にある、長い伝統に彩られ たフライブルク大学法学部は、私が赴いた2 0 0 9年8 月、まさに国家レベルの大ゲンカ(?)の真っ最中 であった。

私は憲法学を研究しているため、法学部のなかの 公法学研究室に在籍することとなった。私の在外研 究を受け入れてくれたのは、ドイツの国家学および 環境公法の分野の第一人者である Dietrich Murswiek 教授であった。とりわけ、国家が環境保護を担うべ きことを憲法上の義務と論じた彼の著作は、その後 のドイツ基本法改正に大きな影響を与えたことでよ く知られている。また、最近では、国家の役割論の 観点から EU とドイツ国家との関係についても多く の論攷を発表しており、この分野においてもトップ ランナーの一人である。

フライブルク大学法学部には、当時、Murswiek 教授のほかに5名の憲法・行政法の教授がいたが、

そのうちの2名、Andreas Voßkuhle 教授と Johannes

Masing 教授は、ドイツ連邦憲法裁判所の裁判官も

務めている。しかも、Voßkuhle 教授にいたっては、

2 0 1 0年に史上最年少で連邦憲法裁判所の長官に就任 し、いまやドイツの憲法政治の中心にいるといって も過言ではない。

ドイツでは、連邦憲法裁判所が憲法問題に関する 特別裁判所として、ドイツの憲法にあたる基本法

(Grundgesetz)の最終的な解釈権限をもっている。

そのため、連邦憲法裁判所には、条約や法律の憲法 適合性についての訴訟が数多く提起され、これらに 対する連邦憲法裁判所の判断は憲法解釈にとってき わめて大きな意義をもっている。そもそも憲法は国 政のあり方と切っても切り離せない関係にあるため、

連邦憲法裁判所の憲法解釈によっては、国家の政策 が大きく変動することもあり得る。連邦憲法裁判所 長官は、このような連邦憲法裁判所の「顔」として、

その発言が常に注目の的となる人物である。

他方で、連邦憲法裁判所に持ち込まれる訴訟では 多くの場合、憲法学者が訴訟代理人を務めている。

すなわち、訴訟の申立人が、自分の意見をよりよく 代弁してくれるであろう憲法学者に申立書などの執 筆や口頭弁論の代理などを依頼するのである。した がって、ドイツでは、同じ憲法研究者同士が連邦憲 法裁判所の法廷において、かたや原告側訴訟代理人 として、かたや被告側訴訟代理人として、さらには 裁判官として意見を戦わせるということが珍しくな い。Murswiek 教授もまたこれまでいくつかの訴訟 において訴訟代理人を務めてきた。

2 0 0 9年のドイツでその訴訟の行方が最も注目され たもののひとつが、既存の EU の基本条約を修正す るリスボン条約の基本法適合性をめぐる訴訟であっ た。リスボン条約は、EU 統合をさらに進展させる ための条約であり、とりわけ欧州議会の権限強化な

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どを定めていたが、こうした権限強化に伴う EU へ の国家の権限移譲が基本法の想定する主権国家像に 反するのではないかが問題となっていた。このため、

リスボン条約の批准にあたって、さまざまな立場か ら憲法訴訟が連邦憲法裁判所に提起されたのである。

Murswiek 教授はそのうち一部の訴訟の訴訟代理人

を務め、リスボン条約にもとづく国内の立法権限の 移譲などが基本法で許容される限度を越えていると の主張を行った。そのなかで彼は限度なき立法権限 の移譲がドイツから主権国家としての性格を失わせ、

またドイツ国民から選挙権の行使や民主主義的決定 への参加の機会を剥奪することになりかねないとの 懸念を示していた。

この訴訟は、連邦憲法裁判所第二法廷で審査され ることとなったのだが、奇しくも、第二法廷には

Voßkuhle、Masing 両裁判官が在籍していたのであ

る。ここに、同じ大学の同じ学部の同じ研究室に在 籍する3人が立場をかえて相まみえることとなった。

2 0 0 9年6月末に下された判決で、第二法廷は Mur-

swiek 教授の意見を一部容れつつも、結論において

は教授と反対の立場をとり、リスボン条約そのもの とそれにかかわる批准立法の大部分を合憲と判断し た。つまり、Murswiek 教授は負けたのである。

私が在外研究を始めた8月は、いまだその興奮の 冷めやらぬ時期であり、ドイツ国内においても連邦 憲法裁判所の判決の評価を巡って様々な議論が行わ れていた。Murswiek 教授も連邦憲法裁判所判決は 大きな誤りを含んでおり、とうてい受け入れられな いとの姿勢を崩しておらず、メディアでもそうした コメントが紹介されていた。もちろんその一方で、

裁判長を務めた Voßkuhle 教授も、裁判所の立場を 代弁するスポークスマンとしてメディアに引っ張り だこであった。

実は、その頃、フライブルク大学で開かれたある シンポジウムでその2人の話を聞く機会に恵まれた。

ともにリスボン条約判決を題材にもってきたのはさ すがである。参加者は3 0名ほどの比較的クローズド な会合であったが、そこでも両者ともに譲らぬ白熱 した議論が展開された。連邦憲法裁判所の裁判の当 事者が同席し、それについて熱く議論する姿を見る 機会などそうそうないだろう。聞けば、Murswiek 教授が是非にと Voßkuhle 教授を誘い、Voßkuhle 教

授も忙しい身にもかかわらず快諾したとか。

私自身は残念ながら EU 法の分野にはとんと疎い ため、正直言って、専門的な議論になると半分くら いしか理解できなかった。しかし、2人がまさに現 在進行形の「国家」を正面から論じていることに深 く感銘を受けたし、改めて自分が研究する憲法学と いうものの深さを思い知ったような気分になった。

そこで展開されていたのは紛れもなく国家学的論争 であった。

日本でもドイツでも「国家学としての憲法学」が すたれつつあるといわれる。実際、私も研究を続け るなかでそのような傾向を感じるときがある。その 意味では、偶然ではあるが、フライブルク大学でま さに「国家」をテーマとして論争する2人(Masing 教授を含めれば3人)の姿を間近で見られたことは 刺激的であった。このような貴重な機会を与えてく ださった本学の関係者に感謝するとともに、在外研 究中、公私にわたり面倒を見てくださった Murswiek 教授および公法研究室のスタッフにこの場を借りて 厚く御礼申し上げたい。

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海外レポート

カリフォルニア大学バークレー校における在外研究

工学部准教授 柴 田 久

2 0 0 9年9月からの一年間、カリフォルニア大学 バークレー校(以降 UCB)の環境デザイン学部に 客員研究員として滞在する機会を頂いた(写真1) 。 UCB は、ケーブルカーやゴールデンゲート・ブリッ ジ等で有名な観光地サンフランシスコのベイエリア 東部、 バークレー市にある。 同市は6 0年代のヒッピー 文化や学生運動の発祥地として知られ、特に大学に 隣接した Telegraph Avenue(写真2)は多くの学生 やストリート・パフォーマーによっていつも賑わい を見せていた。カリフォルニア大学の系列の中で最 も古い歴史を持つ UCB は、バークレー・ヒルズを 含む、約5 0 0ヘクタールの巨大なキャンパスを有し ている。豊かな緑に包まれたキャンパスには世界中 から学生が集まり、自由な校風のもと様々な活動が 営まれている。筆者の滞在中にも何度か学生運動が 行われており、夜帰宅するとテレビニュースで報じ られるほど大々的なものもあった。UCB は3 0 0以上 とされる学部、大学院教育プログラムを持ち、その 充実した施設環境には格の違いを見せつけられた。

スタジオ・クラスによる実践的デザイン教育

筆者は環境デザイン学部の Landscape Architecture

& Environmental Planning 学科に所属し、同学科の Randolph T. Hester 教授ならびに Marcia McNally 教 授にお世話になった。Hester 氏の専門はコミュニ ティの再生や地域活性化を中心としたまちづくりや 公園等のデザインである。アメリカで数多くの受賞 歴を持つ氏は、台湾や韓国でも活動実績を持つ世界 的に活躍する環境デザイナーである。彼以外にも UCB には多くの著名な建築家や都市デザイナー、

地域プランナーなどが所属しているが、最も印象的 だったのは、環境デザイン学部の講義形態とそれに 関わる講師陣の姿であった。同デザイン学部ではい わゆる座学の講義に加え、多くのスタジオ・クラス

(設計演習を中心とした講義)が学年毎に複数存在 する。演習内容は、実際の町や都市空間を対象エリ アとして設定し、そこが抱えている問題を学生自ら 調査・抽出、デザインによる解決策を多くの図面や 絵で表現するパネルにまとめ、提案するといったも のである。講義の終盤には、環境デザイン学部のあ る Wurster Hall 一階にて発表会が行われ(写真3) 、 これには受講者に関係なく誰でも参加することが出 来る。また発表会では、学生の提案するパネルへの 質問やコメントを行う講師として、担当教授だけで なく学外からの著名なデザイナーや住民などがゲス トとして招かれる。学生一人一人の提案に対して丁 寧に講評していくその発表会はほぼ一日を費やして 行われており、3月末から4月の Wurster Hall 一階 は常にどこかのスタジオ・クラスが発表会を行う雰 囲気であった。末席ながら筆者も参加させていただ いたが、学生の発想や提案内容のユニークさ、講師 陣の熱意ある指導の様子が刺激的であった。

実は今年度、筆者が所属する大学院工学研究科建 設工学専攻の講義内容の一つに、福岡市アイラン ド・シティに計画が予定されている野鳥公園の提案 を演習課題として設定し、2 0 1 1年2月より UCB に て行われる Hester 氏のスタジオ・クラスにおいて も同テーマで演習が行われるという共同プロジェク トを現在進めている。帰国後すぐの昨年9月に Hes-

ter、McNally 両氏をここ福岡に招いた経緯もあるが、

福岡大学大学院の学生が調査・考案した成果に基づ き、UCB の学生が同じく同公園のデザインを提案 するという、大学間の連携、成果の比較など、今後 の展開が期待されるところである。

The SWA Group のインターンシップ・プログラム

さらに筆者が在外研究期間中に携わることのでき た貴重な経験として、世界的に活躍する環境デザイ

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ン事務所 The SWA Group(以降 SWA)のインター ンシップ・プログラムが挙げられる。Landscape Ar- chitecture や Urban Design を中心に各国で実績をも つ SWA は、1 9 5 7年、佐 々 木 秀 雄 と Peter Walker に よって設立された。両氏はハーバード大学での教鞭 経験もあり、ここで報告するインターンシップ・プ ログラムは、本年度までに約3 0年間続くものである。

筆者はオブザーバー兼スペシャル・デザイン・クリ ティーク(特別講師のようなもの)として参加させ ていただいたのだが、毎年行われる本プログラムに は世界中の学生から応募があり、2 0 1 0年度は1 2 5名 から6名が選抜される狭き門となった。プログラム の期間は約8週間、初めの4週間を事務所内(本年 度は California 州 Sausalito)のデザイン・スタジオ、

残りの4週間を各自配属された米国内の事務所で過 ごす。デザイン・スタジオでは SWA が関わりを持 つ町や敷地の計画・設計プロジェクトを課題として 設定している。本年度はサンフランシスコから北東 4 0 km ほどのところにある Vallejo という町の中心街 ならびに隣接する臨海部の活性化プランの提案で あった。ワインで有名な Napa Valley への通り道と なる Vallejo は San Pablo Bay に繋がる特徴的な瀬戸 に隣接し、1 0 0年以上続いた造船所を持つ古くから の港町である。しかし、1 9 9 6年に造船所が閉鎖され たことで街は一気に衰退し、2 0 0 8年にはカリフォル ニア州で破綻した最も大きな町となってしまった。

船を修理するドックなどは今も残され、街には少な いながら歴史的建造物も現存している。学生達は SWA のスタッフとともに現地踏査、地元関係者と のディスカッション、有識者からのレクチャーを受 け、グループ作業と最終的には学生個人で提案内容 を図面化し、前述したパネルによって発表する。

ま た ス タ ジ オ で は 第1週 目 に「Urban/Regional Planning」 、2週目に「Urban Design/ Open Space」 、 3週目に「Down Town」 、4週目に「Waterfront De- sign」と週ごとにテーマが設定され、課題対象地に ついて、より広範な視点から具体的なデザイン案へ、

徐々に焦点を絞っていく構成が取られている。学生 の指導には「プリンシパル」と呼ばれるチーフ・デ ザイナーを中心に、担当スタッフが決められており、

各週末には中間発表、また第4週目には最終発表会 が設定されている。プリンシパルは学生と同じテー

ブルを囲みながら、調査や作業のポイント、プレゼ ン方法等について、かなり具体的な指導を行ってい た。最終発表会では SWA のみならず他事務所のデ ザイナーを含め、地元コミュニティや自治体など多 くのゲストが招かれ、学生の提案に対して丁寧に批 評やアドバイスが行われていく(写真4) 。学生の 提案に対し て 厳 し い コ メ ン ト も 飛 び 交 う な か、

Vallejo の将来について真剣に議論する発表会の雰

囲気はとても印象的であった。期間中はほぼ毎昼食 時に、これまで SWA が行ってきたプロジェクの紹 介と質疑応答の時間も設けられている。学生たちは 事業経緯やコンセプト立案、計画・設計の手法等、

各国で活躍するデザイナーから実務に関わる生の声 を聞き、大学の授業ではなかなか出てこない現場や 都市、社会の実情を学んでいた。

本プログラムを総括する SWA プリンシパルの Elizabeth Shreeve 氏にインターンシップについて尋 ねたところ、彼女は以下のような話をしてくれた。

「インターンシップの重要な点は学生側と企業側の 二つの見方で異なる。学生にとっては、オフィスで 働きながら実際のプロジェクトや実務に携わるデザ イナーから直接知識やアイデアを学べる機会がある こと。企業にとっては、教育的なプログラムを通し て学生をよく観察し、優秀な若手人材を自分たちの 会社に引き抜ける利点がある」 。

我が国においてもインターンシップの重要性は認 知されており、筆者が所属する工学部の社会デザイ ン工学科を含め、学生の学外実習の場としてプログ ラム化されている大学も多い。しかし、学生に対す る実践的な教育と企業側の人材発掘の場としてイン ターンシップが十分に活用されているかどうかは若 干疑問も残る。景気低迷で苦しい財政下にある昨今、

時間やお金をかけたインターンシップの実施が難し いことは周知のとおりであろう。しかし、そのよう な時だからこそ、こうした手間暇かけた学生と企業 との密なやりとりが、時代を変えてくれる人材の育 成に繋がる糸口となるのかもしれない。いずれにせ よ、社会人として羽ばたく直前の教育機関として、

大学が企業との連携や実践的な教育、研究を行える かどうかは、重要な課題の一つといえるだろう。

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写真3 スタジオ・クラス発表会の様子

写真4 インターンシップ最終発表会の様子

写真1 UCB のシンボル Sather Tower

写真2 Telegraph Avenue(休日の歩行者天国の様子)

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参照

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