• 検索結果がありません。

『大陸新報』から見る上海の 音楽文化と日本人

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『大陸新報』から見る上海の 音楽文化と日本人"

Copied!
23
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

は じ め に

 19 世紀半ば以降,欧米の租界を中心に発展した上海は世界有数の国際 都市となり,さまざまな人種・民族が織りなす文化の多様性から「東洋の パリ」とも呼ばれた。筆者はかつて拙著『上海 多国籍都市の百年』(中 央公論新社,2009 年)の中で,居留民の生活や文化芸術活動に焦点を当 て,租界の文化的発展に中心的な役割を担った民族を章別に取り上げた。

すなわちイギリス人,アメリカ人,ロシア人,日本人,ユダヤ人,中国人 である1)

 日本人は 19 世紀末から上海に進出して共同租界の一角にコミュニティ を築き,第一次世界大戦期から上海経済に大きな影響力を持つようになっ た。1915 年に初めてイギリス人の数を抜いて以来,第二次世界大戦が終 わるまで租界の外国人の最大勢力であり続けた日本人だが,その存在が上 海の文化面にどのような役割を果たしたかについて検証されたことはあま りなかった。コミュニティが作られたのが租界中心部からはずれた虹口地 区であったことや,独自の言語・文化を持つことから,日本人は欧米主流 の租界においては異質な存在だったといえる。また太平洋戦争開戦後,日 本軍は英米人を追放して租界の支配者になったため,特に中国側の研究に おいては,社会生活や文化の破壊者というイメージでとらえられるのが一

音楽文化と日本人

榎 本 泰 子

(2)

般的であった。

 その中で,21 世紀に入り,「上海的外国文化地図」シリーズの一冊とし て陳祖恩著『上海的日本文化地図』2)が刊行されたことは注目に値する。

日本人居留民の研究で知られる著者が,一連の仕事の成果を一般向けにま とめたもので,日本人コミュニティの歴史や衣食住などの風俗,代表的な 建築や生活風景などを豊富な写真とともに紹介している。租界時代の上海 文化に大きな影響を与えたイギリス,フランス,アメリカなどと並べて,

日本が取り上げられたことには画期的な意義があり,「普通の日本人」の 暮らしがようやく当時の市民生活の一部として位置づけられたということ ができるだろう。

 外国人居留民の生活や文化芸術活動などを検証するために,有用な資料 は外国語による新聞である。従来から用いられてきた代表的な英字新聞

『North China Herald(字林西報)』『North China Daily News(北華捷報)』は 近年電子データベース化され,調査研究に飛躍的な進展をもたらした。そ の他,フランス語新聞『Le Journal de Shanghai(法文上海日報)』は,筆 者もメンバーの一人であった日本の研究グループ3)がフランス国立図書 館(BnF)所蔵分の電子データ化を働きかけ,現在では同館のホームペー ジを通じて公開されている。これらの新聞は英米人やフランス人の視点か ら見た租界のニュース,および中国や世界の情勢を伝える記事が中心であ り,当時祖国から遠く離れて暮らす人々が情報を共有し,コミュニティの 運営に役立てるために重要なメディアであった。

 同じ意味で,注目されるのが日本語新聞『大陸新報』である。日中戦争 期の 1939 年 1 月 1 日に創刊され,終戦後の 1945 年 9 月 10 日付の紙面ま で確認できる日刊新聞で,陸軍,海軍,外務三省と興亜院の後援で創刊さ れた国策新聞であった。しかし,新聞の性格がそうであったとしても,上 海における日本人居留民の生活や,文化芸術活動を検証するための貴重な 資料であることは疑いない。すでに,上海における日本人作家・文化人の 動向を研究してきたグループによって『新聞で見る戦時上海の文化総覧

(3)

──「大陸新報」文芸文化記事細目』(大橋毅彦ほか編著,ゆまに書房,

2012 年)が刊行されており,これを頼りに記事のタイトルや掲載年月日 を特定し,マイクロフィルムを調査することができる。

 本稿は,筆者が以前拙著『上海オーケストラ物語 西洋人音楽家たちの 夢』の中で触れた工部局交響楽団(Shanghai Municipal Orchestra)の移 管問題4)について,『大陸新報』の記事の検証を通じて再考することを目 的とする。1879 年に創立された上海パブリックバンドを前身とする楽団 は,共同租界工部局直属の組織として市民の税金によって運営されていた が,太平洋戦争開戦後の 1942 年 5 月末に工部局の管轄を離れ,日本側に 移った。楽団は「上海交響楽団」と名称を変えたが,白系ロシア人を中心 とするメンバーの顔ぶれもほとんどそのままに終戦まで活動を続けた(戦 後何回かの改称を経て,現在の上海交響楽団に至る)。太平洋戦争期の演 奏活動については『上海オーケストラ物語』執筆当時なお不明な点が多か ったが,刊行後に入手した演奏会プログラム等の資料により,実態がほぼ 明らかになった(榎本泰子「太平洋戦争期の上海における音楽会の記録

──上海交響楽団の演奏活動について──」)5)

 上海交響楽団は戦時下においてなお,工部局交響楽団時代と同様定期的 に演奏会を行なっており,中国人演奏家を登用したり,中国語による楽曲 解説をプログラムに載せたりしたことに新しさがあった。これらの事実を 踏まえて改めて『大陸新報』等の資料を調査してみると,一つの楽団をめ ぐる言説から当時の日本の文化政策の方向性や,租界の欧米文化に対する 日本人居留民の意識などが見えてくる。本稿は主に太平洋戦争開戦前後の 1941 年から 42 年にかけての時期を対象として,「東洋のパリ」の音楽舞 台に存在感を示そうとした日本人の動きを検証してみたい。

1. 上海の音楽的環境と日本人

 『大陸新報』に掲載された音楽関係の記事を大まかに分類すると,①上

(4)

海での音楽活動に関するもの,②日本国内の音楽界に関するもの,③外国 の音楽界に関するもの,となる。このうち①の「上海での音楽活動」に は,日本人居留民が主催・出演する音楽会や,内地から上海を訪れた演奏 家・歌手等による音楽会のほか,租界の欧米人による音楽会も含まれてい る。ただし,欧米人による音楽会を報じる記事の大半は工部局交響楽団の 定期演奏会についてであり,個別の音楽家のリサイタルなどは少ない。

 筆者が『上海オーケストラ物語』で紹介したように,海上交通の要地で あった上海にはしばしば欧米の著名演奏家が来訪し,リサイタルを開いた り工部局交響楽団と共演したりした。しかしそれも 1937 年の日中戦争開 始までのことで,以後は上海在住の白系ロシア人や,ナチス・ドイツの迫 害を逃れてきたユダヤ人の演奏家が中心となる。特に白系ロシア人の存在 は,1920 年代以来上海の音楽文化の形成に大きな役割を果たしてきた。

祖国の音楽学校で専門的な教育を受けた音楽家たちは,工部局交響楽団の 中核となっただけでなく,生活のためにダンスホールやナイトクラブでジ ャズやダンスミュージックを演奏した。1930 年代に入って生活が安定す ると,祖国の文化伝統を保持するために歌劇団やバレエ団を組織し,定期 的に公演を行なった。水準の高いさまざまなジャンルの演奏が常に行なわ れているという点で,上海は同時代の東京を含む東アジアの諸都市と比べ てはるかに優れていたのである。

 工部局交響楽団の存在が日本国内の音楽関係者に知られていた一方,ポ ピュラー音楽の分野では上海が「ジャズの本場」であると喧伝されてい た。日本国内では 1920 年代から上海ブームが起こり,「日本に最も近い西 洋」へのあこがれが高まっていたが,上海を訪れる日本人に「西洋」を感 じさせるものはバンド(外灘)の建築や緑あふれる公園にとどまらず,文 化・芸術活動も大きな要素であっただろう。とりわけ音楽や舞踊は言葉を 必要とせず,直接感覚に訴えることができるため,文化伝統を異にする日 本人にも理解しやすいというメリットがあった。

 それでは観光客ではなく,上海で生計を営む日本人は,優れた音楽的環

(5)

境の恩恵をどのくらい受け,またどのようにそれを利用していたのだろう か。まず音楽家ないし音楽の専門教育を受けた人々がどのくらいいたかを 考えてみる。1928 年 10 月末に上海の日本総領事館によって行なわれた調 査に基づけば,27,760 人を数えた日本人居留民のうち,銀行や大企業の 幹部など「会社派」エリート層が 3%,「会社派」中間層が 40%で,その 他が「土着派」と呼ばれる中小商人などの一般民衆層であったという6) 職業音楽家は,「新聞雑誌記者通信者著述者画家彫刻家写真師」を除く

「その他の自由業」計 110 人の中に含まれると見られるが,詳しい数はわ からない。日本人街である虹口地区には日本人向けのダンスホールなども あったため,バンド演奏に従事する音楽家などは常に一定数いたと考えら れる。「教育関係者」145 人の中にも学校の音楽教員等が含まれていたは ずで,さらにエリート層の夫人や令嬢の中にも音楽学校の卒業生がいた可 能性がある。

 虹口地区の商店街には音楽関係の店がどのくらいあっただろうか。1926 年版『上海年鑑』7)の「上海邦人営業別名簿」によれば,楽器・楽譜を扱 う商店として一木洋行,松友三味線店,文乃家(三味線),栄昌公司,栄 商会の五つが挙げられている。三味線の需要は花柳界と関係があるのだろ うが,限られた日本人コミュニティの中に複数の楽器店が存在しているこ とは注目される。また蓄音機を扱う商店としては一木洋行,日東洋行,大 鳳洋行(修理),栄昌洋行,栄商会,宮沢洋行があった。二つの項目にま たがって社名が出ている店(一木洋行,栄昌公司(洋行),栄商会)は,

扱う商品がそれだけ幅広かったことになる。ちなみに同じ『上海年鑑』の

「上海邦人貿易商」によれば,一木洋行は「ピアノ,蓄音機,其他西洋楽 器附属品」の輸出入を手がけ,「米国ビクタートーキングマシン会社」「独 逸スチクルピアノ会社」の代理店でもあった。

 「上海邦人営業別名簿」の中には「音楽」という分類があり,音楽研究 所,檀青松(尺八),国風音楽研究会,天狗堂(国楽)の四つが挙げられ ている。これらは楽器の教授または研究を恒常的に行なっていた個人ない

(6)

し団体であると考えられ,名称から「音楽研究所」が西洋音楽系であると 推測される。その住所は施高塔路千愛里一九号となっており,内山書店の 店主内山完造が 1931 年から自宅を構えたブロックと同じである。千愛里 は日本企業が日本人用住宅として 1922 年に建設したところで,当時日本 の紡績会社等に勤める中間層が急増していたことを反映している。「音楽 研究所」の主宰者もそのような中間層の一人だったのだろう。

 千愛里の東隣のブロック,やはり日本人向けの住宅である留青小築に住 んでいた女性(1937 年上海生まれ)の回想によれば,国民学校に通って いた頃近所の「おばあちゃん先生」の家に週何回かピアノを習いに行って いたという8)。女性は自宅の応接間に自分のピアノを持っていた。習っ ていた先生は文脈から日本人と思われるが,日本人居留民のエリート層の 中には白系ロシア人教師を招いてピアノを学ぶ者もいた。1920 年代から 30 年代にかけては,日本国内でもラジオ放送の開始(1925 年)や常設の 交響楽団の創立(1926 年)によって西洋音楽の普及が進んでいた。ラジ オや蓄音機を通じて西洋音楽を楽しむ習慣を身につけた人々にとって,上 海は楽器や楽譜,レコードなどの物質面だけでなく,教師の人材という面 でも優れた環境にあったはずである。

2. 虹口における工部局交響楽団

 1930 年代の工部局交響楽団は,毎年 10 月から翌年 5 月まで毎週日曜夜 に演奏会を開いていた。『大陸新報』にも「日曜演奏会」として曲目など を紹介する予告記事が時折掲載されている。楽団は 7 月から 9 月にかけて は,租界の主要な公園でそれぞれ週一回の野外コンサートを行なってい た。バンドに面したパブリックガーデン,フランス租界のジェスフィール ド公園が定位置であったが,1934 年からは虹口公園も会場となっている。

野外での演奏は通常管楽器主体のブラスバンドであるが,専用の舞台(音 楽堂)が設置された虹口公園とジェスフィールド公園では,隔週でオーケ

(7)

ストラ演奏も行なわれた。劇場での演奏会とは異なり,服装の気兼ねもな く,誰でも無料で参加できる野外コンサートは,観光客も含めて幅広い人 気があった。

 広さと美しさで上海一を誇るジェスフィールド公園でオーケストラ演奏 が行なわれたのは当然としても,地理的にはずれた虹口公園(虹口地区の 最北端)が会場に選ばれたことは意外の感がある。しかし後述するよう に,楽団は 1920 年代から財政難を理由にしばしば存廃が議論されており,

1930 年代に入ると映画やダンスなど娯楽の多様化によって欧米人の聴衆 が減少していた。したがって新たな聴衆を開拓するために,租界の外国人 の最大勢力である日本人を引きつけることが重視されていたと考えられ る。1935 年 4 月には虹口の歌舞伎座で初めて日本人児童のための特別演 奏会が開かれ,1936 年 2 月には近衛秀麿が日本人指揮者として初めて定 期演奏会に客演した。

 日本人居留民にとって,工部局交響楽団による演奏が少しずつなじみ深 いものになっていったとしても,それが日常的な娯楽になるにはまだ距離 があった。それは 1934 年から定期演奏会の会場に定められたライシャム シアター(現在の蘭心大戯院)が,共同租界中心部よりもっと遠いフラン ス租界に位置していたこととも関係がある。日本人コミュニティの位置す る虹口は,租界中心部とは蘇州河で隔てられており,「河向こう」の劇場 には路面電車を乗り継いで行かなければならなかった。日曜の夜 9 時 15 分から始まる演奏会を聴いたとすれば,虹口に帰り着くのは真夜中になる

(当時欧米人の社交習慣では,この開演時間が遅いという意識はなかった らしい)。加えて 1937 年の日中戦争開始後は,租界内で抗日テロに遭う恐 れもあったため,日本軍によって守られた虹口をわざわざ出ようとする人 は少なかった。日本人にとって「河向こう」までの物理的な距離は,文化 的な距離にもなっていたのである。

(8)

3. 「上海交響音楽同好会」の発足

 『大陸新報』が創刊された 1939 年に,上海在住日本人は 5 万人を超えて いた9)。『大陸新報』同年 1 月 4 日朝刊一面の広告欄には「戦捷の春に送 る大躍進キングレコード正月新譜」が紹介され,「流行歌」や「浪花節」

のほかに,「洋楽」としてオイゲン・ヨッフム指揮のベートーヴェン「第 九」や,「ブルースとトロット集」が挙げられている(当時の分類ではク ラシックもダンスミュージックも同じ「洋楽」である)。上海に暮らす 人々はこのような広告を通じて内地で何が流行しているかを知り,愛好家 はさっそく新譜を注文しに行ったのだろう。

 レコードやラジオを通じて音楽に親しむ人が増えると,同好の士による 音楽サークルも組織されるようになった。音楽会について報じる記事など によれば,ハーモニカや邦楽器の合奏団,合唱団などが複数存在していた ことがわかる。

 その中で「上海交響音楽同好会」という団体は異色だった。『大陸新報』

の関連記事によれば,活動を始めたのは 1940 年 5 月と見られ,同月 4 日 に大陸会館で工部局交響楽団による「事変後初の虹口公演」を主催した

(5 月 4 日朝刊五面「古い歴史に輝く 工部局交響楽団」)。1937 年 8 月に 始まった第二次上海事変では,虹口や隣接する閘北が戦場となったため,

事変後しばらくは虹口公演が行なわれなかったことがわかる。1940 年当 時楽団はまだ工部局音楽委員会の管理下にあり,虹口での演奏会は特別な 出張演奏ということになるため,主催者は少なからぬ出張料を払う必要が あったはずだ。しかし交響音楽同好会の資金の出所については明らかでな いし,どのようなメンバーで構成されていたのかもわからない10)  新聞記事によれば,交響音楽同好会は翌 1941 年 5 月 18 日に再び工部局 交響楽団の演奏会を虹口で開催した。同年 5 月 25 日と 27 日の紙面には,

(9)

交響音楽同好会会長の中村正明が「交響音楽同好会に就いて」と題する文 章を連載している(いずれも朝刊四面)。中村正明は,上海で書籍の輸入 販売を手がける「三通書局」の専務取締役を務める人物である11)。残念 ながら紙面の状態が悪く,特に上編はタイトル以外は断片的に言葉が読み 取れる程度で,租界の英米文化と虹口の文化を対照して述べているような 部分も細部がはっきりしない。とはいえ,「現代の戦争が政治経済文化を も引くるめた国家の総力戦である以上」「□□の□と化した曠野を耕し種 を蒔き英米の文化に匹敵する絢爛たる花を咲かしめ彼等をして日本文化の 優秀性を認識せしめることが我々の□□における最緊急の御奉公である」

というくだりから,活動の目的を十分にうかがうことができる(□は判読 不能な字を表す。以下同じ)。下編では,ベートーヴェンが従来「一部□

□階級」の芸術であった音楽を「一般大衆に解放した」ことを指摘したあ と,ナチス・ドイツが大規模な交響楽団や合唱隊の演奏を通じて「非常時 意識に緊張する国民に明日への勤労に対する憩ひと慰安を与へた」ことを 評価する。そして戦時下の上海においても同様の「大衆を相手とする芸 術」が必要であるとして,交響音楽同好会が今後演奏会を多数主催するこ とを宣言する一方,将来的には「虹口人士による」交響楽団や合唱隊の組 織が望まれる,と結んでいる。

 つまり交響音楽同好会の活動は,同好の士が集まって共に交響楽を楽し むという性質のものではなく,音楽による民衆の動員を目的としていた。

上海に日本人によるオーケストラが存在しない当時にあっては,まず既存 の工部局交響楽団を利用して演奏会を行ない,日本人居留民に奉仕させよ うとしているのである。また音楽を通じて,英米に対して「日本文化の優 秀性を認識せしめる」ことを重視しており,その活動は明らかに戦時下の 文化政策に沿うものである。したがって,その後工部局交響楽団の存続が 危ぶまれる事態になった時,交響音楽同好会の存在がクローズアップされ ることになったのは当然だった。

(10)

4. 工部局交響楽団の存続をめぐる報道

 工部局交響楽団は多額の運営費を要するため,共同租界の議会にあたる 納税者会議では,1920 年代からたびたび存廃が議論されていた。しかし 楽団は市民の税金で運営される数少ない文化団体であり,他に公的文化機 関・施設の少ない上海においては象徴的な意味合いがあるとして,いつも 存続賛成派が多数を占めていた。つまり経済的な収益を度外視してでも,

上海の文化水準の高さを示すためには,楽団を維持するメリットがあると されたのである。しかし太平洋戦争の開戦と日本軍の進駐,そして共同租 界の支配的地位にあった英米人の追放という事態になって,楽団はついに 存亡の危機に直面した。『大陸新報』1942 年 1 月 18 日朝刊三面には「岐 路に立つ工部局楽団 移譲か独立か 身の振り方協議」という記事が掲載 され,フランス租界当局への移管や個人的援助を得ての独立が検討されて いることが報じられている。

 その後工部局音楽委員会の内部でどのような議論があったのかは不明だ が,戦時下にあって新たな運営主体を見つけることはやはり難しかったよ うだ。『大陸新報』1942 年 5 月 2 日朝刊三面の「工部局音楽団 愈よ再出 発 廿三年の歴史に終止符」という記事では,楽団が「五月三十一日限り 新たに独立音楽団として再出発した」と報じられている。しかし「独立」

の意味は不明であり,どの団体もしくは個人が運営するかについてはまっ たく書かれていない。記事の大半は,1919 年にイタリア人マリオ・パー

チ(Mario Paci,当時『大陸新報』の紙面では「パッチ」と表記されてい

る)が指揮者に就任して以来の楽団史を紹介することに費やされている。

 ところが,5 月 30 日朝刊三面には「あす限りで改称 新出発する “上海 交響楽団”」という記事が掲載され,突然日本側の関与が報じられる。楽 団が「在滬日本各機関の肝煎りで六月六日新たに組織される上海音楽協会 によって指導□□される」と説明され,その第一回演奏会が 6 月 6 日に

(11)

「南京シヤター」(南京大戯院,現在の上海音楽庁)で行なわれることが知 らされる(実際に開催されたのは後述するように 6 月 18 日)。

 日本側が楽団の管理運営を引き継ぐことが,どこで,どのような議論を 経て決定されたのかは,一連の報道から読み取ることはできない。ただ し,日本人居留民の中に楽団の廃絶を惜しむ声があり,「日本人の面子」

にかけてもこれを維持・存続させるべきとの論調があったことが,以下の 文章からうかがえる。日本国内で刊行された雑誌『音楽之友』1942 年 8 月号に掲載された「上海音楽情報」がそれで,筆者澤田稔は『大陸新報』

記者であるという。

 ……近代都市として其の文化的使命を果す為には其の都市を代表す る音楽,優れた楽団を持つ事の如何に必要であるかと云ふ事も明らか な事である。してみれば皇軍進駐後の今日我方としては工部局管弦楽 団を維持費難の為に,仏租界当局や,一個人に委ねたならば我々日本 人の面子はどこに有るのであらうか,勿論虹口側当局としては個々の 案を持つて居る事と思考されるが,当局を援けて最も此の際活発なる 運動をせねばならぬ団体に上海交響音楽同好会がある。同好会は昨年 春誕生と同時に長足の発展活動をなし,他の文化団体を抑へたかの感 があつたが,下半期に至り如何なる理由か其の運動は一時静止するに 至つた。しかし過去に於いてしばしば工部局管弦楽団を虹口に迎へて 公演を催した業績は認めるべきで工部局楽団のよき後援者である同好 会としては,今楽団危機の声を聞いたならば多数の熱心なる会員は,

勿論全邦人に呼びかけて楽団救助の策に出るべきであり全邦人はこれ に進んで協力してこそ,軍官民一致して今回の租界進駐の一翼が達せ られると云ふものではなからうか12)

 この文章が『大陸新報』そのものではなく日本国内の音楽雑誌に載った 経緯は不明だが,上海在留邦人の心意気を内地の読者に示すという筆者の

(12)

強い意志が感じられる。ここでは上海交響音楽同好会の存在が強調され,

楽団の管理・運営の受け皿になるべきという考えが示唆されている。そし て実際に物事はその通りに進んだ。『大陸新報』1942 年 6 月 14 日朝刊三 面の「指揮者を三名に音楽協会新発足 定期演奏会を初め音感教育に一 役」と題する記事によると,楽団運営のため新たに結成された「上海音楽 協会」には,会長に堤孝(在華日本紡績同業会)が就任し,常務理事に山 田明(日本ヴィクター蓄音機),理事に川喜多長政(中華電影公司),岩崎 愛二(上海広播電台,上海放送局),福田千代作(上海居留民団),そして 中村正明(上海交響音楽同好会)が名を連ねた(括弧内の肩書きは原文の まま)13)。日本人居留民社会の代表,およびメディア・音楽関連業界・音 楽愛好家の代表が勢揃いした感がある。ただし「顧問」として興亜院の文 化担当者や陸海軍の報道部長,領事館の情報部長などが加わっていること から,上海音楽協会が占領地における文化政策を担うものとして位置づけ られていることは明らかであった。

 同じ記事によれば,上海交響楽団は工部局交響楽団の団員をそのまま引 き継いでいたが,従来正指揮者がパーチ一人であったところを,副指揮者 だったフォア,さらにベルゴンスキー14)と並べて三人体制としたところ に新味があった(後述するようにこの点がのちに批判を浴びることにな る)。虹口での定期演奏会のほか,「河向ふ」での定期演奏会が予定され,

「協会員」(楽団員を指す)が国民学校等に出張し「音感教育を施す」こと が計画されていた。会長の堤孝の談話は「音楽文化の育成へ」と題され,

「現地の音楽文化の発展育成,またこれを通じて日本文化の普及を計り併 せて大東亜共栄圏の建設に資せんとするものである」と述べられている。

しかし末尾に「適当な方法によって現地在住民の音楽に対する理解向上に 努めたい」とあるように,大半の日本人居留民にとって,交響楽はいまだ 啓蒙・普及の段階にあるのが実情だった。

 6 月 18 日,新生上海交響楽団のお披露目が南京大戯院で行なわれ,そ の様子は翌日の『大陸新報』に「夏の夜の夢幻 上海音楽協会設立記念演

(13)

奏会 音律に酔ふ聴衆数千」と大きく報じられた(朝刊三面)。南京大戯 院は競馬場(現在の人民公園と人民広場)の南側,共同租界とフランス租 界が接するあたりに位置し,虹口からの距離はライシャムシアターよりは まだ近いが,平日の夜 8 時 15 分開演となれば行きにくいことに変わりは ない。それでも「この歴史的な第一回大演奏会を聞かうと定刻前から劇場 前は殺到した聴衆で大混雑を呈し」たといい,添えられた写真は明瞭でな いものの,会場が日本人聴衆で埋め尽くされているという印象を与える。

「聴衆数千」といういささか誇張されたタイトルからも日本側の意気込み が伝わってくるようだ。お披露目公演を虹口でなく,欧米人市民の生活エ リアである租界中心部で行なったことにも,楽団を従来どおり,否それ以 上に活躍させたいとする「日本人の面子」が表れている。

 この日はパーチ指揮,曲目はベートーヴェンの交響曲「田園」等の西洋 クラシック音楽が中心だったが,日本人作曲家箕作秋吉の「サラバンデ」

が含まれていたのが常とは異なる点であった。「サラバンデ」は箕作秋吉 の代表作『小交響曲ニ長調』(1934 年作)の一部で,オーストリアの指揮 者・作曲家であるワインガルトナーの来日を記念して設けられた「ワイン ガルトナー賞」に入選した作品である。日本人作曲家が作った管弦楽曲と して,当時の世界的音楽家からお墨付きを得た作品だったわけで,こうし た曲をプログラムに入れたこと自体,「日本文化の優秀性」を欧米人に知 らしめる意図があったというべきだろう。

5. 楽団運営に対する日本人の意識

 上海の日本人居留民は,先述したように階層の区分が明らかで,全人口 の半数以上を占める「土着派」(一般民衆層)にとってオーケストラはま だなじみの薄いものであったと考えられる。一方で,上海音楽協会の理事 として名前を連ねた人々をはじめ,エリート層や知識層の中には西洋音楽 に対する深い理解と知識を持つ者もいた。工部局交響楽団時代には,定期

(14)

演奏会の予告記事が新聞に載っても音楽会評が出ることはなかったが,上 海交響楽団がスタートすると,あたかも「われらの楽団」をもり立てるか のように盛んに批評が載るようになる。しかしそれらの多くは「練習不 足」や「低調と選曲の劣」などを批判するもので,楽団を管理・運営する 側となった日本人が,責任感から辛口のコメントを重ねているような趣が 強いのが特徴だった。

 音楽会評はたいてい署名がないか,あるいは署名があっても今日ではそ の人物の背景がわからないが,中でものちに上海交響楽団のマネージャー を務めた草刈義人の実名による批評が注目される。「交響楽の秋 上海音 楽協会に期待する」と題し三回にわたって連載されたもので(『大陸新報』

1942 年 9 月 27 日朝刊四面,28 日朝刊六面,29 日朝刊四面),分量も多く 内容的にまとまっていることと,意見や主張が具体的であることで他を圧 倒している。上海交響楽団発足当時の様子を知るには貴重な資料であるた め,やや長くなるが引用する15)

 上海交響楽団が日本人の手で再組織され,全く面目を一新して仕事 をはじめてからまだ,たつた三ヶ月にしかならない。しかも,その僅 かな期間に屋内,野外あはせて十五回もの演奏をたて続けにやつての けた。その絶倫の精力には誰れとて驚かないものはないだらう。聞く ところによると,その無理がたたつて楽員に病人が続出したとのこと だが,全くたださへやり切れなかつたこの夏のシーズン中の猛暑に抗 して働き続けた楽員諸君並に協会当事者の努力にたいして遙かに敬意 を表し,蔭ながらその労をねぎらうもの独り筆者のみではあるまい。

 今更,いうまでもないことだが交響楽はただ雑然と各種の楽器を弾 き鳴し,かき鳴しているわけではなく,一人の優れた指導者(コンダ クター)によつて解釈された楽曲の演奏であり,従つて,コンダクタ ーにとつては全楽員否楽団そのものが,恰もピアニストにたいするピ アノのごとく一つの完成された楽器なのであり,そしてコンダクター

(15)

はこの楽器の演奏者でなくてはならないのである。

 そこで,オーケストラには,まず,二つの条件の確立されているこ とが必要なのである。すなわち

(一) 責任ある指揮者の存在

(二) 各楽員の生活乃至気持の一致,これである。

(中略)

 上海音楽協会並に楽員諸君の並々ならぬ努力にたいし遙かに敬意を 表しながらも,しかも,筆者が執拗にその弱点を『あげつらう』所以 のものは,永い歴史を待つこの交響楽団が,日本の手によつて再編成 されたその文化的,政治的意義を百パーセント発揚したいと願ふ老婆 心(?)からなのである。

 このオーケストラは工部局に属していた時から決して興業の対象物 ではなく,従つて,これを経営した当事者の意図のうちには何等経済 的(商業的)なるものは存在せず,その狙ひは常に一つの文化的,政 治的目標に集中されていたことは当然のことであつた,そして,この 点はオーケストラがわれわれの手中に帰した今日といへども変更の必 要ないばかりか,寧ろ逆に,その効果をより大ならしむることこそ緊 要なのである,──われわれはここで芸術にたいする政治の優位をハ ツキリと思ひかへさなくてはならない

 ところで,この点,協会の過去の経営方針は果して妥当だつたろう か。季節を無視し,楽員の精神力や体力を考慮しない精力的な演奏の 継続はまだいいとしても,選曲(曲目編成)のうへにギラツイてゐた 商業的(悪くいへば興業的)色合にやり切れない思ひを禁じ得なかつ たのは一再に止まらない。例へば交響曲を演奏する場合は,きまりき つたようにベートーベンの第三や第五,シューベルトの未完成といつ た工合で,これでなくては聴衆がこないと考へてゐるらしい。しか も,このような第一流の曲に,およそくだらぬ俗曲を組合せて低級な 聴衆に迎合し,演奏会のもつ香りの高い音楽的雰囲気を滅茶苦茶にし

(16)

たことは二度や三度ではない。このような明かに経済的成功,すなは ち,入場券の売行だけを狙つて,遂にかかる文化事業本然の政治的目 標を見失つた憾みなしとしない。日本は決してこんな田舎音楽団を経 営することによつて若干の上りを稼がねばならぬほど貧乏ではない筈 だ。この点,特に協会当事者の反省を促す次第である。

 評者は演奏会の選曲の悪さだけでなく,プログラム冊子の曲目解説が

「お粗末」であることも批判しているが,最大の問題は指揮者を三人体勢 としたことであるとする。当時の演奏会プログラムによれば,1942 年 7 月から 9 月にかけて 12 回の野外コンサートが行なわれ(会場は虹口公園 とフランス租界の顧家宅公園),パーチとフォア,そしてユダヤ人音楽家 のマルゴリンスキーがほぼ均等な割合で指揮をした16)。草刈は,指揮者 が定まらないことによって指揮者・楽員・聴衆三者の間に,優れた音楽会 にあるべき「統一性」が欠けていると指摘した。批評の中で指揮者をピア ニストにたとえているのは,工部局交響楽団の名声を確立した指揮者パー チが優れたピアニストだったことを踏まえているのかもしれないが,評者 の主張はパーチを再び正指揮者の地位に戻そうというものではなかった。

その主張の要点は以下のくだりに明確に表れていよう。

 ……この楽団は工部局当時のそれをただ継承して,その損益計算と 事務員とが日本のものとなつたといふのではそこに何等,文化的,政 治的意識を見出すことが出来ない。楽団が日本の音楽家によつて再組 織され,しかも,それによつて過去のそれよりも遙かに優れたものと なつた時,その時にのみ,われわれは音楽における日本の権威を主張 し,そしてまた,かくてはじめて,この楽団を通じて文化的,政治的 目的を達成することが出来るのである。

 草刈は外国人の団員・指揮者によって構成されている楽団に,もっと日

(17)

本人音楽家を関与させるべきと考えていた。そして楽団に「わが祖国の音 楽の洗礼を受けさせ」るべく,「秋のシーズンの開始に先立ちて日本より 優れた指揮者(例へば山田耕筰氏)を招聘すべきである」と提案してい る。山田耕筰は 1938 年 11 月に工部局交響楽団の特別演奏会を指揮した実 績があるが,この草刈の提案が反映されたものかどうか,記事の掲載から 二か月余りしか経っていない 1942 年 12 月に上海を訪れ,二度にわたって 定期演奏会を振っている。

 草刈義人という人物の背景や,上海交響楽団のマネージャーに就任した 経緯については拙著『上海オーケストラ物語』でも紹介したが,1942 年 秋のシーズンから楽団の運営に関わり始めた様子であることから見ても,

『大陸新報』に掲載された批評が上海音楽協会の関係者に何らかのインパ クトを与えた可能性が強い。中華航空上海営業所の所長を経て,当時中日 文化協会の仕事に関わっていた草刈は,音楽を専門的に勉強したことはな かったが,若い頃から蓄音機を通して西洋音楽に耽溺し,野村胡堂に私淑 して音楽批評を学んでいた。上海ではバレエ・リュス(ロシアバレエ団)

の公演にも通っており,『大陸新報』に長文のバレエ評を寄せたりもして いる17)。軍人の家庭に育ったこともあってか,草刈は「文化事業」が「政 治的目標」を持っていることを強く確信しており,戦時下の上海において 日本人が交響楽団やバレエ団の運営に関与することの意義を積極的に訴え ようとしていた。

 草刈は前任のマネージャー原善一郎にかわって楽団の演奏会を取り仕切 るようになり,冬季の定期演奏会,夏季の野外コンサートという工部局交 響楽団時代の習慣をずっと維持した。戦局の悪化やインフレによる生活難 にもかかわらず,1944 年後半までほぼ毎週演奏会を開くという驚異的な 活動を続けたのは,草刈が「経済的成功」を度外視し,市民に優れた音楽 を届けるという「政治的目標」の追求に徹したからであろう。

 しかし奇妙なことに,上海音楽協会設立当初計画されていた,日本人に 対する交響楽の普及活動や日本人児童に対する「音感教育」が実施された

(18)

形跡はうかがえない。何よりも,定期演奏会の会場が相変わらずライシャ ムシアターに設定されており,虹口地区での演奏は夏季の野外コンサート 以外ほとんどなかったため,日本人にとって楽団が身近なものになったと はいえなかった。『大陸新報』に演奏会の予告記事や批評などが載ること は確かに増えたが,運営主体である上海音楽協会の方針や何らかの意志決 定などについて報じられることはなく,錚々たる顔ぶれだった協会の理事 たちも(交響音楽同好会の中村正明も含めて)活動の前面に出ることはな かった18)

 草刈の批評を見ても,「音楽における日本の権威」を示すことには熱心 だが,「低級な聴衆に迎合」することを嫌悪するあまり,交響楽の普及と いう目的をなおざりにしているようにも思われる。筆者は 1999 年にまだ 存命だった草刈にインタビューしたことがあるが,その時草刈は,虹口で 日本人向けに二度ほど演奏会を行なったが19)反応が悪く続かなかったと 語り,交響楽を日常的に聴くという「教養」が一般民衆に欠けていたと指 摘した。そのような現状から,上海交響楽団の活動は対外的,すなわち日 本人以外の上海市民に向けてアピールする方向に傾いていったと見られ る。英米人が社会の中心から排除された時代において,まとまった数の聴 衆となり得るのは白系ロシア人のほかには,人口の絶対的多数を占める中 国人しかなかった。草刈は「もともと中国の土地でやっているのだから,

外国人はいずれ減る。中国人を無視した演奏会にしてはならないと思っ た」と語っており,曲目に配慮し「(中国人に)わかりやすいものをやる 必要もあった」と述懐している。運営側にこのような意識があったからこ そ,1942 年秋から翌年 5 月末までのシーズンだけでも四人の中国人演奏 家がソリストとして上海交響楽団の舞台に登場し,それまで英語一辺倒だ ったプログラム冊子にも中国語の楽曲解説が掲載されるようになったのだ ろう20)。こうして工部局交響楽団時代にはほとんど足を向けることもなか ったライシャムシアターに多くの中国人が集まるようになり,上海交響楽 団は中国人の間に交響楽を普及する役割を果たすことになったのである。

(19)

お わ り に

 租界の欧米文化の一つの象徴ともいうべき工部局交響楽団を,戦争によ って新たな支配者となった日本人が管理・運営しようとしたことは,当時 の時代背景のもとでは自然な成り行きだった。しかし西洋音楽受容の歴史 がまだ浅く,交響楽が生活の細部に浸透していない日本人社会において,

民衆を動員する道具としてオーケストラを使いこなすことは困難だった。

上海は外地であるがゆえに,楽団の新たな活動にあてる資金や人材が不足 していたし,戦局の悪化にともなって,文化・芸術を顧みるゆとりが為政 者・市民の双方から失われていったのが実情だった。

 一番大きな問題は,いわば欧米人の置き土産であるオーケストラを,日 本を盟主とする「大東亜共栄圏」の理想の中でどのように活用するかにつ いて,現地の日本人の間で具体的な合意や理解が得られていなかったこと である。明治以来欧米に範を取る近代化を推し進めてきた日本人にとっ て,租界の欧米文化はあこがれや学習の対象であり,彼我の格差は日本人 居留民が最もよく知るところだった。「日本文化の優秀性」を口でいうの はたやすいが,それを文化そのものの力で示すのは至難の業である。60 年余にわたって上海の市民生活に根を下ろしてきた楽団に,何か新しい方 向性を与えられるほど日本の占領地政策は練られてはいなかったし,上海 という特殊な歴史を持つ街は,そもそも一般的な「対支工作」の範疇には 入りにくかった。

 上海交響楽団は,戦争により活躍の場が狭められた内地の音楽家を招く とか,あるいは日本人作曲家の作品を披露する場としても機能し得たはず である。草刈義人が現地で主張しただけでなく,前任のマネージャー原善 一郎も内地の新聞に対して,楽団の「日本的性格が明らかでなければなり ません」と語り,日本人指揮者や日本人の作品の必要性を指摘してい 21)。しかし朝比奈隆の客演(1943 年 12 月~44 年 1 月)や,服部良一

(20)

による音楽会「夜来香ラプソディー」(主演・李香蘭,1945 年 6 月)を挙 行したことなど,ごく限られた例を除いては日本人音楽家が活躍すること はほとんどなかった。日本人作曲家の作品も時折取り上げられてはいる が,「大東亜戦争開戦○周年」や「天長節」を記念する音楽会の席上とな ると国策的な印象を免れず,多数の中国人を含む聴衆に芸術的価値をアピ ールできたかどうかは疑わしい。結局のところ,日本人は上海の音楽的環 境から多くの恩恵を受けたが,日本人が音楽を通して上海に「英米の文化 に匹敵する絢爛たる花」(上海交響音楽同好会・中村正明の言)を咲かせ ることはついになかったのである。

 太平洋戦争期の占領地における文化政策,とりわけ交響楽団に関わるも のとしては,ほかに 1942 年 8 月に第一回公演を行なったとされる「香港 交響楽団」の例がある22)。香港はイギリスの植民地として発展した点で,

文化的に上海租界と共通点が多く,19 世紀末よりオーケストラも存在し ていた(現在の香港フィルハーモニー管弦楽団の前身23)。おそらくこれ を再編する形で,「香港交響楽団」を立ち上げたと見られるが,日本側の 意図や運営の実態等はいまだ明らかでない24)。筆者は目下のところ,当 時日本で刊行された音楽雑誌等から香港や東南アジアにおける文化工作の 存在,ならびに日本人音楽家のかの地に向ける関心を知るのみだが,これ も現地発行の新聞等を精査し,実態を多角的に検証してくことが必要だろ う。以上の点については今後の課題とし,上海との比較検討を目指して研 究を進めていきたい。

1) フランス租界の主であるフランス人を取り上げなかったのは,執筆当時の資 料の不足も理由の一つであるが,フランス租界の文化的な性格は,ロシア革命 を逃れて来た白系(帝政支持派)ロシア人によって形成された面が大きいから である。

2) 陳祖恩『上海的日本文化地図』上海錦綉文章出版社・上海故事会文化伝媒有 限公司,2010 年。中国語版のほか日本語版(袁雅瓊訳,森平崇文監訳)もある。

3) 科学研究費補助金基盤(B)「上海租界劇場文化の歴史と表象─ライシャム・

(21)

シアターをめぐる多言語横断的研究」(平成 23~25 年度,研究代表者:大橋毅 彦)。

4) 榎本泰子『上海オーケストラ物語 西洋人音楽家たちの夢』春秋社,2006 年。

移管問題については,工部局交響楽団の「その後」という位置づけでエピロー グ「日本人と「上海交響楽団」」に記した。

5) 榎本泰子「太平洋戦争期の上海における音楽会の記録─上海交響楽団の演奏 活動について─」中央大学人文科学研究所編『現代中国文化の光芒』中央大学 出版部,2010 年所収。

6) 高綱博文『「国際都市」上海のなかの日本人』研文出版,2009 年,41 頁。

7) 『上海年鑑』上海日報社出版部,大正 15 年。復刻版『上海叢書 2 上海年鑑』

大空社,2002 年。

8) 渡部ライアン輝子『父の工部局 父と娘の上海』文芸社,2006 年,54 頁。

9) 高橋孝助ほか編『上海史』東方書店,1995 年,121 頁の表による。

10) 上海には 1927 年に設立された「上海音楽研究会」があり,1938 年 11 月に は山田耕筰を迎えた工部局交響楽団の特別演奏会をアスター・ハウス(ホテル)

のホールで主催している。この研究会と「上海交響音楽同好会」の関係につい ては不明だが,交響楽の普及を目指していたとすれば両者の活動には類似点が あり,メンバーが重なっている可能性もある。

11) 中村正明の肩書きは,『大陸新報』1940 年 8 月 21 日付朝刊三面「文化の貧 困 此の事実を省察せよ」(コラム「経済漫語」)から知れる。この記事は経済 人の視点から書かれたものであるが,虹口地区と共同租界・フランス租界を対 比した上で,「東亜の盟主」たる日本人の「民族的文化の貧困」を憂える内容 である。本論で言及した中村の文章「交響音楽同好会に就いて」の趣旨とも重 なっている。

12) 筆者澤田稔は上海交響音楽同好会の設立時期を「昨年(1941 年=引用者注)

春」としているが,本論で検証したとおり,同会の最初の活動は 1940 年 5 月 に確認される。その活動が「他の文化団体を抑へた」とか,「多数の熱心なる 会員」という記述からは,交響音楽同好会が多くのメンバーからなる比較的大 きな組織であったことを推測させる。

13) 『音楽之友』1942 年 9 月号「大陸情報」によれば,理事には大陸新報社の尾 坂與市も加わっている。報道により顔ぶれに食い違いのある理由は不明。

14) この人物については未詳。注 16)を参照されたい。

15) 『大陸新報』は原紙の劣化により,記事本文を判読することが難しい部分も 少なくないが,草刈義人「交響楽の秋 上海音楽協会に期待する」は,草刈自 身が生前原紙を切り抜いてスクラップしたものが残されており,筆者はそのコ ピーを見ることができた。

16) 榎本泰子「太平洋戦争期の上海における音楽会の記録─上海交響楽団の演奏 活動について─」318 頁の表 1 による。上海交響楽団発足当初の新聞報道で,

三人の指揮者の一人が「ベルゴンスキー」とされていたが,「マルゴリンスキ ー」の誤記である可能性がある。マルゴリンスキーは当時上海在住のユダヤ難 民の中で指導的地位にあった音楽家。

17) 草刈義人「舞踊の春 上海バレエ・リユツスへの期待」『大陸新報』1943 年 4 月 1 日朝刊四面,3 日朝刊三面,5 日朝刊四面に連載。

(22)

18) 『音楽之友』1942 年 9 月号の「大陸情報」には,前号と同様『大陸新報』記 者澤田稔による上海音楽協会結成についての報告が掲載されている。そこには 協会の事業計画として音楽院や舞踊学院の創設等があげられているが,それら の事業が具体的に推し進められた形跡は,少なくとも『大陸新報』の紙面から はうかがうことができない。

19) 『大陸新報』の関連記事によれば,夏季野外コンサートとは別に,6 月末と 9 月初めの二回,室内での演奏会が虹口で行なわれたことがわかる。

20) 榎本泰子「太平洋戦争期の上海における音楽会の記録─上海交響楽団の演奏 活動について─」319 ─ 321 頁の表 2 による。

21) 原善一郎「上海楽壇の現状 日本人指揮者とその作曲が必要」『音楽文化新 聞』44 号,1943 年 4 月 1 日。

22) 『音楽文化新聞』第 21 号(1942 年 7 月 20 日発行)所載の記事「香港交響楽 団の公演」によれば,「磯谷総督の特別の熱意のもとに,一ヶ月に三萬ドルと 云ふ経費を払つて着々と□まれてゐる香港交響楽団」が,同年 8 月 2 日に予定 される初公演のため練習中だった。太平洋戦争開戦後,日本軍の攻撃を受け 1941 年 12 月 25 日に降伏した香港は,以後 3 年 8 か月にわたり日本軍に占領さ れた。磯谷廉助は占領期の二代目総督。

23) 周光蓁著『香港管弦楽団四十周年誌慶特刊』(香港管弦協会,2014 年。香港 フィルハーモニー管弦楽団の創立 40 周年を記念する冊子,中英対訳。Web からダウンロードできる)によれば,香港フィルハーモニー管弦楽団の前身は 1895 年に創立されたアマチュアオーケストラ「中英楽団(the Sino-British orchestra)」であるという。URL : http : //download.hkphil.org/files/40thAnni versary/hkphil-40a-sb-web.pdf#search=%27 %E9 %A6 %99 %E6 %B8 %AF+ E6%ADB7%E5%8FB2+E4%B8%ADE8%8BB1%E7%AEA1%

E7%B5%83%E6%A8%82%E5%9C%98%27(最終閲覧日:2018 年 9 月 20 日)

 また『香港ポスト』1420 号(2014 年 12 月 5 日)の記事「香港フィルの軌跡」

によれば,香港フィルハーモニー管弦楽団の前身は 1872 年に創設された音楽 クラブ(音楽社)であるといい,1895 年にオーケストラとなり,最初の演奏会 は同年 11 月にロイヤル・シアター(旧大会堂)で行なわれた。『香港ポスト』

は 1987 年 6 月創刊の在留邦人向け日本語新聞で,同記事は香港フィル提供の 資料に基づいて書かれたという。筆者が参照したのはweb版。URL : http : //

www.hkpost.com.hk/history/index2.php?id=10552#.W4tDO1InZjo( 最 終 閲 覧 日:2018 年 9 月 20 日)

 以上のことより,香港におけるオーケストラの歴史は,上海同様,居留民の 趣味の音楽活動から始まり,比較的規模の大きい楽団の形成へと進んだと見て よいだろう。

24) 注 23)『香港ポスト』の記事では,太平洋戦争期の楽団について「多くの楽 員は赤柱(スタンレー)や深水埗の収容所に日本軍によって幽閉されたが,監 視下で音楽を奏でることもあったという」と書く。注 22)の『音楽文化新聞』

の記事によれば,「香港交響楽団」の団員は「ロシア人,フランス人,ポルト ガル人,フイリツピン人等総勢五十八人で,指揮者はカリネイロと云ふ」人物 だったといい,既存の楽団(中英楽団)からイギリス人を排除したものと推測 される。

(23)

 なお,現在の香港フィルハーモニー管弦楽団の公式ホームページでは,その 歴史を「港樂最初名為中英管弦樂團,後來於 1957 年改名為香港管弦樂團,並 於 1974 年職業化(香港フィルははじめ中英管弦楽団といい,のち 1957 年に香 港管弦楽団と改称し,1974 年にプロ化した)」と書くのみであり,太平洋戦争 期の「香港交響楽団」との連続性は不明である。URL : http : //mail3.hkpo.

com/tch/aboutus/orchestra/Profile.jsp(最終閲覧日:2018 年 9 月 20 日)

参照

関連したドキュメント

幕末維新期に北区を訪れ、さまざまな記録を残した欧米人は、管見でも 20 人以上を数える。いっ

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

Google マップ上で誰もがその情報を閲覧することが可能となる。Google マイマップは、Google マップの情報を基に作成されるため、Google

わな等により捕獲した個体は、学術研究、展示、教育、その他公益上の必要があると認められ

尼崎市にて、初舞台を踏まれました。1992年、大阪の国立文楽劇場にて真打ち昇進となり、ろ

わな等により捕獲した個体は、学術研究、展示、教育、その他公益上の必要があると認められ

間的な報告としてモノグラフを出版する。化石の分野は,ロシア・沿海州のア