• 検索結果がありません。

教職協働が必要だと言われているのはなぜか、

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "教職協働が必要だと言われているのはなぜか、"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

教職協働が必要だと言われているのはなぜか、

また、必要だとすれば、その理由は何か

教育開発支援機構 教育学修支援室 准教授 須長 一幸

1. はじめに

「教職協働」が大学改革や教育改善におけるキーワードとして語られ始めた大綱化以降、

「教職協働」という概念は徐々に浸透していき

1

、現在では大学改革を推進するための重要 な要件のひとつとして、もはやスローガン化されているとも言えるだろう。しかしながら、

それが改革の要に位置づけられている現状に照らして考えると不思議なほど、教職協働が 何のために必要なのか、それが改善にどう寄与するのかについて説得的に説明した論考は ほとんど見られない

2

。一般に、 「教職協働」という言葉は好意的に、そして肯定的に捉えら れている

3

ようだが、しかし教員

4

と職員が共に働けば自動的に教育が改善されるというわけ ではないのだから、教職協働がなぜ必要なのか、理由は必ずしも自明だとは言えまい。に もかかわらず、教職協働が必要となる理由確認のステップを一段飛ばして、教職協働の事 例やその進捗状況についてのみ議論が焦点化されている現状は、いささか奇妙な事態にも 見える。

個人的な経験談ではあるのだが、私自身はこうした事態の不思議さがずっと気になって いて、教職協働がテーマの一つとなっていたいくつかの

FD

イベントにおいて、教職協働が そもそもなぜ必要なのか、という趣旨の質問を講演者たちに投げかけてみたことがある。

しかし、その問いに明確な回答が帰ってきたことは一度もなかった。誤解を招かないよう に言っておくと、私は講演者たちに嫌がらせがしたくて質問をした訳ではない(つもりで ある)。結論から述べると、教職協働の必要性とは、むしろはっきり理屈で説明できないと ころにその特徴があり、理性的で論理的な表現で明確に語ることが、そもそも難しい事柄

1

例えば

1995

年の大学審議会答申『大学運営の円滑化について』では、教員組織と事務組 織は車の両輪であり、両者のよきパートナーシップが重要であると指摘されている。それ から十数年後の

2008

年の中教審答申『学士課程教育の構築に向けて』では、「教員と職員 の協働関係を一層強化するため、

SD

を推進して専門性の向上を図り、教育・経営など様々 な面で、その積極的な参画を図っていくべきである」とされ、求められるパートナーシッ プのあり方について、より具体的に述べられている。

2

ただし、教職協働について論じた数ある文献の中で、大場(

2013

)は教職協働、特に大 学職員が大学運営に参画する必要があるとされる現状について踏み込んだ記述を行ってい る。筆者はここから多くを学んだ。

3

清水(

2012

)によれば、教職協働の強化について「とても必要性だと思う」と答えた割 合は教職員合わせて

6

割近くであり、 「必要だと思う」も加えると

9

割以上にのぼっている。

4

以下では、教育職員を「教員」、事務職員及び技術職員を「事務職員」ないし「職員」と

表記する。また、教育職員と事務職員の総称として、「教職員」を用いる。

(2)

なのである。

FD

イベントで私がいささか意地悪くも見える質問をあえて行った理由は、そ れを確認するためであった。そして、そうした場で実際にあまり当を得ない回答しか返っ てこなかったことで、私は自分の見立ての正しさにそれなりの手応えを感じている。

2. 「協働」の二つの典型モデル

では、教職協働の必要性は結局のところどこにあるのか。その問いに対する回答を述べ る前に、まずは「教職協働」とは一体どんな意味での協働なのか、という点を明らかにす る手がかりとして、二つの協働モデルを示しておきたい。

一つ目は、 「政治家―官僚モデル」である。もっとも政治家と官僚が現代の日本社会にお ける政治のなかで行っている協働を一元的に単純化するのは困難を極めるので、この呼称 はあくまでイメージに基づいた比喩に過ぎないものとして捉えていただきたいのだが、少 なくとも一般的なイメージにおいては、普通、政治家がまず理念やビジョンや方向性を示 し、官僚はそれをうけて、政治家が示したコンセプトに沿った制度を策定し、その実施に 与る、という役割分担のもとでの協働が、両者の間で成立している協働の典型であると言 えるだろう。

このモデルでは、政治家と官僚がそれぞれ扱うものには明確な先後関係がある。政治家 の扱うものの方がより抽象的で根源的、官僚の扱うものの方がより具体的で派生的なもの であり、そのため、まず政治家が判断を行った上で、それに続いて官僚がより具体的な判 断を行う、という順序になっている。この先後関係は、単に両者の仕事に境界線を引くだ けでなく、両者のどちらに主導権があるのかもはっきり定めてしまう(もっとも、くどい ようだが実際の政治家と官僚についてもこれが当てはまるとは限らない。政治を「政治主 導」で行おうとした民主党が官僚の猛反発にあったことは記憶に新しい)。そして、日本の 大学での従来型の教職協働はこのタイプに属していたと考えられる。というのも、大学運 営においては原則的に教授会が大きな権限を持っており、そのためそもそも制度的に、大 学運営の各所において意志決定の機会と権利が委ねられているのは教員だったからである。

その意味で、大学運営のビジョンを示すことができる余地は職員にはもともと多くはなか った。

二つ目のモデルは「医療従事者モデル」である。少々古い話になってしまうが、国内外 を問わず医療において中心的な役割を果たすのは医師であり、看護師、臨床検査技師、理 学療法士など、医師を除いた医療スタッフは、医師にある意味で従属する形で業務にあた っていた。しかし、医療の高度化に伴って、看護師や臨床検査技師などのスタッフの業務 も専門高度化が進んできた。その結果、医療のさまざまな場面において、それぞれのスタ ッフがそれぞれの局面において下す判断が、その分野の専門家として一定の権威を以て尊 重されるようになってきた。かくして、医師には全てを一元的に判断することではなく、

むしろ専門家たちをチームとしてまとめ上げる役割を果たすことが期待されるようになっ

てきたのである。日本では、医師以外の医療従事者はもともと「副次的」を意味する接頭

(3)

辞“

para-

”を冠した「パラメディカル(医療補助者)」という呼称で括られていたが、現在 では彼らは「コメディカル」、つまり「協働で医療にあたるもの」と呼ばれている。要はス タッフの専門高度化が、彼らの権威を底上げし、結果的に医師との対等性をもたらした(あ るいは少なくとも部分的にはもたらしつつある)のである。

現在唱えられている「教職協働」は、職員の業務の専門性、そして、教員―職員の対等 性を主張するものが多く、その意味では協働は主にこの「医療従事者モデル」で理解され ている、と言ってよさそうだ。「政治家―官僚モデル」に基づく協働から、「医療従事者モ デル」へのシフト、そしてそれにあわせた教員―職員の対等性の要求。そう考えると、「教 職協働」というスローガンは職員の地位向上を求める声であると捉えてもあながち間違い ではあるまい。しかし結論を急ぐ前に、そもそもなぜ医療や大学業務などにおいて高度専 門化が進むのか、そして、業務の高度専門化がなぜ対等性を必要とするのか、その背景に ついて掘り下げて考えてみることにしよう。そうすることによって、 「業務の高度化」が医 療や大学に限られるものではなく、むしろ現代社会の特徴によって必然的にもたらされる ものであること、そして、それが一つの大きな困難を孕んでいることが確認できるだろう。

3. 近代社会の持つ「引力」

現代社会が何をもたらしたのか。少々話が大きくなるが、まずは現代社会の前身である

「近代社会」の特徴をおおまかに確認することから始めたい。近代社会の特徴を端的に示 すひとつの象徴として、工場のオートメーションシステムが挙げられることがしばしばあ る。「オートメーションシステム」とは、均質な製品を大量に生産できる組織化されたシス テムのことで、たとえば

1910

年代にアメリカの自動車のフォードが導入したシステムは、

ベルトコンベアーでの流れ作業で部品を組み立てることによって、安価な大量生産を可能 にした。こうしたシステムを当然視してしまう現代のわれわれの視点からは気づきにくい が、オートメーションシステムの要は、機械化や自動化にあるわけではなく、実はシステ ムを構成する「共通の規格」の存在にある。では、いったいなぜ共通の規格がそれほど重 要なのだろうか。それは、そうした規格がいったん定着してしまえば、その規格に基づい てさまざまなものが集約され、組織化され、再生産されていくような、一種の集約機構が 生み出され得ることにある。

理解のために、具体的な例を使って説明してみよう。子どもたちが建造物や乗り物を作

ったりするあの玩具のブロック(代表的なものに

LEGO

社のレゴ ブロック

®

がある)を比

喩に考えてみると、共通の規格がもつ絶大な潜在力をイメージすることが容易になる。ブ

ロックの一つ一つは極めてシンプルな構造しかしていないが、それらを複数組み合わせる

ことで、さまざまなものを作り出すことができる。そして、それらを複数組み合わせるこ

とができるのは、ブロックの穴と突起のサイズが個別ばらばらではなく、一定の大きさに

決まっていることに拠っている。穴と突起のサイズが決まっているからこそ、繰り返し積

み上げていくこと(つまり、積み上げてできあがったものにさらに積み上げること)が可

(4)

能になっているのであり、また、積み上げが可能であることが保証されさえすれば、それ ぞれのブロックの原材料がどこで産出されたかは重要ではなくなる。規格とは、対象の特 定の属性のみを焦点化させ、逆にそうした属性以外のさまざまな性質を無視することを可 能にする。さらに、その規格に基づいた部品を組み合わせることによって、同じものを際 限なく複製することが可能になるし、部品を繰り返し組み合わせていけば、対象の複雑さ を際限なく増加させることも容易なのである。

も う一 つの例 を挙 げよう 。世 界で最 も閲 覧され てい るウェ ブサ イトの 一つ で あ る

Wikipedia

は、通常市販されている一般的な百科事典と違ってユーザーが誰でも自由に編

集できることに大きな特徴がある。そのため、内容の信頼性についてはもちろん十分に高 いとは決して言えないものの、その項目数や情報の網羅性が生み出す情報価値や利便性は 極めて高い。そしてここで注目すべきなのは、不特定多数のユーザーが個々の項目の内容 を編集できるという条件にもかかわらず、記述の形式や文体にはある程度の均質性が見ら れ、それによって高い可読性が生まれているということである。

Wikipedia

のこうした特性 は、その「編集方針」、すなわち

Wikipedia

が持つ「共通の規格」がよくできている結果で あると考えることができるだろう。そして、共通の規格に沿っている限り原則的には誰で も執筆できるという

Wikipedia

の開放性こそ、項目数の飛躍的な増大をもたらす推進力と なっている。そして事実、

Wikipedia

は現在も成長を続けている(日本語の

Wikipedia

が 持つ項目数は、日本の一般的な百科事典の項目数の

20

30

倍を誇る)。

近代社会の特徴の話をするとしておきながら、ここで挙げられているレゴ ブロック

®

Wikipedia

も現代の事例ではないか、と反論されそうではあるが、実際にはこうした事例

と同じ構造をもった「共通の規格」は、さらに大がかりで影響力を持った形で近代に生ま れている。その最たるものは科学革命によって生まれた「近代科学」というパラダイムで あろうが、政治的な面での「主権国家」や「国民国家」、そして「官僚制」、経済的な面で の「資本主義」、等々も含め、現代社会においても依然として自然科学、政治、経済の中核 を成している基本的な枠組みこそ、近代の産物に他ならないのである。そして、こうした 前提に基づくなら、いわゆる「近代」とは、こうした枠組みが出自の違うさまざまなもの を吸い上げながら、それらを均質なものへと変え、休みなくそれらの複合体を生み出しつ づけ、複雑さの度合いを増加させていくプロセス、つまり、一種の「引力」を持って稼働 し続ける動的なシステムなのであり、そうしたプロセスが一挙に押し寄せ、それによって 実現された社会の刷新こそが、「近代化」なのだと表現することができるだろう。

ちなみに日本の大学が生まれたのも、まさに日本が均質化と複雑化と量の増加を生み出 す近代化のプロセスにあった明治期のことである。日本の大学、とりわけ帝国大学はもと もと官僚養成という特定の目的のために均質な、そして「高品質」な人材を育成するため のシステムであったことはよく知られている

5

。その意味で、良くも悪くも大学は日本社会 にとって近代化を象徴するものの一つだったのである。

5

中山茂『帝国大学の誕生』中公新書

, 1978

, pp. 70-1

(5)

4. 液状化する社会

しかし

2

度の大戦後、近代化のうねりは収束していく。個々の細かな差異を捨象して吸 い上げた上で、それらを均質な個人へと変化させながら成長を続けるような社会は、「全体 主義」として厳しくとがめられ、代わりに(西欧社会を中心に)それぞれの持つ差異が「多 様性」として肯定的に認められる社会(こうした社会を以下では「ポスト近代社会」と呼 ぶ)へと変容していった。

近代社会は、巨大な集約機構の中を通過し、規格化されたものを等しく製品としてその 価値を認める仕組みになっていたが、これをあえて否定的に捉えるならば、そうした通過 儀礼を経ることができないものは、近代社会においてはまだ十分な権利を保障されない半 人前だと言うことになる。しかしながらポスト近代社会においては、それらが均質性や同 化を強制してしまうことの裡にある潜在的な暴力性に対する深刻な反省から、そうした通 過儀礼の存在は少なくとも十分な理由がない限り安易に認められることはない。基本的に は、それぞれの存在は、そのままでその価値が認められるし、少なくともそのままで認め られるべきだ、という民主主義的なイデオロギーの方に優位性がある。ポスト近代社会の こうした懐の広い性格はむろん歓迎されるべき寛容さを社会にもたらしている。しかしそ の一方で、それらが近代への過度な拒絶反応として現れた場合には、負の側面を露出させ もする。負の側面とはつまり、権利とは何らかの対価としてではなく、無条件に与えられ るべきだという意識が社会に浸潤した結果生じた、社会の大衆化と個々人の離散である。

ポスト近代社会における大衆化の問題点をいち早く指摘したオルテガ

6

によれば、「大衆」

とは、文字通りの一般大衆のことでもなければ、凡庸な人のことでもない。自分と社会と の間に何らかのギャップがあるとき、自分ではなくむしろ社会の方こそ自分に合わせるべ きであると考えたり、自分が今のままの自分である権利を一方的に主張したりするタイプ の人々こそ、オルテガの言う「大衆」である。それゆえ、社会の中心層が大衆化すればす るほど、さまざまな価値の基準は社会や公共のなかから個々人の側へと散逸していく。そ の結果、社会の大衆化の進行に伴って、よかれあしかれ社会と個人との間のイニシアチブ は近代社会のそれと逆転していくことになる。自分たちの不利益に対して過度に敏感に反 応したり、自分たちを基準に事象を判断したりしてしまうこと自体は、よくある人間らし い愚行の一つにすぎないかもしれない。しかし、自分にとって分からない情報はもっと平 易に分かりやすく語られるべきだし、自分にとって高価すぎるものはもっと安価な価格で 売られるべきだ、といったような、自分を基準にして社会が変えられるべきである、と権 利を声高に主張する人々があふれる社会に生きることは、それはそれで息苦しい。こうし た社会の大衆化の極北を、例えば元高校教員の諏訪哲二は「オレ様化

7

」と表現し、警鐘を

6

オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』ちくま学芸文庫

, 1995

, pp. 21-2

7

自分が中心に据えられてしまえば、当然ながら学習意欲は減衰する。 「学ぶ」という行為

は、分からない対象に自分の方から近寄ろうという行為だからである。かくして、生徒や

学生が学びから遠ざかっている現状は、「オレ様化」という概念に即して考えれば不思議で

も何でもない(

cf.

諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ

, 2005

, pp. 9-10

)。

(6)

鳴らしている。

諏訪によれば、かつて「不良」や「ワル」などと呼ばれ、大人たちに激しく抵抗した子 どもたちは、自身たちが大人たちと対等ではないことをその怒りの源泉としていた。つま り彼らは、自分たちが社会の側に、そして、社会を構成する中心層である大人たちの側に 社会規範や基準があることを認めた上で、彼らに対する対等性を求めて闘争していたとい うわけである。しかし諏訪は、現代の(少なくとも諏訪(

2005

)が書かれた

2000

年代初頭 までの)子どもたちは、権利のうえでもはや自分たちを大人たちと対等視していると捉え ている。つまるところ、彼らは、先生をもはや権威としては位置づけてはおらず、もっと フラットな社会に生きているのである。例えば彼らは、もし先生の授業がつまらないので あれば、従順におとなしく座って授業を受けることを放棄する、という行動にしばしば訴 える。そうした行動は、つまらない授業に耐えられない、というアピールではなく、もし 教師たちによるつまらない授業に耐えてしまえば、それが教師よりも自分たちの方が劣位 にあることを認めることになってしまうので、そうなることを退けたい(つまり、自分た ちと教師たちとの対等性を堅持したい)、というアピールなのである。

それぞれが対等であり、それゆえ自分にとって受け入れられないものを受け入れる必要 はない、とする大衆化の促進は、個々人の距離を遠ざける「斥 力

せきりょく

」として働く。ポスト近 代社会においては、個々人はもはや社会に向けて集約され、均質化されることはない。む しろベクトルは近代社会とは逆向きに、つまり、脱中心化を促す方向に働いている。共通 の価値や規範が求心力をもっていた近代社会と違って、ポスト近代社会ではさまざまな価 値観や好みをもった個人が、それぞれのニーズを追求することが許されている。それは、

さまざまなものを同一化する力ではなく、むしろそれらを差異化する力の方を優位にする。

リオタール

8

が「大きな物語」という言葉を用いて表現したように、近代社会は多くの人々 を巻き込みながら、その中心に、普遍的に目指すべき希望、方向性という「共通の物語」

を作り上げていった。そして、共通の規格は、それ自身が価値へと転じ得る。事実、近代 社会においては理性の習得、生産の向上、富の発展、等といった多くの理念が普遍的な価 値として目指され、その正しさは自明視されていた。それに反して、ポスト近代社会にお いては、さまざまな差異をもったわれわれが普遍的に目指すべき物語はもはや存在しない。

引力から解放されたわれわれは、 「価値観の多様化」という旗印の下、それぞれに異なる「小 さな物語」を自由に追い求めながら、相互に遠ざかりつつある。

ところで、 「価値観の多様化」と言われるような事態は望ましいこととして捉えられるの が通例である。しかしそれは、「多様」という表現が「それ自体望ましいものである」とい う意味を含んだ価値語として扱われていることに拠る側面もあるだろう。あえてより中立 的な表現を用いて語り直すなら、ポスト近代社会で起きているのは、 「多様化」と言うより むしろさまざまなものの「多種化」である。「多様性」という表現には、それぞれが相互に

8

ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム』水声

, 1986

, pp. 7-10

(7)

関係し合い、それぞれの欠落を補いながら、安定的で有機的な全体を成している、という 含みがある(例えばさまざまな生物が織りなす関係によって構成される生態系が、しばし ばその優れた例として挙げられるように)。しかし、共通規格からの自由な逸脱や離反によ ってもたらされるポスト近代社会が持つ多種性には、必ずしもそうした安定した全体性が 見られるわけではなく、逆に、極めて不安定な側面を生み出してすらいる。例えば、共通 の規格によって組み立てられた近代社会を、どのような力が働けばどのような結果が生じ るかをある程度は予測できるビリヤードのようなものだと捉えるならば、ポスト近代社会 は、バウマン

9

が言うように、より微細でそれぞれに異なる要素が複雑に集まった「液体」

のようなものに近い。与えられた力がどのように働くかは予測が難しく、またそれ自身が 自由に運動できるような流動性をその裡に備えている。しかも、多くの人々にとっての参 照軸となる「大きな物語」のような共通の価値基準を欠くポスト近代社会では、ある価値 基準によって行動することが、それを参照した相手の価値基準を変容させてしまうし、さ らにその相手の価値基準が変容することが、今度はそれを参照する自己の価値基準を変容 させる、といった合わせ鏡のような状況をもたらす。こうした再帰的

10

な構造は際限のない 連続的な変化を生み、地盤をさらに液状化させ、不安定なものにしていくのである。

5. 液状化による統治能力の低下

社会のこうした液状化の進行は、ある典型的な困難をもたらす。それは、統治機構の能 力の低下である。一般に、政府(ガバメント)が行う中央集権的な統治は、権力構造が上 意下達のピラミッド型を成しており、かつ、権力上位の少数が、下位の多数をコントロー ルできる、という状況においてしか機能しない。従って、これまでの議論からも明らかな ように、国民がそれぞれ多様なニーズを持ち、仮にニーズが満たされたとしても、そのこ とによって変化してまた新たなニーズを持つよう無際限に変化していくような今日の社会 では、政府はそれらのニーズに十分に対応した統治を行うことはできない。加えて、国民 が自らのニーズを満たすように政府や自治体に働きかけることのできる民主主義のシステ ムにおいては、統治機構自体も、国民からの働きかけによって不断に変化していかざるを 得ないため、統治が流動的になりやすい。

9

ジークムント・バウマン『リキッド・モダニティ』大月書店

, 2001

, pp. 3-5

10

「再帰性(

reflexivity

)」とは、あるものが何かを規定することによって、当の対象から 規定される、といった反射的な性質を意味するギデンズの概念であるが、小熊英二による 以下の記述が平易で分かりやすい。「現象学の考え方からすれば、こちらが何かをすれば、

相手も影響を受けて変化します。そうなると、行為をする以前の情報や、それをもとに立

てた予測は、役に立ちません。新しい情報を入手したとしても、情報を収集したという行

為そのものが相手に影響するので、また変わってしまう。さらに相手が変わると、自分も

影響を受けて変化するので、安定した予測や行動ができない。

[

]

現代の社会で増大してい

るのは、自由の増大と言うよりも、こういう「作り作られる」という度合いです。ギデン

ズは、これを「再帰性の増大」と呼びました」 (小熊英二『社会を変えるには』講談社現代

新書

, 2012

, pp. 380-1

(8)

何をするにせよ、それがどのような結果をもたらすか、また、その結果が自分自身にど う反映されるのかが読めないような状況下では、統治機構は多様な国民のニーズに十分に は対応しきれない。そうした状況を踏まえる限り、統治の担い手である議員たちは理念的 には国民の代表とされてはいるものの、実際には彼ら議員のみに、国民のさまざまな価値 観を適切に反映し、そのニーズに細やかに応えていくことを求めるのはもはや過剰な期待 であると言わざるを得ない。液状化によって地盤の揺らぐ社会においては、統治を政府に よるそれに限定せず、例えば

NPO

や地域コミュニティなど、下位のさまざまな共同体がそ れぞれ自分たちのニーズに対応したサービスを自己展開するようなありようが必要になっ てくる。そして、「ガバナンス」とは、そうしたさまざまなアクターによる協働の統治のこ とを意味している。

中央集権的な統治から、並列的で多元的な協働統治への移行は、「ガバメントからガバナ ンスへ」というフレーズで表現されることがある。その意味では、ガバナンスが機能して いるということは、組織や共同体が一元的かつ強力に統治されているということではなく、

分散した統治のそれぞれが互いに協働しながら調和を実現させている、というイメージに 近い。しかしそのような調和が実現されるのはたやすいことではない。情報の共有や不足 分の相互の補足といった連携が必要になるものの、そうした連携を困難にしてしまう要素 が幾つも存在するからである。

例えばそのひとつとして、それぞれの共同体やその構成員の間に利害の衝突があり得る、

ということがある。こうした例は多数あるが、現在の沖縄県で生じている問題はその典型 的なものと捉えることができるだろう。原子力発電所の再稼働に関する問題についても、

同様の軋轢が生じている。また、利害の違いだけでなく、土台となる専門知識の違いも調 和の実現を困難にする要因となる。例えば裁判員制度は、 「国民感覚の反映」という一種の 権限委譲や国民の参画が狙いであったはずだが、一審で裁判員が下した判決が高裁や最高 裁で覆ったケースが既に多数存在している。しかし、もし法律家による専門的な見地から の判断が最終的には妥当と見なされるのであれば、結局はそれらを持たない一般市民の積 極的な参加や理解を期待することはできなくなってしまうだろう。こうした事例は、さま ざまなアクターによる参画、そして彼らの協働や調和は確かに望ましいものの、実際には 地元の当事者、専門家、関連する市民など、さまざまなアクターが関われば関わるほど、

彼らの利害や立ち位置、持っている知識の違いが顕在化し、協働や調和の実現が難しくな るおそれがある、ということを示している。

さらに困難な要因を重ねるならば、協働や調和の実現のためにそれぞれの立場や知識を すり合わせていこうという努力は、持続的・継続的になされていないと効力を持ち得ない。

立場の異なるアクターが協働するためには、お互いにとって必要な情報を共有しておく、

という条件は欠かせないものの、実際にはお互いの情報は常に刷新され続けていることが

協働のコストを上げてしまう。情報技術の進歩は情報の発信を容易にし、われわれの社会

の情報発信能力を飛躍的に増大させたことは間違いないが、それに比してわれわれの情報

(9)

処理能力の方は必ずしもそれに呼応して増大しているわけではない。つまり、社会に流通 する情報の総量が増えたということは、われわれの持っている情報が相互に異なったもの だという可能性が高いことを含意する。それゆえ、情報が増えれば増えるほど、それらの 情報をベースにして構成されるわれわれの認識は、それぞれ異なるものへとずれていく可 能性の方が高いのである。お互いの持っている情報の「同期をとる」ような努力が定期的 に行われない限り、処理すべき情報の量が増えれば増えるほど、それらはお互いの距離を 遠ざける斥力として働く。

コミュニティ同士が自然に調和して相互にとって望ましい協働が実現する、ということ を期待することは、かくして極めて難しい。むしろ協働を試みることによってもたらされ る軋轢や不協和音から、われわれはお互いを調和させ、合意形成に向けて導いてくれる強 いリーダーを期待したくなるかもしれない。しかしながら、こうした期待が満たされるこ とは期待薄であると言わざるを得ない。そもそも、強力なリーダーシップによる一元的な ガバニングが困難だからこそ、分散協治型のガバナンスへと統治の形態が変わってきてい るのだから。

6. 大学の液状化

あまりに大きな遠回りをしてきたように思われるかもしれないが、ここでようやく大学 での教職協働についての議論を進めるための準備が整った。実は、これまで示してきたよ うな社会全体の変化は、現在、日本の大学で生じている変化と、その基本的な構造を同じ くしている、というのが本稿での主張の骨子であり、その前提でもある。つまり、共通の 規格の溶解と多様化(というより「多種化」)、その結果生じる全体のガバナンスの喪失、

という一連の推移である。その点を押さえさえすれば、以下の議論の理解はたやすい(は ずである)。

およそ

1990

年代以降の経済状況の急変期を境に、大学のいわゆる「ユニバーサル化」に よって学生層が多様化したこと、社会産業構造の変化やグローバル化によって産業界から の大学への人材育成に関する要望が増えたこと

11

、入学から就職までの支援や留学支援など、

学生支援の業務が多元化したこと、地域連携や産学連携などの各種の連携業務の増加、等々 のさまざまな面から、大学が社会から期待される機能は急増した。各大学はこうした変化 と多様化したニーズに対応するため、それぞれのニーズに個別に対応する部局を設けたり、

既存の部局の中にそれらへの対応機能を実装させたり、新たな学力層に対応した教育のカ

11

産業界が日本の大学教育にどのような要求をしてきたか、については飯吉(

2008

)が詳

しい。飯吉に拠れば、

1990

年代以降、経団連、日経連、同友会の

3

団体は日本の大学に対

していわゆる人文・社会・自然からなる古典的な教養とは違い、よりジェネリックな教養

として例えば主体性や課題解決能力や創造性といった人格的な部分に関する能力の育成を

執拗に要求している。それは、「企業において働くための能力の育成」という、かつては大

学教育には求められていなかった役割が、日本経済の停滞によっていまや大学に大きく期

待されるようになってしまっているからである。

(10)

リキュラムを新設したりすることに追われることになる。加えて、

18

歳人口が減少するな か受験者・入学者を獲得するため新たな学部・学科の新設も相次いだ。

大学のこうした動きは、基本的には組織を複雑に分化させることで対応できるメニュー を増やそうというものである。しかし組織が複雑化・細分化すればするほど、それぞれの 部局に期待される機能は、当然その部局に固有の専門的なものになっていく。そしてその 結果、それらの部局が用いる用語や前提としている暗黙の知識も、互いに異なったものに なっていってしまう。そうなると、必然的にそれらの相互のコミュニケーションは難しく なる。つまり、多様なニーズに対応すべく組織を複雑化させていくことは、それぞれの部 局をさながら離れ小島のように断片化させる斥力として働いてしまうのである。

こうした状況は、「研究」を業務の中心に持つ教員にはさほど大きな影響を与えないかも しれない。研究はそれ自体で完結した意味を持ち得るし、研究を介して直に社会からの承 認も受けられ得る。しかし大学の外部に自分自身の業務の手応えを感じる要素を持ちにく い職員たちからすれば、問題は深刻化しかねない。組織が相互に孤立してしまうと、それ ぞれの部局は自分たちの仕事が具体的に大学全体の中でどう位置づけられ、何のために、

どう機能しているのかが分かりにくくなってしまう。そして、いったんこうした疎外され た状況に陥ってしまうと、自分たちの部局の外の動きがブラックボックス化してしまい、

自分たちの業務が大学全体に対してどんな意味を持つのか、組織の間でどう変化するのか 読みにくくなる。そして、結果が読みにくくなればなるほど、積極的なチャレンジも生ま れにくくなるし、業務への姿勢も受け身になる。また、どこで何が起きているのかが見え にくくなれば、当然責任の所在も不明確になっていく。そうなれば、例年通りの業務を安 定的に回す、ということが業務の主軸とならざるを得ず、大学組織は停滞してしまう。

どこで何が起きているか分からない、誰に責任があるのか分からない、新しいことが生 まれない、といった状況は、もしかしたら多くの大学で見られる珍しくない事態なのかも しれない。しかしそれは、その大学のみに原因があるとは言えまい。それは多かれ少なか れ、近代社会がポスト近代社会へと変容する際に社会全体に生じている現象の一部だから である。しかし、だとしてもそれは、こうした状況をただ手をこまねいて見過ごしていて よい、ということを意味するわけではない。泥臭い表現になってしまうが、結局のところ、

社会からの求めに対応するためその都度増設してきたさまざまな機能のうち、何が必要で、

何が不要なのか、大学は自ら選び直し、それに応じて肥大化した組織やカリキュラムを再

編成することで、自身を再構築する以外に道はないだろう。そして実際、大学設置基準の

大綱化(

1991

年)や国立大学の法人化(

2004

年)などの施策を通じて、国は各大学にそう

した「個性化」を求めてきたのである。しかし、こうした要求への応答は難しく、現状は

今も各大学の模索が続いている、と表現するのが適切であるように思われる。しかもその

模索は、「悪戦苦闘」とすら呼べるような状況かもしれない。

(11)

7. 大学が自らを編み直すこと

類似構造しか持たない均質な大学だけでは、不安定に変化を続ける社会の多様なニーズ には対応しきれない。大学がさまざまに多様化し、独自の方向性へと進化することによっ て、それぞれの大学が相互に補い合い、分担しながら、高等教育機関が社会の中で果たす べき役割を全体として担っていくことが、今や期待されていると言ってよい。このような 背景のもと、それぞれの大学はもはやその参照モデルである旧帝大のローカルコピーであ ることから解放され、均質であることを求められはしなくなった。その代わり、中教審答 申『

21

世紀の大学像と今後の政策方針について―競争的環境の中で個性が輝く大学―』

(1998

)

や『我が国の高等教育の将来像』(

2005

年)で謳われているように、社会が大学

に求めるさまざまな機能のなかで、どのような機能を自らの主な使命とするかを大学は選 び取ることが求められている。

しかしそれは、さまざまな選択肢のうち各々の大学がどれを選ぶかが迫られている、と いった単純な状況では実はない。近代的な理念が「大きな物語」として普遍的な価値を持 っていたように、「共通の規格」には、それ自身が参照され、模倣されるという引力のよう な価値がある。しかし、あるものが「共通の規格」から離反していこうとすれば、そのと きそれは「規格に沿っている」というだけでほぼ自動的に持ち得ていた自らの価値を投げ 捨てることになってしまう。それに加えて、こうした共通規格からの離反が相次いで生じ てしまうと、共通の規格そのものが、「他から参照される」という引力を失っていき、その 価値を崩落させてしまう。つまり、規格の共通性が失われるということは、一つの価値の 体系全体を弱体化させかねないのである。

こう考えるならば、大学が個性化を求められる、ということが意味しているのは、比喩 的に言うならば、大学においても、近代的な「大きな物語」が終焉を迎えたということで あろう。それはつまり、近代以降の一般的な大学が持ち得ていた肯定的なイメージ、例え ば「大学とは豊かな学識を生み出し、それらを清浄に保つ場所である」、「大学とは幅広い 教養を身につける場所である」、「大学では一定の社会的猶予のなかで近視眼的な利益にと らわれずに人間関係を育んでいくことができる」、等々のイメージ

12

は、もはや大学がただ 大学として存在しているというだけでまとうことができる後光のようなものではなくなっ てしまった、ということである。そうである以上、大学はもはやそうした「大きな物語」

には依存せず、自らの価値や意味を社会に示すために、自分たちの物語をそれぞれが自前 で紡がなければならなくなっている、と結論せざるを得ない。つまり、単に複数の選択肢 のなかから一つを選ぶ、ということだけが求められているのではなく、それを選んだ自分 自身の存在価値や存在理由を構成することまで求められているのである。

12

もっとも、大学の起源を繙く限り、近代以降引き続き日本の大学がそうしたイメージを

持ち得ていたとしても、それが「大学」というシステムが普遍的に持つ特質によるもので

はないことは明らかである。というのは、中世ヨーロッパに生まれた大学は、もともと医

師、聖職者、法律家といった専門職を育成するための「組合(ウニウェルシタス)」であっ

たからである。

cf. C. H.

ハスキンズ『大学の起源』八坂書房

, 2009

(12)

しかもさらにやっかいなのは、近代科学を支える知の客観性や、社会の成長を目指す普 遍的な理念そのものが、 「大きな物語」の終焉と共にその効力を失いつつある、ということ である。それはつまり、 「大きな物語」に登場するような語彙を用いて大学が自身の存在価 値や存在理由を正当化するのが難しいということ、例えば、「大学は知の生産や社会的な公 正性の実現に与っている」といった近代的な語彙だけに依存した物語は、もはや十分な理 解を得ることが難しくなっている、ということに他ならない。知識や科学、そして近代社 会が目指した理念が無条件に幸福をもたらしてくれるわけではないことを、すでにわれわ れは気づいてしまっている。なにかが知識であり成長を目指す理念であるというだけで社 会がその価値を是認してくれた時代は、もはや過去のものなのだと言わざるを得ない。従 って、それぞれの大学が自らの価値を正当化しようとすれば、知識そのものの意義、普遍 的な理念、といった近代的な諸概念を、より現代的な語彙を用いて「なぜそれらが価値を 持つのか」という最初の段階からあらためて説明し直す必要がある。しかしながら、そん なことが可能なのだろうか。こうした近代的な諸概念はそもそも大学の骨格そのものであ り、別の概念によって代替することは不可能なように見えさえする。従って、それぞれの 大学がそれぞれの「小さな物語」を紡ぎ直すことに大きな困難が伴うことは間違いないだ ろう(それゆえ、もはや通用性が疑問視される古い物語に固執して大学の在り方を擁護し ようとする大学教職員が今なお多かったとしても、それは特段不思議なことではないと私 には思われる)。

例えばいわゆる「三つのポリシー」策定の義務化

13

は、これまでの議論に則して考える限 り、これはそれぞれの大学に対して「小さな物語」の作成を促し、支援し、また強制する ための施策だと捉えることができる。それぞれの大学は、 「三つのポリシー」を通じて、自 らが何を目指し、それをどのように実現していくのか、ということを文書として策定しな ければならず、しかもそれは単なる事実の表明を越えた、その大学の社会に対する意義や 使命を約束するものとして位置づけられるものだからである。こうした要請に応えようと するならば、おそらくまず必要となるのは、それぞれの大学の教育の実情が具体的にどう なっているのか、きめ細かく精査し、既成の価値基準や権威に依らず見直すこと、そして、

そうした見直しによって得られたものを丹念に再構成しようと試みることだろう。いささ か愚直な言い方になるが、おそらくそうした地道な方法以外に道はあるまい。

8. 教職協働を求める声と、その実現に要されるもの

教職協働を求める声は、こうした状況からあがっていると考えられる。つまり、不安定 な変化や増加するニーズに対応しきれない古いシステムに代わり、新たに土台となる価値

13

中教審答申『学士課程教育の再構築に向けて』 (

2008

年)において各大学にその策定や 明確化が求められた、ディプロマ・ポリシー、カリキュラム・ポリシー、アドミッション・

ポリシーのいわゆる「三つのポリシー」は、省令改正により

2017

4

1

日からその策定

と公表が義務化されている。

(13)

や方向性の構築が求められ続けている、という状況である。しかも、大学改革が本格化し てすでに

20

年以上が経とうとしているのに、そうした状況は一向に減速する気配がない。

教職協働とは、詰まるところこうした状況下で、大学人たちがなんとか手探りをしなが ら身近なものの中から共に手がかりを見いだそうとする姿勢に他ならない。それゆえ、既 存のやり方を無批判的に再生産するだけなら、どれほど他部局や他の職種の人間と働いた ところで、それは今求められているような「協働」とは性質を異にすると言わざるを得な い。また、新たな目標やその実行手順、実行組織が構築され、それらが安定的に稼働する ようになってしまえば、それ以降はもはや協働が不可欠であるとも言えないだろう。

逆に、もし既存の手順や役割といった枠の作り替えがなされ、しかもそれが単なる一部 の声だけではなく、その大学の言わば「一般意志

14

」のようなものであり得るのであれば、

それがもともと異なる部署にいた職員同士の協働によるものであっても、教員同士の協働 によるものであっても、本質的には教職協働において求められていたものと性格は同じで ある。ただ「教教協働」でも「職職協働」でもなく、「教職協働」というフレーズがとりわ け目立つのは、大学全体の方向性を創造し、目指す方向性に沿った新たなマネジメント体 制を構築するという、おそらくはもっとも困難な創造的混沌の渦中にあって、大学の基本 的な構成員である教員と職員の協働こそが欠かせないと考えられているからであろう。再 構成された大学の理念が、教員と職員のいずれかのみからの承認しか得られないものに留 まるなら、それは新たな求心力を持つ価値とはなり得まい。逆に言えば、大学業務に与る アクターのいずれからも承認を獲得し得るような方針を新たに築かなければならないので あれば、いずれもがその構築に関わることが望ましいのである。

さて、教職協働が求められる理由が、これまで述べてきたような大学の液状化に抗して 新たな目標や秩序を構成していかなければならないという危機感や、大学の再生への意欲 にあるとすれば、実際に教職協働で業務にあたる際に満たすべき重要な必要条件の一つは、

既存の体制や目標、業務手順や優先順位などに対する批判が許されるような「開放性」だ ということになるだろう。既存の手法や手順では複雑化した現状の課題に対処しきれない、

という閉塞感が教職協働を実現させる推進力になっているにもかかわらず、批判や見直し が許される自由な空気がなければ、実現した協働が結果的には既存のやり方をなぞるだけ に終わってしまう恐れがある。

そう考えると、教職協働の実現のための手段としては、具体的には例えば「プロジェク ト型の業務の推進」がその候補として挙げられよう。プロジェクト型の業務は、期間やミ ッションを限定することをバーターに、年齢や経験に依らない仕方で開放的なチームを編 成しやすく、教職協働のモデルの一つだと言える

15

。とはいえ、プロジェクト型の業務であ

14

「一般意志」はルソーによる概念である。単に利益に関わる個人の意志の総和ではなく、

共同体全体の共通の利益を志向する、共同体全体の意志のことを言う(

cf.

ジャン・ジャッ ク=ルソー『社会契約論』白水社

, 2010

, p. 46

)。

15

例えばプロジェクト型の業務を推進することで大学改革を進めた事例や具体的な手法を

集めたものに、

WISDOM@

早稲田(

2008

)がある。

(14)

れば望ましい教職協働が実現されるという保証があるわけではない。そのプロジェクトに はどんな役割が必要なのか、構成員のそれぞれにどんな適正があるのか、その適正を活か すにはどんな役割配置が適切なのか、そして、どんな手順でプロジェクトを進めていけば いいのか、といった意味づけや価値付けがなければ、業務は混沌として進まない恐れがあ る。しかし、そうした秩序の形成が容易である筈がない。あらたな秩序をいかに作り上げ ていくか、がプロジェクト型業務の推進における大きな課題となる。では、その課題には どう応えていけばよいだろうか。混沌の中から手探りで小さな秩序を生み出し、その秩序 を少しずつ変化させながら大きく脈動させていくようなプロセスを、ドゥルーズは「リト ルネロ

16

」と呼んでいる。教職協働において求められる姿勢は、おそらくこれに近いものだ と考えられる。つまり、プロジェクト型業務とは、単に新たな試みであるというより、そ の取り組みに向かう相互の関係や手法といった秩序そのものを同時に構築していく試み、

そして新たに構築されたものを相互に承認し、価値を賦与していく試みでもある。

教職協働で業務にあたる際に満たすべきものにはもう一つ、コミュニケーションに掛か るコストを必要な代価として認めなければならない、という条件がある。異なる職域、異 なる勤務体系の構成員による協働に伴う困難は、相互理解や意思決定において現れる。社 会のポスト近代化が、お互いを境界付け、差異化する斥力として働くことは既に述べた。

それぞれ高度に進化した専門領域からなる学術的な知識は、まさにそうした力場の発生源 として働く。そして、それぞれの領域内で交わされる言説は複雑化・専門化し、語彙が豊 かになっていく一方で、そうした言説は翻訳不可能な方言と化し、領域外に住まう他者に は理解しがたいものになっていってしまう。こうして職務の細分化はほぼ必然的に高度専 門化を招き寄せ、単に内部に向けての言説を高度化させるだけでなく、結果的にはそれと 反比例する形で、外部に向けての言説を質・量ともに貧困化させていってしまう

17

16

「リトルネロ」とは何度も繰り返されるメロディ(リフレイン)のことである。ドゥル ーズは、『千のプラトー』において、暗闇で迷いながら家に帰ろうとする幼子が、不安の中 で何度も同じ歌を繰り返しながら、その歌によって勇気づけられて歩く様子を描いている。

繰り返されるリトルネロは、徐々に混沌と恐れに対抗する力を生み出し、自身にとって心 理的に安全な場を生み出していく。また、その時繰り返される反復は、全く同じものの再 生産ではない。もともとのフレーズから少しずつずれ、変化していきながら、次第に大き く成長し、リトルネロに共振する他者を巻き込みつつ環境を生み出してくのである(

cf. G.

ドゥルーズ

+F.

ガタリ「

1837

年―リトルネロについて」 『千のプラトー 中』河出書房新社

, 2010

年)。ところで、いわゆる「

PDCA

サイクル」が果たしてどれだけ大学教育の質を保 証できるか、については様々な立場が取られ得るだろうが、新たな大学像を模索しつつ行 われている教育改善において、自律的に変化する反復的なサイクルがその駆動装置の中心 に据えられていることは興味深い。

17

従って、例えば教員が専門領域を同じくする同僚に向けて専門用語を駆使して表現でき

る言説を「内向きの言説」と呼び、専門領域や職域の異なる一般的な第三者に向けて語る

言説を「外向きの言説」と呼ぶなら、一般に外向きの言説は内向きの言説に比べ稚拙に見

えてしまうだろう。しかしながら、例えば大学全体の方針や理念といったものや、社会に

向けてその内容を表現しなければならない「三つのポリシー」などは、いずれも外向きの

言説なのである。おそらくこれまで大学教員は、外向きの言説の語彙や表現力を十分に洗

(15)

従って、例えば、「学生の積極性を引き出すための教育を目指す」という目標を立てたと しても、その受け取り方やイメージはそれぞれ異なったものになる恐れが高く、完全なす りあわせはできようはずもない。そのため、完全な合意を待ってから業務にあたる、とい う仕方で演繹的に業務を行うことはできない。そして、それは時として業務にあたってい る者たちの目測を誤らせてしまう。多様な視点や多様な専門領域があること自体は望まし いことであるが、それを単なる「眠った資源」ではなくて実際に機能する推進力として業 務の中に反映させてゆくには、「必要な情報のやりとり」の前に、ともすれば過剰ともとら れかねないほどの日常的なコミュニケーションが必要である。そのため、短期的な成果や、

性急な結果を求めることは、教職協働にはなじまない。さらに言えば、行われるべきコミ ュニケーションとは、お互いの価値観や行動規範を知ることができるようなものであるこ とが必要だが、それだけに留まるものであってはならないだろう。相手の職域を単に尊重 するだけでなく、その内容にまで踏み込んで理解しようとする姿勢がなければ、協働は成 立しない。その意味では、協働とは、互いに尊重し合うだけではなく、積極的に越境し、

相手の領域まで踏み込んで理解しようとする姿勢あってこそ成り立つ。時間的にも心理的 にもコミュニケーションにかかるコストが高くなることは、覚悟しなければならない。

9. おわりに

さて、これまでの議論から、教職協働がなぜ必要とされているのか、そして、なぜその 理由が明確なかたちで語られることがないのか、という問いにはほとんど回答が与えられ たと思われる。「医療従事者モデル」が語るような、職員の専門性の向上、そしてそれに伴 って要求される教職員の対等性は、教職協働が求められる理由の本質を成すものではない。

そもそも医療における医師とコメディカルスタッフのチームには、担当の患者の健康や

QOL

の向上という具体的な目標が定まっているが、大学における教職協働はそうではない。

むしろ、そうした目標や指針を手探りの中から見出し、それらを相互に承認しながら価値 付けていくために、既存の枠組みや権力構造の解体と再生を求める姿勢が、「教職協働」と いうスローガンの根底にある。

現在、

SD

の強化や、マネジメントに関する専門的な職員の育成の必要性が指摘されてい る

18

。当然それは、ガバナンスが喪失し、組織の全体化や舵取りが十分になされていない大 学の現況の再構築が狙いにあると見られる。しかしながら、目指す方向性や価値基準が不 安定なままの状況下で仮にマネジメントに通じた職員を配置したところで、彼らが期待さ れた役割を果たし得るとは考えにくい。軸となる価値の創造や意思決定は、そもそも専門

練させてこなかったおそれがある。しかし、誰かの語った外向きの言説を、学術的水準が 低く未熟だと批判し続けても、外向きの言説の質が向上するわけではあるまい。外向きの 言説を社会に向けて語ることが、これからさらに要請されていくだろうことを考えれば、

むしろ外向きの言説をいかに洗練させていくか、を積極的に今後の大学教員の課題の一つ に据える必要があるだろう。

18

詳細は、橋場論(

2016

)が詳しい。

(16)

家に完全に委任してしまうことのできる類のものではなく、アクターたちが自ら編み直し ていくしかないものだからである。

医療やコメディカルがそうであるような、チーム内での相互の専門性が担保され、それ ぞれの役割分担やチームの目標も定まった上での協働が大学において常態化するのは、お そらくはまだしばらく先になる。当面は、手探りで行う「教職協働」がもたらす摩擦や軋 轢を、それが「産みの苦しみ」であることを期待しつつ、模索し続けていくしかない。

【参考文献表】

・飯吉弘子(

2008

,

『戦後日本産業界の大学教育要求―経済団体の教育言説と現代の教 養論』東信堂

・岩崎正洋

[

編著

]

2011

,

『ガバナンス論の現在―国家をめぐる公共性と民主主義』頸草 書房

WISDOM@

早稲田(

2008

,

『大学は「プロジェクト」でこんなに変わる』東洋経済新

報社

・大場淳(

2013

,

「大学職員の位置」広田照幸(他) 『シリーズ大学

6

組織としての大学

―役割や機能をどう見るか』岩波書店

・小熊英二(

2012

,

『社会を変えるには』講談社現代新書

・オルテガ・イ・ガセット(

1995

,

『大衆の反逆』ちくま学芸文庫

・清水栄子(

2011

,

SD

の新たな知性―「大学人」能力開発に向けて―アンケート結果 の概要について」

,

『大学教育学会誌』第

33

巻第

1

, pp. 53-7

・諏訪哲二(

2005

,

『オレ様化する子どもたち』中公新書ラクレ

G.

ドゥルーズ

+F.

ガタリ(

2010

,

『千のプラトー 中』河出書房新社

・中山茂(

1978

,

『帝国大学の誕生』中公新書

・ジークムント・バウマン(

2001

,

『リキッド・モダニティ』大月書店

, 2001

・橋場論(

2016

,

「職員の能力開発と

SD

の義務化

(

)

」 『教育学術新聞』第

2643

, 2016

4

27

C. H.

ハスキンズ(

2009

,

『大学の起源』八坂書房

・ジャン=フランソワ・リオタール(

1986

,

『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語 ゲーム』水声社

・ジャン=ジャック・ルソー(

2010

,

『社会契約論』白水社

参照

関連したドキュメント

問題点を含めて、家族法の大幅な改正がいま

〝給付の普遍度〟という言い方をしていますけれど、貧しい人にお金をあげる場合、そして、

 目 次 Ⅰ はじめに Ⅱ 仕事における報酬 Ⅲ 分 析 Ⅳ 結語と今後検討するべき課題 Ⅰ は じ

点を指摘している。また International Social Survey

んでいる。 私たち演劇人には協調性はない。 芸術 家だから, 好き勝手なことばかりやっている。

APU では、開設準備の時期に APU

女性の側から見て、女性の活躍を阻害する「4つの壁」があると言わ

中学校特別活動の目標は, 「望ましい集団活動を通して, 心身の調和のとれた発達と個性の伸