1.はじめに
池上の一連の研究によって,人が発話に先立ち〈事態把握〉という認知行為を 行い,それに即して言語化すること,その際に〈事態把握〉の仕方は各言語の話 者により好みの傾向が異なり,それが言語形式に反映されることが明らかになっ た。これは対照研究や日本語教育への応用の点で新たな研究の可能性を示すもの である。本稿はこれをふまえ,日中間の語りの相違を観察し,その背後にある〈事 態把握〉との相関を,具体例とともに検証する。
周知の通り,“何から語り始めるか”は文法上の語順に関わる問題であり,主 語から,あるいは補語から語り始めるかには,言語による好ましさが関わる。従 来,語順の問題は構文的な制限,語用論の視点,テキスト分析の角度から分析さ れており,語順の変更については補語成分の主題化や伝達上の強調,文章におけ る承前性といった要因を用いて説明されてきた。しかし実際は,従来の議論をこ えて存在するような言語事実も観察され,特に翻訳作品に見られる語順の変更に ついては,こうした観点からだけでは説明しきれないものがある。そもそも対照 研究で特徴とされる日本語の語順の自由さは,何に起因するものなのか。本稿は,
〈事態把握〉の観点からその本質に迫りたい。
2.〈事態把握〉と事象の言語化
池上(2000,2006 など)は,言語には主観的な事態把握を基本にするものと 客観的な事態把握を基本とするものがあるとし,日本語は主観的な事態把握が相 対的に広範囲で許容される言語であると述べている。〈主観的事態把握〉と〈客 観的事態把握〉における事態の捉え方の特徴,及びそれによる言語化の特徴につ いては,次のようにまとめられている。
〈事態把握〉から見た中日両言語の語り
―語順を中心に―
徐 愛 紅
〈主観的事態把握〉
話者は問題の事態の中に自らの身を置き(実際は事態の内部にいなくても),そ の事態の当事者として,体験的に事態を捉えて言語化する。その結果,話し手中 心的な言語形式を伴う傾向が顕著となる。
〈客観的事態把握〉
話者は問題の事態の外にあって(実際は事態の内部にいても),傍観者・観察 者として,客観的に事態を捉えて言語化する。その結果,話し手や聞き手を代名 詞で言語化する傾向がある。
(池上・守屋 2009)
〈事態把握〉が言語表現に影響を与えることは,近年の研究によって実証され ている。その典型的な例として,川端康成の『雪国』の冒頭部分と英訳の違いが 挙げられる。
(1)国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号 所に汽車が止まった。 (『雪国』)
(1-2)The train came out of the long tunnel into the snow country.The earth lay white under the night sky.The train pulled up at a signal stop.
(『Snow country』)
『雪国』の冒頭部分の英訳は、主語(「The train」)の顕在,それに続く第2文「夜 の底が白くなった」の訳し方といった点で日本語の原文と対応していないことが 議論されてきた。こうした日英語が同一事象に対する言語化の差は,両言語の話 者の〈事態把握〉の違いに帰されるものだとされている。例(1-2)の英訳では,「外 側からの目で何が何をしたのかと,より客観的に事態をとらえて言語化している」
が,日本語の原文は「〈主観的事態把握〉による,汽車から見えたままを言語化 したものである」。注1
英訳に限らず,中国語訳も日本語の原文と直接対応していないところが観察さ れる。
(1-3)穿过县界长长的隧道,便是雪国。夜空下一片白茫茫。火车在信号所前停
了下来。 (《雪国》)
(1-4)火车穿过县界长长的隧道,便是雪国。
中国語訳では,冒頭文に主語「火车」が必須ではないが、あると意味がより明 瞭になる。注2第2文は「夜空の下が一面と白かった」という訳し方をしているが、
汽車から見えたままを言語化した原文とは捉え方が異なる。第3文は原文が「信 号所に」から語り始められているが、訳文は「汽車」から始まる記述となっている。
本稿は,主にこの三つ目の文に観察されるような,文学作品が翻訳される際に語 順が変更した文にしぼって,同じ情景について何から語り始めるのか,何をどの ように語るのかという日中間の好ましい表現法を探りたい。そして,このような 言語化または構文のあり方の違いは,〈事態把握〉との関わりから説明を試みる。
3.何から語り始めるのか。
何冊か日本語と中国語の文学作品の対訳本を対照してみると,訳文が原文の語 順を変えて訳されているところが少なくないことに気付く。例えば、日本語の原 文では場所や様態語句から始まるが,中国語の訳文は主語から始まる文となって いるものがある。次の(2)(3)は場所語句の語順が変更した例である。
(2)女はふいとあちらを向くと,杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってつ いて行った。
神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰を下ろした。
(『雪国』)
(2-1)那边是神社。女子在布满青苔的石猪狮子狗旁的一块平坦的岩石上坐了下 来。
(《雪国》)
(3)島村はなんとなく心惹かれて,持主の芸者の名を読んでいると,食器を洗
う音の方から駒子が来た。 (『雪国』)
(3-1)他正念着琴盒所属的那个艺妓的名字,驹子从响起洗餐具声的那边走了过
来。 (《雪国》)
(3-2)?从响起洗餐具声的那边驹子走了过来。
この二例は,日本語の原文が「場所+主語+述語」という語順だが,中国語訳 は「主語+場所+述語」と語順を変えて訳されている。一方,中国語の文学作品 が日本語に訳されるとき,原文が主語から始まるものは、訳文が場所から始まる
ものに変わる場合も観察される。
(4) 死者的骨灰由一架麦道飞机托运回来,他还记得那天阳光灿烂,矮个子的奶 奶在机场哭得老泪纵横,像块湿抹布。 (《上海宝贝》)
(4-1)遺骨はダグラス機で上海に送り返されてきたが,天天は陽光が燦々と降 り注いでいたその日のことをよく憶えているそうだ。上海空港で小柄な祖母 がぐちゃぐちゃに泣いて,まるでぼろ雑巾のようだったという。
(『上海ベイビー』)
従来の研究では,語順を決める要素として,語彙的意味,文の内的要素,語用 論的要素,テキスト的要素などが挙げられ,基本語順を変える際には,文成分 の長さの問題,補語成分の主題化や伝達上の強調,既知と未知情報との関連性,
文章における承前性などの要因が関与すると指摘されている。(佐伯 1983,野田 2000,王 1999,俞1999 等)こうした観点に基づくと,例(2)(3)の場所語句 前置は,文成分の長さが関与するという可能性が出てくる。しかし,文成分の長 さが決定的な要因であるならば,例(4-1)の日本語訳における場所語句の前置,
および次の例(5)(6)が説明できない。一方,中国語も,文成分の長さが語順 変位の要因の一つと考えられている。そうすると,例(2-1)(3-1)は場所語句 を前置して日本語の原文に忠実した訳にしてもいいはずだが、実際にこのように 訳された(3-2)は些か違和感を感じる文となってしまうのである。これはなぜ なのか。少なくともこの現象から言えることは,従来の論考だけに頼りすぎると,
当てはまらない言語事実が例外となり,我々が気付いていない言語の内実を見逃 してしまうということであろう。
(5)菊治は隣りの間に上った。菓子箱だとか,運んで来た茶器の箱だとか,客 の荷物だとかが,少し散らかして置かれ,奥の水屋で女中が洗いものをして いた。 (『千羽鶴』)
(5-1)菊治走进了贴邻的房间,只见房间里散乱地放着诸如点心盒子,搬来的茶 具箱,客人的东西等。女佣正在里面的洗茶具房里洗洗涮涮。 (《千只鹤》)
(6)ちか子の膝の新聞紙に,男のひげのような毛が落ちているのも,菊治は見 てしまっていた。 (『千羽鶴』)
(6-1)近子那些像男人胡子般的毛,掉落在放在她自己膝上的报纸上。菊治全都
看在眼里。 (《千只鹤》)
上記の例から,ある情景が言語化される際,日本語は「場所+主語+述語」と いう語順が好ましいのに対して,中国語は「主語+場所+述語」という基本語順 を取ることが多いということが言えよう。この違いは何に起因するのか。また,
この言語事実は何を物語るのか。この問題を解決するに当たり,次の二文の違い が手がかりになると考えられる。
(7)机の上に本がある。
(8)本は机の上にある。
例(7)(8)の違いというと、(7)は現象描写文で,話し手の「見え」をその まま言語化した文であり,(8)は本について記述したり,机の上にあるのは何物 かという問いに答えたりする題述文である。つまり,語順が違えば,話者の事態 に対する捉え方も異なる。または,事態の捉え方が異なれば,語順にそれが反映 され得ることも言える。この違いは,次の中国語の例(9)(10)にも当てはまる。
(9)桌上有一本书。(机の上に本がある)
(10)书在卓上。(本は机の上にある)
認知言語学では,言語表現の相違は認知の相違に動機付けられているという立 場に立って言葉の事実を分析する。認知文法の用語で言うと,「主語+場所+述語」
という基本語順においては,「主語」がトラジェクター,「場所」がランドマーク となろう。例(8)(10)に当てはめて言えば,「本/书」はトラジェクター,際 立って認知される対象であり,「机/卓」はランドマーク,相対的に際立ちの低 い対象となる。しかし,「場所+主語+述語」の場合は,「場所」がトラジェクター,
「主語」がランドマークとは考えにくい。語順は人間の認識順序を反映するもの だとすれば,「場所+主語+述語」も,語り手の認識順序に対応しているはずで ある。(7)(8)の違いは語り手の事態に対する捉え方の違いを示すもので,それ ぞれ〈主観的事態把握〉と〈客観的事態把握〉という異なる〈事態把握〉の結果 だと考えられる。「場所+主語+述語」は〈主観的事態把握〉を取る際の語順で,
「主語+場所+述語」は〈客観的事態把握〉の語順である。〈客観的事態把握〉は,
何がどうしたかが叙述の中心であり,「主語」がトラジェクター,「場所」がラン
ドマークという関係で、基本語順を取ることになる。これに対して,語り手が出 来事に臨場して,目の前の情景を観察(認識)する場合は,認知順序が「静→動」「大
→小」となり,この順序に沿って言語されていくのである。注3出来事なら,「場所」
が静で,動き(「主語+述語」)が動の部分である。存在という静的事態の場合は,
「場所」が大で,モノが小の部分に当たろう。それゆえ,「場所」が先に来るとい う構文的な特徴,すなわち「場所+主語+述語」という語順は,〈主観的事態把握〉
の認識順序に従うものである。
「場所+主語+述語」という語順を取る日本語の原文は,語り手が作中人物の 視点で事態を描いたものか,または直接体験者として出来事に臨場して描いたも のである。しかし、中国語訳は日本語の原文で述べられた事態を外側の観察者の スタンスを取って訳されたため,「主語+場所+述語」という構文となるのである。
また,中国語から日本語への訳文は、原文が語り手が外側からの視点で述べられ たものを,日本語の訳者が臨場的スタンスで訳すため、語順が変わったわけであ る。〈客観的事態把握〉の中国語は語り手が出来事を報告する際の語り手であり,
文章はモノを追っての記述となる。これに対して、〈主観的事態把握〉の日本語は,
作品の作中人物になり切って,または自分も事態に臨場しての体験者であり,文 章は体験のままの記述となる。
中日文学作品の対訳文に見られる語順の変更は,場所語句のほかに,動作の様 態を表す語句が文中の位置を変更した場合もある。
(11)その長いはずれの帳場の曲がり角に、 裾を冷え冷えと黒光りの板の上へ 広げて、 女が高く立っていた。 (『雪国』)
(11-1)在长廊尽头帐房的拐角处,婷婷玉立地站着一个女子,她的衣服下摆铺 展在乌亮的地板上,使人有一种冷冰冰的感觉。 (《雪国》)
(11-2)??在长长的走廊尽头,在帐房间的拐角上,有冷飕飕的衣裳下摆铺展 在发着黑光的木板上,一个女人高高地站在那里。
(12)駒子が帰ってから島村も村へ散歩に行ってみた。
白壁の軒下で真新しい朱色のネルの山袴を履いて,女の子がゴム鞠を突い ているのは,実に秋であった。 (『雪国』)
(12-1)在屋檐下,一个女孩子穿着全新的红色法兰绒雪裤在白墙边拍球。确实 是一派秋天的景象。 (《雪国》)
(12-2)*在屋檐下,穿着全新的红色法兰绒雪裤,一个女孩子在白墙边拍球。
例(11)と(12)では、女または女の子の身なりを表す語句が,主語の前にあ る。これに対して,中国語訳は主語の後に置かれている。日本語の原文に忠実し て様態語句を主語より前置させて例(11-2)(12-2)のように訳すると,それぞ れ不自然な文になるか,非文となってしまうのである。
例(11)(12)において様態語句が前置するという語順を取ったのは,語り手 が自らその場に臨場して事態を言語化したためか、もしくは主人公(島村)の視 点で情景を描いたからだと考えられる。例(11)では,その場にいる島村の目線 にまず入ったのは,裾が黒光りの板の上へ広がっていること,そしてこの光景が 島村にその場の空気を冷え冷えと感じさせたのである。女がそこに立っているこ とよりも,島村の注意を引いたのは長い裾だったろう。例(12)も,女の子が白 壁の軒下で真新しい朱色のネルの山袴を履いている光景が,島村に秋の気配を感 じさせたのである。女の子が何をしていることよりも,白壁の軒下に真新しい朱 色のネルの山袴という色彩のコンビネーションに,島村が引かれたのである。こ の二文とも,語り手が作中人物の認知順序で描かれたものであるため,「様態+
主語+述語」という語順となるのである。
一方,中国語訳は,訳者が外側の視点を取って訳しているため,何が起きてい るかという出来事の記述となる。報告調の文章は,モノを追っての記述となるた め,「様態+主語+述語」という語順が許容できないわけである。
次に、日本語の訳文が中国語の原文と比べて様態語句が前置している場合も見 ておこう。
(13)一辆黑色的小奥斯汀汽车远远驶来,在柏油路上发出轻轻的咝咝声。
(《上海的早晨》)
(13-1)アスファルトに,スッスッと静かな音を立てながら,黒ぬりの小型オ ースチンが遠くからはしってくる。 (『上海の朝』)
(13-2)??在柏油路上发出轻轻的咝咝声,一辆黑色的小奥斯汀汽车远远驶来。
(14)“你在担心什么?”我奇怪地问,把嘴唇从他的耳边移开。 (《上海宝贝》)
(14-1)「何を心配してるの?」唇を彼の耳の上のほうにずらしながら,私は怪
訝しげに訊き返した。 (『上海ベイビー』)
(14-2)??“你在担心什么?”把嘴唇从他的耳边移开,我奇怪地问,。
中国語の原文例(13)はまず車が走ってくることを述べて,それに続いてどん な様子で走ってくるのかを説明している。日本語訳では,まず車の音が聞えてき て,それから車が走ってくるのが見えてきた,という順番で語られている。日本 語訳はその場にいる感知者の視点を取り、つまり臨場的なスタンスで感知の順序 に沿って状況を言語化されているのである。例(14)の中国語の原文も,私が訊 き返したという行為をまず述べ,どんな仕草で聞いたかの記述が後に付け加えら れている。日本語訳は,仕草と訊く行為が同時進行であることがそのまま言語化 されている。その場でのありのまま情景を再現しようとした文章となっているの である。この違いは後述する,日本語は事態をアナログ的に捉えるのに対して,
中国語はデジタル的な捉え方をするということと関係する。
「主語+様態+行為」の様態語句は,行為のあり方を表す修飾語句であり,出 来事をより詳しく記述するためにあるものである。一方,「様態+主語+行為」
の様態語句は,語り手が情景に臨場して,真っ先に視覚的,感性的に感じ取った「見 え」の部分である。後者の語順は〈主観的事態把握〉にしか有り得ない構文であ ろう。〈客観的事態把握〉を取る中国語は,様態節の前置が許容しにくい。〈客観 的事態把握〉はモノを中心とする記述法を取るため,様態節はモノの存在や行為 を表すための付随的な成分となる。
4.何をどのように語るのか。
見えた順序に沿って言語化していくという〈主観的事態把握〉ならではの語り 方は,出来事の発生を記述の中心とする〈客観的事態把握〉の語り方とは異なる。
この違いは,次の例にも示されている。
(15)明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、 襟巻で鼻の上まで包み、
耳に帽子の毛皮を垂れていた。 (『雪国』)
(15-1)一个把围巾缠到鼻子上帽耳聋拉在耳朵边的男子,手拎提灯,踏着雪缓 步走了过来。 (《雪国》)
(15-2)一个男人提着灯,慢腾腾地踏雪走来。围巾连鼻子都包住了。帽子的皮 护耳垂在两边。 (《雪国》訳文2)
例(15)は,汽車の中にいる島村の見えた順番で描かれている文である。まず 遠くに明かりが見え,だんだんとやってくるのが男だと分かり,さらに近づくと,
男が厚い防寒着に身を包んでいる様子がはっきりと見えてきた、という観察順序
に沿ったままの言語化である。しかし,中国語訳では,男がやってきたという誰 がどうしたかを中心に記述する構文となっている。この違いも,語り手が臨場的 なスタンスで描くのか,それとも事態の外側の視点から描くのかという〈事態把 握〉の違いによるものである。日本語は「見え」 た順に沿った記述となるのに対 して,中国語訳は動きの記述が中心となり,「報告」的な記述である。
「どのように描くのか」の相違は,日本語の原文が連体修飾語句で表現される ものが,中国語訳では「主語+述語」の構文で訳されている場合にも現われる。
例(16)はこれに当たる。
(16)突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座布団を外して,裏返しに
傍へ置いた。 (『伊豆の踊り子』)
(16-1)那舞女看见我倥立在那儿,立刻让出自己的座垫,把它翻个身摆在旁边。
(《伊豆舞女》)
(16-2)??看到我倥立在那儿的那个舞女,(后略)。
また,例(17)のように,日本語の原文が一文で表現されているものは,中国 語訳では,三つの文に分けて書き直さなければならないこともある。例(16)に しても例(17)にしても,例(16-2)(17-2)のように,日本語に忠実した訳に すると,不自然な文になるか,構文的に成立しない文になる。
(17)この冬スキイ場でなじみになった男達が夕方山を越えて来たのに出会い,
誘われるまま宿屋に寄ると,芸者を呼んで大騒ぎとなって,飲まされてしま
ったとのことだった。 (『伊豆の踊り子』)
(17-1)据她说:①今冬在滑雪场上,结识了一帮子男人,②他们傍晚翻山越岭
来到这里,③彼此相遇。 (《伊豆舞女》)
(17-2)*遇到了今冬在滑雪场上结识的那帮子男人傍晚翻山越岭来到这里。
このような対訳文における構文的な違いは、中国語の文学作品が日本語に訳さ れる場合にも見られる。
(18)恂少奶奶一进房来,也没向恂如看一眼,只朝窗前走去,一边把那白地小 红花的洋纱窗帘尽量拉开,一边就叽叽咕咕数说道。 (《霜叶红似二月花》)
(18-1)はいってきた宝珠は,恂如を見るでもなくつかつかと窓に近寄ると,
白地にこまかい赤い模様を散らしたモスリンのカーテンを音高く引き,ぐず ぐずいいはじめた。 (『霜葉は二月の花に似て紅なり』)
(19)吴大维坐在皮转椅上不停地操着鼻涕, (《上海宝贝》)
(19-1)革張りの回転椅子に座った呉大雄が,ひっきりなしに鼻をかんでいる。
(『上海ベイビー』)
中国語の原文が「主語+述語」の構文で表現された事態(「宝珠が入ってきて」
(例 18)「呉大雄が革張りの回転椅子に座って」(例 19))は,日本語訳では「は いってきた宝珠は」「革張りの回転椅子に座った呉大雄が」と連体修飾節で表現 されている。日本語訳のようなに書き直すと,中国語としては幾分か不自然な文 となってしまう。「突っ立っている私」(例 18-1)「はいってきた宝珠」(例 19-1)
といった限定・補足・修飾の機能を持たない連体修飾節は,日本語にはあり得る が,中国語では成立しにくいのである。非限定・非修飾の連体修飾節は〈主観的 事態把握〉,つまり「見え」のまま,または現場性をもつ言語化をする際に成り 立つものだと考えられる。
本節の考察から分かるように、同じ事態を「どのように語るのか」も、〈事態 把握〉の捉え方に影響を受けるものである。日本語の文学作品は作中人物の立場 からの捉らえ方で,時間軸に即して捉えた「見え」を時間軸に沿って言語化し,〈主 観的把握〉に伴うアナログ式の言語化である。つまり,「見え」のままのコトを そのまま捉えるのである。一方,中国語は,情景を瞬間,瞬間で空間的に分解し て言語化し,〈客観的把握〉に伴うデジタル式の言語化であろう。注4そして,モ ノを軸に捉え,言語化する中国語は,スル表現の特徴を持ち,「見え」のままの コトを捉える日本語は,ナル表現的と言えよう。
5.結論
本稿は,日中文学作品の対訳本に見られる違いについて,語順を中心に考察し てきた。傾向としては,日本語の文章は場所や様態語句の前置が見られるが,中 国語の文章は基本語順が多い。これは〈主観的把握〉を取る日本語と〈客観的把 握〉を取る中国語という両言語の〈事態把握〉の違いによるものだと考えられる。
文章の語りとは,出来事や展開する情景が語り手の目を通して言語化されるも のであり,同じ情景でも語り手によって様々な構図が可能である。本稿の考察に より,〈事態把握〉の相違から,中国語の文章は情景を瞬間ごとにデジタル式に
分析し,それを言語化していく傾向があるのに対し,日本語は時間幅でとらえた
「見え」をアナログ式にとらえ,言語化していく傾向があることが指摘できた。
こうした相違は,比較的〈客観的把握〉を好む中国語話者なら,何がどうしたか,
何が起きているかといった客観情報を効率的に伝えることを求めるのに対し,〈主 観的把握〉を好む日本語話者はその場でなにを知覚し,なにが見え,なにを感じ るかを主軸に語る傾向が見られるという違いに関わる。また,〈客観的把握〉は,
語り手が事態の外にあって,事態を客観的に捉えることになるので,事態を効率 よく伝えるためにより厳しい構文的制約が課せられる。〈主観的把握〉は,語り 手が臨場して,話者の「見え」を言語化されることになるので,構文的な制約か ら解放され,「見え」のままに文章が言語化される。日本語に見られる語順や連 体修飾節の自由さは,〈主観的把握〉のスタンスを取る際に生まれた構文的な特 徴であろう。このことは〈事態把握〉の差異が構文的な特徴にも影響を与えるこ とを示している。本稿の考察は日中間の翻訳の実践と対照研究の双方において,
何らかのヒントが提供できるものと思われる。
◆注
〔1〕守屋三千代(2009:p6)から引用。
〔2〕『認知言語学論集』第6巻「『雪国』にみる日本語の認知言語学的特徴―中国語訳・
英語訳と対照して─」という共同研究で、盛文忠氏が「『雪国』の中国語訳から見る 日中両言語の認知的差異―文型・主語・動詞・数量詞の使用を中心に」という論文 を発表している。この論文でも、『雪国』の冒頭文の中国語訳に“火车”という訳語 が出ていないのは、中国語らしくなく、日本語の影響を受けた訳文だと指摘されて いる。
〔3〕小野など(2009)は、実験を通して、語順と視線の対応関係を検証し、「人が場面描 写を行う際の視線と発話での言及順序が非常に強い対応関係で結びついている。」と いうことが裏付けられている。
〔4〕〈主観的把握〉に伴うアナログ式の言語化と〈客観的把握〉に伴うデジタル式の言語 化という考え方は、守屋三千代教授のご指摘に負うものである。
◆謝辞:2009 年 9 月から一年間交換教員として創価大学に滞在致した際は、文学部日本語・
日本文学専修の先生方にお世話になり、感謝いたしております。また、小稿を作成 するにあたり、守屋三千代教授より詳細なご指導・ご助言を賜わりました。末筆な がら深く御礼申し上げます。
◆参考文献
1.池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館書店 2.池上嘉彦(2000)『日本語論への招待』講談社
3.池上嘉彦(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫
4.池上嘉彦(2003-2004)「言語における〈主観性〉と〈主観性〉の言語的指標(1)・(2)」
『認知言語学論考』No3,4ひつじ書房
5.池上嘉彦(2006)「〈主観的把握〉とは何か」『言語』5月号 大修館書店
6.池上嘉彦(2006)『英語の感覚・日本語の感覚』NHK ブックス 日本放送出版協会 7.池上嘉彦・守屋三千代(2009)『自然な日本語を教えるために』ひつじ書房
8.小野加奈子・鄧 瑩・小野 創・酒井 弘(2009)「文産出に名詞句の有生性と語順の及ぼ す影響─視覚世界パラダイムを用いた視線計測による研究─」『信学技報』vol.109,
no.140
9.佐伯哲夫(1983)「語順と意味」『日本語学』Vol.2,No.12
10.新村朋美・小澤伊久美・守屋三千代・盛文忠・熊倉千之(2006)「『雪国』にみる日本 語の認知言語学的特徴─中国語訳・英語訳と対照して─」『日本認知言語学会論文集』
第 6 巻
11.野田尚史(2000)「語順を決める要素」『月刊言語』Vol.29,No.9
12.守屋三千代(2007)「文章の『語り』と『読み』―〈共同注意〉と〈間主観性〉の観点 から―」『JCLA論文集』第7号 日本認知言語学会
13.守屋三千代(2009)「日本語話者の『語り』と『読み』―〈事態把握〉から『雪国』の 冒頭を考える―」『日本語日本文学』第 19 号 創価大学日本語日本文学会
14.王一平(1999)「介词短语“在 +处所”前置,中置和后置的条件和限制」《语文建设》5 15.俞咏梅(1999)「论“在 +处所的语义功能和语序制约原则”」《中国语文》第 268 期
◆例文出典
1. 川端康成(2006 改版)『雪国』新潮文庫
叶渭群译(1985)《雪国》《川端康成小说选》人民文学出版社 侍桁译(1991)《雪国》上海译文出版社(訳文2)
2. 川端康成(2003 改版)『伊豆の踊り子』新潮文庫
叶渭群译(1985)《伊豆的舞女》《川端康成小说选》人民文学出版社 3. 川端康成(1988 改版)『千羽鶴』新潮文庫
高慧勤译(1996)《千只鹤》《川端康成集》中国社会科学出版社 4. 矛盾(1991 改版)《霜叶红似二月花》人民文学出版社 立間祥介訳(1980)『霜葉は二月の花に似て紅なり』岩波文庫 5.卫慧(1999)《上海宝贝》春风文艺出版社
桑島道夫訳(2001)『上海ベイビー』文春文庫
6. 周而复(1958)《上海的早晨》『上海の朝』(『中日対訳コーパス』北京日本学研究センター 2003)
(XU・Ai-hong, 中国・中山大学副教授)