長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第33巻 第1号 111‑125 (1992年7月)
壱岐における民間宗教者の研究 福島邦夫
Research on the Folk Religious Beliefs, Yin‑ Yang Ideology and the Shamans of Iki Island
Kunio FUKUSHIMA
1
従来、日本におけるシャーマニズム研究の主要な対象は東北や沖縄のシャーマン であった。東北地方のイタコ、カミサマ、ゴミソあるいは沖縄や南西諸島のユタ、カ ンカリャ‑などのシャーマン的職能者は死霊の口寄せやマブイワカシといった葬逮 儀礼に関わり、その地域の霊魂観を解明するのにかかせない鍵をにぎっていた。い わば、伝統的な社会構造の中に正式に組み込まれていたのである。しかし、明治維 新とそれに続く近代化の進行とともに、日本の各地では、そうした信仰は唾棄すべ き、迷信邪教として弾圧され、あとかたもなく消え去ったかのように見える。わず かに命脈を保っていたのが上記の二地域であった。しかし、そのほかの地域でもシ ャーマニズムは背後に隠されただけであって、さまざまな形態で存続しているので はないか。私は九州西北部において、ホウニン、トウニン、ダイニンといったシャー マン的職能者がいまだに活動をつづけていることを別稿においてに明らかにした が、l)本稿では長崎県の壱岐島を例にとり、シャーマン的職能者の活動を報告すると ともにその跡をたどってみたい。
ここで、シャーマン的職能者およびシャーマニズムの定義を明確にしておかねば
ならないOシャーマンと聞いて、まず我々の頭に浮かぶのは、シャーマンにあらわ
れる、いわゆる忘我状態(トランス)であろう。何者かが愚依して本人の意思とは
関係のない言葉を口ばしる。それを神の言葉として受け取る。いままで興味本位に
取り上げられ、論議されてきたのはトランス状態の解釈やその真偽であることが多
かった。しかし、おなじく神懸かりといっても、手がふるえる、顔が蒼白になるな
どあさらかに生理的な変化を示す場合もあれば、外見上、まったく変化の見えない
場合もある。むしろ実際の調査の場面では後者のほうが多いかもしれない。トラン
ス状態の真偽という不毛な議論に入ることはやめて、ここではシャーマニズムの定
義をI・Mルイスにもとづいて、以下のように定義しておきたい。 「シャーマニズム
とは、ある霊によって選ばれたある人間が、エクスタシーにおいてその霊と交流し、
霊の世界と人間集団との間の媒介の役をつとめるという能力をもつ、という信仰を 中心思想とするカルトである。2)」すなわち、そうした死霊や生霊などの霊が存在す るという信仰があり、当該社会または集団のなかでのそれらと人間集団との問を媒 介するという宗教的役割をはたしている人物をここではシャーマン的職能者とよぶ。
壱岐には古くはイチジョウ、また現在ではホウニンとよばれるシャーマン的職能者 がいる。次にホウニンについて行ったフィールド調査の結果を報告する。
2
壱岐の民間宗教者については今までに、山口麻太郎3)や折口信夫4)による報告が ある。山口はイチジョウという女性宗教者について、その語り物である「百合若説 教」、またイチジョウの祭神であるヤボサ神についての調査を行っているが、イチジ
ョウ自身についての調査は当時すでに一家しか残っていなかったためにあまり詳し くはない。また、折口にはイチジョウや盲僧についての報告がある。イチジョウは 後述するように、弓を叩いて神よせをし、 「百合若説教」を唱えて後、生霊、死霊を よびよせたという。盲僧も稲荷神に端唄の「コンカイ」をあげている。盲僧は生霊、
死霊のはらいをしたこともあり、先の定義によるまでもなくシャーマン的職能者の 役割を果たしていたことが十分に考えられよう。このほかに折口は先々の予言をい う「見通し」というシャーマン的職能者がいたことについて報告をしている。しか し、当時は警察による取締りがさびしくおもてだった活動はできなかったという。山 口や折口の報告にはないが、壱岐には今なお、ホウニンとよばれるシャーマン的職 能者が活躍している。なにごともすぐ、ホウニンに相談にいく人は「御幣かぶり」と 呼ばれる。そのような言葉があるほど壱岐の人々のあいだではホウニンはよく知ら れた存在となっているが、戦前からの弾圧により、現在でもその調査にはかなり困 難な側面がある。したがって、ここではそのようなシャーマン的職能者の中で現在 までに面接し得たいくつかの事例について報告する。また、ホウニンは壱岐だけで なく、北部九州全体にその活動がみられる。それに関する報告は別稿に譲り、5)ここ ではそこで触れることができなかった幾つかの事例について報告し、さらに壱岐の 民俗信仰との関連を考察したい。
(以下四例を報告する。なお、現存する人物の人名は迷惑のかからぬようにすべて イニシャルにて表記してある。また、もとの語り口を残したため、多少読みづらい 点があり、不統一もあることをお断りしておく。意味不明な箇所は補ったが、それ
も最小限にとどめてある。イニシャルの後に年齢と住所を示す。年齢のないものは
N.A (無回答)のためである。)
壱岐における民皿宗教者の研究 113
事例報告 事例(1) T・K(男)
壱岐、石田町
先代の父親が始めた。
<ライフヒストリー>
父は明治三十五年生まれ、石田村の村会議員であったが、十年間悩み、ノイロー ゼ状態になって、仕事ができなかったが、久留米から来た人に導かれて、宗教の道 にはいった。そのとき父は五十代だった。 T・K氏は農業をしていたが、昭和四十年 頃から、九年間ぐらい、父と一緒に祈祷をした。 T・K氏は外回りの仕事をやり、父 は家にいた。昭和四十四年、七十九才で、父が死亡し、その跡を継ぐ。
<祭神>
左八百万の神
中央天照真柱大神日本の国を始めて開いた神、教団の神 右豊受稲荷神
祭礼は毎月五日十二月五日に大祭をする。
星祭り、七五三、厄払いなど主におこなっている。
先祖の供養(祭り)を大切にする。そうしないとさわりがある。供養は死後、一 年、三年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、四十九年である。
もし、供養をしないと子供に良くない。年寄り(先樋霊)が占いに出る。さわり がある。その時はおみくじを上げる。そうすると「十七回忌、おこたっておるぞ。」
などと口から出る。僧侶を呼び、供養をする。おみくじをいただいて直ったら、 「御 願成就」という。
<宗教活動>
金神のさわり
例えば、家の中がうまくいかない場合、金神のさわりがでていると考えられる。
「三年ふさがり」などと言う。金神には大、中、小の三種類がある。その場合、おは らいをする。 「あやまち」という。七草の品物をそろえ、 「おみくじ」を上げる。
「おみくじ」を上げるというのは、相手の要求を聞き、その要求をかなえることで ある。 「おおはらえの祝詞」を上げる(二回連続)。用件を報告する。その後おみく じを上げる。
水神のさわり
井戸、湧き水の流れているところをカワという。そこの土を起こしたりして、汚 すとさわりがでる。周辺の人に出てもらい、井戸をさらってきれいにする。また、草
を刈って、板張りにする。汚水を流し込む。もとは飲料水としてつかっていたもの を汚した場合である。
口から神霊の言葉が出ることを「コーバクに出る。」と言う。神懸かりになって、
尋ねられたことに答えることである。コ‑バクに出る場合は例えば、難しい問題が あるときである。例えば、漁にいって、行方不明の人を尋ねる時などにこの方法を 使う。どんな相談が多いかというと、進学就職の悩みが多い。最近(昭和五十年ご ろから)出世の悩み、進学の悩みがふえた。壱岐の島全体から、また福岡などから も信者がくる。
どんな御札を出すかというと、天照真柱大神(家内安全)、交通安全、受験合格、
肌守り、病気、星守り、商売繁盛、牛馬安全守り、安産などである。
事例(2) U・Y(女)
明治三十八年三月二十八日生八十五才(1989年調査時) 壱岐、勝本町
<ライフヒストリー>
U・ Yは終戦まで韓国の釜山にいた。十八才で、勝本町の坂本蝕から、お手伝いさ んとして釜山に渡り、日本人町に二十五年間住んでいた。釜山には日本人町と朝鮮 人町があり、学校も日本人学校と朝鮮人学校があった。それ程、日本人が多かった。
佐賀県出身の西村師という祈祷師がいた。 U・ Yは息子が腫れ物ができて直らなかっ たが、先生にかかったところ、切らずに膿が出て直ったので、信者となった。 「断食 の行」 (これは月に一回一週間)、 「水行」、 「丑みつの行」をした。釜山から京都の伏 見稲荷まで行って修行をした。寒修行、滝行をした。昭和十五年、西村師の所で、
くまたか
熊鷹大神を受け、釜山で祈祷活動をした。京城の総督府から免状をとった。昭和二 十年に、帰島。四十一才であった。
<祭神>
本尊熊鷹大神伏見から受けてきた稲荷で、運勢をつかさどる。オタズネのあっ たとき、お願いする。
たちil'*
脇橘大神修行をするときの守護神
・‑jliこ、わ
脇大岩大神胸の病気の神、伏見から受けてきたという。
脇福助大神子供の病気の神
<宗教活動>
れいかん
精神統一ををすると、お知らせがある。それを「霊感」と言う。
おたずねするときは「お願いします」と言い、視詞を上げる。しばらくすると、お
知らせがある。それは頭に浮かんだり、目に浮かんだりする。病気の場合、愚さも
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のが想いたことによる場合がある。その時はおたずねの後、御祈祷する。患きもの をおとす視詞をあげる。意きものとは野狐や化け物がつくのである。若い時は惹き もの落としをしたけれども年をとってからはそんな力がない。 「気合い術」で病気を なおす。気合い術とは「臨、兵、闘」で九字を切って、 「エイッ」と気合いを入れる ものである。病気の原因に風がつく場合がある。風を負うとも言う。病気で医者に いっても良くならない時、これは何か風を負うとるんじゃないかと疑う。風には「死 霊風」といい、死人がつく場合と、 「生霊風」といい、誰かの恨みをかう場合がある。
生霊風はたいがい胸にくる。胸が苦しくなる。先日、ある人が胸が苦しいと言って きた。肺ガンではないかという。その人は皆から借金をして、返さない人であった。
自分は年金をもらっているからいっでも返せるという。その人はU・Yからも四万六 千円借りている。百人からの生霊がきていると言ったら、やっと返した。失せ物の 場合もだれが取っているとはいわない、もし、その人が取っていなければ、 U・Yに 風がくる。人から恨まれてはいけない。先日、ある女の人が病気がなおらないので 見てほしいと言ってきた。 U・Yは生霊風ではなかろうかと思った。生霊があるとい って、十七日間祈祷したら直った。後で話を聞くと、案の定、よその御主人を取っ ていた。
まわり荒神一屋敷まわりの木を切ったりする、ある場所を掘ったりする時にもさ わる。
水神‑井戸はこの頃少なくなっているが、埋めてあるところから、さわり がある。この辺は漁師が多いので、大安の日に稲荷へのお参りがお おい。
家ばらい‑勝本や郷ノ浦の方へもいく。家の幸せの悪いときにもいく。
宅神祭‑お正月のときする。一日は自分の教会で、二十四、五軒しかまわれ ない。
小祭一祭は毎月の八日である。
大祭一春の初午、秋は十一月の第三日曜、信者は三百人ぐらい集まる。壱 州神楽を奉納する。
おふだ一肌守りを出す。 「大祖参神」の札。
忌み釜一家のけがれをはらうときに用いる。七輪に乗せると鳴る。不浄気が あったりすると鳴らない。黒不浄一死人の出たときで、赤不浄‑女 子のけがれのときである。
事例(3) K・N(女)
昭和三年生活六十二才(1990年調査時)
芦辺町
<ライフヒストリー>
大益前
実家は信仰を大切にする家であった。五才の時、四国巡礼に連れられて行った。冷 たいものを食べ、翌朝起きたら脱水症状を起こしていた。疫痢であった。医者がそ の時、この子はもう、この世のものではないと言ったそうである。母は留守居をし、
父に連れられて行ったのであるが、家で母は讃岐の金毘羅様に願を懸けた。それで 助かったと言う。四国巡礼のとき、般若心経だけを覚えていた。あるお宮に連れて いかれ、唱えたら、体が硬直してしまった。その宮は耶馬台国に関係があったそう である。その時から自分の口から言葉がいろいろでるようになった。当時、修行を
していないので、つかれて仕方がない。やがて、結婚して子供もできた。婚家は入 殖したばかりの開拓農家であったので貧しく、一生懸命働くだけで精一杯であった。
主人と二人で働き、一丁二反の畑を持った。里の家に私が四十二、三才のとき、僧 侶が来て、お茶を出すと、 「あなたは少し変だ。信仰して身を立てんと長生きできな い。」といわれた。子育てで忙しく、修行はあとで考えようと思っていた。昭和五十 一年頃、九州の新四国霊場、篠栗十番切幡寺へ行った。 (本尊は水子地蔵‑福島注) そこで一年間、修行をして、高野山で得度し、免許を得た。昭和五十三年だった。そ の後、行にはいる。人を助けることによって、因縁を解くのがK・Nの使命であると いう。 N家には大きい因縁がある。明治の時、主人の祖父は近衛兵で、東京鎮台にい た。平民の出身であるのに気位が高く、豪放な人柄であった。ある事件で人を殺し たが、 (島に)帰ってから三年ぐらいで、近衛兵を辞めている。主人の兄、兄弟から 敬遠されていた。その人の家は今は屋敷だけになっている。男は目が見えなくなっ
た。叔父は目が見えず、頭が変になった。主人の姉は脳にできものができた。 (家族 の)因縁、因果を落としてやりたいと思って、この道に入った。修行にはいって今 年で十四年目である。
<宗教活動>
①原因不明の病気にかかることを「風を負うた」という。海や山で負うことが多 い。海はどうしても難破船などがあって、霊が中にある。波に寄せられてきて霊 を受ける。山の霊を負う人もいる。その場合、霊寄せをして、その後どんぶりに 茶をいれて流す。人の魂は茶によって成仏する。作法によって封じ込めて川に流 す。これは大きい流れの中にいれて戻すことを意味する。霊寄せをした点でお詫 びを言う。心の中の言葉を伝える。これを「おみくじを取る」と言う。
②野狐つき一人に患いた野狐の姿が目に見える。五年程前に見た。猫の子ぐらい の大きさで、毛は銀色の艶のある毛、耳が犬のようでもある。尾が頭の上にまい
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ている。よそに仕事にいって、熟が出た人がいる。足をこたっの中にいれて、立 てて寝ていた。足元に猫のようなものがいる感じがする。それが出ていったと思 うとまた入ってくる。なかなか離れない。その人は目つきが変で、キョロキョロ と落ち着きがなく。家の中を見回す。祈祷供養をして、施餓鬼供養をして送ると
国5F/=嵩
*本尊
お不動‑師僧の本堂にあったもの。海を渡って西の彼方へ行きたいと師の夢枕 に立った。
右薬師如来‑師僧のところの分身 奥毘沙聞天‑・師僧のところの分身
お大師
事例(4) S・0(女) 昭和十二年生
壱岐郡勝本町
もともと稲荷神社を守っていた戸倉スエが七年前に死亡後、花の木稲荷神社をつ いだ。 (1987年8月1日より再興)
この神社は百十年前ごろ、明治十三年に始まったという。初代、香椎政太郎は朝 鮮にいって勉強してきた人であるという。
<ライフヒストリー>
S・ 0は瀬戸の浦出身、先祖は山伏で、七代まえの人間が自分の守護霊であるとい う。結婚して、二十九年後主人が病気になり、亡くなった。借金だけが残った。主 人は漁師であったが、家が倒産し、経済的行き詰まりの中で、胃癌となり死んだ。昭 和五十九年、初めて神様が出た。昔のことが見えるという幻覚や食欲不振、不眠な
どが三ケ月続き、生活苦に追い込まれた。その後、神理教のG師に入門し、花の木 稲荷を継ぐようになった。
<宗教活動>
しらせと供養一人のお願いがあると神前に座って、祈りをする。そうすると、胸 に声が聞こえてくる。女性の声である。また目に写る。色によっ て、暗示的にしらせがある。手が震える場合は水神さんの答めで ある。仏さんや水子の供養のために「お茶供養」をする。仏さん や水子の場合、信者が自分でする。大きめの茶碗にお湯を入れ、湯 気をとると霊が和む。 「今日から、七日間します。」と言って、続
けてする。一日とんだら、最初からやりなおす。
風を受ける一海から風を受けて病気になったときも、 「茶まつり」をする。茶を 沸かして、自分の息を三回かけて、紙で湿し、そのまま、海に持 って行き、茶と共に流す。持っていくときは、他人にものを言っ ても、後ろを振り返ってもいけない。家の中をははきだす。葬式 の時には掃き出すようにする。 (ふだん誰かが出掛ける時はそんな
ことはしない。)
漁の道あけ‑漁のないとき、 「漁の道あけ」をする。不漁のとき、年の数だけ、
仏さんに団子を上げる。年の数だけ海に流す。
病気なおし‑腫れ物や出来物、ノブ、タズマケ(革まけ、アセモ)ができた時 になおす。剣二本(または指二本)でその上をなでる。
金上げ一海に金物を落とした時に「金上げ」をする。龍神におわびを言う。
ミゴー漁師の奥さんが妊娠した時、 「ミゴ」といって不漁になる。一丁の 豆腐を十二に切る。船うちで、食べてもらい、船玉に備える。船 玉に豆腐ひと切れと酒を上げる。龍神(海神)にひと切れと酒を 上げる。
祭礼は特にしない。
3
事例報告を見ると共通した宗教観念「風」が説かれている。以下、 「風」について 少し考察して見よう。海辺にいくと「風がつく」といい、あるいは墓地などへいく と「死霊風」がつくといい、また人の恨みをかうことで「生霊風」がつくという。さ らに狐がつく「野狐つき」などというものがある。それらはまったくの迷信として 片付けていいものであろうか。それらは特殊な個人の妄想でもなく、また壱岐だけ に兄いだされる民俗信仰ではない。沖縄も含む九州全体にかつて兄いだされた宗教 文化の断片であると考えられるのである。それは次のような報告からわかる。たと
えば、比嘉春潮によれば、 「風」という概念は沖縄では以下のように考えられていた
ふうき
という。6) 「病気(天然痘)が流行ると家々では『風気がえし』の御願をした。神棚、
仏壇、竃、雪隠、井戸、屋敷の四隅と中央および、門に酒、米を供え、線番を上げ て、悪疫退散、家内安全を祈った。これには凡べてその家の主婦が当った。部落全
たけたけかわかわ
体としては『村御願』なるものを行った.森々、井々その他の拝所を部落の役目や ノロがやはり参拝した。また、綱引きや踊りの催しを怠ると部落には風気(伝染病) が流行って『若者倒れ』 (強壮者が死ぬこと)があったりした。これが感謝の念なく、
神へのもてなしを怠った徒に対する『お知らせ』 (みせしめ)であり、 『あらび』 (怒、
壱岐における民間宗教者の研究 119
懲罰)であった」という。このようにしてみると、 「風」は神の怒りにふれること、
またそれによって起こる伝染病のように沖縄においても考えられていたのである。
また、同じく比嘉によると、 「『いちじゃま』といわれるものもあった。これは人を 呪うことであるが、大抵は女で、母から娘にと母系によってその能力は伝わるとい われ、この能力を持ったもの、すなわち『いちじゃまあ』が心の中に、あの人は憎
いと思っただけで、相手は病気になったり、不意の怪我をしたり、身内に不幸があ ったり、財産や畠の作物の上に損をしたりする。 『いちじゃま』がかかったのは『物 知り』すなわち、韮女に見てもらうとそれはどの方向にいる何才くらい、何の干支 の女がかかっていると言う。そして砿女は想く理由のないことを弁駁し、早く落ち るように指圧をすると言う。したがって、 『いちじゃま』をする人の親指は平らだと いう。 『いちじゃま』の家系との婚姻は忌避される。」という。これもまた、 「生霊風」
によく似たことが行われていたことがわかる。また、種子島にも「物知り」という 砿女がおり、死霊のつきものを出したり、人の崇りなどのときは仮の膳を作って供 養したらよい、あるいは水神の崇りのときは塩をそなえるなどとすすめたと言う。さ
らに大分県速見では潰きもの祈祷師が多く、村人はホ〜ジンと呼んだと言う。7)熊本 県人吉では急病・変病にかかると祈祷師に見てもらう。そうすると「人に妬まれる
ことをしたことはないか。」と聞かれ、インガメの崇りであると言われたという。イ ンガメとは恨みを持った人が「犬バリ」をして、崇りをつくったもので、 「犬バリ」
とは犬においしいものを食べさせ、食べている最中に首を切って、崇りをつくった ものだと言う。8)このような事例をまだいくつもあげることができる。9)沖縄および、
九州の各地で「風」すなわち、死霊のつきもの、 「生霊」などが広く、説かれていた ことが知れよう。このようなっきものや人の崇りをおそれる宗教文化が九州各地は 顕著であった。ではなぜ、そうした信仰が流布したのか、それには陰陽師の活動が 大きな影響をあたえていると考えられる。九州全体においてそれを論証する資料を いまは持たないが、一つの事例として壱岐においてそれを考察してみよう。壱岐に おける陰陽師すなわちホサの問題をまず、資料によって見てみよう。
4
折口信夫は「唱門師(陰陽師)の壱岐にきたのは古い事らしい。唯今の島の社々 の昔の神主は凡陰陽師であって、裕福なるものは吉田家の免状を願って、両様の資 格を盛っていた。だが、大抵は陰陽師配下のものの末である。」と書いている。10)折 口がいかなる資料にもとづいてこうした断定を下したかは不明である。壱岐におけ る陰陽道の資料として、元録年間(1688‑1704)には、土御門家系統の下に「天社
神道」というものを主唱し、壱岐には二十飴戸近くの陰陽師がおり、家業として易 占をおこなうほか、以下のような祈祷を行っていることが知られる。ll)
陰陽家々業御条目(抄、元録十一年)
一、火鎮祭、一、疫神祭、 ‑、八卦諸神祭、一、五龍祭、 ‑、荒神祭、 ‑、竃神祭、
‑、中土公、一、厩鎮、 (中略)一、解返呪岨祭、 ‑、自得、一、月待、 ‑、芋賀祭、
一、年星祭、 (中略) ‑、水神送、 ‑、神名帳、 ‑、護身法、 ‑、堅廻l除径、 ‑、小 児護身符、 ‑、消滅衆悪符、 ‑、保子孫柴盛章、 ‑、川祭、村祈祷、並びに正月初 百手祈祷(中略)一、太鼓打候事、一、本弓打射候事、 ‑、神道作法鳴物之大事、 ‑、
大神楽之事、一、より立祈祷之事、 ‑、鬼風梯之事、 ‑、湯立之事、 ‑、剣排之事 (後略、下線、福島)
その詳細は断定はできないが、下線をひいた部分は次のように解釈されるのでは ないか。即ち、解返呪岨祭とは生霊風をはらうことであり、鬼風梯之事とは死霊風 のはらいであると、また、野狐除符もあったことも読みとれる。さらに荒神祭や竃 神祭、年星祭、水神祭、日待、月待、および、正月の百手祈祷をおこない、太鼓打、
本弓打射、鳴物、湯立、大神楽などの作法を修したことがこの資料から読める。後 藤正足のひくこの資料によれば、陰陽師のことを古来、壱岐や対馬では保佐と称し た。その組織も頭もなかったが、元録十年に瀬戸浦の後藤和泉、平田河内、馬場若 狭の三名が京都の土御門家へ上って申し入れ、十三軒が野法者を改め陰陽師になっ
た。ところが、あらかじめその計画を有司に告ぐべきをこれを怠ったため関係者は 逼塞を命じられ、上記のような「陰陽家々業御条目」を提出したものという。
明治の神仏分離に際して、陰陽師は神職に転ずることを願い出たがついにかなわ なかった。明治四年、郡政判事に提出したと思われる「奉歓願口上覚」、および、督 撫使事務取扱郡政掛に提出した「奉伺口上党」は帰農したものの、途方にくれ、神 職に転ずることを願い出た文書であるが、その後の陰陽師の行方はわからなくなっ ており、今後の調査の課題である。一般に保佐の伝統を九州では調査することがむ ずかしくなっているが、かつては九州全域に見られ、神楽などの神社の祭礼に出仕 することが本務で、神職よりは一段低く見られていた。古くは福岡県、宗像神社の 神楽の記録にもその名があり、最近まで大分県の国東、北海部、玖珠郡では「ホシ ャ」、 「マホシャ」と呼ばれ、湯立て神楽をしたり、祈祷まじないをするものをさし、
熊本県の阿蘇神社で神楽師のことを「ホシャ殿」と呼んだという。12)対馬では法者、
宮崎県の高千穂地方では発者と表記し、高千穂神楽に出仕している。対馬では法者 と組んで、神楽を舞う砿女を命舞(もしくは宮舞‑ミヨウブ)といった。法者の妻
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や娘が立つことが多かったという。13)神社の祭礼だけでは生活ができず、かれらの本 来の仕事は上記のような祈祷であったと考えられる。では、次にホサの妻や娘がなっ
たという童女はどうであったか。次に壱岐におけるイチジョウについて見てみよう。
5
折口信夫はイチジョウについて「一体にいちじょぉと言うているが、いちと言う のが正しい形なのであろう。いまの人はじょぉに女の感じを受けているようである。
おもしろいのは、湯立て、口寄せをかねているらしい点である。」とし、 「箱崎の芳 野家にある『神田愚童随筆』 (『神国愚童随筆』の誤りと患われる。一福島)という
いちおそういち
書に命舞は女官の長で、大宮司・権大宮司の妻か娘。御惣都というて、壱州に屋敷 二所あるという(中略)、大宮司・権大宮司の妻子ばかりをいちとしたのは、疑問で ある。御惣都という名が、他の多くのいちの存在を示しているのであろう。」と書い ている14)が、ここから読み取れるのは対馬と同様に保佐(宮司)の妻や娘がイチジ ョウとして立ったのではあるまいかと言うことである。折口信夫が調査した時には 二軒のイチジョウが壱岐にあったという。一軒は産辺のうわば、大石の山田という家、
そしてもうー軒は諸吉の長島家である。 (長島イチジョウについては後述する。)こ の長島家について折口は聞き書きをおこない、次のような報告をしている。 「主にイ チジョウのしたのは風打ちであり、もんとせぇ(物の所為か、精か‑折口)で気あ いがわるかったり、所々に血のしこりが出来たりしたのをはらう、これを悪風ばら いといい、イチジョウの‑祈りを一風うつ、または一風と言ったという。 (ここにも また風が一種の病因であり、それをはらうという宗教者が出てくる。)イチジョウの 把るのはてんだいようぼさ(天台ヤボサー福島)で、稲荷はその‑の脊族である。」15) 折口の報告ではヤボサ神は石の詞に把って、畑の神として考えられている。旧十 一月の午、、丑、卯の日が命日で十から二十軒の組でヤボサ講をつくって御馳走をし て祭る。神主が来てまつる。イチジョウもこの神を祭る。イチジョウは弓をゆり(木 の底の浅い曲物)の上に置き、神寄せから始めて、御鼓あげをし、 「百合若説教」を 唱えたという。そうすると、生霊、死霊、げりょぉげまつり(不明一福島)がみな
よって来るという。イチジョウは弓打ちの祈祷により、生霊、死霊を呼ぶシャーマ ンであったわけである。イチジョウは女の子に伝統をつがせることになっていたと いう。
さて、イチショウのまつるヤボサ神とは何であろうか。折口信夫や山口麻太郎は
ヤボサ神は陰陽師の屋敷跡に多いとし、ヤボサはもと古墓で、陰陽師の役霊として
利用されるようになり、だんだん元の意味が忘去口されたとしている。山口麻太郎は
壱岐における百三社のヤポサ神をおもに文献的に検討し、以下のように整理している。16) (‑)イチジョウが「百合若説教」を唱えたこと。 (二)岸岳城の波多氏の鎮守(現 在は注連尾部落の鎮守)であったこと。 (≡)それには壱州神楽が奉納されたこと。
(四)ヤボサ神の別神格はさまざまであるが、大己貴神である場合がおおいこと。
(五)対馬の場合、天道神と対立相補的分布を示すこと。 (六)保佐(陰陽師)との 関連があること。以上の五点についてを述べているが、山口の調査は文献的調査の みで実地調査はされず、ヤボサ神の性格はついに確定されなかった。
さて、ここで注目されるのは現在のシャーマン的職能者の前身としての保佐、特 にイチジョウである。保佐については実地調査がまだ不十分であり、先に述べたこ と以外のことはいまだに不明であるが、イチジョウについては現地調査を行なって いるのでその結果を次に報告したい。
折口の調査した長島家には長島イチジョウが亡くなる前に、夫の築治郎がイチジ ョウの口述したものから書き写した祈祷の次第などが残されていた。息子の長島氏 によると長島家に邦之木(地名)から、三代前に養子に入った長島柴造氏の家がイ チジョウの家系で、そこからイチジョウを継ぐことになったと言う。母の長島モト、
ついで娘の長島スミが昭和十四、五年ごろまでやったが、後は絶えたと言う。 (イチ ジョウは女が継がなければならない。)毎年、十一月二十八日に卯之木の山の木の根 元に祭られたヤボサ神(天台矢宇祖と表記した。)に御神楽(「百合若説教」)を上げ
にいったと言う。八幡(地名)にも行ったと言う。
次にその様子を見よう。
準備はまず、御幣を切る。 (御幣は中1本、脇立ちが左右2本ずつの計5本である。) その他に用意するものは‑、神酒、御供、 ‑、塩、注連、 ‑、肴、新しい神依(衣 か?‑‑福島、以下同) ‑、 Lとぎ、である。
神楽順序
ヤボサ神への神楽の経文の順序は、 ‑、寄抄本角(帰命本覚か?)二、神経(心 経か?)三、打ち立て、四、四方立テ東西南北、五、神おろし、六、幣の本字(本 地か?)、七、注達の本字、八、四社向い以後、百合若説教に入る。九、説教の丸立 て、十、實比べ、十一、申し子、十二、鞍馬、十三、忍の段、十四、鬼征め、十五、
神戻し、しけがり、十六、寄抄本角(以上、字句は原文のまま)
意味の不明な箇所はあるが祭場に神下ろしをして、百合若説教の後、神上げをす る形式が見てとれる。般若心経、本覚賛などの経文から両部神道的内容が伺われる。
このヤボサ神への奉納も含めて、イチジョウの関わる年間の祭りについての覚え が残されている。以下、それを紹介すると(字句は原文のまま)、
壱岐における民間宗教者の研究 123
覚え
‑、旧の正月と五月と九月の各二十三日は月形、日形、星形をLとぎで造り、祭り 上を行ふ事、 (神経)三十三巻の経等を読む。献供物、神酒、ごくう、塩、洗米、
せんまいは七度洗って上がるべし。
‑、旧の二月と八月の何日にても、岬祭と云て、吾が山の祭り場所に祭る。献供物、
神酒、塩、肴ば六十重ねを用意する。 Lとぎも同じ六十重ねを用意する。神経、約 掃え(厄はらえか?)を読む。
‑、毎年旧暦十一月二十八日ハ宇ノ木民吉裏山に鎮座せられる両天台矢宗(芋)佐 神に神楽(例祭)を奉納すること。
当日の式順
一、先、週達(ママ)を清掃し、マサゴと御潮を上て清むる。まず
‑、次に神に対し、例祭奉納を言上する。 (先述)
ちはやふるつきみすよしあまのいわと
‑、次、キヌを召し奉り、御神体を清め奉って同時に千和屋古月住吉の天岩戸(石
みしゃ
を一体に数回読んで納むる。此の時御参体の御社より始まり一番左座方が最終に 奉納
さいはいたかまがはら
一、安座を修了して献供物を上げ、御米(供米)をまいて(キンを打ち)再拝と高天原
みくまいくまごとに
にに御供米をまく(繰り返し)まく供米毎になれよさがれな四方の神達ち(を奉 讃経する。)
このほかに病人の祈祷などもした。病人の着た着物をオハライしてそれを病人に 着せたり、足が痛い時など「風打ち」をした。風打ちに関する次第が残っている。
「風打ち」の経文の順序は神楽の経文と‑から十までは同じである。 (字句は原文の まま)
本風順序
‑、寄抄本角(十まで省略)、十一、鬼征、十二、寄上サイアサイハイ尊日く、今 夜カノ病人(意味不明、経文の文句をそのまま記したものと思われる。 ‑福島)、十 三、夜モ明月ノオバンギャバアトオ(同上)、十四、東方ニゴザンシ南西北中(同上)、
十五、進ン明ユ(同上)、十六、南無ヤ般若、十七、厄神技え、十八、五蔵サガシ、
十九、夜‑明ケ日行者(同上)、二十、諸々のモッコオ、二十一、三矢煎え、二十二、
東東方博通神南西北道(同上)、二十三、東方博二審キへイヤク‑南西北中迄(同上)、
二十四、丑寅卯十二シ
ヤボサ神への神楽より、さらにわかり難くなっているが、病者に対する「風打ち」
の様子が見てとれる。 「百合若説教」を読む代りに、厄神を抜い、身体を守る経文を
読んだのではないかと考えられる。文面からヤボサ神に対して、イチジョウが語っ た「百合若説教」は宇佐、由須原八幡の縁起である。百合若の妻の玉の姫は宇佐八 幡、百合若は由須原八幡になるのであるが、宇佐の神大として神楽に奉仕したイチ ジョウのもう一つの職業がこうした祈祷にあり、シャ‑マニスティックな鬼神をま つる宗教であったことは十分考えられるのである。折口信夫が調査した時にはイチ ジョウの他に「神様念じ」 「弘法念じ」という行者がいてやはり、 「風ばらい」をし たという。彼等こそ今日のシャーマン的職能者、ホウニンの前身であろうOそうし た行者にかかっても良くならないときにイチジョウにかかったという。そうすると イチジョウは彼等の師であり、 「風」すなわち、死霊のつきもの、生霊などを保佐と ともに説いたシャーマン的職能者の原型とでもいって良い存在ではなかったのか。
イチジョウや保佐については対馬もふくめた調査が必要であるが、それらは今後の 課題とし、ここで筆をおきたい。
註および引用文献
1 )福島邦夫『北部九州およびその離島におけるシャーマン的職能者の研究』 (平成二年度科学研究費補助 金一般研究(C)研究成果報告書)平成三年三月
2) I.Mルイス「北の南・アフリカのシャーマニズム」桜井、大林、佐々木他編、 『シャーマニズムとは 何か‑国際シンポジウム・南方シャーマニズム』春秋社1983年P. 160
3) lJ」口麻太郎「百合若説教」 『同著作集1、説話編』佼成出版社、 1974年 イチジョウについては「百合若説教について」に報告がある。同書PP. 110‑111
ヤボサ信仰については「壱岐におけるヤボサ神の研究」 『同著作集2、歴史民俗編』佼成出版社、 1974年 pp. 295 ‑ 336参照
4)折口信夫「雪の島」 『同全集第三巻』中央公論社、 1955年および同、 「壱岐民間伝承採訪記」 『同全集第 十五巻』中央公論社、 1955年を参照。
5)前掲1)
6)比嘉春湖「翁長旧事談」 (初出『島』 1933‑1934)大藤、小川編『沖縄文化論叢2、民俗編I』平凡 社1971年所収
7)石塚尊俊編「全国患さもの集成」に掲載のおよび一宮左内「大分県速水地方」石塚尊俊編『日本民 俗文化資料集成71慾さもの』三一書房1990年所収pp.469‑471
8)鈴木通大「熊本県人吉市」報告、前掲7) pp.472‑474 9)前掲7)
10)折口信夫前掲「雪の島」 1つp.115
ll)後藤正足『壱岐神社誌』錦香亭1926年PP.77‑79 12)柳刃米夫「"ホサ"について」 『神道学』第16号1958年
13)鈴木栄三「解説」 『神道大系一壱岐、対馬国』神道大系編纂委員会1984年pp.37‑43 14)折口信夫前掲「壱岐民間伝承探訪記」 pp.446‑447
15)折口信夫前掲13) pi).447‑449
16) LJ」口麻太郎前掲「壱岐におけるヤボサ神の研究」 pp.328‑333
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付記
当研究の一部は平成二年度科学研究費補助金一般研究(C)課題番号01510185 『北部九州およびその離島 におけるシャーマン的職能者の研究」の成果によるものであるO
(1992年4月27日提出)