スクリーンの衝撃
―谷崎潤一郎『アヹ・ マリア』におけるファンタジーの技法
―
生 方 智 子
はじめに
谷崎潤一郎は大正期に映画と積極的に関わった。大正六年に映画論『活動写真の現在と将来』(「新小説」大正六年八月)を発表し、大正九年からは翌年にわたって大正活動写真株式会社(後に大正活映株式会社に改称)に脚本部顧問として招へいされ映画製作に参加した。これは日本映画の形式を欧米映画に倣ったものへと変えようとする「純映画劇運動」が起こった時期と重なっており、また、日本映画史では無声映画が成熟していく初期映画の時代に位置付けられている (1)。
この時期の谷崎の活動に関する先行研究には千葉伸夫『映画と谷崎 (2)』がある。また、近年、谷崎と映画とのかかわりについては、城殿智行、西山健一、明里千章、五味淵典嗣らによって研究成果が発表されている (3)。それらを踏まえた上で、本論では谷崎が映画製作から離脱後に発表した小説『アヹ
を取り上げる。『アヹ リア』(「中央公論社」大正十二年一月) ・ マ
リア』について、千葉俊二は「母性思慕」と「プラトニズム」が現れたテクストであると ・ マ
スクリーンの衝撃
述べているが (4)、本論では映画を見るという体験がテクストに描かれていることに注目し、当時のフィルムがもたらした体験とはどのようなものであったのかを考察する。そして、テクストの語り自体が、映画体験をめぐる証言となっていることについて検証する。
一 衝撃としての映像 『アヹ
・ マリア』では、映画について次のような語りがみられる。
映画と云ふものは人間が機械の力で作るやうになつた精巧な夢だと。人は最初に酒を作り、音楽を作り、詩を作り、そして最後に夢を作ることに成功したのだ。その機械が出来るまでは我々はたゞめい〳〵が、自分一人の夢を持つに過ぎなかつた。それが今では、その機械のおかげで多勢が一つ所に集まつて一つの夢を持つことが出来る。そこにあるものは此の世のものゝ影に過ぎず、さてその無数の影どもはそのまゝ見る人の頭に巣喰つて、そこで再び他のいろ〳〵な影どもと交錯し、妄想の中で又新たなる夢を育む。何所までが映画の中の夢であり、何所までが自分自身の夢であるやら、その境界は遂にボンヤリして分らなくなつてしまふ。 (4)
語り手は、映画を「機械の力」で生み出された「夢」として享受する。そして興味深いことに、「夢」は「境界」を曖昧にするものとみなされているのである。まず、「夢」は「自分一人」のものであることを超えて「多勢」に共有されるものとみなされる。その結果、「何所までが映画の中の夢であり、何所までが自分自身の夢であるやら」と、「夢」によって自分自身の「境界」、つまり自己同一性が曖昧になっていく。また、「夢」は「此の世のものゝ影に過ぎ」ないものでありながら、「妄想の中」で新たに育まれるものと語られる。このとき「夢」は、「此の世」の
現実に従属することをやめ、現実に拘束されない妄想世界へとひろがっている。「夢」において現実と妄想との差異が曖昧になるのである。
以上のことから、映画は語り手にとって現実世界に根差したアイデンティティを脅かすものとして体験されていることが分かる。既に、川本三郎は、映画が谷崎潤一郎のみならず大正期の文学者たちに幻想を喚起させるメディアとして享受されており、映画の幻想性の体験を受けて自己分裂の物語が生み出され、流行したことを取り上げている (5)。さらに『アヹ
・ マリア』では、
自己分裂とアイデンティティの危機が語られるのみならず、幻想が現実世界のリアリティを侵食する際に生じる具体的な身体感覚の衝撃が記述されていることに注意したい。
四方田犬彦は、谷崎の映画への関心は同時代のヨーロッパの文学者たちにも共通するものであったと指摘する。ヨーロッパの文学者たちは「一九一〇年代から二〇年代、映画史的にいうならば『初期映画』の時代が終了し、映画の文法と修辞とが定式化され、無声映画がジャンルとして円熟に向かおうとする時期」に映画というメディアに関心を抱いていたという (6)。言うまでもなくヴァルター
・ ベンヤミンもその中の一人である。
彼の「複製技術の時代における芸術作品」の言説を『アヹ
・ マリア』の語りと照らし合わせると、両者の類似性が浮かび上がってくる。
ベンヤミンは、映画と精神分析が共通性を備えているとして「精神分析によって無意識の衝動を知るように、ぼくらはカメラによって初めて、無意識の視覚を体験する」と述べ、映画を見ることが「無意識」の体験となることを以下のように語っている。
なぜなら、カメラによって現実から奪い取られることが可能となる多様な視点の大部分は、知覚の〈通常の〉スペクトルの範囲外にあるものだからだ。映画において視覚世界にとりこまれるデフォルマシオンやステロタイプ、変形や崩壊などは、現実世界では、異常心理をもつひとや夢見るひとの個人的知覚をも、集団的知覚が
スクリーンの衝撃
自分のものとしてゆくことを可能とする手続きに、ひとしい (7)。
ここでベンヤミンは、映画を「〈通常の〉スペクトルの範囲外にあるもの」の体験とみなしている。「デフォルマシオンやステロタイプ、変形や崩壊」といったカメラワークによって生み出された映画の視覚世界は、意識によって捕捉される知覚ではなく、精神分析が俎上に載せた「異常心理」や「夢」といった無意識の領域に相当するというのである。さらに、映画において、「異常心理」や「夢」は「個人的知覚」であることを超えて「集団的知覚」となると述べられる。
このベンヤミンの言葉と「映画と云ふものは人間が機械の力で作るやうになつた精巧な夢だ」という『アヹ
・ マ
リア』の語りは、初期映画の体験をめぐる言説として響き合っている。両者において、映画体験とは個人の日常的な知覚とアイデンティティを揺るがすものとしてある。
このように、これらの言説の中で映画における知覚体験の特異性は「妄想」や「異常心理」として語られているが、さらに『アヹ
・ マリア』では映画に耽溺する主人公自身が異常者であると説明されている。主人公は、かつて
の愛人から「此の伯父さんのは此れは変態性慾なのよ、それでこんなに耄碌して馬鹿になつてしまつたのよ」(1)と揶揄され、さらに自身でも「私は此の頃、はげしい神経衰弱になつた」(7)と述べている。主人公の「私」は「神経衰弱」を発症した人物として語られるのである。しかし、「お蔭で私の妄想はます〳〵病的になる。明けても暮れても、散歩する時でも飯を喰ふ時でも私の頭は全く現実と関係のない事ばかり考へてゐる」(7)という「神経衰弱」の症状は、「何所までが映画の中の夢であり、何所までが自分自身の夢であるやら、その境界は遂にボンヤリして分らなくなつてしまふ」(4)という映画体験における知覚の状態と同じものなのだ。テクストにおいて、主人公の「神経衰弱」の症状は、映画における知覚を反復したものとなっている。
では、『アヹ
この語りは、『アヹ トの支社が出来てからそこと提携したらしく、近頃出すものはみんなパラマウントの映画ばかりだ」(4)という。 が語られている。「ゲイテイー座」では、「先には大活の写真を出してゐたやうだつたが、此の間日本にパラマウン クストでは、語り手であり主人公の「私」が横浜の「ゲイテイー座」に活動写真を見に出かけるというエピソード リア』において、映画を見るという体験とはどのようなものとして語られているのだろうか。テ ・ マ
カ映画の輸入が増加していく。大正六年にはユニバーサル日本支社が、大正十一年にはユナイテッド 大戦を契機に変化していた。第一次世界大戦の勃発によってヨーロッパ映画の輸入が停滞し、その代わりにアメリ を移したが、その近くに西洋式劇場のゲーテ座があった。また、日本における海外映画の輸入状況は、第一次世界 (8) リア』が発表された当時の状況と重なり合っている。谷崎は大正十一年に横浜の山手に住居 ・ マ
・ アーティス
ツ映画会社日本支社とパラマウント映画会社日本支社が設置されたのである。
藤木秀朗は、この時期のアメリカ映画の台頭が、日本映画に、ひいては日本文化に大きな影響を与えたことを指摘している。アメリカ映画が輸入されることによってアメリカの映画産業が作り出したスターのイメージが日本に広まり、その結果、日本においてスターイメージが享受され、その後の日本映画がスターイメージを産出する契機となったというのである (9)。『アヹ
で贔屓にするスターとして、ビープ リア』でも、「私」は映画スターに夢中になっており、「パラマウントの映画」 ・ マ
・ ダニエル、ベティー
・ コムソン、グロリア
・ スワンソンといった名前を挙げ
ているのである。
加えて、『アヹ
「私」は「ゲイテイー座」でビープ リア』ではスターのイメージを享受するとはどのような行為なのかが具体的に語られていく。 ・ マ
ニエルが出演する「アッフェイアス ・ ダ
ブ ・ オ
る。これは、セシル ナトール」の上映を鑑賞す ・ ア
・ B
・ デミル
(CecilBlountDeMille)監督が一九二一年に発表したサイレント映画「アナトー
スクリーンの衝撃
ル」(TheAffairsofAnatol )を指している。「私」は、この映画を見るとき、ストーリーを追うよりもビープ
・ ダ
ニエルというスターを見つめることに集中している。
アナトールと彼女の恋が暫くつゞく。……しかし私は正直のところこれから後の話の筋がどんなであつたかを覚えてゐないのだ。覚えようともしなかつたのだ。いつもいろ〳〵の妄想を起す私の頭は、そこに現はれる彼女の幻を追つてゐるうちに、知らず識らず話の筋とは関係のない自分勝手なさま〴〵な夢を作り上げる。そして今でも私の記憶に残つてゐるものは、その場その場の世にもなまめかしい彼女のしぐさの一つ〳〵、ぱつちりとした愛くるしい眼つき、媚びを含んだ口もとの微笑、「男たらし」の名に背かない淫蕩らしい手足のし 0
な 0、監督のセシル
・ ド
・ ミルがいやが上にも意匠を凝らした眼を驚かす服装の美々しさ、
―
それらのものが全く前後の脈絡もなく、一つ〳〵永遠の美の形を以て私の心に封じ込まれてゐるばかりだ。(4)スクリーンにビープ
な」いままに、スターの印象が「私」に刻み込まれてしまう。 「眼つき」「口もとの微笑」「手足のしな」といった身体的な動作や表情に注目する。その結果、「全く前後の脈絡も 00 ニエルが登場すると、「私」は「話の筋」をそっちのけで彼女の「しぐさの一つ〳〵」 ・ ダ このような「私」の映画の鑑賞法に、トム
・ ガニングの「アトラクションの映画」という問題を重ねてみること
ができる。トム
・ ガニングは、初期サイレント映画には「観客に注意を引きつける機会があればここぞとばかりに 自己完結的な虚構世界に亀裂を入れ、その可視性を誇示する映画」としての「アトラクションの映画」の特徴が備えられていたと考察し、「アトラクションの映画は観客の注意をじかに引きつけ、視覚的好奇心を刺激し、興奮をもたらすスペクタクルによって快楽を与える」ものであると述べている )(1
(。
さらに、「私」が映画によって体験する刺激と快楽は一過性のものに終わらずに「私」の自己同一性の感覚に揺さ
ぶりをかけ、現実と妄想との境界を曖昧にしてしまう。この映画における視覚的な刺激の体験は、「大映し」において強烈なものとなる。映画が上映されると、「私」のまなざしは女優の足のクローズアップに釘づけになる。
そしてこゝでも、物好きなド
・ ミルは彼女の足を大映しにした。彼女は甘えるやうにアナトールの膝に腰か け、片手で男の首をかゝへつゝ靴を穿かして貰ふのである。……その時その足はつい二三尺の近さに迫つて、私の顔を踏むやうにさへ覚えた。(4)
は視覚に留まらない身体感覚を覚醒させるものとして体験されている。このような映画の体験について、トーマス 「私の顔を踏むようにさへ」感じてしまう。このとき視覚的な刺激は身体的な接触の感覚を呼び起こしており、視覚 「私」にとって、クローズアップの映像は「つい二三尺の近さに迫」ってくるように現れ、その臨場感によって
・
ラマールは「〈リアルよりもリアル〉な映画」(
more-real-than-real “
ofcinema)の体験であると語る ” (()
(。そして、この新たなリアルの体験は、身体的な衝撃と情動の作用を伴って、見る者のアイデンティティに揺さぶりをかけるものであり、それは、クローズアップの映像体験において顕著になると述べる )(1
(。
スリーンにスターの身体が映し出されるとき、「私」は強い身体的刺激を受け、その刺激によって「私」のなかで映画の筋に回収されないファンタジーが発動する。その刺激は「私」にとって強烈に、そしてリアルに体感されるものでありながら、しかし、その刺激を引き起こした源である対象は現実世界において不在なのである。スターの身体は、スクリーンに投射された光線によって浮かび上がる幻影にすぎない。「私」は、スターの身体が映写機から映し出される白い光線の効果であることを自覚してもいる。
彼女の姿が現れた瞬間、私は私の頭上を走る映写機の光芒が俄かに太さと明るさとを増して、一道の幅の広い火の柱となつたのを感ずる。なぜなら彼女の全身は雪のやうに白く透き徹つてゐるからだ。衣裳も顔も手も
スクリーンの衝撃
足も凡てが真つ白で、それを射徹す強い光線がスクリーンの面の上へ銀のやうに燃え上るのだ。 (4)
スターの「真つ白」に輝く身体は、スクリーン上の光線によって生み出された像である。この像を目にしたとき、「私」は像の虚構性を知りつつも、同時にリアルな身体的刺激を感じるのである。スターのイメージの享受とは、この虚構と現実の狭間で生じるリアルの体感である。
このリアルの体感は、映画を見るという行為によってもたらされる一時的な刺激という出来事には終わらない。映画によってもたらされたリアルの体感は映像に耽溺する者にファンタジーを発動させる。そして、そのファンタジーは映画の上映が終わった後も、スターのイメージにおいて引き続いて生み出され続けるのである。
二 スターというファンタジー 『アヹ
・ マリア』で「私」が映画を見る時、
スターの身体の印象が見る者に衝撃を与えてしまい、その結果、物語の筋はそっちのけでファンタジーが湧き出していく様が描かれている。ビーブ
・ ダニエルの身体を映し出した映像
に夢中になった「私」は、物語の筋に関係なく自分勝手な妄想をふくらませる。
彼女の影が此処に銀色の光を放つて動いてゐる瞬間、影の向うにある本体の彼女は今何処にゐて何をしてゐるだらう? あの眼は何を見てゐるだらう? あの唇は何を語り、あの足は何所の土の上を踏んでゐるだらう?
―
すると、私の空想は此の地つゞきの遠い果てにある彼女の許へ飛んで行き、彼女の家の扉を叩き、微風のやうに彼女の部屋の窓かけを上げる。地球の反対の側にあるその国では、もう今頃は夜が明けてゐる。彼女の住んでゐる常住の春の国たる南の地方では、空が青々と晴れ渡り、爽やかな朝の太陽がカツキリと軒にさし込み、庭の緑の樹々の間を小鳥が楽しげに囀つてゐる。寝坊な彼女はその小鳥の声を夢うつゝの堺に聞きながら、まだすや〳〵と温かい寝床の中に眠つてゐる。私の心はこつそりと彼女の閨へ忍び込んで、その安らかな寝顔をうかゞひ、柔かな胸の息を感じ、長い睫毛のをのゝきを眺める。「おゝ、お前がビーブ
・ ダニエルだね。
」(4)
ここで「私」は、スクリーンに映し出されたビーブ
「影」であることを知っている。しかし、その映像がもたらす印象によって、実在のビーブ ニエルの姿とは映写機から投射された光線の反映であり、 ・ ダ
・ ダニエルについての妄
想が生じてしまう。「私」は、「影」としての映像にリアリティを見出してしまうがゆえに、「影」の実在について想起せずにはいられないのである。
そして「私」は、妄想の中でビーブ
・ ダニエルの住まいを探り当て、
寝室を覗き、「寝床の中に眠つてゐる」彼女の姿を見出している。この妄想において「私」のスターへの欲望がどのようなものか明らかになる。「私」は、ビーブ
女の姿を見たがっており、彼女が知らない彼女自身の姿を覗き見たいという欲望を抱いていることが分かる。 ニエルの私生活を覗こうとするばかりか、彼女の「寝顔」を眺めていることから、「私」は無意識裡にある彼 ・ ダ
この「私」の妄想において、「私」とスターとの関係は常に一方的なものとなっている。「私」は一貫してビーブ
・
ダニエルの姿を覗き見る位置にある。そして、「おゝ、お前がビーブ
・ ダニエルだね。
」という語りかけも睡眠中の彼女に向けられている。妄想の中で「私」はスターに対して一方的に見るという位置にあるが、このように見られることなく見ることができるとき、見る側は見られる側に対して優位な場所を占めることになる。「私」の妄想は、スターに対して優位な位置に身を置きながらスターに接近したいという欲望によって支えられている。そもそも、スクリーンの上にスターの身体が現れたとき「私」は一方的にスターを眺めていたのであり、さらに、スターの身 スクリーンの衝撃
体がクローズアップで映し出されると、「私」はスターの身体に一方的に接近していたのである。したがって、「私」の妄想は映画体験によって裏打ちされているものといえる。スターとは、一方的に見ること、さらには見る者が優位な立場に身を置きながら接近することの欲望を喚起させ、接近のファンタジーをもたらす存在といえよう。
このようなスターへの欲望は、当時の映画受容において生じているものでもあった。「純映画劇運動」の旗手であった帰山教正が主催した映画雑誌「キネマ
・ レコード」の記事から、欧米の映画が輸入され上映されることで、
スターに憧れるファンという存在が顕在化したことが分かる。
「キ
ネマ
こと (1) おり「大きく撮すれば観客の注意は勢い俳優の表情其物に集注する」にも関わらず、それがないために面白くない コード」では、欧米の映画と比較したときの日本映画の難点として「人物が余りに小さく撮されて」 ・ レ
(、また、「日活東京派始め多くの所は女形がやつてゐる」「女優が無い」ということを指摘する )(1
(。このような日本映画への批判から、逆に、欧米映画において見られた女優のクローズアップに対して、当時大きな注目が集まっていたことがうかがえるだろう。
また、この記事で言及されている「俳優の表情其物に集注する」という観客の態度は、映画スターの身体や挙措動作を見ることに熱中するファンのものでもあったことが分かる興味深い記事が見られる。大正六年五月と六月の二度に渡って「キネマ
に於ては米のプレヤーの比較的自由な、自然な風致を愛賞するに到つた」と述べた上で、彼女たちの映画の鑑賞法 ものとして歓迎するに到つた」、「技術といふ一定の鋳型に入れられた日本の活動俳優より、外国殊に佛、伊、近年 であり、「変化に富み強烈なる刺激を好む本能を有する婦人の趣味、其の特性が欲求する條理を活動写真が見備した という文章が掲載された。その記事では「女学校上級程度」の女性を取り上げ、彼女たちが輸入映画の熱心な観客 コード」には「現代の婦人に見たる活動写真」「現代の婦人の見たる活動写真(第二回)」 ・ レ
について次のように説明している。
殊に自己の憧憬する対照物等に対しては、一挙一動と雖も凡て脳裡に刻みつけねずば置かぬと云つた熱心さがある、そして此細かい注意力は、やがて婦人自身の模倣性に多大の影響を及ぼして、直に衣服や髪型、調度ならまだしも、其の動作を早速応用して何かの機会に利用し何等かの行為に表し度くなるらしい。例へばパール
・ ホワイトの代表者を以て任じて居る某嬢は、例の鵞鳥の如き歩き振りを演じられたり、又グンキューの鼻 先の震動がお気に入つたと在る方は、自己の表情の一種として、鼻先運動を盛んに行はれると、いつた調子であるから……斯様な事は卑近な一例に過ぎぬが、一々記したら枚挙に遑在ずの程である )(1
(。
この文章から、映画を鑑賞する際にスターの身体動作に注視して「一挙一動と雖も凡て脳裡に刻みつけねずば置かぬと云つた」見方をするファンが出現していたことが分かる。彼女たちはパール
・ ホワイトや「グンキュー」こ
とグレイス
・ キュナードといったアメリカのサイレント映画のスター女優の身体を熱心に見つめ、さらには「歩き
振り」や「鼻先の震動」といった微細な動作まで模倣するというのである。記者は、このようなファンの様子について「要するに俳優の特徴等に対する注意力
・ 洞察力は非常に(異状的)に精密なものであると同時に、又其の暗 示された所の印象、に対する模倣性も例へ無意識で行ふにせよ、烈しいものと云はねばらなぬ )(1
(」と語り、さらには「活動俳優に対する態度が本来の社会的娯楽物たる活動写真の使命を無視して居る、と申すより寧ろイルージョンの恋の対象としてシネマを悪用して居るやうな物ではないか!」と警鐘を鳴らしている )(1
(。
映画スターの身体動作を細部に至るまで注視し、意識的に、あるいは無意識のうちにその動きを模倣しようとするファンたちの映画の鑑賞法とは、スターと一体化したいというファンの欲望によって支えられるものだろう。「キネマ
コード」の記者は、このような鑑賞法について「本来の」映画の見方から外れるものであると断じ、「イ ・ レ
スクリーンの衝撃
ルージョンの恋の対象」として自分勝手な妄想世界に耽溺するために「シネマを悪用して居る」と批判する。この姿勢は、帰山教正が昭和三年に出版した『映画の性的魅力』にも現れている。そこでは、物語の筋よりも俳優の身体イメージに耽溺する観客が「変態」として誡められているのである )(1
(。
しかし、「キネマ
教える記事や、スターのサイン入りブロマイドを手に入れる方法を伝える記事も掲載されている (1) ブロマイドをグラビアページとして多数掲載している。また、海外の映画スターに宛てたファンレターの書き方を コード」という雑誌自体が欧米の映画スターの写真を表紙に飾り、紙面にもスターの写真や ・ レ
(。「キネマ
熱狂は、帰山教正がファンの「変態」化を危惧するほど強烈なものであったといえよう。 ド」も映画スターという存在に注目しないわけにはいかなかったのであり、言い換えれば、当時の映画スターへの コー ・ レ
「キ
ネマ
観客 コード」にファンレターの書き方を教える記事が掲載されていたことについて、藤木秀朗は「日本の ・ レ
・ 読者が外国のスターを生活のモデルとコミュニケーションの相手と見る、いわばファンタジー化の活動とで も呼べる現象」が起こっており、このとき「ファンは海外の俳優に手紙を書くという行為によって単に『親しい』関係を持とうとするだけでなく、スターのイメージを所有する 0000ことをもねらっていた )11
(」と考察している。「キネマ
・
レコード」からは、遠く離れた世界にいるスターに手紙を書くこと、スターのサイン入りブロマイドを手に入れること、あるいはスターの動作を模倣することによって、ファンたちがスクリーンのスターという虚構の存在のリアリティを維持し、スターのファンタジーを手中に収めようとしていたことがうかがえる。
しかし、『アヹ
持しようとする。妄想とは現実には存在しない世界であり、その妄想世界をリアルなものとして維持し続けるため い。「私」はスターの存在によって自らの妄想世界としてのファンタジーを膨らませ、それをリアルなものとして保 リア』において描かれている欲望はスターのイメージの所有というファンタジーには留まらな ・ マ
に、「私」は虚構の中から強いリアリティを発動させるスターの存在感を利用するのである。テクストにおいて、「私」は、スターの存在が放つリアリティを梃子にして自らの妄想世界を強固に保持するための技法を作り上げようとしているが、それは「私」による語りの方法上の実践から明らかになる。
三 証言としての語り 『ア
ヹ
れ、その後転居したアパートメント 主人公「私」の女性遍歴である。「私」は舞台女優の早百合子に捨てられ、横浜の西洋人街で出会ったニーナと別か リア』というテクストから時系列に則して展開する出来事を取り出してみるならば、そこに現れるのは ・ マ
・ ハウスの住人のソフィアを見出す。しかし、テクストでは独自な語りの方法
によって出来事が語られているため、物語内容自体ではなく、それを語る物語言説に注目する必要がある。テクストは、語り手「私」が自分自身について語るという一人称形式となっており、さらに、語り手は、自身の書くという行為について自己言及する。
テクストの冒頭は、「私の可愛らしい早百合子よ、もしそう云つて悪いなら、私の過去の可愛らしい早百合子よ
―
」(1)という語りで始まり、さらに語り手は自身の語りについて次のように説明している。此の手紙は送るかどうかまだ決心がつかずに居る。送つたところでどうせ読んでもくれないだらうが、しかし兎に角独りぼつちで物を云ふよりはお前と云ふものを頭に置いて、それに話をしかける方がいくらか心が慰められる。そんなつもりで私は時々手紙を書くのだ。(1)
このように、語り手は自身の語りが早百合子に向けた手紙であると述べる。語り手は「お前と云ふものを頭に置
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いて、それに話をしかける」ように語り、さらに、それを手紙として書いていると言うのである。しかし、その手紙は「送るかどうかまだ決心がつかずに居る」というものであり、宛先に届けることを明確に意図して書かれたものとはいえない。語り手は、手紙が宛先に届けられるかどうかについて「此の手紙を出すとすれば何処へ宛てゝ出したらいゝのか」(5)とも述べており、手紙が実際には宛先に届けられないものであることを繰り返し述べている。そもそも、手紙は「私の過去の可愛らしい早百合子」に向けて書かれており、宛先は現在となっては不在の対象なのである。
しかし、テクストにおいて、実際には届けられない手紙を書くことには重要な意味が与えられている。語り手は、自分が手紙を書く理由について次のように語る。
さうだ、若しも私に絵や小説をかく才能があつたら、きつと此の中にいゝ材料が沢山ころがつてゐるのだらう。が、生憎と今の私には、小説どころかほんの五六行の短かい詩形さへ思ふやうに纏まらないのだ。もう少しでも頭の努力を要する事はひどく億劫になつてしまつた。まあこんな時には暇つぶしに手紙でも書くより仕方がない。目下のところでは手紙が私の唯一の芸術だ。下手糞な詩を作る為めに疲れた脳味噌を搾るよりか、第一此の方が気楽でいゝ。此の中にだつて読む人が読んでくれたら、多分詩のやうなものが幾らかはあるだらうからね。
―
(6)ここで語り手は、自身が手紙を書くことについて「絵や小説をかく」ことの代わりであり、自分にとっては「唯一の芸術」となる行為であると説明する。そして、「此の中にだつて読む人が読んでくれたら、多分詩のやうなものが幾らかはあるだらう」と、自らが語っている対象の意義について自己言及を行うのである。この自己言及から、手紙とは『アヹ
・ マリア』というテクストにおいて物語内容を効果的に表現するために選び取られた形式であると
いう語り手の宣言を読み取ることができるだろう。
そもそも、語り手は当初、戯曲を書くという行為への憧れについて言及していた。自分が執筆した戯曲が上演されるとき、舞台は自分の抱く妄想世界の再現となり、「そこにあるものは私の空想の世界であり、そこに動いてゐる者等は私の脳髄の周囲をめぐる走馬燈の幻影である」(1)ことになる。だからこそ、「私はそれを考へると戯曲と云ふものが書きたくなる」(1)と語っていたのである。
しかし、それにもかかわらず、『アヹ
ることを試みているということから考えていく必要がある。 いて上演することよりも、上映された映画のイメージを手掛かりにして自身の妄想世界を拡張し、それを言語化す 式であった。それはなぜなのか。語り手は、自身の妄想世界を戯曲という形式に言語化し、さらにそれを舞台にお リア』というテクストにおいて選ばれたのは戯曲ではなく手紙という形 ・ マ
映画のなかで「私」はスクリーンに投影されたスターの身体に魅了される。スターの身体を目の前にした「私」の内に衝撃が走り、さらに「私」は隣に座った女とスターとが重なり合って現れるという感覚を体験する。
私は振り返つて傍のニーナを見た、とニーナの顔がその銀色の反射を受けて闇に浮き出てゐるではないか。ビーブ
・ ダニエルの白い体は白日が降るやうに降つて来たのだ。あゝニーナ!
お前の姿は今あの亜米利加のヷンパイヤの肌の光明に包まれてゐる! 彼女の白い霊魂がお前の上に照り渡つてゐる!…………(4)
スクリーンに現れたビープ
・ ダニエルの身体が放つ「白い」輝きはスクリーンを離れて「私」の隣に座ったニー
ナの上にまで注がれ、ニーナはスターの「白い霊魂」に包まれることによって虚構の世界の住人に変わる。「私」はニーナと一緒に映画を見る理由について「私が映画を見に行くのは美しい夢を買ひに行くのだ。そこへ女を連れていくのは、その女をもその夢の中に織り込んで見たいからだ」(4)と語っている。「私」は映画を見ることでもた
スクリーンの衝撃
らされる感覚の刺激を梃子にして現実を「夢の中」の世界へと作り変えようとするのである。「私」にとって映画を見ることは現実世界をファンタジー化するための技法となっている。
さらに「私」は、映画によってもたらされる刺激と世界のファンタジー化の感覚を手紙として書き綴っていく。このとき、私の抱く妄想は、単なる虚構という次元を超えて意味付けられるのである。
―
斯う書いて来ると、私は以前お前と一緒によく見に行った帝国館やキネマ倶楽部や金春館の時分の事を想ひ出す。私の隣に腰かけてゐたお前の姿とあの時分に見た映画の中のさま〴〵な光景―森や、山や、野や、川や、美しい市街や、立派な室内や、その中に動く女優や男優や、それらのものが記憶の中で全く一つの世界に融け込み、あの女優どもの一人々々がみんなお前のお友達であつたり、あの森や野がお前と二人で遊び廻つた場所であつたり、あの室内の帳のかげのクツシヨンの上に、お前の坐つた皺の痕が残つてゐたり、…………何だかそんなやうな気がしてならない。(4)この語りは「斯う書いて来ると」という言葉で始まっており、語り手が「お前」に宛てた手紙として書いたものといえる。このとき語り手の「私」は、手紙を書くという行為において、同時に記憶の想起を行っていることに注意したい。「あの女優どもの一人々々がみんなお前のお友達であつたり、あの森や野がお前と二人で遊び廻つた場所であつたり、あの室内の帳のかげのクツシヨンの上に、お前の坐つた皺の痕が残つてゐたり」というイメージは、映画を見た私が抱いた妄想にすぎない。しかし、この語りにおいて、妄想は「想ひ出す」という行為のなかで披露されており、また、妄想自体も「記憶の中で全く一つの世界に融け込み」生じた結果のイメージとされている。
このように、「お前」に宛てた手紙を書くことを通して、「私」は映画を見ることで浮上した妄想を記憶として語るのである。語り手は「私の記憶の国に於いてはお前もビープ
・ ダニエルもグロリア
・ スワンソンも私自身も、み
んな一つの映画の中に生きて動いている」(4)とも語っており、虚構であるはずの妄想世界は「私の記憶の国」のなかに位置付けられるのである。
以上のことから、『アヹ
ことで、過去が有するリアリティを自身の妄想世界に付与しようとするのである。 ありながら、かつて存在したということにおいてリアリティを備えている。語り手は、妄想世界を記憶として語る する身振りを示しながら、自身の妄想世界について語っていく。過去とは、現在は失われてしまった不在のもので 「私」が「私の過去」に向かって呼びかける言葉に他ならない。「私」は「私の過去」に呼びかけつつ、過去を回想 向かおうとするメッセージの形式であるならば、語り手が書いている手紙とは、「私の過去」へ宛てた手紙であり、 (1)という呼びかけに始まり、「私の過去の可愛らしい早百合子よ」(8)という呼びかけで終わる。手紙が宛先に る。テクストは、「私の可愛らしい早百合子よ、もしそう云つて悪いなら、私の過去の可愛らしい早百合子よ
―
」 リア』というテクストにおいて語り手が手紙という形式を選択した理由が明らかにな ・ マそして語り手は、過去の回想のなかで「一番始めの『白』」(7)を探していく。回想の過程のなかで、語り手は「正直なところ私は、『これが白だ』と云つてハツキリ其の物を指摘することが出来ない」(7)と述べていたにもかかわらず、最後に自らが遭遇した「ほんたうの『白』」(8)という起源の体験に到達する。それは「ちやうど私が六つか七つぐらゐの頃」の記憶の想起であり、「私の祖父の隠居所があつて、その部屋の中にマリアの像が置いてあつた」、「もうその時分祖父は亡くなつたあとだつたので、そこには誰も住む人がなく、ガランとして、昼ひなかもうす暗くなつてゐて、その床の間の奥に、引き伸ばしにした祖父の写真と、マリアの像とが、金色のぴか〳〵した額ぶちに収められて、壁によせて立てかけてあつたのだ」という過去の思い出である。その記憶を想起したことによって語り手は、「自分では意識しない心のずつと奥の方では、私はその像ことほんたうの『白』であることを」
スクリーンの衝撃
(8)知っていたという認識を獲得する。
このように過去を回想することを通して出来事の起源を定位しようとする『アヹ
ディス リア』の語りの特徴に、ジュ ・ マ
・ L
・ ハーマンが論じた「外傷性記憶」を語るという問題を重ね合わせてみることができる。ハーマンは、
「外傷性記憶は言語による『語り』も『前後関係』もない。それは生々しい感覚とイメージの形で刻みつけられているのである」、「外傷性記憶はイメジャリーと身体感覚とが優位である点と、物語性を欠く点で幼児の記憶に似ている」と述べており、「外傷性記憶」を語ることは外傷体験をめぐるストーリーを再構成することになるという )1(
(。この論を踏まえて『アヹ
・ マリア』について検討するならば、過去を振り返って「白」の体験の起源を示すという語り の行為はストーリーの再構成となっているとみなすことができる。言い換えるなら、語り手が「白」の体験を現在から過去へという時系列の上に配置し、体験の起源を確定しようとするのは、「白」の体験が「外傷性記憶」に相当するものであるからではないだろうか。「白」の体験とは、「生々しい感覚とイメージの形で刻みつけられて」しまうような身体的な衝撃としてあるがゆえに、その衝撃を言語化する際にストーリーの再構成が行われてしまうのである。ハーマンは、「語ることによって外傷ストーリーは証言となる」と述べる )11
(が、『アヹ
衝撃の体験をめぐる証言となっているとみなすことができるのだ。 リア』の語りもまた、 ・ マ
『ア
ヹ
タイトルとなっている『アヹ した衝撃、映写機から放たれた光の幻影によって与えられた強烈なリアリティを、語り手は言語化しようと試みる。 れを射徹す強い光線がスクリーンの面の上へ銀のやうに燃え上がるのだ」(4)というスクリーンのスターがもたら とから生じていた。「彼女の全身は雪のやうに白く透き徹つてゐるからだ。衣裳も顔も手も足も凡てが真つ白で、そ リア』における「白」の体験の回想と起源の定位は、スクリーンに投影された光線の白い輝きを語るこ ・ マ
・ マリア』という言葉は、語り手によって回想された過去の記憶と、ソフィアが歌う
「アヹ
リア」の歌声の双方を意味している。つまり、現在においては不在 ・ マ
クリーンのリアリティを表象しようとする。『アヹ ず存在を感じることのできる対象を指す言葉なのである。語り手は記憶や歌声のリアリティを語ることを通してス るいは不可視であるにもかかわら ・ あ
化しようとする試みを見出すことができるのである。 た衝撃を読み取ることができるのであり、テクストにおける語りの方法に、映画がもたらしたファンタジーを言語 リア』というテクストからは、当時の映画体験が観客に与え ・ マ
注(1)田中純一郎『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』(中公文庫、一九七五
二)、『世界の映画作家 ・ 十
(キネマ旬報社、一九七六 31 日本映画史』
・ 七)
、四方田犬彦『日本映画史
100年』集英社新書、二〇〇〇
・ 三、
佐藤忠雄『日本映画史 増補版Ⅰ』(岩波書店、二〇〇六
・ 一〇)を参照されたい。
(2)青蛙房、一九八九年一二月。(3)城殿智行「映画と遠ざかること―谷崎潤一郎と『春琴抄』の映画化―」(「日本近代文学」第
61集、一九九九
・ 一
〇)、西山健一「〈視覚〉の変容と文学―映画
・ 衛生学と谷崎潤一郎『人面疽』
―」(「文学」第2巻第2号、二〇〇一
・ 三)
、明里千章「人面疽の囁き―谷崎潤一郎が作れなかった映画」(「昭和文学研究」第
53集、二〇〇六
・ 九)
、五味淵典嗣『言葉を食べる 谷崎潤一郎、一九二〇~一九三一』(世織書房、二〇〇九
・ 十二)
。(4)『谷崎潤一郎 狐とマゾヒズム』(小澤書店、一九九四
・ 六)
。(5)『大正幻影』(新潮社、一九九〇
・ 一〇)
。(6)「谷崎潤一郎の映画体験」(「国文学」一九九八
・ 五)
。(7)野村修編訳『ボードレール 他五篇』(岩波文庫、一九九四
・ 三)所収。
(8)ゲーテ座については、升本匡彦『横浜ゲーテ座 明治
・ 大正の西洋劇場』
(横浜市教育委員会、一九七八
・ 三)を参照
スクリーンの衝撃
されたい。(9)『増殖するペルソナ 映画スターダムの成立と日本近代』(名古屋大学出版会、二〇〇七
・ 十一)
。(
10)「アトラクションの映画―初期映画とその観客、そしてアヴァンギャルド」(長谷正人
・ 中村秀之編訳『アンチ
・ ス ペクタクル 沸騰する映像文化の考古学』(東京大学出版会、二〇〇三
・ 六)
。(
11Tomas)
Lamarre,Shadows on the Screen : Tanizaki Jun ・
ichiro on Cinema and ’
Oriental “
( UniversityofMichiganPress,2005. Aesthetics,AnnArbor: ”
いる(( 身体のショックに取って代わられるとき、狂気が生じる。映画的なクローズアップは純粋な情動の体験を伴って 見る者にとってイメージが信じがたいほどに接近し、もはや感じるだけで認識することができなくなり、知覚が 12)ラマールは、クローズアップの映像体験について次のように述べている。
( enceofpureaffect.) butfelt,soclosethatperceptiongiveswaytoashocktothebody.Thecinematicclose-upinvolvesanexperi- Madnessariseswhenimagescomeincrediblyclosetoviewers,soclosethatimagesarenolongerperceived( 11)前掲書)。 13)「愚人の愚語か或は日本映画の欠点か」(「キネマ
・ レコード」
Vol.V-No.39、一九一六
・ 九)
。(
14)「愚人の愚語か或は日本映画の欠点か」(「キネマ
・ レコード」
Vol.V-No.40、一九一六
・ 一〇)
。(
15)「現代の婦人に見たる活動写真」(「キネマ
・ レコード」
Vol.V-No.47、一九一七
・ 五)
。(
16)(
( 14)前掲書。
17)「現代の婦人の見たる活動写真(第二回)」(「キネマ
・ レコード」
Vol.V-No.48、一九一七
・ 六)
。(
( 18)帰山教正『映画の性的魅力』(文久社、一九二八年)。 19)「外国の俳優に手紙の出し方(第一)」(「キネマ
・ レコード」
Vol.V-No.43、一九一七
・ 一)
、「俳優写真請求に就いて」「キネマ
・ レコード」
Vol.V-No.48、一九一七
・ 六)
。(
20)(9)前掲書。
( 21)「心的外傷と回復」(みすず書房、一九九九
・ 一一)
。(
22)(
21)前掲書。
※『アヹ
・ マリア』の引用は『谷崎潤一郎全集』第八巻(中央公論社、一九八一
・ 一二)に拠る。
(二〇一三年一月二十五日受理、二〇一三年二月五日採択)
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