南部ペルーアンデス西斜面地域の先スペイン文化
著者 藤井 龍彦
雑誌名 国立民族学博物館研究報告
巻 5
号 1
ページ 83‑120
発行年 1980‑03‑30
URL http://doi.org/10.15021/00004532
藤 井 南 部 ぺ 々 一 ア ンデ ス西 斜 面 地 域 の先 ス ペ イ ン文 化
南 部 ペル ー ア ン デ ス西 斜 面 地 域 の先 ス ペ イ ン文 化
藤 井 龍 彦*
Prehispanic Cultures of the Western Slope of the Southern Peruvian Andes
Tatsuhiko Fuji'
This paper is a general survey of some archaeological sites of the western slope of the Andes of southern Peru in the valleys between the R. Yauca and the R. Caplina. Nine sites were visited to make general observations on the environment and structures, as well as to collect surface materials.,
In this area the western slope of the Andes, sometimes called the "Far South Coast", shows a development of indigenous cultures distinct from elsewhere in the Central Andes. It is thought that the biological and physical characteristics of this region precluded the authochthonous emergence of agricultural society, and it is supposed that the first appearance of agricultural society in this region was around the Middle Horizon (ca. A.D.- 600) It is my thesis that advanced technology such as terracing and canal irrigation, accomplished by the Wari people, made possible the development of the region, hence the societies which developed these may have comprised a type of colony of the Wari Empire, later of Expansive Tiahuanaco Culture. Perhaps because of this the most archaeological sites are situated near a present-day human settlement. This distinguishes the region under study when it is
compared with the northern and central highlands of Peru.
Another peculiarity of this region is the existence of a great many public and ecclesiastical documents.
For clarification of the development of the indigenous cultures of the Western Slope of the Southern Peruvian Andes joint studies by ethnologists, ethnohistorians and archaeologists are required.
*国 立民族学博物館第4研 究部
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国立民族学博物館研究報告 5巻1号
は じ め に 1.自 然 環 境 ll.遺 跡 の 一 般 調 査 1. オ コ ニ ヤ川 流 域 2.カ マ ナ=マ ヘ ス 川 上 流 域
ゴ.'タ ン ボ川 流域 4. イ ロ=モ ケ グ ア川 流 域
皿.南 部 ペル ー ア ンデ ス西斜 面 地 域 の 先 ス ペ イ ン文 化 の特 徴
お わ りに
は じ め に
古 代 ア ンデ ス文 明 を支 え て い た 中央 ア ンデ ス地 帯 の農 牧 社 会 は,1532年 に イ ンカ帝 国 が征 服 され,こ の 地 が ス ペ イ ン人 の植 民 地 とな る と共 に大 き な変 化 を余 儀 な くされ た 。 と くに広 い耕 地 の あ る海 岸 地 方 で は,土 地 を ス ペ イ ン人 の農 場 経 営 の た め に収 奪 され,住 民 は農 場 の労 働 力 と して 酷使 され るよ うに な った結 果,先 スペ イ ン期 以 来 の 伝 統 的 な社 会 は ほ とん ど全 面 的 に崩 壊 して し ま った 。
い っぽ う高 地 で は,カ トリ ックの布 教,ス ペ イ ン人'によ る新 しい町 の 建 設 に伴 う住 民 の 移 動,鉱 山 の 開発 のた め の労 働 力 の徴 発,外 来 の 疾 病 に よ る人 口の 減 少 な どに よ る変 化 は見 られ た が,海 岸 に お け る ほ ど全 面 的 か つ 急 激 な もの で は なか った 。 む しろ この 地 域 で は,高 度 差 が非 常 に大 きい とい う生 態 学 的 な 環 境 を最 大 限 に利 用 した生 業 形 態,あ る い は異 な った 環 境 の地 域 間 の交 易 や 互 酬 に よ る結 び つ き な どが,新 しい 作 物 や家 畜 の 導 入 に もか かわ らず 保 た れ て い る し,衣 食 住 な どの 面 で も,伝 統 的 な もの を 全 て 失 った わ け で は な く,新 旧 の要 素 が混 在 して い るの が現 状 で あ る[KUBLER 1946;
MISHKIN 1946]。 その た め,中 央 ア ンデ ス農 牧 社 会 の研 究 は,先 ス ペ イ ン期 に まで 遡 る 文化 史 的 な視 野 も含 め て進 め られ な けれ ば な らな い。
本 稿 は以 上 の 点 を ふ ま えて,昭 和53年 度 文部 省 科 学 研 究 費 補 助 金(海 外 学 術 調 査) に基 づ く,「 中 央 ア ンデ ス農 牧 社 会 の 民 族学 的研 究 一 海 岸 ・高 地 ・熱 帯 低地 地 域 間 の 動 態 的社 会 関係 」(研 究 代表 者 増 田昭 三 東京 大 学 教 授)を テ ー マ と した 調査 団 の一 員 と して,南 部 ペル ーア ンデ ス西 斜 面 地 域 で 行 った先 ス ペ イ ン文 化 調 査 の報 告 と して 書 か れ た もの で あ る1)。
今 回 の調 査 は民 族 学 を主 と した もので あ った た め,遺 跡 の 発 掘 は行 わ ず一 般 調 査 の 1)今 回の調査期間中に,ア プ リマクApurimac県 のカライバ ンバCaraybamba,ア ヤ クチ ョ Ayacucho県 のワ リWari, リマ県 のカニェテCafiete川 流域の一部,同 じくチ ャンカイ Ghancay川 流域の一部などの一般調査 も行 ったが,これ らは本稿で扱 う地域 に含まれないため, 稿 を改めて報告す る予定であ る。
藤 井 南 部 ペ ル ー ア ンデ ス西 斜 面 地 域 の 先 ス ペ イ ン文化
み を 行 った 。 そ の 結 果 得 られ た 資 料 は,遺 跡 の 位 置,環 境,立 地,規 模,遣 構 の 大 き さ と 構 造,表 面 採 集 に よ る 遺 物 な ど に と ど ま り,決 して 十 分 な も の と は い え な い 。 ま た,広 大 な 範 囲 を 対 象 と し た た め,そ の 全 て を カ バ ー す る こ と は 不 可 能 で あ っ た 。 そ こ で,こ れ ま で に 具 体 的 な 調 査 報 告 が 皆 無 に 近 か っ た,オ コ ニ ャOcofia川 上 流 の コ タ ワ シ Cotahuasi谷,カ マ ナ=マ ヘ ス Camana‑Majes川 上 流 の チ ュ キ バ ンバ Chuquibamba周 辺,タ ン ボTambo川 流 域 の プ キ ナPuquina付 近,イ ロ=モ ケ グ
ァIlo‑Moquegua川 中 流 の モ ケ グ ア 周 辺 な ど を 重 点 的 に 調 査 した 。
1.自 然 環 境
本 稿 で あつ か う南 部 ペル ーア ンデ ス西 斜 面 地 域 と は,ヤ ウカYauca川 以 南 チ リと の 国境 まで の海 岸,お よび ア ンデ ス高 地 の 太 平洋 側 斜 面 か らな る地 域 を指 す(図1)。
この地 域 の気 候 は,基 本 的 に は他 の ペル ーア ンデ ス西 斜 面 と共 通 の 特徴 を持 って い る。 す な わ ち,海 岸 は南 太 平洋 亜 熱 帯 高 気 圧 の 東 縁 に 入 る た め,年 間 を 通 じて 降雨 は ほ とん どみ られ な い。 しか し海 か ら陸 に向 けて 弱 い 風 が 吹 いて お り,こ の 風 が 沿岸 を 流 れ る冷 た い ペ ル ー海 流(フ ン ボル ト海 流)の 上 を 通 る時冷 さ れ て海 霧 が 発生 す る。
海 霧 は高 さ500‑1,000 mの 間で と くに濃 く,こ の 高 さの土 地 に時 に霧 雨 を 降 らせ る こ とが あ る。 い っぽ う高 地 で は,10月 一3月 の 南 半球 の夏 季 に南 東 の貿 易 風 が強 ま る。
ア マ ゾ ンの 熱 帯 低 地 を渡 って くる湿 度 の高 い この風 は,ア ンデ ス 山 脈 にぶ つ か り急 激 に上 昇 して 雲 を 作 り,高 地 に雨 を降 らせ る。西 斜 面 に抜 けた 風 は非 常 に 乾燥 して い る。
海岸 の海 霧 は,夏 季 に は この 風 の影 響 で あ ま り内 陸 に入 らな いが,冬 季 に な って風 が 弱 まる と3‑40km内 陸 に ま で広 が る。
中央 ア ンデ ス地 帯 の 気 候 は以 上 の よ うに夏 季 に 雨 が 降 り,冬 季 に は海 岸 が 海 霧 に お お わ れ ると い う点 が特 徴 で あ る。 と ころ が,ペ ル ー北 ・中部 で は高 地 の 幅 が 狭 い た め, 高 地 の 東 肩 で発 生 した雲 は西 斜 面 に ま で 広 が りその 上 部 に雨 を 降 らせ る。 しか し南 部 で は幅 が非 常 に広 くな るた め,西 斜 面 で の降 雨 は少 な い 。反 対 に,海 霧 が 一 番 濃 い 部 分 と ほぼ 同 じ高 さ の丘 陵 が南 部 で は海 岸近 くに連 な って い る た め,そ の影 響 は北 ・中 部 よ りは っ き り と現 れ て い る。 この 状 況 の 具体 的 なデ ー タ と して,カ マナ=マ ヘ ス川 流 域 の河 口か ら源流 近 くま で にわ た る5つ の 地 域 の年 間 雨 量,海 岸 か らの距 離,標 高
を 表1に 示 す。
この地 域 の 地 形 は,高 原(高 位 準 平 原 遺 物),山 腹 斜 面,丘 陵地,台 地 が ほ とん ど を 占め,平 野 はわ ず か に最 南 端 の サ マSama,カ プ リナCaplina川 下 流 部 に み られ 85
藤井 南部 ペル ーア ンデス西斜 面地域 の先 スペイ ン文化
表1 カ マ ナ=マ ヘ ス川 流 域 の 雨 量*
カ マ ナ パ ンパ ・マ ヘ ス (Pampa Majes)
ア ヨ (Ayo)
ア ン ダ グ ア (Andagua) オ ル コ パ ン パ
(Orcopampa)
年 間 雨 量 (mm) 11.6
7.0
93.0
444.0
508.0
海 岸 か らの距 離(km)
3
50
120
140
160
標 高(m)
20
1, 500
2,000
3,600
3,600
*[INsTITuTo NAcloNAL DE PLANIFIcAcloN(ed・)1969:131]に よ る 。
る に す ぎ な い[佐 藤 1979:12]2)。 と くに チ ャ ラChala川 か ら カ マ ナ 川 の 間 で は,他 の 地 域 で は 海 岸 線 か ら か な り退 い て い る 山 腹 斜 面 が,直 接 海 に 落 込 ん で い る 。 そ の た め,こ の 間 を 通 る パ ン ア メ リカ ン道 路 は,幅1㎞ 足 らず の 狭 い 海 浜 や 海 に 面 し た 崖 の 中 腹 に 設 け られ て い る 。 海 岸 平 野 が ほ と ん ど な い の と 対 照 的 に,こ の 地 域 に は 標 高 500‑2,000 mの 広 大 な 台 地 が 広 が っ て い る 。 パ ンパpampaと よ ば れ る こ の 台 地 は, ア ンデ ス 山 脈 の 西 縁 を 形 成 す る 西 山 系 の 麓 と,海 岸 に 沿 って 連 な る 低 い 丘 陵 性 の 海 岸 山 脈 の 間 を 埋 め る 第 三 紀 の 堆 積 層 で 形 成 さ れ た も の で,ゆ る や か な 起 伏 と傾 斜 を 持 っ て い る 。 そ の 幅 は こ の 地 域 の 中 部 の キ ル カQuilca川 あ た り が 最 大 で,70 kmに も な る 。 台 地 の 西 縁 の 海 岸 山 脈 は,北 の パ ラ カ スParacas半 島 に ま で 続 くが,そ れ 以 北 は 海 中 に 没 し ペ ル ー 北 ・中 部 海 岸 の 大 陸 棚 の 縁 を 形 成 して い る 。 こ の 地 域 の 地 形 を 特 徴 づ け る も 一う一 っ の 要 素 は,西 山 系 の 西 肩 に 点 々 と 噴 起 した 多 くの 第 四 紀 の 火 山 で あ る 。 そ の 中 に は ア レキ パArequipa富 士 と し て 有 名 な ミス テ ィMistiの よ う に 美 し い 円 錐 形 の もの も い く つ か あ る 。 こ れ ら の 火 山 の 多 くは 標 高5,000mを 越 え,頂 上 に 万 年 雪 を 頂 い て い る 。 ま た,火 山 か ら流 出 し た 溶 岩 流 は 西 へ 広 が り,と く に ヤ ウ カ 川 と オ コ ニ ャ 川 の 間 で は 前 述 の パ ンパ の 上 に 重 な っ て 標 高2,000 mを 越 す 広 い 台 地
を 形 成 し て い る 。
こ れ ら の 台 地 を 横 切 っ て 太 平 洋 に 注 ぐ川 が1ヤ ウ カ 川 か ら カ プ リ ナ 川 ま で13本 あ る 。 そ の ほ と ん ど が 斜 面 を 直 行 し て 下 っ て く る た め 急 流 と な っ て い る 。13本 の 川 の う ち, 標 高4,000mの 高 地 の 奥 深 くに 源 頭 を 持 つ も の は,オ コ ニ ャ,カ マ ナ=マ ヘ ス,タ ン ボ の3つ だ け で あ る 。 こ の3つ の 川 は 流 域 も 広 く,夏 季 に は 高 地 に 降 る 雨 を,冬 季 に は 高 山 の 雪 解 け 水 を 集 め る た め,水 量 が 豊 富 で 年 間 を 通 じ て 水 が 流 れ て い る 。 そ の 他 の 川 は,い ず れ も西 斜 面 に 始 ま る 長 さiOO km前 後 の 短 い もの で,水 量 は 少 な く,と
2)本 号 の増 田 によ る論 文 の 図1参 照 。
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国立民族学博物館研究報告 5巻1号 く に 冬 季 に は ほ と ん ど 澗 れ て し ま う 。 こ の 他 に も,現 在 は全 く水 の 流 れ な い 澗 川 が, こ れ らの 川 に 並 行 して 数 多 くみ られ る 。 前 述 の よ う に,こ の 地 域 の ほ とん ど が 山 腹 斜 面 あ る い は丘 陵 地 が 海 に 接 して い る と い う地 形 の た め,こ こ を 流 れ る 川 は 最 南 端 の サ マ,カ プ リ ナ の2つ を 除 い て,全 て 河 口 ま で 深 い 峡 谷 状 に な っ て い る 。 た と え ば,こ の 地 域 で 最 大 の 流 域 面 積(10,690km2)を 持 つ カ マ ナ=マ ヘ ス 川 は,河 口 近 くで 海 岸 山 脈 を 横 切 る 部 分 の 谷 幅 は わ ず か750m,約70 km上 流 の コ リ レCorireと ア プ ラ オAplaoの 間 で は,高 さ500 m幅950 mの 峡 谷 と な って い る[RoMERo n・d・:
106]。
以 上 の よ う な 気 候 ・地 形 条 件 か ら,こ の 地 域 の 生 態 環 境 は 高 度 と海 岸 か らの 距 離 に ほ ぼ 比 例 し て,下 か ら ① 亜 熱 帯 砂 漠(Desierto Sub‑Tropical),② 低 部 山 地 砂 漠 (Desierto Montano Bajo),③ 低 部 山 地 乾 燥 灌 木 林(Matorral Des6rtico Montano Bajo),④ 山 地 ス テ ップ(Estepa Montano),⑤ 亜 高 山 湿 潤 灌 木 林(Paramo HUmedo Sub‑Alpino),⑥ 高 山 多 雨 ツ ン ド ラ(Tundra Pluvial Alpino),⑦ 氷 雪(Nival)の7 つ に 分 け ら れ て い る[ONERN I973,1974,1975a,1975b,1976](図2)。
① と ② は 文 字 通 り 非 常 に 乾 燥 し た 砂 漠 で,部 分 的 に サ ボ テ ン(CereUS属)な ど の 耐 乾 性 植 物 や,塩 性 植 物 が み ら れ る に す ぎ な い 。 しか し この 中 で 例 外 的 に,海 岸 沿 い の 500‑1,000mの 丘 陵 地 の 上 部 で は,前 述 の 冬 季 に発 生 す る 海 霧 に よ る 湿 気 や わ ず か な 降 雨 の 影 響 で,イ ネ 科 や マ メ 科 の 植 物 が 生 育 す る ロ ー マ スlomasと よ ば れ る 特 異 な 場 所 が あ る 。 ③ と④ の う ち,③ は 半 乾 燥 地,④ は や や 湿 潤 な 地 域 で あ る 。 い ず れ も 西 斜 面 上 半 の 傾 斜 の 比 較 的 強 い 所 で,地 形 は か な り複 雑 に な っ て い る 。 植 生 は 小 灌 木
が 主 で,後 者 で は トラtola(Lepidoph1tlum quadrangulare)と い う キ ク 科 植 物 が 卓 越 し て い る 。 ⑤ は 標 高4,000mを 越 す 高 原 で,一 般 に プ ー ナpunaと よ ば れ て い る と こ ろ で あ る 。 植 生 は イ チ ュ(ichu:3妙 αicha)を 主 と し た 草 が 多 い が,部 分 的 に P吻 妙 ゴ5属,B認4勿 α 属 な ど の 灌 木 が み られ る 。 ⑥,⑦ は 主 と し て ア ンデ ス 西 山 系 に 噴 起 し た 火 山 の 頂 上 か ら中 腹 に か け て の 地 域 で,⑥ に わ ず か な 地 衣 類 が み られ る ほ か 植 生 は な い 。
こ の よ う な 生 態 環 境 を 持 つ 南 部 ペ ル ー ア ン デ ス 西 斜 面 の 人 間 の 活 動 は,海 岸 の ロ ー マ ス に お け る 冬 季 の 移 牧,砂 漠 を 横 切 って 流 れ る 川 の 谷 底 沿 い の 細 長 い 平 地 や,斜 面 上 部 の 傾 斜 の 比 較 的 ゆ る や か な 川 沿 い の 部 分 な ど で の 灌 海 農 耕,お よ び 高 原 で の 牧 畜 が 主 な も の で あ る 。 こ の 地 域 の 生 態 環 境 の 利 用 に 関 して は,本 号 の 大 貫 の 論 文 に 詳 し い の で こ こ で は こ れ 以 上 ふ れ な い 。
図2 南部ペルーア ンデ ス西斜 面の生態区分図
国立民 族学 博物 館研究報告 5巻1号
1.遺 跡 の一般 調査
は じめ に も述 べ た よ うに,今 回 は民 族 学 を 中 心 と した 調査 で あ った た め,遺 跡 に 関 して は表面 的 な一 般 調 査 に と ど ま り,数 も9カ 所 にす ぎ な い(図3)。 以 下 そ れ ぞ れ の 遺 跡 に つ い て の 記述 と考 察 を 行 う。
1. オ コ ニ ヤ 川 流 域
プ エ ブ ロ ・ビ エ ホPueblo Viej o 河 口 か ら約4 kmの 川 の 右 岸 。 パ ン ア メ リカ ン 道 路 が 川 を 渡 る 地 点 か ら500mほ ど 行 った,プ エ ブ ロ ・ビ エ ホ と い う数 軒 の 家 の あ る 小 集 落 の 手 前 の 道 路 際 に あ る 。 川 の 両 側 に 続 く高 さ4‑500mの 急 傾 斜 地 の 麓 で, 川 底 の 平 坦 部 か ら5mほ ど 高 い 。
遺 跡 は 白 っぽ い 砂 質 の 岩 盤 を 掘 って 営 ま れ た 墓 地 で あ る 。 か な り盗 掘 さ れ て お り, 墓 を お お って い た と 思 わ れ る 大 き な 木 や カ ニ ャ ・ブ ラバcafia bravaが 露 出 し て い る 。 墓 の 構 造 ・規 模 は 不 明 。 周 囲 に は 多 くの 人 骨 片,赤 褐 色 な い し茶 褐 色 の 無 文 の 土 器 片
図3 調 査ル ー トお よび 遺 跡(1〜9)
藤 井 南 部 ペル ーア ンデ ス 西斜 面地 域 の先 ス ペ イ ン文化
が 散 乱 して い る。 そ の 中 に,赤 地 黒 彩 の幾 何 文 様 を持 つ土 器片,木 製 紡 錘 車,小 刀 状 木 製 品(写19)が 各1点 ず つ あ る。
この 遺 跡 は河 口近 くに位 置す るが,小 刀 状 木 製 品 が ペ ル ー 中部 海岸 の例 か らみて 農 具 と考 え られ るの で,農 耕 民 の墓 地 で あ ろ う。 この 墓 地 に対 応 す る住 居 趾 は付 近 に は 認 め られ な い。 しか し,遺 跡 に接 した 現在 の小 集 落 の 場 所 が,そ うで あ った可 能 性 は あ る。 時 期 は不 明 で あ るが,対 岸 の チ ュ レChuleと い う墓 地 遺 跡 か らチ ュ キバ ンバ 文 化 の影 響 の認 め られ る布 片 が 出 土 して お り[石 田ほ か 1961:253‑254],こ の 遺跡 に も赤地 黒彩 の土 器 片 が あ る こ とか ら,同 時 期 の もの と考 え られ る。 オ コニ ャ川 下 流 部 は,両 側 を高 い急 な斜 面 で 限 られ た 最大 幅2kmほ ど の峡 谷 状 態 が 河 口 まで 続 い て お り,川底 の平 地 の み が耕 地 と して利 用 され て い る(写1)。 雨 は 全 く降 らな いが,川 の 水 量 が 豊 富 な た め年 間 を通 じて灌漑 に よ る耕 作 が 可 能 で あ る。現 在 は水 田が 盛 ん に開 発 され て い る。 しか しそれ を 除 い た 耕 作物 と して は,ト ウモ ロ コ シ,マ メ,サ ッ マ イ モ な ど,先 スペ イ ン期以 来 の ものが 大 部 分 を 占 めて い る。 この よ うな作 付 状 況 を 示 す この地 域 は,ペ ル ー の ほ とん ど全 て の 海 岸地 方 が,ス ペ イ ン人 に よ る征 服 後 にサ トウ キ ビ,棉,ブ ドウ,牧 草 な ど の単 一 作 物 の 大規 模 耕 作 に変 わ って しま った 中で,伝 統 的 な 姿 を残 して い る と い う意 味 で貴 重 な所 とい え よ う。
コ ヨ タCoyota A, B オ コニ ャ川 最 上 流 部 の ワル カ ヤHuarcaya川 右 岸,コ タ ワ シの 町 の 数km上 流 に あ る。 町 の対 岸 にあ る た め,遺 跡 に行 くに は さ らに数km上 流 の 吊 橋 を 渡 らな け れ ば な らな い 軌 遺跡 は標 高 約2,60Q典,一 川 面 か らの 比 高10皿 ほ どの 段丘 上 に あ る。 吊橋 を 渡 った と ころ は漕 既に よ り耕 地 とな って い るが,遺 跡 の周 囲 はサ ボテ ンや と げ の多 い 灌 木 の生 え た荒 地 で あ る。 この あた り は,低 部 山地 乾燥 灌 木 林 地 帯 で あ る。
遺 跡 は500mほ ど の距 離 を お いてAとBの2つ か らな る。 い ず れ も小 さな起 伏 の あ る段 丘 の 窪 地 に な った部 分 を選 ん で造 られ て い る(写2,3)。 規 模 はAが や や 大 き く約50m×30 m, Bは 約30 m×20 mで あ る 。構 造 は両 者 と も全 く同 じで,ほ ぼ方 形 の高 い石 壁 を め ぐら し,内 部 に は連 続 した 多 くの 部 屋 と中庭 あ る い は広 場 を 持
って い る。 壁 は割 石 を 積 み 土 で 固 め た もの で,高 さは2mを 越 し 時 に小 さ な壁 寵 を 持 つ(写4)。 外 壁 の 入 口の 数 に つ いて は,崩 れた 所 が 数 カ所 あ る の み で 確認 で き な か った 。建 物 の 内部 に はあ ま り土 器 片 が み られ ない の に た い し,外 部,と くにBの 西 側 の 小高 い 部分 に比 較 的 多 くの 土 器 片 が散 布 して い た。 そ こに は建 造 物 の 土 台 と思 わ れ る よ う な石 列 も残 さ れて お り,A, Bよ り古 い時 期 の もの か も しれ な い 。土 器片 は い ず れ も小 片 で,内 部 の もの はほ とん どが無 文 で あ るが,外 部 の もの は文 様(赤 地 黒 ・ 91
国立民族学博物館研 究報告 5巻1号 白彩)を 持 つ もの もあ る(写20,21)。
この2つ の 遺 跡 は,建 物 の構 造 や プ ラ ンか らみて 農 民 の 住 居趾 とは考 え られ ず,お そ ら く支 配 者 階 層 の 居 住 地 で あ った と思 わ れ る 。 しか し全 く同 じ構 造 を持 つA,B両 者 の 関係 につ い て は判 らな い 。 あ るい は イ ンカ時 代 に あ り現 在 の 農 村 に もそ の伝 統 が 続 い て い る双 分 組 織 と結 び つ くもので あ ろ うか 。 時期 に 関 して は決 め 手 が な い が,石
壁 の 遺存 状 態 が良 好 で あ る と ころ か ら,あ ま り古 い もの と は思 わ れ な い 。 イ ンカ期 あ るい は そ の直 前 ぐ らい とい う可 能性 が高 い 。 い っぽ うBの 外 の もの は 彩 文土 器 の 中 に,中 期 ホ ライ ゾ ン(紀元600‑1000年)の ワ リ文 化 的 な文 様 を持 つ もの が み られ る。 ワ リ文 化 の南 限 は ア レキパ 市 あた りま で及 ん で い た と され て お り[LUMBRERAS l 974:
150],こ の 地 域 はそ の 中 に含 まれ るの で可 能 性 は あ る。 しか し,結 論 は発 掘 調 査 を ま た ね ば な らな い。 いず れ にせ よ,コ タ ワ シの谷 は気 候 温 暖 で ブ ドウが栽 培 され て い る 谷 底 の 平地 か ら,ト ウ モ ロ コ シや ジ ャガ イ モ畑 の あ る斜 面 の耕 地 を含 む豊 かな 土 地 で あ る。 また,い つ 頃 開発 さ れ た のか は不 明 で あ る が,近 くに は ワル ワHuarhuaと い う有 名 な岩 塩 の鉱 山 が あ る。 さ らに,こ の谷 の北 の高 原 を越 え る と,南 部 ペ ル ー ア ン デ ス東 斜 面 で は最 大 の 川 で あ るア プ リマ ク川 の 流 域 に 出 る こ とが で き,東 西 の斜 面 を 結 ぶ交 通路 の 中で 重 要 な場 所 を 占めて い る。 この よ うな条 件 が,海 岸 か らは るか に離 れ た 山 間 の 谷 間 に,古 くか ら人 を 定着 させ た ので あ ろ う。
2. カ マ ナ ニマ ヘ ス 川 上 流 域
ハ ラ ンパJarampa カ マ ナ=マ ヘス川 の支 流 の ひ とつ で あ るグ ラ ンデGrande川 の源 頭 に近 い,チ ュキ バ ンバ の 町の 南 約2 kmに あ る。 町 の 西 に 続 く台 地 か ら張 り出 した丘 陵 の先 端 部 で,標 高 は2,929mで あ る。 生 態 環 境 と して は山 地 ス テ ップ に 入 るが,遺 跡 の 周囲 はむ しろ半 乾燥 地 で 灌 木 が ま ば らに生 えて い る にす ぎな い 。 遺 跡 の 広 さは,石 積 みの 壁 な どの遺 構 の あ る所 や土 器 片 の散 布 す る範 囲 か ら,お そ
ら く数km2に お よぶ と思 わ れ る。 丘 の頂 上 部 は非 常 に大 きな 石 を 用 い た 土 留 壁 が め ぐ らされ た30m四 方 ほ どの広 場 にな って い る(写5)。 建 造 物 は町 に面 した 北 側 の 緩 斜 面 に広 が って い る 。 ほ とん ど崩 れ て お り,現 在 は斜 面 を 階段 状 にす るた めの 土 留 壁 と,こ れ と直 交 す る建物 の壁 の礎 石 だ け が み られ る にす ぎな い。 これ らの 建 物 の 間 に,大 石 を使 った 臼状 の もの が少 な くと も20個 あ る。 これ らは比 較 的 限 られ た 範 囲 内 に 散在 して い る 。 そ の中 に は,ひ とつ の石 に い くつ もの 凹 み を持 つ もの も数 例 み られ る(写6)。 遺跡 の周 辺 に は,放 棄 さ れた 階 段 耕地 が 広 が って い る(写7)。 土 器 片 は比 較 的 多 く,赤褐 色 ない し茶 褐 色 の無 文 の もの の他 に,赤 地 に黒 ・白で 細 かい 文 様 を施 し
藤 井 南 部 ペ ル ー ア ンデ ス 西斜 面地 域 の 先 スペ イ ン文 化
た も の が み られ る 。 そ の 他 に,円 形,方 形 の 板 状 土 製 品 が 数 点 あ る(写22‑25)。
チ ュ キ バ ンバ 地 方 は,そ の 名 の と お り後 期 中 間 期(紀 元1000‑1400年)に ア レ キ パ 県 西 部 に 栄 え た チ ュ キ バ ン バ 文 化 の 一 つ の 中 心 地 で あ っ た 。 こ こ が チ ュ キ バ ンバ 文 化 に 属 す る こ と は,採 集 した 土 器 片 の ひ と つ(写22の 左 下)が,こ の 文 化 の も の と報 告 さ れ て い る 土 器 の 文 様[LuMBRERAs l974:212】 と全 く同 じ で あ る こ と か ら も 明 ら か で あ る 。 こ の 遺 跡 は,谷 を 一 望 に す る と い う立 地,規 模 の 大 き さ,頂 上 部 に 広 場 を 持 つ と い う構 造 か ら み て,こ の 地 域 で 最 も 重 要 な 場 所 の ひ と つ で あ った と 思 わ れ る 。 と
く に 数 多 くあ る 石 臼 が,日 常 的 な 用 途 で は な く,例 え ば チ チ ャchichaと い う ト ウ モ ロ コ シ製 の 濁 り 酒 の 製 造 な ど,儀 礼 と 関 連 し た 用 途 に 用 い られ た と 思 わ せ る も の で あ る と こ ろ か ら も,こ こ が 単 な る住 居 蛙 で は な く何 ら か の 宗 教 的 ・行 政 的 セ ン タ ー と し て の 機 能 を 持 っ て い た こ と を 推 定 さ せ る 。 現 在 の 町 は こ こ か ら30mほ ど 下 の,ほ と ん ど 似 た よ う な 丘 陵 先 端 部 に あ る が,町 の す ぐ横 を 小 さ な 川 が 流 れ て い る点 が 異 な っ
て い る 。
ワマ ン タ ンボHuamantambo チ ュ キバ ンバ の 町 の 北 東約1km,コ タ ワ シへ 向 う 道 路 の両 側 の 起 伏 の 多 い斜 面 に あ る(写8)も 標 高 は約3,000mで,こ の あ た りは大
きな石 が多 数 転 が って お り,そ の間 に まば らに灌 木 が生 えて い る。
遺 跡 の範 囲 は は っ き り しな い が,土 器 片 の 散布 地 域 か ら少 な く と も500m四 方 は あ る。 た だ,こ こか らさ らに コ タ ワ シ方 面 へ 数km行 った あ た りに も,土 器 片 が 散 布 して い る部 分 が あ り,も っと広 い もの か も しれ な い。 建 物 の 壁 と思 わ れ る よ うな石 積 み は全 くみ られ な い 。 た だ大 石 の 間 の と こ ろど ころ に,大 小 の石 を 人 工 的 に 積 ん だ よ うな感 じを 与 え る もの が あ る。 また,穴 の 中 に落 込 ん だ よ うな形 の 石 積 み もみ られ る。 土 器 片 は非 常 に ま ば らに散 布 して い るが,完 形 土 器 が割 れ た か の よ うに,一 カ 所 に 固 ま って い る場 合 もあ る 。土 器 片 の 多 くは明褐 色 な い し榿 色 の 無 文 の もの で あ る が, 彩 文 に よ る幾 何 文 を 持 つ もの が少 しあ る。 そ の他 に,黒 曜 石 の 剥 片 が2点,円 形 の土
製 品 が3点 採 集 され て い る(写26,27)。
この遺 跡 は,建 造 物 らしい もの が全 く遺 され て い な い こと,人 工 的 と思 わ れ る小 さ な石 積 みが あ る こ と,土 器 の散 布 にば らつ きが あ り,時 に完 形 土 器 が 破 片 とな って一 カ所 に かた ま って い る こ とな ど の理 由 に よ り,墓 地 で あ った と考 え られ る。 墓 の構 造 はわ か らな いが,お そ ら く地 中 に掘 込 ん だ 墓鑛 の上 に石 を積 ん だ よ うな もの で あ ろ う。
この墓 地 に対 応 す る住 居趾 と して は,前 述 の ハ ラ ンパ が考 え られ るが,直 線 距 離 に し て約3km離 れ て お り,ま た 前述 の よ う にハ ラ ンパ の性 格 が特 殊 な もの で あ った とす れ ば,そ の住 民 で あ った 支配 者 階 級 の墓 地 と して は あ ま りに も貧 弱 で あ る。 あ るい は 93
国立民族学博物館研究報告 5巻1号 現 在 の 町 が あ る所 に かつ て の一 般 人 の 集 落 が あ り,こ の墓地 はそ この住 民 の もの で あ
った とい う こ と も考 え られ る。 時 期 は おそ ら くチ ュキバ ンバ 期 で あ ろ う。
チ ュユ コChullcoチ ュキ バ ンバ か ら コタ ワ シへ の道 を 約30 km行 った,チ ュユ コ と い う丘 陵 の 北 東 部 で,道 路 の左 手300mほ ど奥 にあ る 。 こ こは チ ュキ バ ンバ 谷 を 登 りつ めた 台地 の上 で,標 高 は約4,000mの 亜 高 山湿 潤 灌木 林 地 帯 に入 り,周 辺 に耕 地 は全 くな い 。 前 方 の 低 い丘 陵 越 しに,コ ロ ブ ナGoropuna峯 の雪 を 頂 い た 山 頂 部 が み え る。
遺 跡 は丘 の 麓 に沿 って,長 さ5‑600m,幅30mほ どの範 囲 に 広 が って い る(写9)。
大 部 分 が7m×4mほ どの矩 形 の 独 立 した建 物 で,数 は崩 れ 落 ちた もの も含 め て30 以 上 あ る。 建 物 の壁 は粗 い 割石 を積 ん だ高 さ2.5mほ どの もの で,比 較 的 保 存 の 良 い も のが 多 い 。 大石 で 区画 され た入 口が ひ とつ と(写10),内 部 、奥壁 に小 さ な壁 籠 が2 つ あ る。 大 部 分 の 入 口は北 東,す な わ ち コ ロブ ナ 山 の方 を向 い て い る が,北 西 向 きの も の も若 干 あ る。 これ らの建 物 群 の背 後 の や や高 い部 分 に,石 を 積 ん だ 低 い 円形 の遺 構 が い くつ か み られ る。遺 物 は比 較 的 厚 手 の無 文 の土 器 片 が 多 い が,薄 手 で 彩 文 を 持 つ もの も あ る。 そ の 他 に,打 製 石 器,石 核,ブ レー ド状 剥 片 が 各1点 採 集 さ れて い る (写28‑30)。
この 遺 跡 の 時 期 に 関 して は,土 器 片 の 中 に イ ンカ特 有 の尖 底 壺 の底 部 や皿 と思 わ れ る もの が あ るの で,イ ンカ時 代 と考 え られ る。 しか し性 格 につ い て は よ くわ か らない 。 建 物 の 配 置 ・構 造 か らみて,住 居 趾 群 とは 考 え難 い 。周 辺 に全 く耕地 が な い場 所 で あ るた め,少 な くと も農耕 民 の集 落 で はな い し,か と い って リャ マ,ア ル パ カを 飼 育 し て い た牧 民 の もの とす るに は,建 物 が あ ま りに も立 派す ぎ る。 この場 所 が地 理 的 に東 の オ コ ニ ャ川 流 域 と,西 の カ マ ナ=マ ヘ ス川 流 域 と の接 点 に 当 る とい うこ とか ら,イ
ンカ時 代 の 交 通 路 の 要 所 に設 け られ て いた 宿 駅 の よ うな役 割 りを 持 って い た場 所 で あ ろ うか。 当時 の 物 資 運 搬 が専 ら リャマ に頼 って い た こと を考 え る と,背 後 に家 畜 囲 い と思 わ れ る 円形 遺 構 の あ る こと は,そ の可 能 性 を推 定 させ る ひ とつ の 資 料 で は あ る。
しか し,イ ンカの 宿 駅 と され る遺 構 は,一 般 に大 きな 細長 い建 物 で 内 部 に い くつ かの 部 屋 を持 つ と され て お り,こ の 遺 跡 と は構 成 が異 な って い る 。 い っぽ う,コ ロブ ナ 山の 付 近 に は イ ンカ時 代 に多 くの人 々を集 めた 神 殿 が あ った とい う記 録 が あ り[CIEZA DE LEoN I967:97‑98],ま た,こ の山 の周 辺 の 農 民社 会 で は,コ ロブ ナ は死 者 の魂 の集 ま る所 と して 知 られ て い る3)。以 上 の 点 か ら,こ の 遺 跡 は記 録 に あ る神殿 で は な い に し
3)友 枝 啓 泰 氏 の 御 教示 によ る。
藤 井 南部 ペルーアンデス西斜 面地域 の先 スペイン文化
て も,神 殿 へ の巡 礼 者 の た め の施 設 とい った よ うな,宗 教 的 な性 格 を 持 つ もの で あ っ た か も しれ な い。
3. タ ン ボ 川 流 域
ベ ヤ ・ビ ス タBella Vista タ ン ボ 川 の 支 流 の ひ と つ で あ る エ ス キ ノEsquino川 の 源 頭 近 く,プ キ ナ の 町 の す ぐ南 側 に あ る 。 標 高3,500mの 舌 状 に 張 出 し た 丘 陵 の 頂 上 部 を 占 め る 。 こ の 辺 り は 低 部 山 地 乾 燥 灌 木 林 地 帯 で,遺 跡 の あ る 丘 の 上 は サ ボ テ ン や 小 灌 木 の 生 え た 荒 地 で あ る 。 しか し ま わ り の 谷 の 斜 面 は,全 て 階 段 耕 地 で お お わ れ て い る 。
遺 跡 の 広 さ は 約100m×20mで あ る 。 町 に 近 い た め か ほ と ん ど 破 壊 さ れ て お り, 遺 構 は 何 も 残 っ て い な い(写11)。 わ ず か に い くつ か の 鞍 状 の 石 臼,土 器 片 が 散 在 し て お り,遺 跡 で あ る こ と を 示 し て い る 。 町 人 の 話 で は 墓 地 も あ る と い う こ とで,学 校 に こ の 遺 跡 か ら 出 土 した と い う 完 形 土 器 が,100点 以 上 保 管 さ れ て い る(写31)。 表 面 採 集 した 土 器 片 は,厚 手 の 無 文,赤 地 黒 彩 の 有 文 の も の か らな る(写32)。
こ の 遺 跡 に つ い て は 破 壊 が ひ ど く進 行 し て い る た め,構 造 に 関 し て 詳 し い こ と は 不 明 で あ る 。 石 臼 が あ る こ と か ら住 居 趾 で あ る こ と が 考 え られ る し,町 人 の 話 を 信 じ れ ば 墓 地 も あ っ た と い う こ と に な る 。 し か し,建 造 物 や 墓 の 大 き さ や 形,構 造 に つ い て の 資 料 は な い 。 時 期 は,学 校 に あ る 土 器 の 中 に イ ン カ 式 と チ ュ ラ ホ ンChuraj 6n式 の 両 者 が あ る の で,こ の 両 文 化 期 に わ た る と 考 え られ る 。 プ キ ナ 周 辺 は,現 在 チ ュ ラ ボZと よ ば れ て い る 文 北 が,一一か つ て は.プ キ ナ 文 化.と名 付 け られ て い た.[BERNEDO MALAGA l 958]よ う に,ア レ キ ノ唄 東 部 を 中 心 と し た 後 期 中 間 期 の 文 化 の 中 心 地 で
あ っ た 地 域 で あ る 。 チ ュ ラ ホ ン文 化 の 標 式 遺 跡 で あ る,チ ュ ラ ホ ン あ る い は サ ワ カ Sahuacaの 大 遺 跡 も,プ キ ナ の 南 西 約15kmの 所 に あ る 。 ベ ヤ ・ビ ス タ は そ れ に 比 べ る と 規 模 は は る か に 小 さ い 。 しか し,現 在 プ キ ナ の 町 が 占 あ て い る 場 所 が,か つ て の 集 落 で あ っ た こ とや,周 辺 の 階 段 耕 地 も先 ス ペ イ ン 期 以 来 の も の で あ る こ と が 考 え
られ る の で,こ こ も チ ュ ラ ホ ン に 匹 敵 す る 大 遺 跡 で あ っ た 可 能 性 は 十 分 あ る。
マ ウ カ リ ャ ク タMaucallactaプ キ ナ か ら オ マ テOmateへ の 道 を 約5km行 っ た,カ ピ リ ャCapillaへ の 分 れ 道 の 右 手 に あ る 。 生 態 環 境 は 前 の べ ヤ ・ビ ス タ と 同 じ で,現 在 は サ ボ テ ンや 小 灌 木 に お お わ れ て い る 。 しか し こ ち らは 近 く に 階 段 耕 地 は み られ な い 。 標 高 は3,250 mで あ る 。
遺 跡 は,比 較 的 傾 斜 の 強 い 丘 陵 の 尾 根 の 頂 上 か ら下 の 斜 面 に か け て 広 が って い る 。 広 さ は 約1km×100 mで あ る 。 斜 面 に は 傾 斜 に 応 じて 階 段 状 に 土 留 壁 が 設 け られ,
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国立民族学博物館研究報 告 5巻1号 そ の 間 の 平 坦 部 に粗 い石 積 みの 壁 を 持 つ 方 形 の 部 屋,円 形 ・方 形 の小 構 造 物 が造 られ て い る(写12)。 遺 跡 が 広 い わ りに は表 面 採 集 さ れ た 土器 片 の数 は少 な い 。大 部 分 が褐 色 の 無 文 の 破 片 で あ る が,彩 文(榿 地 黒 色)が2片 あ る ほ か,断 面 が 円形 の把 手 が い
くつ か あ る(写33,34)。
この遺 跡 は,規 模 ・構 造 か らか な り大 き な集 落 で あ った と考 え られ る。 この よ うに, 傾 斜地 に土 留 壁 を 設 けて,階 段 状 に 建物 を造 るの は高 地 に 広 くみ られ る方 法 で あ る。
小 型 の もの は住 居 と思 わ れ る建 物 の 間 に あ り,墓 と も考 え られ る。 しか し崩 れ た もの の 中 に人 骨 片 が な いの で,あ る い は貯 蔵 庫 の よ うな もの か も しれ な い。 時 期 は,写 真 34の 左 上 の 土器 片 が,典 型 的 な イ ン カ文様 の もので あ るた め,イ ンカ期 と思 わ れ るが,
チ ュ ラホ ン式 の もの もあ る ので,そ の 時 期 まで遡 る か も しれ な い 。
4. イ ロ=モ ケ グ ア 川 流 域
トゥミ ラ カTumilacaモ ケ グ ア市 か ら トラ タTorataへ の道 を約15km行 った, トゥ ミラ カ ・モ リノTumilaca Molino部 落 の西 に あ る。 モ ケ グ ア川 の支 流 トゥ ミ ラカ川 右 岸 の,川 面 か らの高 さ20mに 近 い 段丘 上 で,標 高 は約1,900 mで あ る 。 こ の付 近 は 低 部 山地 砂 漠 で,サ ボ テ ンが まば らに生 えて い るだ け の 全 くの荒 地 で あ る が,川 底 の 平 坦 部 お よ び 対岸 の傾 斜 地 の下 部 は,灌漑 に よ る耕 地 とな って い る(写13)。
遺 跡 の広 さ は約300m×150 mで,ゆ るや か な傾 斜 地 に低 い 土 留 壁 で テ ラス を設 け,平 坦部 に部 屋 が 造 られ て い る(写14)。 部 屋 の 壁 はほ とん ど崩 れ て い るが,土 留 壁 は比 較 的 残 って い る。石 積 み は 割石 と河 原 石 が 使 わ れ,石 の大 き さ は大 小 さま ざ ま で あ る 。 部 屋 の 大 きさ は約5m×3mほ ど で,低 い 方 に入 口が あ る。 部 屋 の 内 部 に仕 切 りの よ うな低 い壁 を 持 つ もの,仕 切 られ た 中 の一 方 が石 を敷 詰 め られ 高 くな って い る もの な ど もあ る。 南 東 部 の 浅 い沢 状 の と ころ は墓 地 にな って い る。 一 部 が 盗 掘 され て お り,丸 石 で 囲 ま れ た径4‑50cm,深 さlm弱 の墓 墳 が 数 個 露 出 して い る(写15)。
墓墳 に は お そ ら く平 石 の 蓋 が あ った と思 わ れ る。 土 器 片 はあ ま り散 布 して いな い。 大 部 分 が 茶 褐 色 の無 文 の も ので あ るが,有 文(黄 褐 地 黒 ・白彩)が 少 しみ られ る(写35)。
案 内 人 の少 年 が以 前 墓 地 のあ た りで 拾 った とい う完 形 土 器 は,高 さ5cm,径10cm ほ どの 平 底 外 反 鉢 で,黄 褐 色 地 に黒 線 で 鳥 の 文様 が描 かれ て い る もの で あ る。 土 器 片 の ほ か に は,大 型 の良 く使 い こ まれ た 隅 丸方 形 の皿 状 石 臼,バ タ ン 伽 伽 とよ ばれ る 大 きな 平 石 の石 臼,不 定 形 の 打 製 石 器 な ど が比 較 的 多 くみ られ る。 しか し,バ タ ンの 上 石 と して 使 う半 月 形 の石 杵 は少 な い 。
この 遺 跡 は,立 地,構 造,遺 物 な どか らみ て住 居趾 で あ る こ と は間違 い な い。 遺 跡
藤 井 南 部 ペ ル ー ア ンデ ス 西斜 面 地 域 の先 ス ペ イ ン文 化
の あ る川 の 右 岸 は 現 在 は 全 く乾 燥 し き っ た 荒 地 で あ り,古 い 耕 地 の 痕 跡 も認 め ら れ な い 。 当 時 も現 在 同 様,谷 底 お よ び 対 岸 の 斜 面 が 耕 地 と し て 使 わ れ て い た の で あ ろ う。
時 期 に つ い て は,墓 出 土 の 完 形 土 器 が 有 力 な 資 料 で あ る 。 こ の 土 器 は,器 形,文 様 か らみ て い わ ゆ る 膨 張 テ ィ ア ワ ナ コTiahuanaco Expansivo文 化 に 属 す る も の と思 わ れ る 。 ボ リ ビ ア 高 地 を 中 心 と し て 栄 え て い た テ ィ ア ワ ナ コ 文 化 が,い つ 頃 海 岸 地 方 へ と 広 が り 始 め た か に つ い て は 議 論 が あ る が,現 在 で は ワ リ文 化 の 膨 張 と ほ ぽ 同 期,す な わ ち 中 期 ホ ラ イ ゾ ン の 頃 と す る 説 が 強 い[LANNING l967:127]。
カ マ カCamaca モ ケ グ ア市 の北 東 約15 kmに あ る トラ タの 町 か ら,プ ノPuno へ の道 を 約40km行 った道 路 の 両 側 に 広 が る大 遺跡 で あ る。 標 高 は約3,000‑3,200 mの 範 囲 に お よぶ 。生 態環 境 は低 部 山 地 乾 燥 灌木 林 に入 り,周 囲 は乾燥 した荒 地 で あ る。
遺 跡 は カ マ カ と よば れ る標 高3,500mの 丘 の 南 東 斜 面 に あ る 。傾 斜 のや や ゆ るや か な部 分 に建 造 物 が あ り,そ の 上 と下 に放 棄 さ れ た階 段 耕 地 が 広 が って い る(写16)。
全 体 の広 さ は正 確 に つ か め な いが,少 な くと もtw km四 方 に及 ぶ と思 わ れ る。 建 造 物 の あ る部 分 もlkm2以 上 の 範 囲 を 占 め て い る。 建 物 は,比 較 的 大 き な石 を 目地 土 を使 わず に積 ん だ3m×2mほ ど の部 屋(写17)が い くつ か あ る ほ か に,小 型 の割 石 で造 られ た20m×5mほ ど の大 きな 細 長 い もの が,広 場 を 囲 む よ うな形 で み られ る(写18)。 これ らの建 物 は隅 に階 段 が 設 け られ て お り,内 部 は い くつ もの 部 屋 に 仕 切 られ て い る。 遺 物 はあ ま り多 くない 。 厚 手 の 無 文土 器 と,榿 地,赤 褐 地 に 白 ・黒 ・赤 一一で 細 か い 文 様 が施さ れ た 薄 手 の ものが あ り一ヂ 後 者 は細長 い建 物 付 近 忙 多 い 一(写36)6‑一 この 遺 跡 は,階 段 耕 地 の 大 き さに比 べ 建 物 の数 が 少 な い。 ま た,建 物 の構 成 も通 常 の 農 耕 民 の 集 落 とは思 えな い特殊 な もので あ る とい う特 徴 を 持 って い る。 その あた り に多 い 彩 文 土 器 が,イ ンカ時 代 の もの と思 わ れ る点 か らも,こ こは イ ンカ期 の 行 政 セ ンタ ーで あ った とい う こと が考 え られ る。 い っぽ う,粗 雑 な 石 積 み の建 物 は,こ れ と 同時 期 とい うこ と は考 え に くい。 構 造 が 高地 の牧 民 の住 居 と良 く似 て い る の で,あ る い は,こ の あ た りに交 易 か何 かの 理 由 で 降 りて来 た牧 民 が残 した もの とい う可 能 性 も あ る。 しか し,こ れ だ け大 規 模 な階 段 耕地 が あ る と い う こと は,あ る程 度 の人 口が必 要 で あ った と思 わ れ る。 そ こで 問題 とな るの は,先 ス ペ イ ン期 末 期 に テ ィテ ィカ カ 湖 西 岸 に勢 力 を持 って い た ル パ カLupaqaと い う集 団 が,高 地 で は栽 培 で きな い トウ モ ロ コ シな どの た め の耕 地 を,海 岸 の サ マ と モケ グ ア地 方 に持 って い た とい う記 録 で あ る[DIEzlDE SAN MIGu肌 1964(1567)]。 Murraに よ り垂直 列 島 と名 付 け られ た この よ うな土 地 利 用[MURRA 1972]の 実 体 は, i残念 なが ら多 くの未 解 明の 問 題 が あ 97
国立民族学博物 館研究報告 5巻1号 る。IMuRRA 1975:206]。 そ の た め,記 録 に あ るか らとい って直 ち に この2つ の 谷 の 遺 跡 を ルパ カ と結 び つ け るの は無 理 で あ る。 この 問題 の解 決 の た め に は,湖 岸 地 方
と海 岸 の谷 間 の両 方 で,発 掘 調 査 に よ る詳 しい 資 料 を集 め な けれ ば な らな い。
皿.南 部 ・ペル ー ア ンデ ス西 斜 面地 域 の先 ス ペ イン文 化 の特 徴
以 上 が,今 回 の主 な調 査 地 で あ る南 部 ペル ーア ンデ ス 西斜 面 の 自然 環 境,お よ び9 カ所 の遺 跡 の一 般 調査 の報 告 で あ る。 そ れ ぞれ の 遺 跡 に関 して は,す で に若 干 の考 察 を加 えた 。 こ こで は,こ れ らの 資 料 を 基 に して,こ の 地 域 の 先 ス ペ イ ン文 化 の特 徴, 他 の地 域 との 関 係,現 在 の農 牧 社 会 と の関係 な ど に関 す る考 察 を行 う。
現 在 まで に行 わ れ た,南 部 ペル ー ア ンデ ス西 斜 面 の 先 スペ イ ン文 化 に 関す る調査 ・ 研 究 によれ ば,こ の 地 域 は 中央 ア ンデ ス地 帯 の 中で きわ めて 特 殊 な発 展 を した地 域 で あ る といえ る。 す な わ ち,他 の地 域 で は土 器製 作 が始 ま り,お そ らく定 住 農 耕 社会 に 入 った と思 わ れ る時 期 が,早 い所 で紀 元 前2,000年 紀 の初 め,遅 くと もそ の終 り頃 で あ る の に対 し,こ の 地域 の み が紀 元600年 頃 と非 常 に遅 れ て い る 。 た だ し,最 南 端 の タ クナTacna地 方 に隣 接 す る チ リの ア リカAricaか らは,紀 元 前300年 前 後 の もの と され る古 い土 器 が 知 られ て い る[MosTNY l971:183]。 この 土 器 は さ らに南 の ア タ カ マAtacama地 方 か ら広 が って き た もの で,ペ ル ー で は タ ク ナ以 北 に は み られ な い。 現在 知 られ て い る限 りで は,紀 元600年 以 前 の この地 域 の遺 跡 は,全 て 先土 器 時 代 の狩 猟 採 集民 の もの と され て い る 。 この停 滞 の 原 因 と して は,こ の 地 域 の 大部 分 が 乾 燥 した砂 漠で あ る うえ,地 形 的 に も海岸 に大 きな 平 野 が み られ ず,ま た 内陸 の 川 沿 い の土 地 も両 岸 が峡 谷 状 を な して い る た め,耕 地 と して 利用 で き るの はわ ず か な 谷底 の平 地 にす ぎな い とい う こ とが あ ろ う。 しか し,周 辺 地 域 で土 器 文 化 が成 立 して 以 来 紀 元600年 まで の長 い間,こ の 地 域 は全 くそ の影 響 を 受 けず 孤 立 して いた の で あ ろ う か。 た しか に 海岸 部 に お いて は,山 腹 斜 面 が直 接 海 に落 込 ん で い る チ ャ ラか らカ マナ の間 は,現 在 で も交 通 の難 所 で あ り,か つ て は大 き な 自然 の 障 害 と して 北 との 交 流 の 妨 げ とな って い た の で あ ろ う。 南 の 方 に は そ の よ うな障 害 は な い が,こ の方 面 の 文 化 は海 岸 平 野 とい う 自然 条 件 を 背 景 と して成 立 した もので あ り,そ う した条 件 の な い こ の地 域 に は広 が らな か った ので あ ろ う。 で は東 の高 地 との問 は ど うで あ ろ う か。 この 地 域 で の土 器 文 化 の成 立 は,紀 元 前1,000年 よ りや や 古 い と され て い る。 紀 元 前 後 に な る と,テ ィテ ィカ カ湖 北 岸 にフ.カラPucara,南 岸 に古典 テ ィア ワナ コ とい う,切 石 に よ る神 殿,石 彫,美 しい 多彩 色 土 器 を 作 り出 した宗 教 的性 格 の濃 い文 化 が 成 立 し
藤 井 南 部 ペ ル ー ア ンデ ス西 斜 面 地 域 の 先 スペ イ ン文化
て い た。 この両 者 の いず れ か が,ア ンデ ス西 山 系 を越 えて 西 斜面 に まで 影 響 を与 えた とい う資 料 は知 られ て い な い。 む しろ古 典 テ ィア ワナ コ は北 へ 進 出 して行 った よ うで, 後 に ペル ー中 部高 地 の ア ヤ クチ ョ地 方 を 中心 と した ワ リ文 化 の成 立 と深 い 関 係 を 持 っ
て い る 。 テ ィ ア ワ ナ コの 北 へ の進 出 は,お そ ら く高 地 で は得 られ ない トウモ ロ コ シ, 棉,ト ウガ ラシ な どを 求 めて の結 果 で,テ ィテ ィカ カ湖 岸 か ら高 原 を 北 上 し,ア ヤ ク チ ョ付 近 か ら海 岸 へ 出,当 時 ナス カ文 化 が 栄 え て い た ペ ル ー南 海岸 を 目指 した もの と 思 わ れ る。 こ の こ と は逆 に,テ ィア ワナ コ か らよ り近 い 南 部 ペ ル ー ア ンデ ス西 斜 面 や, ボ リビ アの テ ィテ ィカ カ湖 東 部 の東 斜 面 地 域 で は,そ の 要 求 に応 え る だ け の農 耕 社 会 が 成 立 して い な か った こ とを 示 す とい え る。
で は紀 元600年 以 降 の ワ リ文 化 期 にな って,な ぜ この 地 域 が 農耕 社 会 に変 わ って 行 った の で あ ろ うか 。 そ の 原 因 はや は り この地 域 の地 形 に よ る もの と考 え られ る 。す な わ ち,こ の地 域 の 標 高2,000m以 下 の 部分 は,わ ず か な川 沿 い の 狭 い 土地 以 外 は利 用 で き な い こと はす で に述 べ た。 そ の上 の標 高2,000‑4,000mの 土 地 は,高 原 と台 地 を つ な ぐ部 分 で 一 般 に 傾 斜 が 急 で あ る。 また 耕 地 と して利 用す る に は十 分 な 降 雨 は見 られず,灌 瀧 を ほ ど こ さな け れ ば な らな い。 傾 斜 地 を 階段 状 に整 形 して 耕 地 に した り, 灌 灘水 路 を建 設 した りす る 土 木 技 術 は,ア ヤ クチ ョ地 方 で は 古 くか ら 発 達 して い た [LUMBRERAS 1974:135]。 ワ リ文 化 の広 が りと共 に,こ の土 木 技 術 が各 地 に もた ら
され た の で あ ろ う。Donkinの 調 査 に よ れ ば,ペ ル ーで は南 部 に階 段 耕 地 が比 較 的 多 い[DoNKIN l979:144‑148]。 階 段耕 地 は,基 本 的 に は乾 燥 した傾 斜 地 で最 も有 効 な耕 地 形 態で あ る6‑'南部 ペル ーア ツ デ ス 西斜 面 は ま さ にそ の生 態環 境 にー入る地 域 で あ り,階 段 耕地 と灌漑 とい う2つ の 土 木 技 術 の発 達 に よ り,は じ めて農 耕 社 会 の成 立 が 可 能 に な った と考 え られ る。
最 後 に,遺 跡 と現 在 の農 牧 社 会 と の関 係 につ い て の 問題 にふ れ よ う。 この 地 域 の遺 跡 は,現 在 の 集 落 の 比較 的近 くに あ る もの が 多 い とい うの が,ひ とつ の 特 徴 で あ る 。 筆者 が これ まで 主 と して 調 査 を行 って きた ペル ー北 部 高地 の,と くに後 期 中間 期 の 遺 跡 は,一 般 に山 の 頂 上 や 丘 陵 の 尾根 上 な どの 近 づ き難 い 場 所 に あ る。 お そ ら く1北 部 で は古 くか ら農 耕 社 会 が 形 成 され,異 な った 民 族 集 団 間 の 対 立抗 争 が は げ しか った こ との 表 れ で あ ろ う。 そ れ に対 して南 部で は,中 期 ホ ラ イゾ ンに な って か ら,そ れ まで の い わ ば 無 人 の地 に,外 部 か ら進 ん だ技 術 を持 って 移 住 して きた 人 々 に よ り,農 耕 社 会 が 成 立 した と考 え られ,北 部 の よ うな抗 争 は お きず,集 落 を 耕 地 の近 くに 営 む こ と が で きた た め で あ ろ う。遺 跡 と現 在 の集 落 が近 い とい う こと は,さ らに,先 ス ペ イ ン 期 の農 耕 社 会 が,ス ペ イ ン人 に よ る征 服 以 降 もあ ま り大 き な変 化 を 受 け ず に,現 在 に
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国立民族学博物館研究報告 5巻1号 い た って い る と考 え る こ と もで き よ う。 ペル ー南 部 で は,遺 跡 を 「祖 父 の 家 」casa de abueloと よぶ こ とが あ る4)と い うデ ー タ も,遺 跡 と現 住 民 と のつ なが りが他 の地 域 よ り強 い こ とを示 す もので あ ろ う。 しか しい っぽ うで,ハ ラ ンパ や カ マ カ にみ られ る よ うな放 棄 され た 広 い階 段 耕 地 が あ るの も事 実 で あ る。 放 棄 の 理 由 が,植 民 地 時 代初 期 の 急 激 な 人 口 の減 少 に よ る も のか,ル パ カが 海 岸 地 方 に持 って い た"飛 び地"が, 本 拠 地 か ら切 離 され て しま った た めか,あ る い は も っと別 な 気 候条 件 の変 化 な ど に よ る もの か判 らな い 。 この 問題 を考 え る際 に は,そ れぞ れ の 遺 跡 の 年 代 と属 す る文 化 の 他,灌漑 水 路 の 体 系 な ど も合 せ て考 え て行 く必 要 が あ ろ う。
お わ り に
今 回調 査 した 地 域 は,中 央 ア ンデ ス地 帯 の 他 の 地域 の よ うに華 や か な 古代 文 明 が栄 え た所 で は ない た め,ア ンデ ス考 古 学 研 究者 の 興 味 と関心 を あ ま り惹 きつ け な か6た 。
しか し最 近 にな って,こ の地 域 に 関す る エ ス ノ ヒ ス ト リー の研 究 が 大 幅 に進 展 した こ とは,本 号 のPeaseの 論 文 に も見 られ る とお りで あ る 。 そ の た め,こ れ らの歴 史 資 料 の具 体 的 裏 付 け と して の遺 跡 の調 査 は,今 後 ます ます 要 求 され る よ うに な って くる
と思 わ れ る。
今 回 は民 族 学 調 査 の一 環 と して 先 ス ペ イ ン文 化 の 調査 をす る とい う,筆 者 に と って は初 めて の経 験 で あ った し,調 査 地 域 もな じみ の 薄 い所 と い うこ とか ら,調 査法,調 査 地 の選 定 な どの 点 で,決 して満 足 の い くもの で はな か った。 しか し,中 央 ア ンデ ス 原 住 民 文 化 の 研 究 に は,先 史 学,民 族 学,エ ス ノ ヒス ト リー の3つ の分 野 の 協 力 が 不 可 欠 で あ る と い うこ とを,身 を も って体 験 した こ とは大 きな収 穫 で あ った 。
最 後 に な った が ジ ペ ル ー に お い て調 査 中お 世 話 にな った方 々,と くに調 査 地 に現地 を良 く知 る学 生 の 同 行 を 許 して 頂 い た ア レキパ 大 学 の ゴメ ス教 授 に お礼 を 申 し述 べ る。
また,本 研 究 の 代 表 者 で あ る 増 田教 授 以 下,研 究 分 担者 の方 々に は,調 査 中 の み な ら ず 報 告 を ま とめ る際 に い ろい ろ と助言 を頂 い た。 記 して 感 謝 の意 を表 す る。
文 献
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佐 藤 久
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写 真1 0cona川河口付近
写 真2 遺跡 全 景 〔Coyota A)
写 真3 遺 跡全景(Coyota B)
写 真4 石壁と壁龕(Coyota A〕
lo.1
与真5 頂上平坦部の土留壁(Jarampa)
写 真6 石 臼(Jarampa)
写真7 放棄された階段耕地 (Jarampa)
、
写真8 Huamantambo 付近の景観(遺跡は右端中段にある)
106
写 真9 遺 跡 の 景観(Chullco) 後方にCoropuna山の頂上が一部 み え る。
写 真10 石積みと入口(Chullco)
写 真11遺 跡 の 部 分(Bella Vista) 後方に現在使われている階段耕地がみえる。
写 真12 石壁と壁龕 (Maucallacta)
10s
写真13 遺跡全景 (Tumilaca)I
写 真14 崩れた石壁 (Tumilaca)
写 真15盗掘された墓壙 (Tumilaca)
写 真16 放 棄 さ れ た 階Pと 耕 珀ICama('a ')
110
写 真17 粗 い 石 積 み 畷.断1つ(Camaca)
写 真18 長方 形 の 大 き な 廷 物(Camaca)
写 真19 木 製 品(Pueblo Vijo)
写 真20 土 器 片(Coyota A)
112
写 真21 土器 片(C(CyotaBの 外)
写 真22土 器 片(Jarampa)
写 真23土 器 片(Jarampa)
写 真24 土 器 片(Jarampa)
11.1
写 真25 土器片と土製品 (Jarampa)
写 真26 土器片 (Huamalltambo)
写 真27土 器 片,土 製 品,黒 曜 召 の 剥片(Huamantamb)
写 真28 土 器 片(Chulico) 116
写 真29 土 器 片(Chullco)、
写 真30 .土器片, 石 器,石 核(Chullco)
写 真31 Bella Vista出土とされる土器(Puquinaの小学校蔵)
写 真32 土 器 片 と 石 器(Bella Vista) 118
写 真33 土 器 片(Maucallacta)
写 真34 土 器 片(Maucallacta)
写 真35 土 器 片(Tumilaca)
写 真36 土 器 片,土 製 品(Camaca) 120