紀 伊 国
・ 玉 津 島 の 稚 日 女 尊 と 天 野 祝 が 祀 る 丹 生 都 比 売 神
― 『 紀 伊 続 風 土 記
』 の 検 証 を 手 が か り に し て
―
市 瀬 雅之 は
じめ に
『 万葉 集
』 巻六 に は
、 神 亀 元 年 甲 子 の 冬 十 月 五 日
、 紀 伊 国 に 幸 せ る 時
、 山 部 宿 祢 赤 人
が 作 る歌 一 首 并 せ て 短 歌
やす み し し わ ご 大君 の 常 宮と
仕 へ奉 れ る 雑 賀 野 ゆ そ が ひに 見 ゆ る 沖 つ 島 清 き 渚 に 風 吹 け ば 白 波 騒 き 潮 干 れ ば 玉 藻 刈り つ つ 神 代 よ り 然 そ 貴 き 玉 津 島山
(6
・九 一七
)
安見 知 之 和 期 大 王之
常 宮 等 仕 奉 流 左 日 鹿野 由 背匕 尓 所 見
奥嶋
清 波瀲 尓 風吹 者 白 浪左 和 伎 潮 干 者 玉 藻 苅 管 神 代 従 然曽 尊 吉 玉 津 嶋 夜麻 反 歌 二首
沖つ 島 荒 磯の 玉 藻 潮干 満 ち い 隠り 行 か ば思 ほ え むか も
(6
・九 一八
)
奥嶋
荒 礒之 玉 藻 潮 干 満 伊隠 去 者 所 念 武 香聞
若の 浦 に 潮満 ち 来 れば 潟 を なみ 葦 辺 をさ し て 鶴鳴 き 渡 る( 9・ 九 一九
)
若浦 尓 塩満 来 者 滷 乎 無 美 葦 邊 乎 指天
多 頭鳴 渡 右
、年 月 を 記さ ず
。 た だし
、 玉 津島 に 従 駕す と 偁 ふ。 因 り て今 行 幸の 年 月 を検 し 注 し て載 せ た り。 と
、神 亀 元 年( 七 二 四 の) 作 と し て
、山 部赤 人 の 紀 伊 国 行 幸 歌
( 1
)
が 記 さ れ て い る。 九 一 七番 歌 が
、「 神 代 よ り 然 そ 貴き
玉 津島 山
」 と結 ば れ てい る と ころ に 目 を向 け る と、
『 続 日本 紀
』 十月 十 六 日条 に
、
また 詔 し て曰 は く
、「 山 に 登り 海 を 望む に
、 此間 最 も 好し
。 遠 行を 労
らず し て
、遊 覧 す るに 足 れ り。 故 に 弱浜 の 名 を改 め て
、 明光 浦 と す。
守 戸を 置 き て荒 穢 せ しむ る こ と勿 か る べし
。 春 秋 二時 に
、 官人 を 差し
遣 して
、 玉 津嶋 の 神
、明 光 浦 の霊 を 奠 祭せ し め よ
」と の た まふ
。 と
、 聖 武天 皇 の 勅が
「 玉 津嶋 の 神
」と の 表 現を 残 し た こと が 想 起さ れ る
。 新 日 本 古典 文 学 大系
『 続 日本 紀
』 の脚 注
( 2
)
は
、こ の 神 を、
今 日で は
、 玉津 嶋 神 社の 祭 神 を稚 日 女 尊ほ か 三 柱 とす る が
、こ こ では 漠 然と こ の 土地 の 地 祇を 嶋 の
「神
」 と 浦の
「 霊
」 とよ ん だ のか
。 と 推 測 する
。 玉 津島 神 社 に詳 し い 由緒 が 残 され て お ら ず、 祭 神 に関 わ る 発 言 は
、 平安 時 代 以降 を 待 たね ば な らな い た めで あ る
。 と は いえ
、 今 日の 玉 津 島神 社 に 奉祭 さ れ る四 神 の う ち「 稚 日 女尊
」
「 息 長 足 姫 尊」
「 衣 通姫 尊
」 は、
『 日 本書 紀
』 や『 風 土 記
』等 の 文 献か ら 見 え は じ め
、仁 井 田 好古 等 の 編ん だ
『 紀伊 続 風 土記
』 に 詳 細な 考 察 があ る
。 以 後 の 研 究の 礎 を 成し て い るだ け に
、そ の 検 証が 求 め ら れる
。 本 稿 は、
『 紀伊 続 風 土記
』が 稚 日 女尊 と 丹 生都 比 売 神( 記 載 が 多 様 な た め
、 本 文 は
「 丹 生 都 比 売 神
」 で 統 一 す る
。 引 用 文 は そ れ ぞ れ に 従 い
「
」 で 表 記 す る
) を
、 同 一神 と 捉 える 理 解 に対 し て
、『 日 本 書紀
』 や
『 播磨 国 風 土記
』 逸 文 に は
、 天野 祝 と 丹生 都 比 売神 の 姿 しか 表 さ れて い な い 傾向 に 着 目す る
。 同 一 に 捉 える の で はな く
、 区別 し て 検討 す る こと で 見 出 され る 歴 史と 文 学 を 考 え る
。 一
、 稚日 女 尊 と「 丹 津 比女 神
」
『 紀 伊 続 風 土 記
』 附 録 巻 之 十 七
「 神 社 考 定 之部
下
」
( 3
)
は
、 玉 津島 神 社 の 祭 神を
「 稚 日女 尊
」
「神 功 皇 后」
「 衣 通姫
」 と し
、
右 本 国神 名 帳 に従 四 位 上玉 津 島 大 神と あ る 是な り
。最 上 世よ り 斎 ひ祀 れ る 神一 座
、後 に 合 せ 祀れ る 神 二座
、 すべ て 三 柱の 神 を 玉 津島 明 神と 申 奉 る。 最 上世 よ り 斎ひ 祀 れ る神 は 伊 邪那 岐
・ 伊邪 那 美 命 御児
、 御名 を 稚 日女 尊 と 申し て
、 伊都 郡 天 野 に在 す 丹 津比 女 神 と同 神 に 御坐 す
。 と 記 す。 特 に
「稚 日 女 尊」 と 伊 都郡 天 野 に祀 ら れ た「 丹 津 比女 神
」 を「 同 神
」 と扱 う と ころ に
、 大き な 特 徴が 認 め られ る
。
「 丹 津 比女 神
」は
、『 播 磨 国 風 土 記
』逸 文(
『 釈 日 本 紀
』十 一
()
4
)
が
、
息長 帯 日 売命
、 新 羅国 を 平 けむ と 欲 した ま ひ て下 り 坐 しし 時
、 衆の 神 に禱 り た まひ き
。 その 時
、 国 堅め ま し し大 神 の 子、 尓 保 都比 売 命
、国 造石 坂 比 売命 に つ きて
、 教 へて 曰 り たま は く
「好 く 我 が前 を 治 め奉 ら ば、 我 こ こに 善 き 験を 出 し て、 比 々 良木 の 八 尋桙 根 の 底不 附 国
、越 売 の眉 引 の 国、 玉 匣 賀々 益 国
、苫 枕 有 宝国
、 白 衾新 羅 国 を、 丹 の 浪を 以 ちて 平 伏 け賜 は む
」と の り たま ふ
。 かく 教 へ 賜ひ こ こ に 赤土 を 出 だし
賜ひ き
。そ の 土 を 天の 逆 桙 に 塗り た ま ひ、 神 舟 の艫 と 舳 に建 て た まふ
。
また 御 舟 の裳 と 御 軍の 着 衣 を染 め た まひ ぬ
。 また 海 水 を撹 き 濁 して 渡
り賜 ふ 時
、底 潜 る 魚ま た 高 く飛 ぶ 鳥 ども も 往 き来 せ ず
、前 を 遮 るも の
なし
。 か くて 新 羅 を平 伏 け 已 訖り て 還 上り た ま ひぬ
。 乃 ちそ の 神 を紀
伊国 の 管 川な る 藤 代の 峰 に 鎮め 奉 り き。 と
、「 尓 保都 比 売 命
」を 記 す の が 早い
。息 長 帯 日売 命
( 神 功 皇 后
)が
、新 羅 を 平 定す る た めに
、 筑 紫へ 下 ろ うと す る と、
「 尓 保都 比 売 命」 が 石 坂比 売 命 に 憑い て
、 自身 を 奉 るこ と を 条件 に
、
「善 き 験
」と
「 赤 土」 を 出 す。 息 長 帯 日売 命 が これ を
、 天の 逆 桙 に塗 り
、 船尾 と 船 首に 建 て た。 ま た 御船 の 外 装 に塗 り
、 兵士 た ち の衣 を 染 め等 し て 出発 す る
。海 を 濁 らせ て 渡 った と こ ろ
、船 底 に 潜る 魚 や 船上 高 く 飛ぶ 鳥 た ちは 行 き 来す る こ とな く
、 前を 遮 る も のが な か った と い う。 新 羅 を 無事 平 定 して 帰 還 した こ と によ り
、
「尓 保 都 比売 命
」 が紀 伊 国 の管 川 に ある 藤 代 の峰 に 奉 られ た と 記す
。
『 紀 伊続 風 土 記』 は 引 用の 末 尾 に、
爾 保都 比 売 命は
、 即 天野 社 祝 詞に 丹 生 津 比咩 大 御 神と あ り
。神 名 帳
、
伊 都郡 丹 都 比売 神 社 とあ る 是 なり
。 こ ゝに 国 堅 大 神之 子 と いひ
、 祝詞
に は伊 佐 奈 支・ 伊 佐 奈美 命 御 児と い ふ
。是 も 同 神 にて 国 堅 大神 は
、即
伊 佐奈 支
・ 伊佐 奈 美 尊を い ふ なり
。 と 注 記 して い る
。「 神 名帳
」は
『 延 喜 式』 巻 十〔 神 祇 十 神 名 下
(〕
5
)
に
、「 伊 都 郡 二 座 大 一 座
/ 小 一 座
」の 中 に
、「 丹 生都 比 女 神社 名 神 大
。月
/ 次 新 甞
。」 と あ る こと を 指 す。
「 祝 詞」 は
、
『丹 生 大 明神 告 門
』
( 6
)
に
、
懸 幕モ 恐 キ 皇 大 御神 ヲ
、歳 中 月撰
、月 中 日 撰 定 テ
、銀 金 花 佐 支開 吉 日 時 ヲ 撰 定 テ
、 当 年 二 月 春 御 門
/ 十 一 月 秋 御 門 奉 仕 申
、 高天 原 ニ 神 積 坐、 天 石 倉押 放
、天 石門 忍 開 給イ
、天 乃 八 重 曇 ヲ 伊 豆 乃 道 別 ニ 道 別 給天
、豊 葦 原 乃 美 豆 穂 乃 国 ヲ 美 豆 給 ト シ テ
、 国 郡 波 佐 波 ニ 在 ト モ
、 紀 伊 国 伊 都 郡 庵 太 ノ 村 乃 石 口 ニ 天降 坐 天
、 太 御名 ヲ 申 波 恐 之
、 不 申 恐 キ
、 伊 佐 奈 支
・ 伊 佐 奈美 ノ 命ノ 御 児、 天 ノ 御蔭 日 ノ 御蔭
、丹 生 都比 咩 太 御神 ト
、太 御 名 ト 顕 給天
( 後 略
) を 認 め るこ と が でき る
。
『 紀 伊続 風 土 記』 の 本 文は
、
按 ずる に 稚 日女 尊 の 御名 は
、 大日 靈 尊 に対 せ る 御 名と 聞 え
、又 此 御神 神 代よ り 玉 津島 に 鎮 まり 座 し し神 な れ ば、 稚 浦 の 名は 此 御 神の 御 名よ り 出る な る べし
。 此 御神
、 赤 土を 以 て
、功 を 顕 し 給ひ て 丹 生津 比 女の 御 名は 負 ひ 給へ る な り。 と
、
① 稚日 女 尊 の名 は 大 日靈 尊 に 対す る 名 であ る
。
② 稚日 女 尊 の名 が 稚 浦を 生 ん でい る
。
③ 稚日 女 尊 が、 赤 土 の功 を も って 丹 生 津比 女 と い う名 を 得 た。 の 三 点 を指 摘 す る。
① は とも か く
、② は
、 玉津 島 に お ける 稚 日 女尊 の 祭 神
- 68 -
化 が
、相 当 早 い時 期 に 求め ら れ な けれ ば な らな く な る。
「 は じめ に
」 に掲 げ た
、神 亀 元 年の 聖 武 天皇 の 勅 に
、「 弱 浜
」と 記 さ れる 文 字 表記 と の 関わ り が 説か れ ね ばな る ま い。 も っ とも 詳 し く取 り 上 げて い る のが
③ に つい て で あ る。
神代 巻 一 書曰
、 稚 日女 尊 坐 于斎 服 殿 而織 神 之 御服 也
。 旧事 記 に 曰
、稚
日女 尊 者
、天 照 大 神之 妹 也
。天 野 社 伝曰
、 丹 生大 明 神 丹生 津 姫 尊者
、
天照 皇 大 神 之 御 妹
、 稚日 女 尊 也
。 長承 二 年 十 一 月 太政 官 符 に 高 野
/ 山
蔵 高 野山 王 此 大明 神 云 云、 天 照 大 神之 妹 也
。又 嘉禎 四 年 大塔 修 繕 理願
文に 抑 鎮 守者 丹 生 之靈 祠 也
。 と 記 して
、
「 此等 の 説 其考 へ た る 所以 は 各 異な れ ど も、 丹 生 津比 女 尊 は即 ち 稚 日女 尊 と いひ
、 又 玉津 島 神 は 稚日 女 尊 とい ふ は 古伝 説 と 見ゆ
」 と 結論 づ け てい る
。 し かし
、
『 日本 書 紀
』神 代 巻 上
( 7
)
の 第 七 段一 書 第 一に
、
一 書 に 曰 く
、 是 の 後 に 稚 日 女 尊
、 斎 服 殿 に 坐 し て
、 神 之 御 服 を 織 り た ま ふ
。 素 戔 嗚 尊 見 し て
、 則 ち 斑 駒 を 逆 剥 に し
、 殿 の 内 に 投 入 る
。 稚日 女 尊
、乃 ち 驚 きて 機 よ り堕 ち
、 持た せ る 梭を 以 ち て体 を 傷 めて
、 神退 り ま しき
。 と あ る記 事 は
、稚 日 女 尊を 記 す 早 い例 で は ある が
、玉 津 島 の 神は も と より
、 丹 生 都比 売 神 との 関 わ りを 探 る こ とが で き ない
。
『 先代 旧 事 本紀
』 巻 第二
「 神 祇本 紀
」が
、「 其 ノ 稚 日 女 ノ 尊 者
。天 照 太 神 ノ 之 妹 也
(」
8
)
と
、稚 日 女 尊 を 天照 大 神 の妹 と は して い る が、 玉 津 島の 神 と も丹 生 都 比売 神 と も関 わ り を 認め る こ とが で き ない
。
『日 本 書 紀』 は 神 功皇 后 摂 政 元年 二 月 条に
、 稚 日女 尊 を
、
時に 皇 后
、忍 熊 王 師を 起 し て 待て り と 聞し め し て、 武 内 宿祢 に 命 せて
、 皇子 を 懐 き、 横 に 南海 よ り 出で
、 紀 伊水 門 に 泊ら し め た まふ
。 皇 后の
船は
、 直 に難 波 を 指し た ま ふ
。時 に
、 皇后 の 船
、海 中 に 廻り て 進 むこ
と 能は ず
。 更、 務 古 水門 に 還 りま し て 卜 へた ま ふ
。是 に
、 天照 大 神
、
誨 へま つ り て曰 は く
、「 我 が 荒魂
、 皇 后に 近 く べ から ず
。 当に 御 心を
広 田国 に 居 らま す べ し」 と の たま ふ
。 即ち 山 背 根 子が 女 葉 山媛 を 以ち
て 祭ら し め たま ふ
。 亦、 稚 日 女尊
、 誨 へま つ り て 曰は く
、
「吾
、 活田
長 峡国 に 居 さむ と 欲 ふ」 と の たま ふ
。 因り て 海 上 五十 狭 茅 を以 て 祭ら
し めた ま ふ
。亦
、 事 代主 尊
、 誨へ ま つ り て曰 は く
、「 吾 を 御心 の 長 田
国 に祠 れ
」と のた ま ふ
。則 ち 葉 山媛 が 弟 長媛 を 以 ちて 祭 ら しめ た ま ふ。
亦
、表 筒男
・中 筒 男・ 底筒 男 三 神、 誨へ ま つ りて 曰 は く、
「吾 が 和 魂、
大 津の 渟 中 倉の 長 峡 に居 さ し むべ し
。 便ち 因 り て 往来 船 を 看さ む
」 と
の たま ふ
。 是に
、 神 の教 の 随 に鎮 め 坐 さ しめ た ま ひ、 則 ち 平に 海 を 度
る こと 得 た まふ
。 と
、
「 活田 長 峡 国」
( 生 田神 社
) に鎮 座 し たと 記 す
。 これ に
『 紀伊 続 風 土 記
』 は
、 延 喜 式 摂 津国 八 部 郡生 田 神 社是 也
。○ 按 ず るに 此 稚 日女 尊
、即 丹 生 津 比 咩 尊 な るべ し
。 生田 に も 鎮め 祭 り
、又 筒 川藤 代 に も 鎮め 祭 り 奉る
。 荒 魂 和 魂 の別 な る べし
。住 吉 の 神
、荒 魂 和魂 の 別 を以 て
、 長門 と 摂 津 と 両 所 に 祭り し と 同じ 類 な らん
。 さ れば 書 紀に 住 吉 の 神と 同 じ 様に
、 両 所 に 挙 げて 書 き たる べ き に偶 洩 し 給へ る なり
。 播 磨 風土 記 も
、其 偏 爾 保 都 比 咩と 御 名 を負 ひ へ 給る 方 を 書せ し なれ ば
、書 紀 と 風土 記 と を 合 せ て 此 御神 の 事 備は れ り とい ふ べ し。 書紀 に 稚日 女 尊 の 事を 書 さ る さ ゝ 様
、猶 闕 くる 所 あ るに 似 た り
。其 は いか に と いふ に
、 皇后 初 神 の 御 名 を 知 らま く 欲 し給 ひ て
、中 臣烏 賊 津 を 以て 為 審 神者
、 神名 を 問 ひ 給 ふ に
、天 疎 向 津 媛命 よ り
、初 め て 各 其神 名 を 告給 ひ
、末 にて 其 神 等、 各 居 ま く 欲す る 所 を求 め 給 へる 由 を 書せ り
。稚 日女 尊 は 初 に其 事 な く て 末 に 唯 居ま く 欲 し給 ふ 處 の事 を 書 され た るは
、初 の 段 に 御名 を 告 給 ふ 事 を 洩 し給 へ る なる べ し
。
と
、
「稚 日 女 尊」 を
「 丹生 津 比 咩 尊」 と 同 一神 と 捉 えな が ら
、生 田 へ の鎮 座 と とも に
「 筒川 藤 代
」へ の 奉 祭が あ っ たと 注 記 する
。
「 丹生 津 比 咩尊
」 の 名 の見 え な いこ と は
、本 文 に
「播 磨 国 風土 記 に 書せ し 所 書紀 の 闕 たる を 補 ふ に足 れ り
」と し て いる
。 神 社名 の 異 なる 理 由 は、
「 一 神 にて 両 所 に並 ひ 立 給ひ 式 に 阿波 国 に ては 事 代 主 神社 と い ひ、 摂 津 国に て は 長田 神 社 とい ふ と 同じ 類 な り」 と 理 由づ け て いる
。 こ うし た 考 察の 中 に
、
然れ ば
、 此御 神 初 玉津 島 に 坐し ゝ に
、皇 后 の 御時
、 功 勲を 顕 は し 給ふ によ り 別 に管 川 藤 代峯 に 鎮 め 奉り
。 と の 記述 は
、 唐突 で あ ると い わ ねば な る まい
。
『 紀 伊続 風 土 記』 に は
、玉 津 島 の神 を 第 一に 捉 え て、 他 の 文献 を 読 み解 く 傾 向 がう か が われ る
( 9
)
。
『 紀伊 続 風 土記
』 は この 他 に も、
『 天 野社 伝
』 に「 丹 生 大明 神 丹 生津 姫 尊 者
、天 照 皇 大神 之 妹 也」 と 記 され て い たこ と を 指摘 す る
。高 野 山 が所 蔵 す る 長承 二 年( 一 一 三 三 十) 月 の 太 政官 府 に は「 高 野山 王 此 大明 神 云 々。 天 照 大 神之 妹 也」 とあ り
、嘉 禎 四年
( 一 二 三 八
) の大 塔 修 理願 文 空 には
「抑 鎮 守 者 丹生 之 霊 祠也
。 豈 非、 天 照 大 神之 同 胞 乎其 他
、 神宮 秘 伝 問答
、 并 真野 時 綱 度会 延 佳
」等 と 記 され て い る こと を 引 用し て
、 丹生 都 比 売神 が 天 照皇 大 神 の妹 で あ ると 位 置 づけ ら れ てい た こ とを 確 認 して い る
。こ れ を 頼 りに
、
玉津 島 明 神は
、稚 日 女尊 に て
、天 照大 神 の 御妹 な り とい ふ
。此 等 の説
、 其 考 へ た る所 以 は 各異 な れ ども
、 丹 生津 比 女 尊は 即 稚 日女 尊 と いひ
、 又 玉 津 島 神は 稚 日 女尊 と い ふは 古 伝 説と 見 ゆ
。 と 説 く。 確 か に、 丹 生 都比 売 神 は天 照 大 神の 妹 と 位置 づ け られ て い る。 し か し
、稚 日 女 尊と は 記 され て い ない
。
『 丹生 大 明 神告 門
』 は、 高 天 原か ら 説 き起 こ し
、伊 佐 奈 支・ 伊 佐 奈美 命 の 子 と丹 生 都 比売 神 を 位置 づ け る。
『 古 事記
』 が 記す よ う な、 中 央 神話 の 体 系 がで き あ がっ た 後 の成 立 が 考 えら れ る
。『 天 野 社伝
』 は
、伊 佐 奈 支・
伊 佐 奈 美命 の 子 と位 置 づ ける 延 長 に、 も っ とも 尊 ぶ べ き神 と し て、 天 照 皇 大 神 を 認め て
、 丹生 都 比 売神 を そ の妹 と 位 置 づけ る
。 天野 祝 に とっ て は
、 稚 日 女 尊で は な く、 丹 生 都比 売 神 こそ が 天 照 大神 の 妹 と位 置 づ けら れ る こ と が 求 めら れ る
。 引 用 され た 文 献に 注 目 され る 記 述は
、 天 野祝 と 丹 生 都比 売 神 に関 わ る 記 述 の み であ る
。 玉津 島 の 神と 丹 生 都比 売 神 の接 点 が
、 自明 な も のと の 理 解 か ら
、 議論 を は じめ る こ とは で き ない
。 三
、
『播 磨 国 風土 記
』 逸文 の 位 相 本 稿 は先 に
、 丹生 都 比 売神 の 初 出を
『 播 磨国 風 土 記
』逸 文 に 求め た が
、
『 丹 生 都比 売 神 社史
』
(
10
)
は
、定 説 と みな し て いな い こ とが 留 意 され る
。
( 1
)爾 保 都 比 売命 の 故 事は 奈 良 時代 に 成 立し た『 播磨 国 風 土記
』に は
、 採 録 さ れて い た が、 後 世 何ら か の 事情 で 記 事が 脱 落 し た
( 2
)爾 保 都 比売 命 の 故事 は
『 播磨 国 風 土記
』 に 採 録さ れ て いな い も の の
、 後 世な ぜ か 採録 さ れ てい た も のと し て 取り 扱 わ れ
、『 釈 日 本 紀
』 も そう い う 認識 の も とに 記 事 を採 録 し た と の 二 つの 考 え 方を 示 し てい る
。
( 1
)に つ い ては
、
a 現存 す る
『播 磨 国 風土 記
』 の欠 落 部 分に 逸 文 が 記さ れ て いた 可 能性
があ る
。
b 逸文 を 記 す『 釈 日 本紀
』 の 信憑 性 は 高い
。
c 丹生 都 比 売大 神 に 関わ る 他 の文 献 と 矛盾 す る と ころ の な い。 と の 三 点を 記 す
。出 典 は 明記 さ れ てい な い が、
『 釈 日 本紀
』 が 記す 逸 文 の 考 察 は
、秋 本 吉 郎『 風 土記 の 研 究』
(
11
)
に 詳 しい
。日 本 古 典文 学 大 系本
『 風 土 記
』 頭注 が
、
「現 伝 本 に欠 け た 明石 郡 の 逸文 と 認 め られ る
」 と見 通 し て い る の に基 づ い て、 記 さ れて い る ので は な かい と 思 わ れる
(
12
)
。
- 70 -
こ れに
『 丹 生都 比 売 神社 史
』 は( 2
) を掲 げ
、 逸文 が
『 播磨 国 風 土記
』 の 諸 本に 記 さ れて い な いこ と を 不審 と し てい る
。 その 理 由 を
、
この 故 事 を『 播 磨 国風 土 記
』と し て 再録 し た
『釈 日 本 紀』 は
、 元寇 よ り後 の 時 代に 成 立 して る
。 当時 は
、 元寇 に お ける 勝 利 が、 日 本 の神 々 の霊 威 に よる も の と広 く 考 えら れ て いた 時 代 であ る
。 こう し た 時 代状
況の 中 で
、新 羅 平 定と い う 非常 に タ イム リ ー な話 題 を もた ら す
『播 磨
国風 土 記
』―
『 播 磨国 風 土 記
』の 記 事 であ っ た かど う か
、わ か ら ない
が― の 記 事が こ と さら 注 目 さ れ、 採 用 され た 可 能性 も あ る。 も っ と踏
み込 ん で いう な ら ば、 た と え
『釈 日 本 紀』 が 鎌 倉時 代 後 期の
『 日 本書
紀』 研 究 の最 先 端 であ っ た と して も
、 その 解 釈 には 当 時 の社 会 情 勢が
反映 さ れ てい る 可 能性 は あ り、 載 録 資料 に 全 面的 な 信 頼は 置 け な い。 と 述 べる
。 そ う考 え ざ るを 得 な い理 由 と して
、
『 日本 書 紀
』に は 丹 生都 比 売 神 が見 出 さ れな い こ と。 高 野 山側 の 資 料に
『 播 磨国 風 土 記』 逸 文 に類 似 し た 記事 を 見 ない こ と を指 摘 す る。 そ れ でも
、
『 住吉 大 社 神代 記
』 には
、
「 丹 生咩 神
」 の名 が 記 され て い ると こ ろ に、
「 爾 保都 比 売 命」 の 神 威が 伝 え ら れて い た 可能 性 は 認め る と いう
、 少 し複 雑 な 立場 を 示 して い る
。こ こ で は
、主 に
( 2) の 可 能性 を 検 証し て お く。
『 日本 書 紀
』が 神 功 皇后 摂 政 前 紀に 記 す 仲哀 天 皇 九年 条 は
、様 々 な 神が 鎮 座 の地 を 求 めた こ と を、 次 に 示す よ う に記 し て いる
。
三 月 の 壬 申 の 朔 に
、 皇 后
、 吉 日 を 選 ひ て 斎 宮 に 入 り
、 親 ら 神 主 と 為 りた ま ひ
、則 ち 武 内宿 祢 に 命せ て 琴 撫か し め
、中 臣 烏 賊津 使 王 を喚 し て 審 神 者 と し た ま ふ
。 因 り て 千 繒 高 繒 を 以 ち て 琴 頭 尾 に 置 き
、 請 し て 曰 さ く
、
「 先 日 に
、 天 皇 に 教 へ た ま ひ し は 誰 神 ぞ
。 願 は く は 其 の
名 を 知 ら む
」 と ま を し た ま ふ
。 七 日 七 夜 に 逮 り て
、 乃 ち 答 へ て 曰 は
く、
「 神 風の 伊 勢 国の
、 百 伝 ふ度 逢 県 の、 拆 鈴 五十 鈴 宮 に居 す 神
、名
は撞 賢 木 厳之 御 魂 天疎 向 津 媛 命な り
」 との た ま ふ。 亦 問 ひま う さ く、
「 是の 神 を 除き て 復 神有 す や
」と ま を した ま ふ
。 答へ て 曰 はく
、
「幡
荻 穂に 出 し 吾や
、 尾 田の 吾 田 節の 淡 郡 に居 す 神 有 り」 と の たま ふ
。問
ひ まを さ く
、「 亦 有 すや
」 と まを し た まふ
。 答 へ て曰 は く
、「 天 事代
虚 事代 玉 籤 入彦 厳 之 事代 神 有 り」 と の たま ま ふ
。 問ひ ま を さく
、
「亦
有 すや
」と ま を した ま ふ。 答へ て 曰 はく
、「 有 る こと 無 き こと 知 ら ず」
と のた ま ふ
。是 に
、 審神 者 が 曰さ く
、
「今 し 答 へ たま は ず して
、 更後
に 言ふ こ と 有し ま す や」 と ま をす
。 則 ち 対へ て 曰 はく
、
「 日向 国 の橘
小 門の 水 底 に所 居 し て、 水 葉 も稚 け く 出 で居 す 神
、名 は 表 筒男
・ 中 筒
男
・底 筒 男 の神 有 り
」と の た まふ
。 問 ひま を さ く
、「 亦 有 すや
」 と ま
を す。 答 へ て曰 は く
、「 有 る こと と 無 きこ と と 知 らず
」 と のた ま ひ
、
遂 に且 神 有 りと も 言 はず
。 時 に神 の 語 を得 て
、 教 の随 に 祭 りた ま ふ。 確 か に丹 生 都 比売 神 の 名は 認 め られ な い
。そ の理 由 は
、同 じ『 日 本 書 紀』 の 神 功 皇后 条 に
、次 の 記 事が 存 在 する こ と が留 意 さ れ る。
冬 十月 の 己 亥の 朔 に して 辛 丑 に、 和 珥 津よ り 発 ち たま ふ
。 時に
、 飛廉 風 を起 し
、 陽侯 浪 を 挙げ
、 海 中の 大 魚 悉 に浮 び て 船を 扶 く
。則 ち 大 風 順 に吹 き
、帆 舶 波 に 随ひ
、㯭 楫 を労 か ず して
、便 ち新 羅 に 到る
。時 に、 船 に随 へ る 潮浪
、 遠 く国 の 中 に逮 る
。 即ち 知 る
、 天神 地 祇 の悉 に 助け た まへ る か とい ふ こ とを
。 右 に
「海 中 の 大魚 悉 に 浮び て 船 を扶 く
」 とあ る
。 前 掲『 播 磨 国風 土 記
』 逸 文 が 記す
「 ま た海 水 を 撹き 濁 し て渡 り 賜 ふ時
、 底 潜 る魚 ま た 高く 飛 ぶ 鳥 ど も も 往き 来 せ ず、 前 舳 を舳 遮 る るも の な し」 と
、 同 時に 記 す こと の で き な い 内 容を 備 え てい る
。
『日 本 書 紀』 は
、
「天 神 地 祇 の悉 く 助 けた ま へ る か と い ふこ と を
」と 記 し てい る が
、『 古 事 記』 は
、 神 託の 主 を
、
爾 くし て
、 驚き 懼 ぢ て、 殯 宮 に坐 せ て
、更 に 国 の 大ぬ さ を 取り て
、種
々 に 生 剥
・ 逆 剥
・ あ 離
・ 溝 埋
・ 屎 戸
・ 上 通 下 通 婚
・ 馬 婚
・ 牛 婚
・ 鶏
婚・ の 罪の 類 を 求め て
、国 の 大祓 を 為 て、 亦
、建 内 宿 禰、 さ庭 に 居 て、
神 の 命 を 請 ひ き
。 是 に
、 教 へ 覚 す 状
、 具 さ に 先 の 日 の 如 く し て
、
「 凡 そ
、 此 の 国 は
、 汝 命 の 御 腹 に 坐 す 御 子 の 知 ら さ む 国 ぞ
。
」 と を
しへ さ と しき
。 爾 くし て
、 建 内宿 禰 が 白さ く
、
「恐 し
、 我が 大 神
、其
の神 の 腹 に坐 す 御 子は
、 何 れ の子 か
」 とま を す に、 答 へ て詔 ひ し く、
「男 子 ぞ
」と の り たま ひ き
。 爾く し て
、具 さ に 請は く
、
「今 如 此 言教
ふる 大 神 は、 其 の 御名 を 知 ら むと 欲 ふ
」と こ ふ に、 即 ち 答へ て 詔 ひし
く、
「 是 は、 天 照 大神 の 御 心 ぞ。 亦
、 底筒 男
・ 中筒 男
・ 上筒 男 の 三柱
の大 神 ぞ
。 此 の 時 に
、 其 の 三 柱 の 大 神 の 御 名 は
、 顕 れ き
。 今 寔 に 其 の国 を
求め む と 思は ば
、 天神
・ 地 祇 と、 亦
、 山の 神 と 河・ 海 の 諸の 神 と に、
悉く 幣 帛 を奉 り
、 我が 御 魂 を 船の 上 に 坐せ て
、 真木 の 灰 を瓠 に 納 れ、
亦、 箸 と ひ らで と を 多た 作 り て、 皆々 大 き 海に 散 し 浮け て
、度 る べし
」
とり た ま ひき
。 と
、 住吉 三 神 であ る と 記し て い る。 そ の 加護 を 得 て
、船 が 海 を渡 る 様 は、
故、 備 さ に 教へ 覚 し しが 如 く
、軍 を整 へ 船 を双 べ て
、度 り幸 し し 時に
、 海原 の 魚
、大 き 小 きを 問 は ず
、悉 く 御 船を 負 ひ て渡 り き
。爾 く し て、 順風
、 大 きに 起 り
、御 船
、 浪に 従 ひ き。 故
、 其の 御 船 の波 瀾
、 新羅 之 国に 押 し 騰り て
、 既に 半 国 に到 り き
。 と
、
『日 本 書 紀』 に 類 似す る
。
『日 本 書 紀』 が 同 年十 二 月 条に 引 用 する 異 伝 に は、
一に 云 は く、 足 仲 彦天 皇
、 筑紫 の 橿 日宮 に 居 しま す
。 是に 神 有 して
、 沙麼 県 主 が祖 内 避 高国 避 高 松 屋種 に 託 りて
、天 皇に 誨 へ て曰 は く
、「 御
孫尊
、若 し 宝国 を 得 まく 欲 さ ば、 将に 現 に 授け ま つ らむ
」と の た まふ
。
便ち 復 曰 はく
、
「 琴将 ち 来 て
、皇 后 に 進れ
」 と のた ま ふ
。則 ち 神 言に
随ひ て
、 皇后
、 琴 撫き た ま ふ
。是 に 神
、皇 后 に 託り て 誨 へて 曰 は く、
「今 し 御 孫尊 の 所 望し た ま ふ 国は
、 譬 へば 鹿 の 角如 す 実 無し 国 な り。
其れ
、 今 し御 孫 尊 の所 御 へ る 船と
、 穴 戸直 践 立 が貢 れ る 水田
、 名 は大
田 とを 幣 と して
、 能 く我 を 祭 らば
、 美 女の
如 す 金・ 銀 多 なる 眼 炎 く
国 を以 ち て
、御 孫 尊 に授 け む
」と の た まふ
。 時 に 天皇
、 神 に対 へ て曰
は く、
「其 れ
、神 と雖 も 何 か謾 語 き たま は む
。何 処に か 将 に国 有 ら む。
且
、 朕 が 乗 れ る 船 を 既 に 神 に 奉 り て
、 朕
、 曷 の 船 に か 乗 ら む
。 然 も
未 だ誰 神 と いふ こ と を知 ら ず
。願 は く は、 其 の 名 を知 ら む
」と の たま
ふ
。時 に神
、其 の 名を 称 り て 曰は く
、「 表筒 雄・ 中 筒 雄・ 底筒 雄 な り」
と のた ま ふ
、如 是 三 神の 名 を 称り
、 且 重ね て 曰 は く、
「 吾 が名 は
、 向 匱 男聞 襲 大 歴五 御 魂 速狭 騰 尊 なり
」 と のた ま ふ
。時 に 天 皇
、皇 后 に 謂 り て曰 は く
、「 聞 き 悪き 事 言 ひ坐 す 婦 人か も
。 何ぞ 速 狭 騰 と言 ふ
」 と の たま ふ
。 是に 神
、 天皇 に 謂 りて 曰 は く、
「 汝 王、 如 是 信 けた ま は ず は
、必 ず 其 の国 を 得 たま は じ
。唯
、 今 し皇 后 の 懐 姙ま せ る 子、 蓋 し 獲 た まふ こ と 有ら む か
」と の た まふ
。 是 の夜 に
、 天皇
、 忽 に 病発 り て 崩 り まし ぬ
。 然し て 後 に、 皇 后
、神 の 教 の随 に 祭 りた ま ふ
。 則ち 皇 后
、 男 の束 装 し て新 羅 を 征ち た ま ふ。 時 に
、神 導 き たま ふ
。 是 に由 り て
、 船 に随 ふ 浪
、遠 く 新 羅の 国 中 に及 ち ぬ
。是 に 新 羅王 宇 流 助 富利 智 干
、 参 迎へ
、跪 きて 王 船 を取 へ
、即 ち叩 頭 み て曰 さ く、
「 臣
、今 よ り 以 後
、 日 本国 に 居 しま す 神 の御 子 に
、内 官 家 と為 り て
、絶 ゆ る こ と無 く 朝 貢 ら む」 と ま をす と い ふ。 の 中 に
、「 其 の 名を 称 り て曰 は く
、『 表 筒 雄・ 中 筒 雄
・底 筒 雄 なり
』 と の た ま ふ
」と あ る
。続 い て 記さ れ る 本文 は
、
是 に
、 軍 に 従 ひ し 神
、 表 筒 男
・ 中 筒 男
・ 底 筒 男 三 神
、 皇 后 に 誨 へ て 曰は く
、
「我 が 荒 魂は
、 穴 門の 山 田 邑に 祭 ら し めよ
」 と のた ま ふ
。 時 に、 穴門 直 が 祖践 立・ 津 守連 の 祖 田裳 見 宿 祢、 皇后 に 啓 して 曰 さ く、
「 神の 居 し まさ ま く 欲り た ま ふ地 を
、 必ず 定 め 奉る べ し
」 とま を す。 則 ち践 立 を 以ち て
、 荒魂 を 祭 る神 主 と した ま ふ
。仍 り て 祠 を穴 門 の 山 田 邑に 立 つ
。
- 72 -
と
、 住吉 三 神 の功 績 が 認め ら れ て いる
。
『 播磨 国 風 土記
』 逸 文が 記 す
「底 潜 る 魚ま た 高 く飛 ぶ 鳥 ども も 往 き来 せ ず
、 前舳 を 舳 遮る る も のな し
」 との 説 話 は、 こ れ と内 容 的 に相 容 れ な いの で
、
『日 本 書 紀』 に 取 り入 れ ら れな か っ た。
『 播 磨国 風 土 記』 逸 文 が「 乃 ち そ の神 を 紀 伊国 の 管 川な る 藤 代の 峰 に 鎮め 奉 り き」 と 記 す内 容 も
、書 き 留 め るこ と が でき な か った と 考 えら れ る
。
『 日本 書 紀
』は 丹 生 都比 売 神 こそ 記 さ ない が
、 神功 皇 后 摂 生元 年 二 月条 に
、
忍熊 王
、 復軍 を 引 きて 退 き
、 菟道 に 到 りて 軍 す
。皇 后
、 南紀 伊 国 に詣 り ま し
、 太子 に 日 高に 会 ひ たま ひ
、 以ち て 群 臣と 議 及 らす
。 遂 に忍 熊 王 を 攻 め む と欲 し
、 更 に 小竹 宮 に 遷 り ます
。 小 竹
、 此 に は 之 努 と 云 ふ
。 是 の 時 に 適り て
、 昼の 暗 き こと 夜 の 如く し て
、已 に 多 の日 を 経 たり
。 時 人 の 曰 く、
「 常 夜行 く な り
」と い ふ
。皇 后
、 紀直 が 祖 豊耳 に 問 ひて 曰 は く
、
「是 の 怪 は何 の 由 ぞ」 と の たま ふ
。 時に
、 一 老 父有 り て 曰さ く
、
「 伝 へ聞 か く
、是 の 如 き怪 は
、 阿豆 那 比 の罪 と 謂 ふと い へ り」 と ま を す
。 問ひ た ま はく
、
「 何の 謂 ぞ
」と と ひ たま ふ
。 対へ て 曰 さく
、
「 二 社 の 祝者 を
、 共に 合 せ 葬れ る か
」と ま う す。 因 り て、 巷 里 に推 問 は し め た まふ に
、 一人 有 り て曰 さ く
、「 小 竹 の祝 と 天 野の 祝 と
、共 善 友 た り し に、 小 竹 の 祝、 病に 逢 ひ て死 り ぬ
。天 野の 祝 血 泣ち て 曰 はく
、
『 吾 は も
、生 け り しと き に 交友 た り き。 何 ぞ 死り て 穴 を同 じ く する こ と 無 け む や』 と い ひて
、 則 ち 屍の 側 に 伏し て
、 自ら 死 り ぬ。 仍 り て合 葬 り つ
。 蓋し 是 か
」と ま を す。 乃 ち 墓を 開 き て視 れ ば 実な り
。 故、 更 棺 櫬 を 改 めて
、 各 処を 異 に し て埋 む
。 則ち 日 の 暉炳
き て、 日 夜 別有 り
。 と
、 天野 祝 の 存在 を 記 して い る
。そ の 背 後に は
、 丹生 都 比 売神 の 存 在が 想 起 さ れよ う
。
『 住 吉大 社 神 代記
』 に 目を 向 け てみ る と
、「 凡 そ 大 神の 宮
、 九箇 所 に 所 在 り
」 と記 し て
、そ の ひ とつ に
「 紀伊 国 伊 都郡
丹 生 川上 天 手 力男 意 気 続 々 流 住 吉大 神
」 の存 在 を 記し て い る。 そ の 後の 条 に
「 部類 神
」 とし て
「 紀 伊 国 名 草郡
丹 生咩 神
」を 記 す
(
13
)
。住 吉 大 社 は
、住 吉 の 海 か ら 紀ノ 川 を 遡 上 し なが ら
「 伊都 郡
」 まで 信 仰 を広 め 行 く中 で
、 丹 生都 比 売 神の 信 仰 を
「 名 草 郡」 ま で 認め る 姿 勢を 見 せ てい る
。
「部 類 神
」 と位 置 づ けら れ て い る 点 に おい て
、 穏や か な 関係 が 結 ばれ て い た様 子 が う かが わ れ る。 丹 生 都比 売 神 が「 名 草 郡」 ま で 信仰 さ れ てい た こ と に留 意 す ると
、 玉 津 島 と の 距離 が 近 いの で
、 或い は 玉 津島 神 と の関 わ り ま でを 考 え てみ た く な る か も しれ な い
。し か し
、丹 生 都 比売 神 は 祭神 と し て 認め ら れ てい な い
。 あ く ま でも 稚 日 女尊 を 奉 祭し て い ると こ ろ に、 直 接 結 びつ け て 考え る こ と の 難 し さが 横 た わっ て い る。 個 別 に検 討 す べき で あ ろ う。 高 野 山側 の 資 料に 神 功 皇后 の 新 羅平 定 の 記事 が 見 い ださ れ な いと の 指 摘 に つ い ては
、 次 に掲 げ る
『今 昔 物 語集
』 巻 十一 第
「 弘 法大 師 始 建高 野 山 語 第 二 十 五」
(
14
)
に 着 目し て お く
。
今 昔、 弘法 大 師、 真言 教 諸 ノ所 ニ 弘 メ置 給 テ
、年 漸ク 老 ニ 臨給 フ 程 ニ、 数 ノ弟 子 ニ
、皆
、 所 々ノ 寺 々 ヲ譲 リ 給 テ後
、
「 我 ガ唐 ニ シ テ擲 ゲ シ所
ノ 三鈷 落 タ ラム 所 ヲ 尋ム
」 ト 思テ
、 弘 仁七 年 ト 云 フ年 ノ 六 月ニ
、 王城
ヲ 出テ 尋 ヌ ルニ
、 大 和国 宇 智 ノ郡 ニ 至 テ一 人 ノ 猟 ノ人 ニ 会 ヌ。 其 形、
面 赤ク シ テ 長八 尺 許 也。 青 キ 色ノ 小 袖 ヲ着 セ リ
。 骨高 ク 筋 太シ
。 弓箭
ヲ 以テ 身 帯 セリ
。 大 小二 ノ 黒 キ犬 ヲ 具 セリ
。 即 チ
、此 人 大 師ヲ 見 テ、
過 ギ通 ル ニ 云ク
、「 何 ゾノ 聖 人 ノ行 キ 給 フゾ
」ト
。大 師 ノ 宣 ハク
、「 我
レ
、唐 ニ シ テ三 鈷 ヲ 擲テ
、
『 禅定 ノ 霊 穴ニ 落 ヨ
』 ト誓 ヒ キ
。今
、 其所
ヲ 求メ 行 ク 也」 ト
。 猟者 ノ 云 ク、
「 我 レハ 是
、 南 山ノ 犬 飼 也。 我 レ其
所 ヲ知 レ リ
。速 ニ 可 教奉 シ
」 ト云 テ
、 犬ヲ 放 テ 令 走ル 間
、 犬失 ヌ
。
大 師、 其 ヨ リ 紀伊 ノ 国 ノ堺 大 河 ノ辺 ニ 宿 シヌ
。此 ニ一 人 ノ 山人 ニ 会 ヌ。
大師 此 事 ヲ問 給 フ ニ、
「 此 ヨリ 南 ニ 平原 ノ 沢 有リ
。 是 其所 也
」
。明 ル
朝ニ
、山 人 大師 ニ 相 具シ テ 行 ク間
、密 ニ 語 テ云 ク
、「 我 レ此 山 ノ 王也
。
速ニ 此 ノ 領地 ヲ 可 奉シ
」 ト
。山 ノ 中 ニ百 町 計 入 ヌ。 山 ノ 中ハ 直 シ ク鉢
ヲ臥 タ ル 如ク ニ テ
、廻 ニ 峰 八立 テ 登 レリ
。 檜 ノ云 ム 方 無ク 大 ナ ル、 竹
ノ様 ニ テ 生並 タ リ
。其 中 ニ 一ノ 檜 ノ 中ニ 大 ナ ル竹 胯 有 リ。 此 ノ 三鈷 被
打立 タ リ
。是 ヲ 見 ルニ
、 喜 ビ悲 ブ 事 限無 シ
。
「是 禅 定 ノ霊 崛 也
」ト 知
ヌ。
「 此 ノ山 人 ハ は誰 人 ゾ
」ト 問 給 ヘ バ、
「 丹 生ノ 明 神 トナ ム 申 ス」
。
今ノ 天 野 ノ宮
、 是 也。
「 犬 飼ヲ バ 高 野ノ 明 神 トナ ム 申 ス」 ト 云 テ、 失
ヌ。
大師 返 給 テ、 諸 ノ 職皆 辞 シ テ、 御 弟 子ニ 所 々 ヲ付 ク
。 東 寺ヲ バ 実 恵僧 都ニ 付 ク
。神 護 寺 ヲバ 真 済 僧正 ニ 付 ク。 真 言 院ヲ バ 真 雅僧 正 ニ 付。 高 雄ヲ 棄 テ 南山 ニ 移 リ入 給 ヌ
。堂 塔 房 舎ヲ 其 員 造ル
。 其 中ニ
、 高 サ十 六 丈ノ 大 塔 ヲ造 テ
、 丈六 ノ 五 仏ヲ 安 置 シテ
、 御 願ト シ テ 名ヅ ケ ツ
、金 剛 峰寺 ト ス
。
( 以 下 略
) 弘 法大 師 が 高野 山 に 金剛 峯 寺 を建 立 す る起 源 を 語る も の だが
、 そ の場 面 は 山 を舞 台 に して い る
。「 丹 生 ノ 明神
」 が
「山 人
」 とし て 現 れて い る こと が 重 視さ れ よ う。 天 野祝 が 奉 祭す る 丹 生都 比 売 神に は
、
『播 磨 国 風土 記
』 逸文 や
『 日本 書 紀
』 に見 い だ され る
、 神功 皇 后 の新 羅 征 討に 関 わ っ た、 海 洋 系説 話 と でも 仮 称 すべ き 話 が形 成 さ れて い た と考 え ら れる
。
『 住吉 大 社 神代 記
』 の記 述 は
、 紀ノ 川 を 遡上 す る 点で
、 海 と川 を 結 んで い る
。こ れ に 対し て
、 高野 山 に 金 剛峯 寺 が 建立 さ れ てゆ く と
、『 今 昔 物語 集
』 にみ え る よう な 高 野山 に 関 わ る山 岳 系 とで も 仮 称す べ き 説話 の 形 成が 求 め られ る
。 高野 山 の 開祖 に は
、 神功 皇 后 をめ ぐ る 海洋 系 説 話は 必 要 とさ れ な い。 丹 生 都比 売 神 は高 野 山 と 結び つ き を深 め て いく と こ ろに
、海 洋 系の 説 話 から 山 岳 系の 説 話 へと
、 話 題 の転 換 が 進め ら れ てい く 段 階を 認 め るの が
、 穏当 な 理 解と 解 す る。
『 播 磨国 風 土 記』 逸 文 は、 逸 文 であ る が 故に 議 論 の 余地 が な いわ け で は な い が
、『 延 喜 式』 を 開 くと
、 播 磨国 は 主 計式 に
「 赤 土五 斛 一 斗」 の 貢 上 が 記 さ れ て い る
。
「 赤 土
( 丹 生
)
」 の 流 通 と と も に
、 丹 生 都 比 売 神 を 受容 す る 播 磨国 側 に おい て
、 神功 皇 后 の新 羅 征 討と 関 わ る 説話 形 成 がな さ れ た と 見 通 され る
。
『釈 日 本 紀』 が
『 播磨 国 風 土記
』 と 明 記す る 内 容を 作 文 し た と ま で考 え る には
、 具 体的 な 論 証が 必 要 とな ろ う
。 天 野 祝が 伝 承 する 説 話 は、 海 洋 系説 話 と 山岳 系 説 話 の形 成 を
、段 階 的 に 捉 え て いく 必 要 が認 め ら れる
。 四
、 玉津 島 神 社の 神 事 こ こ まで は
、 玉津 島 の 神の 考 察 とし な が ら も、 丹 生 都比 売 神 の在 り 方 を 考 察 す るこ と に 終始 す る 結果 と な った
。 し かし
、
『 紀 伊続 風 土 記』 が 記 す 以 下 の 箇所 は
、 少し 様 子 が異 な る こと に 注 意し て お く
。 既 に 玉 津 島天 野 両 所に 并 び 立給 へ ど も、 元一 神 な るを 以 て 其間 十 余 里 行 程 を 隔 つれ ど も
、毎 年九 月 十 六 日、 丹 生 明神 の 神 輿を 玉 津 島に 還 幸 な し 奉 る を天 野 の 祭礼 と す
。玉 津島 に 輿 窟 とて あ る は、 丹 生の 神 輿 渡 御 の 處 な るを 以 て 呼来 れ り
。天 野に て 神 輿を 玉 津島 の 岩 屋 に渡 御 な し 奉 る を 濱 降り と い ふ。 輿窟 の 事 を 公任 卿 家 集に も 書 され
、 又そ の 家 集 に 神 輿 毎 年渡 御 の 事あ り し なと 書 さ れた る を視 れ ば
、其 事 いと 古 よ り 行 は れ し 事 知 ら れ て
、 応 永 の 頃 ま でも 怠 な か り し に
、
( 注 略
) 永 禄 年 間 神 輿 渡 御の 時 風 波俄 に 発 りて
、波 濤 窟 に打 込 御輿 波 底 に 漂没 せ り 夫 よ り 神 幸 は廃 絶 と いふ
。然 れ ど も
、今 も 猶
、祭 礼 の時
、 神 輿を 玉 津 島 の 方 に 向 けて 還 幸 の形 を な すを 例 と せり
。 と
、
「 丹生 明 神
」が 玉 津 島神 社 に
「還 幸
」 する こ と が 天野 の 祭 礼に な っ て い た こ とを 伝 え て いる
。 そ れが 応 永
( 一 三 九 四
~ 一 四 一 八
) の 頃 に は 確 認 す る こ と がで き る とす る
。永 禄( 一 五 五 八
~ 一 五 六 九 年) 間 に一 時 途 絶え た が
、
- 74 -
祭 礼 に名 残 の ある こ と を伝 え て い る。
「 神 輿渡 御 の 事」 は
、 神 輿 渡御 の 事
、古 よ り行 は れ しに
、 後 何れ の 時 にか 有 け ん日
、 前宮 の 人 母 と天 野 の 惣神 主 と 座席 の 争 い あり て
、 多年 神 幸 の事 な か りし に
、 文 保 二年 双 方 和議 を な して
、 本の 如 く 神輿 渡 御 の祭 礼 を 執 行ひ し
。和 予 状 今猶 高 野 山の 宝 庫 に蔵 む 後
、応 永六 年 神 輿渡 御 の 事を 書 せ り文 書 是 又 高野 山 に あり
。 と
、 日前 宮 の 人母 と 天 野の 惣 神 主と の 座 席の 争 い によ っ て 中断 さ れ たが
、 文 保 二年
( 一 三 一 八
)の 和議 に よ って 再 開 され た こ とが 注 記 さ れて い
(る 15
)。
『 続 紀伊 風 土 記』 は
、 この こ と を、 紀 国 造と 天 野 祝部 と は 共に 同 く 大 名草 彦 の 子孫 に し て、 玉津 島 神 は国 造 の 斎き 祀 る 所、 丹 生津 神 社 は天 野 祝 の斎 祀 る 所、 神 輿 還幸 の 事 も日 前 宮 の 神 職 と 天 野 の 神 職 と 共 に 同 く 事 を 執 行 ひ し 事 皆 由 あ る 事 と い ふ べ く 以 上 第 一 坐 の 神 を 諭 す と
、
「紀 国 造 と天 野 祝 部」 が と もに 大 名 草彦 の 子 孫と し て 行っ て き た神 事 と 位 置づ け て いる
。『 丹 生 祝 氏 本 系 帳』
(
16
)
は
、天 野 祝 に相 当 す る 丹 生 氏 の 系 譜を
、
始祖 は 天 魂命
、 次に 高 御 魂命 大 伴 氏 の 祖
、 次 に血 速 魂 命中 臣 氏 の 祖
、次 に安 魂 命 門 部 連 等 祖
、次 に 神 魂命 紀 伊 氏 の 祖
、 次 に最 兄 に 坐す 宇 遅 比古 命 の 別 の 豊 耳 命
、 国 主 の 神 の 女 児 阿 牟 田 刀 自 を 娶 り て 生 め る 児 小 牟 久 君 が 児 等
、 紀伊 国 伊 都 郡 に 侍 へる 丹 生 真 人 の大 丹 生 直 丹 生 祝・ 丹 生 相見
・ 神 奴等 の 三 姓を 始 め
、丹 生 都 比売 の 大 御神
・ 高 野大 御 神
、及 び 百余 の 大 御神 達 の 神奴 と 仕 へ奉 ら し め了 へ ぬ
。
( 以 下 略
) と 記 して い る
。
「 宇 遅 比古 命
」に 注意 し て みる と
、『 古 事記
』の 孝 元天 皇 条 には
、「 又
、 木 国 造が 祖
、宇 豆 比 古 が妹
、山 下 影日 売 を 娶り て
、生 み し 子 は、 建 内 宿禰
」 と あ る。
『 日 本書 紀
』 の景 行 天 皇三 年 条 には
、
三 年の 春 二 月の 庚 寅 の朔 に
、 紀伊 国 に 幸し て
、 群 の神 祇 を 祭祀 ら むと ト へた め ふ に、 吉か ら ず。 乃ち 車 駕 止み て
、屋 主 忍男 武 雄 心命 を 遣 し、 一 に 云 は く
、 武 猪 心 と い ふ
。 祭 らし め た ま ふ
。 爰 に屋 主 忍 男 武 雄 心命
、 詣 りて 阿 備 柏原 に 居 て、 神 祇 を祭 祀 る
。仍 り て 住 るこ と 九 年、 則 ち 紀 直 が遠 祖 菟 道彦 が 女 影媛 を 娶 り、 武 内 宿祢 を 生 む
。 と 紀 氏 の姿 を 見 出す こ と がで き る
。た だ し
、丹 生 氏 へ の言 及 は 認め ら れ な い
。 両 氏の 系 譜 の重 な る とこ ろ に は、 接 点 を見 出 す こ とが で き るの で あ ろ う が
、 それ を
『 古事 記
』
『日 本 書 紀』 が 編 まれ た 八 世 紀ま で 遡 及さ せ る こ と に は 慎重 で あ りた い
(
17
)
。 前 掲 の
『 今 昔 物 語 集
』 の 説 話 に は
、 弘 仁 七 年
( 八 一 六
) の で き ご と と し て
、 弘 法大 師 の 高野 山 の 開祖 が 記 され て い た。 こ こ に 丹生 都 姫 神社 は
、 海 洋 系 説 話の 担 い 手か ら
、 山岳 系 説 話の 担 い 手 へと 転 換 して ゆ く 可能 性 を 見 出 す こ とが で き る。 高 野 山金 剛 峯 寺の 存 在 を重 視 す る 限り
、 こ うし た 説 話 の 展 開 が再 び 海 洋系 説 話 に戻 さ れ るこ と を 想 定し 難 い
。
「 九 月十 六 日
、丹 生 明 神の 神 輿 を玉 津 島 に還 幸 な し 奉る を 天 野の 祭 礼 と す
。
」 との 祭 祀 は、 こ れ まで 見 て きた 説 話 の 展開 と は 異な る 視 点か ら
、 新 た に 生 じた 可 能 性を 探 る べき と 考 える
(
18
)
。 お
わ りに
『 紀 伊続 風 土 記』 は
、 玉津 島 の 神と し て 奉祭 す る 稚 日女 尊 の 由緒 を
、 天 野 祝 が 奉祭 す る 丹生 都 比 売神 と 同 一に 捉 え て説 い た が
、そ れ を『 日本 書 紀
』 や
『 播 磨国 風 土 記』 逸 文 等か ら 読 み取 る こ とは 難 し い
。玉 津 島 の神 と し て 奉 祭 さ れる 稚 日 女尊 と 天 野祝 が 奉 祭す る 丹 生都 比 売 神 は、 個 別 に検 討 さ れ ね ば な らな い
。
『 播 磨国 風 土 記』 逸 文 が記 す
「 尓保 都 比 売命
」 が
、 丹生 都 比 売神 の 初 出 に な ら ない と の 疑義 を 検 証し た
。
『日 本 書 紀』 が 丹 生 都比 売 神 を取 り 上 げ
な い のは
、 用 いら れ た 資料 の 偏 向性 に よ る。
『 日 本書 紀
』 が神 功 皇 后の 新 羅 征 討を 語 る のに 用 い たの は
、 住吉 三 神 の由 緒 で ある こ と を述 べ た
。『 播 磨 国 風土 記
』 逸文 が 記 す「 尓 保 都 比売 命
」 の由 緒 と は組 み 合 わせ ら れ ない 内 容 を備 え て いる
。 伊 都郡 と 播 磨国 と の 関わ り が
、「 赤 土
(丹 生
)
」の 流 通 を介 し て
、『 播 磨 国 風土 記
』 に「 尓 保 都比 売 命
」の 由 緒 を、 神 功 皇后 と 結 びつ け て 記録 さ せ て ゆく と 見 通す
。 こ こに 海 洋 系 とで も 仮 称す べ き
、説 話 の 形成 が 認 めら れ る
。 播 磨国 と 紀 伊国 の 伊 都郡 と の 往来 は
、間 に住 吉 大 社の 存 在 が 注目 さ れ る。
『 住 吉大 社 神 代記
』 は
、「 紀 伊 国伊 都 郡
」に
「 丹 生川 上 天 手力 男 意 気続 々 流 住 吉大 神
」 の存 在 を 記す 一 方 で、
「 丹 生咩 神
」 は「 紀 伊 国名 草 郡
」に 奉 祭 さ れる
「 類 別神
」 と 位置 づ け てい る
。
『住 吉 大 社』 の 信 仰 が紀 ノ 川 を遡 上 し て拡 充 す る過 程 に おい て
、丹 生都 比 売 神の 存 在 を緩 や か に認 め て いる
。
「 丹 生咩 神
」 が「 名 草 郡」 に 祭 られ て い るこ と に 着目 す る と、 玉 津 島と の 距 離 は近 づ く が、 玉 津 島に 丹 生 都比 売 神 は祭 ら れ てい な い
。あ く ま でも 稚 日 女 尊が 奉 祭 され て い ると こ ろ に、 玉 津 島の 神 の 歴史 は 問 われ ね ば なら な い
。 天 野祝 が 奉 祭す る 丹 生都 比 売 神は
『 丹 生大 明 神 告門
』 に
、高 天 原 から 説 き 起 こし
、 伊 佐奈 支
・ 伊佐 奈 美 命の 子 と 位置 づ け られ る 点 にお い て
、『 古 事 記
』が 記 す よう な
、 中央 神 話 の体 系 が でき あ が った 後 の 成立 が 考 えら れ る
。
『天 野 社 伝』 は
、 伊佐 奈 支
・ 伊佐 奈 美 命の 子 と 位置 づ け る延 長 に
、も っ と も尊 ぶ べ き神 と し て、 天 照 皇大 神 を 認め て
、 丹生 都 比 売神 を そ の妹 と 位 置 づけ て い る。 高 野山 に 金 剛峯 寺 が 開か れ て ゆく こ と によ っ て
、丹 生 都 比売 神 は
、海 洋 系 の 説話 を 離 れて
、 山 の神 と 位 置づ け ら れて ゆ く
。山 岳 系 の説 話 を 由緒 の 主 体 とす る よ うに 転 換 がは か ら れて い く 経緯 が 見 通さ れ る
。丹 生 都 比売 神
社 と 高 野山 金 剛 峯寺 と の 関係 を 考 慮す る と
、山 岳 系 の 説話 が 再 び海 洋 系 の 説 話 へ と戻 さ れ るよ う な こと は 想 定し 難 い
。 神功 皇 后 に関 わ る 説話 が 見 出 さ れ な いの は そ のた め と いえ る
。
『 紀 伊続 風 土 記』 の 当 該記 事 の 中に
、 玉 津島 の 歴 史 をう か が うこ と が で き る の は、 丹 生 都比 売 神 社か ら
、 神輿 が 巌 窟に 奉 納 さ れる と い う、 神 事 の 記 録 か らで あ ろ う。 日 前 宮の 紀 氏 と丹 生 都 比売 神 社 の 丹生 氏 と の関 わ り が 注 目 さ れる
。 た だし 両 氏 の関 係 を
、直 ち に 八 世紀 以 前 まで 遡 及 させ る 姿 勢 に は 慎 重を 要 す る。 視 点 は異 な る が、 丹 生 都比 売 神 に 残さ れ る 歴史 と 説 話 の 形 成 を、 時 代 を追 っ て 整理 す る 本稿 は
、 その こ と に 注意 を 促 す意 味 を 含 む
(
19
)
。
『 紀 伊続 風 土 記』 に つ いて も 付 言す る と
、関 わ る 文 献を 丁 寧 に収 拾 し て い る 点 にお い て
、貴 重 な 資料 集 と なっ て い る。 た だ し 仁井 田 好 古等 の 考 察 は
、 話 題に よ っ て結 論 あ りき で は じま る と ころ に 注 意 が要 さ れ る。 本 稿 で 扱 っ た
、玉 津 島 の稚 日 女 尊と 天 野 祝が 祀 る 丹生 都 比 売 神と の 関 係は
、 そ の 一 例 と いえ る
。
( 注
)
( 1
)小 島憲 之・ 木 下 正俊
・東 野 治 之校 注・ 訳 新編 日 本 古 典文 学 全 集『 万
葉集
』
② 一九 九 五年 四 月 小学 館
。
( 2
)青 木 和 夫・ 稲 岡 耕 二・ 笹 山 晴生
・白 藤 禮幸 校 注 新日 本 古 典文 学 大 系
『 続日 本 紀
』二
一 九九
〇 年 九 月 岩 波 書店
。
( 3
)仁 井田 好 古 編『 紀伊 続 風 土 記』
(『 紀 伊 続風 土 記
』三 一 九七
〇 年 三 月歴 史 図 書社
)
。 引用 に あ た って は
、 新字 体 に 改め
、 句 読 点を 加 筆 して い る
。
( 4
) 植垣 節 也 校注
・ 訳 新 編 日 本古 典 文 学全 集
『 風 土記
』 一 九九 七 年十
月 小 学 館
。本 稿 に合 わ せ て 一部 を 書 き改 め て いる
。
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