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ナチズム期障害児教育の日常

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茨城大学教育学部紀要(教育科学)48号(1999)257−273

ナチズム期障害児教育の日常

荒 川   智*

(1998年10月6日受理)

Alltag der Behindertenpadagogik in der NS−Zeit

Satoshi ARAKAwA*

(Received October 6,1998)

はじめに.日常史への着目と方法

近年,いわゆる日常史研究によって,ナチズム期におけるドイツ国民各層の日常生活の様々な様 相が明らかにされつつある。社会史の方法には,様々な問題点や限界を指摘することもできるし,そ の立場も一様ではなく,筆者自身もまた社会史の立場を取っているわけではないが,そこには一定 の意義と魅力があることもやはり否定できない。政治・経済史や思想史の観点からは見落とされて いたナチズム期の意外な一面が明らかにされてきているからである。障害児教育の分野で,比較的 早くから社会史・日常史研究の必要を論じていたエルガー・リュットガルトは,次のようにいう。

「日常史の関心は,主体的経験の提示にある。その際これまでの歴史叙述においてはほとんど役 割を演じてこなかった人々がだれよりも発言が許される。ごく普通の庶民労働者,婦人,マージ ナルな人々,障害者といった注目されてこなかった人々のグループである。」ω

彼女によれば,従来の研究によって補助学校教師のイデオロギーや補助学校の機能については貴 重な知見が与えられたものの,「どのようにして,そしてなぜ個々の教師が特別の条件下で,そして 一定の時点でそのような行動をとり,他の行動をとらなかったのかについては,何も言及していな い」のであり,「障害児教育においても見られる,ドイツ・ファシズムについての議論の際の短絡的,

非歴史的な白黒思考や,道徳的厳格主義を,日常史の視点は防ぐことができる」と言うのである。② ナチスに荷担したとされる様々な関係者についてのエルガー・リュットガルトの評価が,はたし て「白黒思考や,道徳的厳格主義」を本当に越えたものであるかどうかは,ひとまず置くとして,日 常史研究の一環としてなされた,ハンブルグの補助学校の元女性教師ブッフホルツ(Frieda Buchholz 1897−1993)に関する研究は,興味深いものがある。ブッフホルツは補助学校教師としては希な社会 民主党員で,とくに子どもの「有用性」を示すことで彼等を断種から守ることを意図して,r有用な 補助学校生徒』を著している(3)。エルガー・リュットガルトはさらに,ブッフホルツの日記,本人や

*茨城大学教育学部障害児教育講座(〒310−8512水戸市文京2−1−1;Laboratory of Education for chil一

dren with dlsabilities, Faculty of education, Ibaraki University, Mito,310−8512 Japan)

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当時の生徒などの関係者の聞き取り調査,ブッフホルツに関わる公文書などを利用して,いわば「消 極的抵抗」をした例外的教師を抽出している④。

この一女教師の業績と人間性に迫る人物研究では,当然のごとく関心は個人に向けられている。当 時の教員の組織的抵抗がほとんど見いだせないので,それはやむを得ないことであろう。しかしブ

ッフホルツの著書は,生徒の日々の学習や活動の様子が丁寧に叙述されており,当時の補助学校の 教育実践そのものと生徒の学校生活の日常を知る上での貴重な資料でもある。彼女はこの著作の意 図を次のように述べている。

「この著作は,補助学校生徒の問題を新しい教育の観点で見ることを試みたものである。補助学校生 徒は一般的にも文献でも,精神薄弱,反社会的といったように,要するに否定的な見方をされてい る。それゆえこうした一般化された先入観に満ちた態度を止めさせ,補助学校生徒を再度教育的事 実に基づいて考察することが重要なのである。なぜならそれは我々に正しい,正当な判断を得させ

るからである。それによって現在の民族と国家に奉仕する,というのが我々の信念なのである。」(5)

ブッフホルツは,イエナ・プランの指導者ペーターゼン(Petersen, P.1884−1952)の弟子であり,自 らイエナ・プランを補助学校で実践している。この点からも,ナチズム体制下にあってどのような 実践がなされ,また可能だったのか興味深い。出版統制の下で,彼女自身も上述のようなナチズム 体制にあからさまに抵触しないように,論述上の工夫をしているし,また彼女の思想や実践が多分 に例外的な特徴をもっていたとしても,ある面でそれはナチスの許容範囲を知るてががりにもなろ

う。

ところで,こうした研究を進めていくためには,公文書や出版統制から比較的自由な文献・資料 を活用していく必要がある。公文書館の資料も,政策研究に不可欠な中央レベルの文書とは別に,地 方レベルのもので,学校名の変更とか転校の申請など一見取留めのないようなものであっても,そ れまで見えにくかった物が明らかになるような資料もある。個人の日記や学校日誌が保管され,そ の一部が記念史や資料集に掲載されているものもある⑥。その一例として,ドイツで最初に設立され,

創設者の名を取ってキールホルン・シューレと呼ばれるブラウンシュバイクの補助学校を挙げるこ とができる。本稿では,ブッフホルツの著書を主に取り上げつつ(以下,とくに断らない限り,本 書の引用・参照ページを示す),同時にキールホルン・シューレの資料を補足的に活用することによ って,どの様にしてナチズム期の障害児教育,とりわけ補助学校の日常が営まれ,そしてナチズム 体制によって浸食されていったのか,検討してみたい。

1.ベルゲドルフ補助学校の日常

(1)ブッフホルツの実践の特徴

フッフホルツが当時働いていたのは,ハンブルグ郊外にあるベルゲドルフ補助学校という三級制 の学校である。一般的にドイツの補助学校の授業時間は,国民学校のそれを短縮した30分を標準と していたのに対し,ここでは20年来,45分と60分の授業が組まれていた。30分授業では内容が国民学 校以上に細切れになるし,生徒にも精神的に落ち着かなくなるというのが理由である(S.160)。ブッ

フホルツは,担任をしている中級クラスの生徒21人について,1936年10月から一年間,数人に協力を

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依頼して観察記録を取らせた。そして,その記録とブッフホルツ自身の日記の記述を下敷きにして,

平均的生徒と思われる12人について個別に考察したのが彼女の著書である。子どもたちは,ほぼ発 達段階によって,遊び的な活動が中心で教師の指導をかなり必要としている生徒(パウル,ヘルガ),

自主的な創作活動が可能な生徒(アンニ,H.,ハイニ),両者の中間に位置し,意識的な学習や作業 が主に見られる生徒(エーリ,エーリカ,フランツ,アルベルト,アンニ,K.,ウーリ,ルーディ,

アルトゥール),の3グループに大別して叙述されている。生徒は全員10〜13才である(S.3)。ブッ フホルツはイエナ・プランの理論に基づいて通常の授業に加え,グループ授業や作業,あるいは「ク ライス」(Kreis)と呼ばれる(椅子を輪に並べて,体験や関心事,物語などを順番に報告したりする)

談話形式の授業を行っている。グループ授業では,自主的に2〜4グループが作られ,教材は生徒が 自由に選び,文字盤計算盤などを使って自主的学習ができるようにされている。また演劇教育に も力をいれていた。通常の授業に含まれる郷土科や作業も,多くが共同学習や共同の創作活動の形 をとった。その他に時間表にはないが,適宜に自由作業の時間が設定されていたが,内容は他のも のとかなり重なっているようである(S.37−38)(7)。

ここでは,主に子ども同士のやり取りに着目しながら,学習や生活の場面ごとにその様子を見て

みよう。

(2)共同創作活動

グループ授業では共同創作活動(作業)と演劇の場面に関する記録が最も多い。まずは前者につ いてみてみよう。

フランツは協調性があり共同作業に熱心に参加する生徒である。彼がとくに熱心に参加した共同 学習の例として次のものがあげられている。

1.ロビンソンクルーソー島(の作成),2.ベルゲドルフの町の絵の製作,3.五隻の灯舟のある エルベ川河口,4.ハンブルク港(砂場での製作),5。彫刻用粘土による騎士の居城の製作,6.ボー ル紙によるクリスマス・クリッペ(キリスト生誕の厩を模したもの)の作成7.クリスマス装飾の ための厚紙と色紙による小さな帽子の細工,8.白雪姫の劇(S.45)

これだけみても実にいろいろな学習活動が取り組まれていることがわかるが,その一つ,ハンブ ルク港の製作の様子を紹介しよう。

これはもともとは,郷土科の授業で地図をもとに彫刻用粘土を使ってハンブルク港を作ったのが きっかけで始まったものだが,その後も子どもたちは各々が自主的にその作業を継続させていった。

その中でフランツとハイニが砂場の共同作業を始める。ハイニはクラスのリーダー的存在である。こ の二人の苦労の様子が次のように記録されている。

:彼等は困惑していた。地図が縦に吊られていたので,空間的な置き換えがうまくできなかった。(ハ イニ)「逆に回しちゃった(その通り,北が南になっていた)。砂箱を一度回してみよう。」彼等はそ うした。二人は入念に地図の絵と砂の形を見比べた。ハイニは完全に困惑していた。彼は今度は全 部うまくいったと信じ込んでいたから。フランツは気楽に言葉をかけた。「ハイニ,まだ逆だよ(確i かに東が西のままになっていた)。」その時ブッフホルツが来て,直ぐに違いと原因に気づいた。「も

う一度やって見ましょう。地図を横に置いてみなさい。」……(8日後には,記録者が来る前から再

び作業が始められていた。二人は南西に位置するインデア港をさらに作り,ハンブルク港とつなげ

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ようとしていた。)…

フランツは置いてある地図を横目で見ながら。定規で湿った型砂に港の形を書いていった。そし てSW港を掘っていった。ハイニはフェドデーラー・ダムを貫通させていることについて彼に注意を 促す。彼は港を再びそこに砂を投げ入れ新たに正しく掘り上げた。ハイニは彼の横にいて,インデ

ア港を掘り上げた。

(フランツ)「そう,それはここをぐるっと回っていて,もうひとつのが来て,…」フランツは,二 つの港をエルベ川でつなげる。それは彼が前もって見たことのあるものではない。彼は港とエルベ 川を再度きれいにし,バケツに砂をまた入れた。「一番肝心なところができた。」(S.45−46):

この時のアルトゥールの様子も簡単に触れておこう。彼は兄のアルベルトと同様にクラスの中で は能力の低い方で,どちらかというと一人の活動を好むとされている。ハンブルク港づくりでも「他 の子はみんなで何かやるけど,僕は一人でやるんだ」という。作業の仕方も,最初は平地部分を捏 ねるという彼独自の方法で港の東側をつくっていた。しかし途中から,フランツやハイニのように メッサーで平ら部分を港の形に切り込むというやり方に変えている(S.77)。

アルトゥールは共同作業も熱心に行った。例えばロルフという子が教室に郵便受けを取り付ける 際に作ってしまった壁の穴を,ロルフを含め4人の男子と共にセメントで塗ってなおした様子が紹介

されている(S.78)。

ロビンソンクルーソー島の作製の際の,クルト,ロルフおよびカールの三人との子(彼等は考察 対象の12人には入っていない)とハイニとの関係はまたおもしろいものがある。先に紹介したよう にハイニは,リーダー的存在で彼に盲目的に従う子も多い。しかしやや自己中心で,神経質なとこ うもある。とくに,様々な面でハイニよりも優秀な三人が転入してきたこちにより,彼は三人と親 しくし,かつ彼等を評価しながらも,しばしば劣等感に苛まれる。この作業でもハイニは最初は三 人と喜んで行動していたが,突然なにも言わず,怖い顔をして教室に戻り別の作業を始める。記録 者がやりたくなくなったのかと尋ねると,「ううん。だけどクルトは僕よりずっとできる。」「優しく ないの。」「いや,とても優しいよ。みんなぼくがもっと一緒にやればいいと思っているよ。だけど もうしない。」要するに,リーダーになれず,従わなければならない場面に耐えられなかったようで,

クルトが誘っても,ハイニは相性のよいフランツとの作業を望んだという。しかし普段素晴らしい 共同作業をする二人が困難に遭遇した際ロルフなどが加わってうまくいくこともあり,次第に必 要に応じて他者に従うことを学んでいくようになったとも記されている(S.87−88)。

(3)演劇指導

手の活動による作業とならんで重視されたのが演劇指導であり,記録ではとくに白雪姫の練習場 面がよく登場する。演技力,表現力や役柄の理解力もさることながら,生活指導(人格形成)上の 意義も大きいことが伝わってくる。

エーリカは,算数が大好きな勤勉な性格の子で(やや点取り虫的とも表されている),自由学習の 時はいつでも,計算問題に取り組んでいる。しかし創造力に欠け,些細なことで怒る欠点もある。彼 女が白雪姫の稽古で見せた様子がフッフホルツの日記に(36.11.16)は次の様に記されている。

:エーリカはすでに女王役のすべての台詞を暗記していたし,しかも暗記学習は彼女にとって楽な

わけではなかった。演技の際,彼女は非常に苦労していた。彼女の女王役は,あまりに気取り過ぎ

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ていたので,本当に申し訳ないけれども,私は彼女にその役を任すわけにはいかなかった。私は彼 女にそう説明し,王の子供の役をやってもらえないか尋ねた。アンニ,H.の方が女王役に適してい た。エーリカは静かにそして喜んで承諾してくれた。この役柄交替は彼女の心中でとても辛いもの があったと思うが,彼女はそれをまったく表に出さず,かわりに私に言った。「私はアンニを妬んだ

りしないから。」(S.43):

フッフホルツは,他の色々な場面でも見せるエーリカの「美しい心」を賞賛している。

他方,女王役を射止めたアンニ,H.と言えば,最初は瑞役の悔しさで休み時間に泣いていたよう であるが,これでがぜん張り切るようになり,素晴らしい演技力を発揮したとされている(S.83)。彼 女については,また後に登場してもらう。

脇役の子供にも,それぞれ活躍する場面があった。先ほど登場したハイニは,演技が苦手で,最 初は白雪姫の劇に参加するのを拒んでいた。しかし途中から参加するようになる。その経緯を日記

(36.11.11)では次のように述べられている。

:小人役にもひとつの問題があった。小人はリードを歌うことになっていた。しかし彼等の中には 何人か歌がへたな子がいた。私は子どもたちに,リードをただ喋るだけにしようか話して見た。す るとハイニが言った。「ブッフホルツ先生。僕が一緒に歌うよ。Sch先生(唱歌の教師)が皆すごく 歌がへただと言っていたよ。でも僕は唱歌は1(最優秀一筆者注)だよ。」こうしてハイニはとても 熱心に自分の役を暗記するようになり,練習期間中,ドラマと音楽の才能によって,無条件に小人 役のリーダーとなった。

彼は他の子に出だしの台詞を教えてあげるようにもなる。他の子がずっと間違いをしていると,我 慢できないとばかりに首を振った。…(S.91):

演技力に欠けるウーリは,練習のときのジョークで雰囲気を盛り上げ,回りから好かれていた。例 えば,白雪姫が取って来た野イチゴを食べるシーンで,「フォークを持つはずの人は指を持たなきゃ。」

白雪姫はフォークを並べるのをつい忘れていたようである(S.65)。同じく演技はじょうずではない ルーディという子も,別の劇の時であるが,予想外にもコメディアンの台詞と演技をこなしている。

ヘルガの熱演を真似て戯化したものだが,これは彼独自の考案で,観客の爆笑を誘い大成功だった

という(S.75)。

(4)共同学習

共同学習の時の子どもたちの様子についても,二つだけ紹介しておこう。

一つは,おそらくグループ授業ないし自由学習の時間に,クラスの中で最も子どもっぽく人懐こ いとされるパウルと,二人の女子生徒との間で偶然に共同学習が始まったときのことである。

初め二人の女子がスウェーデンの物語『森の動物祭』の絵本について話しをしているところへ,パ ウルが近づいていき,絵を見て話しかける。

:「ここだ。その下に小さなネズミがいるよね。」少女たちもとくに話しを中断せず,そのまま三人で,

クマの王様の祭りのために移動している動物たちについて議論が続く。

「そこにはキツネだ。」「見て,小さな王子様。」パウルは一番物静かで,右手で顎を支えながら下か ら本を見上げていた。彼等は交替で読んだ。「読んで,ヘルガ。」「パウル,次よ,読んで。」「パウル!」

「君だよ。」「君じゃない。」その間彼等は絵について話す。パウルは隣のヘルガを抱き寄せる。右手

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で頭を支え,活発な女の子の話す事を聞いている。「これは病気だ一彼は示す一食べ過ぎだ。」カー ルがそこに来た。「それ何。」女の子は本を閉じた(カールはしばしば秩序撹乱者として登場する)。

しかし彼等はカールを加えてあげた。パウルは両手の上に頭を,ヘルガは右横のパウルと左横のエ リカを抱き寄せた。前と同じ様子が続いた。(S.14−15):

一緒の学習は多くが生徒から自発的になされた。

アンニ,H.は隣の席のエーリカとよく一緒に算数をしていた。理由は簡単である。

:(アンニ)「エーリカ,二人で九九の計算盤をやらない。」エーリカもそうしようとした。私(記録 者)が尋ねる。「どうして一人でやらないの。」(アンニ)「一人でやると長くかかるから。(S.84)」:

(5)クライス

ブッフホルツのユニークな実践の一つであるクライスの様子である。記録対象の12人の中では最 も発達段階の低いほうとされているパウルは,読み書きは比較的得意で,この授業のときに,読ん だ本について巧みな報告をしている。

:「ハリネズミがいてリンゴを欲しがっていました。畑の農夫の横に一本のリンゴの木がありました。

手伝いの女の人達が反対側でリンゴを拾っていました。女の人達が立って見上げました。すると声 が聞こえました。r君達何を探してるの。』r僕たちリンゴが欲しいんだ。』その時木の上にはリスが いました。リスはリンゴを口にくわえ,下へ投げました。それにはまだ棘がついていました。パリ ネズミはおなか一杯になりました。家に帰って言いました。r大丈夫。キツネは来なかったよ。』そ れからハリネズミたちは森へ行き,そこでどんぐりの木を訪ねました。ハリネズミたちはそれをリ スにプレゼントしました。(S.13):

恣意的に子供っぽく訳し過ぎたかもしれないが,要はこうした報告会において巧拙は別にして子 どもたちに生き生きと体験を語らせることを重視していたのである。例えばウーリは,読む能力が 劣っていて,先のパウルと同様に記憶がよく混乱して論理的に話しができないとされている。しか し政治や歴史の出来事にとくに関心を持っていて,ヒンデンブルク号事件やスペイン内線について,

新聞記事と写真を見せながら報告した。他の子がこの種の報告をするときも熱心に聞き入っている

という(S.61−62)。

(6)豊かな感情

ベルゲドルフの補助学校でも学校祭が重視されていた。いやナチズム期だから尚更だったのかも しれない。しかしここでは,教師主導で準備するのはクリスマスと堅信修了祭のふたつで,その他 の,とくに誕生会は完全に生徒主導で行われていた。ここでリーダーシップを発揮したのはアンニ,

H.である。彼女は女子生徒の中のリーダー的存在で,クラスの中で最も知的で,また愛くるしく,身 体的にも成熟していた。また他の子と違い,補助学校にいることについての劣等感もとくに持って

いなかったという。1937年4月のブッフホルツの誕生会の時は,彼女の発案で,前日の放課後から教 室の鍵を閉めて,皆で準備を始めた。椅子を丸く何べ,真ん中にブッフホルツの席。壁は色を使っ た絵とお祝いの言葉で飾り付けた。その日の帰り道での子供達との会話を,ブッフホルツは日記で 次のように記している。

:(アンニがヘルガに)「あなたは明日そんなに綺麗じゃない別のエプロンをするのよ。」(アンニがブ

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ッフホルツに)「先生は明日一番素敵な服を着てきてね。」

(ヘルガ)「白い夏のドレスが一番いいわ。」

(アンニ,K.)「紺の服もいいわ。とても素敵にできているから。」

(ブッフホルツ)「私は明日は青の絹のドレスを着てくるわ。」

(アンニ,H.)「でもそれ服は緑の服のように素敵にできているの。」

最後に,明日は呼ばれるまでは教室に入ってこないことを約束させられる。:

誕生会はアンニ,H.の進行役で進められた。以下はその様子である。

:アンニは記録者に。ブッフホルツと子どもたちがまだ教室に入ってはいけないことを説明した。ア ンニと2,3人の女子が可愛い春の花束や五月の花の大きな花束を中央の机に並べた。……アンニは 蝋燭に明りを灯そうとした。……やっと子どもたちが入ってくる。アンニは子どもたちを机の回り に並ばせた。男子は少し離れて座った。彼等は手を出さないように制されていた。男子たちがいう。

「来年は僕らだけでやるから,おまえら外に出ていろよ。」アンニ,「さあ静かにして。ブッフホルツ 先生を連れてきましょう。」彼女はアンニとエリカに連れてこられた。まだ目をつぶっていなければ ならなかった。机の前の椅子に座って,初めて彼女は全部を見ることができた。アンニがいう。「ブ ッフホルツ先生,お花屋さんを開けます。こんなに沢山のお花が貰えます。」ブッフホルツは子ども たちに対し,その日のお祝いのために用意した話しを始めようとした。アンニ,「皆,座りましょう。」

アンニはブッフホルツの隣にぴったりと並んで座って,じっと彼女を見つめた。彼女は一人の男子 をピシャっと叩き,ブッフホルツの邪魔をしないようにさせた。……:

放課後,女子たちはブッフホルツの家にいき,もう一度アンニの指揮の下で誕生会をしたようで ある。ちなみに,男子の抗議も空しく,翌年の誕生会もアンニの指導で行われ,実に8週間も前から 劇の秘密練習などをしたとされている(S.80−81)。

ブッフホルツは自分への子どもたちの愛着や思いやりを,こうしたセレモニーだけでなく,日常 の様々な言動から感じとっていた。ブッフホルツの父の葬儀の時,ハイニはクラスで花輪をのため のお金を集めることを提案している。エーリカはしばしば授業中にブッフホルツを弁護する(S.43,

S.92)。また記録者に対しても優しさを示していた。記録者は観察・記録期間の1年間に都合でしば しば交替したが(計6人),その中の一人のデンマーク人が帰国する日に,「ハイニとフランツは,今 朝始業前に駅へ行った。一自分たちのイニシアチブで一私たちのデンマーク人の記録者がコペンハー ゲンに旅立つ前にもう一度別れをいうために。」とブッフホルツの日記で記されている(S.48)。

子ども同士の助け合いにもよくなされた。授業中に相互に教えあったり,学習面で進んでいる子 や,ある学科の得意な子が別の子に援助やアドバイスをする場面が,随所に記録されている(S.46一 47)(8)。また下級クラスには,自分で着替えや階段の症候がうまくできない比較的「重度」の子の女 の子がいたとされているが,テントハイクの準備の際にはクラスみんなで彼女のナップザックの荷 造りを手伝ったとされている(S.148)。

子どもたちの間には異性への関心や恋愛感情も芽生えていた。最も早くから,「ませていた」のは ヘルガである。すでに7歳の時にブッフホルツと次のような会話をしている。(ヘルガ)「大きくなっ たら私何をするかわかる。」「いいえ。」「大きくなって,もし40ペニッヒか16ペニッヒ持っていたら。」

「いいえ。」「パーマをかけるの。そうしないとボーイフレンドができないもの。先生もパーマしない

と彼氏をつかまえられないわよ。」(S.20)

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10歳になったヘルガはますます男子を意識するようになにっていた。彼女は小柄で可愛らしい容 姿と抜群の演技力をかわれて,白雪姫の役を演じることになった。しかし稽古の時は女王役のアン 二には全然注意を向けず,後ろで男子とおしゃべりばかりしていた。とくにハイニ(前述したよう に,小人役)に気があったようで,毒リンゴを食べて死んでいるはずの場面でも,演技を忘れて彼 の方をちらちらと見ていた。その時の様子である。

:ヘルガは毒を盛られて倒れたが,その後も静かにリンゴを噛み続けながら,男の子の方をちらちら と見ていた。7人の小人が彼女を運びさる時,死んでいる白雪姫はとても嬉しそうだった。小人が彼 女の方を見ると,彼女はまた目を閉じた。しかしそっと目を開け,とても慎重そうに,とくにハイ この方をちらっと見た。:(S.21)

彼女の生き生きした演技は死んでいる役に不向きだったようで,その他にも小人の歌に合わせて 思わず口ずさんでしまうといった失敗もあったようであるが,次第に役柄をしっかりと理解し,適 切な演技ができるようになったという。

ブッフホルツの日記(37.6.24)に,別の一組のカップルのことが記されている。

「アルベルトとアンニ,Kの最初の優しい恋愛関係が観察できた。アルベルトは常にやや斜めに座り,

後ろに座っているアンニが見えるようにしている。そして二人は親しそうにお互いに微笑みあって いる。アンニの誕生日に彼は,鼻に銀のリングをつけたグミ製のクマの人形をもってきた。学校で のアンニの誕生会の日のことである。」(S.52−53)

アルベルトもアンニ,K,も,とくに能力が高いわけではなく,子どもらしい恋愛感情といえなく もないが,二人とも背も高く,性格もよく,「アンニ,K.は理由もなくアルベルトの恋人というわけ ではない(S.54)」。その後二人の関係がどう進展していったのかはわからない。

(7)些細な「問題行動」

ここに登場してきた子どもたちは,常に真面目なお利口さんだったわけではない。子どもらしい 悪戯や撹乱的な行動もしばしば見られる。

パウルは読書算のグループ授業では,どこまで勉強するかいつも教師と「格闘」する。「もっとき れいに書きなさい。」「嫌,は「んぶんだけ。」そして少し書き始めては,友達にちょっかいを出して いる(S.19)。エーリは晩熟で内気な子で,「小ネズミのような喋iり方」といわれている。彼女は前に 登場したカールに学習を妨害される。

「エーリはマリアの子の童話を描いたはがきを一列に並べていた。カールが横にきて,一枚のはが きを取り上げ,じっと見た。エリも同じ様に見ている。カールははがきを引っ掻き回す。『後で並べ てやるよ。』エーリは答えない。彼女は忍耐強く始めからはがきを並べ直す。(S.32)」カールは,エ

リカが休み時間にも計算学習を続けているときにも,わざと大きな声で歌を歌って注意を受けてい

る(S.37)。

ルーディは,最も体が小さく,虚弱で汚れている。「ガンジー」のあだ名があるほど痩せていた。

落ち着きがなく,気が散りやすい性格である。「彼の好奇心,知識欲は,教室で起きていることをひ とつたりとも見逃さなかった。」(S.67−68)ブッフホルツに「ルーディ。そんなに大きな耳を持って いるのに,私の話しが全然聞こえないの。」と注意され,ハイニからも,「そうだよ,先生。ルーデ

イが耳を使う時はいつも汚れて塞がっているんだよ。」とからかわれても,笑っているだけである(S.

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76)。それでもお金には関心をもっていた。日記によると,旅行のお土産でボンボンを買ってきたと き,ハイニが「一個1ペニッヒだ」というと,すかさず,ルーディは「今日は4ペニッヒのお土産を

貰ったんだ。」(S.70)

ハイニは独創的な思考の持ち主であるが,時々それが悪い冗談となって現れる。キャンプの時,カー ルが「もし泥棒が来たらどうしよう。」というと,「イルゼを見せよう。そうしたら自分で逃げてく よ。」と答えた。イルゼは,ブッフホルツによれば典型的な「精神薄弱児」で,外見も少し怖そうに 見えた。しかし幸にもハイニの言葉の意味がわからなかったという(S.93)。

2.生徒の実態

ブッフホルツは補助学校生徒を,「精神薄弱,愚鈍,病気,非社会的といった一般化された概念で持 って特徴づけることはできない」としている(S.117)。事実,これまで取り上げてきた12人の子供達 の日常における会話の内容や行動からは,ほとんどの子どもが今日でいう知的障害に該当するとは 思われない。むしろハイニの決して褒められない冗談も含めて,彼等は子どもらしい様々な才能に 満ちているといってよい。ちなみに彼等のビネー式知能テストの結果が以下のように示されている

(S.100)。

ヘルガ   0.99  パウル    0.85 アンニ,H O.96   フランツ    0.83 ハイニ    0.92   ウーリ     0.79 エーリ    0.92   アンニ,K  O.78 ルディ   0.92  アルトゥール 0.78 エーリカ  0。85  アルベルト  0.69

ブッフホルツは,「ヘルガとアルベルトの知能指数は意外である」としている。テストは「実際的 知能」を取り上げてなく,また12歳の子供までに適したものなので,10歳のヘルガには有利に,13歳 のアルベルトには不利に働いているという。また,ハイニとアンニ,H.についてはより適切なやり 方によってもっと高い結果が出る可能性があるも述べている(S.101)。

12人の作文の書相学鑑定を依頼されたベッカー(Becker, M)も,発達にやや遅れが見られたり,精 神病質的な性格の子どもつもいるものの,年齢相応の発達を示す者もおり,「彼等は(本来の)補助 学校生徒ではない。なぜ補助学校にくることになったのか」という疑問を呈しているという(S。115)。

実際に,例えばハイニは,幼児期の狸紅熱が原因で記憶力がやや弱くなったといわれているものの,

実際には単に読書算の成績が悪いために補助学校へ転校したにすぎないとされている。またアンニ,

H.は国民学校でも十分についていける能力を持ちながら,怠惰な性格のため成績があまり振るわず,

結局補助学校に来たという。確かに12人の生徒のほとんどが理論的・抽象的思考を苦手としている ことをブッフホルツも認めている。アルベルトは正書にとくに困難iを示すし(S.53),アンニ,K.は 単語の綴りの典型的間違いが多い(S,56)(9)。これらは今日でいう「学習障害」に相当すると思えな

くもない。しかし最初に述べたように,12人はこの補助学校の平均的生徒とされ,叙述の中には彼等

以外で確iかに軽度の知的障害といえなくもない子どもがいるようではあるが,他方で彼等以上の能

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力を示す生徒も何人か登場している。

12人とは別になるが,補助学校生徒の一般的な能力を示す別の資料としては,卒業生の職業学校 での成績があげられよう。ベルゲドルフ補助学校の約9割が卒業後,一般の職業学校に進んでおり,

1926−36年の資料によれば,彼等の一般の職業学校における成績は,ドイツ語や数学では平均ないし やや劣るものの,男子は工作,女子は裁縫や調理などで,決して他の生徒と見劣りしていない(S.175)。

卒業後の進路については,ナチズム期以前から約8割の補助学校卒業生が生計を得ているという調 査が多くの関係者によって示されてきた。ナチズム期にも繰り返し同様のことが強調されている。べ ルゲドルフの場合は,17年間で130人中120人,9割以上が公的な補助なしで生活しているとされてい

る(S.179)。

1929年の世界恐慌をはじめ,景気の変動が卒業生の進路や就労状況にどのような影響を及ぼして きたのかはあまり明らかではない。ただ,このことに関しては,ナチズム期とそれ以前との状況の 違いや変化についてとくに論じられてはおらず,少なくとも補助学校の実践に直接の影響を与えた 形跡は見られない。生徒の大部分が「有用な」労働者になっているとされ,またそれを目指した教 育がなされていたのである。しかも実際にはほとんどが知的障害とはいえない子どもに対してであ る。全就学生徒に占める補助学校の在籍率は,ナチズム期に入り暫くは若干下がるか横ばいを示す が,1938年の「プロイセン補助学校に関する一般規程」と「ライヒ就学義務法」の制定以降,再び増 加に転ずるようになり,上で述べたような従来からの傾向はますます顕著なものになっていく。

ブッフホルツの師ペーターゼンはもともと,補助学校生徒の多くが障害児とはいえないことに批 判的であった。エルガー・リュットガルトによれば,ブッフホルツはペーターゼン以上に補助学校 の存在そのものに疑問をもっていたとしているが㈹,この著作からははっきりしない。またなぜ,彼 女が戦後も補助学校教師を続けたかも定かではない。

ブッフホルツの子どもに対するまなざしは,著作で見る限り,確かに愛情に満ちている。しかし 彼女は,要するに補助学校生徒は障害児,「精神薄弱児」ではなく,「正常な子供」であるという観 点から,彼等の能力や性格をできる限り肯定的にとらえようとしているのであって,裏を返せば,彼 女の障害児に対する見方がとくに革新的だったというわけではなく,「精神薄弱児」に対する限定的 な発達観や能力観を彼女自身が克服していたかといえば,疑問である。

ブッフホルツは,クランプの「医学的精神薄弱」の概念について,「こうした概念によって補助学 校生徒は単に知的,道徳的だけでなく,民族・遺伝生物学的観点からも劣等とみなされてしまうか

ら」「危険である」と批判している(S.117)(11)。その一方でクランプが,補助学校生徒と「白痴」が 混同されないように「精神薄弱」という用語を注意深く使っていると,肯定的とも思える評価をし ている。皮肉にも,「典型的な補助学校生徒は一人もいない(S.179)」というブッフホルツのレトリ

ックは,同じ様に補助学校生徒の「有用性」を強調したナチストの論法とどこか似ている。これも

出版統制下の限界と考えるべきなのだろうか。

(11)

荒川1ナチズム期障害児教育の日常       267

3.教育の論理・常識の維持とナチズム体制による侵蝕

(1)学校の軍国主義化

ブッフホルツの著書に描かれている補助学校の日常は,ナチズム期の障害者迫害から連想される ものとはかなり異なる様相を呈しているかもしれない。彼女がどのような意図とまなざしで子ども を見ていたかということを差し引かなければならないとしても,子どもたちはお互いの生き生きと したやり取りや交流の中で,伸び伸びのと成長しているように思えるし,教師の側も,必要以上に 子どもに干渉するわけでもなく,また教師の側も行政や管理職から日常の実践について取り立てて 干渉されることもなく,教科書や教材も自由であったという。予想以上に教育の論理に支えられ,少 なくとも教育者の良心や常識が通用する日常だったといえよう。今の日本の学校教育よりも自由が 認められていたようにさえ思える。もちろん彼女の実践は例外だったのかもしれないが,しかしこ うした実践がナチズム体制のなかで可能であったのも事実である。いや,一般的にいっても,例え ば国語の教科書にヒットラー賛美の文章が挿入されていても,実際の読み書きの指導や作業の指導 に関してナチズム固有の論理があったわけではなく,ブッフホルツに限らずそれぞれの教師にかな りの裁量が認められていたのではないだろうか。少なくともイデオロギーとは距離をおいて,純粋 に専門的・技術的な仕事に徹する(閉じこもる)こともできなくはなかったようである(12)。

こうした日常を仮にハーバーマスのいう「生活世界」,すなわち了解に基づく行動調整がなされ,

コミュニケーション的行為が可能な世界ととらえるとして,ではこうした当たり前の世界はそれと してどこまで貫徹できたのかどうかが問題となろう。ハーバーマスにいわせれば,学校現場は常に 関係者の直接の了解が及ばない,むしろ別の論理で始動し増殖する「システム」との攻めぎ合いの 場であるからである。すなわち,ナチズム体制下の政策は,教師に明確に意識・自覚されないまま,

日常の教育実践に潜行して影響を及ぼしていくことも珍しくないのである。

仮にドイツの伝統にしたがって「教育」(Erziehung)と「教授」(Bildung, Unterdcht)を区別するな らば,教授においは教師の裁量に委ねられることが比較的多かったとしても,ナチスが重視した「教 育」においてはファシズムや軍国主義的な雰囲気を免れることは容易ではなかったのではないか。ブ

ッフホルツの著書ではこうした問題についてはほとんど触れられていない。少なくともそれを批判 的に取り上げることは政治状況からしてできないし,得策でもなかったであろう。ここではキール ホルン・シューレを例にして,学校生活や学校運営がどのようにしてナチズムに浸食されていった かをみてみよう。同校のナチズム期の日誌には,次のような記述がある㈹。

(1933年3月13日)・黒白赤の三色旗(第二帝制期の国旗)とハーケンクロイツが用意されたこと。

(3月14日)・「黒赤黄の三色旗(ワイマール期の国旗一筆者注)が焼かれる。」

(8月11日)・「学校監督局の指令によりドイツ式挨拶(ヒトラー・グリュッス)が導入される。」

(9月5日)・「校長が上級クラスのためにヒトラーに関するマンホルド出版の児童書の購入を提案す る。シリーズrドイツは目覚める』が試みに発注される。」

(1934年4月13日)・教員のNSLBの活動への参加の際の便宜について。

(5月11日)・授業の開始と終了時のヒトラー・グリュッスの徹底 文部時報で

(8月8日)・学校会議の報告:「政府の出す新聞の小記事はすべて職務命令と見なされるべきである。」

(12)

・指導者養成コースへの参加状況の照会

・帝国少年指導部の課程の役割分担について。「子どもは日曜は家庭に属すが土曜は原則として党の ために開けておくべきである。10−14歳の組織に属している生徒はすべて土曜日に学校を休みにする こと。未組織の生徒は,土曜日には身体訓練と工作,および最低2時間は国家社会主義的思考剤が与 えられるべきである。」校長が新しい時間割りを考案

(9月14日)・7月の布告に基づき,エーベルト,その他の社会民主主義者の写真を教室から除去した

こと。

(1935月8月20日)・学校会議の報告:非ゲルマン的な直観教材の除去すること。学級旗を禁止し,校 旗については伝統を現すもののみハーケンクロイツとならんで行事の際に掲揚すること。

・HJとの協議で,補助学校生徒については適切なものだけが組織に入ることが取決められたこと。

(12月13日)・再び子どもからのヒトラー・グリュッスの徹底について

(1941年5月15日)・連絡将校による「軍事精神の教育」の講義。子どもの教師への態度,ヒトラー・

グリュッスの徹底などについて。

(6月28日)・「子どものHJ奉仕を考慮して,水曜と土曜の最後の時間には水泳を行わないようにすべ きである。」

・国民学校での私的な宗教教授の禁止の布告に注意すること。

・教師の教会からの脱会に不利がないようにすること。

(10月31日)・HJの生徒は水曜と土曜は12時半下校

・ユダヤ人や移民の著者の教材の排除を徹底すること。:

そのほか,1937年3月24日付卒業式や12月17日付「両親の夕べ」(Elternabend),あるいは1938年1 月29日付学校祭などのプログラムによれば,クリスマスにちなんだ行事では,多くが「きよしこの 夜」を始めキリスト教に関わる詩や歌が盛り込まれているのに対し,別の行事では,「旗の行進」か ら始まり,「総統に捧ぐ」「ハーケンクロイツ」といったヒトラーや民族を礼讃する歌や詩で占めら れ,再び「旗の行進」で締め括るというように,ナチス・イデオロギー一色といっていいような内 容となっている(14)。行事ごとに趣を変えることで,逆に教化・宣伝効果が狙われているといえよう。

また,ヒトラー・ユーゲントの活動の影響が,授業時間や内容にも影響が及んでいることが分かる

㈹。もちろん,ヒトラー・グリュッスの徹底が再三強調されるのは,それに従わない子供が少なく ないことの現れでもあり,教師や子供の内面に,どこまでナチズムが浸透していたのかは,これだ けでき分からない。しかし,日常の行動面は,じわじわと縛られていったいく様子がここから読み 取れよう。

(2)優生政策の魔の手

しかし,教育を根底から歪め,崩壊させていったのは教育政策よりも,学校の外側から,とりわ け優生政策と戦争であった。前者についての学校日誌の記述をみてみよう。

(1935年1月30日)・校長が,特殊学校教員の講習会といくつかの学校参観の様子について報告。講義

のテーマ「補助学校と断種」で,すべての教員による生徒の家庭調査の必要が説かれたこと。

(13)

荒川:ナチズム期障害児教育の日常       269

(1937年1月22日)・「すべての教員は,生徒の優生についてできる限り徹底的で詳細な調査を行う義 務がある。」

(2月23日)・優生法についての両親への説明会を設け,思い違いを啓蒙すべきである。補助学校に通 うすべての生徒は,もし遺伝病であるならば断種されるということなど。」

(1938年8月24日)・個票への兵士としての適性をの記載すること。

・「保健局に対して,補助学校卒業生の調査にの際には教員一人を動員してもよいことが校長から提 案された。」

(1940年6月20日)・保健局は家計調査は詳細なものより迅速な実施を望んでいること。

(11月26日)・10歳の遺伝病の生徒のリストが作成されるべきこと。

(1941年2月5日)・遺伝病のリスト記載はあまり一般的にならないよう,法律で規定された「先天性 精神薄弱」を用いること。:

一般的には,ナチズム期初期には優生政策との関係が盛んに論じられたのに対し,30年代後半には,

国家・経済的有用化の方が協調されるようになるとされている。しかし学校現場では,断種への協 力はむしろ35年を過ぎてから具体的に強調されるようになったようにも思われる。とくに1938年の

「プロイセン補助学校に関する一般規程」で補助学校は断種対象者の把握のための情報源,すなわち

「貯水槽」と位置づけられ,生徒たちには補助学校に在籍していたというだけで,後の過酷な運命が 待っていた㈹。

日誌には,優生当局からナチズム期以前の卒業生に対しても情報を求める文書が残っており,執 拗な追跡が合ったことを伺わせる。ブラウンシュバイク市公文書館に残されている補助学校生徒の 個票(Personalbogen)を見ると,「遺伝的負荷」すなわち両親・祖父母や兄弟の精神・神経疾患,梅毒,

飲酒,犯罪歴,婚姻外出産などの有無に関する項目では,1926年度入学者で無が10人,有が20人,27 年度入学者で無が13人,有が15人になっている(17)。彼等はナチズム期にはすでに卒業し,断種措置 の対象年齢となったはずであり,こうした資料は,直接優生政策に利用されていったと思われる。

ベルゲドルフ補助学校も同様であった。ブッフホルツは,何人かの卒業生について記述している が,そのうちの一人ハイニという生徒(12人の一人とは別人)が,断種されたことを苦にしてガス 自殺を図ったことに触れている。彼は卒業後船員となり,世界各地を回っており,そのことを度々 学校に来ては報告していた。ちなみに東京にも来たことがあり,伝統細工のお土産を持参し,また 富士山が日本のシンボルであることを話していたという(18)。

ゲルトルートという名の女子生徒については,もっと衝撃的である。これに関してはエルガー・リ ユットガルトが本人の聞き取りも含め詳しく調査しているので紹介しておこう㈹。彼女はクラスの 中では比較的能力の低い方に分類されていたようでもあるが,知能は正常で家庭環境に問題がある というブッフホルツの評価もある。彼女は1936年にベルゲドルフ補助学校に来て,39年に同じハンブ ルク市内のアルトナの補助学校に転校している。送別の時にブッフホルツから送られた写真は今で

も彼女の手元にあるという。

1939年10月に,ハンブルク州少年局の上級医師が優生裁判所に彼女の断種を申請する。14人兄弟の

10番目に生まれ,他の3人の兄弟も補助学校に通っていたために「先天性精神薄弱」と疑われたので

ある。当然ベルゲドルフの補助学校にも照会がくるが,校長は参考資料としてブッフホルツの上の

(14)

ような評価を送った。アルトナの校長も,「性格は非のうち所がなく,知的発達も同様にとても進歩 を示した」ので「彼女は民族共同体の有用な一員になることを確信する」といった評価をしている⑳。

アルトナの校長は「知的に底辺にある」「性格的に劣等」の子どもについては躊躇なく断種の必要を しているとのことで,ブッフホルツが単に子どもを断種から守るために苦し紛れに過大評価したと は考えられない。精神科医と評価が完全に分かれたため,40年7月の時点では結論が出ず,2年間手 続きを中断するが,その間,裁判所長から教育局ヘブッフホルツが優生学に無知でナチスに敵対的 であると非難する書簡が送られている。

「ナチス的遺伝・人種保護思想に世界観をもって一致できない(女)教師は,ナチス国家において は教職を辞する義務がある。」「Dr.ブッフホルツ女史が優生裁判所に尊大にも差し出した環境決定論 を,さらに極端な形で生徒の授業に持ち込むことが心配である。⑳」ブッフホルツも文章上の表現 を工夫しつつ反論し,また教育局にもたまたまブッフホルツに好意的な人物がおり,彼女が決して 優生学に敵対的ではないと弁護したため,彼女自身は辞職は免れた。しかしその後,ゲルトルート についてはもっぱら「医学的見地」による審議が行われ,44年1月に断種決定が下され,4月に処置 された(22)。1939年の指令によって重度のケースを除き断種は中止されたことになっているが,それは 形式的なものにすぎなかったことがこれでわかる。戦後,幸いにもゲルトルートは結婚したが,現 在は未亡人として(当然子どももなく)孤独な生活を送っているという(23)。補助学校のもつ「劣等 者」の把握という優生学的意義は,民族共同体の有用な一員を育成するというもう一つの教育的(経 済的)意義をはるかに凌駕していったのである(24)。

(3)戦争の影響

戦況がドイツにとって次第に不利になり始めると,当然,学校教育にも直接・間接に影響が及ん でいった。キールホルン・シューレの学校日誌には次のような記述がある。

(1939年9月13日)・教員が動員され,防空壕の拡張されたこと。

(1940年2月23日)・「教員不足を解消するために,復活祭の日をもってすべての授業担当時間軽減の 措置を中止する予定である。休職中の教員が再び配属される子とが可能である。」

・復活祭の後は校外の宗教教授に後者の使用させないこと。

・休暇中の教員は,ナチや行政へ協力すること。

(1941年2月5日)・長期に亘ってKLVに滞在する場合,警察へ報告し当地で通学をすること。

(1941年10月31日)・「夜間の空襲があった翌日は10時始業で統一することが確定した。」

実際に,多くの教員が兵役に就くことで,教員の不足が深刻になり,補助学校の教員も直接戦場 に赴くか,国民学校の教員不足分を補うために配置転換を余儀なくされるようになる。さらには空 襲によって授業そのものが中断されるようになってくる。キールホルン・シューレの学校日誌では 1943年の夏頃から空襲の記録が頻繁に現れ,44年になると記載の大部分を占めるようになる。こうし て,教育の営みそのものが困難になっていく。

他方,ブッフホルツはすでに1941年11月にバイエルン地方への疎開に随伴している。KLV(Kinder一

landverschikung)と呼ばれたドイツの疎開は,1940年8月のイギリス空軍によるベルリン空襲を契機に,

(15)

荒川:ナチズム期障害児教育の日常       271

同年10月から開始されたもので,ベルリン,ハンブルクなどの主だった都市からから4年間にわたり 約500万人の子どもが,ドイツ国内だけでなく,東欧やオーストリアなどの占領地域へ移送された。

ただし対象は基本的には健康な子どもとされており,補助学校生徒がどの程度受け入れられたかの かははっきりしない(25)。ナチス教員同盟も,ナチス国民福祉団やヒトラー・ユーゲントなどと共に その業務を担当することになっていたので,ブッフホルツも職場を離れて,疎開対象の子供たちの 指導に当たった。キャンプでの生活は,衛生など様々な面で細かく管理されてはいたものの,最初 の頃はさほどの危険も衣食住の不便もとくになく,彼女によれば「この時期が生涯の最も素晴らし い時のひとつ」であったという。学校教育が機能しなくなることで,逆に例外的状況の中でだれに も干渉されることなく,本来の教育的活動が可能となり,子どもたちもまた正規のカリキュラムや 学校組織から解放され,食糧調達のためのハイキングといった楽しい思い出をもつことができたと いうのはやはり皮肉である(26)。しかしそれもつかの間であった。占領地域の蜂起や連合軍の反撃が 迫ってくると,子どもたちはより安全な場所を求めて長い距離を移動しなければならなくなる。ブ

ッフホルツは,45年4月22日の日記に記している。

「今,後援のKLVキャンプから来た4000人の子どもが街道で横になって休んでいる。子どもの十字 軍遠征!4週間も前からこの子どもたちは,毎晩20キロの夜間行軍を続けている。ロシアの低空飛行 の攻撃があるので,昼間の行進は不可能なのだが,夜の歩行は,暗さと街道の車の頻繁な往来のた め,子どもたちの生命と健康を脅かしている。……神よ,どうかこの計画がうまくいき,子どもた ちが敵の手に落ちないよう。(27)」

この大移動は,占領地域のチロル地方(オーストリア)に向かうものであったが,ここにはもは やナチスの政策の矛盾を洞察したり,ましてや教育の論理を云々するような余地はなく,ただ彼女 の無力で悲痛な願いが伝わってくるだけである。

おわりに

今からすれば,ナチズムのイデオロギーにもとつく優生政策と戦争政策が,障害者を迫害し,障 害児教育を歪め,破壊していくことは,必然の成り行きだった。しかし当時そうしたことを明確に 予測できた人は皆無であった。むしろ日常の実践において,関係者が気づかぬうちに,いや以前と 変わらない,教育の論理と常識が通用すると人々が思い込んでいる日々の中で,事態は崩壊へと進 行していったのである。

キールホルン・シューレは1944年2月10日の空襲で大きな被害を受ける。さらに10月15日のブラウ ンシュバイク大空襲で,完全に崩壊してしまう。その後仮校舎の間借りもうまくいかず,校長も他 校に転属になり,そこでこの学校の運営にもあたった。戦争が終わり,1945年9月10日に,学校は再 開されることとなるが,しばらくは石炭もなく,授業が完全に行われるようになるのは12月20日に なってからだったと日記で記録されている。最後に,空襲の日の日誌の記載を紹介しよう。

「44年2月10日の11時20分に空襲警報がなる。約180人の子ども,全生徒の3分の1が教師と一緒に

防空壕に入る。4分後,全教室が空になる。子どもはマントなどを着て,ランドセルや本などは教室

に置いていく。沢山の訓練で,素早い避難や万が一の非常口からの退出は,荷物がないほうが容易

(16)

に可能であることが強調されていたからである。子どもは北と南の地下壕に半分ずつ入り,ずっと 一いつものように一静かにしていた。数か月来の頻繁の警報に彼等は慣れていた。約20−25分後我々 の南の壕では,機械の騒音,対空砲火,爆撃の音が聞こえた。11時56分,物凄い爆撃がすぐ近くであ った。直ぐに停電した。埃と煙と火薬の臭いが入ってきた。沢山の子どもが叫び出し,不安で教師 にしがみついてきた。我々は用意してあった蝋燭にまず火をつけ,子どもを静めたので,パニック を避けることができた。用務員のゲルブリヒトが,埃まみれで青ざめた顔をして防空壕に入ってき て,校庭に高性能爆弾が,カフェーヴェーテ通りに焼夷弾が落ちたと教えてくれた。我々教師が上 にあがってみると,ゾッとするような崩壊した光景があった。2,3の爆弾が本棟の後ろ側に命中し,

地下室を押しつぶし,大きな穴が校庭に開いていた。がっしりした新棟も一部壊れ,教室の中が見 えていた。正面玄関の隣と上の教室は廃壇のようになっていて,椅子やその他の設備は壊れ,傷つ き,散らかっていた。暖房室の台座は押しつぶされていた。校舎の東部分は土と瓦礫に覆われてい た。カフェーヴェーテ通りとブライテン通りでは家が燃えていた。子供たちが防空壕で待っていた ので,我々は長い時間見て回ることはできなかった。

火に囲まれないように,我々は子どもたちをオーカー通りの防空壕へ連れていくことにした。怪 我をした子はいなかった。防空壕を出て外の混乱をみると,子どもたちの,多くが激しく泣き始め た。校庭では瓦礫の上を,ブライテン通りではくすぶった角材の上などをよじ登ったりしなくては ならなかった。ノイエ通りでは大きな弾孔があった。オーカー通りの学校は直撃を受けていた。べ ッカークリントではもっと多くの家が燃えていた。町中,通り中に煙が立ち込めていた。防空壕に 着いて,すぐに警報解除となったので,子ども達を家に帰せるようになった。小さい子の一部は,学 校に一緒に連れて行かなければならなかった。彼等はオーカー通りから一人で家に帰れなかったか らである。名前を書いた者は,また学校に行った。すぐに最初の親が姿を現し,自分の子どもの安 否を尋ねた。用務員が,本棟ではだれも怪我をしていないと報告した。親達はすぐに落ち着いた。学 校の中は雑然としていた。至る所に瓦礫,ガラスの破片,ゴミが散らかっていた。職員室では壁が 崩れそうになっていた。教室の内壁は体育館のほうに傾いていた。学校はもう使えない。授業は当

分中止である。」

(1)Ellg・・−RUttg・・dt, S., Di・Hilfssch・1・im N・ti・n・1…i・li・m・・und ih・e F・・schung d・・ch die

Behindertenpadagogik.;Keim,W(Hrsg.)P註dagogen und Padagogik im Nationalsozialismus,1988,

Frankfurt a.M., S.134.

(2)Ebenda, S.135−136.

(3)Buchholz, F., Das brauchbare Hilfsschulkind,1939, Weimar.

(4)ただしエルガー・リュットガルトによれば,彼女は生活や両親のことを配慮して1933年にナチス教員 同盟に加入している。しかしナチス入党の誘いはあくまで断った続けた。Ellger−mttgardt, S., Die

Kinder, die waren alle lieb−,1987, Weinheim S.52.

(5)Buchholz, a.a.0., S.1.

(6)それらのいくつかはすでに紹介してあり(荒川智,「ナチズム体制と障害児教育・序説2」r西洋教育史

研究』第22号1993年pp.109−118),さらに詳しくは別稿で扱うこととする。

(17)

荒川:ナチズム期障害児教育の日常       273

(7)10月24日と11月3日の自由作業の様子を見ると,ハイニ,アルベルトが印刷,フランツ,カールが 新しい城塞作り(砂場作業),クルト,ロルフが城塞作りの継続,アルトゥール,ウニ,ルーディ,パ

ウル,アンニがそれぞれ一人で小さい城作り,エリカは計算問題と記録されている。

(8)例えばフランツは学習でよくアルトゥールを助けていた。

(9)例えばgro∬enをgruBen, deutschesをdeuschesと綴る癖があり,おしゃべりが多く,集中力に欠けて いるからだとされている。

(10)Ellger−R茸ttgardt, S.,1987 a.a.0., S.55−56.ペーターゼン自身はナチスに迎合的な態度を取ったのに対

し,ブッフホルツはそれを潔しとしなかったともされている。

(11)なお,クランプについては荒川,rA.クランプのナチズム期補助学校教育論」r茨城大学教育学部紀 要』第47号1998年pp.165−180。

(12)これについては,荒川(1993)前掲論文を参照されたい。

(13)Tagebuch der Kielhornschuleより。 Braunschweig Stadtarchiv E48011 Nr.8−10.

(以下の引用・参照にあたっては,Bleidick, U.(Herg.), Heinrich Kielhorn und der Weg der Sonder一

schule,1981, Braunschweig, S.101−110に転載されているものもあわせて利用した)

(14)学校日誌に糊づけられていたプリントによる。

(15)しかし,通常の学校でよく問題となったヒトラー・ユーゲントと教師との確執が,補助学校ではどの ような形で表れたのかについてははっきりしない。参考として,ゲッチンゲンでは,1940年の時点 で,通常学校の生徒の100%近くが,ヒトラー・ユーゲントに加盟していたのに対し,補助学校生徒 の加盟率は,男子が約30%,女子が約45%であった。Berthold Michae1, Schule und Erziehung in Griff

des T6talitaren Staates,1994, G6ttingen, Anhag XIII.

(16)ゲッチンゲンでも,すべての学校が,子どもの多い家系の生徒や落第児の成績について,情報提供す ることをヒルデスハイム県知事から直接指示されていたという。Ebenda., S.76.

(17)Braunschweig Stadtarchiv E48011 Nr.IV.より。なお,33年に,それまでのHeege, Johannesに代わっ て校長になった,Pape, Wilhelmはナチスに非常に協力的であったことがうかがえる。前任者のヘー ゲは46年に校長に復帰している。

(18)Buchholz, a.a.0., S.173−174.

(19)以下の内容は,Ellger−ROttgardt, S.,1987, a.a.0., S.85−96による。なお,ブッフホルツの著書には,ア

ンニ,H.がゲルトルートの援助をしているという記述がある(Buchholz, a.a。0., S.85)。

(20)Ebenda, S.87−88.

(21)Ebenda, S.91.

(22)Ebenda, S.95−6.

(23)エルガー・リュットガルトは,ゲルトルート本人にもインタビューをしているが,両者の会話の内容 からは,彼女が「精神薄弱」と見なされたこと自体いかに不当なものであったかがわかる。

(24)もっとも,これらは彼等が卒業した後のことであって,学校での生活や実践そのものへの直接の影響 を示すものではないのかもしれない。人種生物学の内容が教えられるということは,少なくともブッ フホルツの実践では見られない。しかし優生政策は生徒を取り巻く環境や雰囲気にには少なからず影 響していた。例えばヘルガはブッフホルツとの会話の中で,「友達が言ったの。私が大きくなったら,

やっぱり補助学校の男の子をつかまえるの,て」ともらし,子供心にも子孫の問題に悩み始めている

と記されている。Buchholz, a.a.0., S.21.

(25)KLVについては,イリスの会編著r切りとられた時』,阿咋社,1993年を参照。

(26)Ellgel−Rhttgardt,1987, a.a.0., S.103−107

(27)Ebenda, S.115.

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