その他のタイトル The construction of The three of Tang Temple in Nagasaki and the Kantei faith in the early Edo period
著者 陳 莉莉
雑誌名 文化交渉 : 東アジア文化研究科院生論集 :
journal of the Graduate School of East Asian Cultures
巻 10
ページ 209‑225
発行年 2020‑11‑30
URL http://doi.org/10.32286/00023404
江戸初期における長崎唐三寺の建立と関帝信仰
陳 莉 莉
The construction of The three of Tang Temple in Nagasaki and the Kantei faith in the early Edo period
CHEN Lili
Abstract
In the early Edo period, with the Shogunate’s increasingly harsh isolation policy. Chinese people resident in Japan were gathered in Nagasaki, bringing with them Chinese cultural traditions and beliefs. In order to survive the strict Christian prohibition and isolation order, these Nagasaki-based Chinese built their own temple, the Tang Temple as a place to pray for the safety of those at sea, to prove that they were non-Christian. The temple also became a place of spiritual sustenance for communication between fellow villagers in various places. With the arrival of the Chinese in Japan, the belief in the Kantei entered the Japanese Tang Temple as an object of worship. However, in the three of Tang Temple which was built in the early Edo period, the Kantei statue was enshrined not as the main god but as a side deity. His function as god was limited to blessing the safety of navigators and seafarers and the prosperity of commerce. However, the deity of the Statue of Kantei as a warrior god, a professional god, and a universal god was not reflected. The scope of an influence of this deity is limited to the Chinese in Nagasaki, and there is no record of it spreading to the local Japanese businesspeople and citizenry.
However, it laid the foundation for the spread of Kantei belief in the middle and late Edo period, and also prepared for the prosperity of the Meiji period.
Keywords:長崎、華僑、唐寺、関帝信仰
はじめに
三国蜀の武将である関羽は、関帝として唐宋から明清にわたって広く信仰された。儒教では
「文聖」孔子と名声を等しくする「武聖」の栄誉を担い、仏教では「伽藍菩薩」として奉られ、
道教では「伏魔大帝」「関聖帝君」と尊崇され、三教で共に尊ばれた神として、中華の人々に最 も広く信仰されている神である。中国国内には言うまでもなく、東アジアでは日本、韓国、東 南アジアではベトナム、シンガポール、マレーシア、タイまで、さらにアメリカ、オーストラ リアまでにもその信仰は広がっている。華人・華僑がいるところに、必ず関帝信仰があると言 っても過言ではない。
元末明初以来、中国沿岸を頻繁に襲撃する倭寇の問題は二百年以上続いた。それに対する海 禁政策も、明王朝では一貫したものの、日中間の密貿易が横行した。貿易による暴利、日本各 地の生糸や絹織物などの需要を求め、室町期の地方の大名は発展のため、貿易を奨励した。そ のために両国間の貿易船の往来は頻繁であった。それを背景に、密貿易商人や亡命者、入寇し た者、倭寇に捕られた俘虜、明清交代期に日本に避難してきた文人、明将や遺臣たちは次々に 九州及び周辺諸島を中心として日本に居留してきた。その後、日本は鎖国施策を厳しく実施し つつ、貿易は長崎一港に制限され、各地に居留していた華僑も長崎に集中して江戸時代初期の 華僑社会が形成された。これらの華僑は中国文化、伝統、信仰なども日本に伝え、日本当地の 文化と接触、融合、再生していた。関帝信仰もその中の一つである。本論は江戸時代初期長崎 唐三寺の建立、当時の関帝信仰について考察する。
一 唐寺建立の縁起
唐の時代ではないにもかかわらず、明や清の時代になっても中国のお寺を唐寺、中国人を唐 人、中国語の通訳を唐通士、日本在住の中国人に建てられた寺院を唐寺と言い続けていた。江 戸時代初期に、長崎に創建された興福寺、福済寺、崇福寺という唐三寺、さらに聖福寺を加え て長崎四福寺と言われ、これらは唐寺とされた。1624(寛永元)年に南京などの江蘇省および 浙江省出身の華僑たちの菩提寺として、興福寺が創建された。次いで、1628(寛永五)年に、
福建省北部の泉州、漳州出身の華僑によって福済寺が創建され、ほぼ同じ時期1629(寛永六)
年に、福建省南部の福州の華僑が崇福寺を建てた。その創建に携わった人々の出身地域にちな んでそれぞれ「南京寺」、「泉州寺(漳州寺)」、「福州寺」とも称された
1)。最後に1677(延宝五)
年に、広東省広州の華僑たちは京都宇治の黄檗山万福寺の末寺として聖福寺を創立した。唐寺
1) 中村質「唐三か寺」『日本歴史大事典 3 』(小学館、2001年) 2 頁。が建立されるようになった背景は、キリスト教の禁教である。
1 .キリスト教禁教と鎖国令
織田信長は最も早く鉄砲を導入し、火薬の原料や、海外の珍しい品物を手に入れるため、キ リスト教の布教が許可された。厚遇して保護されたキリスト教は貿易から実利をもたらし、大 きな力を得ていき、信徒も増えていった。多くの大名が入信すると、その家臣や領民たちも影 響を受けた。
豊臣秀吉の時代になると、キリシタンが増え、信長の時代とは違い、神社仏閣が攻撃を受け、
長崎がイエズス会領になり、九州のキリシタン大名と宣教師たちが日本人の奴隷貿易に関わっ ていたため、天正十五年(1587)バテレン追放令が出され、キリスト教宣教師に国外退去を命 じた。警戒を強める中、サン・フェリペ号事件
2)が起き、秀吉は一五九六年に再び禁教令を出 し、日本二十六聖人が殉教した。
徳川幕府政権初期は、豊臣政権の方針を引き継ぎつつも、キリスト教禁教はそれほど厳令で はなかった。しかし、幕政を揺るがすような岡本大八事件などが起きたため、幕府もキリスト 教の禁教令を発布し、信仰自体も認めない政策をとることにした。その政策の一つは「寺請制 度」
3)である。これは日本人だけでなく、長崎に住む華僑をはじめとした外国人も対象となった。
興福寺所蔵の寛永十九年の「上諭」(キリシタン禁令)には:
4)本寺雖属媽祖香火道場、實乃祝国焚條、摧邪辯正之伽藍也。是昔起建之後,寛永壬午 十九年三月,曾蒙鎭主馬場三郎公,轉奉大将軍上瑜。言:唐船至崎貿易、重禁者莫如邪教。
仍恐唐船往来,混載南蛮悪党之人。況所来者不出南京、福州等處。故両三寺住持,凡唐人 上岸,入寺焼香頂禮,必須儼査,易得辯明白。又給此禁條張掛在寺,永遠流伝。
とあり、三唐寺共に同様の告示があった。以上より、三唐寺が当初の媽祖祠堂から禅寺に転換 したのは、キリシタン取締りを回避するための一種の手段であったことが分かる。華僑には寺 院を建立しても、相応しい僧侶がいなかったら、寺院として認められない。 そのため、縁のあ る故郷などから徳の高い僧侶を招き、隠元禅師などのような高僧が来日したのであった。ケン ベルの著書『日本誌』の中では、「長崎唐三カ寺に住む母国人に対する愛情と、仏法を日本に広
2) サン・フェリペ号事件とは、土佐に漂着したサン・フェリペ号の乗組員は拘束、積荷等が没収され、そ れに抗議する乗組員たちへのヒアリングでスペインのキリスト教を使った植民地化を秀吉が知ることにな った事件である。3) 「寺請制度」とは寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる 制度である。
4) 長崎市役所編『長崎市史・地誌編佛寺部』下巻(清文堂出版株式会社、初版1938年、再版1967年)222、
278、279頁。
め、キリスト教徒・仏教反対者に対して寺院を確保し、一種のカリフ国を建てようとの熱情に かられて日本に東渡してきた」
5)と言われるところからも、隠元の来日する頃の気持ち及び明僧 東渡の社会的背景が窺える。
江戸幕府三代目将軍徳川家光が相次いで出した「鎖国令」とは、寛永十年(1633)から寛永 十六年(1639)の間に江戸幕府が長崎奉行に発した国との通交・貿易を禁止する一連の法令を 指すものである。
6)その主な目的は幕府政権の統治を妨害したキリスト教の伝播を禁止すること 一方、幕府が国内市場を独占する優位を守り、貿易利益を占有するため、スペイン船、ポルト ガル船の貿易から排除し、並びに国内諸大名、商人の朱印船が海外貿易を行うことを禁止した のであった。
寛永十一(1634)年には「在宅唐人」の海外往来も制限を受けるようになり、翌十二年(1635)
には更に全ての日本渡航唐船に長崎一港は集中した貿易を行うよう命じていた。ここに至って 長崎以外に居住する唐人は長崎に移居して唐船との貿易を継続するか、現地に留まって現地の 日本社会へ融合するか、選択を余儀なくされた。鎖国令以前各地に成立していた唐人町はこれ により徐々に消滅し、長崎一箇所に集まってきた。
2 .唐寺建立の縁起
命がけの航海をして長崎にやって来た唐船には、守護神の媽祖神が祀られ、香花を供する者 や太鼓役が乗り組み、昼夜手厚く奉仕して航海の安全を願っていた。船が長崎に入港し、荷役 を終えて帰帆するまでの間、大切な媽祖神を安置するお堂として建てられたのが唐寺の始まり と言われている。『長崎寳録大成』に各唐寺建立の経緯を記載している。
元和 6 年(1620)に創建された東名山興福寺について
7)當寺開創ノ事ハ、元和六年唐僧眞圓當表ニ渡來リ、三ケ年ノ間今ノ興福寺境内二庵室ヲ結 ヒ住居セリ。其頃邪宗門御制禁嚴厲ナリシ時節、日本渡海唐人ノ内天主耶蘇教ヲ信敬スル 者混シ來ルノ由風聞專ラナリシ故、南京方ノ船主共相議シ、唐船入津ノ最初ニ天主教ラ尊 信セサルヤ否ノ事ヲ緊シク穿鑿ヲ遂ヶ、且ツ海上往來平安ノ祈願又ハ先主菩提供養ノ爲、
右眞圓ヲ開基ノ住持トシテ禪院ヲ創建成シタキ旨、御奉行所二相願フノ處免許有テ、東明 山興福寺ヲ開創シ、諸船主共布施寄進縁銀及ヒ香花料ヲ進呈シ、佛殿並船神嫣祖堂ヲ造立 シ、毎船持渡ル處ノ佛神ノ像ヲ殘ラス寺内ニ持來シメ、住持眞圓ヲ始寺中ニ役僧ヲ立置、
委細可遂吟味ヲ旨第一肝要ノ寺役二被仰付之、市中ニテ南京寺ト稱ス。
5) 『The History of Japan』Vol.1 Chap. XV。平久保章『隠元』(新装版、吉川弘文館、1989年)69頁。
6) 『中国文化と長崎県』(長崎県教育委員会)33頁。
7) 『長崎寳録大成正編』(長崎文献第一集・第二巻、長崎文献社)133頁。
寛永五年(1628) に創建された分楽山福済寺について
8)當寺開創ノ事ハ、寛永五年唐僧覺海當表二渡来レリ。其頃漳州方ノ船主共相議シ、唐船入 津ノ最初二天主教ヲ尊信セルヤ否ノ事ラ緊シク穿鑿ヲ遂ケ、且ッ海上往来平安ノ祈願又ハ 先亡著提供養ノ爲、其頃薩州二住居セシ唐人陳沖一、同子藤左衛門ヲ檀越ノ頭取ニテ、右 の覺海ヲ住持トシテ、禪院ヲ創建成シタキ旨……市中二テ漳州寺ト稱ス。
寛永六年(1629) に創建された崇福寺について
9)當寺開創ノ事ハ、寛永六年唐僧超然當表二渡来レリ。其頃福州方ノ船主共相議シ、去ル元 和六年、南京方二興福寺、寛永五年漳州方二福濟寺、開創有シ例二準シ、唐船入津ノ最初 二天主教ヲ尊信セルヤ否ノ事ヲ緊シク穿鑿ヲ遂ケ、且ツ海上往米平安ノ祈願、又ハ先亡著 提供養ノ爲、林仁兵衛ヲ檀首ニテ右の超然ヲ住持トシテ、禪院ヲ創建成シタキ旨…… 市中 二テ福州寺卜稱ス。
とある。『長崎寳録大成』の記録によると、三唐寺は日本におけるキリシタン禁制を回避して 自ら「仏教徒である」と証明するため以外、航海安全祈願と先祖供養も寺院創建の主な目的で あることは明らかになった。そういった経緯で建立された唐寺が、同じ郷里からの出身者が集 う場(会館の形)としてコミュニティを形成する働きも持ったものと思われる。
二 唐寺の機能
寛文八年(1671)に年没の即非の遺嘱「鎮山門法度六則」
10)は唐寺の機能と僧の任務について 明示した。
一、 三寳伽藍・媽祖看燈、及旦辰年節、供養如常、
二、 広福庵、曇子為守塔守山設、常住当五衆口粮、永遠看守、
三、 住持,監寺、凡常住題縁、只用茶果蔬餚、大商長者、信心植福、檀越居士、為法相陪、
必不責汝世礼也、
四、 檀越布施、皆汗血辛苦中流出、朔望且夕、当為呪願生理如意、平安往来、其縁勿得軽 用、因果可懼、凡修造寺務、当与本寺檀越公議、勿得擅任、
8) 前掲『長崎寳録大成正編』143頁。
9) 前掲『長崎寳録大成正編』145-146頁。
10) 内田直作「在日華僑団体の沿革:寺院団体時代」(『東京商科大学研究年報』、1943年)218頁。
五、 徒衆只好在山参学、朝夕課誦、作行作福、時々教其知、慚識愧無事、勿得出街、縦成 放逸、
六、 本寺諸檀越、內外護、当竭力衛護、正気相扶、其功徳必与福海寿山同悠久耳、
その第一条は仏寺としての三宝・伽藍と唐寺信仰としての媽祖の香灯を並列し、引き続き供 養を怠らないように諭している。第二条は別として、第三条、第四条では寄進の使い方ついて 濫用することができず、寺側の専断も許さない。檀越の布施に関しては朝夕、朔と望の日にそ の商業の繁昌と往来(航海)の平穏ならんことを祈願すべきとした。第五には参詣参禅の一般 人の教化も大切であるが、街への外出は慎むべきこと。最後の六には諸檀越の布施や内護外護 を極力護してあげるべしといった。このように、唐寺には仏寺としての機能と媽祖廟としての 機能を併せ持ち、ことに後者の性格から檀越との物心両面での連帯が特に強調された。このこ とは、当時一般の日本寺院の寺請けという統制機関であったこととは著しく異なる点であろ う。
11)内田直作によれば唐寺を聖界と俗界の混淆による「聖俗の複合ギルド」と規定される。
12)この法度は殆ど仏法に触れず、媽祖香灯を取り上げ、檀越の航海安全と商業繁昌、檀越の邪宗 門の嫌疑、その政治的経済的の圧迫からの守護などが唐寺の主な機能であることを明示したと 言えよう。以下唐寺の主な機能について具体的に見ていくことにする。
1 .唐船媽祖の安置と航海安全の祈願
元々唐寺の機能の一つは日本にやってきた唐船の航海安全を守る天后聖母(媽祖)を臨時に 預けることであった。唐船が港に入った後、菩薩揚げという行事を行い、反対に唐寺などの媽 祖堂から唐船に乗せることを「菩薩卸し」と呼ぶ。西川如見は『華夷通商考』の中で「長崎に 来る唐船、津口にて必ず石火矢を放つ。碇を入れば必ず金鼓を鳴らして祝ふなり……。又、同 津の中、一船荷役の後、菩薩を船より下し、又は帰帆の時、著薩を乗する事あれば、最も路次 すがら金鼓を鳴らし劇帆吹く事なり。すでに其船に到りぬれば、湊中の類船ことごとく金鼓を 鳴らす事三々九遍。」
13)と述べている。『長崎名勝図絵』には菩薩上げの具体的な流れを記載して いる。
船毎にぼさ棚といって、船魂神を配る所を設け、天妃の像を安置し、航海中は昼夜朝暮 怠なく礼拝し、海上安全を祈る。そして船が無事入港し、碇を入れた後は、唐人は皆上陸 して、館内に移り、船中の神像を祀るものがいなくなるので、南京寺(興福寺)、福州寺
(崇福寺)、漳州寺(福済寺)の三寺に輪番を追って捧げ持つ。昔は各船が帰衣する寺に納
11) 福岡ユネスコ協会『外来文化と九州』(株式会社平凡社、1973年)252頁。12) 内田直作『日本華僑社会の研究』(大空社、1998年)69頁。
13) 西川如見『華夷通商考』(京都 : 今井七郎兵衛、1708年)
めたが、寺により多寡があったり、全然なかったりして、年々不均衡を生ずるので、近頃 は三寺の輪番で納めている。聖福寺は唐寺であるが、ぼさ揚げはしない。在津中の奉護を 託するのである。そのやり方は、香工の唐人が、二箇の燈篭を先きに立てて、左右に列ん で歩く。次ぎに銅鑼を持つニ人左右に列び持つ。次に直庫(鉄鈷とも書く、長さ六尺程の 棒の頭に、赤い木線を結びつける。これを持つ者をテッコ振りという)を持つ。次に老媽 の像(多くは木像。うしろから団扇をかざした像で、左右に待女の像がある。前に千里眼、
順風耳の像、或いは神虎を置く。神虎は土神の使い。館内土神廟にもある。)を台上に安置 して捧げ持つ。左右に旗を持ち、後から蓋傘をさしかける。守護の唐人が両三人。通事や 役人も付添って行く。途中四ッ角にくると、銅編を鳴らし直庫を振る。(直庫振りは、長植 黒衣に黒報子の像形をなす。)直庫を振る時はまず、鉄鈷を袖の上に横たえ、両足で地上に 心の字を蹈むという。振り終って東に行こうとする時に、鉄鈷の頭を束に向け、西に行く 時は西に向ける。南、北また同じである。そして上下左右に振り、手足の進退は種々に曲 節をなす。この手段は数曲あって、曲には皆名前があるという。振っている間、銅鑼を打 ち鳴らし、曲勢をたすける。寺に到着すると、山門、中門、関帝堂の前、媽姐門、媽祖堂 で、銅鑼を鳴らし鉄鈷を振る。誰か過ってその前を横切ったりすると、また改めて振り直 す。これは障魔汚稜を抜い除くための仕業である。これが済むと老媽の像と鉄鈷を媽祖堂 に納めて、館内に引き揚げる。出船の前には、同じようにこの像を守護して、帰って船中 に安置する。
14)『長崎名勝図絵』の記録には、当時の唐人たちの航海途中に守護してくれた媽祖を丁寧に唐寺 に祭祀する盛大な場面が反映されている。江戸時代に命をかけて長崎に貿易にやって来た商人 たちは媽祖の保護に感謝し、そして媽祖を敬虔に信仰していたことがよく分かる。
2 .中国の伝統的な年節祭祀の催し
唐寺の機能は祠堂以来の媽祖を祀り、往来唐船の海上の平穏を祈り、唐人貿易業務の守りな どだけではない。唐人の聚集地として、郷愁を柔らげ、郷幇の連帯感を強める重要な役割も果 たした。中国の伝統的な年節祭祀の催しも、唐寺の機能の一つである。『長崎市史』所載の各唐 寺の年中行事から摘出すると次のようである。
表 1 唐寺年中行事表15)
正月 過年祝聖
正月十三日 関帝祭
14) 饒田喻義『長崎名勝図絵』(長崎文献社、1974年)153頁。
15) 前掲『長崎市史・地誌編佛寺部』下巻 393-396頁。
正月十五日 上元(元宵)
二月十五日 涅槃会
二月十九日 観音祭(観音大士成道忌)
三月二十三日 媽祖祭 三月(不定日) 清明節
四月八日 釈尊降誕祭
五月十三日 関帝誕辰(正月・九月より盛大)
五月十五日 水神祭
六月二日 韋駄天誕辰
六月十九日 観音祭
六月二十四日 地蔵菩薩祭
七月上旬 館内土神祭(三ヵ寺輪番で執行)
七月十五日 中元(盂蘭盆会)・三官大帝祭 七月二十三日 媽祖祭(崇福寺)
九月九日 重陽節
九月十三日 関帝祭
九月十九日 観音大士誕辰
九月二十三日 媽祖祭(崇福寺)
十月十五日 三官大帝(大道公)祭(興福寺だけ)
十一月十七日 阿弥陀如来誕辰 十一月二十一日 冬至
十二月八日 仏成道忌
十二月二十四日 三聖上天(福済寺)
上の祭礼からみると、道・仏混淆的な性格は明確である。各唐寺に祠堂時代の祭りを引き続 いたが年三度の媽祖祭や関帝祭など三ヵ寺が同一日に同時に執行するのではなく、三ヵ寺で交 替に行った。「一日一夜之祭…昼は菩薩祭、夜は読経…。但し、春船ハ興福寺、夏ハ崇福寺、秋 ハ福済寺…に相定」
16)もっとも船頭共は一艘より銀子三枚を出し、参詣の唐人数は一船より船頭 を含めて五人当てを制限され、すべての唐人が参加できるわけではなかった。しかし、住持を 含めた同郷人が一堂に集合地として幇的結合を維持するのは重要な要素の一つであった。それ も宝永五年三月には参詣禁止となり、唐寺にとっては資金的にも精神的にも打撃であった。
3 .救済と調停
唐寺は遭難した船員への救恤、飢催発生時の救済、唐館火災時の避難所などの機能を果たし ていた。李獻璋氏は『唐通事会所日録』にて各唐寺は遭難船に対する救援活動の記録をまとめ た。
17)16) 東京大学史料編纂所『唐通事会所日禄』(一)(東京大学出版会、1958年)265頁。
17) 李獻璋『媽祖信仰の研究』(泰山文物社刊、1979年)554頁。
元録七年十二月長崎より出港して五島に漂着し、引戻された六十六番大泥船に、「唐三ヶ寺 は銀三百目合力」したことが見えてる。同八年正月には、前年長崎から出て薩摩で破船し たのを送り届けられた五十八番潮州船に封し、聖福寺と共に飯米並びに野菜・薪を遣した。
また、十四年十二月、深堀領まで出て破船した三十九番漳州船の死骸五体を稽佐に埋葬さ せ、唐三ヶ寺より米五俵、炭五六俵ッ、及び大根等を贈った。賓永二年九月、唐人構の大 火で部屋を類鏡された十八艘に三ヶ寺と聖福寺は一艘に米八俵並びに醤油四樽ッ、庵七ヶ 所より壹艘に米七俵井響油七樽宛を心付遣したのである。更に同四年八月、宋航途中に五 島で難破した豪満船生残り唐人に助成のため、唐三ヶ寺と聖編寺は米二十俊を遣り申した、
などである。
また、唐船主の代わりに奉行に対する唐船処分撤回の動き、トラブルにおいて唐商、奉行、
唐通事の絡みあい、三ヵ寺住持は唐商の利益を代弁し、奉行へ強い影響力を行使し、唐商に対 して説諭、戒告のごとき統制的機能も果たしたのである。
4 .葬礼
諸説をまとめてみると、
18)唐寺の建立初期、会館祠堂からであるから、葬儀や墓地に関わりが 薄かった。長崎で死亡した唐人の墓地としては稲佐の悟真寺をはじめ、他の長崎の諸寺にも葬 られ、必ずしも一定したものではなかった。鎖国以後の来航唐人が長崎において病死もしくは 溺死の場合、悟真寺または出身地別に三ヵ寺のいずれかで行われた。もし遺体を本国に送還す る場合は、便船が出るまで棺は寺院に預けられた。各唐寺の「超生薄」から見ると、唐寺は葬 礼や墓地の役割を担うのは享保三年(1718)以降のことである。
各唐寺はほぼ唐商および住宅唐人の寄進、布施によって維持されていたが、寄進は自由寄進 期(創建~1684年)、寄進抑制期(1685~1728年)、寄進衰退期(1729年~安政開港)
19)を経て、
唐僧の渡航が断絶し、加えて日本の貿易制限により、寄進額は徐々に減少した。これが唐寺の 経営が悪化していく最大の原因である。
三 長崎唐寺と関帝信仰
各唐寺で祭祀された仏・菩薩に加え、媽祖や関帝などの神像に関して、『長崎市史・地誌編仏 寺部』には詳細に記されている。それらの状況について、江戸時代の唐寺の特徴を現すものと 考える。そこで、唐寺各寺における関帝信仰について述べてみたい。
18) 前掲李獻璋『媽祖信仰の研究』567-568頁、福岡ユネスコ協会『外来文化と九州』254-255頁。
19) 前掲福岡ユネスコ協会『外来文化と九州』259-267頁。
興福寺の媽祖堂には、次の像がある。
20)天后聖母像 倚像 一体 天后聖母侍女像 立像 二体 千里眼像 立像 一体 順風耳像 立像 一体 關帝像 倚像 一体 關平像 立像 一体 周倉像 立像 一体 三官大帝像 倚像 三体
福済寺の青蓮堂においては、以下の神像が祭祀されている。
21)媽姐像 倚像 一体
媽姐侍女像 立像 左右二對 關帝像 倚像 一体
關平像 立像 一体 周倉像 立像 一体
崇福寺の関帝堂において、次の像がある。
22)關帝像 倚像 一体 陳平
23)像 立像 一体 周倉像 立像 一体
以上のように、長崎の唐寺においてどちらも媽祖像と関帝像が安置されているが、各唐寺に よってやや相違がある。
1 .興福寺媽祖堂
興福寺は俗に南京寺と称し、もと長崎村伊良林郷に属し、現在寺町に在り、境内五千九十四 坪であった。
24)この地は昔皆吉氏の廃宅であったのを、元和初年欧陽氏が買って別荘とした。明 国江西省浮梁県の人真園が長崎に来て、故有って僧となり、元和九年(1623)ここに小庵を構
20) 前掲『長崎市史・地誌編仏寺部』下巻 207-208頁。
21) 前掲『長崎市史・地誌編仏寺部』下巻 304-305頁。
22) 前掲『長崎市史・地誌編仏寺部』下巻 437頁。
23) 前掲『長崎市史・地誌編仏寺部』下巻の437頁に陳平と書いているが関平と書き間違えたと判断できる。
24) 李獻璋『媽祖信仰の研究』(泰山文物社刊、1979年)540頁。
えて隠棲した。折栖切支丹の詮議が厳しく、来舶唐人も吟味を受けるので、邪教徒でない證と して、今一つは先亡の菩提を供養するため、真園を開基とする仏寺建立を願い出て、これが許 可された。船主等は大いに喜び、仏殿を建て、傍に媽祖堂を建てて天妃を祭り、唐客船商の帰 依寺とした。更に唐船舶載の神仏像は、一塵検査して当寺に安置し、疑いをかけられぬように する必要があるとの官命があった。
25)ここの欧陽氏は欧陽雲台という人は身を寄せた真園が同じ江西浮梁県人であり、医者その他 の業としてでもなく、貿易のために来た。彼が読書人の出会った事が示されているばかりでな く、経済的にも成功していたので、早くから三江帮の頭人となったことは帮の祠堂をその別荘 に置いてあった一事によっても知られる。
26)以上の記載によると、興福寺は元和の初、欧陽氏別荘にあった三江帮集会所の神祠から発達 したものであり、最初は媽祖を主として祀っていた。キリシタンではない証として菩薩を供養 するため、寺院建立の許可を得て真園を開基として興福寺が建てられ、佛殿の片側に媽祖堂を 立て、天妃を祀ったことがはっきり分かるが、その時、関帝を祀ったかどうかは、記録がなく て不明である。
関帝祭祀がいつごろに始まったかはっきり記録していないが、媽祖堂は寛文三(1663)年の 大火で伽藍堂坊悉く灰燼に帰したため、延宝年中(1673~1680)澄一が重建し、元禄十五年
(1702)中興三世悅峰道章が修復した。その時から、媽祖堂には「中央に天妃並に千里眼 · 順風 耳の二鬼を安措し、左(壇〕に関王・周倉・開平を奉じ、右(壇)に三官大帝を祀る」
27)と記載 が出てきたため、関帝祭祀は媽祖よりやや遅かっただろう。
2 .福済寺青蓮堂
福済寺は本長崎村の岩原郷に属し、今築後町の女笠頭山の麓に所在している。『長崎図志』に は「福済寺,在宝盤山左,村主宅」とある。もとは村主の宅であり、そこを幇の会館にし、祠 堂を設けていた。寛永五年(1628)明国泉州の道者覚悔が来て、小庵を結び、天妃聖母を祭祀 した。長崎来往の唐船が海上安全を祈願すれば、必ず霊験があったので、開基した。
28)原爆の火災で、福済寺が焼けてしまったため、媽祖堂門は保存できていない。『長崎図志』に よれば、青蓮堂の中央に観音大士を祀り、右壇に天妃、左壇に関帝を祀っていた。二脇士は関 平・周倉なりとある。 関帝壇の前に「大栽培」の額あり「扶起家門,百歳祥雲随日轉;護持巌 社,九天恩露及時濡」の聯がある。青蓮堂は観音堂とも言ったが媽祖堂と呼ぶことはなかっ
25) 前掲『長崎名勝図絵』15頁。
26) 李獻璋『長崎唐人の研究』(新興印刷製本、1991年)180頁。
27) 前掲『長崎名勝図絵』16頁。
28) 前掲『長崎名勝図絵』148頁。
た。
29)青蓮堂に観音は主神として媽祖、関帝は脇神で合祀されている。福済寺は火災で再建され たものなので、昔の姿が一体どうなっていたかすでに未知になっている。
3 .崇福寺護法堂
崇福寺の建立は他の唐寺と同様、最初は媽祖を祀る祠堂を建てたが、寛永九年(1632)に幕 府の許可を得て、檀越の寄進により、寺院を拡大した。殿堂の建造、山門、大雄宝殿等次々完 成させ、最初の寺院の規模が備わった。福州出身者で建立されたことから「福州寺」とも呼ば れていた。崇福寺は他の唐寺と違い、媽祖は媽祖堂で関帝は護法堂で祀られている。護法堂の 真ん中に観音を祀り、向かって右が関帝堂であり、左が韋駄天を祀っている天王殿である。
図 1 崇福寺関帝堂における関帝倚像と関平、周倉立像
宮田安氏の『長崎崇福寺論考』には「護法堂は享保十六年(1731)第七代住持唐僧伯珣照浩 の時、鐘鼓楼よりも三年遅れて建てられた。堂内大梁の下面に『享保十六歳次辛亥仲秋月大吉 日当山第七代住持嗣祖比丘伯珣照浩鼎建』の三十字が関帝前にも韋駄天前にも同じ文字が書か れている。その後、天明二年(1782)の『当寺由緒歴代并境内坪数諸堂舎間数之覚』にも、文 政年間の『長崎名勝図絵』にも、『長崎古今集覧名勝図絵』・弘化版長崎土産・嘉永三年(1805)
の版画聖寿山崇福禅寺の図にも各古記録や古図において、関帝堂が記録されてる。」
30)その古籍 の記録からみると、護法堂の建設は崇福寺建寺以来の約百年後のことであるが、関帝祭祀はそ れほど遅くなかった。唐寺が建立された時から、祀られただろう。李獻璋氏の指摘によると、
31)29) 宮田安『長崎崇福寺論考』(長崎文献社、1975年)341頁。
30) 前掲宮田安『長崎崇福寺論考』309-310頁。
31) 李獻璋『媽祖信仰の研究』(泰山文物社刊、1979年)554頁。
当堂の主要匾聯はいづれも関帝に関するものであり、長崎図志に記す上の霊験談に載せ た名勝図絵ではそれを関聖の霊異とし、韋駄天が関帝の命を奉じたものと書いてある。市 史の元禄・宝永頃の崇福寺図を見ても「関帝堂」と出ているので、本来は関帝祠であった に疑わない。按ずるに関帝堂には古くから五方・五帝のごとき八部将を祀ったかもしれな いが、佛が多数入れられたのは禅堂廃止の時であろう。そして享保十六年(1731)に、第 十一代住持の僧伯珣照浩がそれを改建した際、堂内を二分して韋駄天と対等に併祀したも のと思われる。関帝堂の正面外側には即非の「威徳壮巌」と題する額がある。堂内に己九 番船主樊升吉敬立の「乾坤正気」と題する額と、その両側に同じく「帝極奠安、四海仰恩 波洋溢;皇言宣諭、萬民荷徳澤淵深」の聯があげられている。己は萬治二年の己亥と思わ れる。また名勝図絵によれば、即非の「護法堂」と題する額もあった。
と書いてある。即非如一は1657年に隠元に招かれて来日し、長崎崇福寺に住して伽藍を整備し、
その中興開山となった。1663年に山城国宇治の萬福寺に移り、法兄の木庵性瑫とともに萬福寺 首座となった。関帝堂の正面外側の「護法堂」「威徳壮巌」と題する額は即非如一が1657年から 1663年にかけての間に書いたものと推測できる。また、堂内に己九番船主樊升吉敬立の「乾坤 正気」と題する額と、その両側に同じく「帝極奠安、四海仰恩波洋溢;皇言宣諭、萬民荷徳澤 淵深」の聯が萬治二年の己亥と思われるというと、萬治二年は1659年のことである。そのため、
関帝堂が建てられる前に、関帝祠として関帝を祀っただろうと考えられる。
護法堂内陣の向かって左側の天王殿に、中央には合掌型の韋駄天像を置き、その左側には五 大帝(うち四躯)が、右側には端から順に五大帝(うち一躯)、達磨倚像、誕生仏(?)、そし て関帝らしき例の倚像と、前列に緊那羅と布袋尊が並んでいる。
32)図 2 崇福寺天王殿諸神像33)
32) 尚書省三国志部 https://kyoudan.hatenablog.jp/entry/20170216/1487230055 33) 尚書省三国志部 https://kyoudan.hatenablog.jp/entry/20170216/1487230055
「尚書省三国志部」の分析によると、韋駄天像の向かって右側に安置している倚像は発志院(奈 良県大和郡山市)や聖恩寺(京都市)に置かれる関帝像の服装と造形が近く、関帝像の特徴が 多々見られるため、関帝で間違いない。顔や腹部・足元に金色の彩色が残ることから、当初は 全身を金色で覆われていたと思われる。
34)図 3 崇福寺天王殿における韋駄天立像と関帝倚像35)
隋の時代から、関羽は忠義の英雄から、伽藍菩薩になり、韋駄天菩薩とともに、仏教の左右 大護法になった。今の護法堂の配置方式はそれを表している。真ん中に観音で、向かって右が 関帝で、左が韋駄天を祀っている。護法堂内を二分して関帝は韋駄天と対等に併祀しているも のの、なぜ韋駄天を主神とする天王殿に関帝が脇神としてまつられているのか。
宮田安氏の『長崎崇福寺論攷』の記録によると、崇福寺の現在の殿宇は山門、大雄宝殿、鐘 楼、護法堂、媽祖堂、開山堂などからなっている
36)ものの、二階堂氏が宮田氏と山本氏の整理 を踏まえて述べたことに基づけば、かつての崇福寺の殿宇は大殿、天王殿、禅堂、鐘楼、庫裏、
唐門、媽祖堂、伝法堂、祖師堂、関帝堂、祠堂、書院、方丈、五帝堂、山門、経堂から構成さ れていた。
37)宮田安氏によれば、現在の崇福寺の護法堂の観音像は元は別の場所にあった。
38)このお堂は向って右が関羽をまつる関帝堂で、向って左が草駄天をまつる天王殿である。
34) 尚書省三国志部 https://kyoudan.hatenablog.jp/entry/20170824/1503534764 35) 尚書省三国志部 https://kyoudan.hatenablog.jp/entry/20170824/1503534764 36) 前掲宮田安『長崎崇福寺論考』12頁。
37) 二階堂善弘『アジアの民間信仰と文化交渉』(関西大学出版部、2012年)222頁。
38) 前掲宮田安『長崎崇福寺論考』309頁。
まんなかの観音はもと禅堂に祀られていたもので、現在の祠堂のところにあった開山堂が 腐朽し、隣りの禅堂を開山堂にしたとき、 禅堂の観音がここに移ったのであった。
宮田安氏によれば、護法堂は享保十六年(1731)第七代住持唐僧伯珣照浩の時、鐘鼓楼より も三年遅れて建てられた。
39)護法堂が建立した時、本来禅堂における観音、関帝堂における関 帝、関平、周倉、天王殿における韋駄天などがここに移されたものと考えられる。
長崎市 編『長崎市史 地誌編仏寺部 下』にて、以下に記録している。
40)この堂(護法堂)は享保十六年(1731)の鼎建に係り、嘗て韋駄天、五方五帝、緊那羅、
伽藍神等の像を安置せし故に天王堂、護法堂、伽藍堂、關帝堂等の稱が有つたが、禪堂の 廢毀されし時其の本尊觀世音菩薩像を當堂内に移し、緊那羅王像は之を庫裡に移した。こ の堂は建立以来大破せし事なく、時に小修理を加へたるのみにて今日に至つた。
『長崎市史 地誌編仏寺部 下』には寳永四年(1707)、天明年間(1781~1789)、明治八年(1875)、
大正十年(1921)での寺院の建坪変遷表(図 4 )が掲載されている。この表に天明年間には韋 駄天と関帝、そして五帝が合祀されたとする記述がある。また、この表によれば、観音堂や關 帝堂や五帝堂などが天明年間までになくなったため、そこで祀られていた諸像が天王殿に移さ れた可能性が高い。
図 4 崇福寺建坪変遷表41) 3 ページを 1 つに合わせた。
39) 前掲宮田安『長崎崇福寺論考』309-310頁。
40) 前掲『長崎市史・地誌編佛寺部』下巻 414頁。
41) 尚書省三国志部 https://kyoudan.hatenablog.jp/entry/20170216/1487230055 前掲『長崎市史 地誌編佛寺部』下巻 433-435頁。
長崎出島の商館付き医師シーボルト(1796~1866)と日本人画家の川原慶賀(1786~1860)
が描いた関帝堂(図 5 と図 6 )は殆ど同じである。シーボルトは1823から1830まで日本の長崎 で滞在した。二人は同時期な人であるため、彼らの描いた関帝堂(図 5 と図 6 )は享保十六年
(1731)に改建した後の同一な関帝堂の様子と判断できる。現在護法殿内の関帝堂に祀られてい る関帝・周倉・関平像とも一致している。
図 5 シーボルト『NIPPON V』TAB. L Ⅷより
図 6 川原慶賀の見た江戸時代の日本 1 より
いまの崇福寺の建物と仏像の安置場所は最初より何度も変化したかと考えられるため、いま
の天王殿における関帝像がいつ、どこから移られてきたか不明になっているが、天王殿におけ
る関帝像は元の関帝祠から移られ、関帝堂における関帝像は享保十六年(1731)に護法堂を建
立する時に新設したものであると推測できるだろう。
終わりに
二百年続いた明朝の海禁政策は嘉靖二年(1523)に起きた「寧波の乱」で日明勘合貿易が停 止され、正式に中国との通商貿易も断絶されたため、密貿易は益々盛んになった。密貿易の商 人や亡命者、入寇した者、倭寇に捕られた俘虜、明清交代する際、日本に避難してきた文人、
明将や遺臣たちは次々九州及び周りの島々を中心として日本に居留してきた。その後、日本が 鎖国施策を厳しく実施しつつ、貿易は長崎一港に制限され、各地に居留していた華僑も長崎に 集中して江戸時代初期の華僑社会が形成された。長崎における唐人は日本におけるキリシタン 禁制を回避して自ら「仏教徒である」と証明するため以外、航海安全祈願と先祖供養の需要も あるから、唐三寺が次々に院創建された。
唐三寺が建立する時の住持と檀越の間には同郷連帯関係が強く、各唐寺には仏殿と天后聖母 を祀る媽祖堂並びに関帝廟などを相並んでおり、仏教的色彩よりも、現世化した道儒的民俗宗 教の色彩が顕著であった。唐三寺においた神像からみると、唐三寺が仏教的色彩はそんなに顕 著でなかった。
長崎の唐三寺は、最初は媽祖廟として出発したものであり、中国船の船主たちの航海安全の 祈願所と大切な船菩薩(もっとも一般的な媽祖神)を安置する堂であった。幇の会館として同 じ地元からの中国人が集まり、祠堂を設け、天妃聖母を祭祀して、命がけの航海をして長崎来 往の唐船が海上安全を祈願した。後ほど寺が次々建てられたが、他に慈航道人とされる観世音、
関聖帝君、大道公、諸葛武侯、張天師なども祀られた。
42)寺に仏像観音と道教神媽祖、関帝、張 天師などを併祀するのは長崎唐寺の特徴の一つであろう。
関帝は唐寺の一部分となりながら、どちらも主神ではなく、偏殿の脇神として祀られていた。
例えば興福寺の媽祖堂には媽祖は主祭神であり、関帝は左側に安置されている。福済寺の青蓮 堂には中央に観音大士を祀り、左壇に関帝を祀っている。崇福寺の護法堂には関帝と観音を併 祀している。聖福寺の観音堂には関帝、媽祖と観音を併祀している。
江戸時代初期の関帝信仰は、日本に居住した華僑を中心に長崎唐寺に限られて行われていた。
その時の神格は主に航海安全の祈祷と商業の繁昌の守護神であり、武神、職業神や万能神とし ての神格が弱かった。一般の日本商人や民衆までにも知られていなかった。しかし、近世初期 における唐寺の建立と関帝信仰は近世中、後期にて関帝信仰の広がり、近代関帝信仰発展の土 台であった。
42) 前掲 西川如見『華夷通商考』巻二。