旧制第四高等学校のスポーツ活動研究(1):大正 3年柔道部「練習日誌」から
著者 大久保 英哲
雑誌名 金沢大学教育学部紀要.教育科学編
巻 56
ページ 29‑36
発行年 2007‑02‑28
URL http://hdl.handle.net/2297/4398
29
旧制第四高等学校のスポーツ活動研究(1)
一大正3年柔道部「練習日誌」から-
大久保英哲
HistoricalStudyoftheSportsActivityintlIefDrmer4thHighSchool,Kanazawa:
JudoCIubLifefrOKntheCImlbLogin1914(No.1)
HideakiOKUBO
の支持を獲得した。しかもその内容は,多分に 武士道的気質が加味され,全体主義に置き換え られ,そうした底流の上で浪漫性が発揮された」
と総括されている2)。
本研究はそのようにいわれる旧制高等学校の 活動形態やスポーツマインドが具体的にはどの ような過程で形成されていったのかを,第四高 等学校を例に検討薑する。とりわけ,大正3(1914)
年から昭和21(1946)年までの分が残されてい る旧制第四高等学校柔道部の対外試合記録「南 下戦記」及び練習日誌『南下軍」(石川県立歴史 博物館,第四高等学校記念館所蔵,若干名称は 異なる場合がある)の記述をもとに,「部員たち の意識や行動を丹念にフォローする」3)なかで 明らかにしようとするものである。
これまで,井上靖に関わる昭和2~3年頃の練 習日誌の分析を試みた研究4)は見られるが,練 習日誌全体の分析や解釈を試みた研究は管見の 限りでは見当たらない。練習日誌「南下軍」(は,
ごくおおざっぱに言えば,比較的練習量の少な かった大正30914)年当時の初期の練習日誌 と対戦記,以後大正9(1920)年まで7連覇を 飾った時期の猛烈ではあるが比較的合理的な練 習のうえに常勝を続ける時期の練習日誌と対戦 記,そしていささか非合理な練習と悲壮感を漂 わせつつ敗退を続ける大正10(]921)年以後の 練習日誌と対戦記との3期に区分できるように ,思われる。(たとえば作家井上靖が第四高等学校
はじめに旧制高等学校の運動部活動は「職員生徒共同 融和して智徳を修養し身心を練磨し善良なる校 風を発揚するを以って目的」とした校友会にお ける運動組織として位置付けられ,その活動は,
学校内における日常的な活動にとどまらず,対 校競技へと発展,やがて中心的な学校行事とし て恒例化され,伝統化されて,それを目指す運 動部の日常活動はさらに精力的に展開されて いった。このような旧制高等学校の運動部活動 は,一般から見てかなり独特の`性格を持つもの に変質し,「単なる個人的な娯楽あるいは修練の 域を出て,集団として高校生活を構成する特殊 な精神的要素」となり,対校戦は「全校をあげて の一種の熱狂的祭典であり,その頂点に立たさ れる,厳しい練習で鍛え上げられた選手団は,
さながらこの祭典に供えられた華やかな犠牲
(いけにえ)であった。明治から大正にかけて の時期,昭和に入ってからも,その都度応援歌 や壮行歌が作られ,年を重ね,回を積むにした がい,独特の対校戦の雰囲気が盛り上げられ,
それらに伴う伝統が形成された。そして当の高 校だけでなく,学生界一般にも大きな刺激とな り,またそれぞれ地元市民の興味と支援を引き 起こした」といわれる')。
こうした旧制高等学校運動部の活動は,「校風 刷新の旗手として英雄化され,思想的動揺に対 する一種の安全弁と考えられて,為政者や校長
平成18年10月2日受理
金沢大学教育学部紀要(教育科学編)
i畑 第56号平成19年
柔道部に在籍したのは昭和2~3年の第3期であ る。)
しかしながら,それぞれの期の練習日誌や対 戦記には膨大な内容と多様性が見られることは
もちろんである。
そこで本稿では,まず大正3(1914)年当時 の初期の練習日誌と対戦記の内容を検討してそ の内容の特色を明らかにするとともに,これら がどのようなスポーツ史研究の材料になりうる かを考えてみたい。
名の南下隊が結成された。三高のほか六高も参 加し囚高柔道部が優勝している。柔道部歌「流 水遠く」が作成されたのもこの頃とされている。
大正2(1913)年9月には嘉納拾五郎が来校し,
講道館柔道の指導が行われている。(戸松s)に よる)
2.残されている北辰会柔道部「南下軍」資料 石川県立歴史博物館,第四高等学校記念館所 蔵に所蔵されており,本研究に使用した練習日 誌「南下軍」は以下の通りである。
No1大正3(1914)年10月一大正4年1月 NO2大正4(1915)年10月一12月 NCB大正5(1916)年10月-12月 No.4大正5(1916)年9月-12月 N05大正9(1920)年6月-7月 No6大正10(1921)年3月一7月 No.7大正11(1922)年3月一7月
7月一3月集金表(準備記)
No.8大正12(1923)年3月-7月 No.9大正13(1924)年10月一大正14年3月
(春合宿)練習日誌のみ
No.10大正14(1925)年9月一大正15年7月 No.11大正15(1926)年8月一大正16年2月 Nol2昭和2(1927)年3月-7月
No.13昭和2(1927)年8月一昭和3年3月 N0.14昭和5(1930)年8月一昭和6年7月 No.15昭和7(1930)年8月一昭和8年7月 No.16昭和8(1931)年8月一昭和9年7月 No.17昭和9(1934)年9月一昭和9年7月 No.18昭和10(1930)年9月一昭和11年7月 Nol9昭和12(1937)年9月一昭和13年7月 N020昭和15(1940)年8月一昭和16年6月 No.21昭和16(1941)年8月一昭和17年7月 Nb22昭和17(1942)年6月一昭和18年7月 N023昭和19(1944)年10月一昭和21年11月 部欠損)
1.南下軍とは
まず最初に,戸松5)にもとづき,本稿に係る 時期の四高柔道部の概略について述べておきた
い。四高柔道部創設の時期は明確ではないが,開 学と殆ど同時であったと考えられている。第四 高等学校北辰会は明治28(1895)年2月に設立 されたが,柔道部と剣道部は当初含まれていな い。明治32(1899)年10月に北辰会と医学部 十全会が統一して結成された「校友会」には属
している。
・第1回南下軍
第四高等学校の運動部活動は「南下軍」と呼ば れる対外試合を軸に行われた。これは北の都金 沢から南の都京都(三高)に遠征するというこ とにちなんでいる。このことには当然ながら,
情報・交通手段の近代化が伴っていた。たとえ ば明治310898)年に北陸線が金沢まで部分開 通したこともあって,明治34(1901)年には第 四高等学校の野球,剣道,柔道部員50名が三高 との対校戦,すなわち第一回「南下戦」を開始 した。
。第2回南下軍
第2回は明治40(1907)年であった。第1回 南下軍は,「運動部の活性化」を目的に掲げてい たのに対し,第2回目は「第1に強健なる学風の 養成,第2に生徒の一致団結,第3に三高との 交情を深めること」とされ,野球,庭球,剣道,
柔道,のほか応援団125名が加わり,総勢200
(-
3.大正3年「南下戦記」の構成と内容
大正3年「南下戦記』は,ページ数は記されて
大久保英哲:旧制第四高等学校のスポーツ活動研究(1) 31
いないが,表紙,裏表紙を入れ全99頁からなる。 (3)出勤簿(出席簿)
次は「出勤簿」が個人別に記されているが,印 鑑は全て「山下」であり,マネージャー山下輝 夫が作成したものと思われる。なお,練習日は
「出勤簿」を見る限り,10月は7回,11月が 23回,12月が11回である。
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図1.大正3年「南下軍」表紙
(1)選手候補者名(部員名簿。現住所)25名 最初に部員名簿が住所(寮)別に記されている。
概要を記す。
北寮(駒井。大後・桜井・阿部(抹消))4名 南寮(菱沼・吉川・伊地知・中村)4名 中寮(松岡)1名
時習寮(河合・村澤)2名
下宿(大津。森長・横山・山中(抹消)・大澤・
金山・鈴木・大塚・唐生(抹消)。木村(抹消))
10名
自宅(近・岩田)2名
記入なし(佐藤・細・橋瓜(抹消)。中島(抹消))
4名
図2.「出勤簿」
たとえば,大津武政の場合,出席状況は以下の 通りである。
10月(19,20,22-24日)5回
11月(5,6,7,9,]0-13,16,17-19(見学)2029日)
22回
12月(1-11日)11回
なお,大津に関しては出勤簿中に以下の記述が ある。
「10月25日より29日に至るまで5日間我が柔 道部の使者として重大任務を帯び京都に行く。
我が柔道部と三高柔道部との交渉顛末を北辰会 役員に説明のため練習体む」。また,11月2日,
11月13日は「風邪の為欠勤」とある。
駒井童次の場合は,10月の出席7回,11月 の出席23回(見学2),12月の出席はn回と 皆出席であり,森長四郎の場合,10月の出席は
5回,11月の出席は20回(見学2回),12月の 出席8回,病気欠席が10月28日,発熱による 欠席が11月]9日の1回ある。
これら25名の各部員の練習回数をまとめた のが表1である。皆出席は1名のみ,ほぼ練習 に参加すると判|釿できる出席率80%以上の者 は25名中13名と約半数,50%以下も7名に上 る。平均64.7%の出席率である。練習回数その (z)部律
次に部律が以下の通り示されている。
「稽古
午後三時より約一時間 土曜日は午後一時より
日曜日は当分休 但右は南下確定まで
-.養生 禁酒 暴食を禁ず 禁煙
他の運動及身体を労する娯楽を厳禁す
但日曜は多少の運動娯楽を許す」
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ものカヨあまり多くはなく,また欠席者も3害''以
E鐘…上あること,さらに出席してもケガ等のため見 学する者があることを考えると,練習はきわめ て活発というわけにはいかなかったのではない かと見ることができる。
…薮一再■~ ̄,完7…
表1.柔道部員の練習出席状況
’10月111月12月||計llMHKl
l7回’23回12回''42回|%’備考 1大津武政52211389q47irlill出;馬日,風邪の為麺ihl回
2駒井重次723114197.63課長四郎52083378.5病気欠席1回,発熱欠席1回
4大後7231242100脚部負傷見学4回 5櫻井718123788発熱による見学1回6山内005511.9病気となり当分欠勤 7小山721124095.2遠足のため欠席1回
8菱沼722837889佐藤11972764.2江IlMj会準倣のため欠席1回
10近618103480.9皿肋会協議のため欠席1回 11金山618113583,312鈴木71893480.9
13大塚522103788述ID)会協議のため欠席1回
14唐生510614.2病気のため欠席 15伊地知62083480,916紬411217‘10.`1浬HiIj会協拙のため欠席1回
17木材3801126.1病気欠席18岩田71893480.9
19M;瓜01211330.9通肋会119(IMIのため当分欠助 2O阿部01141535.7足部負傷のため欠勤 21松岡69102559,5「足部負侮のため当分欠肋」
22河合519113583,3 23中村51842764.2 24村灘023113480.9 25中島01071740,`1
割:鯛:塁MiMl剛:JM淵’
図3.練習日誌
次に,練習日誌を日を追って記述していく。な お,漢数字は算用数字にあらため,句読点及び 明らかな誤字脱字は筆者が修正加筆してある。
10月20日稽古猛烈を極め無声堂は活気溢る゜
一二中より多数練習に来る。負傷者数名を出す。
10月21日三高生五百余名修学旅行の為当地 に来る。練習を休み遠来の客を槁う゜
10月22日稽古猛獲-,二中生練習に来る。
10月23日稽古猛檸。-,二中生来る。
10月24日日曜日,稽古体
10月25日稽古猛烈。中村眼瞼を負傷す。
10月26日運動会,稽古体 10月27日慰労体
10月28日欠席者九名の多きを数ふ,遺,憾千 万。
10月29日練習倦怠の色あり,連日の疲れに よるのであろう。
10月30日大日本武徳武術専門学校生徒修学 旅行に来沢。我部は有段者五名,二段大津,同 駒井,初段森,同大後,同桜井を武徳殿に派し て彼と戦ふ゜彼は三段を大将とし,四名の二段 を以て我に向ふ゜観客溢れし武徳殿立錐の余地 すらなし。誠に金澤柔道界未聞の壮観あり,桜 井,大後,森よく奮闘するも戦利なく枕を並べ て計死にす。次で我部の重鎮駒井,戦友三人ま で倒れしを見ては無念やる方なく,勇気自ずか ら百倍,敵二段三名を屠りて,大正三段に向う。
駒井例の得技を以て屡々敵を窮地に陥れしも遂 は彼の為に破らる。次いで大津の出陣。奮戦能
<勉めしかども利なく遂に我部の敗となりしは (4)稽古日誌
それでは以下練習日誌の内容を原文に即して 見ていく。「稽古日誌」という項目で始まる。
「稽古日誌」
「我部は壱度南下軍の鰐頭に洛陽の地を畷BIN して愉安の夢にのみ耽れる都人士を戦|栗せしめ て以来久しく再び其充実したる力を天下に示す 機会を得ず千釣の弩は徒に張られたのである。
恰もよし来る十二月を期し京大主催各高等学校 優勝試合有らしの噂伝りぬ。捗勃たる我部の雄 心禁ずる能はず,無為に苦しみし健兒の霊腕は 為に桶った。鳴呼洛陽の地,覇者の活舞台に於 いて吾人が静に無声堂裡に鍛え来たりし腕前を 発揮して北辰の光芒を天下に輝す(*2字不明)
り。思へば愉快,即ち我部は二十五名の選手候 補者を選びて猛烈なる練習を開始す。」
i0月 12月
7画 231El 12回 421コ 儲簿 1大津武政 ]】可inM」l張5,.,jRWHlの為欠勅1回 2駒井近吹
3森長lユIlUI 病気欠席:IiTL寵熱欠席]11.:
4大悩 lj印部負傷見学.1回
5拠井 篭熱による見学1回
6山内 刑気とな↑j当分欠勤
7小111 i堂jllのためクWiii1に 8鍾招
01国11§ 巡勁会幽(Niのため欠席1121
10辺 巡I肋会協離のため欠席Ⅱ!;】I
:I金l【」 HILIl
'2錦木
[3大理 皿勁会協雛のため欠席&l師1
l`l唐生 病気のため欠席
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19捕瓜 匝弛全地媚のため当分欠i1]
201可ifⅡ 足部貝鰹のたU>欠勤
21松岡 1足淵l負煽U>ため当分火iil」1
22111J合 23Ll」村 24‘N・認 2511IEI 平均同数 平均出nW率
大久保英哲:旧制第四高等学校のスポーツ活動研究(1) 33
残念の至りなり。此日我軍破れしかども我戦士 の勇敢なる戦闘振は能<敵の心胆を寒からしめ,
我四高柔道部の為に万丈の意気を挙げしは痛快 なり。
10月31日天長祝日。稽古を休みて聖寿の無窮 を祈る。
11月1日日曜,稽古体。
11月2日出席する76の非常に少し。
11月3日我部主催一中対二中紅白勝負を行ふ。
稀に見るの好試合,両軍遺憾なく得意の業を出 して大奮闘する状,実に壮観を極む゜-中大将 を残して勝つ。
11月4日選手負傷病気の為欠席する者多く,笹 だ振はず゜
11月5日選手紅白勝負を行ふ(13人対戦結果 省略:大久保)
11月6日練習猛烈を欠く。
11月7日有段者対無段者稽古を行ふ゜(有段者 4人が,無段者9人と次々に対戦,破れたら交 代,大津は10人,駒井は9人と対戦している:大 久保。対戦結果省略),此日青島陥落,祝勝大コ ンパを開く。
11月8日日曜,稽古体。
11月9日練習梢活気を欠く。勇気を鼓舞せんが 為に五人抜きを行ふ。
11月10日青島陥落,祝勝提灯行列。
11月11日元気なし。
11月12日出席者多く大元気。寝技一本勝負を 行う。(紅白戦:大久保,対戦結果省Ⅲ各)
11月13日欠席甚だ多し。
11月14日軍容既に整い,選手は意気愈昂る。
此日は当地官県立学校連合軍を迎へて戦ふ゜(連 合軍は医専,-中,二中,師範25人,囚高22 人:大久保,対戦結果省Ⅱ各)
鎧袖の一触だにも価せずと予期されし連合軍の 奮戦,敵ながら天晴れ。只敵の大将今井初め医 専の選手が当日に至り一言の通知もせず欠席せ しは吾人共の何の故あるか甚だ解釈に苦しむ所 あり。顧みて我軍の奮闘振りを見るに,勝つに は勝ったが近く洛陽の|庫頭に覇を争はんとする
ものの成績としては誠に貧弱の誇りを免れず。
殊に我軍の中堅が-中久村の為撫で切られ小冠 者をして徒に名を成さしめしは返す返すも遺憾 の極なり。我柔道部末代までの恥,吾人は有間 記せざるべからず,吾人の重任を顧みて,吾人 は憤慨せざるべからず,今回の恥を思う時に。
n月15日日曜稽古体
]1月16日一昨日の試合に奮起せる選手の練習 は元気流れ革新の気概にi張る。
11月17日猛烈を極む。
Ⅱ月18日今日より選手の一本勝負を行ふ゜(其 成績は表に記せり,之には番外取組の成績のみ かくかくしかじか)(対戦結果省Ⅲ各:大久保)
11月23日南下確定す(太字)京大より公式 案内状来る。本日は新嘗祭なれど,稽古を行ふ゜
(対戦結果省略:大久保)
11月24日久しく不安に襲はれし選手も今や南 下確定し,活気俄に加はりしを覚へたり。(対戦 結果省略:大久保)
11月25日本日より夜間稽古を行ふ。午後六時 一八時迄。選手皆出席,愉快。有段者対無段外 紅白勝負を行う。(駒井12人対戦,対戦結果省 略:大久保)
11月26日特筆することなし
11月27日時習寮柔道部師範に遠征す。村澤,
中村,菱沼の我選手目覚ましき武者振りを見せ て彼の大変連中に-泡ふかせしは痛快。
n月28日稽古午後三時より始む゜雪降る。終 りて大コンパを開く。猛檸は飯をⅡ食らい猛檸は 豚汁を平らぐ。
11月29日稽古甚だ振はず,選手疲労の気味あ
り11月30日・12月1日・’2月2日平凡
12月3日在京大,我先輩清水君来らる。熱心に 稽古をなして被下れたり。
12月4日明治大学武道部選手新免三段,多田二 段,吉田初段,武道修業の途,本校訪問,無声 堂に於て午後三時より稽古す。終りて歓迎の意 を表して茶話会を開く。
12月5日稽古例の如し
金沢大学教育学部紀要(教育科学編)
34 第56号平成19年
12月6日稽古例の如し I2月7日稽古例の如し I2月8日選手確定す 大津武敏駒井重次
初段森長四郎大後勝廣櫻井金吾 ほか'0名(省略筆者)
補欠伊知地三郎ほか4名 マネージャー山下輝夫以上
12月9日~13日
試験漸く近くして稽古にも自然其結果表れ梢活 気を欠く。蓋し止むを得ざるへし。
12月14日最後の稽古日,武徳会に行き,巡 査ともと恩ふが,悉く投げ飛ばして選手に自信
を持たすの一助とす。
12月15日,16日稽古休む。
試験中は試験終了後道場に行き随意に稽古をし て(約半時間)別に出席を取らず。
12月24日
此日試験終了,雪降れり。時習寮生徒諸君の醗 大なる送別会に招かれ,前途を祝せらる。午後 七時桂月集合,八時尾山神社参拝,武運長久を 祈る。寮生通学生諸君の提灯を手にして一隊に 附せられて南下の歌を高唱しつつ停車場に向ふ。
停車場に於ける光景は実に壮観を極めり。生徒 監の訓辞を恭ふし応援隊長の送別の詞を受<,
寮代議員は庭球部選手一同より立派なる花環を 受けたり。花環は感謝の辞なくとも感涙の流れ 出る警なり。七百の校友はかくの如き熱誠を以 て我らを南の方洛陽の陣頭に送る。士は己を知 る者の為に死す,我らは死んでも校友のこの多 大の期待に背いてはならぬ。午後十一時過ぎ発 車。
12月25日
午前八時過ぎ京都着。多数の先輩の出迎えを受 け吉田町保養館に入る。午後先輩諸君主催の下 に大学集会場にて開かれたる南下軍歓迎会に招 かる゜終って大学道場にて稽古をなせり。先輩 にもお願いせり。
12月26日
此日野球部五高と戦ふ。剣道部とともに応援に
行く。午後大学道場を借りて稽古をなす。
12月27日武徳殿にて稽古。(午前-'--時)
12月28日同
12月29日此日剣道部は大坂高医人高を破りて意気吊る。
我部は戦友の目覚ましき活動を見ては只彼らに 劣らんざらんと稽古も身が入り勇気正に七高を 呑み六高を呑む,明日は初めての戦い午後九時 就寝。此日七高対六高戦ありて七高六高を破れ
り。参観に行く。
12月30日
愈戦ふ時が来た。午後一時六高対四高戦開士さ る。審判磯貝七段佐村六段,此日天晴れ意気更 に昂る。試合の成績左の如し。(15人,対戦結果 省略)
12月31日
午前九時試合開始対七高戦。審判磯貝七段佐村 六段,(15人,対戦結果省'11各)
かくて我部は六七高を倒して優勝せり。其夜は 盛大なる祝勝会を開きて牛飲馬食す。午後九時 解散。
大正4年元旦午前八時金沢駅に凱旋す。(試合の 評価と彙報は部報)
練習日誌は以上のように記されている。
4戦記(部報)
次に試合の評価について「部報」を見てみよ う。
「一度南下して洛陽の地を踵晒し愉安の夢にの み耽れる都人士を戦I標せしめて以来,我が部は 沈黙を守ること既に久しく,今や軍容整ひ鯵勃 たる雄心禁ずる能わず。戦士脾肉の嘆に堪えざ る時,今十一月二十三日,京大柔道部は微を我 に飛ばして第一回各高等学校柔道大会に参加せ んことを求め来れり。幾度か伝えられては中止 せられ吾人を失望せしむる事久しかりし優勝試 合は遂に事実となりて現れ来り゜我図南の宿志 を伸ぶる絶好の機は到来しぬ。選手が鉄腕為め に鳴り熱血為めに躍れり。
三ケ月に亘る猛烈なる練習を終へ凍雨罪々と
大久保英哲:旧制第四高等学校のスポーツ活動研究(1) 35
して降る十二月二十四日午後九時軍容堂々愈々 南下の途に上れり。我百の校友が口々に浴びせ る熱誠篭る奨励と嘱望の言葉は,深く我等が神 霊に触れて選手が面影決死の色を帯くり。
翌二十五日午前八時京都着。!懐しき多数の先輩 諸君に迎へられ直に吉田UIT保養館に入れり。其 夜は大学集会所にて開かれたる盛なる南下軍歓 迎会に招れたり。二十五日以後,三十日まで五 日間は我等は大学道場或は武徳殿に於て練習を 続け傍ら野球部,剣道部の応援に過したり。
かくて愈々我静かに無声堂に於て殿へし鉄腕を 振ふの日は来れり。
(中略)
七高対四高優勝試合
三十一日午前九時試合開始。審判磯貝七段佐村 六段。(中略,双方15人ずつの対戦を行う:筆 者)
この日の合戦,引き分けを数ふる十有三,必勝 を期した同士が命づくの戦闘なれば精気の相う つ所火をも出すかと怪しまれたり。七高軍敗れ たりといえども軍容堂々負けて尚其勇の称すべ きものあり。我軍大将大津,総長代理磯貝七段 より優勝旗を受く。鳴呼名刀一度鞘を払へば紫 電一閃必ず血を見る,我一度南下して,洛陽の 地は遂に吾人が躁珊に委し終んぬ。凱歌声裡旗 を擁して引上ぐれぱ,細雨静かに降り出でて戦 場を弔うが如し。」
以上に見るように,明治40(1907)年の第2 回南下戦における優勝から,柔道部は南下の機 会を待ちこがれていたことが分かる。以後何度 か大会開催の声は挙がったが,実現にはいたら ず,大正3年11月23日,京大柔道部が第一回 各高等学校柔道大会開催を呼びかけ,四高柔道 部をはじめ各高等学校がこれに応じたことにな る。柔道部以外に,野球,剣道部,庭球部も同 様であった。この南下が確定した後の選手15 名,マネージャー外4名の柔道部員たちの練習 は高揚した気分とともに,練習内容も一段と活 気着いていることが分かる。定期試験の終わっ た12月24日,雪の中を時習寮生徒の送別会に
招かれ,午後八時尾山神社参拝し「武運長久」
を祈願している。そこから校友が提灯を手にし て「南下の歌」を歌いながら金沢駅まで見送り,
そこでまた最後の激励会が行われている。生徒 監の訓辞,応援隊長の送別の詞,答礼と,思われ る花環の授与などが行われている。「七百の校友 はかくの如き熱誠を以て我らを南の方洛陽の陣 頭に送る。土は己を知る者の為に死す,我らは 死んでも校友のこの多大の期待に背いてはなら ぬ。」南下選手たちの感激と高揚した気分の程が 分かる記述である。列車は午後Ⅱ時過ぎ発車,
京都着が翌朝8時であるから,9時間を要する 夜行列車であった。京都には凹高から京都帝大 に進んだ先輩たちがおり,寄宿舎等で南下軍を 受け入れ,面倒を見ていたことが分かる。こう した南下軍やインターハイの開催には,同門の 人的つながりや寄宿舎などの設備とともに,明 治後半にいたって鉄道や通信など交通・通信情 報網の整備が進んだことを指摘しておきたい。
5.簡単なまとめ
大正3年の柔道部の日誌からは次のことが指 摘できる。
1部の運営は部員による自主活動であり,学校 が指導者を配置していたわけではない。
2.練習は10月から12月の3カ月に集中してい る。(12月冬休に南下遠征試合が組まれたこと による)
3.練習日,練習時間とも短期,短時間である。
4.欠席者が比較的多い。また「活気なし」の日 も多い。
5.対外試合決定により意欲が1喚起され練習も活 性化されている。
このように,四高柔道部が全国高専大会で七 連覇を遂げ始める大正3(1914)年の日誌を検討 すると,初期には比較的練習時間も短く,合理 的かつ常識的活動内容であったことが指摘でき
よう。
今後こうした練習日誌,対戦記の内容分析の
積み上げと経時的推移によって旧制第四高等学
金沢大学教育学部紀要(教育科学編) 第56号平成19年
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校柔道部員たちの行動や意識を歴史的な文脈の 中で読みとることができるのではないかと考え
ている。史,東洋館出版,172頁
3)坂上康博(2001),1こつぼん野球の系譜学,青弓社,
237頁
4)上田正行(1987)『北の海」四高時代から見る,特 集井上靖の世界,国文学解釈と鑑賞,昭和62年12
月号,122頁5)戸松信康「四高柔道部概史」,四高同窓会(1967),
囚高八十年,268-306頁