「牛山ホテル」論
著者名(日) 今村 忠純
雑誌名 大妻国文
巻 26
ページ 75‑99
発行年 1995‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1114/00001464/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
牛 山 ホ
ア
y
レ論
今
村 忠 純
一︑二種のテキスト
岸田園士の﹁牛山ホテル﹂には︑二種のテキストがある︒
昭和四年︵一九二九︶一月一日発行の﹃中央公論﹄第四十四年第一号に掲載され︑のちに﹃牛山ホテル﹄
︵昭
和四
年十
一月
二十
五日
︑第
一書
房︶
に収
めら
れた
﹁牛
山ホ
テル
﹂と
︑
﹃浅
間山
﹄
︵昭和七年四月二十日︑白水社︶に収められた﹁別稿牛
山ホテル﹂との二種である︒
もっともこの﹁別稿牛山ホテル﹂ものちには﹁別稿﹂の二字がけずられ﹁牛山ホテル﹂と題され︑﹃牛山ホテル﹄収録の
﹁牛山ホテル﹂と同じように諸種の単行本に収められることになったから︑﹁牛山ホテル﹂に二種のテキストのあるとい
うことは︑その題名からはどうしても見きわめがつかないという結果が生じてしまうことになった︒この二種のテキスト
が︑のちにそれぞれどのような単行本に収められたのか︑またその二種のテキストの異同については岩波書店版﹃岸田園
土全集﹄第四巻の﹁後記﹂を参照願いたい︒
﹂の二種のテキスト問題については︑﹃浅間山﹄の﹁序に代へて﹂に一応は明らかである︒
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
七五
七六 与に再録した︒訂正を加へたといっても︑
﹁牛山ホテル﹂は︑既に︑この前の集︹﹃牛山ホテル﹄︺に入れたものに︑ところどころ訂正を加へ︑別稿としてこ
主として方言を読み易くしたに過︑ぎぬが︑この作品は︑天草の方言をその
ま
L
使ったL
めに︑それを善しとする人と︑それを悪しとする人とが相半ばし︑悪しとする人の中には︑結局︑しま ひまで読んでくれなかった人もあるらしいから︑その方言の効果を保ち得る範囲で︑少しく手心を加へてみたのであ る︒耳で聞けば︑なんでもなく解る程度の方言でも︑文字で読むとさっぱり見当がつかぬといふ場合もある︒上演す る場合はなるべく前のテキストを使って欲しいと思ってゐる︒
ようするに﹁牛山ホテル﹂には︑耳で聞くことと︑文字で読むことのために︑二種のテキストが生じてしまったという
こと
であ
る︒
もとより戯曲の言葉は︑耳で聞かねばならない︒﹁牛山ホテル﹂の場合︑耳で聞くことをたすけるために文字で読む﹁別 稿牛山ホテル﹂が用意されたというのにもすぎないだろう︒だから二種のテキストといっても﹁別稿牛山ホテル﹂は︑も う一つのテキストにかぞえなくてもいいのだと理解することもできる︒それでもなお現実には二種のテキストが︑それが 二種のテキストとしてではなく流布しているということは確認しておかなければならない︒こうしたテキスト問題は︑こ
いつも問題にしておかねばならないことである︒戯曲が一テキストのヴアリアントとしてあるの
の岸
田戯
曲に
かぎ
らず
︑ ではなく︑テキストのレジーが上演と一体のものとしてとらえられねばならぬからでもある︒
この二種のテキストはそのどちらも戯曲の言葉で書かれてはいる︒くりかえせばその一方は︑耳で聞く戯曲の言葉をあ て書かれていたということである︒語られる言葉の美︑
または語られる現代語としての戯曲の言葉とし
または語られる現代語の起原を天草の方言のリズムに発見したと
たうるかぎり徹底したものとしであった︒岸田のいう語られる言葉の美︑
いう
こと
でも
ある
︒
したがって︑もう一つのテキストであった﹁別稿牛山ホテル﹂は︑話すように書くというあの口語文体︵戯曲の言葉な
のだから︑それは話すように話すということになるのだがY近代散文の性質︑またはその機能に近づけ文字で読む戯曲の
言葉として書かれていたと考えておくのが妥当なのだろう︒﹁別稿牛山ホテル﹂は文字で読むための措置をほどこし戯曲
の言葉で書かれていたということである︒このことはもっと留意されてよいだろう︒耳で聞く戯曲の言葉と文字で読む戯
曲の言葉とを︑比較対照してみることは︑戯曲の言葉とは何かということについてのさまざまな質疑を導きだすために
も︑すこぶる興味をさそう作業になるからである︒一例をあげてみたい︒
第一場は︑こんな会話ではじまる︒さと︑とみとやすとの会話である︒
さ と
船はもうさっきから︑著いたつだツとん︑なんしとツとだろかい︒
ベル・ピユウで茶でも飲んだツとない︒
みと
やす
検疫で止められとツとだろ︒上海から来た船はやかましかもん︒
ふ れ い
コレラのはやっとるとだった︒おやすさん︑風呂へ入ってこんかな:::︒
みと
ほん
に︑
やす
ゆ、日ひ、今
じ、、ぅ、は
っ、やこ、め
け、と
カミ
う
無 精 者 の
意、』ノ
みと
やす
東京の奥さんに見てもらへばええ︑印度支那にどぎゃん別附がをるか:
さ と
船のつく日はいやいや︒なんにも手につきゃせん:
︵﹁
牛山
ホテ
ル﹂
︶
さと
船はもうさっきから着いとるのに︑なにしとるとだろかい︒
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
七七
七 八 と み
ベル・ピユウで茶でも飲んどるとたい︒
検疫で止められとるとだろ︒上海から来た船はやかましかもん︒
ふ れ
コレラのはやっとるとだった︒おやすさん︑風呂へ入ってこんかな;︒
やす
みと
ほん
に︑
やす
今日は︑やめとかう︒
と み
無精もん!
やす
東京の奥さんに見てもらへばえ
L
︑印
度支
那に
どげ
な別
鯖が
をる
か:
::
︒
占
dL
﹂船のつく日はいやいや︒なんにも手につきゃせん:::︒
︵﹁
別稿
牛山
ホテ
ル﹂
︶
﹁牛山ホテル﹂と﹁別稿牛山ホテル﹂とのこの二種のテキストをならべてみた︒
幕あきのさとのセリフに注目してみたい︒このセリフは何ほどの意味も伝えてはいない︒モノローグであってもともと
とみまたはやすへの問いかけとしてあるのではなかった︒たまたま︑さとのかたわらにいたとみとやすとがそのさとのそ
ノロ
lグを耳にとめその内容をうけているのにすぎないだろう︒﹁船のつく日はいやいや︒なんにも手につきゃせん・:
:・︒﹂という︑そのあとのさとのセリフもまたさと一人が物思いに沈み︑とりのこされているがゆえのセリフなのだ︒ト
書には﹁さと︵二十四︶が土聞の上り口に腰をおろして︑ぼんやり窓の外を見てゐる︒﹂とあることによっても分かるだ
ろう︒さと自身のこれからの身のふりかた︑ゆくすえが船のついた港のむこうにある︑そのことがこういうモノローグに
なっている︒さとの出立は︑このいちばんはじめのモノローグハさらにそのあとのセリフ﹀によってすでに決定している
のだ
︒
物思
いは
︑
﹁別稿牛山ホテル﹂のように改められたさとのセリフは︑とみまたはやすへの意味を伝えての問いかけとなり︑さとの
よわめられてしまっていると私には思われる︒出序回は︑天草弁という﹁方言﹂をモデルにして戯曲の言葉の典
型とその意味を知らせたのである︒﹁一体︑戯曲の言葉といふものは︑小説や随筆のそれとは違ひ︑そんなにすらすら読
んでは︑舞台の効果などわかる筈はないのである﹂︵﹁﹁せりふ﹂としての方言﹂昭和四年三月︶︒そればかりではなかった︒注
1
﹁せりふ﹂としての﹁方︵吉己こそが︑さとのアイデンティティの証明たりうるのにほかならない︒二︑仏領印度支那のある港
岸田園土その人の演出による﹁牛山ホテル﹂の飛行館での初演は︑築地座の第五回公演︵昭和七年六月二十五日J
二十
六日︶の三ステージであった︒田村秋子と内村直也によってまとめられた﹃築地座﹄ハ昭和五十二千十月二十日︑丸ノ内出版︶
が︑この築地座の軌跡を追っている︒
初演プログラム﹃築地座﹄第五号︵昭和七年六月二十五日︶に﹁牛山ホテル﹂が﹁解説﹂されている︒まずこれを読んでお
注
2
きたい︒おそらく友田恭助が書いていたと思われる︒時雨
初め
た九
月の
末・
・・
・・
・仏
領印
度支
那の
或る
港町
であ
る︒
波止場の灯を間近に見る岡に牛山よね経営の日本人ホテルがあった︒
S商会の出張主任真壁は故園を離れた住しさを天草女おさとの純情に慰められつ
L
同棲
を続
けて
ゐた
︒会
者必
離・
:
真壁の事業的失墜が戯曲の高潮を生むこと与なる︒
iー
ーお
前は
全く
自由
なん
だ︒
やっぱり国へ帰るか?それとも船を断ってもうしばらく此処にゐるか?:::お前はま
だ迷
って
ゐる
︑ち
ゃな
いか
︒
暗い流転の生涯から救ってやろうといふ男の真心をきいて彼女は迷った︒過去に恋愛の重荷を背負ふ真壁は自己を
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
七九
八白
。
信じ得ぬ未練を制して︑只管女の光明を希ふのだった︒
暁の
空に
汽笛
がな
る︒
おさとを乗せた汽船が績を解いたのである︒
﹃牛山ホテル﹄はかうした物語によって解説し得る戯曲ではない︒先づ︑私共はこの作品の構成の妙味を尋ね︑次
いで移民生活の演劇的詩情を索めなければならない︒
岸田園士氏の名篇:::これをもって築地座は創設第一年の前期を飾らうといふのである︒
天草女さとのゆくすえとは︑この﹁解説﹂にこのように書かれていたところである︒幕あきにさとの私的感情とむすび
つけられて思わず発せられたところの天草弁のモノローグ︑耳で聞いてもその意味を十分に伝えていなくても︑この場合
にはいっそ純粋に音楽的なものでありさえすればそれでよかったのである︒くだけたフランス語が﹁牛山ホテル﹂にとび
かうのも︑耳で聞く私たちの感覚と想像を刺激すればそれで十分なのである︒それが固有の言語的風貌︑仏領印度支那の
植民地的感情をきわだたせていたように︑天草弁もまたそこにくらす人間固有の属性としであったのにほかならない︒
にす
る︒ ﹁牛山ホテル﹂についての岸田園土その人による﹁解説﹂は決して少なくない︒それらにもまず目をとおしておくこと
︹現
代文
学選
第二
十五
︺︵
昭和
二十
二年
二月
十日
︑鎌
倉文
庫﹀
の﹁
あと
がき
﹂︒
﹃風
俗時
評﹄
﹁牛
山ホ
テル
﹂は
︑昭
和三
年の
秋に
︑
ふと︑当り前の戯曲を書いてみようと思ひ︑それまでわざと避けてゐた﹁筋﹂
を織り込み︑自分の経験と現実の印象を基礎として︑客観的な主題の取扱ひ方を試みてみた︒仏領印度支那は曾遊の
地で
あり
︑
﹁牛山ホテル﹂は一字だけ変へた実在の旅館であり︑登場人物のいくたりかは完全なモデルといふほどで
はないが︑例の植民地的な風貌をもったそれぞれの典型をとらへたつもりである︒
植民地といへば︑特にこの地方の日本人コロニイに一種独特の色彩を添へるものは︑いはゆる娘子軍の地方靴りで
あって︑そこに作者は捨て離い興味を感じたので︑友人の協力を得て︑故ら﹁文字で見ると﹂難解のそしりを免かれ
ぬ﹁
方言
﹂を
使は
せた
︒
ここでも﹁娘子軍の地方詑り﹂﹁方言﹂のことがいわれていた︒戯曲のための戯曲︑その戯曲の言葉をもって﹁当り前
の戯曲﹂に︑あることをいわしめた戯曲︑それが﹁牛山ホテル﹂という戯曲ということになる︒戯曲の言葉l文体︑当
り前の戯曲H結構︵構成︶︑あることu客観的な主題︑を提示したのが﹁牛山ホテル﹂であったのにほかならない︒
その﹁あること﹂については︑やはり岸田の次の言葉を聞いておきたい︒
庫︑
昭和
二十
六年
四月
三十
日︶
であ
る︒
﹁作
者の
言葉
﹂
︵﹃
日本
現代
戯曲
集I
﹄新
潮文
ある
時︑
ふと
︑
﹁おれに当り前の戯曲が書けるか知ら﹂といふ疑問が起り︑すこし態度をかへて︑いはば正道もと
いふべき戯曲的主題と構成とをもった一作品の創作を思ひ立った︒それがこの﹁牛山ホテル﹂である︒
︹:::︺この作品が私のほかの作品と違ってゐるところは︑ある程度モデルがあるといふことである︒もっとはつ
きり言ふと︑私の過去の生活︑経験︑観察が︑直接この作品の中に取り入れられ︑登場人物の一人一人に︑
づっ実在の人物の面影をしのばせるものがある︑といふことである︒
いく
らか
この作品を書いたのは︑昭和三年︵一九二八︶の暮れで︑私が仏領印度支那に渡ったのが︑それより十年前であ
る︒私はほとんど無一物でフランス渡航を企て︑幸ひ香港で臨時の職を得てこの未知の土地へひとまづ落ちつくこと
ができた︒滞在わづかに三ヶ月であったけれども︑この東洋の植民地における日本人の生活の印象は︑私の脳裡に深
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
八
八
く刻みつけられた︒孤独な放浪の旅と︑陰欝な南方の季節と︑民族の運命に対する止みがたき不安と︑これらが一体
となって︑この作品の基調を成しているものと思はれる︒
﹁仏領印度支那のある港/九月の末i||雨期に入らうとする前/港に近く︑仏国人の住宅地と︑所謂﹁アナミット﹂の部
落とに接する一区劃︑その中心にある日本人経営のホテル﹂︑これが﹁牛山ホテル﹂の全五場をつうじての﹁場﹂であ
大正八年七月末︑岸田は神戸を出発︑台湾の高維をへて香港に渡っている︒そこで︑三井物産支店の現地傭の名義で仏 る ︒
領印度支那ハイフォンの出張所づめを命ぜられ︑新任出張所長の仏語通訳として現地に赴任する︒約半年がかりで目的地
のパリに着くのはこえて大正九年一月十日のことだから︑その聞の三ヶ月あまりをハイフォンに過したことになるハ﹁外遊
熱﹂
昭和
二十
六年
四月
︶︒
それ
は﹁
九月
の末
i l
雨期に入らうとする前﹂の﹁牛山ホテル﹂の﹁時﹂ともまた正確に照応す
早くに﹁門司から基隆まで﹂ る
﹁呑
港﹂
﹁海
防1
I6
××
ホテ
ル﹂
﹁馬
耳塞
︵大
正十
三年
十二
月﹀
とい
う散
文詩
風の
スケ
V
チもある︒この﹁西
貢﹂
﹁汽船アミラル・ポンチイの甲板﹂
から巴塁への汽車中﹂の六つの小題のある﹁あの顔あの声﹂
六つの小題がそのまま岸田のパリのガlル・ド・リオン駅に着くまでの約半年間の﹁あの顔あの声﹂のスケヅチであっ
ハイフオ
ν
たことも︑説明するまでもない︒﹁香港﹂と﹁海防||××ホテル﹂は︑やはり引用しておかなければならない︒﹁牛山ホテル﹂の役々をさりげなくこのスケッチにもあらかじめ登場させていたからである︵小文﹁﹁牛山ホテル﹂の真壁﹂﹃圏文
事﹄
臨時
増刊
︑昭
和五
十年
十一
月﹀
︒ xx
汽船会社支店長||・アルザス生れの仏蘭西人||青島で日本軍の捕虜になった男
11
1 独身
︒
毎朝
︑ モーターボートで店に出勤し︑毎晩自動車で家へ帰る男︒
﹁ あ
L
随分酔った011
1
︵勝
手に
踊れ
︶
たわ
くし
︑
カツ
ポレ
を踊
まり
す﹂
﹁女
は︑
日本
の女
に限
りま
すね
﹂
ーl
i
︵ 馬
鹿 ︑
ネク
イタ
でも
結び
直せ
︶
. . . . .
. . . . .
. . . . .
. . . . .
. . . . .
. . . . .
. . . . .
. . . . .
. . . . .
﹁も
う一
っち
ょ:
::
もう
一っ
ちょ
::
:待
てよ
::
:来
い︑
もう
一っ
ちょ
﹂
﹁畜
生︑
やれやがった︒それでい
L
か ﹂﹁こ
こへ
来い
・:
:・
小さ
いの
﹂
﹁大
きい
の出
ろ︑
︒糞
ざま
見や
がれ
﹂ 雨がまだ降ってゐる:︒
ボタ
リ1
・ イモリだ
c
チイツ1・﹁い
だや
よツ
︑こ
の
JV り
L
い ︑
お放
しよ
﹂ツ
雨が
まだ
降っ
てゐ
る︒
トンキンの真昼はかなし血の如き 木の実を噛める土人の女ら 盗みたる金を施す賊もありきなど
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
八
八
四
思ひ続ける一日なりしかな︒
タ フ
ブブ
フ フ
ブもう
一つ
涙さへ見せぬ彼女なりき
1 l i
ショウロンの浜の
タぐれの一と時
仏領印度支那のある港に︑
日本人経営のホテルがある︒牛山ホテルという︒そこのあるじがもとはフランス人の妾だっ
た牛山よね︵五十五︶︒身寄りのないとみ
石倉やすと藤木さと︒やす︵二十九︶はフランス人の妾で︑ ︵十九︶を養女にしている︒ここには天平から流れついた女たちが大ぜいいる︒
さと
は︑
S商会主張所主任の真壁の妾である︒ロオラ︵一一一
十︶は真壁︵四十︶の妻︑真壁がロシア大使館で副領事をしていたころに一緒になったというユダヤ系のフランス女性︑
それから十年がたつ︒いまはあいだに弁護士をたてて別れ話がもちあがっている︒仕事にしくじった真壁は
S商 会 を や め︑さととも別れてここを去ろうとしている︒真壁の後任は三谷︒三谷︵二十七︶は夫人︵二十六︶とともにこの地にや
﹁牛山ホテル﹂はこの日に幕があがる︒真壁︑三谷︑去る人︑来る人をかこむ歓送迎会がおこなわれる︒その
って
くる
︒
夜真壁はロオラにピストルで撃たれ負傷する︒あくる朝︑さとはこの地を去ってゆく
T
l︒
三︑植民地的な風貌
明治からそれ以降にわたってのいわば南方開発の国家的事業をうけての南進の思想は︑その後南方のコロユイに流離す
るおびただしい数の棄民である日本人を生みだしてゆく︒
たとえば残留の︑いまはすっかり年老
いた日本人孤児が︑今日まで現地の反日感情をおそれで日本人名をおもてにあらわさずにかくしつづけ︑フィリピンに千
人以上にのぼっていたことが︑最近明るみに出たことによっても証明されているとおりである︒
九州島原の貧しい階層に生まれた明治の民衆の一人である村岡伊平治という︑同じ貧困階級の女性たちを商品として売
買した女街の半生を︑後年秋元松代氏が戯曲﹁村岡伊平治伝﹂ハ﹃新劇﹄昭和三十五年十二月︶に書いていたことはよく知られ
ているだろう︒明治二十年代のわが国は軍国主義国家の形成に直進した時期であり︑国力のほとんどを軍備に注ぎ込んで
いた︒天皇制国家の棄民ともいうべき底辺の民衆は男も女も海外雄飛という虚妾な合言葉に煽られて故国の外へ押し出さ
れて行った︒とそのように秋元松代氏が﹁著者自註﹂をほどこしている︵﹃秋元松代全作品集﹄第二巻︑大和書房 昭和にうけつがれての日本の敗戦によっても︑もちろんそれに終りないことは︑
昭和
五十
一
年四月︶︒そのモデルとして︑民によって喚問されたのが村岡伊平治︑それが﹁村岡伊平治伝﹂だったのである︒
さらに秋元民はつづけて書いている︒村岡伊平治たちのようないうところの日本娘子軍というあざとい命名をうけた先
発群の踏みわけて行った道は︑そう時をおかずに没落士族とか憂国の志士を自負する青年たちとか商工業者や宗教家や︑
軍人や官吏の進出して行く通路になった︑とも︒
﹁村岡伊平治伝﹂や﹁マニラ瑞穂記﹂の作者があらかじめ岸田園士の﹁牛山ホテル﹂を読み︑知っていたのかどうかと
いうようなことをいまは問うているのではない︒秋元民にならえば海外雄飛という虚妄な合言葉に煽られて故国の外へ押
し出された日本人男女の現地での生活︑それを︑くだって大正八年九月から三ヶ月あまりのあいだに当時は仏領印度支那
のハイフォンにみとどけていたのが岸田園士にほかならなかったということである︒
﹁牛山ホテル﹂という戯曲︑その戯曲の言葉をきかなければならない︒
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
/¥
互 主
八六
真壁と三谷︑三谷夫人をかこんでの歓送迎会のおこなわれている第三場︑そこには最年長の納富会ハ十一ニ︶のほか︑鵜瀞
︵四
十二
︶︑
金田
︵四
十七
︶︑
島内
︵二
十五
﹀︑
岡︵
三十
二︶
ら︑
故国
の外
へ押
しだ
され
た日
本人
たち
が一
堂に
会し
てい
たの
だ
った︒むろんそこには︑かれらに矯態をふりまき酌をしてまわる女たちもいる︒けばけばしい染模様の着物を着た︵女︶
性を商品とする八号の女たちである︒
納富が︑真壁の正面に起ち上ってテーブル・スピーチをしている︒
さう
いふ
わけ
で︑
一介の剣道師範たる私は︑今を去る二十五年前︑内地の熟練な農夫二十家族︑五十名を引き連
れて︑此の地に渡って参りました︒
因循にして気概なき此の地方の青年は︑悲しい哉︑わが剣道の精神を解せず︑私の素志は空しく今日に至ったのであ
りますが︑一方︑模範農場の経営と︑農作指導の事業は︑着々とその歩を進め︑その翌々年には︑仏蘭西政府より︑
名誉ある撒構褒章の贈与を受けました︒今日︑わが日本国民の需要に応じ得る印度支那米の産出は︑実にその期間に
於て︑確乎たる基礎を作り得たものと信じます︒然るに︑これらの日本農夫は︑その技術に於てこそ︑誇るに足るべ
きものでありましたが︑国家百年の計を立つる精神的訓練に於ては︑甚だ欠くるところがありました結果︑或は病気
と称し︑或は報酬の不満を唱へ︑或は︑父親が亡くなったからとか︑或は嫁を貰はにゃならぬとか申して︑一人還
り︑二人還り︑遂に︑私一人を置き去りにして︑悉く帰国してしまったのであります︒
大分︑座が乱れてまゐりましたから︑これくらゐで止めますが︑要するに︑植民地に於ける同胞の団結は・:・︒
巌乗な半自の老人︑この納富は︑さしずめ憂国の志士の﹁素志﹂を抱き︑または進取の気象にもえて︑当時の日本の社
会にあって南方への海外雄飛を新天地にくわだてたくちではあったろう︒当時とは納富が内地からこの地に渡って来た二
十五年前のことである︒それは明治二十年代末から三十年代にかけてのことである︒当時の日本の社会にさかんにおこな
われるようになった同胞四千万の富国の強兵︑殖産の興業をうしろだてにしての︑納富には納富なりの﹁国家百年の計﹂
があってのことであると考えることもできる︒
納富
は六
十三
歳︑
また﹁植民地の小商人タイプ︒不似合な日常と眼鏡﹂と説明されている金田洋行主の金田が四十七歳
であったように︑それぞれの世代によっての日本および日本人の南方関与の思想と行動のタイプがあらわれてくる︒こ
こはひとしく植民地であって内地ではない︑植民地には植民地にふさわしい交際と礼儀がある︑だから形式的な挨拶は一
切無用というのが真壁であった︒この土地には﹁どれもこれも︑内地にゐそうな人聞は一人だってゐゃしない︒みんな少
しゃっつ日本人でなくなっているよ︒﹂︒岸田にならえば︑そのような植民地的な風貌をもったそれぞれの典型がとらえられ
ていたのだから︑真壁とても決してその例外ではありえなかった︒
真壁は︑鵜瀞に対して﹁植民地ゴロ﹂﹁人間の屑﹂という批判をあびせるのだが︑その当の真壁はといえば﹁僕は無論︑
思想的にも︑感情的にも︑一個のコスモポリタン﹂たることを表明し︑また﹁立派に世界ゴロの仲間にはひる﹂のほかに
なか
った
ので
ある
︒
四︑絶対的な自由
そんな真壁が︑思いあぐねたはてに三谷と三谷夫人とに相談をもちかけるのは︑さとのゆくすえについてであった︒
﹁あ
の女
を︑
一度
は︑
ほんたうに救ひ出してやりたい︑いや︑少なくとも︑救ひ出したといふ気持になってみたい﹂︑そ
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
八.
七
八白 八 のことはさとが﹁一度は︑普通の女になるといふことだ﹂と真壁はいう︒
岸田が﹁牛山ホテル﹂について﹁所謂海外出稼の天草女を主要人物として︑その生活を描いてみた︒﹂︵﹁﹁せりふ﹂とし ての方言﹂前出︶と書いていたことをやはりどうしても思い出しておかなければならない︒その海外出稼の天草女であるさ とを故郷の天草にかえすこと︑真壁にいわせれば︑そのことこそがさとが﹁普通の女﹂になることなのだ︒
ついでにいえばロオラとの離婚問題をかかえ︑それがもとで傷害さわぎまでおこしてしまった真壁が︑いまさらさとと 結婚するなどといえたものでもあるまいということだ︒真壁はちゃんとこういっていた︒﹁僕はね︑あの女と結婚しても
さうすると︑あの女が可哀想ですよ︒僕は︑半年経たないうちに︑あの女を棄ててし
いい
と思
って
ゐる
んで
す︒
しか
し︑
まふでせう︒﹂と︒自分のこれまでの放時な生き方をかえりみ︑このように自己を分析することができるがゆえに︑真壁は さとを天草にかえす決意もまたかたまったのだといいかえてもいい︒にもかかわらず︑
真壁
︹:
::
︺奥
さん
︑ さっきから︑あなたのお顔を見てると︑なにか知ら︑僕の後暗いところを責めてをられるやう
に思
へる
んで
すが
::
:︒
三谷夫人
︵笑
ひな
がら
︶後
暗い
とこ
なろ
んか
︑
おあ
りに
なる
んで
すの
︒
真壁
後暗いと云ひますか︒卑怯な態度と云ひますか︒
三谷夫人
︵やや皮肉に︶よくそれがおわかりになりましたのね︒
真壁
変なもんですね︒僕の神経がそれほど鋭敏になってゐるんですよ︒
ということなのである︒真壁の態度がいかに﹁後暗﹂く︑また﹁卑怯﹂にみえようが︑
がめられようが︑さとと別れること︑そしてさとを天草にかえすことが︑
またたとえそれを三谷夫人にと
﹁世界ゴロ﹂たる真壁のさとにしてやれること
のすべてだったのにほかならない︒
岩波版全集第四巻の﹁後記﹂の異同にも明記したとおり︑﹃浅間山﹄所収の﹁別稿牛山ホテル﹂のテキストを生かし
﹃歳月﹄︹創元選書幻︺︵昭和十四年九月一日︑創元社﹀に収めた﹁牛山ホテル﹂では︑﹁︵やや皮肉に︶よくそれがおわか
りになりましたのね︒﹂という三谷夫人のセリフが﹁︵や
L
皮肉に︶どうしてあの方と結婚なさらないのか知ら:::︒﹂といわば内地の改められていたことに注意しておきたい︒内地からこの地にやってきたばかりの三谷もまた三谷夫人も︑
感情によって︑真壁のさとへの愛情を測定しているのだ︒真壁がさとと結婚すること︑それがかれらの論理なのである︒
日本を発つ前からつやついている三谷夫人の無邪気な印度支那讃美にしても︑あいかわらず﹁孔雀と錦鶏鳥とが︑なんと かの花の聞を飛びまはってゐる﹂︑そんな﹁安南の森の奥﹂にだけ注がれているのだったし︑また三谷にしても歓送迎会 での﹁かうしてゐると︑丸で日本にゐるやうですね︒日本にゐて︑少し変ったことをしてゐるやうな気がしますよ﹂とい
う感想を一歩もでていないのだ︒
この二人の内地の感情と真壁の外地の感情とのズレは﹁牛山ホテル﹂初演当時の劇評のズレとも一致していた︒
﹁少
し づっ日本人ではなくなってゐる﹂この土地の人々の生活のスタイルを解し得なかったのは三谷︑三谷夫人ばかりではなか つまりさとと別れて︑さとを天草にかえすという真壁の外地の感情による論理が分からないから﹁このドラマは真
っ た
︒
壁の制圧されたる情熱に焦点がある﹂
人の視線︑スタンスからしか真壁の論理を見ていなかったのである︒
﹃歳月﹄に収められた﹁牛山ホテル﹂では三谷夫人のセリフだけが改められているのではなかった︒改められた真壁の
セリフもあわせて引用しておこう︒改められたセリフの方がより説明的であったことに気づかされる︒
︵﹃
東京
朝日
新聞
﹄昭
和七
年六
月二
十九
日︶
とい
う批
評に
なる
︒劇
評も
︑
三谷
︑
三谷夫
三谷夫人︵や与皮肉に︶どうしてあの方と結婚なさらないのか知ら・
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
八九
。
九真壁変なもんですね︒僕の道徳では︑さういふ答は出てこないんですよ︒
真壁がさとと結婚しないのは︑真壁の情熱が制圧されていたからなのではない︒﹁僕の道徳では︑さういふ答は出てこ
ない﹂のである︒真壁の﹁道徳﹂とは︑外地の感情によって培われた﹁道徳﹂である︒真壁はロオラとの結婚生活について
﹁此
の土
地へ
舞込
んで
来て
から
は︑
おれたちは︑同じ櫨の中で噛み合ふ獣のやうな生活をし続けた︒﹂とかえりみる︒﹁此
の土地へ舞込んで来てからは︑﹂と断わるのには︑やはり理由があるとみるべきだ︒
ことは異人種聞の結婚における対立や共存ということで片づきはしない問題としてある︒印度支那︵東洋︶でありなが
らフランス領︵西洋︶︑植民地であり︑そこに東洋の日本人が流れてきてフランス語をもちい︑アナミット︵安南人︶を
手足のようにつかってくらしている﹁此の土地﹂に︑日本人のくりひろげるその光景の異様さこそが︑疑われるべきなの
£ − っ こ
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﹁牛山ホテル﹂という作品が不幸だったのは︑そのような側面に目がとどいていなかったからである︒さとという日本
人を故郷の天草︵という日本︶にかえすこと︑そのような植民地の生活からさとという日本人をどうしても解放してや
らねばならぬということ︑そこにこの﹁牛山ホテル﹂の﹁主題﹂がなければならなかった︒どうしてもそれが真壁のさと
の﹁本心﹂にたずねさせたもう一つの﹁運命﹂とならなければならなかった︒さらに天草女のさとの地方説り︑﹁せりふ﹂
としての﹁方言﹂には︑さとその人の﹁本心﹂︑アイデンティティが問われていたのにほかならなかった︒天草弁は︑さ
との存在証明としであった︒しかしそのことは︑ただちにさと︑が天草︵という日本﹀にかえることを意味しているのでは
ご ︑
oJlhu v
﹁主
題﹂
はそ
のさ
きに
ある
︒
﹁自分の限の前で︑あの女が︑これから歩いて行く方向を決めようとしてゐる場合︑僕の意思がそこに働くことを非常に
恐れてゐる﹂と真壁はいっていた︒それは真壁が︑誰に対しても責任を負わされることのない絶対的な自由︵それはかつて
真壁がさとに﹁俺には俺の仕事がある﹂と表明していたことと決して矛盾しない自由でもあった︶を︑まもらなければなら
なかったからだ︒真壁がさとの﹁本心﹂をたずねるのはそのためである︒﹁本心﹂とはさとの﹁意思﹂を問うことであった︒こ
のようなかたちで責任を負いとおすこともまた︑世界ゴロたる真壁の絶対的な自由をまもることとも決して矛盾しない︒
仕度金を与え︑さとを天草にかえすことが︑内地の感情からはいかに﹁卑怯な態度﹂にみえようが︑そうすることによ
ってようやく真壁もさとから解放され︵それはまたさとが真壁から解放されることを意味している︶︑絶対の自由を生きる
ことができる︒真壁はさとに天草への出立をうながしはしたが︑出立の決断がさとその人の﹁意思﹂にゆだねられていた
ことは︑明言しておかなければならない︒さとの天草への出立は︑さとの自立と同義でありその自立こそがまたさとの絶
対の自由を保障する︒さとはモノローグから解放される︒だからこそ︑さともまた真壁とおなじように自らの手でこの土
地に終止符をうつことができるのである︒
やす
国へ戻一るていふこたあ︑どっちしてん︑自分一人で決めたツだろな︒ムツシユウが︑発つなとでん云ふと︑ちゃな
かツかな9・
よ ね
お れ ゅ ん ベ お ら
そるが︑己んもわからんとたい︒いくら訊いても︑はっきりしたこたあ云はんし︑昨夜でん︑己あ︑もう面倒臭
うなったけん︑どぎやんでん︑よかごつするがよかて︑そぎゃん云うてやったい︒ムツシユウは此処にをったらどぎや
んかとまで云ふとツと︒自分も︑ほんたうは︑そぎゃんしゅうごたツと︒そんなら︑なんも云ふこたあなかJち
ゃな
ツ
︿りやか︒そるば︑どうしてん︑発たずにやをられんて云ふととだるけん︑こん位あわけんわけらん話てあるもんぢゃなか
と
よねもやすもさとの出立をいぶかり︑さとのその﹁意思﹂を測りかねていることがよく分かる︒それは三谷や三谷夫人
﹁牛
山ホ
テル
﹂論
九
九
とおなじようにひどく現実的なことである︒しかしほんとうは真壁はさとの﹁本心﹂を問うていたのである︒現実的には
処しがたいことの方がもっと現実にはたくさんあるのだから︑そのことを大事にしなければならないということなのであ
る︒つじつまあわせの論理で︑現実をきりぬけるのではない︒﹁本心﹂を現実に折りあわせではならない︒そのことを知
ってしまったのが真壁なのであり︑﹁此の土地﹂でその真壁とくらしたよねだったのにほかならない︒
さしあたりさとは︑故郷の天草をさして港から船に乗りこんだ︒しかしさとがほんとうに天草にかえりつくことができ
るかできぬかはあまり問題なのではない︒真壁とおなじように︑どうやら私たちもまた﹁さとがいよいよ出発したといふ
ことを見とどけるよりほか何の目的もないらしい︒﹂のである︒
予備的説明をしておくことにする︒この戯曲の題名は﹁牛山ホテル﹂といった︒ホテルが舞台となっていた︒仏領印度
支那のある港︑そこの﹁波戸場の一部と水平線が見える﹂日本人経営のホテルなのだった︒﹁孤独な放浪の旅と︑陰欝な
南方の季節と︑民族の運命に対する止みがたき不安﹂ハ﹁作者の言葉﹂前出﹀を︑そのようなロスト・ハイマlトの群れを﹁牛
注
3
山ホテル﹂にさがすのは容易である︒しかしもともとホテルとは︑かりそめを生きる人聞がまじわり再び離れてゆく定点としてあるのにすぎぬのだろう︒答
えのでない現実を先送りしつつけることによりたちあらわれてくる︑もう一つの現実︑真壁もさともそのもう一つの現実
︵理想といいかえてもいい︶を生きようとしている︒男と女との別離︵にかぎらないのだが︶
注
4
つけるよりほかにない︒納得のできる現実など︑どこにもありはしないからである︒ には︑そのような現実をみ注ー
かつ
て﹁
﹁せ
りふ
﹂と
して
の方
一言
﹂を
めぐ
って
︑次
に引
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座談
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岸田
園士
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前衛
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今村
忠純
︑大
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藤木
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司会
︶広
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1︑
東京
演劇
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﹃牛
山ホ
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戯曲
集を
編纂
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万太
郎の
﹃大
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校﹄
と同
じように﹃牛山ホテル﹄は拾わなければならない作品ですからね︒
広渡﹃時の氏神﹄︵菊池寛﹀は︑ぼくらが︹﹃際雨﹄を︺演ったようには上演できませんね︒
大笹﹃父帰る﹄だってできませんよ︒︵笑︶
藤木﹃父帰る﹄だったら︑同じ素材でも︑っかこうへい氏や別役突さんの作り方がずっとおもしろい︒
今村例えば︑思いつきですが︑﹃村で一番の栗の木﹄の系譜というのは清水邦夫さんに見ることができるし︑﹃可児君の面会 日﹄は別役実さんにつながっているといえると思うんです︑が︑現代の劇作品の中に岸田園土からの系列を見い出せるということ
は︑とても大事なことだと思います︒
︵ 笑 ︶
今村︹:::︺岸田は久保田の文体と言っていますが︑久保田万太郎に︿ことば﹀があったと岸田は思っていなかったのではな いか︒俗にいう雨だれセリフもそうです︒岸田は︑戯曲の文体を︿ことば﹀でつくってゆくとすればどのようになるかというこ とを実践していたのではないか︒つまり︑久保田万太郎の戯曲の文体はあの時代のものとしてたしかにあったけれど︑それを普 遍的な戯曲の︿ことば﹀として岸田が認めていたかどうかということですね︒私は︑万太郎のあまりいい読者じゃない︑人間的 なところでどうも好きになれないということもあります︒作品が︑ウェットのようでいてドライなところも︑苦手なんです︒
岸田と反対なんです︒岸田の作品は︑あたたかくてやさしいですよ︒
みなもと﹃大寺学校﹄を書く作家が︑単なるウェットな︑行情だけの作家というようには︑とても考えられませんよ︒日本の 戯曲作品の中で最もバタくさいものを採すとすると︑それは﹃大寺学校﹄なんです︒アイロニカルにいえば︑久保田万太郎とい
うのは︑最大の近代詩人だと言えますからね︒
大笹山芹田園土もそう言っていますよ︒同時代の作家の中で最も西洋臭の強いのは︑久保田万太郎だと︒﹃大寺学校﹄は発表が 昭和二年ですね︒その頃の久保田万太郎は︑作家として一つのピークに向っているときですよ︒そういう久保田万太郎から岸田
園士︑が影響を受けないはずがないし︑認めないということはないと思いますがね︒
今村おっしゃるとおりです︒たしか日本の戯曲で上演できそうな作品を推薦してくれとピトエフに言われて︑︹岸田が︺あわて てパリで読んだ日本の作家の中で久保田万太郎をただ一人認めていたはずです︒それはこういうことじゃないかと思います︒例 えば雨だれセリフには︑それぞれの思いというか︑論理を拒むような︑どうしょうもなく孤立したそれぞれの思いがにじんでい る︒おまえの一言うことはよくわかるというのはちがうわけです︒それを八ことば﹀の文体にしてみようとするのが岸田園土では
﹁牛山ホテル﹂論
九