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称名寺所蔵﹃法門大綱﹄における禅門についての考察古瀬珠水

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(1)

称 名 寺 所 蔵 ﹃ 法 門 大 綱

﹄ に お け る 禅 門 に つ い て の 考 察 古

瀬 珠 水

仙石 山仏 教学 論 集 第8 号︵ 平成

年︶ 28

Sengokuyama Journal

of Buddhist Studies

Vol. VIII, 2016

(2)

称 名 寺 所 蔵

﹃ 法 門 大 綱

﹄ に お け る 禅 門 に つ い て の 考 察

古 瀬 珠 水

称 名寺 蔵

﹃法 門大 綱﹄ につ いて は

︑一 九七 四年

︑河 村 孝道 氏が

﹃金 沢文 庫 資料 全書 仏典 第一 巻 禅籍 篇

に そ の 解題 を 著し て 以来

︑詳 し い研 究 が なさ れ てこ な かっ た

︒筆 者は 当 論 文に 先 だっ て

︑第 六十 六回 印 度 学 仏 教学 大 会

で﹁ 金 沢 文庫 蔵

﹃法 門 大 綱﹄ に おけ る 禅 思 想﹂ の 題目 で 発 表 し︑ 後 に

﹁称 名 寺所 蔵﹃ 法門 大 綱﹄ に お ける 禅 思想

﹂と いう 題 名に 変え て

﹃印 度学 仏教 学 研究

﹄第 六四 巻 第一 号 に掲 載し た︒ 本 論文 では

︑上 記の 拙 論で 詳し く論 証し き れな かっ た部 分を 補足 す る︒ 特に 第一 節﹁ 禅 門宗 につ いて

﹂で は

﹃法 門大 綱﹄ の 著者 が提 示す る﹁ 禅門 宗

﹂に つい て考 察す る

︒第 二節

﹁一 行三 昧 につ いて

﹂で は︑

﹁坐 禅﹂ と﹁ 念 仏﹂ の 組 み合 わ せを 修 行の 要点 と して い た点 に つい て論 じ る︒ 第三 節﹁

﹃成 等 正覚 論﹄ と﹃ 見性 成 仏論

﹄と の 比 較﹂ で は

︑同 じ称 名 寺蔵 の﹃ 見 性成 仏 論﹄ や

﹃成 等 正覚 論﹄ と 比較 し︑

﹃ 法門 大綱

﹄が そ れら と は異 な る要 素 を 有し てい たこ と を指 摘し たい

︒尚

︑ 二〇 一五 年十 一月 二 十日

︑横 浜市 金沢 文庫 に て﹃ 中世 禅籍 叢刊

﹄ 第十 巻﹁ 稀 覯禅 籍集

編集 のた め

︑執 筆者 一同 が会 し 原本 を閲 覧し た︒ その 結 果︑

﹃法 門大 綱﹄ は中 盤で

﹁中 欠

﹂ があ るこ と や︑ 後半 部分 は別 人の 筆 跡で ある こと が諸 先 生方 によ って 指摘 さ れた

︒詳 しく は︑ 石 井修 道氏 によ る 同書

の﹃ 法門 大綱

﹄の 解題 を参 照し てい ただ き たい

(3)

︑ ﹁

禅 門 宗

に つ い て

達 磨 の 肉 骨 髄 得 法 説

﹂ 法門 大綱

﹄の 最初 の 部分

︵﹃ 金沢 禅籍 篇﹄ 二一 一頁 上 袞下

︶は

︑世 尊か ら 西天 二十 八祖

︑達 磨 に法 を相 伝し た こと を述 べ

︑そ の相 伝し た内 容が

﹁ 肉骨 髄﹂ であ るこ と を叙 述す る︒ しか も

︑﹁ 顕

﹂﹁ 密﹂ と比 較 し﹁ 末後 に心 を 伝え て遺 法 の本 宗と 為す 禅門 宗﹂ を

﹁本 宗﹂ とし てい る 点は 見逃 せな い︒ 以 下︑ 該当 部分 であ る

︒ 伏し て 以れ ば︑ 世尊 在世 八十 年 の間

︑一 々の 化儀

︑ 不可 思議 に非 ざる こ と無 し︒ 十九 にし て 城を 超へ

︑三 十 にし て 成道 す︒ 教を 説く こと 四 十九 年︑ 三百 六十 餘 會有 り︒ 初め 華嚴 経 の上 機化 を受 け︑ 鹿 苑に 諦を 説き

︑ 雙樹 に 常を 顯す

︒中 間處

□權 實 相ひ 攝す

︒若 しく は 顯︑ 若し くは 密︑ 皆 大事 を成 ぜん が爲 な り︒ 末後 に心 を 傳へ て 遺法 の本 宗と 為す

︒西 天 の二 八祖

︑次 第相 承 す︒ 達磨

︑東 に来 た りて 震旦 に化 を興 す

︒三 人の 上足 有 り︒ 尼 惣持 は肉 を得 たり

︑道 育 は骨 を得 たり

︑慧 可 は髄 を得 たり

次 に︑ 上 記の 達磨 の﹁ 肉骨 髄﹂ 得 法説 につ いて

﹃法 門 大綱

﹄の 著者 は以 下 のよ うに 釈す

︒ 慧可 の 所解 に云 く

﹁本 より 煩 惱無 し︑ 元と 是 れ菩 提

︒﹂ と︒ 意の 云 く︑ 煩 惱 は妄 に 依る

︒妄 躰 は本 より 空 な り︒ 此の 空寂 の 理は

︑靈 知を 自ら 具 す︒ 浄法 苑然 なり

︒ 是を 菩提 と名 く︒ 菩 提亦 た相 無し

︒況 や生 滅 を論 ぜ んや

︒真 心︑ 獨 り明 らか にし て變 易 すべ から ず︒ 故に 云 う︑

﹁ 本よ り 煩惱 無し

︑元 と是 れ 菩提

︒﹂ と︒ 道育 の 云く

﹁迷 へ ば即 ち 煩惱

︑悟 れば 即 ち菩 提︒

﹂ と︒ 本 よ り覚 性 有り と 雖も

︑不 覚 を以 ての 故 に︑ 動心 忽 ちに 轉 ず︒ 生死 廣 博な り

︑生 死は 相 空に し て覚 性 を離 れ ず︒ 覚 性 動ぜ ざ れば

︑無 漏 現前 す︒

﹂ と︒ 惣持 の云 く

﹁煩

(4)

惱を 断 じて

︑菩 提を 得﹂ と︒ 一 切の 衆生 は煩 惱を 躰 と為 す︒ 法性 を具 す と雖 も︑ 現前 する に 由無 し︒ 妄を 息 め︑ 真 を 觀じ

︑佛 の菩 提 を顯 す︒ 是 れを 修道 と 為す と︒ 皆是 れ 大乘 の所 解

︑利 鈍を 自ら 別 すな り︒

上 記 の﹁ 肉骨 髄

﹂得 法 説 に関 し て︑ 拙 稿 では 最 澄 撰﹃ 内 証仏 法 相 承 血脈 譜

か らの 引 用 と 考 えた

︒﹃ 法 門大 綱﹄ が比 叡山 蔵 の禅 籍 を見 てい る こと は︑ 後半 部 分に 最澄 由 来の 禅籍 及 び円 仁や 円 珍将 来禅 籍 に つい て の記 述が あ る こ とか ら 確か であ ろ う︒ 更に

︑円 仁や 円 珍将 来目 録 等に は神 会 撰﹃ 菩 提 達磨 南 宗是 非論

﹄︑ 同﹃ 南陽 和 尚雑 徴義

﹄︑ 同﹃ 荷沢 和上 禅要

﹄ が掲 載さ れ

︑﹃ 法 門大 綱﹄ の著 者 がこ れら を読 み︑ 禅 の教 えと して 理 解し て いた 可 能性 が考 え られ る︒ しか し

︑﹁ 肉骨 髄﹂ 得 法説 に加 え その 解 釈は

︑圭 峯宗 密 撰の

﹃裴 休 拾遺 問﹄ に

﹁尼 惣 持︑ 断煩 惱

︑得 菩提

︒道 育

︑迷 即煩 惱

︑悟 即菩 提

︒慧 可︑ 本無 煩 惱︑ 元是 菩 提︒

﹂と 説 かれ

︑﹃ 法 門大 綱

﹄ の釈 と 同様 で ある

︒﹃ 法 門大 綱

﹄で は﹁ 尼惣 持﹂ が﹁ 惣持

﹂と な って は いる が︑ そ の解 釈 から

﹃血 脈譜

﹄か ら の 引用 とす るよ りも

︑ やは り宗 密の 著作 に 依っ たと 考え る方 が 妥当 であ ろう

︒ 石 井 修道 氏に 依 れば

︑﹃ 裴 休拾 遺 問﹄ で の﹁ 肉 骨髄

﹂得 法説 は 宗密 の 禅相 判釈 に 当て

︑得 法 の深 浅を 云 うと い う

︒﹁

惣 持﹂ の﹁ 断煩 惱︑ 得菩 提﹂ を北 宗 禅に

︑道 育の

﹁迷 即煩 惱︑ 悟即 菩 提﹂ を 牛 頭禅 に︑ そし て 慧可 の

﹁ 本無 煩 惱︑ 元是 菩提

﹂を 南 宗禅 の立 場と して い る

︒ しか し︑

﹃法 門大 綱﹄ で は︑ 三人 の得 法に つ いて それ ぞれ を 解説 した 後

︑﹁ 皆 是れ 大 乘の 所解

︑利 鈍を 自 ら別 すな り︒

﹂と 言い

︑三 通り の 方法 は﹁ 大乘 の所 解

﹂で ある と言 う︒ また

︑﹁ 利 鈍を 自ら 別 すな り﹂ と 言い

︑各 々の

﹁利 鈍﹂ によ っ て得 法が 異 なる こ とを 解 釈し たの み で︑ 禅相 判釈 まで 意 味し たと は考 えに くい

︒ 法門 大 綱﹄ の﹁ 肉骨 髄﹂ 得法 説 にお け る慧 可 の﹁ 本無 煩 惱︑ 元 是 菩提

﹂は

︑煩 悩 であ る 体は 空 であ り︑ その 空の 理 は﹁ 霊知 を自 ら具 し

︑体 は空 であ るが

︑ その 元と なる 理に は真 心 があ り︑ 変わ るこ と は無 い﹂ と言 い︑ 宗

(5)

密の

﹃禅 源 諸詮 集都 序﹄

﹁顕 示眞 心即 性教

﹂ の説 明の 中に

﹁是 の 如く 心を 開示 し︑ 即 ち是 れ靈 知の 心 は即 ち真 性 にし て仏 と異 なる こと 無 し

﹂ とほ ぼ同 じ内 容 にし て︑ 如来 蔵思 想 に立 脚し て解 説し て いる

︒ま た︑ 慧 可の

﹁本 無 煩惱

﹂の 本覚 の立 場に 立 てる 人は

︑所 謂︑ 上 根の 人と いう こと に なろ う︒ 次の 道信 の

﹁迷 即煩 惱︑ 悟 即菩 提﹂ は 上記 の慧 可の 本覚 の状 態 を保 てず

︑不 覚に 陥 って 煩悩 を起 こす

︑ 所謂

︑中 根の 人を 指 して いる

︒最 後 の惣 持の

﹁ 断煩 惱︑ 得菩 提﹂ は︑ 凡 夫が 煩悩 を中 心に 考 え︑ 正し い法 があ る と言 って も気 づか ず にい る︒ 所謂

︑ 下根 の人 を 指し

︑そ の人 には

﹁妄 を 息め

︑真 を觀 じ︑ 佛 の菩 提を 顯す

︒﹂ と止 観修 行を 勧 める 内容 とな って い る︒

諸 教 の 説 明

﹂ 諸 教の 説 明の 前に は︑ 仏の 教え の 前の 中国 の孔 子・ 老 子を

﹁旧 医外 道﹂ と 呼び

︑仏 の教 えを

﹁ 如来 の新 医﹂ と 呼ん で いる

︒﹁ 旧 医外 道﹂ では

﹁人 執 を破 ら ざる が故 に

︑三 界を 免 れず

﹂と 言い

︑仏 法 が﹁ 正し く 出世 の道 を 教 ふ﹂ と︑ 以下 の如 く 述べ る︒ 佛︑ 世に 出で た まは ざり し已 前に は

︑舊 く醫 外道 有り て 理を 説き 道を 談ず

︒ 西天 の三 類︑ 東土 に来 た らず

︒ 震旦 の三 聖︑ 其 の教 え久 しく 傳わ れ り︒ 孔子

︑五 常を 宣 ぶ︒ 是を 儒教 の本 祖 と為 す︒ 老子 は虚 無に 歸 し︑ 庄 生 は自 然を 説く

︒此 の二 聖同 じ く道 家を 稱す

︒皆 是 れ心 を和 げ︑ 悪を 防 ぐを

︑至 道の 契胤 と 為す

︒然 れど も︑ 人執 を 破ら ざる が故 に︑ 三界 を 免れ ず︒ 如来 の新 醫

︑正 しく 出世 の道 を 教ふ

︒漸 蕩執 無く

︑ 一心 の門 に入 る︒

諸 宗の 説明 では

︑﹁ 小乗

﹂︑

﹁ 方等

﹂︑

﹁ 般若

﹂︑

﹁ 法華

﹂︑

﹁真 言﹂

︑﹁ 涅 槃

︑﹁ 華 厳﹂

︑﹁ 釈論

﹂︑

﹁法 相﹂

︑﹁ 三 論﹂ と列 挙 し︑ 仏法 の明 らか に する 部分 が異 なる こと を 以下 のご とく 述べ る

小 乘

の 法執 は︑ 報土 を隔 つと 雖 も︑ 涅槃

︑時 至り ぬ れば

︑佛

︑為 に身 を 現し たも う︒ 無上 の 道を 示せ ば︑ 同 じく 菩 薩の 位に 契ふ

方 等

に は 假を 詮じ

般 若

に は 空を 説き

法 華

は 實 を明 かす

︒迹 門の 初 め十 如是 を説 き︑

(6)

妙境 を 顯す

︒衆 生の 心地 に於 い て佛 の知 見を 開示 す

︒仏 の知 見を 以て 妙 境に 悟入 す︒ 是れ 出 世の 本懷 なり

︒ 既に 本 心に 契ひ ぬれ ば諸 佛と 一 例す

︒佛 は早 く道 を 得︑ 本覚 の性 に同 ず

︒始 覚の 果無 きが 故 に無 始無 終︒ 是 れ本 門 の大 意な り︒ 本迹 は髙 廣

︑唯 し己 心の 中に 在 り︒ 浄心 にこ れを 見 れば

︑聖 應遠 から ず

︒又

︑法 愛を 離 れ︑ 浄 縛を 蒙る こと 莫れ

涅 槃

の遺 属︑ 遍く 佛性 を 示す

︒是 れ︑ 無縁 の 知を 指す

真 言

の 秘 説︑ 阿字 を門 と 為す

︒ 即ち 無相 の本 心な り︒ 直 に本 不生 の際 に契 ふ

︒衆 教の 頂に 在り

花 嚴

の法 界︑ 又︑ 唯 心の 妙理 を出 で ず︒

釋 論

の 十識

︑第 八の 上に 談 ず︒ 終に 一心 の躰 用 を明 す︒

法 相

の三 性

︑真 妄の 二心 を顯 す

三 論

は 八不 を 觀じ

︑ 無相 の心 に契 ふ︒

諸 宗の 説 明の 後 に﹁ 禅 門 宗﹂ につ い て詳 しく 説 く︒ 興味 深 いの は︑ この 諸 教の 説 明の 中︑

﹁浄 土 宗﹂

が 含ま れ て い ない こ と であ る

︒又

﹁ 天 台﹂ と言 わ ず︑

﹁ 法華

﹂と し てい る 点 は 留意 す べ きで あ ろ う︒ 奥書 の 年 代か ら︑

﹃法 門大 綱﹄ が作 成さ れた 頃

には

︑既 に法 然の 称名 念 仏の 動き があ った かと 思 われ る が︑

﹃法 門 大綱

﹄の 著者 が 考え る 念仏 は 坐禅 と 共に 行 う﹁ 念 仏 定﹂ であ る こと が︑ 以下

﹁禅 門 宗﹂ の 記 述か ら 解 る︒

禅 門 宗

﹂ 禅門 宗﹂ に関 して は︑ 最 も紙 幅を 使っ て述 べ る︒ 以下

︑少 々長 い が訓 読文 を掲 載す る︒ 禅門 宗は 佛 々祖 々︑ 心を 以て 心に 傳 ふ︒ 不立 文字

︒是 れ 文字 の相 離せ るな り

︒正 語を 以て 心を 指 す︒ 心を 得 て詞 を忘 る

︒心 に依 りて 佛を 求め

︑ 仏を 得て 心を 忘る

︒ 心は 是れ 名︒ 其の 躰 は即 ち知 なり

︒心

︑ 何物 をか 知 る︒ 即ち 妙 境を 知る

︒妙 境は 是れ 佛 の真 躰︒ 即せ ず離 せ ず︒ 知は 是れ 佛の 用

︒衆 德此 れに 從り て 成ず

︒知 は 性浄 の理 を 泛て 顯わ る︒ 此の 理は 無 相に 依り て有 り︒ 無 相本 空な れば

︑知

︑ 亦︑ 所得 無し

︒所 得 無き を以 て の故 に︑ 無 上菩 提を 得︒ 是れ 即ち

︑ 顯密 の肝 心︑ これ を 離れ て別 の躰 無し

︒ 唯︑ 未だ 本性 を開 か ず︑ 分別 執

(7)

心の 中 に住 する 者は 惣じ て︑ 是 を凡 夫と 名く

︒生 死 出る こと 難き なり

︒ 縱ひ

︑諸 教を 学す と 雖も

︑皆 悉く 人 天小 乘 の歷 劫迂 廻の 行に 属す

︒ 若し

︑又

︑善 友の 開 示に 依り て︑ 無念 の 知見 を悟 りぬ れば

︑ 諸緣

︑頓 に寂 し て法 界 洞朗 なり

︒目 に觸 れ︑ 耳 に觸 れ︑ 妙境 に非 ざ るこ と無 し︒ 四威 儀 の中 に於 いて 常に 佛 面を 見る

︒直 に 是の 如 く︑ 悟入 する 者の 念々 寂 光に 遊び

︑新 々妙 覚 を顯 す︒ 娑婆 界の 中 に︑ 猶︑ 思ひ 難き 事 有り

︒況 や實 心 をも て 理を 觀ぜ む︑ 豈︑ 歡喜 無 から んや

︒未 だ眼 に 見ず と雖 も︑ 既に 心 見る こと 了々 なり

︒ 道に 於い て勇 有 り︒ 又

︑因 果を 撥せ ず︒ 邪智 執 慢︑ 何に 因て か生 ぜ んや

︒是 を深 般若 を 行ず と為 す︒ 亦︑ 一 行三 昧と 名づ く︒ 即ち

︑ 如来 清浄 の禅 と念 佛定 と 相應 す︒ 誠に

︑是 れ 浄土 菩提 の妙 因︑ 長 生不 死の 要術 なり

︒ 久し から ずし て︑ 遍利 を 成ぜ ん︒ 十方 の諸 佛︑ 一 切の 賢聖

︑天 神︑ 地 府︑ 只︑ 此の 人を 擁 護す

︒何 を以 ての 故 ぞ︒ 是は

︑佛 國 の太 子 為る が故 に︑ 此の 要節 の 外︑ 又︑ 何を か求 め ん︒ 譬え ば︑ 王種 の 唯し 帝位 を期 して

︑ 餘の 希望 無き が 如し

︒ 又︑ 此の 法に 入る の人 は

︑た だ佛 道を 成ず る のみ に非 ず︒ 又︑ 能 く國 を治 め︑ 家を 持 ち︑ 身心 調和 な り︒ 道 俗︑ 誰か 歸せ ざら んや

︒ 佛子

︑た また ま︑ 人 身を 受け

︑又

︑聖 教 に遇 ふこ とを 得た り

︒遺 法の 弟子 と 為り て

︑名 を假 り︑ 衣を 染む

︒ 破戒 の過 を恐 ると 雖 も︑ 猶︑ 習教 の志 を もと む︒ 数輩 の知 識 を尋 ね︑ 其の 大 旨を 学 し︑ 佛祖 の教 説を 披き て

︑心 理と 相應 す︒ 常 に坐 禅を 好み

︑諸 念 を消 落し

︑深 く無 常 を観 じ︑ 放逸 に 隨わ ず

︑三 心具 足し て︑ 自ら 虛 假を 離し

︑専 ら本 尊 を念 じて

︑證 と為 し

︑救 と為 す︒ 法界 に 慈を 覆い

︑其 の 不覚 を 愍み

︑隨 分に 德を 敷き

︑ 真に 廣済 を期 す︒ 是 れ則 ち︑ 宿善 の追 ふ 所︑ 歡喜 する に餘 有 り︒ 然れ ども

︑ 自の 疾 未だ 除か ず︑ 速に 説く こ と難 きな り︒ 若し

︑ 有縁 に遇 へば

︑又

︑ 黙を 守る こと 能わ ず

︒願 わく ば諸 聖 加被 し て浄 心を 成就 した まへ

こ の﹁ 禅 門宗

﹂の 記述 は﹃ 法門 大 綱﹄ の著 者が 禅思 想 をど のよ うに 考え る かを 示し た重 要な 記 述と 考え られ る︒ そこ に は二 つの 特 徴が 見ら れ る︒ 一つ 目は

︑﹁ 肉 骨髄

﹂得 法説 と 同様

︑宗 密の 著作 に 依っ てい る 部分 が 多い こと

(8)

であ る︒ 二 つ目 は﹁ 一行 三 昧﹂ に よ り念 仏 を修 行 の要 素と し てい る 点で あ る︒

﹁一 行三 昧

﹂に 関し て は︑ 次 節 で 詳し く論 じる

︒ 一 つ目 は︑ 宗 密の 著作 に依 って い る点 であ るが

︑例 え ば﹁ 佛々 祖々

︑心 を以 て 心に 傳ふ

︒不 立文 字

︒是 れ文 字 の相 離せ るな り

︒﹂

︑﹁ 心 は是 れ名

︒其 の躰 は 即ち 知な り︒

﹂︑

﹁ 善友 の開 示に 依 りて

︑無 念の 知見 を 悟り ぬれ ば﹂ 等

10

11

12

であ る︒ ま た︑

﹁ 知は 是 れ佛 の用

﹂︑

﹁ 知は 性 浄の 理を 泛て 顯わ る﹂

︑﹁ 無相 本空 なれ ば︑ 知

︑亦

︑所 得無 し﹂ な ど︑

﹁知

﹂を 立て てい る点 であ る︒ 宗密 の﹃ 都序

﹄や

﹃ 裴休 拾遺 問﹄

では

︑﹁ 荷沢

﹂の 考 えと して 叙述 し てお り︑

﹁知

﹂や

﹁無 念﹂ が 荷沢 神会 の思 想で ある こ とは 周知 の内 容で あ る︒

13

禅 門宗

﹂の 中に は 興味 深い 記 述も あ る︒ その 一つ は

︑﹁ 正語 を 以て 心 を指 す︒ 心を 得 て詞 を 忘る

︒﹂ であ る︒ 当箇 所 の前 には

﹁以 心伝 心︑ 不 立文 字﹂ とあ るの で

︑後 の禅 の標 章の

﹁ 直指 人心

︑教 外別 伝

﹂と 対句 にも なれ る が︑ 実 際は

﹁正 語﹂ つま り﹁ 仏 のこ とば

を以 っ て心 を指 し︑ 心を 得 てこ とば を忘 れる

﹂と 言 う︒

﹁経 典﹂ を拠 り 所に し て心 を 理解 する 意 味で あ り︑ 所謂

︑﹁ 教 禅一 致﹂ の考 え であ る︒ こ れは

︑例 えば

︑神 会 撰﹃ 南 陽 和 上 頓教 解 脱禅 門 直 了性 壇 語﹄ の﹁ 若求 無 上 菩提

︒須 信 佛語

︑依 佛 教﹂

14

や︑ 宗密 撰﹃ 都序

﹄の

﹁經 是佛 語

︑禪 是佛 意﹂

と 同 様で

15

経典 が仏 の こと ばで ある こと を示 す

︒﹁ 経典 によ って 教え を理 解す る

﹂考 え方 は︑ 後の 南 宗禅 によ る﹁ 自心 是 仏﹂

︑ つま り仏 の 言葉 を集 めた 経に 依ら ず 自分 の心 に依 る︑ と する 考え 方と は明 ら かに 一線 を画 す︒

16

や や横 道 に反 れる が︑ 宗密 撰﹃ 都 序﹄ の﹁ 經是 佛語

︑ 禪是 佛意

﹂に 関し

︑ 筆者 が研 究し てき た 称名 寺蔵

﹃見 性 成仏 論﹄ に は︑ 当箇 所を 引用 して

﹁ 宗蜜 禪師 は︑ 教は 是 れ佛 の御 こと ばな り 禪は 是れ 佛の 御こ こ ろな り︑ との た まへ り︒

﹂ とあ る︒

﹁ 経﹂ と

﹁教

﹂は 発 音が 同 じで あ るの で︑ 書写 の 間違 い とも 思 える が

︑﹁ 教外 別 伝﹂ を表 明 す

17

る﹃ 見性 成 仏 論

﹄の 著 者 ま た は説 法 者 が

︑意 図 的 に﹁ 経﹂ を

﹁教

﹂に 変 え た 可 能 性 も伺 え る

︒同 様 に︑ 円 爾 撰

18

(9)

﹃十 宗 要道 記

﹄に も﹁ 仏心 宗﹂ の 説明 の 中に

﹁宗 鏡録 云

︑教 ハ是 レ 佛語

︑禪 ハ 佛意

﹂と あ る︒ 実 際 の﹃ 宗鏡 録

﹄ は﹁ 故圭 峯 和尚 云︒ 謂諸 宗始 祖

︒即 是釋 迦︒ 經是 佛 語︒ 禪是 佛意

﹁教

﹂で なく

﹁経

﹂で あ る︒

﹃ 十宗 要 道記

﹄が

﹃見 性成 仏 論﹄ と同 様に

﹁経

﹂ を﹁ 教﹂ に変 えて い る点 は注 目す べ きで あろ う

︒ま た︑

﹃十 宗要 道記

﹄も

﹁教 外 別伝

﹂の 考え にあ り︑

﹃見 性成 仏 論﹄ と同 様に

﹁仏 心 宗﹂ とい うこ と

19

から

︑﹃ 十 宗要 道 記﹄ が

﹃見 性 成仏 論﹄ を見 て いた 可 能性 は 十分 に 考え ら れ︑ 更 に

﹁教 外別 伝﹂ の 思想 の影 響 を 受け て いた と も考 え られ よ う︒ しか も︑

﹃十 宗 要道 記﹄ に は﹃ 顕 密 問答 鈔

﹄に おけ る﹁ 禅門 の 人﹂ の 言 葉の 中 に

20

同様 の一 句 が認 めら れ︑

﹃見 性成 仏論

﹄︑

﹃十 宗要 道記

﹄︑

﹃ 顕密 問答 鈔

﹄の

﹁禅 門の 人﹂ の 関係 が深 く問 われ よ う︒

21

また

︑も し︑

﹃十 宗 要道 記﹄ が確 か に円 爾撰 の もの であ る とす る なら ば︑ 円爾 と能 忍 また はそ の 弟子 た ちの 関係 に つい て考 える こと に 興味 が尽 きな い︒ 但 し︑ 筆者 は﹃ 十宗 要道 記

﹄が 果た して 円爾 撰 であ るの か否 か︑ 円 爾の 語 録な ども 研究 した 上 で︑ 慎重 な精 査の 必 要が あろ うと 考え てい る

︒ 二

︑ ﹁

一 行 三 昧

に つ い て 禅門 宗﹂ の中 に︑

﹁一 行三 昧﹂ に つい て述 べる 箇所 が 以下 の如 くあ る︒ 若し

︑ 又︑ 善友 の開 示に 依り て

︑無 念の 知見 を悟 り ぬれ ば︑ 諸緣

︑頓 に 寂し て法 界洞 朗な り

︒目 に觸 れ︑ 耳 に觸 れ

︑妙 境に 非ざ るこ と無 し

︒四 威儀 の中 に於 い て常 に佛 面を 見る

︒ 直に 是の 如く

︑悟 入 する 者の 念々 寂 光に 遊 び︑ 新々 妙覚 を顯 す︒ 娑 婆界 の中 に︑ 猶︑ 思 ひ難 き事 有り

︒況 や 實心 をも て理 を觀 ぜ む︑ 豈︑ 歡喜 無 から ん や︒ 未だ 眼に 見ず と雖 も

︑既 に心 見る こと 了 々な り︒ 道に 於い て 勇有 り︒ 又︑ 因果 を 撥せ ず︒ 邪智 執 慢︑ 何 に因 てか 生ぜ んや

︒是 を 深般 若を 行ず と為 す

︒亦

︑一 行三 昧と 名 づく

︒即 ち︑ 如来 清 浄の 禅と 念佛 定

(10)

と相 應 す︒ 誠に

︑是 れ浄 土菩 提 の妙 因︑ 長生 不死 の 要術 なり

︒久 しか ら ずし て︑ 遍利 を成 ぜ ん︒ 十方 の諸 佛︑ 一切 の 賢聖

︑天 神︑ 地府

︑只

︑ 此の 人を 擁護 す︒

一行 三 昧﹂ につ い ては

︑小 林円 照 氏の 詳細 な る研 究論 文 があ り︑ 筆者 は 氏の 論 考か ら多 く を学 ん だ︒ 氏 の 研

22

究結 果に よ れば

︑﹁ 一行 三昧

﹂の 語は 梵語 の

ま たは

の語 釈 とし て当 て られ

︑﹁ 法界 の一 相で あ るこ と即 ち真 如平 等 の理 を観 察す る三 昧﹂ と いう 意味 に解 され て いる

︒﹁ 一行 三昧

﹂に つ

23

いて は特 に

﹃文 殊師 利般 若経

﹄巻 下 に以 下の よう に説 か れる

24

文殊 師 利言 世尊 云何 名一 行三 昧

︑佛 言法 界一 相︑ 繫 緣法 界︑ 是名 一行 三 昧︒ 若善 男子

︑善 女 人︑ 欲入 一行 三 昧︑ 當 先聞 般若 波羅 蜜︑ 如說 修 學︑ 然後 能入 一行 三 昧︒ 如法 界緣

︑不 退 不壞

︑不 思議

︑無 礙 無相

︒善 男子

︑ 善女 人

︑欲 入一 行三 昧︑ 應處 空 閑︑ 捨諸 亂意

︑不 取 相貌

︑繫 心一 佛︑ 專 稱名 字︒ 隨佛 方所

︑ 端身 正向

︑能 於 一佛 念 念相 續︑ 即是 念中

︑能 見 過去

︑未 來︑ 現在 諸 佛︒ 何以 故︑ 念一 佛 功德 無量 無邊

︑亦 與 無量 諸佛 功德 無 二︑ 不 思議 佛法 等無 分別

︑皆 乘 一如

︑成 最正 覺︑ 悉 具無 量功 德︑ 無量 辯 才︒

小 林氏 の 説明 に 依れ ば︑ 先 ず︑

﹃文 殊師 利 般若 経﹄ の﹁ 一行 三 昧﹂ とは

︑一 相 であ る法 界 を繫 緣 する こ と︑ 即 ち法 界の 平 等な るす がた を心 に かけ る禅 定を 意味 す る︒

﹁ 一行 三 昧﹂ に入 ろう とす る なら ば︑

︵第 一は

︶先 ず般 若 波羅 蜜の 法 を聴 聞し

︑請 問し

︑ 修学 して この 三昧 に 入り

︑法 界縁 の如 く不 退

︑不 壞︑ 不思 議︑ 無 礙無 相な るを 得 るこ とで あ る︒

︵第 二 は︶ 次 に 空閑 の処 に 諸の 乱意 を 捨て

︑結 跏趺 坐 して 相貌 を 取ら ず︑ 心に 一 仏を 繫け て 名字 を 専称 し︑ 仏の 方所 に 随っ て端 身正 向し

︑ 念念 相続 して 念中 に 三世 の諸 仏を 見︑ そ の法 界の 無差 別な る すが たを 知 る三 昧に 入る もの で ある

︒ つま り

︑﹃ 文殊 師利 般若 経﹄ の﹁ 一行 三 昧﹂ の禅 定入 る方 式 とし ては

︑二 種類 あ り︑

25

第 一は

﹁般 若 波 羅蜜 に よ っ て 真如 平 等 の 理を 観 ず る 三昧

︑ 第 二 は﹁ 称名 念 仏 に よっ て 諸 仏 を見 る

であ る︒ 小 林氏 は第 一を 般若 行︑ 第二 を念 仏

と呼 び︑ 筆者 もこ れ に倣 った

︒小 林氏 によ れば

﹃起 信論

﹄︑

26

(11)

神会 の﹃ 菩 提達 摩南 宗定 是非 論﹄

︑﹃ 六祖 壇経

﹄︑ 宗密 の﹃ 都序

﹄︑ 大珠 慧海 の

﹃頓 悟要 門﹄ など の 南宗 禅系 統及 び 華 厳宗 の

﹃孔 目 章﹄ な ど は 第一 の 立 場 に 該 当 し︑ 曇 鸞 の

﹃讃 阿 弥 陀 仏偈

﹄︑ 道 綽 の﹃ 安 楽集

﹄︑ 善 導 の﹃ 往 生 礼 讃﹄ な ど浄 土系 は第 二に 相当 す る︒

27

こ こで は

︑禅 宗に 関わ る﹁ 一行 三 昧﹂ を見 てみ よう

︒ 最 初 に

﹃楞 伽 師 資 記

﹄に 書 か れ る 所 謂 北 宗 禅 の﹁ 一 行 三 昧﹂ で あ る︒

﹃楞 伽 師 資 記

﹄に 表 さ れ る 道 信 の 項 に

﹃文 殊師 利般 若経

﹄に 依 る﹁ 一行 三昧

﹂に つ いて の記 述が あり

︑﹁ 一行 三昧

﹂ が般 若行 と念 仏行 で ある と説 く︒ ま

28

た︑ 弘忍 撰﹃ 修心 要論

に は︑

﹁坐 禅を 学ぼ うと す るも のは

︑﹃ 無量 寿観 経﹄ によ る こと であ る︒ 姿 勢を 正し て まっ すぐ に坐 り︑ 目 を閉 じ︑ 口を 合わ せ︑ 心 は前 方を 水平 に視 る よう にし

︑思 いの ま ま遠 くし たり 近 くし た り し︑

︹ 十六 観 法 中︺ 第 一の 日 想 観 を なし

︑こ れ を 守 って

︑一 念 一 念 とど め な い こ とで あ る︒

﹂ とあ る

29

﹁一 行 三昧

﹂の 明 記は な いが

︑前 半は

﹃無 量 寿観 経﹄ の十 六 観法 中 の日 想 観法 を 言い

︑般 若行 を 説く

︒次 に︑ 神 秀に つ いて は

﹃楞 伽師 資 記﹄ 神 秀 の項 に

︑則 天武 后 に所 伝 の法 を問 わ れ︑

﹃文 殊 師利 般 若経

﹄の

﹁一 行三 昧﹂ に 依る べき との 記述 があ る︒ こ こで は﹁ 一行 三昧

﹂を どう 理解 して いる か不 明だ が︑ 神 秀撰

﹃破 相論

30

には

﹃文 殊 師利 般若 経﹄ の記 述は な く︑ 般若 行の みを 言 い︑ 念仏 行を 否定 し てい る︒ 北宗 禅に お いて 道信 は念 仏

31

行を 含む

﹁一 行三 昧﹂ を説 き︑ 弘 忍は

﹃無 量寿 観経

﹄に より 般若 行を 説き

︑神 秀は

一 行三 昧

﹂の 念 仏行 を 否 定し て 般 若 行の み を 説く

︒こ の 点 で神 秀 は︑ 以 下述 べ る 南宗 禅 と 同 様の 考 え 方を して いた と推 察 でき る︒ 次 に︑ 神 会の

﹃菩 提達 摩 南宗 定 是非 論﹄ 巻下 か ら﹁ 一行 三 昧﹂ につ いて 見 てみ よ う︒ 坐禅 に 関し て︑

﹁今 言 坐 者︑ 念 不 念 為 坐︒ 今 言 禅 者

︑見 本 性 為 禅﹂

32

とあ り︑ 明 らか に 坐禅 中 に 何か 対 象 とす る もの に 対 し念 仏 をす る こ とを 廃 して い る︒ とこ ろ が︑ 後に は

(12)

﹁若 欲 得了 達 甚深 法 界︑ 直 入 一行 三 昧者

︑先 須誦 持 金剛 般 若波 羅蜜 経

︑修 学般 若 波羅 蜜法

︒﹂

33

と 言い

︑﹃ 金剛 般若 波羅 蜜 経﹄ を﹁ 誦持

﹂す る こと を述 べる

︒神 会 は﹁ 一行 三昧

﹂を 言う も それ が﹁

﹃文 殊師 利般 若 経﹄ に依 る

﹂と は説 いて いな いの で ある

︒む しろ

﹃金 剛 般若 経﹄ 限定 で﹁ 誦 持﹂ つま り﹁ 事﹂ を 行う こと を受 容 して い るよ うで あ る︒ 更 に

︑し かし

︑﹁ 無念 者 即是 般若 波 羅蜜

︒般 若波 羅 蜜者 即是 一 行三 昧︒

34

﹁無 念﹂ が﹁ 般 若波 羅 蜜﹂ で あり

﹁一 行 三 昧﹂ と言 う

︒つ ま り︑ こ こ では ま た

﹁一 行 三昧

﹂は 般 若 行 で ある こ と を 述 べる の で あ る︒ こ のよ う に︑ 神 会 は基 本 的 に﹁ 無 念﹂ が﹁ 禅 定﹂ で あ り般 若 行の

﹁一 行 三昧

﹂と 説く が︑ そ の方 便 とし て﹃ 金剛 般 若経

﹄を 誦持 す るこ と を認 め る︒

﹃金 剛 般 若経

﹄を 禅 宗の 中心 に置 くこ と こそ が神 会に よる 特質 で あり

︑北 宗禅 から の 変革 であ ると 言え よ う︒

﹃ 六祖 壇 経﹄ の﹁ 一行 三 昧

﹂に も 同様 の 立 場 が 読 み取 れ る︒ つ ま り︑

﹁一 行 三 昧﹂ が般 若 行 で あ るこ と を 説 く も︑

﹃金 剛 般 若

35

経﹄ を誦 持 すれ ば見 性し 功徳 を得 ら れる とも 説く ので あ る︒

36

宗 密 にお け る﹁ 一 行 三昧

﹂は

︑﹃ 都 序﹄ で﹁ 若 頓 悟自 心 本來 清 淨︒ 元無 煩 惱︒ 無漏 智 性本 自 具足

︒此 心 即佛

︒ 畢竟 無異

︒依 此而 修者

︒是 最上 乘禪

︒亦 名如 來清 淨禪

︒亦 名一 行三 昧︒ 亦名 眞如 三昧

︒此 是一 切三 昧根 本︒

37

と言 い︑

﹁一 行三 昧﹂ は三 昧の 根本 とし て位 置づ け︑ 最上 乗禅

︑如 来清 浄禅

︑ 真如 三昧 と同 等と す る

︒小 林 氏 に 依れ ば

︑宗 密 の﹁ 一 行 三昧

﹂は

﹃起 信 論﹄ の﹁ 一 行 三昧

﹂か ら 濃 厚 な 影 響が あ る と 言 う︒

﹃起 信論

﹄﹁ 修行 信心 分

﹂で は真 如三 昧が 提 唱さ れ︑ その 真如 の 勝徳 であ る法 界一 相で あ るこ とを 証得 する の を一 行

三 昧 と呼 び︑ そ の立 場 は﹃ 文殊 師 利 般若 経

﹄と 同 趣で あ る が︑ 方 便 と して で は なく

︑む し ろ 発

(13)

得の 境位 と して 平等 無二 のそ のも の であ る︑ と考 察さ れ てい る︒ 確か に︑ 神 会と 同様

︑宗 密に も

﹁一 行三 昧﹂ に

38

つい ては

﹁﹃ 文殊 師利 般 若経

﹄に 依る

﹂と の 記述 は見 られ ず︑

﹃文 殊師 利般 若 経﹄ の般 若行 を指 し てい ると 考え る より

︑深 い 三昧 の境 地を

﹁一 行三 昧

﹂に 込め た﹃ 起信 論

﹄に 依拠 して いる と 考え られ よう

︒ さ て︑

﹃法 門大 綱﹄ の

﹁一 行三 昧﹂ につ い て今 一度 見て いる と︑

﹃法 門大 綱

﹄の 著者 は﹁ 無念 の 知見 を悟 りぬ れ ば︑ 諸緣

︑頓 に寂 し て法 界 洞朗 な り︒ 目に 觸 れ︑ 耳に 觸 れ︑ 妙 境 に非 ざ るこ と 無し

︒﹂ と 言い

︑そ の 結果

﹁四 威 儀の 中 に於 い て常 に佛 面 を見 る︒

﹂ と言 う︒ この よ うな 状態 に なる こ とを

﹁深 般若 を 行ず と為 す︒ 亦︑ 一行 三 昧 と名 づ く︒ 即ち

︑如 来清 浄 の禅 と 念佛 定と 相 應す

︒﹂ と 説く

︒し かも

﹁無 念 の知 ま た妙 覚に 非 ざる こ とな し﹂ と 言 い︑

﹁無 念の 知

﹂が 天台 又 は法 華 に言 う﹁ 妙 覚﹂ に 等 しい と して い る︒ 上述 の﹁ 諸教 の 説明

﹂の 中 に﹁ 法華 は 實を 明か す︒ 迹門 の初 め 十如 是を 説き

︑妙 境を 顯 す︒ 衆生 の心 地に 於 いて 佛の 知見 を開 示 す︒ 仏の 知見 を以 て 妙 境に 悟入 す︒ 既に 本心 に 契ひ ぬれ ば諸 佛と 一例 す

︒佛 は早 く道 を得

︑ 本覚 の性 に同 ず︒ 始 覚の 果無 きが 故に 無 始 無 終︒ 是れ 本門 の 大意 なり

︒﹂ と︑ 法華 で は迹 門 から 本門 へ と段 階的 な 教え を学 ん だ後 に妙 覚 に達 す ると する 点 で

︑頓 悟 を説 く﹁ 禅門 宗﹂ の

﹁一 行三 昧﹂ は明 ら かに 一線 を画 す︒ 興 味深 いの は︑ 前述 した よ うに ここ では

﹁法 華

﹂と 言 い﹁ 天台

﹂と は言 わな いの で ある

︒つ まり

︑﹃ 法門 大綱

﹄の おけ る﹁ 禅門 宗

﹂は 独立 した 禅宗

で は な く︑ 天台 宗 の 中 の﹁ 禅門

﹂と 捉 え て いる と 考 え ら れる

︒千 葉 正 氏 に依 れ ば

︑﹁ 禅 門宗

﹂の 呼 称 は 円珍 撰﹃ 諸家 教 相同 異略 集﹄ にあ り︑ そ の中 に円 仁の 説を 承 けて いた こと が述 べ られ てい る︒ つ まり

︑天 台宗 で

39

は伝 統 的に 四 宗の 円・ 密・ 戒・ 禅の う ち禅 を﹁ 禅門 宗﹂ と 呼ん で いた こと に なり

︑﹃ 法 門大 綱﹄ の 著者 もそ れ に 倣っ たと 考え られ よ う︒

40

更 に︑

﹁禅 門 宗﹂ の﹁ 一行 三 昧﹂ は﹁ 無 念 の 知見

﹂︑

﹁ 深般 若 を行 ず﹂

︑﹁ 如 来 清浄 の 禅﹂ など

︑上 述 した 宗 密の 著作

﹃ 都序

﹄な どか ら引 用 して いる こと は明 白 であ る︒

﹃法 門大 綱﹄ の﹁ 一行 三 昧﹂ に﹁

﹃文 殊師 利般 若経

﹄に 依

(14)

り﹂ など の 文言 もな い点 も宗 密の 著 述と 同様 であ る︒ し かし

︑宗 密の

﹁一 行 三昧

﹂を その まま 受 容し てい るの で はな いこ と が解 る︒ つま り︑ 般若 行 につ いて 述べ た後

﹁ 念佛 定と 相應 す﹂ と 言い

︑具 体的 に﹁ 常 に坐 禅を 好み

︑ 諸念 を消 落 し︑ 深く 無常 を観 じ︑ 放 逸に 隨わ ず︑ 三心 具 足し て︑ 自ら 虛假 を 離し

︑専 ら本 尊を 念 じて

︑證 と為 し︑ 救と 為す

︒﹂ と︑ 念仏 行 を説 いて いる

︒そ れ では

︑﹃ 法門 大綱

﹄の 著者 は般 若 行で は宗 密の 言葉 を 引用 した が︑ 念

41

仏に つい て は何 に依 拠し たの だろ う か? 筆 者は 先 の拙 論 では

︑﹃ 法門 大 綱﹄ の著 者 は﹁ 一 行 三昧

﹂に つ いて は︑ 比叡 山 に所 蔵 され てい た と思 わ れる 北 宗 禅の 中か ら 学ん だ もの と 考え た︒ し か し︑

﹃法 門 大綱

﹄の

﹁禅 門宗

﹂の 中に は 道信 や 弘忍 や 神秀 の名 や

︑彼 ら

42

の著 作で ある

﹃修 心要 論﹄

︑﹃ 破 相論

な どを 引用 する こ とも 無い 為︑ 北宗 禅の 影響 を 受 けた とは 言 い切 れず

︑こ こに 先 の拙 論の 考え を修 正 すべ きか と考 える

︒ 最 澄撰

﹃ 血脈 譜﹄

﹁北 齊の 慧可 和上

﹂及 び

﹁黄 梅東 山の 弘忍 和 上﹂ の項 に﹁

﹃付 法簡 子﹄ に云 く

﹂と して

﹁一 行 三昧

﹂に つい て 言及 が ある

︒﹁ 慧 可﹂ の 項 では

﹁我 が法 は 是れ

︑諸 佛 の甚 深般 若 波羅 蜜 の法

︒亦 た是 れ 諸佛 總 持 の法

︒亦 た 是れ 一切 法 の印

︒亦 た是 れ 如來 禪︒ 亦 た是 れを 一 行三 昧 と爲 す と︒

﹂と 言い

︑般 若行 を 示し て いる

43

﹁弘 忍

﹂の 項で は︑

﹁ 文殊 般若 に 依り て 佛を 念 じ︑ 群品 を 接引 して

︑一 行 三昧 に 引入 す︒

﹂ とあ り︑ 上述 の

﹃楞 伽

44

師資 記﹄ と は異 な り念 仏 行を 言 う︒

﹁慧 可﹂ の項 で﹁ 深 般若 波 羅蜜 の 法﹂

︑﹁ 如 来禅

﹂︑

﹁ 一行 三 昧﹂ と 言 葉を 並 べ て いる 点は

﹃法 門 大綱

﹄と 酷似 し てお り︑ その 関 係性 が 考え ら れる

︒﹃ 付法 簡 子﹄ に関 して は

︑伊 吹敦 氏 に他 の 禅 灯史 等と の 比較 を踏 ま えた 優れ た 研究 があ り

︑﹁ 神会 派 内部 のも の では ない か﹂ と 述べ てお ら れる

︒ 確 かに

45

﹁慧 可

﹂の 項で

﹁﹃ 付 法簡 子﹄ 云 く﹂ の

﹁一 行 三昧

﹂に つ いて

﹁﹃ 文 殊師 利 般若 経﹄ に 依る

﹂の 記述 が 見 られ な い 点は

︑神 会 や宗 密の 記述 と同 趣 であ り︑ 誠に 興味 深 い︒ 筆 者は

﹃ 法門 大綱

﹄に おけ る 念仏 行に つい て﹁ 一 行三 昧﹂ を軸 に議 論 して きた

︒勿 論︑ 中国 唐 代・ 宋代 の禅 宗

参照

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