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研
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究j
源氏物語に於ける漢籍引用の傾向と特色
源氏物語K
は種々多数の漢籍が引用され、中でも自氏文 集が質・量共K
圧倒的優位を持する事既K
周知の通 h y で あ る。そして其の文集を主軸とする漢籍引用の実態を検討す る 事K
よって、私は延いては源語の性格をも規定する事が 出来ると考へて居る。︵注 1 ︶が本稿主として其の引用の 傾向と特色とについて述べて見たい。 白氏文集は元来七十五巻||現存七十一巻||詩文線数 凡そ三千八百四十篇の露大‘なものである。他の国文学作品 の場合も同様であるが、源語作者は果して其の纏てを通覧 して引用したのであらうか。或は文白氏文集は其の高い知 名度のため、源氏物語以外の園文学作品K
も広く引用され て居夕、彼の和漢朗詠集も線匂闘の中、文集が切と、実K
其の二三%を占める高率である。きれば若し源語・朗詠両 書K
共通して採られて居るーーその数は凡そ四に上るi
|
場合、源語は果して其の何れからの引用であるか、直接か 間接かの問題が生ずる。が結論から先に言へば、源語作者 はやはb
文集の作品全般を通覧して引用して居り、又少︿古
津
未
知
男
も文集と朗詠との場合、それはやは h y 朗詠からの間接的引 用では左︿、自氏文集直接の引用であると考へる。それは 例へば須磨巻等K
於ける文集詩文の引用に徴して明らかで あ る 。 須磨巻は源語五十四巻中でも特K
和漢各種の漢籍や故事 が多︿用ひられ、而もそれが該巻其の場の情景や心情を写 すK
誠によ︿効果を事げて居る。其の中の一つ、光源氏須 磨落ち途中の一段K
M ,て吟頓吟給へるにとしかたの山は霞はるかK
て、誠K
一 ↓ 一 千里の外の心地するに、揮の雫も堪へ難し とあ夕、やがて須磨K
到着、習はぬ閑居K
折からの名月を 眺めては、頻 h y と都K
思を馳せる情を述べ 月のいと花やかK
さ JV 噛でたるに、今宿円は十五夜念 h y け h y と思し出でて、殿上の御遊び恋し︿、所々左がめ給 J W A W 4 T ゆ し 吐 唱 の 品 川 吋 哨UK
つけても、かか勘九 V 咽 が わ い られ給ふ。二千里外故人心とずし給へる、例の涙もとど められず。:::﹁あ一舟小俸ト恥﹂と聞ゆれど念ほ入タ給 はず - 1ー。
。
。
見る程ぞしばし慰む巡り合はむ月の都ははるか左れ ども その夜うへのいと左っかしう昔物語左どし給ひし御さま のド喉椛轍味的噌応的札吋唱しく思ひ出で聞え給ひて、 ﹁恩賜の御衣は今とこにあり﹂とずしつつ入 h y 給 ひ ぬ 。 と記されて居る。さて此の﹁コh
F
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蜘 知 人 伊 ﹂ は 、 い ふ ま でもま︿文集雑律﹁八月十五日夜禁中濁直対月憶元九﹂の 句に基づく。そして此匂は普く人口に捨災された名句秀吟 たるの故を以て、和漢朗詠集K
も採録されて居る。即ちと とK
前記文集か朗詠か、直接か間接かの問題が生ずる訳で ある。がしかしそれは源語本文の文面内容と原典文集詩句 とを比較検討する事によって解決される。けだし文集﹁八 月十五日夜云々﹂の詩は次の如くである。 銀台金闘タ沈札町、濁宿相思在翰林。三五軒中新月色、可一 0 0 0 0 0 0、
千里外故人心。渚宮東面煙波冷、浴殿西頭鐘漏深。恐 清光不同見、江陵卑潔足秋陰。 0 0 0 ついて見るK
、先づ﹁今管は十五夜念りけり﹂の書き出。
。
。
、
しは、恰も白詩標題﹁八月十五夜﹂に歩調を合はせ、﹁殿 上﹂云々は勿論﹁禁恥﹂や﹁銀台金掛L
K
相当する。又 ー、、、、、、。! l,
﹁亦の顔のみまもいか払 m L P ﹂ は ﹁ 亦 恥 骨 一 p h 川 ﹂K
応ずるも 0 0 0 0 0 0 0 のがある。ととK
﹁二千里外故人心﹂を引き、更に﹁夜更 け侍 h y ぬ﹂云々は﹁タ沈沈﹂や﹁鐘漏深﹂K
通ずる。そし。
て﹁貯μ
程 ぞ l 一の歌は﹁清光不同見﹂を承け、同時K
此段 一節の締め括りを‘なして居る。但だ須磨から京の人を思ふ のと、禁中から江陵の元九を憶ふとの主客の位置に違ひは ある。けれども一文の構成は誠K
よく近似する。とれが朗 寸 − 7 4 1 4 4ず 丸
、 、
4 一 : t、 こ 、 吉
RE コ 士 子 l h 王 ヒ : J t t l 同 口z
−1 E 号 ↓ 0 0 0 0 詠本文に記されたものは、﹁三五夜中新月色﹂﹁二千里外 0 0 0 故人心﹂の二句K
過ぎ左い。朗詠此の二句だけでは到底源 語此のやうな行文は生じないであらう J.
念る程ととには﹁二千里外故人心と示し給ヘタ﹂とある。 詩歌を朗詠して意中を述べ、或は輿を深めたりする事は古 く中固にもあり、常時我国でも広︿行はれ、源語K
も屡見 受けられる所である。和漢朗詠集も実K
か、る時代の要求 から生れたものである。ざれば源語此の場合も、或はさう いふ類寮・選集的−なものを詠じたのであって、文集直接の 引用では念いのではをいかとの疑問も生ずる。けれども同 文後K
出る﹁思賜の御衣は今とこにありとずしつつ云々﹂ と、菅家後集道県の詩句も同様とれを諦した事K
念って居 る。がとれは朗詠K
は存しも仏い。或は又柏木巻、薫の誕生K
合同って、過去を持つ源氏の胸中を叙した あはれはかなかりける人の契かな:::と涙のほろほろとと 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ほ れ ぬ る を : : : 静 かK
思ひて歎くK
堪へたりと打請し給 ふ の﹁静思堪喜亦堪嘆﹂︵後続集・自噸︶も朗詠K
は を い 。 源語に引用して請したと‘なって居るものでも、必ずしも朗 詠K
あるものばかりとは限ら左い訳である。 尚又一方の﹁三一千里の外﹂は同じく文楽雑律詩﹁三千里 外遠行人﹂︵冬至宿楊梅館︶K
擦る。﹁誕凶三千里の外の 心地するK
﹂の表現はいかにも文集引用の感を強くさせる が、とれも亦朗詠には収録されて居念いものである。普︿ 人口に輸相炎されたものでもなければ、別に名句秀吟でも左い からである。而もそれが名句秀吟として人口K
謄表された つ ω M P ﹁ ・ 克 を 玖 て て 笥 ハ 一 た D d 、E
しく文集と司じ﹁寺の鐘一﹁二千里故人心﹂と共
K
、源語には歴として引用されて居 る事K
注目し念ければ左ら左い。即ち此の事はとりも直さ ず、源語がさういふ名句とか秀吟とか或は人口K
謄表した とかいふ事とは別K
、広く白氏文集の全般から引用した事 の 証 左K
外 念 ら 念 い 。 同様左例をいま一つ暴げて置きたい。それは﹁香炉峯下 新ト山居草堂初成偶題東壁﹂及びそれに続く﹁重題﹂合せ て五首一聯の詩の引用である。須磨巻光源氏閑居の段、又 左くあはれも仏る秋の夜、濁り目を醒まして胸を傷めたとい ふくだりに 0 0 0 0 0 枕を敬てて四方の嵐を聞き給ふK
、浪ただ ζ ともとK
立 ち来る心地して、涙落っとも覚えぬK
枕浮くばかりK
左 ’PK
け h y とあり、又線角巻、薫が今は 4 仙 台 ﹂ 宇 治 大 君 を 慕 っ て 悲 し ん だ所K
雪のかきくらし降る日ひねもすK
ながめ暮して、世の人 のすさまじき事K
いふ左る十二月の月夜の曇り左くさし 出 で た る を 、 鮮 彰 ⋮ 静 同 十 巾 刊 、 [ 貯 蜘 へ ば 向 ひ の お で 一 一 智 伊 酢 h v ooo h r 敬てて今日も暮れぬとかすか在るを静ドャ と記されて居る。朗詠K
も採られた有名左﹁敬枕鶏﹂﹁援 策看﹂の二句が引かれる、其の詩は左の如くである。 日 高 唖 ︻ 味 噌 一 柑 起 、 小 閣 重 会 不 伯 寒 。 遺 愛 寺 動 恥 r b w 脚、香 炉峯雪援簾看。匡虚便是逃名地、司馬の為送老官。心泰 身寧是賜慮、故郷何濁在K
長 安 。 ついて見るK
、先づ線角巻でるるが、薫が﹁簾黍捲上げ て見﹂たのは文集の﹁雪﹂左らぬ十二月の﹁月﹂である。 が﹁枕を敬てて聞い﹂たのは、正しく文集と同じ﹁寺の鐘﹂ の聾である。既K
此の句が﹁香炉峯﹂詩を思はせるK
十分 である。而もここでは﹁簾垂捲上げ﹂﹁枕を敬て﹂の両句 が同文同時に相対して用ひられて居る。とれが﹁香炉峯﹂ 詩の引用である事は一見殆んど疑問の品跡地はないであらう。 他方須磨巻では、源氏が聞いたのは文集や線角巻の﹁寺 の鐘﹂の馨では念︿、それとは全く違った﹁四方の嵐﹂と 在って居る。けれども恰も線角巻で﹁簾垂捲上げて見﹂た ﹁ 肩 書 ﹂ が ﹁ 月 ﹂K
変ったと同じく、ととも﹁枕を軟て﹂て 聞いた﹁鐘の馨﹂が﹁四方の嵐﹂と転用されたと見て良い。 且つ﹁枕を敬てて﹂といふやうな漢語的表現はどうしても 漢籍||文集等の存在を首肯せしめる。即ち私は線角巻は 勿論須磨巻も﹁簾垂捲上げ﹂﹁枕を敬て﹂は文集﹁香炉峯﹂ 詩句の引用であると考へる。がととでも其等が直接文集よ寸 h ノの引用であるとするK
は尚一つの問題が残る。それは同 じ此の詩句の採られた和漢朗詠集との関係である。がとれ 亦文集直接引用を証する有力念論嬢が得られる。それは恰 も前項﹁二千里外故人心﹂の場合と同じく、前記﹁香炉峯﹂ 詩五首中の朗詠K
左い他の一首が同じ須磨巻K
引用されて 居るといふ事である。其の詩は 五架三間新草堂、日恥 r A 官 h v h v 一紳骨。南箸納日冬天媛、北 戸迎風夏目涼。温調飛泉総有点、払胸斜竹不成行。来春 更葺東廟屋、紙閣葦簾著孟光。 の如くであるが、其の第二句﹁石階桂柱竹編塘﹂が光源氏 閑居草庵の様を叙した所K
用ひられる。即ち 住 ひ 給 へ る さ ま い は む 方 な く 骨 か ト ゎ ト : : : 和 一 僻 肘 初 一 野0 0 0 0 0 0 0 0 0
、
oc しわたして石のはし松の柱なろそか念るものから珍らかK
をかし と只一つ﹁桂﹂が r ﹁ 松 ﹂K
変へられただけで全句そのまま 引用され、而も其の前には態々﹁いはむ方左く唐めきたり﹂ との修飾まで附せられて居る。のみ左らず此の須磨巻では 光源氏此の度の須磨落ちが世を偉る忍びの行であれば かの山里の御すみかの具はえさらず取り使ひ給ふべき物 刊 文 殊 更K
よそひもなく事そぎて、又さるべき書ども力 集左ど入れたる箱、さては琴一つぞ持たせ給ふ。所せき 御調慶花やか左る御よそひ念ど吏K
具し給はず、怪しの 山がつめきてもて念し給ふ。 と、源氏離京K
嘗夕、其の手廻 h J 品総て簡略K
止めた中K
あって、特に﹁ h M L 貯 ﹂ と ﹁ 動 4 どだけは携行を忘れ念か 0 ったと言ふ。一言ふ迄もな︿此の﹁琴一つ﹂はやはり雑律の 部K
収められて居る楽天講居の記﹁虚山草堂記﹂の﹁除勧 0 0 0 一張﹂を取ったもの、而も態々﹁琴一つ﹂と其の数までも合 はせて居る。更に此の﹁琴﹂は明石上出現K
至る物語構想 の上でも、尚後まで糸を曳いて展開する重要左意味を持つ も の で あ る 。 かくて須磨巻K
於ける﹁文集﹂||﹁香炉峯﹂詩の引用 は 誠K
歴然たるものがある。そして本項大切念事は其の引 用された﹁香炉峯﹂詩二首の中一は名句秀吟として普く人 口に謄炎され、朗詠K
も採られたものであり、之に反して 他は名句秀吟でも人口K
謄表されたものでも左く、従って 又朗詠K
採られたものでもない。而も尚源語では其の両首 が依然として併せ引用されて居るといふ事である。即ち其 ? ﹀ ︶ 、 戸 − ︸ レ L t a h d H リ 、 陸 hk 二 − L T E − − h F − の文集全般を通覧した文集直接の引用たる事前詩の場合と、 全く同轍である。 一 一 次K
源語K
於ける漢籍引用の大きな傾向・特色として曲 折・変化の問題がある。つまり源語の巻々K
よって引用の 様式や形体、或は種類や濃度等に著しい相違の存する事で あ る 。 例へば冒頭桐壷巻は、−或帝王が︵帝王︶ Z 佳人を見出 し︵佳人︶&とれK
格別の寵愛を傾けたが︵殊寵︶4
愛 人 先死し︵愛人先死︶&残された帝王は追慕悲歎K
暮れる ︵ 帝 王 追 慕 ︶ R U 誌に使者を派して愛人の霊所を訪ねしめ ︵使者派遣︶ーその結果形見の品が資される︵遺品寄託︶ と、其の筋書・構想の線てに亘って殆んど文集﹁長恨歌﹂ の摸倣踏襲と言って良いo
l
−−勿論それでも尚仔細に検討 すると、例へば女性の美の類型や性格・人物或は神仙説の 有無等、著しい相違もあb
、とれは一面白中両文学や園民 性の相違等を示す重要な要素をも含んで居るo
l
l
l
そして 此の巻に於ける漢籍詞句の引用は線て其の長恨歌︵含伝︶ のみ、総句数凶中 9 で、他の漢籍詞匂の引用は全く唯の一 つも左いといふ特異念現象を呈する。 次に巻二帯木巻所謂雨夜品定めに展開される女性観や結 婚論は 今はただ品K
もよらじかたちをば更K
も 一 一 = 一 一 一 は じ 。 い と 口 0 0 0 0 0 0 0 惜しくねぢけがましき覚えだに念︿ば、ただ偏に物まめ 0 0 0 やかに静か左る心の趣念らむよるべをぞ遂の頼み所K
は 思ひ置くべき - 4 まるくきを論ずる。視野を玄ず村寄を豊かに惚じて穎る複で あ h y 、それは例へば手書きにしても 誠のすぢを細やかに書き得たるは、うはべの筆消えて見 ゆれど、今一度取 h y 並べて見れば、 h v m ω M J m M h v h V M U 抑 0 0 け る で、﹁ただ偏
K
物をめやかに﹂﹁念ほじちK
念 む よ り け る ﹂ といふ其の実意・誠実第一主義は、正しく此中K
引用され た文集諏論詩﹁議婚﹂のそれと婦趨を一K
する。﹁議婚﹂ は左の如︿である。 天下無正融耳、悦耳郎潟娯。人間無正色、悦目即矯妹。 顔色非相遠、貧富則有別。貧矯時所棄、富矯時所趨。 紅纏富家女、金纏繍羅橋、見人不数手、矯凝二八初、 母兄未開口、己嫁不須史。繰窓貧家女、寂実二十絵、 荊叙不直錦、衣上無具珠、幾回人欲抽材、臨日又蜘煽。 主人会良媒、置酒満玉章。四座E
勿 飲 、 酔 ふ W 恥 町 時 齢 。 富家女易嫁、嫁日干軽其夫。貧家母難嫁、嫁晩孝於姑。 開君欲要婦、安婦意知何。 富家の女嫁する事早きも実意念く、対して貧家の女容易K
婚を得ざるも実意あ夕、君其の何れを取るやと、楽天が 時弊を菰して其の結婚観を問ひ掛けた体のもの。婦を要る 事の貧富によらず、宜しく実意によるべきを説いた一首の 趣旨は紛れも念︿源語K
通ずるo
l
l
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尤もととでも議婚は 其の識論詩といふ特殊の目的性格上、単K
貧富・華実・情 理を一方的に対立せしめた。唯それ丈である。之K
反し源 語は其の両全を説き兼備を主張した。貧富必ずしも一方的 に片づけず、種姓・家柄・地位・財力を説き、更K
実 意 ・ 情趣・知性の三者兼備し、而もそれが過不及左︿適度中庸 E 刈 7 t E B H F ︿ ♂ 、 羽 C 念るべきを論ずる。視野を広げ内容を豊かに綿じて頗る複 雑多様となって居る。そしてとれ又外ならぬ源語創作の優 秀性を示すものであるo
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−−そしてととで面白い事は、其 の趣旨内容右のようK
密接な関係を有し乍ら、詞句引用と なると﹁聴我歌両途﹂をそのまま訳して﹁我が二つの道歌 ふを聞け﹂と引かれる丈である。此の点前の桐壷巻K
於け る長恨歌の引用とは全く逆の好対照を見せて居る。そして 更K
帯木巻では右議婚詩句の外、同じく菰諭詩﹁上陽白髪 人﹂が2
句、雑律﹁夷陵三宿:::贈徴之十七韻﹂ 1 句、又 後続集﹁偶吟﹂ 1 句が引用される。勿論何れも文集である。 尤も最後の偶吟﹁不繋舟随去住風﹂K
よる﹁繋がぬ舟の浮 きたる例﹂は文選﹁鵬烏賦﹂K
﹁泥乎若不繋舟﹂の類似句 がある。果して其の何れか今俄K
は決し難い。が文集主体 といふ全般の大勢K
は何等変る所は念い。 第三K
須磨・明石巻がある。 ζ れは前二者K
対し一巻全 体の筋書や構想等にそれ程纏まった影響関係は認められ念 ぃ。がしかし ζ とでは和漢各種の漢籍漢詩文作品が極めて 広範且つ多数に引用されるo
i
l
−勿論ことでも文集 8 ︵ 感 傷 1 雑律 7 ︶、道具4
、和漢朗詠集 3 、史記・文選各 1 と 、 文集が依然として圧倒的多数を占める。それは前二者、或 は源語全般を眺めても全︿同様である。源語と漢籍とを見 る場合、何を措いても文集を外K
しては論ぜられない。源 語と文集との特別不可分な関係を端的K
示す最も有力左証 左でもあるo
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−−そして其等は恰も源氏と同じ配流・流請 の憂目を見た作者や作品、事件や人物を配して、念頭常に 和漢を対比しつつ、源氏の流過・閑居といふ本両巻の内容 - 5ーや特質によく適合し、以て其の境涯や心事を措くに多大の 効果を収めて居る。 かく同じ文集でも桐壷巻は﹁長恨歌﹂一本、帯木巻は﹁議 婚﹂を主軸
K
文集他の部門が加はった。対して須磨・明石 巻は、そのやうK
﹁長恨歌﹂や﹁議婚﹂或は﹁文集﹂等と 限定せず、文集以外新K
多数の漢籍漢詩文作品が広く集め 取られた。即ち巻々によって著しく引用の形体を異にして 居る事K
注目したい。︵注2
︶ 或は源語は三部に分れて構成されると言はれる。が其の 第三部所謂宇治十帖に、文集調諭詩﹁李夫人﹂が多く引か れる。線角・宿木・東屋・騎蛤の四巻に詞句 3 があり、頻 度数 6 を数へる。晴蛤巻K
﹁ 人 木 石K
非ざれば皆情あり﹂ と原詩そのまま訳して引かれた﹁李夫人﹂の﹁人非木石皆 有情﹂は、何か浮舟入水K
至る宇治十帖の行方や結末を暗 示象徴するやうであ夕、両者の間確かに何か引用因果の関 係があるやうでもある。︵注 3 ︶而も﹁李夫人﹂の引用は 此の宇治十帖に限られる。又以て桐壷や帯木、或は須磨・ 明石等と並んで、源語に於ける漢籍・文集引用の特異の現 象 で あ る 。 又其の第一部桐壷より藤裏葉K
至る三十二一巻が、正系本 筋の長篇的物語と傍系副筋の短篇的説話とのこつの系列K
分れるとは、既に先学諸家K
よって提唱されて来た所であ る 。 右の中武田宗俊氏は、前者を紫上系、後者を玉量系と名 づけ、玉量系後記挿入の立場を取られた。即ち紫上系一連 の物語が濁立して先づ完結されて居たのを、其後作者の文 つ亡おてると、文呆が抱吋拘に多くは‘なって居る。けれど 芸観・人生観の発展生長の結果 ζ れのみK
僚らず思ひ、裁 に玉質系諸巻を挿入して、其の単調平凡をより複雑深化せ しめんとしたものであると論ぜられた。︵注4
︶ 而して氏は玉髪系後記説の理由の一つとして、漢籍や仏 典故事の引用の問題を取タ上げ、先づ漢籍では 紫上系では史記が多く、玉量系の巻には全巻を通じて史 記は一度も現はれ左い。:::玉量系で多︿見られるのは 白氏文集で、紫上系では後の挿入かと見られる桐壷の長 恨歌を用ひて居る所を別K
すれば玉髭系より少い。︵源 氏 物 語 の 研 究 ︶ と言ひ、次いで仏典故事では 第二部第三部K
は 仏 教 の 故 事 が 多 く : : : 第 一 部 で は : : : 玉髪系の巻の方K
比較K
念 ら ぬ 程 多 い 。 : : : ζ れ両系の 成立の間K
年月の隔りがあり、玉量系は紫上系の文より 第二部第三部K
近いものと考へたい。︵全上︶ と説かれた。けだし前述の如く、源語K
於ける漢籍引用が 巻 々K
よって種別・度合等頗る趨舎を異K
して居夕、此の 第一部亦多分K
そういふ傾向が認められる。それは確かに 紫上系・玉髪系といふゃう左異った系列の存在を思はしめ るものがある。但だ然し例何日以行幸巻﹁羽を並ぶる﹂の典 拠はどうも史記と思はれる等﹁玉翼系K
史記の引用は一も ない﹂とされるのK
は問題があり、更K
文集の引用K
至 つ ては、事実は氏の言はれる所とは大いに事情を異K
す る 。 即ち文集の引用は紫上系のロ巻辺、武田氏の言はれる桐 壷巻の長恨歌を別K
しても、尚 U 巻おと念る。一方玉質系 は 9 巻盟で、成る程史記の例外的にあるか‘ないかの僅少念 - 6 ~ IC(の
K
比べると、文集が絶対的K
多くは念って居る。けれど もとれを紫上系K
対比すると、引用巻数から言っても句数 から言っても、氏とは逆K
透かに紫上系K
及ばない。且つ 又其の﹁長恨歌﹂K
しでも、決して桐査巻だけK
あるので は念い。紫上系他の巻︵葵2
、絵合 1 ︶K
も、玉髭系︵夕 顔・県木桂各2
︶K
も用ひられて居る。知何K
見ても﹁紫 上系が玉髭系よb
少い﹂といふ事は絶対に左い。現に紫上 系須磨巻を取って見ても、前述の如く種々多数の漢籍漢詩 文が綜合して引用されて居る中にあって、引用調句の面か らも、叉内容の上からも、文集は寧ろ断然他を圧するの勢 を示して居るからである。それよ h y 私は文集菰諭詩の介在 を問題K
し た い 。 即ち菰諭詩は玉髪系は7
巻担で、同系引用文集 9 巻M
A
K
比すると、其の大部分の巻K
菰諭詩があ夕、句数も全句数 の 半K
及んで居る。之K
対し紫上系では訊諭詩の殆んどそ れらしいものを認め念い。けだし桐壷・帯木巻は夫々紫上 ・玉量系の冒頭K
あり、恰も其の系列の序K
相当する。そ して此の両巻が前記感傷﹁長恨歌﹂及び識論﹁議婚﹂K
深 い関係を有する。かく両系の冒頭序巻を飾って一は﹁長恨 歌﹂が他は﹁議婚﹂が用ひられる。市もそれは該巻爾後の 発端を念して大きま役割を演じて居る。そして其の菰諭と そは彼の紫式部日記K
も 宮の御前K
て文集の所々読まぜ給ひし念ど、さる様の事 知しめさまほしげK
思ひたりしかば、いとしのびて人も 侍らはぬもののひまひまK
、 b とどしの夏頃より、集府 といふふみ二巻をぞしどけ左くかう教へたて聞へさせ侍る 一 玄 々 とある通b
、作者式部かねてからの愛読書であり﹁||築 府は訊諭K
属するl
l
同時K
源語K
於ける漢籍・文集引用 の重要左柱を成すものである。︵注 6 ︶此等の事を考へ併 ぜ る 時 、 輔 副 論 詩 の 有 無 は 確 かK
両系成立の事情や性格の相 違を示唆するものでは念いかと誠に興味深く感ずるのであ る。鬼もあれとれ又源語K
於ける漢籍引用の傾向K
大き念 特色を示すものといふ事が出来よう。果してきうだとすれ ば、とれは一体何K
因るのか、或は何を意味するのか、富 然考へ左ければ念ら念い問題である。今述べた第一部紫・ 玉両系K
於ける文集訊諭詩の有無は、武田氏の﹁成立時期K
隔りがある﹂とされる其聞の事情を物語って居るそうで もある。叉桐壷巻のあのやう左引用形体は武田氏も﹁後の 挿入かと見られる一玄々﹂と言はれるやうK
、とれはどうも 源語全巻の冒頭K
据ゑる特別の意図を以て後K
書き加へら れたものでは念いかとの感を強くする。本稿紙幅の関係で 省略したが、桐壷・帯木・須磨明石の三様式K
於て、何れ も物語爾後の展開K
聞はる重要念引用企図が見られる。桐 壷巻では其の引用源と念った長恨歌の遺品寄託の篠銅合金 叙K
相当する御装束一領、御髪上の調度めくもの、及び光 源氏の参内、帯木巻では女性論の腸趨K
絡まる藤壷・紫上 の出現、文須磨・明石の巻では﹁琴一つ﹂K
淵源する明石 上の出現等がそれである。が此等の事をも考へ合はせると、 桐壷後記挿入の感は更K
一層深いものがある。或は俗K
式 部は若紫の巻から書き始めたとも言はれ、更K
極端念話K
念ると、宇治十帖は全く別人の作K
念るといった説さへあ 7-る。其の嘗否はさて措き、源語巻々の制作成立時期の問題 等については、今日尚残された検討の品跡地があるやうにも 思はれる。而もそれは源語研究の重要課題である事も亦論 を 侯 た 念 い 。 以上之を要する