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戦を含めた旧ユーゴ内戦におけるニュース バリューがあった また時期についても指摘しておく必要がある ボスニア内戦が発生したのは1992 年であるが それ以前の1990 年から旧ユーゴは本格的な政治的混乱に見舞われ 1991 年にクロアチア内戦も起きていた 他方でその直前の1989 年は東欧を激動の嵐

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120 1.はじめに  ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(以下、ボスニア)はそれまでユーゴスラヴィア社 会主義連邦共和国(以下、旧ユーゴ)に属していたが1)、1992年4月の独立宣言と 相前後して内戦状態に突入し、1995年11月のデイトン和平合意、12月のパリ和平協 定の調印によって終戦するまで、全土で死者10~20万人、難民(国外・国内)250 万人を出した(Bideleux and Jeffries 2007, 353-354)。この絶対数だけでも看過

できないが、1981年の国勢調査によるボスニアの人口、412万人を考慮すれば2) ボスニア内戦はより一層の悲惨さを持って迫ってくる。当時の国際メディアは、特 に内戦の後半にはクリストファー(アメリカ国務長官、肩書きはいずれも当時、以 下同)やミロシェヴィッチ(セルビア大統領)、トゥジマン(クロアチア大統領)、 イゼトベゴヴィッチ(ボスニア大統領)、カラジッチ(ボスニアのセルビア人文民リー ダー)、ムラディッチ(ボスニアのセルビア人軍人リーダー)たちの行動を連日の ようにトップ・ニュースで報道していた。  ボスニア内戦のニュース・バリューは確かにその規模や悲惨さそのものにもある。 しかしそれだけではボスニア内戦がほぼ同時期のルワンダ内戦よりも遙かにクロー ズアップされていた理由にはならない。ルワンダでは1994年4月からの3ヶ月で、 人口750万人のうち50万人以上が虐殺されたのである(武内編 2003、301)。従って、 ボスニア内戦が特に注目されたのには内戦の被害の規模以外に理由がある筈である。  まず舞台がその理由である。ボスニアは歴史的に「バルカン」に含まれていた。 「バルカン」はヨーロッパとアジアとのインターフェイス(境界域)に位置してい たが、一般的に現在ではヨーロッパの一部とされている。第二次世界大戦後のヨー ロッパは冷戦の主たる舞台であったとはいえ、大戦直後のギリシャ内戦を除けば熱 戦は存在せず、万人単位の被害者が出る戦闘とは無縁であった。これに対してルワ ンダがあるアフリカ大陸は、大戦後の植民地独立運動、その後の国家形成の途上に おける内戦など、大陸のどこかで常に何らかの混乱が生じているというイメージが 国際社会に浸透している。またほぼ同時期に(旧)ソ連においても民族紛争が起き、 それらにはクロアチア内戦やボスニア内戦との共通点もあったが(月村 2009)、そ れらに関する情報量や規模の点に加えてヨーロッパ外であった為に国際社会の注目 度はやはり低かった。40年以上「平和」であったヨーロッパで起きた大規模な戦闘、 そこにこそボスニア内戦、より正確に言えば、その前哨戦とも言えるクロアチア内

多民族国家建国の困難

ボスニアを例として

月村 太郎

Taro Tsukimura

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121 戦を含めた旧ユーゴ内戦におけるニュース・バリューがあった。  また時期についても指摘しておく必要がある。ボスニア内戦が発生したのは1992 年であるが、それ以前の1990年から旧ユーゴは本格的な政治的混乱に見舞われ、 1991年にクロアチア内戦も起きていた。他方でその直前の1989年は東欧を激動の嵐 が襲った1年であった。春から夏にかけてポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァ キアは政変に見舞われ、秋にはベルリンの壁が崩壊し、ブルガリアは「宮廷クーデ ター」を迎え、長らく独裁政権を維持していたチャウシェスクが軍事裁判における 即刻判決によって銃殺されたのが12月25日未明であった。そしてこの間12月3日に アメリカ大統領ブッシュとソ連共産党書記長ゴルバチョフが地中海のマルタ島で会 談の結果、冷戦の終了を世界に向けて宣言したのである。冷戦の終了の実態は西側 の勝利であった。そして勝利の美酒も醒めやらぬうちに、西側に冷水を浴びせたの が旧ユーゴの内戦なのである。この事件にニュース・バリューの無かろう筈がなかっ た。  さてボスニア内戦の当事者たちのうち、ムラディッチの行方は分からないが、ミ ロシェヴィッチもトゥジマンもイゼトベゴヴィッチもこの世の人ではなく、カラ ジッチは2008年7月に逮捕された。ボスニア内戦の終了から既に10年が過ぎ15年に なろうとしているのである。移り気な国際社会はボスニア内戦を忘れてしまったか のようである。しかしボスニアの国造りはなかなか進んでいない。しかもボスニア 内戦やその後の国造りに関わる問題は、その後のコソヴォ、アフガニスタン、イラ ク、更には2008年夏のグルジアにまで連なるのである。本稿ではそうした「ボスニ ア」以後の国際政治上の動きを念頭に、かつてあったボスニアがどのように壊れて いったか、そして何故に再建できないのかについて探ってみたい。  まずはボスニアがどのようにして「血まみれ」になっていったかを見ていこう。 2.ボスニア内戦とボスニア国家の誕生3) 2.1.旧ユーゴの解体  ボスニアがかつて属していた旧ユーゴは、国内的には平和裡に多民族共存を実現 し、国際的には中国などと並んで、東西どちらの陣営に属さない非同盟外交運動の 盟主であるとして高く評価されていた(木戸 1982、柴 1996)。しかしいずれの評 判も「建国の父」チトーのカリスマ、手腕の故であった。旧ユーゴは1980年5月の チトーの死去後に、緩やかにしかし確実に解体への道を歩んでいくのである。チトー の生前には機能していた旧ユーゴの統合要因がチトー死後に次々と消滅或いは機能 麻痺していき4)、多民族性と南北経済格差という本来遠心力として働きかねない両 者が旧ユーゴの解体要因として機能し始めるのである。  更に言えば、経済的パフォーマンスの低下によって国内が混乱するに従って、旧 ユーゴの国民は次第に民族主義に関心を持ち始める。多民族共存体制へ不満を持っ た民衆が民族主義に救いを求めるのは当然であったかもしれない。その嚆矢は人口 2242万人の旧ユーゴにおいて931万人と国内最大の規模を誇るセルビアの多数派セ

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122 ルビア人(セルビア人の数は自治州を含めたセルビアでは618万人、旧ユーゴ全体 では814万人)であった。セルビア人は、旧ユーゴの前身であるユーゴスラヴィア 王国の主たる母体がセルビア王国であったことから、多民族共存を旨とするチトー 体制下において不当な扱いを受けているという意識が強かった5)  しかもセルビア人は旧ユーゴ全体でこそ最大規模を有していたが、旧ユーゴの殆 どの共和国、自治州では少数派であり6)、特にコソヴォでは多数派アルバニア人か ら日常的な圧力を受けていたのである7)  このようにセルビア民族主義が政治化する素地があり、それを政争に勝ち抜く為 の道具として利用したのがミロシェヴィッチであった。彼は1987年にセルビアの指 導者となるとセルビア人を動員して、ヴォイヴォディナ、モンテネグロ、コソヴォ の指導部に圧力をかけて自身の手駒に交代させるなどして政治的実権を掌握するの である。  ミロシェヴィッチのセルビア民族主義的手法は、他方でセルビア以外の連邦構成 共和国に危機感を与えることになる。特にスロヴェニアとクロアチアがそうであっ た。折しも1990年には旧ユーゴ建国以来初の競争的な各共和国議会選挙が実施され た。両国における有権者のメッセージは明確であった。それは少なくとも旧ユーゴ を分権化することであり、その先には独立という選択肢すら存在していた。即ちそ れぞれ非共産党系である、スロヴェニアではスロヴェニア民主反対派、クロアチア ではクロアチア民主同盟が共和国議会議員定数の過半数を獲得したのである。以後、 スロヴェニアとクロアチアは独立への道を歩んでいく。旧ユーゴでは連邦レベルに おいて、旧ユーゴの解体を阻止しようとして各共和国大統領間の直接交渉までもが 続けられたが、一方で最終的には独立を視野に入れていたスロヴェニア大統領クー チャン、クロアチア大統領トゥジマンと、他方でセルビア人少数派を創出する、特 にクロアチアの独立は認められないとするミロシェヴィッチ、その盟友のモンテネ グロ大統領ブラトヴィッチとの間では妥協の余地はなかった。ボスニア大統領イゼ トベゴヴィッチとマケドニア大統領グリゴロフは解決を巡って努力していたが無駄 に終わった。既にクロアチアでは政府部隊と少数派のセルビア人武装部隊とによる 衝突が散発し、各地でセルビア人による道路封鎖のバリケードが築かれ、セルビア 人の自治区が設立され始めていたのである。  1991年6月25日にスロヴェニアとクロアチアは独立を宣言した。すぐに戦闘が始 まり、まずはスロヴェニアが舞台であった。戦闘はスロヴェニア政府部隊と独立を 阻止しようとした旧ユーゴの軍隊であるユーゴ人民軍との間で行われた。即座にEC が仲介に入ってブリオニ合意が結ばれ、両国の独立宣言は3ヶ月間凍結された。そ の間に打開策が探られたが無為に終わり、戦闘が再開された。今度の舞台はクロア チアであった。急ごしらえのクロアチア政府部隊は領内のセルビア人武装部隊に加 えてヨーロッパ有数のユーゴ人民軍に対抗できる筈もなく、1992年1月のヴァンス 和平合意の結果、クロアチア領内のセルビア人地域(1991年12月にクライナ・セル ビア人共和国として建国)には国連安保理決議743によって国連保護軍が展開する

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123 こととなった。こうして死者2万人を出してクロアチア内戦は一応終わった。しか しクロアチア大統領トゥジマンは虎視眈々と「捲土重来」の機会を狙っており、最 終的にはクロアチアの国土回復に成功する。クロアチアにおける戦闘はまだ続くの である。そして内戦が飛び火する。クロアチア内戦よりも遙かに長くて激しいボス ニア内戦である。 2.2.ボスニア内戦  ボスニア内戦は、民族構成から見ただけでもクロアチア内戦より複雑な構図にな ることが容易に理解できた。クロアチアの民族構成はクロアチア人75.1%、セルビ ア人11.6%であり、単独の民族が絶対的多数を占めているという点では、クロアチ アはボスニア以外の連邦構成共和国や自治州と同じであった。そうした場合、民族 対民族という観点から敢えて単純化すれば、選挙戦であろうと内戦であろうと、そ の構図は絶対的多数派の立場を代弁する政府とそれに敵対する少数派民族というも のとなる。しかしボスニアでは絶対的多数派が存在していなかった。主要な民族は ムスリム人39.5%8)、セルビア人32.0%、クロアチア人18.4%であった。絶対的多 数の不在は事態を不安定にする。例えば選挙戦においては、各民族が自民族の政党 に投票すると仮定した場合9)、どの民族であろうと2者が同盟すれば、残りを少数 派民族に追い込むことができるのである。  1990年のボスニア共和国議会選挙は、各民族の議席数を民族構成にほぼ比例させ るという選挙制度の為もあって、民族構成が民族主義政党の獲得議席数に反映する ことになった。即ち定数240議席中、ムスリム人の民主行動党が86議席、セルビア 民主党が71議席、クロアチア民主同盟が45議席をそれぞれ獲得して10)、獲得議席の 割合は順に定数全体の35.8%、29.6%、18.8%、3民族主義政党の獲得議席合計202 議席に占める割合は42.6%、35.1%、22.3%と、民族構成の割合にほぼ合致するの である11)  さて選挙後のボスニアの政権は、共和国議会議席のあわせて80%以上を占める3 民族主義政党が連立して担うこととなった。その際のポストの配分には一種のパ ワーシェアリング・システムが採用された。大統領に民主行動党のイゼトベゴヴィッ チが就くと、共和国議会議長にセルビア民主党出身者、首相にはクロアチア民主同 盟出身者が充てられ、閣僚22名の配分は民主行動党10名、セルビア民主党7名、ボ スニア・クロアチア民主同盟5名であった。しかしパワーシェアリング・システム は長続きしなかった。地方レベルで勝者総取りの政治が行われていた上に、3民族 主義政党の将来の筋書きも異なっていたからである。即ち民主行動党がボスニアの 旧ユーゴからの独立、セルビア民主行動党がボスニアの(少なくともセルビア人地 域の)旧ユーゴへの残留かセルビア本国への統合、クロアチア民主同盟がボスニア の(少なくともクロアチア人地域の)旧ユーゴからの独立とクロアチア本国への統 合を構想として持っていたのである。  3民族主義政党の立場のうち、まず旧ユーゴからの独立という点で民主行動党と

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124 クロアチア民主同盟とが一致していた。本国との統合を夢見る後者は当然として、 前者にとっても、1991年6月にスロヴェニアとクロアチアが独立して以降、セルビ ア人の比重が相対的に上昇する旧ユーゴに残留はできないというのである。両者が 同盟してセルビア人を追い込んだのが1991年10月15日未明のことであった。民主行 動党とクロアチア民主同盟の所属議員は、セルビア民主党議員欠席のまま、旧ユー ゴからの離脱を実質的に意味する「覚書」を賛成多数で可決したのである。この「覚 書」を巡っては議論が紛糾しており、両民族主義政党が押し切った形となった。  両政党の暴走の背景として、当時ボスニア各地においてセルビア人が既に自治区 を設立し始めていたことがあった。また隣国クロアチアが内戦の渦中にあったこと が、両党の好戦的な姿勢に影響したこともあろう。しかし両党がこうした「多数の 暴力」に短絡的に訴えたことが、内戦への近道に繋がったことも事実であった。以 後、セルビア民主党は自身の政治体の整備を進めていくのである。  セルビア人の動きと並行するように、ボスニアも旧ユーゴからの離脱の手続きを 進めていく。しかしたとえある国が独立を宣言しても、国際社会の大国がそれを承 認しなくては、結局は画餅に帰すことになる。旧ユーゴからの独立を宣言し又はそ れを目指していたスロヴェニア、クロアチア、ボスニア、マケドニアは、独立承認 の希望の有無を照会してきたECに対して揃って希望する旨を伝えた。ボスニアに対 する回答は独立承認の可否を判断する前提として国民投票の実施を求めるもので あった12)  ボスニアの独立の可否を問う国民投票は1992年2月29日から3月1日に実施され た。投票結果が事前に分かっているとしてセルビア人は投票をボイコットした。セ ルビア人は、既に前年11月にセルビア人地域において行った住民投票の結果を受け て、1992年1月にボスニア・セルビア人共和国(後にセルビア人共和国に改称)を 建国していたのである。ボスニア国民投票の結果は、有効投票の99%以上が主権国 家としてのボスニアを可とするものであった。  国民投票の期間中に既に殺人事件が起きたり、首都サライェヴォの各地において バリケードが設けられ始めたりしていた。混乱は各地に広がっていく。各民族主義 政党は既に自前の武装部隊を備えており、あるユーゴ人民軍幹部によれば当時のボ スニアには既に10万人の民兵が存在していたのである(月村 2006、93)。ボスニア は内戦に突入した。  内戦の当初の構図を単純化してみれば、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人 の三つ巴であった13)。このうちでセルビア人は旧ユーゴのユーゴ人民軍の装備や人 員をかなり継承し14)、ミロシェヴィッチも非公然ながら支援していた為に戦局はセ ルビア人に有利に進み、セルビア人共和国軍は1992年末までにボスニア全土の70% を支配下に置くことになった。クロアチア人については、クロアチア大統領トゥジ マンが公然と援助した為にクロアチア人地域(1993年8月にヘルツェグ・ボスナ・ クロアチア人共和国設立)は安堵されることになる。多民族的な外観を装っていた とはいえ、実体としてはムスリム人を代表していたボスニア政府は孤軍奮闘、不利

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125 にならざるを得なかった。  戦局が変化しはじめたのは1994年春のことであった。アメリカ大統領クリントン 主導でワシントン協定が締結されたのである。これにより、ボスニア政府とヘルツェ グ・ボスナ・クロアチア人共和国がボスニア連邦(ムスリム人=クロアチア人連邦) を結成し、この連邦がクロアチアと国家連合を組織することになった。戦闘の当事 者の構図は三つ巴から、[ボスニア政府+ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国] 対[セルビア人共和国]へと単純化され、クロアチアは国際社会の非難を受けるこ となく大っぴらにボスニア内戦に介入できるようになったのである。ムスリム人と クロアチア人との軍事的連繋は時間を経過するに従って実効性を持っていく。  セルビア人共和国にとって更に打撃となったのは、1995年8月初めにクロアチア が領内のクライナ・セルビア人共和国に仕掛けた一斉攻撃であった。ボスニアのセ ルビア人共和国とクロアチアのクライナ・セルビア人共和国とは「一蓮托生」を誓っ ており、サヴァ川を渡河した交流もされていた。クロアチアは内戦に「敗北」した 後にアメリカの軍事コンサルタント企業MPRIと契約して軍の強化に乗り出してい た(Singer 2003, 119-135)。その成果をもってクライナ・セルビア人共和国に5 月に続いて大攻勢をかけたのである。クライナ・セルビア人共和国は壊滅し、セル ビア人共和国は後背地と「盟友」を失った上に大量の難民を抱えることとなった。  それでも基本的に膠着状態であったボスニア内戦の戦局に決定的な変化を与えた のは、NATOの空爆であった。1995年8月28日昼前にサライェヴォの青空市場に砲 弾が着弾した。買い物客37名が死亡し89名が負傷した。単独の砲撃による死者とし ては、同じ青空市場で前年2月に起きて以来の大惨事であった。NATOはこれをセ ルビア人による砲撃の結果であると断じ、30日未明より大規模な爆撃を行うのであ る。セルビア人共和国は NATO の空爆に加え、地上では NATO 即応部隊の他、ボ スニア政府軍、ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国の部隊、クロアチア政府 軍に攻撃され、退却の一途を辿る。停戦合意が結ばれて発効したのは10月上旬であっ た。和平交渉は11月1日よりアメリカ、オハイオ州のデイトンにあるライト・パター ソン空軍基地で始まった。交渉は結実し、デイトン合意は21日にミロシェヴィッチ、 イゼトベゴヴィッチ、トゥジマンによって仮調印された。こうしてボスニア内戦は 終わった。本調印は12月14日にパリのエリゼー宮で行われた。 2.3.デイトン合意とそれに基づく統治  デイトン合意(正式名称は「ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける平和に向けた 一般的枠組み合意」)は本文11条と12(1-A、1-B、2~11)の付属書からなっ ている。このうち付属書4がボスニア憲法である。ボスニア憲法は全12条である。 ボスニアの行政において特徴的なことは、ボスニア政府(以下、中央政府)の権限 が限定的であるのに対して、ボスニアに設けられた2つの「国内国」である政治体 (entity、現地語では entitet)の政府、主にムスリム人とクロアチア人が居住する 地域の政治体のボスニア連邦政府と主にセルビア人の政治体であるセルビア人共和

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126 国政府とに内政の多くの権限が委ねられている点である。  ボスニア憲法第3条第1項によれば、中央政府が責任を有するのは、対外政策、 対外通商政策、関税政策、金融政策、ボスニア全体の機関や国際的な責務 を支える財政、移民・難民・収容所に関する政策と調整、国際刑法と政治体間 の刑法との施行、共通及び国際的な通信施設の設立と運営、政治体間の輸送の 調整、航空交通のコントールである。これに対して第2項によれば、2つの政治体 の責任は、ボスニアの主権と領土保全を損なわない限りにおいて、隣国との関係を 確立すること、ボスニアの国際的責務を尊重するに必要なあらゆる支援を中央政 府に与えること、各管轄地域における全住民の安全と安心を与えること、ボスニ ア議会の同意を得て他国や国際機関との合意を達成することであった。更に第3項 により、ボスニア憲法において中央政府の機関に明確に割り当てられていないあ らゆる政府の機能と権限は両政治体政府に与えられることになっていたのである。  ボスニアの議会については第4条において定められていた。ボスニア憲法は二院 制を採用していた。上院に当たる民族院は定数15議席、10議席がボスニア連邦議会 代議院によって(うち5議席はムスリム人、5議席はクロアチア人)、5議席がセ ルビア人共和国議会によって(全員がセルビア人)選出される。民族院議員は各政 治体の議会から選ばれる間接選挙である。下院の代議院は定数42議席、28議席がボ スニア連邦から、14議席がセルビア人共和国から直接選挙で選出されることとなっ ていた。また「多数の暴力」を阻止する為に、第4条第3項によって、ボスニア を構成する各民族の死活的利益に関わる議決の場合には各民族選出の代議院議員の 過半数の賛成が必要とされた。  その他、元首に当たる大統領は直接選挙によって各民族から1人ずつ選ばれるこ とになり(第5条)、憲法裁判所の9人の判事のうちボスニア連邦議会代議院が4人、 セルビア人共和国議会が2人、欧州人権裁判所長官が3人を選出することになって いた(第6条)。  最後にボスニアを構成する両政治体の統治システムについても簡単に触れておこ う。まずボスニア連邦は10のカントンから構成される。議会は二院制を採用してお り、下院の代議院は定数140議席を直接選挙で選出し、それと各カントンの議会か らムスリム人30議席、クロアチア人ほか30議席の合計60議席からなるボスニア連邦 議会上院の民族院が選ばれ、更に民族院からボスニア連邦大統領が選出されること になっていた。次にセルビア人共和国議会は一院制で定数83議席であり直接選挙で 選出されるとされていた。大統領も同じく直接選挙で選ばれることになっていた。  ボスニアにおける以上の統治システムは、変形した多極共存的パワーシェアリン グであると言える15)  統治システムの機能の安定性を担保する役割は国際社会に委ねられた。それまで 展開していた国連保護軍の任務は1995年12月の国連安保理決議1031により、NATO 中心の履行部隊に引き継がれた。民政部門はデイトン合意付属書10によって「上級 代表事務所」が調整を行うこととなった。特に上級代表はボスニアの統治の最終的

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127 な責任者として、しばしば内政にも介入してきている。これまで6人の上級代表が 就任している。具体的には、ビルト(1995年12月~1997年6月在職、元スウェーデ ン首相)、ウェステンドルプ(1997年6月~1999年7月在職、元スペイン外相)、ペ トリチュ(1999年8月~2002年5月在職、オーストリアの外交官で元コソヴォEU特 使)、アシュダウン(2002年5月~2006年1月在職、元イギリス枢密顧問官、元自 由民主党党首)、シュヴァルツ=シリング(2006年1月~2007年7月在職、元ドイ ツ郵便・テレコミュニケーション相)、ライチャク(2007年7月~2009年1月在職、 元スロヴァキア外務省政務局長)である。  それではデイトン合意後のボスニアの政治を簡単に辿ってみよう16) 3.デイトン合意後にボスニアが辿ってきた道 3.1.1996年の議会選挙までの政治  前述のように、ボスニアの統治構造においては両政治体政府の権限が突出してい て中央政府の権限が脆弱であり、それを上級代表事務所が補う形となっている。従っ てデイトン合意後の政治においては両政治体の政治も見ていかなくてはならない。 本稿ではボスニア議会選挙と両政治体の議会選挙を画期として整理していくことに する。  デイトン合意の際にボスニアの大統領はイゼトベゴヴィッチ、首相はスィライ ジッチという民主行動党のコンビがボスニアの政治を指導していた。政治体につい ては、ボスニア連邦大統領はクロアチア民主同盟出身のズバク、セルビア人共和国 大統領はセルビア民主党党首のカラジッチであった。ボスニアは実効支配の点から、 ムスリム人主体のボスニア中央政府の支配地、セルビア人共和国領、ヘルツェグ・ ボスナ・クロアチア人共和国領に三分割されており、例えば通貨についても順にコ ンバーティブル・マルク(兌換マルク、ドイツ・マルクとペッグしていたボスニア の正式な通貨)、ディナール(1992年4月にセルビアとモンテネグロが建国したユー ゴスラヴィア連邦共和国の通貨)、クナ(クロアチアの通貨)がそれぞれの支配地 域で通用していたのである。第1回の議会選挙は条件が整い次第実施されることに なっていたが、選挙までは内戦時代の政府が統治を続けていた。  こうした中で政治的混乱はまずボスニアの中央政府から起きた。ボスニア議会が 中央政府の権限を縮小しようとしているとして、スィライジッチが1996年1月にボ スニア首相を辞任し、4月に自身の政党であるボスニア党を結党したのである。し かし他方でイゼトベゴヴィッチとトゥジマンはボスニア連邦の強化で一致し、ヘル ツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国は8月に消滅することとなった。  より大きな混乱はセルビア人共和国で生じた。セルビア人大統領カラジッチに対 しては国際社会、特にアメリカからの批判が高まっていた。旧ユーゴ国際法廷も 1996年7月にカラジッチと軍司令官ムラディッチの逮捕状を出した。ボスニア上級 代表ビルトやミロシェヴィッチはアメリカの圧力に屈し、カラジッチはセルビア人 共和国大統領、セルビア民主党党首など一切の公職から退いたのである。後任の大

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128 統領は副大統領プラヴシッチが次回選挙まで代行することになった。しかしカラ ジッチはその後も政界に隠然たる影響力を保ち、彼を支持するセルビア民族主義路 線とプラヴシッチを支える現実路線との間で暗闘が続くのである。 3.2.1996年の議会選挙とその後の政治  デイトン合意後初の選挙は1996年9月14日に実施された。まずボスニア大統領選 挙については、ムスリム人枠では民主行動党のイゼトベゴヴィッチ、セルビア人枠 ではセルビア民主党出身でカラジッチに近いクライシュニク、クロアチア人枠では クロアチア民主同盟のズバクが選ばれた。いずれも確信的な民族主義政治家であっ た。同様にボスニア議会代議院選挙(定数42議席)では、イゼトベゴヴィッチ率い るムスリム人の民主行動党19議席、プラヴシッチのセルビア民主党9議席、ズバク のクロアチア民主同盟8議席となり、民族主義政党の勢いがそのまま温存されるこ ととなった。更に同日に実施されたボスニア連邦議会代議院選挙(定数140議席) の結果(民主行動党78議席、クロアチア民主同盟35議席)、セルビア人共和国議会 選挙(定数83議席)の結果(セルビア民主党45議席、民主行動党14議席)において も、依然として民族主義の影響力が強いことが明らかであった。  選挙後にクライシュニクらのセルビア人共和国の政治家が「単一国家」としての ボスニアへの宣誓を拒否するなどの事件はあったが、選挙後のボスニア中央政府に おける政治の滑り出しは概ね順調であった。ポスト配分も3民族の平等性にかなり 配慮したものであった。  大きな混乱は今回もセルビア人共和国において生じた。再選されていたプラヴ シッチ大統領が11月にムラィディッチらの軍高官を解任したにも拘わらず、後任の 多くはムラディッチ支持を打ち出したのである。プラヴシッチ自身はボスニア内戦 中こそ急進派として名を馳せていたが、戦後は現実路線に転向してカラジッチやム ラディッチから距離を置いていた。その後もプラヴシッチはカラジッチやクライ シュニクが関係している会社の財務調査を呼び掛けたり、カラジッチに近い内相を 解任したりしている。それに対してカラジッチの支持者も反撃し、プラヴシッチは 短時間ながらセルビア人共和国警察に拘留されたりしている。更に1997年7月にプ ラヴシッチが議会解散を持ち出せば、議会が大統領権限を削減する法案を可決する など応酬が続き、結局プラヴシッチはセルビア民主党を除名されるのである。カラ ジッチの支持者とプラヴシッチを擁護する安定化部隊との衝突も始まった17)  プラヴシッチとクライシュニクは1997年9月にミロシェヴィッチを交えて会談 し、その結果、11月15日にセルビア人共和国議会選挙(日程はその後に11月22日~ 23日に変更)、12月7日にセルビア人枠のボスニア大統領とセルビア人共和国大統 領の選挙を行うことが決定された。西側はプラヴシッチ支持の立場であからさまに 内政に介入した(Chandler 1999, 77)。  セルビア人共和国議会の臨時選挙の結果は西側の予想ほどではなかったが、急進 派の勢力が削られた結果となった。即ち定数83議席のうち、セルビア民主党が45議

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129 席から24議席へと激減し、プラヴシッチが結党したセルビア民族同盟が15議席を獲 得した。しかし他方でセルビアに本拠を有する急進的なセルビア民族主義政党のセ ルビア急進党も6議席から15議席に増えていた。ムスリム人の民主行動党は16議席 を獲得していた。選挙後の駆け引きの中、プラヴシッチ大統領が組閣を命じたのは、 2議席という小党の独立社会民主同盟党首ドディクであった。セルビア民主党とセ ルビア急進党は強く反発したが、1998年1月18日未明、両党欠席のままでドディク 内閣は信任された。そしてその後のドディク政府は、両セルビア民族主義政党の繰 り返しの非難に抗してボスニア統一強化の施策を進めていく。ボスニア上級代表 ウェステンドルプはそれを高く評価し、EUもドディク政府を支援していくのである。 3.3.1998年の議会選挙とその後の政治  1998年9月の選挙は非民族主義政党の健闘が目立つ結果となった。ボスニア議会 代議院選挙の結果は定数42議席のうち、民主行動党中心の連合が17議席、クロアチ ア民主同盟6議席、セルビア民主党4議席という民族主義政党に対して、社会民主 党4議席、ボスニア社会民主派2議席と非民族主義政党が健闘したし、同様にボス ニア連邦議会代議院選挙でも定数140議席のうち、民主行動党中心の連合68議席、 クロアチア民主同盟28議席に対して、社会民主党が19議席、ボスニア社会民主派も 6議席を獲得したのである。更にセルビア人共和国議会選挙では定数83議席のうち、 セルビア民主党19議席、セルビア急進党11議席と、ドディクに対立する急進的な両 党が議席を減らしたのに対して、民主行動党中心の連合15議席、セルビア民族同盟 12議席、セルビア人共和国社会党10議席、独立社会民主同盟6議席などドディク政 府の政治基盤は安定するのである。他方で大統領選挙には波乱が多発した。ボスニ ア大統領選挙ではムスリム人枠のイゼトベゴヴィッチこそ当選したが、セルビア人 枠とクロアチア人枠ではクライシュニクとズバクが相次いで敗れ、セルビア人共和 国大統領選挙においてもセルビア急進党のポプラシェンがプラヴシッチに勝ったの であった。  1998年の選挙後にはボスニア、ボスニア連邦では政治的安定が見られるのと対照 的に、セルビア人共和国では混乱が継続したままであった。ボスニア上級代表ウェ ステンドルプなどがドディク政府の継続を希望したのに対して、セルビア人共和国 大統領ポプラシェンは、最初はセルビア民主党出身者、2度目はドディク率いる独 立社会民主同盟出身者に組閣を命じたが、議会の信任を得ることができなかった。 議会の意思は明確であった。結局、ポプラシェンはウェステンドルプに解任され、 ドディクが引き続き首相を務めていくのである。 3.4.2000年の議会選挙とその後の政治  次の議会選挙は2000年11月に行われた。この選挙では政党の支持が分裂する中で 非民族主義政党が更に躍進する。定数42議席のボスニア議会代議院選挙では社会民 主党が8議席を獲得して第1党となり、その後に民主行動党7議席、セルビア民主

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130 党6議席、クロアチア民主同盟5議席、スィライジッチのボスニア党4議席が続く。 定数140議席のボスニア連邦議会代議院選挙では民主行動党38議席、社会民主党37 議席、クロアチア民主同盟25議席、ボスニア党21議席であった。一方で定数83議席 のセルビア人共和国議会ではセルビア民主党31議席、独立社会民主同盟11議席、穏 健ながら民族主義政党の民主進歩党11議席、民主行動党6議席、その後にボスニア 党、社会民主党、セルビア人共和国社会党、民主社会党がそれぞれ4議席で続いた。 ボスニア大統領選挙のそれぞれの民族枠では各民族主義政党出身者が当選したとは いえ、非民族主義勢力の拡大は明らかであった。  しかし以後の非民族主義政党主導の政治に対して、今度は民族主義政党が反撃に 出るのである。今度の震源地はクロアチア人であった。多極共存的パワーシェアリ ング・システムにおいて例外的に優遇されていたクロアチア人であったが、ムスリ ム人のボスニア中央政府、セルビア人のセルビア人共和国政府に比して自身の政治 体を持っていないことへの不満が根強く存在していた。クロアチア民主同盟党首で クロアチア人枠のボスニア大統領であるイェラヴィッチは議会選挙の際に、自身の 政治体「ヘルツェグ・ボスナ」を持つべきかどうかについて非公式に住民投票を行 い、70%以上が持つことを望んでいるとした。そしてイェラヴィッチは2001年2月 にボスニア連邦からのクロアチア人の離脱を発表したのである。これに対して、ボ スニア上級代表のペトリチュはイェラヴィッチの解任など強硬策を素早く実行した が、これがクロアチア人の反発を招き、4月にはクロアチア人の都市において安定化 部隊とクロアチア人との衝突が生じたのである。クロアチア民主同盟はボスニア連 邦議会を選挙後10ヶ月間ボイコットしたが、本国クロアチアからの支援もなく18) 中央政府、ボスニア連邦政府ではクロアチア民主同盟外しが行われていく。  しかし民族主義政党の反抗は続き、中央政府の首相が2002年3月に非民族主義政 党である社会民主党のラグムンジヤから穏健とはいえセルビア民族主義政党である 民主進歩党のミケレヴィッチに交代した。またセルビア人共和国でもセルビア民主 党が党勢を回復した為に、首相がドディクから民主進歩党党首のイヴァニッチに交 代する。そしてセルビア人共和国では議会外でも民族主義政党の急進的な支持者が ムスリム人に様々なハラスメントを行うのである。  民族主義政党の支持者が実力行使を行う度にボスニア上級代表や安定化部隊が介 入し、それに反発した民衆が次第に民族主義政党に接近していくという皮肉な結果 が生まれてくる。更に民衆の間には、上級代表などによる内政介入を甘受している にも拘わらず、経済が上向かないという不満も鬱積してくる。それが2002年の選挙 結果に反映していくのである。 3.5.2002年の議会選挙とその後の政治  2002年10月の議会選挙の結果は次の通りである。ボスニア議会代議院選挙では定 数42議席のうちで民主行動党9議席、ボスニア党5議席、セルビア民主党5議席、 クロアチア民主同盟中心のリスト5議席、社会民主党4議席であった。ボスニア連

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131 邦議会代議院選挙は定数が98議席に削減され、民主行動党32議席、クロアチア民主 同盟中心のリスト16議席、ボスニア党15議席、社会民主党15議席、定数が83議席と そのままのセルビア人共和国議会選挙ではセルビア民主党26議席、独立社会民主同 盟19議席、民主進歩党9議席、民主行動党6議席という結果であった。ボスニア大 統領選挙では各民族主義政党出身者が勝利した。社会民主党はボスニア議会代議院、 ボスニア連邦議会代議院において議席を減らし、非民族主義政党は政治的主導権を 維持できなかった。セルビア人共和国においても内閣はセルビア民主党の支持を受 けた民主進歩党が首班のままであった。  民族主義的な政治の全般的な復調に対して敢然と立ち向かったのは、ボスニア上 級代表アシュダウンであった。アシュダウンの主たる標的は、自身の弱体化に繋が るとしてボスニアの集権化に反対していたセルビア人共和国であった。アシュダウ ンは各方面の改革を加速する為に、政治腐敗や戦犯のカラジッチやムラディッチと の繋がりを指摘して、セルビア人共和国の政治家や政府高官を職務停止にしたり、 セルビア民主党や幾つかの有力企業の銀行口座を凍結したりするなどの豪腕を発揮 した。更に2005年3月には政治腐敗の故にクロアチア人枠のボスニア大統領チョ ヴィッチも解任するのである。  当時の最大の政治的課題はボスニア憲法の改正であった。既述の通り、ボスニア 憲法はデイトン合意付属書4であり、とにかく内戦を終わらせる為の妥協の産物で あった。その為に非常に分権的な統治構造をボスニアに強いており、それがボスニ アの統一的発展を妨げていることは確かであった。またEU加盟の前提としての安定 化・連合協定SAAを締結する為にもボスニアの統一性の強化は必要であった。アメ リカやEUは2006年10月の選挙前のボスニア憲法改正を目指したが、クロアチア民主 同盟、ボスニア党の一部の支持が得られなかった為に、ボスニア憲法第10条が定め る憲法改正に必要な特別過半数(投票の3分の2)を獲得できなかったのである。 3.6.2006年の議会選挙とその後の政治  2006年10月の選挙では再び非民族主義政党が進出した。ボスニア議会代議院選挙 では定数42議席のうち、民主行動党9議席、ボスニア党8議席、独立社会民主同盟 7議席、社会民主党5議席、セルビア民主党3議席、クロアチア民主同盟中心のリ スト3議席であった。定数98議席のボスニア連邦議会代議院選挙では民主行動党28 議席、ボスニア党24議席、社会民主党17議席、クロアチア民主同盟中心のリスト8 議席、クロアチア民主同盟から分離したクロアチア民主同盟1990が中心のリスト7 議席であった。そしてセルビア人共和国議会では定数83議席のうち、独立社会民主 同盟41議席、セルビア民主党17議席、民主進歩党8議席であった。更に特記すべき は、そうした傾向がボスニア大統領選挙においても持ち込まれたことであった。即 ちムスリム人枠のボスニア党のスィライジッチを始めとして、セルビア人枠は独立 社会民主同盟出身者、クロアチア人枠は社会民主党出身者が当選したのである。セ ルビア人共和国大統領選挙でも独立社会民主同盟出身者が勝利した(翌年の前倒し

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132 大統領選挙でも勝利したのは独立社会民主同盟出身者であった)。  2006年の選挙後、セルビア人共和国では独立社会民主同盟党首のドディクが首相 に再度就任した。セルビア人枠のボスニア大統領、セルビア人共和国大統領は共に 同党に属しており、セルビア人共和国の政治における中心人物はドディクである。 ボスニア連邦はスィライジッチと民主行動党党首ティヒッチが連立交渉を行い、民 主行動党の出身者による組閣が行われた。中央政府の首相は独立社会民主同盟に属 している。  以上のように2006年の選挙の結果、非民族主義政党中心の政治が改めて始動した ように思われる。しかしボスニア連邦側の中心人物のスィライジッチとセルビア人 共和国側のドディクとの間にはボスニアの将来構想において大きな相違がある。 スィライジッチが集権化されたボスニアを志向するのに対して、ドディクはデイト ン合意による国内国としてのセルビア人共和国を守ろうとしている。そして2000年 の選挙後と同じく、今後も民族主義政党が復権するというシナリオが実現すること もあり得る。これを阻止するにはボスニアの EU 加盟過程の加速化が重要であろう が、現状のままではその可能性は低い。ボスニア政治の未来はかつてよりも明るい とはいえ、確固とした展望は見られないのである。 3.7.まとめ  デイトン合意から13年が経過し、その間に5回の議会選挙が実施された(セルビ ア人共和国議会選挙は6回)。この間の選挙結果、そしてその後の政治を概観した 際に容易に理解されることは、民族主義政党の影響力が次第に低下してきていると いう点である。1990年の選挙戦を戦った3民族主義政党の議会定数に占める獲得議 席の割合を見てみると、1996年、1998年、2000年、2002年、2006年の順に以下のよ うになる。 ボスニア議会代議院選挙(カッコ内は1990年の議会選挙の結果) 民 主 行 動 党:45.2%→40.5%→16.7%→21.4%→21.4%:(35.8%) セ ル ビ ア 民 主 党:21.4%→ 9.5%→14.3%→11.9%→ 7.1%:(28.6%) クロアチア民主同盟:19.4%→14.3%→11.9%→11.9%→ 7.1%:(18.8%)   合   計  :85.7%→64.3%→42.9%→45.2%→35.7%:(84.2%) ボスニア連邦議会代議院選挙 民 主 行 動 党:55.7%→48.6%→27.1%→32.7%→28.6% クロアチア民主同盟:25.0%→20.0%→17.9%→16.3%→ 8.2%   合   計  :80.7%→68.6%→45.0%→50.0%→36.7% セルビア人共和国議会選挙 セ ル ビ ア 民 主 党:54.2%→22.9%→37.3%→31.3%→20.5% 民 主 行 動 党:16.9%→18.1%→ 7.2%→ 7.2%→ 3.6%   合   計  :71.0%→41.0%→44.6%→38.6%→24.1%

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133  これら「老舗」の民族主義政党の退勢だけでは、民族主義の政治に対する影響力 が減衰しているとは必ずしも判断できない。政党の分裂によって特定の政党の議席 数が減ることはあり得るからである。例えば、民主行動党とボスニア党、セルビア 民主党とセルビア民族同盟、クロアチア民主同盟とクロアチア民主同盟1990などが それである。民族主義的な志向を有する既存の他政党によって票を奪われるという こともある。例えば、セルビア民主党に対するセルビア急進党とセルビア人共和国 社会党がその好例である。  しかしながらボスニアの政治においては、非民族主義の政治的影響力は着実に増 加している。その例を、1996年、1998年、2002年、2002年、2006年の選挙における ボスニア党と2つの社会主義政党(社会民主党と独立社会民主同盟)によるパフォー マンスから見ておこう。 ボスニア議会代議院選挙 社 会 民 主 党:0.0%→ 9.5%→21.4%→ 9.5%→11.9% ボ ス ニ ア 党:4.8%→ 0.0%→11.9%→14.3%→19.0% 独立社会民主同盟:0.0%→ 0.0%→ 2.4%→ 7.2%→16.7% ボスニア連邦議会代議院選挙 社 会 民 主 党:0.0%→13.7%→26.4%→15.3%→17.3% ボ ス ニ ア 党:7.9%→ 0.0%→15.0%→15.3%→24.5% セルビア人共和国議会選挙 独立社会民主同盟:0.0%→ 7.2%→13.3%→22.9%→49.4%  社会民主党は旧ユーゴ時代の共産党系の流れを組む政党であり、1990年の議会選 挙においても他党との連合によって19議席(定数の7.9%)を獲得している。ボス ニア内戦終了直後の選挙こそ目立った成果は得られなかったが、それ以後はほぼ安 定して議席を得ている。ボスニア党は前述のようにスィライジッチが民主行動党か ら離れて結成した政党である。セルビア人共和国側からはムスリム人政党と見なさ れているが、多民族共存のボスニアを目指しており、少なくとも民主行動党とは一 線を画している。ボスニア党は創立直後にスィライジッチが暴漢に襲われて負傷し た為に有意な政治活動ができなかったが、彼の復帰後は順調に議席を増やしている。 ここで取り上げた3政党の中で特に躍進しているのが独立社会民主同盟であり、現 在ではセルビア人共和国議会における単独過半数獲得にあと僅かである。そしてこ の3政党の出身者がボスニア大統領の各民族枠において在職しているのである。し かし多民族国家としてのボスニアの再建には未だ道遠しである。 4.おわりにグローバリゼーション時代における国家主権 4.1.なぜにボスニアは再建できないのか  ボスニア議会、ボスニア連邦議会、セルビア人共和国議会の選挙の結果、各民族

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134 の利益を訴える民族主義政党に代わってボスニアの統一を第一に考える政党が次第 に進出し、現在ではそれらが政治の主導権を掌握するという外観も整えられた。ま た国際社会の圧力下、ボスニアの集権化も個別には進んでいる。しかし2006年の選 挙前とはいえ、ボスニアの統治システムそのものを集権化しようとするボスニア憲 法の改正は失敗した。  集権的なボスニアへの道に存在する障害として、本稿ではデイトン合意そのもの を挙げておきたい。確かにデイトン合意は、領土保全、国際法人格の保障を通じた 国家性の継続、平和の安定化・難民の帰還・民主的機関の設立を通じた国内の再統 合によってボスニアを安堵したが、他方でボスニアを民族に基づいた両政治体に二 分してしまった(Pejanovic´ 2007, 21)。しかも両政治体間の境界はデイトン交渉 において即興的に画定されてしまった部分も多かった19)。如何に根拠がなかろうと も、ひとたび決定された境界の両側では日常生活が開始される。境界で区切られた 領域を単位とする政治や経済、社会が営まれ始める。デイトン合意において想定さ れている中央政府には政治体間の境界を横切った強力な権限が想定されていない為 に、両政治体内での政治、経済、社会空間の完結性は一層高まることになる。更に ボスニア上級代表が設けられているとはいえ、様々な国際機関や地域機構が殆ど調 整せずに活動を行ってきた為に(Solioz and Vogel (eds.) 2004, 57)、混乱は一 層激しくなる。介入の当初から十分に理解されたことであったが、国際社会はそも そも長期的な構想を持ってボスニアに介入したのではないのである。しかしボスニ ア上級代表経験者のアシュダウンが述べるように、外部からの介入とは、本来は断 固たる決意をもってなされるべきであった(Ashdown 2007, 214)。  国際社会による処置の即興性に加えて、デイトン合意が基づいている多極共存的 なパワーシェアリング・システムの問題点も指摘しておく必要がある。多極共存制 は、民族的なアイデンティティを共通にする集団毎に政治組織化させて、その集団 のリーダー間の調整によって体制を安定化させるというメカニズムである。逆に言 えば、多極共存制においては、人間に本来的に備わっている多層的なアイデンティ ティのうちで民族的アイデンティティのみを活性化させてしまうのである(Bose 2002, 250;Weller and Wolff (eds.) 2008, 12)。ましてやボスニアは領域的にも

民族的に分権されている20)  ボスニアの現在の安定的な状態は高く評価されて然るべきであるが、今後は、ボ スニアの集権化というデイトン合意のより本質的な部分の修正が求められるだけ に、より困難な展開も予想される。現在の安定を担保しているボスニア上級代表の 廃止がしばしば囁かれるが、上級代表抜きでボスニアを放置しておく訳にはいかな い。今後のシナリオとしては、①集権化の更なる強制と平和維持活動の規模の更な る縮小、②ボスニアの両政治体への完全な分割、③隣国を含めた国境の再編、④現 行の体制の維持、⑤国家連合化があるとされる(Innes (ed.) 2006, 43-44)。④を 除きいずれも現在の微妙な均衡を崩しかねない刺激を与えるものであるが、④は選 び得ない。①は現在の国際社会が進めている方策であるが、いずれ「閾値」を越えた

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135 変更を行わなくてはならない。しかし民主体制の「定着」という危うい道程を進ん でいるボスニアでは、拙速な強制は民族主義政党の勢いを回復させかねないし21) 民主化自体が民族主義を政治化させる契機を内包している(月村 2000)。主体者意 識ownershipを持たせることは確か必要だが(Donais 2005)、政治化された急進的 な民族主義が主体者意識において完全に脱色されたか否かを判断するには慎重では なくてはならない。更に歴代のボスニア上級代表のように、政府高官の人事など様々 な場面において政治的条件付け conditionality を行うことは民衆の反発を買い、逆 に民族主義を再び政治化させる危険性もある。少なくとも2006年の選挙前のボスニ アにおいては、主体者意識を持たせるアプローチと条件付けを行うアプローチとの 間に存在するジレンマこそが(Solioz 2007, 133-139)、最大の難問であった。  ボスニアは旧ユーゴの多民族共存の象徴であった22)。しかしボスニアの多民族共 存は、ヨーロッパとアジアとのインターフェイスとしてのバルカン地域に位置して いたが故に育まれてきたという歴史的成果である。そしてまた民族的アイデンティ ティをそのメンバーシップの次元に強く帰属させてきたオスマン帝国の「遺産」で もあった(月村 2005)。そうしたところで領域的次元を重視する西欧発祥の国家主 権を浸透させ、そして尚かつ民族的アイデンティティを強調したのであるから、ボ スニアの現状は至極当然な論理的帰結であろう。しかしそもそも領域的な次元に拘 る国家主権は最早時代遅れになってしまっているのではなかろうか。 4.2.ボスニアを巡る逆説  現在はグローバリゼーションの時代と言われている。グローバリゼーションの一 番分かりやすい特徴は、「ヒト、モノ、カネ」がかつてないスピードと規模で国境 を越えて出入りすることである。これは換言すれば、国家主権の脱領域化である。 しかし他方で我々は未だに西欧流の国家主権に拘っている23)  国際経済の分野で進んでいたグローバリゼーションは、2001年9月11日の「事件」 をきっかけに国際政治の分野においても一気に意識されるようになってきた。アメ リカは、「新しい戦争」の当事者は脱国家化、脱領域化した国際テロ組織であると 喧伝してきた。しかし他方で当然ながら、領域的な国家主権が争点となることも非 領域的な争点に負けず劣らず多い。凍結されている領土問題はこの際措くとしても、 例えば1999年以降行われてきたコソヴォの独立を巡る遣り取りは、国家主権におけ る実効支配とは何を意味するかという問題であった。ボスニアと同様に国造りが進 んでいない戦後のアフガニスタンやイランの混乱も最大の原因は「陣取り合戦」で ある。更に2008年8月のグルジアを巡る衝突も実効支配に関わる問題であった。我々 が国家主権の領域的次元に拘る限り、そして地球上の陸地が有限である限り、この 種の争点がなくなることはないであろう。  甚だ逆説的だが、デイトン合意後のボスニアでは国家主権に関する実験が行われ ているのかもしれない。将来のボスニアが、これまでの西欧の「伝統」に則って民 族的アイデンティティを架橋するべき領域的な政治的アイデンティティを構築して

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136 いくのか(Ibrahimagic´ 2003, 390-391)、それとも逆に多層的な主権構造を構築 して一種のマルチ・ガバナンス状態を一国内で創出するという新たなモデルになり 得るのか(Keane 2002, 130-133)。これは短期間で解答が出される問ではない。 しかし我々が後者の可能性に期待しつつボスニアのこれからを観察し続けること は、ボスニアの将来がどのようになろうとも、国際社会の将来の平和に多少なりと も貢献することになるのであろう。 *本稿は、科学研究費補助金基盤研究(A)「バルカン地域を巡る国際関係の政治・ 経済的変動に関する研究」(2005年度~2008年度、研究代表者月村太郎)の研究 成果の一部である。 註 1)旧ユーゴの連邦制においては連邦構成共和国としてスロヴェニア、クロアチア、 ボスニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、そしてセルビア内の自治州 としてヴォイヴォディナとコソヴォがあった。旧ユーゴの連邦制は経年的に分 権化し、1974年の最後の憲法改正によって各共和国は経済主権までも有するこ とになる。またこの1974年憲法体制下、ヴォイヴォディナとコソヴォは連邦レ ベルにおける意思決定過程において連邦構成共和国とほぼ変わらぬ権限を有 し、州内でもかなりの自治を享受することになった。 2)本稿で用いる人口や民族構成に関する数字は特記しない限り、1981年の国勢調 査による(Jugoslavija 1918-1988 (1989), 44-49)。 3)旧ユーゴ解体やボスニア内戦に至る経緯、ボスニア内戦の実際について、詳細 は久保 2003、月村 2006、佐原 2008などを参照されたい。 4)旧ユーゴの統合要因とは、チトーの存在の他には、冷戦時代という国際環境、 全国大の統一的な組織であるユーゴ共産党とユーゴ人民軍、国家システムとし ての分権的連邦制である(月村 1994、87~95)。 5)このセルビア人の感情が表面化したのが1986年11月の「覚書事件」であった。 これは、セルビア科学芸術アカデミーが著した極秘文書「覚書」がセルビアの 夕刊紙において暴露された事件である。「覚書」ではチトー体制に対する一般 的な体制批判に加えて、セルビア人の発展が不当に妨害されているとされてい たのである。 6)各地の人口に占めるセルビア人の割合は以下の通りである。自治州を除くセル ビア85.4%、ヴォイヴォディナ自治州54.4%、コソヴォ自治州13.2%、クロア チア11.6%、ボスニア32.0%、マケドニア2.3%、スロヴェニア2.2%、モンテ ネグロ3.3%。

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137 7)旧ユーゴが解体して各連邦構成体が独立国になれば、セルビア人は旧ユーゴの 多数派から新独立国の国内少数派に転落する訳であり、これが旧ユーゴ解体過 程におけるセルビア人の「暴走」の一因でもあった(月村 2007)。 8)ムスリム人とはボスニアのイスラム教徒に対して1963年より「民族」として認 められたものである。旧ユーゴ解体過程においてムスリム人はボスニア人と自 称するようになるが、混乱を避ける為に、本稿ではムスリム人という名称で一 貫させることにする。 9)民族間関係が緊張した場合、こうした投票行動結果の「国勢調査化」が起きる という(Horowitz 1985, 83-87)。 10)セルビア民主党、クロアチア民主同盟はクロアチアのそれぞれ同名の政党との 繋がりが深い。本稿では以後特記しない限り、セルビア民主党、クロアチア民 主同盟はボスニアのそれを指すものとする。 11)各民族の獲得議席数がほぼ人口比に応じて配分されるというボスニアの選挙制 度からしてこの結果は当然であるという意見もあるかもしれない。しかし1990 年の選挙においては民族を基盤としない政党も参加しており、選挙制度が各民 族主義政党の獲得議席数について「国勢調査化」を直接に惹起した訳ではない。 12)その他については、スロヴェニアは独立承認、クロアチアは独立承認の可否を 審議したEC仲裁委員会では判断が保留されたが、ドイツが一方的に国家承認し た為にECが追随せざるを得ず、対照的にマケドニアについてはEC仲裁委員会 が国家承認を認める結論であったにも拘わらず、EC閣僚理事会ではギリシャの 反対の為に承認見送りとなったのである。 13)民族紛争の実態は巷間言われるほどに単純なものではない。例えば、ボスニア 内戦において首都サライェヴォのセルビア人は周囲に陣取った民族的同胞セル ビア人による攻撃を受けていたし、ボスニア最大の民族のムスリム人の間では ボスニア政府と政府から距離を置く政治体との間で大規模な武力衝突も発生し ているのである。 14)旧ユーゴに残ったセルビアとモンテネグロが1992年4月にユーゴスラヴィア連 邦共和国を設立したことに従い、軍隊もユーゴ人民軍からユーゴ軍に改組され ていた。 15)多極共存制とは、オランダの政治学者レイプハルトが多民族的な安定的民主制 の理由として提示したものである。多極共存制の特徴は、主要な民族が政治過 程に参加する大連合、重要な意思決定における全会一致の原則、人口に占める 割合に比例した資源配分、各民族内の自律性の4点である(レイプハルト 1979、 43~66)。ボスニアの統治システムにおいては人口の2割前後しかないクロア チア人がムスリム人、セルビア人と同等の発言権を保証されている点が、多極

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共存制の本則からすれば例外的である。更に領域的に分権化されるという連邦 制の特徴も部分的に兼ね備えている為に、領域的次元が考慮されていない多極 共存制のモデルからは更に離れることになる。

16)以下の政治的動向は主にBideleux and Jeffries 2007とCountry Profile: Bosnia and Hercegovinaによる。 17)デイトン合意直後に展開した履行部隊の業務は1996年12月の国連安保理決議 1088により安定化部隊に引き継がれていた。 18)クロアチアでは、ボスニアのクロアチア民主同盟を援助してきたトゥジマン大 統領が1999年12月に死去し、その後の選挙の結果、非民族主義的な政権が誕生 していた。 19)両政治体間の境界画定における即興性は、デイトン交渉を取り仕切ったホルブ ルックの回想録に詳しい(Holbrooke 1999)。 20)本稿では触れる余裕はなかったが、ボスニア連邦の連邦制においては10のカン トンも多くは民族的に色分けされており、カントン・レベルでも民族的アイデ ンティティは保持されている。 21)民主体制の定着に関しては取りあえず、リンス&ステパン 2005、恒川 2006を 参照。 22)特にイスラム教徒の存在は、チトーにとって非同盟外交運動を進める上で対イ スラム諸国を重視する際にも非常に重要であった(ドーニャ&ファイン 1995、 176~177)。 23)この現象をかつて明確に指摘したのが、フリードマンであった(フリードマン 2000)。 【参考文献】 木戸蓊『東欧の政治と国際関係』(有斐閣、1982)。 久保慶一『引き裂かされた国歌旧ユーゴ地域の民主化と民族問題』(有信堂、 2003)。 佐原徹哉『ボスニア内戦グローバリゼーションとカオスの民族化』(有志舎、 2008)。 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書、1996)。 武内進一編『国家・暴力・政治アジア・アフリカの紛争をめぐって』(アジ ア経済研究所、2003)。

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139 月村太郎「多民族国家における統合と解体ユーゴスラヴィア解体過程を例と して」、『年報政治学1994』。 「ユーゴスラヴィアの民主化とアイデンティティの民族化」、吉川元・ 加藤普章編『マイノリティの国際政治学』(有信堂、2000)。 「バルカン地域におけるバルカン化と非バルカン化」、『CDAMSディ スカッションペイパー』06/4J(2005)。 『ユーゴ内戦政治リーダーと民族主義』(東京大学出版会、2006)。 「体制移行と民族紛争の発生」、大芝亮・古城佳子・石田淳編『日本 の国際政治学第2巻国境なき国際政治』(有斐閣、2009)。 恒川惠一編『民主主義アイデンティティ新興デモクラシーの形成』(早稲田 大学出版部、2007)。 ドーニャ,R.J.、J.V.A.ファイン(佐原徹哉ほか訳)『ボスニア・ヘルツェ ゴヴィナ史多民族国家の試練』(恒文社、1995)。 フリードマン,T.(東江一紀・服部清美訳)『レクサスとオリーブの木グロー バリゼーションの正体』(草思社、2000)。 リンス,J.、A.ステパン(荒井祐介・五十嵐誠一・上田太郎訳)『民主化の理 論民主主義への移行と定着の課題』(一藝社、2005)。 レイプハルト,A.(内山秀夫訳)『多元社会のデモクラシー』(三一書房、1979)。

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http://www.eiu.com/(Country Profile: Bosnia and Herzegovina) http://www.izbori.ba/(ボスニアの各種選挙結果)

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参照

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