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1 としかげ 巻の例は 俊蔭が日本へ帰ろうとして 波斯国へ渡り その国の帝らへ琴を献上したところ 帝は驚いて俊蔭を呼び 琴について話をする場面である この会話文では その前後に の給はく の給 とあって 帝のセリフであることを 明示している また 俊蔭が帝に言うセリフには おなじく前後に 申す 申す

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Academic year: 2021

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『竹取物語』の会話文

       

「侍り」をめぐって

   

 

  

     はじめに   物語文学の会話文は、物語という芝居の舞台に登場してくる人物 (役 者) が 相 互 に 交 わ し 合 う セ リ フ で あ り、 語 り 手 に よ る 地 の 文 が 描き上げる人物の動き(演技)と情景(背景)と、その時間の流れ の 中 で、 セ リ フ が 交 わ さ れ る こ と に よ っ て、 全 て が 実 現 す る。 『源 氏物語』 以前の成立とされるいわゆる昔物語 『竹取物語』 『落窪物語』 『う つ ほ 物 語』 等 の 会 話 文 の 多 さ も 物 語 の 始 発 の あ り 方 と し て 自 然 に了解されよう。   本稿はこのような考え方に立ち、昔物語の会話文について、特に 『竹 取 物 語』 の い わ ゆ る 丁 重 語「侍 り」 の 用 法 を 中 心 に 私 見 を 述 べ るものである。   『竹 取 物 語』 に 入 る 前 に『う つ ほ 物 語』 の 会 話 文 の 例 に 触 れ て お く。 「としかげ」巻と「藤はらの君」巻から各一節を引用する。   (引用本文は野口元大校注『うつほ物語⑴』 〈校注古典叢書〉 による) 1かくて、としかげ、日本へかへらむとて、波斯国へ渡ぬ。その国 のみかど・后・まうけの君に、このことを一づゝたてまつる。み かど、おほきにおどろき給て、としかげをめす。まゐれるに、こ と の よ し を く は し く と ひ 給 て、 の 給 は く 、「 こ の た て ま つ れ る こ と の こ ゑ、 あ ら き と こ ろ あ り。 し ば し ひ き な ら し て た て ま つ れ」 と の 給 。「人 の く に の 人 な れ ば、 わ た り て ひ さ し く な り に け り、 そ の ほ ど は、 い た は り て 候 は せ ん」 と の 給 へ ば、 と し か げ 申 す 、 「 日 本 に 年 八 十 歳 な る ち ゝ は ゝ 侍 し を、 み す て ゝ ま か り わ た り に き。今はちりはひにもなり侍にけん。しろきかばねをだにみたま へむとてなん、いそぎまかるべき」と 申す 。みかど、あはれがり 給て、いとまをゆるしつかはす。 (としかげ   二三頁) 2かくて、そちのぬし、おんなをめして、φ 「 かのふみは、たてま つ り し め て き や。 」 φ お ん な、 φ「め の と ご、 い と よ く き こ え 申 さん、とのたうびて。御返はかならずあらん。たうばりてまうで こむ」と申す。ぬし、φ「はや きたれ 」といふ。おんな、ながと が も と に い き て、 φ「こ の 御 返 給 は り に ぞ、 ま う で き つ る。 」 φ ながと、かへし給へりといはで、φ「いづれのよばひぶみの返し をかは、ひとたびにはのたまはん。たび〳〵の中にこそ、ひとた び も し 給 は め。 」 φ お ん な、 φ「さ ら ば、 ぬ し の 君 の 御 も と に、 お と ゞ の 御 ふ み を、 こ と の よ し き こ え て、 た て ま つ れ 給 へ。 」 φ ながと、φ「いとよきこと也」とて、 (藤はらの君   一三五頁)

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  1「としかげ」巻の例は、俊蔭が日本へ帰ろうとして、波斯国へ 渡 り、 そ の 国 の 帝 ら へ 琴 を 献 上 し た と こ ろ、 帝 は 驚 い て 俊 蔭 を 呼 び、琴について話をする場面である。この会話文では、その前後に 「 の給はく 」「 の給 」 とあって、帝のセリフであることを、明示して い る。 ま た、 俊 蔭 が 帝 に 言 う セ リ フ に は、 お な じ く 前 後 に 「 申 す 」 「 申す 」 とある。   次に 2「藤はらの君」巻の例は、滋野真菅があて宮に求婚しよう として、その乳母の長門に仲介を頼むべく、おんな(嫗)に話しか ける場面である。ここの会話文では「としかげ」巻と違って、いき なり地の文から真菅のセリフに移るが、その中に 「しめ (しむ) 」「き た れ(き た る) 」 の よ う な い わ ゆ る「漢 文 訓 読 語」 が 真 菅 特 有 の 役 柄 語 (注) と し て 用 い ら れ て い る の が 注 意 さ れ る。 ま た、 真 菅 と 嫗、 嫗 と 長 門 の セ リ フ の 初 め と 終 わ り を 示 す 語 は 無 い(φ を 付 し た 箇 所) 。   1「としかげ」巻のような会話文の示し方を、かりに 「 としかげ 型 」、 2「藤はらの君」 巻のような 「役柄語」 などで示すものを 「 藤 は ら の 君 型 」 と 呼 ぶ こ と に す る。 『竹 取 物 語』 で は、 会 話 文 の 内 容 によって両者が併用されていると考えられる。     (注  )「役 柄 語」 に つ い て は、 拙 著『平 安 物 語 の 動 画 的 表 現 と 役 柄語』 〈二〇〇九年・笠間書院〉で、次のように定義した。       『竹取物語』 『うつほ物語』 『落窪物語』 『源氏物語』等の地 の文には使われず、会話文に限って使われる語。会話主体が 日常的に用いたであろうとされる用法 (キャラ語と仮称) と、 普段は日常的には用いない主体が様々な緊張した場面で、強 い語気 ・ 語調で、意図的に発する用法とがある。       前者は、主として身分の下位の者が、上位の聞き手に使う もので、場面によっては畏まり(卑下謙遜)に近い意味合い を帯びることがある。後者は、上位の者が下位の者を叱責す る意味合いを帯びることもある。   滋野真菅の場合は、右の前者に当たるとしたいが、引用の場面で は真菅より下位の嫗に対して使っており、極めて特異である。この ような用法は、会話文であることを明示するために、物語作者によ り考案された表現技法であり、役柄語の一用法と考える。   真菅のセリフに見られる特異な用法については、拙論「昔物語の 会 話 文 に 込 め ら れ た 登 場 人 物 の キ ャ ラ ―『う つ ほ 物 語』 の「ほ に」 の試解―」 (梅光学院大学日本文学会 「日本文学研究」 第四七号 〈二 〇一二年〉で詳述した。      一   姫と翁との会話の「侍り」   最初にかぐや姫と竹取の翁とのセリフのやりとりでの「侍り」を 見る。  (引用本文は堀内秀晃校注『竹取物語』 〈新日本古典文学大系〉 による)   次は、翁が姫に結婚を勧める場面である。    翁、かぐや姫に 言ふ やう、     「我 子 の 仏、 変 化 の 人 と 申 な が ら、 こ ゝ ら 大 き さ ま で や し な ひ たてまつる心ざし、をろかならず。翁の申さん事は聞き給てむ や」   と 言へ ば、かぐや姫φ、     「な に 事 を か、 の た ま は ん 事 は、 う け た ま は ら ざ ら む。 変 化 の 物に 侍 けん身とも知らず、親とこそ思たてまつれ」

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  と 言ふ 。翁φ、     「う れ し く も の た ま ふ 物 か な」 と 言 ふ 。 φ 「 翁、 年 七 十 に あ ま りぬ。今日とも明日とも知らず。この世の人は、おとこは女に 婚ふことをす、女は男に婚ふ事をす。そののちなむ、門ひろく なり 侍る 。いかでか、さることなくてはおはせん」φ  (貴公子たちの求婚   七~八頁)   右では、翁の最初のセリフは 「 としかげ型 」 で示され、姫のセリ フ は 「 藤 は ら の 君 型 」 と 「 と し か げ 型 」、 続 く 二 つ の 翁 の セ リ フ は 「 藤はらの君型 」 が勝るという示され方である。これに続く場面は、 前掲の翁の結婚の勧めに対し、姫のセリフは、先ず、   かぐや姫の いはく 、    「なむでう、さることかし 侍ら ん」   と 言へ ば、 (貴公子たちの求婚   八頁) と 「 としかげ型 」 で示される。ここで注意されるのは、結婚を拒否 する短いセリフの中に「侍ら(侍り) 」が使われていることである。 姫は丁重に断っているのである。ところが翁は、執拗に結婚を勧め る。     「変 化 の 人 と い ふ と も、 女 の 身 持 ち 給 へ り、 翁 の あ ら む か ぎ り は、かうていますかりなむかし。この人ゝの、年月をへて、か うのみいましつゝのたまふことを、思ひさだめて、一人一人に 婚ひたてまつり給ね」   と 言へ ば、かぐや姫 いはく 、    *  「 よ く も あ ら ぬ か た ち を 、 深 き 心 も 知 ら で 、 あ だ 心 つ き な ば 、 後くやしき事もあるべきをと、思ふばかり也。世のかしこき 人なりとも、深きこころざしを知らでは、婚ひがたしと思」   と 言ふ 。(貴公子たちの求婚   八~九頁) 姫 の 比 較 的 長 い セ リ フ * は 「 と し か げ 型 」 で 示 さ れ、 「侍 り」 は 使 われない。翁の執拗な結婚の強要に反発している姫の口調が、この ように 「 としかげ型 」 による会話文を明示する表現技法によって表 されていると考える。つまり、前の姫のセリフは、翁の結婚の要求 に我慢しながらも、丁重に「侍り」を使用しているのであるが、執 拗に迫られて「侍り」を用いない無敬語表現になったのである。   次 は 物 語 の 終 わ り に 近 く、 七 月 十 五 日 の 月 に 眺 め 入 る 姫 を 気 づ かって声を掛けた翁に応える姫のセリフである。    かぐや姫φ、      「見 れ ば、 世 間 心 ぼ そ く あ は れ に 侍 る 。 な で う、 物 を か 嘆 き 侍 べき」    と 言ふ 。(かぐや姫の昇天   六一頁) 翁の心配を気遣って、丁重な口調で応じている。しかし八月十五日 に な る と、 姫 の 嘆 き は 隠 し よ う も な く な り、 ひ ど く 泣 き じ ゃ く る。 翁と嫗が尋ねかけるのに対し、姫の告白がなされる場面となる。    かぐや姫、泣く〳〵 言ふ 、      「(前 略) い ま ま で 過 ご し 侍 り つ る な り。 「さ の み や は」 と て、 う ち 出 で 侍 り ぬ る ぞ。 を の が 身 は、 こ の 国 の 人 に も あ ら ず、 月 の 都 の 人 な り。 (中 略) さ ら ず ま か り ぬ べ け れ ば、 お ぼ し 嘆 かんが悲しきことを、この春より思ひ嘆き 侍る 也」    と 言ひ て、 (かぐや姫の昇天   六二~六三頁)   右のように、両親が心配するのに対して、丁重な表現で応じてい る。   そして、いよいよ月よりの迎えが来る直前になって、姫は翁との

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別 れ を 悲 し み、 自 分 が い な く な っ た 後 の 翁 嫗 の 老 後 を 案 じ た 真 情 の こ も っ た セ リ フ を、 ど こ ま で も 丁 重 に 話 す。 前 掲 の 例 と 同 じ く、 「侍 り」 の 多 用 と、 セ リ フ で あ る こ と を 明 示 す る 「 と し か げ 型 」 が 用いられている。    かぐや姫、 いはく 、      「(前 略) い ま す が り つ る 心 ざ し ど も を、 思 ひ も 知 ら で、 ま か り な む ず る 事 の、 口 お し う 侍 け り。 な が き 契 の な か り け れ ば、 「程 な く ま か り ぬ べ き な め り」 と 思 ふ が、 か な し く 侍 る 也。 (中 略) 今 年 ば か り の 暇 を 申 つ れ ど、 さ ら に 許 さ れ ぬ よ り てなむ、かく思ひ嘆き 侍る 。御心をのみ惑はして去りなむこ との、かなしく、たへがたく 侍る 也。かの都の人は、いとけ うらに、老いをせずなん。思ふこともなく 侍る 也。さる所へ まからむずるも、いみじくも 侍ら ず。老いおとろへ給へるさ まを、見たてまつらざらむこそ、恋しからめ」    と 言ひ て、 (かぐや姫の昇天   六八頁)   さらに月へ帰って行く姫に、翁が自分を連れていってくれ、と泣 いて縋るのに対して、姫は惑乱しながらも、丁重な手紙を書き残す 場面が、次のように続いている。     「文を書きをきてまからむ。 (後略) 」    とて、うち泣きて書く言葉は、      此国に生まれぬるとならば、嘆かせたてまつらぬほどまで 侍 ら で、すぎ別ぬる事、返ゝ本意なくこそおぼえ 侍れ 。 (後略)    と書をく。 (かぐや姫の昇天   七二頁)   このように、姫は、まれに翁に強い口調で迫る無敬語表現で応え ることはあるものの、基本的に養父母に対して極めて丁重に接して いることが分かる。そのセリフは、主に「 としかげ型 」で明示され ている。      二   姫から帝への「侍り」   この節では、かぐや姫が帝に対して用いた「侍り」を見る。    (帝ハ) 類なくめでたくおぼえさせ給てφ、     「許さじとす」    とて、いておはしまさんとするに、かぐや姫、答へて 奏す 、      「を の が 身 は、 此 国 に 生 れ て 侍 ら ば こ そ つ か ひ 給 は め、 い と いておはしましがたくや 侍ら ん」    と 奏す 。御門φ、     「などか、さあらん。猶いて おはしまさ ん」     と て、 御 輿 を 寄 せ 給 に、 こ の か ぐ や 姫、 き と 影 に な り ぬ。 「は か な く、 口 お し」 と お ぼ し て、 「げ に、 た ゞ 人 に は あ ら ざ り け り」とおぼしてφ、      「さ ら ば、 御 と も に は い て 行 か じ。 も と の 御 か た ち と な り 給 ひ ね。それを見てだに帰なむ」    と 仰せらるれ ば、 (帝の求婚   五七頁)   右の場面での姫の帝へのセリフは、さすがに丁重である。ところ で、 帝 の セ リ フ 中 の「お は し ま さ(お は し ま す) 」 は、 自 身 の 動 作 に言っており、 「自敬表現(自己尊敬) 」と呼ばれるものである。こ れについては後述するが、ここで注意されるのは、そのセリフでは 「自 敬 表 現」 で あ る が、 次 の セ リ フ で は「い て 行 か じ」 と、 対 等 の 表現になっていることである。帝の姫への気持ちの変化がこの言葉 に続く「 御 かたちとなり 給ひ ね」という姫を尊敬する表現となって

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いることが注目される。   右のような帝の姫に対する自敬表現から対等表現へ、さらに尊敬 表現へのセリフの変化に、頑なであった姫も心を動かされたのであ ろう。その後の場面には、     御返り、さすがに憎からず聞こえかはし給て、おもしろく、木 草につけても、御歌をよみて遣す。 (帝の求婚   五七頁) と、二人の熱愛とも見られる描写が記されている。   そして別れの最後に、帝(朝廷)に残す手紙は、セリフと同じ丁 重な文言でなされている。    い み じ く し づ か に 、 朝 廷 に 御 文 た て ま つ り 給 。 あ は て ぬ さ ま 也 。     (前 略) 宮 仕 へ つ か う ま つ ら ず な り ぬ る も、 か く わ づ ら は し き 身にて 侍れ ば。心えずおぼしめされつらめども、心強く、う けたまはらずなりにし事、なめげなる物におぼしめしとゞめ られぬるなん、心にとゞまり 侍 ぬる。    とて、 (かぐや姫の昇天   七三~七四頁)      三   王慶・家来・侍女ら下位者から上位者への「侍り」      火鼠の皮衣、 からうじて 人を出だして求めて奉る。いまの世 にも昔の世にも、此皮は、たはやすくなき物也けり。昔、か しこき天竺の聖、この国に持てわたりて 侍 ける、西の山寺に あ り と 聞 き を よ び て、 朝 廷 に 申 て、 か ら う じ て 買 ひ と り て、 奉る。値いの金すくなしと、国司、使に申しかば、王慶が物 加へて、買ひたり。いま金五十両賜はるべし。 (後略)  (火鼠の皮衣   二七頁)   右の手紙は、王慶から右大臣に送られた二通目のものである。追 加金を催促するのに、最初の手紙では使われなかった「侍り」を用 い て い る。 「 か ら う じ て 」 を 繰 り 返 す 一 方、 丁 重 な 表 現 で 催 促 す る 商人のしたたかさがよく表れている。   次 の 例 は、 家 来・ 侍 女 ら が 主 人 に 申 し 上 げ る セ リ フ で 使 わ れ た 「侍り」である。    又、人の 申 やうは、      「大 炊 寮 の 飯 炊 く 屋 の 棟 に、 つ く の あ な ご と に、 燕 は 巣 を 食 ひ 侍る 。それに、まめならむをのこどもをいてまかりて、あ ぐらを結ひあげて、うかゞはせんに、 (後略) 」と 申 。  (燕の子安貝   四三頁)    倉津麻呂 が、 申 やう、      「(前 略) あ な ゝ い に お ど ろ 〳〵 し く 廿 人 の 人 の 上 り て 侍 れ ば、 あれて、寄りまうで来ず。 (後略) 」    と 申 。(燕の子安貝   四四頁)    近く使はるゝ人ゝ、竹取の翁に告げて いはく 、      「か ぐ や 姫 の、 例 も 月 を あ は れ が り 給 へ ど も、 こ の ご ろ と な りては、たゞことにも 侍ら ざめり。いみじくおぼし嘆く事あ るべし。 (後略) 」    と 言ふ を聞きて、 (かぐや姫の昇天   六〇頁)    守る人〳〵の いはく 、      「か ば か り し て 守 る 所 に、 は り 一 つ だ に あ ら ば、 ま づ 射 こ ろ して、ほかにさらんと思ひ 侍る 」    と 言ふ 。(かぐや姫の昇天   六六頁)   右のような「侍り」は、当時の身分の絶対的な格差を反映した基 本的な用法である。ただし、竹取の翁に侍女とおぼしき「人ゝ」が

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言うセリフと帝から遣わされた「守る人〳〵」が翁に言うセリフは 「 と し か げ 型 」 の 「 い は く ~ 言 ふ 」 で 明 示 さ れ て お り、 そ の 前 の 倉 津麻呂 から中納言への「 申す 」で示されるのとは違っている。これ は聞き手の翁の身分が低いことを表しているものである。   次の例も、身分の高くない「ある人」が、帝に申し上げたことを 明示する 「 奏す~奏す 」 であるので、ここに加えておく。    ある人、 奏す 、      「駿河の国にあるなる山なん、この都も近く、天も近く 侍る 」    と 奏す 。(富士の煙   七六頁)      四    嫗・ 翁 か ら 内 侍・ 帝 へ の「侍 り」 ・ 帝 の 自 敬 表 現 と し ての「侍り」   本節で取り上げる「侍り」は、丁重表現のものと、自敬表現(自 己尊敬)としての用法のものである。    女に、内侍 のたま ふ、      「仰 せ ご と に、 か ぐ や 姫 の か た ち、 優 に お は す 也、 よ く 見 て まいるべきよしのたまはせるになむ、まいりつる」    と 言へ ば、     「さらば、かく申 侍ら ん」    と 言ひ て、入ぬ。 (帝の求婚   五〇頁)    女、内侍のもとに還り出てφ、      「口 お し く、 こ の お さ な き 者 は、 こ は く 侍 る 者 に て、 対 面 す まじき」    と 申 。(帝の求婚   五二頁)   右 の 女(嫗) の セ リ フ の 前 者 の「侍 ら(侍 り) 」 は、 女 自 身 の 動 作を謙譲する表現であり、後者の 「侍る (侍り) 」 は姫の動作 (状態) 「こはく(こはし) 」の謙譲表現である。後者で注目されるのは、翁 と嫗は自邸では姫に向かっては尊敬語を使っているが、ここでは姫 は身内であり、内侍の背後にある帝を意識した表現である、と見ら れるのである。次も、翁が姫を身内として、帝に対して言うセリフ である。    翁 (中略) まいりて 申 やう、      「(前 略) 宮 つ こ 麻 呂 が 手 に 産 ま せ た る 子 に も あ ら ず。 む か し、 山にて見つけたる。かゝれば、心ばせも、世の人に似ず 侍 」    と 奏せ さす。 (帝の求婚   五六頁)   ここまでに引用した「侍り」は、前節までに述べた丁重語として の用法で説明できる。ところが、    御門 (中略) 仰せ給 、      「汝 が 持 ち て 侍 る か ぐ や 姫、 た て ま つ れ 。 顔 か た ち よ し と 聞 こしめして 、御使を 賜び しかど、かひなく、見えず成りにけ り。かくたい〴〵しくやは慣らはすべき 」    と 仰せらる 。翁、かしこまりて、御返事 申 やう、      「此 女 の 童 は、 た へ て 宮 仕 へ つ か う ま つ る べ く も あ ら ず 侍 る を、 も て わ づ ら ひ 侍 る 。 さ り と も、 ま か り て、 仰 せ 事 賜 は ん」    と 奏す 。(帝の求婚   五三頁)   右の前者、帝のセリフの「侍り」は、同じセリフ中の 「 たてまつ れ (た て ま つ る) 」「 聞 こ し め し (聞 こ し め す) 」「 賜 び (賜 ぶ) 」 と 同じく、二節で述べた「自敬表現」と呼ばれるものである。自敬表 現を認めない説は、ここを侍臣の取り次ぐ表現、あるいは、語り手

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の帝への敬意の表現などとする。しかし、二節で述べたように、至 尊としての帝が自らを尊敬する表現から、対等表現に、さらには姫 を尊敬する表現に移っていく過程を見事にセリフで表しているとす る私見は、これに従えない。後者の翁の「侍り」はこれまでに述べ た丁重な表現での用法である。   次 の 二 例 も「宮 つ こ 麻 呂」 (翁) の セ リ フ の「侍 り」 も 同 じ も の である。    宮つこ麻呂が、 申 やう、      「い と よ き 事 也。 な に か、 心 も な く て 侍 ら ん に、 ふ と 行 幸 し て御覧ぜむ、御覧ぜられなむ」    と 奏すれ ば、 (帝の求婚   五六頁)    翁、答へて 申 、      「か ぐ や 姫 を や し な ひ た て ま つ る こ と、 廿 余 年 に 成 ぬ。 「片 時」との給に、あやしく成 侍 ぬ。 (後略) 」と 言ふ 。  (かぐや姫の昇天   七〇頁) 前者は翁から帝へ、後者は翁から月の王へのセリフである。      五   大納言・中納言の自敬表現と絶対敬語の考え方     大 伴 の 御 行 の 大 納 言 は、 わ が 家 に あ り と あ る 人、 召 し 集 め て、 のたまはく 、      「竜 の 頸 に、 五 色 に 光 る 玉 あ な り。 そ れ 取 り て 奉 り た ら む 人 には、願はんことをかなへん」    と のたまふ 。(竜の頸の玉   三二頁)    大納言の、 の給 。      「天 の 使 と い は ん も の は、 命 を 捨 て て も、 を の が 君 の 仰 ご と を ば か な へ ん と こ そ 思 ふ べ け れ。 (中 略) い か に 思 ひ て か、 き んじら、難きものと 申す べき」φ(竜の頸の玉   三三頁)   右 の 大 納 言 の 二 つ の セ リ フ で、 「わ が 家 に あ り と あ る 人」 (家 来) の動作に「奉り(奉る) 」「申す」を用いている。これは、この話に 続く中納言も同じである。    中納言よろこび給て、φ      「お か し き 事 に も あ る か な。 も つ と も え 知 ら ざ り つ る、 興 あ ること 申 たり 」    と の給 て、 (燕の子安貝   四二頁)    (中納言ニ) 倉津麻呂かく申を、いといたく喜びて、 のたまふ 。      「こ ゝ に 使 は る ゝ 人 に も な き に、 願 ひ を か な ふ る こ と の う れ しさ」    と の給 て、御衣ぬぎてかづけ給つ。     「さらに、夜さり、この寮に まうで 来」    と の賜 て、つかはしつ。 (燕の子安貝   四五~四六頁)   中納言が、家来や倉津麻呂の動作に「申(申す) 」「まうで(まう づ) 」 を 用 い て い る。 こ れ ら は、 身 分 の 上 位 の 者 が 下 位 の 者 の 動 作 を謙譲させ、自らを尊敬する用法であるから、自敬表現と認めてよ いであろう。管見に入ったこの物語の注釈書では、西田直敏氏の言 う「天 皇 語」 (注) に つ い て の み 自 敬 表 現 を 認 め て い る が、 前 節 の 帝 (天皇)のセリフ中の 「侍り」 「たてまつる」 の用法を合わせ見れば、 これも自敬表現と説明して支障はない。   ここで、大納言の次のセリフに注目したい。    大納言、起き居て のたまはく 、      「汝 ら、 よ く 持 て こ ず な り ぬ。 竜 は、 鳴 る 神 の 類 に こ そ あ り

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けれ。 (後略) 」    とて、 (竜の頸の玉   四〇頁)   大納言が初めのセリフでは自敬表現を用いて、家来たちに竜の頸 の玉を「取りて奉りたらむ」と命じたのに比べると、自らが船に乗 り、遭難しそうになって命からがら浜にたどり着いた場面で、見舞 い に 参 上 し た 家 来 た ち に 言 っ た セ リ フ で は、 「持 て こ ず な り ぬ」 で あ っ て、 「持 て 参 ら ず 」 で は な い。 こ こ に は 家 来 た ち が「竜 の 頸 の 玉は、いかゞ取らむ」と言ったことの道理を身をもって知り、反省 と後悔の気持ちが対等表現で示されていることが分かる。これも二 節で、帝が姫を 「たゞ人」 ではないと知った後は、 「いて 行か じ 」「御 かたちになり給ひね」と対等表現・尊敬表現になったのと通ずるも のがある。      (注  ) 西田直敏 『敬語   国語学叢書⑬ 』(一九八七年) ・『 「 自敬表現 」 の歴史的研究』 (一九九五年) ・『日本人の敬語生活史』 (一 九九八年)等を参照。      六   まとめ―存疑の用例に触れて―    御子、の たまは く、      「命を捨てて、かの玉の枝を持ちて、来たる 」 とて 、「かぐや 姫に、見せたてまつり 給へ 」    と 言へ ば、翁、持ちて入りたり。 (蓬萊の玉の枝   一七頁)   右の例、引用本文の校注者は、 とて を地の文として、二つの会話 文 と み る が、 後 の 会 話 主 体 に つ い て 脚 注 は 付 さ な い。 こ の セ リ フ は、 翁 を 聞 き 手 に な さ れ て た も の で あ り、 御 子(く ら も ち の 皇 子) のセリフとすると、謙譲語「 〈見せ〉たてまつり(たてまつる) 」と 尊敬語 「給へ (給ふ) 」 とも不自然である上に、地の文の 「 言へ (言 ふ) 」も「のたまへ(のたまふ) 」とあるべきである。そこで、家来 の セ リ フ と 考 え た い が、 そ う と し て も 不 自 然 さ は 残 る と こ ろ で あ る。     「(中 略) の 給 し に た が は ま し か ば と、 こ の 花 を お り て ま う で き たるなり。 (後略) 」(蓬萊の玉の枝   二一頁)    これを御子聞て、φ     「こゝらの日ごろ思ひわび 侍る 心は、今日なん落ちゐぬる」    と のたまひて 、(蓬萊の玉の枝   二二頁)   この二つは御子のセリフで、前者はくらもちの皇子が玉の枝を採 るために遥々と蓬萊の山まで海路の旅をしたと偽る長話の一節であ る。 「の給(の給ふ) 」はかぐや姫への尊敬語であろうが、ここでは 不 自 然 で あ る 上、 御 子 自 身 を 謙 譲 し た「ま う で(ま う づ) 」 も 同 じ く不自然である。従って、後者のセリフ「侍る」も翁を聞き手に用 いるのは皇子として不適切である。しかしながら、姫に対して「の たまふ」を用いた例は、    御子たち、上達部、聞きて、φ      「おいらかに、 「あたりよりだに、なありきそ」とやは のたま は ぬ」    と 言ひ て、うんじて、みなかへりぬ。  (貴公子たちの求婚   一二   一三頁)    かぐや姫 のたまふ 様にたがはず、つくり出でつ。  (蓬萊の玉の枝   一五頁) のように、前者はセリフ、後者は地の文に表れる。前掲のくらもち の皇子のセリフの例と合わせ考えると、皇子のかぐや姫に求婚する

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熱愛の表現ではないか、と考えたくもなるのである。もとより絶対 敬 語 の 時 代 に こ の よ う な 敬 語 表 現 が あ っ た と は 考 え に く い。 し か し、二節と四節で述べたかぐや姫に対する帝の自敬表現から対等表 現への変化、更には姫への尊敬表現など、加えて大納言の家来に向 かって言う敬語の変化も考え合わせると、存疑の例を物語作者の間 違いか、転写の際の誤りとも断定してしまいたくないのである。   このように『竹取物語』に見られる敬語の表現は、絶対敬語から 相対敬語に移行していく過程と見るのが通説であるが、 「絶対敬語」 を 支 え る 事 象 を 疑 う 福 島 直 恭 氏 (注) の 通 説 に 対 す る 批 判 的 考 察 も 考慮にいれる必要があると思う。      (注  ) 福島直恭『幻想の敬語論―進歩史観的敬語史に関する批 判 的 研 究』 (二 〇 一 三 年) 。 こ の 書 の 主 張 を 端 的 に 要 約 す れ ば、 「自 敬 表 現 の 存 在 が 絶 対 敬 語 の 時 代 が あ っ た と す る 通説(進歩史観的敬語史)の証左とはならない」というも ので、右に挙げた存疑の例なども福島説によった方が解決 に導かれやすいように思う。勿論、 『竹取物語』のみから、 福島説の適否を論じられるものではない。この書から研究 者は通説に対し、常に批判的であるべきことを、改めて教 えられた。   本 稿 は、 主 に か ぐ や 姫 が 竹 取 の 翁 を 聞 き 手 と し て 言 う セ リ フ が、 翁に対する姫の気持ちの変化とどうかかわっているかとする視点か ら、 「侍 り」 の 使 わ れ る セ リ フ と 使 わ れ な い セ リ フ を 対 比 検 討 し て きた。結論として養父である翁と、娘である姫との間では相対敬語 が用いられていると認める。一方、姫が帝を聞き手として言うセリ フでは、必ず「侍り」が使われ、通説に従えば、絶対敬語の用法と なる。更にセリフのやりとりの中でセリフ部分を明示する 「 としか げ型 」 が有効な表現技法として機能していると考えられることを合 わせ論じた。   参  照 注 釈 書 : 坂 倉 篤 義『竹 取 物 語』 (日 本 古 典 文 学 大 系) 一 九 五 七 年 /松尾聰『校注竹取物語』一九六八年/上坂信男『竹取物語全 訳注』 (講談社学術文庫) 一九七八年/野口元大『竹取物語』 (新潮日 本古典集成) 一九七九年/片桐洋一 『竹取物語』 (新編日本古典文学全集) 一 九 九 四 年 / 堀 内 秀 晃『竹 取 物 語』 (新 日 本 古 典 文 学 大 系) 一 九 九 七 年/上原 ・ 安藤 ・ 外山『かぐや姫と絵巻の世界』二〇一二年/大 井田晴彦『竹取物語  現代語訳対照 』二〇一二年  (せき・かずお)

参照

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