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全文

(1)

日中文化協会ニュース 150 号記念特別版

日中国交正常化 40 周年記念

目次

・ニューズレター150 号までの歩み

・文化協会の活動

・中国駐名古屋総領事館領事祝辞

・巻頭文 当協会理事

・随想 会員投稿

・理事長挨拶

・編集後記

2012年10月29日発行

発行所 一般社団法人 日中文化協会

460-08

名古屋市中区栄 4-16-29

TEL 051-262-1410

FAX 052-262-5036

http://www.chuto.co.jp/china/

編 集 日中文化協会 編集部

印 刷 株式会社カミヤマ

(2)

☆ ニューズレター150 号までの歩み ☆

・ 2000 年 4 月、日中文化協会発足と同時に毎月

一回ニューズレターを発行し、会員の皆様に

お届けしています。創刊時の題字は『温故知新』

で、毎月 1 日の発行でした。

・それまでは中国の各省の紹介、少数民族の紹介、文化の紹介といった紙面構成でしたが、

留学生や中国通の会員もふえたので、「会員相互の親睦を深める」を柱とする紙面へと

変わりました。

・会員の旅行記や、自由随想、各会員の活動の報告などが紙面を飾るようになりました。

みなさまのご投稿を感謝しています。

・2008 年 8 月 100 号記念特別号を発行しました。

この年 6 月逝去された卓司理事長の追悼号でもありました。

・2009 年からは インターネットホームページからニューズレターをダウンロードできる

ようになり、会員以外の閲覧が可能になりました。

これを機に郵送中止を申し出てパソコン上でうけとる会員も増えています。

・紙面についてご要望やご意見をぜひお聞かせいただきたいと思います。これからもどう

ぞよろしくお願いいたします。

・2005 年 60 号から紙面リニューアルをし、毎

月 20 日発行、題字も『日中文化協会ニュース』

と変更しました。

(3)

<100 号以後の日中文化協会ではこんなことがありました>

2008 年 5 月 日中文化協会郡上支部誕生

2008 年 6 月 四川大地震災害復興支援チャリティコンサート「郷音郷情」主催

2009 年 4 月 日中文化協会法人化

2009 年 4 月 JCCA 留学生会発足

2009 年 4 月 日中文化協会ホームページ開設

2009 年 5 月 少数民族教育支援 雲南省怒江リ―スー族・ハニ族訪問

2009 年 9 月 中国建国 60 周年記念交流会 in 南寧

2009 年 9 月 会員サロン発足

2009 年 11 月 山東省の旅

2010 年 5 月 第一回「留学生の主張」日本語弁論大会開催

2011 年 11 月 山西省の旅

2012 年 4 月 会員サロンリニューアル

2012 年7月 協会スタッフ李麗逝去

例年の恒例行事として定着しているもの

1 月名古屋中国春節祭参加

4 月会員総会

4 月春の道を歩こう会

5 月「留学生の主張」日本語弁論大会

8 月納涼親睦パーティ

8 月青少年書法美術展、当代中国書法美術作品展、日中書画交流展

11 月秋の道を歩こう会

12 月忘年会

毎月の行事として定着しているもの

毎月第1火曜日 月例会、

毎月第2火曜日 会員サロン

毎月第1、第3土曜日 簡単和洋裁、中国語サロン

毎月第1、第3、第5火曜日 入門パソコン教室

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今年で 中 日国交正常化四十 周年 を 迎え 、 本 回で 日中文化協会ニ ュ ー ス 発 行15 0 回を 迎え ました 。 こ の 記念す べき 時に貴誌に寄稿さ せて いただ く こと を大変 嬉 しく 思い ま す 。 ま ず、 中 国総 領事館を代表し、 日中文化協会ニ ュー ス 発 行1 5 0 回を心 か ら お 祝 い 申し 上げます 。 ま た、 日中文化協会の 皆様に長年に わたって日中友好交流 においてご尽力賜りましたこ と に対 し、心より感謝申し上げま す。 私は 中 国 駐 名 古屋 総 領 事館 に 赴 任 して 三年 間、 日中文化協会の会 誌は 毎 回欠かさず、 トータルで 三 十五回しっ かりと読み続 けていま す。 私にとっ て、 大変親 し み の あるもの です。 目 を通 す たびに, 上山理事長をはじめ協会の皆 様の中日友好に満ち 溢 れ る 心を感じ ま す 。 バ ラエテ ィ ーに 富ん だ友好 イ ベ ントをたくさ ん設けて くださ り 、 日 中 文化協会ニ ュ ー ス の紙 面から、 中日両 国民や 、 子供が 永 遠に仲 良 くして ほ し いという願い が強く感じられま す。 中日国 交 正常化四十周年を振 り 返 ると、 両 国関 係 は あらゆる分野におい て大 きく発 展 し、 国交正常 化前の両 国 の 人 的往来は 一万人未満から、 現在の 約五 百 七 十 万 人にまで 増 加 し ま し た 。 毎日百便以上のフ ラ イ トで 約一万八 千人が交流して い るその中には、 日 中 文化協会が長年 に わた って接 待 、 引 率 されて い る中国からの子供の書道代 表団、 中 国人の訪日団、 そ して日本の 学 生 平成遣中使、 日本人訪中団のメン バー もいるはずだ と思います 。 文化の 面 では 、 日 中文化協会の中に ある中国語教室 で 、 両 国の方々が一丸 と な っ て 、 お 互 い に 勉 強 し 合 い 、 お 互 いに 助け 合う心 温 ま る 光 景 には 深 い 感動を覚えず には いられ ま せん。 留学 生日本語 弁論大会、 青 少年書道 展、 中国の子供のホー ムステイ等日中 文化友好交流と人的交流のために、 地 道な 努力を続けてこ られ、 今 両国関 係 がぎくし ゃ く している時にも、 人 び と の心 に希 望 や 勇気、 温 か み を与え 、 困 難に負 け る こ となく、 黙 々 と奔走 し て お ら れる 姿 が 目 に 焼 き つ き ま し た。 中日両国 は切っ て も切れない、 引越 しできな い関 係と言え ます 。 子 々孫々 仲良 く し てい く こ と は 時 代 の流 れ で あり、 ア ジアの安定、 世界平和に欠く こ と はでき ま せん。 両国同 士 の 付 き 合 いは 国民の 親 し み合いによるものです 。 中 日友好の未 来は 両国民の手にかかっ て いま す。 現 在 両 国関 係は いろ いろ と厳 し い 状況 にありま すが、 こういう時期 だから こ そ頑張る時期 です。 両 国 民 の相互理解 や、 友好交流を深める ことが非常に大 事だ と思います 。 これから 貴協会と貴 誌は いままで 通り両国の民間レベル の交流を促進 させ、 心 と 心 の絆 を結 び 合わ せ、 友 好 の 基 盤をさ ら に 強 固 に さ せ、 両国友好の早期回復と更なる発展 に繋が るよう引き 続 き 努 力して い た だきたいと願って います 。 日中文化協 会が中日友好の強固な架け橋 に なる こと と 信 じ て い ま す。 最後に、 日中文化協会ニ ュ ー ス の更 なる ご発展と、 協 会の方 々 のご健康と ご活躍を心からお祈りい た しま す。 こ の 機関 誌は 文化協会が 発 足した 直後の二000 年四月第一号を発行 して 以来、 毎 月欠かさず 発 行されて来 て、 この 十月150号に な る。 ちょう ど日中国交正常化四十年の節目の時 期に重なるの で、 われわれ協会の こ こ まで を振 り返 り、 日中 間の相互 理解 と 友好促進活動の経 過を記載し、 あ わ せ て会員諸氏の中国に 対 する思い を寄 稿してもらおうとしたが、 編集準備中 に尖閣諸 島領土問題が起こ り、 機先を 制された 感がす る 。 そ の 結 果 、 中 国 で 行わ れ る ほ と ん ど の 交 流 事 業が 停 滞 する 状 況 に 至 っ た 。 わ が文 化協 会も 十 月山東省 で文化交流祭を現地と共同 開催すべく準備をして いた 。 現 実、 こ の閉塞感 は何 だろう。 脱力感 す ら漂う。 四十年前国交が 正 常化された 時 、 堰 を切ったように、 中国に想いを持って いた 人たち が さ ま ざ ま な形で 交 流を し始めた。 やがてそれらは 組 織化され 多くの団体 や グルー プ として 全国的 に交流活動を拡大した 。 そ の原点にあ った ものは 中 国にた い す る 各人各様 の 「 贖 罪 」 「 報 恩 」 「 感 謝 」 の 気 持 ち だ った にちが い な い 。 し かし、 領 土問題 を端に し た一 連の騒 動 を見ると、 こ れ ら純な気持 ち が逆なでされる感と同 時に過去の活動理念の終焉を感 じざ るを 得な い。 我が 国 は 平 和 が 維 持さ れて い る 国 である。 終 戦 から六 十 七 年 経 過 した こ の間、 唯 一戦争をして い ない国といっ てよい。 平和 を維持 し 将来も希求し て いる国民である こ とをもっと誇示す べきなのだ 。 戦中戦 後 を 体 験した人たちはすで に少な い。 これは中国にも言え る こ と だ。 両 者 と も 、 未 来の ために 世 界 の 中 で日中両 国 が な す べ き 役割 がある の を認識して い る は ずだ。民間交流は 「平和」 を共通の理念として個別の問 題解決策を模索しながら活動を継続 する ことが重要 で ある。 こ れらの積み 重ねが200号へつながる頃、 次世代 の交流 が 推進 されている こ とに なる であ ろう。

150号

から200号へ

石川

敬之

名古屋総領事館

菊花

領事

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緊迫した雰囲 気の 北 京 で 九 月十 五 、 十六両 日 、 日 中両 国 の 学会 ( 日 中 関 係 学会、 中 日 関 係史 学会) に よる国交正 常化四十 周年 記念シンポジウ ム が開 催され、 筆 者 は学会理事として 出席し た。 宿 舎 ・ 会 場とも日本 大 使 館 向かい のホテ ル で、 反 日 デモの喧騒 の 中、 国 交正常化以来最悪の日中関 係の厳し さを体感した。 テ ー マ は 「アジアの未来と日中関係 」 だ っ た が 、 尖 閣 諸 島 ( 中 国 名 ・ 釣 魚 島=以 「 島」 と略称) の国有化問題に 集中し、 学術的観点を踏ま えて意見を 述べ合った。 両学 会は 島の 領有 権 を 巡 り 日 中 両 国の主張が相違す る歴 史的経緯、 国 際 法的見解につい て共同研究を検討 す るこ とで 一 致 し た 。 両 国民 と も 領有 権 主張の根拠 ・ 理由をよく知らないまま 対立を激化しており、 客観的に根拠 ・ 理由 を双方の国民向けに知らせる必 要が あ る との 考え からだ 。 これま で 日本政府 は調査を経 て 一 八九五年一月に島の領 有を閣議決定 し、 現に実効支配していると主張。 中 国政府は日清戦争の大勢が決した情 勢下 で、 明 ・ 清代の地図にも明記され た島 を取 ら れ たと反 論 し て い る 。 第 二 次大戦後の島の領 有権につい て も見 解が異な る。 シ ン ポジ ウム で中国側 は、 島 の 問題 を巡り日中間には 国交正常化時から 「係 争棚上 げ 共同開発」 と いう “暗 黙の了解” ( 中国語 「 黙 契 」 ) があっ たこ とを重視した。 日 本政府が外交文 書・ 記 録 に 「 黙 契 」 が な い と し 、 「 日 中間に領土問題 は 存在 しない」 との有 力根拠にしており、 重 要な争点である 。 中国側 は ①一九七二 年 の国交正常 化交渉時に田 中角栄 首 相が周 恩 来総 理に 「尖閣につい ての態度を伺い た い 」 と 切 り 出 し 、 周 総 理 が 「 今 こ の 問 題 を取り上 げ て もいい こ と は ない 」 と 返 し、 田中首相も 「 今後のこ とにしよう 」 と 応 じ た 。 ② 七 八 年 に 鄧 小 平 副 総 理 が日本記者ク ラ ブ で の会見で 島の問 題を質問され、 棚 上げが い いと答えた 。 ー な ど の 証 言 ・ 記 録 資 料 か ら 黙 契 の 尊重を主張 し た。 日本側も日中間の係 争の存在を認め、 「黙契」 に立ち返っ ての解決の必要性を認める声も多か った 。 筆者 が八月上 旬に 別の訪中 で 対日 政策関 係 者複 数とオ フ レコ 懇談を重 ねた時点 で、 「中国 は 係 争 棚上げの状 態で いい」 「 日本は実効支配して い る のに、 問 題 を 起 こ すのか」 との答えが 返っ てきた。 中国の考 え方を日本政府 はど こま で掌握 し てい たのか。 日本の一方的な国 有化決定によ り、 中国 は棚上げの黙 契が放棄された ( 「 棚下げ」された)と受け止めた のだ 。 アジア太平洋経済協力会議 ( A P E C ) で 胡錦濤 国 家 主 席から 国 有 化 にくぎを 刺された野田首相が二日後に閣 議決 定したため、 国家指導者の面子を つ ぶ された。 満州事変の発端となる柳条湖 事件の発生した、 「国の恥を忘 れるな 」 と い う 九 月 十 八 日 を 控 え 、 時 期 も 悪 かった。 外交 は相手国への配慮と計 算 を含めた総合的戦略が 不可欠で あ り 、 それらが不 十 分 で はなかっ たのか。 中国政府 は反日デモを容認 する一 方、 直ち に島周辺を自国領海として 国 連への大陸棚延伸申請を発表した。 軍 部も含めて 周 到 で 強 硬 な反日シフト を敷いた。 デ モ参加者は八〇年代、 九 〇年代生まれで、 江沢民政権 下 の愛国 主義教育を受けた若者が大半だ 。 「 貧 しく平等」 の 毛沢東時代に共感 するネ ット左派もいる。 「 領 土を守れ」 と い う愛国意 識を燃 え 上 が らせる一 方、 社 会主 義市場経 済の経 済 発展に伴 う貧 富格 差 や 失 業 、 腐 敗 へ の鬱 憤晴 ら し と もなった 。 暴 走した 犯 罪行為は チャイ ナリ スクを増大し、 国 際 的 にもマイナ スになる。 政 治経済 や 民間交流の停滞 、 国 民感情の対立など、 日 中双方とも 長期に わ たる 傷を負 う 。 政治指導者が先人の 「 黙契」 の 知恵に 学び、 歩 み寄れると ころは歩み寄っ て 新たな 「 黙契」 を 模索し、 早急に鎮静 化さ せるべきだ 。 日中関 係 のこれ ま で の発展と将来を台 無しにしてはなら ない。 名古屋外国語大学 特 任 教授

川村

範行

(九月二十 一 日付け中日新 聞夕刊文 化面 記 事 より 引用 )

尖閣「棚上げ」

同調

日中両学

化四

十周

年北

ジウ

ム共同

究検討

一致

例会で講演中の川村先生

(6)

今年は 日 中 国 交正常化四十年 を 迎 え る記念すべき年です 。 そ の四十年前 を思い出していま す。 私 は ちょうど長 男を出産して半年 ほど経った新米 マ マで した 。 そ の頃は 両 親と 同居 し 、 夫 も健 在でしたので 、 良 い面も良くな い 面も併 せ 持った平凡な 育児ママでし た 。 日中関 係 に付いては 全く無関心な 時代で し た 。 国交正常化の年に生まれた長 男 が 二十 歳の頃、 私ども家族は 、 そ ろ っ て 南オー ス トラリ ア 州アデレードで 暮 らして い ました。 日本からも中国から も遠く離れた南半球におりました。 「国交正常化二 十 年に なり 、 天 皇陛下 も中国を訪問 されたこと だ し、 財団の 高校生海外派遣をアメリカから中国 に変 え、 『平成遣中使』にしました」 という、 父からの便りに 「 へ~ぇ、 そ うな ん だ 」 と 、 初 めて中国の存在を少 し意識しましたが、 ま だ軽いもの で し た。 とこ ろ が 、 一 九 九 五年 に 両 親が 病 気 で倒 れたとい う 事 情 で オ ー ス ト ラリ アから帰 国し ました 。 そして 、 財 団 の 理事長を引き 継いで 、 『 平 成遣中使 』 は私 の重 大 な 任務と な りま し た 。 また 、 死 の病 に就いて いる父は 、 縁 あ って 当時の北京大学 副 学長の王義遒 先生とめぐり合ったことにより、 個 人 の財産で 「北京大学 出 版基金」 を設立 した いと言い出しました 。 母は 「 何 が 悲 し く て 見 ず 知 らず の 所 に お金をあげなければならないの。 子 供 たち に遺せば いいのに」 と 、 猛 反対を いた し ま した 。 翌 年 、 強い信 念 を 貫 い た父 は 「 子 供 に 遺 し て も何 の 役 にも 立 たない」と、 「北京大学 出 版基金」を 無事設立して、 ま もなく逝ってしまい ました 。 そのとき 、 幼 い頃から 聞かさ れて いた 父の中国に対す る 償いと敬 いの気持ちが、 私 の心 に一つの道とし て示されたような気 が しました。 そ し て 父 の遺志を継がなければならない と思いました。 二 000年四月に夫と ともに日中文化協会を設立し、 多くの 会員の皆さ ん や関 係者と伴に今では すっ かり 中国 は身近 な 存在 と な っ て おりま す 。 四十年 と 言 う 歳月は 大 きなもので す 。 生まれた 子も四十 歳にな り ました 。 そ れぞれの家庭もそれぞれの国もそれ ぞれの歴史を刻ん で 歩 ん で 来まし た 。 それ にして も 日中関 係 はこ の四十年 で ど の よ う に 変 化 し た の で し ょ う か? 大変 微妙 な面 が多 く、 私 が 知る だ けで も歴 史問題、 靖国問題、 餃 子事件、 発言問題、 尖 閣諸 島問題などで社会は 時々 大き く 揺 ら い で い ます 。 特 に今年 は四 十年と言う祝福 し 合 う べ き 年な のに問題 が多 すぎま す 。 根幹がしっかりして い れば、 た とえ 台風で な ぎ 倒 された 樹 木も、 新 し い 枝 が出 てきま す 。 その根 幹 となるのは私たち 一 人 一 人 で す 。 中国の友人たちは 個々に信頼 でき る人たちばかり で す 。 私たち 一 人 一人 が相互理解と友好交流に努めれ ば怖い物はない は ずです。 九月に国交 正常化四十年を記念して 行 った 「友好 の歴 史 写 真展」 の タイトルである 「 友 誼鋳春秋 」 と 言う言葉の重みを感じて いると ころです。 私が 文化 協会とご縁ができたのは 、 日本の書家 ・ 故青山杉雨先生の 「書簡 展」 で あ った 。 友 人に誘 わ れて、 書 簡 という言葉に興味が湧いたからであ る。 {書は 人 なり} と い わ れ る 。 私 は長く 中国 で書法の勉強をして い たので、 折 に触れ 、 日本で 発 表され る 彼の会場 芸 術として の書作 品 の 評 判を耳にして い た 。 し かし、 私 的な書簡というのは 書き 手の全人格を内蔵、 表 現され る の で、 彼を理解 する ために は これ以上 の 重要資料はない。 我 々 が中国の書聖 ・ 王 羲之の高い品 格の筆 跡 を 視 るのは 彼 の私的な書簡 で あ るよう に 、 私 信は 展覧会で の意識 した魅せる書ではなく、 最 も内なる懊 悩が毛筆を通して 形 状 とな る。 私は そ の 墨 跡 を 目 にし て 彼 へ の 理 解が 一変した 。 故郷石川県能登の友 人、 弟 子 への 熱い決意と日本書道 界 へ の抱 負の並々ならぬ努力と情熱を垣 間見た。 先人の跡 を学び、 師 ・ 西川 寧先生の 筆意 を充分に 伝 え てい た。 書簡を目に して 、 研 鑽 努 力の 跡を 知り、 風 評とは 別に 、 新 たな一面 を知り 、 開眼 を得 た。 その時、 上山綾子理事長と話し合う 機会を得た 。 彼女もまた、 故尊父、 亡 父の遺志を継続し、 次 世代への信念の 承継を実践して い るのである。 時代は 不易流行、 世 界は 目まぐるしく変化し てい る が 、 彼 女 は 頭 の 下 が る努 力 を 惜 しま ない。 ニ ュ ー ズレ タ ー はその流 れ の中に息づい て い る。

日中国交正常化四

十年と私

上山

綾子

150号記念特集号に寄

母の日に学生と

越川

智子

(7)

小さい頃か ら 書・水墨 画が好 き で、 中国に は 興味を持っ て い た 。 中国の方と話 (日本語で ) をし、 食 事をし、 自宅へ相互訪問の交流を始め たのは、 およそ二十年程前。 相 手の方 は朱 實先生 ( 通称瞿麦さ ん 、 じ つ は 俳号 ) 。 映 画 「寅 さん 」シ リーズ の 中 国語訳や 、 日 中国交正常化で 田 中 角 栄 首相と周恩来首相との通訳もされた ほんとうに知日派のお方。 国交回復以 前より対日本の窓口者 で古い日本人 の友 人を沢山お持ち 。 作家の司馬遼太郎、 劇 団民藝の古 き メンバーの方々等々、 民藝の岐阜公演 の時 、 先 生に連 れ られ楽 屋 へ、 公演後、 滝沢修、 日色とも ゑさん同席の食事会 へ、 今でも民藝さ んとはご縁を頂い て いる。 敬語を使われ 、 丁 寧 に 対 応 をなさ り 、 先生からは 色 々と学ば せて いただ い た。 びっくり したの は 、 私 宅へ来訪 を申 し出た時のこ と 「 五月○○日に、 是 非 とも一度ご夫婦で 弊宅へお越しくだ さい。 お 迎えに上 がりま す 。 」 と了解 を取り付けた。 約 束 の一週間ほど前の夜、 先生から 電話 が掛ってきた。 「 ほん と う に 、 五 月○○日にお邪魔して もいいのです か? 」「 どう ぞ、 お待 ちし てま すから」 と答えたら 「 で も 、 ま だ 正 式 に 招待状 をい ただい て ない から」 と の事 だっ た。 ご 経 歴 か らす ると 当然 のこ と、 とて も 貴重な体験をさせて い ただ いた 。 「国交が正常化し諸般の交流が盛 んになるだろうが、 生 活環 境、 思考方 法の差異 によって トラ ブルが起き る 事もあると思う、 相互理解があっ て こ そ相互信頼が生まれる」 が 先生の持論 であっ た 。 今、 もう一度よく味わ って みた い言 葉 で ある。 ほ んとうに素晴 らしいお方 に出会い、日中友好活動の門を開か せて いただ い た も ので あ る 。 私は 、 ( 公 益 財 ) 日中 技能者 交 流セ ンター に 所属し、 要請があり都合のつ く時 、 山 東省 即墨市にある 「中国対外 職工交流中心」 で 日本語教師をしてい る。 二か月でな ん とか読み書き、 話 せ るようにして 日本の 研 修所へ送 る。 人 出の足りない日本の中小企業で 働き たい とい う若者達 が対象 で ある。 給 料 などの条件 は 日本人と同 じ である。 私は、 若 い世代の人たちが日中友好 の絆 を結ん で く れ る こ と が 、 大 切 な こ とだ との思 い で 、 日 本 語を 教えて い る。 若い人達がお金儲けだけでなく、 自 分 の人生のために自分を磨き 高めるよ う、 今の日本をよく知り、 日本人と仲 良く接す るよう、指導して いる。 それ には 、 1、 苦労して 働くよう ; 仕 事に当 た り、 積極的に考 え 学ぶ態度を身に着 け る。 トイレ掃除、 整理整頓、 ゴ ミ分別 ( 中 国で は 意 味が な く て も )、 時間を 守 る、 怠け な い 、 な ど 当 た り 前 の こ と を習 慣 づけさ せ る。 2、 礼 儀 作法を身に着 け るよう ; 簡単 な事柄で も、 いつも相手の立場を考え て行 動 さ せ る 。 そ の た め 中 国 指 導 員 と ともに、注意 す る 。 3、 選 ば れた民間大使として接するよ うにと、 繰り返し話 す 。 お 互いの国の 良いところを知り、 中 国へ帰ってから も周りの人に話 す ようにと。 聞き 伝え で 、 お 金 持ち の 息 子 も 労 働 修行 の目的 で 混 じ っ て いる こともあ るが、 中 国経済の向上につ れ、 実習生 の数 が減っ て 、 右 の教 室 は 空 き が多 く なっ た。

日中交流二十年

瞿麦

ク バ ク

先生の

中島

正俊

日中友好の活動の一つとし

杉原

研修 所 の 玄関で 実 習生と 18 年前の写真右端が筆者

(8)

郡上支部誕生

日中文化協会法人化

留学

少数民族教育支援

リースー族の子どもたちに 年賀カードをおくりました

文化交流祭 in 南寧

会員サロン

簡単和洋裁教室 書道教室 俳句を楽しむ会

日本語広場

李麗は協会の華でした

名古

屋中

国春節祭

懐かしい人たち

春の

路を

歩こ

最後の山西省旅行

(9)

話は 、 か れこ れ 十 二 、 三年 く ら い前 に遡る。 当時、 椙 山女学園大学の学長 であった私 は 、 上 海師範大学と学生交 流プログ ラ ム の提携を結 ぶ 話 を 進め てい た が 、 交 渉 の 場に いつ も 本 学の 中 国人教師に同行 し てもらい、 通 訳をお 願いしてい た 。 仕 事の話 は 仕方ない が、 中国人 学 生 や 、 向 こうの交 際交流 セ ン ターの若いスタッフとの交流の時に は、 常に 歯痒い思い で あっ た。 ま た 何 度か専門の経済学 の講義や 日本経済 につい て の講演を頼ま れて 行 な った こ と があるが、 い ずれも英語で 行なう か、 日 本 語で 行な って 逐 次 通訳 して も らうしかなかった。 こ れまた隔靴掻痒 の感 であった。 そこ で あ る 時 一念 発起 して 、 中 国語 の勉強を始めようと決心した。 さりと て、 中国語塾 や 会 話 学 校へ通う時間は 無 い から、 本 屋で 中 国 語の 文法書や 会 話本を買ってきて独学を始めた。 しか し当 然の こと ながら、 漢 字 ばかり が 並 んで い る 文 章 には 馴 染 め な いば か り か、 付録のCDを聴い ても発 音 が難し いや ら 何 や ら で 、 初 め か ら カ ベ にぶ ち 当た った 。 ほぼ諦めかけて い た 或る日、 丸 善書 店の語学関 係 の書棚に、 『 中国語で 歌 おう!~カ ラ オケで学ぶ中国語~』 (アルク社、 CD付) という本が眼に 入っ た。 手に取っ て開い て みると、 私 がフ ァ ン であるテ レ サ ・ テ ン ( 鄧麗 君) の歌を中心 に 、楽譜、 歌 詞 と読み方、 その意味、 歌 で学ぶ表現ポイント等と あり、 付 録の CDを聴きながらそれを 追っ ていくと、 リ ズム感 が あっ て心地 よく、 意 味もよく理解できた。 なん だ か中国語をマスターしたような気分 にな り、 「よし、 こ れ だ ! 」 と 思った 。 しかし中国語は 発 音の難しさもさる こと な が ら 、 これ が違 うと全 く 異 な っ た語義になるという厄介なと こ ろが ある。 し かし、 こ れを歌で覚え ると可 に辞書 ( 詞典) を 引き 引き ピンイン (垪 音) を全 部付 けておい て、 くり返しC Dを聞い て マ ネる。 そ うして 何 曲か練 習して い るうち に 、 同 じ単語や フレー ズも自然に覚え、 あまり詞典のお世話 にならな くとも歌え る よう にな る。 こうし て マ ス タ ー し た 中国 語の 歌 は、 すで に八十 曲 くらいになった。 当 面の 目標は 百 曲で ある。 中 国の歌 詞 は 漢詩がそうであるように韻を含ん で いた り、 意味が深 い ( 特に古 い 歌 ほ ど) ので 、 実 に楽し い 。 私 は 、 こ の 他、 N HKの ラ ジ オ 中国語講座も毎朝(月 金) 十五分ほど聴い て 、 ピ ンインでの 正しい発音を心掛けて いる。 時 々中国 人留学 生 達や 中 国 の友 達とカラ オケ へ行 き、 お世辞 で もほめてもらうと実 に嬉 し い し、 楽し い。 語学は 楽 し み な がら学ぶのが一 番 だとつくづく思う 昨今である。 NHKテレビの大相撲の実況放送 のうち、 呼び出し係りの場面が放送さ れない こ とに一言申し上げたい。 相 撲 は日本 の 伝統国技 である。 日本 の美に は形を重ん ず る こ と が その要素の一 つ で もある。 にもかかわらず呼び出し 係りの場 面が放映されない。 詳 しい こ とは 解らな い が呼び 出 し 係 りにも 序 列があり時間係りから結びの一番の 呼び出しまで 位があると思って い る 。 相撲の主 役は力士 である こ とに異論 はないが、 し かし土俵を掃き清め呼び 出し 係りにより力士は 土俵へ上が り 行司の仕 切りによ り始まり勝 負 が つ いて 終わ るので あ る 。 呼び出し係り はその流れの一役を 担って い るのである。 またそれが相撲 の格 式美を支えて いる一つなのであ る。 放映 されない事情は呼び出し係りが 呼び出しをして い る間は前の取り組 みの 録画を 放 映して い るからで あ る 。 実に情けないと言 わざるを得ない。 前の取り組みの勝敗につい ての解説 者の説明は仕切り時間中で 工 夫する こ と は 可 能と思う。 是 非テレビ視聴者 の前に呼び出し係りの復権を望 む も ので あ る 。

★★

カラ

大相撲の実況放送に思う

松本

留学生と弁論大会の呼び込みをする筆者

椙山

孝金

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私 が 中国に 関 心を持っ たの は一本 の中国映画がき っ かけでした。 中国語 の音の響き … まるで フ ラ ン ス語のよ うな発音、 独 特なメロディ ( 四声 ) 。い つか 話せるよう に な り た い と思いま した 。 で も実際 に 学び始めたのは、 そ れから数 年後の こ と で した。 自 分 は 本 当に学ぶ 気持ちが有 る のか?機が 熟 すのを待 っ て い た ある日、 一人 の上海 女性と出逢いました。 彼女の竹を割っ たような人柄に魅かれ、 学 び始めまし た。 二00一 年の春節、 先 生が故郷に帰 る際 、 先 生の生徒 達十 数名で 一 緒 に 上 海へ行 き ました 。 私の中国語デビュ ー です 。 私 以外の方は結構中国語が 話 せ るの に対し 、 私は まだ まだ 語学 力が な く、 あまり現地の人と言葉を交 わすこ とが 出来ませんで したが、 楽し い旅で した 。 そ の後日中文化協会の会員とな り、 中国の方と会う機会も増え、 北 京、 西安、九寨 溝 、珠海,深 線 、マカオ、 香 港 、 瀋 陽 、 大 連 、 旅 順 な ど 旅 を す る なかで、 現地の人と話 す勇気を培っ て きま し た 。 語学 力がレ ベ ル ア ップ した とは 言 えません が、私 の 中国に 対 する 想い 、 関心は深まって い くと同時に中国が 大好 きになりました。 今 で は少なくと も一 年に一回、 多 い 年 は三回行ったこ とも有り、 家 族もあきれて いる状態で す。 私の出会った中国の方は、 人な つ こ くて 、 情 が深 くて 、 今 で も 心 に 残って います 。 友 人 ・知人が 私に聞 き ます 。 「 何故そ ん なに中国が好 きなの? 」 私 は答 えま す 。 「 日本人の 奥ゆかしさ も 素敵だけど、 中国人のはっき り ストレ ートな物言い、 義 理堅いと ころ、 前 向 きなと こ ろ、 何 よ りも一生懸命生 き て いると こ ろが好き 。 だ から私は 元気も らっ て帰っ て くるよ。 まる で電池切 れ の携帯電話を充電す る かのように… 」 友人 ・ 知 人 は 「へ えー」 と 不可 解 な 顔 をします 。 結 局のと こ ろ、 私は中国に 恋をしてしまったのです 。 だから ふ られな い 限り私の中国旅は 続くこ と でしょう。 い つ か 住ん でみ たいとい う 夢と共に。 私 は 今 、 夢 の途中…旅 人 な のです 。 まだ 新婚だ っ たこ ろ 、 中 国 伝 統 工芸 品 「 きり絵 」 の額 を土 産に高校時 代 の 友人が訪ねて来た。 中 国へ行ってきた と聞い て 「よく無事で帰っ てこられた ね」と言った気 が する。 「 あまり詳し いこ とは 話 せ な い 」 「 行 っ たこ とは 内 密にして お い て」というあん ば いで、 国交のない国へ行っ て 来た彼の話を ミステ リ アス な気分 で 聞い たもの だ った 。 土 産の 額の裏には 「 昭 和 四十 一 年五月、 中共視察記念」 と 記してある。 そのころの 「 中共」 は 得体の知れぬ 外国 だった。 国民 について の情報は 何もなく、 広 大な国土にいるはずの当時七億と言 われた 人 々は 大きな 岩 のかた ま りの ようで、 自分たちと同じように動き回 りおしゃ べりす る 個々の人たちの姿 が見 えなかっ た。 一九七二年 日 中両 国首 相の笑顔で 扉が 開かれて からは 五 十年 前の友 人 の秘かな旅は嘘のように、 地元の空港 から北京へ上海へ、 さ らに遠い昆明や ウルム チ にま で、 まる で故郷北海 道 へ 行くような気楽 さ で自由に旅立 つ。 し かし当時の国際情勢を踏まえた 両国 首脳の英断による国交再開にも 幾 分かの 不 自然さが のこ った のだ った ろうか。 四 十 年経っ た 今も政治 や経 済 の思惑 で たてま え とはちがう外交上 の問題 が なん だかん だ 出 て くる。 周恩来首相の 「両国民は共に戦争の被 害者」 と いうヒュ ー マ ニズム や 田中首 相の 「小異を捨 て て大同につ こ う」 と いう深慮遠望 を基礎におい ても、 信 頼 し合い、 尊重し合う国交 の 確立ま で に はさらに年月を重ねなければならな いのだろ う。 互い の言葉を 学び、 理 解 し 合 お うと わが日中文化協会 は頑張っ ている。 「 子どもの時 “ 日 本 リーベン 鬼子 ク イ ズ “と習ったよ 」 と 笑 っ て 話 す 中 国 人 た ち と お か げ で たく さん 友だちに なっ た。 故郷に帰っ てもま た 会お うと 言い 合 え る 友 だち だ。 昨日も 我 が 家 のホー ム パー ティ に 集まった留学生たちは、 日 本で 就職し たい 、 日 本 大 好 き と屈 託ない。 尖 閣 諸 島問題 で 故郷 では 反日デモが 騒 がし い中なのに 現地の意外に冷静な一 般の人たちの実情など、 携 帯 や メール での最 新 情 報 を披 露し てく れる。 物言わぬかたまり同士 ではなく、 顔 を 合わ せて 話し 合え る 人 間 同 士で あ る ならば、 両国民が 政治家たちの一存 では動かせない大きな岩となって、 国 を動かすかもしれない。 こ れからのさ らなる友情を信じ、 国 交断絶なん て ば かば かし いこ とには も う二度とした くな いと念じて い る。

中国に恋し

夢の途

---旅人

日中国交正常化四

十周年

加藤

貞子

石川

知子

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妻の父 が 七 十 四歳の こ ろ、 町内の商 工会 研修旅 行 に連れて 行き ました 。 生まれて初めての海外 (国外) 旅行 で した 。 当 時、 北京有 数 のホ テル 「友誼 賓 館 」 客 室 数 千 五 百 室 、 又 美 し い 中 国 古代 庭園 に囲 まれた 巨 大ホ テルの 印 象です 。 そして 「 天 安 門 広 場」 の 広 さ 等、 事の意外さに驚いて い たのを思い 出します 。 ここが支那か、 大 正初期生まれの義父 はつ ぶ や い た 。 勿論、 白 い練絹の襟姿の紈 がん 袴 こそ 無い が、 「人 民服 」 の 人 々 は見受 け ら れ た。 一九八八年は 六四天安門事件の前年 にな り、 中 国 が南 沙諸 島占拠、 そして 上海郊外で 日 本の修学旅 行 高校生多 数の死傷者を出した急 行列車同士の 正面衝突事故、 又 尾形大作の 「 無錫旅 情」も此の年 一九八八年でした 。 北京三 泊 、 上 海一泊の 旅の三日 目、 北京にもう一泊あるはずなのに、 お 昼 近くになっ て 急 遽 きゅ う き ょ 上海に移動す るよ うに 「上 からの御達 し 」 の 一声 で夕方 五時ま で に必 ず北京の飛行 場に 集合 す る ようにと言われました。 夜 中の十 一時 すぎたころ、 それま で 何の案内放 送も無く、 い きなり今天的搭乘 ・ 束。 と係員が 黒板に書 いて立ち 去りまし た。 中国 語の さっ ぱり分 か らない 私 達 に随 行して い た商 工会の 係 員が説明 して くれ ました 。 何時間もの間何の説 明もなく、 お 茶の一杯も出 ず、 又詫 び の言葉もなかった。 あれから二 十 年た った 二00八年 冬 、 私の経営して いる専用機の製作会社 に上海浦東の工業団地から招聘があ り、 夫婦で 雪 の 散 ら つ く名古屋を出発 しました 。 上 海に到着したら、 そこは ま る で 雪 国で した 。 何 と十 七年 ぶ り (広州では五十年ぶりとか) の大雪で した。 数 泊の日程も終 わ り 、 浦東飛行 場からお昼 す ぎの便に搭乗 する こと にな って いました 。 雪 のため五~ 六 時 間待機した 挙 句 あげ く に東京成田 行 きが 最 終便で 出るこ と にな り、 もう 一泊す る か東京経由 か 迷っ た。 その時 「 今日 は 大雪の為名古屋行 き便は欠航します。 ご迷惑をお掛けして い ます」 と 係員の 丁重な謝罪の言葉があり 「 你是中国人 吗 ?」 思 わ ず、 一瞬疑ってしまいまし た。 更に 簡 単 な軽 食券 が渡 されま し た。 二十年前義父との北京の飛行場のこ とが思いだされ ま した 。 時 代は少しず つで は あ るが 中 国 も 変 わ り つ つ あ る の だ なと 心の中 で 独り言を言いまし た。 成田 一泊 代金 は飛行 機 会社のAN Aが 負担し、 翌日東京と名古屋まで の 新幹線代は自分持 ちでした。 異 常気象 とは 云え 、 中 国の 優しさ も 少し 理解で きま し た 。 今年は 「 日中 国交正常化四十 周 年 」 日 中国民交流友好 年 、 新 たな出会いと心 の絆 の 年 へ、又行 っ て み た い 中 国へ。 中国に 関 する思いの源 は何 でしょ うか。 中 国への旅行時 「中国語を勉強 し て い る 」 と 話 す と 「 何 故 」 と 質 問 が きま す。 これ は私 が中国 で 日本 語 を 勉 強して い る 人 にす る質 問と同じで す 。 少年時 代 「西遊記」 「 三国 志」 「水滸伝」 、 七十 歳近く に 読 ん だ 「 紅 楼 夢」 に興味 を感 じてと答える私と同 じ ように中 国の若者も 日 本の 「 アニ メ」 に興味 を 得て の答え も 多く 得ます 。 私は 簡単 な 会 話ができ れば 満足で すが、 彼等の 学習の理由に は い ろ い ろ な理由 が 有りそれが私に は 大変 嬉し く頼もしく、 将来への期待 を大 きくし ます 。 私 の 貧 弱な 会 話 能力で も 退 職 後 三十 回を超え る中国旅 行等を 楽 しく する 機 会 を 与 え て く れ ており ま す。 中国語学 習の始まりは 「 日中国交 回 復 」 前の一九五五年から 大 学での二年 間でした 。 当 時の教科書は 終戦前、 上 海の 「東亜同文書院」 で使われて い た ものを 「 ガリ 版?」 で 印刷したような 粗末 なもの で した。 文 字 は 今の中国 で の 「 簡体字」 とは少し異なる 「 繁体字」 で、 発 音 記号 も今のロ ーマ 字と は大い に違いま す。 当時 「 何故 中国語学習 ? 」は 今は 亡 き叔父 が 前記 「 書 院 」 の卒業 生 でし た。 卒業後間 も な く 「 召集 」 を受け留 学の 地の上海や 各 地を兵隊として の 悲し い思い や 体験談を聞 き 、 私 に影響を与 えま し た 。 一九九九年の退職時、 以前から交流 の有 る中国からの留学 生の故郷へ旅 行時にかねてから念願の中国語学習 再開を決めました。 当 「日中文化協会」 教室で の 勉強も楽し い ものでした 。 五年前 「 中部 国際 空港 」 で偶 然知 り あった二十三歳の留学生との交際が

心に浮か

義父との

中国の旅

川崎

里美

私の思

森岡

昌法

天安門広場にて向かって左が義父

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続き、大学 を 卒業し故 郷で 就職の 為、 六月帰国時同行し、往 きは 「 神戸 」 ~ 「天津」 ~ 「 長 春 」 を 彼と快適な船旅 と鉄 道の旅でした。 荷 物の多い我 々 を 見知らぬ人の多くの親切に触れまし た。 又 彼 の両親 、 一 族 、 友 人 等 の望 外 の厚遇を得 て, 感謝、 感 激の旅でした。 これも貧弱 な 会話力?と笑 顔 で の成 果と大いに感謝し ていま す 。 日本と中国は 「一衣帯水」 と言われ、 近い が故にい ろい ろな問題 が発生し ま すが、 「協会」 に縁の有る全 ての方々 は 「 友 好 と 善 意 」 の 輪 の 中 に 有 る と 思 います 。 「協会」 のお陰で知己 を得 た方々に 感謝し、 その輪を拡げたいと思う一員 です 。 最後になりますが、 「協会」 及び 「 ニ ュー ズレタ ー 」 の運 営 、 発 行 の 皆 さ ん には 「 ご 苦 労 様で す 」 「 有 難 う ござ い ま す 」 「 今後とも宜しく お 願いいた し ます 」

毎月の例会は日中文化協会の柱です

ミャンマーの踊り お月見の夕べ 中国語で話そう会 小川珊鶴先生お話し 七夕の歌を歌おう 小山鈴代先生のお話し 龍門石窟にて

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100号記念号 は 二00八 年 八 月 に発行 さ れました。 単 純に計算して四 年二ヶ 月 後の今 年 の 十 月に 150号 を発行 す る こ とと なりま し た。 日中文化協会の大きな 柱 の 一つ が 月例 会。 もう一つ の柱 がニュ ー ズレタ ーの発行 です。 出 来不 出 来 はあっ た か もしれませんが、 149号ま で 休 む こ となく続けて まいりました。 こ れは偏 に会員の皆さ まのご協力の賜です 。 皆 さまからこ の 15 0号記念号にも随 想を寄稿して いただき 、 何 とか形 に す るこ とが 出来 まし た 。 あ り が と う ご ざ いました。 記念号には な ぜか ド ラ マがあ り ま す。 10 0 号 のと き は 前理 事 長 が亡く なっ た直後 で 、 追 悼特 集となりました。 今回は 国 交正常化四十年という記念 すべき年と重 なりました。 もっと華 やかに、 もっと大々的に紙 面 を 飾り たかったと は 思いま すが、 近 年最悪の日中 関係 の中 で、 何 を 語っ て 良いのかさえ 分からなくなります 。 報道の力 は恐 ろしいとも感じ ま す 。 私たち の ニ ュ ー ズ レターは 小さな 規 模ではありま すが、 中国と日本が仲良 くしたくなるような、 会員主役の会報 を目 指 し たい と思いま す。 最後に特集 号 を発行す るに当た り、 ご協力い ただい た 全 て の皆 さまに 心 より御礼申し上げま す 。 150号を特別号にしようと決め たの は今 年の初めでした。 発行予定の 秋九月はち ょ うど日中国交再開の記 念日と重なるから 「150号特 集」 に 加え て 「 国 交 正 常 化 四 十 周 年 記 念 号 」 にしようと計画したのでした。 その方 針で 六月こ ろ から 月 例 会や ニ ュ ー ズ レター 上 で会員の皆様に投稿をお願 いし ました 。 とこ ろ が そ の 後、 尖閣諸 島 問 題 が 起 きて、 ど んどん情勢 は 悪くなり両国政 府が 合同で 祝 うはずだ った 記念式典 すら中止という事態になりました。 こ んな 時期に原稿 を と い って も… と戸 惑いがあったかもしれません。 投稿 下さった方々、 ま た い ろ い ろ と アドバイ ス、 ご 協 力くだ さ った 方々 に 心からお礼申し上げま す。 外交に は 明るい展開がま だ 見 え ま せん が、 このような時 こそ 民間交流 の底力を発揮しなければと思います。 それ にして も 四十年前 「 小 異を捨てて 大同に就 こう」 と 友好条約を結ん だ 先 人の英 知 を受け 継 ぐ政治で あって ほ しいもの です。 月例 会やサ ロ ンにご都合 で なかな か出席いただけない会員の方々にと っては、 ニュ ーズレターは唯一の大切 なコ ミ ュ ニケー シ ョン 手段なのかも し れ ません。 少 し でも魅力 ある もの、 読みごたえのあるものにした いと念 願して お ります 。 どうぞ忌憚なきご意 見ご感想をお寄せ下 さ い。 よろしくお 願いい た しま す。 さらに さ ま ざ まな視点の方に参加 いただき た く 新 聞 部部員 大 募集 中で す。 有 志 の皆 さま ぜ ひ 〝 部 活 〟 に ご 参 加くださ い! 編集委員 石川知子

ご連絡は以下へ

TEL 052-262-1410

FAX 052-262-5036

e-mail ayako77@chuto.co.jp

編集後記

上山

綾子

編集会議

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青山 花枝 黄菊花 服部 牧子 下城美江 胡昕 小椋盛和 樋田義正 赤崎まき子 黄嫻 馬場明」 小寺陽子 ウムット 小関敏光 内藤奉子 秋山 和彦 小久保正行 林 香里 犬飼桂子 趙旭鋒 甲斐敏行 長岡 進 天野安子 小久保近子 原田 涬 高木道久 陳林俊 海沼 浩 中島あつ子 新井 正三 越川 智子 原田三樹男 高木貴子 陳学泓 利見 秀雄 中島正史 荒川 大 後藤静枝 村田康幸 岡田紘幸 セツギョウエン 片岡 正明 長田 昭倫 石川 敬之 後藤善朗 藤代幸子 稲本峯月 李続旻 加藤重和 長田 良子 石川 知子 小島 知貞 藤吉 行雄 銭衛東 馮俊 加藤貞子 中野和美 石田盛也 小林 満 古橋 勝代 後藤泰子 黄 嫻 加藤 信恵 中山 勝正 石原 和夫 駒井 佳子 細井 土夫 堀宣充 高木勝史 加藤美智子 中山道子 泉 依子 駒井 俊之 堀口嘉子 小嶋 香統 松井 潤 兼重トミ子 那須真理子 磯貝 元彦 小山鈴代 前野 武啓 アミナ 創価学会中部広報局 上山 泰 難波光太郎 伊藤 貞彦 小山圭子 馬興無 サビナル 駒井 俊之 川瀬智津子 聶 二中 伊藤 文男 小山政信 松村 泳一 シャリパ 駒井 佳子 木村利行 西浦 典子 稲垣 幸男 近藤 五十鈴 松本 忠雄 ハセヤット ネオレックス 金 大一 西川正昭 今枝 浩 斉藤 泰寿 真野博英 王暁波 末岡 煕章 工藤 市兵衛 西田 良三 上野 博夫 酒井 孔祺 水野 晴允 付小東 名古屋経済大 熊谷 光 二宮かおり 臼井 章二 佐野 宏二 水野 和子 張鴻鵬 小倉 敏充 熊崎 憲次 野崎 嗣政 内田稔 澁谷 春壽 宮島静江 関婧 (有)小倉建築事務所 小出 忠孝 長谷川得一郎 梅本渉 下里博子 武藤 光男 周宋洋子 磯貝 元彦 児崎冨美子 秦 和代 江口博子 杉浦 友昭 武藤 昭子 劉紅傑 ケーブルシステム 小島知貞 畠中隆幸 王偉芸 杉原 直 武藤 省司 許楊軒 山田 勝久 後藤 善朗 羽塚文子 大竹 正男 杉本 克治 村上良雄 呂源龍 アルガ(株) 小林利子 八田 耕吉 大竹 美智子 杉山 あさ子 村瀬 俊和 戴ぶん宇 鍵田 松男 小林 満 服部 牧子 大野 栄子 杉山 博 村田康幸 楊婷 かぎた医院 駒場導夫 原田 八三 小川珊鶴 椙山 孝金 守田 只司 史文珍 内藤明人 古明地総子 原田 幸 小椋 盛和 鈴木 康昭 森岡千香子 左紅 リンナイ(株) 近藤五十鈴 春山 富子 小野 天下 鈴木 敏明 森岡 昌法 汪洋 張 真銘 斉藤泰寿 樋田 宏 甲斐 敏行 巣山 昌代 森本臣紀 馬進 莫震乾 榊原 郁夫 藤本小夜子 海沼浩 高木 妙子 八重尾 誠 耿爽 者佳蓉 相崎賢一郎 藤吉 行雄 春日井 英子 髙田 眞菊 安井 正巳 範小梅 ㈱上大鼎正 相崎真知子 舟橋敏彦 加藤 信惠 高田 拓 山口 昭臣 邢晨晨 鈴木日出男 崎辺イチ子 古橋 勝代 加藤 貞子 竹内ひとみ 山下 恵子 蒋媛 エフシーテック㈱ 澤田久美子 北條 一男 鎌倉安男 武内裕子 山下 直樹 李爽 青山 花枝 杉浦 友昭 前田恵美子 上山 みさ子 竹本 博志 山下 靖弘 王瑛琪 赤崎まき子 杉原 直 松尾 和秀 上山 綾子 田澤 満 山田 勝久 李詩会 秋田リウ子 杉本 克治 松尾 政良 上山耕治 谷川 雅夫 山田 信夫 周華玲 秋山 和彦 杉本静司 松本忠雄 上山伸治 千葉富生 山幡 富士子 陳悦 浅野如糧 椙山 孝金 前野武啓 上山有里子 張濱 山本 祥二 李琳 浅見巳年幸 杉山 智香 水野晴允 川崎 弘子 辻井兼 山本久美予 劉冠初 新井 正三 鈴木 康昭 宮城達夫 川崎 里美 寺西 恒男 山本 哲夫 閻 星宇 安藤 京子 鈴村秀子 武藤 光男 川瀬 智津子 唐啓山 吉村 正敏 張偉 石原 和夫 曽我部正良 村瀬俊和 川村 典子 唐 麗 劉悦東 趙文開 伊藤貞彦 高田 拓 森岡昌法 川村 範行 中島 あつ子 李麗娜 丁玄 伊藤文男 高橋 宏幸 森川佐智子 北島 和代 中島 正俊 渡邊 聡子 ・和軍 伊藤洋子 竹内久美子 森 直樹 木野村ヒロミ 中村 厚子 福井喜勝 武 稲垣 幸男 田澤 満 薮野 豊 木村利行 中山 道子 村上加代子 韓輝 井上 進 田代久美 山口 久恵 木村よしみ 那須真理子 寺島量子 張曦 井原 久和 田中滋章 山幡富士子 金大一 難波 光太郎 浜島登喜江 宋 蔚 海野孝憲 谷川雅夫 山本 哲夫 久野 浩平 成田 重忠 岡崎夏美 孔維佳 王 毅 張  濱 油井 安博 熊谷 光 西浦 典子 大島純子 白黎明 大河内正雄 張照翔 横井敏夫 熊谷 恒子 西岡 嘉子 張日妮 張啓越 大竹正男 塚脇 勉 吉田永欽 剱持 一郎 西川 正昭 松原正明 文捷 大野 栄子 津田和雄 吉田 拓史 小出隆久 任 健 久米 令子 冀微微 大原健二 出口照彦 渡邊 聡子 小出 公代 野村武弘 久米 博明 沈倩茹 奥山明美 寺西恒雄 犬養美枝子

皆さまに支えられて、創刊150号を迎えることが出来ました。

今までご購読いただき誠にありがとうございました。

一般社団法人

 

日中文化協会

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