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総論 魏晋南北朝史のいま 窪添慶文 ぎ しん 魏晋南北朝時代は谷間の時代というイメージがある 中国最初の統一帝国秦漢と第二の統一帝国隋唐の間に挟 まれた分裂の時代であることは確かであるとしてもそれが強調されすぎて 大一統 つまり 一統をたっと ぶ 立場でなくてもいわば まま子 的なイメージを付与され

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Academic year: 2021

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全文

(1)

総論

魏晋南北朝史のいま 窪添慶文 4

政治・人物

曹丕

三分された日輪の時代 田中靖彦 7

晋恵帝賈皇后の実像

小池直子 18

赫連勃勃

﹁五胡十六国﹂ 史への省察を起点として 徐   冲 ︵板橋暁子・訳︶ 27

陳の武帝とその時代

岡部毅史 38

李沖

松下憲一 49

北周武帝の華北統一

会田大輔 59

それぞれの

﹁正義﹂

堀内淳一 70

思想・文化

魏晋期の儒教

古勝隆一 81

南北朝の雅楽整備における

﹃周礼﹄

の新解釈について

戸川貴行 91

南朝仏教と社会

王法と仏法の関係 倉本尚徳 100

北朝期における

﹁邑義﹂

の諸相

国境地域における仏教と人々 北村一仁 110

山中道館の興起

魏   斌 ︵田熊敬之・訳︶ 121

史部の成立

永田拓治 132

書法史における刻法・刻派という新たな視座

北魏墓誌を中心に 澤田雅弘 143

国都・都城

城に見る都城制の転換

佐川英治 153

建康とその都市空間

小尾孝夫 163

魏晋南北朝の長安

内田昌功 174

同時代人のみた北魏平城

岡田和一郎 184

北魏洛陽城

住民はいかに統治され、居住したか 角山典幸 194

統万城

市来弘志 205

﹁蜀都﹂

とその社会

成都 二二一︱三四七年 新津健一郎 215

辺境都市から王都へ

後漢から五涼時代にかける姑臧城の変遷 陳   力 226

竹簡の製作と使用

長沙走馬楼三国呉簡の整理作業で得た知見から 金   平 ︵石原遼平・訳︶ 237

走馬楼呉簡からみる三国呉の郷村把握システム

安部聡一郎 247

呉簡吏民簿と家族・女性

鷲尾祐子 257

魏晋時代の壁画

三良章 268

北朝の墓誌文化

梶山智史 278

北魏後期の門閥制

窪添慶文 289 asia_魏晋南北朝史のいま_目次.indd すべてのページ 17/08/08 6:38

SAMPLE

(2)

5 魏晋南北朝史のいま 総論 4 魏 ぎ 晋 しん 南北朝時代 は 谷間 の 時代 というイメージがある 。中国最初 の 統一帝国秦漢 と 第二 の 統一帝国隋唐 の 間 に 挟 ま れ た 分 裂 の 時 代 で あ る こ と は 確 か で あ る と し て も 、 そ れ が 強 調 さ れ す ぎ て 、﹁ 大 一 統 ﹂ つ ま り﹁ 一 統 を た っ と ぶ﹂ 立場 でなくても 、 いわば﹁まま 子 ﹂ 的 なイメージを 付与 される 。 でも 魏晋南北朝時代 はほんとうに﹁ 影 の 薄 い﹂ 時代 だったのだろうか 。 そうではないだろう 。 それはその 魅力 が 十分 に 伝 えられていなかったことによるのではないか 。 さらに 近年 は 魏晋南北朝時代 を 対象 とする 若 い 研究者 が 多 くなり 、研究対象 も 多岐 にわたり 、新 しい 資料 も 次々 に 出現 している 。魏晋南北朝時代史研究 の 現在 のあり 方 を 伝 えるよい 機会 ではないか 。勉誠出版 から 打診 があった 時、即座 にお 受 けしようと 考 えたのは 、以上 のよう な 理由 による 。 ひ と つ の 時 代 を 取 り 上 げ る 場 合、 政 治 史 で ま ず 大 き な 流 れ を つ か む こ と が 常 道 で あ る が 、 複 数 の 国 が 並 立 し 、 かつそれらの 国 が 次々 と 交替 した 当該時代 において 、単 にそれぞれの 国 を 扱 っては 概説 に 流 れてしまう 。故 に 人 物 を 取 り 上 げ 、 その 経歴 や 活動、思想 を 追 いつつ 、 それぞれの 時期 の 政権 のもつ 意義 を 明 らかにした 方 がよいの ではないか 。 そこで 選 んだのが 、三国時代 の 最初 の 君主 である 魏 の 文帝曹 そう 丕 ひ 、西 せい 晋 しん の 滅亡 につながる 大内乱 の 引 き 金 と な っ た と 言 え る 恵 帝 賈 か 皇 后、 五 胡 十 六 国 か ら は 北 魏 に 敗 れ た 夏 皇 帝 の 赫 かく 連 れん 勃 ぼつ 勃 ぼつ ︵口 頭 で の 発 表 を 拝 聴 し 、 是 非 にとお 願 いした 経緯 がある ︶ 、南朝 ではそれ 以前 の 諸王朝 とは 異 なるあり 方 を 示 した 陳 ちん の 武帝、北 ほく 魏 ぎ ではよく 知 ら

[総論]

魏晋南北朝史

のいま

窪添慶文

れた 孝文帝 の 改革 を 支 えた 漢人官僚李 り 沖 ちゅう 、 そして 隋 の 統一国家 を 導 くことになる 北周 の 武帝 というラインアップ である 。 そして 複数政権 が 並立 する 時代 においては 、自 らの 正統性 を 各国 は 主張 せざるを 得 ないわけであるから 、 その 状況 を 述 べる 論 をおいて 結 びとする 。 これを 第一部 とする 。 思想面 における 魏晋南北朝時代 は 重要 である 。 まず 漢代 に 国教化 し 一尊 の 状況 にあった 儒教 に 起 こった 新 しい 動 きは 基本 として 押 さえねばならない 。後漢代 に 中国 に 伝 えられた 仏教 が 中国社会 に 定着 するに 至 ったのもこの 時代 であるが 、南朝 サイドからが 大 きな 問題 とされた 王法 と 仏法 の 関係、北朝 では 仏教信徒 の 集団 である 邑 ゆう 義 ぎ の もつ 諸側面 を 扱 いたいと 考 えた 。 やはりこの 時代 に 宗教 としての 姿 を 整 える 道教 については 、山中 に 建設 された 道 館 を 通 じ て 道 士 と 社 会 と の 関 係 を 論 じ て い た だ け る よ う ︵ こ れ も 口 頭 の 発 表 を 拝 聴 し て ︶ お 願 い す る こ と と し た 。 儀礼 は 近年強 い 関心 が 注 がれる 分野 であるが 、礼楽 に 視点 を 絞 って 政治・政治思想 との 関 わりを 扱 いたいと 考 え 、 学術面 では 漢籍分類 でおなじみの﹁ 史部 ﹂の 成立 の 問題 を 論 じていただく 。書文化 において 当該時代 のもつ 意義 は 周知 の 如 くであるが 、北朝 で 盛行 した 墓誌 の 刻法 の 問題 はほとんど 知 られていない 。筆者 は 墓誌 を 利用 するが 、 書法、刻法 についての 知識 を 有 しないので 、特 に 執筆 をお 願 いした 。以上 を 第二部 とする 。 近年魏晋南北朝時代 の 都城 についての 関心 が 高 い 。 それは 都城址 の 学術調査 が 進行 していること 、衛星写真 な どが 利用 できるようになり 周辺環境 の 把握 が 進 んだことによるが 、日本 の 都城 の 源 を 探 る 場合 に 、先行 する 時期 の 中国 の 都城 の 理解 が 必要 であるという 事情 も 後押 ししている 。 よって 都城 のみで 第三部 を 構成 することとした 。 叙上 の 観点 からして 、 ぎょう 、洛陽、建康、長安 は 欠 かせないし 、北魏前期 の 都 であった 平城 もそれに 準 じる 。 さら に 多数 の 国 が 存在 した 故 に 、 ほかにも 多数 の 国都 となった 都城 がある 。 その 中 で 、三国蜀 しょく の 成都、赫連夏 の 統万 城、北 ほく 涼 りょう の 姑 こ 臧 ぞう を 取 り 上 げる 。多彩 な 都城像 が 得 られるはずである 。 近年中国 では 出土資料 の 紹介 が 相次 ぐ 。戦国秦漢時代史 は 出土簡 かん 牘 とく なくしては 語 れないと 言 えば 言 い 過 ぎかも 知 れないが 、出土資料 がもつ 意味 は 非常 に 大 きい 。魏晋南北朝時代 は 簡牘資料 はごく かしか 知 られず 、唐代 の 敦煌・ トルファン 文書 のような 紙 による 第一次史料 も 極 めて 限 られる 。 そのような 状況下、二十年 ほど 前 に 長 ちょう 沙 さ

SAMPLE

(3)

6 総論 走 そう 馬 ま 楼 ろう 三 国 呉 ご 簡 かん が 発 見 さ れ 、 そ の 後 も 小 規 模 な が ら 簡 牘 出 土 が 報 告 さ れ て 、 そ れ を 用 い る 研 究 が 相 次 い で い る 。 多方面 にわたる 論題 が 可能 であるが 、呉簡 を 用 いた 呉政権 の 郷村把握 のシステムを 解明 した 一文 と 一連 の 文書 を 復元 する 方法 を 示 しつつ 家族・女性 の 問題 を 扱 った 一文 を 載 せる 。 いずれも 文献資料 のみでは 扱 えない 問題 であ る 。 また 出土簡牘 の 整理・保存 にあたった 立場 から 竹簡 の 製作 にかかわる 問題 を 扱 う 一文 をも 頂戴 することにし た 。 これも 長沙 で 行 われたシンポジウムにおける 報告 を 拝聴 した 結果 である 。他方、相次 ぐ 新出報告 や 図録本 の 刊行 によって 、利用 できる 墓誌 の 数 が 多 くなり 、 それらを 用 いた 研究 も 増 えている 。故 に 墓誌全体 に 関 わる 問題 を 論 じた 一文 と 、墓誌 を 利用 することによってできる 研究 の 一面 を 示 す 一文 を 載 せる 。 また 墓室 に 描 かれた 壁画 の 報告 も 多 くなっているので 、 それについて 論 じた 一文 をいただく 。以上 を 第四部 とする 。 経済史関係 がないことに 違和感 を 覚 える 読者 がおられるであろう 。筆者 の 若 い 頃 には 社会経済史 でなければ 歴 史 ではない 、 という 雰囲気 があった 。 しかし 研究状況 は 大 きく 変 わっている 。 まことに 残念 であるが 、近年 の 研 究状況 を 勘案 して 取 り 上 げないこととした 。 また 、東晋南朝 に 関 わる 論題 が 少 ない 。 これは 建康 しか 対象 がない 都城 を 大項目 に 立 てたことによるところが 大 きいが 、編集 を 担当 した 筆者 の 関心 の 偏 りによる 側面 もあることは 否 めない 。絵画 や 造像 など 文化面 で 取 り 上 げるべき 項目 も 残 されている 。 バランスを 欠 いているとのお りを 受 けるかもしれない 。 この 点 はお 詫 びしたい 。 以上、企画立案 の 狙 いを 述 べた 。幸 いに 依頼申 し 上 げた 皆様 には 執筆 を 快諾 していただけた 。気鋭 の 方々 によ り 魏晋南北朝時代 の 魅力 が 十分 に 伝 えられると 信 じる 次第 である 。

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(4)

曹丕 7 魏 ぎ 王 朝 の 初 代 皇 帝・ 曹 そう 丕 ひ 。 漢 魏 革 命 を 達 成 し、 九 品 官 人 法 を 制 定 す る な ど、 彼 が 果 た し た 歴 史 的 役 割 は 小 さ く な い。 短 い な が ら 激 動 の 人 生 を 駆 け 抜 け た 曹 丕 の 生 涯 を、 歴 史 的 な 言 説 と 現 代 の 研 究 の 両 面 か ら 追 い、 多 方 面 に わ た る 彼 の 事績について、政治史的側面を中心に振り返る。

はじめに

魏 の 文帝 は 王 となった 時、太陽 が 地 に 落 ちて 三 つに 分 か れ 、 その 一 つを 得 て 懐中 に 入 れるという 夢 を 見 た 。 ﹃ 太 平 御 覧 ﹄ 天 部 四・ 日 下 の 条 に 引 く﹃ 談 だん 藪 そう ﹄ に 見 え る 逸 話 である 。 ここに 登場 する﹁ 魏 の 文帝 ﹂こそ 、本稿 の 主人公、 曹丕 ︵一八七︱二二六︶ である 。同話 が 曹丕 を 天下三分 を 象徴 す る 人 物 と 位 置 づ け て い る こ と が 読 み 取 れ よ う 。 現 在 で も 、 三国時代 の 開始 は 西暦二二〇年 とされることが 多 いが 、 これ は 曹丕 による 魏王朝 の 創始 を 指標 としてのこと 。 これに 従 え ば 、 それ 以前 に 死 んだ 関羽 も 曹 そう 操 そう も 三国時代 の 人物 ではない のであり 、曹丕 こそが 三国時代 の 開始 を 象徴 する 人物 という ことになる 。本稿 では 、 この 曹丕 の 生涯・事績 と 、 それをめ ぐる 研究 について 触 れてみたい 。

立太子

まで

曹 丕 に 関 す る 基 本 情 報 は 、 西 晋 の 陳 ちん 寿 じゅ ︵二 三 三? ︱ 二 九 七?︶ が 著 し た 史 書 ﹃ 三 国 志 ﹄ 魏 書 二・ 文 帝 紀 ︵以 下、 文 帝 紀。 また 、以後 ﹃ 三国志 ﹄からの 引用 は 、書名 を 省略 する ︶ に 見 える ︵ 1 ︶ 。

[Ⅰ

 

政治・人物]

曹丕

三分

された

日輪

時代

田中靖彦

た な か ・ や す ひ こ

恵 泉 女 学 園 大 学 特 任 准 教 授 。 専 門 は 中 国 史 学 史 、 中 国 地 域 文 化 研 究 。 主 な 著 書 ・ 論 文 に ﹃ 中 国 知 識 人 の 三 国 志 像 ﹄︵ 研 文 出 版 、 二 〇 一 五 年 ︶、 ﹁ 三 国 論 の 過 渡 期 と 蘇 軾 ﹂︵ ﹃ 津 田 塾 大 学 紀 要 ﹄ 四 七 、 二 〇 一 五 年 ︶、 ﹁﹃ 後 漢 書 ﹄ 荀 彧 伝 に つ い て

﹃ 三 国 志 ﹄ と の 比 較 を 中 心 に ﹂︵ ﹃ 恵 泉 女 学 園 大 学 紀 要 ﹄ 二 四 、 二 〇 一 二 年 ︶、 ﹁ 澶 淵 の 盟 と 曹 操 祭 祀

真 宗 朝 に お け る ﹁ 正 統 ﹂ の 萌 芽 ﹂︵ ﹃ 東 方 学 ﹄ 一 一 九 、 二 〇 一 〇 年 ︶ な ど が あ る 。 二 〇 一 〇 年 、 第 二 九 回 東 方 学 会 賞 。

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(5)

曹丕 9 Ⅰ 政治・人物 8 ﹁ 汝 じょ 潁 えい 集 団 ﹂ と 、 曹 操 の 地 縁 者 を 中 心 と し た 新 官 僚 地 主 集 団 ﹁ しょう 沛 はい 集 団 ﹂ に よ る 抗 争 の 表 面 化 と し て 後 継 者 抗 争 を 捉 え る 。万縄楠 は 、沛集団 が 曹植 を 支持 したのに 対 し 、汝潁集 団 は 儒学・長子相続 を 標榜 して 曹丕 を 支持 し 、後者 が 勝利 し た と 分 析 す る 。 ま た 渡 邉 義 浩 ﹁ 曹 操 の﹁ 文 学 ﹂ 宣 揚 ﹂ ︵﹃ ﹁ 古 典 中 国 ﹂ に お け る 文 学 と 儒 教 ﹄ 古 書 院、 二 〇 一 五 年。 初 出 一 九 九 五 年 ︶ に よ る と 、 曹 操 は 儒 教 的 価 値 に 立 脚 す る﹁ 名 士 ﹂ を 抑 えるべく 、新 たな 価値基準 として﹁ 文学 ﹂を 宣揚 し 、優 れた 文学的才能 を 持 つ 曹植 を 後継 とするか 迷 ったが 、最終的 には ﹁ 名士 ﹂の 支持 を 得 た 曹丕 を 太子 とした 、 という 。 一方 で 、曹丕 と 曹植 の 不仲 を 否定 する 研究 もある 。津田資 久 ﹁﹃ 魏 志 ﹄ の 帝 室 衰 亡 叙 述 に 見 え る 陳 寿 の 政 治 意 識 ﹂ ︵﹃ 東 洋 学 報 ﹄ 八 四 │ 四、 二 〇 〇 三 年 ︶ に よ る と 、 陳 寿 は 曹 丕 に よ る 曹植 ら 親族抑圧 を 誇張 して 書 いており 、 その 目的 は 後嗣争 い が 原因 で 曹魏 が 衰 えたことを 強調 することを 通 して 、彼 が 仕 える 西晋 による 至親輔翼体制 を 強 く 主張 することにあったの だという 。金文京 ﹃ 中国 の 歴史 04   三国志 の 世界   後漢三国 時 代 ﹄ ︵講 談 社、 二 〇 〇 五 年 ︶ は 、 曹 植 が 後 継 候 補 か ら 外 れ る ためにわざと 乱行 を 重 ねた 可能性 もあるとしている 。 いずれにせよ 、曹丕 は 兄弟 に 対 し 冷酷 に 臨 んだ 男 として 後 世 からも 見 られていた 。 こういったイメージが 増幅 されたの で あ ろ う か 、 南 朝 宋 で 編 ま れ た﹃ 世 説 新 語 ﹄ は 、 曹 丕 が 同 母 弟 の 曹 そう 彰 しょう を 毒 殺 し 、 次 い で 曹 植 ま で 殺 そ う と し て 、 母 に 叱 責 さ れ る 逸 話 や 、 曹 植 が 曹 丕 に よ る 迫 害 を 嘆 く 詩 を 詠 じ た﹁ 七歩詩 ﹂のエピソードを 伝 えている 。 かかる 曹丕像 には 、 同 書 編 纂 時 の 皇 帝 で あ る 南 朝 宋 の 文 帝 ︵劉 義 隆。 在 位、 四 二 四 ︱ 四 五 三 ︶ に よ る 皇 弟 迫 害 が 投 影 さ れ て い る 側 面 が 見 出 せ る ︵拙著 ﹃ 中国知識人 の 三国志像 ﹄ 研文出版、二〇一五年 も 参照︶ 。 建 安 十 六 ︵二 一 一 ︶ 年、 曹 丕 は 五 官 中 郎 将 と な る 。 石 井 仁 前掲書 によると 、曹丕 の 拝命 した 五官中郎将 は 副丞相 の 職 と され 、三公 や 将軍 と 同様、府 を 開 いて 官属 をおくことができ たが 、本来 の 五官中郎将 とは 全 く 別 で 、 なぜこの 官名 が 使 わ れ た の か は 不 明 と い う 。 同 時 に 石 井 は 、 こ の 曹 丕 の 事 例 が 、 革命直前 に 覇王 の 後継者 が 独自 に 幕府 をひらき 副官 になる 方 式 の 始 ま り と な っ た と も 指 摘 す る 。 さ ら に 建 安 二 十 二 ︵二 一 七︶ 年、曹丕 は 魏国 の 王太子 となり 、正式 に 後継 の 座 を 得 た 。

漢魏革命

建 安 二 十 五 ︵二 二 〇 ︶ 年、 曹 操 は 洛 陽 で 死 に 、 曹 丕 は 丞 相・ 魏 王 と な る 。 建 安 二 十 五 年 は 延 康 元 年 と 改 め ら れ る が 、 同 年 十 月、 曹 丕 は 許 に お い て 後 漢 の 献 帝 か ら 禅 ぜん 譲 じょう を 受 け 皇 帝 に 即位、黄初 と 改元 する 。魏王朝 の 創始 である 。 曹 丕、 字 は 子 し 桓 かん 。 後 漢・ 霊 帝 の 治 世、 中 平 四 年 ︵一 八 七 ︶ 冬、 曹 操 の 子 と し て 、 沛 はい 国 こく しょう ︵現 在 の 安 省 亳 州 ︶ に 生 ま れ た 。 曹 丕 は 、 若 き 日 の 自 分 に つ い て 、﹃ 典 論 ﹄ 自 叙 に お い て 以 下 の よ う に 述 べ る ︵紹 介 す る 史 料 は 、 意 訳 と 省 略 を 行 っ た 。 以 下 同 様 ︶ 。 董 卓 の 暴 政 に 始 ま る 混 乱 期、 曹 丕 は 五 歳 か ら 射 撃 を 習 い 、八歳 で 騎射 を 会得 し 、曹操 の 出征 に 常 に 従軍 したと い う 。 曹 操 が 一 度 は 降 伏 し た 張 ちょう 繍 しゅう の 反 撃 に 遭 い 、 兄 の 曹 そう 昂 こう らが 戦死 したとき 、曹丕 はわずか 十歳 であったが 、馬 に 乗 っ て 脱 出 で き た の だ そ う だ 。 以 下、 自 分 が い か に 馬 術・ 弓 術・ 剣術 に 巧 みで 、広 く 読書 に 励 んだかという 自慢 が 続 く 。 まる で﹁ 兄曹昂 が 死 んだのは 馬 に 乗 れなかったからだ﹂と 言 わん ばかりであるが 、曹丕 には﹁ 兄 ではなく 自分 こそが 父 の 後継 にふさわしい﹂と 主張 する 必要 があった 。曹丕 は 生 まれなが らの 後継者 ではなかったからである 。 ここでは 、彼 の 異母兄 の 曹昂 と 、同母弟 の 曹植 について 見 てみよう 。 丁氏と曹昂 曹 丕 の 母 は 卞 べん 夫 人 で あ る が 、 当 初 曹 操 の 正 室 は 丁 てい 夫 人 で あ っ た 。 石 井 仁 ﹃ 魏 の 武 帝   曹 操 ﹄ ︵新 人 物 文 庫、 二 〇 一 〇 年。 初 出 二 〇 〇 〇 年 ︶ が 詳 述 す る よ う に 、 沛 国 の 曹 氏 と 丁 氏 は 非 常 に 密接 な 関係 にあり 、曹操政権 にも 多 くの 丁氏 が 参加 して い る 。 曹 操 と 丁 夫 人 の 間 に は 子 が な か っ た が 、 曹 昂 は 実 母 劉 りゅう 夫 人 の 死 後、 丁 夫 人 に よ っ て 養 育 さ れ た 。 何 事 も な け れ ば 、曹操 の 後継者 は 丁氏 という 後 ろ 盾 を 得 た 曹昂 だったはず で あ る 。 と こ ろ が 建 安 二 ︵一 九 七 ︶ 年 に 曹 昂 は 戦 死 し 、 丁 夫 人 は 曹操 が 曹昂 を 死 なせたことを 怒 って 、実家 に 戻 ってしま う 。 こうして 曹操 の 後継 の 座 は 、空位 となった 。 丁氏 に 対 する 曹丕 の 態度 は 、冷淡 そのものである 。曹操 は 娘 を 丁 てい 儀 ぎ に 嫁 がせようとしたが 、曹丕 の 反対 によって 取 りや め と な っ た 。 こ の 丁 儀 と 弟 の 丁 てい よく は 、 曹 植 の た め に 尽 力 し 、 曹操 の 死後、曹丕 によって 処刑 される 。石井 は﹁ ︵曹丕 が ︶ 曹 氏 のあとつぎとしての 正当性 を 主張 するとき 、丁氏一族 は 否 定 すべき 存在 だった﹂と 指摘 し 、丁氏 の 列伝 が﹃ 三国志 ﹄に 存在 しない 理由 として 、曹丕 によって 丁氏 に 関 する 史料 が 抹 殺 された 可能性 を 指摘 する 。曹丕 が 曹昂 に 対 し 厳 しめな 評価 を 下 すのも 、同様 の 理由 があろう 。 曹植との後嗣抗争 後継 を 巡 る 曹丕 の 最大 のライバルとして 知 られるのは 、曹 植 であろう 。彼 らの 後継者争 いは 、 すでに﹃ 三国志 ﹄の 段階 で 言 及 が あ り 、 多 く の 研 究 者 も お お む ね こ れ に 依 っ て い る 。 万 縄 楠 ﹃ 魏 晋 南 北 朝 史 論 稿 ﹄ ︵安 教 育 出 版 社、 一 九 八 三 年 ︶ は 、 単 なる 後継争 いという 視点 にとどまらず 、曹操政権 の 二大派 閥、 すなわち 汝 じょ 南 なん ・潁 えい 川 せん の 士大夫 を 中心 とした 世族地主集団

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赫連勃勃 27 鉄 てつ 弗 ふつ 部 ぶ が 五 世 紀 初 頭 に 樹 立 し た 政 権「大 たい 夏 か 」 = 赫 かく 連 れん 夏 か は、 朔 さく 方 ほう に 勃 興 し、 関 中 に も 領 土 を 拡 張 し た。 北 魏 に よ る 華 北 統 一 の の ち、 赫 連 夏 は「五 胡 十 六 国 」 の 一 と さ れ る よ う に な っ た が、 実 際 の 鉄 弗 部 は 拓 たく 跋 ばつ 部 ぶ と 同 様 に、 西 晋 時 代、 塞 さい 外 がい の 農 牧 混 合 地 帯 に お い て 形 成 さ れ た も の で あ る。 彼 ら の 築 い た 国 家 は、 塞 さい 内 ない 部 族 が 築 い た そ の 他 の 五 胡 国 家 と 形 態 を 異 に し て い た。 五 胡 か ら 北 朝 に 至 る 歴 史 の 過 程 は、 北 魏 と赫連夏によって完成されたのである。

はじめに

短命 に 終 わった 西晋 の 全土統一後、四世紀初頭 から 五世紀 前半 にかけて 、中国北部 は 百年以上 にわたる 混乱期 を 迎 えた 。 王朝交替 がしきりに 起 こり 、地方政権 が 次々 に 現 れるなかで 、 とりわけ 注目 すべきは 、 このころ 中国北部 には 大量 の 異民族 ︵非漢人︶ が 活動 しており 、彼 らは 多 くの 政権 において 支配階 層 の 中核 を 担 ったことである 。一般 に﹁ 五胡十六国 ﹂と 呼 ば れるこの 時代 の 諸政権 は 、西晋 の 亡命人士 により 長江流域 に 樹立 された 東晋政権 とともに 、西晋時代 と 南北朝時代 を 結 ぶ 歴史上 の 一段階 を 構成 することになった 。 ﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ 時 代 の 諸 政 権 は 、 二 種 類 に 大 別 す る こ と が できる 。 ひとつは 、華北 において 漢晋以来中国王朝 の 心臓部 と さ れ て き た 地 域 ︵関 中 平 原 と 河 北 平 原 に 代 表 さ れ る ︶ を 領 有 する 政権 であり 、 これと 呼応 するように 、 それらの 統治者 は ﹁ 皇帝 ﹂﹁ 天子 ﹂という 称号 を 用 いた 。 すなわち 、王統上 は 西

[Ⅰ

 

政治・人物]

赫連勃勃

五胡十六国

﹂史

への

省察

起点

として

 

(板橋暁子・訳) じ ょ ・ ち ゅ う

復 旦 大 学 歴 史 系 副 教 授 。 専 門 は 魏 晋 南 北 朝 史 。 著 書 に ﹃ 中 古 時 代 的 歴 史 書 写 与 皇 帝 権 力 起 源 ﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社 、 二 〇 一 二 年 ︶、 論 文 に ﹁﹃ 続 漢 書 ﹄ 百 官 志 与 漢 晋 間 的 官 制 述

以 〝 郡 太 守 〟 条 的 弁 証 為 中 心 ﹂︵ ﹃ 中 華 文 史 論 叢 ﹄ 二 〇 一 三 年 第 四 期 ︶、 ﹁ 元 淵 之 死 与 北 魏 末 年 政 局

以 新 出 元 淵 墓 誌 為 線 索 ﹂︵ ﹃ 歴 史 研 究 ﹄ 二 〇 一 五 年 第 一 期 ︶ な ど が あ る 。

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赫連勃勃 29 Ⅰ 政治・人物 28 の 筆頭 とするものであり 、中国南部 で 劉宋 が 東晋 に 交替 して ﹁ 南朝 ﹂ 時代 に 入 った 流 れと 対応 している 。 た だ し 、 注 意 す べ き は 、﹁ 五 胡 ﹂ と ﹁ 十 六 国 ﹂ は 一 種 の 歴 史 上 の 観 念 であ っ て 、 対 象 と な る 存 在 へ の 否 定 的 意 識 を はら ん で い る こ と で あ る 。﹁ 五 胡 ﹂ は 匈 奴 ・ 羯 けつ ・ 鮮 せん 卑 ぴ ・ 氐 てい ・ 羌 きょう ら 五 つ の 民 族 を 指 し 、 彼 ら に よ っ て 樹 立 さ れ た の は 、 西 晋 末 以 後 に 華 北 の 心 臓 部 を 相 次 い で 領 有 し 正 統 的 地 位 を 獲 得 し た 漢 / 前 趙 ︵ 匈 奴 ︶ ・ 後 趙 ︵ 羯 ︶ ・ 前 燕 / 後 燕 ︵ 鮮 卑 ︶ ・ 前 秦 ︵ 氐 ︶ ・ 後 秦 ︵ 羌 ︶ 等 の 諸 政 権 、 す な わ ち 前 述 の ﹁ 天 下 政 権 ﹂ で あ る 。 し か し 、﹁ 五 胡 乱 華 ﹂ と い う 語 が ま さ し く 示 す よ う に 、﹁ 胡 ﹂ は ﹁ 華 ﹂ と 相 対 化 さ れ た 、 マ イ ナ ス の 色 合 い を 帯 び た 呼 称 で あ り 、 非 正 統 で ある こ と を 意 味 す る 。 こ れ ら の ﹁ 天 下 政 権 ﹂ は い ず れ も 、 漢 晋 以 来 の 正 統 を 継 ぐ 者 と 自 任 し て い た に も か か わ ら ず 、 彼 ら に 対 し あ え て ﹁ 五 胡 ﹂ と い う 呼 称 を 用 い る こ と は 、 彼 ら の 自 己 認 識 に 対 す る 否 定 を 意 味 し て い る の で あ る 。 ﹁ 十 六 国 ﹂ と い う 語 も ま た 同 様 で あ る 。 こ の 呼 称 は 北 魏 の 崔 さい 鴻 こう が し た ﹃ 十 六 国 春 秋 ﹄ に 始 ま る 。 時 期 的 に は 五世 紀 末 、 北 魏 が 平 城 か ら 洛 陽 に 遷 都 し た 直 後 の こ と で あ る 。 同 書 は 五 胡 国 家 が そ れぞ れ 編 纂 し た ﹁ 国 史 ﹂ を 基 礎 と し て 述 さ れ た も の で あ る 、 と 崔 鴻 は 自 ら 述 べ て い る 。﹁ 国 史 ﹂ で あ る 以 上 は 、 それ ら 諸 政 権 の う ち ﹁ 天 下 政 権 ﹂ が 抱 い て い た 自 己 認 識 も ま た 、 天 下 を 領 有 す る ﹁ 王 朝 ﹂ で あ っ た こ と が 想 像 さ れ る 。 し か し 崔 鴻 は 、﹁ 十 六 国 ﹂ と い う 呼 称 を 用 い た 。 こ れ は 明 ら か に 、 史 家 の 筆 法 に お い て 彼 ら の 自 己 認 識 を 否 定 す る も の で あ り 、 前 述 の ﹁ 周 縁 政 権 ﹂ と と も に ﹁ 十 六 〝 国 〟﹂ を 構 成 す る 諸 政 権 の 地 位 へ と 彼 ら を 貶 め る も の で あ っ た 。 こ の よ う な 筆 法 は 、 洛 陽 の 北 魏 朝 廷 の 態 度 を 反 映 す る も の で あ る と い え よ う 。 と は い え 、 こ の よ う な 態 度 は 、 北 魏 孝 文 帝 が 太 和 十 四 ︵四 九 〇 ︶ 年 に 王 朝 の 徳 運 を 調 整 し た 事 件 の 帰 結 で あ る と い え る 。 ここでいう 徳運 とは 、王朝 と 五行 の 対応関係 を 指 し 、相 生 の 順 序 ︵木 ↓ 火 ↓ 土 ↓ 金 ↓ 水 ↓ 木 ︶ に よ っ て 循 環 し つ づ け る ものである 。前漢後期 における 五徳終始説 の 確立以後、古代 中国 の 歴代王朝 はみなこれを 重視 してきた 。道武帝拓跋珪 は 北魏 を 創始 すると 、自 らの 国家 を 土徳 と 定 めた 。土徳 は 水徳 ↓木徳↓火徳 の 後 を 承 けるものであり 、 これらはそれぞれ 後 趙↓前燕↓前秦 に 対応 するものとされていた 。 そして 後趙 の 水徳 とは 、西晋 の 金徳 を 承 けるものと 考 えられていた 。北魏 が 自 らを 土徳 と 位置 づけた 行為 は 、北魏 に 先行 する 五胡 ﹁ 天 下政権 ﹂の 自己認識 を 承認 し 、 かつ 彼 らが 漢晋以来 の 天下 を 領有 したことを 承認 するものであった 。 ところが 太和十四年 になって 、北魏 は 自 らの 徳運 を 水徳 に 改 めることで 、先行 す る 五胡国家 の 正統性 を 否定 するとともに 、西晋 の 金徳 を 直接 晋王朝 の 継承者 を 自任 したのである 。 これらの 政権 はいわば ﹁ 天 下 政 権 ﹂ で あ り 、 ︵ 匈 きょう 奴 ど の ︶ 漢 / 前 ぜん 趙 ちょう ・ 後 趙・ 前 ぜん 秦 しん ・ 前 燕・後秦・後燕 などが 該当 する 。 これに 対 し 、 もうひとつの 類型 は 、漢晋以来 の 心臓部以外 の 周縁地域 に 割拠 した 諸政権 である 。 それらの 統治者 は 称帝 の 野心 を 持 たず 、華北 の﹁ 天 下政権 ﹂あるいは 江南 の 東晋 による 冊封 を 受 け 入 れた 。一部 には 称帝 した 例 もあるが 、 しかし 中原 の 心臓部 を 領有 したこ と は な か っ た 。 こ れ ら の 政 権 は い わ ば﹁ 周 縁 政 権 ﹂ で あ り 、 ﹁ 諸 しょ 涼 りょう ﹂・西秦・南燕・北燕 などが 該当 する 。 赫 かく 連 れん 勃 ぼつ 勃 ぼつ が 樹 立 し た﹁ 大 夏 ﹂ は 、﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ の 一 と し て 位置 づけられてきたとはいえ 、 この 類型 を 基準 にして 考 え た 場 合、 明 ら か に 異 質 な 性 格 を 有 し て い る 。 赫 連 夏 は 朔 方 ︵現 在 の 内 モ ン ゴ ル 自 治 区 オ ル ド ス 地 区 ︶ に 勃 興 し た が 、 一 方 で 、 十 年 の 長 き に わ た り 関 中 地 域 ︵現 在 の 陝 西 省 ︶ に も 領 土 を 保 有 し た 。 勃 勃 は 当 初 ﹁ 大 夏 天 王 ﹂﹁ 大 単 ぜん 于 う ﹂ を 号 し た が 、 東 晋 から 長安 を 奪 うと 皇帝 に 即位 した 。 ここには 明 らかに 、漢 晋 の 王統 を 継承 した﹁ 天下政権 ﹂としての 自己認識 を 見 て 取 ることができる 。 しかし 、歴史上 における 赫連夏 の 位置 づけ は 、先 に 挙 げた 五胡十六国中 の 諸 ﹁ 天下政権 ﹂には 遠 く 及 ば な い も の で あ っ た 。﹁ 暴 君 ﹂ 赫 連 勃 勃 は 、 早 々 に 滅 亡 し た 夏 国 とともに 、 この 時代 の 負 の 面 を 象徴 する 典型 として 後世長 く 記憶 されることになったのである 。 赫 連 夏 は 、﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ に 対 す る 伝 統 的 な 理 解 に 即 し て 分類 することが 困難 な 存在 であり 、実際 のところ 、我々 は 他 でもなく 赫連夏 を 通 じて 、伝統的 な﹁ 五胡十六国 ﹂ 理解 に 内 包 さ れ て き た 問 題 を 明 る み に 出 す こ と が 可 能 に な る 。 そ し て 、問題 の 根源 は 事実上、赫連夏 と 同 じく 上記 の 基準 に 即 し て 分類 することが 困難 な 政権、 すなわち 北魏 の 中 に 見出 され る 。本稿 は 、鉄弗部/赫連夏 の 歴史

とりわけ 彼 らと 拓跋 部/北魏 の 歴史 が 交錯 する 時期

の 整理 と 比較 とを 通 じて 、 ﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ か ら﹁ 北 朝 ﹂ に 至 る 歴 史 の 筋 道 を 改 め て 把 握 することを 目指 すものである 。

五胡

十六国

拓 跋 部 を 中 心 と し て 成 立 し た 北 魏 は 、 一 般 に﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ 時代 の 幕引 きをした 政権 とみなされている 。 これは 他 で も な く 歴 史 的 事 実 で あ る 。 道 武 帝 拓 たく 跋 ばつ 珪 けい に よ る 建 国 ︵三 八 六 年 ︶ 以 後、 北 魏 は 数 十 年 間 で 後 燕・ 赫 連 夏・ 北 燕・ 北 涼 等 の 政権 を 相次 いで 滅 ぼし 、華北統一 を 完成 するとともに 、百年 近 くその 状態 を 維持 することに 成功 した 。西晋末期 の 永嘉 の 乱以来、長期 にわたり 中国北部 を 席巻 してきた 混乱 を 収束 し たのである 。 いわゆる﹁ 北朝 ﹂という 概念 もまた 、北魏 をそ

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魏晋期の儒教 81 儒 教 の 停 滞 期 と み な さ れ が ち な 魏 晋 期 で あ る が、 実 は 儒 教 史 上、 重 要 な 意 味 を 持 つ 時 代 で あ っ た。 後 漢 期 の 儒 学 を 継 承 し つ つ、 魏 晋 期 ら し い 清 新 な 学 問 で あ る 玄 学 に 基 づ く 経 書 注 解 や「論 」 と 名 づ け ら れ た 注 釈 書 も 登 場 し た。 魏 晋 の 国 家 は 儒 教 に 依 拠 し て 学 校 や 礼 制 な ど を 整 備 し、 儒 教 の 発 展 を 支 え た。 後 世 に 与 え た 影 響 か ら い っ て も、 魏 晋 期 儒 教 の重要性は看過できない。

はじめに

孔 こう 子 し を 祖 とする 儒教 は 、戦国時代 を 通 じてその 内容 を 充実 させ 、勢力 を 伸張 していったが 、国家 との 関 わりを 本格的 に 持 つ よ う に な る の は 、 前 漢 時 代 ︵前 二 〇 二 ︱ 後 八 ︶ の こ と で あ っ た 。 続 く 新 代 ︵八 ︱ 二 三 ︶ は 儒 教 を 国 の 根 幹 に 据 え る 制 度 設 計 を し 、 さ ら に 後 漢 ︵二 五 ︱ 二 二 〇 ︶ も 国 家 と し て 儒 教 を 重 ん じ た 。 か く し て こ の 両 漢 時 代 ︵漢 代 ︶ を 通 じ 儒 教 と 国 家 との 結 びつきは 決定的 となり 、当時、名儒 が 数多 く 出 たこ ともあり 、漢代 は 儒教 が 最 も 栄 えた 時代 の 一 つとして 学術史 上 に 位置 づけられる 。 そ の 一 方 で 、 三 国 両 晋 時 代 ︵魏 晋 時 代、 二 二 〇 ︱ 四 二 〇 ︶ の 儒 教 は と い え ば 、 む し ろ 勢 い の 衰 え た も の で あ っ た と す る 見 方 が あ り 、 今 日 な お 影 響 力 の あ る 儒 教 史 の ひ と つ 皮 錫 瑞 ﹃ 経 学 歴 史 ﹄ ︵一 九 〇 六 年 刊 ︶ な ど は 、﹁ 経 けい 学 がく は 漢 に 盛 ん に し て 、 漢亡 びて 経学 は 衰 う﹂と 言 い 、同時期 について﹁ 経学中衰時 代 ﹂と 総括 した 。 しかしこの 時代 の 儒教 の 隆盛 を 勘案 すれば 、

[Ⅱ

 

思想・文化]

魏晋期

儒教

古勝隆一

こ が ち ・ り ゅ う い ち

京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 ・ 准 教 授 、 専 門 は 中 国 古 典 学 。 主 な 訳 書 に 井 筒 俊 彦 ﹃ 老 子 道 徳 経 ﹄︵ 慶 應 義 塾 大 学 出 版 会 、 二 〇 一 七 年 ︶、 著 書 に ﹃ 目 録 学 に 親 し む ﹄︵ 共 著 、 研 文 出 版 、 二 〇 一 七 年 ︶、 ﹃ 中 国 中 古 の 学 術 ﹄︵ 研 文 出 版 、 二 〇 〇 六 年 ︶、 な ど が あ る 。

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(9)

魏晋期の儒教 83 Ⅱ 思想・文化 82

三国時代

儒教

後漢末以来 の 古文学優勢 を 受 け 、三国時代 においても 玄 流 の 古 文 学 が 盛 ん で あ っ た 。 漢 と い う 国 家 の 庇 護 を 受 け て 、 師 から 継承 した 内容 を 墨守 するばかりであった 今文学 が 、後 漢 の 滅亡 とともに 一気 に 衰 えたが 、一方、自由 な 気風 を 有 し 、 証拠 と 論理 を 重 んじ 、博学 をむねとする 古文学 が 盛 んとなる のは 必然 であったとも 言 えよう 。 魏 ぎ ︵二二〇︱二六六︶ においては 、黄初五年 ︵二二四︶ 、国家 の 中 心 的 な 教 育 機 関 た る 太 学 が 立 て ら れ 、﹁ 五 経 課 試 の 法 ﹂ が 定 め ら れ 、 春 秋 穀 こく 梁 りょう 博 士 ︵今 文 系 ︶ が 置 か れ た 。﹃ 宋 書 ﹄ 百官志上 によると 、魏 では 十九人 の 博士 を 置 いたが 、 その 多 くは 古文学 を 管掌 したらしく 、前漢 の 博士 がすべて 今文学 を 管掌 したのと 比較 すると 大 いに 性格 が 異 なる (4) 。 魏 の 官僚 のなかでも 、王粛 ︵一九五︱二五六︶ の 学問 は 、魏 の 国家 のみならず 後世 への 影響力 もあった 。彼 は 幼少 の 頃 か ら 学 を 学 んだが 、 のち 異 を 唱 え 、馬融 などの 玄以前 の 古 文 学 者 を 継 承 し た 学 問 を 構 築 し た 。 王 粛 の 父 は 王 朗 ︵? ︱ 二 二 八 ︶ と い い 、 も と 今 文 学 の 教 育 を 受 け た が 後 に 古 文 学 に 転 じ 、﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄ ︵古 文 系 ︶ に 注 し た 。 王 朗 は 魏 の 司 空 に ま で な り 、 重 ん じ ら れ た 人 物 で あ る 。 王 粛 は 、 そ の 父 の﹃ 易 伝 ﹄ を 修 訂 し 、 み ず か ら も﹃ 書 ﹄﹃ 詩 ﹄﹁ 三 さん 礼 らい ︵﹃ 周 しゅ 礼 らい ﹄﹃ 儀 ぎ 礼 らい ﹄ ﹃ 礼 らい 記 き ﹄︶ ﹂﹃ 春 秋 左 氏 伝 ﹄﹃ 論 語 ﹄ の 注 を 書 き 、 い ず れ も 魏 の 学官 に 列 せられた 。 なお 、学官 に 列 せられということの 意味 は 必 ずしも 明 らかでないが 、 おそらく 博士 がそれらの 注釈 に 基 づき 経書 を 解釈 し 、 さらにそれを 官僚採用試験 に 用 いたの であろう (5) 。 当時 は 玄 の 学問 を 直接 に 継承 する 者 が 少 なからず 存在 し 、 王粛 が 学 を 攻撃 したため 、玄 の 弟子 の 孫炎 などがそれに 反 論 し た 。 玄 の 学 問 と 王 粛 の 学 問、 ど ち ら が 妥 当 な の か 、 結 局 こ の 時 代 に は 決 着 が つ か ず 、 後 世 へ と 持 ち 越 さ れ た が 、 その 後、南北朝時代 においては 王粛 の 影響力 が 失 われ 、学 の 優越 が 定 まった 。王粛 の 経典注釈 は 、断片的 に 書物 に 引用 される 以外、後世 に 伝 わらなかった 。 魏 朝 が 儒 教 を 重 ん じ た 現 れ の ひ と つ が 、 魏 の 後 期 、 正 始 年 間 ︵ 二 四 〇 ︱ 二 四 九 ︶ に お け る 石 せっ 経 けい の 建 立 で あ る 。 石 経 と は 、 国 家 が 儒 教 経 典 を 石 に 刻 ん だ も の で あり 、 後 漢 で は 熹 き 平 へい 年 間 ︵ 一 七 二 ︱ 一 七 八 ︶ 、 洛 陽 の 太 学 の 前 に 石 経 を 立 て た 例 が あ る ︵ 漢 石 経 、 熹 平 石 経 な ど と 称 す る ︶ 。 魏 で は 、 こ の 熹 平 石 経 を 補 う か た ち で 、 同 じ く 洛 陽 の 太 学 の 前 に ﹃ 尚 書 ﹄﹃ 春 秋 ﹄﹃ 左 氏 伝 ﹄ の 石 経 を 立 て た 。 こ れ を 魏 石 経 、 正 始 石 経 と 称 し 、 ま た 古 文 ・ 篆 てん 文 ぶん ・ 隷 書 の 三 体 を 備 え る こ と か ら 三 体 石 経 と も 称 す る (6) 。 この 評価 は 決 して 当 を 得 たものではなく 、 たとえば 狩野直喜 や 加賀栄治 などの 研究 が (1) 、三国両晋時代 の 儒教 の 内実 を 解明 してその 意義 を 論 じている 。 本稿 では 、漢代 に 連 なるこの 時期 において 儒教 がいかなる 展 開 を 見 せ た の か 、 そ の 概 略 を 記 す 。 た だ し 紙 幅 の 都 合 上、 太学 や 博士 の 制度、重要 な 儒者 やその 著作 について 述 べるこ ととし 、社会 における 儒教 の 役割 や 他宗教 との 関 わりについ ては 省略 に 従 う 。

漢代儒教

継承

した

三国時代以降

儒教

前 漢 の 儒 者 と い え ば 、 す で に 紀 元 前 二 世 紀 の 頃 か ら 、 叔 しゅく 孫 そん 通 とう ︵生 没 年 未 詳 ︶ ・ 公 孫 弘 ︵前 二 〇 〇 ︱ 前 一 二 一 ︶ ・ 董 とう 仲 ちゅう 舒 じょ ︵前 一 七 九 ︱ 前 一 〇 四 ︶ ら が 国 政 に も 関 与 し た こ と が 知 ら れ る が 、 宣 帝 ︵在 位、 前 七 四 ∼ 前 四 八 ︶ の 即 位 以 後、 儒 教 は ま す ま す 深 く 漢朝 の 内部 に 浸透 して 影響 を 及 ぼした 。宣帝自身、即 位前 に﹃ 詩 ﹄﹃ 論語 ﹄﹃ 孝経 ﹄を 学 んでいた 。 その 後、漢 の 外戚 でもあった 王 おう 莽 もう ︵前四六︱後二三︶ は 、前 漢 の 禅 ぜん 譲 じょう を 受 け て 新 王 朝 を 建 て る と 、 劉 りゅう 歆 きん ︵? ︱ 後 二 三 ︶ ら の 助 力 を 得 て 、 周 の 制 度 を 理 想 と し て 国 家 制 度 を 設 計 し た 。 劉歆 は 、当時 において 主流 であり 国家 の 庇護 も 受 けていた 今 きん 文 ぶん 学 を 批判 し 、古文学 と 呼 ばれる 儒学 を 標榜 した 人 であるか ら (2) 、新代 における 儒教 は 古文学 にのっとるものであった 。 そ の 国家 は 短期 のうちに 破綻 したものの 、儒教理念 に 基 づく 国 家 が 誕生 したことの 意味 は 大 きい 。 さ ら に 新 が 倒 れ た の ち に 後 漢 を 建 て た 光 武 帝 ︵在 位、 二 五 ︱五七︶ は 、洛陽 ︵後漢 では 雒陽 と 表記 された ︶ に 遷都 し 、儒教 経 典 を 根 拠 と し 、 そ の 地 に 明 堂・ 霊 台・ 辟 へき 雍 よう と い っ た 礼 制 施 設 を 建 設 し た 。 後 漢 時 代 に お い て は 、 許 慎 ︵五 八? ︱ 一 四 七?︶ ・ 馬 融 ︵七 九 ︱ 一 六 六 ︶ ・ じょう 玄 げん ︵一 二 七 ︱ 二 〇 〇 ︶ と い っ た 大家 が 出 て 儒教 の 黄金時代 を 築 き 、 また 社会 にも 広 く 儒教 が 浸透 した 。 なお 後漢時代 における 国家公認 の 儒教 は 、前漢以来、国家 との 関 わりが 深 かった 今文学派 であったが 、一方 で 、上述 の 劉歆 を 祖 とする 古文学派 も 擡頭 し 、後漢末期 に 至 って 古文学 が 優 勢 と な り 、 玄 の 学 問 ︵ てい 学 がく 、 氏 学 な ど と 称 す る ︶ も 古 文学 を 主 として 今文学 をも 取 り 込 んだものであった (3) 。 三国時代以降 の 儒教 はその 学 を 踏 まえて 発達 したが 、魏 の 王 おう 粛 しゅく な ど は 学 に 反 対 す る 姿 勢 を 鮮 明 に し て お り ︵後 述 ︶ 、 学 の 受容 と 超克 とが 当時 の 学界 の 課題 であったともみなせ よう 。

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参照

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