魏
晋
南
北
朝
史
の
い
ま
総論
│
魏晋南北朝史のいま 窪添慶文 4Ⅰ
政治・人物
曹丕
│
三分された日輪の時代 田中靖彦 7晋恵帝賈皇后の実像
小池直子 18赫連勃勃
│
﹁五胡十六国﹂ 史への省察を起点として 徐 冲 ︵板橋暁子・訳︶ 27陳の武帝とその時代
岡部毅史 38李沖
松下憲一 49北周武帝の華北統一
会田大輔 59それぞれの
﹁正義﹂
堀内淳一 70Ⅱ
思想・文化
魏晋期の儒教
古勝隆一 81南北朝の雅楽整備における
﹃周礼﹄
の新解釈について
戸川貴行 91南朝仏教と社会
│
王法と仏法の関係 倉本尚徳 100北朝期における
﹁邑義﹂
の諸相
│
国境地域における仏教と人々 北村一仁 110山中道館の興起
魏 斌 ︵田熊敬之・訳︶ 121史部の成立
永田拓治 132書法史における刻法・刻派という新たな視座
│
北魏墓誌を中心に 澤田雅弘 143Ⅲ
国都・都城
城に見る都城制の転換
佐川英治 153建康とその都市空間
小尾孝夫 163魏晋南北朝の長安
内田昌功 174同時代人のみた北魏平城
岡田和一郎 184北魏洛陽城
│
住民はいかに統治され、居住したか 角山典幸 194統万城
市来弘志 205﹁蜀都﹂
とその社会
│
成都 二二一︱三四七年 新津健一郎 215辺境都市から王都へ
│
後漢から五涼時代にかける姑臧城の変遷 陳 力 226Ⅳ
出
土
資
料
か
ら
見
た
新
し
い
世
界
竹簡の製作と使用
│
長沙走馬楼三国呉簡の整理作業で得た知見から 金 平 ︵石原遼平・訳︶ 237走馬楼呉簡からみる三国呉の郷村把握システム
安部聡一郎 247呉簡吏民簿と家族・女性
鷲尾祐子 257魏晋時代の壁画
三良章 268北朝の墓誌文化
梶山智史 278北魏後期の門閥制
窪添慶文 289 asia_魏晋南北朝史のいま_目次.indd すべてのページ 17/08/08 6:38SAMPLE
5 魏晋南北朝史のいま 総論 4 魏 ぎ 晋 しん 南北朝時代 は 谷間 の 時代 というイメージがある 。中国最初 の 統一帝国秦漢 と 第二 の 統一帝国隋唐 の 間 に 挟 ま れ た 分 裂 の 時 代 で あ る こ と は 確 か で あ る と し て も 、 そ れ が 強 調 さ れ す ぎ て 、﹁ 大 一 統 ﹂ つ ま り﹁ 一 統 を た っ と ぶ﹂ 立場 でなくても 、 いわば﹁まま 子 ﹂ 的 なイメージを 付与 される 。 でも 魏晋南北朝時代 はほんとうに﹁ 影 の 薄 い﹂ 時代 だったのだろうか 。 そうではないだろう 。 それはその 魅力 が 十分 に 伝 えられていなかったことによるのではないか 。 さらに 近年 は 魏晋南北朝時代 を 対象 とする 若 い 研究者 が 多 くなり 、研究対象 も 多岐 にわたり 、新 しい 資料 も 次々 に 出現 している 。魏晋南北朝時代史研究 の 現在 のあり 方 を 伝 えるよい 機会 ではないか 。勉誠出版 から 打診 があった 時、即座 にお 受 けしようと 考 えたのは 、以上 のよう な 理由 による 。 ひ と つ の 時 代 を 取 り 上 げ る 場 合、 政 治 史 で ま ず 大 き な 流 れ を つ か む こ と が 常 道 で あ る が 、 複 数 の 国 が 並 立 し 、 かつそれらの 国 が 次々 と 交替 した 当該時代 において 、単 にそれぞれの 国 を 扱 っては 概説 に 流 れてしまう 。故 に 人 物 を 取 り 上 げ 、 その 経歴 や 活動、思想 を 追 いつつ 、 それぞれの 時期 の 政権 のもつ 意義 を 明 らかにした 方 がよいの ではないか 。 そこで 選 んだのが 、三国時代 の 最初 の 君主 である 魏 の 文帝曹 そう 丕 ひ 、西 せい 晋 しん の 滅亡 につながる 大内乱 の 引 き 金 と な っ た と 言 え る 恵 帝 賈 か 皇 后、 五 胡 十 六 国 か ら は 北 魏 に 敗 れ た 夏 皇 帝 の 赫 かく 連 れん 勃 ぼつ 勃 ぼつ ︵口 頭 で の 発 表 を 拝 聴 し 、 是 非 にとお 願 いした 経緯 がある ︶ 、南朝 ではそれ 以前 の 諸王朝 とは 異 なるあり 方 を 示 した 陳 ちん の 武帝、北 ほく 魏 ぎ ではよく 知 ら
[総論]
魏晋南北朝史
のいま
窪添慶文
れた 孝文帝 の 改革 を 支 えた 漢人官僚李 り 沖 ちゅう 、 そして 隋 の 統一国家 を 導 くことになる 北周 の 武帝 というラインアップ である 。 そして 複数政権 が 並立 する 時代 においては 、自 らの 正統性 を 各国 は 主張 せざるを 得 ないわけであるから 、 その 状況 を 述 べる 論 をおいて 結 びとする 。 これを 第一部 とする 。 思想面 における 魏晋南北朝時代 は 重要 である 。 まず 漢代 に 国教化 し 一尊 の 状況 にあった 儒教 に 起 こった 新 しい 動 きは 基本 として 押 さえねばならない 。後漢代 に 中国 に 伝 えられた 仏教 が 中国社会 に 定着 するに 至 ったのもこの 時代 であるが 、南朝 サイドからが 大 きな 問題 とされた 王法 と 仏法 の 関係、北朝 では 仏教信徒 の 集団 である 邑 ゆう 義 ぎ の もつ 諸側面 を 扱 いたいと 考 えた 。 やはりこの 時代 に 宗教 としての 姿 を 整 える 道教 については 、山中 に 建設 された 道 館 を 通 じ て 道 士 と 社 会 と の 関 係 を 論 じ て い た だ け る よ う ︵ こ れ も 口 頭 の 発 表 を 拝 聴 し て ︶ お 願 い す る こ と と し た 。 儀礼 は 近年強 い 関心 が 注 がれる 分野 であるが 、礼楽 に 視点 を 絞 って 政治・政治思想 との 関 わりを 扱 いたいと 考 え 、 学術面 では 漢籍分類 でおなじみの﹁ 史部 ﹂の 成立 の 問題 を 論 じていただく 。書文化 において 当該時代 のもつ 意義 は 周知 の 如 くであるが 、北朝 で 盛行 した 墓誌 の 刻法 の 問題 はほとんど 知 られていない 。筆者 は 墓誌 を 利用 するが 、 書法、刻法 についての 知識 を 有 しないので 、特 に 執筆 をお 願 いした 。以上 を 第二部 とする 。 近年魏晋南北朝時代 の 都城 についての 関心 が 高 い 。 それは 都城址 の 学術調査 が 進行 していること 、衛星写真 な どが 利用 できるようになり 周辺環境 の 把握 が 進 んだことによるが 、日本 の 都城 の 源 を 探 る 場合 に 、先行 する 時期 の 中国 の 都城 の 理解 が 必要 であるという 事情 も 後押 ししている 。 よって 都城 のみで 第三部 を 構成 することとした 。 叙上 の 観点 からして 、 ぎょう 、洛陽、建康、長安 は 欠 かせないし 、北魏前期 の 都 であった 平城 もそれに 準 じる 。 さら に 多数 の 国 が 存在 した 故 に 、 ほかにも 多数 の 国都 となった 都城 がある 。 その 中 で 、三国蜀 しょく の 成都、赫連夏 の 統万 城、北 ほく 涼 りょう の 姑 こ 臧 ぞう を 取 り 上 げる 。多彩 な 都城像 が 得 られるはずである 。 近年中国 では 出土資料 の 紹介 が 相次 ぐ 。戦国秦漢時代史 は 出土簡 かん 牘 とく なくしては 語 れないと 言 えば 言 い 過 ぎかも 知 れないが 、出土資料 がもつ 意味 は 非常 に 大 きい 。魏晋南北朝時代 は 簡牘資料 はごく かしか 知 られず 、唐代 の 敦煌・ トルファン 文書 のような 紙 による 第一次史料 も 極 めて 限 られる 。 そのような 状況下、二十年 ほど 前 に 長 ちょう 沙 さSAMPLE
6 総論 走 そう 馬 ま 楼 ろう 三 国 呉 ご 簡 かん が 発 見 さ れ 、 そ の 後 も 小 規 模 な が ら 簡 牘 出 土 が 報 告 さ れ て 、 そ れ を 用 い る 研 究 が 相 次 い で い る 。 多方面 にわたる 論題 が 可能 であるが 、呉簡 を 用 いた 呉政権 の 郷村把握 のシステムを 解明 した 一文 と 一連 の 文書 を 復元 する 方法 を 示 しつつ 家族・女性 の 問題 を 扱 った 一文 を 載 せる 。 いずれも 文献資料 のみでは 扱 えない 問題 であ る 。 また 出土簡牘 の 整理・保存 にあたった 立場 から 竹簡 の 製作 にかかわる 問題 を 扱 う 一文 をも 頂戴 することにし た 。 これも 長沙 で 行 われたシンポジウムにおける 報告 を 拝聴 した 結果 である 。他方、相次 ぐ 新出報告 や 図録本 の 刊行 によって 、利用 できる 墓誌 の 数 が 多 くなり 、 それらを 用 いた 研究 も 増 えている 。故 に 墓誌全体 に 関 わる 問題 を 論 じた 一文 と 、墓誌 を 利用 することによってできる 研究 の 一面 を 示 す 一文 を 載 せる 。 また 墓室 に 描 かれた 壁画 の 報告 も 多 くなっているので 、 それについて 論 じた 一文 をいただく 。以上 を 第四部 とする 。 経済史関係 がないことに 違和感 を 覚 える 読者 がおられるであろう 。筆者 の 若 い 頃 には 社会経済史 でなければ 歴 史 ではない 、 という 雰囲気 があった 。 しかし 研究状況 は 大 きく 変 わっている 。 まことに 残念 であるが 、近年 の 研 究状況 を 勘案 して 取 り 上 げないこととした 。 また 、東晋南朝 に 関 わる 論題 が 少 ない 。 これは 建康 しか 対象 がない 都城 を 大項目 に 立 てたことによるところが 大 きいが 、編集 を 担当 した 筆者 の 関心 の 偏 りによる 側面 もあることは 否 めない 。絵画 や 造像 など 文化面 で 取 り 上 げるべき 項目 も 残 されている 。 バランスを 欠 いているとのお りを 受 けるかもしれない 。 この 点 はお 詫 びしたい 。 以上、企画立案 の 狙 いを 述 べた 。幸 いに 依頼申 し 上 げた 皆様 には 執筆 を 快諾 していただけた 。気鋭 の 方々 によ り 魏晋南北朝時代 の 魅力 が 十分 に 伝 えられると 信 じる 次第 である 。
SAMPLE
曹丕 7 魏 ぎ 王 朝 の 初 代 皇 帝・ 曹 そう 丕 ひ 。 漢 魏 革 命 を 達 成 し、 九 品 官 人 法 を 制 定 す る な ど、 彼 が 果 た し た 歴 史 的 役 割 は 小 さ く な い。 短 い な が ら 激 動 の 人 生 を 駆 け 抜 け た 曹 丕 の 生 涯 を、 歴 史 的 な 言 説 と 現 代 の 研 究 の 両 面 か ら 追 い、 多 方 面 に わ た る 彼 の 事績について、政治史的側面を中心に振り返る。
はじめに
魏 の 文帝 は 王 となった 時、太陽 が 地 に 落 ちて 三 つに 分 か れ 、 その 一 つを 得 て 懐中 に 入 れるという 夢 を 見 た 。 ﹃ 太 平 御 覧 ﹄ 天 部 四・ 日 下 の 条 に 引 く﹃ 談 だん 藪 そう ﹄ に 見 え る 逸 話 である 。 ここに 登場 する﹁ 魏 の 文帝 ﹂こそ 、本稿 の 主人公、 曹丕 ︵一八七︱二二六︶ である 。同話 が 曹丕 を 天下三分 を 象徴 す る 人 物 と 位 置 づ け て い る こ と が 読 み 取 れ よ う 。 現 在 で も 、 三国時代 の 開始 は 西暦二二〇年 とされることが 多 いが 、 これ は 曹丕 による 魏王朝 の 創始 を 指標 としてのこと 。 これに 従 え ば 、 それ 以前 に 死 んだ 関羽 も 曹 そう 操 そう も 三国時代 の 人物 ではない のであり 、曹丕 こそが 三国時代 の 開始 を 象徴 する 人物 という ことになる 。本稿 では 、 この 曹丕 の 生涯・事績 と 、 それをめ ぐる 研究 について 触 れてみたい 。立太子
まで
曹 丕 に 関 す る 基 本 情 報 は 、 西 晋 の 陳 ちん 寿 じゅ ︵二 三 三? ︱ 二 九 七?︶ が 著 し た 史 書 ﹃ 三 国 志 ﹄ 魏 書 二・ 文 帝 紀 ︵以 下、 文 帝 紀。 また 、以後 ﹃ 三国志 ﹄からの 引用 は 、書名 を 省略 する ︶ に 見 える ︵ 1 ︶ 。[Ⅰ
政治・人物]
曹丕
│
三分
された
日輪
の
時代
田中靖彦
た な か ・ や す ひ こ︱
恵 泉 女 学 園 大 学 特 任 准 教 授 。 専 門 は 中 国 史 学 史 、 中 国 地 域 文 化 研 究 。 主 な 著 書 ・ 論 文 に ﹃ 中 国 知 識 人 の 三 国 志 像 ﹄︵ 研 文 出 版 、 二 〇 一 五 年 ︶、 ﹁ 三 国 論 の 過 渡 期 と 蘇 軾 ﹂︵ ﹃ 津 田 塾 大 学 紀 要 ﹄ 四 七 、 二 〇 一 五 年 ︶、 ﹁﹃ 後 漢 書 ﹄ 荀 彧 伝 に つ い て│
﹃ 三 国 志 ﹄ と の 比 較 を 中 心 に ﹂︵ ﹃ 恵 泉 女 学 園 大 学 紀 要 ﹄ 二 四 、 二 〇 一 二 年 ︶、 ﹁ 澶 淵 の 盟 と 曹 操 祭 祀│
真 宗 朝 に お け る ﹁ 正 統 ﹂ の 萌 芽 ﹂︵ ﹃ 東 方 学 ﹄ 一 一 九 、 二 〇 一 〇 年 ︶ な ど が あ る 。 二 〇 一 〇 年 、 第 二 九 回 東 方 学 会 賞 。SAMPLE
曹丕 9 Ⅰ 政治・人物 8 ﹁ 汝 じょ 潁 えい 集 団 ﹂ と 、 曹 操 の 地 縁 者 を 中 心 と し た 新 官 僚 地 主 集 団 ﹁ しょう 沛 はい 集 団 ﹂ に よ る 抗 争 の 表 面 化 と し て 後 継 者 抗 争 を 捉 え る 。万縄楠 は 、沛集団 が 曹植 を 支持 したのに 対 し 、汝潁集 団 は 儒学・長子相続 を 標榜 して 曹丕 を 支持 し 、後者 が 勝利 し た と 分 析 す る 。 ま た 渡 邉 義 浩 ﹁ 曹 操 の﹁ 文 学 ﹂ 宣 揚 ﹂ ︵﹃ ﹁ 古 典 中 国 ﹂ に お け る 文 学 と 儒 教 ﹄ 古 書 院、 二 〇 一 五 年。 初 出 一 九 九 五 年 ︶ に よ る と 、 曹 操 は 儒 教 的 価 値 に 立 脚 す る﹁ 名 士 ﹂ を 抑 えるべく 、新 たな 価値基準 として﹁ 文学 ﹂を 宣揚 し 、優 れた 文学的才能 を 持 つ 曹植 を 後継 とするか 迷 ったが 、最終的 には ﹁ 名士 ﹂の 支持 を 得 た 曹丕 を 太子 とした 、 という 。 一方 で 、曹丕 と 曹植 の 不仲 を 否定 する 研究 もある 。津田資 久 ﹁﹃ 魏 志 ﹄ の 帝 室 衰 亡 叙 述 に 見 え る 陳 寿 の 政 治 意 識 ﹂ ︵﹃ 東 洋 学 報 ﹄ 八 四 │ 四、 二 〇 〇 三 年 ︶ に よ る と 、 陳 寿 は 曹 丕 に よ る 曹植 ら 親族抑圧 を 誇張 して 書 いており 、 その 目的 は 後嗣争 い が 原因 で 曹魏 が 衰 えたことを 強調 することを 通 して 、彼 が 仕 える 西晋 による 至親輔翼体制 を 強 く 主張 することにあったの だという 。金文京 ﹃ 中国 の 歴史 04 三国志 の 世界 後漢三国 時 代 ﹄ ︵講 談 社、 二 〇 〇 五 年 ︶ は 、 曹 植 が 後 継 候 補 か ら 外 れ る ためにわざと 乱行 を 重 ねた 可能性 もあるとしている 。 いずれにせよ 、曹丕 は 兄弟 に 対 し 冷酷 に 臨 んだ 男 として 後 世 からも 見 られていた 。 こういったイメージが 増幅 されたの で あ ろ う か 、 南 朝 宋 で 編 ま れ た﹃ 世 説 新 語 ﹄ は 、 曹 丕 が 同 母 弟 の 曹 そう 彰 しょう を 毒 殺 し 、 次 い で 曹 植 ま で 殺 そ う と し て 、 母 に 叱 責 さ れ る 逸 話 や 、 曹 植 が 曹 丕 に よ る 迫 害 を 嘆 く 詩 を 詠 じ た﹁ 七歩詩 ﹂のエピソードを 伝 えている 。 かかる 曹丕像 には 、 同 書 編 纂 時 の 皇 帝 で あ る 南 朝 宋 の 文 帝 ︵劉 義 隆。 在 位、 四 二 四 ︱ 四 五 三 ︶ に よ る 皇 弟 迫 害 が 投 影 さ れ て い る 側 面 が 見 出 せ る ︵拙著 ﹃ 中国知識人 の 三国志像 ﹄ 研文出版、二〇一五年 も 参照︶ 。 建 安 十 六 ︵二 一 一 ︶ 年、 曹 丕 は 五 官 中 郎 将 と な る 。 石 井 仁 前掲書 によると 、曹丕 の 拝命 した 五官中郎将 は 副丞相 の 職 と され 、三公 や 将軍 と 同様、府 を 開 いて 官属 をおくことができ たが 、本来 の 五官中郎将 とは 全 く 別 で 、 なぜこの 官名 が 使 わ れ た の か は 不 明 と い う 。 同 時 に 石 井 は 、 こ の 曹 丕 の 事 例 が 、 革命直前 に 覇王 の 後継者 が 独自 に 幕府 をひらき 副官 になる 方 式 の 始 ま り と な っ た と も 指 摘 す る 。 さ ら に 建 安 二 十 二 ︵二 一 七︶ 年、曹丕 は 魏国 の 王太子 となり 、正式 に 後継 の 座 を 得 た 。
漢魏革命
建 安 二 十 五 ︵二 二 〇 ︶ 年、 曹 操 は 洛 陽 で 死 に 、 曹 丕 は 丞 相・ 魏 王 と な る 。 建 安 二 十 五 年 は 延 康 元 年 と 改 め ら れ る が 、 同 年 十 月、 曹 丕 は 許 に お い て 後 漢 の 献 帝 か ら 禅 ぜん 譲 じょう を 受 け 皇 帝 に 即位、黄初 と 改元 する 。魏王朝 の 創始 である 。 曹 丕、 字 は 子 し 桓 かん 。 後 漢・ 霊 帝 の 治 世、 中 平 四 年 ︵一 八 七 ︶ 冬、 曹 操 の 子 と し て 、 沛 はい 国 こく しょう ︵現 在 の 安 省 亳 州 ︶ に 生 ま れ た 。 曹 丕 は 、 若 き 日 の 自 分 に つ い て 、﹃ 典 論 ﹄ 自 叙 に お い て 以 下 の よ う に 述 べ る ︵紹 介 す る 史 料 は 、 意 訳 と 省 略 を 行 っ た 。 以 下 同 様 ︶ 。 董 卓 の 暴 政 に 始 ま る 混 乱 期、 曹 丕 は 五 歳 か ら 射 撃 を 習 い 、八歳 で 騎射 を 会得 し 、曹操 の 出征 に 常 に 従軍 したと い う 。 曹 操 が 一 度 は 降 伏 し た 張 ちょう 繍 しゅう の 反 撃 に 遭 い 、 兄 の 曹 そう 昂 こう らが 戦死 したとき 、曹丕 はわずか 十歳 であったが 、馬 に 乗 っ て 脱 出 で き た の だ そ う だ 。 以 下、 自 分 が い か に 馬 術・ 弓 術・ 剣術 に 巧 みで 、広 く 読書 に 励 んだかという 自慢 が 続 く 。 まる で﹁ 兄曹昂 が 死 んだのは 馬 に 乗 れなかったからだ﹂と 言 わん ばかりであるが 、曹丕 には﹁ 兄 ではなく 自分 こそが 父 の 後継 にふさわしい﹂と 主張 する 必要 があった 。曹丕 は 生 まれなが らの 後継者 ではなかったからである 。 ここでは 、彼 の 異母兄 の 曹昂 と 、同母弟 の 曹植 について 見 てみよう 。 丁氏と曹昂 曹 丕 の 母 は 卞 べん 夫 人 で あ る が 、 当 初 曹 操 の 正 室 は 丁 てい 夫 人 で あ っ た 。 石 井 仁 ﹃ 魏 の 武 帝 曹 操 ﹄ ︵新 人 物 文 庫、 二 〇 一 〇 年。 初 出 二 〇 〇 〇 年 ︶ が 詳 述 す る よ う に 、 沛 国 の 曹 氏 と 丁 氏 は 非 常 に 密接 な 関係 にあり 、曹操政権 にも 多 くの 丁氏 が 参加 して い る 。 曹 操 と 丁 夫 人 の 間 に は 子 が な か っ た が 、 曹 昂 は 実 母 劉 りゅう 夫 人 の 死 後、 丁 夫 人 に よ っ て 養 育 さ れ た 。 何 事 も な け れ ば 、曹操 の 後継者 は 丁氏 という 後 ろ 盾 を 得 た 曹昂 だったはず で あ る 。 と こ ろ が 建 安 二 ︵一 九 七 ︶ 年 に 曹 昂 は 戦 死 し 、 丁 夫 人 は 曹操 が 曹昂 を 死 なせたことを 怒 って 、実家 に 戻 ってしま う 。 こうして 曹操 の 後継 の 座 は 、空位 となった 。 丁氏 に 対 する 曹丕 の 態度 は 、冷淡 そのものである 。曹操 は 娘 を 丁 てい 儀 ぎ に 嫁 がせようとしたが 、曹丕 の 反対 によって 取 りや め と な っ た 。 こ の 丁 儀 と 弟 の 丁 てい よく は 、 曹 植 の た め に 尽 力 し 、 曹操 の 死後、曹丕 によって 処刑 される 。石井 は﹁ ︵曹丕 が ︶ 曹 氏 のあとつぎとしての 正当性 を 主張 するとき 、丁氏一族 は 否 定 すべき 存在 だった﹂と 指摘 し 、丁氏 の 列伝 が﹃ 三国志 ﹄に 存在 しない 理由 として 、曹丕 によって 丁氏 に 関 する 史料 が 抹 殺 された 可能性 を 指摘 する 。曹丕 が 曹昂 に 対 し 厳 しめな 評価 を 下 すのも 、同様 の 理由 があろう 。 曹植との後嗣抗争 後継 を 巡 る 曹丕 の 最大 のライバルとして 知 られるのは 、曹 植 であろう 。彼 らの 後継者争 いは 、 すでに﹃ 三国志 ﹄の 段階 で 言 及 が あ り 、 多 く の 研 究 者 も お お む ね こ れ に 依 っ て い る 。 万 縄 楠 ﹃ 魏 晋 南 北 朝 史 論 稿 ﹄ ︵安 教 育 出 版 社、 一 九 八 三 年 ︶ は 、 単 なる 後継争 いという 視点 にとどまらず 、曹操政権 の 二大派 閥、 すなわち 汝 じょ 南 なん ・潁 えい 川 せん の 士大夫 を 中心 とした 世族地主集団SAMPLE
赫連勃勃 27 鉄 てつ 弗 ふつ 部 ぶ が 五 世 紀 初 頭 に 樹 立 し た 政 権「大 たい 夏 か 」 = 赫 かく 連 れん 夏 か は、 朔 さく 方 ほう に 勃 興 し、 関 中 に も 領 土 を 拡 張 し た。 北 魏 に よ る 華 北 統 一 の の ち、 赫 連 夏 は「五 胡 十 六 国 」 の 一 と さ れ る よ う に な っ た が、 実 際 の 鉄 弗 部 は 拓 たく 跋 ばつ 部 ぶ と 同 様 に、 西 晋 時 代、 塞 さい 外 がい の 農 牧 混 合 地 帯 に お い て 形 成 さ れ た も の で あ る。 彼 ら の 築 い た 国 家 は、 塞 さい 内 ない 部 族 が 築 い た そ の 他 の 五 胡 国 家 と 形 態 を 異 に し て い た。 五 胡 か ら 北 朝 に 至 る 歴 史 の 過 程 は、 北 魏 と赫連夏によって完成されたのである。
はじめに
短命 に 終 わった 西晋 の 全土統一後、四世紀初頭 から 五世紀 前半 にかけて 、中国北部 は 百年以上 にわたる 混乱期 を 迎 えた 。 王朝交替 がしきりに 起 こり 、地方政権 が 次々 に 現 れるなかで 、 とりわけ 注目 すべきは 、 このころ 中国北部 には 大量 の 異民族 ︵非漢人︶ が 活動 しており 、彼 らは 多 くの 政権 において 支配階 層 の 中核 を 担 ったことである 。一般 に﹁ 五胡十六国 ﹂と 呼 ば れるこの 時代 の 諸政権 は 、西晋 の 亡命人士 により 長江流域 に 樹立 された 東晋政権 とともに 、西晋時代 と 南北朝時代 を 結 ぶ 歴史上 の 一段階 を 構成 することになった 。 ﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ 時 代 の 諸 政 権 は 、 二 種 類 に 大 別 す る こ と が できる 。 ひとつは 、華北 において 漢晋以来中国王朝 の 心臓部 と さ れ て き た 地 域 ︵関 中 平 原 と 河 北 平 原 に 代 表 さ れ る ︶ を 領 有 する 政権 であり 、 これと 呼応 するように 、 それらの 統治者 は ﹁ 皇帝 ﹂﹁ 天子 ﹂という 称号 を 用 いた 。 すなわち 、王統上 は 西[Ⅰ
政治・人物]
赫連勃勃
︱
﹁
五胡十六国
﹂史
への
省察
を
起点
として
徐
冲
(板橋暁子・訳) じ ょ ・ ち ゅ う︱
復 旦 大 学 歴 史 系 副 教 授 。 専 門 は 魏 晋 南 北 朝 史 。 著 書 に ﹃ 中 古 時 代 的 歴 史 書 写 与 皇 帝 権 力 起 源 ﹄︵ 上 海 古 籍 出 版 社 、 二 〇 一 二 年 ︶、 論 文 に ﹁﹃ 続 漢 書 ﹄ 百 官 志 与 漢 晋 間 的 官 制 述︱
以 〝 郡 太 守 〟 条 的 弁 証 為 中 心 ﹂︵ ﹃ 中 華 文 史 論 叢 ﹄ 二 〇 一 三 年 第 四 期 ︶、 ﹁ 元 淵 之 死 与 北 魏 末 年 政 局︱
以 新 出 元 淵 墓 誌 為 線 索 ﹂︵ ﹃ 歴 史 研 究 ﹄ 二 〇 一 五 年 第 一 期 ︶ な ど が あ る 。SAMPLE
赫連勃勃 29 Ⅰ 政治・人物 28 の 筆頭 とするものであり 、中国南部 で 劉宋 が 東晋 に 交替 して ﹁ 南朝 ﹂ 時代 に 入 った 流 れと 対応 している 。 た だ し 、 注 意 す べ き は 、﹁ 五 胡 ﹂ と ﹁ 十 六 国 ﹂ は 一 種 の 歴 史 上 の 観 念 であ っ て 、 対 象 と な る 存 在 へ の 否 定 的 意 識 を はら ん で い る こ と で あ る 。﹁ 五 胡 ﹂ は 匈 奴 ・ 羯 けつ ・ 鮮 せん 卑 ぴ ・ 氐 てい ・ 羌 きょう ら 五 つ の 民 族 を 指 し 、 彼 ら に よ っ て 樹 立 さ れ た の は 、 西 晋 末 以 後 に 華 北 の 心 臓 部 を 相 次 い で 領 有 し 正 統 的 地 位 を 獲 得 し た 漢 / 前 趙 ︵ 匈 奴 ︶ ・ 後 趙 ︵ 羯 ︶ ・ 前 燕 / 後 燕 ︵ 鮮 卑 ︶ ・ 前 秦 ︵ 氐 ︶ ・ 後 秦 ︵ 羌 ︶ 等 の 諸 政 権 、 す な わ ち 前 述 の ﹁ 天 下 政 権 ﹂ で あ る 。 し か し 、﹁ 五 胡 乱 華 ﹂ と い う 語 が ま さ し く 示 す よ う に 、﹁ 胡 ﹂ は ﹁ 華 ﹂ と 相 対 化 さ れ た 、 マ イ ナ ス の 色 合 い を 帯 び た 呼 称 で あ り 、 非 正 統 で ある こ と を 意 味 す る 。 こ れ ら の ﹁ 天 下 政 権 ﹂ は い ず れ も 、 漢 晋 以 来 の 正 統 を 継 ぐ 者 と 自 任 し て い た に も か か わ ら ず 、 彼 ら に 対 し あ え て ﹁ 五 胡 ﹂ と い う 呼 称 を 用 い る こ と は 、 彼 ら の 自 己 認 識 に 対 す る 否 定 を 意 味 し て い る の で あ る 。 ﹁ 十 六 国 ﹂ と い う 語 も ま た 同 様 で あ る 。 こ の 呼 称 は 北 魏 の 崔 さい 鴻 こう が し た ﹃ 十 六 国 春 秋 ﹄ に 始 ま る 。 時 期 的 に は 五世 紀 末 、 北 魏 が 平 城 か ら 洛 陽 に 遷 都 し た 直 後 の こ と で あ る 。 同 書 は 五 胡 国 家 が そ れぞ れ 編 纂 し た ﹁ 国 史 ﹂ を 基 礎 と し て 述 さ れ た も の で あ る 、 と 崔 鴻 は 自 ら 述 べ て い る 。﹁ 国 史 ﹂ で あ る 以 上 は 、 それ ら 諸 政 権 の う ち ﹁ 天 下 政 権 ﹂ が 抱 い て い た 自 己 認 識 も ま た 、 天 下 を 領 有 す る ﹁ 王 朝 ﹂ で あ っ た こ と が 想 像 さ れ る 。 し か し 崔 鴻 は 、﹁ 十 六 国 ﹂ と い う 呼 称 を 用 い た 。 こ れ は 明 ら か に 、 史 家 の 筆 法 に お い て 彼 ら の 自 己 認 識 を 否 定 す る も の で あ り 、 前 述 の ﹁ 周 縁 政 権 ﹂ と と も に ﹁ 十 六 〝 国 〟﹂ を 構 成 す る 諸 政 権 の 地 位 へ と 彼 ら を 貶 め る も の で あ っ た 。 こ の よ う な 筆 法 は 、 洛 陽 の 北 魏 朝 廷 の 態 度 を 反 映 す る も の で あ る と い え よ う 。 と は い え 、 こ の よ う な 態 度 は 、 北 魏 孝 文 帝 が 太 和 十 四 ︵四 九 〇 ︶ 年 に 王 朝 の 徳 運 を 調 整 し た 事 件 の 帰 結 で あ る と い え る 。 ここでいう 徳運 とは 、王朝 と 五行 の 対応関係 を 指 し 、相 生 の 順 序 ︵木 ↓ 火 ↓ 土 ↓ 金 ↓ 水 ↓ 木 ︶ に よ っ て 循 環 し つ づ け る ものである 。前漢後期 における 五徳終始説 の 確立以後、古代 中国 の 歴代王朝 はみなこれを 重視 してきた 。道武帝拓跋珪 は 北魏 を 創始 すると 、自 らの 国家 を 土徳 と 定 めた 。土徳 は 水徳 ↓木徳↓火徳 の 後 を 承 けるものであり 、 これらはそれぞれ 後 趙↓前燕↓前秦 に 対応 するものとされていた 。 そして 後趙 の 水徳 とは 、西晋 の 金徳 を 承 けるものと 考 えられていた 。北魏 が 自 らを 土徳 と 位置 づけた 行為 は 、北魏 に 先行 する 五胡 ﹁ 天 下政権 ﹂の 自己認識 を 承認 し 、 かつ 彼 らが 漢晋以来 の 天下 を 領有 したことを 承認 するものであった 。 ところが 太和十四年 になって 、北魏 は 自 らの 徳運 を 水徳 に 改 めることで 、先行 す る 五胡国家 の 正統性 を 否定 するとともに 、西晋 の 金徳 を 直接 晋王朝 の 継承者 を 自任 したのである 。 これらの 政権 はいわば ﹁ 天 下 政 権 ﹂ で あ り 、 ︵ 匈 きょう 奴 ど の ︶ 漢 / 前 ぜん 趙 ちょう ・ 後 趙・ 前 ぜん 秦 しん ・ 前 燕・後秦・後燕 などが 該当 する 。 これに 対 し 、 もうひとつの 類型 は 、漢晋以来 の 心臓部以外 の 周縁地域 に 割拠 した 諸政権 である 。 それらの 統治者 は 称帝 の 野心 を 持 たず 、華北 の﹁ 天 下政権 ﹂あるいは 江南 の 東晋 による 冊封 を 受 け 入 れた 。一部 には 称帝 した 例 もあるが 、 しかし 中原 の 心臓部 を 領有 したこ と は な か っ た 。 こ れ ら の 政 権 は い わ ば﹁ 周 縁 政 権 ﹂ で あ り 、 ﹁ 諸 しょ 涼 りょう ﹂・西秦・南燕・北燕 などが 該当 する 。 赫 かく 連 れん 勃 ぼつ 勃 ぼつ が 樹 立 し た﹁ 大 夏 ﹂ は 、﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ の 一 と し て 位置 づけられてきたとはいえ 、 この 類型 を 基準 にして 考 え た 場 合、 明 ら か に 異 質 な 性 格 を 有 し て い る 。 赫 連 夏 は 朔 方 ︵現 在 の 内 モ ン ゴ ル 自 治 区 オ ル ド ス 地 区 ︶ に 勃 興 し た が 、 一 方 で 、 十 年 の 長 き に わ た り 関 中 地 域 ︵現 在 の 陝 西 省 ︶ に も 領 土 を 保 有 し た 。 勃 勃 は 当 初 ﹁ 大 夏 天 王 ﹂﹁ 大 単 ぜん 于 う ﹂ を 号 し た が 、 東 晋 から 長安 を 奪 うと 皇帝 に 即位 した 。 ここには 明 らかに 、漢 晋 の 王統 を 継承 した﹁ 天下政権 ﹂としての 自己認識 を 見 て 取 ることができる 。 しかし 、歴史上 における 赫連夏 の 位置 づけ は 、先 に 挙 げた 五胡十六国中 の 諸 ﹁ 天下政権 ﹂には 遠 く 及 ば な い も の で あ っ た 。﹁ 暴 君 ﹂ 赫 連 勃 勃 は 、 早 々 に 滅 亡 し た 夏 国 とともに 、 この 時代 の 負 の 面 を 象徴 する 典型 として 後世長 く 記憶 されることになったのである 。 赫 連 夏 は 、﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ に 対 す る 伝 統 的 な 理 解 に 即 し て 分類 することが 困難 な 存在 であり 、実際 のところ 、我々 は 他 でもなく 赫連夏 を 通 じて 、伝統的 な﹁ 五胡十六国 ﹂ 理解 に 内 包 さ れ て き た 問 題 を 明 る み に 出 す こ と が 可 能 に な る 。 そ し て 、問題 の 根源 は 事実上、赫連夏 と 同 じく 上記 の 基準 に 即 し て 分類 することが 困難 な 政権、 すなわち 北魏 の 中 に 見出 され る 。本稿 は 、鉄弗部/赫連夏 の 歴史
︱
とりわけ 彼 らと 拓跋 部/北魏 の 歴史 が 交錯 する 時期︱
の 整理 と 比較 とを 通 じて 、 ﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ か ら﹁ 北 朝 ﹂ に 至 る 歴 史 の 筋 道 を 改 め て 把 握 することを 目指 すものである 。﹁
五胡
﹂
と
﹁
十六国
﹂
拓 跋 部 を 中 心 と し て 成 立 し た 北 魏 は 、 一 般 に﹁ 五 胡 十 六 国 ﹂ 時代 の 幕引 きをした 政権 とみなされている 。 これは 他 で も な く 歴 史 的 事 実 で あ る 。 道 武 帝 拓 たく 跋 ばつ 珪 けい に よ る 建 国 ︵三 八 六 年 ︶ 以 後、 北 魏 は 数 十 年 間 で 後 燕・ 赫 連 夏・ 北 燕・ 北 涼 等 の 政権 を 相次 いで 滅 ぼし 、華北統一 を 完成 するとともに 、百年 近 くその 状態 を 維持 することに 成功 した 。西晋末期 の 永嘉 の 乱以来、長期 にわたり 中国北部 を 席巻 してきた 混乱 を 収束 し たのである 。 いわゆる﹁ 北朝 ﹂という 概念 もまた 、北魏 をそSAMPLE
魏晋期の儒教 81 儒 教 の 停 滞 期 と み な さ れ が ち な 魏 晋 期 で あ る が、 実 は 儒 教 史 上、 重 要 な 意 味 を 持 つ 時 代 で あ っ た。 後 漢 期 の 儒 学 を 継 承 し つ つ、 魏 晋 期 ら し い 清 新 な 学 問 で あ る 玄 学 に 基 づ く 経 書 注 解 や「論 」 と 名 づ け ら れ た 注 釈 書 も 登 場 し た。 魏 晋 の 国 家 は 儒 教 に 依 拠 し て 学 校 や 礼 制 な ど を 整 備 し、 儒 教 の 発 展 を 支 え た。 後 世 に 与 え た 影 響 か ら い っ て も、 魏 晋 期 儒 教 の重要性は看過できない。
はじめに
孔 こう 子 し を 祖 とする 儒教 は 、戦国時代 を 通 じてその 内容 を 充実 させ 、勢力 を 伸張 していったが 、国家 との 関 わりを 本格的 に 持 つ よ う に な る の は 、 前 漢 時 代 ︵前 二 〇 二 ︱ 後 八 ︶ の こ と で あ っ た 。 続 く 新 代 ︵八 ︱ 二 三 ︶ は 儒 教 を 国 の 根 幹 に 据 え る 制 度 設 計 を し 、 さ ら に 後 漢 ︵二 五 ︱ 二 二 〇 ︶ も 国 家 と し て 儒 教 を 重 ん じ た 。 か く し て こ の 両 漢 時 代 ︵漢 代 ︶ を 通 じ 儒 教 と 国 家 との 結 びつきは 決定的 となり 、当時、名儒 が 数多 く 出 たこ ともあり 、漢代 は 儒教 が 最 も 栄 えた 時代 の 一 つとして 学術史 上 に 位置 づけられる 。 そ の 一 方 で 、 三 国 両 晋 時 代 ︵魏 晋 時 代、 二 二 〇 ︱ 四 二 〇 ︶ の 儒 教 は と い え ば 、 む し ろ 勢 い の 衰 え た も の で あ っ た と す る 見 方 が あ り 、 今 日 な お 影 響 力 の あ る 儒 教 史 の ひ と つ 皮 錫 瑞 ﹃ 経 学 歴 史 ﹄ ︵一 九 〇 六 年 刊 ︶ な ど は 、﹁ 経 けい 学 がく は 漢 に 盛 ん に し て 、 漢亡 びて 経学 は 衰 う﹂と 言 い 、同時期 について﹁ 経学中衰時 代 ﹂と 総括 した 。 しかしこの 時代 の 儒教 の 隆盛 を 勘案 すれば 、[Ⅱ
思想・文化]
魏晋期
の
儒教
古勝隆一
こ が ち ・ り ゅ う い ち︱
京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 ・ 准 教 授 、 専 門 は 中 国 古 典 学 。 主 な 訳 書 に 井 筒 俊 彦 ﹃ 老 子 道 徳 経 ﹄︵ 慶 應 義 塾 大 学 出 版 会 、 二 〇 一 七 年 ︶、 著 書 に ﹃ 目 録 学 に 親 し む ﹄︵ 共 著 、 研 文 出 版 、 二 〇 一 七 年 ︶、 ﹃ 中 国 中 古 の 学 術 ﹄︵ 研 文 出 版 、 二 〇 〇 六 年 ︶、 な ど が あ る 。SAMPLE
魏晋期の儒教 83 Ⅱ 思想・文化 82