『ウしオ ・−ルデ。ン』一一研一究・・: ・・(I),十(U) 上 岡: 克.・ 己万 (人文学部英文研究室)
A∇Study
of Walden:(I),(H)
Katsumi Kamioka \ \ toetaT猟師t of English, School・・吋Hitma軸索s)第一章:ウォールデン湖への道
ニ I \ ハーヴァード大学の卒業を間近に控えた1837年6月,ソうロヴは卒業アルバムの中で注目すべき 告白をしているレエ 犬 ∧ 犬 僕は一生自分の生まれた地を自慢したいし,子孫に恥ずかしい場所になって欲しくないので ・. ・ ・ . . ・ ・ ・ I ・:・・・・ : .・・ たか ある.ああ/コンコードよ,君のことを忘れるくらいなら√僕の愛情など高が知れている.君 の名前が見知らぬ土地では僕のパスポートになるのだ。世界のどこをさ迷うとも,僕はコンコ ノースブリッジ● = ●・ ▽ −ドの北橋から叫ぶことができるのは幸運だと思いたい。……4吏の身体はパーツァートの 一員であったが,心と魂において僕は這か昔の子供時代の風景の中にあったと言った方がよい であろう。勉強にあてられるべきであづた時間が,郷里の村の森の中を歩き回ったり,\湖や川 の探索に費されたのだった。(五万'M, 113¬14)ト ‥ 彼が7yコードで生まれたのは,どう考えても運命的だった。その生地はアメリカ史上二つの顔 をもつ。その一つは, 1775年アメリカ独立戦争勃発の地でありレもうぷつは19世紀半ばのアメリカ ンリレネッサンスの花開く中心地であったことだ。このような精神風土の他に,豊かな自然があっ たのである。この村のどんな片隅にも,美と健康と希望が見出された。森,川√湖,野原…が詩 人の想像力を駆き立てた。そうしたコンコブドの自然の中でも,とりわけ彼の心を惹きつけるもの があうた。それは,ウォールデンという小さな湖である。ソーgウが物心ついて以来抱いていた心 象風景の第一頁には, 4, 5歳の頃白訪れたウォづレデン湖の美しい神秘的な姿が記されていた のであった。 十 十, ∧33年前の5歳の頃,僕はボストンから遠く離れたこの湖に連れて来られた。ここは当時僕に とって広い世界の別名にすぎなかったが,僕の思い出のタブレットに記された最も昔の光景の 一うであった。多くの特徴や想像力が生まれゐアジアの谷という世界で,長い間森の風景が僕 の夢を織りなすものとなった。僕の精神は,早くから自然を深く考える余裕を持てるように, そこでの甘美な孤独を必要とし,また耳で大切な音を聴き分けることができるように,表惰豊194 高知大学学術研究報告 第38巻(1989年)人文科学 その1 かな沈黙を必要としていた。僕の心はなんとなぐすぐに,まるで適所を見出したごとく,T騒々 しく変化する町よりも,松に囲まれ光と影だけがその風景をj変えるこの奥深い地が好きになっ た。(PJ, 2:173-74) / 1 ・ ■ ・■ ■ ‥都会の喧騒を離れ,松の本に囲まれたこの小さな湖は,光と影だけが風景を変える悠久の静寂の 中でひっそりと横たわり,長い間彼の夢を織りなし続けでいたのであうた。思い出のタブレットレに 記された幼児体験から20数年後,ウォールデン湖畔で独居生活を実践するまでの道の非は決して平 坦ではなく,むしろ様々な事件や出来事が大なり小なりの影響を与えて,彼の眼前を通り過ぎて行 った。そうした長い時の経過の中で,ウォールデン湖はソーロウの心の中でどのように捉えられ, そのイメージはどのように形成されていったのだろうか。ソーロウの想像力の展開過程を克明に辿 ることは,ウォールデン湖滞在中に学んだこと,及びその経験を基にして創造されたWalden (1854) の理解と同様,彼の精神的成長を知る上で重要なプロセスであると思われる七,人生と‥芸術の絆が。 極めて強いソ・−ロウのような作家にとっては特に,芸術作品完成までの精神構造の軌跡を抜きにし ては, Waldenを語ることができないように思われる。実際m心9完成までの過程は極〕めて魅力 に富み,興味深いものがある○ / ・ 。 ・ ●・\E 。。。 ・・ レソーロウが書いた文章の中で最古のものは,ヶコンコード・アカデミ一存学中の11, 12歳頃に書か れたとされる“The Seasons” という短い作文であ岑。課題「なぜ季節は変化し,冬は苦渋の表情 を見せるのか?それは変わりゆく月日を支配する天上の神の思召であるからだ」に答えて√「丁年 には春夏秋冬の四季がある‥…・春は氷が溶け,樹木が芽吹く季節・・…・夏は花が咲き美しい季節,尚 …‥・秋は収穫と落葉の季節‥…・冬は一面の雪景色の季節」(EEM,3)と語る。これは季節の 常套句を並べたてただけの,子供の作文としても決七て高度なレベルのものではないことは自用だ が,現存している最古のものが,自然,それも季節の移り変わり√手節のサイクルに関する作文で ある点,彼の人生と自然との気高い関係の始まりを暗示するど考えれば興味深い。将来ごの季節の 推移とそこに生きる人間との関係が主題となって語られる日が来るのである。六大 十コ ゲ 16歳でハーヴァードに進んだソーロウは,修辞学のエドワード・ティレルフチャニング教授指導 の下,文学の魅力に取り憑かれるのである。教授宛に提出された数多丿くダ)レポートが残されておりI, これらのレポこトの課題には,ヨーロッパのロマン主義の洗礼を受けた教授らし吝が随所に色濃く 反映ミ5れているのであったー「想像力,貴さ,スタイル,=話し方,プ日記のつけ方,作家め生活, 国民文学,順応主義,行動力の多様さ,発見者の喜び,職業など多岐にわたり,これらは好みと性 格形成上の練習となり,文学と生活を結びつける長所をもっていたち。」そして文学に携わる喜び をソーロウの心に確固として植えづけのであった。この過程でソーロウが学んだのは,作家は執筆 のために都会の喧騒を離れレ自然の中に隠棲する必要があゐということだった6
/例えば1835年9月18旧に提出しだPrivileges and Pleasures of a Literary Man"によれば,「す べての文学に携わる人々は森を愛し都会を離れた」で始まり,ブこれは現代ダ)文学に関わる者にも あてはまり,喧騒の世界を離れたいという願望は,あらゆる鈴代の,研究に専念し,天賦め才によ って高められた心の持主にこそ相応しい。‥…・ホラチウスが隠棲を望み,田舎を好んだことはよ く知られている。…。‥・アダム・スミス著『国富論』という秀れた作品も,10年に及ぶ隠棲のおか げであった。これはその他多くの人にもあてはまることである。隠棲は純粋な楽しみである。しか しこの道は,高尚で教養ある精神の持主によってのみ歩むことが可能なのである一知性が研究や 瞑想のための訓練を受けていない人が,ここで喜びを捜そうなどとは愚の骨頂マある。彼にとって その道は暗く,荒涼として不毛,荒廃している。ある作家は次のように語る。『瞑想のにつは俗世 界から離れる力にあり,休んでいる間に心の中で世の動きを見ることである・‥・・・』……孤独を楽し
「ウ=オールデン 研究:(I), (I) (上岡) 195 む利点を持っている人こそ幸福な人である。」(EEM,19-20) ニ ノ ‥‥‥‥‥‥ 更に“Popular Feeling”に関するレポ←卜の中で,「大衆の心情に甘んして流さ犬れることなく√ 大衆から超然どしている人々を見かけると,そうするのが当然であると思う=つまり彼らはもの の本質を衝いている一少なくとも衆愚には理解できぬものを発見するにたる本質に造づていると 断定しでもよか乙う」{EEM, 24)ことあり,ここでも時代の主流から離れて俗世を眺める必要性を 説くよその方が這かに世め中が見えるのである。更に具体的内容がウイリアダム・ホウイッツ著T加
励油げ加Seasons; or The Calender of Na良傀(1叩丿入の書評に見ら‥れる。これはチャ二ン\グ教授の 課題ではなく√ハーヴァード大学の学内雑誌Harvardianaのために書かれた:もので,彼の好みの主 題らしく他のレポヴト類と比ぺて遥かに長くな丿ている。彼ぱこめ中で,目先の利益ばかり考えて いる人には全く閉ざされているが,自然の豊かな恵みから得られる純粋で内容のある喜びというも のがあり,自然々愛する人はそれらを享受することが可能であると語るよまたシュレーゲル(1772 ニ1829ドイツの文芸理論家)を引用し,再び孤独を愛し社会を離れて自然の中に入る意義と必要 性を強調するのである。この書評は後の妬心四を暗示吝せる多くのイメージに富んでいる。△例え ば金持と自然の関係について,「いわゆる金棒は√名誉を享受し,贅沢や浪費に浮かれ,何千何万 という数で富の勘定をするーしかし自然の恵みを拒否したり,逆に拒否されたりすれば,し金持と て実際は貧しいのである」(EEM・, 35)と言及する。一般に大学時代に書かれたレポート類は√教 授から与えられた課題について書き記したもので,尚彼自身の発想と創造性には制約があると考えら れがちだが,出来上った論には明らかに後のソー台ウの主題を暗示させる多くの原型が見出される
のである。 ‘'Foreign Influence on American Literature” の中では「実用性が私達の周りでは関の声 となっている。私達は投機家√株式仲買人,両替商の国である」{EEM, 39)と語る。更にレポー トの中で最も重要なものと考えられる,卒業直前に書かれだBarbar・ities of Civilized States” は, 後のソーロケの思想過程を語る上で必要不可欠な論であるよこの中で述べられた「文明人は物の奴 隷となっている」(万万・M, 109),「自然は人間に道徳的影響力を与え続ける」(瓦石M, 109),「イン ディアンの方が都会人よりも人間らしい。被け人間として生き,死んでゆく」征'EM, 110)など のイメージは,“Economy”の章の中で頻出するものである。j し ソーロウにとって最も重要な作品は, 1836年に出版され超越主義運動の声明書となったエマソン のNatureであろう。おそらく彼に最も大きな影響を与えた文学作品はこれをおいて他には考えら れず,類似の表現がWaldenの中に頻出する事実はよく知られている。リチャードソンの言うよう に, Natureを通して「個人はいかに生きるべきダかという問題の答として,神,ポリス,すなわち 国家,社会ではかく,自然に帰らなければならない“13」ことを教えられたのであったノ更に「関係」 (relation)という,今まで意識しなかった目に見えぬ存在を想起させたことが重要である。後に彼 はよく「関係」という言葉を使って人間,自然,社会の複雑多岐な構造を解明する6もちろん厳密 な社会学者ではなかうたので,持前の理想主義が随所に見出されるが,無数にある関係の中でも「個 人と個人の関係」√「個人と社会の関係」,「個人と自然の関係丁を主要な軸とし√あえて付け加える とすれば,この上に「個人と神の関係」があると考えた。この真理を見抜く一つの方法と七ての「関 係」め洞察は,エマソンのNatureから示唆されたもめだらた。\Natureは「関係」の美学書とも言 える。例えば「宇宙との独自の関係」を結ぶように勧め,「人間と植物の間にある神秘的関係」,ゲ「心 と物の関係」を知るように促す。エマソンによれば,「人間は様々な存在の中心に位置し,周りの すべての存在から,関係が彼に向って一筋の光さながらに集まって来る」icw, 1:27卜のであり, この関係を整理し,いかに自分を中心とセて新しい,世界像を創造することができ\るかーいかに 自己が主体的本質的関係を逆照射することができるかレ実はそれが後のウォールデン湖で試される
196 高知大学学術研究報告 第38巻(1989年)人文科学 その1
この中でソーロウは,ごもし教育が宗教心を慈しみ,伸ばしーたえず神と自然に対する人間の神 秘的関係を思い起させーこの現実世界の骨折り仕事よりも人閣々大切に考えよ/うとするなら,そ れはよいことである」{EEM, 108-9)と語る。。更に続けて,。犬。教育とは「自分でなレいもの(the Not Me卜との接触を通して自分の中にあるものを引き出し伸ばすことであるから,\人工(Art)しよ
りも自然(Nature)の手にあれば安心できる」(££耳, no)とも語る。ゲ‘。‘theNot Me”√"Art”,□“Nature” は,Natureの中にある語句サであり,この事実からもNatureめ影響こをすぐさ=ま受けた/のは確実である。 クルーチの言う「ソゞロヴは7\心加を読むまで。は,自然が知的対象に柑応しい主題であることに 気がつかなかったヤ」ということは言 に他ならないのであった。Natureに触れて初めて漠然としていた自然が,ト単なる風景から魂の風 景へと変わらていづたのであり,彼はその/自然と自己との「奘係」=を見詰めて,自らの生きる指針 としなのである。これから後ソーロウは真の関係づtrue relation)を求めて生きて行こうと努力す るのであった。その努力の跡は,り。m 「や叩州aの坤で詳細に語られている。彼はNatttTeムに将 来進Iむべき道を示唆されたよう\に感じたに違いない。 彼は終生Natureを屋根裏部屋の書斎に置い ていたと言われている゛5.ぬ切じの教えは彼の生涯の座右の銘七あっためである。……… このように見てくると,W 汢チnが出版された1854年をソーロウめ芸術的才能め頂点だとすれば, それから遡ること17ヤ18年前の大学時代に作家としての修行時代が始まうていたと考えられるし, 将来発展させるべく重要なテーマが彼の心の中で形成されつつあづたと言える。それを最も端的に
語っているのが,大学の卒業式当日の討論会で表明しだThe Commerc叫Spirit of ModernくTimes” に他ならない。これは討論会の席で発表されたものであるが,述べられた趣=旨は彼自身大学4年間 の総決算として考え抜いた「「知的独立宣言」と十分呼べるものに値したのである\よここ・に明確に ソーロウの思想的基盤が確立されたことを読者は知るのである。彼によれば,人間の歴史は本来人 間性の歴史であって然るべきだが,現代は「商業精神」が時代の支配原理となりソ人々め意識を形 成して坤く。そうした中でこそ人間らしい独立七だ生活の必要があると強調するのであるノ ∧ 自らの本性に忠実に,精神的愛情を培い,人間らしい独立七だ生活をしよトうTごはないか。富を 生活の手段としても,目的とはしないように努めようではないか6そうすれば√犬もはや商業精 神という言葉は耳にしなくてもすむだろう。海は淀むことなく,大地は今まで同様緑に包まれ, 空気も新鮮となろう。僕達が住むこの不思議な世界は,便利というより何と素晴らしい世界で あろうか,役立つというより何と美しい世界であることか。利用するより感嘆し享受すべき所 なのだ。物事の順序を逆にしてはどうだろうか。七番目の日,\つま年日/曜日を労働の日として, ニ額に汗して生計を立て,他の六日間は,愛情と魂の安息日にして,この広い大地を散策し,自 然の優しい感化力や高貴な啓示に触れようではないか。丿五・EM, 117ト 更に「人間は必ずしも物の奴隷でぱなく,獣と同一視がれる世俗的欲望を捨て去り,万物の霊長 らしくこの世の楽園で日々を送ることにしようム」(EEM, 118)と付け加える。ここには後のW d四理解の手掛りとなる幾つかの要素が明確に読み取れる。時代の支配的精神となった商業主義の 中で,人々の意識はそれに翻弄されつつあった。ツーロウは二つの対策とセて自然を揚げたのであ った。つまり崇高な自然の優しい感化力や啓示に触れることにより,商業主義・し産業主義によって 歪曲された意識を回復することであった。これは後にWaldenの中で如何なく発揮されることにな る。そして,最大のテニマの一つでもある「物と心」の問題は,これから1年月を重ねてゆぐうちに 徐々に解明されてゆくのであった。 < 卒業奇前にした夏休み中に,ソーロウはハーヴァードの友人ウィーラーがフリント湖畔に建てた 小屋で6週間共同生活をしている。ウィーラーはコンコードの隣り村リンカーンの出身で,彼の家
『ウレオールデン』研究こ出,ご(H)十(上岡) 197 の近くにはリンカ,一一ン創設者の一人の名前をとったブリテン下湖があった。彼は1836年の夏,この岸 辺に小屋を建て,ソーロヴもそれを手伝ったようであるレ翌年の夏,つまり卒業を目前にした夏休 み中に,二人はこの小屋での生活を共に楽しんだのであった。おそらく卒業式め席上で述べた「商 業精神」の構想はごこで練られたものではないかと思われるし,何よりも\8年後めウォールデン湖 畔でめ実験生活に示唆を与えた大きな¬-つの契機であった。そもそもソ=−ロウが実験生活の場を物 色していた時,ウィーラーと生活したことのあるフ丿ント湖が候補に上ったのは言うまでもない。 しかし地主のフリントの許可が貰えず,結局はエすソンの所有していたウォールデン湖畔に落ち着 くことになった。このことは,後でも述べるようにかえらて好都合であった。なぜなら彼にとって 「湖水は風景の中で一番美しく表現に富む部分」{W, 186)でなければならずノ「それは大地の眼で あり,見る者はそれを覗きこんで自分白身の心の深吝を測る」{W, 186)所でなければならないか らである。深く澄んだウォールデン湖はうってつけの心の鏡となった。更に鉄道が近くを通ってい ること,湖の氷が商業用に切り出されることが,幸か不幸か文明と自然のコントラストを印象づけ る効果があったし,何よりもウォールデン湖には先住民の歴史の香りが漂っ:ていかのだった註6. ∧ Uニ ∧ プ ソーロウが卒業した1837年という年は大不況の最中で,巷には失業者が溢れていた。パーツァー トの卒業生としてその影響はまぬがれなかったが,選択の幅が狭められている程度だった。当時の 大学卒業生は当然「牧師,医師,弁護士,/教師」になるこノとが期待されていたし,ソーロウの母が 息子に弁護士になるのを望んだとしてもごく自然のことだったのであゐ。だが根っから世俗的成功 と順応主義を嫌った彼が選ぶべき職は√結局姉や兄ど同様の教職口限定されていたということは, 当然のなりゆきかもしれない。尚十 二万 ト つ ト 不況の中で,運よく彼には故郷のコンコードの教育委員会から,/公立のセンター・スクールで教 えないかという誘いを受けていた。既に大学3年の時ブラウンソンの勤めていた学校で一時教えた 経験もあり,また条件もしよかったので彼は躊躇するこ/となくこの申し出を受け入れた。 と こ ろが僅 か2週間授業を行っただけで辞表をたたきつける羽目になったノここに彼のモラ。トリアム宣言が見 出される。理由は,体罰を重視する公立学校の教育方針に合わなかったからである。ソーロウは子 供に鞭打つことはできなかった6「ハエさえ殺せない」心優しい人柄であった。教師を辞任した主 な理由は,この体罰重視の教育方針についてゆけなかったこと,それに生徒の質が低かったこ/とが 挙げられるが√年月の如何を問わず彼が公立学校勤務を遂行できないことはある程度の予想がっく。 公立学校ゆえ教育委員会の権限の下にあり,自/由な教育を信奉する彼にとって,拘束の多い身分は 窮厄極まりなかったことであろう。おそらく彼にしてみれば,コンコードで雇われて教師をすると いうのは,大人の社会の一員,管理社会組織の一員としてみなされることであったであろう。ソー ロウはセンター・スクールで数日授業聚体験しただけで,コンコードのオーソリティーやステイタ スを意識したとしても不思議ではない。この事実を悟った瞬間に彼は辞めることを決意しためであ る。体罰の一件はともあれ,自由に生きることを切望する彼が,自ら進んで社会組織の一部を構成 する,いわば主体的関係を捨て去ることは,もともと無理なのである。もっとも,この問題一白 -我と社会の関係,作家レ芸術家と社会の関わりの問題-は,生きる上で,否応なく解決しなくて はならないもので,彼は生涯この難問と対峙しなければならないことになる。ともあれ宍−ロウは, 「教師を辞めることによってモラトリアムの宣言をしたのである。レ急ぐことはないという訣意の表 明であっだ17」のであり,その後一切定職らしきものにつかなかったのは,何事にも順応と束縛 を嫌う彼の頑固一徹な性格を物語るものでもある白よ ニ 犬
198 高知大学学術研究報告 第38巻 989年)ノ人文科学ノその1 犬この時期最も重要な出来事はエマソンとの出会いであった。エマソンとソーロウの直接的な出会 い]の時期には諸説がある。ソーロウ家に下宿していたエマソンの義姉ブラウン夫人が,ソーロウの △詩の原稿を見せたことがきっかけとなったとか,ソーロウの姉妹のどちらかがブラウン夫人に彼の 日記を見せた辻どが親交の契機となったとかいう話かおる゛9ムいずにせよその時期は,ノレロウ が大学を卒業七で郷里めコンゴゞドに帰って間もなくのことと推定される。それを如実に示すもの は,土マソンの勧めで1837年10月22日から書き始められたJmimalの存在である。二人は一体何を 互いに見出して,いわゆる「友情」を深めることになったのかレソーロウは大学時代チャニング教 授を通しでレコロンブスやニ:ユフトンのように世間の偏見と戦い√不滅の真理を追求する英雄像に 接し,\自らも英雄を模索していたが,本の中でしか見出すごとができなかった。大学卒業後,生き ■ ■ ■ s るモデルを捜し求めていたソーロケにとって,14歳年上の講演家であり哲学者であったエプソンが, 身近な理想像に映ったのである。ソー台ウにとってみれば願ってもないことだった。彼にしてみれ ば,エマ1ソンは感動的なNatureの著者であり,講演家としても活躍七ている当代一流の学者であ肌 何よりも型にぱまった聖餐式に異議を唱え,良心に則りボストン第二教会の正牧師という要職をな んの未練もなぐ辞任したエマソンの姿に,権威に屈するごとなく自己の信念を貫く英雄の姿を見出 したに違いないのである。それはソーロウ自身の体験,権威的な教育委員会の方針に対しでゼンザタ ー・スクールを僅か2週間で敢然と辞めていった自己の姿にオーバーラップされて映ったに違いな かうたのであった。こめエマソヅの良心に則り,自己の信念を貫く犬「自己信頼」の行動はに彼の Nature同様ソーロウに大きな影響を与えることになる。一方エマソンは,この頃前途有望な兄弟し を相次いで亡くし,不幸のどん底にいてすうかり意気消沈していた。犬そんな中で荒削/りで粗野では あるが,人生や自然に対し野性的な眼を爛爛と輝かせている青年ソ二口\ウの登場は,ト「エプソンの 生活の空虚さを満たすのに十分役立うだ・10」のである。とはい支一時的な感情辻囚われでソ十口し ウを見出した訳ではない。既に“Sic Vita" を読んでその才能を見抜いていたからであり,ト更に彼 自身と同様,ソーロウが自己信頼に基づいて学校を辞めた事実も聞き知づていたであろうノニ人に は「友情」め絆を深める素地は整っていたのである。エマソンにとってソーロケは彼自身の追求す る偉人や英雄の域には程遠かったかもしれないが,野生児ソーロヴの方は,この時確かにエ々ソ:ン を理想の師と仰いでいたはずである。ウォールデン滞在中に師に対する敬愛の情が最も大きくなっ ていたー「エマソンは比類なき才能の持主である。人間に内在する判丿性は,今まで決して容易に, 系統的に明確に表現されることはなかったのである。:若者に与えたエマソンの影響力は絶大ヤある。 彼の世界ではすべての人が詩人になれ,愛が君臨し,美が誕生七レ人間と自然が調和する。」:ipj. 2:224) 犬 / \ ●●●●●● ●● ●●● ●●●●●\ エマソ=yがソーロウに与えた影響は,有形無形を問わず計り知れないものがあるがい具体的に次 のような形となって現われた。(1)日記を付けるように勧めた,〉いわば自己省察の機会を与えたこと, (2)超越主義者の機関誌励 氓ノ投稿の場を提供したこと,(3)書生として自宅に住まわせ,文学修行 をさせたこと, (4)スタテン島に住むエマソンの兄の家での家庭教師を斡旋し,ニューヨークの出版 界と繁りをもたせたこと, (5)ウォールデン湖畔の土地を提供し,小屋建築の許可を与えたことなど である。これらはすべて師エマソンが可愛い弟子に対する思い遣りと期待から生まれたものだが√ ソーロウレの方もそれに対して十分応えたのだったU。‥‥‥‥‥ \ 十 \ 大学を卒業七だ1837年8月から,ウォールデン湖畔での実験生活に挑戦する1845年7月まjでの8 年間,すなわち20歳から27, 28歳までの20歳台の8年間は,生命力に溢れ,みずみずしい感性の発 露たる時期と,将来への不安,幸福感と自己嫌悪,焦蹄感が心の内外ともに複雑に交錯した時期に 相当し,まさしく自己確立期にありかちな,典型的な青春時代と言えるだろう。その過程を簡単に 辿れば,いわゆる教師辞任によるモラトリアム宣言から,エマソンとの出会いを通して日記を書jき
『ウォールデン』研究:(I), (I) (上岡) 199 始める。自ら学校を開く一方で,ライシーアムで講演をしたり,彼には珍しく責任ある書記,主事 の職を勤め,地域の文化向上の一端を担う時期もあった。更に兄とのコンコード川とメリマック川 の旅,エレンとのはかない恋を経験し,超越主義者の機関誌Dialに投稿する一方で,編集を手伝 ったりすることもあった。またエマソン宅に2年間住み込むという貴重な体験をする一方で,その 間に最愛の兄を亡くすという人生最大の危機に瀕したこともあった。その後半年間ほどスタテン島 で家庭教師をしたが,都会の生活に馴染めず, 1843年暮れには再び郷里のコンコードに帰って来て, 父の家業である鉛筆製造を手伝っていた……。このように見てぐるとレこの8年間は外面内面と もども結構あわただしく,一時も心の休まる暇がないように思われる。だが教師にせよ,家庭教師 にせよ満足すべき仕事ではなく,ましてや家業の鉛筆造りにも充実感など見出せるはずがなかった のである。その一方で作家への夢は捨てきれず,むしろその野心は募る一方であった。Dialを通 して幾つかの注目すべき小品を発表し続けていたが,文壇で認められることはなく,彼はもっと長 い作品に挑戦しなければならないと考えていた。 ソーロウの創作ノートは,エマソンの勧めで書,き始められ,一生涯継続することになるJournal である。このJournalの第一真には,「『君は何をしているのかい?』と彼は尋ねた。『日記を付けて いるかい?』-そこで今日から日記を付けることにする」とあり,続けて孤独の話題から書き始 める。「独りになるためには,現在から逃れる必要があると思う一僕は自分自身をも避ける。ロ ーマ皇帝の鏡の間ではどうして独りになれようか?僕は屋根裏部屋を求める。蜘蛛など邪魔になら ぬし,床の掃除やガラクタ品の整頓などしなくてもよいからだ」㈲,1:5)とある。エマソン はNatureの第1章冒頭で「孤独になるためには,社会ばかりでなく自分の部屋からも身を引かね ばならぬ」(CW, 1:7)と述べているが,ソーロウは自己を見出す孤独の空間として自らの屋 根裏部屋を求めた。既にNatureを読み,自然の持つ精神的意味を十分理解していた彼にとって, 最高の思索の場は自然以外にはありえなかったであろうが,自然の中で生活し思索するという計画 はいまだ具体化されず,「どこかの丘の斜面に家を建て,神様の遣わした生活をしたい」(PJ, 1: 296),「湖畔で暮したい」ipj, 1 : 347)という願望が現われるのは,日記を付け始めてから4年 後のことであった。 彼の屋根裏部屋は,「一日のうちほんの僅かな間でも自室に戻り,完全に自己に忠実になれる時 ほっとする」ipj, 1 : 290)と認めているように,彼自身のアイデンティティーを確認する上で重 要な場であった。三方を壁で囲まれているとはいえ,彼の想像力は自由自在に飛翔し,海,山を越 えて古今東西あらゆる時と空間に旅立つことも可能であった。実生活でコンコードを遍く旅したの と同じように,彼は屋根裏部屋の一室にいなからにして世界を旅することができたのである。 屋根裏部屋に引き寵る最大の利点は孤独になれることであり,内省を通して自分自身と直面でき ることであった。 1840年4月8日,彼は日記の中に次のように書き留めているー「どうすれば自 分自身をよりよくすることができるのだろうか?それは,屋根裏部屋に引き寵り,蜘蛛や鼠とつき あい一遅かれ早かれ自分白身と直面しようと決意することによってである。今も将来も永遠に僕 は完全に静かに集中できるであろう一歴史が示す最も積極的な人生は,たえず実生活から退くこ とにある一実生活から手を切り一如何につまらぬかを悟りーそれとは関係を持たぬことであ る。」ipj, 1 : 121)屋根裏部屋こそ詩人にとって貴重な自己との対話の場であり,創造的な人生 を送る場なのである。更に重要なのは,ソーロウの屋根裏部屋にある窓から「すぺてのものが真の 関係(true relations)において捉えられる」㈲,1 :73)ということである。おそらく,屋根裏 部屋で構想を練る詩人の洞察力が,すべてのものを真の関係において捉えていることを主張したか つたのではないかと思われる。この詩人の姿勢は,虐飾に彩られ始めた産業化の一途を辿るアメリ カ文明の中で,見せかけ(appearance)を排しレ真実(reality卜のみ帝求める真摯な洞察者の生き
200 高知大学学術研究報告 第38巻(1989年)人文科学 その1 方である。蒸気機関車が走り,電信が架設され,大量の消費材が製造されるに至り,人々の生活が 近代化され,物質文明の恩恵を限りなく被り始めたが,それとは裏腹に同時代の人々を支配するこ の意識が,従来の個人と社会と自然の調和した「黄金時代」の生き方に反することをソーロウは悟 ったのであった。その上政治の分野においても,奴隷制度やメキシコとの戦争という厳然たる否定 的事実が存在していたのである。彼はこうした19世紀中葉の現実-「この落ち着きのない,神経 質な忙しない,こせこせした19世紀」{W, 329)を見詰めながら,屋根裏部屋の自室で,個人・社 会・自然の望ましい相互関係を模索していたのだった白白ノ ダ この屋根裏部屋で綴られた血imalの中に初めてウォールデン湖の具体的言及が現われる。 1838 年6月3日,彼はToumalの中に“Walden”という詩を書き留めている。 ウォールデッ 一確かに僕達は互いに話し合うことはできない, ただ熟練した耳のみが寄せ来る波の言葉を聴き分ける, 君の小石で覆われた唇に砕け散る波の言葉を。 君の思想の流れは君自身の湖面の動きと同じく静かで, 湖面から立ち上る朝霧のごとく漂い, 魂は静かに君の思想を吸い込み, 君が表現しようとする真理に感化される。 遥か彼方の星でさえ 十 身を低くして君の顔に現われる 祝福を受けようとした。しばしば夜が明けると, 太陽はわけへだてなく現われる ‥ 君の狭い天窓の前に一月も 季節のサイクルとして上って来ては 他と同じようにしばしば,君に夜の到来を告げる。 ごく普通の雲がこちらに向ってやって来る, そして君の顔は二重に美しく見えた。 ■ ■ ■ ・ ■ ■ あ/風が過去数千年の間に書き記したものを教えてくれ, 君の湖面を跨ぐ大空にー もしくは君自身がひそかに読むようにと っ 太陽が伝え繊細に複刻したものを。幾らか 最近の日々のものは僕も読んだことがある, しかし人間の眼には見えず, 魂をぞくぞくさせたに違いない多くのものがあったのは確かである。 僕はどんなことをしてでもその最初の輝かしい頁を読みたい。 南東風(Eurus)一北風づBoreas) ―そして勿体振った文士達が 初めて霧の中にペンを浸した時の, 初版のままの姿で。 ㈲,1 :47−48) 自然のふくよかな懐に抱かれたウォールデン湖は,悠久め時の経過の中でもその輝きを失うこと なく永遠の真理を維持し続けている。この湖が教えようとする真理をいかなることがあっても追求 しようと詠うこの詩は,カールフボードによれば,スタイルとトーンにおいてワーズワス的であ
『ウオ.−ルデy』研.究:(I)に(U)ト(上岡) 201 る註呪現代の読者め眼からずれば,甘いリ/リタシスムに流れ,何かもの足りない印象を受けるが, ことさら奇を街うことなく,自然をシアリアスに詠うソーロウの姿勢は終生変わることはなかった. 彼がこの詩の中で真に表現したかうたのは,何千年もの季節のサイクルの中でも風化することのな いヴォ゛ルデン湖の神秘的魅力に他ならず,その魅力は幼児体験の時と少しも変わっていなかづた のである.ウォールデン湖はソーロウの心を捉えて放さなぐなっていためであった.彼はますます ウォールデッ湖に惹かれていった. 上 ニ \ 尚 大学を卒業してからしばらく口間\は,これといった定職ももたず,犬もっぱら家業の鉛筆工場を手 伝っていたが,ト翌年の6月には自ら学校を開き√夏にはコンコード・アカデミーの名を借りて教育 に専念することになった.確かにこの試みは結果的には成功し,コンコードのソーロウの評価を高 めはしたが,一方で√作家への夢は断ち難く,今だに文学的野心を表明する機会に恵まれぬ自己が 情なく思われるのだった.こういう時期に“The Poet's Delay” が書かれたのである. 上 22年の歳月が過ぎ去りー し 十 時は22年間の汚を捨て去ってくれた, ‥‥‥‥‥ 手足はこのようにすっかり大きくなったけれど, 人間らしい言葉は主張で1きないでいる. 上 十外の限りない豊かさの中にいても ・・.・..・.・.・ ・・.・ ・..・・ ・.・ 僕の心の中は相変わらず貧しい,犬 > \ し ∧ 鳥が聯つているうちに夏は終ってしましうが, \ し / 僕の春は依然として始まらない. ダ ニ …… レ 朝日が上るのを見ても詮なく, \\ コ つ 西[jが輝くのを見ても詮なく,ニ ‥‥‥‥ ‥‥ ‥‥‥‥ 漠然と東の空を眺め, ∧ .・ .・・・・. ・.・・ ・・ I I 他の生き方がないかと思案する. ▽ 犬..・.... ・.・ ・・ .・. 雀が夜明けを告げ 二 十 犬 十 1 遅れることなく巣作りをする, 十 ニニ 犬 犬 万物は雀の声に耳を傾ける準備が整い, ニ 申し分のない一日が始まるのである. \ 十 それでは僕は秋風を待つことにしようか? 犬 ‥ △ ‥不本意ながらより隠やかな日の光を捜し, .・・・.. .・.・.・・ ・.・ 空の巣はそのままにして, レノ \ つ森は僕の歌に相変わらず答えてくれずとも. 一 犬 (EEM, 116-17) 最終的に“The Poet's Delay" φiαけ842年10月号に掲載トとして発表されたこの詩の中で,22歳
の青年ソユロウが今まで徒労に費された歳月の空しさを詠うが,事実大学卒業から1840年の春まで 何ひとつ具体的な文学的業績をあげていなかったのであるノそうした閉塞状態の中で,彼が愛する 郷里を一時離れたい気分に囚われたのも不思議ではあるまい.=この詩を書いた翌日のlowmalの中 に,「選択の地は広いーハムレットの役割しか残されていなければ,丿可ど哀れなごとか/僕はい かなる惑星よりも自由-いかなる不平も到達しない.=僕は世論からも一政府一宗教一教育一社 会からも離れることができる.‥…・ありかたいことに,ごの土地ばかりが世界ではないノトチノ キはニューイングランドには生えず,モノマネドリはここではめうたに聞かれない」(REMレ118
202 高知大学学術研究報告 第38巻(1989年) その1 −19)とある。後半の一節は将来Wald。の“Conclusion” の冒頭で使用さこれることになるが,若 さと焦噪感から一時郷里を離れ√「転地」に魅了されたのかも七れない。実際今までにも何度か教 員募集の件で,コンコードを離れる快心をしたことがあ呪幸か不幸か彼の教職捜しはすべて徒労 に終っている。確かに大学卒業アルバムの中で「ゴソコードは僕のパスポデド丁であると高らかに 宣言したもごのの・,現在の彼にとレつてはその心は揺れ続けていた。そんな中で超越主義者の同人誌 £れが1840年7月1日に出版される運びになったのは朗報で,暗い中にも一条の希望の光が射し 込んで来たように思われたのであっ友。 ∇ 十 し ‥‥‥‥‥‥ 犬彼の心境が揺れ動くのには,文学活動とは別の問題も介在していた。つまり丁度このころ恋愛が 進行七,彼の心を捉えていたのである。Tottrwalには殆ど私生活について書ぐことがなかった彼が, 前年上「もうと愛すること以外に愛を癒す方法はない」大町,1÷81)という一文を残し, 1840年の 夏には再度エレン・シよーアルに会い,=「先日,純真でとても美しい女性をボ十トに乗せた。彼女 は船尾に座り,僕は一生懸命オりレを漕いだ。僕と大空の開化はレ彼女がいるだけ。本当に自由な ら,僕達二人の人生はとても輝いたことだろう」㈲,1:1頂上と書き記しているよ恋lの喜びは「確 かに喜びこそ生活の状態である」(PL 1 : 167),「人間のすべての美しい行為は情熱の所産である」 ㈲,1 : 181)と言わしめ,更に扨 「創刊号に自らの作品が掲載されたことも彼を有頂点にして いた。しかし詩の中で「秋風を待つことにしようか」と書いたその年の秋,エレンヘの愛は実るこ となく,かえって兄と彼女を争ったことが,後味の悪い結果となり√最終的には彼の心め奥底まで 罪悪感を植えつけてしまうことになったのである。1840年の後半は,ト。自己嫌悪と焦隆感から\の脱出 を切々と望み,特に1840年12月にはウォールデン湖が3度言及されていることから判断七で/内面 的不満が募れば募るほど心を癒してくれるウォールデンヘの憧憬は大きくなっていづためだったし 八湖は何も隠すものがないかのごとく,自然め懐に抱かれた鏡であるノすべての森の罪は洗い流 されてしまうノ‥・…そこは大地の眼である・…‥太陽が毎朝蒸発を通しで湖面を清める。〉いつ も新しい表面が湧き出てくるのである。僕は自然界のもの静かな秩序を,森の不浄さや冬の舞 堆積した不燃物がここで洗い清められた後,\春になってどのようにこの透明な湖が現わJれてぐ るかを考えるのが好きだ。僕は湖や川がなかったなら,萎びて枯れてしまい‥そうである。僕の ニ身体は,ノマスクラットや葉と同じく,湖や川からエネルギー源を得ている。森の中にあるウォ ールデン湖を思うと,その日にしなければならないことなど忘れ,身体がしなやかに軽決にな るレ 丿彫,1 :198-99) 冬ウォールデン湖で釣りをしている人々のことを考えると,アレキサンダーの活躍を歴史書の 中で読む時ごと同じく,とても感動し心が高揚する6彼らの行為は相互に関達しでいると言って よいだろう。時と場所が極似し,違いなどとるに足りぬのだ。・・。・・・ 。・ ・㈲,1 : 208) 丿村から20フィプトほど高くなづた丘の間の小さ喰窪みにウォールデン湖がある。丘や毎年この 湖に葉を落す樹木のエネルギー源でもある。ウォールデン湖の歴史は,寄せる波,岸辺の九石, 松の本に満ち満ちているレウォールデン湖は自ら前後に動き,円と周転円を持つー「家で静 かに座るは天の道。外出は世の道である」ど語るアブー・ムーサのごとく座っ七はいるか,怠 惰ではなかった。蒸発や多くの想像できない方法で,這か遠くまで旅をして来たのだった。 ・。 十。 一回,1 : 210) これらの記述からも,ソーロウはコンコード周辺にある他のいかなる場所一川やその他の湖, 農場,牧草地よりも,森の中にひっそり横たわり青緑色の水を満面に湛えたウォールデン湖のごと をいつも思っていたことがよく=わかるし,湖畔の一木一草,波や小石に至るまでが彼の敬愛の対象
『ウォールデン』研究:(I), (H) (上岡) 203 となっていたのである。ウォールデン湖は周囲の自然の「エネルギー源」であるばかりか,彼の精 神的糧だった。このウォールデン湖の「静かな湖面に漂っていると,僕自身が惑星でもあり,空間 に軌道を持ち,もはや地球の一衛星ではない」(巧,1 : 168)と叫ぶ時,彼自身が複雑多岐な「関 係」の中心にいて,すべての物象から関係という光を受けて,今度は彼の方から主体的な関係とい う光を投げ返すのであった。彼はウォールデン湖に来ると,真理が見えてくるような気がした。こ の湖のすべての自然現象が,真理の象徴として彼の眼には映った。この真理をどのように理解し, 伝えてゆくのか,その具体的行動を取るのにはまだ年月が必要だった。それまでに幾つかの試練を 経なければならなかったのである。 1841年が明けた草々,彼は再び激しい自己嫌悪と焦燥感に囚われている。1月17日のJournalが 明確に物語っている。「イ可年間も勉強してきたのに,一時間とて自ら果たすべき義務がわかってい ない。僕は潮が寄せ返すたびに座礁してしまう一船のように大海の真ん中に浮かんで航海する僕 は,岩礁についた貝のごとくどうしようもない有様なのだ/僕は如何に生きるべきか,自分に説明 できないのである。ここでは僕は金星や月の親類ではなく,徒に単調な夜を過しているのだ一空 しい時の経過であるー」㈲,ト:221)このような状況下で現在の生活を一変したいという願望 はますます募り,もはや屋根裏部屋の一室では解決できなくなっていた。3月19日のJournalには, 「真の勇者は,どこの家庭でも必要としているような家族と自分自身を基盤にして生きてゆくのに は満足しないであろう。家はまさに悪徳の溜り場であり巣である。僕は不浄な場所としてのその屋 根の下から逃れたくてしかたがないのだ。そこには循環がなく一淀んだ悪臭が満ち満ちている。」 (巧,1 : 289−90) そして最終的には4月5日,「僕はどこかの丘の南斜面に小屋を建て,神が遣 わした生活をしてみよう一太陽と太陽の間に与えられるすべてのものを喜んで受け入れるだけで も,十分な仕事ではなかろうか」{PJ, 1 :296-97), 4月11日「僕は太陽とより直接的な関係を 結びたい」(PJ,1 : 300)に繋がり,具体的な地名こそ示唆されていないが,独立した生活への決 意は明確に読み取れる。 このような脱出願望には,エレンとの失恋,及び彼女のことで兄と争い,兄弟間に一種の気まづ さが生じ,同じ家の中でレこれ以上同居を続けることにいたたまれなくなったこと,更に兄が病気 になって2年間続いた学校が閉鎖を余儀なくされたという様々な要因が複雑に重なり合った背景が あるが,脱出の夢はすぐにかなえられる類のものではなかった。 確かに学校が閉鎖される前からコンコード周辺の土地を物色していた。ハーディングによれば, このころツーロウは古い農場を買うか,それとも土地を借りて小屋を建てることを考えていたよう である註14.その対象として幾つかの候補地が選定され,最終的にWaldenでも言及されているよ 引こ,人家から半マイル離れ,街道から広い畑で隔てられ,所有者が荒れ放題にしてあるサドベリ ー川沿いのホロウェル農場に的を絞り,所有者と交渉している。そして一旦纏まりかけた交渉が, 所有者の妻の反対にあい,結局すべての努力は泡と消え,振り出しに戻ってしまったのであった。 4月16日の日記には,「僕は今日近所の農場を調ベー土地の所有者と話をして来たーそして旧 制度が厳格に確固として至る所に残っていることを知り驚いたことを告白せねばならない。…… どこにでも改革に反対する情容赦のない未婚の老人達がいる…・‥」ipj, 1 : 301)とある。ソー ロウの意図に反して,独立した生活の場は容易には見つからず,結局先送りせねばならなかった。 「僕の人生は依然として起伏がなければならぬ」{PJ, 1 : 291)「我々と目的の間には,遅れてもよ い余地がある。それは決して短くて容易な南道ではない一太陽に到達するためには,雪に覆われ た山を越えて行かねばならないのである」(PJ, 1 : 302)と自らを慰め,「太陽とより直接的な関 係を結ぶ」時期はひとまず延期することで,彼はエマソンの招待を受けて,いわば書生として彼の 家に住み込み,文学修行を積むことになったのである。一見回り道のように思われるこの2年間が,
204 高知大学学術研究報告 第38巻(1989年)人文科学 その1 結果的にソーロウの人生と芸術に一層の深みと幅を与えることになったのであった。 Ⅲ 1841年4月1日,兄の病気によりソーロウ兄弟の経営する学校が閉鎖されたその日に,超越主義 者達の新しいユートピア共同体ブルッグ・ファームが設立された。ブルック・ファームに参加する のは自己信頼の理念に反するのか,「こうした共同体については,僕はどちらかと言えば天国で賄 付き下宿を求めるよりは,地獄で独身者向けの寮に入りたいと思うのである。……僕は天国では 自分自身のパンを焼き,自分白身の服を洗いたいのだ」㈲,1 :277-78)と述べ,ブルック・フ ァームの活動を横目で見ながら,ユートピア共同体運動とは一線を画し,超越主義者のリーダーで あるエマソンの家に移ったのである。これも一つの脱出に違いなかった。エマソンの家に移るのは, ソーロウが希望していた孤独な空間とは異なるが,両親の家ではかなえられなくなった独立と思索 の場が提供されたのである。いわばモラトリアムのまま「成人としてのアイデンティティーや責任 を回避し,師の傍にいて超越主義運動の中心に住むことができた註15」のである。もちろんエマソ ンの蔵書を心おきなく使用でき,執筆のための時間もたっぷり与えられた。一人立ちするには若干 遅くなったとしても,この時期ぱ彼が作家として成長する必要不可欠な修行時代となったと言える。 エマソン宅に移って初めて書かれたと思われるJowmalの中に,注目すべき記述がある。「僕にと ってインディアンの魅力は,インディアンが自然の中で自由に拘束されずにいることであり,客で はなく自然の住民であること,自然を気軽にかつ優雅に纏っていることだ。しかし文明人は家の習 慣を持つ。文明人の家は監獄で,覆われたり守られたりしているのではなく,そこに自分自身を圧 迫し閉じ込めているのである。彼はまるで屋根を支えるかのように歩く一壁が崩れて押し潰され ないようにと腕を差し出す姿勢をとる一彼の足の方は下にある地下室を心配する。文明人の筋肉 は和らげられることはない一彼が家に打ち勝ち,家の中でくつろいで座ることは稀である。-屋根や床,壁などは,空一樹木一大地と同じように,自らを支えているのである。散策する (saunter)ことも一つの大きな技芸である。」(巧レ1 : 304)ここには,エマソンの大きな屋敷に 移り,彼自身の個室が与えられたからといって,そこに安住するのではなく,散策を通して自然と の接触を持続してゅこうとする積極的な姿勢が見出される。以前から自然の中で自由に生きるイン ディアンの生き方は,彼にとっで理想の生き方の一つであった。確かにエマソンとの会話を通して, 「教えられ,心が広くなる」ipj, 1 : 306)一方で,夜ウォールデン湖にボートを浮かべ,フルー ドを吹き,「激しい想像力のみが現在送っている生活方法を認識させてくれる。自然は魔術師。コイ ンコードの夜はアラビアの夜よりも不可思議である」ipj, 1 : 311)と語る時,彼は自ら書くべき 文学的主題のことを考えていたのかもしれない。自然め中にいると,「今までやり残したことはない」 ipj, 1 : 311)という充実感の表明に繋がるが,一旦自然を離れると心中隠やかでなかったに相違 ない。いくらエマソン宅に住んでいるとはいえ,自己が納得し,かつ周囲の人達も認めてぐれる具 体的な作品を書き上げないことには,いつまでたってももやもやとした気持が晴れないのであった。 この年の夏,エマソン夫人の姉ルーシー・ジャクソン・ブラウン宛に手紙を書き,その中で「僕 は山腹から夏や冬の姿を自由に眺めることを夢見ています・・…・牧草地のニワゼキショウの花が空 を眺めるのと同じくゆったりとした共感をもって,自然を眺める人になりたいと思います。そのよ うな奥深い地から,僕は植物が葉を出すように,毎日高貴な思想を表現したいのです」(C, 45) と述べている。彼は「奥深い地」への脱出の希望を捨てず,その機会を待つことにしていたのだっ た。このころ書かれだIndependence”という詩の中に24歳のソーロウの心境が端的に語られてい る。 =
『ウ.オヤルデン』研究・:(I),(II)(上岡) 僕の生活は,いかなる国家組織よりも 文明的かつ自由。 君達王者の領国も 定められた権力も 僕の夢ほど広大ではないし, 僕が今過しているこの時間ほど豊かではない。 205 僕の生きたいと憧れる生活を 誰も僕に提供してはくれぬ一 巷のいかなる商売も,そのような生活の しし紋章を帯びてはいない。 ・ ■ ・ (□, 132-33) このようにソーロウが詩を好み,自らも詩作していたことは明らかであるが,詩の主題,内容よ りも詩の機能と役割,詩人の生き方に関心を持つに至った。そもそも彼が作家の中でも小説家を志 さず,詩人としての立場を明確にした理由は,詩人が美を主目的としているばかりか,病んだ社会 の中で唯一永久不変の根源的意味や真理を語ることのできる詩人の使命感に魅力を感じたからに他 ならなかった。詩は個人の内的心情を相応しい言葉と豊かなイメージで表現するものであり,その 上に韻律が伴い躍動感を読者に与えるものである。ソーロウによれば,「偉大で哲学的,道徳的な 詩人は,最高の音を最高の意味に伝えさせることにより,言葉に永遠性を付与する」ipj, 1 : 343) のである。すなわち詩人は繊細な感覚で自ら観察した事実を言葉に翻訳し象徴化することで,真理 を表現しようとする人生の洞察者(seer)であり,「完全な人間」(Wh01e man)なのである。した がって詩人の余韻が寵められた適切な象徴を伴ったリズミカルな詩的表現は,一切の爽雑物が取り 除かれ,音と意味とイメージが調和した一つの秩序ある世界を創り出すゆえに美しく真理であると も言える。また詩は私達が気がつかなかったものとものとのつながりや,複雑な関係すべてを一瞬 のうちに明らかにできるので,「詩は時が与えた唯一の解決法」㈲,1 : 284)となり,「詩人の言 葉は物事の核心を衝く」(PL 1 : 338)のである。それゆえに一種の記号にすぎぬ言葉が内包する 無限の可能性を最大限に生かし,最も相応しい言葉を発見すること,そしてその言葉と言葉を最も 効果的に結びつけることが詩人に課せられた大きな責務なのであり,研ぎ澄まされた鋭敏な感覚を もつ詩人によってのみそれが可能となる。終生言葉や言語機能に執着したソーロウは,この言葉の 世界の中でも生きねばならなかったのである。彼の生涯は最も相応しい自己表現を求めて言葉を解 体し,同時に新しい秩序を構築する言葉の可能性発見の道程だったと言っても過言ではない。もち ろんそれは単なるレトリックの世界ではなく,何よりも言葉そのものに作者の愛情と魂が寵ってい なければならないのは言うまでもないことである。 ソーロウは大学在学中から古典詩人に惹かれ√感情の簡潔な表現や表現方法の巧みさに心を動か されたのは事実だが,形式面よりも詩人の持つ詩的精神と機能に徐々に関心を寄せていた。もちろ ん詩には絶対に美が必要だが,それに優るとも劣らないくらい真理を重要視した。エマソンも「詩 人の印となり信任状となるものは,誰ひとり予言しなかった真実を彼が伝えることだ。彼こそただ ひとりしかいない本当の導師である……」(CW, 3:8)と述べている。その真理を教えてくれ る対象は,自然以外にありえなかった。詩人と自然に互いに真理を語り合う存在でなければならぬ ことにソーロウは気づくのであった。
206 高知大学学術研究報告 第38巻(1989年)人文科学 その1 詩人 詩人は自然以上の一超自然以上のものでなくてはならぬ。自然は彼を通して語るのではなく, 彼と共に語るのである。彼の声は自然の中から生じるのではなく,自然に息を吹き掛け,詩人 の想いを自然に表現させようとするのである。その後で自然から精神的事実を取り上げて詩に 詠う一詩人は時と場所に関係なく詠う。詩人の想いと自然の想いは別々の世界にある。詩人 はもう一つの自然一自然の兄弟なのである。 両者は互いにできるだけの努力を払う一互いに相手の真理を発表するのである。{PJ, 1 :69) 物欲を逃れ,新鮮な感受性と無垢な眼を持ち,「自然の中にいるが同時に離れてもいることがで きる詩人」{PJ, 1 : 338)は,いわば社会と自然の両方を交互に眺める有利な位置にいて,「自ら の位置から真と美を眺め」㈲,1 : 323), 物事の真の関係を透視することが可能なのである。「科 学や歴史,哲学的見方がいくら結びついたとしても,詩の持つ完全な生のプロセスとヴィジョン, 一瞬の中に含まれている複雑な関係をすべて明らかにはできないのである白‰後年「詩人は自然 の中に自然を映し出す滑らかな鏡を持ち込まねばならぬ。詩人は自然よりも優れ,自然以上のもの にならねばならぬのだ」け,5 :183−84)と語る時,詩人の果たすべき役割がいかに重要な地位 を古めているかを強調しているのである。彼はJournalに限らず,他の作品の中でも繰り返し「詩論, 詩人論」を展開する。これは必ずしも超越主義者の好むテーマの一つと考えるよりも,むしろ彼め 生き方と直接関わるテーマなのである。彼は自らの生き方として,岩底のように堅い礎をしっかり。 と据え,人生と対峙する必要を常に感じていた。それは文明社会に浮かれ,ひとえに「大衆が極め て非詩的な存在となり」け,5 : 347)つつある時代において,人々が真の法則と関係をないがし ろにして,本質を見る詩的な眼をすっかり失っている現実を目の当りにしていたからであった。/詩 人は「見せかけのものの背後にある隠された意味を把握註17」し,人々がどっぷりとつかってい\る 見せかけの「関係」が交錯する世界の中から,真理の重要性を訴えるのである。「商業ほど詩と相 反するものはない」(J, 4 : 162)「見せかけやまやかしは最も健全な真実として尊ばれ,真実ぽっ くりごととされる」{W, 95) 19世紀中葉という時代,「我々の洞察が事物の皮柑を貫くことが々き ぬ」(W,96)ゆえに「静かなる絶望の生活を送る」iW, 8)人々に対して,ソーロウはやがて切 々と詩的ヴィジョンの必要性を熱く説くのであった。「いかに詩的に生きるか/もし生か詩的でな ければ我々の生活は死であって生ではないのだ」(玉 2 : 164)という叫びは,彼の心底から出た 誠の叫び声であったのであるO I ソーロウにとって詩人は「純粋な生の一瞬を記録する者」(巧,1 : 465) である。詩人は伝統や 因襲に囚われることなく,自己信頼の精神を実践すればよい。そうすれば,「詩人によって集めち れた事実が,少なくとも翼のある真理の種として」け,4 : 116)世に広められるのである。詩人 の意識はコンコード川やメリマック川のごとく「刻々新しい流れ」ipj, 1 : 390)とならなければ ならず,詩人はウォールデン湖の湖面のごとく,世界を映す鏡であると同時にそれを見る人に「=自 分白身の心の深さ」を教えねばならぬのである。晩年に「詩人は自らの伝記を書かなければならな いのだろうか。優れた日記以外に彼にとって作品に値するものがあるだろうか。我々は彼の想像上 の英雄が日々どのように暮したかではなく,本当の英雄である詩人の生き方を知りたいのである」 (/, 10 : 115)と述べているように,ソーロウにとって詩の形式,内容,手法よりも詩の心,詩的 精梓や詩人の生き方そのものに大きな関心があった訳であり,「ソーロウの存在そのものが詩的で あった」{CW, 10 : 475-76)と言うエマソンの言葉は正鵠を得ていると思われる。したがっ七自 己表現方法で,韻文から散文に移った後も,詩人としての生き方,詩人の視点,詩心を生涯捨て去
『ウォールデン』研究:(I), (I) (上岡) 207 ることはなかったのである。 I ・ .I 。 。− 。 。 1841年という年は彼が詩作に専念していた時期に相当し,この年の秋詩的才能が最も開花したの であった。9月4日の血仰 「には後の所出四の基本的考えが既に彼の心に芽生えていたことを 鮮明に示す注目すべき記述がある。 僕はコンコードという詩を書いてみたい一題材と七ては,川,森,湖,丘,野原,沼地や草 地,通りや建物,そして村人達。それから,朝,昼夜,夕,春,夏,秋,冬,小春日和と地 平線の山々である。 {PL 1 : 330ト この丁節が所叱aの形式と内容を暗示しているのは一目瞭然であろう。「Waldenには,村,湖, 周辺の野原や森に関する章があり,四季がそれを巡り,春の訪れにっいては,特別に一章が設けら れている。しかし,完成した作品には,著者白身の哲学,社会観,自己に関する思索が多く織り込 まれたため,一層深遠なものとなり,予定していた詩の形式は,完全に失われてしまった註18.」確 かに韻文では自己表現が思うようにできなかったのは事実で,最終的には散文のスタイルをとるに 至ったがレこの時からウォールデン湖での実験生活を経てWaldenが完成するまでに優に10年以上 の歳月が経過し,この長い期間を通して彼の壮大な構想が徐々に暖められてゆくのである。彼が意 図しか「コンコードという詩」の形式は散文の皿出四に変化したが,一年を通しての四季の推移, そこに生きる人間という構造,その中心に森に囲まれた美しい湖を据えたことで,主題としての一 貫性が確立され,この作品に重厚感を与えることになったのである。またこの「コンコードという 詩」の構想にもあるように,自然だけに関心があるのではなく,自然と人間の望ましい関係をも考 えていた。彼は自然を描くと同時に社会に尽きない興味を抱いていたのであった。 1841年12月,自分の住むべき家を見出し,アイデンティティーを確立したいというソーロウの焦 噪感心頂点に達した註19. 12月12日午後,彼はウォールデン湖まで散歩に出かけている。丘から湖 面に向かって激しく吹きつける風が湖面に波紋を生じさせるのを見て,「このような人間が堕落し た時代に,自然の心地よい動きに僕は励まされざるをえない」㈲。1 : 342)と語る。おそらく彼 としては,願わくば激しい風が人間の心の隅々まで吹きつけ,物に囚われた緩慢な人間の意識を吹 き飛ばして欲しいと念じたことであろう。このような状況下,彼は「湖畔に住みたい」という希望 を初めて明らかにする。「僕はすぐにでも出かけて行って湖畔に住みたい。そこでは葦の葉の間を 吹く風の音のみが聞けるだろう一自分自身の跡をそこに残すことになれば成功なのだろうが,友 人はそこへ行って何をするつもりかと訊く。季節の推移を見守るだけでも十分な仕事ではなかろう か。」ipj, 1 :347) ハーディングによれば,ここで言及されている湖はウォールデン湖ではなく・ フリント湖である。フリント湖と言えば,かつて友人のウィーラーがこの湖畔に建てた小屋で学生 時代最後の夏休みを二人で過したことがあった。彼はウィーラーと同じような小屋を建てようとそ の許可を貰いにフリント家を訪れたのだが,あっさりと断られている。その恨みぱThe Ponds” の章で晴らされることになるー「その金銭的価値のみを考え,おそらく岸全体を呪った彼,その 周囲の土地を絞り取り,ぞの中の水面をも絞り取りたがった彼,そこが英国牧草又はクランベリー の実のなる原でなかったのをただ残念がった彼一彼の眼から見ると実際この湖には取柄がなかっ たのだーそして水を絞って底の泥を売りとばしかねなかった彼。……私は彼の労働を,何から 何まで値段のついている彼の農場を尊敬しない。……人間が飼われているところ/……しゝや,いや, 最もうるわしい風景を人間の名をとって名づけようというならば,ただ最もけだかく最も価値ある 人々の名だけを採るべきだ。我々の湖水にはせめて,そこでは『今なお岸辺は勇ましい試みを鳴り 響かしている』イカリア海のように真にふさわしい名を与えたい。」{W, 196-97)その点ウォー ルデンという名には歴史が感じられた。伝説上のインディアンの老婆の名前,あるいは英国の地名