Title
浦添市・港川における聞き書きの記録 : 環境教育の教材
開発に向けて
Author(s)
盛口, 満; 鹿谷, 法一; 鹿谷, 麻夕
Citation
沖縄大学人文学部こども文化学科紀要(4): 109-116
Issue Date
2017-10
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/22012
Rights
沖縄大学人文学部こども文化学科
【調査報告】
浦添市・港川における聞き書きの記録
―環境教育の教材開発に向けて-
Report of oral story at Minatogawa Urasoe-city -Toward development of subject of environment education-
盛口満・鹿谷法一・鹿谷麻夕 MORIGUCHI Mitsuru・SHIKATANI Norikazu・SHIKATANI Mayu はじめに 盛口は琉球列島の里山における自然利用について、聞き書きを利用した調査・研究を行って いる(盛口 2016 ほか)。また、鹿谷は浦添・港川のカーミージーを中心とした海岸部におけ る環境保全の活動と、環境教育の実践を、地元港川小学校において続けている(鹿谷・佐藤編 2013)。本報告は、かつての自然利用を聞き取り、その記録を環境教育の教材として利用する 試みである。聞き取りにあたっては、港川自治会の会長であり、港川の海の環境保全、環境教 育の実践に関わってこられた銘苅全朗さんからお話をうかがうこととした。なお、聞き取りを 行ったのは、2016 年 6 月 27 日である。 聞き取りの記録 法一:僕は海の生き物のことはわかりますが、地域のこと、特に昔のくらしのことを知らない ので、そのお話しをうかがえたら……と思います。お茶菓子に、タイモのパイを買ってきまし たので、これでも食べながら……。 銘苅:タイモは、ここいらでは、ターンムといいます。この近くでも作っていました。水田が ありましたから。河口周辺は、全部田んぼでした。300 年前、伊江家が干拓事業をやったので すが、伊江家では使わなかったんです。その干拓地が田んぼになりました。ただ、一番海に近 いところは、海水がよく上がるので、田んぼにはならなかったようです。昔は、港川は本当に 田舎だったのですが、空中写真にあるように、戦前から馬車が通るぐらいの道が通っていまし た。本当は路地しかないようなところのはずなのですが。そんな道があったのは、琉球国王の 尚灝王が住んでいたからではないでしょうか。病気療養のためだったといいますね。戦前、こ の港川に住んでいたのは 49 世帯です。港川の銘苅家は、もともと首里の侍だったのが、王府の 財政難で、士族を賄いきれなくなって、士族の次男三男は自活せよ……ということになって、 下放といいますが、それで県内のあちこちに散ってくらすようになったわけです。ただ、もと もと耕作地を作りやすいところには、もう百姓がいましたから。港川は、山間部のようなもの です。隣の城間集落は、米軍基地の城間ゲートがもともと、集落の有った場所ですが、海岸に 向けてわりとなだらかな地形がつづいているところです。それと比べたら、港川は山間部なわ けです。ここは、いわゆる縄文時代には、狩猟採集生活をする人が住んでいました。山もあっ て、入り江があって、海が近い場所なので、狩猟採集をする生活なら、生活がしやすいわけで す。浦添の歴史文化資料館には、7~8000 年前の遺跡から出土したものが展示されています。 その後、多少、人々が暮らした形跡も残っていますが、農耕時代が始まると、平地のほうが暮
らしに適していますから、時代につれて港川には人が住まなくなったんですね。先ほどお話し したように、伊江家も干拓はしたものの、結局、使いませんでした。そこに、銘苅の一族が入 植したわけです。港川に銘苅が定住し始めて、そこに尚灝王が病気療養にきて、首里から役人 が往来する必要があって、道路が整備された……そういうことだと思います。この道路は、で すから、上の道……ウィーミチ……と呼ばれていました。おかみの道ということではないでし ょうか。当時としては、割と立派な道だったわけです。 盛口:港川の主な生業は農業だったのですか? 銘苅:最初は農業です。その後、尚灝王のいた時代、カーミージーのところで、網を使った漁 をひそかにやり始めた……という、言い伝えがあります。港川には銘苅家のほかに、嘉陽家が ありました。嘉陽は尚灝王の警護をかねて移ってきた一族です。銘苅と嘉陽は、共存共栄じゃ なかったみたいですね。それで、ひそかに漁をした……ということのようです。やがて、漁を していることが知られるようになって、結局、我々の知っている戦前には、3 つのグループが 漁をしていました。そのうち2つが銘苅で、1つが嘉陽です。 法一:いつ頃まで漁をしていたのですか? 銘苅:1960 年代の初期まで漁をしていました。定置網や追い込み漁をカーミージーのあたりで やっていました。戦争があって、戦後、農作物もゼロから作り直すという大変な時代があって、 同時に漁もしていました。私も小学生のときに手伝いをしました。その当時、イセエビとかタ コは換金物でした。もちろん、子供でも採れるのは貝とかです。潮干狩りで採れる獲物は、日 常的に得られる貴重な蛋白源だったですね。魚のスクやミジュンンも換金物です。都市部に売 りに行きました。その当時は、貝はいっぱいいましたね。豊富でした。 麻夕:どんな貝を採りましたか?チョウセンサザエとかでしょうか? 銘苅:サザエは食べにくいから、あんまり相手にしませんでした。ティラジャー(マガキガイ) とか、クモガイとかですね。そんなのが、結構、ごろごろしていたから。小さい貝もあんまり 相手にしませんでした。採るには採ったと思いますが。メインはティラジャーです。潮干狩り で一番多く採ったのは、これですね。そういえば、家を作った時、おやじが戦前使っていた屋 敷の一部に建てたんですが、基礎を掘ったら、まあ、下は貝塚状態でした。それだけ貝を採っ ていたわけです。農作物に対しても、海藻類とか、ウニを採ってきて肥料にしていました。ウ ニはあまり食べる習慣がありませんでした。 麻夕:どんなウニですか?大きくて、刺の短いもの?シラヒゲウニですね。 銘苅:そうです。シラヒゲウニがいっぱいいましたから。今はもう、まったくいなくなってし まって。私はウニを食べる習慣がほとんどなくて、姉なんかは食べるんですけどね。 麻夕:どうやって、食べていましたか? 銘苅:私は食べる習慣なかったから、食べ方にも興味なくて……。ここらへんでは、ウニのこ とは、ガチチャーといいます。こうした海との関わりが、変わったのが 1960 年代以降です。多 くの人が賃金生活をするようになりました。そして漁をしていた 3 グループも解散します。そ のあとは、戦後、奄美から出稼ぎにきた人が定住して、港川にも結構な人が住んでいて、自分 たちで盆踊りをするぐらいいましたが、その人たちが海で漁をするようになりました。今の拓 琉金属工場のあたりは、昔は船着き場があって、漁師がグループごとにサバニを持っていたと ころです。そのグループが集まって、1963 年ごろに、「ここを売却しよう」ということになっ て。そのあたりは、泥っぽい干潟で、一面にシオマネキが住んでいるようなところでした。一 時期、塩田もありましたね。この時代に、暮らしが漁業から賃金生活に変わったんです。漁業 を継ぐ人が、戦争でかなり亡くなったことも影響しています。戦後の貧しい生活の中で、農業
だけでは食べていくのが難しい。農業、漁業の兼業でやってきたわけですが、そのうち、軍雇 用の人が増えて、1965 年から埋め立てが始まってしまって、埋め立てが完了するのが 1968 年 です。埋め立てが始まる前は、海と近い暮らしでした。子供たちの遊び場も海でしたし。今も、 スクの回遊はあるはずですが、採る人はいません。スクを採るには、技法が必要ですが、そん な技法をもっているのは 80 代以上の方です。スクを採る網もない。私は網をもらいうけて自治 会で持っていますが、日常性がないと、スク採りを実行するのは難しいですね。 盛口:スクを採るには、まず見張りを立てて……ですか? 銘苅:そうです。その見張りが立つのが、カーミージーです。交代で見張りが立ってね。普段 は農業が中心ですから。眼のいい人が見張りに立って、スクの群れが来たのを見つけて合図を すると、みんな、仕事を中断して採りにいくわけです。人手が少ないころでしたから、小中学 生も手伝いにいくのがあたりまえといった雰囲気がありました。私も端っこで参加した記憶が あります。 法一:何歳ぐらいのことだったのですか? 銘苅:私は 1942 年生まれで、手伝ったのは 1950 年代のことですから、10 歳から 15 歳ぐらい にかけてでしょうか。大人から見たら足手まといだったかもしれませんが、私たち子供も一緒 になって追い込んで。スクが採れると、船着き場のほうに持ち帰って、女の人たちがバーキと かビンダレーに入れて、頭の上に載せて売りに行きました。一部は自分たちで塩漬けにして。 カーミージーのあたりは、当時、海草がいっぱいあったんですよ。ここは飛び込みをするとこ ろなので、水深は 5~6 メートルあったと思いますが。そこに海草がたくさんあるので、スクは これを食べにくる。それで、スクが海草を食べるまでが採り勝負だと。スクは海草を食べてし まうと、名前も変わってしまいます。それまでのスクという呼び名がクサファンになるんです。 クサファンになると、漬物にもならなくなってしまって。こうしたことを、大人の話を聞きな がら覚えました。ともかく、スク採りにとって、見張りは重要だったはずです。スクの群れ、 昔、見た覚えがあります。赤黒くて。一匹の時の動きは速いんですが、蒸れだとゆっくり移動 してね。私ももう一度、スクの群れをみてみようと。カーミージーの上にいったんですが、見 えませんでした。群れが来なかったのかもしれませんが、太陽の光加減で、サンゴの影と魚の 群れの見分けがつかなくて。ずっと見ていないと、動いているかどうかわからないですし。昔 は、よく見て、群れがどこへ向かったかをみとって、指示をだしたんです。 盛口:スクは網で囲むんですか? 銘苅:はい。このときは、嘉陽とか銘苅とかはなかったはずです。船の近いところに嘉陽の人 も乗っていた覚えがありますから。スクは、一時期の勝負ですからね。採れたら、漁に出た人 数で分配する。たぶん子供にも分配したはずです。南部にある港川では、今でも子供も頭数に いれるそうですよ。こんなふうに、海は非常に身近なものでした。それがライフスタイルの変 化で、あっという間に変化してしまいました。私は 1961 年に高校を卒業して、川崎のほうへ出 て働きました。そのあと、大学にいったんです。その後、1968 年に沖縄に帰ってきて沖縄タイ ムスに入社して、その年に埋め立て地ができているわけです。まだ工場が建っていなくて、そ こでキックボクシングのイベントが開催されて、それを取材に出かけた思い出があります。こ んなふうに、私にとって、港川の海との間には、7,8 年、空白の期間があります。沖縄に戻っ てきたら、海に潮干狩りに行くようなこともなくなって、仕事に追われて結婚して、子供が成 長したころには、人工ビーチができあがっていて、海といったら、管理されたビーチというも のになってしまいました。必要なものはお店で買うという暮らしになっていましたし。海とか かわるライフスタイルがなくなってしまったんです。
麻夕:海洋博のころが変わり目でしょうか? 銘苅:海洋博は 71 年。そのころは、海は日常ではなくなっていますね。ただ、港川ではそれで も、奄美の人が中心になって、漁は続いていたんです。地域の人も潮干狩りに行くことがあり ました。ところが、米軍基地から六価クロムや重油が流出や事件が起こって、港川の海のもの は食べられない……という認識が広がって、海が遠のいていきました。 盛口:昔、潮だまりに植物の毒を流して魚を採るということをやりませんでしたか? 銘苅:やりました。ミンナグサ(ルリハコベ)とよばれる草を使いました。これはだいたい、 子供の遊びです。たぶん、もっと昔は大人もやっていたというのがあるんでしょうが。昔の人 たちの知恵が伝わったものです。子供の遊びと言っても、自分たちだけじゃ、そんなやり方、 わかりません。ミンナは、そこらへんにいっぱい生えていました。これで魚を仮死状態にした んです。昔は貧乏でしたから、おやつがあるわけではありません。海で遊んでお腹が減ったら、 獲物を採って、貝を採って、カニを採って……と。ミンナで魚を浮かして食べたりとか。ただ、 ミンナは、そんなに広い面積には使えません。潮だまりみたいなところでないと、効きません。 いっぱい使っても、採れる量はたかが知れていたと思います。 麻夕:採った魚はその場で食べたのですか? 銘苅:昔は、西部劇にでてくるような、どこでこすっても火がつくマッチがありました。子供 時代はマッチは必需品です。海岸でカンカン拾ってきて、海水入れて、魚を入れて炊いて食べ ました。もう、本当に、小学校から帰ってきたら、海か山かです。山は、今の時期ぐらいだと、 バンシルーの実がなっているとか。野生のイチゴの大き目の実がなるのも、今頃だったかな。 ヤマモモとかもあったし。天然のものがおやつ代わりです。時期になるとこうして木の実を採 りに山にいったし。野山は、別の目的でも出入りが必要でした。ススキの時期だと、箒を作る ために、穂を集めに行きました。ウサギを飼育していたので、その餌を採りに行ったりとか。 山の出入りも日常の中にあったことです。 盛口:薪採りとかもですか? 銘苅:薪採りとか、水汲みとかは子供たちの役割です。うちはおふくろが豆腐屋をやっていま した。ですので、毎日、海水を汲みにいかないといけない。私には 3 つ上の兄がいました。兄 弟で、石臼のマメひきや、潮汲み……です。こうしたとき、子供だからずるをしようとするん です。潮汲みは難儀だから、近場で汲んでこようと。ところがね、川があるから、海岸近くの は、海水が薄いんです。親はすぐにわかるんですね。なめてね。薄い海水だと豆腐にならんも んだから、汲みなおしです。海に行って、自分でなめて、しょっぱいのを汲みなおす。こんな ことがあると、最初から濃い海水を汲んでくるようになるわけですが。 法一:ダイズは作っていたのですか? 銘苅:いやいや、どこからか輸入でもしたものですよ。沖縄のものでもなかったんじゃないか な。うちのあたりではダイズまでは作っていませんでした。コメは作っていました。脱穀して、 精米は牧港までいきましたが。麦も作っていました。米軍払い下げのテントのシートの上にム ギを置いて、たたいて脱穀をしていました。島米は、日常的には口に入るものではありません。 普通は加州米です。これは安くてカサカサのコメで、炊いても、箸ですくおうとしても落ちて しまうような米です。記者になってからベトナムにいったら、おんなじような米がありました が。島米は、子どもの頃は、正月、お盆、それと風邪をひいたときといった、一年に何度も口 にできないものでした。当時は一毛作。普段は籾状態で保管されていて、必要な時に精米所に もっていって。風邪をひくと、島米のおかゆだったんです。イセエビも、漁で採ってきたもの をシンメーナビで炊くわけですよ。その炊いているのは見れるけれど、これは米軍のキャンプ
にいって販売です。口に入るのは、取れて鍋に残っている脚ぐらい。丸々のエビを食べたのは、 タイムスに入ってからのことです。日常生活では、子供でも採れる貝とかカニとかで、必要な 蛋白は足りていたわけですが。それだけ海の幸があったんですね。港川の人にとって、ありが たい海だったんです。もともと耕作地が広く合ったわけじゃなくて、少しずつ開拓していって、 農閑期や季節によって海でいろいろなものを採ってくらしをおぎなってきたんです。恵まれて いたのかもしれません。 法一:銘苅家は首里から移ったということですが、首里時代から伝わる行事といったものはあ るのですか? 銘苅:それはないですね。海に関しては、年に一回、祈願祭のようなものはあって、採ってき たものを船着き場でみんなで食べるというようなことはありましたが。あとは農村行事のクシ ユクイという行事。港川は、戦前~戦中は、国道をはさんで 49 軒という集落です。海側に 27 ~28 軒、中学のあたりに 10 軒、今のヤマダ電機のあたりに 7 軒、カーミージーのあたりに 1, 2 軒と散在していて。漁業に関しては、道の上の人には、ほとんど関係がありません。もとも と 1944 年まで、道の上は、牧港の一部だったんです。それに対して、海側のこのあたりは、城 間の一部でした。だから、もともと、行事にしても、こちら側は城間の農村行事に参加してい ました。港川全体の村行事みたいなものは伝わっていないんです。道の上と下で、成り立ちが 違うわけですから。 麻夕:カーミージーまで城間だったんですか? 銘苅:城間は農業中心の集落です。農耕に適した土地があり、生活も恵まれていました。だか ら、あまり漁業には関心を示していなくて、せいぜい潮干狩りをするぐらいでした。港川では 漁業専門は1軒だけだった。浦添全体でも、専業の漁業をしていた人は少なくて、専業漁業の 中心は小湾でした。城間の場合は、あれだけの海が目の前にあったんですが、集落の人は海に あんまり関心がなかったんです。城間の人にとってはカーミージーは子どもの頃に飛び込んで 泳いだ原風景の場所……ノスタルジックな場所です。港川の人にとっては、スク漁の繰り広げ られる、一大スペクタクルの印象のある場所。日常の重要な場所で、親しみがあるんです。城 間から港川を分離するときに、崎原まで港川に入っているので、カーミージーは港川の一部に なりました。沖縄には共有地というのがありますね。サーターヤーであるとか、カヤモーであ るとかは、共有地です。ウガンジューもそうです。城間は王府時代からの集落なので、共有地 も広いんです。カーミージーのうしろは、もともと城間の共有地でした。カーミージー自体は、 生産場所ではなくて、せいぜい、スク漁の見張りの場とか、子供が泳ぎに行く場であって、大 人の生活では日常の場ではありません。ですから、あの突き出た岩は、誰のものか?というの は、あまり意識されてなかったんだと思います。昔は満潮のときは離れ島になりましたから、 土地としての興味を持たれることがありませんでした。そうしたこともあって、カーミージー は、いつのまにか市有地になってしまっています。埋め立てで地続きになって、いつのまにか 番地までついています。戦争があって、城間の集落は基地になってしまって、カーミージーの あたりは、城間の人にとって、ますます無縁のものになってしまいました。埋め立てにしても、 復帰前は規制がなくて、埋め立てた後から追認されたりとか、そういうこともありました。あ の辺りは、昔は聖地でもあったんです。球陽だったかに書かれていると思うんですが、羽地ノ ロが船で那覇まで戻る際、遭難してグシクマウミに遺体で漂着して、城間の人が葬ったら、そ こが霊験あらたかな神聖な場としてあがめられるようになったという話があります。その場所、 たぶん、今、道路を作っているあたりなんですが。竜宮神というのも祭られていますが、これ はもっとずっと後の時代になってからです。カーミージーの岩納手のも新しい。城間のウガン
はあちこち散在していたんですが、集落が基地に取られてしまったので、今の公民館前にまと められています。港川のウガンは、城間のウガンからわけてもらったものなんです。カーミー ジーは空寿といいますが、もとは九重でした。沖縄の言葉には、当て字されたものが多いです ね。シリンカーも志林川と書いたりすることがありますが、シリンというのは、奥まったとい う意味なんです。城間の後ろの奥まったところにある川という意味なんですね。シードゥーは 水道と表記されたりしますが、これはもともと湿地帯という意味です。 麻夕:昔は、海藻をとって利用していましたか? 銘苅:海藻はどっちかというと、畑の肥料ですね。土地改良的な意味で使いました。男の人は 漁が中心。女の人はアーサーも採ってきて、乾燥させて。ただ、どっちかというと、牧港の人 のほうが、アーサーをよく採って、売って、へそくりにしたそうです。港川の人は、男の人が 農業と漁業で忙しいから、女の人は家を守らんといけない……家畜の世話とか……だから、ア ーサー採りまでは手を伸ばせなかったんじゃないかな。もちろん、まったく採っていなかった わけじゃなくて、私も子どもの頃、親が豆腐とアーサーを売りに行ったのに、ついていった覚 えがあります。 麻夕:スヌイは採りましたか? 銘苅:スヌイを食べるようになったのは、つい最近です。昔、海に行ったのはカーミージーの あたりが中心です。そこでほぼ十分。スヌイが生えているところまで足を延ばしませんでした。 それに、戦前はスヌイを食べモノと思っていなかったんじゃないかな。海藻の中でも海人草… …ナチョーラ……はよく採っていましたが。これは貴重品だったんですよね。昔は衛生状態悪 くて、カイチュウがいたから、みんな、飲まされて。そういえば、カキの殻を焼いて砕いて粉 にしたものは口内炎の薬といって、わたしも随分塗られましたが、これは痛いですよ。粉にし てもざらざらしているので、そんなものをぬりつけるわけなので。海のものは貝にしても、藻 にしても、食べるものや薬としての役割がありました。 麻夕:カキの殻を口内炎の薬にするのは、一般的だったのですか? 銘苅:どうでしょう。口内炎ができるかは、食生活にもよりますから。私は好き嫌いが多かっ たので……。だれでもやっているものではなかったのかもしれません。 盛口:冬の海に松明をもって漁に行きましたか? 銘苅:いきました。松明に使ったのは、トゥブシとよばれる、油が多いマツの材です。採りに 行くときは、マツの根っこのほうを探しました。これは、燃やすと煙がすごいんですよね。少 し時代がすすむと、使うようになったのはカーバイトです。私は灯りに興味があるんです。記 者時代、首里城でどんな灯りを使っていたのか興味をもって調べたことがあります。今、サー チライトで城を照らしていますが、本当なら、かがり火ですよね。では、城内の灯りはという と、王府時代、役所の中に、ハジタイホーと言うハゼの管理をする職があったんですね。首里 城近くに、ハゼの植林がありました。そのハゼからロウソクを作ったんですが、これは王家し か使えません。それ以外の人は、小さい皿に植物油を入れて、芯を入れて、これを灯りに使い ました。もっと庶民はトゥブシを使ったわけです。中城の中村家にいくと、戦前の燈火具が残 っています。沖縄の場合、戦争で昔の燈火具も無くなってしまっています。中村家でも、ラン プしか残っていません。燈火具に興味があるので、燈火具展をやってみたいなと思っていたん ですが、まだ実現できていません。沖縄にはヒヌカンを祭る風習がありますが、火を扱った道 具が残されていないんですね。 盛口:集落によって、どんな薪を利用したかも違いますね。 銘苅:長い間、かまどが使われていましたからね。うちはおふくろが豆腐をやっていたので、
薪もだいぶ使いましたが、このあたりは戦争の影響で、山林なんか残っていませんでした。1962, 3 年ごろの写真が残されていますが、岩山に岩がそのまま写っています。今はすっかり木でお おわれているわけですが。63 年ごろでも、そんな状態だったわけです。ですから、豆腐づくり のかまどでは、モクマオウとかの枯れ枝とか、米軍の廃材とか使ったんじゃないかなと思いま す。 麻夕:豆腐はいつごろまで作っていましたか? 銘苅:私が中学ぐらいの時期までですね。ですので私は豆腐屋の全朗さんと呼ばれましたよ。 屋号は次男下銘苅ですが、屋号で呼ばれたことはありませんね。豆腐はうちに限らず多くの人 も作ったと思いますが、生活のために毎日作っていたのは、港川ではうちだけです。中学にな るころから、雑貨店も始めて、店でだけでなく、城間にも売りにいっていました。そういえば、 石臼が家にあります。直して使えるようにしないと……。私は長い間、豆腐屋をいやいや手伝 っていたせいで、豆腐なんて見たくないと思っていました。で、本土にいって、絹ごし豆腐を 食べたらおいしいなあと。それで、こちらに戻ってきたら、沖縄の豆腐がいかにおいしいかと 再認識して……。昔は見るのも嫌だったんですが。当時は、豆腐を作っても捨てるところはあ りませんでしたね。おからも重宝しました。屋敷の近くで養豚もしていましたから。余るもの がなかったんです。そうそう、子供に対して、海は危ないということを伝える意味があったん でしょうか。トーヒャーマジムンという海の妖怪の話を聞かされました。トーヒャートーヒャ ーと追いかけてくる妖怪です。ちょっとまて……といった意味です。キジムナーみたいなかん じですね。小柄な妖怪で。追いかけられたとおやじなんかはいうわけです。それで、おいかけ られたら、豚小屋に逃げ込んで、豚の後ろに逃げ込めば、退散する……と。海は怖いところも あるよ……、自分たちだけでいったら怖いところだよ……と。それでマジムンがいるところだ よという話だったんでしょうか。 盛口:田んぼにターンナ(タニシ)はいましたか? 銘苅:いました。食べていましたよ。これはシンジグスリ(せんじ薬)です。食糧難の時代は、 もちろん食料です。 盛口:ターイユも? 銘苅:そうそう。これもシンジグスリですが、本当に効いたかはわかりませんが。まったく食 料難のためだけに食べたというのがアフリカマイマイですね。栄養学的にはどうかと思います が。 盛口:ドジョウはいましたか? 銘苅:記憶にないですね。少なくとも、食べた記憶はありません。 麻夕:ヤシガニはいましたか? 銘苅:このへんでは見たことがありません。ヤドカリは釣りの餌ですから、大きいのがいても 相手にしない……。 法一:モクズガニはシリンカーにいませんでしたか? 銘苅:意識してみていなかったかもしれません。見ても相手にしなかったかも。この辺には、 ガサミがたくさんいましたから。まあ、何というか、当時は食べておいしいかどうかが基準で す。身が多いかどうかとか。だから、鹿谷先生に、海の新しい価値を教えてほしいとお願いし たわけです。そういうことでいうと、本当に無駄な時間をすごしてしまったかもしれません。 価値を知っていたら、もっと残せたものがあったんじゃないかと。もったいないことをした。 法一:沖縄の人には、海岸はバーベキューをするところだとしか思っていない人が多いですね。 麻夕:海とのつながりが切れてしまうと、海に愛着が持てなくなってしまいますね。
法一:港川の小学生とカーミージーの観察を 10 年やってきて、子供たちの中に、海への愛着を 持つようになった子が増えてきたんじゃないかと思います。 銘苅:そうそう。浦添の高校の先生から電話が入って、学校として自然体験をやりたいという んですね。ただ、いまだとまだ、海岸にトイレもないし、水場もない。高校生だと、過敏な子 もいるかもしれないから、そうした環境で観察会をやって、第一印象が悪くなってしまうと、 かえって海から遠ざかってしまうかも。だから、もう少し待って、整備されてからのほうがい いかなあと答えたんですが。少し先生とも意見交換しながら考えていこうかと。 麻夕:高校生だったら、まずクラブ活動とかの少人数で試してみるといいかも知れませんね。 銘苅:昔の子は、それこそフルチンでも海に入ったりしたわけだけど。クラゲに刺されてもお しっこかけて我慢してとか。今はそんな風にするわけにもいかないから。それでも高校からこ んな話が来るようになったのはずいぶんと変わったなあと思うわけです。鹿谷先生に出会う前 に、海のことを教えてもらおうと、最初、浦添高校に生物の先生を訪ねて行ったんですよ。そ うしたら、学期末ということもあって、先生に会えなくて、そこから人を介して鹿谷先生とつ ながって。自分では子供時代の遊びの記憶はあるけれど、どう使おうかという知恵はなかった から。そうして活動をつづけてきて、ようやく学校からも反応が出始めたかなと。それでこの 前、浦添商業の観光コースの先生に話にいったんですよ。沖縄の観光の将来資源を考えるため に、海の学習をしないかといいにいったんですけど、これは反応がなかったんですよ。沖縄の 観光を考えるとき、これからは既存の資源のことを教えるだけではだめでしょう。地域の資源 をどう生かすか、地域の評価から始めないといかんと思ったわけだけど、相手にされませんで した。 麻夕:まだ高校の観光科だと、エコツーリズムまでは視野に入っていないかもしれません。 銘苅:カーミージー探検始めた時の子が、今、大学 2 年生です。浦添商業に行ったのも、低学 年から一緒に活動した子が、観光科に入ったと聞いたからです。自分たちで考えるような教育 をやらないと、既成のものの中だけで反応するのでは、発展が限られる。子供たちが自分たち であたらしいものをつくるということを、学校でやってもらえないかと言いに行ったわけなん ですが...。自分の代の活動は、もう限られていますから。海に行けるのも、もうあと何年か。 海をどう使うか、次の世代の人たちが自分で考えてほしいなあと。行政はいいわけばかりする ものだから。社会が変わると行政も政治も変わるのを実証していかないと。自分はこう変わり たいと言うのを、若い人と一緒になって、変化を突き付ける必要があると思う。港川の学習を 経た子たちが、そろそろ高校、大学生になっているし。そろそろ、次世代に向けての動きが必 要かなと思っています。 麻夕:今日は昔のお話しをうかがいましたが、こうした昔の話を掘り起こすことも、これから どうしようかというときの、ヒントが出てくるのではないかと思います。 法一:みなさん、今日は長時間ありがとうございました。 引用文献 鹿谷法一・佐藤寛之編 2013 『海のがっこう 教師向け海辺の観察会企画マニュアル』 東 海大学出版会 盛口満 2016 魚毒植物の利用を軸に見た琉球列島の里山の自然 大西正幸・宮城邦昌編 『シークヮーサーの知恵』京都大学学術出版会 pp.103-128